アジアから吹く風とレーニン

                                              宮内広利

 

ロシアの歴史と背景 (はじめに)

 

 プロレタリア革命の理論家で組織者、そして帝国主義と二十世紀の始まる新しい歴史的時代を分析するレーニンが生まれ、考え、行動したのは、帝制(ツァーリ)の時代が黄昏を迎えようとしていた19世紀後期のロシアであった。ロシアは、イギリスのような帝国主義大国ではなかったが、ツァーリの帝国主義は古い歴史をもっており、ヨーロッパで資本主義が発展するようになる前、ツァーリズムは人民と諸民族とアジアの一部を支配していた。これが「軍事的封建的帝国主義」とよばれた時期であった。それは、レーニンがのちに金融資本の支配と資本輸出等に基礎をおくと分析した「帝国主義」ではない。

当時のロシアは、資本主義の発達した工業国ではなかった。逆に資本を輸入していた。外国資本がロシアに流入して、全工業部門を掌握していたのだ。その後、しばらくして、いくらか資本主義が広まったといっても、それによってロシアの人民は、一片のパンのおこぼれももらえず、ひとかけらの贅沢からも程遠い生活を強いられていた。

だから、ロシアの人民は、ツァーリの「軍事的封建的帝国主義」と封建領主からと同時に、ロシアのブルジョアジー、それに、資本投下をしていた先進資本主義国の「金融帝国主義」ブルジョアジーらによって、二重、三重の抑圧を受けていたのである。そういうロシアには、まして西欧先進諸国のように、ブルジョア化したプロレタリアートも、労働貴族もいなかったし、有力な中間階層も存在しなかった。このようにして、ツァーリズム・ロシアは、実質上ほとんど発展がみられない封建的遺制をひきずった後進国に由来する「アジア的」な停滞と、外国資本および自国の資本主義世界との間にはさまれて、身動きのとれない矛盾が露呈しはじめていたのである。

そのため、経済の発達は阻害され、他の諸国にくらべ資本主義的産業の発展は遅々としてしか進まなかった。1860年頃まで、ロシアにはきわめてわずかの工場しかなかった。封建制経済が支配し、生産性が低い農奴制のもとでは、産業の発展要素が集積できなかったからである。やがて、クリミア戦役による軍事的敗北と、地主に反抗する農民一揆で弱められたツァーリの政府が、やっと1861年に農奴制を廃止した。

しかし、農奴制が廃止されたというものの、あいかわらず地主は、農民を圧迫し続けた。地主は、農民が以前から用益していた土地の大部分を、解放にさいして農民からとりあげた。それとも、農民は自分の解放の代償として約20億ルーブリの買戻金をいやおうなく地主に支払わされた。その上、農奴制の廃止ののちにも農民は貨幣地代のほか、地主の土地の一部を自分の農具と馬で無償の耕作をさせた。これらが「雇役制度」と呼ばれ、農民は、地代として地主にその収穫量の半分を、現物で払うことを強制されたのである。 

地主は、あらゆる方法(小作料、罰金)をもって、取り残された農民の零細な経営を搾取した。そのため、農民は自分の経営を改善することができず、農業はますます立ち遅れ、その立ち遅れが凶作と飢餓を頻発させた。その上、これらの農奴制の遺物や厖大な人頭税や賠償支払金によって、農民が貧困、零落化し、農民と土地を手放し、彼らは新しい製造所や工場に安い労働力として雇われていった。もちろん、ツァーリのロシアでは、これらの農民、労働者には、なんの政治的権利ももっていなかった。

このような農民の実態があったにもかかわらず、農奴制の廃止後の1860年以降には、ロシアにおける産業資本主義の発展は、かなり急速にすすんだ。原始的であったロシア経済に工業化が侵入を開始した。1865年から1890年までの25年間に大工場と鉄道だけで労働者の数は、70万6千人から143万3千人に2倍以上増加した。資本主義的大工業は、90年代には、より一層急激に発展しはじめた。90年代の末には、大工場、鉱山業、鉄道の労働者数は、ヨーロッパ・ロシアの50県だけで、220万7千人に達し、ロシア全体では、279万2千人に達した。1790年代の産業の勃興は、鉄道の建設と結びついていた。莫大な量の金属(レール、機関車、車輌用)と、ますます多くの燃料、石炭、石油を必要としていた。このために冶金工業と燃料工業も発展するようになった。

農奴制廃止後、資本主義は、ロシアではかなり急速に拡大したにもかかわらず、経済的発展度は、他の資本主義国にくらべて大きく遅れていた。1897年頃になっても、住民の大多数は農業に従事しており、その数は総人口の約六分の五を超えていた。他方、大工業、小工業、商業、鉄道、水運、建設業、木材伐採業、その他に従事していた者は、総人口の約六分の一にすぎなかった。これは、ロシアに資本主義が、十分、根づいておらず、経済の面では立ち遅れた農業国であり、小ブルジョア的な小生産者の未開発国であることを示していた。

資本主義の発展は、都市部のみではなく、農村部でも進行していたが、それによって、農民層は分解し、階層分化が始まっていた。それに伴って、農村の最も富裕な農民のなかから、富農的上層、すなわち農村ブルジョアジーが分離しつつあったが、その一方で、多くの農民は零落し、貧農、農村プロレタリアと半プロレタリアの数が年々増加していた。また、中農の数は年ごとに減少していた。

1903年にロシアには約1千万戸の農家があったといわれている。このうち少なくとも350万の極貧農家があり、これらの農家は、通常、ごくわずかの土地に播種して、残りの土地を富農に手放し、自分は賃労働にでかけるという農村プロレタリアまたは半プロレタリアとみなされた。反対に、150万の富農(クラーク)は、農民の総播種の半分を自分の懐にいれており、貧農、中農を圧迫して、雇農と日雇農の労働で儲け、農業資本家になっていた。

70年代以降、特に80年代になると、搾取され続けてきたロシアの工業労働者はめざめはじめ、彼らの不穏な動きの最初の症候があらわれた。労働条件が極端に劣悪であったところでは、資本家にたいして闘いをいどむようになったのである。1880年から1890年にかけて、大小工場の1日の労働時間が12時間半をくだらず、繊維工業では14時間ないし15時間にさえ達した。婦人労働と少年労働もおこなわれていた。労働者は互いに申し合わせをし、労働改善の要求を工場経営者に出すようになった。また、ときには彼らは仕事を怠業した。1880年代に、最初の一連のストライキが勃発したのである。このころのストライキでは、労働者たちはときには機械を壊し、工場建物のガラスを割り、工場主の売店や事務所を壊したりしていた。

しかし、先進的な労働者たちは、次第に、資本家との闘争に勝利するためには労働者の組織化が必要だということを理解しはじめた。そこで、労働者の組合があらわれはじめた。1875年にオデッサに初めて「南ロシア労働者同盟」が組織された。この組織は8、9か月存続したが、その後、ツァーリの政府に弾圧された。それでも、新しい地域をとらえて、ますます労働運動は生長をつづけた。1881年~1886年の間に48以上のストライキがあり、8万人が参加した。

ツァーリ権力は、ブルジョアジーにたいして懐柔策をおこなったものの、ロシアのブルジョアジーの方では、依然としてツァーリ権力と敵対関係にあった。すなわち、一部は立憲君主制をのぞんでいたし、他の一部は、西欧型の議会主義的共和制を待ち望んでいたからである。ロシアのブルジョアジーは、矛盾がますます先鋭化するにつれて、フランス革命型のブルジョア革命を準備しはじめた。ロシアの労働者階級は、大工業国に比べて、数的には劣っていたにもかかわらず、1789年のフランス、さらに1848年のフランスよりもはるかに強靭で、集中度が高く、行動的であった。ロシアのブルジョアジーは、プロレタリアートがいなければ、なにごともできなかった。

一方、農民大衆は、地方的な騒擾状態のなかにあって動揺していた。「ナロードニキ」はのちに社会革命党に継承されたが、農民たちの願望(地主の収奪、土地の国有化または社会化)を代弁していた。農奴解放ののち、ロシアのインテリゲンチャたち(「インテリゲンチャ」という言葉は、60年代のロシアで生まれた)は、母なる民衆(ナロード)=農民(ムジーク)の解放を自己の使命として、農民と同じ服をまとい、地下出版物や医療機器などをトランクにしのばせて、「人民の中へ」(ヴーナロード)とびこんでいった。この運動は1873年から翌74年にかけて最高潮に達したが、彼らは疑い深い農民の猜疑心の壁にはばまれ、官憲の容赦ない弾圧によって潰え去った。これらナロードニキのなかには、人民の中で地道な啓蒙宣伝活動をおこなうことによって、来るべき革命を準備すべきと説く流れをくむラヴリズムと並んで、専制政治の代表者をテロルによって倒し、そのショックで人民を立ち上がらせ、一挙に革命を成し遂げようとする無政府主義的な思想もあり、青年たちの熱しやすい心を刺激した。

以上のように、後進国ロシア国民のすべての階級と社会層は、いずれも、自由で、直接的な、きわめて明確な政治的変革にたいする自己表現をもっていた。次第に有力かつ富裕になってきた工業家・金融階級の台頭も、リベラルな西欧思想の浸透を促進した。

だが、その西欧型の革命を望むイメージには、のどにささった骨があった。飲み干す際にもろとも吐き出すことはできなかったが、それをこらえて呑み込むには、どうしても舌先に残る苦さを我慢しなければならなかったのである。それこそロシアというアジアとヨーロッパにまたがる広大な後進国にまとわる「アジア的思想」(マルクスの歴史段階説のなかの古代以前のアジア的な思想・心性)の影響であった。当時のロシアは、自由主義対スラブ主義(近代主義と反近代主義)の岐路に立っており、その政治的・思想的表現をどう組み合わせれば、後進国ロシアにみあった革命のダイナミズムが現われるかということが第一に問われていた。どちらか選択できるのなら容易だったが、それもできなかった。

ロシアの初期のマルクス主義の観点からみれば、一見、ロシアの状態は意外なほど遮蔽物の少ない平坦な土壌をもっているかに見えた。公式的なマルクス主義者は、はじめ、量的、質的に非常に有力なプロレタリートと、高い生産力水準と、すぐれた技術等々をもつ先進資本主義諸国におけるプロレタリア革命しか予見していなかった。ところが、いまや、曲折を経ながら特殊な発展をしてきたこの後進国が、革命運動の発信源として登場してきたのである。

レーニンは社会諸勢力の動きのなかで、刻々と変化する大衆の生み出す時間のスピードに追いこされないように、懸命に考えぬいた。そして、レーニンは、ロシアで準備されている革命は、農民層(ナロード)をぬきにしてブルジョア革命を考えることはできず、その枠内にあるが、それでも真の社会変革を鼓吹し、それに方向を与え、指導することができるのは徹底的に革命的な階級であるプロレタリアートだけであり、したがって、そのブルジョア革命は、最良の歴史的条件のもとで、プロレタリア革命に転化するという答えを導き出そうとした。しかし、レーニンの格闘する無意識の土壌は、ひとすじなわではいかない隘路をもっていた。レーニンの思想の生まれた故国は、ヨーロッパ・ロシアであるが、レーニン主義と呼ばれる思想は不可避に「アジアからの思想」をその核心に取り込まざるをえなかった。それでも、スターリン主義による粛清や党内闘争が猛威をふるう以前の出来事である。

 

1 レーニンの生い立ち

 

レーニンの本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフという(1901年5月からレーニンというペンネームを使うようになった)。1870年4月10日、ロシアの中央部を流れるヴォルガ河中流の県庁所在地シムビルスク、こんにちのウリヤノフスクで生まれた。当時のシンビルスクは、にぎやかなヴォルガ水路のほとりにひっそりと取り残された「貴族の巣」という感じの町であった。また、この地方では、プガチョフが指導したドン・コサックの大規模な農民一揆から、まだ一世紀も経っていなかったので、この一揆の参加者の子孫が近隣に住んでいたと言われていた。

ウラジーミルの父イリヤー・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフ(1831~1886)は、ヴォルガ河口のアストラハンの貧しい仕立職人を営んでいた父ニコライ・ワシリエヴィチ・ウリヤーノフが67歳のときに生まれた次男で、イリヤーは5歳のとき父と死別した。兄ワシリーが父にかわって二人の妹とかれを養育した。イリヤーは小学校と中学校を優等の成績で卒業し、貧乏人の子としては異例なことであったが、苦学しながらカザン大学を卒業した。イリヤーは物理数学部を選び、熱心に数学と物理学を学んだが、そのころカザン大学には、非ユークリッド幾何学の創始者として、世界的に有名な数学者ロバチェフスキーがおり、彼もイリヤーの才能と人柄を愛し、親身に面倒をみたという。大学卒業後、イリヤーは14年間、中学校の物理と数学の教師を勤めた。そして、ウラジーミルの生まれる前の年(1869)にシムビルスク県の国民学校視学官(教員を指導監督する官職)に赴任し、さまざまな困難をのりこえて、教師の教育活動の改善と、文盲の農民や少数民族のための学校の開設に尽力した。帝制ロシアの身分秩序のなかで、これだけの地位に上ったのは、才能はもとより、勤勉さと努力の賜物だった。のちには、この県の初等学校の校長にまで昇進し、永年勤続の功により貴族の称号をうけた。彼は、当時の進歩的教育思想の信奉者だったが、決して革命的な思想家ではなかった。皇帝アレクサンドル二世の暗殺にショックを受けて、正装して教会の追悼式に行き、死ぬまで神への信仰を捨てなかった。

ウラジーミルの母マーリア・アレクサンドローヴナ・ブランクは、カザン県の医師アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・ブランクという医師の娘で、母はアンナ・イヴァノヴァ・グロショプというドイツ娘だった。マーリアは、この両親の四女として生まれたが、母はまもなく亡くなり、父と叔母の手で育てられた。26歳のとき、カザンで教師をしていた当時33歳のイリヤー・ウリヤーノフと知り合い、彼の求婚を受けて結婚した(1863年)。彼女は父の教育方針もあって学校教育は受けられなかったが、ドイツ人の叔母(カテリーナ・イヴァノヴナ)からドイツ語、フランス語、英語、音楽を学び、また、独学で、女学校の卒業資格をとり、結婚後は、国民学校教員検定試験にも合格している。レーニンの母はこのように教養のある人間味豊かな母であり、子供たちに人間にたいする深い理解と愛情を培ったのである。また、音楽の大変な愛好家であった。ボリシェヴィキ革命の前の年(1916年)に81歳でなくなった。

彼女も学校の先生であったから、両親とも開明的な思想の持ち主であったといえる。ウラジーミルには、生後まもんなく死んだ姉オリガと弟ニコライを除いて5人の兄弟姉妹がいた。姉のアンナ・イリイニチナ・ウリヤーノヴァ(1864~1935)は、レーニンよりも6歳年長で小学校の教師をしたのち、1886年から革命運動に参加し、1935年に71歳で亡くなるまで、文字どおり革命に一身をささげた。その間に4回の逮捕をうけながら、ロシア社会民主労働党のメンバーとして活躍し、レーニンの著書の出版にも尽力している。1889年に刑死した弟(レーニンの兄)アレクサンドルの友人マルク・チモフェヴィチ・エリザロフと結婚し、夫婦ともに革命家として生きた。

ウラジーミルの兄アレクサンドル・イリイッチ・ウリヤーノフ(1866~1887)は、ウラジーミルの4歳年長の兄で、ウラジーミルと同じく古典中学校を首席で卒業したのち、ペテルブルグ大学に入学して化学と生物学を専攻し、19歳のときに書いた論文で大学から栄誉賞を授与されるなど、科学者としての将来を嘱望された秀才だったが、在学中に、「人民の意志」派というナロードニキの団体に入り、皇帝アレクサンドル三世の暗殺計画に参加して、失敗して他の同志たちとともに1887年3月1日に逮捕され、同年5月8日に処刑された。もの静かな学究肌の瞑想的な少年であったアレクサンドルは、活発でやんちゃなウラジーミルとは性格が違っていたが、ウラジーミルはこの兄を敬愛し、この兄の逮捕と刑死は、彼のやわらかい心をひどく傷つけた。アレクサンドルは、法廷で自分の所信の正しさをきっぱりと主張し、他の同志たちの罪まで引き受け、死刑の判決を受けたといわれている。

ウリヤーノフ一家の住んでいたシンビルスクには、その頃、まだ鉄道が通じていなかった。ペテルブルグに行くには、スイズラニというところまで、馬車で行かなければならなかった。それでウラジーミルは、しばしばアレクサンドルに面会するためにペテルブルグへ行く母に同行してくれる人を探さなければならなかったが、政治犯の母と同行してくれる者はなかなかいなかった。親しい知人たちも、ウリヤーノフ一家から遠ざかっていった。ついに、アレクサンドルは死刑に処せられた。兄にたいする精神的・物質的ショックの大きさを物語るものとして、のちにレーニンが、ウリヤーノフ家の「自由主義的な」友人たちが、兄アレクサンドルの逮捕を知るや、すっかりウリヤーノフ家との交際を絶って、未亡人の身で息子を執行猶予にしてもらうために奔走したレーニンの母を助けるために、指一本動かそうとしなかったことを忘れなかった。年若い青年は自由主義的な革命家たちや民主主義者たちがいかに臆病で無能であるかを知り、彼らにたいしていかに激しい侮蔑の念を感じたかを話したことがあった。それが、また、彼を革命家にした。だが、彼は彼の兄のあとを追って、個人的テロリズムやナロードニキの道へは進まなかった。

兄の死がウラジーミルに与えた影響は、生涯にわたるほど大きかった。この兄弟は性格が対照的であり、これまでその仲はむしろ疎遠であった。夏休みに寄生した兄は、自分が読んでいるマルクスについて弟に話すこともなく、一緒の部屋に暮らす弟はツルゲーネフを読みふけっていた。その兄が『資本論』を持ち帰った。この『資本論』をレーニンがよんだのは1885年、彼が14歳のときであった。

当時、ウラジーミルは中学校の教師や授業に、また宗教に対して反抗的になっていたが、政治に目覚めているとはいえなかった。二人はそれまでにもたびたび政治問題について議論したことがあった。このアレクサンドルを愛し、尊敬していたウラジーミルは、兄の死によって、帝制ロシアの国家権力というむきだしの現実に目覚めることになる。兄の処刑は、単にウリヤーノフ一家の問題ではなく、当時のロシアの社会体制の危機につながるものであった。

一歳年下の妹のオリガ・イリイニチナ・ウリヤーノヴァ(1871~1891)は、姉アンナとよく似た美しい娘で、レーニンの一番の遊び相手だった。彼女も成績は抜群で、シンビルスクのマリー女子中学校を優等で卒業し、1890年にペテルスブルグの女子高等専門学校に入学したが、1891年に腸チフスにかかって20歳で亡くなった。

弟ドミトリー・イリイッチ・ウリヤーノフ(1874~1943)は、モスクワ大学医学部在学中にマルクス主義者になり、医師として勤務するかたわら、レーニンの党組織のメンバーとして活躍し、革命後も保健行政の担い手として第二次世界大戦期まで活動を続けた。8歳年下の妹マリア・イリイニチナ・ウリヤーノヴァ(1878~1937)は、モスクワで中学校を卒業、女子高等専門学校の聴講生になったころから、学生運動に参加し、レーニンのこまやかな指導を受けながら、また、亡命中のレーニンのロシアにおける目となり手足ともなって、6回におよぶ逮捕、投獄にも屈することなく活動を続けた。革命後は、『プラウダ』紙の編集員、ソ連邦共産党中央統制委員、ソ連邦執行委員などを歴任し、「レーニン勲章」を授与され、死後、モスクワの赤の広場に埋葬された。

 ウラジーミルは、このような教育者の厳格な家庭で成長し、広い教養を身につける環境に恵まれていた。ウリヤーノフ家の人々は、ウラジーミルを幼児からずっと愛称ウォロージャと呼んでいた。彼は、母の感化で文学とともに音楽を大変愛した。ウォロージャは、最年少の9歳半でシンビルスクの古典中学校(8年制)に入学した。彼は、相変わらず茶目でいたずら好きな少年だったが、父母や兄アレクサンドルの感化もあって、規則ただしく学課にはげみ、彼の成績は1年から8年まで、全学年にわたって首席でとおし、毎年、学術優等、品行方正の賞状を与えられた。彼は休暇になると、ヴェルガ地方のいくつかの県を歩きまわった。これらの県は典型的な農業県であったが、彼は農民たちが困窮しており、タタール人やチュヴァシ人などの多数の諸民族がツァーリズムから迫害をうけているさまをつぶさに観察することができた。学校では文部省が組織した思想弾圧が猛威をふるっていた。

ウラジーミルが中学校の7年生になったとき、突然、平和なウリヤーノフ家に不幸が訪れた。父親は過労がもとで倒れ、3日目に脳溢血で55歳の生涯をとじたのだ(1886年)。上の二人は大学に行っており、下の4人はまだ中学生であったので、30年勤続の恩給をもらっても生活は苦しくなった。

ウラジーミルの通うシムビンスク古典中学校の校長は、皮肉なことに、1917年の2月革命後、臨時政府の首班になってレーニンを逮捕しようとし、10月革命直後、アメリカ国旗を掲げてペトログラードをから逃げ出し、アメリカに亡命したアレクサンドル・ケレンスキーの父であった。老ケレンスキーはレーニンのことを「学校の誇り」とよび、レーニンの「並外れた注意深さと勤勉」、「系統的な思考」、「表現が簡潔で明快で平明なこと」を特に、激賞した。

しかし、テロリストの弟になったウラジーミル・イリイッチは、1887年に17歳の最年少でありながら、古典中学校を首席で卒業し、最優等賞の金メダルを受けた。

1887年8月、父の母校カザン大学法学部に進んだ。だが、それから4か月後に学生運動に加わり、退学するはめになる。当時、従来の大学法より反動的な「1884年大学規則」が前年から施行されたので、大学生たちの反対運動がロシア各地に波及していたが、1887年12月4日カザン大学でも、大学内の学生活動の自由を要求する不法集会が開かれ、ウラジーミル・イリイッチも参加し目立った動きをした。この要求は大学当局に拒否され、警官が出動して解散を余儀なくされた。おまけに、学生たちは講義の意思表示として学生証を投げたが、ウラジーミルも同じく、自分の学生証を投げ棄てたといわれる。彼は翌12月5日に自宅で逮捕され、大学は、同時に彼に退学を命じた。彼は2日後に釈放されたが、カザン市から退去を命じられ、母方の叔母のいたカザン県のコクシキノ村へ移り住むことを許された。

それ以降、レーニンはたえず警察の監視の眼がたえまなく光り、詳細な報告書が警視庁へ送られた。すでにシベリアへ流刑中だった姉のアンナが恩赦をうけて、コクシキノ村に移り住んできた。ウラジーミルは、幼時の楽しい思い出が残るこの美しい村で、狩猟や、スケートに心をまぎらすかたわら、猛烈な勢いで読書をはじめた。このコクシキノで過ごした1年間は、後に述懐しているところをみると、一生のうちで最も必死になって読書にあけくれた期間であった。兄の処刑、大学での学生運動、逮捕、退学、追放という一連の体験が、彼に、今後、進むべき道を書物のなかに求めさせたのである。この時、読んだ本のなかにはネクラーソフの詩もあったが、主なものは、60年代、70年代の綜合雑誌の論文であり、なかでも、チェルヌイシェフスキーの論文であった。

ウラジーミルは、まず、最初に、死んだ兄の愛読書であったというこの思想家の小説『何をなすべきか』を読んだ。この本のすべてを理解とようとする衝迫感のようなものさえ感じられた。60年代、70年代の革命的ナロードニキのバイブルになったこの小説から、ウラジーミルもまた、人間らしく生きるためには、革命家たるべきこと、革命家は厳しいモラルを持った新しい人間であり、全力をあげて人民のためにつくすことを学んだ。

ここに革命家レーニンの原点がある。農奴解放の時代の革命的な思想家、評論家であったチェルヌイシェフスキーの論文は、ツァーリズムの検閲を通過するように書かれており、強靭な論理で、戦闘的な唯物論哲学を展開し、ツァーリズムと資本主義を徹底的に批判していた。レーニンは、チェルヌイシェフスキーには「絶対的革命感覚」があると述べている。

こうして、レーニンは19世紀ロシアの革命思想の伝統のなかから出発したのである。しかし、ウラジーミルはナロードニキにはならなかった。1880年代にプレハーノフによってロシアに移入されていたマルクス主義が、レーニンに思想的根拠を与えることになった。1887年12月に、ウラジーミルは、友人の学生に、自分は職業的な革命家になるつもりだと打ち明けた。

1888年10月、ウラジーミルはカザンに戻ることを許されたが、大学へ復学することも、外国留学許可の旅券を手に入れることもできなかった。そこで、一家はシンビルスクを引き払ってカザン市に出てきた。姉アンナは、亡き弟の友人マルク・エリザロフと結婚した。彼は、ヴォルガ流域で知られたマルクス主義者フェドセーエフが組織するサークルに参加し、このときにマルクスの『資本論』第一巻を入手して、熱心にその研究をはじめた。こうして自然にマルクス主義者になっていった。

1889年の5月、母はサマラ県アラカエフ村に土地を買った。母はウォロージャの政治活動を心配して、息子に農場経営をさせようとおもいたったのだが、彼は、なお、留学の希望を捨てきれず、再度、今度は健康上の理由を付して、診断書付きで旅券を申請したが、内務大臣の返事は、病気であれば温泉の多いコーカサスに行けばよい、とのことだった。未経験の土地経営は、うまくいかなかった。レーニンは、シベリア流刑中にクループスカヤにこう語っている。「母は、わたしが農村で農業の勉強をすることを望んでいた。わたしはそれをはじめたが、それではだめだということがわかった。農民との関係は疎遠になっていた。」1889年秋に、ウラジーミルは、土地を小作人に貸したまま、一家をあげてサマラ市内に移り住んだ。93年までサマラで暮らし、その地のマルクス主義者のサークルで活動を行った。

サマラ市に移ったのち、ウラジーミルは、司法試験を受ける許可を申請し、ようやく1年後にその許可を手に入れた。彼の母がペテルブルグに上京して、文部大臣に必死の嘆願を試みた成果であった。こうして彼は、1890年の秋から、大学法科4年間の全科目を数ヶ月で独習しえるという、独特のすさまじい勉強にとりかかった。1891年春、ペテルブルグ在学中の妹オリガが腸チフスで急死したが、ちょうどこのとき、ウラジーミルはぺテルブルグで春期試験を受験中だった。かれは秋期試験で、ペテルブルグ大学の校内生、校外生134名中1番の成績をおさめてこれに合格し、法学の第一級免状を与えられ、弁護士補の資格をえた。そして、1892年1月から、サマラ市の弁護士会に登録されて、自由主義的弁護士の補助の仕事をしはじめた。しかし、彼の依頼人は少なく、窃盗罪で起訴された農民の弁護を引き受けたりしていたが、裁判所が割り当てた官選弁護など10件中、無罪判決をえたものは1件もなかった。彼は彼で客集めにはいっこうに気が乗らず、あまった時間を、マルクス主義の組織的研究と研究会の組織、ナロードニキの闘士たちとの接触にあてていた。彼は、サマラ時代に、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を訳し、研究会でそれを発表したりしていた。

サマラで、彼は、ロシア農民の実態をつぶさに調べ、無数の統計資料を集めて研究した。これらすべては、彼のその後の活動の強力な武器になった。カザンとサマラの時代は、革命家レーニンを形成する基礎工事の役割を果たした。

その頃、ロシアのインテリゲンチャの大部分はまだナロードニキの影響下にあって、テロリズムの英雄を自負していた。この英雄的な伝統の魅力に富んだ感銘から逃れるためには、闘争しなければならなかったし、若い社会民主主義者たちが非常に尊敬していた人々とも訣別しなければならなかった。ナロードニキの学説は、ロシアの農民の弁護論であり、農民による農民のための弁護論であった。農民共同体(ミール)による、農村共同体のなかでの社会主義の弁護論からなっていた。だから、ナロードニキ理論の完全な独創性は、ロシアとロシア社会とロシア革命に負っていた。そのため、ナロードニキ理論はマルクス主義と両立しなかった。この時代に、レーニンはナロードニキの社会学をもっとよく批判するために、社会調査にとりかかった。5年間続けて毎年夏休みには、その地方の農村調査をおこなっている。マルクス主義者となったナロードニキたちが彼を助けた。ウラジーミル・イリイチは「戸別家族調査」の結果をカードに記載した。この調査は彼の理論的説明の結論を確認した。彼が農民問題に関する最初の論文を書いたのはこの時期である。(『農民生活における新しい経済的動向』が1893年に執筆されたが、発表されないで、ずっとのちになって発見された。)

 

2 ナロードニキとの闘い

 

1917年のロシア革命は歴史上の転換点であり、20世紀最大のできごとのひとつであったが、この革命にいたるまでには、特殊ロシアの諸条件に根ざした、長い暗黒の時代が伏在していた。ツァーリ専制のいかめしい外見の裏面には、農奴解放後も実質上、ほとんど発展がみられない停滞した農村経済と、飢えて反抗的な農民たちがいた。このような情勢のなかで、彼らが住みなれた社会の、果てしない矛盾や不合理にたいする自覚を呼び覚ます役割を果たし、ロシアの革命思想と運動の担い手になったのは、貴族出身の多感な青年たちだった。プーシキンからトルストイにいたる古典文学の代表者たちの多くは、地主貴族の出身であるが、その中から、ゲルツェンに代表される「貴族的、地主的革命家」が生まれた。

やがて19世紀の後半にいたると、社会運動の滑走期ともいうべき時代に入り、早くも、1872年には、ロシアで『資本論』が、ナロードニキ経済学者のニコライ・オン・エヌ・エフ・ダニエルソンによって、世界で最初に外国語に翻訳された。ロシアにおける『資本論』の出版は大成功をおさめた。19世紀半ばのベリンスキーとチェルヌイシェフスキーの唯物論によって、マルクス主義をうけいれる下地ができていたのである。また、その後の急速な産業の発展も、マルクス主義の普及に好都合な下地をつくった。1890年代以降になると、非近代的で停滞していたロシア経済に資本流入がはじまり、全体で250万人の労働者を雇用する工場ができていたといわれている。そして、その一方では、次第に有力になってきた工業家、金融階級の台頭も、ある種のリベラルな西欧思想の浸透を促進し、それはカデット(立憲民主党)の基盤になっていった。

 マルクスは、綿密な歴史的・経済的分析にもとづいて、フランス革命のように、封建制が暴力によってうち倒されて、ブルジョアジーが主導権をにぎり、資本主義の世界にとって変わるように、この資本主義社会も、やがて、うち倒されて、プロレタリアートのつくる社会主義に道をゆずると展望した。マルクスは、これを不可避的な歴史の過程であるとみなした。

 それは、もともと資本主義社会のなかに崩壊の法則がひそんでいるためばかりでなく、資本主義が発展し拡大するにつれ、やがて、労働者階級という、資本主義の負の遺産をひきつぐべき階級をうみだすためである。そのため、労働者階級は、自らがおかれている生活条件にもとづき、資本家階級にたいして団結して闘争する必要性を学び、組織的で規律ある階級闘争の意味を理解するようになる。労働者達は自分たちを政治的階級に高め、歴史的に「プロレタリアート」として登場する。

ロシアにおいても、資本主義の進展に伴って、プロレタリアート自身の成長がみられ、次第に不穏な動きの最初の徴候があらわれはじめた。1880年代に、早くも最初のストライキが勃発した。それはちょうど、資本家同士が商品の販売のため、労働者の犠牲の上で互いに凌ぎあい、富(資本)を蓄積していくうちに、ひとりでに個人主義者になるのと同じことである。そして、マルクス主義の導入とともに、初期の社会主義が誕生した。社会主義は、プロレタリアートが、資本家から生産手段を奪取することによって、できるだけ多くの富を生産しながら、これを公平に分配するように、社会を合理的に組織することだった。それは、労働者階級が、私的利潤を追いもとめる資本主義生産の無政府的状態を廃止して、はじめてできることである。だが、資本家は、決してプロレタリアートに押されて静かに歴史を退場するものではない。かつて、資本主義の発展のために、ブルジョアジーが、封建勢力から政権を暴力的に奪取しなければならなかったように、ブルジョアジーからプロレタリアートへ政治的権力を移行するにも、暴力が必要であるとマルクスは考えていた。

19世紀末の封建ロシアにとって、この理論のある部分が人々に非常に魅力的に映った。マルクスは「ブルジョア革命」の任務を慎重にあますところなく分析した結果、封建的秩序にたいして、資本主義的秩序の歴史的進歩性を強調したからである。

以前のスラブ主義者は、ロシアの封建的なものを賛美して、これはどんな犠牲をはらっても保存しなければならないユニークな歴史的現象だと主張していたが、19世紀ともなれば、それはあくまで封建的遺制であり、時代錯誤以外ではないとみなしはじめた。このマルクスの全面的な過去の清算によって、ロシアに自由主義的議会制度よりも進歩した制度を実現することを、少しも望んでいなかったような多くのインテリゲンチャからすら、支持された。1902年に、レーニンが軽蔑して述べたように、「ほとんど誰も彼もがマルクス主義者になった」のである。

レーニンは革命運動に身を投じた後の亡命中に、無政府主義者ヨゼフ・プルードンの影響を受け、また、西ヨーロッパの資本主義的文明と、1848年革命の敗北に幻滅した、西の革命理念と、東(ロシア)の素朴な農村共同体の伝統を結びつける、「農民的社会主義」の実現に希望をかけることもあったが、レーニンは、マルクスにであったときから、もともとマルクス主義者としてあらわれてきた。彼は、当時、流行のナロードニキにはならなかった。やがて、マルクスとの出会いが、ナロードニキとの闘いにまで必然的に発展していく。

19世紀の半ばごろから、ロシアの民主主義的改革運動の担い手は、「雑階級人」と呼ばれる非貴族出身の知識階級に移り始めたが、レーニンに深い感銘を与えた小説『なにをなすべきか?』の著者チェルヌィシェフスキーとドブロリューボフは、ロシアの再生は革命によってのみもたらされるという、はっきりした確信のうえに立ち、厳しい検閲下で農奴制にたいする激しいペンの闘いをすすめていた。彼らも、ロシアの農民革命は、ロシアに資本主義を経験させることなく、ロシアを社会主義に導くであろうという信念をいだいていた。

1861年の農奴解放ののち、ロシアのインテリゲンチャの多くは、母なる民衆(ナロード)=農民(ムジーク)の解放を自己の使命として、「人民の中へ」(ヴーナロード)とびこんでいった。この運動は1873年から翌74年にかけて最高潮に達したが、彼らは疑い深い農民の猜疑心の壁にはばまれ、官憲の容赦ない弾圧によって潰え去った。これらナロードニキのなかには、人民の中で地道な啓蒙宣伝活動をおこなうことによって、来るべき革命を準備すべきと説くラヴロフ(1823~1900)の流れをくむラヴリズムと並んで、専制政治の代表者をテロルによって倒し、そのショックで人民を立ち上がらせ、一挙に革命を成し遂げようとする無政府主義者バクーニン(1814~1876)の思想が、青年たちの熱しやすい心をとらえた。

バクーニンは幼いときから、専制的な母にたいして強い憎悪をいだき、物を毀すことに異常な興味をもっていたと言われている。彼は貴族の子として生まれたが、どのような国家も、個人の神聖な自由の抑圧者だとするアナキズムの立場から、プロレタリアートが革命政党に結集して政治闘争を行い、ブルジョアジーから国家権力を奪取し、プロレタリアの独裁によって社会主義建設をおこなわなければならないとするマルクスのプロレタリアと独裁の理論に真っ向から反対した。

また、バクーニンによれば、きたるべき革命のリーダーは、先進諸国の組織された労働者階級ではなく、ロシアやイタリアなど、後進国の農民、職人、ルンペン・プロレタリアートなどに求められるべきだとした。「ロシアの民衆は、本能によって社会主義者であり、本性にもとづいて革命家である」と彼は説いた。

また、バクーニンは、ドストエフスキーの小説「悪霊」のモデルになったネチャーエフという青年から刺激を受けて、1869年に『革命の原理』というパンフレットを書いたが、ここでは、「…ロシアの強盗は真正唯一の革命家であり、…人民革命は強盗の暴動と農民の反乱のとの融合から生じる。…われわれは、破壊以外のどんな活動も認めない。ただ、この活動の行われる形態が、毒薬、ナイフ、ロープなど、非常に多様でありうることを承認する。この闘争では、革命はすべてのものを無差別に聖化する」と述べてテロリズムを讃美した。

ネチャーエフは、スイスでバクーニンと会ったのち、モスクワに帰って、彼が作った組織のメンバーだった学生を殺害し、ふたたびスイスに逃げて、ゲルツェンがロシアの地主バフメチェフから宣伝資金として受け取っていた「バフメチェフ基金」の残りをだましとり、さらにゲルツェンやバクーニンの秘密文書を盗み出して、バクーニンからも絶交され、72年に逮捕されてロシアに送られ、10年間の獄中生活ののち死亡した。

このネチャーエフ事件は、テロリストの転落ぶりと無軌道を象徴した事件として、当時の人心を驚かせたが、官憲の厳しい弾圧は、政治的活動の自由をもたない急進的インテリ青年をテロルにひきつけた。1876年に組織された「土地と自由」派(第一次はゲルツェンの影響下に1861年に結成)は、78年「人民の意志」派と「土地総割替」派に分裂し、「土地総割替」派にはいったプレハーノフ(1856~1918)らは、やがてマルクス主義者に転成していくが、「人民の意志」派は、幾度となく失敗したのち、1881年3月1日に皇帝アレクサンドル二世を暗殺した。

新帝アレクサンドル三世は、暗殺を恐れてガッチナ宮殿に閉じこもり、「ガッチナの捕虜」というあだ名をもらったが、「人民の意志」派もまた壊滅的打撃を受け、レーニンの兄アレクサンドルらが先帝暗殺の6周年記念日に企てたアレクサンドル三世暗殺計画も、5人の青年の処刑という結末に終わった。

80年代に入ると、官憲の弾圧の強化と農村ブルジョアジー(富農層)の成長を基礎として、革命的ナロードニキ主義が後退し、自由主義的ナロードニキ主義が成長しはじめた。かれらの理論的代表者たちは、マルクスの理論をかりて、自己の思想を基礎づけようとした。レーニンが、最初の論戦の対象にしたのは、この後期自由主義的ナロードニキの理論家たちである。

ナロードニキの思想には、いくつかの基本的特徴がある。第一に、ロシア人民の解放は、ロシアの「農村共同体」(ミール)を発展させることによって可能であると説く「農民社会主義」である。ロシア語の「ミール」は、世界とか平和を意味するが、古来ロシアの農民は、その低い生産力のために、一種の村落共同体をつくり、生産から生活までの相互協力=規制を守ってきた。この関係は、政府や土地貴族にとっても、農村支配に便利なしくみであって、農奴解放に際しても、農民への分与はミールに一括管理され、各世帯の勝手な処分は認められなかった。

そして、このミールこそ、西欧の私有制にたいするスラヴ人特有の共有制の形態であって、このミールを発展させることにより、資本主義的私有制を経過することなく、ロシア独自の社会主義を実現することができるというのが、ナロードニキの共通理念のひとつであった。それは、農民社会主義の特性として、反政治主義的=無政府主義的性格を強くもっていた。

第二に、これは、とりわけ自由主義的ナロードニキに顕著に現われるが、ロシアにおいては、小規模農業と農村小工業が結びついた伝統的形態が、本来的な「人民的生産」であり、資本主義的生産はこのロシアに外から持ち込まれた異質物であって、ロシアでは資本主義の発展は、人民にとって災厄であるばかりでなく、不可能である、という見解である。これは、小ブルジョア急進主義のもつ反資本主義的感情の理論的反映である。

第三に、ナロードニキ主義は、マルクスの唯物論的歴史観に反対であるが、あるいは少なくとも、異質的であり、革命的ナロードニキの「人民信仰」も、もともと自分たちと「人民」との断絶意識のひとつ=人民にたいする贖罪意識から出発したものであって、それはやがて人民の革命的闘争能力の不信にかわる。人民の革命的闘争を規定する諸条件を客観的に分析することを通じて、「闘争の合言葉」を見出そうとするかわりに、少数者の願望と意志に歴史を賭ける主観主義的=観念論的歴史観に立ち、ここからテロリズムを手段とする傾向が根強く流出することになる。

ところで、ニコライ・オンやヴェ・ヴォロンツォフに代表されるナロードニキの理論家たちは、ロシアにおいては、資本主義の発展が不可能であるという理由を次のように説明した。ロシアの資本主義は、ロシアの人口の大部分を占める農民の自然経済的農業と小規模工業を破滅させることによって、人民の購買力をつまり「国内市場」をますますせばめる上、資本主義は、剰余生産物を売りさばくための外国市場を必要とするが、外国市場はすでに西欧の列強が支配しており、後進資本主義国ロシアが食い入る余地はない。だから、ロシアにおいては、資本主義が発展する可能性はないというのだ

レーニンは、1893年秋に、ペテルブルグのマルクス主義者のサークルで、ひとつの報告を行ったが、そのときのノートが『いわゆる市場問題について』(1893)であり、ナロードニキ経済理論批判の核心をなすこのテーマを、彼はさらに、『ナロードニキ主義の経済的内容とストルーヴェ氏の著書における批判』(1894~95)、『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897)、『ふたたび実現理論の問題によせて』(1899)などで展開し、流刑中の大著『ロシアにおける資本主義の発展』でしめくくっている。 

ここで、レーニンは、ナロードニキがいう「人民の貧困化」つまり、独立生産者が没落していく過程は国内市場をせばめるどころか、国内市場の形成過程であることを証明するのである。『経済学的なロマン主義の特徴づけによせて』(1897)のなかで、レーニンは、ナロードニキ経済理論の原型をフランスの小ブルジョア経済学者シスモンディとプルードンに求め、一層深い原理的究明を行っている。

ツァーリへの絶望的な反抗をおこなった多くのテロリストたちがうまれた。テロリストのグループは、1860年代以来、暴動と鎮圧を交互にくりかえしながら、活動を続けていた。この時期に、ナロードニキ運動の高揚がみられ、それはのちに、エス・エル(社会革命党)に継承され、彼らは農民によびかけた。ロシアでは、19世紀の前半から、後進国に特有の矛盾した課題に鋭く引き裂かれていたといえる。ロシアは、いわゆる「スラブ派」の主張するように、ロシアの伝統を守る方向に進むべきか、それとも「西欧派」のように、ヨーロッパの近代化の方向に向けて進むべきか、これはロシアの思想史上の根本的問題だった。そして、世紀末のこの段階においても、農民が圧倒的に多いこの後進的な社会では、資本主義は望ましいものではなく、共同体のもとにある農民に立脚して社会主義が可能だという「ナロードニキ」の思想が根強く生き残っていた。

そういう中、当時のマルクス主義者の関心は、論壇を支配し、進歩的青年の大多数のこころをとらえていたこのナロードニキ思想の批判に向けられていった。そして、レーニンもまた、ナロードニキ批判の論客となった。

すなわち、ロシア社会の発展にも西欧社会の発展と同様に、一般的な社会法則が貫かれていることを明らかにしようとしていた。レーニンが1894年に書いた『“人民の友”とはなにか』は、ナロードニキに対して正面から批判を加えたものであった。また、1899年には、レーニンは、ロシアにもいやおうなく資本主義的発展の高波が必ずやってくることを明らかにする目的で、『ロシアにおける資本主義の発達』を、投獄期からシベリアでの流刑のあいだに書き上げた。彼は、この著作のなかで、ナロードニキ理論がどうであろうと、資本主義のための「国内市場」は資本主義それ自体によってつくられ、この資本主義は社会的分業を深め、直接的生産者と労働者に分解していくことを明らかにしている。

レーニンはロシアの農業の資本主義化の過程について統計を基礎に分析しているが、「均等な分与地をもつ農村共同体」にかけたナロードニキの期待に反して、さまざまな農民層の土地所有についてみるならば、「20%の農家に帰属する割合は、土地全体の35%ないし50%であり、50%の農家に帰属する割合は20%ないし30%である。」という事実を対照させている。農民の全世帯の半数がプロレタリア化しつつある貧農であり、彼らが持っている土地は全面積の20~30%にすぎず、しかも、この層は賃仕事にたずさわっている農家総数の60~90%を占めている。全世帯の三分の一が中農層であり、残りの六分の一が富農であって、彼らは土地の全面積の35~50%をもち、農業労働者を雇う農家総数の60~70%を占めている。こうして農民層は数の上ではわずかであるが、その経済的地位の点では強大な農村ブルジョアジーと、農村プロレタリアートに、非常な速度で分解していることが分かった。

そして、レーニンはさらに、農奴解放後のロシアにおける工業資本主義のさまざまな形態を、家内工業から機械性大工業にいたるまで、くわしく跡づけている。したがって、ナロードニキにとって、小農民が営む小規模な工業、いわゆるロシアの「クスターリ」(家内工業者)工業は、ロシアの本来的な「人民的生産」として保護育成されるべきものだったが、レーニンはこの「クスターリ」が、いかに不可避的に少数の小資本家と、商業資本とマニファクチュア資本に支配され、搾りつくされるみじめな大多数の賃金労働者とに分解しつつあるかを、データで明るみにだしている。レーニンは、工業労働者は人口の1%にすぎず、その総数は減少しつつあるか、ごくゆっくりとしか増加していないというナロードニキ経済学者の資本主義発展否定論との論争が問題点のひとつだった。レーニンは、各種の統計を批判的に修正したのち、1865年の工場労働者の総数が508,573人であり、1890年には839,730人であること、すなわち25年間で65%増加したことを示している。レーニンはこれらの分析をもとに、プロレタリア人口は2千200万人以下ではないと述べており、このうち約1千万人は賃金労働者であると指摘している。こうして、ロシアはすでに資本主義的生産の発展期に入っていることがはっきりと主張したのである。

『ロシアにおける資本主義の発達』がロシアの資本主義的発展の相貌をはじめて全面的に分析し、ナロードニキの「農民社会主義」の理念を批判して、プロレタリアートが指導するマルクス主義的革命理論を基礎づけたことは大きな意義をもった。

ところで、マルクスは、ロシアの後進性にたいして、もしロシア革命が西ヨーロッパの労働者革命の合図となり、こうして両者がたがいにおぎないあうならば、ロシアの共有制は共産主義的発展の出発点になることを述べ、当時のマルクスとエンゲルスが、ロシアの革命的ナロードニキの運動と農民の闘争に高い評価を与えていた(ヴェラ・ザスーリッチへの手紙)。そして、ロシア革命の歴史的特質とその世界史的意義を統一してとらえる彼らの視点をうかがわせていた。しかし、この当時のレーニンは、マルクスのように、西ヨーロッパの資本主義的発展とプロレタリア革命の展望にくらべて、ミールを足場にして資本主義的発展を「とびこえる」異質の革命の可能性を認め、ナロードニキ理論に一定の接近をしめしたマルクスやエンゲルスに反して、ロシアと西ヨーロッパとの発展の同質性を主張し、ロシアにおいて資本主義が自由に発展しうる条件として、専制政治の打倒と政治的自由の獲得の要求をかかげたのである。

ナロードニキは、ロシアの資本主義は「人工的」につくりだされたものとみなしていた。これは西欧からの輸入品であって、ロシアの伝統とは全くそぐわないものだと考えていたのである。これにたいして、レーニンは、資本主義が歴史の必然性として、ひとりで発展してきたものであることをわかりやすく説明し、封建ロシアにとっては、資本主義は進歩的な歴史段階だと主張した。ナロードニキにたいするレーニンの主張の中心は、ロシアの資本主義が発達し、都市労働者階級がより一層力をもつ勢力に結びつくにつれて、社会主義革命の可能性がでてくるという点であった。農村共同体に基礎をおく「ロシア的社会主義」を擁護することは、いまでは反動におちてしまうことになるとした。

レーニンが1905年~7年の革命の経験をとおして、プロレタリアートと農民の同盟という、すぐれて独創的なロシア革命理論が生まれたのは、レーニンが、ナロードニキとの闘争によって、マルクス主義をロシアの大地に土着化させる過程をつうじて、その「客観主義」からまぬがれたためであった。

レーニンがマルクス主義を受け入れた特徴は、チェルヌイシェフスキーのように、マルクス主義に、主体的な革命感覚を伴っていたということである。それが、当時のロシアやヨーロッパの多くのマルクス主義者たちの「客観主義」からまぬがれていた側面であった。マルクス主義をヨーロッパの側から理解すると、後進的な農業国ロシアでは、まず、資本主義が実現し、促進されなければならないというように考えがちであるが、そうすると、進歩的な役割を担うのは、資本主義を実現しようとする資本家たちということになる。ところが、現実に、圧制から解放されなければならないのは、目の前にいるロシアの人民である。その人民の大部分は農民である。農民の要求を現実問題としてとりあげることなくして、ロシア社会の解放はない。だから、レーニンは農民のおかれた現実を主体的に重視するようになった。つまり、レーニンの場合、資本主義がどのように発達しているかどうかではなく、人民を解放するのはどうすればよいかに重点において、マルクス主義を受容したのである。そこに、マルクス主義と同時に、ナロードニキ思想にあった主観的精神を統一したレーニン独特の観点が産まれた。

ロシアの最初のマルクス主義者のサークルは、ナロードニキから派生したもので、「労働解放団」と称し、1883年に設立された。その最も卓越した代表者がプレハーノフである。アレキサンドル二世が暗殺されたときにも、予期に反して、農民一揆は起こらなかった。また、専制政治の緩和もみられなかった。だから、このグループの亡命者たちは、彼らの目的を達成するのに、テロリズムでは効果がないとみきわめていた。彼らは農民に革命の希望をかけるのをやめて、新興の都市労働者階級層に望みを託した。

レーニンが1895年に外国へいったときに連絡をとったのは、当時スイスにあった「労働解放団」であった。そのころには、主としてプレハーノフの指導のおかげで、マルクス主義的思想をもった一派が、ナロードニキから分化していた。プレハーノフのグループは、マルクスとエンゲルスの労作を翻訳したり、教育のある階層の人々を対象にした理論的著作を書いたりすることに終始していた。ロシアには、マルクス主義理論を身につけて、この理論を人民大衆のなかに広めようとする政党はまだ存在しなかったのだ。レーニンはこのような党を設立するために、他の誰よりも尽力した。

そして、1898年にやっと、レーニン、マールトフ、プレハーノフの党であるロシア社会民主労働党が創立された。日露戦争の挫折と屈辱は、それまで渦巻いていた社会不安を表面化させていた。ロシアでは、農村でも資本主義の浸透がかなり早く、富農が農村共同体を支配するほどになっていたから、社会主義への移行は、ツァーリズムとブルジョアジー(富農も含む)にたいする革命をおこすことが第一の課題だった。そこで、社会主義者としては、ツァーリズムの廃止と民主主義的改革の実現だけを望んでいる人々から、きっぱり縁を切る時機がきていた。

政治的自由は、労働者の経済的状態を改善しないで、ただ、ブルジョアジーにたいする労働者の闘争の条件を改善するだけである。したがって、農民一揆を主張している人々は、この一揆を自由主義的な中産階級の指導のもとにおこそうとおもっているか、それとも労働者階級の指導のもとにおこそうとおもっているのかを、はっきりさせるべきだと、レーニンは論じた。均質な集団としての農民層のみが、きたるべき革命において、独自的な役割をはたしうるという考えは馬鹿げていた。というのは、すでに農民は富農と貧農に階層分化され分裂していたからである。富農の利害は、中産階級の利害と大同小異であったが、一方、貧農と労働者階級とは共通の敵をもっていた。

「未来をになうのは農民だ」というナロードニキのテーゼにたいして、レーニンは次のように応えた。ロシアの労働者は、ロシアのあらゆる勤労被搾取人民の唯一の代表者であり、労働者は、その本質の故に、当然の代表者となる。死滅しようとしている農奴制経済の遺物を度外視すれば、ロシアにおける勤労者の搾取は、すべて資本主義的な搾取である。また、労働者は、単に個々の役人の不正と闘うだけでなく、資本家階級全体の保護者である国家の不正と闘わなければならない。このようにして、工業労働者と工場主との闘争は、全資本家階級にたいする闘争、資本による労働の搾取に基礎をおく社会制度全体にたいする闘争にならざるをえない。絶対主義にたいする、本当に首尾一貫した仮借ない敵は、労働者階級だけであり、労働者階級と絶対主義との間には、どんな妥協もありえない。その他のあらゆる階級、集団、階層の専制政治にたいする敵対は、絶対的なものではない。彼らの民主主義はいつも中途半端なものであるとした。

したがって、労働者階級は、絶対主義にたいして不満をもっているあらゆる社会層の闘争の指導者になるべきであり、単なるひとつの「急進的グループ」として、「自由主義政党」のあとについてゆくべきではないことを強調しているのだ。 

レーニンは19世紀のヨーロッパの自由主義者の行動のことを考慮して、階級としてのロシア自由主義ブルジョアジーと自由主義インテリゲンチャ(西欧派)は、その社会的地位の性質からして、中途半端な革命家にとどまらざるをえないと断定している。彼らは、最小限の目標さえ達成すれば、ただちにツァーリズムに身売りする。階級としてのプロレタリアートだけが、闘争のため、わが党のために、いっさいの反対派階層からできる限り多くの支持がえられるように、わが党の指導のもとに広汎な政治闘争を組織するという任務を、自らひきうけなければならない。党はどんな自由主義者であろうと、もしその人が1インチでも前進する用意がある場合には、ただちに彼を獲得して、さらにいやおうなしにもう1ヤード前進させることを、習得しなければならない。もしも、その自由主義者が頑固で、どうしてもそうしようとしない場合には、われわれは彼をおきざりにして、彼らをのりこえて、前進するだろうとした。

 また、社会民主主義者は労働組合の仕事だけに、労働者の日常生活の目先の改善だけにとどまるべきだ、と主張する人々にたいして、レーニンは次のように答えた。「ブルジョア的政策のねらいはプロレタリアートの経済闘争を助けることにある。社会主義者のねらいは、経済闘争がいやおうなしに社会主義運動を助け、革命的労働者党の成功に貢献するように、しむけることにある」また、「社会民主主義者は労働組合の書記になることを理想としてはならない。人民の守護者になることを理想としなければならない」と付け加えた。

 つまり、どこで発生し、人民のどの層または階級に影響することであろうと、とにかく、いっさいの専制と抑圧のあらわれにたいして、たちあがることのできる、「人民の守護者」になることを自らに課した。社会民主主義者はこのようないっさいのあらわれを、警察の暴力と資本家の搾取という単一の影像にまとめあげることができなければならない。これは、彼の運動が投げかける決意表明でもあった。

 レーニンが、ロシアにおける革命の理論を求めつつあったころ、世界史そのものが大きく転換しようとしていた。いわゆる「帝国主義」の時代が始まりつつあった。ヨーロッパ列強の反動化・軍国主義化が強まりつつあった。フランスでさえ、好戦的な気運を背景にしてブーランジェ将軍を中心とするクーデタの危機(1889年)があり、ドレフュス事件(1894年)があった。ヨーロッパ列強は、このような社会的危機を、軍備拡張と「世界政策」による植民地への進出によって切り抜けようとしていた。一方で、社会主義運動を弾圧し、他方で、「世界分割」による後進地域・植民地の犠牲において、自国の労働運動を改良主義的な方向へとむけて、労働者階級を懐柔しようとしていたのである。

 他方、後進地域、植民地には、この帝国主義の時代の新しい情勢のなかで、深刻なしわ寄せがおしよせてきた。つまり、アジア、アフリカの諸地域の農民を中心とする大衆は、西欧の労働者以上に、革命的であらざるをえないという条件が生み出されつつあったのである。

1891年に成立した露仏同盟は、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対立して、西欧世界に危機感を投げかけるとともに、経済的には、フランス資本が、膨大な資源と低廉な労働力をもつロシアへ流入することを意味した。同年、シベリア鉄道が起工したことでも明らかなように、90年代はロシアの資本主義が飛躍的に発展した時期であり、生産の集積の程度において、日本やドイツを凌駕する勢いであった。

しかし、そこに出現した資本主義は、一般の国民生活とは無関係で、外国資本に依存しながら、主として軍事目的のために、重工業を伸長させているところにその特徴があった。そこでは、多数の労働者が生み出されていたが、ロシア全土は依然として、後進的な農業国であった。そして、歴史的光栄を担うツァーリズムは、帝国主義というこの時代に、旧社会体制を維持するための権力のシンボルとして新しい存在理由を与えられ、強化されつつあった。

 このようにして、世界が全体として資本主義的発展をとげつつある一方では、後進的な地域での窮乏化がますます強められていくのが歴史の現実であった。資本主義の新しい段階において、ロシアは最も深刻な犠牲をはらむべき歴史の交差点となった。

帝国主義時代の大きな矛盾をはらんでいたロシアは、特に、1900年代の恐慌以後、その社会的危機を一層深刻化するにいたって、労働者のストライキが頻発し、40年間たえてなかった農民の暴動も、ついに1902年に激しい勢いで噴出した。レーニンにとって、労働者と農民の同盟の問題は緊急事となった。1903年『貧農に訴える』が書かれた。彼はここではじめて農民に直接よびかけ、分かりやすい言葉で、繰り返し巻き返し社会民主労働党の立場を述べて、これを貧しい農民に理解してもらうおうと努力している。

 

3 マルクスとアジア思想

 

マルクスを読むと、『資本主義的生産に先行する諸形態』のなかで、経済的社会構成体のあいつぐ時代として定式化し、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的な諸生産様式をとらえている。この序列は、所有の歴史としても、その論理的段階を表わすとされている。土地所有は本源的形態である共同所有から出発してアジア的段階では、部族的所有が特殊な形態で保存され、スラヴ的所有ではそれが変形され、古代的・ゲルマン的所有では共同体的所有の内部で対立物にまで発展した私的所有と個人的所有までたどっている。そして、ロシアの農民と革命の可能性について、ヴェラ・ザスーリッチへの手紙のなかでは、次のような言葉が並べられている。ロシアの既存の共同性と共産主義があたかも直接的に接続することが実現できるかのような錯覚を想起させる言い方をしている。

 

《ロシアは、共同体的所有が広範な、全国的な規模で維持されているヨーロッパでただ一つの国である。しかし、それと同時に、ロシアは、近代の歴史的環境のなかで存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的な成果をわがものとすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態を破壊しないで、それを発展させ変形することができるのである。》『 資本主義的生産に先行する諸形態』マルクス著 手島正毅訳

 

ここでいう、前古代的形態に対応するのが、19世紀から20世紀にかけてのロシアのアジア的段階のまぎれもない現実だった。人口の8割を占める農民が、地主の収奪、土地の国有化または社会化を願望し、「ナロードニキ」に期待をよせるのには理由があった。そこでは、自然生的共同体とよばれる土地所有がうまれる、「アジア的」な部族社会を中核にしているのである。だが、ここでマルクスは自らが歴史的段階として設定した不可避の構造を転倒させる誤解を招いている。歴史も自然科学の発展の法則と同じに、不可逆性をもつことは自明であり、近代社会が前古代的形態(アジア的段階)と接続あるいは融合することはありえない。そこでは、大地や労働条件にたいして、人々は、次のような立場におかれている。

 

《人間は、共同団体、しかも生きた労働のかたちで自己を生産し、また再生産するところの共同団体の財産である大地と素朴に関係する。個々人は、いずれも所有者または占有者としてのこの共同団体の手足として、その成員としてふるまうにすぎない。労働という過程を通じておこなう現実の領有は、それ自身労働の所産ではなく、労働の自然的な、もしくは天与の前提として現われるところの、こうした前提のもとで行われる。》

『資本主義的生産に先行する諸形態』 マルクス著 手島正毅訳

 

 また、この「アジア的生産様式」とは、政治的に東洋的専制主義として表現されるのである。ここでは、私的所有、個体的所有は存在せず、ただ、共同団体としてのみ労働やその成果そのものが人格化されてあらわれてくるにすぎない。こういう生産様式の感性的な基盤は、人々に自然の中からはくぐまれた根強い自然感性的思想を産みだす。人間の内面性が、外側の自然性に自己同化する意識をかたちづくるからだ。そこで人々は、自然というものに融和しながら生きて、小さな共同体をつくって停滞した秩序のなかで生きてゆくのである。

これは、一時のナロードニキが理想とした古い庶民的(農本的)な情緒の源になっているものであった。そして、遠い昔からあった伝統的な共同体のなかで育まれたアジア的なぶ厚い情緒、習俗の美しさ、農民共同体(ミール)による自然で偉大な隣人扶助の情感の濃密化は、裏をかえせば、マルクスが誤解したような、人類の理想の共同体のイメージにつながっていくことにもなった。しかし、西欧近代の見方からしたら、この共同性は、美点どころか、古い迷妄とさえ映ってもおかしくない。

だから、イギリスやフランスでは、すでにブルジョア革命を終え、資本主義の発展が急速化しているのにたいして、ロシアのみが取り残されたように、ミールを擁護する保守的なスラヴ主義が、「良き古きスラヴの風習」を理想化していた。にもかかわらず、近代社会の噴流は、資本主義の導入とともに、突然、自由主義思想(西欧派)が外来思想として移入されてきたのである。こうして18世紀の後半には、スラブ主義対自由主義または、「アジア的思想」対自由主義の角逐が激しさをましていた。そこに現われたのが農民の復古的世界をあたかも理想郷のように描く、無政府主義的社会主義を理想とするナロードニキである。レーニンは、単なる西欧派ではなかった。実は、ナロードニキの主観主義を継承したのだ。なぜなら、マルクス主義をロシア(アジア)の大地に土着化させる過程をつうじて、その「客観主義」からまぬがれたためであった。いわば、レーニンの中では、農民の貧困の実態が、マルクス主義の理念の近代性と角逐していたのである。レーニンがマルクス主義を受け入れた特徴は、チェルヌイシェフスキーのように、マルクス主義に、主体的な革命感覚を伴っていたということである。それが、当時の単なる言葉だけのマルクス主義者と異なっていた点である。

しかし、これらの人民主義者たちには、アジア的思想対西欧派の対決の構図を内面化することができなかった。なぜなら、彼らは、もともと貴族や地主の出身のものが多く、本来、たいてい農民との接触をもたなかった。また、教育や感情の点でも、農民とは接触がなく、知識人としていくら「人民の中へ」といっても無知で、聖職者のいいなりになっている農民に、自分たちを理解させることはとうてい不可能だった。

農民たちにとっては、神と同じぐらいに遠くかけ離れた仮説的な存在であるツァーリが、将来、いつかは彼らの不幸をすくい、抑圧者を罰してくれるだろうという漠然とした宗教的な願望に浸りきっていた。19世紀の終わりの30年間は、急速な工業の発展につれて社会的感性の変化をこうむったものの、土着の中産階級の意識は、ほとんど変わらなかった。

これは、レーニンが導入しようとした外来思想であるマルクス主義にとっても同じことがいえた。後進国におけるマルクス主義が、なぜ、<変形>しなければならないのかも、同じ理由から理解できる。いわば、外来思想が内面化するまでアジア的思想と対決せず、アジア的思想と言葉の無意識面で接触するため、思考の型として、アジアと西欧がどうしようもなく「折衷」してしまうのだ。つまり、外来思想は土台としてのアジア的思想の上層に二重化して折り重なってしまい、決して相互に溶けあわない関係をつくるのである。もうひとつのアジア的思想の特徴は、支配―被支配の関係が、<無関心>の関係を主軸とすることだ。アジア的な風土を残したところにおこる革命と呼ばれる政権交代は、すべて「宮廷革命」あるいは「クーデタ」としてしかとおこりえない。なぜなら、被支配人民は、直接自分の降りかかってくる危難がない限り、支配のゆくえにたいして<無関心>の対応しかみせないからである。のちのロシア革命もその例にもれず、ボリシェヴィキの一部兵士によって行われたクーデタでしかない。

これは、現在のアジア、アフリカの後進国においては、どこにもみられる風景である。これは、レーニンら、ボリシェヴィキたちが、どれほど自覚していたかは知れないが、これは自然感性の問題であるから、物質的豊かさとか生産量の増大によって、すぐに回復できるわけではない。アジアという言葉が含む精神構造は、ある特定の文化が、異文化と接触するときに、すぐ潜在化してしまうのである。私たちは後進国における革命が、どれほどの歪曲と変形を経た跡をたずねればならないのか、すべては分かっていない。

 しかし、おそらく、レーニンの思想の<変形>は、こういう大衆の心の中に楔を打ち込まない限り、後進国のまぬがれない課題のようなものである。だからこそ、レーニンのマルクス主義はナロードニキの末裔としての「アジア的」マルクス主義の側面を濃厚にもっているといわねばならないのである。特に、それはレーニンがナロードニキとの闘いの過程で、農民の歪んだ固い地殻に対面し、自覚したときから、生涯にわたって規定しつづけて、持ち続けていたものにちがいなかった。

 

4 初期の革命運動

 

1893年8月、彼は、処女作『農民生活の新しい経済的動向』をひっさげて、サマラをあとにし、首都のマルクス主義者たちとの接触を求めて革命の表舞台ペテルブルクへ向かった。

ペテルスブルグにつくと、レーニンは、一応、弁護士としての登録をすませてから、すぐに、彼は労働者も加わっていたいくつかの重要なマルクス主義サークルを知った。かれは、ただちに、マルクス主義にたいする深い学識、とりわけ、マルクスの学説をロシアの具体的現実に適応するすぐれた能力によって、注目をあびた。しかし、これらのサークルと大衆的労働運動とのむすびつきは弱かった。これらのサークルは、抽象的な議論に終始していた。ウラジーミル・イリイチはこれらのサークルに活を入れようとした。

当時、ペテルブルグでは、工業技術大学生が中心とするマルクス主義青年のサークルが、労働者の学習サークルの指導に当たっていた。彼は、労働者サークルへ行き、マルクス主義理論をロシアの現実や闘争にたいする関心や政治的諸目標と関係づけながら、情熱的に講義した。同時に、労働者たちからその労働条件や生活条件について聞いて学んだ。そこには生きたマルクス主義の交流が感じられたという。また、モスクワで医師大会が開かれていたとき、ナロードニキが組織した非合法の集会のことが、人々の記憶に残っている。当初、ウラジーミル・ウリヤノフは氷のように冷たい沈黙のなかで発言した。集会の終わる頃には、出席していたすべての青年たちが、ナロードニキ主義からマルクス主義へ転向していた。

1893年の秋にウリヤーノフ家は、モスクワへ移住した。

レーニンはそこで人目をさけるため、うわべは酒場にいりびたっているようにみせかけていたが、政治活動を行うため、学習サークルを通して、工場労働者と接触をもちはじめていたインテリ・マルキストのグループに加入した。この青年たちのサークルのなかで、23歳のウラジーミルは、すでに理論的水準の高い献身的なマルクス主義者として、サークル理論面の指導者になっていった。賃金不払いに端を発したセミャンニコフスキー工場の争議(1894年末)の際には、レーニンは労働者サークルのメンバーと協力して、自分でビラを書き、争議の勝利に役立ったが、95年には「罰金法」に関する詳しいパンフレットを書いている。このような活動を通じて、レーニンはペテルブルグの労働者の先進的分子としっかり結びついていった。

ウラジーミル・イリイチは、次第に、はっきりとロシアの政治・経済情勢を具体的に認識するようになっていた。産業資本主義、つまり、ブルジョアジーが現物的農民経済を破壊しながら、その条件をなす商品生産を発展させつつ、拡大していく。そこで、ブルジョアジーは社会の改革者であると自称する。しかし、このブルジョアジーは1789年のときのブルジョアジーではない。彼らは権力を欲していたが、プロレタリアートに対抗して、反動の協定を結ぶ用意をしていた。真に革命的なプロレタリアートは、自由主義的ブルジョアジーとではなく、農民のなかに真の同盟軍を見出す。しかしながら、農民は革命を煽動したり、革命を実現したり、ナロードニキが確信していたような、自己の政治目標を設定することができない。プロレタリアートは自己の運命に従い、革命を指導し、革命をできるだけ先に推進し、農民の遅れた層またはブルジョア化した層を引きずり込まなければならない。このような中から、プロレタリアートと農民の革命的同盟が日程にのぼってくる。

しかし、この同盟を実現し、指導するためには、プロレタリアートを社会主義という固有の目標をもつ独立した政治勢力に結集するマルクス主義政党が必要である。そこで、マルクス主義サークルのメンバーである社会主義者たちは、プロレタリアートにその全関心と全活動を寄せなければならないのである。レーニンは、これらの実践的任務に、この革命的組織化活動に専念していったが、それでも理論的、経済学的、社会学的、哲学的な研究を放棄することはなかった。彼はますます、マルクス主義者に、つまり唯物論者、弁証法論者になっていく。

レーニンは、当時、すでに理論家としてかなりの名声を博していて、1894年には、有名な『“人民の友”とはなにか、そして彼らはどのように社会民主主義とたたかっているか?』を非合法で出版した。この著作はロシアの革命的マルクス主義政党の宣言ともいうべきものである。この本の第一分冊では、当時のナロードニキの理論的指導者H.K.ミハイロフスキーの主観的社会学が、唯物史観の立場から批判されて、社会民主党の設立を主張している。第三分冊では、ロシアの農業問題がとりあつかわれているが、その結論では、すでに労働者と農民の革命的同盟の思想や、共産主義社会建設ま構想が提起されている。

また、この年末頃、当時、日曜夜間学校の女教師をしていたナジェージダ・コンスタンチノヴナ・クループスカヤ(1869~1939)と知り合い、彼女はやがて、レーニンの生涯の伴侶になった。

まもなく、理論的宣伝だけでは満足できなくなり、ベテルブルグの「老人連」というグループを、労働者大衆と接触させようとして努力した。レーニンはストライキ中の工場労働者にあててパンフレットを書き、それをそのグループの者が配布した。

1895年4月には、ロシアのマルクス主義者をひとつにまとめあげる必要が、ますます切実になってきたので、国外にいる「ロシア・マルクス主義の父」とよばれていたプレハーノフはじめ、労働解放団のメンバーと意見交換をするために、レーニンは、外国へ行き、スイスではじめて、プレハーノフやその他の亡命者と会談した。この労働解放団は、1883年に、亡命中のプレハーノフがスイスで設立した最初のマルクス主義グループであり、ロシアでのマルクス主義の普及に大きな役割を果たし、プレハーノフは、レーニンをはじめ、ロシアの若いマルクス主義者によって絶対の師と仰がれていた。レーニンは5月にプレハーノフとアクセリロードの両先輩と会った。彼らは、ロシア社会民主労働党を結成することで意見が一致した。しかし、この時、すでに、レーニンは、多くの点で、特に、農業問題に関して、プレハーノフと対立している。プレハーノフは、プロレタリアートが同盟軍としなければならないのは、自由主義者(ブルジョア民主主義者)であって、農民ではないと考えていた。そこで、レーニンはロシアの運動の援助を要請した。ロシアの運動のために非合法のパンフレットを外国から供給してもらうことと、党の設立の可能性について協議した。その後、彼は、スイス、パリ、ベルリンに滞在して、フランス語やドイツ語を勉強するかたわら、労働運動を研究するため見て廻った。エンゲルスはすでに重病になっていたので、彼には会えなかった。9月に彼は、非合法文書の第三巻を含む『資本論』をトランクいっぱいにつめこんで、1895年9月7日に、ロシアの社会主義者やプロレタリアートが直面している歴史的任務は大きいのに、組織が弱体であるということに胸を痛ませながら帰国した。

帰国後まもなく、彼のサークルは、ペンネームをマルトフと呼ぶ青年が組織するグループと合体した。技師5名、学生7名、弁護士1名(レーニン)、元学生1名(マルトフ)、公務員1名(クルーブスカヤ)、医師、産婆、あわせて17名で総会を開き、レーニンとマルトフを含む5名の事務局をおいて、労働者向けのビラを印刷し、『ラボーチェエ-ジェーロ』(労働者の事業)という新しい雑誌を発行する準備をすすめた。レーニンは、労働者からくわしい材料を細大もらさず集め、分析し、労働者の要求を定式化し、闘争で注意すべきポイントを細やかに指示した。このグループは革命的宣伝活動の機関であって、まだ革命政党の萌芽にもいっていなかった。翌年になってこのグループは「労働者階級解放闘争同盟」として定着した。印刷所がないので、レーニンは現実家らしく、ナロードニキの一グループと手を結んで、新聞を共同で発行する準備を整えた。

しかし、これとおなじような団体が、その他の工場中心地にも設立され、『ラボーチェエ-ジェーロ』誌を発行する準備を進めていたその矢先(1895年12月8日)、レーニンをはじめ「解放闘争同盟」のメンバーの大部分が、逮捕されたときには、レーニンによって書かれた新聞の第一号が印刷するばかりになっていた。

 

5 逮捕とシベリア流刑

 

レーニンは14か月間以上獄中ですごしたが、その間も、引きつづきパンフレットや宣伝文を書いていたが、近く開かれる予定のロシア社会民主労働党第一回大会のために、『社会民主党綱領草案と解説を執筆した。また、かねて計画していた、ロシアにおける資本主義の発達についての著作の準備を開始した。政治犯には本の差し入れが自由にできたので、彼は、読書を許可された書物を返す際を利用して、外部と秘密の通信をはじめた。活字に人目ではわからない点をつけて、行間に字や文章を組み立てたり、ペンに牛乳をつけて本の行間に書き、あとで火をかざすと浮き上がるという方法をとるなどして、看視の眼を逃れた。パンで小さなインク壺もつくったりもした。本の差し入れや外との連絡は、モスクワからきた姉アンナとクループスカヤがあたった。1896年6月には、クループスカヤも逮捕され、同じペテルブルグの獄にはいった。

ようやく公判が終わり、1897年2月、レーニンは、3年の東シベリヤ流刑を申し渡された。3月4日にレーニンは、まずシベリアのクラスノヤルスクに着いた。それから、5月8日、エニセイ県のミヌシンスクにほど近いシュシェンスコエ村に到着した。出発を前に、「解放闘争同盟」の残存者たちに影響を与えていた「経済主義」に批判を加えてきた。「老人組」と対立していた「青年組」が、純労働組合的団結を望んでいたのである。彼らは、政治闘争をやめて、「労働者基金」を設立し、厳密な合法性のなかに止まることを望んだのである。レーニンはこれらの傾向にはげしく批判している。

シュシェンスコエ村は、エニセイ川の支流に面した荒涼とした人気のない村で、おまけに気候が悪く、逃亡はできそうになかった。しかし、彼の流刑期間は、かならずしも過酷というほどでもなかった。研究用の書物を手に入れることができたからである。妹マリアが送ってくれるさまざまな文献、新聞、雑誌をむさぼり読んだり、散歩や狩猟をしたりしながら、将来の行動計画を練っていた。そして、彼はシベリアの農村を歩き廻って、農民の生活状態を調査したり、彼の法律知識を役立てて、農民たちを助けたりした。

ここで、レーニンは多くの著述を行い、1899年3月には『ロシアにおける資本主義の発展』を「イリイン」のペンネームで書き上げた。これは、マルクスの経済学説をロシアの経済的発展に適用し、『資本論』の思想を具体化し、発展させたものであって、ナロードニキの経済学説の誤りは、これによって全面的に証明された。レーニンはこの厖大な著作のほかに、じつに30を越える研究や論文、特に重要な小冊子『ロシア社会民主主義の任務』を執筆した。そのなかで、経済政治的危機と警察的絶対主義的制度の破産を予言している。

その上に、彼はエルヴェシウス、ドルバック、カントの哲学書などを読み、修正主義者(ベルンシュタイン)や「経済主義者」の著書を憤慨したり、激昂しながら読んだ。この経済主義者たちの影響によって、真実の政党を創立しようとしたミンスクの創立大会(1898年3月)は妨害されていた。これにたいして、レーニンは激しい抗議文を書いた。

そして、1898年にやっと、レーニン、マールトフ、プレハーノフの党であるマルクス主義的なロシア社会民主労働党が創立された。

さらに、この時期に、レーニンは、その頃出版されたマルクス、エンゲルスの全著作を読んだり、読み直したりしながら、新しい現実や新しい敵、そして歴史の転回点を漠然と予見していた。たから、この時期の著作は、ロシアとロシアの革命的プロレタリアートが第一線に出て、社会主義への道を切り開くようになった新しい時代がはじまりつつあることを、彼が予見していたことを証拠だてている。マルクスが予測したように、世界革命の中心は東方へ、ロシアの方向だけでなく、さらにもっと遠方に向かって移った。

また、翌98年には、3年間の流刑にされたということで、クループスカヤが彼女の母といっしょにシュシェンスコエ村にやってきた。二人はすぐ結婚することを条件に、流刑地の変更を認められた。7月10日に結婚式を挙げたが、政治犯に支給される月8ルーブリの追放手当で、かなりりっぱな家の離れを、賄いつきで借りられた。亡命地での生活は、いろいろな不便や悩みがつきまとったけれども、彼らが近親者たちに送った手紙を読むと、陰惨な監獄生活とはまるでちがった、いかにもロシアらしいおおらかさに満ちていた。

クループスカヤは学校の教師で、レーニンがペテルブルグにくる以前から、すでに革命運動で活躍していた。そののち、彼女はレーニンと生活を共にし、レーニンの妻であると同時にまた協力者であり、秘書でもあった。しかし、彼女がこのようなつつましい態度をとっているとはいえ、彼女の強さ、穏和さ、聡明さが、レーニンの政治生活にとって、欠くべからざる内助の功をはたしたことは明らかであった。苦しい亡命時代には、党内で紛争がおこるたびに、レーニンとクループスカヤは、レーニンの神経が回復するまで、リュックサックを背負って、あてもなく山の中を歩いた。

1900年1月29日、3年間の流刑期間を終えたレーニンは、住み慣れたシュシェンスコエ村に別れをつげた。

 

6 新しい型の党をめざして

 

睡眠がとれず、恐ろしくやせ細ったウラジーミル・イリイチは、ようやくシベリアから釈放されると、流刑中に考え抜かれた「新しい党」の計画を再開した。すでに、1898年に、レーニン、マールトフ、プレハーノフの党であるロシア社会民主労働党が創立されたばかりであった。

しかし、レーニンの心は複雑であった。妻のナージャ(クルーブスカヤ)の流刑期間がまだ1年あったので、残りの期間を、もともとの流刑地であるウーファ市で過ごさなければならなかったからである。レーニンの流刑中のあいだに、ロシアの労働運動はめだった前進をみせていた。1896年から97年にかけてペテルブルグで起こった労働運動の高まりは、標準労働時間を平日11時間半に制限する新工場法を制定させ、労働組合ロンドン評議会は、「偉大なペテルブルグ-ストライキ」を高く評価した。これにたいし、労働運動を指導すべきマルクス主義団体は、思い思いの小さな地方的サークルに分散してしまっていた。

レーニンは、流刑満了後も、ペテルブルグとモスクワ、大学所在都市、大労働者居住都市の居住も禁じられていたので、ペテルブルグに近いプスコフを選んだ。プスコフについて間もなく、同じ頃釈放された解放闘争同盟の仲間マルトフとポトレーソフが加わり、全国的政治新聞の刊行のためにスイスに行くことにした。それは、ロシアの国内で印刷できなかった非合法新聞を外国で発行して、それをひそかにロシア国内に持ち込む手配をするためだった。

1900年7月16日、レーニンはスイスに向けて出発した。当時のスイスには、ロシア革命運動の三人の長老がレーニンの到着を待っていた。ジュネーブ郊外のこざっぱりした別荘には、いつも寸分のない服装に身を固めた気むずかしい「ロシア・マルクス主義の父」ゲオルギー・ヴェ・プレハーノフが、妻と娘二人と住んでいた。彼は、ロシア・マルクス主義の理論的建設に巨大な役割を果たしたが、長い亡命生活の間に、ロシアの労働運動との接触をほとんど失っていた。パーシャル・ベ・アクセリロードも、やはり長年の亡命生活で、優れたオルガナイザーとしての才能をすっかり枯らしてしまい、字も満足に書けなくなってしまっていた。もうひとり、有名な女性革命家で、マルクスと文通していたヴェラ・イ・ザスーリチも、ペテルブルグ市長官を狙撃した、往時の若々しい娘時代の面影は消えていた。このとき、レーニン30歳、プレハーノフ44歳、アクセリロードとザスーリチは50歳と49歳だった。この三人と、レーニン、ポトレーソフとの五者会談はうまく進まなかった。レーニンは、プレハーノフの尊大で命令調の発言にひどく腹を立て、一時は、ポトレーソフとともに、すべてをなげすててロシアに帰る決心さえした。

レーニンは、プレハーノフと決裂しないよう、彼の注文に譲歩を重ね、新しく発行する『イスクラ』編集局は、この5人とマルトフの6人になったが、プレハーノフだけは、ザスーリチのとりなしで、二票もつことになった。こうすれば、アクセリロードとザスーリチという絶対忠実な二票をあわせて、プレハーノフは4票を握って編集局を支配すことができると考えたのである。レーニンはプレハーノフにへりくだった態度を要求され、足蹴にされたことを決して忘れなかった。この仕事は大変だった。レーニンとプレハーノフなどのロシアのマルクス主義者とのあいだに、意見の不一致が増大したからである。しかし、彼はくじけなかった。彼は不満であったが、この編集局の編成で、新しいロシアのマルクス主義的政治新聞を、ドイツのミュンヘンで発行することになり、9月、彼はミュンヘンに行き、発行準備を精力的におし進めた。新聞の編集部にはプレハーノフと労働解放団の団員も参加した。

こうして、1900年12月11日に全国的な政治新聞『イスクラ』(火花という意味)の創刊号が発行され、レーニンはこの新聞の編集者として引き続き、外国に留まった。この火花はやがて労働運動の嵐にあおられ、ロシアの大草原を焼き尽くすはずであった。『イスクラ』は、革命的勢力を結集し、党の基幹要員を養成する中心機関紙となるはずだった。

1901年6月に、流刑期間を終えてミュンヘンにやってきた妻クループスカヤが、『イスクラ』の書記となって、ロシアとの通信を引き受けた。彼女が暗号を入れてロシアに送った手紙は、月300通にのぼった。クループスカヤが化学インキにまみれて通信に取り組んでいるかたわらで、レーニンは『イスクラ』に次々と論文を書き、また、理論的労作『農業問題における「批評家」諸氏、第一部』を書き上げていた。この著作が『ザリャー』誌に発表されたとき(1901年12月)にはじめて、「エヌ・レーニン」というペンネームが用いられたと考えられているが、すでにこの年の5月に『イスクラ』印刷所にあてた手紙のなかに、レーニンという署名がみられる。ともあれ、彼が、レーニンという名をも用い始めた1901年5月から、彼は新しい党の理論的基礎を解明する著作にとりかかった。

 

7 なにをなすべきか

 

専制政治が存在すれば、必ずそれに反対する運動が発生する。この反抗は革命的にならざるをえなかった。この反抗が、プガチョフの粗野な農民一揆の形であらわれようと、近衛兵の宮廷革命であらわれようと、いずれにせよ、そうであった。18世紀には、宮廷革命がおこるたびに、皇帝が交代した。だが、1825年12月のデカプリストの貴族の陰謀によって、古いものと新しいもの、つまり最後の近衛兵叛乱と、西欧自由主義思想の影響をうけた最初の革命運動とが統一されるに及んで、事情がちがってきた。ロシア国内の警察の取締りがきびしくなるにつれて、反抗運動は、ますます陰謀的になった。

デカブリストの一人であったペステルは、共通の革命的目的で結ばれた小さな地下グループを形成するよう主張した。19世紀の70~80年代になると、トカチェフはこの主張をさらにおし進めて、職業的革命家の中央集権的な、規律ある団体をつくるよう要求していた。このような団体が、短期間ではあったが、実際に存在した。「土地と自由派」(ゼムリヤ・イ・ヴォリヤ)とその後継団体である「人民の自由党」(ナロードナャ・ヴォリヤ)がそれである。1879年、採択された綱領の中には、「中央集権的司令部のもとに統合された秘密結社の組織」と規定されていた。

このようにロシアの革命的政治運動のなかには、いつも変わらぬひとつの根本思想が流れていた。つまり、単一の意志で統一され、かたく結合した陰謀グループの連合体を求める感性である。このように、勢力の温存を重んじるという方法をとる点で、この職業的革命家は、自由主義的知識分子や初期のナロードニキとまったくちがっていた。初期のナロードニキは、「人民の中へ」入って、九頭竜の怪物ともいうべき官僚機構にたいする空しい闘争のなかで、精力をすりへらしてしまったのである。彼らに最も欠けていたのは、イデオロギーの目的と、その統一と行動の調整であった。

専制政治は単一の無慈悲な意志をもっているのだから、この専制政治を打倒しようとする革命家たちの間に、論争や意見の相異があっては問題にならなかった。「ナロードナヤ・ヴォリャ」党は、テロリストの献身的な小結社ではあったが、アレクサンドル二世の暗殺は、マイナスの効果以外に何も産まなかったので、ツァーリズムは皇帝個人の生死にかかわらず存命できるものだということが明らかになった。革命家のグループは四散し、多くの者は、西欧の社会民主党の思想と組織原則に注目するようになった

1902年3月、『なにをなすべきか?われわれの運動の焦眉の諸問題』がシュトゥットガルトでレーニンの署名で出版された。この著作が新しい党の建設をうる上で果たした役割は大きかった。これにはレーニンの想定した組織原則論が網羅されている。『なにをなすべきか?』が批判の対象にしたのは、国際社会民主主義運動内部の「ベルンシュタイン主義者」とロシアの「経済主義者」たち、この両者の思想的融合にほかならなかった。1999年という年は、国際社会主義史上の重要な転機だった。レーニンが流刑中に『ロシアにおける資本主義の発展』を発行したこの年に、ドイツ社会民主党の理論家のエドワルド・ベルンシュタインが、『社会主義の諸前提と社会民主党の諸課題』という本を出版して、マルクスの経済学説と階級闘争の理論、プロレタリア独裁の理論に、マルクス主義政党の内部から公然と反対の声明し、資本主義社会のなかでの改良運動に、社会民主党がその努力のすべてを注ぐよう提案したのである。ベルンシュタインが以前に述べた社会主義の「究極目標は無で、運動がすべてだ」という言葉は、各国のベルンシュタイン主義者の共感を呼んだ。

また、同じ1899年に、フランス社会党のアレクサンドル・ミルランが、ドレーフュス事件でおびやかされた民主主義を守るためという理由で、所属する社会党に相談することもなく、パリ・コミューンの戦士を大量虐殺したガリフェ将軍のはいっているブルジョア内閣に、社会主義者として史上はじめて入閣するという事件が起こった。

亡命ロシア革命家のなかでも、また、ロシア国内の社会民主主義者のなかにも、ベルンシュタイン主義の影響が現われ始めていた。「現実にできることに専念しよう!」これが、その合言葉だった。彼らはいう。「ロシアのマルクス主義者にとって、活路はただ一つである。プロレタリアートの経済闘争に参加すること、すなわちこれを援助すること、そして自由主義的反政府活動に参加すること、これである」現実にできることだけを問題としようという発想が、理論と思想の力を弱め、現実にできることすらもできなくさせてしまいやすいことは、われわれもよく体験することである。革命家レーニンは、最初の労作『人民の友とはなにか?』から一貫して、くりかえし革命的思想と理論のもつ意義を強調していた。

しかし、『なにをなすべきか?』がもつ革命思想史、運動史上の画期的意義は、レーニンが単に思想と理論の革命的意義を強調したというところにとどまらず、それをさらに深めて原理的基礎にまで掘り下げて考察した、独自の方法と視角そのもののなかにあった。ベルンシュタイン主義者や修正主義者への闘争は焦眉の課題になっていたが、『なにをなすべきか?』という自分自身への問いかけにたいする答えはあくまでも明晰であった。

前衛党の組織についてのレーニンの構想は、従来の西ヨーロッパのそれと非常に異なっている。これはレーニンが、ロシア土着の革命的伝統を再生、発展させたのだということを、ぬきにしては考えられない。広大なロシアにおいてこそ、反抗的でずるい農民を統御していく必要から、高度に中央集権的な絶対主義的官僚政府が発生したのである。その上、レーニンには、かつてのナロードニキ運動にあった秘密主義と陰謀家集団へのコンプレックスがあったのかもしれない。なぜなら、レーニンは、革命に全生命をかけた初期のテロリストの勇気と、豪胆と完全な没我献身を、いつも高く評価していたからである。70年代の革命的ナロードニキ、とりわけ「土地と自由」派がつくりだした戦闘的な中央集権組織を見事な組織として模範にしなければならないと言っている。

19世紀の70~80年代になると、トカチェフはこの主張をさらにおし進めて、職業的革命家の中央集権的な、規律ある団体をつくるよう要求した。このような団体が、短期間ではあったが、実際に存在した。「土地と自由派」(ゼムリヤ・イ・ヴォリヤ)とその後継団体である「人民の自由党」(ナロードナャ・ヴォリヤ)がそれで、1879年採択された綱領の中には、「中央集権的司令部のもとに統合された秘密結社の組織」と規定されていた。

したがって、レーニンは、ドイツ社会民主党の平凡な議会主義や組合主義にたいして、このような伝統的なストイシズムを対極に置いた。したがって、レーニンの『なにをなすべきか?』には、レーニンの想定した組織原則論がストレートに貫かれているが、それが、あまりにも一般大衆の生活感覚と根本的に異なり、職業革命家の特異な生活のイメージを彷彿させる濃密さをもっている。これは、「経済主義」とか「ベルンシュタイン主義」とかへの批判以前の問題である。

レーニンは自らの独自の組織原則論を、ナロードニキ運動の理想に、オーバーラップさせているかのように錯覚しているのかもしれないが、これは、決して特殊ロシア的なものではない。いわば、「アジア的思想」の風土を濾過してしか、普遍思想としては意味をもたないはずだ。だから、これらのアジア的な思想の無秩序な氾濫は、わたしたちにとっては、レーニンの頭の中でつくりあげた架空のプロレタリアートの存在を反映したものと理解したほうがよい。もちろん、普遍思想として理解することはできず、アプリオリなプロレタリアの前衛党イメージをとおしてのみ、あるいは、大衆の心の一部をかすめるときのみに限定する原則を、拡大鏡にかけたみたいに圧縮した思想とみなすことができる。

レーニンは、無意識のうちに、ロシアのアジア的な思想にもとづく専制国家の伝統的なイメージを、党や党員の行動の規範とした。

 

《「土地」の主要部分は、耕地であれ牧地その他であれ、すべてなお「共同所有」の深みのうちに沈んでいるのであって、ここから「アジア的共同体」における「所有の欠如」の相貌が生じるのである。このことはまた、共同体の成員諸個人に対する部族的「共同態規制」の圧倒的な強さをも意味する。すなわち、個々人はきわめて強い規制力をもって共同体に従属させられており、「共同体に対して自立的となることはない」のである。これは一方では「アジア的共同体」の強靭な持続性の基礎をなすとともに、他方では特殊アジア的な階級分化、いわゆる「普遍的隷従制」展開の起点ともなるのである。》

       『共同体の基礎理論』 大塚久雄著 

 

 ここには、アジア的共同体の心性の持続性の強さと、個人が共同体にまるがかえになった非自立的な構造を理解する必要がある。その上に家父長制と専制支配の強さを付け加えればアジア的思想はすべてを集約される。いわば、中央集権絶対主義、ナロードニキの密集性、極端な政治主義、組織の内閉性、労働者の自然性への階級意識の外部注入と、職業的革命家の組織の密集性の強調と、党内民主主義の欠如、鉄の統制、厳格な党内規律の密閉性のどれひとつとっても、マルクス主義が、歪曲された否定的イメージとして、息がつまるような封建的専制主義の窮屈さのなかにすっぽりと押し込めている。

 ここに表現されているのは、少数の単一の意志で統一され、かたく結合した内閉的な陰謀グループの組織連合体を求める心性である。これは、ツァーリ体制に対抗するうえで、最小限の犠牲で、組織を守るためやむをえずとられた体制というよりも、組織を開かれた形で結合する風土や歴史意識がもともとなかったなかで、自然にイメージさせた擬似組織なのだ。これは、前近代的な軍隊などで、よくとられる組織の関係様式を模擬している。だから、党員勢力の拡大を図るということを無視して、専制主義的なファッショ的な秩序をきわだたせ、自由主義的知識分子や一般の大衆が立ち入るすきをなくしている。

 おそらく、アジア的思想に血脈をもつナロードニキ組織の模擬からいえば、この党組織は、一般大衆の意識・感性相互と党指導者三者の人間関係は、醒めたように大きくかけ離れているはずだ。レーニンはそういう傾向にのりかかり、逆に、それを助長することにおいて、この距離感そのものが、新しい堅固な党組織を保持すると信じていた。これはもとをただせば、専制国家にたいしては、専制国家と同質の共同性で闘うしかなかった擬似的なナロードニキの支配思想を移植したためで、それが歴史の背景になっている。こういう場所に、自由主義的インテリゲンチャがとびこんだとたん、鉄の統制によって、たちまち押しつぶされてしまうだろう。レーニンはおそらく柔弱なインテリゲンチャにたいする嫌悪の感情をそのままストレートに表現しているかにみえる。

 また、知識に関する感覚も、後進国独自のコミニュケーション方法の倒錯性の特質を伴っている。いわば、大衆とは無知蒙昧であり、この大衆を革命化するには、インテリゲンチャがつくりあげた知識を外部から注入することが必要であることになっている。ここにおいて、知識は個々人の組織的序列をつくるばかりか、党と大衆の間に従属関係をつくってしまう。党員は階級意識の成熟度で計られ、党は大衆との関係も同じ計測器で計られる。だから、レーニンは、「経済主義」的労働組合主義は自然発生的であるがゆえに、まだ階級意識が低く、政治闘争ができるまで高める啓蒙をすることが必要であると、繰り返し、巻き返し説明しているのだ。知識の上下関係にあった特権意識の転倒こそ、マルクスのコミューン型国家の基本であるはずだった。それは、官吏のリコール制や普通選挙制にもそれはよく現われている。それをロシアのマルクス主義を名のる党派において、指導―被指導の絶対的な格付けの関係から、その挙句、中央執行委員会の意思ですべてが丸くおさまってしまう、非民主的な因習の原因をつくってしまったのはレーニンだった。

 「経済主義」について言えば、労働組合が諸要求的な立場にたって、会社側と交渉することは、組合主義であるとレーニンは言っている。だが、その場合、それは経済主義でもなんでもない。ただ、その改良主義を政治的に上底化して取り上げ、政府や行政に対抗することの方がよほど間違っているのだ。レーニンは、政治的国家と市民社会の境界が未分化な封建専制国家においてこそ、政治闘争と経済闘争の境界も区別を曖昧にし、政治主義一辺倒に傾いた運動を誤解してつくりあげてしまった。だから、本当は、国家や社会のあり方を前提にしない限り、ロシアと西欧との落差の比較はできないはずなのだ。

 レーニンの場合、いかにもアジア的思想の専制の遺制と心性をひきずった知識人らしく、「組織的統制」がいかにも自己目的として現われる。身の置き所がなくなり、息がつまるほどありがたい国家(ソヴェト)の原型に、社会主義の名前をつけることこそ、無意識の自己撞着にほかならない。

このように、少数の単一の意志で統一され、かたく結合した陰謀グループの連合体組織こそが、プロレタリアートの党を支配する官僚をそだて、彼らが掌握した国家権力が、「コミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家」をつくるのだ。それが、ボリシェヴィキ党の集団(官僚)のアジア的思想に染まった善意の専制権力として、高みに押し上げられ、それにみあって一般のプロレタリアートと農民は、国家権力から無限の彼方に放逐されるのである。私たちは、これをさして「裏返された官僚主義」と呼ぶのである。レーニンは新しい型の党への意気込みだけは十分あった。だが、ロシアのアジア的思想の社会意識にゆがめられて、党組織論が<変形>するにいたって、国家、ソヴェトの形態にまでおよぶ、誤謬と停滞をあとあとまで残した。

レーニンのベルンシュタイン批判は、最初は機関紙に載ったベルンシュタインの修正主義が、「批判の自由」を要求する錯誤の批判から始まっている。いわゆる「経済主義」者の批判の自由、思想の批判は、折衷主義と無原則性を意味するものである。ここでいう、「経済主義」とは、経済的、組合的、諸要求的な改良主義型の労働組合の運動のことをさしている。ここで、肝心なことは、政治闘争と経済闘争とのちがいを認識することであるとレーニンは言う。それは、意識性と自然発生性との相違にもたとえられる。自然発生性とは意識性への萌芽にすぎない。だから、職場におけるストライキも組合主義でしかない経済闘争である。少なくとも、社会民主主義党がもとめる政治闘争とはいえない。もともと、労働者の日常的意識は、自分だけの力では、組合主義的な意識しかもてない。レーニンは、自然発生性に矛盾するこの政治意識は外部からしか、もたらすことができないという。社会主義の思想は、労働運動とは独立に、革命的インテリゲンチャから産まれた。経済主義は自然発生性へおもねり、組合主義的運動を行うよう主張する。インテリゲンチャでさえ、「純組合主義者」になってしまっている。これは労働者にたいするブルジョア・イデオロギーの影響のためである。自然発生性(組合主義)はブルジョア・イデオロギーに取り込まれたことを意味する。それは労働者階級のブルジョア的政治だというのだ。

一方、社会主義的意識はブルジョアから生み出され、知的にすぐれたプロレタリアに伝えられ、ついで、これらのプロレタリアから階級闘争のなかに持ち込まれる。その社会主義的意識はプロレタリアートの意識のなかへ注入される。階級闘争自体のなかから、原生的に生まれてきたものではない。階級的・政治的意識は、職場闘争の外部からしか、つまり労働者と雇主の関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。だから、そのために真に社会主義革命をめざす社会主義政党は、この自然発生性と戦わなければならないというのだ。労働運動から自然発生的に成長してくる政治闘争もあるが、「社会民主主義的政治」を自主的につくることはできない。

社会民主主義者は、経済闘争にとどまるのではなく、労働者階級の政治的意識を発展させることに力点をおくべきだ。この政治的意識は、社会、個人、家庭、生活と活動、専制の全面的暴露を組織することである。20世紀はじめのドイツ社会民主党の党員数の傾向をみると、毎年10万人ずつ増加しており、第一世界大戦の直前には実に百万人を突破している。しかし、この強大な党が戦争の開始とともに、革命どころか、国民の排外主義的熱狂に吸い込まれた。これこそ、レーニンの予期したように、「自然発生性」にひざまずいて戦争協力にまわった脆弱な理論と思想の現実だったのである。

また、経済闘争を政治闘争に引き入れるための手段にすることもできない。経済闘争そのものに政治性を与えることは、社会民主主義的政治を組合主義的政治に低めようとすることになるからだ。レーニンによれば、改良主義者は政治闘争と経済闘争の区別がわからないばかりか、政治闘争が経済闘争より、当然に、優先することを理解しない。こういうレーニンの考え方からすれば、今度は、政治(階級)意識の序列化と、外部からもちこまれる知識の序列化が必然的におこる。いわば、政治の「裏返された官僚主義」は、スターリン主義をまつまでもなく、ここに胚胎していた。

レーニンによれば、革命的社会民主主義者は、改良のための闘争を、自由と社会主義のための闘争に従属させる、という。反対に「経済闘争そのものに政治性を与える」という場合があるが、それは、単なる組合主義的政治にほかならない。そして、政治的効果をいう場合、政治的暴露こそ、大衆の革命的積極性を培養するのに必要な基本的条件である。

また、社会民主主義者は全人民にたいして一般民主主義的任務を説き、これを強調する義務がある。前衛とか先進部隊と自称しているだけではまだ足りない。すべての部隊が見て、認めざるを得ないことが行動することである。そのためには、革命家を作るということを考える必要がある。現在は、大衆の自然発生的な高揚の時期にあるにもかかわらず、これを組織する指導者(イデオローグ、革命家、社会民主主義者)の育成がたちおくれている現状にある。そこで、経済主義や、その「手工業性」ではなく、革命的行動を組織するために、堅固な中央集権的な革命家の戦闘組織をつくる必要があると言う。

 

《大衆中の中位の人々は、ストライキや、警官と軍隊相手の街頭闘争で、巨大な精力と自己犠牲心とを発揮する能力をもっており、われわれの全運動の帰結を決定する能力をもっている。(そして彼らだけができるのである)しかし、ほかならぬ政治警察との闘争のためには、特別な資質が必要であり、職業革命家が必要である。…中略…革命家の組織は、まず、第一に、また主として、革命的活動を職業とする人々をふくまなければならない(だから私が革命家の組織というのは、社会民主主義革命家のことをさしているのである)こういう組織の成員に共通なこの標識をまえにしては、労働者とインテリゲンチャのあいだのあらゆる差異はまったく消えさらなければならず、まして両者の個々の職業の差異のことはいうまでもない。この組織は、必然的に、あまり広範なものであってはならず、またできるだけ秘密なものでなければならない。》

     『なにをなすべきか?』 レーニン著 マルクス=レーニン主義研究所訳

 

労働者大衆は、レーニンのいうこのような職業革命家をますます多く「輩出」するよう心がけなければならない。その社会民主主義派の政治闘争には、技術と知識をもった職業革命家は不可欠だからだ。手工業者を革命家に引き上げることが大切である。

この革命家の組織は秘密主義を徹底しなければならない。そして、組織の成員の範囲をできるだけ狭くする必要がある。レーニンはいう。「われわれが、労働者にも、「インテリゲンチャ」にも共通のこの職業革命家としての修業の道に労働者を駆り立てることが少なすぎ、労働者大衆や「中位の労働者」にとって何が「理解しやすいか」などという、愚かな論議によって労働者をひきもどしている場合が多すぎるのは、まったくわれわれの罪なのである。」彼は、ツァーリズムにたいして、断固たる戦闘を布告する戦闘的な中央集権的組織を作ろうとする。

もっとも秘密な機能を革命家の組織に集中することによって、広汎な公衆を目的とした多くの活動の広さと内容はかえって豊富になるという。プロレタリアートの自然発生的な闘争は、強固な革命家に指導されないあいだは、プロレタリアートの真の「階級闘争」にはならないからである。彼は、ツァーリズムにたいして断固たる戦闘を布告する戦闘的な中央集権的組織を作ろうとする。憲兵により引き抜きがひろく行われている専制の闇につつまれた党の組織の「広汎な民主主義」という言葉は、空疎で有害な概念にすぎない。民主主義にたいしては、レーニンの組織原則は、すなわち、もっとも厳格な秘密活動、もっとも厳格な成員の選択、職業革命家の訓練を対置する。民主主義は、つまり中途半端な民主主義ではない真の民主主義は、部分が全体にふくまれるように、この同志関係の概念に包まれている。

ロシア社会民主労働党は、広汎な労働者の運動を発展させる妨げになるという理由で、テロリズムを放棄した。だが、ボリシェヴィキは、ロシア独特の革命組織の方法を大いに吸収した。専制政治にたいする地下活動に欠くことのできない秘密グループは、共通の理論によって統一された党に結びつけられた。この党を中核にして、そのまわりに大衆的労働運動をうちたてることができる、と考えられた。ボリシェヴィキ党は、目的が統一されている点、確信をもっている点、義務にたいして献身的で規律がある点で、帝制官僚よりはるかにまさっていた。レーニンは、警察にまさるとも劣らないほど職業的に訓練された経験のある革命家の指導的中核体が必要だと主張して、社会民主労働党内の知識分子と激論を闘わせたが、それは決してどうでもよいことではなかったのである。このようなレーニンの革命家組織の原則は、単に、ロシアの専制体制の条件のもとでのみ限定されるものではなかった。なぜなら、レーニンの党組織論が、ブルジョア社会のすべての職業生活から自己を分離し、文字どおり一生を革命にささげる職業的革命家の集団を前提にしているからである。西ヨーロッパの社会主義政党の場合、党と党員の政治活動の自由は、すでにブルジョア民主主義の枠内で原則的にかちとられており、党は構成員の大部分がさまざまな職業生活を営みながら党活動を行う大衆政党に変わっていた。しかし、レーニンの組織論は、当初の時点で、どうしようもなく「知識」と「個人」と「階級意識」そして「大衆」の序列化を中心にしのばせてしまった。

 これは、あとあと党内民主主義の問題、党と大衆の関係、社会主義意識の観点など「スターリン主義」の問題にも影響をあたえずにはおかなかった。官僚主義はそれらの集約された結果、産まれたものであった。官僚主義は、スターリン個人の崇拝の問題でもなければ、プロレタリア住民個々人の問題でもなく、レーニンの組織原則論にその根源をおいているのは間違いなかった。

 国外の理論家や組織者のなかでは、どうしてもインテリゲンチャが多くなった。だが、レーニンは、ロシア国内の革命運動との接触を失ったものを、たえず嘲笑し、彼らに警告を発している。1915年に彼は次のように述べている。「半世紀にわたるロシア人の政治的亡命(と30年にわたる社会民主党組織)の経験によって……ロシア国内の一定の社会的階層の永続的運動によって支持されていない限り、国外でどのような宣伝や大会などをやっても、すべて無力な、とるにたらない架、空のものにすぎないことが明らかになった」。1917年には、党員の三分の二が労働者であった。

 そこで、レーニンが考えた解決法は、党内の労働者が、自らの指導者にたいして統制をくわえながら、一方では、指導者のもっている理論的知識を利用して、理論家の学識を身につけた新しい指導者を養成する、と方法であった。一方、知識人は自らの役割と限界を理解すべきであり、労働者の理論的「たちおくれ」を口実にして、彼らの前進を拒んではならないのであり、プレハーノフの言い方によれば、「ロシアのプロレタリアートのおくれた面をみて恐れをなしては」ならないのである。

 レーニンの党組織論は、統一大会に提案された「党組織の諸原則」に次のようにまとめられた。

(1)党組織における選挙制の原則は、下から上まで実施されなければならない。 

(2)この原則からそれること…は、特に規定された例外的な場合に限ってゆるされる。

(3)党組織の秘密の中核を維持し、強化することが緊急に必要である。… 

(4)党の中央機関は単一でなければならない。

こうして、第四回大会ではじめて、「民主主義的中央集権主義」という言葉、公然組織と非公然組織との結合という思想が、レーニン的党組織論の基本原則として確立するのである。レーニンの党組織論を、そして革命理論全体を変化させたのは、ほかならぬロシアの革命的大衆運動そのものであった。そして、大衆運動に学び、大衆の胸のうちの鼓動を感じとり、自己の理論をただちに、大胆に修正・発展させうる能力こそ、レーニンに求められたことであった。10月革命と内戦の後には、構造の点でも原則の点でも、西欧の社会民主党とはまったく異なる共産党(ボリシェヴィキ)だけが、国内の唯一の合法的政治団体になった。それは、政党という概念にはややあてはまらないもので、ウエッブの言い方によると、「指導職」というようなものである。

入党の条件はきわめて厳格になった。レーニンは、地下活動による自然淘汰が行われなくなってからは、無節操漢や出世主義者の流入を防ぐために、長期にわたるテスト期間と、たびたびの粛党が必要だと主張した。かりに一旦、党員になっても、自らの活動と誠実さによって、その資格を証明しないと、党員として止まることは容易ではなかった。党は高度に訓練された私心のない精力的な人々、社会主義建設を計画し、教育のない国民大衆を説得する力のある人々の団体である、と考えられた。この団体への加入は容易なことではできなかったが、党の門戸が広く開放されたことが二度ある。一度目は、1919年8月で、デニキンの軍隊が直接モスクワを脅かしていた、干渉戦の最も暗黒な時期であり、そのときには、12万人の新党員が入った。1924年のレーニンの死後には、二度目の一層、大量の新入党があった。レーニンの事業を継続しておしすすめることを誓って24万人の新党員が加入した。

しかし、社会主義と党内規律とを結合することには、実際上にはジレンマがあった。「ロシアでは社会民主主義理論が、労働運動の自然発生的成長とはまったく別個に生まれた」ということをレーニンは認めた。「それは革命的社会主義的知識人の中での思想の発展の自然的、必然的帰結として生まれたのである。」マルクス主義は労働運動の中へ「外から」もち込むことしかできない。というのは、裕福な階級の知識人でなければ、理論研究をするための教育も閑暇も便宜もなかったからである。ところが、「革命的理論なしには革命的運動はありえない」のである。ここに問題があった。19世紀のロシアのすべての革命運動は、知識人によって支配されていた。だが、20世紀に入ると、主として有産階級の出身の知識人は、自らを養っている社会制度を否定してはいたが、もはや自らの根と安定性を失ってしまっていた。革命前の知識人の一般的な無気力と不決断と「化粧着的審理」は、当時のロシアの小説によっても知られているとおりである。

 レーニンはいつも自分の出身階級に不信の念をいだいていて、知識人たちは、ロシアの資本主義的発展がもっと進んで、彼らが若いときに抱いていた革命理論をすてさえすれば、

快適で有利な地位がえられるようになれば、必ず動揺するに違いないとみなしていた。

普通、レーニンの党理論は『何をなすべきか?』と『一歩前進、二歩後退』で完成されたかのように思われているがそうではない。第二回大会(1903年7月)から第四回大会(1906年4月)までのあいだに、彼は、1905年のロシア革命の経験と、ロシアの政治的状況の変化にもとづいて、以前の見解を大胆に修正し、発展させている。まず、第三回大会ではマルトフ流の党規約第一条が修正され、第二回大会のときのレーニンの草案どおり、「党組織に加入する」ことが党員のである条件となった。そして、彼は、大会後に執筆した評論『ドイツ社会民主労働党イェーナ大会』のなかで、ドイツ社会民主党自身が、この中央集権制の原則をはっきり認めたことを確認し、この原則が、国際社会主義運動の基本原則であることを強調している。

 ドイツ社会民主党規約の党員規定の推移は次のとおりである。

(1)ハルレ大会の組織規約(1890年)

   「党綱領の諸原則を承認し、党を力に応じて支持するものは、すべて党に属するものとみなされる。」

(2)マインツ大会の組織規約(1900)

   「党綱領の諸原則を承認し、党を経済的に金銭によって支持するものは、すべて党に属するものとみなされる。」   

(3)イェーナ大会の組織規約(1905年)

   マインツ大会と同じであるが、次の規定が党組織の条項に挿入された。

   「社会民主同盟は、すべての帝国議会選挙区において組織の基礎である。選挙区に居住するすべての党員は、やむをえない事情がさまたげないかぎり、同盟に所属せねばならない。」

(4)ケムニッツ大会(1912)

   「党綱領の諸原則を承認し、党組織の構成員となるものは、すべて党に属する。」

 ここからわかるように、ケムニッツ大会の規約は完全にレーニンの規定と一致した。

 次に、第三回大会では、たがいに他に従属しない二つの中央機関(中央委員会と中央機

関紙編集局)という第二回大会でのレーニンの立場が変化して、単一の中央委員会がただ

一つの中央機関として認められた。レーニンはかつて、ロシア国内で実践的任務を指導す

る中央委員会と、国外で理論的指導を行う編集局という二元的体系を考え、実質的指導部

をむしろ後者においていた。トロツキーによれば、彼が第二回大会以前にレーニンにたい

して、中央機関は中央委員会に服従せねばならない、と述べたとき、レーニンはこう答え

たという。

「それはうまくない。いったいどうしてかれら(中央委員会)は、ロシアからわれわれを指導しようというのか?それはうまくない。われわれは安定した中心であり、われわれはここから指導するだろう。」

 しかし、ロシアの同志たちは、指導部の統一を強く要求した。『イスクラ』がメンシェヴィキの手に渡ったことは、一時、中央委員会にたてこもったレーニンにも、中央機関の統一についてあらためて回答を迫るものとなった。第三回大会直前から、大会までのレーニンの発言をみると、レーニンは、かなり迷いながら、単一の中央委員会という思想に接近していったことがよくわかる。レーニンはその頃、次のようなことを言い出した。「在外の同志諸君にたいして、ロシア国内の同志諸君が優位をしめることは、党のその当時の発展水準ではまだ問題があると思われていた。第二回大会後には、なかならぬ在外編集局が確固さを欠いていることが分かった。これに反して、党は成長した。ほかならぬロシア国内で、疑いもなく、いちじるしく成長した」。

 こうして、第四回大会で中央委員会が編集局を任命するという組織原則を出したのは、ボリシェヴィキの側であって、メンシェヴィキはこれに反対して、この案を否決したのであった。革命家の組織には選挙の原則はありえないという『なにをなすべきか?』の見解も、第三回大会で修正された。革命の進行によって、合法的活動の場が広がったとき、レーニンは、ただちに『党の再組織について』提案を行い、選挙原則の適用(中央委員などは全党員の代表によって選ばれる)を要求した。職業革命家の秘密的集団というかつての党の規定は、大衆運動がおし広げた政治的自由の条件下のもとでは、時代おくれになりつつあった。同時に革命の進展に応じて、ボリシェヴィキはメンシェヴィキに統一の呼びかけをしついに、1906年4月スウェーデンのストックホルムで第4回(統一)大会が開かれた。大会には57の組織を代表する134名の代議員が出席した。代議員の過半数がメンシェヴィキに占められたところにも、統一についてのレーニンの柔軟な態度がよく現われている。

 レーニンの党組織論は、統一大会に提案された「党組織の諸原則」に次のようにまとめられた。

(1)党組織における選挙制の原則は、下から上まで実施されなければならない。 

(2)この原則からそれること…は、特に規定された例外的な場合に限ってゆるされる。

(3)党組織の秘密の中核を維持し、強化することが緊急に必要である。… 

(4)党の中央機関は単一でなければならない。

こうして、第四回大会ではじめて、「「民主主義的中央集権主義」、公然組織と非公然組織との結合という思想が、レーニン的党組織論の基本原則として確立するのである。レーニンの党理論を、そして革命理論全体を前進させたのは、ほかならぬロシアの革命的大衆運動そのものであった。

当時、ロシアを激動させた重大な経済恐慌が猛威をふるいはじめていた。ストライキ、デモ、農民運動が頻発した。それだけに、『イスクラ』とレーニンの論文の意味が大きくなってきていた。1901年5月の『イスクラ』第4号に論文『なにからはじめるべきか?』と小冊子『なにをなすべきか?』の草稿が発表された。これらによって、レーニンは、人民大衆の運動ならびにプロレタリアートの運動を効果的に指導しうるマルクス主義政党が必要であることを提起した。革命の教育家になったレーニンは、この理論に満足せず、将来の党幹部を訓練し、ロシアに残留していたすべての活動家と文通し、全組織を手中に掌握していた。レーニンは、党の単なる指導者ではなく、「党の創始者」であった。

『イスクラ』をミュンヘンで印刷し続けることは、印刷所の所有者が危険を感じ始めたため、むずかしくなった。プレハーノフとアクセリロードは、スイスに移すことを主張したが、レーニンたちはプレハーノフの近くに移ることを好まなかった。『イスクラ』はレーニンの主張どおり、ロンドンで発行されることになった。

社会民主党の第二回党大会が、絶対に必要になった。プレハーノフの起草にかかる綱領草案は、レーニンには気にくわなかった。プレハーノフの綱領は、経済的視点からみれば、資本主義の間接の弁護論、経済発展に関する入門書、概説書にすぎず、小生産者の零落、大衆の窮乏化という社会的側面を隠蔽しているとレーニンは批判した。また、政治的視点からすれば、民主主義革命におけるプロレタリアートの指導的役割、また、社会主義への移行のためのプロレタリアートの独裁の必要性を見落としていた。つまり、プレハーノフの綱領は、プロレタリアートとその固有の目標を「勤労大衆のなかに解消」していたのである。レーニンがプロレタリアートの政治闘争とプロレタリアートの独裁を強調していた時期においては、民主主義革命は社会主義へむかっての一歩前進とならず、権力を自由主義者にあたえる恐れを生じることになり、むしろ農民との同盟に関する命題を再び提起した。彼は、農業問題を全世界的視野のなかで研究し、厖大な参考資料を蒐集し、現出しているいっさいの事態に検討を加えた。

こうして、ロシアの社会民主労働党の内部では分裂が不可避になり、古いナロードニキ主義の延長にあった「社会革命党」の創立(1902年はじめ)とあいまって、差し迫ったものになった。

1902年の4月から1903年の4月まで、レーニンとクループスカヤはロンドンに移った。ここには、先に戦友のエヌ・アレクセーエフが亡命していて、マルトフとヴェラ・ザスーリチもやがてやってきた。ロンドンでは、警察が書類の照合をやかましくいわないので、好都合だったのである。彼らはそこで、リヒター夫妻と称して、トテナム・コート・ロードはずれのホルフォード・スクェアの30番街の二間つづきの殺風景な部屋に、誰にも邪魔されずに住むことができた。家主のイェオ夫人は、クループスカヤが結婚指輪をはめていないことに好奇心をよせたが、名誉毀損になるとおどされて、口をつぐんだ。レーニンとクループスカヤは英語がうまかったが、それはシベリアにいたときにウェッブの『労働組合運動史』を翻訳したほどである。

それでも会話となると、はじめのうちは人のいうこともわからなければ、自分のことをひとに伝えることもうまくいかなかった。そこで、二人は語学の勉強のためとおもって、ハイド・パークの集会にでかけたり、教会や音楽堂や酒場へよくいった。のちにレーニンは、語学の交換教授をしたこともあるぐらいになった。レーニンの主な仕事は、ハリー・クェルチとイギリスの社会民主主義者の助けによって、印刷されていた『イスクラ』の編集をすることであった。だが、彼は、大英博物館の読書室で、かつてカール・マルクスがそうしたように、多くの時間を過ごした。大英博物館はカール・マルクスが毎日のように通って、『資本論』の材料をあつめたところである。

彼はロンドン中いたるところを歩き回った。彼が好んで訪れたのはハイゲート墓地のマルクスの墓で、ついでロンドン全体がみわたせるプリムローズ丘にのぼり、それからリーゲント・パークへもどって、動物園へ行った。彼はバスの二階に乗って長い間、街をのりまわすのも好きだった。それはロンドンの風景を眺めるというよりも、そこに住んでいる人々の生活のあり方を観察するためでもあった。彼は「二つの国民」というディズレーリの言葉をよく口にした。彼とクループスカヤは、何人かのイギリスの社会民主主義者とも会ったが、彼らのあいだからは、19世紀前半のチャーチストがもっていた革命的気風はすっかり影をひそめ、狭い改良主義と俗物的日和見主義とがはびこっていた。

1902年の10月のある朝、レーニンと彼の妻はドアを三度ノックする(亡命者の訪問のサイン)音に起こされた。入ってきた22歳の青年はシベリアから脱走のいきさつ、獄中でレーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』を読んだ感激などを、息つく間もないほど早口にしゃべった。「ペロー」(ロシア語のペンの意)と名乗ったこの人物は、ユダヤの農家に生まれ、ナロードニキからマルクス主義に転向したのち捕らえられ、いま東シベリアの流刑地から脱走してきたレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュタイン(1879~1940)と名乗った。のちのトロツキーその人であった。

お喋り好きのマルトフは、ロンドンの霧と地味な『イスクラ』編集がいやになって、パリへ逃げ出してしまった。レーニンは、トロツキーがただちに気に入って『イスクラ』編集局員に彼を推薦したが、プレハーノフの反対で、このプランは駄目になってしまった。プレハーノフは、さらに、『イスクラ』編集局員が、ロンドンとスイスに分かれているのは無意味であるという、もっともな理由をつけて、発行所のジュネーブ移転を提案した。反対したのはレーニンただひとりだった。こうしてレーニン夫妻は1903年5月にロンドンを出立して、ジュネーブに向かった。

 

8 メンシェヴィキとの闘い

 

 この時期、ロシア資本主義が飛躍的に発展した。まさに、ロシアの革命運動が、大衆的基盤の上に新たに組織しはじめられる時期に当たっていた。レーニンはすでに、ツァーリの権力を打倒する革命の基本的方向と、労働者の政治組織の必要性を提示していた。

ジュネーブでは、レーニンは、目前に迫ったロシア社会民主労働党第二回大会の準備に、ロシア国内の『イスクラ』派と連絡しながら、最後の努力を続けていた。この大会は、1903年7月17日にブリュッセルで開かれた。この大会は党創立を宣言するに終わった1898年のミンスクの大会とちがって、党の綱領や一般組織規約を決定し、党中央機関紙の創刊または承認を取り決め、中央委員会と中央機関紙の編集局を選挙する、事実上の創立大会になるはずだった。

大会には26の組織を代表する57名の代議員(うち議決権をもつもの43)が参加した。6組織=9名のミンスク大会とくらべると、これでも飛躍的な前進にちがいなかった。議長のプレハーノフが、荘重な言葉で開会を宣すると、感動の渦が場内をゆるがした。

代議員の構成は、票数からみれば、イスクラ派33、中間派10、経済主義者と「ブンド」8であった(1人で2票もつものがいた)。大会は、最初から波乱気味だったが、レーニンと『イスクラ』派の方針は順調に大会の承認を得た。一番長い時間をかけたのは、綱領草案で、プレハーノフが起草したもので、レーニンには不満だったところである。しかし、レーニンは大局を考えて、はじめからその支持に回り、1名の棄権を除いて全員が賛成した。

ところで、綱領討議の最中に、ベルギー当局の干渉にあり、『イスクラ』派のローザ・ゼムリャーチカを国外追放にし、他の数名にも退去命令が出されたので、大会は中断され、ロンドンに会場を移して続行された。しかし、ロンドン大会では、相反する意見や対立が主導した。出席した多数の代議員には重苦しい雰囲気が支配したが、レーニンにとっては、この公開の討論は中身の重い問題や傾向を含んでいた。地下活動においては、単なるおしゃべり屋と、真の活動家とをみわけることはほとんど不可能である。ところが、世界中で、ロシアほど、この二種類の人間がよく混同されて、そのためにひどい混乱と損害をまねいている国はほかにない。インテリゲンチャだけでなく、労働者階級のなかにまで、この弊害があらわれているので、われわれは非常な損害をうけているのだが、レーニンから見ると、第二回党大会においてマルトフの提案した条文は、これを合法化するものである。たとえ10人の真の活動家が党員という称号をもたないことになったとしても、ひとりのおしゃべり屋に党員になる権利と機会を与えない方が、まだましだとレーニンは考えた。

レーニンがはじめて敗北の味を知ったのは、党規約第一条の党員の定義をめぐる審議の際だった。亡命者グループの代表は、西欧型の社会民主党を擁護し、これまで、プレハーノフやレーニンに協力して『イスクラ』の編集にも参加していたものからさえも、思いがけない異見が出た。内容は、経済分析や政治綱領の問題よりもむしろ組織問題について、政治論戦が展開された。レーニンとマルトフが激しく論争し、『イスクラ』派が割れた。

そこで、党規約第一条の討議のなかで、論点が徹底的に検討された。のちにボリシェヴィキと呼ばれるようになったレーニンとその他の人々は、党の綱領を承認して、党員としての資格を「党の綱領を承認し、物質的手段によって、また、党組織の一つにみずから参加することによって、党を支持する者」と規定しようとしたところ、これにたいして、のちにメンシェヴィキと呼ばれるようになったマルトフとその他の人々は、この条文を「党組織のひとつの指導のもとに協力する者」という緩い規定にしようとして対立したのである。『イスクラ』を中心にした結集した党員の多くと、それに反対する党員が、組織問題や、戦術問題で論争した。

その当時、これは比較的些細な相異のようにおもわれたが、実は、その背後に、組織についての二つの全く異なる考え方の闘争がひそんでいた。レーニンのこの思想が、『なにをなすべきか?』のなかで展開された意識性と自然発生性の問題、革命家の組織と大衆組織の区別にもとづいていることは明らかだった。レーニンの側からみれば、マルトフの草案によれば、党組織に加入していない単なるストライキ参加者や、社会民主党支持の大学教授も、自分は党員であると言明することができることになり、「階級の先進部隊」と階級との混同、党の大衆団体への解消を招くことになる。そして、マルトフの周囲の日和見主義者たちは、党員になる資格は、党綱領を承認し、党費を納入することだけで十分であると考えているようにみなされた。レーニンの『イスクラ』派は、党員は党の組織内または党に指導される組織内で実際に闘わなければならない、という条件を強く要求した。レーニンは断固として次のように主張した。「おしゃべり屋が一人党員になる権利をもつよりも、10人の活動家が党員と名乗らないほうがよい(真の活動家は肩書きを追い回さない)」

プレハーノフはレーニンを、アクセリロードとトロツキーはマルトフを支持し、『イスクラ』派ははじめて二つに割れ、採決の結果、マルトフ案が28対22で通過した。この実践上の問題をめぐって、このときから、『イスクラ』派は、レーニン、プレハーノフ、クループスカヤはじめ9名の多数派(ボリシェヴィキ)と、マルトフ、アクセリロード、ザスーリチ、ポトレーソフ、トロツキーら7名の少数派(メンシェヴィキ)にわかれ、その分裂は次第に深まっていった。 

両派の決定的な対立は、党の中央機関の構成と選挙の問題で、ついに頂点に達した。レーニンは、新しい党の中央諸機関として、3名の中央委員会と3名の中央機関紙編集局、そしてこの二つの機関から2名ずつと、もう1名の計5名からなる評議会を考えていた。専制ロシアにおける党の非合法活動の条件を考慮に入れて、彼は大会の前年のレヴィンあての手紙で「党組織(基本原則。たがいに他に従属しない二つの中央機関(イ)中央機関紙-思想的指導。国外におく?(ロ)中央委員会-ロシア国内におく。実践的指導全体。両者は定期的に、また、頻繁に会合し、ある種の相互参加権、ときには相互補充権をもつ。)」と書いてある。

この原則は大会前日に議事日程に明示されていたが、衝突が起こったのは、とりわけ3名の中央機関紙編集局の構成についてだった。この人数では、アクセリロードやザスーリチなどを残す余地が当然なくなる。中央委員会はロシア国内で活動するのだから、ましてそうである。事実、レーニンは、中央機関紙の効果的運営のためには、私情を離れて、つねにプレハーノフに盲従するこの二人の長老をはずす必要を感じていたのだ。この無慈悲な方針にたいして、マルトフ、アクセリロード、ザスーリチと結んでいた若いトロツキーが反発した。大会は、編集局を改編する道徳的権利も政治的権利ももたない。これはあまりにもデリケートな問題である、と彼は主張した。「われわれの党規約の全体、われわれの中央集権主義全体は、政治的あいまいさの非常に数多い源泉にたいする戒厳状態にほかならない」とやりかえした。

『イスクラ』を追われたアクセリロードとザスーリチも、やはりひどく憤慨し、悲しんでいた。しかし、マルトフら『イスクラ』派のメンシェヴィキに同調した経済主義者や「ブンド」は規約の審議のときにすでに大会から退場していたので、旧編集局全員をそのままとどめるという提案は19対17、棄権2で否決され、引きつづき行われた選挙によって、新しい『イスクラ』編集局員には、プレハーノフ、レーニン、マルトフの三名が、中央委員会にはレーニン派のレングニク、グレボフ、クルジジャノフスキー(いずれもペテルブルグ「解放闘争同盟」の旧メンバー)の三名が選ばれた。

こうしてレーニンらは、かなりきわどい小差ではあったが、大会多数派となり、中央諸機関の多数を占めることになった。ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの対立は、こうして第二回大会にはじまり、以後、10月革命にいたるまで、この両派の闘争は、しばしばそのメンバーを入れ替えながら、ロシアの革命運動史の流れをつくっていくことになる。

この選挙のあと、マルトフは、ひどく興奮して、「……わたしは三名の同志(アクセリロード、ポトレーソフ、ザスーリチ)とわたし自身の名において、われわれはひとりも委員会にははいらないことを宣言します。……わたしは編集部の同僚と同じように、この大会は党を支配するか戒厳状態を解いて、正常な状態に返すものと思っていました。実はまったく左にあらず。戒厳状態は特定のグループにだけ例外法を許して、ひとえに期待されるのみならず、それを強化されたのであります」と述べた。会場は両派の怒号でわきたった。同じように興奮していたレーニンも、「党内の戒厳状態だとか、個々の人物やグループにたいする例外法などといった、恐ろしい文句は少しもわたしをおどろかさない」この規定問題では、レーニン派は敗北したが、大会最終日の役員選挙の際、レーニン派が多数派になり、マルトフ派は少数派になった。この対立から、「ボリシェヴィキ(多数派)」と「メンシェヴィキ(少数派)」の分裂が始まっている。レーニンは、分裂騒ぎをおこしたロシア社会民主労働党第二回大会の後、1904年5月メンシェヴィキを攻撃したパンフレット『一歩前進、二歩後退』を書いた。

メンシェヴィキは、議会主義的政党の立場から、ものごとを考えていた。議会主義政党というものは、党員にたいする要求を最小限にとどめることによって、最大限に多くの有権者によびかけようとするものである。だが、1903年のロシアにおいては議会もなければ、有権者もいなかった。当時のこのようなロシアの条件のなかで、むやみに西欧型の党を擁護するものは、「教授や大学生」の支持を得ることをねらったものだとレーニンは言っていた。しかし、教授や大学生は、地下活動を行うためにどうしても必要な規律に決して従わないのである。ボリシェヴィキのねらいは、「新しい型の党」をつくりだすことにあった。つまり、各党員が自分たちの基本目的について完全な理解と同意によって統一されていて、必要とあらば、命令一下、全員がこの基本目的の実現のために働く用意があるような党である。「少数精鋭主義」、「伸びんがためには屈せよ」というのが、レーニンの譲れないスローガンであった。

トロツキーによれば、アクセリロードはすでに『イスクラ』が出た直後に、レーニンについて「いったいどこから突然こんな自信が生まれたのだ?」と腹立たしげに書いていた。「かれが外国にきてからそんなにながくないし、かれは生徒としてやってきて、生徒としてふるまっていたのだ。いったいどんな蚊がかれを刺したんだろう?」だが、アクセリロードのこの先輩意識も、個人的なものと政治的なものとをきびしく区別するレーニンには通じなかった。やはりトロツキーによれば、プレハーノフがレーニンと同盟したことについて、アクセリロードが激しくかれを責めたてたときに、プレハーノフはこう答えたという。「ああいうパン粉からロベスピエールのような人物がつくられるのです」。レーニンは、旧友マルトフ、ネポトレーソフともこうして対立した。

人一倍鋭敏な神経と、細やかな感情をもつレーニンは、親しい人々と政治的にたもとを分かたねばならなかったとき、しばしばひどい不眠症に襲われた。自分が傷を負わぬために人を切らないもの、なれあいと打算とで、世渡りしている「幸福な」市民たちと彼と、はたしていずれが人間的といえるのかは、分からない。のちにトロツキーは、第二回大会でのレーニンとの訣別を次のように回想している。

 

《ようやくにして党創立の入口にたどり着いた古参同志たちをこのように無慈悲に切り捨てることに、私の全存在が反発した。私が感じたこのような憤激から、第二回党大会におけるレーニンと決裂が生じたのである。彼のとった措置は、許しがたく、醜悪で、言語道断であるように思われた。だが、実際にはそれは政治的に正しく、したがって組織的にも必要なものだった。準備期に沈殿してそこから抜け出せない古参派との決裂は、いずれにせよ避けられないことだった。レーニンはこのことを他の者よりも早く理解していた。…私とレーニンとの決裂があたかも「道徳的な」、それどころか個人的な理由にもとづいて起こったかのように見える。だがそれは単なる外観にすぎなかった。実際には、分裂の理由は政治的性格をもったものであり、それが組織の分野で噴出したにすぎなかった。》

                    『わが生涯』 トロツキー著 森田成也訳

 

そして、レーニンは別れたときにだけ感傷にふけり、たちまちそれを忘れてしまえる器用な人間ではなかった。クループスカヤは、そのあたりの微妙なレーニンの内面を次のようにとらえている。「……晩年になって、もう死ぬすこし前に、かれはアクセリロードについてわたしにたずねた。カーメネフに電話でかれのことをたずねるようにたのみ、注意深くいきさつを聞いていた。……『マルトフも死にかけているのだって』、とウラジーミル・イリイッチは口がきけなくなる少し前に、わたしにいった。かれのことばには、なんだか柔らかいひびきがあった……。」

第二回大会以後、レーニンは『イスクラ』編集局への一切の協力を拒否するマルトフたちと粘り強い交渉を行い、意見の対立が組織の分裂をまねかないように様々な努力を重ねたが、マルトフは応じなかった。それにひきかえ、西欧の議会政党は、多数の個々ばらばらの人間のよせあつめであって、単一の意志をもった有機的組織ではない。それは、ブルジョア社会の孤立分散的構造には似合っているが、労働現場の仕事にはふさわしくない。工場の規律と組織は、技術的に高度に発展した生産条件のもとで組織された集団労働に基礎をおくものであって、レーニンは、中産階級分子が、これを自分の模範にするべきだと言った。

 マルクス主義は西欧の産物である。マルクスとエンゲルスは、レーニンが述べたように、ドイツ哲学とイギリス経済学とフランス政治思想の遺産をあてに、当時の産業文明を分析するなかから、自らの理論を展開した。西欧の有力な社会主義政党の指導者にうれいれられなかったこの理論が、議会的民主主義とはまったくちがった民族的伝統をもっている革命家グループに採用されたことは、ロシア革命の最大のパラドックスのひとつである。

 だから、1903年のボリシェヴィキとメンシェヴィキとの紛争は、組織と戦術についての二つの意見の単なる衝突ではなかった。レーニンはロシアの特殊な条件にマルクス主義を適用することを、自分の一生の事業にした。レーニンのなかで、二つの世界が合流していた。すなわち、ロシア人の生活上の必要から生まれ、帝制国家の構造によって形づくられた、民族の革命的伝統と、科学的社会主義、つまり、レーニンがマルクス主義にもとづいて行った、一定の条件のもとでの階級的諸力の周到な分析とが、統一されたのである。レーニンのなかで合流し、1903年にボリシェヴィキがはっきりと表現したこの二つの伝統、つまり、ロシアの革命的伝統とマルクス主義の伝統は、いずれも、亡命知識人たちが、不向きなロシアの風土に移植しようと試みた議会主義的伝統とは、あまりにも共通点がなかった。

1903年10月13日に、ジュネーブで「ロシア革命的社会民主主義在外連盟」第二回大会が開かれたが、メンシェヴィキは、この大会をボリシェヴィキ追及の舞台にしようとまちかまえていた。レーニンは、連盟の大会の前に、考えごとをしながら自転車に乗っていて、電車にぶつかり、もう少しのところで目をつぶすところだった。包帯を巻いて、蒼白い顔をして連盟の大会へ出かけていった。メンシェヴィキは、激しい敵意をもって彼を攻撃した。激しく机をたたいて立ち上がった、ダン、クロホマリ、その他の人々の激怒した顔が思い出される異常な場面であった。翌日、レーニンは連盟大会から退場したが、このころからプレハーノフは、マルトフら旧『イスクラ』編集局員をいれることによって、メンシェヴィキと和解しようと言い出した。はじめ、『イスクラ』派とレーニンを支持していたプレハーノフが態度を豹変したのだ。『イスクラ』紙はプレハーノフが指導していたため、分裂さわぎのため、レーニンは起草委員会を退かねばならなかった。大会で『イスクラ』主義が勝利をおさめ、メンシェヴィキを制圧したものの、メンシェヴィキの『イスクラ』になることになった。その結果、メンシェヴィキは名称が示すとおり少数派であったにもかかわらず、『イスクラ』紙を占領するにいたったからである。

レーニンは11月に中央委員に補充され、中央委員会を足場にして闘う体制を固めた。彼は、一時、「革命的手段によって、中央委員会が中央機関紙をその手に収める」ことを考えたが、その後、ただちに、新しい大会(第三回大会)によって決着をつける道を選んだ。ジュネーヴには、「分裂」をなげき怒るロシアの同志たちの手紙が続々と舞い込んだ。亡命者のあいだでは孤立していたが、彼にはロシア国内の『イスクラ』派があった。しかし、第二インターナショナルはメンシェヴィキを支持していた。

1904年5月、彼は第二回大会の経過を綿密に分析し、メンシェヴィキの主張に根底的な批判を加えた労作『一歩前進、二歩後退』を発表した。レーニンはこの書で組織問題におけるメンシェヴィキの見解を批判し、新しい型のプロレタリア党の組織原則、党生活の規範、党内民主主義、鉄の規律、集団指導の原則を打ち立てた。このとき、レーニンは多数派ボリシェヴィキの名において、少数派にたいする闘争を開始していた。新しい党大会の召集を要求するレーニンと、他の中間派的中央委員との矛盾は次第に激しくなった。

7月に、レーニンは中央委員会に辞表を送った。8月初め、レーニンは、スイスで22名のボリシェヴィキの会議を開き、第二回大会の決定に基づいて、党の革命的統一をかためる新しい党大会の招集を全党に訴えるアピールをだした。それから1か月の間、彼は、クループスカヤと二人きりで、疲れた神経を休めるために、アルプスの山々をめぐって袋を背負って歩き回った。アルプスの清冽な雪と氷は、彼らの燃える神経を、つめたく、ここちよく癒してくれた。風雪に耐えて聳え立つ雄峰の姿は、レーニンの決意を励ました。

だが、救いはロシアからやってきた。党大会の招集を要求する闘いは、ロシア各地で進んでいた。中央機関紙もなく、しかも中央委員会と対立して、大会は、ロシアの力でかちとらなければならない。

1904年12月には、『フペリョード』(前進という意味)紙を創刊した。彼のまわりにはボグダーノフ、ルナチャルスキーらの新しい執筆陣が加わった。

ベルンシュタインやドイツの「修正主義者」の社会民主主義は、ストルーヴェのイギリス式の自由主義とおなじく、ロシアでは全く場違いであった。移植するための社会的な根がなかったのである。国外ではメンシェヴィキが優勢であったが、ロシア国内の地方の党委員会の大半はボリシェヴィキであった。主要な労働組合もやはりそうであった。

 こういう対立があったから、当時はまだ多数の党派のなかのひとつにすぎず、外見上はメンシェヴィキより目だって強力には見えなかったが、理論がひとたび実践のなかで試されるようになると、ボリシェヴィズムがいっさいの遮蔽物をおし流してしまった。

 一見すると、両者の相違は組織上の些細な違いに見えるが、実質的には、党の戦略や戦術に関する論争に結びついていたのである。このことは、1905年の革命のときの行動によってはっきり映し出した。当時、レーニンは、この段階で、民主主義にも二通りあると考えていた。すなわち、大ブルジョアジーの民主主義は、中途半端な民主主義であり、人民の民主主義は労働者と農民のもので、この人民の民主主義こそ徹底した民主主義である。この労働者と農民の民主主義を実現して、それから社会主義に近づこうというのがレーニンの考え方だった。メンシェヴィキは、このような区別をみず、一般的な民主主義、つまりブルジョア民主主義の実現をめざしており、社会主義ははるかかなたにあるべきものであった。

したがって、メンシェヴィキはブルジョア革命においては、自由主義者が主たる推進力になるべきであって、社会民主主義者は、自由主義者を反動の側に追いやるようなことをせず、自由主義諸党が、立憲的改革をかちとる援助をするだけに止まるべきであるとした。これにたいして、ボリシェヴィキはブルジョア民主主義革命でさえも、社会の「下層」からのつきあげがないかぎり、ブルジョアジーだけでは完全に遂行できないという思想を、マルクスとエンゲルスから受け継いでいた。だから、レーニンと彼の支持者は、独自の立場から革命を指導して、同盟者としての農民の援助を求めようとした。闘争が進むにつれて、この戦術の正しいことがすぐに明らかになった。

1906年には憲法が認可されたが、2年たらずのうちに、選挙有権者の資格が非常に狭められたので、国会議員の選出においては、1名の地主が都市労働者5名分以上の力を持つということになった。このようにして、この時点では、労働者階級の党が選挙をとおして、権力を手に入れる見込みはまったくなかった。実際、国会の権限がひどく制限されていたので、1917年3月に自由主義諸党が権力につく前にさえ、もうひとつの革命が必要であった。

 この1905年の革命のあと、はじめメンシェヴィキはカデットの政府を支持し、後にはドイツとの戦争を続けるために、カデットや社会革命党との連立政府に参加した。ボリシェヴィキは政府と戦争に反対し、1917年10月の第二革命を指導した。そして、この10月革命によってメンシェヴィキはおしのけられてしまった。1918年1月になっても、まだ、メンシェヴィキの代表は、これはブルジョア革命だといい「労働者大衆がどんな社会的成果を達成しても、資本主義的秩序の基盤をかえることはできない」のだから「社会主義的実験」は、経済の瓦解のもとになるだけだと述べた。メンシェヴィキの指導者は、このように、自らの政治的破産を大げさに告白して以降は、白衛軍の助手になって、外国の銃剣の助けをかりて、ボリシェヴィキの「社会主義的実験」の不可能を証明することに力をつくし、やがて歴史の舞台から消えていった。穏健な改革をなしとげるためにさえ、革命が必要な場合には、ボリシェヴィキ流の党概念の方が、全く異なる条件のもとで、西欧の見本を丸写しにしたメンシェヴィキの概念よりも、はるかにロシアの実情に適していたことは、疑いない。

レーニンはのちに、1903年から1917年までの期間は、マルクス主義をロシアの条件に適用するための実験の期間であった、と言明した。つまり、それは、世界のどこにも比類のないほど豊富な経験である。なぜなら、この革命的経験、急速にめまぐるしく変化するさまざまな運動形態-合法活動や非合法活動、平和的活動や嵐のような活動、地下活動や公然活動、小さいサークルや大衆的運動、議会活動やテロリスト活動-に多少とも似かよった経験をこの15年間に経験した国は他になかった。このような短い期間に、かくも豊富な各種の闘争形態、種類、方法が集積された国は、他に類例がなかった。しかも、この闘争たるや、近代社会のあらゆる階級をまきこんだ闘争であって、その上、国の後進性とツァーリズムの重圧のために、この闘争はまれにみるほど急速に成熟し、西欧の政治的経験にもとづく「結論」を熱心に吸収同化したのである。

 この試練の時期に、ボリシェヴィキが競争相手のどの党よりも、ロシアの現実に合致した政治哲学と現状分析を発展させたということは、ボリシェヴィキが1917年革命の数か月間に、あのようにやすやすと他のいっさいの政党をおしのけてしまったことからみて、明白である。また、ドイツでは1918年11月以降、敗戦と社会革命というかなりよく似た条件があったにもかかわらず、数百万の党員をもっていたドイツ社会民主党は、情勢を正しく判断して、一致した積極的な革命的政策をうちだすことができなかった。

 1917年のロシアにおいては、ボリシェヴィキが現実に精通していたということが、まさに決定的であった。党は、自らが何を欲しているか、いろいろな段階において各種の社会層にたいしてどういう具体的な譲歩をすべきか、大衆と党と大衆自身の行動によっていかに説得すべきかを正確に知っていた。各級の党組織ははっきり予見されている究極の目的をしっかりと強力に追求する一方で、個々のかけひきにおいては大いに柔軟性のある行動をとることをゆるされていた。だから、メンシェヴィキと社会革命党が、固い現実にぶつかっては、彼らのこの上ない雄弁も一向に役にたたないことを暴露して、大いに信用を失したのに反して、ボリシェヴィキだけが、権力を奪取してこれを保持できるほど、追随者の信頼をかちえることができたのである。

レーニンは言う。「知識人はわれわれがすでに知っていることについてはなるべくいわないようにして、われわれの知らないこと、工場や労働組合の経験からはどうしてもわからないことを、もっとたくさんいうようにしなければいけない」。そして、ひとたび「真の党が創立されたら(1903年以後)、階級意識のある労働者は、プロレタリアの軍隊の兵士の知性と、無政府的言辞をふりまわすブルジョア・インテリゲンチャの知性とを、見分けることを習得しなければならない。階級意識のある労働者は、一般の平党員だけでなく、『最高の地位にある人』も同様に、党員の義務をはたすべきだ、とあくまでも主張することを習得しなければならない。」とした。この最後の言葉は、メンシェヴィキの指導者に向けた言葉であった。

メンシェヴィキは1903年の大会において、規約第一条についての自説をおし通したにもかかわらず、その後、右翼グループが脱党したので、ボリシェヴィキがゆるぎない多数派になっていた。メンシェヴィキは多くの決議を受け入れることを拒んだから、それ以後は、この二つの分派が時たま協力したこともあるとはいえ、事実上は、二つの別個の党派になった。最後には1912年になって形式的にもはっきり分裂した。

ロシアの党組織・戦術から全くはなれたところから、ローザ・ルクセンブルグは、ドイツ社会民主党の機関紙『ノイエ-ツァイト』に『ロシア社会民主党の組織問題』という論文を発表して、レーニンの『一歩前進、一歩後退』を批判した。

 ローザによれば、レーニンのこの著作は、「ロシアの党の超中央集権的な方向を組織的に表現している。」その根本原理は、一面では、自覚した革命家たちを、彼らをとりまく未組織の革命的環境から分離することにあり、多面では、党の中央委員会が党のあらゆる地方組織のメンバーを決定したり、また自由にそれらを解散させたり、再組織したりする権限をもつところにある。レーニンは、革命的釈社会民主主義を「階級意識あるプロレタリアートの組織と不可分に結ばれたジャコバン主義者」といっているが、しかし、ジャコバン-ブランキスト型の組織と社会民主党の組織のちがうところは、「確固たる党活動家へと組織された階級意識あるプロレタリアートの中核とすでに階級意識にとらえられ、階級的啓蒙の過程のなかにおかれている周辺層との間には、絶対的な隔壁は設けられないこと」にあるとした。

社会民主党は、労働者階級の組織と結合されているのでなく、労働者階級それ自身の運動なのである。1896年のペテルブルグのストライキ以来のロシアの運動の最もみのりゆたかな戦術的転回は、運動そのものの自然発生的産物であったし、「これと同じ現象、すなわち戦術形成に際して、党の諸指導の意識的イニシアティブが僅少の役割しか果たさぬことは、ドイツはもちろん、あらゆるところで、見出される」。ところが、党指導部に絶対的権限が与えられるならば、それを党活動が逆に制限し、しめあげてしまうことになる。

 こうして、ロシアの労働運動を、全知全能の一中央委員会の後見によって、その失策から守ろうとする努力は、ローザによれば、ナロードニキ以来のあの「主観主義」以外のなにものでもない。そして、彼女は、次のような象徴的な言葉を述べている。

「現実に革命的な労働運動が現実のなかで行う誤りは、歴史的には、最上の『中央委員会』の完全無欠にくらべて、はかりしれぬほどみのりゆたかで、価値多い」。このローザの見解のなかには、大衆運動それ自身がもつ革命性と創造性にたいする、そして革命の必然性にたいする、彼女の限りない信頼と確信がはっきりと浮かび上がっている。ローザは、ベルンシュタインへの批判も、この観点から行ったのである。この場合、ローザにおいては、大衆運動自身の革命化と革命の必然性を認めることは、資本主義の自動的崩壊の理論を認めることと不可分に結びついていた。ローザは、ベルンシュタインが社会民主党の綱領を修正するに当たって、まず、資本主義崩壊の理論を放棄することをもってはじめたことを認めた。しかし、このブルジョア社会の崩壊ということは、科学的社会主義の礎石を取り除くことを意味することだから、ベルンシュタインは、全社会主義理論の崩壊を招かざるをえなかった。

 だから、ローザにとっては、政治闘争は、この崩壊という結論を「徹底的におしすすめる」ものとなる。そして、革命の戦術的側面は、党の指導機関がそれを与えるのでなく「大衆がそれをする」のである。資本主義発展の諸法則とその必然性、資本主義的諸矛盾の激化が革命的情勢を導くという見通しについては、その法則の理解のちがいをひとまずおくならば、レーニンはすでに、『ロシアにおける資本主義の発展』において証明している。しかし、たしかに、レーニンは大衆の自然発生性にたいして、ローザのような楽天的信頼を抱いていなかった。彼にとっては、大衆の自然成長性にひざまずき、地方的な経済闘争の支援に自己を限定しようとする「経済主義」と、統一的な党を否定するサークル根性との結合にたいして、必死の闘争を行うことが課題だった。

 また、レーニンにとって、革命的組織=理論=戦術は不可分であった。ローザはいう。「社会民主党の闘争戦術は、その基本的諸傾向の点では、一般に<発明>されるものではない。それは、実験的に、しばしば基本的な、階級闘争の偉大な創造的諸行為の持続的なつながりの結果なのである。ここでもまた、無意識的なものが意識的なものに優先し、客観的、歴史的過程の論理が、その過程の担い手の主観的論理に優先する。社会民主主義的指導の役割は、その場合、本質的に保守的な性質をもつ」。これにたいして、レーニンは「革命的理論なくして革命的実践はありえない」という言葉を対置した。ローザとドイツ社会民主党左派は、大衆の成長とその創造性を過信するあまり、戦術の受動性に陥り、また、統一した強力な指導部をついに形成しえず、盟友カール・リープクネヒトとともにドイツ革命の嵐の中で白色テロの手に倒れたのであった。

 

9 1905年の革命

 

1905年までレーニンは、主としてボリシェヴィキ党を組織することと、自由主義者や農民にたいする党の関係を明確にすることに、精力を集中していた。彼は、行動の試練が切迫していることを知っていたので、理論上、組織上の諸問題に非常な熱意で取り組んだ。1905年1月、パリ・コミューン以後、最初の革命がロシアで勃発する。1905年の革命はこの最大の試練であった。この革命はボリシェヴィキとメンシェヴィキの分裂の直後におこった。この分裂は一時静まっていたが、決して解決されてはいなかった。1905年の第一次ロシア革命は混合的なものであった。それは恣意的で古色蒼然たる専制にたいするブルジョア自由主義者と立憲主義者の反乱であった。それはまた、「血の日曜日」の残虐行為によって点火された労働者の反乱でもあり、その結果が、最初のペテルスブルグ労働者代表ソヴェトの登場につながったのである。1904年の12月に、叛乱の最初の信号があがった。すなわち、のちにヨシフ・スターリンとよばれるようになった25歳のグルジヤ人の指導するバクーのストライキが勝利したのである。続いて、ペテルブルグでゼネラル・ストライキがおこった。

1900年に始まった世界恐慌は、資本主義世界を自由競争の時代から独占資本主義=帝国主義の時代へおしすすめる契機となった。前近代的諸関係の支配するアジア的に遅れた広大な農村と、アメリカをすらしのぐほどに生産の集中度が高い先進工業地域、人民の完全な政治的無権利と全能のツァーリズム、20世紀初頭のヨーロッパ-ロシアは、こうして現代世界の諸矛盾の最も先鋭な焦点になり、この矛盾は、ロシアの労働運動と農民運動を、マルクスが予言したとおり、「ヨーロッパの革命運動の前衛」としての地位に押し上げた。『なにをなすべきか?』をはじめ、革命的マルクス主義党の建設をめざすレーニンの活動と闘争は、迫りくる革命の嵐にたいする、彼の鋭敏な嗅覚と綿密な準備プランに裏づけられていた。1900年から1903年にかけて、ロシアの労働運動の規模は一層拡大し、次第に政治闘争の色彩を帯びるとともに、しばしば武装闘争の形態をとって、ツァーリズムの警察、軍隊と衝突した。1902年には、ウクライナからヴォルガ中、下流地方、グルジアにかけて、土地を要求する農民の反地主闘争が激しく起こった。

政府は、人民の闘争の高揚に血の弾圧をもって報いた。1902年に内務大臣になって、人民弾圧の総指揮にあたったプレーヴェは、鉄道労働者のストにたいして、「もし必要ならば、死骸の上を通しても」汽車を出せと厳命し、他方、労働運動を飼いならす目的で、警察が金を出して、「労働団体」をつくらせるズバトフ主義を採用した。このような事態を背景に、ナロードニキの流れをくむインテリゲンチャたちは、1901年に「社会革命党」(エス・エル)を結成し、「戦闘団」をつくって政府要人にたいするテロリズムを実行した。

この「エス・エル戦闘団」は、1904年7月に内相プレーヴェを爆弾で暗殺した。しかし、専制の危機を実際に早めたのは、テロリストの爆弾よりも日本軍の砲火だった。

1904年2月、日露戦争が開始された。1905年の革命は、日露戦争と切り離せないものであった。日露戦争はロシア政府にとっては、次第に騒擾化していくロシアの民衆の注意を外にそらすという意義をもっていた。だから、戦局が悪化すれば、それだけ国内の危機を深める結果になった。ところが、戦局は、陸上でも海上でもあいついで敗退し、専制政治の無能と腐敗が、広い規模で露呈されていた。社会のあらゆる階級が、自由でも能率的でもない制度に愛想をつかしていた。

国内では工場のストライキや農民の暴動によって、深刻化しつつある社会的危機の転換期でもあった。戦争は、中国と朝鮮の分割をめぐる軍事的、封建的帝国主義のツァーリズムと、若い資本主義国日本との戦争であったが、レーニンは、他民族にたいする敵愾心をあおり立て、専制政治に向けられた人民の不満を外に逸らそうとする排外主義の宣伝と闘った。また、「なによりも平和を」というスローガンにとどまって、この戦争がもたらす専制の危機を革命のために利用しようとしないメンシェヴィキと彼らの新『イスクラ』を批判した。レーニンは、はっきりと専制ロシアの敗北を期待していた。ここに、第一次世界大戦の勃発に際して、彼がとった革命的敗北主義と、「帝国主義戦争を内乱へ」転化させる戦略の原型があった。1905年1月2日、レーニンはジュネーブにおいて日本軍の旅順港占領の報道に関連して、彼自身が発行している『フペリョード(前進)』第二号に『旅順港の陥落』という論文のなかで、「旅順港の降服はツァーリズムの降服の序曲である」と述べている。

プレーヴェの暗殺後、内務大臣になったのはスヴャトポルク・ミンスキー公だったが、元憲兵隊長官の彼は、専制政治を上から少しばかり緩めることによって、ツァーリズムの危機を乗りこえようとした。しかし、このみせかけばかりの懐柔策は、専制への不満を逆に高めるばかりだった。当時、ペテルブルグには会員9千人を越える「ペテルブルグ-ロシア工場労働者会議」という組織があり、これは警視庁とペテルブルグ保安警察が金を出して作らせたズバトフ主義団体のひとつで、その指導者は奇妙なきわめてロシア的な人物、半ば社会事業家で、半ば警察のスパイともいうべきガポンという演説がうまい坊主であった。

1905年1月3日、ペテルブルグのプチロフ工場でストライキがはじまった。このストライキを指導したのはガポンの「工場労働者会議」だった。このストライキは、急速にペテルブルグ全市に広がった。このなかでガポンは、当面の思惑を越えて発展する労働者の要求に突き上げられて、1905年1月9日の早朝、15万以上の労働者と農民が、ガポンなる僧上に率いられ、ツァーリにたいし、苦しみをやわらげ、憲法を制定してほしいとの請願書をもって、ツァーリのいる冬宮に向かってデモンストレーションをしていた。彼らはツァーリの肖像をかかげ、「神よ、皇帝を救いたまえ」を歌いながら、行進していた。警察当局はこれに干渉しなかった。ところが、突然、待ちかまえていたツァーリの軍隊と警察がこれを機関銃とライフル銃の砲火によって迎えた。ついで、コサック騎兵があわれな群集を踏みにじった。1千名以上が殺され、2千名以上が負傷した。このいわゆる「血の日曜日」の残虐行為は、労働者の心に点火した。ロシアにおける1905年革命の反乱の始まりを予告するとともに、ペテルブルグの労働者の心理状態を一変させた。この事件によってツァーリにたいする人民の信頼が決定的に崩れたことである。

以前は、ストライキをしている工場労働者が、僧侶にひきいられて、皇帝にまみえ、強欲な雇主から保護してもらうように請願することがゆるされていた。ところが、今や、雇主の背後に帝制国家がひかえていることが、万人の目にあきらかになった。レーニンは、長年の間、「経済主義者」にたいして、つまり、革命的政治活動に関係しないで、もっぱら労働組合の仕事、労働条件の緩和に専心しようとする労働指導者に攻撃を加えてきた。ところが、いまや、ロシアでは基本的な自由をめざす運動でさえも、革命的手段によらずには、不可能だということが、何人の目にも明らかになったのである。

レーニンはただちに、『フペリョード(前進)』紙上に『ロシアにおける革命の始まり』を書き、「……労働者階級は内乱の偉大な教訓を得た。プロレタリアートの革命的教育は、平凡な、日常の、打ちのめされた生活の幾月幾年によってもなし遂げえないほどの前進を、1日のうちになし遂げた。『死か、それとも自由か!』という、英雄的ペテルブルグのプロレタリアートのスローガンは、いまやロシア全土にこだまして、ひびきわたっている」と述べた。労働者のストライキと武装蜂起、農民暴動はこのときから全国に広がった。「血の日曜日」の教訓は、ペテルブルグ以外のところでも、学びとられた。すべての大都市でストライキが起こった。春から夏にかけて自然発生的で統制のとれていない、しばしば極端に非情で、暴力的な農民たちの広汎な反乱がおこった。

6月には戦艦ポチョムキンの乗務員が暴動をおこして艦を乗っとった。8月になると、皇帝は諮問会議の設置を約束した。おそれをなした政府は、9月に日本と屈辱的な講和を結んだ。10月にはゼネラル・ストライキがおこり、こうして、ペテルブルグ労働者代表ソヴェトが成立した。10月30日に、皇帝は、立法議会を設置して、個人の不可侵、信仰、言論、集会、結社の自由を認めるという宣言を発表した。このため、この革命は立憲主義導入という口先だけの譲歩とひきかえに、やすやすと鎮圧されてしまった。当時の首相ウィッテは、後に「政府の上層部には」10月宣言を骨抜きにしようとする「系統的な企て」があったと語った。だが、10月宣言は本来の目的を達成した。つまり、革命運動を分裂させることに成功したのだ。すでにその当時、レーニンは、「プロレタリアートは闘争しつつあり、ブルジョアジーは権力にしのびよりつつある」と述べている。それ以来、すべての自由主義グループは、革命を中止して、10月宣言の限られた成果を受け入れ、約束された憲法の施行をはかるという考えに、ますます傾いていった。このことは、10月党員の場合は特にそうであったが、カデット(立憲民主党)のばあいもほとんど同様であった。

直接的な革命的行動の主導権は、次第に労働者階級の党に移った。ペテルブルグ・ソヴィエトは、労働者階級の組織の中心になった。メンシェヴィキとトロツキーの指導のもとに、2か月にわたって輝かしい会談が続けられたが、そのあげくに、ソヴェトのほとんど全員が逮捕された。だが、彼らは逮捕されるまえに、新聞の自由と8時間労働日を要求し、租税の不払をよびかけ、外国の投資家にたいして、革命が勝利すれば帝制が時代の外債は棒引きにするという警告を発した。モスクワではもっと激しい闘争がおこなわれた。モスクワ・ソヴェトでは、ボリシェヴィキが多数を占めていて、12月22日には武装蜂起がおこり、9日間にわたって全市を支配したが、遂に、残酷な弾圧に屈した。国内の他の地方でも、あいついで散発的な蜂起がおこったが、組織的な叛乱はこれが最後であった。こうして、ごまかしの立憲政治が始まった。

 あらゆる政党とグループが、この事件の検討をはじめた。プレハーノフは「武器をとるべきではなかった」と述べた。彼は当時すでに亡命時代の仲間のあとを追って、メンシェヴィキの陣営に移っていた。これにたいして、レーニンは「いや、その反対だ。もっと断乎として精力的、攻撃的に武器をとるべきだった」と言った。

だが、レーニンは1905年の事件によって革命政党の組織上の弱点が暴露されたことに気づいていた。1905年の事件は土地を深くすきおこし、何世紀ものあいだの偏見を根こそぎにした。1905年は、何百万もの労働者、何千人もの農民を政治生活と政治闘争にめざめさせた。だが、「革命的エネルギーが活用されず、うみだされた力が、しばしば孤立」した、個々ばらばらな闘いの中で「むざむざと」浪費されたことも明らかになった。

それ以来、レーニンはソヴェトこそは労働者階級の活動の中心点だと考えるようになった。

 1905年には1ダース以上の都市にソヴェトが発生した。これらのソヴェトは、1917年3月にはただちに再登場した。ロシアには、本当の代議政府はなく、地方政府さえもなかった。国会は決して実質的な権力をもっていなかった。ソヴェト、つまり、工場代表と労働者階級組織の代表の会議だけが、地方における唯一の自発的な民主制度であった。ソヴェトは、政治理論家が安楽椅子に腰をおろしながら考えだしたものでもなければ、党の宣伝家の公約から生まれたものでもなかった。それはまさに自然発生的に生まれたものであった。それはまず、最初は都市の工場労働者のなかから生まれたが、元来は、農村共同体やアルテリ(小生産者のギルド)によって、もっともよく代表される最下層の民主組織と自治制度の長年の伝統に根ざしていた。

 最初のソヴェトは、ペテルブルグとモスクワの工場に発生したが、ソヴェトの原理は真の共同体でさえあれば、農村にでも軍隊にでも軍艦にでも、適用することができた。ソヴェトの拙速主義的方法、つまり、公開の集会での挙手による選挙、リコール権の制定、上級機関の間接選挙は、投票箱に立脚する最も精巧な立憲制度よりも、はるかに効果的に、労働者のための真の民主主義を実現した。ソヴェトは大衆に理解できるようなやり方で、政治を大衆のものにした。

1917年5月に、国会のために作成された情勢報告書には、次のように述べられている。「農家の主婦が選挙権を行使するために、家庭と子供を置き去りにして、地区の都市へでかけてゆくというようなことは、とてもかんがえられない。では、住民の50%が文盲で、前線の兵士を計算に入れると90%までが文盲である農村において、直接秘密投票の原則を実施するとすれば、いったいどんな方法があろうか?」と。革命後になっても、一般直接秘密選挙を実施できるほどに教育が進歩するまでに、20年の歳月を要したのである。したがって、ソヴェトは、とりもなおさず、西欧化された自由主義者のつくりだした異国風の議会と手を切ることを意味した。そして、レーニンによれば、これがまたソヴェトを擁護するもうひとつの論拠であった。ソヴェトの選挙区は、工場とか連隊とかいう生きた単位であって、議会制民主主義のような地理的な地域ではなかった。本当に実在するものは、労働共同体であって、自由主義経済学者の考えているような孤立した個人ではない。ソヴェトは、抗議と宣伝の演壇として役立つだけでなく、革命を組織化するセンターにも役立った。

1905年にペテルブルグ・ソヴェトは、革命的宣言と約束のすばらしい広場になった。モスクワ・ソヴェトは武装蜂起を組織し、指導した。当時、すでにレーニンが述べたように、将来、ソヴェトは執行機関兼立法機関として機能することができるし、また、ボリシェヴィキが引き継ぐことを望んでいた国の統治という神秘的な仕事に、普通の市民が参与する手段となることができた。「この制度の中には、諸君のすべての革命的語句よりも、はるかに多くの革命的思想がある」と、レーニンは1917年4月に党員にたいして語った。

地方ソヴェトから県及び全国の機関にいたるまで、間接選挙の方法によって、単純で柔軟性のあるピラミッド機構をうちたてることができたが、これは国会設立の複雑な制度よりもはるかに簡便で、ロシアの代議制度の伝統に合致していた。農民の自治共同体の共同社会という古い人民主義者の夢は実現されなかった。資本主義が農村に侵入したために、この共同社会の基礎となるはずの農村共同体が破壊されたのだ。だが、自主組織と自治制度の伝統は、最近に都市へ移住したばかりで、まだ、農村と密接なつながりをもっていたロシアのプロレタリアートの中に、再び出現して、古い夢が新しい形で生かされた。マルクス流に解釈されたパリ・コミューン型国家機構とロシアの擬似農村共同体は、ロシアの共産主義の形成とソヴェト権力の確立に確かに貢献した。ジュネーブ滞在中のレーニンは、ヨーロッパの新聞を整理しながら、ロシアで起こりつつあった事件の成り行きを辛抱強く見守っていた。レーニンは、これを新しい革命的権力機関の萌芽、人民蜂起の機関とみなした。

更にまた、統制のとれていない、しばしば極端に非情で、暴力的な農民たちの広範な反乱もあった。しかし、所詮、1905年の革命は、専制にたいするブルジョア自由主義者と立憲主義者の反乱であった。したがって、革命は立憲主義導入という譲歩とひきかえに、易々と鎮圧されたのだ。革命のおかげで、レーニンはロシアに帰国する機会を得て、1905年11月のはじめ、ペテルブルグに到着した。彼は、ボリシェヴィキ中央委員会やペテルブルグ委員会の活動、ペテルブルグ労働者代表ソヴェト内のボリシェヴィキ代議員団の活動、武装蜂起の準備などを指導し、多くの論文を書いた。

 

10 ボリシェヴィキの戦略・戦術

 

レーニンは、ロシア社会民主労働党第3回大会のために、ブルジョア民主主義革命の完全な勝利とそれの社会主義への発展転化を目安とするボリシェヴィキの戦略・戦術を練り上げた。

1905年の4月12日にロンドンで、ロシア社会民主労働党第3回大会が開かれた。

31の大会参加資格をもつ委員会のうち、21の委員会の代表38名がロンドンに集まったが、9委員会の代表は、大会招集を妨害して失敗したメンシェヴィキの「社会民主主義者の汎ロシア会議」(スイス)に向かった。したがって、この大会はボリシェヴィキによって完全に支配された。大会は、ロシアで嵐のように進んでいる革命にたいするレーニンの方針にそって、党規約を改正した。そして、ブルジョア民主主義革命の完全な勝利とその拡大深化のために、ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命への転化のために、労働者階級をブルジョア民主主義革命に積極的に参加させることを承認した。ボリシェヴィキはここで、名実ともにロシア社会民主党の「多数派」として自己を確立した。以後、レーニンは、メンシェヴィキと一面において激しく闘争しながら、その反面、この離脱部分との合同のための条件をととのえる努力を忘れなかった。

ロシアにおける革命は、二重の前提から出発しなければならなかった。封建的諸関係が濃密に広大な国土を蔽い、政治的自由が全くない帝制ロシア帝国のなかで、人口の8割をかかえる農民の存在があり、片や、近代資本主義を生み出し、その「墓堀人」たるプロレタリアートを生み出しつつある現実であった。正しく指導しなければいくつもの落とし穴が待っていた。その最大の問題のひとつは、帝制にたいするプロレタリアートの対応、民主主義とプロレタリアートの関係、民主主義の内容の問題であった。

これらの問題にたいしてレーニンは、プレハーノフの著作に大きな影響を受けていた。だから、きたるべき革命が専制国家を打倒し、ブルジョア的諸関係の自由な展開をもたらすブルジョア革命となるであろうことは、早くから認めていた。そして、このブルジョア革命の物質的基礎は、ブルジョア的、資本主義的諸関係が、農奴制と専制の封建的残滓を吹き飛ばすほど、現実的に発展しつつあることである。レーニンは、まさにこの点をめぐってナロードニキと激しい論戦を繰り広げてきたのであった。しかし、ロシアの問題はプロレタリアートにあるディレンマを要求することをレーニンは知っていた。

きたるべき革命がブルジョア革命であるなら、そのために闘うプロレタリアートの役割とは何か。プロレタリアートは、ブルジョアジーがブルジョアジーのための革命を成し遂げたそのときから、ブルジョアジーによって、以前よりもさらに過酷な搾取と不自由の抑圧をうけることになりはしないか。それなら、プロレタリアートはこの革命にたいしてどんな態度をとればよいのか。

プレハーノフは『社会主義と政治闘争』(1883年)において、ロシア社会主義者の任務として、一方では自由な政治制度の獲得、他方では、「将来のロシア労働者社会主義政党のための要素の精錬」をかかげた。彼によれば、民主主義的議会の要求の実現は、労働者に国の政治への参加を保証するが、しかし、これだけでは足りない。社会主義政党が自由主義ブルジョアジーのために、言論および行動の自由を戦い取ったあとに、憲政政治のなかで除外されるようなことのないよう、労働者階級が確定した社会的、政治的綱領を有する特別の政党として、労働者の社会主義政党の形で組織を獲得する必要があると言っているのだ。

このような見解の裏には、ロシアにおいては資本主義の発展度がまだ低いから、絶対主義と闘う中心的主体にプロレタリアートはなりえない。そして、ロシアにおける帝制の打倒と将来のプロレタリア革命との間には、資本主義的諸関係の矛盾が爛熟するに要するかなりの期間が必要であるという見とおしがあった。ここでプレハーノフの言うプロレタリアートは、時間と空間の両方から挟み撃ちをくらってお預けを喰らっている犬のようになってしまった。こうしたプレハーノフの発想からは、ブルジョア革命の主体を自由主義ブルジョアジーに明け渡そうとすることになる。それは1905年~7年の革命において、ブルジョアジーの政党であるカデット(立憲民主党)と協定しようとしたメンシェヴィキの行動がそれを証明した。これにたいして、レーニンは、『「人民の友」とはなにか?』

のなかで、専制主義を打倒する闘争の先頭にプロレタリアートが立つことを、はっきりと打ち出している。

ロシアの労働者は、いっさいの民主主義分子の先頭にたちあがって、専制主義を打倒し、ロシアのプロレタリアートを(万国のプロレタリアートとともに)公然たる政治闘争のまっすぐな道に導き出すと言っている。プレハーノフは、ブルジョア革命は革命的インテリゲンチャ(ないし自由主義的ブルジョアジー)が主体になるのだから、革命に際して、プロレタリアートは協力せねばならないが、革命政府には、参加してはならないという結論を導き出した。当時のマルクス主義の常識からいけば、プレハーノフの方が正論であった。ここで、レーニンはマルクス主義を<変形>させた。

したがって、プロレタリアートと民主主義の関係においても、レーニンはブルジョア民主主義の枠をはみだしてしまった。プレハーノフは、民主主義を、資本主義的経済諸関係を支配する特定の階級(ブルジョアジー)の法治制度(政治的国家)としてとらえるのであるが、レーニンの場合は、民主主義は自由主義的ブルジョァジーに抗してすら、貫徹されるプロレタリアートの政治的任務と活動条件になる。ここでいわれている民主主義とは、議会における多数決原則などの形式的な民主主義ではなく、人民の諸権利を徹底的に擁護し、貫徹する内実をもったものだった。

 レーニンは、あらゆる民主主義的要求、すなわち共和国とか民兵、官吏の公選、男女同権、民族自決などにおける資本主義的にゆがめられた不完全さを暴露しつつ、大衆の貧困の絶滅のためにも、あらゆる民主主義的改革の完全かつ全面的な実行に向けて基礎づける行動そのものをさしていたのである。それにひきかえ、メンシェヴィキは、プロレタリアートが量的にも質的にもふえて、人口の大多数を占めるようになり、民主的な考え方がとれるようになる時期まで、自由主義的ブルジョアジーを支持し、彼らを助けてロシアを経済的に発展させることを望んだ。

『なにをなすべきか?』のなかですでにしめされていたレーニンの思想は、『一歩前進、二歩後退』(1904)のなかでも明確にしめされた。そして、第三回党大会後、まもなく『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(1905年8月)を書き上げている。これは、民主主義革命に関するメンシェヴィキの見解を批判し、ボリシェヴィキの戦略・戦術を基礎づけたものであった。ここでは、ブルジョア民主主義革命におけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想が、全面的に展開され、プロレタリアートは農民を味方に獲得し、自由主義的ブルジョアジーを大衆から孤立させる必要が説かれていた。民主共和制を闘いとり、その結果、プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁としての革命的臨時政府を樹立しなければならないと主張されていた。

ロシアのメンシェヴィズムと「経済主義」に対する批判は、第二インターナショナル全体にたいする批判へと拡大していく。第二インターナショナルは労働運動をブルジョア的自由主義運動に結びつけようとしている、とレーニンは述べている。政治勢力としては旧態依然としたものが日和見主義として甦らせようとしていた。反対に、ブルジョア民主主義が行われていないロシアのようなところでは、プロレタリアートが、ブルジョア民主主義革命においても、支柱的な役割をはたさなければならない。この革命が、社会主義革命ではないにせよ、プロレタリアートがその革命の指導権を握らなければならない。プロレタリアートはブルジョア民主主義者に追随しないで、彼らを積極的に支持し、しかも、ブルジョア民主主義者たちを前方におしやり、さらには、彼らをのりこえて、広汎な農民大衆と同盟して、彼らを政治的に孤立させなければならない。

この理論を「レーニン主義」とか「マルクス=レーニン主義」と名づけることができる。なぜなら、この理論のさまざまの要素は、マルクスやエンゲルスのなかにみいだされるが、マルクス、エンゲルスの思想と政治に新しいものが付け加わっているからである。転換の試みやうわべだけの改良が、もし当時、ロシアの革命運動によって挫折せられ、追いこされ、克服されていたならば、その責任の大部分はレーニンの行動に帰せられねばならない。

1905年の「血の日曜日」の三日後にレーニンは、『ロシアにおける革命のはじまり』を書いたが、ここで、彼は、レーニンはメンシェヴィキを批判しながら、社会民主労働党の基本戦略を逐一明らかにした。社会民主労働党は、憲法制定会議が権力を握るよう要求している。このため、普通選挙権や表現の自由だけではなく、ツァーリ政府を即時打倒し、臨時革命政府をこれにとって替わらせるように努力している。自由主義ブルジョアジー(立憲民主党)は、ツァーリ政府の打倒も要求せず、臨時政府というスローガンも掲げていない。臨時政府もブルジョアジーが樹立すれば、ブルジョア民主主義でしかないから、闘うプロレタリアートとのあいだで、新しい闘争が必要になる。現在は、この臨時革命政府が必要であることを強く主張しなければならない。この政府の行動綱領は、ブルジョア民主主義ではなく、「プロレタリア民主主義」の任務である。これが、当面の政治的、経済的改革の綱領である。従って、臨時政府が最大限綱領として社会主義変革のための権力を奪取することをいうことは退けなければならない、とした。

ロシアの経済的発展の程度と広汎なプロレタリア大衆の自覚と組織の程度からいって労働者階級をいますぐ解放することは不可能である。いま、行われる民主主義的変革はブルジョア的性格のものである。民主共和制以外の道を通って社会主義に進もうとするのは経済・社会的にも政治的にも反動的である。そして、人民の武装を革命的時期の当面の任務としてはっきり提起した。レーニンとボリシェヴィキは、ロシア全土に広がりつつある人民の闘争を注意深く検討しつつ、蜂起の準備に精力的に取組み始めた。これにたいして、メンシェヴィキの新『イスクラ』は、「蜂起の日取りはあらかじめ決められない」こと、当面の任務は「蜂起の思想を人民に広める」ことにあると書き、レーニンはこれを「大衆追随主義」と批判した。

臨時革命政府には社会民主労働党は参加してもよいと認められる。参加の目的は、反革命にたいして闘うこと、労働者階級独自の利益をまもることである。それにたいして、メンシェヴィキは、臨時政府に参加することと、権力を獲得することを混同している。ここでは、民主主義的変革の一定段階で政府に参加するのである。

 先進的階級はそれだけ一層、民主主義的任務をかかげ、共和制のスローガンを掲げ、押し出すべきであり、反革命勢力は容赦なく粉砕しなければならない。ところが、メンシェヴィキは、「民主主義の結論の最期まで言ってしまうべきではない。実践上のスローガンには共和制を持ち出すべきではない。憲法制定会議を招集するという決議をもって勝利とよんでよい」といっているのだ。また、「経済主義者」として、さしせまった政治的任務を理解していないのを隠して、政治的に解放された社会内部での闘争をもちだすのだ。そして、メンシェヴィキは、臨時政府はブルジョア革命の任務を達成する役を引き受ける、と述べているが、レーニンにとっては、いま、しなければならないのは共和制をめざして闘うための、また、プロレタリアートがこの闘争に全力をあげて参加できるようなスローガンと実践上の指示を与えることなのである。

レーニンは、メンシェヴィキには共和制をめざすべきスローガンが欠如していると指摘しており、立憲的ブルジョアジーの立場と同じと見なす。革命を前進させるためには、君主主義的ブルジョアジーがおし進める以上に革命を推進し、ブルジョア民主主義派の不徹底を取り除くスローガンが必要である。そのようなスローガンは、いまのところ二つしかない。第一に臨時革命政府、第二は共和制である。なぜなら、憲法制定会議というスローガンは革命をうやむやにするためか、完全な勝利をさせないために、大ブルジョアジーとツァーリズムの取引きをするために、とりあげているものだからである。

メニシェヴィキは、1905年5月、民主主義革命を前進させるべしと、立派な言葉を連ねているが、実際は革命を後退させる民主主義的ブルジョアジーの民主主義的なスローガン以上にはでていないのである。しかも、メンシェヴィキは、プロレタリアートがブルジョア民主主義のなかに解消してしまうことを危惧する。たしかに、メンシェヴィキは自由主義的、君主主義的ブルジョアジーと肩をならべて進む。だが、ボリシェヴィキは民主主義的・革命的=共和主義的ブルジョアジーのスローガンと一致している。このようなブルジョァジーや小ブルジョアジーはたくさん存在している。党は闘争する能力のある革命的民主主義分子を意識的に自分の水準まで引き上げる。こういう革命的民主主義分子は、農民のなかに最も多い。こうして、レーニンは、メンシェヴィキは、その全国民的政治スローガンによって、無意識のうちに地主大衆の水準まで下がっていくが、ボリシェヴィキは農民大衆を革命的水準まで引き上げる役割を担っている。マルクス主義者は、ロシア革命がブルジョア的な性格のものであることを、無条件に確信している。その意味するところは、ロシアにおいてはどうしても、必要な政治体制の民主主義的改革と社会経済上の改革は、それ自体、資本主義を、そしてブルジョアジーの支配を掘り崩すことにならないばかりか、逆に、資本主義が広汎かつ急速に地盤をつくりブルジョアジーの支配を可能にする。

エス・エル党の連中はこのことがわからない。農民蜂起が完全に勝利をおさめても、彼らの利益のためにその希望に応じてすべての土地を再分配しても、決して資本主義をなくしてしまうものではなく、逆に、資本主義の発展に刺激を与え、農民自体の階級分化を促すことを彼らが見ないからである。しかし、ブルジョア革命がプロレタリアートの利益をあらわしていないという考えは、まったく間違っている。こういう考えが、ブルジョア革命がプロレタリアートの利益に反するものだから、われわれにはブルジョア的な政治的自由は必要ではないというような古ぼけたナロードニキ主義の考え方に通じてしまう。これらの命題によって、労働者の救済を資本主義の一層の発展以外に求めようとする思想は、いずれも反動的ということになる。

ロシアのような国は、労働者が資本主義の未発達のために苦しんでいるのであり、資本主義ができるだけ広汎に、自由に急速に発展することが無条件に利益となる。ブルジョア革命とは、旧時代の遺物、農奴制の遺物を一掃して資本主義が最も広汎に発達することが大切なのである。だから、ブルジョア革命は、プロレタリアートにとって、このうえなく有利なのである。社会主義をめざすプロレタリアートのブルジョアジーとの闘争は、それだけいっそうやりやすくなる。その意味からこの革命からは、ブルジョアジーよりも、プロレタリアートのほうが有利になる。

 したがって、ブルジョアジーにとっては、改革がゆっくりと徐々に用心深く、おずおずと「改良」の道をとって行われる方が有利なのである。反対に労働者にとっては、ブルジョア民主主義が迅速に行われ、「革命」の道を通ったほうが有利なのである。ブルジョア革命は、その民主主義的改革が徹底したものであるほど、プロレタリアートと農民は、利益はより保証されるのだ。ロシア革命は、その枠を押し広げプロレタリアートの利益のために、将来の完全な勝利に向かってプロレタリアートの力を結集するために、闘わなければならない。

民主主義は、ブルジョアジーの中途半端な民主主義とプロレタリアートの徹底した民主主義の区別、共和主義的=革命的ブルジョア民主主義と君主主義的=自由主義的ブルジョア民主主義との区別をはっきりさせておかなければならない。問題は、プロレタリアートと農民の革命的=民主主義的独裁にまでゆきつくかどうかというところにあるのだ。

ロシアの革命は改革の組み合わせ次第で二通りの結果がある。

@       ツァーリズムにたいする革命の決定的な勝利

A       決定的な勝利を得るには力が足りず、ブルジョアジーの最も「中途半端な」最も「利己的な」分子とツァーリズムとの取引きに終わる。

というどちらかである。

ツァーリズムにたいする革命の決定的な勝利は、どのような現実の社会勢力がツァーリズムに対抗して立ち上がり、どのような社会勢力が決定的勝利を収めるかを考えることである。大ブルジョアジー、地主、工場主などの勢力ではありえない。それは人民だけとなる。すなわち、プロレタリアートと農民だけである。「ツァーリズムにたいする決定的勝利」とは、プロレタリアートと農民の革命的=民主主義的独裁によってのみ実行され、それ以外にはない。そして、この勝利は、必ず「独裁」とならざるをえない。この勝利は、必ず軍事力、大衆の武装、蜂起に依拠しなければならないからだ。反革命の抵抗を撃退するためには独裁以外にない。しかし、社会主義的独裁ではなく、むろん民主主義的独裁である。

この独裁は、農民の利益になるように、土地財産を再分配し、共和制のもとで徹底した完全な民主主義を実行し、農村だけでなく、工場からもいっさいのアジア的=債務奴隷的なものを根こそぎにし、労働者の状態をいちじるしく改善するばかりか、彼らの生活水準を引き上げる。

こういう勝利を得るためには、プロレタリアートにたいする社会民主労働党の影響力を増し、それ以上に、農民大衆にたいする影響力を強めねばならない。もし、これらの勢力が十分でなければ、ツァーリズムは、妥協の取引きに成功するだろう。それは、革命の流産であり、未熟児、混血児になる。中途半端なブルジョア的民主主義派に闘う手を縛られないようにしておくためには、プロレタリアートは、農民の意識を革命的自覚をもつところまで高め、彼らの攻撃を指導し、徹底した「プロレタリア的民主主義」を独自に遂行できるほどの自覚と実力力を持っていなければならない。民主主義をめざして最期まで徹底的に闘うことができるのは、プロレタリアートのみだからである。また、プロレタリアートが民主主義をめざす闘争で勝ちぬくことができるのは、農民大衆がその革命闘争に合流する場合だけである。 

メンシェヴィキは次のように考えていた。来るべき革命はブルジョア革命である。すなわち現体制の変更をめざすこの革命には、プロレタリアートだけではなく、ブルジョア社会全体が利害関係をもっている。政府反対の立場には、資本家を含むすべての階級が、立っている。闘争するプロレタリアートと闘争するブルジョアジーはともに進み、違った角度から、ともに専制政治を攻撃する。政府は、ここにおいて、全く孤立しており、社会の同情を失っている。だから、政府を滅ぼすことは、はなはだ簡単である。それにプロレタリアートは、もし単独で革命ができるものなら、ブルジョア革命ではなくてプロレタリア革命を遂行するべきだろう、というのだ。  

 メンシェヴェキのこの考え方は、レーニンからすれば、「経済主義」以外のものではなかった。また、「待機主義」以外ではない。なぜなら、プロレタリアートもブルジョアジーも、政治的な意志をもつ幻想の行為によって規定されていないからだ。経済・社会構成のなかのブルジョアが、そのまま権力を握ればブルジョア革命になるというように、革命の問題を幻想的行為と非幻想的行為の区別をつけずに混同するから、戦略にも戦術にもならないのである。

 そういう政治的行為の幻想性を中心にすえて考えると、レーニンは、永続革命を志向していたとみなさなければならない。いわば、地主やツァーリが人民を隷属する状態に基礎をおくロシアの前資本主義的社会のなかで、なされるべきは、ツァーリ政権の廃絶と共和制の実現であり、また、その他の土地再分配等封建的遺制の廃絶であった。それは、社会・経済構成の変革を意味し、ブルジョア革命を意味した。しかし、その変革をなしとげる主体は誰かというと、レーニンにとっては、政治主体としてのプロレタリアートと農民であった。ここで、なぜ、プロレタリアートが登場するかというと、ブルジョア民主主義をめざして最期まで徹底的に闘うことができるのは、プロレタリアートしかありえないからである。メンシェヴィキなどの「経済主義」のように、ブルジョアの特殊利害によって社会革命をするのであれば、ブルジョアジーが政治的に闘うことが前提にされていた。しかし、ブルジョア社会が、ブルジョアだけではなく、プロレタリアートにも利害をもたらすとするならば、政治的にブルジョウジーを脇においても、プロレタリアートが中心勢力にならなければならなかった。さらに、圧倒的に多い農民の人口構成をみても、また、彼らの中に階級構成(貧農、中農、富農)があるのを考慮して、プロレタリアートの援軍として加わり、プロレタリアートと農民の革命的=民主主義的独裁こそが、ブルジョア革命のための政治的主体の構成をつくるというのである。

 従って、レーニンは、従来のマルクス主義の「経済主義」的常識を、ロシア用に改ざんした。つまり、<だれが><どのように>革命するかを分離させたのである。これは、何より、レーニンが政治主体と社会構成のちがい、政治革命と社会革命の違いを明瞭にしていたからできた戦術にほかならない。レーニンにとって、第一段階はブルジョア革命であった。そしてその政治主体としてのプロレタリアートが、次の段階にプロレタリアートのための「社会革命」を行うことになる。これは、ブルジョアはもちろん、小ブルジョア、農民に敵対しても行う革命になる。ここではじめて、プロレタリアートが自らの利害関係を求めて革命が行われることになる。

 レーニンは、プロレタリアートの政治的構成の成熟度に応じて、プロレタリアートをその中心に据え置き、二つの「社会革命」を連続して行おうとしたといえる。つまり、政治革命としては永続的な一段階革命で、社会革命としては二段階革命であった。そのことをレーニンは次のように言っている。

 

《ロシアの第一次ブルジョア革命(1905年)のあとで第二次ブルジョア革命(1917年2月)を準備し、さらに社会主義革命(1917年11月)を準備した》

        『共産主義における「左翼」小児病』 レーニン著 朝野勉訳

 

では、それはトロツキーの永続革命とどうちがうのか。トロツキーの場合も、同様に、政治革命としては一段階革命であり、社会革命としては二段階革命であった。

 トロツキーは次のように述べている。

 

《歴史的に定められたボルシェヴィズムの古いスローガン-「プロレタリアートと農民の民主的独裁」は、まさに前述のごとく性格づけられたプロレタリアート、農民、および自由主義的ブルジョアジーの関係を表している。これは「10月」の経験によって確証された。しかしレーニンの古い定式は、革命的同盟の内部におけるプロレタリアートと農民の相互関係はいかなるものか、という問題を、前もって定めたものではなかった。いいかえれば、その定式は、歴史的経験の過程で、特定の算術的量によって代置される未知の代数的量をふくんでいるのである。その歴史的過程は、農民の革命的役割がどんなに巨大であっても、それは、独立の役割、いわんや指導的なそれを果たすものではないということをしめしたが、それは他に解釈しようのない諸条件のもとでそうしたのである。農民は、労働者かブルジョアジーかの、どちらかについていく。このことは「プロレタリアートと農民の独裁」が、ただ農民を後にしたがえたプロレタリアートの独裁としてのみ考えられうる、ということを意味する。》   『永続革命論』 トロツキー著 姫岡玲治訳

 

これは、レーニンの「プロレタリアートと農民の革命的=民主主義的独裁」とトロツキーの永続革命論が、いかなる政治構造のもとに、形態をとるかの相違にすぎない。それをレーニンの立場から考えるとき、革命政府の連合政権の中でどちらがヘゲモニーをとるかの問題として提起した場合、プロレタリアートにほかならない限り、トロツキーの永続革命論のほうが、レーニンより現実的であったと見えなくもない。

動乱と反乱の兆しは、ツァーリズムの支柱である軍隊にまで波及した。1905年6月、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョームキン」の水兵が反乱を起こし、士官を海に投げ込んで、ゼネスト中のオデッサに回航した。「ポチョームキン」を歓呼して迎えた市民たちに、カザーク兵は残酷な射撃を加え、革命の戦艦は市民の虐殺に砲撃をもって答えた。政府は、「ポチョームキン」を撃沈するために艦隊を派遣したが、「ポチョームキン」は二度にわたってその隊列を突破し、艦隊の乗組員は、同志にたいする発砲を拒否し、公然と、革命の水兵たちに歓声を送った。ついで、戦艦「ゲオルギーポペドノーセツ」も「ポチョームキン」に加わった。レーニンは、このオデッサ事件について、ツァーリズムの兵力の大きな部分が、公然と革命の側に移ったことに注目した。そして、革命軍の中核をつくるという試みが必要なことを強調している。オデッサ事件を契機として、メンシェヴィキも武装蜂起のスローガンを掲げた。

 レーニンは当面の目標を次のように設定した。

(1)専制の転覆

(2)臨時革命政府

(3)政治的自由と宗教的自由のための戦士-もちろん、さらにストライキの自由、等々のための戦士も-即時大赦

(4)人民の即時武装

(5)普通、平等、直接、秘密選挙権にもとづく全ロシア憲法制定議会の即時招集

 これらの諸任務は、1905年4月に開かれた第三回党大会(メンシェヴィキは不参加)で承認されている。蜂起の問題とならんで、メンシェヴィキとの争点のひとつは、蜂起の結果うまれるであろう臨時政府に、プロレタリアートの党は参加すべきか否か、という問題があった。プレハーノフやマルトゥイノフなどメンシェヴィキは、臨時政府はブルジョア政府だから、プロレタリアートの党はこれに加入すべきでないと主張した。こうして、メンシェヴィキは、プロレタリアートは、ブルジョアジーが支配的地位につくことだけを支援すべきだという結論を出した。ここから、また、蜂起の行き過ぎをおそれ、ブルジョアジーの政党カデット(立憲民主党)と選挙で協力することも考えていた。レーニンはこのような意図を断固として退けた。レーニンによれば、マルトゥイノフたちは、「ブルジョアジー」と「プロレタリアート」のあいだに立っている中間的な人民層(都市および農村の小ブルジョア的大衆)の役割を忘れている。プロレタリアートは、これらの巨大な農民的、小ブルジョア的住民を率いて、民主主義的変革を徹底的に遂行しなければならない。その革命権力に参加することをなぜおそれるのか?

 レーニンは、一連の論文でこの問題を究明し、メンシェヴィキのブルジョアジー追随に批判を浴びせたが、とりわけ、1905年6~7月に執筆した有名な著作『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』で、当面する革命の性質と、革命権力の性質を全面的に解剖した。彼によれば、現在、日程にのぼっているのは、全人民的憲法制定議会の招集である。これにたいして、政府は皇帝の諮問議会だけを認めようとしている。ブルジョアジーの政党であるカデット(立憲民主党)は、ツァーリ政府の打倒と、臨時革命政府の樹立をかかげず、政府との取引を企てている。もちろん、プロレタリアートは、完全な権力をもつ制憲議会を要求している。しかし、この議会は「憲法を制定する」権力と実力をもつことが必要である。メンシェヴィキの思想は、ブルジョアジーに有利なものだけしかもたらしえない革命であるという思想である。

 

ブルジョア革命は、だから、プロレタリアートにとってこのうえなく有利なのである。ブルジョア革命は、プロレタリアートのために無条件に必要なのである。ブルジョア革命が完全で決定的なものであればあるほど、徹底したものであればあるほど、社会主義を目ざすプロレタリアートのブルジョアジーとの闘争は、それだけいっそうやりやすくなるであろう。》 『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』 レーニン著 西島有厚訳

 

 そして、ツァーリズムにたいして徹底的な勝利をおさめるということは、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」の樹立にほかならない。 

ブルジョア革命=プロレタリアートを先頭にした農民、小ブルジョアジーの革命主体というテーゼは、資本主義への革命=ブルジョアジーが主体というメンシェヴィキ的公式からはとうてい産まれないレーニンの革命図式の<変形>であった。

 

 (通常の場合)

目   的

月   日

革命主体

 

ブルジョア革命

1917年2月まで

ブルジョアジー

プロレタリア革命

1917年10月

プロレタリアート

 

 

 

 (レーニンの変形の場合)

目   的

月   日

革命主体

 

ブルジョア革命

1917年2月まで

プロレタリアート主導

農民・小ブルジョアジー

プロレタリア革命

1917年10月

プロレタリアート

 

 

 

 以上のように定式化したものの、レーニンは、きたるべきロシア革命(第一次革命から1917年の2月まで)をブルジョア民主主義革命の期間とみなし、この革命によってうちたてられるべき権力は、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」であるとした。だが、その場合、プロレタリアートに支持された小ブルジョア民主主義共和制から、農民に支持されたプロレタリアートの独裁にいたるまでのあらゆる可能性を考慮し、独裁の政治機構を不確定のままにした。これは当時の、ロシア・プロレタリアートの成熟度が未完成であったこと、また、ロシアの農民の革命的伝統とエネルギーが独特なものであったこと、それゆえに、農民と労働者のどちらが革命闘争において指導権をにぎるか明白に予見できなかったからである。政治革命主体は、国家権力を掌握できるまで主体的力量を高め、習熟しなければならないということを、レーニンがよくわきまえていたことを示している。

 一般的にいえば、レーニンの革命は、二段階革命であるかのようにうけとられている。この革命戦略を性格に理解のためには、革命主体が権力を掌握するための「政治革命」とその後、社会経済構成を「社会・経済革命」の対象にする区別を明確にする必要がある。その観点からみれば、レーニンは、「社会・経済革命」としては、地主やツァーリの農奴的隷属に基礎をおく古い前資本主義的な遺制が残存していた限りにおいて、まず、それを一掃する必要があった。そのために、プロレタリア革命ではなく、まず、ブルジョア革命を提起した。

そして、それを遂行するための革命主体としては、その革命によってより多く利益を得るはずのブルジョアジーによる権力の獲得ではなく、「政治革命」としては「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」を提起したのである。これは、レーニンが、ブルジョアジーは、ブルジョア革命があまりに徹底的に行われ、旧時代の遺物を一掃してしまうようなことになれば、プロレタリアートとの闘争を早め、それが完遂されて展開されることは不利と考えていたためである。だから、ブルジョアジーはブルジョア革命も、不徹底になされることを望んでいたことをレーニンがよく見抜いていたのである。

 では、革命主体が民主主義独裁のプロレタリアートと農民として、その相互の関係はどうなるのか。滝村隆一はこの点について次のように述べている。

 

《レーニンが説き、またその俗流的なエピゴーネンたちが相も変わらず繰り返し唱えているように、かりにロシア革命の<革命的主体>いいかえればロシアの社会=経済構造を<民主主義的に変革>する積極的な担い手が、<プロレタリアート>と農民であり、しかもこの<革命>の主要な<指導権><プロレタリアート>が直接掌握できるというのなら、すなわち<プロレタリアート>の革命的<政治Macht>としての形成が、それほどまでに進展しているというのなら、たとえこの<社会的=経済的革命>の主要な任務(課題)がどんなに<ブルジョア的=民主主義的>な性格に停まっていたとしても、<戦略>論的にいえばこの<革命><プロレタリア革命>として明確に把握されなければならない。》

 『革命とコンミューン』 滝村隆一著  

 

 こういう滝村の発想からは、革命主体として農民を捨てて、プロレタリアートのみに主導権を移す方法がでてこないのは不思議だが、要するに、プロレタリアートのイニシャチブを認め、基本的にはプロレタリア独裁と認めるべきではないか、と言っているのである。だが、滝村は、レーニンがプロレタリア主体の政治上の立ち遅れを理由に、実践的な判断をえらんだことを指摘し、革命主体としてプロレタリアのみでは、独裁を維持できなかったというのである。滝村はそこにレーニンの理念と実践上の矛盾をみることになった。

 しかし、レーニンの優れている点は、滝村のいうように、ロシアのような後進国においては、ブルジョア革命の段階では、政治的国家と市民社会が同一化しており、社会・経済構成を革命するためには、まずツァーリを対象にした政治革命を媒介しなければならないことを分析したことである。したがって、土地革命をはじめとするブルジョア民主主義革命を実現するためには、プロレタリアートと農民による政治権力の奪取を不可避としたことである。したがって、滝村の考えからすれば、1917年10月革命を、政治的にも、社会・経済的にもプロレタリア革命とみて、レーニンのロシア革命における基本的戦略は「政治革命」としても「社会革命」としても「二段階革命」であったという答えを導きだすのである。

 これにたいして、トロツキーのそれは、「政治革命」として一段階プロレタリア革命説であり、「社会・経済の革命」としては、ブルジョア革命からプロレタリア革命に永続的に引き継がれる二段階革命説を主張したところに大きな特徴があった。このトロツキーについて、俗に言われているのは、『永続革命論』において、一段階のプロレタリア社会主義革命論としてうけとられている。それは、ロシア革命の全過程をつうじてプロレタリア革命を目的とした革命として捕らえており、その構成要素の一部としてブルジョア民主主義革命を位置づけていたというものである。しかし、トロツキーは1904年~6年以来、一貫して、きたるべき革命の戦略段階をブルジョア革命と規定していたのである。

トロツキーの主張が、一段階革命説にみえたのには理由があった。帝国主義段階における後進国の一般的な革命戦略として、二段階革命説を提起したのにかかわらず、ブルジョア革命の徹底的な遂行と、それによる社会主義革命への二段階的成長転化は、ことにプロレタリアートによる権力の掌握、すなわち、「プロレタリア独裁」の樹立を通じてのみ実現とうると強調したところにあった。つまり、トロツキーは、社会革命としてのブルジョア革命も社会主義革命もともに、プロレタリア独裁を通じてのみ遂行しうると主張したのである。

 このようにみれば、革命戦略における、レーニンとトロツキーの相違は、あくまで「政治革命」における二段階革命説と一段階革命説との相違にもとづくものであって、一般にいわれているように、「社会革命」レベルにおいては、二段階のブルジョア民主主義革命説に相違はなかったのである。

だが、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」に関するトロツキーの、レーニンにたいする疑義に、もう一度立ちどまらなければならない。私(たち)は、独裁権力としてプロレタリアートと農民が「連合独裁」することは、権力の本質構造的に不可能であるとおもえる。レーニンが想定したのは、土地問題にからんで、農民をみずからの革命の主体の側に引き寄せておくために、あくまで、プロレタリアートがヘゲモニーをもって、
権力を掌握し、農民に対しては、政策的な機能主義的な配慮があったものと考える。であるなら、そこからかんがえられるのは、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」の内実は、あくまで「プロレタリア独裁」にならざるをえない。その限りで、レーニンとトロツキーの相違はなかったとみなされる。それにしても、レーニン、トロツキーとも、「政治革命」と「社会・経済革命」を区別し、「政治革命」を優先させ、プロレタリアートの独裁を第一義に主張したことは、通常のマルクス主義にみられない卓抜な戦略だったといえる。政府は、極度に選挙権をせばめた「国会」開設を8月6日に宣言したが、内相ブルイギンが用意したこの国会選挙の企てにたいし、ボリシェヴィキは積極的にボイコット戦術をとった。

革命は1905年10月から12月にかけて、最高潮に達した。10月7日、モスクワの鉄道が息を止めた。鉄道、続いて電信のストライキが、政府の機能を麻痺させた。10月17日、皇帝ニコライ二世は、完全な立法権をもつ国会を招集するという宣言に署名し、同時にロシアのブルジョアジーと外国の金融資本家を満足させるために、ウィッテを首相に任命した。レーニンは、10月17日の宣言を「革命の最初の勝利」と評価したが、同時に、敵は堅固な陣地で信頼できる軍隊をかきあつめ、攻撃の時期を待っていることを警告した。

プロレタリアートの政治的ストライキは、ほとんどだれも傷つけなかったが、10月の人民にたいする暴徒の襲撃=ポグロムだけで、数千人の死者と1万人を越える不具者がでた。レーニンは、一方ではメンシェヴィキのマルトフらが、専制権力に人民の武装によって対決しようとせず、ウィッテ国会への選挙参加を呼びかけているのを「最も混乱した計画」として批判しつつ、武装蜂起を急ぐよう強くロシアのボリシェヴィキたちに要求した。臨時革命政府なしに、制憲議会はなく、蜂起なしに臨時革命政府はない。レーニンは、武装のために、党員にすぐに戦闘隊をつくるよう叱咤した。彼は、もうジュネーブにじっとしていられなかった。1905年11月に、5年ぶりで祖国の首都にたどりつき、モスクワの12月蜂起に参加したが、蜂起のための主体的条件は、情勢にくらべてはるかに立ち遅れていた。蜂起は分断、鎮圧されてしまったが、論文『モスクワ蜂起の教訓』のなかで、彼はこの英雄的闘争を総括している。1905年の敗北の教訓は、1917年の勝利を準備した。

 

11 農民の革命をめざして

 

レーニンにもうひとつの<変形>があったとするならば、それは農民問題だった。それは後進国アジアの根底に横たわる革命の陥穽でもあった。レーニンは、ここでも少なくともナロードニキの思想を無意識に吸収している。レーニンは、早い段階から、ロシア革命の帰趨を決するものとして農民問題をとりあげている。現存する彼の最初の論稿が『農民生活における新しい経済的動向』であることからみても、農業問題に捧げた長年にわたる彼の思い入れがつたわってくる。これは、のちに革命の戦術に大きく関与するものであった。

プレハーノフが起草した1885年の労働解放団の草案では、農業綱領は、「わが国の土地関係、すなわち土地の買い取りと、農民身分団体への土地の分与との諸条件の徹底的改訂を行う。そのほうが自分に都合がよいと考える農民には、分与地の買い取りを拒否し、共同体を脱退する権利を与えること、等々」とだけ述べられていた。では、この「徹底的改訂」はどのように行われるのか。そして、それにたいするプロレタリアートの方針はどうなるのか。

1894年の『「人民の友」とはなにか?』のなかで、レーニンはいちはやく、ロシアのプロレタリアートの勝利は、農村プロレタリアートの支持を不可欠の条件とする、と述べていたが、1905年革命以前の段階のレーニンの農業綱領が最初に定式化されたのは、獄中で書いた『社会民主党綱領草案とその解説』の中にあり、その後、1999年に、より展開した形で、次のような当面の農業綱領をまとめている。

 「ロシアの社会民主労働党は、現代の国家、社会体制に反対するいっさいの革命運動を支持し、次のように言明する。党は、農民が、ロシア人民の無権利とロシア社会における農奴制度の残存物とに最も苦しめられている階級として、専制にたいして革命的闘争を行う能力をもっているかぎり、農民を支持するであろう。この原則から出発して、ロシア社会民主労働党は、次のことを要求する。

(1)土地買取賦払金(1861年の農奴解放の際に、地主から分与された土地にたいして、年々農民が支払わされている金)と年貢上納金の廃止

(2)政府と地主が土地買取賦払金として農民からまきあげた金の人民への返還

(3)連帯保証制と、農民が自分の土地を処分するのを拘束している、いっさいの法律の廃止。

(4)地主にたいする農民の農奴的従属のいっさいの残存物の廃絶。」

 この中の(4)は、農奴解放の際に、かつての農民の用益地から地主が切り取って、自

分の所有とした「切り取り地」を、地主から取り上げて農民に返還するということである。

 この農民へ返還すべき土地を主として切り取り地に限定した理由は、すべての地主所

有地の全農民(富農を含む)への返還というスローガンは、明らかに富農を利することに

なるという彼の見通しがあったからである。

 マルクス主義の古典的農業理論を、ロシアの農村の現実に結びつけようとするレーニン

の苦闘がよくあらわれている。1902年におこった農民の反地主闘争の高まりは、彼の

『労働者党と農民』(1901)にも反映しているが、レーニンは、ここではじめて明確に

ロシアの農村における二種類の階級対立について語っている。それは、第一に農村労働者

と農村企業家との対立であり、第二に、全農民と全地主階級との対立である。この時以降、

『ロシアにおける資本主義の発展』の視座からははっきり浮かび上がってこない農奴制的、

地主的土地所有の問題が、ますますレーニンの関心を惹いていく。

とりわけ、彼が1903年春に書いた『貧農に訴える』は、1905年以前のレーニンの農業綱領思想の頂点にたつものであって、独立したパンフレットとして刊行され、ロシアの農村地帯にもち込まれ普及した。農民が住民の80%を占め、ヨーロッパの諸大国にくらべて、プロレタリアの数が相対的にも絶対的にも少ない国で、ボリシェヴィキのいわゆる「プロレタリア革命」をおこそうとすることは不可能に近かった。

 しかし、農民に対する正しい政治的処理の方法を発見できれば、ロシアの農民が非常に潜在的革命力をもっていることは、疑いなかった。農奴制時代のヨーロッパ諸国はみなそうであったが、ロシアの農民にも、土地は、当然、農民のものであるという考えが古くからあった。この考えは、ひとつには農奴制より前のもっと自由な社会秩序の思い出に基いているが、一方では、また、土地を耕す人々は、土地のみのりを公平に消費すべきだという明白な要求にねざしていた。1861年には農奴制が廃止された。農民の土地はほぼ二つにわられ、半分は農民に与えられ(完全な所有権ではなかった)、のこりの半分は地主のものになった。その結果、農民は、それまでに実際に耕していたよりも少ない土地しか得られなかった。

 農民は自分に割りあてられた土地の賠償金を年賦払で政府にしはらわなければならなかった。というのは、政府がすでに地主にたいする補償金を支払っていたからである。この賠償金は、以前に農奴が自分の自由を買い取るために支払った賠償金と同じ名前でよばれていたが、これは農民にとって屈辱的なことであった。「割り当てられた土地の価格」を全部支払ってしまうまで、農民はいままでどおりに、2~3の封建的用役に服さなければならなかった。概して農民には最も地味の悪い土地が割り当てられていたのに、「割り当て地の価格」は非常に高く評価されていた。また、以前に、農民が薪や木材を手に入れていこ山林は、だいたいにおいて全部、地主のものになった。最も富裕なものは別であるが、それ以外のすべての農民は、この年々の支払いをすますために絶望的な借金の泥沼におちこんだ。

1905年の革命の結果、この支払いが最終的に廃止されるまではそうであった。賠償金の支払いが打ち切られたときの計算によると、1861年に農民に割り当てられた土地の真の価格の3倍以上がすでに支払い済みになっていた。レーニンは急進的評論家チェルヌイシェフスキーの次の言葉を引用して同意しているが、これによるとチェルヌイシェフスキーは、当時のロシアのたいていの自由主義者が、「偉大な改革」(1861年の農奴解放)

に欺瞞されていたときに、次のように述べた。「資金のある農民は土地を買うだろう。資金のない農民に無理に土地を買わせて何になろうか?それはただ、彼らを破滅させるだけである。分割払で買うのは一回払で買うのと同じことである。」

 1861年から1905年までの間に、農民の保有地は平均規模が三分の二に減少した。この現象傾向は、人口の増加によってさらに加速した。人口増加の一因はゼムストヴォの自由主義者が医療施設を改善したことであった。一方、農民は、不十分な割り当て地をもらった上、旅券を手に入れるのが難しかったので、以前に、封建的慣習によって土地にしばりつけられていたときと、同じくらい効果的に、土地にしばりつけられていた。そこで、地主は安い労働の貯水池としてこれを利用した。革命前の農業過剰人口は約2千万とみつもられていた。つまり、農村人口はほとんど5人について1人の割合で、経済的に過剰だったのである。1886年以後は、地主は、「無作法な態度をとった」などという理由で、労働者を予告なしに解雇する権限を与えられた。労働者は、たとえひどい虐待を受けても、雇用契約に違反するようなことはゆるされなかった。たとえ、逃亡しても、警察の手でつれもどされた。1906年からは、農業労働者のストライキが刑事犯罪とみなされるようになった。

 レーニンも農民の実情を次のように描いている。

「農民は解放の代価を支払ったが、自由人にはならなかった。20年もの間、彼らは『暫定的拘束』の状態におかれていた。農民はまえと同じく一段と身分の低いものにみなされ、鞭でうたれ、特殊な税金を支払わされ、半封建的な共同体から自由にでていったり、自分の土地を自由に処分したり、国内のどこにでも自由に住みついたりする権利をみとめられなかった。現在(1901年4月)にいたるまで、そうである」。人頭税の総額は年間4,200万ルーブルにのぼったが、それはもっぱら農民に課せられ、残りの1億6,600万ルーブルの直接税のうち、農民が1億5,300万ルーブルを支払っていた。

 このようにして、ますます農民は、国家というものは、何も恩恵を与えずに要求ばかりする、冷たい敵対的な権力だと感じるようになった。農民のこのような態度がロシアの農民政党の発展に影響をおよぼしたので、ロシアの農民政党の政策のなかには、多分に無政府主義的要素が含まれていた。

 しかし、農民の敵意が、全面的に地主から国家に移ったわけではなかった。農民の主な目的のひとつが、割り当て地についての年々の過重な賠償金をまぬがれることであったとすれば、もうひとつの目的は残りの土地を手に入れることであった。1861年の解決(農奴解放)の結果、地主と農民との不平等な関係は、土地を見ただけでわかるようになった。農民は、地主の所有地のまわりに設けられた囲いを、勝手につくられた人工的なじゃまものとみなして、機会があり次第、直ちにとりこわしてやろうとおもっていた。農民にとっては、1905年の革命は「水平化」を意味した。

 長い目でみると、「農奴解放」は地主層の不安を昂進させただけだった。ひとつには、これによって農民の階級的敵意が刺激されたからであり、また、社会の寄生者としての地主の地位がどうにもならないほど、あからさまになったためもある。たいていの地主は、不在地主であったし、しかも彼らの土地は賃金の支払いをうけるという点以外は、農奴労働と少しもかわりのない農民の労働によって、耕作されていた。この罪悪感のために、つまり、地主たちが、文化と思想の元祖とみなしている西欧世界に類例のない搾取的な地位を占めているという感情のために、20世紀に入ると、少しでもものを考える地主は、自分を養っている社会制度に確信がもてなくなった。ところが、ロシアの地主階級出身の知識人は、西欧で発達したような社会関係にたいしても、やはり批判的であった。

 レーニンの最初の重要な労作で、ロシアの農民の問題がとりあつかわれたのは決して偶然ではなかった。ツルゲーネフの言葉によれば、農民は「全ロシアのスフィンクス」であった。すべての政党が農民の支持をもとめたし、また、大多数の政党がそれぞれ自分の党こそは、農民の支持を受ける資格があると主張していた。だが、農民という暗黒の大衆が実際に何を考えているかは、ほとんどつかまえようがなかった。スラヴ主義者と人民主義者は、くずれつつあるロシアの農村共同体制度にロマンチックな夢を託していた。だが、実際には、農村共同体は農業生活上の比較的些細なことにかんする自治制度と、重要なことがらについての官僚統制を結合したものにすぎなかった。ブルジョア自由主義者は、西ヨーロッパを横目でみながら、富農、つまり、クラークを理想化していた。

17、18世紀のイギリスの自由主義者はヨーマンを国の柱石として賞賛したが、ロシアの自由主義者もこの先輩の例にならって、クラークに注目し、農民大衆から目をそらした。初期のロシアのマルクス主義者は、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立に注意を集中して、最初のうちは農民を無視しがちであった。彼らはちょうど人民主義者とは反対に、主として都市労働者にたいして宣伝活動をおこなった。人民主義者の場合には、「人民の中へ入る」とは、農民の中へ入ることだったのである。

 だが、農民はロシアの人口の大半をしめている。状況がどう変わろうが、彼らが大きな勢力であることにはかわりなかった。昔は、彼らは革命的勢力だった。1774~6年には、プガチョフの率いる農民一揆が、ヴォルガの両岸にわたる広大な地域を支配下においたこともある。1861年の改革の前後にも、農民の暴動があって、地主の邸宅が焼き討ちされたり、囲いが打ちこわされたりした。レーニンが成年に達したころには、農民大衆の状態はたえがたいほどひどりなり、農村地方には不満が沸騰していたので、遂に1905年~7年には、ほとんど自然発生的に爆発したほどであった。もし、農民を立ち上がらせて指導する方法を発見できる党があれば、その党こそはロシアにおいて最も強大な勢力をにぎることであろうことはまちがいなかった。

 レーニンは農業問題について、実に豊富な知識をもっていた。彼がカザンにいた18歳のとき、何時間もかけて農民と彼らの問題を話し合ったために、注意を受けた。レーニンがサマラで法律業務にたずさわっていたときには、土地に関する紛争と貧農の弁護を専門にしていた。それ以前には、彼は、サマラ近郊の資本主義的発展の規模について、母の村の急進主義者と長時間の議論をしたことがあった。レーニンはこの友人に頼んで、自分で作った書式にしたがって、200戸の農家についてのくわしい数字をあつめてもらった。ペテルブルグへ旅立ったときにも、レーニンはこの書類を仕上がってとどけられるまで、やかましく督促した。

レーニンはシベリアへ流刑にされて環境が一変したときにも、再び、その地方の比較的裕福な農民を相手に、定期的な法律相談に応じたり、彼らから情報を手に入れたりした。他の連中が農村共同体についての理論を組み立てたり、農村共同体から社会主義へ直接に移行するみとおしについて思索したり、農民魂について論じたりしている間に、レーニンは農民の実際の状態をしる参考になるようないっさいの政府文書や公式調査報告書を掌握して、くわしい統計的分析をおこなった。『ロシアにおける資本主義の発達』(1899年)とその後にでた『ロシアの農業問題』(1908年)がそれであり、これはいまなおこの問題についての古典的な労作である。

 初期の労作の表題をみれば、レーニンの到達した結論が推察できる。実際には農村共同体はまっしぐらに分解しつつあり、農村共同体は資本家的借地農と農業労働者とにおきかえられつつある、と彼は分析した。単一の社会的グループか、単一の政治勢力であるかのように「農民」とよぶのは、誤りである。実際には、農民は相対立する階級的利害によって内部的に分裂していたのである。レーニンは三つのグループを区別した。

(1)50エーカー以上の耕作面積をもつ富農またはクラーク。彼の計算によると富農はロシアの全農業人口の12%を占め、土地面積の31%を保有していた。(2)35~50エーカーの保有地をもった中農もしくは小所有者、これは農村人口の7%、農地の7%を占める。(3)保有地が35エーカー以下で、普通は馬をもたないか、またはせいぜい1頭もち、土地と馬を借りるためにしばしば賃労働者として稼いでいる貧農、これは農村人口の81%を占め、土地の35%を占めている、とレーニンは見積もった。なお、その他に農村人口の0.002%を占め、土地の27%を所有する大地主があった。

 このように資本主義は、ロシアの農村地帯でも成長しつつあった。だが、その発展を遅らせる一つの要因が存在した。それはミールであった。「ミール」というロシア語の単語はすばらしい言葉で、「農村共同体」という意味があるだけでなく、農民にとっては本来それと同義である三つのこと、つまり、「世界」、「宇宙」、及び「平和」という意味を持っている。共同体を破壊するものはまた平和の破壊者でもある。この古代的な制度が、19世紀のロシアに存在した民主主義と自治制度の舞台であった。共同体は共同体所有地をもっていた。もっとも耕作は、通常、別々に行われていた。共同体は時々、農民保有地の再分配を行った。

 1861年以後は、共同体が租税の徴収と賠償金の支払について、国家に責任をおうことになった。レーニンが指摘したように、共同体は「もはや自発的な団体ではなくて、官製の団体」になってしまったのである。行政事務の上でも、徴税事務の上でも、共同体は国家の役に立った。共同体は官僚の監視のもとに自己の業務を行い、共同体員の犯したいっさいの非行について責任を負った。従って、官僚は、共同体を保護温存して、1861年以前に地主の負担になっていたいろいろな行政事務を共同体にひきつがせようとした。1907年までは、農民が共同体から脱退することが、わざとなるべく困難なようにされていた。

 だが、資本主義的関係と資本主義的心理が農村に侵入かるにつれて、ミールはしだいに掘り崩された。しだいに、共同体は富農に支配されるようになり、定期的な土地の再分配のさいに、富農は自分の保有地をふやしたり、租税公課のふたんを貧農に転嫁したりしたので、共同体はもはや平等化の作用をしなくなった。1903年にレーニンは「貧農」によびかけて「われわれに必要なのは富農と闘うための団体だ」と述べた。「だから、ミールはわれわれにとってはまったく何の役にもたたない」と。だが、その反面、共同体は資本を有利に投下できるような囲いこみ農場の出現をはばみ、抵当や売却による土地の集積を制限したので、共同体の遺物はクラークの企業と創意をもさまたげた。ミールの遺物は経済的に不適当な制度を人工的に温存し、労働者の移動をさまたげた。

 したがって、レーニンの結論を要約すると、資本主義はすでにロシアの農村地方でも発展しつつあり、それにともなって農民の階層分化も進んでいる、というのであった。少数の富農、クラークは繁盛しており、不幸な隣人を搾取できる地位にあった。一方、これよりはるかに多数の農民はおちぶれて、地主やクラークのもとで、賃労働者として働かなければならなかった。両者の中間には、自らの所有地を小規模に耕作しているかなり多数の「中農」がいた。このグループはたえず減少しつつあり、少数のものはクラーク階級になりあがり、多数のものは貧農におしさげられた。

 以上のことを社会的にみれば、きたるべき革命においては、あらゆる層の農民が中産階級の指導に従うだけでなく、ブルジョアジー自身よりもはるかに急進的になる、ということを意味する。1905年にレーニンは次のように書いた。「現在、農民は私有財産を絶対に保存するというよりも、大土地所有を没収することに、いっそう大きな関心をもっている。……だからといって、農民が社会主義者になるわけではないし、プチ・ブルジョアでなくなるわけではないが、農民が民主主義革命の誠実な、最も急進的な味方になることは、可能である……革命が完全に勝利をおさめたときにはじめて、農民は農業改革の面でのあらゆるもの-農民が渇望し、夢想し、真に必要としているいっさいのもの-を手に入れることができる」。そこで、レーニンは、「プロレタリアートと農民との革命的、民主主義的独裁」を擁護し、革命を維持し、防衛するために、社会民主党が臨時革命政府に参加することになってもよいと考えた。

 1905年の革命のときには、レーニンはさしあたりブルジョア革命を問題にしていたが、そのときでも、次のように付言した。「われわれは、われわれの力に応じて、つまり階級意識のある組織されたプロレタリアの力に応じて、民主主義革命から、ただちに社会主義革命への移行を開始するであろう……われわれは革命を中断させたくない。われわれは中途でやめはしない。」

 レーニンは分析の結果、いったん、封建的搾取と特権が根こそぎにされたら、ブルジョアジーだけでなく、クラークもまた社会主義革命の脅威に戦慄するだろう、と考えた。しかも、クラークは経済的に有力な地位を占めているから、おそらく、その他の農民の動向を左右できるであろう。だが、階級的利害についていう限りは、農民の多数を占める貧農はもちろんのこと、中農にしても、彼らにとって有害無益なブルジョア支配の永続化を、積極的に支持する理由はまったくない。貧農と大多数の中農にたいする重苦しい圧迫のもとになっているのは、ほかならない、農村における資本主義の発達である。したがって、もし、クラークの影響下にあるこのグループを、社会民主労働党が獲得することができたら、彼らが社会主義革命を積極的に支持するはずはないし、まして、もし社会民主労働党が農村を地主とクラークの搾取から解放するという約束を実行するなら、なおさらそうである。いいかえると、団結した農民によって封建制がうちたおされたのちにくる、次の局面は、クラークにたいする貧農と中農の対立であり、それは都市におけるプロレタリアートとブルジョウジーの闘争に連なる農村内の闘争である。

 農民についてのレーニンの分類は、この問題に関するその後の研究にとつても、つねにきわめて有益だった。だが、レーニンにとっては、それは決して単なるアカデミックな問題ではなかった。それはいろいろな段階におけるボリシェヴィキの農民対策の基礎であった。(1)全農民とともに封建制と闘い(2)中農を中立化して貧農とともにブルジョアジーと闘い(3)国家の圧力と大規模集団農業の有利な経験をつかって、クラークにたいする最終的闘争のために中農を獲得する、というのがそれである。「社会的、集団的協同組合的な……耕作方法の有利なことを、実践をとおして農民に説得することができたら……そのときにはじめて、国家権力を握った労働者階級が、その立場の正しいことを農民に説得し、何百万という農民を本当に恒久的に味方に獲得することができるだろう」。だから、レーニンは集団化を強制的に行うという提案には、いつも必ず反対し、人間は自分自身の経験によって学ばない限り、決して納得しないものだと主張した。

 だから、1905年と1917年の農村ソヴェトや1918年の貧農委員会からはじまって、ソヴェト政府がクラークを「階級として絶滅する」ことを主張した1934年にいたるまでの、ボリシェヴィキの政策には、首尾一貫した一本の筋がとおっている。

 レーニンの分析がボリシェヴィキ党によっていかに有効に利用されたかどうかは、次の例によってはっきりと分かる。10月革命の直後に、ソヴェト政府は、人民主義者の後身である社会革命党(エス・エル)の農業政策を、ほとんどそっくりそのまま採用して、エス・エルの指導者が8か月間、政府の官職についていた間に、目につくほど実施しなかった政策を完全に実現するために農民の支持を求めた。この問題をめぐって社会革命党の内部で分裂がおこった。エス・エルの左派は、ソヴェト政府に参加して、農民大衆の支持を得た。そこで、右派の古い指導者は孤立化して、ほとんど問題にならなくなり、急速に反革命の白衛軍の中に吸収されてしまった。

社会革命党の上部機関は、クラークと自由主義者の利害と欲求によって動かされているが、農民大衆と都市労働者の間には、利害の衝突は全くない、とレーニンはいつも論じていた。レーニンの分析が党にとって大いに役に立った第二の例は、内戦と干渉戦のときのことで、当時は、交通と通信が崩壊して、都市と軍隊は食料不足に苦しんでいた。余剰穀物をもっている農民はそれをこっそり隠していた。ボリシェヴィキはこの非常事態にさいして、投機的な退蔵によって利益をえることが最も少なく、革命の敗北によって失うものがもっとも多い農民によびかけた。ボリシェヴィキは、村ごとに、貧農委員会をつくり、穀物を摘発したり、没収したりする広汎な権限を与え、都市に対する食料の供給をこの委員会にまかせた。その結果、穀物を手に入れることができ、都市は飢えをまぬがれ、革命は救われた。それから10年とたたないうちに、都市は集団農場を結成した貧・中農に何百台、何千台ものトラクターや収穫機を送って、この恩返しをした。

 『ロシアにおける資本主義の発達』は、マルクスが西欧の工業国の労働者階級の運動のためにつくりあげた理論を、農業国に適用したものである。だから、レーニンの分析と戦術はロシア以外の国にもあてはまるし、また、レーニンが死んでからも、長い生命をもっている。こうして、レーニンは、この貧農のうちに、きたるべきロシア革命に際してのプロレタリアートの同盟軍を見出したのである。1905年の革命はレーニンの農業綱領と農業理論に、変化をもたらした。「血の日曜日」からまもなく、農民蜂起が始まり、地主の屋敷への襲撃が起こってきたのである。このため急遽、「切り取り地綱領」は決定的に放棄されることになり、新たに皇族領地、教会領地などを含む全地主所有地の没収が、第四回大会(1906年4~5月)でレーニンによって提案されることになる。

 では、地主の土地の全面的没収と農民への返還は、ブルジョア化しつつある地主経営地を、小農民に分割することによって、前ブルジョア的小規模生産を理想化するナロードニキのユートピアに道をゆずることにならないか。そうはならないとレーニンは言う。全体としてロシアの今日の地主経営は、資本主義的経営方式によるよりも、むしろ、農奴制的、債務奴隷制的経営方式によって維持されているからである。土地の農民への移行は、農業のブルジョア化をすすめるものだからである。

 そして、1907年の末に『1905-1907年のロシア第一次革命における社会民主党の農業綱領』を書き、革命の教訓と深化を土台に、ボリシェヴィキとメンシェヴィキならびにエス・エルの『農業綱領』の全面的な総括を行った。レーニンは、農業の資本主義的進化には、農奴制的大土地所有が徐々にブルジョア的経営に転化していくプロシア型の道と、大土地所有を革命的に粉砕して、農民自身が資本主義的農業経営者に転化していくアメリカ型の道の二つの道があるとした。そして彼は、革命後の首相のストルイピンによる『農業改革法』(1906年11月9日)を基本的に前者の道ととらえ、この地主的コースにたいして、農民的コースとして後者を対立させたのである。

さらに彼は、『労働者党の農業綱領の改訂』のなかで、地主の土地の没収と並べて、「一定の政治的条件のもとでの国有化」をはじめて明確に要求し、前記の『農業綱領』のなかでくわしく検討を加えている。レーニンはもともと土地国有化をブルジュア的農業改革の最も完全な形態とみなしていた。だが、あいまいなエス・エルの「土地社会化」や「州有化」の要求にたいしては否定的であった。しかし、1906年の第二国会でエス・エル分派の「トルードヴィキ」に属する農民代表が、土地私有の廃止と農民による土地利用の完全な自由を主張したことから着想が現実化した。したがって、『農業綱領』と1917年10月革命直後の『土地についての布告』に付された『農民要望書』は驚くほど一致している。この『農民要望書』には次のようにかかれている。

「(1)土地の私有権は永久に廃止される。 

(2)すべての土地は……全人民の財産になり、そこで働くすべての勤労者の用益に移される。」

こうして、1907年のレーニンは、1917年革命において実現されるべき『農業綱領』の核心に到達していた。

 

12 ソヴェトの誕生

 

1905年の革命の中心は、モスクワとともに、あるいは、それ以上に、ペテルブルグにあった。首都の社会民主主義組織は、彼らの力量と古い地下組織的運動形態をこえて発展する大衆運動を組織し、組織する力量が不足していたし、両派の分裂が障害を生んだ。こうして無党派の工場代表者代議員による組織が生まれた。代議員は、おおよそ労働者500人につき1名の割合で、工場から選出され、革命的規律のもとで政治ストライキを指導した。この組織には、1905年2月ロシアへ潜入したあのトロツキーが加わり、指導的役割を演じた。

1905年10月、最初のソヴェト(労働者・農民・兵士代表者会議)が自然発生的に形成された。「ソヴェト」とは、もともと「評議会」という程度の平凡なロシア語であるが、生産点における代表の直接選挙、リコール権、代議機関が同時に執行機関であるという原則に立つ革命組織としての「ソヴェト」は、こうして誕生したのである。レーニンはただちにソヴェトの偶発的な役割を予見して、論文を書いている。この論文では、このソヴェトを、革命政府の萌芽として規定すると同時に、蜂起の機関であり、政治指導の中心であり、ブルジョウ民主主義革命の綱領(完全な政治的自由、普通選挙で選出された憲法制定会議、人民の武装、被抑圧諸民族の解放、労働日のための8時間労働日、農民への土地引渡)を実現しうる革命的独裁の中心として規定している。

ペテルブルグ・ソヴェトの第一回総会は、1905年10月13日に開かれたが、ボリシェヴィキはそのイニシアティブをとれなかった。社会民主労働党以外の革命組織という考え方は、伝統的なボリシェヴィキの思想的財産には乏しかった。しかし、レーニンは、ただちに、この組織の重要性に着目し、労働者代表ソヴェトは、政治的には臨時革命政府の萌芽とみるべきであることを訴えた。そして、職業的組織としての労働者代表ソヴェトは、あらゆる人々の代表を入れるように努力すべきであり、社会民主主義者は、そのなかにはいり、見解の相違を超えて行われるプロレタリア的同僚との共同闘争を推進すべきことを説いたのである。労働者代表ソヴェトか、党かというボリシェヴィキの設問にたいして、レーニンは、労働者代表ソヴェト、党、でなければならないと答えた。

レーニンとトロツキーは、萌芽的ソヴェトを、革命権力の機関とみる当初の認識については共通していたが、政治的ストライキを当面の主要な闘争手段としていたトロツキーと、武装蜂起に眼目をすえていたレーニンの間には、次第に意見の食い違いが現われてきた。

蜂起と関連して、レーニンの脳裏には、労働者ソヴェトとともに、農民ソヴェトと兵士ソヴェトの構想が去来していた。これらはやがて、1917年に歴史の試練を受けることになる。

1905年11月、レーニンは、ペテルブルグへ戻って、そこで、半合法的な生活を送り、革命活動の公然面には姿を現さず、文筆活動と舞台裏の仕事では非常に活発な活動を行った。彼は合法的機関紙『ノーヴォエ・ジーニズ』の指導権をとった。そしてボリシェヴィキ派第一回協議会をタムメルファルス(フィンランド)に召集した。レーニンは、この協議会に、情勢にかんする総括報告と農業問題に関する報告を提出した。革命が敗北に終わると、メンシェヴィキは「武器をとってはならない」と声明をだした。この声明にはプレハーノフも加わっていた。これにたいしてレーニンは、「敗北に終わった革命は勝利に輝く革命を準備するだろう。そして敗北に終わった革命は『総稽古』である」と反撃した。レーニンは、また、カデット(立憲民主党)にたいして、彼らの議会的幻想と敗北行動にも一部の責任があり、彼らは「革命の死肉を喰うもの」であると、非常に激しく攻撃した。

では、ソヴェトとは、一体何なのか。すぐ想像がつく類似のイメージは、マルクスがパリ・コミューンの経過のなかで垣間見た、コミューン型の国家である。マルクスは1871年のパリ・コンミューンにふれて、実現しつつあった、その国家機関のあり方を次のように描いている。

 

《コンミューンの第一の布告は、常備軍の廃止と、武装人民によるその代替とであった。

コンミューンは、市内各区における普通選挙によって選出され、有責であって短期に解任され得る市会議員から形成された。その議員の多数は、勢い、労働者、乃至は労働者階級の公認代表者であった。コンミューンは、代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた、行動体であった。警察は、依然として中央政府の手先きであるかわりに、ただちにその政治的属性を剥奪され、そして責任をおいいつでも解任され得るコンミューンの手先きとなった。行政府の他のあらゆる部門の官吏も、そうであった。コンミューン議員以下、公務は、労働者賃金においてされねばならなかった。》

『フランスの内乱』 マルクス著 木下半冶訳

 

そして、このコンミューンは、本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで社会的・経済的解放を達成するべき、ついに発見された政治形態であったとした。エンゲルスは、『フランスの内乱』の第三版の序文において、パリ・コンミューンを「プロレタリア独裁」と呼び、マルクスがパリ・コンミューンにいだいた思い入れを補足するように、労働者階級は権力を掌握した場合、行政上・司法上・教育上の代表者を一般投票で行うこと、また、その代表者は一般の労働者が受けとる賃金のみを支払うことなどを取り上げて評価した。とりわけ、この旧来の国家機関の全面的な破壊と、真に革命的なものの創造によるそれの代替が必要不可欠な要素であったとむすんでいる。

のちにレーニンは、10月のロシア革命の前夜に書き上げた『国家と革命』のなかで、パリ・コンミューンの経験に関するマルクスの分析に論及している。レーニンは、マルクスが、このパリ・コンミューンの経験をもとに、「プロレタリア独裁」の概念として抽出し、これを足がかりにして、従来の国家理論の一部の見直しを行ったと考えた。その一部とは、《労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない》ということの意味あいであった。これに関するマルクスの主意は、革命は既存の国家機構を単に奪取するのにとどめるのではなく、その官僚・軍事国家機構のすべてを廃絶しなければならないことであると述べている。

 そして、粉砕された国家機構は何にかえるかについて、マルクスがとりあげたのは、常備軍の廃止、公職者を公選で選び、すべての役職をリコールの対象にすること、議員報酬や官僚の金銭的特権を廃止する等が、国家のその質的転換であるとする。これは、もう特定の階級を抑圧するための特別な権力という国家の枠組みをこえ、すでに本来の意味では国家とはいえないものに転化しており、「半国家」または「準国家」という段階に到っているとした。その上で人民の大多数が支配する権力は、もはや抑圧の必要性が薄れ、国家は死滅を開始する段階にはいるとしている。これが、マルクスが提出した過渡期の「プロレタリア独裁」の国家の原型ともなるべきものだった。

だから、マルクスのプロレタリア独裁という概念は、労働者の意志によって、コミューン型の国家が、これから死滅の準備をするために、さけてはとおれぬ統制力ぐらいにかんがえていた。いわば、コミューン型の国家権力の掌握は、マルクスにおいては、プロレタリア独裁によって、国家を開き、その基礎をなしている社会への埋め込みするイメージをともなっていた。そして、国家の権力を掌握したと同時に、プロレタリアートも、また、階級として自己を死滅させる俎上に乗せたことを意味した。なぜなら、国家のある階級とは形容矛盾でしかないからだ。

 このような国家の像に向かって、はっきりした自らの国家像を対置し、受容したのは、マルクス主義者のなかには数えるほどしかいなかった。そのひとりであるレーニンは、マルクスの国家のイメージをどのように受けとめたのか。

 まず、レーニンが、特に、こだわったのは、ひとつは、1905年に大衆の自然発生的に誕生した「ソヴェト」にコミューンの肩代わりができるかどうかということだった。これは、マルクスの知らない未知の国家機構といえた。だから、入念に検討したのだ。

もうひとつは、マルクスのイメージを<変形>しており、見分けがつかないぐらいに微妙なものだった。つまり、議員報酬や官僚の高級国家官僚の俸給の引き下げなど、官吏の経済的特権の廃止に関するものであった。その上で、レーニンの描いた構想はこうだ。コミューン(ソヴェト)は、権力を握るや、国家官僚特有の「上からの指揮」を廃止し、それにかえて「現場監督・会計係」にたとえられるような、新たな官僚機構を構築し、その新官僚機構があらゆる官僚制を徐々に廃止する。これがプロレタリア革命を成就するための第一段階であることになる。ここからは、ますます平易化する「現場監督・会計係」の役割を全員が輪番でこなすようになるというのだ。

 

《計算と統制-これこそ、共産主義社会の第一段階を「軌道に乗せる」ために、これをただしく機能させるために要求される主要なものなのだ。ここでは、すべての市民が、武装した労働者である国家に雇われる勤務員に転化される。すべての市民が、一つの全人民的な国家的「シンジケート」の勤務員と労働者になるのだ。そして、すべての市民が仕事の規準を正しくまもって平等に働き、平等に賃金を受け取ること、これがすべてである。これを計算し、これを統治することは、すでに資本主義によって極端なまでに単純化され、読み書きのできる人間ならだれにでもできる監督と記帳、算術の四則の知識、それ相応の受領証の発行といった程度の、ごくかんたんな作業に変えられている。》

『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳

 

つまり、ここに現われているのは、大衆全員が、革命によって国家の勤務員に上昇することが平等と権利の前提になっているのである。マルクスにおいては、国家とは下降して社会のなかに埋め込み解消すべきであるにもかかわらず、レーニンは反対に、国家のイメージを、割り当てのきく単純な共同作業にかえたのである。この上昇志向は、レーニンの党組織論、大衆組織論においても、ともすればアジア的思想の専制主義の心性に変質し、啓蒙主義の裏面に貼りついて、表れてきたものだ。

 わたし(たち)には、このレーニンの想定する国家は、生産手段の国有化と同様の近似値で、人民の総官吏化を意味しているようにみえる。これは、『共産党宣言』のなかでマルクスが、共産主義の第一段階として@土地所有の収奪A強度の累進税B相続権の廃止C亡命者、反逆者の財産の没収D信用の国家集中E運輸機関の国家集中F国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化、改良等々の例をあげていることに、原因があった。つまり、「国有化」がそのままプロレタリア国家の条件に属するように誤解された理由である。

ここで、レーニンの原始的民主主義の理想は、国家の仕事を簡略化するという理由で画一化し、だれでもできる簡単な機能という理由で、統制・組織化に向けて、国家を平板化する作為を内包しているようにみえる。国家のあり方のひとつの例でしかない原始的民主主義が、平等に資格と機会をもって輪番制で行われる人民の大多数の国家義務の方向に向きをかえて、同じ民主主義といっても、国家にたいする自由を意味するものではなく、大衆が国家へ参画するための手段になっているのである。こういう理解の仕方に立つと、個人の恣意的な自由を必ず疎外していくことになるのは自明である。

特に、ロシアのようにアジア的思想を濃厚に背負った共同性のなかでは、必ず、個人と共同性が癒着する関係が必ず形づくられる。レーニンのなかには、もっとストレートに高度化した生産工場の作業イメージが入り込むところかもしれないが、その構造にも、原始的民主主義を転倒させる必然性があった。その意味で、レーニンのこのイメージは、いわば「国家資本主義」に限りなく近づいていく。全員が国家の一員として、隙間なくはりめぐらされた独占機構のシステムの窮屈さにあたう限り似ているのだ。これは、どうみても、原始的な民主主義にはみえない。ただ、通常の労働者の低い賃金に見合って、遂行できる程度にまで、簡単な機能になることだけが、平等化の目的をかたちづくっているにすぎないからである。

レーニンは、これこそが資本主義から社会主義にいたる現実的な架け橋になるといっているが、むしろ、マルクスの古典近代期から遠く変貌した国家資本主義のイメージでしかない。なぜ、レーニンは権力獲得後、即時に国家(ソヴェト、人民委員会政府)を廃絶し、死滅する方向に舵切りをしなかったのか。これは、彼の原始的な民主主義が、あくまで上昇志向の民主主義であったからだ。また、それによって利権を得る立場の勤務員(官僚)が生じさせたからだ。

レーニンがソヴェトを、マルクスのコミューン型国家に似せて、未来の構想を描いたのはまちがいない。その理由のひとつは、レーニンやマルクスが議会制を否定していることをとりあげたことである。臨時政府との二重権力で拮抗していたソヴェトにとって、議会制とは、支配階級の人民抑圧の道具であり、これは立憲君主国に限らず、民主主義の最先端をいく共和国においても同様である。それにひきかえソヴェトは、駄弁のとびかうブルジョア社会の腐敗した代議制にかえて、議員が自分の足で活動し、自分の手で法を執行し、自分の目で実施事項の確認を行い、選挙民に対して自分自身で責任を負う代議制の実働機関にするのである。社会主義の政治的原則を提示したレーニンが愚直なまでにこだわったのは、このパリ・コンミューンの擬似的なイメージだった。だが、コミューン型国家とソヴェトは、なぜ、このような誤差がでるのか。レーニンにとっては、最初に国家とは何かの定義が間違っていたからだ。

 

《マルクスによれば、国家とは階級支配の機関、すなわちある階級が他の階級を抑圧するための機関であり、また、「秩序」を形成することによって、そうした抑圧を合法化・固定化しつつ、階級相互間の衝突を緩和することにほかならない。》

『国家と革命』 レーニン著 角田安正訳

 

マルクスが開かれていく国家、あるいは死滅していく国家のイメージを提出している前で、レーニンが前提にしているのは、他の階級を抑圧する道具としての機関でしかないのである。マルクスがいっているのは、国家と呼ばれる権力、すなわち社会のなかから発生しながら、社会のうえに君臨し、市民社会を逆倒した鏡に映す、疎遠になっていく政治権力の意味である。それを階級抑圧機関に矮小化したレーニンは、それは武装した人間からなる特殊部隊(警察・常備軍)で、監獄そのほかの施設をともなっている暴力装置とみなした。抑圧された階級を搾取する道具としての国家の役割は、大衆自体が普通選挙権をもつ民主共和制のもとでも本質的にかわらない。レーニンは、現在は、一握りのブルジョアジーが、大多数の被抑圧人民を支配する道具であるブルジョア国家は、プロレタリアートがブルジョアジーを抑圧するための権力(プロレタリアート独裁)におきかえなければならない。プロレタリアートは、まず、最初に、政治権力を掌握したのち、政治的支配権を手に入れ、国家を支配階級として組織された武装したプロレタリアートに変えなければならないという。そして、これこそがプロレタリア革命によるブルジョア国家の「廃絶」である。ブルジョア国家は「死滅」するのではなく、そこでは、革命の過程でプロレタリアートによって廃絶されるのである。その際、このブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は、暴力革命をぬきにしては不可能であることになる。その上、その組織されたプロレタリアートは、国家権力、中央集権的な権力組織を必要とする。それはブルジョアジーの抵抗を抑圧するためであり、社会主義の新たな経済的体制を創出する作業において圧倒的多数の住民、農民、プチブル、半プロレタリアートを組織化するためであった。いわば、ここでは、レーニンの国家機能(支配の道具)論が、一般大衆が権力を掌握したばあいにも、同じ機能が披瀝されていることになる。機能があれば必ず効率化がつきまとう。勤務員の効率化が国家を単純な計算と統制にすることがそれだった。

レーニンの思想の分水嶺は、被抑圧者が多くなればなるほど、抑圧者は次第に消滅していく過程が、民主主義が徹底すれば社会主義に転化していくことと同じことを意味した。国家を死滅するためには、国家行政の間口を広げ、機能を単純化し、それを住民の大多数に務まる単純な作業にしているからである。また、出世主義を完全に排除するため国家行政ポストを労働者と同等の賃金にしているのである。レーニンは国家あるいは政治的国家の理解をあきらかに間違えていた。

 なぜなら、擬似コミューン型国家=ソヴェトは、やがて政治革命によって権力を掌握したが、そののち、マルクスが示した下降するイメージの代替案を提出することができず、ソヴェトは人民委員会政府の影にかくれて、またぞろ、官僚支配を始めることになったからである。ソヴェト国家は、国内戦と干渉戦の名目をもって、死滅と解消の任務を放棄したまま、常備軍を放棄するどころか赤軍を増設し、警察も官僚機構も、旧態依然のまま復活した。すべての官僚機構を完全に廃絶し、新しいコミューン型国家をつくるという発想は、現実情勢の必要性というモチーフによって、旧軍人や警察官あるいは官僚をよびもどして、もとの席につかせたというだけだった。また、公務員のリコール制も公務員の給与を一般の労働者や大衆を上回らないという基本原則も放棄されてしまった。こうして、ソヴェト国家の内実は、「コミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家」になったにすぎなかった。

 国家にたいしてプロレタリア革命がいかなる態度をとるべきか。レーニンの掲げた原則はここで明らかに躓いた。しかし、歴史は皮肉にもレーニンの思想は、何ものかによって<変形>され、マルクスの思想とはまったく対極のソヴェト国家をもたらしたことをおしえている。国家は死滅するどころか、党と官僚組織はますます肥大化し、テロと粛清と相互不信の恐怖政治がうまれたのである。その後のソ連邦の歴史は、スターリン主義というレーニンの模造をつくった。大衆はその裏切りを気づくまでに、70年を要した。

この原因はどこにあるのだろうか。レーニンのあとを引き継いだスターリンにすべての責任をとらせるべきなのか。レーニンとともにロシア革命を指導し、やがて左翼反対派となったトロツキー(1879~1940)は、スターリンによるソ連邦追放後、1936年の『裏切られた革命』で、スターリンをやり玉にあげて、そう信じてそれと闘った。

だが、そうではない。「コミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家」こそ、レーニンが示したプロレタリア独裁の内実だったからだ。ここにおけるレーニンの錯誤は、もうひとつあった。それが「ボリシェヴィキ党の集団による生産手段の国家所有化」という錯誤である。この二つがあわさってプロレタリアート独裁なる概念にむりやり押しつけた。それがマルクスとレーニンの関係である。

ここには、同じプロレタリア独裁という言葉を使っていても、国家を死滅に向けて開いていく半国家と、「国家死滅を標榜しながらも、国家を無意識に肥大化させてしまう国家」の違いが明瞭にあった。これには、レーニンの思考の型が、「少数のエリートの前衛集団」(ボリシェヴィキ党)による革命が、いわば「宮廷革命」としてクーデタ化(アジア型行動)する着想にまず原因があった。また、国家を権力支配の道具としてしかみない狭窄した国家像があった。そのほか、ボリシェヴィキ党の集団が、国家官僚に閉じられアジア的に密教化した構造があった。ボリシェヴィキ党は、決して現実のプロレタリアートを意味するものではないはずなのである。にもかかわらず、それらはすべてを含めて、言葉の厳密な意味でプロレタリアートの独裁ではなくアジア型官僚専制に転化する危うさをもった。ロシアのようなアジア的な思想が支配的な国家においては、少数のエリート前衛集団は必ず閉塞し、現実のプロレタリアートを占有する専制主義がたえず出現する。

トロツキーにとっては、レーニンの掲げた理想を裏切ったのは官僚専制であり、スターリン主義の問題であった。彼が第二補完革命の対象とするのは官僚絶対主義であり、「スターリン主義」とはそのことをさしていた。トロツキーが内省する能力をもっていたなら、自分たちの行動そのものを反省すべきだった。

レーニンの想定したプロレタリア独裁の体制は、そもそも誕生のときから、古い意味での「国家」を脱皮するはずだった。官僚機構としての国家はプロレタリア独裁の初日から死滅しはじめる。ところが、ソヴェト国家は死滅しなかったばかりか、死滅しはじめようともしなかった。そればかりか、史上かつてなかったように、官僚が大衆に席をゆずって消滅するどころか、大衆のうえに君臨する無統制の専制権力に転化してさえいる。マルクスが描いた労働者国家の構想と、スターリンがつくりだした国家の間には、かすみがかかったような遠い距離がある。それはなぜか。

 トロツキーの主張しているのは、レーニンの国家のあり方の定義は、ソ連が帝国主義戦争と内戦による国土の荒廃という歴史的地盤のうえで、すすんだ資本主義国家におよばない経済的後進性と国際的孤立性のなかにいることを前提にして、問題提起していなかったということである。しかも、もともとのはじめから、レーニンをはじめ初期の革命コースのなかに「世界革命」など想定されていなかったのである。しかも、革命的危機はヨーロッパに社会主義革命をもたらさず、現実には、国際的な支援もなかった。レーニンが「息つぎ期間」と考えていた時期が、こうして歴史的時間となってあらわれたのだ。このため、官僚主義と一国社会主義のあいだに閉塞された<変形>革命が生じたというのだ。レーニンはコミューン型の国家への移行をソヴェトの機構を通じて行こうとする意思はもっていた。しかし、第一次大戦による国民の疲弊、それにつづく内戦と干渉戦のなかで、その意思は保留され、旧帝制の軍事的な官僚機構の保存をいやおうなく求められた。これは、ソヴェトの官僚制を批判するトロツキーでさえ、認めている革命の擁護である。しかし、これは、もともと、アジア的思想の落とし穴に原因があった。

 

13 帝制の反動化

 

1905年12月11日、ウィッテは国会選挙法を公布した。これは、婦人、25歳以下の青年、軍人、若干の少数民族から選挙権を奪い、プロレタリアートの四分の三が、多くの制限を受けて選挙権がなかった。有権者は身分上、財産上でいくつかのクーリア(部類)に分けられ、間接選挙制が採用された。レーニンとボリシェヴィキは、第一国会のボイコットを呼びかけた。カデット(立憲民主党)が多数を占めた第一国会は、1906年7月8日、土地法案の審議の最中に、解散させられた。エス・エルから分かれたトルードヴィキが、土地の全人民への引渡しを要求する法案を出し、ボリシェヴィキがそれを支持し、農民運動が再びおこったことを政府が恐れたためだった。第二国会の選挙では、ボリシェヴィキは、以前の国会ボイコット戦術の正しさを確認しつつ、情勢の変化を考慮して、国会に入る方針を立てた。

レーニンは、議会が諸政党の本質を暴露するための演壇として、ささやかな利益をもたらすことをねらって、ボイコットを拒否した。メンシェヴィキがカデット(立憲民主党)との協定に向かったのにたいし、カデットの候補者にたいするボイコット反対と支持反対を声明した。レーニンは、ボリシェヴィキの非合法的機関を精力的に強化しながら、選挙闘争の利用、社会民主党候補の推薦をし、農民的民主主義派とともに、裏切り的な大ブルジョア的民主主義派(カデット)ではなく、「トルドヴィキ」(小ブルジョア的民主主義者および農民)との選挙ブロック支持を声明した。

1907年1~2月に行われた第二国会の選挙で、ペテルブルグの労働者クーリアでは、社会民主党が18名の選挙代表、エス・エルが14名の代表を獲得したが、前者のうち、ボリシェヴィキは11名を占めた。カデットは、一人も選ばれなかった。2月20日に開かれた第二国会では、全体としてカデットが前の議席の半分近くを失い、左翼が進出した。

革命の敗北によって、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとのあいだの意見の不一致は一時的に影をひそめていた。さらに、タムメルホルスのボリシェヴィキ協議会は統一決議を賛成可決した。1906年4月にストックホルムで第四回(統一)大会が開かれた。この統一は形式的なものにすぎなかったが、メンシェヴィキは彼らの農業綱領(土地の国有化ではなく、土地の公有化、このかぎりで、彼らはナロードニキ主義および社会革命党の思想を継承していた。)を主張した。特に、彼らは、ツァーリズムが認めた自由主義的「改良」を、すなわち国会-議会主義的、したがって、民主主義的な表現および解放の手段のなかに、希望をいだいていた。これらの幻影を払拭するには、「ストルィピン反動」が必要であった。

ロシア社会民主労働党の第5回大会が1907年4月から5月にかけて、ロンドンで開かれた。ここですべての方針について、ボリシェヴィキ的傾向が再び勝利をおさめた。レーニンが久しぶりにロンドンを訪れたのは、1907年のサウスゲート・ロードのブラザーフッド教会で開かれた党大会のときであった。ゴリキーは、そのときのことを、「馬鹿馬鹿しいほど飾り気のない……木造の教会の粗壁」のことと、演壇にたって反対派のメンシェヴィキを散々にやっつけたレーニンの姿を目に見えるように描いている。ジョージ・ランズビュリーが、レーニンを助けて、裕福な製造業者のフェルツから相当な額の資金を融通させてやったのは、この大会のことであった。1908年1月1日にこの借入金の返済期限がきたが、当時は、まだ、全然、返済資金がなかった。この借金は、10月革命でホリシェヴィキが勝利するまで、完済されなかった。1923年になって、元金に利子をそえて返済された。

このような財政危機が生じたのは、1905年の革命の敗北の反動期における沈滞と退廃のひとつのあらわれであった。革命の波の退潮と蜂起の敗北と、譲歩と見せかけだけの改良の時期がすぎて、ツァーリ政府が猛威をふるいはじめた。反動の時期が始まったのである。亡命者たちの精神的混乱と離合集散の時期でもあった。党からはインテリ分子の脱落が相次いだ。革命運動史上、もっとも暗い時代であった。その一方で、国会は解散され、社会民主党議員は逮捕された(1907年6月3日の政変)。攻勢そして敗北のあとに、革命の防御と退却の時期がまちかまえていた。レーニンは1907年の8月にシュトゥットガルトの国際社会主義大会に出席した。そして、この大会で、レーニンは、社会主義者は戦争の勃発に反対して闘うだけではなく、戦争を革命に転化しなければならないと主張する決議を、ローザ・ルクセンブルグとともに擁護している。

彼はフィンランドに退去し、1907年の12月に警察の追跡をうけて最後にはフィンランドを去って、ストックホルムを経て、ベルリンへ行き、ローザ・ルクセンブルグのところで一夜を明かし、1907年12月25日に、レーニンはジュネーブに到着している。その後の9年間、レーニンはまたもや亡命生活をおくることになる。1908年11月には、その当時のロシアの亡命者の中心地になっていたパリに居を移した。レーニン一家が、パリに引っ越したとき、家財道具が貧弱であったため、門番に軽蔑の目で見られ、図書館から蔵書を借り出すさい保証人をたのんでも、家主はそれを断るというほどの窮乏生活であった。 

このときから、彼の生涯のうちで最も苦痛に満ちた、抑圧と反動と裏切りの時期、そして戦争がはじまりかけていた。そういうレーニンのまわりにも革命の敗北につきものの幻滅と政治的退廃の雰囲気が漂っていた。しかし、この困難な時期は、彼の生涯を通じてもっとも実り豊かな時期でもあった。退廃のときこそ、思想の強靭さのほどがためされる。ジュネーブ到着後、ただちにボリシェヴィキ派の機関紙『プロレタリー』の国外発行の準備にとりかかり、1908年2月から刊行をはじめた。

 

14 戦闘的唯物論のために

 

唯物論やマルクス主義に非難攻撃をくわえるものが、各方面から出てきた。彼の側近とよばれる人々のなかからも出てきた。これらの批判や攻撃はいずれも、マルクス主義を擁護し、完全なものにするためであるとか、マルクス主義を現代的な思想や科学の水準まで高めるためであるという口実がつけられていた。これらにたいして、レーニンは1908年4月のマルクス没後25周年に当たって、『マルクス主義と修正主義』を書き、彼の反動期の哲学的労作の『唯物論と経験批判論』を1908年10月に書きあげ、翌年4月にモスクワで出版された。これは、幻滅した一部の亡命社会主義者が観念論と宗教に向かおうとする傾向を論駁するために、哲学の研究に没頭した結果であった。このせいで、彼の論敵はもはや哲学を党内にもちこもうとはしなくなった。

『唯物論と経験批判論』の第一章は、ボグダーノフらの経験批判論や経験一元論に原理を提供したオーストリアの哲学者兼物理学者、生理学者エルンスト・マッハと、ドイツの哲学者理非アルト・アヴェナリウスの認識論を、マルクス、エンゲルスの弁証法的唯物論の認識論と対比して批判している。マッハによれば、「物は、相対的な安定性をもつ感覚の複合をあらわす思想的記号である」。したがって、「世界は私の感覚だけからなる」。という結論になり、したがって、感覚は「実体」なしに存在する。すなわち、思惟は脳なしに存在する、ということになる。これにたいして、レーニンは次のように反論している。

 

《つまり物質が、われわれの感覚器官に作用して感覚を生みだすのである。感覚は脳、神経、網膜などに、すなわち一定の仕方で組織された物質に依存している。物質の存在は感覚に依存していない。物質は一次的なものである。感覚、思想、意識は特殊な仕方で組織された物質の最高の所産である。これが一般に唯物論の、とくにマルクス=エンゲルスの唯物論の見解である。》  『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

マッハやアヴェナリウスが、かりにこの感覚を「世界要素」とよび、自我と環境の「原理的同格」を口にしようとも、それはバークレー的な唯我論の装いをかえたものにかぎない、とレーニンは述べている。第二章と第三章では、マッハやアヴェナリウスとともに、ボグダーノフやバザーロフら、ロシアのマッハ主義者が批判されるのだが、ここでの核心は、意識から独立する客観的世界を意識が正しく認識できるか、というところに問題点があった。レーニンは、ボグダーノフの次の言葉を引用することによって、マルクス主義の認識の客観的真理性を否定する立場を表明している。

 

《わたしにとっては、マルクス主義は、あらゆる真理の無条件的な客観性の否定、あらゆる永遠の真理の否定を含んでいる。》 『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

それなら、彼によれば、《真理とはイデオロギー形式であり、人間の経験を組織する形式である。》ということになる。こういう認識は、レーニンは、《客観的真理の否定は不可知論であり、主観主義である。反映するものから独立した反映されるものの土台(意識から外界の独立性)は唯物論の基本前提である。地球は人類以前に存在していたという自然科学の主張は、客観的真理である。自然科学のこの命題は、マッハ主義者の哲学や真理についての彼らの学説とは和解の余地がない》と反論している。それは、マッハ主義者が「経験」という概念を認めるだけで、「経験」の外にあり、その源泉である客観的実在を認めないところから生じるのである。ここでレーニンは、この客観的実在が、物質であることを指摘し、彼のきわめて重要な唯物論哲学への寄与であるところの、物質の哲学的概念を次のように規定した。

 

《物質は、客観的実在を標示するための哲学的範疇であって、客観的実在は人間の感覚のなかで人間にあたえられており、われわれの感覚から独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され、撮影され、反映されるものである。》

                             『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

そして、人間の認識は、その無限の発展過程を通じて、この客観的実在と一致する客観的真理を正確にとらえていくことができる。

 

《現代の唯物論、すなわちマルクス主義の観点からみれば、われわれの知識が客観的、絶対的な真理へ接近していく限界は、歴史に制約されているが、しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがこの真理に近づいていくことは無条件的である》

『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

第三章では、因果性、時間と空間、自然と必然性などの問題について、レーニンは、マルクスとエンゲルスを引きながら、その唯物論的理解とマッハ主義的観念とを対比している。ボグダーノフによれば、「法則」は、決して経験の領域には属さない。それは経験のなかに与えられるのではなく、経験を組織して、これを堅固な統一へと調和的に一致させる手段として、思惟によってつくり出される。レーニンは、これにたいして、次のように答えている。

 

《因果性の問題における主観主義的方向は、哲学的観念論(ヒュームの因果論もカントの因果論も、この変種に属している)、すなわち多かれ少なかれ弱められ、希釈された信仰主義である。自然の客観的合則性と人間の脳におけるこの合則性の近似的に正確な反映とみとめることが、唯物論である。》 『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

 第四章では、レーニンはマッハ主義を現代の観念論的諸潮流のなかに位置づけ、それがカントの一層の主観的観念論化、バークレー主義と内在論が神学的神秘主義に通じていることを示している。第五章では、レーニンは19世紀末にはじまった現代物理学の危機と、マッハ主義との相関を分析している。古典力学の機械論的世界像は、ローレンツやストーニの電子の発見、キュリー夫妻とラザフォードの放射性崩壊現象の発見、「ローレンツ収縮」からアインシュタインの相対性理論にいたる時間空間概念の変容、質量とエネルギーの関連についての、まったく新しい理論の形成などによって、根本的な変革をこうむった。第一次ロシア革命の年(1905)は、アインシュタインの特殊相対論発表の年であった。「新しい体系は簡単に物質を電気におきかえる」というアウグスト・リギーの言葉を、レーニンはこの章で引用している。こうして、「物質は消滅した」という「理論」が作られた。これに対して、レーニンは、改めて弁証法的唯物論の立場から、次のように鮮明に表現している。

 

《弁証法的唯物論は、物質の構造と性質についてのあらゆる科学的命題が近似的、相対的な性格をもつことを主張し、自然のなかには絶対的な境界というものはなく、運動する物質は、一つの状態から他の状態-われわれの観点からはこの一つの状態と和解しがたく見える-へ転化するものである、等々と主張する。重さのないエーテルが重さのある物質に転化し、またその逆のことがおこなわれることが、「常識」の観点からみてどんなに異常であろうと、電子には電磁的質量以外のどんな質量も欠けていることが、どんなに「奇妙」であろうと、力学的な運動法則が自然現象の一つの領域だけにかぎられ、電磁現象のいっそう深い法則に従属していることなどがどんなに異常であろうと、すべてこれは弁証法的唯物論をかさねて確証するものにほかならない。新しい物理学が観念論に迷いこんだおもな理由は、物理学者が弁証法を知らなかったことである。》

『唯物論と経験批判論』 レーニン著 川内唯彦訳

 

ボグダーノフは、オストワルドのエネルギー論に熱烈な共感をよせ、エネルギーという概念が純方法論的概念であること、それが、客観的実在でないことを主張した。こうして物理学的観念論が産まれる。レーニンは、現代物理学の迷路を次のように定式化している。

 

《現代物理学は、このように歩いているし、将来もこのように歩くであろう。しかし、現代物理学は、一直線にではなく、ジグザグに、意識的にではなく自然発生的に、自分の「最終目標」をはっきり見ないで、手さぐりで、動揺し、ときにはうしろむきで、それに近づきながら、唯一の正しい方法と唯一の正しい自然科学の哲学へすすんでいく。現代物理学は産褥にある。それは弁証法的唯物論を産みつつある。》

 

第六章においては、レーニンは、マッハ主義者の社会観とマルクスの史的唯物論とを比較している。レーニンによれば、ボグダーノフの『自然と社会における生命の発展』(1902年)の一節を次のように引用している。「意識がなければ交際もないのである。だから、社会生活のすべての現象は意識的=心理的なものである……社会性は意識性と不可分である。社会的存在と社会的意識は厳密な意味で同一である。」これをレーニンは、社会学的観念論であり、社会的存在は、社会的意識から独立し、後者は前者の反映であることを指摘している。

レーニンの『唯物論と経験批判論』は、現在にいたるまで、マルクス主義哲学の古典としてエンゲルスの『反デューリング論』とならび称される著作であるが、なぜ、レーニンはこの時期に哲学的な問題をとりあげたのだろうか。それは、19世紀の後半、とりわけ『反デューリング論』以後、強まりつつあった観念論的諸潮流にたいして、マルクスとエンゲルスの影響をうけた弁証法的唯物論の見地を、一貫して擁護し、これを批判する意図があった。主観的観念論が、ロシアにおいてはナロードニキ(特にラヴロフとミハイロフスキー)に強く現われたが、レーニンはこれを最初の労作『「人民の友」とはなにか?』においてまず批判し、さらにボリシェヴィキをもとらえたマッハ主義と経験批判論らにたいして、全面的な批判を加えたのである。

この著作で批判されているボグダーノフの「経験批判論」的主観的観念論とその実践的帰結をみると、彼は、社会は「生物の社会的に組織された経験」であり、この経験の社会的組織化を、「認識論的社会主義」とよんでいた。そして、この組織の原理が法則であり、社会の法則は、意識から独立して客観的に存在するものではなく、人間がつくりだすものである。社会生活それ自体が、意識的生活であり、「社会的意識」の活動であるというものである。このような立場は、社会の客観的法則性の正確な認識の上に、党の方針を立てようとするレーニンの考え方に反する主観主義になり、ボグダーノフたちは、やがて、ストルィピン反動期の国会からは、社会民主党員は召還されるべきであるという召還主義の極左的偏向に陥り、反動的国会をも革命的に利用すべきであるとするレーニンと、対立することとなった。そして、ナロードニキの後継者エス・エル(社会革命党)のチェルノフもまた、マッハ主義者であることは、ボグダーノフと同じであった。さらに、ルナチャルスキーは、社会主義はプロレタリアートの宗教であると宣言することによって、神秘主義に陥り、レーニンの痛烈な批判を受けることになる。

1905年12月に書かれた『社会主義と宗教』は、すでにレーニンの宗教論と宗教政策を明瞭に表現している。ツァーリズムの暗黒の支配に光明を与えたロシア正教会は、ロシアの社会主義者にとって、つねに巨大な敵だった。彼は宗教(信仰)の根源を次のように説明する。宗教は、他人のために終身の労働と困窮と孤独にうちひしがれた人民大衆のうえにおおいかぶさっている精神的圧制の一形態である。搾取者と闘う際の被搾取階級の無力感が、不可避に、よりよい未来(死後)の幻想を生み出す。一生涯働き、困窮している人々に、宗教は、天国での恩賞を約束する。この恩賞と現世の温順と忍耐を引き換えようとする。したがって、現世の人々にとっては、宗教は人民の阿片である。資本の奴隷は、また、いくらかでも人間らしい生活を求める自分たちの要求を、この酒で紛らわすのである。

ツァーリズムは、この宗教信仰を国家の力で人民に強制した。これにたいし、社会民主党は、宗教を国家にとっての私事にすること、国家と宗教との分離を要求した。レーニンは、論文『宗教にたいする労働者党の態度について』のなかで、「ヨーロッパ社会民主党内の日和見主義者は、宗教を国家にたいしての私事とさせる要求を、宗教が社会民主党にとって私事であるかのようにすりかえている」のように断言し、思想的武器によって宗教信仰と戦う必要を力説している。だが、これは、政治的国家と社会民主労働党が同じ土壌に立脚していることを忘れているレーニンの二重の錯誤である。ひとつは、マルクスをもち出すまでもなく、国家と宗教の離反は、政治的国家と市民社会の離反によって私事になる。つまり、市民社会の個人的関係のなかに解消していくのである。したがって、これはブルジョア革命の課題としか言いようがない。だから、思想的武器によって啓発するような問題ではない。

もうひとつは、レーニンは国家と党をまるで別のものと考えて、宗教との距離測定をしているが、その測定自体が同じ尺度を使用するため、比較にならないように感じるにすぎないのだ。これは、市民社会の一員として社会生活を営むことが、政治や宗教とは全く違う次元にあることを知らない、封建的遺制国家の政治党派や社会生活による特質でしかない。ありていにいえば、国家の一員として、現行の政治的国家に反抗する結社にいることは、同じ土俵に立っていることになるのだ。従って、レーニンが宗教信仰と戦うという姿勢によって、個人の責任を追い詰め、侮辱するようなことがあれば、政治的立場として破産する。

不可避な観念を観念的に解消しようとすること事態が観念論である。これはブルジョアにたいして「ブルジョア的だから…」という詰問をすることが観念論であるのと全く同じ論理である。『唯物論と経験批判論』を書いたレーニンが、そのことを知らないはずはない。同じ論文の中で、レーニンは「おだやかな、自制力ある、寛容な、プロレタリア連帯性と科学的世界観との宣伝を対置」することで、宗教信仰を絶滅させるかのようにいっているが、それは階級意識の外部注入による人体解剖以外ではない。それは、のちのソ連邦の歴史の現実が証明した。
 レーニンには『唯物論と経験批判論』以外に哲学をあつかったものに、『カール・マルクス』(1914年8月)があるが、彼はヘーゲルをはじめ多くの哲学者の著書を熱心に研究し、ノートを残した。この『哲学ノート』は、『唯物論と経験批判論』と並ぶ重要な哲学的著作であるが、このなかにはいくつかの点において、『唯物論と経験批判論』を越える理論的発展がみられる。ノートの半分は、ヘーゲルの『論理学』の書き抜きと、それについてのコメントからなっているが、これを見ると、レーニンが、ヘーゲルの論理を辿る努力をいかに払っているかがよく分かる。問題の核心は、ヘーゲル弁証法の批判的摂取にある。彼はヘーゲルの主著の思考過程を注意深く追いながら、その摂取と批判を通じて、『唯物論と経験批判論』ではまだ不十分であった、物質的存在と意識の弁証法的発展の理解を大幅に前進させ発展させている。彼は、エンゲルスが『反デューリング論』で展開した弁証法の諸法則の核心を、対立物の同一ないし統一の法則に見出す。 

 

《弁証法とは、対立したものがどうして同一であることができ、またどうして同一であるのか(どうして同一となるのか)-それらは、どんな条件のもとで、たがいに転化しあいながら、同一であるのか-なぜ人間の頭脳はこれらの対立を死んだ、硬直したものとみないで、生きた、条件的な、動的な、たがいに転化しあうものとみなければならないか、ということにかんする学説である。》  『哲学ノート』 レーニン著 松村一人訳

 

レーニンは、思考の発展の弁証法的究明に主要な関心を向け、弁証法の理解を一層進めることによって、『唯物論と経験批判論』の水準を乗り越えていった。だから、カントやヒュームをヘーゲルの観点から批判できなかったのも、こういう背景があったのだ。こうして彼は、論理学と認識論と弁証法の同一性の理論に到達した。レーニンは創造力を含む人間の意識活動の一層の全面的な解明へと進み出た。

 

15 ボリシェヴィキ党の誕生

 

それから、彼は1905年の革命について詳細な総括をおこなった。誤謬や幻影や失敗のなかで、労働者と農民の同盟が効果的でなかったという面もあった。ばらばらな無組織的な仕方では、労働者階級は決定的な行動をとることができなかった。しかしながら、レーニンは、労働者階級が成長し、すでに運動のなかで主導権を握っているのをみた。彼らは自由主義から解放されていた。彼らは革命的に闘う術を知っていた。ロシアの人民はもはや、1905年以前の人民ではなかった。そこには未来のプロレタリアートがロシア人民を勝利に導くイメージがはぐくまれていた。

レーニンにとって、ロシアの民族的特殊性にもかかわらず、ロシア革命は、1905年以来、国際的、歴史的、そして世界的意義をもっていることを認識していた。しかし、社会主義インターナショナルの指導者たちは、この事実を認めることを執拗に拒否した。それでも、ロシア革命には、今まで何処にも見られなかった、新しい時代の新しい革命であることを確信していた。確かに、ロシアのブルジョア民主主義革命の任務は残されたままであった。レーニンは1908年から1912年にかけて、そのことを言い続けた。

しかしながら、強力な社会的勢力の登場を待ち望んでいたレーニンは、より強力で、より成熟したプロレタリアートと、そして農民が出現するだろうという革命の契機がみられた。戦力的な後退を余儀なくされた瞬間においても、新たな戦闘に備えてロシアの労働者階級を準備しようとしたレーニンからみると、ボリシェヴィキは退却に当たって、秩序はもっとも正しく、その損害は最小限度でおさえられたかにみえた。

退却局面にはいったロシア社会民主労働党のなかには、左右両翼の偏向が現われた。右翼的偏向というのは、ストルィピン反動のもとでの困難な活動条件におびえ、非合法の党組織を解消しようとする解党派の動きであり、多数のメンシェヴィキがこの解党派になった。他の一つは、もともと日和見主義的であった社会民主党国会議員団にたいする反発からはじまった。国会議員団を召還し、非合法活動にだけ党のエネルギーを集中させようとする召還主義者の極左的偏向であった。

レーニンが「解党主義者」にたいして闘争をおこなったのは、パリ時代からであった。パリに移る前に開かれた『プロレタリー』拡大編集局会議で、レーニンは、「革命の二つの波の中間の過渡期」における社会民主労働党の新しい戦術を次のように規定した。

第一に、「一般にあらゆる『合法的可能性』、労働者階級のあらゆる合法的および半合法的な組織を利用すること」次に、「国会を革命的、社会民主主義的に利用すること」さらに彼は、「社会民主党国会議員団があらゆる労働立法の問題に精力的に参加することが、今の時期にはきわめて重要な任務であること」を指摘した。

彼は、このような活動形態を理解できない召還派にたいして、次のような党の新たな諸任務を説明している。われわれはあらゆる社会民主主義政党が常にどこでもやらなければならないように、党と大衆のむすびつきを強め、あらゆる労働者組織を発展させ、社会主義の目的に利用しなければならない。だから、社会民主主義者にとっての戦術上の特有な任務もまた、自分の目的のために、革命の思想と社会主義の思想を広める目的のために、この国会を利用することである、とした。ボグダーノフなどの経験批判論者もこの召還主義者となったが、旧『イスクラ』の編集局員ポトレーソフらは解党主義派に属した。

一方、レーニンは、解党主義者を特徴づけて、党組織の方針を次のように示している。若干の党活動家、特にインテリゲンチャ出身の活動家が、脱党していくことが、現在の特徴である。これに歯止めをかけるためには、非合法組織を強化すること、あらゆる活動分野に党細胞をつくること、まず、第一に、たとえ少数でもそれぞれの工場企業に純粋に党的な労働者委員会をつくること、そして、労働者自身のなかから出てきた社会民主主義運動の指導者の手中に指導的機能を集中することとした。

この時期、ウィーンに住んでいたトロツキーは、メンシェヴィキとボリシェヴィキの闘争を「調停」する立場を買ってでたが、党の統一を配慮するレーニンは、1910年1月にパリで開かれたロシア社会民主労働党中央委員会総会で、メンシェヴィキ派が自分らの分派を解散し、解党派および召還派と闘うという条件で、ボリシェヴィキ派も解散し、自派の機関紙『プロレタリー』を閉鎖することを認め、ボリシェヴィキがもっていた資金は、三人のドイツの同志、カウツキー、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンに預託された。

トロツキーは、メンシェヴィキとボリシェヴィキ双方の「セクト主義」を断固排撃するという理由で、中央委員会パリ総会の招集を行ったのだが、総会では、彼は統合の「仲人」として、決議に「解党主義」という言葉を入れることにも反対し、レーニンもこれに応じた。しかし、これは、レーニンが望んでいたような党の真の統一ではなく、両派の一次的な妥協にすぎず、特にボリシェヴィキ側が、最大限の譲歩をしたにもかかわらず、さらに一層激しい党内闘争に導いた。マルトフたちは、総会後も、自派の機関紙『ゴーロス』や合法雑誌『ナーシャ-ザリャー』、『ヴォズロジデーニェ』などで、総会決議に反対する解党主義者ポトレーソフの論文を載せたが、そこには、「まとまった、組織された諸機関の階層制としての党は存在しない」と述べられていた。党の正規の中央機関紙『フペリョート』も、編集部の多数をにぎる彼らの派の機関紙のようになってきた。あるとき両派はカフェーでけんか寸前までいった。

この年(1910年)の8月、レーニンは第二インターナショナルのコペンハーゲン大会に出席したが、大会後、彼は75歳の老母と会うためストックホルムに行き、10日間滞在した。母を乗せてロシアに去り行く船を、ストックホルムの波止場から悲しい目で見送った。これが、母との永遠の別れとなった。

パリに帰ってから、彼はもうメンシェヴィキや調停派にひきまわされることなく、断固としてボリシェヴィキ派の活動を強化する決意を固め、ボリシェヴィキ派の会議で、機関紙『ラボーチャヤ・ガゼータ』と合法誌『ムィスリ』の発行を決めた。「統一」の名で解党派をかばおうとする調停主義者トロツキーにたいして、レーニンは激しい批判をたたきつけた。パリは政治的亡命者たちの中心になった。レーニンはここで全く規則正しい生活を送りながら数年を過ごした。毎朝、彼は自転車でモンスール公園から国会図書館へでかけていった。1911年、彼はロンジュモにマルクス主義学校を設立した。この学校で彼は、特に、農業問題についての講義をおこなった。また、国際社会主義ビューローの会合に規則正しく出席して、日和見主義との闘争を続けている。彼は密使をつうじてロシアと連絡をとったが、これらの密使のうちには、のちに指導者となったオルジョニキーゼのような人物もいた。

1912年1月に、ロシア社会民主労働党の第6回全国協議会「プラーハ協議会」が開かれた。協議会には20以上の党組織が代表を送り、事実上の党大会となった。その際のレーニンの報告には、ストルィピンの政策が破綻し、革命運動が再び始まったことを告げていた。彼は、できるだけ大きな合法組織網にとりまかれた非合法党「細胞」をロシアに創設するという提案をした。レーニンの報告はさらに、第二インターナショナルのなかで、革命的潮流と改良主義的潮流のあいだの対立・闘争が激化したため、その傘下の諸政党内で分解が生じつつあることを指摘した。また、メンシェヴィキ解党派のグループを厳しく糾弾して、これらの「グループがその行動によって最終的に党を脱退したものと声明する」という決議を採択した。

こうして、長かったボリシェヴィキとメンシェヴィキの党内闘争は、1912年1月をもって終わった。ロシア社会民主労働党は、ボリシェヴィキの党になったのである。この「プラーハ協議会」が実質的なボリシェヴィキ党の創設大会であった。このときまで、レーニンを領袖とするボリシェヴィズムは、まだ、国際社会主義の一つの潮流にすぎなかったが、ここにおいてボリシェヴィキは一つの政党になった。ロシア国内のそのほかの諸政党や諸傾向やインターナショナルのほとんどの参加者から反対をうけながらも、ここで、はじめて彼は新しい型の政党を創設したのである。

新しい中央委員には、レーニンのほかに、ジノヴィエフ、オルジョニキッゼ、シュヴァルツマン、ゴロシチェキン、スパイダリアン、マリノフスキーが選出され、協議会の直後、スターリンとベロストツキーが中央委員に互選されて加わった。レーニンは、今や党内闘争に足を取られることなく、総力をあげて革命運動の指導にあたることができるようになった。1912年4月に、シベリアの金鉱山であるレナ鉱山の労働者にたいして、ツァーリの官憲および軍隊による大量虐殺が起こった。ロシアの10万にのぼる労働者たちがストライキをやり、5月1日には示威運動をおこなった。この年の6月、レーニンとクループスカヤは、パリからロシアに近いオーストリア領のクラカウに移った。

レーニンはパリを発ってポーランドのクラカウに移った。クラカウは大いにレーニンが気に入った。パリ時代のわずらわしさからのがれた、彼の安らいだ気分がうかがえる。ここから、レーニンは、1912年4月に合法的に創刊された「プラウダ」紙を、指導することができるようになった。彼は毎日のように新聞論説を書いた。「プラーハ協議会」が発行をきめた合法新聞『プラウダ』は、何度となく禁止されたが、そのたびに名前を変えて発行され続けた。

革命的高揚の時期に、第4国会の選挙にそなえて、ボリシェヴィキ活動家の会合を開く必要がでてきた。この会合は、1912年12月末にクラカウで開かれた。この会合で、レーニンは、行動の三本柱と呼んだ当面のスローガン―@完全な政治的自由をもつ民主制共和制、A地主の土地の没収、B8時間労働制―を提示した。協議会は全面的な成功を収めた。レーニンは、特に、ツァーリ帝国内の諸民族に関する法案や、農業問題に関する演説の案文を書いた。これらの案文を6名のボリシェヴィキ派国会議員に渡した。レーニンは、彼らに、国会は彼らの演壇にすぎないこと、なんらかの実質的なものを獲得するためにいつわりの民主主義制度をあてにしてはいけないことを絶えず、思い起こさせていた。

1912から13年にかけて、彼はロシア国内の情勢、とりわけ労働、農民運動、と国会選挙について、詳しく研究し、以前に比べてロシアから来易くなった同志たちに、細かい指示と激励を与えていた。

 

16 民族問題

 

クラカウ時代に、レーニンが力を注いだ問題のひとつは、民族問題の解明であった。1903年のロシア社会民主労働党の綱領は、そのなかに、「国家の構成に加わっているすべての民族の自決権の承認」があった。だが、ひとつの問題が第二回大会の綱領討議に起こった。それは、ユダヤ人の社会民主主義組織(ブンド)が、ユダヤ人の文化的=民族的自治(たとえば学校を民族別に分けること)を要求し、さらに社会民主労働党の組織までも民族的に分けるように主張したことで、これが大会で否決されると、ブンドは退場した。

農業の問題とならんで、レーニンのボリシェヴィキの考え方のもうひとつの特徴は、民族に関する問題であった。ロシアは農民の人口が圧倒的に多く、農業国であるばかでなく、被圧迫民族を数多く抱えていた。それを抑圧しているのがツァーリの政府であり、したがって、当然、ロシアの民主主義は、この被圧迫民族の解放を考えなければならなかった。事実、1905年には、ロシアの辺境の諸民族も立ち上がっていた。この問題に対するロシアのマルクス主義の古典的労作は、1913年にはじめて出版されたスターリンの『マルクス主義と民族問題』である。この労作はレーニンときわめて密接に協力してかかれた本で、ここで述べられている見解は、たいていの場合、レーニンのいわゆる「すばらしいグルジア人」によってうみだされたのである。この問題についてこの二人の労作を分離することは事実上不可能である。

 客観的には、国際的に被圧迫民族への抑圧が、ますます強められていた。帝国主義諸国は、たとえば「パン・スラヴィズム」というように、被圧迫民族を大国のもとに組織しようとしていた。そればかりか、民族間の対立や偏見を助長しようとしていた。さらには、大国の社会主義政党と植民地の被圧迫民族との国際的連帯はきわめて薄いものであった。

 たとえば、1907年のシュトゥットガルトにおける第二インターナショナル総会において、大国の代表者たちの委員会は「社会主義的な植民地政策」などを提案したが、総会で徹底的な民族独立を主張するボリシェヴィキや中・小国、植民地の代表たちに正面から反対された。だが、一般的には、この帝国主義の時代には、植民地にたいする圧力がますます加重していたから、ボリシェヴィキがめざしたように、被圧迫民族を組織することはこの時代の基本的課題となった。さらに、諸民族間の対立や偏見が、強国の戦争準備のために利用されたばかりでなく、社会主義の運動そのものにおいても、その組織の円滑を妨げていた。国際政治でいえば、日露戦争後の1907年「英露協商」なるものが成立したが、それは、ドイツにたいするイギリス、ロシア、フランスの戦争準備の過程であると同時に、エジプト、イラン、モロッコなどを勢力範囲に分割する、植民地体制の強化を意味していた。そして、それは、ロシア人自身の国際的従属を一層強めるものであり、ロシアの革命運動鎮圧のためのイギリス、フランスからの経済援助と、敗戦国ロシアの軍事的復活を意味していた。ロシアはこのような国際的支持のもとに、ヨーロッパ第一の陸軍国として復活していった。つまり、ここに成立したいわゆる三国協商は、申し分なく帝国主義的体制であり、革命運動と植民地との犠牲において戦争を準備するものであった。

民族問題に関するマルクス主義の見解は歴史的・相対的なものである。つまり、これによると、独立の民族国家をうちたてることは、ブルジョア革命の必要な一部分であり、したがって、また、民主主義の勝利に欠くことのできない前提条件である。その経済的基礎は、「商品生産の完全な勝利を実現するには、ブルジョアジーは国内市場を獲得し、同じ言語を話す人々の住んでいる地域を政治的に統一しなければならない」という点にある。このような「ブルジョア」的民族が発生することは、以前の状態に比べれば、歴史的に進歩的な前進である。「偉大なブルジョア革命家に最も深い敬意を感じないような人は、マルクス主義者になることができない」と、レーニンは1915年に書いた。「これらの革命家たちは『ブルジョア』的祖国の名において語る歴史的権利をもっており、彼らは封建制に対する闘争のなかで、何千万という新興民族を文明生活に立ち上らせたのである。」

 民族運動が人民を外国の抑圧から解放する作用をおよぼすかぎりは、マルクス主義者はこれを支持した。だから、マルクスは、19世紀におけるドイツとイタリーの国民的統一やポーランドとアイルランドの独立を擁護した。今世紀に入るまでは、民族運動は、大体
においてヨーロッパとアメリカに限られていた。だが、レーニンは、「最も強大な資本主義諸国の間で全世界の領土的分割が完了している」ことを、新しい帝国主義の著しい特徴とみなしていた。したがって、この分割にともなって、植民地や従属国においても、民族独立を求める運動が発展するようになった。ロシアは地理的にみてヨーロッパとアジアにまたがる国である。したがって、ロシアの世論はバルカン諸国の独立闘争や、青年トルコ運動や中国革命によって、深い刺激をうけた。帝制ロシアにおいては、「民族自決権」はきわめて現実的な問題であった。この点でもまた、ボリシェヴィキの見解と第二インターナショナルの他の大多数の党の多数派の見解とはくいちがっていた。

 ロシア国内には、完全な市民としての権利も特典もみとめられていない民族がたくさんあった。レーニンはヴェルガ中流のプガチョフの故郷にいた幼年時代に、すでにこのような事実に反対していた。シムビルスクにいた父の友人の一人は、少数民族のチュワシ人で、彼は苦労して教育を受け、自分の同国人を啓蒙することに全生涯をささげた。レーニン自身にも一人のチュワシ人の学友があって、レーニンはロシア語の不自由なこの友人の面倒をよくみてやった。

 1905年にはロシア革命につづいて、ポーランドやフィンランドやラトビヤやエストニヤやグルジヤらも民族運動がおこった。そこで、1907年6月の皇帝の宣言書では、次のような原則が公布された。「国会はロシア国家を強化するために、設置されたのであるから、精神的にもロシア的でなければならない。わが帝国のなかにふくまれている他の民族は自らの要求を公表するために国会に代表をおくるべきであるが、彼らが純然たるロシアだけの問題まで決定できるほど、多数の代表を国会におくることはできないし、またおくることはゆるされない。」「ロシア語を使わない人々」はとくに国会から除外された。この宣言書にともなって施行されたストルイピンの選挙法では、中央アジアの諸民族が完全に選挙権を奪われ、ポーランドとカフカズの数はひどく削減されていた。ユダヤ人にたいする屈辱的な無能力者扱いを規定した650の法律の一部分を廃止しようとする、ストルイピンのあまり自由主義的でもない内閣の提案さえ、ニコライ二世は拒否した。1916年には中央アジアに土着民の暴動がおこったが、残忍な弾圧を受けた。したがって、ここには既成の同盟者がいたわけであり、真の民主主義者なら共感しないわけにはゆかないような主張があった。

 西ヨーロッパでは、二十世紀までにすでに独立の民族国家が樹立されていたから、「民族問題」は、社会民主党の指導者にとって、格別に緊急な問題のことつとはおもえなかった。社会民主党の指導者は植民地にたいする場合と、本国に対する場合とでは、全く態度が違っていた。植民地は最後には独立すべきである、と彼らは考えた。だが、「自国」の植民地ができるほど「成熟する」までには、長期にわたる過渡的段階、信託統治の段階が必要だと考えていた。

 これに反して、レーニンはすでに、1907年の第二インターナショナルの大会の前に、植民地、従属国の人民の民族自決の要求は、植民地の労働者階級だけでなく、本国の労働者階級の利益のためにも、同じぐらい必要であると論じた。彼は、「他人を抑圧しているものは自由ではありえない」というマルクスの言葉を引用した。彼はまたセシル・ローズの次のような言葉を引用した。「帝国とは……パンとバターの問題である。もし、諸君が内戦の勃発をさけたいとおもうなら、帝国主義者にならなければならない」。ロシア人以外の民族が、平等な市民として取り扱われるようになるまでは、彼らの領土が住民の要求次第で、分離したり、自治領になったりする権利をみとめられるまでは、ロシアに真の民主主義を打ち立てることはできない、とレーニンは信じていた。他民族を力でおさえつけるために、軍隊による占領が必要となり、そこで民族的憎悪が生まれ、宗教、階級および民族の差による不平等が増大した。そして、以上のすべての結果として、従属民族にたいしてだけでなく、ロシア人にたいしても、専制権力が強化された。国際連合では、ソヴェト代表が、1946年12月の信託統治協定にかんする討論で、これと同じような議論をしたのは、単なる偶然の一致ではない。

 本当に完全な民族的平等は、社会主義にならなければ達成できない、とレーニンは考えた。というのは、帝国主義が存在する限り、他民族を搾取しようとする動機が残るからである。だが、レーニンは、完全な民主主義もまた資本主義を廃止しない限り実現できないと考えた。経済的搾取のもとでは政治上の平等など無意味になってしまうからである。したがって、レーニンは、いずれの場合にも-民主主義のための活動においても、少数民族の独立運動においても-このような「ブルジョア革命的」要求が、社会主義者にとってもきわめて重要だと論じた。というのは、このような要求が実現されるにつれて、帝国主義は全世界的規模において、それだけ侵食され、弱められるからである。

 しかし、レーニンは慎重にも、もしその民族が欲するなら、民族自決権や分離権を支持するが、だからといって、社会主義者が常にこの権利の行使を主張するわけではないことを明らかにした。それは、ちょうど、離婚の権利を認めるからといって、なにもすべての結婚を解消することを望まないのと同じことである。むしろ、その反面、レーニンは大きな政治的単位の経済的利点を強調し、もし強制をやめて、完全な選択の自由を確立すれば、社会主義諸国家のますます大規模な連合体が成立するようになるだろう、と信じていた。だが、分離にたいする社会主義政党の態度は、社会主義の利害の見地から、歴史的進歩という見地から、決定されるべきだ、とレーニンは考えた。民族的要望だからというだけで、無条件に支持されるわけではなくて、それが反動的な制度に反対して民主主義のために闘う闘争に貢献するかぎりにおいて、支持されるのであった。だからこそ、マルクスとエンゲルスは1850年代のチェコとユーゴスラビアの民族運動に何の共感もしめさなかったのである。彼らはそれを反動的なロシアの前哨とみなしていた。

 ソヴェト同盟は多民族国家として形成された。民族的独立のあり方は、民族的独立の仕方次第だというレーニンの信念が、いかに健全であったかは、ボリシェヴィキ革命直後の数年間に、実証された。はやくも、1917年11月16日に、ソヴェト政府は帝制ロシアの諸民族に分離権をふくめての自決権をみとめると宣言した。そこで、たちまちロシア国家の辺境地方の諸民族は、世界政治の玩具にされた。ドイツは、独立ウクライナ政府を承認したが、そのねらいは、ブレスト=リトウスクの交渉にあたって、ボリシェヴィキを困らせることと、旧秩序をむりやりに復興してウクライナにたいするドイツの支配をうちたてることにあった。この独立ウクライナ政府は、すでにその前から連合国の援助を受けていた。一方、ボリシェヴィキの方では、ドネツ炭田の坑夫や東部ウクライナの工業地域の労働者を助けて、ハリコフにソヴェト政府をうちたてた。キエフのウクライナ政府はまかすますドイツの傀儡になっていった。ドイツの敗戦後、南部ロシアの連合軍司令官は「ドイツ軍とわが軍が当地へきたのは、いずれも征服者としてきたのではなくて、権利の擁護者としてきたのである。従って、ドイツ軍の目的としたこととわが軍が目的とすることは、同一である。」という趣旨の宣言文を発表した(1919年1月)。ウクライナを独立させるということは、ドイツ軍の場合にも連合軍の場合にも、どうみてみても、主要な目的でなかった。

 1917年12月23日の英仏協定では、ウクライナをフランスが支配し干渉すべき地域、北部ロシアとバルト諸国とカフカズはイギリスが支配し、干渉すべき地域として、割り当てられた。バルト諸国では、最初はドイツ軍により、後にはイギリス軍によって、「ブルジョア」政府が設立された。ソヴェト政府は、1918年1月にフィンランドの独立-ブルジョア政府の支配下にあったのに-をみとめた。ドイツの軍事援助のおかげで、この政府は権力を維持することができた。グルジヤには、1917年11月に、メンシェヴィキの独立政府が成立した。グルジヤのメンシェヴィキは、ボリシェヴィキが権力をとるまでは、分離のそぶりさえみせなかった。だが、ボリシェヴィキが権力をとると、彼らは、「民族の独立をたもつ」ためにドイツ軍の援助を要請した。後には、イギリスがこの情ぶかい役割をひきつぎ、グルジヤはウランゲル男爵の軍隊の募兵基地、補給基地になった。だが、外部からの干渉がなかった地方では、おそらく大体においてもとの従属民族はボリシェヴィキを白衛軍ほどには嫌っていなかった。

白衛軍はまず地主を復活させて、次には大ロシア人の特権の回復を綱領にかかげる傾向にあった。デニキンが「ロシアはひとつであり、不可分である」と宣言すると、たちまち、1918年当時に彼が占領していた南部ロシアとウクライナ一帯で、紛争が起こった。以前には旧秩序の支柱とみなされていたコザックでさえも、いまではあらたに獲得した自治をまもることに汲々としていたのである。トリキスタンでは、内戦の間中、ソヴェト政府が維持されていて、シベリアのコルチャック政府のためにモスクワからきりはなされていたときにさえ、そうであった。

 革命後、ただちに、ソヴェト政府は民族人民委員部を設け、人民委員にはいうまでもなくスターリンが就任した。また、ロシア共和国は各種の民族グループに地域的な自治を与えるために精巧な連邦組織をとった。最後には、ウクライナとベロルシヤとザカフカズに、それぞれ別個のソヴェト共和国が樹立された。国防上の必要と経済的改造の必要から、これらの共和国は1922年12月に合流して、ソヴェト社会主義共和国同盟を形成した。最終的には旧帝制時代の全領土が、連邦組織によって統一されたが、これはデカブリストが百年前に夢みていたことである。1923年に起草されて、レーニンの死後10日目に最終的に批准されたソ同盟憲法によって、最高統治機関であるソヴェト中央執行委員会を構成する二院のうち、一院はソ同盟の諸民族グループの平等代表原則によって形成されることになった。このようにして、大ロシア人といえども、立法にあたって、かつては国会からしめだされていた「ロシア語をつかわない人々」に常に投票で負けることもありうるということになった。

 もとの従属民族に対する政策の点で、ソヴゥト制度が最もめざましい成功のひとつをおさめたことについては、万人の認めるところである。帝制時代にはどういう種類の計画化も不可能であったから、工業の発達は自然発生的に放任されていた。1917年~18年の事件によって、敵がロシアの国民経済にたいしていかに手ひどい打撃をくわえることができるかが明らかになった。革命直後にレーニンは外敵の侵入がそれほど容易でない地域に工業を発展させるという計画に着手しはじめた。1918年4月にレーニンは「ロシアの工業の再編成と経済の発展にかんする計画」の起草をはじめるように、科学アカデミーに要求した。

 不幸にして旧制度のもとでは、経済的に発展できなかった豊かな地方、つまり西部シベリアと中央アジアに、新しい近代文明が勃興した。また、1917年以前にはまったく文盲であった民族にも、鉄道と工場とトラクターとラジオと民族語による教育がもたらされた。ソヴェト中央アジアでは、文化のルネッサンスがはじまったが、それが究極において国内的・国際的にどのような結果を及ぼすかは想像もつかないほどである。とくに原始的な遊牧民族の場合には、ソヴェト政治体制が自治制度と民主主義を発展させるために使われた。この場合の行政上及び人文上の問題が、いかに巨大なものであったかは、1921年の公式調査によっても想像がつく。つまり、これによると、ソヴェト共和国の住民の20%以上が、家父長制及び部族制の発展段階か、または部族制から封建制への過渡期にある遅れた民族であった

 近代文明と社会主義が古代的な東洋にもたらされたという事実だけでも、国際的反響を呼び起こすことは明らかである。レーニンは1920年7月に共産主義インターナショナルでの演説のなかで、植民地問題についての自分の思想をかさねて次のように述べた。「搾取国のブルジョアジーと植民地諸国のブルジョアジーとの間に、ある程度の親善関係が復活した。」したがって、「われわれ共産主義者は、植民地諸国のブルジョア的民族解放運動が真に革命的である場合、われわれが農民をはじめとする広汎な被搾取者大衆を革命的な精神で訓練し、組織するのを、この運動の代表者たちが阻止しない場合に限って、この運動を支持すべきであり、また、その場合には実際に支持するであろう」とレーニンは述べた。

 さらにレーニンは次のようなきわめて遠大な見通しを述べたが、この見通しはいまなお、大きな意義をもっている。「ソヴェト組織という構想は、単純なものであるから、プロレタリア的関係だけでなく、農民的関係、封建的及び半封建的関係にも適用することができる。……もし勝利した革命的プロレタリアートが彼らの間で系統的な宣伝を行うなら、もしソヴェト政府がなしうるかぎりのあらゆる援助を彼らに与えるなら、後進諸民族にとって、資本主義的発展段階をとおることがさけられないという仮定は、誤りとなるであろう」。

この言葉の正しさは、いまや一世代にわたるソヴェト中央アジアの物質的、文化的水準の向上によって、また、ソヴェト中国における発展によって実証されている。レーニンこの言葉が、他のどの国にも同じようにあてはまるかどうかは、今後の経過をみなければならない。第一次世界大戦が迫るにつれて、ヨーロッパでもっとも盲目的な愛国主義者の民族主義、ツァーリ帝国で大ロシア民族主義が荒れ狂い、ロシアの内外の民族主義的傾向が強まってきた。黒百人組的民族主義のばかさわぎ、自由主義ブルジョアジーのあいだの民族主義的傾向の増大、被抑圧民族の上層のあいだにおける民族主義的傾向の強化など、これらが、民族問題を前面に押し出していた。民族問題が政治的課題として前面にでてきたのは、この時期であった。これにたいして第二インターナショナルの左翼のローザ・ルクセンブルグは、民族問題を否定していた。しかし、レーニンが拒否した「文化的民族的自決」を、第二インターナショナルの右翼が流布していた。その頃、スターリンは『マルクス主義と民族主義』を発表しているが、レーニンの賞賛を受けていた。

このような事情から、レーニンは、民族問題の本格的研究に着手した。そして、ロシア帝国、オーストリア-ハンガリー帝国、ドイツ帝国に三分されたポーランド民族の自決権問題にからんで、ポーランド出身の女性活動家ローザ・ルクセンブルグとレーニンの間にも、鋭い見解の違いがでてきた。ローザは『民族問題と自治』のなかで、「民族国家は現代の諸条件に最もよく適応する国家形態である」というカウツキーの言葉を引用し、この最良の民族国家というのは理論的に展開したり擁護したりすることは容易だが、現実にはそぐわない抽象的なものにすぎないという。そして、形式的には独立しているモンテネグロ人、ブルガリア人、ルーマニア人、セルビア人、ギリシャ人、さらにその独立そのものがヨーロッパ協約の外交的演奏の産物であるスイス人までも「自決」をまじめに論じることができようかと疑問を投げかけている。こうして、ローザはポーランドの「民族的自決」に反対する。国際プロレタリアートの革命によってのみ、ポーランド人は解放されるのであって、自決によってロシアなどの専制国家から分離することは、ポーランドのブルジョァジーを利するのみであるとした。

レーニンは、1914年のはじめに書いた『民族自決権について』のなかで、彼女の論拠をひとつひとつ批判している。レーニンによれば、「ローザ=ルクセンブルグは、ブルジョア社会における諸民族の政治的自決の問題、それらの諸民族の国家的独立の問題を、それらの諸民族の経済上の独立と自立の問題にすりかえてしまった。『資本蓄積論』におけるローザの資本主義自動崩壊論が、非資本主義地域の資本主義化を前提にしていたこと、そして、彼女は、同一の民族国家においても、「非資本主義的部門」は、経済的には国外市場に等しいものとみていた、ということである。ローザの立場からは、諸民族の「経済的自治」は、資本主義の発展→崩壊を阻害する空想的な試みにすぎないことになる。

これにたいして、レーニンは、民族国家の形成が歴史的に必然的な、ブルジョア的諸関係の進歩的産物であることを主張する。全世界を通じて、封建主義にたいする資本主義の最後の勝利の時代は、民族運動と結びついている。これらの運動の歴史的基礎は、商品生産の完全な勝利を勝ち取るためには、ブルジョアジーによる国内市場の征服が必要であり、そして、ひとつの言語の発達とその言語の文書における固定化を妨げているあらゆる障害を取り除かなければならない、という点にある。だから、近代資本主義のこれらの要求に最も適合する民族国家の形成は、あらゆる民族運動の傾向である。

レーニンは、民族問題を研究するためには、具体的に歴史的に接近しなければならないと説き、ローザがポーランドの特殊性を民族問題一般に解消している点を指摘している。

やっと民主主義革命の時代がやってきたロシア、ペルシャ、トルコ、中国など東洋の世界的諸事件の連鎖は、ブルジョア民主主義民族運動の覚醒がそこにあることを理解することが必要である。レーニンは、民族の自決ということを「ある民族が、他の民族の集合体から国家的に分離すること」を意味し、そして、その自決権は、各民族が「別々の国家的存在を要求する権利」にほかならないと強調した。そして、もし、社会民主労働党が、このような分離権のスローガンを掲げないならば、われわれは、圧迫民族のブルジョアジーだけでなく、封建地主や絶対主義を味方につけてしまうであろう。こうして、彼は、「他民族を圧迫する国民は、自由ではありえない」というマルクスの言葉を自らの言葉にした。

分離権を主張することは、被圧迫民族のブルジョアジーを助けることになるというローザにたいして、レーニンは「被圧迫民族のブルジョアジーが圧迫民族とたたかうかぎり、そのかぎりで、われわれは、つねに、どんなことがあろうとも、他のだれよりも決然とそれに賛成する」と、はっきり述べている。彼は分離権を承認しつつ、あらゆる民族のプロレタリアの同盟を高く評価し、労働者階級の階級闘争の角度から、民族問題を解決することを要求した。すでに、このころには、レーニンは、時代が植民地体制の巨大な崩壊期にはいりつつあることをアジアの人民の動きのなかにみていた。アジアはいたるところで、民主主義運動が成長し、拡大、強化していた。

 

17 修正主義との闘い

 

 1898年にマルクス主義的なロシア社会民主労働党が創立されていたが、創立大会の直後に指導者の大部分が逮捕された。レーニンがシベリヤ流刑から帰ってきたときには、党はもはや、実際に役に立つ組織ではなくなっていた。その上、そのころになると、マルクス主義者の間にもいろいろな傾向があらわれた。レーニンがプレハーノフやその他の亡命者と協力して新聞『イスクラ』を創刊するために外国へいったのは、このような意見の不一致を一掃し、マルクス主義党の理論と実践をいかに実践的に確立するかという点について、自分の考えを公表するためであった。なにもかも、はじめからやり直さねばならなかったのだ。

 当時、レーニンは、イデオロギー上の理由と組織上の理由という二つの理由から、社会民主主義新聞の創設が何よりも大切だと、考えた。思想の統一をもたらすために必要であり、これによって、現在、ロシア社会民主労働党の内部にはびこっている意見の食い違いと混乱が取り除かれると考えた。そして、思想の統一は党の綱領によってさらに固めなければならないと展望していた。そうしない限り、精神的努力が論争と闘争のなかで浪費してしまう危機感があった。こういう状態では、社会民主主義者は専制制度にたいする闘争において、社会の全階層を指導する「人民の守護者」になることはできない。

そこで、『イスクラ』の二重の地下通信網、つまり、ロシアから編集者に通信を送り、『イスクラ』とその附属出版物をロシアに送り返す方法を考えたが、これは各地に散在している支部を結合するための、最も優れた実際的方法であった。これによりちりぢりになっていた党が再建された。しかも、今度は、レーニンがロシア社会民主労働党のまさに中心にすわっていた。レーニンは、1903年には新しい党大会を招集すべきときが来たと判断した。

 レーニンは、かねてから、多数の亡命ロシア人に不当な影響を及ぼしていた国際社会主義運動内のある種の傾向に対抗し、党の組織と思想をひきしめたいとおもっていた。ロシア社会民主労働党は、「社会主義(第二)インターナショナル」の一員として設立されたのであるが、インターナショナルそのものは、その9年前に設立されていて、階級闘争を認めるすべての社会主義政党(と労働組合)が結集していた。この国際的な組織は、マルクスとエンゲルスの遺産だった第一インターナショナルのあとをついだ第二インターナショナル(1864~72)で、レーニンが19歳のとき(1889年)に創立され、1900年には18か国の党を結集するまでになっていた。階級闘争を認めることだけを条件にして、各国の社会民主主義政党が加盟しており、労働者階級の運動の国際的連帯性ということが、これらの党の唯一の戒律だった。

そして、加盟の条件がこういう間口のひろいものであっただけに、様々な色合いをもった党派が含まれていた。資本主義の革命的打倒と「プロレタリアートの独裁」による社会主義の樹立を目標としていたロシア社会民主労働党のような党もあれば、また、議会主義的改良によって、漸進的、平和的に社会主義へ移行するという、階級闘争の改良主義的な綱領をかかげている党も加入していた。どちらかというと後者のタイプの党の方が多かった。

この第二インターナショナルの最も有力な政党が、ドイツ社会民主党であった。ドイツ社会民主党には300万票、国民の31%の得票を獲得していた。党員数でも最も多く、国会議員も多く輩出していた。そこでは、ドイツの理論家カウツキーとベルンシュタインが国際社会主義運動のなかで最も大きな影響力をもっていた。ロシア人の政治的亡命家は、たいていはじめて外国へ行くときには、ドイツ社会民主党の指導者を非常に尊敬していたものだから、彼らにじかにまみえることができれば本望だとおもっていた。

 だが、レーニンだけはこれらの党派にたいする見方が違っていた。彼は、鋭い洞察力によって、ドイツの党に何か歪んだものがあるのを見抜いていた。こののち、このドイツの社会民主党の国会議員幹部は、1914年8月、かつてかれらが宣言した約束を無視して、カイゼル政府の軍事公債に賛成投票を投じたのである。第二インターがいかにして、なしくずしに帝国主義に取り込まれて妥協したか、その見本がここにあった。もし、これだけの勢力が全力を上げて、戦争反対に取り組めば、戦争の開始を阻止し得なかったとしても、帝国主義戦争を内乱に転化する可能性はあった。にもかかわらず、第一次世界大戦が決定的になるや、第二インターの諸党は、先を競うように「祖国防衛主義」になだれこみ、その名目は事実上崩壊してしまったのである。

レーニンは、彼らのこの腐敗した空気をすでに早い時点で嗅ぎとっていた。ヨーロッパの大国が戦争に巻き込まれると、これらの国の社会主義政党のほとんどすべての指導者が、これと同じ裏切りを行ったのだ。レーニンは、ドイツやその他の諸国の党は、急速な量的膨張を行ったときに、党員を教育してマルクス主義理論の水準を高めるかわりに、逆に、マルクス主義理論の水準を引き下げる傾向があると、ずっと以前から考えていた。これらの党は、労働組合と議会政治に関するこまごましたことや、経済的譲歩と投票の獲得にあまりに力を入れすぎて、本来の社会主義的目標を遠い未来に追いやってしまっているように見えたからだ。

 やがて、指導者たちは、党と労働組合のピラミッド組織のなかの高給ポストに、既得権益をもつようになり、このような地位は、資本主義体制の存続がそれを保証していたのである。彼らは、この資本主義体制の運営にどっぷりと精神的に順応してしまい、資本主義体制が利潤を上げればあげるほど、自分の配下の労働者のために譲歩を獲得する方が、社会主義のために闘うより気楽だと考えた。このようにして、官僚的な指導者たちは、下部大衆の政治的立ち遅れを理由にして、自らの革命的言辞と妥協的行動との食い違いを、頬被りしてとおすことができた。

 西欧の社会民主党が、植民地の解放運動にたいして冷淡な態度をとったり、戦争が勃発した場合、これを社会主義革命のための活動に利用するという公約を果たさなかったり、支配階級とやすやすと妥協したりしたのは、いずれもおなじ体質の別の現象にすぎないとレーニンはみなしていた。

「帝国主義時代とは、他のすべての国民を抑圧する特権的『大』国の間で世界が分割されている時代である。この特権とこの抑圧の結果として獲得された戦利品のおこぼれが、プチ・ブルジョアの一部や労働貴族や官僚の手に入ることは疑いない」とレーニンは言った。つまり、高給を確保している労働組合幹部や、党のオルガナイザーや労働者階級の少数の上層分子は、中産階級なみの生活水準と、意識を身につけるようになり、事実上、抑圧されている国民大衆に敵対して、民族ブルジョアジーと同盟を結ぶようになる。この「日和見主義的」指導者は、この同盟をむすぶことによって、労働者階級にたいする自分の力と影響力を強める。なぜなら、これらの指導者の背後には、伝統と惰性の力だけでなく、支配階級の全権力が、つまり宣伝、教育機関と必要な場合、ことに戦争の場合には監獄と軍隊が控えているからである。

 だから、レーニンは、1914年における第二インターの社会民主党幹部の行動を、特に、卑しむべきものと考えたのである。ドイツ社会民主党の幹部は、党の全組織を動員して戦争に反対するどころか、党員に「幹部のいうとおりに軍隊に入るか、それがいやなら射殺されてしまうか。」どちらかを各自で選べ、という態度をとったのである。

 そして、このような態度は、当時の政治的傾向の平均的なあらわれにほかならなかった。というのは、当時の西欧のすべての社会民主党の幹部は、マルクス主義を水で割って薄め、いろいろな逃げ口上をつくり、資本家の利潤のわけまえが、労働者階級の一部のめぐまれた熟練工の与えられる限りは、暗黙のうちに資本主義体制の永続を認めてもよいという気になっていたのである。それは、他民族を抑圧する国民は、決して自由ではありえないという格言を、重ねて立証したにすぎない。レーニンのいう意味での真のマルクス主義が、労働運動の中で力をもっていたのは、古くからの植民地帝国をもっていない国だけであった。「労働貴族」の特にはっきりした見本は、スターリンの生地のグルジヤにあった。グルジヤでは、大ロシア人の労働者が土着のプロレタリアートにたいして、まったく対照的な特権を享受していた。グルジヤはメンシェヴィズムと、1917年以降の外国干渉軍の砦であった。

ドイツのベルンシュタインは、党の綱領から革命的な傾向をとりのぞくために、党の公認マルクス主義を改訂すべきだと、公然と主張した。カウツキーなどの他の連中は、はじめは「正統主義」に口裏をあわせていたが、1914年になると「修正主義者」と言葉だけしかちがわない立場をとるようになった。レーニンは、シベリヤにいたとき、すでに、ベルンシュタインのロシア、ドイツにおけるその追随者に猛烈な攻撃を加え、ロシアの党には断じて、ドイツの党と同じ道を踏ませてはならないと考えていた。もともと『イスクラ』は、「修正主義派」の雑誌『ラボーチェェ・ジェーロ』に対抗するために創刊されたものである。これは、レーニンがロシア社会民主労働党の原則を純粋に守るために役立てようとしたのである。

 過去の偉大な革命は、みな国際的な影響を及ぼした。16世紀のオランダの叛乱はイギリスの革命運動に深刻な影響を与えた。17世紀のイギリス革命は、フランスとオランダにすぐさま反響を及ぼした。イギリス革命の思想は18世紀のフランスとアメリカではじめて身をむすんだ。ラファイエットやその他の人々は、アメリカ独立戦争の民主主義思想をパリにもちかえった。1789年、1830年、1848年及び1871年のフランスの革命は、ただちに国外に影響を及ぼした。だが、革命家自身が自分たちの行為は、国際的な過程の一部だということを十分意識して、自分たちの行為を国内の影響だけで判断しないでほしいとおもったのは、ロシア革命が初めてだった。

 問題は、資本主義の変貌を鏡に映しながら、歴史の急カーブを、曲がりきることが何より必要であった。それなのに、第二インターナショナル、とりわけ、その中心的存在であったドイツ社会民主党の内部で、「修正主義」が公然と登場している。ドイツ社会民主党は実践においては、完全に「改良主義的」議会主義政党に転落していたが、建前のうえではあくまでも、「エンフルト綱領」のマルクス主義的原則を維持していた。マルクスとエンゲルスは、「革命」が、社会主義秩序へ移行するための唯一の手段と考えていたが、ヨーロッパのほとんど全部の社会民主党にとっては、「革命」とは口先だけの言葉か、演説の結びのきまり文句か、敬虔な願望にしかすぎなかった。それは、いますぐ実行の可能性のあることとして、真剣に考えられてはいなかった。そこで、この建前と現状との乖離を埋めようとする働きかけが生じた。

「修正主義」が理論体系として登場するには、ベルンシュタインの改竄を待たねばならなかった。ベルンシュタインは、経済決定論的な待機主義、しかも非弁証法的な進化主義という歴史の展開に関する基本的な理解をもっていた。そのため、性急に政治革命を断行するなどという発想には、ほどとおかった。革命路線としてみれば、@議会をつうじての平和革命路線A日常的改良闘争の積極的な意義づけと、中間諸階層にたいする積極的な同盟政策B民族的利害を現実主義的に考慮C常備軍の人民軍への変換等、修正派のこれらの主張は、ドイツ社会民主党が現実に行ってきた運動をそのまま追認せよ、もっぱら最小限綱領の実現に努めよということであった。ベルンシュタインの提起した問題は、単なる戦略、戦術論的な次元に収まるものではなく、唯物史観の根本発想、マルクス主義とへーゲル弁証法との関係、経済学、特に、価値論の意義等々原理的な問題にまでわたるものだった。

特に、問題なのは、ブルジョア社会の経済的発展は、小経営を没落させ、プロレタリアの増加と少数のブルジョアに階級分解し、プロレタリア等は生存の不安定性、困窮、圧迫、搾取の増大にいたるというマルクス主義の骨子にたいする基本理解であり、資本主義はマルクスが予見したようには階級分解をとげていないし、恐慌の必然性にも疑問をなげかけた。彼が強調するのは、いわば、マルクス、エンゲルスの思想が次第に変化していることに着目し、その思想的変形の方向を延長した線上に、自らを位置づける試みであった。

 これにたいして、カウツキー、プレハーノフ、ローザ・ルクセンブルグなどの「正統派」マルクス主義派は、日常の運動論は「修正主義」と大同小異であったが、建前はあくまでも「革命的」であった。だが、「正統派」の革命戦略のアポリアは、歴史的な変化に目を覆い、資本主義が発展するにつれて、恐慌が大規模になり、やがてカタストロフィに陥る。そのときはじめて、労働者の革命的決起のときがくるという単調な図式主義につながっていたことである。ただ、マルクスの理説を教条主義的に復唱するだけで、自己の思想とマルクス主義の原則に則った「エルフルト綱領」の条文との関係を、主観的に空洞化させたのである。この限りでは、同じ「正統派」に属していたとはいえ、レーニンは単に、古典的マルクス主義を教条として墨守するのではなく、当時のロシアの歴史的条件の中で、その後進性を含め、革命の戦略と戦術を練り直すことに力点をおいたのである。その創造的に適用した構想がやがて決定的な意味をもつことになる。

ただし、「修正主義」は、いかに歴史を見分ける鏡が曇っていたにせよ、歴史的な変化の意識には敏感であった。それは、産業資本主義(自由主義)から金融資本主義(帝国主義)の時代への移行を、それなりに感知していたからである。

レーニンは、第二インターの修正主義論争に際しては、プレハーノフ等とともに「正統派」の一員としての態度をとった。その上にたって、さらに、レーニンは「帝国主義」=金融資本主義をもって、資本主義の新しい発展段階であることを明確に位置づけた。こうして、資本主義という根本的規定性においては変化がないとしても、「基本的な属性」に及ぶほどの変化が生じ、それが対立物に転化している。とすれば、この資本主義にたいする実践的対応の仕方も当然変化が生じるということから、マルクス主義の古典的了解事項や命題に次のような変更を加えた。

@    議会の空洞化や帝国主義戦争と戦後の混乱期をとらえるには、平時には不可能な暴力革命を復権させた。また、プロレタリア独裁論をもちだした。

A    レーニンは、絶対的窮乏化論や恐慌の理論とは別途に、資本主義発展の不均衡性、帝国主義戦争の必然性、弱い環の理論によって、新しいタイプのカタストロフィの到来を基礎づけた。

B    植民地の解放闘争が本国の革命と有機的な関係をうみだし、帝国主義戦争を内乱に転化するという国際的連帯の解放闘争が歴史的必然性をもつことを指摘した。

1914年~1918年の第一次世界大戦で多数の国に革命的情勢がうまれたときにも、これらの国の社会主義者は大体において、この情勢をレーニンのように分析し、利用する準備をおこたっていた。

レーニン主義は、その革命路線とともに、前衛党論、組織論も再編した。レーニンの前衛党論は、第二インター時代の議会主義に見合う、緩い結合の組織論とは性格を異にした。ここで留意すべきは、レーニンたちが、第二インター系の社会民主党を内部から変革するという道をとることなく、純正左翼を独立の党に結集したことである。この組織コースの背景には、旧左翼が主観的にはマルクス主義者を自称し、主観的には革命的であるとしても、組織体としては旧左翼の思想性と体質が、内部から是正しがたいほど変質しているという判断があった。ベルンシュタイン修正主義の現実主義的路線に没入している旧左翼=社民は、独占資本主義がうみだした「労働貴族層」、小ブル化した上級労働者層を基盤にしており、もはや解体せしめ、その下部構成員を左翼的に再結集する以外に処置のしようがなかったからである。

ロシアでは、レーニンが出現して以来、革命はひとつの事実であって、社会主義者はそれを計算にいれないわけにはいかなかった。社会主義者としては、革命についてなにか行動の指針になるようなはっきりした見解をもっていることが、絶対に必要であった。したがって、ロシアの社会民主労働党は、小さくて非合法で、第二インターナショナルの大会に普通は亡命者しか代表におくれなかったが、それにもかかわらず、この代表たちは自分の党の大きさに比べて、全く不釣合いなほど大きな役割を果たした。

 レーニンはいつも、ロシアと密接につながりをもっていたので、他の亡命ロシア人とちがって、西欧の党が大きいことや権威の高いことにけおされなかった。レーニンは、すべての加盟政党が口先だけで讃美していたマルクス主義の革命的言辞を、現実化するために努力していたので、インターナショナル内の一派の指導者になった。このことはレーニンがロシアに新しい型の革命党を建設するために闘争したこととむすびついていた。メンシェヴィキは西欧の大多数の社会民主党に支持されていたが、ボリシェヴィキは西欧の社会民主党の左派から支持された。

 レーニンは、第二インターナショナルの「修正主義者」や亡命ロシア人のなかのその追随者を相手に盛んに論争している間に、たくさんの著作をだし、その中で彼独特の徹底したやり方でマルクス後の世界経済の発展を分析しようとした。彼はこの分析にもとづいて、すべての国の社会主義者の任務をあらためて規定しなおそうとおもったのである。「修正主義者」にたいするレーニンの批判は、彼らがマルクス主義を生きた発展しつつある理論から、受動的決定論の死んだドグマにかえてしまったという点にあった。個々の社会主義者がなにをしようとしまいと、いずれは「不可避的に歴史的諸力」が社会主義をもたらすだろう、というのがこの決定論のドグマであった。レーニンは決定論者とはちょうど正反対で考え、行動した。彼はいつも、現在、自分がどこにいるかを知りたがった。それは次の一歩が何であるかを決めるためである。

 

18  帝国主義戦争を内乱へ!

 

1914年7月、第一次世界大戦がはじまった。4月、彼は、ロシアのスパイの嫌疑をかけられ、オーストリアのガリツィアで官憲がレーニンを逮捕して、ノーヴイ・タルグ刑務所(ガルシア)の牢獄に監禁され、囚人代表ということになった。だが、オーストリア社会民主党が、レーニンは決してロシア皇帝の側の人間ではないことを説明し、ようやく釈放された経緯がある。レーニンはスイスへ到着し、チューリヒに滞在した。

戦争が何よりもレーニンを驚かせたことは、第二インターナショナルの諸政党、特にドイツ社会民主党の指導者カウツキーをはじめ、ロシアのプレハーノフその他の英仏のおもだった指導者が、バーゼル宣言の本旨にそむいて続々と変節し、社会排外主義の潮流におし流されて、戦争協力の側にまわったことだった。そのとき彼はクラカウの近くのポロリノにいた。当時ポロニノにいたバゴツキーの思い出によると、ドイツ社会民主党が戦争に賛成したしていう電文の載った新聞をもって、彼がレーニンの家にかけつけると、彼は、「そんなことはありえない!あなたはきっとポーランド語の電文をまちがってとったのだ」と叫んだ。ポーランド語のわかるクループスカヤが呼ばれたが、彼女は彼のいうことが正しい、と言った。「これで第二インターナショナルの終わりだ。」と彼はつぶやき、そしてこうつけ加えた「今日からわたしは社会民主主義者であることをやめた。そして共産主義者になるのだ。」

このときドイツ社会民主党議員団は、次のような声明を発表して、かれらの戦争協力を合理化した。

 

《今やわれわれは、戦争という冷厳な事実に直面している。敵軍の侵入という恐怖がわれわれを脅かしている。われわれが今日決すべきことは、戦争に賛成するか反対するかではなく、国土の防衛に必要とされる手段の問題である。……わが民族とその自由な未来は、ロシア専制主義の勝利に、たとえすべてではないにせよ多くかかっている。そしてこの専制たるや、自国の国民の最良のものの血でよごれているのである。……ここにわれわれは、われわれがつねに強調してきたことが真実であることを確認する-危機に際して祖国を見捨てないことを。……われわれは、戦火の苦悩という無慈悲な学校が、何百万人という人々のなかに戦争にたいする嫌悪をめざめさせ、かれらを社会主義と諸民族の平和という理想のがわにひきつけるであろうことを希望する。……》

 

レーニンの戦争に関する基本的な考え方は、第二インターナショナルの指導者たちの態度を批判するあいだに、徐々に固められていった。人民の主体的闘争ではなく、戦争が人民に社会主義を教育する!第二インターナショナルの指導者の大多数が社会主義を裏切り、こうして恥ずべき死を遂げた。ロシアのメンシェヴィキは、戦争支持にまわった。そこで、戦争支持の立場をとった各国の社会主義、特に、ロシアの社会主義者にたいして猛烈な攻撃をしかけようとした。レーニンはマルクス主義の階級思想に忠実になぞって、戦争に対する原則的な立場を貫いた。これにたいして、ヨーロッパ諸国の第二インターナショナルの指導部は、資本主義の政府による民族主義的な排外思想と侵略思想を、階級思想と調和させるかにみえた。いわば、労働者や一般の大衆のなかにある民族感情や国民感情を考慮し、階級的な原則にそれをまぜこんで、どこかで調和点か均衡点をみつけだそうとしていたのかもしれない。ただし、レーニンから見ると、それは、社会主義の放棄に映ったのである。レーニンは言い換えてはないが、つまり、レーニンは思想に忠実な理想主義者であり、他方は現実主義であるかのように見えた。

レーニンがこの理想主義の根拠にしたのは、労働者同士の階級的な連帯や共通の倫理観、利害の共同性が、国家とか民族とかの枠組みをこえて、国際主義(インターナショナリズム)をつくれると考えたことである。労働者の階級的な意思は、かならず資本主義的な民族国家の枠組みをこえて共通の土壌に立てると考えたのである。レーニンは、自分たちは、階級的立場に立脚して大衆が望むように、自国のツァーリの帝制をつきくずすために闘っている。

ところが、第二インターナショナルの指導者たちがやっていることは、国家がおしつけている戦争意思を容認し、それを介して敵国と闘うことは、他の国家のもとにおける労働者や大衆の解放する方法であるというような詭弁を弄している。こののち、このドイツの社会民主党の国会議員幹部は、1914年8月、かつてかれらが宣言した約束を無視して、カイゼル政府の軍事公債に賛成投票を投じたのである。ヨーロッパの当面の課題は、ドイツ、オーストリア、ロシアの君主制を打倒すべきはずなのに、彼らは裏切りでしかない戦争遂行勢力になってしまっている。社会主義をもはや、彼らが語ることは許さないということであった。

この第二インターナショナルの最も有力な政党が、ドイツ社会民主党であった。第二インターがいかにして、帝国主義に取り込まれて妥協したか、その見本がここにあった。もし、これだけの勢力が全力を上げて、戦争反対に取り組めば、戦争の開始を阻止し得なかったとしても、帝国主義戦争を内乱に転化する可能性はあった。にもかかわらず、第一次世界大戦が決定的になるや、第二インターの諸党は、先を競うように「祖国防衛主義」になだれこみ、その理念も名目も、事実上、自壊してしまったのである。

やがて、指導者たちは、党と労働組合のピラミッド組織のなかの高給ポストに、既得権益をもつようになり、このような地位は、資本主義体制の存続がそれを保証していたのである。彼らは、この資本主義体制の機能のなかにどっぷりと精神的に順応してしまい、資本主義体制が利潤を上げればあげるほど、自分の配下の労働者のために譲歩を獲得する方が、社会主義のために闘うより気楽だと考えた。このようにして、官僚的な指導者たちは、下部大衆の政治的立ち遅れを理由にして、自らの革命的言辞と妥協的行動との食い違いを、頬被りしてとおすことができた。

だから、レーニンは、1914年における第二インターの社会民主党幹部の行動を、特に、日和見主義や折衷主義として卑しむべきものと考えたのである。レーニンは、第二インターナショナルの「修正主義者」や亡命ロシア人のなかのその追随者を相手に盛んに論争している間に、たくさんの著作を出し、その中で彼独特の徹底したやり方で、マルクス後の世界経済の発展を分析しようとした。彼はこの分析にもとづいて、すべての国の社会主義者の任務をあらためて規定しなおそうとおもったのである。「修正主義者」にたいするレーニンの批判は、彼らがマルクス主義を、生きた発展しつつある理論から、受動的決定論の死んだドグマにかえてしまったという点にあった。

 レーニンの主張には、少なくとも、資本制が急激に膨張しようとした古典近代期のマルクス主義の原則が、守護されている。だが、労働者たちの意識が、当時と同じように、労働者同士の階級的な連帯や共通の倫理観、利害の共同性が、近代民族国家の枠を超えられるかどうにかかっていた。

レーニンが国際主義のうえにたって、具体的に提起した方策は、@各国の軍事公債にたいする賛成投票を拒否して、ブルジョア的内閣から脱退すること。A国内における平和という政府の政策を拒否すること。B国家政府機関が戒厳令をしいて憲法上の自由を停止しているところでは、非合法の組織をつくること。C前線の塹壕内で交戦している敵対国との兵士たちの交歓を支持すること。Dプロレタリアートの革命的な大衆行動を支持すること、などであった。

こういう視点を保持している限り、そのため、レーニンは亡命者たちのなかで、ほとんど孤立無援になってしまったほどであった。だが、世界の社会主義センターの方針からは卓越していたはずだ。また、第二インターナショナル諸国の指導者と異なって、レーニンの思想的視野と見識は、民族国家の枠をこえるほどに卓越していた。しかし、レーニンら双方の対立のなかで考えると、資本主義の理念が単一の世界市場の形成をめざすとしても、民族国家の枠組みを保持することを前提にしたまま、世界統一性を獲得するということが、ほんとうに可能なのか、過小評価していたのかもしれないのである。レーニンはそう信じていたが、第二インターナショナルの指導者たちは、マルクス、エンゲルスの存在した古典近代期を身近な思想として抱いていなかったのかもしれない。双方の間に岐路を生んだ岩盤があるとすれはその点だった。

この点については、レーニンが想定したより、近代資本主義がその上にのせた民族国家の寿命は短くなかったのかもしれない。もうひとつは、ヨーロッパ諸国の資本主義の進展度とロシアの資本主義の進展度には、想像以上の誤差があったと考えられることだ。従って、民族国家にたいする距離感の相違が、レーニンと第二インターナショナルの指導者の間によこたわる距離であったのかもしれない。だが、レーニンは、ロシア社会主義労働党の崩壊を支払うほどの弾圧をこうむりながら、この戦争の問題にかかわり続けた。

さらに、レーニンが明白に感じているのに、ヨーロッパでは不分明と想定されたのは、「戦争」と「平和」の概念そのものであった。レーニンの場合は簡明であった。レーニンは「平和」一般というようなものには賛成でなく、単なる「戦争」一般というようなものに反対でもないという立場である。

 

《われわれがブルジョア平和主義者とちがう点は、戦争というものが国内での階級闘争とぬきさしならない関係をもっていることを見ぬき、階級をなくし社会主義をうちたてないかぎり、この世界から戦争をなくしてしまうことはできないことを知っている点である。さらに、われわれが彼らとちがう点は、戦争のひとつである国内戦、つまり圧迫階級に対する被圧迫階級の戦争-奴隷所有者にたいする奴隷の戦争、地主にたいする農奴の戦争、資本家に対する賃金労働者の戦争の、正当性、進歩的性格、必然性を、われわれが全面的にみとめる点である。われわれマルクス主義者が、平和主義者とも、また無政府主義者ともちがう点は、われわれがどの戦争についてもそれぞれその特色を、歴史的に(マルクスの弁証法的唯物論の見地から「歴史的に」)分析する必要をみとめる点である。あらゆる戦争につきものの、おそろしいこと、むごたらしいこと、あらゆる悲惨さ、苦しみにもかかわらず、歴史的には進歩的な戦争、すなわちとくに有害な反動的な制度(たとえば絶対主義との農奴制)やヨーロッパでもっとも野蛮な(トルコとロシアの)専制政治を破壊するのをたすけ、人類の進歩に役立ったような戦争が、いくどもあつたのである。》

『社会主義と戦争』レーニン著 川内唯彦・川上洸訳

 

このレーニンの戦争観では、「戦争」が、「進歩的」か「反動的」かによって、または「人類の歴史に役立ったかどうか」という規準に照らして裁断されていることである。これは、ある意味では、片一方で語られている戦争にまつわる「おそろしい」、「むごたらしい」、「悲惨」という大衆の一般感情と矛盾する言いまわしである。あたかも「正義」の戦争があり、それに反して「悪」の戦争もあるというような倫理観が、レーニンの戦争観に移入されているのであれば、これは、ほとんど戦争に関する「信仰」告白に限りなく近づいている。戦争の論理としては、レーニンには通じないかもしれないが、自分が「進歩的」と信じ、それを先に宣言した方が、「善」の戦争の当事者になることもあるのだ。事実、レーニンとは正反対の立場であるが、第二インターナショナル諸国の指導層は、この帝国主義戦争を「善」とみなして支持しているのである。レーニンとちがってわたし(たち)は、戦争に「善」や「悪」の倫理観を結合することを拒否する。だから、「革命の祖国」を守るための革命戦争が無条件に、「善」ということはできない。レーニンは、階級をなくし社会主義をうちたてない限り、この世界から戦争をなくしてしまうことはできないと述べている。階級対立の消滅は、国家の死滅だからである。政治的国家が消滅すれば、国家間の紛争はなくなる。これは、戦争の「義」の消滅と同じ意味だが、問題は、「義」のあるなしが戦争への帰趨をきめてしまう現代に異を唱えることができるかどうかなのだ。レーニンは民族国家のあるところで、「義」のない戦争(帝国主義戦争)を「義」のある戦争(内乱)に変えようとした。そして、それが成功した。だが、これはマルクス主義によって行われたものではない。ドイツとの戦争で疲弊したロシアの一般兵士、農民、プロレタリアートの無言の圧力があればこそできたのである。とすれば、どのような戦争であろうと、戦争への帰趨を決めるのは、「政治的でない」被支配層としての一般大衆である。「政治主体」としてのプロレタリアート、兵士、農民の前衛が決めるのではないことを明示しなければからない。

戦争に対する幻滅感が高まるにつれて、この孤立のゆえに、レーニンの権威がますます高まった。レーニンは、最初から、この戦争がロシア革命の好機になるとおもっていたので、党活動により一層、力を入れた。

1914年9月にレーニンは、スイスのベルンに着いた。

翌日、ベルンの近郊の森のなかで、ボリシェヴィキ派の戦時中第一回の非合法の集会が開かれた。集会は、「戦争にかんするテーゼ」を採択した。レーニンは、この戦争と戦争準備の外交政策の欺瞞性を明らかにしている。彼は、戦争は政治の延長であるというクラウゼヴィッツのテーゼを利用して、交戦中の諸国が帝国主義であり、政治の次元でも帝国主義的政策は対立し合っていた。だから、戦争は、帝国主義戦争として、つまり、帝国主義間の戦争、帝国主義ブルジョアジー間の戦争として特徴づけられた。

こうして、第二インターナショナルは瓦解した。なぜなら、ブルジョア的潮流に取り込まれ、日和見主義と議会主義がそれを内部から蝕むからである。労働運動は、本来、政策のうえでブルジョアジーに追随するどころか、彼らに抵抗しなければならない。ブルジョア民族主義とも、また、社会民主主義者の裏切りとも闘わなければならない。特に、ロシアの労働者階級は、1914年には、1905年のときと同様に、ツァーリ君主制および大ロシア人的、汎スラブ主義的排外主義にたいして反対し、また、自由主義者、カデット(立憲民主党)、一部のナロードニキ、その他ブルジョア政党がこの排外主義を擁護していることにたいして容赦なく無条件に闘うことである。

ロシアにおける革命を宣伝して、帝国主義戦争を、ロシアの封建領主および大ブルジョアジーに反対する戦争に転化しなければならない。そこで、レーニンは「祖国(ブルジョア的)防衛」のスローガンに反対して、「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」というスローガンを打ち出した。プロレタリア国際主義の旗を高く掲げ、帝国主義戦争に終始一貫反対し、自国政府の敗北、帝国主義戦争の内乱への転化のスローガンをかかげて闘ったのは、レーニンをいただくロシアのボリシェヴィキのみであった。

スイスで彼は孤立していた。ロシアから遮断されていた。ロシア国内のボリシェヴィキ組織は、すっかり壊滅状態にあり、活動家たちは投獄されるか流刑されていた。資金も底をついていた。1914年の末には、雑誌発行のために、党の金庫には160フランしか残っていなかった。レーニン自身の生活状態は極度に困窮していた。そのうえ、悪いことには、彼は「中立の侵犯の廉で」国外追放をうけて、ロシアとフランスの当局に引き渡されようとしていた。しかし、1914年11月1日に『ゾチアール・デモクラート』誌が復刊され、ついで、1915年に『ル・コムニスト』誌が発刊された。レーニンの政治活動は百倍も困難になった。だが、それにもかかわらず、党活動を遂行する決意は固かった。

そして、ボリシェヴィキ党の非合法事務局がペトログラード再建され、これがレーニンとの連絡を可能にした。1915年2月に、ベルンで一つの非合法会議が招集された。そのとき、レーニンはすでに第三インターナショナルの創設を決意していた。障害があったが、続いて1914年9月にイタリア・ロシア社会主義者大会をルガノで、1915年2月に国際社会主義婦人大会を招集することができた。さらに、1915年2月には連合国の社会主義大会に参加することができた。

ついに、1915年8月23日に、全ヨーロッパの社会主義政党の「左翼」の少数派を結集した有名なツィンメルヴァルド大会がスイスで開催された。この会議では、レーニンに指導される左翼と右翼が対立した。「ツィンメルヴァルド左翼」は、宣言「ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務」および宣言草案のなかでつぎの立場を決定した。「われわれは大部隊となる。まもなく数百万の人々がわれわれといっしょになるであろう」

多くの障害があったにもかかわらず、1915年後半から、彼は各国の経済統計と経済学的文献を集め、現代資本主義経済の本格的研究にとりかかった。戦争の第一日目から1916年6月にかけて、著書『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年刊行)を準備している。

レーニンは『帝国主義論』にとりかかってから、世界革命の展望にたいして、マルクスの命題をかえてしまうテーゼを発表した。彼にとっては、一国におけるプロレタリア革命の可能性と、必ずしも非常に発展しているとは限らない一国における社会主義建設の可能性とが、ますますはっきりとした関連をもちはじめていた。マルクスとエンゲルスは、少なくとも『共産党宣言』からパリ・コミューン時代までは、社会革命は、後進国ではなく、先進資本主義国に、そして個々でなく、ほぼ同時的な革命でなくては勝利がおぼつかないと考えていた。マルクス・エンゲルスの「世界革命論」である。

これにたいして、レーニンは、資本主義国の経済的、政治的発展が不均等性に行われるから、革命は、はじめ1か国、あるいは数カ国で火蓋をきるという結論をくだしたのである。この法則をはじめて世界革命の展望に応用した。彼によれば、経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただひとつの資本主義国ででも可能である、という結論がでてくる。この国の勝利したプロレタリアートは、資本家を収奪し、自国に社会主義的生産を組織したのち、他の資本主義世界にたいして立ち上がり、他の国々の被抑圧階級を自分のほうにひきつけ、それらの国々で資本家にたいする蜂起をおこし、必要な場合には、武力に訴えても搾取階級とその国家に反対して行動するであろう、というテーゼを提出したのである(革命戦争)。

その証拠が、『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』(1915)と『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916)にある。

 

《一国での社会主義が不可能であるというまちがった解釈と、そのような国と他の国々との関係についてのまちがった解釈を、生みだす恐れがあるからである。経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。》

『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』レーニン著 レーニン全集刊行委員会訳

 

不均等発展は帝国主義時代に、一層、激化するとはいえ、マルクス、エンゲルス時代(自由競争的産業資本主義の時代)にも存在した。それにもかかわらず、なぜ、マルクス、エンゲルスは世界革命をとなえたのか。おそらく、当時のイギリスは世界を支配していた。いわば、資本主義の先頭的、世界支配的地位にあったため、イギリスが世界の中心である限り、イギリスが中心の世界に放射線状に拡散する革命を考えたといえる。ところが、レーニンの時代は、帝国主義を深く分析し立ち入るにしたがって、世界は、より不均等発展が一層、激化し、イギリス一国のみの世界把握を想定することができなくなったのである。そこで、レーニンは、世界革命を放棄し、一国社会主義路線に乗り替えたのだ。だが、レーニンは「一国社会主義」を唱えたとして、のちのスターリンの「一国社会主義論」とどこが違うのか。スターリンは次のように述べている。

 

《結論はこうです。すなわち、われわれは、西欧における革命の勝利がなくても、自分の力で社会主義社会を建設しとげることができるが、しかし国際資本の襲撃からわが国の安全を保障することは、わが国一国だけではできない-そのためには、西欧のいくつかの国々の革命の勝利が必要である、ということになります。わが国で社会主義を建設しとげる可能性ということと、国際資本の襲撃からわが国の安全を保障する可能性ということとは、別の問題なのです。》 『レーニン主義の諸問題によせて』スターリン著 田中順二訳 

 

《おなじ一国社会主義化可能論―と言っても、スターリンのは必然論だが、―にしても、レーニンのそれは深く国際主義的精神に貫かれたものだが、スターリンのは、実は、非常にソ連邦愛国主義的な性質をもっていることである。―中略―更にその上、決定的なことは、その「一国社会主義」の社会主義は、スターリン主義者においては、実は、「国家社会主義」に変質化せられてしまっていることである。また、ここから、各民族、各国のプロレタリアートの平等性を破壊するソ連邦に従属的な革命方式に変質しまっていることである。》                  『スターリン主義批判』  対馬忠行著 

 

対馬も言っているように、スターリンの一国社会主義の思想は軍事的のみに限って、他国の援助を求めており、経済・社会的な世界性、そして国家の解体や死滅の思想をすべて捨象してしまっている。だから、経済・社会的には「国家社会主義」になり、国家機構の抑圧や官僚の廃絶の問題が全く省みられていないのだ。レーニンの国際主義的精神というのも曖昧な概念であり、少なくともレーニンが世界革命の思想をぶらしたことは事実である。国家の解体、世界革命の放棄をしたこういう国家をもって「コミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家」とよぶのだ。民族国家であるかぎり、そして民族国家を超える思想をもたない限り、いずれ愛国主義的にもなるし、排外主義的にもなるのだ。「国家」と「社会主義」が矛盾するところで、スターリンは矛盾を感じなかったが、おそらくレーニンなら矛盾をうけとる度量があった。

しかし、いずれにせよ、このように定式化しているこの理論が、1915年8月、レーニンが重大な<変形>をわたしたちにもたらしたものである。

 レーニンの経済分析は、1916年に発行された『帝国主義論』のなかで行われた。

レーニンが証明したのは1914~18の戦争が、帝国主義戦争(侵略的、略奪的、強盗的な戦争)であり、世界の植民地の分割と再分割から生じた戦争だったということである。戦争の社会的性格は、交戦列強の支配階級の客観的状況のなかにあることは明白だった。

資本主義は一握りの「先進国」が、人口の圧倒的大多数を資本主義的に抑圧し、金融的に絞殺する世界体制へ成長転化したのである。そして、その「獲物」の分け取りは、世界的な強大な、頭のてっぺんから足の先まで武装した2、3の「強盗ども」(アメリカ、イギリス、日本)の間で行われているが、彼らは、自分たちの獲物の分け取りから起こる自分たちの戦争に、全世界をひきずりこもうとしているのである。

これは、資本主義の内的なメカニズムによって説明される。工業の巨大な成長、ますます大規模化する企業へ生産が集中してゆくほど、急激な過程、これは資本主義の最も特徴的な特質のひとつである。生産の集積は労働者の集積よりずっと激しい。大事業所の労働は、生産性がずっと高いからだ。

1907年のドイツにおいては、1,000人以上の労働者をもつ事業は586あった。これらの事業所は、労働者総数のほとんど1/10(138万人)、蒸気力と電力総量のほとんど1/3(32%)を保有していた。そして、貨幣資本と銀行は、一握りの巨大企業のこの優勢をますます圧倒的なものにする。すなわち、数百万の中小「経営主」、それに大「経営主」の一部すら、じっさいには、数百の百万長者=金融業者に完全に隷属しているのである。

アメリカの例でいえば、国のすべての企業の総生産額のほとんど半分が、企業総数の1/100の手に握られているのだ。そしてこの3,000の巨大企業は258の工業部門にわたっているのである。このことから、集積がおのずから一定の段階においてぴったりと独占に接近していることは明らかだ。なぜなら、数十の巨大企業にとっては、相互の協定に達するのはたやすいことだし、他方では企業が大規模だということから、競争が困難になって、独占へと向かう傾向が生まれる。このような競争の独占への転化こそは、最新の資本主義経済における最も重要な現象のひとつをなしている。しかし、この例をとって各部門に最大規模の企業が12ずつしかないというわけではない。最高の発達段階に到達した資本主義はコンビネーションがあるからである。そして、集積はますます進展する。個々の産業部門、あるいは異なった産業部門に属する企業が、ますます合同して巨大企業を生んでいく。

 ヨーロッパにおいて新しい資本主義が、古い資本主義に交替した時期を予測することができる。それは20世紀の初めにほかならない。独占体の歴史は次のとおりである。

@    1860年代と1870年代-自由競争の発展の頂点。

A    1873年の恐慌以降、長期にわたるカルテルの発展期だが、カルテルはなお、例外的存在である。

B    19世紀末の高揚と1900~03年の恐慌。カルテルは経済生活全体の基礎の一つになっていく。資本主義は帝国主義に転化した。

なお、このカルテルとは、販売条件、支払い期限、その他について協定したり、販路をお互いのあいだで分割したり、生産する生産物の量を定めたり、価格を決定したり、個々の企業に利潤を分配したり等々するものである。

ドイツのカルテルの数は1905年に385で、この都市には1万2千の事業所が加盟していたとなっているが、この数字は実際より少なく見積もられているはずだ。1万2千の巨大企業をとってみても、蒸気力と電力の総量の半分以上を集中しているからである。さらに、アメリカではトラストの数が1907年に250となっている。カルテルやトラストの手にその産業部門の7/10~8/10が集中されていることも例外ではない。このように独占体がつくりだされると、それは巨額の収益を保証し、はかりしれない大きさをもつ技術的生産単位を形成する。

競争は独占に転化していく。それにより、生産の社会化は巨大な進歩をとげる。特に、技術的発明、改良の過程も社会化される。巨大な独占団体によって市場の大きさも概算され、それらの団体は「分割」する。熟練労働力は独占され、交通路と交通手段はおさえられる。資本主義はその帝国主義的段階において、生産の最も全面的な社会化をなしとげる。しかし、生産は、社会的になっていくが、取得はあいかわらず私的なままである。社会的な生産手段は、あいかわらず、少数の人間の私的な所有である。それだけに、少数の独占者がその他の住民に加える圧迫は耐えがたいものになっていく。われわれの前にあるのは、もはや、小企業と大企業との競争戦ではなく、技術的に遅れた企業と技術的に進んだ企業の競争戦でもない。独占体に服従しない者、独占体の圧迫や、その横暴に服従しないものの独占者による絞殺である。

カルテルによって恐慌が避けられるというのは、なんとかして資本主義を美化しようとしているブルジョア経済学者の御伽噺である。総体としての全資本主義的生産に特有な無秩序性が強められ、はげしくなる。一方、銀行は、少数の銀行に集積するにつれ、仲介者という控えめな役割から資本家と小経営主の全体の貨幣資本をすべて管理し、さらに、一国や国々の生産手段と原料資源の大部分を管理する全能の独占者に成長転化する。控えめな仲介者から一握りの独占者へというこの転化は、資本主義から資本主義的帝国主義へ成長転化する。

ドイツの銀行では、預金額の小さい銀行は大銀行に押しのけられ、大銀行の9行が預金総額のほとんど半分を集積している。その上、小銀行が大銀行の事実上の支店に転化している。1909年末には、ベルリンの9大銀行は、その系列に入っている諸銀行とあわせると113億マルク、すなわちドイツ銀行資金総額の83%近くをにぎっていた。大銀行は小銀行を直接吸収するのでなく、併合し、みずからのコンツェルンのなかに含める。細かい網の目のような水路が国中をおおい、資本と貨幣収入を集中し、数千数万の分散した経営を単一の全国民的な資本主義経済へと、さらには世界資本主義経済へと転化する。銀行の資金の集積と取引高の伸びにつれ、銀行の意義が根本的に変わる。銀行の口座でもそうだ。資本家の口座を巨大な規模で成長すると、全市本主義社会の商工業取引が一握りの独占者に従属させられることになる。一握りの独占者は、銀行の取引関係を通じて、また、当座勘定その他の金融業務を通じて、初めは個々の資本家の事業の状態を正確に知り、次には信用を広げたり窮屈にしたり、ゆるめたり引き締めたりすることによって、彼らを統制し、彼らの運命を完全に決定し、彼らの収益性を決定して、彼らの資本を奪ったり資本を急激に増大させたりすることができるようになる。集積過程によって資本主義経済全体の頂点に残った数少ない銀行の間には、当然に、独占的協定つまり銀行トラストをめざす志向がますます明らかになる。アメリカでは2つの巨大銀行が110億マルクの資本を支配している。

産業資本家は、ますます完全に銀行に従属することになる。これとともに、銀行と巨大な商工業との人的結合が発展する。したがって、資本主義的大独占をつくりだし、仕上げるのはあらゆる「自然的」および「超自然的」な方法によって全速力でおしすすめられているのだ。重役が分業で担当することもでてくる。このようにして、一方では、銀行資本と産業資本の融合があるいは癒着が、そして他方では、銀行が真に「総合的な性格」をもつ機関へと成長転化していくからである。こうして、20世紀は古い資本主義から新しい資本主義への資本一般の支配から金融資本の支配への転換点をなす。

生産の集積、そこから生まれてくる独占体、銀行の産業との融合ないし癒着、これこそが金融資本の発生史なのであり、金融資本という概念の内容をなすのだ。少数者の手に集積され、事実上の独占をほしいままにしている金融資本は、会社の設立、有価証券の発行、国債の引き受け等々から巨額の、ますます増大する利潤を引き出し、金融寡頭制の支配を固めている。
 資本の所有が、資本の生産への投下から分離すること、貨幣資本が産業資本あるいは生産資本から分離すること、帝国主義あるいは金融資本の支配とは、この分離が巨大な規模に達している資本主義の最高段階である。金融資本が他のすべての形態の資本に優越することは、金利生活者と金融寡頭制が支配的地位にあることを意味し、金融的な「力」をもつ少数の国家が、他のすべての国家から隔絶した存在になることを意味する。世界国別の金融資本の大きさをみても、証券発行総額が、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツの4か国で約80%を占めるまでになっている。残りの世界はほとんどみな、国際的銀行業者であるこれらの国々の債務者にして貢納者の役割である。

自由主義が支配する古い資本主義については、商品の輸出が典型的であったが、独占が支配する最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった。国際間の商品交換が、個々の企業、個々の産業部門の不均等と飛躍性は資本主義のもとでは避けられない。20世紀に入る頃には、資本主義国における独占体の形成、資本蓄積が巨大な規模に達した少数の富裕な国々の独占的な地位の形成が生じた。

先進諸国には、巨大な「資本の過剰」が生じた。資本主義が資本主義である限り、過剰な資本は、その国の大衆の生活を向上させるのに向けられることなく、国外の後進諸国へ資本を輸出することによって、利潤を引き上げに向けられるのだ。1910年の国別対外投資額をみると、1,750億~2,000億フランに達していた。この額からの収益は、控えめに利率5%としても、年間80億~100億フランにのぼるに違いない。これこそ、世界の大多数の民族と大多数の国々にたいする、帝国主義的抑圧と搾取の一握りの最も富裕な国家の資本主義的寄生性の、確実な根拠である。

独占は、有利な取引をおこなうために、コネクションを利用している。借款の一部を債権国の製品の購入にあてることが、ごく当たり前になっている。資本の輸出国は世界を自分たちのあいだで分割したがる。資本家の団体、カルテル、シンジケート、トラストは、何よりもまず国内市場を相互のあいだで分割し、一国内の生産を完全にその手におさめるのである。しかし、資本主義は不可避に国外市場と結びついている。資本の輸出が増大し、巨大な独占団体の外国および植民地の結びつきが、その「勢力圏」が極力拡大されることによって、これら独占団体のあいだの世界的協定へ、国際カルテル形成へと接近する。これは資本と生産の世界的集積である。

金融資本の時代には、私的独占と国家独占とがひとつに絡み合っているということである。力は経済的、政治的発展によって変化する。純粋に経済的な力関係か、経済外的な軍事的な関係であるかどうかは第二義的な問題にすぎない。最近の資本主義、資本主義団体の間に世界の経済的分割を基盤とする一定の関係が形成されつつあり、これと並行して政治的団体・諸国家の世界の領土的分割、植民地獲得闘争を基盤とする一定の関係が形成される。19世紀と20世紀の境に、世界の金融資本の植民地的分割は完了した。最新の資本主義の基本的特質は、巨大企業家たちの独占団体の支配ということだ。このような独占体が最も強固になるのは、原料資源がことごとく一手に握られるばあいである。資本主義が高度に発展すればするほど、全世界における競争と原料資源の追求が激化すればするほど、全世界における競争と原料資源の追求が激化するほど、植民地獲得闘争はますます死にもの狂いのものとなる。経済的領土の拡張にたいする金融資本の渇望が生じる。

資本輸出の利益からしても同じく植民地の侵略が求められる。資本主義の特殊な段階としての帝国主義段階とは、次のようなものだ。

 

《つぎの五つの基本的標識を含むような、帝国主義の定義を与えなければならない。

(1)生産と資本の集積が高度の発展段階に達して、経済生活で決定的役割を演じる独占体をつくりだしたこと。(2)銀行資本が産業資本と融合し、「この金融資本」を基礎として金融寡頭制がつくりだされたこと。(3)商品輸出と区別される資本輸出が、とくに重要な意義をおびる。(4)資本家の国際的独占団体が形成され、世界を分割していくこと。(5)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了したこと。》

                   『帝国主義』 レーニン著 和田春樹訳

 

資本主義が高度に発達した中央ヨーロッパ地域、イギリス地域、アメリカ地域は、これらの国の間の帝国主義的競争と闘争は、ドイツがとるにたらない領域とわずかな植民地しかもっていないということによって、極度に激化している。金融資本とトラストは、世界経済のさまざまな部分の成長速度の相違を弱めるどころか、強めているのだ。だが、そうして力関係が変化した場合、矛盾の解決は、資本主義のもとではに求める以外に、どこに求めることができるだろうか。帝国主義は経済的寄生の習慣であって、これによって支配国家は自国の支配階級を富ませ、自国の下層階級を買収しておとなしくさせておくために、その属領、植民地、従属国を利用する。

帝国主義とは少数の国に貨幣資本が大量に堆積することであって、このことから金利生活者階級の、より正しくは金利生活者層の異常な成長がもたらされる。イギリスの金利生活者は100万人に上っている。イギリスの国民所得は、1865年から98年までにおよそ2倍になったが、「外国からの」所得はこの期間、9倍に延びた。そればかりか、

 

《帝国主義は、世界の分割と中国だけにとどまらない他国の搾取を意味し、一握りの最も富裕な国々にとっての独占的高利潤を意味するのであるから、したがって、帝国主義は、プロレタリアートの上層を買収する経済的可能性をつくりだすのであり、これによって日和見主義を養い、形成し、強固にするのだ。》

                 『帝国主義』   レーニン著 和田春樹訳

 

労働者を分裂させ、彼らのあいだに日和見主義を強め、労働運動の一時的な腐敗をもたらす傾向があらわれる。帝国主義国への低開発国からの移民も増加している。労働者は保守党といっしょに、そのおすそ分けにあずかっているのだ。プロレタリアートの一部がブルジョアジーに買収されている。カウツキーのいう、すべての帝国主義列強の全体的同盟という形にせよ、不可避に戦争と戦争のあいだの息継ぎにすぎない。植民地をめぐる帝国主義列強の闘争、戦争は避けられない。帝国主義の性格の過渡的な資本主義として、正しく言えば、死滅しつつある資本主義としてとらえられなければならない。

レーニンの帝国主義論は、1900年を境に、先進諸国内ではトラスト、カルテル、シンジケート、コンツェルンなどによって、資本の集積が進み、それが企業の独占を生み、国内市場を手中におさめることからはじまっている。そして、それが、金融資本と癒着することによって、ますます、巨大金融寡占を志向するようになる。こうなれば、資本の運動に国境はない。次は、巨大企業の膨大な累積された資本を背景に、海外の植民地、低開発国への資本輸出がはじまる。そして、これらの影響下にある国々を求めて、列強間では世界市場の分割(国際カルテル、トラスト)競争が進んでいく。こうして、世界は数カ国によって植民地化されてしまい、分割化を終了する。

植民地の搾取によって帝国主義国内が潤うようになると、西欧の労働運動も、性格が変わってくる。ブルジョアジーのおこぼれにあずかる労働者が多くなってくるからである。帝国主義列強間の競争にともなう排外主義が産まれるのもここからである。レーニンはこういう労働貴族の例としてカウツキーを攻撃している。

 レーニンが『帝国主義論』を書く直接の動機になったのは、1914年に勃発した戦争にたいしてとるべき態度について、社会主義者の間で論争がおこったことであった。だが、それは、やはり論争のためにかかれた『ロシアにおける資本主義の発達』とおなじく、決して寿命のみじかい労作ではなかった。『帝国主義論』が刊行されるよりはるか以前に、すでにこの著書の主要な結論に到達していて、それにもとづいて行動していた。

 インターナショナルの崩壊といわれるように、戦前には、いちおう戦争に反対していた各国の社会主義者たちの多くは、公然と戦争を支持した。ドイツ側はウィーンで、英仏側はロンドンで、それぞれ会議を開き、戦争支持を確認している。北欧中立国の社会主義者たちはコペンハーゲンで交戦国間の仲裁を討議していた。

第二インターナショナルは、1907年のシュトゥットガルト大会において採択された決議の中で、切迫した世界大戦にたいする態度を規定し、1912年のバーゼル大会でさらにこれを再確認した。戦争を阻止しようとする万国の労働者階級の努力にもかかわらず、もし戦争が勃発したら、そのときには、「人民をたちあがらせて、資本家の階級支配の没落を促進するために、戦争にもとづく経済的・政治的危機に全力をつくして利用するのが、社会主義者の義務である」といわれた。

だが、1914年になると(ロシアとセルビヤをのぞく)すべての交戦国の社会主義政党の大多数が、戦争を支持した。ロシアでは、ボリシェヴィキもメンシェヴィキも戦時公債には賛成投票をしなかった。だが、メンシェヴイキはただ戦争に介入しないことだけに限定した。ところが、ボリシェヴィキは、国会や工場の中で反戦宣伝を行った。1914年11月には5人のボリシェヴィキの国会議員が逮捕された。2月になると、この5人と党の他の指導者が裁判にかけられて、シベリア流刑に処せられた。レーニンは「現在の帝国主義戦争を内戦にせよというのが唯一の正しいプロレタリア的スローガンである。……ロシアの敗北はどんな場合もより少ない害悪である」と宣言した。

このような情勢のなかで、交戦国および中立国の約40名の戦争反対派の会合が、ツィンメルワルト(1915年)やキンタール(1916年)で開かれた。彼らは、「国際主義者」とよばれたが、将来の見通しには多くの混乱があり、容易に一致した見解には達しなかった。「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と主張するレーニンに賛成するものは、10名程度しかいなかった。

1916年レーニンは『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を脱稿した。国内の合法出版社の依頼に応じて書き上げたこの書物のなかで、彼は大戦前夜の「世界資本主義経済の全体像」をつくりあげ、帝国主義戦争の根源である帝国主義とは何かを明らかにしている。世界の現実と世界史の動向についてのレーニンの認識は、ここで飛躍的に深まった。このことは、レーニンの革命観に新しい発展をもたらした。それは、決してまとめられた形では出されなかったが、たとえば、『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』などに読みとることができる。これもやはり1916年、『帝国主義』の執筆後に書かれたものである。

『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』は、ペ・キーエフスキイに対する民族問題に関する批判が全体をうめつくしている。ここでの問題は、「戦争」と「民族」の概念の関係である。レーニンは、1914~16の戦争は帝国主義戦争だと断定する。それが分っていないから、ペ・キーエフスキイは「祖国防衛」のスローガンをはき違えてしまう。だから帝国主義戦争と民族解放戦争の区別もつかない。政治の延長が戦争なら、政治が帝国主義的なら帝国主義戦争であり、政治が民族解放的ならば、その戦争も民族解放戦争なのだ。

俗物にとって重要なのは、どこに軍隊がおり、だれがいま勝っているかといったことである。マルクス主義者にとって重要なのは、何がもとでこの戦争がおこなわれているかであって、そのさい、いずれはどちらかの軍隊が勝利者になることぐらいはわかりきっている。帝国主義戦争に「祖国防衛」の概念をあてはめること、つまり、それを民主主義的な戦争のように見せかけて美化することは、とりもなおさず、労働者をあざむくことであって反動的ブルジョアジーの側に移ることにほかならない。

 

《もしも戦争の「真の本質」が、たとえば、異民族の抑圧の排除にあるとすれば(これは1789~1871年のヨーロッパで特に典型的であった)この戦争は、抑圧されている国家あるいは民族の側から見て、進歩的である。もしも戦争の「真の本質」が、植民地の再分割、獲物の分配、他国領の略奪であるなら(1914~16の戦争がそうだ)そのときこそ、祖国防衛についてのおしゃべりは「国民をとことんまで欺瞞するもの」なのだ、と。》『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』レーニン著 相田重夫訳

 

どうして、帝国主義戦争が、すなわち、政治的意義において最も反動的で反民主主義的な戦争がおこりえたのか、また起こらざるをえなかったのか。これを理解するためには、帝国主義時代の全般的な状況を、つまり、先進国の資本主義が帝国主義に転化したことを、理解しなければならない。西ヨーロッパの民族問題はすでに過去のものになっている。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアが、こんにちの戦争で自分たちの「祖国防衛」を叫ぶことは、いまや、嘘をついていることになるのだ。というのは、彼らがじっさいに防衛しているものは、母国語でもなければ、自分たちの民族的発展の自由でもなく、自分たちの奴隷所有的な権利であり、自国の植民地なのであり、自国の金融資本が他国でもつ「勢力範囲」などだからである。

その帝国主義は、政治的には民主主義の破壊を、反動を目指している。その意味で明白なのは、帝国主義が民主主義一般、あらゆる民主主義の「否定」であって、民主主義の諸要求のどれか一つ、たとえば民族自決といったものだけの否定ではけっしてないということである。帝国主義は、民主主義の「否定」であるから、それは、また、民族問題における民主主義(すなわち民族自決)もおなじように「否定」する。しかし、帝国主義のもとで民族自決が経済的に「実現不可能」と説くことは、まったくの錯誤である。その際、どうして資本主義が民主主義と両立しうるのか。資本の絶対権力を間接的に行使するというやり方によってなのだ。

民族自決が問題になるのは政治のばあいだけであり、したがって、経済的に実現不可能という問題を提起すること自体が間違いだと、指摘している。こうして、ペ・キーエフスキイはマルクス主義をゆがめて「経済主義」にした。ここには、レーニンの戦争観が集約して現われている。レーニンなど社会主義者の戦争肯定は、民族戦争のみであると次のとおり述べられている。つまり、革命戦争は認めるというのである。

 

《帝国主義列強、すなわち抑圧者である国に対して被抑圧者(たとえば植民地民族)がおこなう戦争は、正真正面の民族戦争である。これは現在でも起こりうる。被抑圧民族の国が抑圧民族の国に対しておこなう「祖国防衛」はごまかしではなく、したがって、社会主義者はこのような戦争における「祖国防衛」にはけっして反対ではない。》

『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』レーニン著 相田重夫訳

 

レーニンは世界革命の前途を不分明にしか表現しなかったが、選択が切迫しつつあることは信じていた。トロツキーのように物事を黒か白かという絶対的な形で考える習慣をもっていなかった。レーニンは、革命を単なる一つの事件と見なすよりも、一つの歴史的時代と見なしており、「社会革命というものは、先進国のブルジョアジーにたいするプロレタリアートの内乱と低開発で後進的な被抑圧民族のいくたの民主主義的革命運動とを結合した時代としてしか起こりえない」ことを指摘した。彼は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツのような先進の帝国主義国の政治形態が、だいたい同質ではあっても、同一でないことを指摘し、人類が今日の帝国主義から明日の社会主義革命へ進んでいく道の上での多様性を認めながら、「すべての民族が社会主義に到達するであろうことは、必然であるが、しかし、すべてが全く同じように到達するとは限らない。それそれが民主主義の形態に、また、プロレタリア独裁の種類に、社会生活の各分野における社会主義的改造の速度のあり方に独自性をもちこむはずである」と述べている。これは、現代の社会主義と民主主義、また、革命と民族問題との関係を理解するうえでのきわめて重要な問題点であった。

『帝国主義』におけるカウツキー、『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』におけるペ・キーエフスキイにたいする非難の厳しさは特徴的であるが、レーニンの最も主たる批判点は、帝国主義が世界に不均等な発展しかもたらしえないこと、したがって、また、それに対決する具体的な革命の形態も多様でなければならないことを、これらの人々が無視している点にある。レーニンは別の論文で、「何か『純粋な』社会革命を期待している人は、いつになってもそんなものにはめぐりあうことはできないだろう」と指摘している。

彼は、戦争の進展につれて反戦運動が強まり、革命の気運の進むことを疑わなかったが、しかし、それがいつになるかは予期できなかった。1917年1月22日、チューリヒの人民ホールにおける「血の日曜日」の12周年を記念する集会において、レーニンは講演した。この47歳の亡命者は、社会主義革命の必至であることを強調しつつも、その講演をこう結んだ。「われわれ老人は、もしかすると、この革命の決定的戦闘まで生き延びられないかもしれません」。しかし、ロシア革命は、実は目前にせまっていたのである。 

 レーニンは、決して戦争一般に反対したわけではなかった。彼は単なる平和主義を軽蔑していた。クラウゼウィッツとおなじく、彼もまた戦争とは政治の継続だと述べた。われわれは戦争の前の政治、戦争に導き、戦争をもたらした政治を研究しなければならない。もしこの政治が帝国主義政治であるなら、つまり金融資本の利益のために、植民地や外国を掠奪し、抑圧する政治であるなら、この政治からうまれた戦争は帝国主義戦争である。もしこの政治が、民族解放の政治であるなら、つまり民族的抑圧に反対する大衆の運動のあらわれであるなら、この政治からうまれた戦争は民族解放戦争であると、レーニンは、一方で無併合の講和を叫びながら、他方では「自国」の植民地をそのままにしておくように提案するような社会民主党員を絶対にゆるせなかった。

その一方で、レーニンの『帝国主義論』は、『資本論』以後のマルクス主義の発展に一時代を画するものとなった。その『帝国主義論』の骨子は、次のとおりである。

@    生産の集積と独占体の最初で、工業の巨大な発達とますます大規模になる企業への生産の集中の驚くほど急速な過程とは、資本主義の最も特徴的な特質のひとつである。アメリカの例を上げているが、国の全企業の総生産額のほとんど半分が企業総数の100分の1の者の手中にある。こうして、独占体の歴史が、特に20世紀初頭以来、本格的に始まる。独占は、資本主義の発展における最新の局面である。

A    銀行とその新しい役割では、同じ集積と集中の過程が銀行家においてもおこり、銀行は、仲介者というひかえめな役割から成長転化して、すべての資本家と小経営主の貨幣資本のほとんどすべてと、その国や幾多の国の生産手段および原料資源の大部分とを自由にする全能の独占者となる。

B    これらの産業独占体と大銀行家が融合して、金融資本となることを、そして金融資本が現代資本主義の経済と政治を支配する帝王として現われることを、金融資本の支配の無数のからくりの暴露を通じて明らかにしている。

C    この金融資本が、「過剰」となった資本を海外に輸出する経済的必然性を解明し、さらに国際的規模にまで成長した独占体が、相互に世界を分割しあう国際カルテルをつくりだす実例を、資料に基づいて明らかにしている。

D    金融資本の時代は、世界的殖民政策の展開をよびおこす。6大強国のもつ植民地領土は、1876年から1914年のあいだに、4,000万平方キロメートルから、6,500万平方キロメートルへと、1倍半以上に拡大した。この増加は、2,5000万平方キロメートルであって列強本国の面積の1.5倍である。

E    以上の分析を理論的に総括すると、彼は帝国主義を独占体と金融資本との支配が成立して、資本の輸出が顕著な重要性を獲得し、国際トラストによる世界の分割が始まり、最強の資本主義諸国によるいっさいの領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である。

F    資本主義の寄生性と腐朽のなかで、彼は、主としてホブソンを引用しつつ、帝国主義の固有の寄生性を分析している。

G    金融資本の植民地への資本輸出からもたらされる超過利潤は、金利生活者の大群を生み、労働者の上層部を買収しうる条件をつくりだす。労働運動における日和見主義発生の経済的基礎が、こうしてここに示される。

レーニンはこうして、帝国主義を「死滅しつつある資本主義」の段階として位置づけている。

これにたいして、カウツキーは「超帝国主義論」を、大戦直後の1914年9月に発表した。カウツキーによると、帝国主義とは、高度に発達した産業資本主義の一産物である。帝国主義は、ますます大きな農業地域を征服し、その地域にどんな住民が住んでいるかにかかわりなく、隷属させ併合とようとするすべての産業資本主義国家の衝動であるという。

だから、カウツキーには「産業資本主義国家の衝動」であり、レーニンのように金融資本との癒着はない。また、なぜ、彼は農業地域の併合に帝国主義の進路を制限したのか?それは、工業にたいして供給者と購買者として役立つところの農業地域を、工業が拡大していくとき、工業のおける資本蓄積は、なんらの障害なしに進行し、かつ自由に発展することができるからである。これは、農、工均衡論にもとづく機械的蓄積論にもとづいている。ところが、農業地域を併合しようとする努力は、資本主義工業諸国に強い対立を引き起した。しかし、世界大戦後の軍備拡張に継続にたいする経済的必然性は存在していないし、資本家の立場から生じるものではなく、せいぜい軍備に利害関係をもつ若干の人々の立場から生じるものであるにすぎない。

だから、彼によれば資本主義経済は、資本主義諸国家の対立によって最も強くおびやかされるものである。かくて、将来を見通す資本家は、なんびとといえども、その同志たちによびかけねばならない。「万国の資本家よ、団結せよ!」。このようにカウツキーは、帝国主義を帝国主義経済とは直接関係しないひとつの政策としてとらえ、帝国主義戦争の必然性を否定している。ところが、レーニンは、経済と政治の密接な関係から、なによりも帝国主義を資本主義の最高の段階として、したがって社会主義の前夜としてとらえ、帝国主義反対の闘いを革命の課題に結びつけたのである。

1916年5月にスイスのキンタールで開催された第二回ツィンメルヴァルド会議では、レーニン派左翼の影響が強まった。日和見主義や社会排外主義者から革命運動を隔離するためには、レーニンにとって分裂が絶対に必要になった。この問題に関して動揺するすべての者はプロレタリアートの敵であると言い放った。彼はこの時、左翼の少数の人々が唱えた平和主義と完全・即時・全面軍縮のスローガンを批判し、彼らにたいして、正義の戦争と不正義の戦争、帝国主義戦争と解放戦争とを区別する必要があることを強調した。革命家をもって自任している完全な平和主義者は空想主義者にすぎない。彼らは帝国主義者の支配下の資本主義制度のもとで、戦争を根絶しようと望んでいる。このようにして、彼らは道徳的にも、また実践的にも、プロレタリアを武装解除しているのだ。

レーニンは、平和主義や自由主義的幻想に攻撃をくわえたが、同時に、また、共和制、政治的自由、民族自決権といった民主的スローガンや民主的要求を放棄した人々をも攻撃した。地球の全人口が異なる部分、つまり、いくつかの抑圧諸民族と被抑圧諸民族に分かれているのに、民族問題を無視してよいはずがない。「他民族を抑圧する民族は自由ではありえない」と、マルクスとエンゲルスははっきり述べた。レーニンは、二つまたはそれ以上の戦線で、このような新しいやり方で闘いつづけ、闘争を決してやめなかったのである。

しかしながら、ツィンメルヴァルドは破産した。ツィンメルヴァルド右翼は、社会排外主義に合流していった。再び孤立に近い状態に陥ったレーニンは攻撃を強めた。

1916年には、レーニンは1914年のときと同様、表面上は孤独であったが、革命的マルクス主義にとっては、前途に望みがあると考えていた。1914年には、排外主義の波と、社会排外主義とが帝国主義的諸政府に奉仕したが、1916年には、交戦諸国の軍隊は精根つきはて、不平不満が昂じていた。諸国民を鎮め最後の戦争を終わらせる公正な平和の希望をふりまいて、人心をひきつけるために、「社会平和主義」が同じ帝国主義的諸政府にまだ奉仕していた。しかし、このような講和は、帝国主義国の一時的協定にすぎなかった。

ヨーロッパの社会主義運動がこれらの二つの潮流が事実上合流しつつあったときに、レーニンは、国家問題とプロレタリアートの独裁の問題を日程に上らせている。レーニンは、国家に関するマルクスとエンゲルスの論文をすべて読み返したり、集録したりしている。

戦争が革命に近づいており、戦争中の自由主義分子と社会主義分子をひきつれた反動的ブルジョアジーのむきだしの独裁が、プロレタリアートの独裁をかつてなく、より必要とするだろう、と彼は繰り返している。

レーニンは、ロシアにおける革命的諸事件の分析を始めている。彼は、臨時政府を、ツァーリがもはや継続しえなくなった戦争を最後まで遂行しようと望んでいる、本質的には帝国主義的なブルジョア政府であるとして批判した。そして、彼は1905年のときのような自然発生的に形成されつつあるソヴェトを「労働者政府の萌芽」とみなしている。彼は、民主主義革命を徹底的におしすすめ、ついで民主主義(ブルジョア)革命を社会主義革命に転化させる思想を、連続革命の思想として述べている。

「スイス労働者への告別の手紙」のなかで、レーニンはボリシェヴィキの活動の第一義的目標(民主主義的な)として、即時平和と被抑圧民族の解放を定式化した。

レーニンは、非常に興奮するたちで、同僚との政治的論争にはひどく疲れた。はじめて、プレハーノフと意見の対立になったとき、彼がいかに、にがい幻滅を味わったかを、自らはっきりと述べている。1903年の党内紛争のとき、レーニンは討議の仕方が専横だということで論敵から非難され、自分でも興奮しやすいたちだあることを認めた。だが、月日と共に彼の性格を変わっていった。1917年までに、彼も円熟した。彼の妻は、9年にわたった2度目の亡命のときのことを回顧して、レーニンが自らの一生をささげた政治問題にいかに全面的に没頭していたかを認めている。

 

《彼は自分の一番親しい友達でも、その人が運動の発展を妨げているとおもったら、交わりをたちました。彼はまた大義のために必要とあらば、昨日の敵にたいしても、素直な同志的な態度で接近することができました。彼はいつもぶっきらぼうで率直でした。彼は田舎が好きで、緑の森や山の小道や湖を愛していました。しかし、彼はまた大都市の喧騒と労働者の雑踏、同志達と運動と闘争を愛し、生活のあらゆる側面を愛していました。しかし、毎日、彼を細かく観察していると、彼が前より慎重になり、前より他人にたいする思いやりが深くなり、前より考え深くなったことが分かります。長年の亡命生活はつらいもので、レーニンの強い力を多分にすりへらしました。しかし、そのおかげで、彼はまさに大衆が求めていたような闘士になり、大衆を勝利にみちびく人物になったのです。》

『レーニンの思いで』クループスカヤ著 岡稔訳

 

1917年のはじめには、レーニンとクループスカヤは、チューリッヒのシュピーゲルガッセの第14番地で、月に28フランの家賃を払って、三階の台所つきの寝室兼居間を一部屋かりて住んでいた。

 

19 1917年2月革命

 

本国では1917年2月革命が勃発した。2月革命を鼓舞したのも、本来、1905年と同様、専制に対するブルジョア自由主義者と立憲主義者の反乱であった。しかし、今回は、まる2年をこえた第一次世界大戦が、準備不足のまま戦争に突入したロシアに、過大な負担をもたらした。兵役該当者(16~43歳の男子)の40%以上が召集され、銃後では、労働力不足のために工業生産も農業生産も大きな打撃をうけ、物価の上昇や食料の不足は、人民の生活をたえがたいものにしていた。戦争による疲弊と戦争指導への一般的不満よって革命は強化された。ツァーリの退位以外の何ものも、反乱の潮流を押しとどめることができなかった。

反動的で腐敗したツァーリ専制には、総力戦に必要な経済力の動員も、民心の掌握も行う能力がなかった。カデット(立憲民主党)を中心とする国会の「進歩ブロック」は、国会の多数派に依拠する「信任内閣制度」というブルジョア的な改革プランを提起したが、ツァーリはいささかの譲歩も行おうとはしなかった。開戦後、一時、鳴りをひそめていた労働運動が、再び活発になりはじめ、兵士の間での厭戦気分も強まり、すでに1916年の秋ごろには、革命的危機の情勢がロシアを覆い始めていた。

1917年2月23日、「国際婦人デー」にあたるこの日を記念して、首都ペトログラード-ヴイボルク地区の繊維工場で働く婦人労働者がストライキにはいり、周辺の工場労働者に統一ストを呼びかけた。この日、首都のなかでも質量ともに最も強力な労働者をかかえるヴイボルク地区は、ゼネストの様相を呈し、「パンをよこせ」と叫びながら市の中心部をめざすデモが各所で行われた。このストライキとデモの波は、翌日も翌日もやまなかった。政府側は、警官、憲兵、さらには軍隊も出動させてデモの鎮圧にあたったが、闘争は、他の地区へ、他の階層へと拡大し、そのスローガンは、「パン」の要求から、「戦争反対」、「専制打倒」の要求へと発展していった。そして、27日、デモの鎮圧にあたっていた兵士が、つぎつぎと反乱にたち上がり、数万名の規模でデモ隊と合流したとき、首都の情勢は決定的になった。ツアーリは、その専制を維持する決定的な支柱を失ったのである。

街頭で勝利した労働者や兵士は、自らの闘争組織として、ソヴェトを組織した。1905年の革命の経験をうけついだこの組織は、労働者は千人に一人、兵士は中隊ごとに一人の割合で選ばれてきた各代表者の集まりであり、その集会で選ばれた雑多な活動家と各社会主義政党の指導部代表からなる執行委員会を、その上部機関としてもっていた。ソヴェト議長には、メンシェヴィキのチヘイゼ、副議長にはエス・エル(社会革命党)のケレンスキーとメンシェヴィキのスコーベレフが選ばれた。これが、のちに重要な役割を果たす「ペトログラード労働者-兵士代表ソヴェト」である。9月にボリシェヴィキが指導権を確立するまでは、メンシェヴィキとエス・エル(社会革命党)の影響力が強かった。

労働者や兵士がソヴェトをつくっていたころ、国会ではカデット(立憲民主党)の提案によって、国会臨時委員会を選出していた。12名からなるこの組織は、ケレンスキーなども参加はしていたが、国会議長ロジェンコをはじめとして、オクチャブリスト、カデット系の議員が多く、基本的には、当時のブルジョア、地主勢力の利害を代弁する色合いが強かった。彼らは、ソヴェトがその決意をかためえないでいるうちに、政権構成のイニシアチブをにぎる決意を固め、3月はじめ、臨時政府の成立を宣言した。首相には大地主の自由主義者リヴォーフ公爵が指名され、オクチャブリストのグチコーフは陸海軍相に、カデットのミリュコーフは外相に任ぜられた。ただ一人「社会主義者」として入閣したケレンスキーは法相のポストを占めた。

この直後に、ツァーリ、ニコライ二世の退位宣言は、国会の権威に基礎をおく民主的な臨時政府の布告によってとって代わられた。ここに三百年にわたったロマノフ朝の帝制は終わりを告げた。しかし、革命の混血児的な性格がまたしてもただちに明白となった。ソヴェトが臨時政府とならんで再建されていたからである。

ソヴェトは、ある意味では、旧ドゥーマの立憲諸政党によって形成された臨時政府の競合者であった。「二重権力」という言葉が、どっちつかずの状況を言い表すために作られた。しかし、ソヴェトの当初の態度は、はっきりしたものではなかった。二つの異なった革命(ブルジョア革命とプロレタリア革命)が順次おこるはずであった。ソヴェトを構成する人々は、わずかの例外を除いて、この2月のできごとを、西欧型ブルジョア民主主義体制を確立するロシア・ブルジョア革命として捉えることに満足して、社会主義革命の方は、不確定の将来のこととして後景に退かしていた。臨時政府との協調はこうした考えからすれば、当然の帰結であり、その考えは最初にペトログラードに戻った二人の指導的ボリシェヴィキ、カーメネフとスターリンにも分かちもたれていた。

ソヴェトの側では、この間、むしろブルジョアジーに政権をにぎらせ、自分たちは政治的自由の条件を確保しつつ、政府を監視するといった意見が多数を占め、結局、臨時政府の条件付支持という態度に落ち着いた。しかし、首都の革命闘争は、急速にロシア各地に波及していった。2月革命によって、今まで追放されていた多くの革命家たちが、シベリアから、また、国外の亡命地からペトログラードに戻ってきた。これらの人々のほとんどは、社会民主労働党のボリシェヴィキとメンシェヴィキ、あるいはエス・エル党のいずれかに属しており、ペトログラード・ソヴェトに、できあいの活動の舞台を求めた。

レーニンは2月革命のことを、亡命先のスイスのチューリヒで知った。そのころ彼は、朝の9時までに図書館へ行き、昼食をすませに家に戻ると、また、図書館へ出かけて夜の6時まではそこにこもるという生活を続けていた。3月2日、いつものように昼食をすませて図書館へもどる支度をしていたとき、ポーランド人のブロンスキーが興奮した様子でやってきて、ロシアに革命が起こったことをレーニンに伝えた。クループスカヤは、この瞬間からレーニンの心はロシアにひきつけられ、夜も眠らずに、夢のような帰国の策をめぐらしたと述べている。

そのうちに、ロシア人亡命者の会議がもたれ、メンシェヴィキのマルトフから、ドイツ人、オーストリア人の捕虜と交換にドイツを経由して帰国する許可をとる、という提案がなされた。レーニンはこの計画に賛成し、やがてこれはスイスの社会主義者プラッテンの仲介で実現の運びとなった。レーニンはスイスを出発する日までに、ペトログラードで出版されだした『フラウダ』に載せるため5つの手紙を書いた。これが、『遠方からの手紙』という名で知られている。

彼はこれらの手紙のなかで、当面する情勢の特徴を、革命の最初の段階から「次の段階または第二の革命」への過渡期としてとらえ、いま労働者階級にとって必要なことは、第二の革命(国家権力を資本家、地主の政府から労働者、貧農の政府へうつす革命)へ近づく能力をもつことであり、そのために、プロレタリア的組織を固めることだと強調している。では、この革命の時期にあって、労働者にはどういう組織が必要なのか。レーニンは、そこで、労働者代表ソヴェトに言及し、それを労働者の組織、労働者政府の萌芽だと指摘した。新しい労働者、貧農の政府は「労働者-農民代表ソヴェトの型」にしたがうものにしなければならない。それは、ありきたりの軍隊や警察、官僚制度をすべて粉砕し、それにかえて、武装した人民の組織をおくことである。レーニンはこのような立場から、この時期に必要な「プロレタリア的組織」の方向として、特に、この武装した人民の組織、いいかえれば、プロレタリアートに指導された国民の参加する民兵の組織をつくることであった。

彼は自分が考えている民兵の組織の例をあげて説明している。それによると、15歳から65歳までのすべての男女が、たとえば、15日間に1日だけ民兵として勤務する。この日の給料は雇い主が支払う。そうすると、ペトログラードを例にとれば、病人その他を見込んで該当者の四分の一を除いても、なお、兵力5万の軍隊ができあがるというわけである。この民兵は、人民の軍隊となるばかりでなく、警察や行政機関の機能をもあわせ行う。保健衛生の仕事もするし、その行動をつうじて未成年者を教育していくことにもなる。パンをはじめとする物資の割り当てにもあたる。その構成は95%までが労働者と農民であり、工業労働者の指導のもとで、絶対的な秩序と同志的な規律が保証される。彼は、このようにして広汎な被抑圧階級の大衆を組織に引き入れ、反動を復活させるあらゆる試みをおさえ、「軍事的、全国家的、国民経済的諸任務」をこの組織そのものに体現させるというのである。

この手紙の内容が示しているように、レーニンは、二月革命の勃発を知ったその瞬間から、新しい「第二の革命」をはっきり目標に定め、そのためには、さらに「プロレタリア的組織」の強化、特に、全国民的な民兵の組織とそれに依拠するソヴェト組織の強化を当面の課題とした。レーニンの立場からは、条件付であろうがなかろうが、資本家、地主の臨時政府を支持するというような発想は、絶対にでてきようがなかった。彼にとっては、たとえほんのわずかでも、今の臨時政府への期待をいだかせるような言動は、プロレタリアートの当面の任務をあいまいにし、裏切ることでしかなかった。

このようなレーニンの立場は、帰国後、「四月テーゼ」のなかで簡潔に定式化され、メンシェヴィキとエス・エルとの間、あるいはボリシェヴィキのなかですら、激しい論争の渦をまきおこすことになる。

4月7日にレーニンは家主にたいして、月末までの家賃が支払い済みになっているけれども、私たちはいますぐここをでなければならないと告げた。家主のカムメラー氏は彼の幸運をいのり、次のように言った。「ウリヤーノフさん、ロシアにお帰りになったら、あなたもいまほどいそがしく仕事をなさらなくてもよくなると結構ですね。」これにたいしてレーニンは、意味深長に答え方をした。「カムメラーさん、ペトログラードについたら、私は、いままで以上にいそがしく働かなければなりますまい」。その2時間後に、レーニンは彼と他の30人のボリシェヴィキをドイツ経由でスェーデンからロシアに運ぶ列車のなかにいた。

1917年4月、レーニンはスイスを出発することになった。ロシアとその社会民主主義者が入閣していた臨時政府が、連合国にとどまっているにもかかわらず、英仏政府は、ボリシェヴィキの通過を拒否していた。そこで、レーニンは、敵の矛盾を利用して、ドイツ政府を動かし、ドイツ通過を許可させることに成功した。ドイツ政府は不穏分子をロシアへ送還する方がましだと考えた。交渉はスイス人たちの手でおこなわれた。そして、特別議定書に記載された条件は、封印列車は旅行中治外法権を保証され、亡命者と同数のロシアに抑留中のドイツ人を返還することであった。これが、のちにボリシェヴィズムとレーニンについてなされた例の有名な「封印列車」の事件である。

レーニンが、ペトログラードについたのは4月3日であった。ロシア外務省は、イギリス大使館から一通の覚書を受け取った。その覚書には、レーニンのことを極度に危険な人物ではあるが、すぐれた組織者であり、首都において無数の追随者をえる「おそれが多分にある」と書いてあった。

 

20 4月テーゼ

 

ロシアに帰国したときには、レーニンはボリシェヴィキ党の首領とみなされていた。フィンランド駅では、労働者、兵士、水兵の大群衆が、ボリシェヴィキの指導者を歓呼して迎え、胴上げをした。メンシェヴィキの正式代表たちも出迎えたが、彼らは、権力を握っている政府は「革命」政府であり、もっとも完全な民主主義が支配していると演説せずにはいられなかった。次にソヴェト議長のチヘイゼが歓迎演説を始めている。レーニンはこれらに一瞥も与えずに、そこを離れて、駅を出て駅前をうずめつくした群集の中へ向かった。そして、装甲車によじのぼって、ツァーリズムから解放されたロシアに向かって、彼の最初の談話を発表している。「ブルジョア革命を社会主義革命へ転化せよ」と呼びかけた。レーニンは、装甲車にのったまま、街を通って、ボリシェヴィキ党の本部があるクシェシンスカヤ邸に向かった。サーチライトが進行を照らし出した。ペトログラードの労働者たちは列をなして車についてきた。しかし、駅前での盛大な歓迎は、レーニンの政治方針をすべての人が全面的に受け入れたということではなかった。むしろ、反対にこのあと、彼は、ひどい政治的な孤立状態に陥ることになる。

レーニンの劇的なペトログラード到着は、臨時政府にたいするソヴェトの不安定な妥協を吹き飛ばした。レーニンは、ロシアにおける現下の動乱はブルジョア革命であって、それ以上の何ものでもないとする想定を集中攻撃した。2月革命以後の状況の急激な展開は、それがブルジョア革命の範囲内にとどまっていられないことを、レーニンに確証させた。レーニンが示そうとしている「四月テーゼ」は、革命の性格の再定義をもたらした。彼は、現在の事態を説明して、革命をブルジョアジーに与えたその第一段階から、労働者・貧農に権力をひきわたす第二段階へと移行しつつあるとした。彼の診断は、鋭い洞察だけでなく、予見的なものでもあった。

翌日、タウリーチェスキー宮殿で党指導部員の集会が開かれ、ここで、レーニンは、「4月テーゼ」を提起している。また、彼はメンシェヴィキの代議員との合同集会にも出席し、同じ内容を繰り返したが、レーニンの報告は、ごうごうたる非難、憤激、嘲笑をもって迎えられ、ほとんど孤立無援の状態だった。メンシェヴィキの機関紙は、ロシアの生産力の段階、大衆の意識水準を無視して、「左」から革命を脅かすものだ、手遅れになる前に決定的にその影響力を排除すべきだと攻撃した。

「四月テーゼ」は10項目からなっていた。

@    第一にレーニンは、戦争はいまなお帝国主義的なものであり、「革命的祖国防衛主義」にはいささかも譲歩しえないということがあげられた。これは、ここ数年、戦争の問題をめぐって世界の社会主義者が大揺れに揺れ、ドイツ社会民主党をはじめ多くの人たちが、軍事予算に賛成し、祖国防衛という立場にかわっているからであり、このような流れと闘い、断固として「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンを実践しぬくことこそ、この時代に生きる社会主義者の第一の義務であり、資格であると確信したからである。彼は2月革命の勝利をこのスローガンの正しさの証明とみた。戦争によって加重された危機がまさに内乱へと転化した最初の例であり、決して最後の例ではないとみていたのである。同時に、彼は、二月革命の勝利を早めたもうひとつの側面、つまり、イギリス、フランスの帝国主義者が、オクチャブリストやカデットの資本家と組んで、ロシアの戦争遂行能力をもっと高めるために、ツァーリズムを倒す陰謀を組織したことに注意を促した。ところで、臨時政府は、ほかならぬこの資本家どもの政府であり、「イギリス、フランスの金融商会の実際上の番頭」にすぎない。したがって、この政府のもとで続行される戦争は、以前とまったく同じ帝国主義戦争であり、この政府に協力したり、祖国の防衛をとなえたりするのは、許しがたい社会主義への裏切りである。このようなレーニンの考え方は、当時、条件付とはいえ、臨時政府の存在を認め、ドイツ、オーストリア軍にたいするロシアの防衛という限りにおいて、戦争の続行をも支持していたソヴェト多数派の立場、いわゆる「革命的祖国防衛主義」の立場と鋭く対立するものであった。

A    現在のロシアの現状は、「権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期」と規定した。権力をブルジョアジーに渡したのはだれか。また、なぜ渡したのか。それはレーニンの論理を辿っていれば、労働者-兵士代表ソヴェトであり、プロレタリアートの自覚と組織性が十分でないためである。

政治情勢は「二重権力」によって特徴づけられる、と彼は言った。臨時政府と並んで、もう一つの権力であり、もう一つの政府であるソヴェトが存在している。前者はブルジョアジーの独裁を代表しており、後者は労働者と農民の民主主義的独裁を代表している。この二重権力状態は長く続くことはない。これをレーニンにしたがっていいかえれば、ロシアにおける現在の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性が不十分なために、権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期にあるということである。臨時政府とソヴェトは、同盟者ではなく、別個の階級を代表する敵対者である。

 レーニンからみれば、「二重権力」であるかもしれないが、ほんとうは、むしろ権力の完全な拡散に近かった。労働者も農民も住民の大多数が、ツァーリの夢魔からの解放された喜びを、彼らの行動が示していた。広範な熱狂の波にのって、疎遠な専制的権力からの人類の解放というユートピアに鼓舞されたかのように、大衆運動は躍動し、議会制民主主義とか立憲政府という西欧的原理などを必要としていなかった。中央集権的権威の残り火は暗黙のうちに水に流された。それにかわって、地方ソヴェトや農民ソヴェトがロシア全土で発生した。いくつかの都市や地方は、ソヴェト共和国を自称した。労働者の工場委員会は、自分たちの領域内で排他的な権威を主張した。農民は土地を奪取し、それを自分たちで分配した。平和への欲求、無意味な戦争の終結ということが、他のすべてのものを圧倒していた。旅団から中隊に到る大小の軍組織単位で兵士委員会が選出された。しばしば将校の選挙を要求し、軍当局に挑戦したりしていた。前線にいた軍隊は、厳しい軍事規律の拘束を放擲して、徐々に瓦解現象をおこしていた。ほんとうであれば、ボリシェヴィキはこれらの現象を、彼らの夢と結びあわさなければならない立場にあった。目指すべき目標は、議会制共和国ではなく、全土の労働者、雇農、農民代表ソヴェトの共和国なのである。レーニンの語勢は厳しかった。

B    臨時政府を一切支持しないこと。

C    自分たちがソヴェト内で少数派であることを認めること。ソヴェトがブルジョアジーの影響下にある間は、その誤りを、忍耐強く、根気よく、大衆の実際的な要求に即して説明すること。この現状認識は、レーニンをして、蜂起ではなく、いわゆる「革命の平和的発展」の道を提起させることになった。ソヴェトのなかで、説得を通じて少数派から多数派になること、これがただひとつの正しい方法とされたのである。これは、ブルジョア政府に妥協しているメンシェヴィキ、エス・エル派などのソヴェト多数派に埋没せず、その影響下から自分たちを引き離すことになる。

D    労働者-雇農-農民代表ソヴェトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。

E    すべての地主所有地の没収と土地の国有化。地方の雇農-農民代表ソヴェトによる土地管理。模範農場の創設。重点を雇農代表ソヴェトにおき、また、貧農ソヴェトを別個につくること。

F    全銀行を単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴェトによる統制を実施。

G    社会的生産と生産物の分配にたいする労働者代表ソヴェトによる統制。

土地や銀行の国有化、労働者代表ソヴェトによる統制は、レーニンにとっては、「社会主義」の直接の導入ではなく、社会主義への「第一歩」にすぎないことに注意する必要がある。社会主義そのものではなく、社会主義への「過渡的方策」にすぎないことをくりかえしている。ヨーロッパで最も遅れた国の一つであるロシアで、住民の大多数が農民であるロシアにおいては、ただちに社会主義に移ることはできないことをレーニンは十分理解していた。農民、つまり「小経営主」、「小ブルジョアジー」は、そう簡単には社会主義を支持しない。住民の大多数にそむいて、一挙に社会主義を実現することはできない。いま、必要なことは、社会主義をめざして、いまとることができ、また、とらなければならない具体的な方策をとりあげることだ。この方策をやりとげるために権力を握ることだ。土地の国有にしても、大多数の人が支持する。しかし、それをやるにはソヴェト権力が必要だ。官僚にはできない。銀行の国有化にしても、それによって農民に便宜が与えられるようになることを説明すれば、彼らはソヴェトを支持するだろう。レーニンは、このように論をすすめて、テーゼの項目にある具体的課題を示し、ソヴェト権力の必要性を位置づけるという方法をとったのである。ソヴェトは、いままでのどんな国家よりも民衆の自主性、創造性をくみ上げることができる。ソヴェトは、社会主義への歩みをどう進めるか、またどういう歩みをすすめるべきかを、よりよく、より実際的に、正しく解決することを期待された。レーニンは、二月革命が産みだしたばかりの枠組みを無遠慮にうちくだき、労働者と貧農による権力の掌握を決定的な第一義に考え、この闘いが世界社会主義革命の序曲になることをためらわなかった。

H    党の任務として党大会の招集、党綱領の改訂、党名の変更という三点を挙げている。この提案にもとづいて、これまでの「ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)」という名称は、1918年の第七回党大会で「ロシア共産党(ホリシェヴィキ)」と改められた。

I    最後の項目では革命的インターナショナルの創設という課題が出されている。

  

ルフェーヴルは4月テーゼのなかにおいて、ソヴェトの役割がより重視されたことに着目して、次のように述べている。

 

《それから、4月テーゼのスローガン-国家権力をソヴェトへ、ソヴェト共和国を建設せよ-が出てくる。レーニンは、諸事実のなかに(大衆の自然発生性のなかに)このようにして、独裁の政治形態の萌芽をみいだし、それを引きだし、概念化し、このように綱領に仕上げたのである。かれは、10月革命と一国における社会主義建設の理論によって、すでにマルクス主義を発展させていたが、ここで、彼は従来のマルクス主義に新しい《発見》をつけくわえている。独特な政治形態をなすソヴェトは、それがプロレタリア民主主義およびプロレタリアートの独裁の形態であり、資本主義から社会主義への移行を可能にする政治形態であるかぎり、ロシアにおいては議会制共和国にとってかわるだろう。》

           『レーニン』 H.ルフェーヴル著 大崎平八郎訳

 

「4月テーゼ」は、臨時政府が遂行していた戦争は、この政府のブルジョア的性格の故に、依然として帝国主義的である、と主張している。国家権力がプロレタリアートに移るならば、そして革命の実際の獲得物の防衛が問題になるならば、そのときはじめて、戦争は革命戦争になるだろう。さらにプロレタリア権力は、まず、第一に、民主主義的講和をもって戦争を終結させることを提唱するだろう。だから、「臨時政府にどんな援助も与えない」。

しかしながら、1917年4月には、臨時政府の転覆は問題になっていない。なぜか。それは現存のソヴェトが臨時政府を支持していたからである。自然発生的に生まれたこれらのソヴェトは、まだ、その政治的性格や機能で、臨時政府と対立する権力の本質的二重性を認識していない。これらのソヴェトはメンシェヴィキなどに支配されていたので、ブルジョアジーにたいする労働者および農民の独裁の萌芽として、成熟しそこなう危険がある。だから、ボリシェヴィキの任務は、メンシェヴィキと社会革命党とを大衆から孤立させること、ソヴェト内において大多数を占め、そこに新しい権力の萌芽を発展させることであった。綱領には、地主の土地の没収と土地の国有化、ソヴェトによって管理される単一国家銀行への諸銀行の統合、生産および分配にたいする労働者管理があった。

 テーゼは、さらに党名の変更を提案している。日和見主義的、議会主義的な「社会民主党」ときっぱり絶縁するためには、ボリシェヴィキ党はその終局の目的である共産主義という名称を冠すべきであるとレーニンは考えていた。そこから「共産党」という名称が生まれた。さらに、テーゼは、この考え方を最後まで徹底させて、第三インターナショナル、つまり、共産主義インターナショナルの創立を提唱した。

 レーニンはいかれている、彼は発狂した、とメンシェヴィキたちは公言した。そればかりか、レーニンはこのとき、みずから創設したボリシェヴィキの内部からも批判され孤立したのである。実際に、彼は、ボリシェヴィキ中央委員会の席上で、政府の即時転覆を望んでいた人々や、ロシアはまだ社会主義には成熟していないと断定していた人々に反対しながら、慎重に一歩一歩進んでいった。レーニンが帰国したとき、ボリシェヴィキの中心には一足先に流刑地からもどっていたカーメネフ、スターリンらがすわっていた。カーメネフは、臨時政府が革命の歩みを強めるかぎりにおいて、それを支持するという態度をとり、戦争の帝国主義的性格には目をふさいで、兵士たちに防衛行動の継続を呼びかけていた。ボリシェヴイキの中央部は、事実上、メンシェヴィキ、エス・エルを中心とするソヴェトの大勢に押し流され、とけこんでいたのである。だから、四月テーゼは、これらの人々たちにとっても、大きな衝撃だった。カーメネフは、1905年革命後の反動期には、ジュネーブ、パリの亡命地で、レーニンらとともに語らい、ともに闘った古いボリシェヴィキの幹部、いわゆる「古参ボリシェヴィキ」だが、このときには、レーニン批判の先頭にたった。カーメネフの批判の中心点は、レーニンの四月テーゼは、ブルジョア民主主義革命はすでに終わったという前提に立って、革命をただちに社会主義革命へ転化することを目指している。しかし、実際には、まだ、ブルジョア革命は終了していない、という点にあった。たしかに、レーニンがかつて書いた『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を文字通りにとれば、ブルジョア民主主義革命の課題とされた「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」は完全なかたちで実現していないし、土地問題も解決していない。その点では、古参ボリシェヴィキは、レーニンの名においてレーニンを批判することができたのである。

 4月8日、四月テーゼの討議を行ったボリシェヴィキ-ペテルブルグ委員会は、賛成2、反対13、保留1という大差をもって、これを否決した。レーニンは、精力的に党内闘争を推し進めた。彼は、ブルジョア革命は終了したか、しないか、という問いかけは、問題の立て方それ自体が間違っていると反論した。なぜなら、現実は、こういう公式的な考え方におさまりきらない。すなわち、ブルジョアジーが権力を握ったという点では、ブルジョア革命終わった。

だが、一方、「プロレタリアへーと農民の革命的民主主義的独裁」のほうも、ある形態で、ある程度まで実現している。ソヴェトがそれであるが、いまこのソヴェトが全権力をにぎるためには、ソヴェトのなかの「プロレタリア的分子」と「小ブルジョア的分子」とを「分裂させる任務」がすでに必要とされているのだ。レーニンはこのように論をすすめて、四月テーゼに関する彼の全思想を繰り返し、巻き返し説得した。彼は、きのうの理論や公式にしがみつく古参ボリシェヴィキに、生きた現実から学び、事実に立って真理をつかむことを求めた。

 レーニンは党内での論争で、ようやく優位にたちつつあったころ、ペトログラードを中心に、二月革命後はじめての大きな反政府デモがおこった。このきっかけになったのは、外相ミリュコーフの手になる連合国への覚書の内容だった。そこには、革命後も決定的な勝利まで、戦い抜く決意にかわりはなく、しかも、領土の併合、賠償のとりたてをも認めたとうけとられる言葉が含まれていた。覚書の内容を知って憤激した首都の兵士、労働者は、4月20日、21日、「ミリュコーフ打倒!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴェトへ!」といったスローガンを掲げ、何千、何万という規模のデモが立ち上がったのである。この動きは、ソヴェト執行委員会と政府との妥協によって収拾されたが、民衆の不信をかった臨時政府は改組のやむなきにいたり、5月初め、カデット(ただしミリュコーフは辞任)、メンシェヴィキ、エス・エルを主力とする第二次臨時政府(第一次連合政府)が作られる。

 この四月デモは、一定数の兵士、労働者が、臨時政府による帝国主義戦争続行の方針を見抜き、いますぐにでも、大衆的行動に立ち上がるべきことをはっきりと示した。その意味では、「四月デモ」は、「四月テーゼ」に生命力をふきこんだ事件といえる。また、兵営や工場のなかにひそむこのような民衆の息吹に、日々接している下部党員は、革命的な「四月テーゼ」の呼びかけを、より素直に受け入れることができた。「四月テーゼ」への支持が党の上層部では少数にとどまっていた時期にも、下部党員の間では、テーゼへの支持が急速に増大していった。

 

21 全権力をソヴェトへ!

 

すでにレーニンは、4月14日から開かれたペトログラード全市協議会で、テーゼが多数の支持を獲得し、ついに、4月24日~29日の第七回全ロシア党協議会で、約8万の全国党員を代表する133名の代議員のうち、反対3、保留8を除いた圧倒的多数の支持を得て、「四月テーゼ」の方向を、全党の正式の方針とするのに成功するのである。こうしてボリシェヴィキは、「四月テーゼ」で武装し、革命的少数派として自己を確立した。「明日の多数派をめざして!」、二月革命後のロシアは、二月目にして、現体制の変革をめざす、小さな、だが、未来をもつ集団に変わることになった。

彼は、ボリシェヴィキ四月協議会で、「全権力をソヴェトへ」というスローガンを主張した。革命は、貧農がプロレタリアートと合流して、ブルジョアジー(農村ブルジョアジーであるクラークを含めて)に反対し、中農を全体として中立化させることによって、進展していくことを、大多数の承認を得て、レーニンは代議員たちに説明した。

 レーニンは精力的に活動した。連日、『プラウダ』に論文を書き、工場や兵士たちの集会にでかけ、大会にも出席した。6月3日から24日にかけて、第一回全ロシア労働者-兵士代表ソヴェト大会が、常設執行委員会をもった中央ソヴェト組織を創設しようと、ペトログラードで開かれた。これには、全国各地の305のソヴェトから選ばれた1,090人の代表が参加した。二月革命後、国内のすみずみまで広がっていったソヴェトは、こうして全国的なまとまりをもつ組織体制を築き、全ロシアに、その巨大な姿をくっきりと浮かび上がらせたのである。

 当時の力関係を大会代議員の党籍の内訳で見ると、エス・エル285人、メンシェヴィキ248人、ボリシェヴィキ105人という順になっている。大会の重要な議題の一つだった臨時政府にたいする態度の問題で、メンシェヴィキのツェレテリが演壇に立った。彼は、流刑先のシベリアから帰京して以来、ソヴェトの最も有力な指導者として活躍していたが、第一次連立政府が成立したときに6人の「社会主義者大臣」の一人として入閣し、逓信大臣のポストについていた。ツェレテリは、力を統一し、左右の無責任な攻撃にとどめをさしうる強力な政府を、と訴えた。

彼は、生まれて1月たった連立政府こそ、いま可能な唯一の政権であり、これを一致して支持することこそ、国を内戦から救う唯一の道であるといいたいのである。ツェレテリは、ブルジョア民主主義者との連立政府のみが権力を保持する。自由主義的ブルジョアジーとのこの同盟なしには、ロシアの革命は滅び去っただろう、これらの条件を抜きにしては、どんな党も権力の責任を保障することを受諾しないだろう、と言明した。ツェレテリが話の途中で、いま、ロシアには、「権力をわれわれに譲って去れ。かわってわれわれがその位置に立とう。」といえるような政党はない、と断言したとき、会場のなかから短い言葉が鋭くはねかえってきた。レーニンは挑戦に答えて、自席から「そういう党があるのだ」と叫んだが、この言葉は青天の霹靂であった。

 やがて、登壇したレーニンは、真っ先に、どこに自分たちは出席しているのか、ソヴェトとはなにか、と問いかけた。ソヴェトは、ありきたりのどんな議会制国家よりも民主的な国家であり、農民、プロレタリアートの民主共和国であり、ブルジョア政府とは共存しえない。ソヴェトは、ただ前進することによってのみ生存することができる。ソヴェトは思いつきでつくったものではなく、革命そのものが押しだしたものである。ソヴェト権力なしには、地主への勝利という意味においても、帝国主義への勝利という意味においても、ロシア革命の勝利はありえないのだ。レーニンは続ける。いったい前の政府と今の連立政府とどこがちがうのか。もう1月もたつのに、帝国主義戦争、資本家どもの略奪は放置され、そのために経済的崩壊も続いている。連立政府は、はなやかな声明をつけ加えた以外はなにものをも変えず、同じ階級が依然として権力を握っている。だが、大会の採決の結果は、初めから分かりきっていた。ボリシェヴィキの主張は、大差をもって敗れた。

 しかし、このソヴェト大会の期間中にも、兵営や工場のなかでは、力関係の変化が休みなく続いていた。連立政府の陸海軍大臣になったケレンスキーが、命令に従わぬ兵士への武力の使用を認めた上、指揮官の任免権を守ろうとしたことは、ペトログラード守備隊の兵士のあいだに不信感をさそい、デモに決起する気運を高めた。

6月7日、政府が、ツァーリの元高官ドゥルノヴォの別荘から、アナキスト、労働組合など居住者全部の立ち退きを命じたことが、ヴイボルク地区の労働者の不満に火をつけた。労働者のストやデモがおこりはじめる。ヴイボルク地区は、ボリシェヴィキの影響が強い。党中央委員会は、下部組織とともに、事態を検討し、ばらばらな行動をさけ、兵士、労働者を一つに結集して、6月10日に平和的なデモを行うことを決定した。

 このボリシェヴィキによる「6.10デモ」の計画は、ソヴェト大会に大きな波紋を投じた。デモのアピールには、臨時政府への攻撃が激しい調子でしるされ、例のスローガンが次々とあげられている。「10人の資本家大臣をたおせ!」「全権力をソヴェトへ!」「パンと平和と自由を!」等々。ソヴェト大会は、前日の8日に、この連立政府への「完全な信任」を決議したばかりなのだ。一方では、反革命が機をうかがっており、武装した労働者とのあいだに流血騒ぎがおこるかもしれないという噂が流れる。ソヴェト大会は、多数派、メンシェヴィキ、エス・エルの影響下にある。せっぱつまった危機感のなかで、大会はデモへの不参加をよびかけるアピールを採択し、さらに次のような決議を行った。「三日間(6月10日、11、12)すべての街頭デモは禁止される。この決議を破ることは、革命におそいかかることである。この決議の侵犯をよびかける者は、革命の敵である」。

たくさんの大会代表が、この方向で説得にあたるべく工場や兵営へ派遣された。ソヴェト大会によるデモ禁止命令という新しい事態をみて、ボリシェヴィキ党の中央委員会は、急遽対策を練り、デモの中止を決定、ただちにこの方針を下部の組織に徹底していった。平和的なデモを禁止し、宣伝、煽動の自由を奪うことは、明らかに不当である。しかし、ソヴェトの禁止をけってデモを決行すれば、このデモはソヴェトにたいする反乱とみなされ、集中砲火を浴びることになる。今はその時期ではない。党の中央部は、目下の情勢をこのように判断した。レーニンは、次の日、ボリシェヴィキ-ペトログラード委員会に出席して、普通の戦争でも、戦略的理由から予定した攻撃をとりやめることがある。まして、階級闘争では、中間層の動きによって、そういうことはありうるし、デモの取りやめは無条件に必要だったと話した。彼は、デモ中止ののちも、ボリシェヴィキを反革命と攻撃し、ボリシェヴィキの武装解除を求めているツェレテリの言葉をとりあげ、次のように述べた。

「プロレタリアートの回答となりうるものは、最大限の冷静、慎重、忍耐、組織性であり、平和な示威行動は過去のものであるということを肝に銘じて覚えておくことである。われわれは、襲撃の口実を与えてはならない」。

 このようにして、6月10日のデモは不発に終わった。しかし、この計画は思わぬ付録をつけくわえることになった。デモを禁止したことが、民衆の強い不満を引き起しているのを見て、ソヴェトの指導層は、自分たちの主催する大々的なデモを行い、その力を誇示し、民衆の再結集をはかろうと考えたのである。デモの日取りは6月18日ときまった。ソヴェトの指導層は、このデモを平和的な非武装のデモとすることを厳しく指示し、ただ一人の武装した兵士も、一つの小銃もまじりこませてはならないと訴えた。デモのスローガンとしては、「全面講和!」「憲法制定議会を通じて民主共和国へ!」「革命勢力の統一!」などが、とりあげられていた。

これを知ったボリシェヴィキは、自分たちのスローガンを掲げてこのデモに参加することを決めた。「6.18デモ」の焦点は、デモに参加する労働者、兵士が、どちらの派のスローガンを支持するかという点におかれたのである。

 6月18日のペトログラードは、好天に恵まれた。50万近いデモの参加者が、ソヴェト指導部の居並ぶ高台の前をひきもきらずにとおりすぎていく。「10人の資本家大臣をたおせ!」、「全権力を労働者・兵士代表ソヴェトへ!」という叫びが上がると、まわりから「ウラー!」と賛同の叫びが響きわたる。大部分のプラカードには、ボリシェヴィキのよびかけたこの叫びがスローガンとして書かれ、メンシェヴィキ、エス・エルのよびかけたスローガンは、とるにたらない。労働者、兵士の多数は、明らかにボリシェヴィキの示した政策を支持したのだ。

臨時政府の威信と権威が衰退するにつれて、工場と軍におけるボリシェヴィキの影響力が急速に強まった。レーニンは次のように述べている。「6月18日のデモンストレーションは、革命の方向を指示し、行詰まりの打開する道を指示する革命的プロレタリアートの力と政策のデモンストレーションとなった」。ソヴェト指導層のあては完全にはずれてしまったのだ。

 ボリシェヴィキの軍事組織の指導にあたっていたポドヴォイスキーの回想によると、デモに参加している労働者や兵士が、もの足りなさそうな顔をしているので話を聞くと、労働者、兵士は普通のデモではなく、実力を行使して反乱に立ち上がる用意がある、とのことであった。それをレーニンに伝えると、レーニンは、政府が労働者たちを反乱にかきたてて革命からの出口をみつけようとしていること、今、反乱に立つことはきわめて危険であり、最ものぞましくない時期であることを指摘した。レーニンは、今必要なのは労働者階級が、時期がこない前に行動を起こさないよう、全力をかたむけて説得することだと述べた。

 だが、事態はレーニンの望むコースを取らなかった。「6.18デモ」の同じ日に、ロシア軍は全戦線で攻勢に転じた。この「夏期攻勢」は、「社会主義大臣」ケレンスキーらが、その政治生命をかけて、懸命に準備してきたものであり、同時にその準備の過程は、軍の上層部のまきかえしの過程でもあった。彼らは、厭戦気分にとらわれている前線の兵士たちに、劣勢なドイツ軍にとどめをさして、戦争から抜け出すことを訴え、攻撃へとかりたてたのだが、ドイツ軍からの反撃をうけると、攻勢はたちまち停滞し、各戦線で敗退の兆しがみえ始めた。このような前線での動きは、ペトログラード守備隊の兵士のあいだに、ますます強い政府への憤懣をかきたてた。これに加えて、7月2日、カデットの大臣4名が辞任し、連立政府は、事実上、崩壊状態に陥る。もはや兵士たちの忍耐は限度にきてしまった。こうして、7月3日~5日のいわゆる「7月事件」がはじまる。

 口火をきったのは、第一機関銃連隊だった。7月3日、機関銃兵たちの集会は、ついに武装デモに立ち上がることを決定したのである。かれらは、他の連帯や工場、あるいはクロンシタット要塞の水兵たちへ、武装デモへの支持を呼びかけた。この呼びかけは、待ち焦がれていたかのように、多くの兵士、労働者の支持を得ていく。

3日の夕方、兵士のデモが開始され、労働者がこれに合流する。デモ隊のスローガンはすでに明らかだ。「10人の資本家大臣をたおせ!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴェトへ!」。彼らは、支持と指導を求めてボリシェヴィキの本拠クシェシンスカヤ邸へ、ついで、要求をつきつけにソヴェト執行委員会の居城タヴリーダ宮殿へと向かう。ボリシェヴィキは、この日、まず全力をあげて、行動に移るのを抑えようとした。彼らは、「夏期攻勢」が大失敗に終わることを見越していた。それが誰の目にもはっきりし、政府が消耗しきったとき機は熟する。それを待たず、いま挑発にのって行動すれば、ブルジョアどもは、敗北の責任をわれわれになすりつけるだろう。ロシア全体を見れば、広大な農村をはじめとして、まだまだ、エス・エル、メンシェヴィキの力が強い。前線には、なお政府の信頼しうる軍隊がある。たとえ、今、ペトログラードで権力を奪取しても、その権力を保持することはできない。ボリシェヴィキは、このように判断して、いまは機の熟するのを待つようにと、兵士、労働者を説得した。しかし、この時は、「6.10」のようにはいかなかった。

クシェシンスカヤ邸には、続々とデモ隊がつめかけ、ただちに行動に立ち上がることを激しく要求する。ボリシェヴィキは、もはや、説得がまったく不可能なことをさとった。その夜、彼らは方針を転換して、むしろこのデモの先頭に立ち、それを組織的な平和的な方向に導くことを決意した。この決定を歓呼の声で迎えた兵士、労働者は、翌4日、武装した50万人のデモに結集する。このような動きにたいして、ソヴェト指導層は、3日、最高司令官の指示なしに武器をもって外出することは許されず、これに反するものは、「革命の敵」であり、あらゆる対抗措置をとると声明し、臨時政府も、4日、武装デモを禁じ、陸海軍相ケレンスキーは、デモ隊の武装解除、事件の審査、全責任者の裁判を命じた。しかし、これを実行しうる武力が、かれらの手元には乏しい。政府はひそかに前線から信頼しうる師団を呼び戻す手はずを整えた。

カザークの部隊とデモ隊とのあいだに戦闘がおこり、多くのデモ参加者が傷つき倒れた。5日には、ボリシェヴィキ中央委員会らは、デモの中止を呼びかけ、デモの波は街路から消えて、政府、ソヴェト指導層の荒々しい反撃が、前線から召還される軍隊をバックに、舞台の前面に現われる。『プラウダ』編集局は破壊され、クシェシンスカヤ邸の明け渡しが強要され、デモに参加した部隊の解体が命じられた。7月12日、前線での死刑が復活された。

1917年7月に、臨時政府は相当に強力であると自己過信して、激しい弾圧を開始した。政府は、ボリシェヴィキ活動家や『プラウダ』や党本部に超反動的な士官候補生の討伐隊を派遣することを促した。「ボリシェヴィズム反対闘争同盟」が、非公式な支持のもとに創設され、レーニンの生命を奪えという決議を行った。挑発者たちの証言に基づいてレーニンは「反乱および武装反乱」の罪状で起訴された。

 

22 地下生活と亡命 

 

ボリシェヴィキと現状を守ろうとするものの対決は、決戦を避けた前者の後退で終わった。この機をとらえて、あらゆる反動分子が首をもたげた。ボリシェヴィキは、7月事件の責任者として彼らの攻撃の的になり、とりわけ党の首領のレーニンは、集中的な攻撃にさらされることになった。デモの勃発以来、レーニンは反革命的な政府から厳しい追跡をうけて、非合法活動にはいり地下活動に潜った。彼を追及してきた士官候補生や正規警察やスパイから、幾度も危うく逃れた。なかでもひどい中傷は、「レーニンはドイツ参謀本部のスパイで、彼らから金をもらい、臨時政府の信用を失墜させる任務についていた」というデマである。これは、7月5日の一新聞でまことしやかに尾ひれをつけて報道された。このデマ情報の提供には、この日まで法務大臣だったペレヴェルゼフが一役かっていた。ほかの大臣たちも、その「早まった公表」は非難したが、「情報」それ自体の活用をしないつもりだったわけではない。また、レーニンは軍内部での破壊宣伝の罪による弾圧も受けていた。7月21日、レーニンはジノウセィエフ、コロンタイらとともに逮捕されれば、裁判をうける前に虐殺されてしまうおそれがあった。

ボリシェヴィキ中央委員会は、すでに、5日の朝、レーニンの身に迫る重大な危険を見抜いていた。彼は最初の数日間、ペトログラードのロゼストヴェンスカヤ10番街17番地の古いボリシェヴィキのエヌ・アリルウェフの目立たぬ部屋に避難した。ボリシェヴィキ党の領袖が占領したのは、5階の窓がたった一つしかない小さな部屋だった。レーニンは、スヴェルドロフ、スターリンらの助けを借りて、数日間、転々と市内の居場所を変え、12日、ペトログラードから34キロほどはなれたラズリフ湖のほとりに身をかくした。

彼をかくまったエメリヤノフの才覚で、湖の対岸に仮小屋がたてられ、レーニンは、フィンランド人の草刈人足をよそおってそこに住みついた。臨時政府は、レーニンを逮捕した者に賞金をだすと約束した。レーニンと連絡をとっていた闘士は、みんなスパイに尾行されていたので、レーニンの隠れ家はたやすくつきとめられた。レーニンはこの隠れ家から、ボリシェヴィキ党の第6回大会の議事を指導した。しかし、レーニンはこの森の中でさえ、少しも休息をとることができなかった。政府のスパイたちが、近所の労働者地区をしらみつぶしに探していたからである。

8月も半ばにはいり、秋が近づくと、寒さと湿気が粗末な小屋をつつみ、他方では、いろいろな噂があたりに広まる。中央委員会は、レーニンをフィンランドに移すことにした。ボリシェヴィキ党の中央委員会は、7月の終わりに、レーニンをフィンランドに亡命させなければならないと決定した。この仕事はオルジョニキーゼに一任された。こうしてレーニンの移転計画が作られた。レーニンにはたえず尾行がついていたので、フィンランドの国境越えは容易なことではなかった。最初は徒歩で国境をこえようという計画だったが、党員の報告によると、国境の全面にわたって、パスポートが厳重に検査されていることがわかったので、この最初の計画を放棄した。そこで、フィンランド鉄道に勤めている機関手のフーゴ・ヤラワの助けをかりて、火夫に化けて普通列車の機関車にのって国境を越えようということに決まった。

この計画はレーニンに報告され、彼の賛成を得た。レーニンとラーヒャがウデルナヤ停車場に到着したときは夜更けだった。ペトログラードの灯火が間近の空を照り返していた。彼らはその夜をフィンランド人の知人の家ですごした。そして、翌日、あらかじめとりきめられたように停車場に向かった。機関手のフーゴ・ヤラワが運転しているフィンランド行きの列車が入ってきた。ヤワラは停車場からほんの僅か離れた踏み切りのところに汽車を乗りつけた。レーニンは機関車によじ登り、シャベルを取って火夫の仕事を始めた。国境の停車場のベロ・オストロフでは、臨時政府の民警たちが列車を待っていた。彼らは汽車にやってきて、客車から客車へパスポートを丹念に調べながら旅客を厳重に吟味していた。政府の探偵たちが機関車のまじかに近づいてきて、あわやレーニンは捕縛されるかに見えた。

しかし、ヤワラは少しもあわてず機関車からとびおりて大急ぎで連結器をはずし、給水場へと機関車を運転していった。不安な数分がすぎた。二度目のベルが鳴ろうとしていた。列車の車掌はプラットホームの上を歩きながら、動揺して口笛をふいた。三度目のベルが鳴り終わった直後に、ヤワラは大急ぎで機関車を客車につなぎ、フィンランドの国境へ向けて発車させた。こうしてケレンスキーの探偵たちは、見事に裏をかかれたのである。

レーニンは、フィンランドのヘルシングフォルスで安全な隠れ家が見つかった。そこは労働者民警の隊長で、当時、警備副隊長の職にあり、後には警備隊長に任命された人の家であったので誰もこのような重要な官職にある人が、ボリシェヴィキの指導者をかくまおうとは思いもよらなかったのである。彼は新しい住所に落ち着くやいなや、そこにあった新しい新聞を鷲づかみにして、大急ぎですみずみまで眼を通した。静まり返った部屋の中では、ペンを走らせる音や、新聞紙のサラサラという音がいつまでも続いていた。レーニンの前のテーブルには、『国家と革命』という表題のついた一冊のノートが置いてあった。 

たいていの亡命者は一旦亡命してしまうと本国のことを忘れがちになるが、レーニンはちがっていた。ロシア国内の情報と緊密な接触を失わなかったのだ。彼は何年もの間、1日に平均10通もの手紙を書いて、ロシアと絶えず連絡を怠らなかった。彼は、ロシアからの情報はことごとく、むさぼるように調べ、新来者があると、すぐさま事細かに、いろいろなことをたずねた。彼は、ロシア国内にいる地下の党指導者にたいしても、情報を求しめたり、助言や示唆を与えたり、抗議したりして、絶えずせきたてた。たとえば、1912年にボリシェヴィキの最初の非合法新聞『プラウダ』が、スターリンの編集で出版されると、レーニンは、新聞の購読料について詳しい報告を要求した。彼は、定期購読が、したがって、党に対する支持がどういう層の人にあるかを知りたかったのである。

また、彼は、ロシアに手紙や非合法文献や武器をひそかに持ち込む仕事を自分で手配した。レーニンはこのような絶えまない苦労によって、ロシアの革命運動や個々の革命運動家の問題点をすっかり知るようになった。彼は、抽象的な理論家や、国内との接触のきれた亡命者とは全く正反対の態度であった。レーニンに出会った人は誰でも、彼が問題点のあらゆる側面に十分に耳をかたむけてから、自分の意見をしっかりとゆるぎなく表現するという、稀有な能力をもっていたことを知っている。この能力は、レーニンが、ロシア革命の後に、人民委員会議議長の地位についてからは、とくに貴重な性格となった。人民委員会議議長になってから、レーニンはしばしば激しく対立する意見を、両方の側に十分に納得のいくように綜合して、最後のしめくくりをつけたのである。彼は、このような注意ぶかい包容力に富んだ議長ぶりをみせて、最終決定に達するまでに慎重な考慮を払ったが、その反面、いったん、自分の考えを決めると、確乎としてゆるがず、それは全く冷酷なほどであった。

 

23 武装蜂起計画

 

レーニンが1905年と1917年にロシアに帰ったとき、帰国早々、党の指導権をとり、後には事実上、党の政策を変更することさえなしえたのは、彼のこのような優れた資質のせいである。このような事情を知らない門外漢は、このことが分からないので、「独裁」とか「ドイツからもらった資金」のことをもち出すが、レーニンが革命の準備期間中に行った困難で綿密な努力があってはじめて、この秘密を解く鍵があることを知らないでいるのである。反対派のメンシェヴェキのダンは、レーニンについて次のようにいっている。「毎日毎日、まる24時間、革命に熱中し、革命のことばかり考え、夢にみるのも革命のことばかりというような人間は一人として他にいない。こんな人間をどうすることができようか?」。

レーニンは、身をもって知った情勢の反動的転換を、その鋭い頭脳で理論化し、新たな段階の党の行動方針を引き出す。彼は、すでに7月10日『政治情勢』という論文を書いて、いまや、カデット、軍の上層部、王党派からなる反革命勢力が国家権力をにぎり、事実上、軍事的独裁を行うにいたったこと、ソヴェトの指導者、エス・エル、メンシェヴィキの指導者は、労働者、兵士の武装解除を認め、あらゆる実質的な力を自分たちから取り去り、「自身と、自分の党と、ソヴェトを反革命のいちじくの葉」にかえてしまったことを指摘した。

1917年の夏の政治情勢は、異常できびしかった。3月の革命は腐敗した。しかしながら、ボリシェヴィキの影響は拡がり、増大していった。一つ一つの弾圧が、一つ一つの暴力が、広汎な怒りをまきおこしていった。兵士たちの、労働者たちの、農民たちの革命運動が強まっていった。しかし、革命の具体的な目標はなにひとつ実現されなかった。そこから、革命へのためらいが生じた。ボリシェヴィキは、「全権力をソヴェトへ!」というスローガンをもってしても、ソヴェト内で多数を占めることはできなかった。権力の二重性は、現存のソヴェトを併合していた臨時政府にとって有利な結果になった。だから、ソヴェトの本質や、その客観的本質が変わらなくとも、ソヴェトが権力を握るなどということは、もはや、問題にならなかった。

レーニンは、その後に書いた『スローガンについて』という論文のなかでも、「7月事件」を境とする情勢の根本的変化を、次のように説明する。二月革命から7月4日までは、「二重権力」であった。臨時政府とソヴェトが、お互いに協定を結んで、権力を分かち合っていた。武装した労働者と兵士はソヴェトに結集していた。だが、今はちがう。現に武力を行使しているのは、軍閥、カデット、黒百人組の輩である。逮捕し、武装解除し、銃殺しているのは彼らである。これこそ実際の権力である。レーニンは「二重権力」の時期は終わったとみなした。

このような立場からは、もはや革命の平和的な発展はありえないと考えた。問題は、次のように提起された。「軍事的独裁が徹底的に勝利するか、それとも労働者の武装蜂起が勝利するかだ」また、「『全権力をソヴェトへ!』というスローガンはもはや正しくない」。

「7月事件」以前の時期には、もしも、ソヴェトがそれを望み、決意さえすれば、ソヴェトへの権力の移行を妨げることのできるものはなに一つなかった。そして、権力を握ったソヴェトの内部で、各政党の平和的な抗争、交替が可能だった。たから、「全権力をソヴェトへ」というスローガンは、革命の平和的発展が可能な時期のスローガンだった。しかし、今は違う。権力の獲得は、権力を握っている軍事的徒党を粉砕してこそ、はじめて可能になる。ところで、人民大衆がこの断固たる闘争を進むには、死刑執行人の助手になりさがったエス・エル、メンシェヴィキの裏切りをみぬき、それと戦い、それに背を向けなければならない。でなければ、「全権力をソヴェトへ!」というスローガンは、エス・エル、メンシェヴィキの支配するソヴェト、そのために崩壊した今のソヴェトに権力を移せ、という呼びかけになってしまう。

そこで、レーニンは「全権力をソヴェトへ」というスローガンの放棄を提案した。しかし、このことは、ソヴェト権力のための闘争の放棄を意味しないという、きわめて重要な限定が付されていた。この新しい革命のなかで、ソヴェトは出現できるし、また、必ず出現するであろうが、それはいまのソヴェトではなく、ブルジョアジーとの協調の機関ではなくて、ブルジョアジーとの革命的闘争の機関であらねばならない。ほかならぬ革命的プロレタリアートこそが、「国家権力を独自にその手ににぎらなければならない」からである。

 こうして、レーニンは、7月事件後の情勢分析のなかから、「全権力をソヴェトへ!」

というスローガンを取り下げて、今のソヴェトの裏切りと闘い、プロレタリアートと貧農の権力をめざして、ブルジョア独裁権力にたいする武装蜂起の勢力を準備する、という「新しい革命」の課題を提起した。レーニンの分析と指令に基づいて、ボリシェヴィキ党は、非合法裡にペトログラードで会合して、「全権力をソヴェトへ!」というスローガンを撤回して、このスローガンを「農民と同盟したプロレタリアートによる権力奪取」というスローガンに取り替えた。もちろん、この武装蜂起への方向づけは、いますぐその行動に立ち上がるということではない。最も深部の大衆のあいだで、革命が新しい高まりをみせた場合にのみ、勝利は可能となる。冒険的な行動や一揆的な行動、部分的抵抗や捨て鉢的な企ては役にたたない。挑発にのらず、力を結集して、再組織し、危機の進行が、ほんとうに「大衆的、全人民的」な規模で武装蜂起が可能とするときに備えなければならない。レーニンはこのように主張して、党の活動のあり方も1912年~1914年のころと同様、合法活動と非合法活動を結合するように、ただちに組織替えを行うことを指示した。

ボルシェヴィキは、7月26日から8月3日にかけて、ペトログラードで第六回党大会を開き、レーニンの示した方向を討議し、決定した。この大会には、レーニンはもちろん出席できず、かわってスターリンが政治情勢についての提案を行った。スターリン、スヴェルドロフ、オルジョニキッゼらは、ひそかにラズリフ湖畔のレーニンを訪ね、その指示をうけながら、党の指導に当たっていたのである。エメリヤノフの言葉を借りれば、「ラズリフ湖畔の粗末な仮小屋が、革命の大本営であった」。蚊にせめられながら短く切った材木を机がわりに、レーニンは、大会で必要とする文書の下書きを書き送った。ボリシェヴィキ党は、こうして、武装蜂起への道の第一歩を、ひそかに、しっかりと踏み出した。

 

24 国家と革命

 

フィンランドに移ったレーニンは、9月にかけて、最も有名な理論的著作を書いた。いうまでもなく、『国家と革命』である。彼はこの著作を以前から計画し、既に、2月の半ばには、マルクス、エンゲルスからの引用や自分の注釈や意見をかきこんだノートを作り上げていた。フィンランドに難をさけたレーニンは、このノートをもとに書き進め、表題を変えて出版した。レーニンの数多い理論的労作のなかでも、最も代表的な著作のひとつとなり、社会主義理論の古典として広く知られている『国家と革命』である。この著作も他のものと同様にレーニンの実践的な姿勢で書かれている。その時期の革命運動をおしすすめるうえで、有害で邪魔になる主張を根底からくつがえすという立場である。

ここで、有害な思想として彼の念頭におかれたのは、社会排外主義や「革命的祖国防衛主義」の潮流である。すなわち、社会主義をとなえながら、実際には国家の利益を考え、革命を忘れ、祖国の防衛に協力しているような人々である。第一世界大戦の勃発とともに、このような潮流は、当時の社会主義者の多くをとらえてしまった。レーニンは、このような思潮は、国家にたいする「日和見主義的な偏見」にもとづくものだと考えて、マルクス、エンゲルスの国家についての言及を集め、その「革命的側面」、「革命的精神」を全面的に展開し、体系化する必要を感じたのである。

レーニンは、エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』から出発して、国家とは、和解しえない階級対立の結果として、一定の歴史的段階にこの世にうまれた暴力であり、ある階級が他の階級を支配し、抑圧するための機関であるとする。その実体をなすものは、「武装した人間の特殊な部隊」(警察、常備軍)、官僚機構である。これらの機関は、社会から疎外されながら社会の上に立ち、逆に社会にたいして国家という権力の主要な武器となっている。従って、被抑圧階級の解放は、暴力革命ぬきには不可能であり、これらの機関を破壊することなしには不可能である。このような国家の本質は、民主的共和制のもとにあっても、変わらない。民主的共和制は、資本主義下のプロレタリアートにとって最良の国家形態にはちがいないが、その民主主義は、つねに資本主義的搾取という狭い枠内にせばめられており、実際には少数者のための、富者だけのための民主主義にとどまっている。

 レーニンはさらに、プロレタリア国家の問題の大きな部分をさいて、次のように述べる。プロレタリア革命は、ブルジョア国家を廃絶するが、ただちに国家そのものを廃止することはできない。むしろ、革命の第一歩は、みずからを「国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアート」へ転化させることにおかれる。なぜなら、ブルジョアジーの死に物狂いの反抗を鎮圧するためにも、また、農民など、全人民を指導して社会主義経済を組織するためにも、プロレタリアートは、国家権力を、中央集権的な権力組織を必要とするからである。

 ブルジョア国家は、その形態がどうあろうとも、必ず、ブルジョアジーの独裁であり、資本主義から共産主義への過渡期の国家は、多種多様な政治形態をとりうるにしても、本質的にはただひとつ、プロレタリアートの独裁である。このプロレタリアートの独裁は、その敵である搾取者を抑圧する一方、人民を資本主義的搾取から解放し、民主主義を大幅に拡大して、多数者のための、貧者のための民主主義となる。マルクスとエンゲルスは、ブルジョア国家機構を粉砕したのちの労働者国家の具体的なあり方を、1871年のパリ・コミューンのなかに見出した。レーニンは、これを重視し、くわしく検討を加えている。パリ・コミューンは、まず、第一に常備軍を廃止し、それを武装した人民にかえた。また、すべての公務員の完全な選挙制とリコール制を採用し、その給料は労働者なみの賃金へ引き下げられた。さらに、コミューンは、議会ふうの団体ではなく、執行府であると同時に立法府でもあった。レーニンは、官吏を一挙になくすことはユートピアだ。しかし、古い官僚機構を一挙に粉砕して、あらゆる官吏を徐々になくしていけるような、新しい官僚機構を建設することはユートピアではない。代議制度なしのプロレタリア民主主義を考えることはできないが、代議機関を「おしゃべり小屋」から「行動的」団体へかえることは、コミューンがやってみせた。人民の多数者自身が、国家権力のもろもろの機能を遂行するようなこのような国家は、もはや厳密な意味では国家ではない。いわば、死滅しはじめた国家、「半国家」または「準国家」である。

 資本家の反抗が最終的にうちくだかれ、階級がなくなり、共産主義社会、精神労働と肉体労働の対立すらなくなり、労働が「第一の生活欲求」にかわり、各人は能力に応じて働き、必要に応じて消費しうる社会にみたされたとき、国家は、それ自身を生み出した客観的な存在条件を失って、眠りこみ、死滅する。こうして国家は、すべての事物と同じように、その生成、発展、消滅の過程を終える。

国家は、常に、階級支配と抑圧の道具である。階級のない共産主義社会は、国家の存在と相容れない。レーニンは、労働者、農民の革命的な気分に敏感な耳をもっていた。彼らの情熱は、強力に偏在する国家の束縛から逃れられるという期待で燃えていた。プロレタリア革命の前夜に生きるレーニンは、階級闘争の単なる一般的承認にとどまらず、そこから、ブルジョア国家の廃絶と「プロレタリア独裁」の不可避性、必要性をくっきりと描き出し、明確に位置づけた。この点にこそ、『国家と革命』の理論的核心がある。

 『国家と革命』は第6章からなっているが、これはレーニンの当初の計画と異なっていた。彼はこのあと第7章として「1905年と1917年のロシア革命の経験」を書く予定であった。そこでは、おそらく、コミューンと比較しながら、ロシア革命の中で生まれたコミューンの萌芽であるソヴェトの経験が、理論的に掘り下げられることになったはずである。しかし、レーニンは、この最後の章を書くことができなかった。レーニンの全精力は革命の理論的追求から、その実践的追求へと移されたからである。彼は書いている。「<革命の経験>をすることは、それを書くことよりも愉快であり、有益である」。

 国家とソヴェトの役割についてのレーニンの理論は、10月革命の数ヶ月前にレーニンが政府の弾圧のため政治の表舞台から退去していた間に書いた『国家と革命』のなかで述べられている。レーニンは、マルクスとエンゲルスにしたがって、国家とは「力の特殊な組織、ある階級の抑圧のための暴力の組織」であると定義した。これまでに存在したいっさいの国家は、何らかの有産階級の利益のために、この力を行使したとレーニンはいう。革命における労働者階級の任務は、ブルジョア国家を打倒し、これまで人間による人間の搾取にもとづく支配をしていたものに反対して、人民の圧倒的大多数の利益のために、力を行使するような国家に、とりかえることであった。それは、つまり、以前の革命の場合よりも、もっと根本的なことがおこらなければならないことを意味した。ブルジョア革命の場合には、国家権力がある階級から他の階級へ移るだけであって、少数者が多数者を搾取するという制度そのものは、そのまま残った。事実、ブルジョアジーは権力をとるやいなや、かつての同盟者に対抗するために、打ち破られたかつての敵の支持をもとめ、封建地主との妥協的取引を結ぶのが普通であった。1917年には、ロシアのブルジョアジーも、まさにこのようにしたいとおもっていたのである。

 だが、このプロレタリア革命の場合は、専制国家と妥協することは不可能である。専制国家は多数者にたいして少数者の財産を保護するために存在していたからである。高級官僚は、必ずその出身階級、生活を共にしている階級と、むすびついているという事実は明白である。社会を根本的に改造しようとおもうなら、たとえ、技術的な経験の点では劣るにしても、新しい人々によって、この改造を行わなければならない。「革命とは新しい階級が古い国家機構をとおして支配し、統治することではなくて、この階級が古い機構を粉砕して、新しい機構をとおして支配し、統治することである」。そこで、現在の国家機構を「打破し、こなごなに粉砕して、地上から一掃」しなければならないとした。この場合、レーニンは、特に、国家の威圧的な側面-常備軍、警察、官僚機構-のことを想定していた。彼は、「銀行やシンジケートと密着した機構、会計計算と統計上の莫大な作業を遂行する機構」は例外とした。これらは、破壊せずに、資本家の支配からもぎとらなければならないのである。レーニンは、国有化された銀行の偉大な前途を予見して、次のように述べた。「われわれはこのすばらしい機構からみにくい資本主義的贅肉を切りとり、いっそう大規模にし、いっそう民主的にし、いっそう包括的にするだけでよい。そうすれば、量が質に転化するだろう。あらゆる農村地方とあらゆる工場内に支店をもつ、大規模な単一の国有銀行-これはすでに社会主義機構の十分の九である。それは、全国的な規模の簿記、生産高の測定と照合、全国的な財の分配を意味する。それはいわば社会主義社会の骨組である」。

 一方の威圧機構の方は、もっと民主的ではあるが、やはり武装した労働者大衆という形をとった国家機構におきかえるべきである。これが、ゆくゆくは、全人民が全般的に軍事に参画する制度に転化する。つまり、すべての市民が、国家の勤務員となるのである。役人や官吏は、人民の直接統治におきかえられるか、または少なくとも特別の統制下におかれる。官吏は人民によって選ばれた公僕となるだけでなく、人民の意志でリコールできるようになる。社会主義のもとでは、文明社会の歴史はじまって以来はじめて、人民大衆が投票や選挙に独自的に参加するだけではなく、日常の行政事務にも参加するようになる。社会主義のもとでは、すべてのものが、かわるがわるに政府の仕事に参加するであろうし、また、誰もぜんぜん支配しないことに急速に慣れるであろう。

 このような国家は、無尽蔵の行政要員をもつことになる。1905年の革命以後、ロシアは13万人の地主によって支配されていた。ところが24万人のボリシェヴィキ党は、貧しいもののために、富めるものに反対して統治するつもりだが、ロシアを統治できないというものがある。しかし、今や、われわれは、ニ千万とまでゆかなくても約一千万人の国家機構、どんな資本主義国もしらない機構を、いますぐにでも動かすことができる。このような機構をつくりだすことができるのは、われわれだけである。なぜなら、われわれは人民の大多数の完全な、献身的な共感を保障されているのであるとした。

 だが、このような国家をつくりだそうとすれば、かつての抑圧者の激しい抵抗がおこるであろうが、この抵抗は力によってはじめて克服できる。レーニンはこのような目的のためにつくり出される国家組織を、マルクスの用語にしたがって「プロレタリアートの独裁」、つまり、抑圧者を打破するための支配階級としての、被抑圧者の前衛の組織と呼んだ。民主主義のはかりしれない拡張、民主主義は、はじめて富者のためにではなく、貧者のために使用することになる。そして、人民を搾取するものや抑圧するものにたいしては、力による弾圧、つまり民主主義から彼らを排除すること、これが資本主義から共産主義への移行にあたって、民主主義のこうむる変化である。

 また、レーニンは、マルクスにしたがって、この過渡期が「ひとつの歴史的時代」を占めると考えた。資本家の抵抗が完全にうちやぶられ、資本家が消滅し、いっさいの階級がなくなる(つまり、社会的生産手段にたいする社会の成員の関係に差別がなくなる)共産主義社会においてはじめて、本当の完全な民主主義、例外なしの民主主義が可能となり、実現される。そして、そのときにはじめて、民主主義自体が衰滅しはじめる。というのは、資本主義的奴隷制から解放された人々は、何世紀もまえから知られていて、何千年ものあいだ、あらゆる平凡な教科書で、くりかえし教えられてきた社会生活上の初歩的な規則を守ることに、しだいに慣れてくるという、単純な事実のためである。人々は強制されなくても、従属させられなくても、国家という強制のための特殊な機構がなくても、これらの規則を守ることに慣れてくるのである。

 したがって、マルクスのいわゆる「国家の衰滅」とは、レーニンの解釈によると、階級のない社会では、意見の相異が合理的な討論によって解決されるという意味をもった。多数者が少数者を強制的に従属させるという意味での民主主義さえも、消滅するであろう。社会主義は労働日を短縮し、大衆を新生活に立ち上がらせ、大多数の人々が例外なしに誰でも『国家的機能』をはたせるような条件を、つくりだすであろう。その結果、すべての国家が完全に衰滅しさることになる。労働者、農民の情熱は、強力で偏在する国家の束縛から逃れられるという期待に燃えていた。『国家と革命』は、マルクスの学説と素朴な大衆の願望のみごとな結合であった。

 レーニンは『国家と革命』の執筆中に、10月革命の準備にとりかかっていた。『国家と革命』は、実際には、1918年初めになってはじめて出版された。だが、革命前の数ヶ月間のレーニンの戦術は、このパンフレットの中に精密に検討された原則に導かれていたし、またこの戦術は党によって承認された。レーニンの分析の決定的な特徴は、そして、彼が最も重視していた特徴は、マルクスの思想に忠実にしたがって、古い国家機構を粉砕して、「プロレタリアートの独裁」におきかえることに固執したこと、およびソヴェトが、この独裁を最もよく行使できる政治機構であるという新しい見解を主張したことであった。

西欧の社会民主党は、自分ではマルクス主義者だとおもっていたが、レーニンは十分な理由があって、次のように論じた。彼らは「プロレタリアートの独裁」という概念を、ぼやかしてしまったのであり、少なくとも、彼らが、マルクスが「プロレタリアートの独裁」という、ことさらに挑発的な表現によってあらわそうとした力強い意味をけずりとってしまったとみなした。

 そして、レーニンが何よりも、まず、第一に望んだのは、ボリシェヴィキ党が、形式的な合法性はもちろんのこと、立憲的に表明された多数者の意見にさえも拘束されずに、彼が、是非、必要とみなした変革を実施する有利な機会をつかめるようにすることであった。彼は党の政策が、国民の大多数の意志を代表していると確信していた。だが、たとえそうでなかったと仮定しても、やはり彼は、文化の程度の低いロシアでは、既存の制度の圧迫によって、1917年以前は支配階級が教育と宣伝を独占していたこと、長年にわたる服従と従属の習慣が不当に秤をゆがめていることを主張した。独裁は、惰性と習慣の力に対抗する武器として必要であった。プロレタリアートは、まず、ブルジョアジーを打倒し、国家権力を奪取しなければならない、ついで、搾取者の負担で、革命的なやり方で、勤労者の経済的要求を満足させることによって、大多数の勤労者の共感をえるために、プロレタリア階級の道具を、この国家権力(プロレタリアート独裁)を利用しなければならない。勤労者がブルジョアジーの指導とプロレタリアートの指導とを比較するためには、実践による経験が必要であった。

 

25 ソヴェトのボリシェヴィキ化

 

「7月事件」の直後、カデット党員の大臣のたちの後を追うように、リヴォーフ公も辞任して、臨時政府の首相はケレンスキーに変わり、やがて、1917年7月25日、第二次連立政府(第三次臨時政府)が発足する。レーニンは、このケレンスキーを「ボナパルティスト」と呼んだ。ブルジョアジーとプロレリアートの激しい力の対決を、無責任な空文句、空約束でごまかし、軍部に依拠するブルジョア的反革命、軍事独裁の確立をめざしているとみなしていたのである。事実、ケレンスキーは、「夏期攻勢」を熱心に推進するなかで、軍の上層部とのつながりを強め、資本家や将軍らの期待をあつめる「社会主義者」として、「連立」のシンボルとなり、とうとう首相にのしあがった野心家である。彼は7月12日、前線での死刑の復活を公布したが、18日には、この措置を前から強要し、すでに配下の西南戦線で実行していたコルニーロフ将軍を、最高総司令官に任命した。だが、皮肉なことに、ケレンスキーは、自分の支配権の足場にしようとしたコルニーロフから、逆にその足元をすくわれるはめになる。コルニーコフは「7月事件」後の反動の極点として、内外のブルジョア勢力から公然、隠然の支持をうけつつ、軍事独裁を確立するためのクーデタを計画したのである。 

8月に入ると、もっとも露骨な反革命は、時期到来と確信した。反乱の日取りは、2月革命の半周年記念日である8月27日が選ばれていた。彼らは、この日に労働者や兵士のデモ、暴動があるという噂を流し、その鎮圧に名をかりて、一挙に首都の革命勢力を制圧し、ソヴェト組織を解散させようとした。もはや弱体化して、信用を失っていた臨時政府は、それに抵抗できなかった。反抗に対抗する力は、コルニーコフが、ケレンスキーがその圧殺を企てた革命勢力、革命的な労働者、兵士のなかにしかありえなかった。

ボリシェヴィキが、兵士、水兵、労働者に呼びかけて、抵抗に立ち上がらせた。ペトログラードの地区ソヴェトは、反乱の知らせを聞くとただちに、労働者民警、赤衛隊(労働者の民兵組織)の編成、その司令部の設置などを決め、各工場から2万人をこえる赤衛隊の部隊をつくりあげた。あらゆるところで、労働者だけがもつ強みが発揮された。たとえば、鉄道労働者は反乱軍の移動を妨げ、通信労働者は、その通信、命令系統を麻痺させるようにした。ペトログラード守備隊の兵士やクロンシタット要塞の水兵も、首都防衛の部隊を編成した。一方、首都へ進軍する反乱軍の兵士には、いたるところで大衆的な説得活動が展開され、命令拒否の動きが現われた。こうして、コルニーコフの反乱は、思いもよらぬ優勢な軍隊に直面し、配下の軍隊が自壊しだすなかで、まともな戦闘一つ行えずに崩れ去ってしまうのである。

軍事的反動を欠いていたクーデタは、レーニンが待望していた「転換」を誘発した。それまで躊躇逡巡していた大衆、特に、中農が、ケレンスキーや臨時政府への不信感を強め、コルニーコフ派との戦いの先頭にたったボリシェヴィキへの支持に変わり、メンシェヴィキや自由主義者から脱落していった。軍隊の民主化と死刑廃止、地主所有地の即時没収とその農民委員会による管理、8時間労働と生産の労働者統制、秘密条約の廃棄と民主的な全面講和などの要求、そして、資本家との決裂と、革命的労働者、農民、兵士の権力という方向性を、声高く訴え続けたボリシェヴィキ党にたいして、大衆的支持が高まった。

7月事件の直後、ボリシェヴィキの影響力は、「ドイツの手先」という中傷や集中的な反動攻勢にさらされて、一時停滞ないし後退をみせた。苦境にたえ、力をもりかえしつつあったボリシェヴィキは、コルニーコフの反乱の危機を突破して、上げ潮に乗った。大衆は、2月革命以後のわずか半年のあいだに、労働者や兵士が経験した多くの試練から学びとったものを、ボリシェヴィキ党への固い支持にかえていったのだ。

いわゆるソヴェトの「ボリシェヴィキ化」の時期がはじまった。レーニンは、これに先立つ9月1日、『妥協について』という論文のなかで、コルニーコフ反乱が生み出した新しい情勢のなかから、ふたたび革命の平和的な発展の方向をさぐっている。彼は、再び「全権力をソヴェトへ!」というスローガンを掲げることを提起し、ソヴェトに責任を負う「エス・エルとメンシェヴィキの政府」の実現を認め、その際の条件として、「煽動の完全な自由」、憲法制定会議の早期招集という二点をあげている。彼は、エス・エルとメンシェヴィキの間に、カデット党がコルニーコフ反乱の黒幕として暗躍したという噂が広まり、カデットとの連立政府を拒否する動きが高まったのを見て、今ならこうした「妥協」の成り立つ「きわめて貴重な可能性」があるかもしれないと考えたのである。レーニンは、ほんのわずかの可能性をもとらえて、ソヴェト内での自由な政争、平和的な多数派の交代を通じて、政権に到達する道を切り開こうしたのだ。ここには、レーニンのもつ民衆本位の高い倫理と、自派の正統性への強い自信がみられた。「真の民主主義のもとでは、われわれはなにも恐れるものがない」。レーニンはこのように述べてこの妥協を提議した。

しかし、エス・エルとメンシェヴィキは、結局、ブルジョアジーとの連立を断ち切れず、レーニンの望んだ「貴重な可能性」は現実のものにならなかった。そのうちに、ソヴェトの「ボリシェヴィキ化」が進行するなかで、「全権力をソヴエトへ!」というスローガンは、新たな質を帯びることになる。すでに8月31日、ペトログラード-ソヴェトは、ブルジョアジーとのいっさいの協調を断ち、革命的プロレタリアートと農民の権力を築くことを求めたボリシェヴィキの提案を審議し、賛成279、反対115、保留50をもって、それを可決した。さらに9月9日には、執行委員会幹部会の構成をめぐる決定的な対決が行われ、比例代表制で構成するというボリシェヴィキの提案が519対414(棄権67)をもって可決された。ついに、首都ペトログラードのソヴェトは、ボリシェヴィキの手に移ったのである。9月5日には、モスクワでも、労働者・兵士代表ソヴェト合同会議で同様の決議が行われた。両首都のソヴェトの変化は、「ボリシェヴィキ化」の全国的な進行の象徴であった。いまや、「全権力をソヴエトへ!」というスローガンは、「エス・エルとメンシェヴィキの政府」ではなく、「ボリシェヴィキの政府」を築くことを意味するものにかわり、それを拒否する臨時政府の打倒を意味するスローガンに変わったのである。レーニンは、幾分迷った末、「全権力をソヴェトへ!」を復活させた。

最有力なペトログラードとモスクワのソヴェトが、ボリシェヴィキ側になびいた。時がこちら側に移ってきた。大衆が彼ら自身の経験によって、ボリシェヴィキのスローガンの正しさを確信するようになりつつあった。「全権力をソヴェトへ」というスローガンが再び前面に出された。これは臨時政府にたいする直接的な挑戦だった。

 レーニンは隠れ家にあって、さまざまな障害や危険、反革命の準備を絶えず分析し、差し迫った飢餓や経済の崩壊など破局の徴候をよく見分け、蜂起の手段を提案していた。

 

26 10月革命

 

レーニンは、9月12~14日に二つの手紙を書き送った。『ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない』と『マルクス主義と蜂起』である。第一の手紙は、ボリシェヴィキ中央委員会、ペトログラード委員会、モスクワ委員会へあてた手紙であり、その書き出しは、「ボリシェヴィキは、両首都の労働者・兵士代表ソヴェトで多数を占めたので、国家権力をその手に掌握することができるし、また、掌握しなければならない」という言葉で始まっている。レーニンは、この頃、ケレンスキー一派がペトログラードをドイツ軍にあけ渡し、革命の拠点をつぶしてしまおうとしているとにらんでいた。そうなっては、事情は百倍も困難になる。両首都の労働者と兵士の多数を持ち、農民へ平和と土地を与えうる今、ボリシェヴィキが、「形式上の多数」を占めるのを待つことはない。「問題は、ピーテルとモスクワ(その地方を含めて)での武装蜂起と、権力の獲得と、政府の打倒とを日程にのせる任務を、党にはっきり理解させることである」。

 中央委員会にあてた第二の手紙『マルクス主義と蜂起』のなかでも、レーニンは蜂起の条件がすでに整ったことを、「7月事件」当時との比較のなかで具体的に指摘した。彼は、蜂起が成功をおさめる条件として、第一に陰謀や政党にではなく、先進的階級に依拠すること、第二に人民の革命的高揚に依拠すること、第三に人民の前衛の隊列の活動性が最も大きくなり、敵の隊列と中途半端な革命の味方の隊列の動揺が、最も強くなるような転換点に依拠すること、という三つの点をあげ、いったんこれらの条件が備わったときには、蜂起を戦闘術として取り扱うようにと主張した。補足すれば、レーニンは、『一局外者の助言』のなかで、この「戦闘術」の主要な原則を次のような5点にまとめている。

@       決して蜂起をもてあそばず、いったん開始したら最後までやりぬくこと。

A       決定的な地点、決定的な瞬間に、きわめて優勢な兵力を終結すること。

B       いったん蜂起を開始したら、最大の決意をもって行動し、無条件に攻勢をとること。

C       敵の不意をうち、敵の分散している間に好機をつかむこと。

D       どんなに小さくとも、日々刻々成功をかちとり、「士気の優越」を保つこと。

 レーニンの手紙は、9月15日の中央委員会で討議されたが、「戦術的問題の討議」も、手紙を重要組織の討議に付するというスターリンの案も、その後の会議にもちこすことになってしまった。またしても、カーメネフは、この会議でレーニンの提案に反対した。中央委員会は、5日後の20日にも、次の日の21日にも開かれたが、レーニンの手紙についての討議はなされず、その上、レーニンがそのボイコットを考慮していた「予備議会」に参加する方向を確認した。「予備議会」とは、臨時政府の諮問機関として、連立各派の肝いりで開かれていた「民主主義会議」からつくられるものである。

 このようなボリシェヴィキ中央委員会の態度は、レーニンをひどくいらだたせた。彼は、ドイツにおける兵士の反乱、農業国ロシアでの農民蜂起の高まり、モスクワ区議会選挙でのボリシェヴィキの躍進等、さまざまな新しい事実をあげては、革命的危機の成熟をくりかえし指摘し、党の上層部にある蜂起尚早論、ソヴェト大会を待つべしとする意見を激しく攻撃する。敵の不意をうつには、ソヴェト大会を待つのは愚行だ。農民の蜂起を鎮圧させておくのは農民にたいする裏切りだ。われわれは全国で多数派だ。「権力をソヴェトへ」というおしゃべりはみんなうそだったのか。この「好機」をのがすことは革命を滅ぼすことだ。わたしは、中央委員の辞任願いを提出してでも、党内でこのことを煽動する自由を保持する。

要するに、このときのレーニンは、いまはすでに蜂起を一個の「戦闘術」として断行すべきときであり、一日一日の時間の空費は、それだけ革命の好機を遠ざけると焦慮したのである。9月には、ロシアの民主主義とソヴェトは、革命の平和的発展の最後のチャンスを見逃している。「危機は熟している。……ロシア革命の、……国際労働者革命の将来全体が賭けられている。…『待つ』ということは、犯罪である。……蜂起の問題が日程にのぼってくる。ぐずぐずすることは死にひとしい」と、当時、レーニンは書いている。

 彼は、敵勢力の配置を研究し、蜂起行動の計画を全体のなかで描いている。蜂起は一つの技術であり、軍事技術の一部分である。だが、蜂起は陰謀にも、また党にすら立脚すべきでなく、人民の革命的高揚に立脚すべきであると彼は考えていた。彼は、協力者たちや指導者たちや、さらに党中央委員に蜂起行動の指揮をゆだねている。10月7日、レーニンはひそかに、ペトログラードにもどり、ヴイボルク地区に住む婦人党員ファファノヴァの家に身を隠した。3日後の10月10日、ボリシェヴィキ中央委員会の歴史的な会議が、スハーノフの家で開かれた。スハーノフという人物は、当時メンシェヴィキ系の理論家で、のちに『革命の記録』という有名な回想記を出版した人であるが、その夫人がボリシェヴィキだった。このスハーノフ夫人の計らいで、その夜は、亭主は外泊ということになり、極秘の会議の安全な場所が確保されたわけである。この日、かつらをかぶり、ひげをそり、めがねをかけて変装したレーニンは、7月以来はじめて中央委員会に姿を現した。このとき出席した中央委員は、レーニン、スヴェルドロフ、スターリン、ジェルジンスキー、トロツキー、ウリツキー、コロンタイ、ブブノフ、ソコリニコフ、ロモフ、ジノヴィエフ、カーメネフの全部で12名であった。

 議長のスヴェルドロフが前線の状況等について報告したのち、レーニンは、当面する情勢について熱情をこめて報告した。その主張は、いうまでもなく、蜂起のための政治的状況は、すでに整っており、「全問題の核心」はその技術的側面の検討にあるという点である。この頃には、中央委員会全体の姿勢も、9月の中ごろより、ずっと蜂起の断行という方向へひきつけられていた。10月5日の中央委員会は、カーメネフ一人の反対を残して、予備議会のボイコットを決めている。レーニンとの差は縮まってきた。長時間にわたる討議の末、中央委員会は、レーニンの手になる短い決議文を採択した。それは、国際情勢への言及にはじまり、このように、武装蜂起がさけられないものとなり、完全に機が熟していることを認め、すべての実践的問題をこの見地から解決することを指示して結んでいる。表決は10対2、反対したのはカーメネフとジノヴィエフであった。こうして、レーニンを先頭とするボリシェヴィキ中央委員会は、蜂起決行の決断をくだし、ロシア革命史の1ページとなる10月武装蜂起の主導者となった。

 首都の武装蜂起の大衆的な司令部になったのは、ペトログラード-ソヴェトのなかに設けられた「軍事革命委員会」である。この委員会は、今は確固として、ボリシェヴィキの手に握られていた。トロツキーが夏にペトログラードに戻ってからは、ボリシェヴィキに加わっていたが、彼は作戦計画を練るにあたって、指導的な役割を果たした。この委員会をつくるきっかけになったのは、皮肉にもメンシェヴィキである。彼らは10月9日、軍当局によるペトログラード守備隊の前線への移動命令に賛成する際、首都の防衛にあたる「軍事防衛委員会」をつくろうという案を、抱き合わせで、出したのだった。ボリシェヴィキは、守備隊の前線への移動命令を革命の拠点をつぶすための策謀とみていたから、もちろんこれとまったくちがうのだが、委員会そのものについては、反革命勢力から首都を守るという意味もこめて反対ではなかった。

 10月10日の中央委員会による蜂起決行の決議は、「防衛」のためではなく、権力奪取の「攻撃」のためにも、大衆的なその指導組織の確立を緊急に必要とさせた。このような背景のなかで、ペトログラード-ソヴェト執行委員会は、12日、軍事革命委員会の創設をきめるのである。軍事革命委員会の委員には、ペトログラード-ソヴェト幹部会や、その兵士部会のメンバー、艦隊中央執行委員会、フィンランド地方委員会、鉄道・通信従業員組合、工場委員会、労働組合、党軍事組織、労働者民警、ペトログラード農民代表ソヴェト軍事部、ソヴェト中央執行委員会軍事部などの代表者が含まれていた。委員会の議長には、エス・エル左派のラジミールがえらばれた。エス・エルの党内では、このころになると、指導部のとるブルジョア勢力との連立政策、農民の土地闘争への抑止政策にたいする反発がひろがり、党内反対派としての左派の勢力が急速に台頭していた。エス・エルは、農村と軍隊のなかに幅広い支持層を持っているが、いまやその下層の部分は、党内反対派としての左派を支持するようになり、エス・エルのペトログラード委員会も左派の掌握するところとなっていた。

エス・エル左派は、当初から戦争に反対し、臨時政府に反対してきたことから、ボリシェヴィキの政策に同調するむきが強く、また、ボリシェヴィキの側も、広範な貧農層との政治的つながりを確保するためにも、そのなかに強い影響力をもつエス・エル左派との連繋を重視していたのである。レーニンも、特に、9月以降、エス・エル左派の台頭に目を注ぎ、そのなかに農民の革命化の兆しを見出し、ボリシェヴィキとエス・エル左派とのブロックを「労働者と農民のブロック」となぞらえ、両派への支持率を合算して、全国的な革命的危機の成熟度を示す指標としていた。26歳のエス・エル党員ラジミールが、武装蜂起の総司令部たる軍事革命委員会の議長に選ばれた背景には、このような革命闘争の勢力配置の問題がひそんでいたのであった。

 また、軍事革命委員会に協力する機関として新設された守備隊会議も、武装蜂起の準備に重要な役割を果たした。第一回守備隊会議は、18日に開かれたが、9つの近衛連隊の代表が、ペトログラード-ソヴェトの呼びかけにしたがって、決起すると言明し、中立、反対は、少数の部分にとどまった。こうして、守備隊会議は、ペトログラード守備隊の決意の度合いを点検する場となり、蜂起に向けて兵営の末端と、軍事革命委員会とをつなぐベルトの役割を担ったのである。21日、守備隊会議は、軍事革命委員会の完全支持をきめ、さらに22日、軍管区司令部による軍事革命委員会コミサールの就任拒否をきっかけに、今後、軍事革命委員会が署名する命令のみを遂行すると声明した。ペトログラード守備隊は、公然と、その司令部への反乱を宣言したのである。

 一方、労働者の民兵組織である赤衛隊の強化も進み、22日にはペトログラード赤衛隊全市協議会がもたれて、その規約がきめられ、軍事革命委員会の指導下にその中央司令部がおかれた。23日には、全部隊を戦闘体制におく決定がなされた。当時、ペトログラード赤衛隊は、およそ2万人といわれていた。各地方、各前線で同じような努力が続けられた。武装蜂起の準備体制は日々刻々高まりをみせ、新しい革命の根幹となる軍事力が、古びた権力の軍事力を雪崩のようにのみこみながら編成されていった。

 蜂起の日取りについては、レーニンがソヴェト大会の前にするよう強く主張していた。政府に忠実な軍隊が到着する前に、機先を征しようとして、ことを急いだのである。その第二回全ロシア-ソヴェト大会は、当初の予定より5日間遅れて10月25日に開かれることが決まっている。ボリシェヴィキが、臨時政府にたいする武装蜂起を急いでいることは、いまや公然の秘密になっている。17日にカーメネフ、ジノヴィエフが、その蜂起反対論を党外の新聞に公表したことは、蜂起決行の決議のたしかな証拠となった。10月25日への一日一刻が、敵対する両陣営の緊張を高めていた。この張りつめた時間との対峙を先に破ったのは、臨時政府の側であった。

 10月24日の早朝、政府は機先を制しようとした。ペトログラード軍管区司令官ポルコヴニコフの命を受けた士官学校の生徒の一隊が、ボリシェヴィキの印刷所を襲い、装甲車を派遣して、その命令を確実に実行させようとした。中央機関紙などの発行停止を命じ、紙型の破壊、建物の封印を行った。この知らせは、すぐ、スモーリヌイ館に届けられた。この建物には、8月以来、ペトログラード-ソヴェトやソヴェト中央執行委員会などが住みついていたのだが、ペトログラード-ソヴェトがボリシェヴィキの影響下におかれてからは、スモーリヌイ館はボリシェヴィキの活動の中心点となっていたのだ。軍事革命委員会もこの三階にある三つの小部屋を使っていた。

 印刷所の事件を知った軍事革命委員会は、各連隊に戦闘準備を整えて待機することを命じ、印刷所へは兵士の一隊を出動させて、封印をはぎとり、印刷の続行を守った。また、臨時政府は午後にかけて、侵攻する部隊をさえぎるため、一つを除く残り全部の橋を上げはじめたが、これは市民に反乱の発生とうけとられ、騒然とした雰囲気を生み出した。それぞれの橋で警備隊と武装労働者、兵士との小競り合いが起こり、橋は上げたり下げたりされた。昼から夕方にかけて、革命の司令部を守るべく、赤衛隊や兵士がスモーリヌイ館に集結し始めた。すでに革命の武装行動ははじまっていた。だが、その行動は防衛的な色合いが濃く、軍事革命委員会の蜂起計画にもとづく最終的な攻勢の開始には、まだいたっていなかった。レーニンは、ヴイボルグ地区の隠れ家にあって、事態の推移に焦慮していた。

 彼は次のように『中央委員会への手紙』を書き送る。「同志諸君!私は、この手紙を24日の夕刻に書いている。情勢は極度に危機的である。いま蜂起を遅らせることは、真に死に等しいということは、このうえなく明らかである」、断じて権力を25日までケレンスキー一派の手に残してはならない。今日なら勝つことができるが、明日ならば危ない。ソヴェト大会の「動揺的な票決」を待つのは破滅か形式主義か、そのどちらかだ。

 だが、彼はこんな手紙だけでは満足できない。かれはスモーリヌイに潜入する決心をした。夜おそく、いつも影のように付き添うラヒヤとともに、レーニンは例のようにかつらをかぶり、汚れた包帯で頬をかくし、鳥打帽を目深にかぶって、隠れ家をでた。ヴイボルク地区からスモーリヌイへ行くには、ネヴァ川にかかる橋を通らねばならない。労働者とやり合っている警備兵のすきをとらえてとおりぬける。途中での士官学校の生徒の検問は、ラヒヤがひきうけた。この道行きは、レーニンにとって最後の「逃亡者」の生活だった。 

スモーリヌイに着いたレーニンは、蜂起の遂行の指導に直接参加し、今度は、ところをかえて、ケレンスキーが追われる立場に陥るのだ。

 

27 武装蜂起

 

10月24日から25日(太陽暦では11月7日)にかけての夜中に、軍事革命委員会による蜂起の最終的な行動が開始された。残る中央電話局、中央電信局、駅、停車場、発電所、国立銀行、通信機関など、首都の重要な地点についで港湾と施設は、ほとんど無抵抗のうちに、次々と赤衛隊と兵士によって占領され、25日の朝方には、臨時政府の陣どる冬宮など、ごく一部を除いて、首都全体は蜂起した民衆の制圧するところとなった。それは無血の蜂起であった。首相ケレンスキーは、前線から増援部隊を集めるために、後に従うアメリカ大使館の車で人目をまどわしながら、脱出した。その頃レーニンは、「ペトログラード労働者-兵士代表ソヴェト軍事革命委員会」の署名で、『ロシアの市民へ!』という檄文を書いた。「臨時政府は打倒された」という言葉に始まり、「労働者、兵士、農民の革命万歳!」という言葉で終わるこの短い檄文には、「1917年10月25日、午前10時」という日付がつけられていた。午前11時に『ラボーチイ・プーチ』紙が発行され、蜂起を呼びかけた

 この日の午後、ペトログラード-ソヴェトの会議が開かれたが、4か月ぶりで公然と大衆の前に姿を現したレーニンは、嵐のような拍手をあびて、登壇した。彼は、実現された労働者、農民の革命は、ソヴェト組織という新しい統治機関をつくり、結局、社会主義の勝利をもたらすであろうと述べ、また、当面の任務である戦争を終わらせる闘いは、全世界の労働者の助けをうけるであろうし、地主的土地所有をなくする措置は、農民の信頼を勝ち取ることとなろうと述べた。「ロシアで、われわれはいますぐ、プロレタリア社会主義国家の建設に従事しなければならない。世界社会主義革命万歳!」レーニンがそのように演説を結ぶと、会場には再び激しい拍手が響き渡った。

午後10時40分、同じスモーリヌイで、この蜂起の日時にあわせて、第二回全ロシア労働者-兵士代表ソヴェト大会が開会された。各党派ビューローの報告では、開会時の代議員649名中、ボリシェヴィキが390名、エス・エルが160名、メンシェヴィキが72名、その他27名という内訳だった。6月の第一回大会のときには、わずか14%たらずにすぎなかったボリシェヴィキが、4か月後のこの大会では、過半数の支配的勢力になったのである。いまや、まったくの少数派に転じたメンシェヴィキとエス・エル右派は、ボリシェヴィキの「陰謀」を非難しつつ退場し、ソヴェトから去った。大会は、臨時政府の解散と、権力のソヴェトへの移行とを宣言し、満場一致で三つの布告を採択した。

@ 「労働者・農民の政府」の名において、すべての交戦国の国民と政府にたいし、無併合・無償金の「公平かつ民主的平和」のための交渉に入ることを提議し、特に、「人類のうちの最も先進的な三国家」(イギリス、フランス、ドイツ)の「階級意識に目覚めた労働者たち」にたいして、戦争終結を促すよう訴えかける。

A       土地に関する布告は、エス・エル作成の文案を含むものであったが、それは社会化された農業というボリシェヴィキの長年の理論よりも、むしろ農民のプチブル的願望に応えたものであった。地主の土地所有は、無償で廃棄された。「普通の農民とコサック」の土地だけが没収をまぬがれた。私的土地所有は永久に廃止された。土地利用権は、「自分自身の労働によって土地を耕作したいと願うロシア国家の(性別を問わず)全市民」に与えられ、鉱業権やそれに付属する諸権利は、国家に委ねられた。土地の売買、賃貸および賃労働の雇用は禁止された。これは、自分の土地を自分自身と家族の労働で耕し、主として自分たちの欲求を満たしている小独立農民の憲章であった。土地問題の最終的決着は、来るべき憲法制定会議まで保留された。

B       第三の布告は、この会議の議長をつとめたカーメネフによって提案されたが、それは、憲法制定会議の開催まで、全ロシア・ソヴェト大会とその執行委員会の権威のもとに国を統治するための臨時労農政府として、人民委員会議(ソヴナルコム)を設立することにした。

レーニンは、数時間前にペトログラード・ソヴェトにおいて、次のような大胆な言葉で演説を結んでいた。「ロシアにおいてわれわれプロレタリア社会主義国家の建設に従事しなければならない」。ソヴェト大会のもっと正式な布告においては、「国家」と「社会主義」の概念は背景に退いていた。古い国家とそれに付随する諸害悪が一掃されつつある中では、だれも新国家建設の問題に直面しようとは思わなかった。革命は国際的なものであって、少なくとも形式的には、国境は無視された。労農政府は、領土的定義もされなければ領土的名称ももたなかった。その権威がどこまでの広がりをもつことになるのかを予見することはできなかったのである。

社会主義は未来の理想であった。レーニンは、平和に関する布告を提議した際に、労働者の勝利は「平和と社会主義への道を切り拓く」ことになろうと述べた。しかし、これらの布告のどれも、革命の目標ないし、目的としての社会主義に言及してはいなかった。その範囲に関して同様、その内容に関しても、将来に決せられるべく残されたのである。

レーニンは、この大会の第一回会議には出席していない。彼は、最後の臨時政府(第三次連立政府)の最後の拠点、冬宮の奪取をめぐる闘いに全神経を集中していたのだ。冬宮を守る政府側の兵力は、士官学校生徒、「突撃隊」、「婦人突撃隊」など、多くて2~3千名程度にすぎなかったが、蜂起勢力の側も計画より動きが遅れていた。約2万の赤衛隊、水兵、兵士が、冬宮の完全包囲をなしとげたのは、25日午後6時頃になってからだった。

ネヴァ川には、バルチック艦隊から派遣された巡洋艦、駆逐艦などが陣取っていた。午後9時45分巡洋艦「オーロラ」が轟然と攻撃合図の砲声を発した。冬宮に侵入した人民の兵士たちが、冬宮を完全に征服し、臨時政府の大臣たちを逮捕したのは、あけて26日午前2時10分のことである。レーニンは、ソヴェト大会で採択すべき『労働者、兵士農民諸君へ!』を起草した。「大会は、圧倒的多数の労働者、兵士、農民の意志に立脚し、また、ペトログラードで遂行された労働者と守備隊の蜂起の勝利に立脚して、権力をその手に掌握する。臨時政府は打倒された。臨時政府の閣僚の大多数は既に逮捕された…」。ソヴェト大会は、ほとんど満場一致でこの檄文を採択した。第二回ソヴェト大会の第一回会議はおわった。26日午前6時ごろである。

 

28 権力奪取

 

 その夜午後9時、第二回ソヴェト大会の第二回会議が開かれた。この会議でレーニンが登壇したときの光景は、ジョン・リードによれば、次のようになる。「レーニンは演壇のテーブルの端をつかみ、数分間、なりやまないごうごうたる大喝采に一見呆然として、またたく小さな目で群集を見渡しつつ待っていた。喝采がやむと、彼は簡単に言った。「われわれはいまや、社会主義秩序の建設にとりかかるであろう!」。再び例の圧倒的な喧騒が続いた。彼は、第一になすべきこととして、『平和についての布告』を提案した。交戦諸国の人民とその政府にたいする「公正な民主主義的講和についてただちに商議をはじめること」の提議である。このいわゆる「民主主義的講和」=無併合、無賠償、民族自決の講和という要求は、一貫してソヴェトの講和方針のたてまえとなってきた。しかし、メンシェヴィキ、エス・エルがソヴェトを支配していたあいだは、その指導層が「祖国防衛」の立場を取り、ブルジョア勢力との連立政策をとるなかで、このたてまえはほとんど実質をともなわぬ空約束にとどまっていた。

これにたいして、レーニンは、口先だけでなく実際にこれを実現するためには、すべての資本の利益と完全に手を切り、秘密条約の公表、廃棄、すべての民族の自由な分離と統合が認められなければならないと、以前から強く主張し、批判してきた。いま、彼は、資本の支配をすでに断ち切った労農権力の名において、「民主主義的講和」を提議し、臨時政府の確認、締結したすべての秘密条約の公表、資本家と地主に利益を与え併合を認めた条約の即時無効を「布告」する。講和の商議が完了するまでの期間を考慮して、ただちに休戦協定を結ぶこともあわせて提議された。こうして、『平和についての布告』は、ふみにじられてきた民衆の平和への願いは、労農権力の手によってこそ実際的に解決されていくという最初の証となった。

続いてレーニンは、『土地についての布告』を提案する。「@地主的土地所有はいっさいの買取金なしにただちに廃止される。A地主所有地、ならびに皇室、修道院、教会のすべての土地は、そのいっさいの家畜と農具、建物、すべての付属施設もろとも、憲法制定会議まで、郷の土地委員会および郡農民代表ソヴェトの処理に移される……」。この言葉を、ロシアの貧しい農民たちはどんな気持ちで聞いたことだろう。土地を耕作者の手へ、これは何百年来のロシアの農民の悲願だった。『土地についての布告』がただ一票の反対だけで採択されたとき、農民代表者たちは熱狂して喜んだ。この布告の4番目の項目には、この「偉大な土地改革」を実現する際、『全ロシア農民代表ソヴェト通報』第88号に載った「農民要望書」がその指針とされると記されている。当時も農民代表ソヴェトは、エス・エルの力が強く、この「農民要望書」もエス・エルの農業政策にもとづくものだった。ボリシェヴィキがエス・エルの政策を実行するという、この一見奇妙な事態の背後には、一つは、エス・エルの農業綱領がいっさいの土地私有を否定している点で、革命的な要素を含んでいたことと、もうひとつは、この綱領を大多数の農民が強く支持しているのに、エス・エル自身はその実現を引き伸ばしてきたという事情がある。レーニンは、農民の民主主義的要求をそのまま誠実に実行することによって、民衆本位の政権の実を貫き、農民の自発的な創造力をとき放ち、その体験からにじみでるソヴェト政権への農民の尽きない支持に期待をよせたのである。

第二回ソヴェト大会は、最後に新しい政府の構成と、新しい中央執行委員会の選出にはいった。人民委員会議と名づけられた新政府は、エス・エル左派がまだ参加を拒否しているため、ボリシェヴィキ一党の構成で出発することになった。エス・エル左派との連立形成の協定が正式に結ばれるのは、12月8日のことである。大会議長のカーメヌフが人民委員の名前をひとりひとり読み上げていく。首相にあたる人民委員会議議長は、いうまでもなくレーニンだ。総員15名の人民委員のなかには、トロツキー、スターリンらもいた。10月革命は、ここに歴史上はじめての社会主義者のみによる政府を生み出したのである。ソヴェト中央執行委員会は、ボリシェヴィキが62名、エス・エル左派が29名、その他10名、計101名で構成された。27日午前5時15分「革命万歳!」「社会主義万歳!」の叫び声と「インターナショナル」の歌声のなかで、第二回全ロシア-ソヴェト大会は閉会した。

 1917年の2月革命を鼓舞したのも社会不安であった。しかし、それは戦争による疲弊と戦争指導への不満によって、より強化され、それが支配的要因になっていた。ツァーリの退位以外のなにものも、この民衆の勢力をとめることができなかった。婦人労働者の“パンをよこせ”の運動からはじまったペトログラードの労働者の闘争は、ついに、5日目の27日、兵士の反乱をよびおこした。首都の権力は、実質的に労働者、兵士の手ににぎられ、ニコライ二世のツァーリ権力は、国会の権威に基礎をおく民主的な「臨時政府」の布告によってとってかわられた。しかし、革命の混血児的な性格が、またしても直ちに明白となった。この革命は、必ずしも革命勢力の理論的指導によってもたらされたものではなかった。その当時、多くの革命家たちは、流刑地にあったし、レーニンもトロツキーも亡命中であった。

臨時政府とならんで、ペトログラード・ソヴェトが1905年の例にならって再建された。2月革命によって、今まで追放されていた多くの革命家たちが、シベリアから、また、国外の亡命地から、ペトログラードに戻ってきた。これらの人々のほとんどは、社会民主労働党の二派、ボリシェヴィキとメンシェヴィキ、あるいはエス・エル党のいずれかに属しており、ペトログラード・ソヴェトに、できあいの活動の舞台を求めた。当時、スイスにいたレーニンも4月3日、ロシアに帰国した。ソヴェトは、ある意味では、旧ドゥーマの立憲的諸政党によって形成された臨時政府との競合物であった。「二重権力」という言葉が、どっちつかずの状況を言い表わすために使われた。この状態のなかで、ブルジョア民主主義革命の段階の土地改革など諸問題が、未解決である以上、臨時政府がその方向に努力する限り、支持するというような考えが、ボリシェヴィキの内部に現われていた。

1917年4月にレーニンがロシアに帰ってくるまでは、ボリシェヴィキの政策は、メンシェヴィキの政策と大差がなかった。すなわち、臨時政府を批判的に支持し、講和を要求するが、さしあたりは戦争のための努力を支持し、ロシアの運命を決定する最高機関としての憲法制定会議に期待するという政策がそれである。ところが、劇的なレーニンのペトログラード到着は、これらの不安定な妥協を粉砕した。レーニンは、当初、ホリシェヴィキの中でさえ、ほとんど孤立無援だったが、ここにきてレーニンの構想がにわかに前面にでた。レーニンは、早速、ロシアにおける現在の動乱は、ブルジョア革命であって、それ以上の何ものでもないという想定にたいして攻撃をはじめた。2月革命以後の状況の展開は、それがブルジョア革命の範囲内にとどまっていられないだろうという、レーニンの見識を確証した。

専制の倒壊のあとに続いたのは、権力の分岐というよりも、むしろ権力の完全な拡散であった。労働者の気分も農民の気分も、おそるべき圧力からの巨大な解放感といったものであり、自分たちのことは自分たち自身の流儀で勝手にやりたいという根深い願望と、それがともかく、実行可能であり、かつ本質的なことなのだという確信を伴っていた。それこそ、広汎な熱狂の波にのって、また、疎遠で専制的な権力からの解放というユートピア的ヴィジョンによって鼓舞された大衆運動をよびこむことができた。

それは、臨時政府によって布告された議会制民主主義とか、立憲政府といった西欧的原理などを必要としていなかった。レーニンは、カール・マルクスやパリ・コミューンの伝統にたちかえることを要求し、政治にたいする峻厳な階級的視点に踏み込むことを要求することによって、事実上、自由主義議会主義や西欧の社会民主党のやり方と決定的に手を切ることになった。それは、同時に、社会革命党やメンシェヴィキ党と手を切ることでもあった。3月から11月までに、これらの政党は自らの無力を暴露することによって、レーニンの分析の正しさを立証した。この両党は二つの首都と軍隊のソヴェトはもちろん、実に全国のソヴェトを完全に支配していた。だが、彼らは、最初は3月に成立したカデット(自由主義派)政府を支持し、その後にも、あいついでカデットとの不安定な連立政府に参加した。中産階級の政党とこのような連立を作って、官僚を追放することができなかったために、彼らは、自分の社会主義的綱領を行動にうつすことができなかったのである。だから、社会構造の決定的な変革は、すべて憲法制定会議にまかせるべきだというのが、彼らの逃げ口上となった。だが、この会議の招集期日はたびたび延期された。憲法制定会議は、以前からボリシェヴィキ党の綱領にも予定されていた。

ソヴェトの当初の方針は、それほどはっきりしたものではなかった。二つの異なった革命-ブルジョア革命とプロレタリア革命-が順次に起きるはずであった。ソヴェトを構成する人々は、ごくわずかの例外をのぞいて、この2月革命の出来事は、西欧型ブルジョア民主主義体制を確立するロシア・ブルジョア革命としてとらえることに満足して、社会主義革命の方は、不確定の将来のこととして後景に退かしていた。臨時政府との協調はこうした考えからすれば当然の帰結であり、この考えは、最初にペトログラードに戻った二人の指導的ホリシェヴィキであるカーメネフとスターリンにも分かち持たれていた。これにたいして、開口一番、レーニンは即時に講和を結び、即時に農民が土地を奪取し、一切の権力をただちにソヴェトに移行することを要求した。まもなくして、彼は、ソヴェト大会が、憲法制定会議にとってかわるべきだといいだした。

つまり、レーニンは、プロレタリアートへの政権の移転を日程に上せたのである。ソヴェトが自ら権力を握らなければならないとし、具体的には、ソヴェトのなかで、ボリシェヴィキが説得によって指導力を増大していく方針を明らかにしたのである。彼の考えによると、革命はもはや単なるブルジョア革命ではなかったのであり、彼は、1905年のときとはちがって、もはや社会民主労働党が革命的連立政府に参加すべきだとは、考えていなかった。1917年3月に国家権力は新しい階級の手に、つまりブルジョアジーとブルジョア化した地主に移行した。その限りにおいて、ロシアにおけるブルジョア民主主義革命は完了した。それなのに、革命によって成立したイギリス、フランスの支持のもとに戦争を継続しようとするケレンスキーの臨時政府は、なるべく国家機構を改革せずに、旧制度を支持する一味を枢要な地位に温存し、大衆行動の革命的創意と人民による下からの権力奪取をさまたげているとレーニンはみなした。また、臨時政府が旧ツァーリ政府の外交政策と国際的同盟関係にしばられていることも明らかであった。「労働者は新政府を支持すべきでない。この政府が労働者を支持すべきなのだ」と、レーニンはスイスからの手紙の中で述べていた。

 中央集権的権力の概念は大衆にとって暗黙のうちに退けられた。ペトログラードとモスクワでは、ソヴェトが臨時政府の機関におとらないくらいに尊敬されていた。地方労働者ソヴェトや農民ソヴェトがロシア全土で発生した。いくつかの都市や地方は、ソヴェト共和国を名乗っていた。労働者の工場委員会は、自分たちの領域内での排他的な権威を主張した。農民は土地を奪取し、それを自分たちで分配した。また、少なくも一部の地方都市では、ソヴェトが首都の場合よりもいっそうしっかりと確立していて、地方におけるソヴェトの活動範囲は、しばしば首都よりも大きかった。食料の分配がソヴェトの手によって実施されている地方も多く、ソヴェトが生産にたいしてある程度の統制を加えている地方もあった。レーニンは、ロシア革命の独特の特質を「二重構造」とよび、くりかえし、党と大衆の注意を促した。臨時政府、つまりブルジョアジーの政府のそばに、もうひとつの、まだ弱くて生まれたばかりではあるが、疑いもなく真の政府、成長しつつある政府-労働者・兵士代表ソヴェト-が発展している。また、この政府は「革命的な独裁-つまり-中央集権的な国家権力によってつくられた法律に立脚せずに、大衆の直接の創意に根ざした権力である。そして、その点については、臨時政府自体もやはり、法律であるとか、あるいは予め表明された人民の意志などに立脚せずに、力による奪取に立脚する独裁権力であった。

ソヴェトが国家権力を行使した例としては、ペトログラード・ソヴェトの有名な指令第1号(3月14日)がある。それは、軍隊のあらゆる部隊に、将校とほとんど同等の権限のある委員会を選挙することを認めた命令であり、この命令は全国的に実行された。だが、この「第二の政府」は、社会民主労働党とメンシェヴィキの指導下にあるうちは、臨時政府に道義的支持をあたえることによって、臨時政府にはかりしれないほど大きな恩恵を与えていた。4月以降のボリシェヴィキの政策は、ソヴェトが全国家権力をうけつぐべきだということを、ソヴェトに組織されている大多数の労働者に説得することであった。「われわれは少数者による権力の奪取には賛成しない」とレーニンは述べた。また、ソヴェトが権力をとらないうちは、われわれは権力を奪取しようとはしないだろうと述べた。

 平和への要求、つまり残虐で無意味な戦争の恐怖の終結という要求が、他のすべてのものを圧倒した。旅団から中隊に到る大小の軍組織単位で兵士委員会が、選出され、しばしば将校の選挙を要求し、軍当局に挑戦したりしていた。前線にいた軍隊は、厳しい軍事規律の拘束を放擲し、瓦解減少をおこしていた。こういうときであったから、レーニンが有名な「四月テーゼ」において、革命の計画づけの定義をしたとき、彼の診断は、鋭い洞察であっただけでなく、予見的なものでもあった。彼は、権力をブルジョアジーに与えた第一段階から、労働者、貧農に権力を引き渡す第二段階へと移行しつつあるとした。臨時政府とソヴェトとは、同盟者ではなく、別個の階級を代表する敵対者なのである。目指すべき目標は、議会制共和国ではなく、「下から成長してくる全土の労働者、雇農、農民代表ソヴェトの共和国」なのである。たしかに社会主義を直ちに導入することはできないが、第一段階としてソヴェトは、「社会的生産と分配」を統制すべきである。波乱にみちた1917年の夏の間中に、レーニンのこのプログラムは、徐々に党支持者を結束させていった。

「平和とパンと土地」及び「すべての権力をソヴェトへ」というレーニンのよびかけは、はじめは、党内の一部のものの反対を受け、レーニンは政敵から「ドイツのスパイ」と罵られた。だが、ボリシェヴィキが自分の主張の要点を「辛抱強く説明」するにつれて、それが大衆の気持ちに合致していることがますます明白になった。5月には、クロンシュタット・ソヴェト(その三分の一以上がボリシェヴィキであった)が、「クロンシュタットにおける唯一の権力は、労働者兵士代表ソヴェトである」という決議をして、世間を騒がせた。6月までにボリシェヴィキは、モスクワ・ソヴェトの最大の多数党になった。ペトログラード・ソヴェトの労働者部でも、ボリシェヴィキが多数をしめた。全ロシア・ソヴェト大会が6月に開かれたとき、800名以上の代議員のうち、エス・エルは285名を数え、メンシェヴィキは248名で、ボリシェヴィキに属するものはわずか105名に過ぎなかった。レーニンが挑戦に応えて、ソヴェトには、「政治権力を握る用意のある党がある。それはボリシェヴィキだ」といってのけて、嘲笑をかったのはこのときのことであった。全ロシア・ソヴェトが7月16日と17日に、ペトログラードにおける約50万人の労働者と兵士の一連の自然発生的なデモンストレーションがおこり、デモ隊は、ソヴェト中央執行委員会が最高権力をとるべきだと主張した。

この大規模なデモンストレーションを見て驚いたのは、臨時政府だけでなく、ボリシェヴィキも驚いた。そこで、彼らはデモンストレーションが、武装蜂起に転化するのを極力阻止した。というのは、彼らは首都以外の地方では、まだ、権力を維持できるほどの力を持っていないと考えていたからである。ソヴェトのなかで、多数をしめていた党の指導者は、自分に投げあたえられた全権力を受けとらなかった。

しかし、臨時政府の威信と権威が衰徴するにつれて、工場と軍におけるボリシェヴィキの影響力が急速に強まった。そして、7月には臨時政府は、彼らにたいして軍内部の破壊宣伝とドイツ側のスパイ行為のかどで、弾圧策をとることを決定した。革命が平和的に進められる可能性は失われた。政府は、ボリシェヴィキはもちろん、ペトログラード及び前線におけるボリシェヴィキの最も積極的な支持者をも、無理やりに弾圧して武装解除した。『プラウダ』は散々に打ち壊されて、再刊を禁止され、ボリシェヴィキがドイツに結びついているという主張する偽造文書が出版された。レーニンはこのとき、ペトログラードの西の郊外のラーズリフ湖畔に身をかくした。その閑寂な湖畔にはいまも一軒の柴小屋がある。今やペトログラードでは、地下活動に入った党中央委員会と定期的に連絡をとっていたのである。

新しい政府が組織された。この政府には、まだ、ソヴェトの主要な政党の代表者が入閣していたが、政府は少しもソヴェトに依存していないと主張した。レーニンのみるところでは、「7月事件」によって「二重権力」が終わりになり、ソヴェトの指導者は事実上、降伏したのである。「ロシア革命の平和的発展に関するいっさいの希望は決定的に消えうせた」とレーニンは宣言し、「すべての権力をソヴェトへ」というスローガンを撤回するように主張した。8月になると、レーニンは、ボリシェヴィキが、おそくとも9月か10月に、蜂起によって権力につくだろうと予言した。

 次の2か月間、ボリシェヴィキは非合法の地下政党であった。だが、臨時政府にとっては、それは何の助けにもならなかった。経済危機とインフレーションが続いた。エス・エルとメンシェヴィキは、戦線において7月攻勢を企てたために、戦争政党の烙印をおされた。しかも、攻勢は成功しなかった。ボリシェヴィキはそのおかげで勢力を強化した。

9月になると、軍司令官のコルニーロフ将軍のクーデタが企てられたが、敗北に終わった。このクーデタが敗北したのは、ケレンスキーと彼の政府のおかげではなくて、ペトログラードとその周辺の一般の労働者と兵士の力によるものであって、ボリシェヴィキがソヴェトをとおして、労働者と兵士をコルニーロフにたいする反対行動に立ち上がらせたのである。鉄道労働者は列車をとめ、電信手は通信を止めた。カデットの指導者のミリューコフが次のように述べたとき、彼は情勢を正確に判断したといえる。「しばらくの間は、コルニーロフをえらぶか、レーニンをえらぶかの選択は自由であった。一種の本能に駆られて、大衆は-というのは決定を下したのは大衆だから-レーニンを支持した。」

 コルニーロフからペトログラードを救ったのは、ボリシェヴィキであることをしらないものはなかった。そこで、ボリシェヴィキの権威が非常に高まった。ソヴェトの諸党派が協力したのはこれがはじめてであった。その結果、メンシェヴィキやエス・エル党の内部に、カデットと手を切ってボリシェヴィキと協力することを望む有力な反幹部派があらわれはじめた。ペトログラードとモスクワのソヴェトは、新しい勇気と精力をえたので、コルニーロフと闘うために組織した武装部隊を解散せよというケレンスキーの命令に従わなかった。

 そこで、再び、「二重権力」が出現した。レーニンは、またもや、「ソヴェトへの権力の平和的移転」の可能性を考慮しはじめた。迷った後に、「すべての権力をソヴェトへ」というスローガンを復活させた。あえてソヴェトにたいする叛乱を起こそうとする階級はひとつもないだろうし、コルニーロフ事件の経験にこりた地主と資本家は、ソヴェトの断固たる要求を突きつけられたら、自らの権力を平和的にひきわたすであろうと考えていたのである。ペトログラードとモスクワのソヴェトでボリシェヴィキが多数派になる3週間前に、レーニンは、もし、エス・エルとメンシェヴィキとが、「専らソヴェトにたいしてだけ責任を負う」政府をつくり、地方ソヴェトが全権力を手に入れることに同意するなら、ボリシェヴィキは、エス・エルとメンシェヴィキにたいして好意的中立を守ると提案した。

 だが、エス・エルとメンシェヴィキの指導者は、この提案を無視した。一方、臨時政府は不真面目な最後をとげるまで、その都合主義でお茶をにごしていた。10月に、政府がソヴェトのますます高まる権威に対抗するために召集した「民主協議会」は、連立政府にたいする賛否についても、戦争継続にたいする賛否についても、安定した多数派を生み出すことができなかった。したがって、議会制民主主義の利点を誇示するというねらいは、ほとんど目的を達成しなかった。10月末に開かれた「議会」もまた、どんな施策についても、一貫した多数派をうみだすことができなかった。自由主義制度はもはや力がつきてしまった感があった。

ケレンスキーは、ボリシェヴィキ革命のちょうど前日にも、例によってもう首相の地位をなげだしたくなったが、人から説得されて、国家のために職に止まることにしたということである。10月にレーニンは変装して、ペトログラードに帰り、党中央委員会の会合に出席した。彼の説得により、中央委員会は(ジノーヴィエフとカーメネフの二人だけは反対した)直ちに権力を奪取する準備をすることを決定した。準備は、主に、ペトログラード・ソヴェトの執行委員会が設立した革命軍事委員会によって遂行されたが、この軍事委員会は今やボリシェヴィキの手に握られていた。

 一方、臨時政府の委員たちは、軍隊にたいする影響力をすっかり失っていた。地方都市のなかには、ペトログラードの蜂起以前に、権力が地方ソヴェトの手におちたところも多数あった。なかでも、農村地方では、選挙で選ばれた地方会議に権力が実際に移っていた。農民は、社会革命党が閣内で強く主張したにもかかわらず、土地を農民にあたえようとしなかった政府にたいして、叛乱をおこした。革命の前日に、エス・エルの指導者は一方では、ボリシェヴィキの悪口をいいながら、「今日まで全然満たされなかった大衆的な要求がたくさんある」ことを認め、その一例として、平和と土地と軍隊の民主化に関する問題を取り上げた。

 10月24日の午後11時にレーニンは、蜂起の指揮をとるために郊外の隠れ家をでた。彼は、ペトログラードの中心地へ向かう電車に乗って、婦人車掌と雑談をはじめた。車掌は彼の質問を聞いて、途方もなく馬鹿げた質問だとおもった。「いま、まさに革命がおころうとしているのに、もしあなたがそのことをぜんぜん知らないとすれば、あなたはいったい何という労働者です?」と彼女は叫んだ。「われわれはまさにボスをけとばそうとしているのですよ」と。

 工場労働者を主力とした赤衛隊が、市の中心部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血の蜂起であった。臨時政府を最後まで防衛したのは、士官学校の生徒だけであった。臨時政府は、ほとんど無抵抗のうちに崩壊した。数名の大臣が逮捕され、首相のケレンスキーは国外に亡命した。このような情報は、政府の上層部にも達していた。その翌朝、ケレンスキーの副官は、電話で軍司令部に次のように知らせた。「臨時政府は、たったいま動員を完了して、まだ軍事行動を開始するにいたらない敵の首都のなかにあるようなものだ、と人々は感じています」と言った。彼は正しかった。

この蜂起は、第二回全ロシア労働者・兵士代表ソヴェト大会と、同じ時間帯にするように計画されており、その日の夜にこの大会は開催された。今回は、ボリシェヴィキが全代議員649名中399名という多数を得て、議事進行を図った。大会は臨時政府の解散と権力のソヴェトへの移行を宣言し、満場一致で三つの主要な布告を採択した。そのうちの、最初の二つは、レーニンによって提出されたものであった。第一の布告は、「労働者・農民の政府」の名において、すべての交戦国の国民と政府に対し、無併合・無償金の「公正かつ民主的平和」のための交渉に入ることを提議し、特に、「人類のうちの最も先進的な三国家」(イギリス、フランス、ドイツ)の「階級意識に目覚めた労働者たち」にたいして、戦争終結を促すよう訴えかけていた。第二の、土地に関する布告は、エス・エル作成の文案を含むものであったが、それは「社会化された農業」という、ボリシェヴィキの長年の理論よりも、むしろ農民のプチブル的願望に応えたものであった。地主の土地所有は、無償で廃棄された。「普通の農民とコサック」の土地だけが没収をまぬがれた。私的土地所有は、永久に廃止された。土地所有権は、自分自身の労働によって土地を耕作したいと願うロシア国家の全市民に与えられた。土地の売買、賃貸及び賃労働の雇用は禁止された。これは、自分の土地を自分自身と家族の労働で耕し、主として自分たちの欲求を満たしている小独立農民の憲章であった。土地と民主化の最終的決着は、来るべき憲法制定会議まで保留された。第三の布告は、この会議の議長をつとめたカーメネフによって提案されたが、それは、憲法制定会議の開催まで、全ロシア・ソヴェト大会とその執行委員会との権威のもとに、国を統治するための臨時労農政府として、人民委員会を設立するものであった。

 これらの宣言は、いくつかの顕著な特徴を備えていた。後で振り返ってみて不思議なことであったが、憲法制定会議の権威にたいして敬意を表する態度が、異論なく受け入れられていた。2月から10月の間、臨時政府もソヴェトも、新憲法を起草するための伝統的な民主的手続きである憲法制定会議を要求していた。そして、11月12日が選挙の日と決定された。そして、レーニンもその選挙をあえて取り消そうとは望まなかった。あるいは、取り消せるほど自分が強力であるとは思わなかった。選挙民が圧倒的に農村的であったことから予想されたように、投票の結果、絶対多数がエス・エルのものとなり、520議席中、267議席を占めた。ボリシェヴィキは161議席を得、残りは多数のグループからなっていた。1918年1月に議員が集まったとき、労農政府はペトログラードに確固としてうちたてられており、2か月前の農村地帯の混乱した気分を代表するような団体のために、この労農政府が退位するなどとは考えられなかった。この会議は多くのとりとめのない熱弁を拝聴して、その夜遅く閉会した。そして、政府は、この会議の再開を実力で阻止した。これは、決定的瞬間であった。革命は、ブルジョア民主主義の慣習に背をむけたのである。

その当日とその翌日のうちに、「二重権力」は終わりをつげ、ペトログラード・ソヴェトの軍事革命委員会が、馬鹿馬鹿しいほどたやすく、権力を引き継いだ。ひとにぎりのカデットと婦人部隊が、抵抗しただけであった。本格的な軍事的事件としては、ただ、巡洋艦『フヴローラ』号がネヴァ河をさかのぼって、臨時政府の避難していた冬宮を砲撃したことだけであった。たった三発の砲弾が宮殿に落下しただけであった。その間、電車は走っていたし、映画館は人でいっぱいであったし、シャリャピンはいつものように聴衆のまえで歌っていた。11月7日の夕方の7時25分に、ロイター通信の記者は、「現在までにわずか2名の死傷者があっただけである」と打電した。(2月革命のときには1,400人以上の死傷者があった。)

 その日の事件がはじまってまだ間もないうちに、ケレンスキーは星条旗を掲げた自転車にのって首都を立ち去った。ケレンスキーに道であった人が、彼に気がつくと、彼は「いつものように、いくぶんさりげなく、軽い微笑をうかべながら」持ち前の一種独特の口調で、あいさつをかえした。このようにして、自由主義はわずか8か月間ロシアに滞在しただけで、立ち去って行った。歴史にたいする自らの責任とカメラを気にしたのか、外国の資本主義権力の旗によって、自国の人民から保護されながら、優雅に立ち去った。

 今になってみると、破産した、不人気な臨時政府の打倒は避けられなかったことは、まったく自明であった。レーニンはこのことを十分確信していたので、革命のほぼ1か月前に『ボリシェヴィキは国家権力を維持するか?』という題のパンフレットを出版した。だが、その1か月間に、レーニンは自分の党の中央委員会にこのことを納得させるために、フィンランドの隠れ家から、激しい闘争を行った。彼は辞表を提出して(10月12日)下部党員に訴えるといっておどかすことによって、ついに自説を押し通した。その後も彼は権力の奪取にただちにとりかかるべきだということをますます強く主張する手紙を、あいついで書いている。

 10月14日にスターリンを頭首とする小グループが、蜂起計画の軍事面を指揮するために指名された。だが、党の指導部はその後もまだぐらぐらしていた。その翌日、レーニンはいよいよ激昂して『同志諸君への手紙』をかいて、次のように宣言した。「憲法制定会議をまっていては、飢餓の問題もペトログラードの明け渡しの問題も、解決できない……飢餓はまっていないだろう。農民一揆もまっていなかった。戦争もまっていないだろう……われわれボリシェヴィキが、憲法制定会議の招集に忠実なことを宣言すれば、飢餓がまってくれるとでもおもうのか?」。中央委員のなかで、年来の公約である憲法会議をまつことにしようといったのは、ジノヴィエフとカーメネフであった。彼らは10月31日の新聞紙上に、武装蜂起計画をみとめないという意見を公表して、暗黙のうちにボリシェヴィキの計画を裏切り、レーニンを極度に憤激させた。だが、こういう申し分ないほどの確かなすじから、1週間も前にはっきりとした警告をうけたにもかかわらず、臨時政府は自らを守るためにしかるべき準備をすることができなかったのである。 

 レーニンがことを急いだのは、二つの心配が頭にこびりついていたからである。第一の心配は、軍司令官がボリシェヴィキに明け渡すくらいなら、いっそのこと戦線を放棄してペトログラードとバルチック艦隊をドイツに引き渡すかれしれない、という心配であった。ロジェンコのような有名な人まで、この計画を公然と主張していた。ジョン・リードは、モスクワ商業会議所でいっしょにお茶をのんだ人のうち、11名中10名までが、「ボリシェヴィキよりカイゼルの方がましだ」と語ったと報じている。また、カデットのペトログラード支部の書記は、国の経済生活を崩壊させるのは、革命の評判を悪くするための闘争の一部だと語った。

したがって、レーニンとしては、当時、まだ経済・政治権力の枢要な地位を握っていた階級が、自らの階級的利害を愛国心より重んじるかもしれない、と心配する十分な根拠があったのである。レーニンが心配していた第二の点は、農民一揆の高揚が、まったく手におえなくなって、最後にボリシェヴィキが権力をとるところでは、まったくの経済崩壊状態に直面して、真の無政府主義の波が、われわれよりも強力になっているかもしれないということだった。この不安は、レーニンのロシアへの帰国当日から心の奥にひそんでいた。彼が、臨時政府の無力さと優柔不断にそれほど腹を立てたのも、ひとつにはこの不安のためであった。そうなった場合、結局は、19世紀の革命がしばしばそういう経過をたどったように、「秩序」を回復すべき軍事独裁者の勝利におわることを、彼はおそれていたのである。

レーニンが、確乎とした政府と農民大衆にたいする友好関係の必要性をあのようにたえず執拗に主張したのはこのためであり、彼が「ボナパルティスト」的傾向のある将軍たちにたえず監視の目を注いでいたのもこのためである。実際、全く破壊的な、一種の農民的無政府主義が、内戦の間中、ロシアの多くの地方に広まった。

 そして、レーニンにはそれ以上の大きな不安があった。この革命の帰結の段階で、西欧世界に衝突し、恐怖と憤激をかった最初は、連合国が対独戦争において戦況たけなわの折に、ロシアが戦線離脱し、連合軍を見捨てることであった。この許せない裏切りに続いて、すぐさま、旧ロシア政府の債務の支払い拒否や、土地所有者と工場所有者の財産収奪などといった措置がとられたとき、そして、更に、この革命が自らをヨーロッパや世界中を席捲するはずの革命の第一段階であると宣言したとき、それは西欧資本主義社会全体への根本的攻撃としての姿をあらわす可能性があったのである。だが、その脅威は、あまり真剣には受け取られなかった。当初、西欧では、ロシアの革命政権が数日か、あるいは、数週間以上存続できると考えた人は稀であったからである。ボリェヴィキの指導者たちも、もし、資本主義諸国の労働者が自国の政府に抗してたちあがることによって、彼らを援助することがないならば、いつまでも持ちこたえることができるだろうとは信じていなかった。

 この懐疑の念にはそれなりの理由がないわけではなかった。労農政府の法的文書は、ペトログラードや他の二、三の大都市以外にはほとんど拡がっていなかった。ソヴェトのなかでさえ、ボリシェヴィキは、まだ満場一致の支持を確保してはいなかった。また、全ロシア・ソヴェト大会という、唯一の主権的な中央政権が、全土に簇生している地方ソヴェトや工場において、「労働者統制」を執行している工場委員会や、あるいは戦線から故郷へと今や群れをなして帰りつつある数百万の農民たちにとって、どこまで承認されるかということも、全く不確実なことであった。官僚や経営者や技術専門家は、その地位の高低を問わず、ストライキを行い、新政府の仕えることを拒否した。体制の手中にある軍勢は、数千の赤衛隊の核心部分、及び戦争に従事していた旧帝国軍のうち解体をまぬがれた忠実なレット人(ラトヴィア人)狙撃兵部隊からなっていた。革命から2、3週間もたたぬうちに、ソヴェト政権の転覆をはかったコサック軍が、ドン、クバン、ウラルの地域において組織されつつあった。ボリシェヴィキにとって、虚脱化した臨時政府を倒壊させることはそれほどむつかしいとはおもえなかった。自らがそれにとって代わること、今はなきロシア帝国の広大な領土を圧倒する混沌にたいして、有効な統制を確立すること、ボリシェヴィキを解放者とみなした労働者、農民大衆の期待にそうような社会体制をつくること、これが、ほんとうに手ごわい敵であった。

 

29 ソヴェト権力の防衛

 

この日、第三騎兵軍団のクラスノフ将軍の助けを得たケレンスキーは、ペトログラードから45キロのガッチナを占領していた。28日には、ツァールスコエ-セロが占領された。カザーク騎兵を主力とするケレンスキーの部隊は、首都からわずか25キロの地点まで迫ったのだ。モスクワでは、クレムリンが反革命勢力の手におちた。29日には、ペトログラードの市内で、ケレンスキーの首都進撃に呼応する士官学校生徒などの反乱がおこった。10月革命は、その勝利を宣言した直後に、早くも反革命の最初の銃火を浴びたのである。レーニンは、反撃する部隊の動員、カザーク部隊への工作、作戦の指導に、連日、直接携わった。首都の内部からの反乱は数時間で鎮圧された。ケレンスキー軍の外からの攻撃も、結局は失敗に終わり、モスクワでも「5日間の流血の戦闘」を経て、ソヴェト権力が確立された。配下のカザークの寝返りにあったケレンスキーは、水兵に身をやつして、ようやく自分の部隊から逃れることができた。

反革命勢力による最初の武力攻撃を撃退しつつ、翌年の2月までにかけて、ソヴェト政権は全国各地でその支配を確立していった。レーニンは、この急速なソヴェト権力の政治的確立の過程を「輝かしい成功」と呼び、勝利の旗をひるがえす「凱旋行進」になぞらえている。しかし、レーニンは、生まれたばかりのソヴェト政権が、直面している困難は、依然として、巨大な重みをもってその前途に横たわっていることを、瞬時も忘れていなかった。専制と臨時政府の置き土産である経済的崩壊、食糧危機、おくれた農業、無規律と腐敗、戦争は続き、しかも死闘する「二つの強盗グループ」は、そのどちら側も、ソヴェト共和国を敵視しており、衝突は不可避だ。このようななかで、どのようにして国の経済を立て直し、新しい秩序を確立していくのか。

 これらの課題の解決は、決して朽木のようなケレンスキー一派を倒すようなわけにはいかない。1918年1月1日、レーニンは、ドイツ軍からソヴェト共和国を守るために、第一陣として前線へ向かう義勇軍の隊列を見送り、次のように激励の挨拶を送った。「塹壕へ出発しようとする同志諸君は弱いものを助け、動揺分子に確信を与え、諸君自身の模範によって、すべての疲労した人々をはげましたまえ。すでに諸国民は目覚めつつあり、すでに、わが革命の熱烈な呼びかけに耳を傾けている。われわれは、じきにひとりぼっちではなくなるだろう」。

 挨拶を終えてスモーリヌイへの帰途についたレーニンは、暗殺者におそわれた。弾丸が車中のレーニンの頭上をかすめた。プロレタリア国家も、その指導者も、牙をむきだしにした敵対者にその命を狙われていた。

 それから、ボリシェヴィキ指導者たちが、猛烈な活動を展開する時期が始まった。なぜなら、数限りない問題、経済、政治、軍事、外交、行政、文化等々を解決しなければならなかったからである。党と党のあとに続いた大衆は、政権を握った経験を全くもっていなかったし、知識にも欠けていた。レーニンは、何から何まで答えなければならなかった。 夜を徹して、彼は、人民委員会議を司会し、指導していた。彼は代表団を迎え、軍事情勢の経過について刻々通知を受け、「ケレンスキー一派」にたいする作戦の指揮を自らとりさえした。彼の伝記作家は、非常に危険な状況のなかにあっても、レーニンが平静で、つねに確信にみちていたと述べている。

 農奴制の残存物、地主的土地所有、半封建的階層制度、男女間の不平等、少数諸民族にたいする抑圧、教会の公認の特権的地位等の旧制度の客観的基礎と諸制度が、数日のうちに消滅した。しかし、これら諸制度の社会的、道徳的、心理的ないっさいの結果が消滅したわけではなかった。中世期的過去の大がかりな清掃に着手すると同時に、銀行、鉄道、重工業の国有化が実施された。生産と分配にたいする労働者統制が確立された。このようにして、二つの革命、封建制に向けられた1789年~1793年のフランス革命に照応するブルジョア民主主義革命と、社会的生産関係の社会主義的改造の発端、客観的前提、条件とが二重に遂行されたのである。

のちにレーニンは革命直後の時期のことを次のように述べている。「われわれがどこかの町へ行って、ソヴェト政府を宣言すると、ほんのニ、三日のうちに労働者は10人中9人までがわれわれの側に移った」。その様子は、ジョン・リードが次のように生き生きと書いている。「広大な国のいたるところで、何十万というロシア人たちが、演説者をじっとみつめて、労働者も農民も兵士も水兵もみなが、なんとか理解して自分の態度をきめようと努力し、一生懸命に考えた。そして、とうとう期せずして同じ結論に達した。ロシア革命はそういうふうにしておこったのである」。

 11月の勝利が全く圧倒的な大勝であったことは、敵側の多くの情報によっても確認されている。フランスの軍事使節団長(この将軍は1940年になってもまだ、レーニンはドイツのスパイであって、同時にまたおそらく帝制ロシアの秘密警察からも金をもらっていたと考えていた)は、1918年3月にいろいろな反ボリシェヴィキ政党の指導者とたびたび会見したが、これらの指導者はみな、予め仲間同士で討議したわけでもないのに、例外なしに、ボリシェヴィキを打倒しようとする企ては、すべて空しかったであろうということを認めた。いわゆる『忠義な』ロシア人の99%はブルジョアジーであった、とブルース・ロックハートは述べた。「住民の大多数はボリシェヴィキに共感をいだいていた」と、アイアンサイド将軍は、アルハンゲリスクに1年間いたのち、こういう憂鬱な結論をくだした。ボリシェヴィキ革命直後の6か月間には、反政府的な新聞にたいする大がかりな弾圧も、政敵にたいする暴力の行使もまったくみられなかった。というのはその必要がなかったからである。11月末には死刑の廃止まで行われた。もっとも、レーニンもこれはあまりに非現実的だと考えていた。1918年1月に、最初のレーニンの暗殺陰謀がおこったときも、彼は、この事件を冗談扱いにして、犯人を釈放せよといい張った。テロが始まったのは、もっと後になってからである。それは連合国の軍事干渉の直接の結果であった。 

それは、また、ソヴェト行政機構が無経験のためでもあった。というのは、ソヴェト行政機関は自分の味方と仮面をかぶった敵を見分けるよりどころになるような、十分な記録をもっていなかったし、また、自分の生命以外に失うべきものを何ひとつもっていないこの敵に圧力を加える方法もなかった。

10月革命の結果、権力は、11月7日に開かれた第二回ソヴェト大会の手に入った。この大会においてはボリシェヴィキが、明白な多数派であった。かつて、レーニンは、大衆の要求があれば、ソヴェト大会を、憲法制定会議にきりかえてもよいとほのめかしたことがあった。それは『国家と革命』の重要な仮定であったが、だが、彼はどうしてもこのことを自分の党の全員に納得させることができなかった。臨時政府が、大衆の批判を受けた主な理由の一つは、憲法制定会議を招集しなかったことである。だから、ソヴェト政府は1月18日にこの会議をひらくことを中止しようとはしなかった。

 だが、この会議を開いてみると、憲法制定会議を主権母体としてのソヴェト機構に接木することはできないというレーニンの意見が正しいことがはっきりした。選挙は10月革命と社会革命党の分裂がおこるまえに作成された政党名簿によって、1917年11月に行われた。社会革命党の分裂は下からおこったのであって、候補者名簿の筆頭に名前を列ねていた指導者たちは分裂に反対した。その結果、憲法制定会議においては、エス・エルの右派指導者が多数を占めた。この多数派は、ボリシェヴィキとエス・エル左派とが連合して共同提案した、ソヴェト大会中央執行委員会との合流を拒否した。したがって、事実上、社会革命党右派は、二重権力の復活を提案したわけである。ソヴェト政府はこのようなことはとうていみとめられないと考えていた。政府与党が憲法制定会議から脱退したので、この会議は1月20日に解散した。

 たしかに、ボリシェヴィキの言い分としては、エス・エルが分裂したのだから、憲法制定会議は民意を代表できなくなったという、特別の口実があった。だが、憲法制定会議の解散にたいして全く何の抗議もおこらなかったことから判断すると、ソヴェト政府に入閣していた社会革命党左派の方が、右派の指導者のチェルノフよりも農民の気持ちをよく代表していたことは疑いない。チェルノフはモギレフの軍司令部で、将軍たちと相談したその足で、憲法制定会議に出席したのである。またいろいろな革命政党が何十年ものあいだ、憲法制定会議に希望をかけていたことは事実であるが、はたして全体としての国民もこれとおなじ希望をもっていたかどうかは疑わしい。1917年5月に国会のために作成された情勢報告書では、次のようにはっきりと断定されている。「農民は憲法制定会議のことなど少しも考えていない。その存在を知らない村さえあるし、婦人はことにそうである……農民は憲法制定会議についての自分自身の意見というものを絶対になにももっていない」。11月になれば、事情が変化していたかもしれない。だが、ロシアにはどんな議会主義的伝統もなかったし、また、文盲の農民は、憲法制定会議の支持者の演説よりも、ボリシェヴィキの行動によって、はるかに大きな影響をうけていた。

 憲法制定会議が解散されてから6日後に、フィリップ・プライスは、ペトログラードから『マンチェスター・ガーディアン』にあてて、次のように打電した。「憲法制定会議の解散直後に開かれた第三回ソヴェト大会が、全ロシア人を代表していると考えるのはまちがいであろう。今日では、交戦状態にある二大社会勢力を両方とも含むような集会は存在しえないからである。だが、この会議が今日のロシアの最大の勢力であることを認めないのは、なお一層大きな間違いであろう」。

 

30 憲法制定議会

 

その上、1917年末から1918年の初頭にかけて、誕生まもない革命政権は、憲法制定議会の問題をめぐって、反革命勢力との厳しい対決を迫られた。カデット(立憲民主党)を中心とするロシアのブルジョア勢力は、自分たちが政権の座についていたときには、その招集をできるだけ引き伸ばしていたのに、10月革命によってブルジョア制度に死を宣告されると、必死になって憲法制定議会の招集と防衛に努力しはじめた。臨時政府を構成していた連立各派の議員を合わせれば、まちがいなくボリシェヴィキを圧倒できるし、「議会」の名においてソヴェト権力を否定しさることもできると考えた。また、メンシェヴィキやエス・エル右派も、10月革命をボリシェヴィキによる「クーデタ」とみなし、ソヴェトは勤労者の階級的な闘争機関にすぎず、憲法制定議会のみが「最高権力」たりうると考えていたから、やはり10月革命後の活動の力点は、憲法制定議会におかれた。結局、カデット、メンシェヴィキ、エス・エル右派など、主要な反ボリシェヴィキ勢力は、すべて「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンに結集し、このスローガンのもとで、実際にはソヴェト政権打倒の闘争を進めることになる。

 一方、人民委員会議は、すでに第二回ソヴェト大会で選出された次の日の10月27日、憲法制定議会を指定された期日どおりに招集する政令を公布していた。選挙の日取りは11月12日である。つまり、ソヴェト政権は、ケレンスキー政府が公約していた選挙日と招集日(11月28日)どおりに憲法制定議会を招集する作業にはいったのである。もし、ケレンスキー政府が続いていたら、その招集は、どうなっていたかわからなかった。ここでもソヴェト政権は、『土地についての布告』と同じように、何はともあれ、人民の一致したスローガンであった「憲法制定議会の早期招集」という要求を即刻実現する措置をとったわけである。後からふりかえってみれば奇妙で非論理的にみえることだが、憲法制定会議の権威に対して敬意を表する態度が、異論なく受け入れられていたのである。だが、選挙の結果をみてみると、800を越えるはずの総議席のうち、実際に選出された707議席(得票数にもとづく比例代表制)の内訳は、エス・エルが370、ボリシェヴィキが175、左翼エス・エルが40、カデツトが17、メンシェヴィキ16その他89となっている。農村部に依然として大きな支持基盤をもつエス・エルが、得票、議席ともに絶対多数を獲得し、ボリシェヴィキは、労働者の集中する地域で、エス・エルを凌駕しながらも、全体としては約四分の一の少数にとどまったのである。

 レーニンは、この選挙結果をみて、第一党のエス・エルが選挙後に分裂したことなどをあげ、各ソヴェトによる議員のリコール権を主張した。このレーニンのあげた理由には十分な根拠がある。前にもふれたエス・エル党内の左派は、1917年11月19日にから28日にかけて、その大会を開き、「左翼社会革命党(インタナショナリスト)」と名乗る新党を結成し、エス・エルから完全に分離・独立した。貧しい農民や兵士たちの多くは、同じエス・エルでも、この左翼エス・エルのほうを支持していた。ところが、憲法制定議会選挙で使われた候補者名簿は、10月革命前につくられたものであるため、多くの場合、エス・エルと左翼エス・エルとの区別がつかず、選んだ人の意志とは無関係にエス・エル中央派が多数を占めるようにできあがっていたのである。さらに、人民委員会議は、11月26日、議員の過半数にあたる400名以上が、ペトログラードに到着してから議会を開会するという布告を発し、開会日を延期した。選挙の結果に意気あがるエス・エルなどは、開会予定日だった11月28日、反政府デモを組織し、会場のタヴリーダ宮殿を占拠し、一群の議員が「予備議会」の性格を持つものとして「開会」した。これにたいしてレーニンは、その日のうちに、カデットを「人民の敵の党」と宣言し、その指導者の逮捕を命じた。彼は、ソヴェト政権に敵対する暴動の司令部はカデットであるとして、まずこの党に攻撃を集中したのである。

 カデット議員の逮捕は、左翼エス・エルの抗議を呼び、さらには、カーメネフ、ルイコフ、ミリューチンら、ボリシェヴィキの幹部のあいだからも、レーニンの路線に反対する動きが現われた。レーニンは、12月12日『憲法制定議会についてのテーゼ』を書き、ボリシェヴィキ党内の意見の統一をはかる。彼は、「テーゼ」の冒頭の部分で、憲法制定議会は、ブルジョア共和国では民主主義の最高形態であるが、「ソヴェト共和国」は、議会をもつふつうのブルジョア共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、「社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態」であると述べ、次のように続ける。

 「憲法制定議会の選挙は、勤労大衆の意志を正しく表現しえない条件のもとで行われた。すなわち、今は分裂しているエス・エルが、選挙のときには単一の名簿を提出していたこと、さらに重要なことは、人民の圧倒的多数が、まだ、10月革命の規模と意義を完全に知ることができないうちに選挙が行われたことである」。

10月24日~25日の勝利からはじまった10月革命は、軍隊と農民の全大衆をとらえ、さまざまな組織の古い指導機関を交代、改組させつつあり、被搾取大衆のこの強力な運動は、1917年12月の中ごろのいまでも、まだ終わっていない。ソヴェト権力を考慮にいれない「全権力を憲法制定議会へ」というスローガンは、実際には、ソヴェト権力を除去するための闘争を意味するスローガンにかわっており、社会主義革命をはじめた勤労者の意志と利益に不可避に衝突するものとなった。「この革命の利益が、憲法制定議会の形式的権利に優先するということは、当然である」。憲法制定議会の選挙と、勤労者の意志と利益との対立から生じた危機は、憲法制定議会が、ソヴェト権力、ソヴェト革命、その全政策を無条件で承認し、反革命と闘う陣営に決然と参加するときのみ、苦痛のない仕方で解決されるであろう。

 10月革命の全成果を、断固として守り抜く決意にみちたこのレーニンの「テーゼ」は、憲法制定議会ボリシェヴィキ議員団の集会で、満場一致で採択された。その後、議会へつきつける勤労者の「意志と利益」は、レーニンの起草した「勤労被搾取人民の権利の宣言」という形で定式化された。

 この宣言の第一項の(一)には、「ロシアを、労働者-兵士-農民代表ソヴェト共和国と宣言する。中央および地方におけるすべての権力は、ソヴェトに帰属する」としるされており、続いて、「あらゆる国に社会主義的社会組織と社会主義の勝利をうちたてることを基本的任務として」、土地の私有の廃止、労働者統制と最高国民経済会議、銀行の国有化、全般的労働義務制、勤労者の武装と社会主義的赤軍の編成、秘密条約の破棄と民主主義的講和など、ソヴェト権力の手によって実施されている諸施策を憲法制定議会の名において宣言し、最後に、憲法制定議会は、自己の任務を、ソヴェト権力と人民委員会議の法令を支持して、「ソヴェト共和国連邦の根本原則をうちたてること」に限定することがしるされている。1月3日、ソヴェト中央執行委員会は、討議を経た宣言の成案を全員一致で採択した。

 その2日後、1918年1月5日、憲法制定議会が開かれた。この日、開会に先立って、「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンが掲げたデモが組織され、「ソヴェト権力万歳!」と叫ぶ労働者のデモとぶつかり、武力衝突がおこっていた。午後4時ごろ、シヴェツオフ(エス・エル)をおしのけて、議会の開会を宣したスヴェルドロフは、つづいて「勤労被搾取人民の権利の書」を読み上げた。議長の選出にはいる。ボリシェヴィキは、左翼エス・エルの指導者スピリドーノヴァを、左翼エス・エルとともに推した。エス・エルからは、チャルノーフが推される。244対151でチャルノーフが議長に決まった。チャルノーフ、ツェレテリらが、各派を代表して演説する。レーニンは発言しない。かれは演壇の階段にすわり、嘲笑をうかべ、からかい、何事かを書き留める。レーニンは「『友よ、私は一日をむだにすごした』……あいかわらず資本家との強調政策をもとにした、甘ったるい空文句、肌触りのよい、まったく空疎な大言壮語、空約束の連発の世界……クヴリーダ宮の優雅な部屋のなかの重苦しい、退屈な、手持ちぶさたの一日……」と書きとめている。

 ホリシェヴィキは「勤労被搾取人民の権利の宣言」の審議が多数によって拒否されると、退場して議員団の声明を出し、そのまま議会から脱退した。いったん議場に戻った左翼エス・エルも、講和締結問題の討議が拒否されると、同様に議会を見捨てた。残った議員たちは、6日の明け方の4時すぎまで討議を続けていたが、一水兵の「衛兵が疲れた」からという希望で閉会した。その深夜、ソヴェト中央執行委員会は、レーニンの提案にもとづいて、「憲法制定議会の解散についての布告」を採択した。その席上で、レーニンは次のように述べている。「人民は憲法制定議会を招集することを望んだ。そこで、われわれはそれを招集したのである。だが、人民は、この悪名高い憲法制定議会がどんなものであるかを、じきに感じ取った。そして、今も、われわれは、人民の意志-全権力をソヴェトへという意志-を執行したのである。人民の権力を認めなかった憲法制定会議は、ソヴェト権力の意志によって解散される」。「議会」はたった1日で消滅せられたが、民衆からの反撃はみられなかった。政府はこの会議の再開を実力で阻止した。これは決定的瞬間であった。革命は、ブルジョア民主主義の慣習に背を向けたのである。

 1月10日、同じタヴリーダ宮殿で、第三回全ロシア労働者-兵士代表ソヴェト大会が開かれた。一方、13日にはスモーリヌイで第三回全ロシア農民代表ソヴェト大会が開かれたが、その席上、両ソヴェト大会の合同を求めるスヴェルドロフの提案がとおり、農民代表はタヴリーダ宮に合流した。

 

31 ブレスト=リトヴスク講和条約

 

 こうして、第三回大会は全ロシア労働者-兵士-農民代表ソヴェト大会となり、新しい労農国家の最高機関にふさわしい構成となった。出席していた代議員数は、大会最終日の18日で1,587人、大会代議員の選出基準は、2万5千人につき、1人の割合だったから、その基準にてらして試算すると、大会はおおよそ3,967万人の労働者、兵士、農民の意志を代表していたことになる。ちなみに、この数字は、憲法制定議会選挙の総投票数約4,168万票にくらべても、その5%弱にあたる200万ほど少ないだけである。

 大会は、12日、憲法制定議会がその審議を拒否した「勤労被搾取人民の権利の宣言」を圧倒的多数で承認し、さらに最終日の18日、倍加していた代議員によってそれを再確認した。大会は、人民委員会議の内外政策を承認し、また、これまでの布告に含まれる憲法制定議会への言及箇所を、すべて除去することを決定した。憲法制定議会は、その痕跡にいたるまですっかり取り除かれ、ここに一本化したソヴェトにもとづく、新しい国家制度の原型が築かれるにいたった。

ロシア・ソヴェト共和国として領土の名を与えた最初の立憲的法令は、この大会によって発せられた「勤労(被搾取)人民の権利の宣言」であり、この宣言は、フランス革命によって発せられた「人と市民の権利の宣言」のボリシェヴィキ版とでもいうものだった。これは、ロシアが、労働者、兵士、農民代表ソヴェト共和国であることを宣言し、更に、「ロシア・ソヴェト共和国はソヴェト諸民族共和国の連邦として、自由な諸民族の自由な連合の基礎の上に築かれる」と述べていた。この文書の言葉使いからは、革命体制が国際主義的意図を保持していることがうかがえる。革命は本質的に国際的なものであって、敵対諸列強間の戦争を階級戦争にとってかえることを含意している。しかも、世界革命の推進は、また、闘争中のソヴェト体制にとって第一級の必要条件であった。それは、陣営を整えた帝国主義諸国と対峙している中で、ボリシェヴィキの手にある唯一の武器であった。また、この主要交戦諸国における革命なしには、この体制が存続できるとは考えられなかったのである。ところが、レーニンの頭の中はちがうことを考えていた。レーニンは1915年から16年にかけて。帝国主義論の作成にとりかかってから、世界革命の展望にたいして、マルクスの命題をかえてしまうテーゼを発表した。彼にとっては、一国におけるプロレタリア革命(社会主義の建設)の可能性を第一義とし、すでに世界革命の理念を放棄していたのである。彼は世界革命を「革命的空文句」と切り捨て、いまや「社会主義祖国」の防衛者になっていた。レーニンは政権を獲得したとたん、「祖国防衛論者」に生まれ変わってしまったのだ。

 

人民委員会議あるいはソヴェト中央執行委員会は、はやくも、1917年中から、次のような布告を発していた。

○ 8時間労働についての布告(1917年10月29日)

○ 生産と分配にたいする労働者統制令(1917年11月14日)

○ 経済計画の立案や全規制機関の活動の調整にたずさわる「最高国民経済会議」の設置に関する布告(1917年12月2日)

○ 銀行の国有化についての布告(1917年12月14日)など、多くの重要な改革に取り組み始めた。その大部分を発案し、原案を書いたのは、いまや国家の指導者となったレーニンだった。

○ 計画化の準備を担当する最高国民経済会議の創設

       工業の国有化令(1918年6月28日)

       「ロシア諸民族の権利宣言」および民族人民委員部の創設(スターリンが人民委員)

       「全ロシア非常委員会」(ジェルジンスキーに指導される)

       赤軍創設に関する法令(1918年1月15日)

       戦争と平和にかんする諸措置

これらのなかで、レーニンは重要な決定を行った。彼は、特に、戦争と平和の問題が、権力獲得以後に、以前とは全く異なった新しい言葉で論じられることになった。戦争の問題について、レーニンは、次のように述べている。

「防衛戦などはおこるまいと考えることはできない。われわれはいやでも防衛戦をおしつけられるかもしれないのである。……われわれは1917年10月25日以後は祖国防衛論者である。われわれは、祖国を擁護する権利を獲得した。……われわれは、社会主義祖国の防衛論者である。……われわれはソヴェト共和国の防衛のためのひとりの人間として起ち上る」。

しかし、彼は、ドイツを中心とする四国同盟(ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア)との平和のための講和をめぐる難題を解決しようと開始した。その第一歩を『平和についての布告』(10月26日)からはじめたソヴェト政権は、「すべての交戦国民と彼らの政府に、公正な民主主義的講和についてただちに商議をはじめること」を提議したはずだった。このいわゆる「民主主義的講和」=無併合、無賠償、民族自決の講和という要求は、一貫してソヴェトの講和方針のたてまえとなってきた。これにたいして、レーニンは、すべての資本の利益と完全に手を切り、秘密条約の公表、廃棄、すべての民族の自由な分離と統合が認められなければならないとした。いま、彼は、資本の支配をすでに断ち切った労農権力の名において、「民主主義的講和」を提議し、臨時政府の確認、締結したすべての秘密条約の公表、資本家と地主に利益を与え併合を認めた条約の即時無効を「布告」する。講和の商議が完了するまでの期間を考慮して、ただちに休戦協定を結ぶこともあわせて提議した。

 11月9日の夜に、軍事行動を停止し、休戦交渉を行うよう、直通電話で総司令部に命令が出された。最高司令官ドゥホニン将軍は、人民委員会議長レーニンの命令に従うことを拒否した。1,200万人にのぼる動員兵が、いかなる態度にでるかということが全く不明な、困難な時期であった。レーニンは無線電信局へいき、特別命令を出して、総司令官を罷免し、前線の兵士たちに向かって直接よびかけた。これは、彼の表現によれば、「未知数への飛躍」であった。そして、成功した。当初、西欧ではロシアの革命政権が数日か、あるいは数週間以上存続できると考えた人は稀であった。ボリシェヴィキの指導者たちでさえ、もし、資本主義諸国の労働者が自国の政府に抗して立ち上がることによって、彼らを援助することがないならば、いつまでも持ちこたえることができるとは信じていなかったのである。

 この懐疑の念には理由があった。労農政府の法的文書は、ペトログラードや他の2、3の大都市以外には、ほとんど拡がっていなかった。ソヴェトのなかでさえ、ボリシェヴィキは、未だ満場一致の支持を確保してはいなかった。自らがそれにとって代わること、今はなきロシア帝国の広大な領土を圧倒する混沌にたいして、有効な統制とヘゲモニーを確立すること、また、ボリシェヴィキを救済者のようにみなした労働者、農民大衆の期待に沿うよう、新しい社会秩序を建設することの方が幾倍も困難であるということを、まだ、誰も知らなかった。

 形式的に世界革命をめざすボリシェヴィキの革命勢力にとって、交戦諸国の政府と交渉をはじめることは、革命のプロパガンダ以外のどのような外交政策もできるものでもなかった。しかし、外部の現実が、すぐに、このような楽天的な展望を雲散霧消させ、闘争中のソヴェト国家も世界の中の一国民国家であるということを思い知らせてくれた。世界革命という言葉が名目上にしか存在しないことを、認識しないわけにはいかなかった。交戦諸国への講和交渉のよびかけに耳をかすものはいなかった。しかし、ドイツとの関係においては何事かはじめなければならなかった。ドイツ軍はロシアの領土深く侵入しており、依然、軍事行動を展開していたからである。

ソヴェト政権の最初の行動は、11月20日からドイツ東部戦線司令部のあるブレスト=リトヴスクでドイツ側と休戦交渉にはいり、12月2日には28日間の休戦協定の調印に成功した。この間、人民委員会議は、イギリス、フランス、アメリカなどの連合諸国に繰り返し交渉への参加を要求したが、連合国側は革命政権の正統性を認めず、これを無視する態度にでていたので、交渉は、ドイツ-オーストリアブロックとソヴェト政府との単独交渉の形で進められた。

12月9日、両者はおなじブレスト=リトヴスクで講和締結の交渉にはいる。交渉の新たな段階を迎えて、ソヴェト代表団の首席は、それまでのヨッウェから外務人民委員のトロツキーにかわった。トロツキーが現地に到着し、ドイツ側との本格的な講和交渉を始めるのは、1917年の暮れもおしつまった12月27日である。

 交渉のなかで示されたドイツ側の講和条件は、侵略的な本性をまるだしにした苛酷なものだった。勝者としてふるまっていた彼らは、ドイツ軍が占領したポーランドと沿バルト地方をロシアから切り取り、捕虜の給養費という名目で、多額の賠償金をとりたてる要求を出した。この露骨な併合をともなう講和が、ソヴェトの一貫してかかげる「民主主義的講和」と真っ向から対立するのであることはいうまでもない。その限りにおいて、この条件で講和を結ぶことは、ソヴェトの原則的立場をゆずり、帝国主義的要求に屈することを意味していた。だが、それを拒否して戦争を続行することも難しい。ソヴェト代表団を率いるトロツキーは、示威的に、外交の伝統的慣行を破り、交戦諸国政府の頭越しに諸国民に訴えかけ、ドイツ軍中に反戦プロパガンダを公然ともち込み、ドイツが西側連合国との交渉では受諾すると称していた「無併合・無償金の講和」の要求をつきつけて、ドイツ代表団を困惑させた。しかし、ドイツの非妥協的な態度とドイツ軍の圧倒的優位は、避けることができないディレンマを生み出した。トロツキーは、帝国主義国との屈辱的条約に調印することを、自らの革命的原則に和解させることができなかった。

 人民委員会議は、すでにロシア軍の動員解除を開始しており、また、長い戦争に疲れ果てて、勝手に塹壕を捨てて故郷へ向かう兵士たちも出てきていた。ただ、大戦の重荷はロシアばかりでなく、ドイツやオーストリアにも重くのしかかり、同じような経済的崩壊と厭戦気分が深まり、政府にたいする大衆的な抗議行動が始まっている。だとすれば、真に革命的な立場は、この国際的なプロレタリアートの闘争へ期待し、連帯して、あくまでもソヴェトの原則的な立場を主張しぬくことなのか? 

交渉が行われていた数日間、ボリシェヴィキ指導者にとって、事態は再び困難となった。総司令部とドイツ政府とが提案した条件は絶望的なものであった。多くの人たち(ブレスト=リトヴスク講和ソヴェト使節団長トロツキーやブハーリンもそのなかに含まれていた)は、これらの条件を拒否し、徹底的な革命戦争を指令すべきであると評価したほどであった。1月5日、トロツキーは、交渉の休止を求め、ペトログラードへもどった。1月8日、ボリシェヴィキは、中央委員会のメンバーに、第三回ソヴェト大会の代議員のメンバーを加えて、この苛酷な講和の問題をめぐる討議を行ったが、その結果、ボリシェヴィキの党内は、三つの意見に分かれていることが明らかになった。一つは、ブハーリンらの「革命戦争」を支持するというグループであり、一つは、トロツキーに代表される戦争もせず講和もしないという意見のグループであり、そして、もう一つは、レーニンの主張で、ドイツの条件を受け入れて講和に調印することを支持するグループである。

レーニンは、革命の基礎を固めるために、これらの条件を受諾すべきであり、たとえ、もっと過酷な条件であっても、受諾すべきであると考えていた。レーニンは、席上、『併合主義的単独講和の即時締結の問題についてのテーゼ』を読み上げ、自分の主張を説明した。その中で彼は、いま選択しうるのは、「この併合を伴う講和を受諾するか、それともただちに革命戦争を行うか」のどちらかであって、そのほかの中間的道はないと述べ、「革命戦争」を主張する論拠を具体的に反論する。現に戦争を続ける力がないときに、不利な講和をむすんだからといって、社会主義を裏切ることにはならないし、いま、立つべき原則は、どうすれば、社会主義革命を強化する可能性、一国内で持ちこたえる可能性を、より確実に保障しうるかということだ。単独講和を結ぶことによって、われわれは、ロシアを経済的に再組織し、強大な赤軍の基盤をつくりだすための、「自由に行動しうる一定の時期」を得ることができる。客観的諸条件を考慮せず、いつともきめられぬドイツ革命をあてにし、いますぐ、革命戦争を行おうとする戦術は冒険でしかない。われわれには、そのような冒険をする権利はない。だが、このレーニンの主張は、わずか四分の一以下の支持しか得られなかった。ブハーリンが32票、トロツキーが16票、レーニンが15票、これが、この会議の結果である。1月11日の中央委員会でも、レーニンは少数派だった。

彼は、ちょうどウィーンで戦争反対のゼネストが進行中だったこともあって、「革命戦争」支持派から、ドイツやオーストリアのプロレタリアートを裏切り、国際的観点を忘れ、革命の全計画を放棄するものだと激しく攻撃された。しかも、ボリシェヴィキの「革命戦争」派の背後には、一致して講和の調印を拒否する左翼エス・エル党の勢力がひかえていた。たとえば、左翼エス・エル党の人民委員シテインベルクは、「この講和の最も悪い点は、その条件ではなく、その精神」にあり、帝国主義の要求の前に革命をひざまずかせようとするものだと述べ、ソヴェト政権の存続を賭けた冒険に反対するレーニンの主張を、「権力の利益のためにすすんで革命の理想を犠牲にする」ものだと攻撃している。

この日のボリシェヴィキ中央委員会は、結局、戦争も講和も行わず、軍隊を復員させるというトロツキーの提案を9対7で可決した。このトロツキーの中間的な道は、レーニンにしてみれば、ドイツがわが戦闘再開にふみきらないあいだだけ、意味をもちうるものにすぎなかった。ドイツ軍が一斉に進撃をはじめたらどうするか、これを懸念していたレーニンは、トロツキーがブレスト=リトヴスクへ引き返す前に、彼と一つの「約束」をかわした。できるだけ調印をひきのばすにしても、ドイツ側が最後通牒を出してきたときには譲歩しようという約束である。

1918年1月28日に、トロツキーは、並みいるドイツ、オーストリアのブロックを前にして、ロシアは戦争から手を引き、動員を全面的に解除するが、講和条約の調印を拒否した。このことは、彼の永久革命論ときわめて論理的に結びついていた。そして、党中央委員会は、レーニンの意に反して、これを承認した。この近代外交史に例をみない衝撃的な閉幕は、いかにもトロツキー好みの誇りに満ちたユニークなものであったが、その判断の底には、ドイツ軍は攻勢にでることはできまいという甘い誤った見通しが含まれていた。2月18日にドイツ軍は全線にわたって攻撃に転じた。数日のうちに、ドイツ軍は、ラトヴィアとエストニアを占領し、ウクライナと白ロシアのかなりの地域を占領した。ソヴェト権力が帝国主義者の砲火のなかで壊滅する脅威が現実的になってきた。

2月17日から18日にかけて、ボリシェヴィキ中央委員会は、講和の締結をめぐる討議をくりかえしていた。レーニンの当初からの一貫した講和調印論は、ドイツ軍の破竹の進撃という新事態のもとで、ようやく過半数の受け入れるところとなり、翌日の2月19日、人民委員会議は、提案された条件で講和に調印する旨をドイツ政府へ連絡した。ドイツ側は、この無線電報に答えぬまま、進撃を続けた。人民委員会議は、全ロシアの勤労者に「社会主義の祖国」に迫る危機を檄し、すでにはじめられていたツァーリ軍隊の残留兵をもって、新しい「赤軍」を創設する措置をとった。

軍事的無力の意識が指導者の心に刻まれた1918年2月23日ブレスト=リトウスク条約より前に、当初、「労働者と農民の赤軍」と呼ばれた赤軍が小さな産声をあげた。この名称は、その国際主義的革命的性格と目標を示すためにつけられた。この軍の創設を宣言した声明は、「社会主義の祖国は危機にあり」というスローガンがしめすように、国民的意識もその誕生に関わった。この赤軍を組織する任務をおびて、トロツキーが軍事人民赤軍の創設の仕事を急いだ。つくられたばかりの赤軍部隊は、2月23日、ドイツ軍と激戦を行い、プスコフ・ナルヴァ間で、ドイツ軍は阻止された。この日は「赤軍創立記念日」として祝われることになった。この名称は、その国際的革命的性格と目標を示すためにつけられたのであったが、この軍の創設を宣言した声明は「社会主義の祖国に危機あり」と題されており、国際主義的意識よりもむしろ、国民的意識のその誕生に関わっていた。この赤軍を組織する任務を帯びてトロツキーが軍事人民委員に任命された。彼は、現実主義者であったから、軍が未熟で未訓練な召集兵によって建設されるなどとは考えなかった。緊急事態への彼の最初の対応は、新規の軍隊を訓練するために、公的には「軍事的専門家」と呼ばれた職業軍人、旧帝国軍将校を徴募することであった。この方法はすばらしい成果を収めた。1919年のはじめまでに、このような将校が3万人徴募された。かろうじて1万の訓練兵を集めた1917年の赤衛隊は、内戦が激烈をきわめるなかで、500万人を数える赤軍へと成長した。トロツキー自身、類稀な軍事的才能を発揮した。だが、彼はまた、絶対服従の要求と軍規違反者の処罰において容赦ないことでも知られていた。

ドイツは22日にソヴェト政府への回答を与えたが、その内容は、先の条件に加えて、ウクライナ、フィンランドからの撤退、60億マルクに達する賠償金など、一層苛酷なものにかわり、しかも48時間の回答猶予期間しかあたえられなかった。ボリシェヴィキ党中央委員会は、革命戦争を継続すべきか?1か月前よりももっと過酷な、強要された条件を受諾すべきか?をめぐって動揺した。23日に開かれたボリシェヴィキ中央委員会で、レーニンは、ただちにこの講和を受け入れることを主張し、もしもこの意見がとおらなければ自分は中央委員会と政府からぬけるとまで極言した。彼は、この講和が不成立となってドイツ軍の進撃がつづけられれば、ソヴェト共和国そのものが地上から消滅する危機ら陥ると確信していたのである。中央委員会は、賛成7、反対4、棄権4をもってレーニンの提案を可決し、続いて次の日、ソヴェト中央執行委員会も、それぞれ116対85対26をもって講和の締結を決定した。

1918年3月3日「ブレスト=リトヴスク講和条約」が調印された。その一週間ほどのち、人民委員会議は、ペトログラードよりも、国境から遠く、全国各地方との連絡もとりやすいモスクワに移転した。

講和の調印にいたるまでの以上のような過程は、レーニンにとってつらい苦しい経験だった。この危急存亡の時機に、左翼はねあがり分子の主張のように、ドイツ帝国主義との妥協を排して、戦争を継続していたならば、まだ、基礎のかたまっていなかったソヴェト政権は、ひとたまりもなく、まず軍事面から崩壊していた。対独平和の問題では、党中央委員会内では、レーニンは、はじめは少数派であった。手に手をとって10月革命を闘いぬいた同志たちの多くが、レーニンに反対した。しかし、もちまえのねばりづよさと客観情勢をするどく見抜く透徹した眼識が最後には大勢を制して、この危機をきりぬけた。ブハーリンが、後年に告白したように、彼らは、場合によってはレーニンを逮捕するという陰謀を実際に企図していたというほど、当時の危機は切迫していた。

ドイツ軍が一斉に攻撃を開始した数日後の2月21日、レーニンは、『革命的空文句について』という論文を書いているが、かれの苦々しい心のうずきがよみとれる。「いま動員解除の真最中である。旧軍隊は存在していない。新しい軍隊は、いまやっと生まれはじめているところである。言葉や大言壮語や叫喚でまどわされたくないものは、1918年2月には革命戦争という「スローガン」がなんの現実的なもの、客観的なものに裏づけられていない、空疎きわまる空文句であることを見ないわけにはいかない。感情、願望、憤慨、憤り、これこそ、いま出されるこのスローガンのただ一つの内容である。ところが、このような内容しかもたないスローガンこそ、革命的空文句と呼ばれるものである」。 

レーニンは、ボリシェヴィキ「左派」と称する党内の「革命戦争」支持派を「こまったものだ」といい、次のように続けている。「そうだ、そうだ、小ブルジョア根性の痕跡の現われの一つは、革命的空文句に陥りやすいことである。これは、古くからの真理であり、あまりにもしばしば新しいものになる。古くからの出来事である……」。

講和の調印をめぐる意見の対立は、調印された後になっても終わらなかった。

3月15日、第四回全ロシア-ソヴェト大会が、ブレスト=リトヴスク講和条約を批准して、レーニンの政策を承認した。ソヴェト大会の決議には、次のような文言があった。「ロシア・ソヴェト連邦共和国は、今後は、一致して侵略戦争を非難するとともに、どんな帝国主義国からのどんな予想されうる攻撃にたいしても、社会主義祖国を擁護することを自分の権利であり義務であるとみなす。……わが国の国防力を再建し高めるために、国の軍事力を再建するために全力をつくすことを、あらゆる勤労大衆の無条件の義務とみなす」。

 

32 即時講和

 

 レーニンは、社会民主主義運動のなかの「日和見主義」を最大の裏切りとみなした。このことが、1917年のロシアへの帰還にあたっての彼の態度を決定した。戦争のさなかにロシアで権力を獲得した社会民主労働党政府は、もし、交戦諸国が全面的講和の提案を拒否したら、どうすればようかということを、レーニンはかねてから、たびたび熟考していた。そして、彼は、断然、その場合には、政府は革命戦争を敢行すべきであるという結論を下した。

 だが、1917年2月にツァーリ帝制が廃止されて、カデットを中心とする政府が政権をとったのは、単なるブルジョア革命にすぎない、とレーニンはみなした。つまり、これによってロシアは他の交戦国政府と同等になっただけで、戦争の性質や西欧資本主義大国にたいするロシアの経済的従属性が、少しでも変化するわけではなかった。ロシアが戦争から抜け出して、外債を破棄しない限り、ボリシェヴイキは臨時政府を支持すべきでないとレーニンは主張した。これは、事実上、ブルジョア革命をプロレタリア革命に「発展させる」ように主張するのと同じことであり、それまでに党がとっていた立場よりも、はるかに急進的な立場であった。二週間ほどの間、激しい批判と反批判が行われたが、最後にレーニンと彼の支持者は、党に自分たちの見解を承認させた。

 革命の蜜月期間にこのような政策をうちだせば、さしあたりボリシェヴィキの人気を高めることにならないということを、レーニンは知っていた。それは一時的には流れに逆行することであって、当時、プレハーノフはレーニンが発狂したのだといったし、また他の多くの人々はレーニンをドイツのスパイだといった。だが、レーニンは彼の見地がロシアの大衆の真の利益に合致していて、それを大衆に説明すれば納得させることができるし、大衆はまもなく新政府の美しい言葉の背後にかくされているものに気づくであろうと信じていた。事実、すでに一般大衆は、ソヴェトをとおして、無併合の講和を要求していた。

「大衆が自分たちは征服を欲しないと叫ぶなら、私は信じる。グチコフとリヴォフが自分たちは征服を欲していないという場合、彼らは嘘をついているのだ。労働者が自分の国を守りたいという場合、それは抑圧された人間の本能の叫びである」。レーニンがあのような指導者になりえたのは、この最後の言葉にみられるようなすばらしい洞察力のひらめきのおかげであった。「辛抱づよく説得せよ」というのが、その後、数週間のレーニンのモットーであった。

 5月に国会のために作成された情勢報告書には、戦争にたいする支持が次第に減退してきていると述べられている。「しばしばつぎのような言葉がきこえる。『秋までまって様子をみることにしよう。そうすれば、われわれは故郷へ帰れるようになるだろう』と。このような気分はわれわれを考えさせる」とこの情勢報告書は悲しげな結論をくだした。一方、ソヴェト政府は、ロシアを同盟国としばりつけることと、関係諸国による領土の併合を規定した秘密条約を公表したり、廃棄したりすることを拒否し、逆に西欧の同盟国にたいして忠誠をちかうメッセージを送って、この幻滅過程を促進した。フィンランド議会は、手におえないほど社会主義者が多数をしめていたので、解散されてしまった。ウクライナの自治要求は拒否された。

 7月になると、ソヴェト政府は、西欧側の要請にこたえて、戦線で大規模な攻撃をおこなった。戦争に疲れはてていた軍隊は、このために破局的な状態におちいった。「たとえレーニンをドイツのスパイと罵る人でも、レーニンがすすめていたのとおなじこと、つまり武器をすてて、ドイツとの講和をむすび、社会主義と地主の収奪について論じることをしたであろう」とフィリップ・プライスは述べた。「ロシアへの門戸が大きくあけはなたれているときに死ぬのは恐ろしいことです。」農民出身の一兵士は「ボリシェヴィキの宣伝」が前線に到達するよりもはるか以前に、前線から自宅への手紙の中でこのように書かれてあった。「平和と土地」というレーニンのスローガンは、農民出身の兵士の中に深くくいいった。部下に戦闘の継続を命じる将校は、軍服をきた地主だといって憎まれた。レーニンが述べたように、兵士たちは「自分の足で」平和に「投票した」のである。ボリシェヴィキが権力を奪取する1週間ほどまえに、ケレンスキー政府の国防相は、戦闘の継続がもはや不可能だと宣言した。この年の暮れにはドイツとの戦争は中止していた。

 したがって、ボリシェヴィキが権力をとったときには、講和をむすぶ以外に、ほとんどやりようがなかったのである。「革命的祖国防衛主義」にたいする理論的な反対は、もはや存在しなかったが、いまとなっては、戦争の継続にあたっての実際上の困難が圧倒的であった。軍隊は瓦解状態にあり、農民出身の兵士は地主所有地の争奪戦に参加するために帰宅を急いでいた。ボリシェヴィキは、ロシアの従属諸民族の分離権を認めると宣言し、秘密条約を廃棄し、すべての交戦国にたいして全面的講和をむすぶように要求した。連合国はソヴェト政府にたいして回答をあたえずに、反ボリシェヴィキ派の軍司令官ドゥホーニン将軍に回答を送った。だが、ドゥホーニンはそれから1日か2日後に免職になった。この回答は拒否の通告で、しかも、もし、ロシアが単独講和を結んだら、きわめて重大な結果が生じるであろうという脅迫がついていた。この直接の結果として、ドゥホーニンが部下の兵士の手で私刑にされた。西欧の同盟国からロシアへの補給品の輸送が打ち切られた。「ロシアの資本家は英仏の資本家と地主に手をさしのべている」とレーニンは1918年8月に述べた。これは彼が22年前にロシアの労働者についていったのと同じ文句であった。

 新政府の最初の行動の一つは、ドイツ帝国政府と休戦協定を締結し、和平を請うことであった。こういう状態で戦闘を続けることができなかったので、ソヴェト政府としては、もともとドイツとの単独講和を望んではいなかったが、1918年2月、トロツキーをブレスト=リトウスクに送った。ドイツとの講和を結ぶまでの過程は、社会主義「国家」にとって最も重大な試練であった。

代表団を率いるトロツキーは、示威的に、外交の伝統的慣行を放棄し、交戦諸国の頭越しに諸国民に訴えかけ、ドイツ軍中に反戦プロパカンダを公然ともちこみ、ドイツが西側連合国との交渉では受諾すると称していた「無併合・無償金の講和」の要求をつきつけてドイツ代表団を困惑させた。それは、表向きはドイツとの交渉をするためであったが、実際は、このような交渉を公然と行うことによって、すべての交戦国の人民にたいして、自国の政府を打倒して全面的講和をむすぶようによびかけるためであった。トロツキーは、

ドイツに革命が突然に起こるのを期待していたのである。事実、ソヴェト政府が交渉の基礎として発表した条件は、すべての交戦国をすっかり困惑させるような条件であった。たとえば、その中には、領土の無併合と賠償金の支払をおこなわないだけでなく、すべての民族グループの自決をみとめるとかいう要求が、含まれていたのである。その数週間後に報道されたウィルソン大統領の14か条は、実質的には同一の基礎にたっていた。だが、ボリシェヴィキは彼らの条件が、資本主義の枠の中で運営されることを望まなかったし、また、この14か条は後にヴェルサイユ条約の起草者をひどく困らせたものである。

 だが、ブレスト=リトウスクから世界にむけて行われたボリシェヴィキの宣伝は、後になって豊かなみのりをもたらしたとはいうものの、さしあたり、西欧に革命をひきおこすことができなかった。ドイツとの戦争がもし再発したら、物質的援助をあたえてほしいという英米両国あてのアピールには何の回答もなかった。

それどころか、ボリシェヴィキ革命の1か月後に、クレマンソー(当時のフランス首相)は、日本の遠征軍をシベリヤに送ることを支持した。1月には日本の巡洋艦がウラジオカトック湾に侵入した。香港にいたミドルセックス第25大隊の指揮官はいつでもウラジオストックへ向けて進撃できる態勢をととのえるように命ぜられていた。2月末には英国のムルマンスク上陸が始まった。レーニンはロシアが単独講和を結ばなければならないという断を下した。彼は、イギリスとドイツがロシアの犠牲において折り合いをつけることを恐れていた。

レーニンは、トロツキーをはじめとする多くの党指導者の強硬な反対の矢面にたたなければならなかった。彼らは、国内での楽勝に陶酔して、西欧における革命の急速な発展にすべてを賭けるつもりでいたのである。ドイツの非妥協的態度とドイツ軍の圧倒的優位は、されることのできないディレンマを提起していた。トロツキーは帝国主義国との屈辱的条約に調印することを、自分の革命的原則と和解させることができなかった。他方、彼の現実感覚は、ブハーリンや他の「左翼共産主義者」の「革命戦争」再開要求を支持することもできなかった。彼は、「戦争もおこなわず調印もしない」という定式を考案した。

 レーニンはこれにたいして、ロシアにおいてソヴェト共和国を維持することが、党の第一の義務であって、世界革命についての投機的な思惑をもとにして、外交政策をたてるわけにはゆかないとあくまでも主張した。彼は1月末から3月中旬にかけての一連の熱情的な演説のなかで、「防衛戦争論者」のロマンチックな態度を攻撃した。そして、最後には、レーニンは前例のないもっとも不愉快な仕方で、党にこの方針を認めさせた。もし、諸君らが情勢に応じた態度をとる用意がないのなら、もし諸君が腹までぬかるみにつかって匍うのがいやだというのなら、諸君は革命家ではなくて、ただの空論家にすぎないのだ。私がこのことを提案するのは、私がそうしたいからではなくて、それ以外にやりようがないからであり、歴史というものは革命がすべての国で同時に成熟するというような、具合よくはゆかないものだからであるとレーニンは地位を賭して説得した。

 一時、トロツキーはレーニンの指示に反して交渉を決裂させ、ブレスト=リトウスクから引き上げた。そこで、ドイツはトロツキーのこうした外交とはいえないような奇妙なやり方に動ぜず、ただちに進撃を再開しはじめて、数百平方マイルの新しい領土を占領した。だが、これ以上の抵抗をつづけることができないことははっきりしていたので、最後にはトロツキーは、不承不承ながらもレーニンに与して、レーニンの政策が採用されたが、ウクライナやその他の旧ロシア帝国領の広大な地域を含む、レーニン自ら「屈辱的」と認める講和の受諾に賛成投票し、外務人民委員の職を辞した。トロツキーの方針が実施されたおかげで、以前よりいっそう多くの領土を犠牲にしなければならなかった。ブレスト=リトウスク条約によって、ソヴェト共和国は帝制ロシアの領土の四分の一と人口の三分の一と鉄及び石炭の四分の三を失った。

この条約は1918年3月3日に調印され、ドイツの進撃はやんだ。ブレスト=リトウスクの交渉と同時に、イギリス、フランス、アメリカ代表への非公式の接近工作が、ドイツに対抗するための西側援助を得ようとする意図のもとになされた。こういう資本主義政府への交渉の開始は、ブレスト=リトウスク条約に劣らず、革命の国際主義的原則からの堕落だとして、ブハーリンの率いる党中央委員会のうちの無視できない少数派の強い憤激を招いた。こうした交渉についての承認を確保するためには、レーニンの全面的影響が、必要とされたのである。

1919年~1920の冬の白軍の倒壊に続いて短い休息期間がやってきた。そこで、レーニンは有名な、大きな影響を与えたパンフレット『共産主義における「左翼」小児病』を書いた、この本の攻撃の標的は、「原則」の名のもとに「妥協」に抵抗する共産党内のいわゆる左翼反対派であった。レーニンは、特に、ブレスト=リトウスクに対する反対派を念頭においていた。西欧諸国の共産党は議会や労働組合に積極的に参加し、そのような参加につきものの妥協も躊躇してはならないというのである。

「この強盗的な講和の結果」-とレーニンはブルース・ロックハートに語った-ドイツは「東部戦線の兵力をへらさずに逆にふやさなければならないでしょう。ドイツがロシアから大量の補給をえることができるかどうかという点については、ご心配にはおよびません。『消極的抵抗』-この表現はあなたの国から輸入したのだが-は、戦闘力のない軍隊よりも有力な武器です。」彼が正しかったことはのちに明らかになった。 

 「空間をあたえて時をかせぐこと」と、レーニンはこれを呼んだ。「休戦であって講和ではない」と『プラウダ』はのべた(3月30日)。レーニンは条約に署名したが、それを読むことを拒んだ。「もちろん、われわれは条約に違反している」と彼は宣言した。「われわれは30回も40回もこれに違反した」と。しかもこのように述べたのは条約批准の前のことであった。「われわれはこの時機のくるのをまつことによって、社会主義インターナショナルのまえで、身のあかしをたてた」とソヴェト大会中央執行委員会のある兵士代表は述べた。1918年10月に、ドイツ参謀本部は、東部戦線の軍隊の士気がボリシェヴイキの影響でひどく低下したので、この軍隊を西部戦線に移すのは無益だと断じた。その1か月後に、ドイツは西部戦線で決定的な敗北をこうむり、ウクライナから退却しはじめたが、旧ロシア領土内にいたドイツ軍は連合国最高司令官の緊急命令で、ボリシェヴィキと

戦うために、現在地に止まるように命ぜられた。

 そのうちに、レーニンがブレスト=リトウスク条約の締結を主張した時にすでに、心配していた、連合国の干渉がはじまった。西欧の諸政府は、革命に憤慨し、また、連合国が最も危急のときにロシア軍が離脱したことに憤激して行動をおこそうとしていた。政府の威信はぐらついていた。どこから何を見ても、救われる要因がなかった。国内では敵対するロシア「白軍」が国の様々な地点で結集しはじめた。ドイツ軍は、民族主義的ウクライナ傀儡政権との協定によって、ウクライナを占領し続けていた。1918年3月、イギリス軍、続いてフランス軍は、ムルマンスクの北部の港を占領した。表面上は、ドイツの侵入続行に対抗して、当地に積みあげられている軍需物資を守るためということであった。1918年4月、日本政府はウラジオストックを占領して、それに続いて2か月後、アメリカ軍も日本軍を監視するためにウラジオストックに上陸した。7月には、イギリス、フランス、アメリカがアルハンゲリスクを占領した。

そして、ドイツの瓦解、1918年11月11日の休戦は、あらたな局面を拓いた。休戦後2か月間のベルリンにおける革命の初期的状況、2、3か月後のバイエルン及びハンガリーでの革命的蜂起の成功、イギリス、フランス、イタリアにおける散発的な情勢不安は、ボリシェヴィキ指導者たちをして、長らく待ち続けたヨーロッパ革命の機が熟したと信じさせた。しかし、このことは、モスクワに希望と慰めをもらした一方、西欧諸政府の革命政権への恐怖と憎悪を強め、それを根絶しようという決意を一層、堅固にした。ロシアでの軍事行動は、もはや対独戦争の付随的部分だという口実は放棄されざるをえなかった。アルハンゲリスクやシベリアや南部ロシアで反ボリシェヴィキ十字軍に携わるロシア軍にたいして、支援が公然と拡大された。しかし、連合軍は厭戦気分から、もうひとつは労働者政府への大なり小なりおおっぴらな共感のせいで、戦闘続行の意欲が全くなかった1919年4月、オデッサにおけるフランス軍艦での暴動は、この港からの撤退を余儀なくされた。アルハンゲリスクとムルマンスクにおいては、同様の暴動を未然にふせぐため、連合軍は徐々に撤退した。1919年の秋までにはウラジオストックに駐留する日本とアメリカの派遣軍を除いては、いかなる連合軍もロシアの地にとどまっていなかった。

この敗北は、決して西側連合国の敵対的意図を緩和させるものではなく、彼らは、軍を撤退させた代わりに、ボリキェヴィキに敵対している多くの自称ロシア「政府」にたいしてますます軍需品・軍事使節団や口約束をつぎこんだ。こうした諸「政府」の中で最も有望だったのは、旧帝国提督コルチャークの指導の下に形成されたものであった。コルチャークは、広くシベリヤに一種の権力を確立し、ヨーロッパ=ロシアに進軍を開始していた。1929年の夏、連合国の政治家たちはパリ講和会議で、一堂に会し、コルチャーク政権を唯一の正統なロシア政府と認めることをめぐって協議に入ったが、なかなかまとまりがつかなかった。旧帝国将軍デニーキンは、連合国の強力な支援を受けて、南部ロシアを支配し、ウクライナを席巻し、1919年秋にはモスクワの南200マイルの地点にまで到達した。また、もうひとりの将軍のユデニッチは、バルト地方で、ぺトログラードに攻撃をかけるため、白軍を集めていた。しかし、この頃までに赤軍は、装備はよくなかっており、実践能力ある戦闘部隊となっていた。様々な白軍は、彼らの奮闘を調整することもできなければ、彼らが活動している地域の住民の支持を獲得することもできなかった。この年の末までに、彼らは潰走状態にあった。1920年1月、コルチャークはボリシェヴィキに捕らえられ処刑された。同年の春までに、白軍は、抵抗を続ける若干の孤立軍を除けば、いたるところで駆逐され、壊滅させられた。

干渉はただロシアの内戦を再び燃え上がらせただけであった。干渉戦のことはすでに忘れかけているが、ロシアでは記憶されている。ロシアは戦闘と虐殺と飢餓と疫病で百万人の人命を失い、国の経済生活にはかりしれないほどの損害を受けたのである。

 ロシア革命の国際的影響力にたいして、干渉戦がどういう作用を及ぼしたのか。干渉戦は革命を根こそぎにするという本来の目的を達成することはできなかったが、革命が中部ヨーロッパやさらに遠方に広がるのをくいとめたのである。たとえば、1919年の春、ハンガリーのソヴェト政権が存亡をかけて闘っていたとき、ソヴェトの赤軍は、連合国の指揮でシベリアからウラル西部に侵入してきたコルチャックの軍隊とアルハンゲリスクの英軍とが連絡をつける危険に備えるため、東部に釘づけにされていた。コルチャックが最後的に撃破されたときには、ハンガリーのベラ・クン政府は打倒されて、白色テロがはじまっていた。「ロシアの西部国境にある一連の新たな解放された諸国には、はかりしれないほど貴重な休息期間が与えられた」とチャーチルは述べた。

 1919年における事件の経過がもっとちがっていたら、もし中部ヨーロッパの広大な工業資源と技術力がソヴェト共和国同盟の手に入っていたら、1920年代のロシアにとっても、また、ヒットラー出現後の世界にとっても、いかに多くの人類の苦痛と努力が、避けられたかしれない。だが、実際にはそうならないで、ソヴェト軍がハンガリー平原に出現するまでには、もう25年の歳月、しかもバルカンと東欧の大部分の国では頑迷な階級的独裁の25年が必要であった。

 

33 国内戦と干渉戦争

 

しかし、左翼エス・エルは、ブレスト=リトヴスク講和条約を批准に反対し、人民委員会議から自派の全閣僚(7名)を引き上げた。ボリシェヴィキと左翼エス・エルは、5月~6月にボリシェヴィキが推進した貧農委員会の設置など、一連の農業政策、食糧政策でも、一層対立を深めた。左翼エス・エルと「左翼共産主義者」とを結集させた。

1918年5月から6月にかけて、一つの大きな問題が浮かび上がった。それは、食料供給の問題であった。飢餓の脅威がはっきりしてきた。都市と軍隊のために穀物を手にいれねばならなかった。実際には、レーニンの指導のもと、この危機情勢が革命の進展に役立った。穀物の不足は、富農が穀物を貯蔵したり投機していたために生じたものであった。革命の進展は、当然に、富農にたいする闘争を要求した。なぜならば、革命は、民主主義的独裁(封建制と帝国主義的ブルジョアジーにたいする労働者および全体としての農民)から、都市および農村の全ブルジョアジーにたいする、貧農に支持されたプロレタリアートの独裁へと移行するからである。

 労働者戦士たちは、農村へ出かけていき、貧農委員会(6月11日の法令によって創設された)を組織した。富農は穀物を退蔵していた。彼らの穀物と土地は取り上げられた。

政府への反対が、レーニンはこれらの提案を拒否し、はげしい皮肉で対応した。彼らの理由は、人民のまえでは失われている。彼らのヒステリックな叫びは、プロレタリアートの独裁も、富農にたいするプロレタリアートと貧農の同盟をも破壊しないだろうとレーニンは大会で述べている。

7月4日に開かれた第五回全ロシア-ソヴェト大会で、左翼エス・エルは、貧農委員会の設置、富農にたいする闘争の停止を提案した。また、反革命分子の死刑、正規の赤軍の創設などに激しく反対し、あらためて、ブレスト=リトヴスク講和条約の破棄を要求した。かつての有名な女性テロリストであるスピリドーノヴァは、大会の演壇から、「私はこの手に同じ拳銃、同じ爆弾をにぎるだろう」と叫んだ。この言葉は単なるおどしではかなった。ソヴェト大会によって、その要求が否決されると、左翼エス・エルは、7月6日に反乱を起こした。彼らは戦争を煽ろうとして、ドイツ大使ミルバッハを殺害し、それを烽火として、反政府武装闘争に立ち上がった。彼らはあらゆる分野において漸進的に確立されてきた独裁をなんとか強化したにすぎなかった。二千名足らずの狙撃兵を主力としたこの反乱は、短期間のうちに鎮圧されたが、その後も、一部の左翼エス・エル党員は、「地下」活動にはいり、各地で散発的なテロ、反政府暴動を企てていくのである。

レーニンは激しく反撃にでた。「情け容赦なく暴力を一掃しよう……われわれは戦争の一歩手前にある……反革命の道具になっているヒステリックなこれらの憐れむべき冒険を排除しなければならない。」

もしも、ドイツが(大使館守備の口実でドイツ軍兵士のモスクワ派遣を要求していた)戦争を始めるならば、仮借なき革命戦争になり、大衆を動員し、最後の一人になるまで、最後の息の根がとまるまで戦うだろうとした。

しかし、当時、ソヴェト政権に迫る幾層倍も大きな危険は、イギリス、フランス、アメリカ、日本、ドイツのなどの帝国主義諸国による武力干渉と、ロシア内部の反革命勢力による国内戦の開始だった。ソヴェト勢力の内部に大きな傷跡を残して結ばれたブレスト=リトヴスク講和条約による「息つぎ」の期間は、またたくまに過ぎ去ってしまった。この困難な時期のあいだに、ソヴェト大会は、ロシア社会主義ソヴェト共和国連邦の憲法を批准した。すでに連合国の帝国主義者の干渉が始まっていた。早くも3月9日、イギリス陸戦隊はヨーロッパロシアの北岸ムルマンスクに上陸し、つづいてフランスも出兵した。4月初めには、日本軍とイギリス軍がヴラヂヴォストークに上陸した。5~6月には、アメリカ軍もこれらの干渉に加わりはじめた。

そして5月25日頃、チェコスロヴァキア軍団が、シベリア鉄道の全線にわたる大規模な暴動に立ち上がったのを契機にして、本格的な国内戦、干渉戦の幕がきっておとされた。チェコ軍団とは、大戦中にロシア側の捕虜となったオーストリア-ハンガリア軍のチェコスロヴァキア人からなる軍団であり、フランス軍の指揮下で対独戦に参戦させるべく、ロシアのなかで独立の軍団に編成されていたものである。軍団は、装備のよい訓練された約4万の兵士や将校からなっていた。このチェコ軍団の暴動にロシアの武装した反革命勢力が(いわゆる「白衛軍」)が合流し、西シベリア、ウラル、ヴォルガ沿岸地方が占領されていくなかで、各地にいろいろな名を冠した反革命の「政府」がつぎつぎとつくられていった。

連合国などもこの機をとらえて臆面もなく大軍を上陸させ、白衛軍とあい呼応して社会主義政権の圧殺をもくろんだ。日本はこのとき7万をこえる軍隊をシベリアに上陸させ、全軍が撤退をしたのは、実に、1922年6月になってからのことである。ドイツ軍はブレスト講和の条件を無視し、ウクライナ、白ロシアを占領した。こうして1918年の夏には、ソヴェト共和国は、干渉軍、白衛軍にその領土の四分の三を奪われ、おもな食糧、原料、燃料の供給地域から切り離されて、まさに危急存亡の危機にみまわれていた。

レーニンは、チェコ軍団の暴動をつくりだし、背後であやつっているのは、イギリス、フランスの帝国主義者であるとみていた。チェコ軍団にたいして、彼らから莫大な資金が流れている。英仏帝国主義者は、ソヴェトを転覆させ、再びロシアを帝国主義戦争にひきずりこもうとしているのだ。さらに、「前代未聞に激化した飢餓という災厄」のなかで、農村での階級闘争が進展している。ソヴェト側に残っている部分でも、富農の叛乱が続発し、飢餓が蔓延した。富農は、穀物を隠したくわえ、飢餓につけこんで金もうけをし、反革命運動の重要な支柱となっている。飢餓と反革命は手を携えてすすんでいる。レーニンは、事態をこのようにとらえて、「富農の蜂起、チェコスロヴァキア軍団の暴動、ムルマンスクの運動」は「同じ一つの戦争」であり、「帝国主義世界全体の襲撃」であり、「一方には労働者と農民、他方には資本家という二つの戦線」の「最後の決戦」であると訴えた。

さらに、この時期のレーニンは、ロシアの運動がヨーロッパ全体に拡大していき、先進諸国で革命の火蓋が切られるのを、まだ、期待しているとみなされていた。イギリス、イタリア、オーストリアでは大衆的ストライキが起こっており、ドイツでは「敗戦主義」運動が始まっている。「世界革命はさけられない」。「われわれの今の任務は、全世界に積極的に働きかけている社会主義のこの力、社会主義のこのたいまつ、社会主義のこの源を維持し、守り抜き、保持することである。この任務は、諸事件の現状のもとでは軍事的任務である」。レーニンはこのような立場から、強力な赤軍を育てるために努力を集中した。農村では、富農から余剰穀物を没収し、貧農の組織をすすめるために、労働者からなる「食糧徴発隊」が何万人となく派遣された。レーニンは燃えるような闘志をこめて人民によびかける、活路は一つしかない、勝利かそれとも死か!

1918年の夏から秋にかけて、ドイツは崩壊した。

レーニンは、「社会主義祖国は危機に瀕す」という宣言を発した。彼はあらゆる政治活動の中心に「すべてを戦争のために!すべてを戦線のために!すべてを軍隊へ」というスローガンをおいた。ロシアの労働者階級の異常な緊張を維持するために、レーニンは、人民委員会議や党中央委員会を開くかたわら、日に3回も4回も工場で演説した。

 このように、レーニンは、反革命分子、メンシェヴィキ、社会革命党員に対抗しなければならなかったが、その上さらに、彼らの党のボリシェヴィキ党内でも、情勢が変わるごとに、右翼反対派(ブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ)と左翼反対派(トロツキー)からの二重の反対に遭った。前者は、依然としてメンシェヴィキとの政府連合を支持し、したがって、メンシェヴィキやブルジョアジーとの妥協を表明していたが、後者は、世界的な革命戦争の冒険を支持していた。

 長期戦に対処するために赤軍が組織された。義務兵役制が実施され、統帥部の選挙制が廃止され、幹部学校が開設され、軍隊内の政治委員が非常に重視されるようになった。赤軍は、ほかの軍隊とちがった厳格な訓練をうけた、明確な政治的性格をもつ正規軍となった。

 ボリシェヴィキの指導者の暗殺をたくらむテロリストたちは、背後でその機会を狙っていた。1918年8月30日の午前、レーニンは、ペトログラード-チェー-カー(反革命-怠業-投機取締非常委員会)議長のウリツキーが殺されたという知らせを受けた。レーニンは、この日、モスクワの二つの地区で演説をすることになっていた。昼食をともにしたブハーリンは、レーニンの身を気づかって、外出しないようにと説得したが、レーニンは笑って取り合わなかった。二つ目の会場、旧ミヘリソン工場での演説を終えて、彼が自分の自動車に近づいた時、エス・エルの女テロリスト、ドーラ・カプランが彼を狙撃し、二ヵ所に重症を負わせた。弾丸には刻目がつけてあり、毒が塗ってあった。一時は重態に陥った。この事件は、党の内外に衝撃を与えた。動揺が拡がっていった。そして、9月2日ソヴェト中央執行委員会は、労農政府の敵による白色テロには、赤色テロをもって応えることを決議した。

レーニンは死の危険に瀕しながら、レーニンはもちなおした。床のなかでなお活動をつづけた。彼の回復を祈って電報を送ってきたシンビリスク攻撃中の赤軍兵士たちにたいして、レーニンは、「シンビリスク-私の故郷の市-の占領は、私の傷に最も効き目のある包帯である」と応えた。10月16日に、彼は、再び党中央委員会に出席することができた。翌17日には、人民委員会議のその日の議長を務めることができた。しかし、このときレーニンの体内に残された弾丸は、その後、ひそやかに彼の生命を蝕んでいくのである。いったん職務にもどったレーニンだったが、人民委員会議議長の連日の激務はまだ無理なことがわかり、彼は、さらに2~3週間、ゴルキで転地療養することになった。

レーニンが、開始されたドイツ革命の動きを知ったのは、この休養地においてだった。彼は、10月1日、スヴェルドロフへ手紙を書いて、ドイツでの事態に立ち遅れないよう、翌日に、中央執行委員会、モスクワ-ソヴェトなどの合同会議を開き、ドイツ革命についての一連の報告、決議を行うことを指示している。レーニンはその手紙のなかで、次のように呼びかけた。「ドイツの労働者がドイツではじまった革命を推進するのを助けるために、全員命を投げ出そう。結論。(1)穀物の獲得に10倍も多くの努力をはらうこと(われわれのためにも、ドイツの労働者のためにも、予備穀物全部を総ざらいにする)。(2)10倍も多くの人を軍隊に編入すること」。

 これにつづけて、レーニンは、100万の赤軍という従来の目標を、1919年の春までに兵力を300万に増強するという任務を、国とソヴェトに与えた。干渉戦、国内戦の問題を世界的視野のなかでとらえていたレーニンは、ドイツ革命の開始を知ったその瞬間から、たえがたいほどの自国の苦境のなかで、ドイツの労働者へ能う限りの経済的、軍事的援助を準備しようとしたのだ。だが、この任務は、国にとっても労働者階級にとっても、重荷であったが、遂行された。ソヴェト・ロシアは軍営になった。経済生活、社会生活、政治生活、文化生活は、戦争に勝つという、唯一つの目標に集中された。しかしながら、革命(経済的・社会的)は後退していない。大工業の統制と国営化についで、国有化は中工業に、さらに小工業に拡大していった。穀物の専売が実施され、食料品の私的営業は法律で禁止された。全面的労働義務制が実施され、この義務を履行した者だけが食料供給を受ける権利を付与された。ロシアのブルジョアジーは反革命から何ものをも得ないだろう。その反対である。革命を徹底化することによって、反革命に答えよ。これがレーニンの不変の思想であった。彼はいっさいの道案内、一切の操縦機を手中に握り、彼が基本的と考える問題、あるときは食料問題であり、あるときは軍事的戦略の問題であったが、特別に専念した。

 

34 共産主義インターナショナル(コミンテルン)

 

 また、レーニンは、このころ、ドイツに大きな影響力をもつカウツキーが、その論文のなかで、ボリシェヴィキの理論と行動に対する批判を展開したことを重視し、スウェーデン駐在ロシア共和国代表に、なるべく早く、『国家と革命』をドイツ語で出版するように指示している。さらにレーニンは、10月から11月にかけて、その古典的著作のひとつ、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年10月)を執筆した。カウツキーはその著作のなかで、ボリシェヴィキと非ボリシェヴィキとの対立を独裁的方法と民主主義的方法との対立に求め、ソヴェトを国家組織とすることに反対し、ソヴェト政権の諸施策を批判していたが、レーニンは、『国家と革命』のなかで、すでに提出していた理論的主張点をカウツキーの問題提起にそって具体的に展開し、民主主義一般、独裁一般を論ずる誤りを鋭くついて、プロレタリアート独裁、プロレタリア民主主義の一形態としてのソヴェト制度を理論的に擁護した。レーニンはこの著作を11月9日に書き上げたが、その夜ドイツから、革命が勝利して権力がソヴェトの手に移ったというニュースが届いた。

 この上なく苦しい内戦のさなかにあっても、世界革命への展望が生涯のうちで最もあざやかに開かれていたこの時期に、レーニンにとっては最も幸せな日々たりえたのである。

 ドイツ革命の進展のなかで、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグらの率いるスパルタクス団が、「ドイツ共産党」を創設したとき、レーニンは、「共産主義インターナショナルの設立は現実となった。この設立は形式的にはまだ確認していないが、第三インターナショナルは事実上いまでももう存在している」と喜んだ。第一次世界大戦の勃発をきっかけに、第二インターナショナルが実質的に崩壊して以来、レーニンは機会あるごとに新しい第三インターナショナルの創設を主張してきたが、それがここで結実したのである。

10月革命一周年記念に、レーニンは、遂行した活動の総括を行った。工業の労働者統制から労働者管理へ、地主収奪および全農民の土地闘争から、富農にたいする貧農の組織化へ、旧軍隊および赤衛隊から赤軍へ、ソヴェト組織の第一歩からソヴェト憲法へ、これらが達成された成果であった。軍事情勢は破局的状態にあったが、それにもかかわらず、活動の総括は比類なく肯定的であるとレーニンは言う。スローガンや標語は依然として、「勝利か、死か」であった。

 そして、突如として、情勢が逆転したのは、最も悲劇的な時機においてであった。1918年末に、赤軍は連合国に支持されたコルチャック提督にたいして攻撃に転じた。1918年11月13日に、レーニンは、ロシアの全国民あてのメッセージのなかで、「ドイツおよびロシアの革命的プロレタリアの一撃の前に」倒壊したブレスト=リトフスク条約は効力を失ったと発表することができた。赤軍は、ウクライナ、白バルト、バルト沿岸諸国を再占領した。

共産主義インターナショナル(略称「コミンテルン」)第一回大会が、モスクワで開かれたのは1919年3月2~6日のことである。大会には、30か国から52名の代表が参加した。「開会の辞」を述べたレーニンは、その冒頭、リープクネヒトとルクセンブルグを哀悼して全員の起立を求めた。ドイツ共産党を創設したばかりのこのすぐれた二人の社会主義者は、1月、社会民主党の政府と反動的な軍部の弾圧のなかで虐殺されたのである。1919年3月2日、共産主義インターナショナルすなわち「コミンテルン」の創立大会が、ついで、第8回党大会がクレムリンで開かれた。創立大会では、ドイツ革命が社会主義革命へ発展する可能性は失われつつあることを憂慮した。しかし、レーニンは、「プロレタリアートの独裁」という理念が、その実践的形態であるソヴェト制度を通して、全世界に広まりつつあることを述べ、表面上、世界革命の前途にたいする不動の確信を披瀝した。レーニンは、大会の主題となった『ブルジョア民主主義とプロレタリアートの独裁とについてのテーゼと報告』を提案した。その内容は、レーニンが、『国家と革命』、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』のなかで展開してきた主張点を簡潔に定式化したものということができる。大会は一致してレーニンのテーゼを承認した。レーニンはすでに1914年に明確に提起していた課題、日和見主義に征服され「死滅」した、第二インターナショナルにかわる第三インターナショナルの創設という課題は、このようにして実現された。それはまだ、圧倒的に優勢な資本主義世界体制のなかにともされた一条の光にすぎなかったが、やがてこれを母体として、世界各地にマルクス-レーニン主義の党が、各国の共産党が生まれ育っていったことはいうまでもない。

1919年3月の第8回ロシア共産党大会では、レーニンの起草した草案にもとづく新しい綱領を採用した。そして、ふたたび農民問題を提起し、当面の基本的なスローガンを定式化した。それは「中農との協定を達成すること-富農との闘争を一瞬たりとも放棄せず、貧農だけにしっかりと依拠しながら-」であった。

 この時期、困難は中農問題から来ていた。彼らは躊躇逡巡し、動揺していた。富農にたいしてとられた措置が、中農の肝をつぶしていた。さらに、中農がこれらの措置から利益を得、富農の犠牲において彼らの財産をふやしていたので、彼らは富農化しつつあった。この同じ党大会で、左右両翼の反対派がこの問題に懸命になった。右翼反対派(ブハーリン)は、中農に関する一切の個条と、小商品生産から資本主義が再生される危険があるという個条とを、綱領から除外しようと望んでいた。農村プロレタリアート(貧農)との同盟を文字通りに承認する左翼反対派(トロツキー)は、中農を社会主義の建設に引き入れる可能性を否定していた。そこで、軍事情勢ならびに国際情勢が改善されると、政治闘争が一段と激しさをくわえるにいたった。レーニンは幾度も繰り返し、いくつかの問題で闘っていた。

       中農にたいする態度については、強固な同盟という基礎に立つ必要がある。

       「アルテリ」、トーズ、および生産農業共同組合の組織化は説得によっておこなわなければならない。

       中農との関係において、暴力ほど愚かなものはない。

       設備や農業機械の問題が中心的な問題となっている。われわれがあす10万の第一級のトラクターを与え、彼らにガソリンと運転手を供給することができるようになれば、……中農は『共産主義に賛成だ』というであろう」

 同じ大会でレーニンは、再び軍事問題を提起している。「世界ではじめて、自分たちがなんのために闘うかを知っている軍隊が、武装兵力をつくりだされた」これが、レーニンにとっては、赤軍の際立った特質であった。この赤軍は、相手の軍隊よりも、もっとよく訓練された正規軍に組織されなければならなかった。武装人民の理論、労働者軍の理論、隊長を選出する革命軍の理論は、さまざまな事件や情勢に先を越された。数ヶ月間にわたって、特に、党大会において、レーニンは、これらの追い越された思想を持ち続けていた「軍事的反対派」と闘わなければならなかった。

コルチャック提督を「ロシアの最高摂政」と宣言していた連合国と、コルチャック軍が乗るかそるかの反撃に出てきた。あらゆる分野において、鉄の規律と軍事的秩序、革命的秩序が必要であるとレーニンは答えている。屈服する者は、軍法会議にかけて銃殺されるだろう。

 レーニンが、当初、ロシア革命をヨーロッパ革命への単なる序曲としてしか考えていなかったことは事実である。彼のロシア革命の構想は、ヨーロッパ、特に、ドイツのプロレタリア革命との結合を前提にしていた。彼は、社会主義共和国は資本主義の包囲の中にあっても、生き延びるかもしれないが、「もちろん、それは長いことではない」と公言していた。レーニンの永続革命は、単に、一国内の権力の左方への連続的移行のみでなく、世界革命への射程をもつものであった。それは、陣営を整えた帝国主義諸国と対峙している中で、ボリシェヴィズムの手にある唯一の武器であったし、また、この革命なしには、少なくとも主要交戦諸国における革命なしには、この体制が存続しえようとは、ほとんど考えられなかったのである。また、両交戦陣営の間に区別をもうけることもできなかった。いずれの側も、革命が破壊しようとしていた資本主義秩序の旗手であることにかわりはなかった。それゆえ、革命のためのプロパガンダ以外のどんな外交政策の考えも、当初、ボリシェヴィキの考え方になじむものではなかった。初代外務人民委員のトロツキーは、警句風に「私は世界の諸国民に若干の革命声明文を提出し、それから店じまいしよう。」と述べた。

 国際労働運動の分裂は、もはや既成の事実となり、当然、ロシア共産等が革命的左派の指導者となった。1919年3月に第三(共産主義)インターナショナルの創立大会がモスクワでひらかれた。 コミンテルンの発足にともなう、少数派の共産主義者と「改良主義」指導者に忠実であり続ける多数派の労働者たちの間の、西欧諸国での亀裂はいつまでも続いていた。この裂け目は、コミンテルン自身の内部の思いがけない進展によって悪化した。コミンテルンの創設者たちの展望は、真に国際主義的なものであった。彼らは、その指令部がベルリンかパリに移る日を待ち望んでいたのである。しかし、モスクワで1919年3月に起こったことは、各国共産党の単一国際組織への融合ではなく、多数の弱体で未成熟な外国グループを、本質的にロシア的な組織に繫ぐことであった。そして、その財源と主要な原動力は、必然的かつ不可避的にロシアの党とソヴェト政府からきた。これは不合理というわけではなかった。国際革命の推進には、相互に補完しあう二つの局面があった。それは、すべてのマルクス主義者の義務であったが、また、困難な情勢にあったソヴェト体制の兵器庫における重要な防御的義務でもあった。他国での資本家支配の転覆がロシア革命政権にとってその存続の条件だと見られていた。その限りでは、二つの要素の間に相容れないものはなかった。それらは、単一の一貫した統合的な目標の異なる局面であった。しかし、このことは、外国の共産党のコミンテルンへの忠誠は、モスクワが考えているほど義務的な強い基礎を持っていなかったのである。内戦へのイギリスの敵対的な干渉を念頭において、レーニンは、イギリス共産党に対し、「ヘンダーソン一派とスノードン一派がロイド=ジョージとチャーチルを敗北させるのを助ける」ために、労働党と「選挙協定」を締結するよう勧めた。しかし、この勧告は、早期の革命の展望への自信を背景にして、出されたものであった。このパンフレットの戦術的処方箋にみなぎっていたのは、労働者政党の平党員を、彼らの指導者の本性について啓蒙し、指導者にそむいて党を分裂させることが必要だということであった。国際革命がないまま、妥協や戦略のこうした戦術が数年、あるいは数十年継続さけるかもしれないということは、レーニンの計算のなかにはなかった。

1920年4月末、ポーランドのピウスーツキが、ウクライナへ進攻を開始し、5月初めにはキエフを占領した。ソヴェト共和国は再び、内戦時同様の深刻な危機におちいった。 

だが、今度の抵抗は、より迅速で強力であった。6月に赤軍は反撃した。拡がりすぎたポーランド軍の敗北は壊走となり、8月初め、赤軍はポーランド領に進入した。この劇的な出来事は、1920年7月19日に200人以上の代議員を擁して開かれたコミンテルン第二回大会と時を同じくした。代議員のなかには、小さなドイツ共産党(KPD)の代議員のほかに、ドイツ社会民主党(SPD)から戦時に分裂したドイツ独立社会民主党(USPD)の代議員も含まれ、更に、フランス、イタリアの社会党の代議員もいた。これら、三党はコミンテルンへの加入の問題で分裂しており、参考となる情報を求めて大会にやってきたのであった。また、いくつかのイギリス極左派グループからも代議員が来たが、かけらは合流してイギリス共産党(CPGB)となることを決めた。

赤軍の勝利を背景に、討議は自信と興奮に満ちていた。レーニンのパンフレットの指示は忘れられていなかった。労働組合とブルジョア議会で共産主義者が活動すべきことを促した決議が通過し、イギリス共産党は多数決をもって、労働党に加入申請するよう指示がなされた。しかし、優勢な雰囲気は、今や全く違ったものであった。大会は世界の労働者に、「白色ポーランドへのいかなる援助もソヴェト=ロシアへのいかなる干渉も」許容しないと訴えた。

世界革命という言葉は、依然明確な展望のうちにあった。大会の声明文は以下のように宣言した。「共産主義インターナショナルは、ソヴェト=ロシアの大義は、自らの大義であると宣言する。国際プロレタリアートは、ソヴェト=ロシアが、世界ソヴェト共和国連邦の一環となる日まで、刀を鞘におさめることはないであろう」。大会によって作成されたコミンテルンへの加盟「21か条」は、動揺分子を排除し、コミンテルンを第二インターナショナルのような、大幅に分岐した諸党のゆるい連合ではなく、国際プロレタリアートの単一で厳格な規律ある党にすることを狙っていた。世界革命の展望がこれほど明るく、これほど近く見えたことはなかった。

共産主義インターナショナルは、国際的な内戦の気運の中で設立されたため、その加入条件は、主としてレーニンの主張によってきわめて厳格にさだめられていた。この場合、レーニンは、ロシアにボリシェヴィキ党を建設したときに、あのように確乎として貫き通した「少数精鋭」主義を、国際的規模で適用したのであり、社会民主主義の政治・組織原則を完全に打破するように主張した。当時の事情のもとでは、このことは避けられなかったのかもしれない。たとえば、創立後、間もないハンガリー共産党は、1919年に社会民主党と合同したが、革命のきびしい試練にたえられるような安定した組織をうみだすことができなかった。だが、そのために新しい困難が生まれた。なぜなら、西欧諸国の共産党の党員の大部分は、社会民主党の主流の議会主義的政策にはげしく反対した社会主義者であって、彼らは、直接のストライキや革命的行動以外のいっさいのことを、もどかしくおもう傾向があったからである。

 レーニンはすでに1907年に、議会主義にたいするこういう有害な反動を攻撃したが、1920年には第三インターナショナルの中で、新しい共産党のなかの「左翼」共産主義(ドイツ共産党反対派、オランダ共産党反対派など)の組織のあいだに、小児病的な教条主義的な傾向があらわれた。これを批判するために、『共産主義における「左翼」小児病』を書いた。これは第三インターの第2回大会において出席代議員に配布された。

 この文書のなかで、レーニンは、まず、ボリシェヴィキ革命の歴史とどのような闘いをすすめてきたかについて説明している。そして、ボリシェヴィキ成功の一つの基本条件としては、プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律こそが、ブルジョアジーに勝利する基本条件の一つであることをはっきり示した。そして、こういう思想が生まれるには、19世紀全体の約半世紀にわたるロシアの革命思想の彷徨と動揺、誤りと失望の経験が役立ったとし、そこで、それを探求し、追及した結果、ロシアはただ一つの正しい革命理論であるマルクス主義を真の苦しみを通じてたたかいとったことを強調している。

他面では、ボリシェヴィキズムは、党創立以来15年間にわたりさまざまな実践の歴史を経てきた。そのなかで、ボリシェヴィズムはどのような敵と闘って成長し、強くなり、鍛えられたかを問うている。それは、第一に日和見主義との闘争、第二に小ブルジョア的革命性との長年にわたる闘争を指摘し、さらに、第一次世界大戦は、ドイツのカウツキー主義、フランスのロンゲ主義、イギリスの独立労働党などの醜さ、いやらしさ、卑劣さを容赦なく暴露したことを挙げている。

今、共産党内反対派が「左翼小児病」の徴候を示しているが、そこで問題になっているのは、次のような問題である。レーニンはこれらにたいして、ロシアでの体験例を上げて、逐一、説明を試みている。

@    「政治的妥協は絶対にいけないか」という設問には次のように回答している

ボリシェヴィキの歴史全体を通じて、10月革命の前にも後にも、迂回政策、ブルジ

ョア政党をはじめとする他の政党との妥協の例として1908年の「左派」ボリシェヴ

ィキによる議会ボイコットの失敗や、ブレスト講和調印の例を上げている。ブレスト講

和調印は、「左翼共産主義」のおもだった代表者、ラデックとブハーリンが、公然と自

分たちの間違いを認めた。彼らにはブレスト講和は、革命的プロレタリアートの党にと

って原則的にゆるされない、有害な帝国主義者との妥協と思われたのである。だが、当

時の情勢では、どうしてもそうしなければならない妥協だったのである。

 

《力のまさっている敵にうちかつことは、最大の努力をはらってはじめてできることであり、またたとえどんなに小さなものであろうとも、敵のあいだのあらゆる「ひび」を各国のブルジョアジーのあいだの、また個々の国内のブルジョアジーの、いろいろなグループないし種類のあいだの利害対立を、-それからまた、一時的な、動揺的な、もろい、たよりにならぬ、条件的な同盟者でもよいから大衆的同盟者を味方につけるあらゆる可能性を、たとえ、それがどんなに小さなものであっても、かならず、最も綿密に、注意深く、用心深く、じょうずに利用して、はじめてなしとげることができるのである。このことを理解しないものは、マルクス主義と近代の科学的社会主義一般をすこしも理解しないものである。》       『共産主義における「左翼」小児病』 レーニン著 朝野勉訳

 

と説明している。

A    革命家は反動的な労働組合のなかで活動すべきかどうかについては、

 

《労働組合は、プロレタリアがその執権を実現するために不可欠な「共産主義の学校」であり、予備校であり、また国の経済全体にたいする管理を徐々に労働者階級(個々の職業のではない)の手に移し、ついで、勤労者全体の手に移してゆくのに欠くことのできない労働者の連合体であり、また将来も長くそうであろうということを忘れてはならない。…中略…反動的労働運動のなかで活動しないこと、これは、発達の十分でない、すなわちおくれた労働者大衆を反動的指導者たち、ブルジョアジーの手先ども、労働貴族たち、あるいは「ブルジョア化した労働者たち」の影響のもとに残すことである。…中略…共産主義者の任務のすべては-おくれた人たちを説得し、彼らのあいだで活動するすべを知ることであって、頭の中で考えだした子供じみた=「左翼的」スローガンで、彼らと自分たちのあいだに垣をつくることではないのだから。》

『共産主義における「左翼」小児病』 レーニン著 朝野勉訳

 

B ブルジョア議会に参加すべきかについては、1908年、最も反動的な「議会」に参加すべきかどうか、また最も反動的法律にもとづいて設立されていた合法的な労働組合に参加すべきかどうかの問題が起こったときのことを説明している。

ボリシェヴィキは、あらゆる政府反対党に反対し、またメンシェヴィキに反対して、そのボイコットを宣言した。そして、1905年の10月革命が、実際にこれを一掃したのである。当時、ボイコットが正しかったのは、反動的な議会に参加しないことが一般的に正しいからではなくて、大衆的ストライキを政治的ストライキへ、さらに革命的ストライキへ、ついでまた蜂起へと急速に転化させていった客観情勢が正しく評価されたからである。そのうえ、当時の闘争は最初の代議機関の召集をツァーリの手にまかせておくべきか、それともこの召集を古い権力の手からうばいとるようにつとめるべきであるかの点をめぐるものであった。当時と同じような情勢がない場合には、ボイコットも正しいものではなくなるのである。1908年のボイコットは急激に革命の波が高まることも、それが蜂起に移行することも望めなかった。また、改革されたブルジョア君主制という歴史情勢全体からみて、合法的活動と非合法的活動の結合が必要になっていたからである。すべてをボイコットするものではなく、時季を得た柔軟な対応が必要であると述べている。

このようにして、長年の間、ヨーロッパで最も非民主的であった国の市民であるレーニンが、革命的マルクス主義の名において、西欧の左派の指導者にたいして、既存の労働組合のなかで活動すべきだとか、大衆を指導するために-「人民の守護者」として」-いっさいの既成の議会制民主主義の制度を利用すべきだとか、また、ロシアで成功した戦術を真似るだけでなく、ボリシェヴィズムの原則を自分で努力して適用すべきだとかいうことを説明するという、一見、逆説的とも見える事実がみられた。西ヨーロッパに再び革命的マルクス主義が帰ってきたのである。だが、ここには手痛い打撃が待ち構えていた。

 大会が討議をおこなっているあいだにも、ソヴェトの指導者は重要な決定をせまられた。赤軍はポーランド国境でとどまり、ピウスーツキに講和条件を提起すべきであろうか?あるいは、いまやほとんど無敵の進軍を、ワルシャワやポーランドの他の工業中心地までも続行すべきであろうか?レーニンは進軍を支持した。彼は、ポーランドの労働者が赤軍を資本家の轍からの解放者として歓迎し、ポーランドの革命が、ドイツと西欧への道を拓くだろうという期待に幻惑されたのである。

トロツキーとラデックは、彼に反対した。スターリンは、彼らの懐疑を共有していたようであるが、重要な決定の時点には戦線におり、不在であった。反撃を指揮した優秀なトゥハチェフスキーは、進撃を全面的に支持し、赤軍をコミンテルンの軍にしたいと願っていた。大胆と熱狂が勝利した。8月半ばまでに、赤軍は、ワルシャワの手前に配置された。

しかし、ここでこの処置の重大な過誤が直ちに明らかになった。ポーランドの労働者は沸き立たず、ピウスーツキは、ロシアの侵略者にたいする民族的抵抗を訴えて成功した。この直前まで敵に敗北の屈辱を味わわせていた赤軍は、続く数週間に大敗北を喫した。両軍は最終的にはいわゆるカーゾン線(ポーランドの東部の国境線として、連合国からもソヴェト政府からも承認されていた)よりはるか東の地点で停止することになった。ここで、1920年10月12日、休戦協定が調印された。ソヴェト共和国は、革命的楽観主義のために大きな代価を支払った。

 赤軍の威信は、1920年秋、最後の白軍将校ヴラーンゲリによる攻撃を、南ロシアにおいてたやすく退けたことによって、ある程度、回復された。しかし、ポーランドでの敗北は、ソヴェト対西欧世界関係に永く続く反響を及ぼした。この戦闘は、ポーランドの労働者が支配者にたいして反乱をおこし、ロシア軍と協力してワルシャワに革命政府を樹立するであろうとの確信にもとづいてなされたものであった。この期待がはずれたということは、ポーランドの労働者は西欧労働者同様、国際プロレタリア革命の大義に帰依するには、まだあまりにも民族的忠誠心に深く浸透されているということを意味していた。ヨーロッパの他の地域でも、労働者はロシア革命への共感と熱狂を示し続けながら、自国で革命の旗を直ちにあげようという動きはなかった。

10月、ドイツの独立社会民主党はきわどい差でドイツ共産党への合流を決定し、残る党員はドイツ最大の労働者政党であるドイツ社会民主党とともに、ドイツ共産党及びコミンテルンに対する辛らつな感情と憤激を心にいだくことになった。しばらく後、フランス社会党は、有力な反対少数派をのこして、フランス共産党(PCF)となり、イタリア社会党の分裂は小規模なイタリア共産党(PCI)の創設に到った。このようなコミンテルンへの加入追加は、モスクワでは勝利として歓呼で迎えられたが、今や西欧労働運動のいたるところで有力となっているコミンテルンへの不信を強めた。1921年3月のドイツにおける革命的蜂起未遂は不吉な出来事であった。ヨーロッパにおける戦後の革命の波は明らかに引きつつあったのである。

 ポーランドからの軍事的敗北から、もう一つの教訓がひきだされた。赤軍の人員を供給したロシア農民は、故国では、革命の大義を逞しく守ったが、革命を他国に輸出するために戦う気はなかったのである。今や内戦の余波である悲惨と荒廃にたいする反乱を開始した農民は、国際革命の名の下に負わされる苦難に従順ではなかった。1920年~21年の酷しい冬に、中央ロシアの農民の騒擾は、指導者たちの気ぜわしい目を内政問題に集中させ、西欧世界に関するソヴィエトの考え方を知らず知らずのうちに変形させはじめた。

国際革命のビジョンは、内戦という外傷的経験によって、増幅されてきた。しかし、一旦これが克服されると、国際革命の目標は、否認されはしないまでも、より遠い未来に静かに退かされた。安全と安定がこの時期、最も必要であった。

 レーニンはトロツキーとちがって、世界革命にたいして、いつも現実的な態度をとっていた。彼は世界革命を究極の目標とみなし、付随的同盟軍とみなしていたが、世界革命が切迫しているかのような、投機的な思惑にもとづいて戦術問題にたいする態度を変更することを決してゆるさなかった。トロツキーは10月革命直後に、「ロシア革命がもとになって西欧にも革命がおきるか、それとも万国の資本家側が革命を絞殺するか、どちらかだ」と言ったが、レーニンは決してそんなことをいわなかったはずだ。レーニンはこういう黒か白かという絶対的な形で物事を考える習慣をもっていなかった。彼は、近い将来におこることでも、はかりしれないほどさまざまであって、決して予断をゆるさないことを知っていた。だからこそ、彼は、トロツキーがブレスト=リトウスクで逆上したときにも、冷静でいたのである。

 1916年にレーニンは、次のような感想を述べた。「資本主義の発展は国によってきわめて不均等に進む。商品生産体制のもとではこうならざるを得ない。ここからして、社会主義がすべての国で同時に勝利することはできない、という結論が不可避にでてくる」。

「ヨーロッパにおける社会主義革命の経済的前提条件のことを慎重に考えぬいた人ならだれでも、わが国でことははじめるのが、はかりしれないほど容易なのにたいして、ヨーロッパでは、ことを始めるのがはかりしれないほど困難なことを理解しないわけにはゆかないだろう。だが、わが国では、他のどの国よりも革命を続けることがいっそう困難であろう」。彼はいつも、共産主義を力ずくでおしつけることはできないと信じていた。すべての国民が社会主義に到達するであろう。それはさけられないことである。だが、すべての国民がおなじ仕方で社会主義に到達するとは限らないとみなしていた。

 総じて、レーニンは、革命をひとつの歴史的時代とみなしていて、単なるひとつの事件とはみなさなかった。「ひとつの軍隊があるところに整列して『われわれは社会主義を支持する』と宣言し、一方、他の軍隊が別のところに整列して『われわれは帝国主義を支持する』と宣言し、こういうようにして社会革命がおこると想像している人々」をレーニンは嘲笑した。なにか『純粋な』社会革命を期待している人は、いつになってもそんなものにはめぐりあうことはできないだろう。個々の国によって、「採用する民主主義の形態、プロレタリアート独裁の形態、社会生活の各種の側面を改造する速度に、それぞれ特徴がある。社会主義革命をなしとげた大国の隣にある小国では、ブルジョアジーが権力を平和的にひきわたすこともありうるかもしれないのだ。

 すでに、1914年~18年の第一次世界大戦のまえに、第二インターナショナルの内部には、ローザ・ルクセムブルグやクララ・ツェトキンやリープクネヒトのようなグループがあって、このグループは大体ボリシェヴィキと協力して、正式な指導部の「改良主義的議会主義」や「資本主義体制の容認」に批判を加えていた。戦争がはじまると、ほとんどすべての国の社会民主党のなかに、左派が組織された。それは、戦争そのものに反対し、戦争をおこなうために自国の政府と協力した党幹部にたいして反対するためであった。すでに1914年10月に、レーニンは新しいインターナショナルの設立を主張し、戦時中に中立国で左派グループの一連の大会が行われた。10月革命はこのグループにたいして、新しい刺激と新しい目的と新しい指導を与えた。遂に、かれらの希望していた社会主義革命が現実のものになり、擁護し、闘いとるべき具体的な成果、模倣すべき手本が現実に成立したのである。

 したがって、戦争がおわって、主な交戦国の社会民主党が、さすがに少々きまりわるげに第二インターナショナルを再建したときには、もはや昔日の栄光は失われていた。4年間もの間、民族的憎悪をもやしていたのだから、社会主義への不可避な前進であるとか、人間はすべて兄弟であるとかいう楽観的な信念を取り戻すことは困難であった。しかも、いまや、ソヴェト共和国では、労働者国家への移行が現実に行われていて、戦争に疲れ、美しい言葉に幻滅を感じ、具体的な成果を渇望していた大衆に、強く訴えかけた。一部の国、特に、ドイツとハンガリーでは、左翼社会主義者がボリシェヴィキを支持しただけでなく、ボリシェヴィキの手本にならおうとしていた。そこで内戦がおこり、ロシアでメンシェヴィキや社会革命党の主な指導者が白衛軍の側について闘ったのと、ちょうどおなじように、共産主義者の率いる叛乱がおこった国ではどこにおいても、社会民主党の主流派は既成秩序の側に味方した。1917年以来、資本主義世界とその打倒に専念している革命の世界が互いに相容れない矛盾の中で敵対しているという定型的なイメージが、西欧とソヴェト双方に定着しつつあったが、そればかりか、革命の世界にいるはずの社会民主党の中にも亀裂が入ってきた。1918年11月のドイツ軍の倒壊のあと、1919年1月のベルリンの革命の息吹は、資本主義の弔鐘が鳴り、革命の波がモスクワから西方へ広まろうとしていた。ボリシェヴィキの自信に満ちた信念を助長した。レーニンが、1914年以来いだいていた野心の実現に動いたのは、この時であった。その野心とは、戦争の勃発に際して、マルクス主義と国際主義の放棄によって分裂し自壊した、今はなき第二インターナショナルすなわち社会民主主義インターナショナルに代わって、真に革命的な第三インターナショナル、すなわち共産主義インターナショナルを設立しようとしたことだった。これはドイツ社会民主党やメンシェヴィキとの連想によって今では穢れてしまったロシア社会民主労働党という古い党名を、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)という名に代えるという1918年3月の党大会の決定と並行して行われた。

 国際労働運動の分裂はもはや既成の事実になり、当然、ロシア共産党がその革命的左派の指導者となった。1919年3月に第三(共産主義)インターナショナルの創立大会がモスクワで開かれた。19か国の共産党や、それに近い党・グループからの委任状を携えた35名を含む50名以上の共産主義者・同調者が集まった。参加者の出身国の多くは、かつてはロシア帝国の一部であり、今では、ソヴェト共和国と認められている小国-ウクライナ、白ロシア、バルト諸国、アルメニア、グルジア-であった。あたらしく創設されたドイツ共産党は、原則に関わる反対はしないが、インターナショナルの創設はもっと適当な時期に延期させるようにという指示を携えた代表者を送った。西欧からモスクワへの旅は、事実上不可能であった。アメリカ、フランス、スイス、オランダ、スウェーデン、ハンガリーの各グループは、モスクワに居住する同国人に委任状を与えていた。ひとりだけのイギリス代表は、全く委任状を持ってしなかった。ドイツ代表の警告は熱狂的な勢いによって圧倒された。オーストリアの革命的代表の到着が秤を傾けたのだといわれている。

共産主義インターナショナル(コミンテルン)の第一回大会となったこの大会は、1848年の『共産党宣言』以来の資本主義の衰退と、共産主義の前進のあとを辿る宣言(トロツキー起草)を採択した。また、ブルジョア民主主義を退け、プロレタリアート独裁を宣言し、権威のおちた第二インターナショナルを復活させようとする試みを嘲笑するテーゼ(レーニン作成)を採択し、最後に世界の労働者に、ロシアへの軍事介入を止め、ソヴェト政府を承認するよう彼らの政府に圧力をかけるようにと呼びかける時局的アピールを採択した。新生インターナショナルの組織的機関として、大会は執行委員会(IKKI)を選出し、ジノーヴィエフを議長に、ベルリンの刑務所に入っているラデックを書記に指名した。大会終了の数日後にブダペストにおいて、短命なハンガリ=ソヴェト共和国が宣言された。

第三インターは、ロシア革命とヨーロッパ革命の結合を志向しただけではなく、植民地、半植民地諸国の解放闘争との結合を志向し、文字どおり世界革命の戦略を打ち出した。この大会でなされたもっとも重要なことは、共産主義インターナショナルの創立という事実そのものであった。これは、すでにかなり前からすべての国の労働者階級の運動の中に存在していた亀裂に、組織的な形態を与えただけである。だが、各国で直接に社会主義革命のために活動していた共産党が、勝利したロシア共産党から指導と支持を期待するのはさけられないことであった。一方、その反面、「ロシアから手を引け」という運動は、戦争に疲れた西欧諸国の人々がソヴェト政府にたいしていだいていた広汎な共感を結集して、干渉軍にたいするボリシェヴィキの闘争を助けた。「われわれは英仏米から労働者と農民をうばいとった」とレーニンは1919年12月に語った。「これらの国の軍隊はわれわれと闘えないことが明らかになった」。

そして、コミンテルンの創立者は、戦争という同胞あいはむ大虐殺の中を生きてきた西欧諸国の労働者たち、特に、ドイツの労働者たちには、彼らを大虐殺にまきこんだ民族的社会民主党や労働党をすぐさま捨てて、コミンテルンによって宣言された世界労働者の国際的統一に糾合することを望んだ。だが、この期待は実現せず、第二インターナショナルは再興の兆しさえみせたが、そうした不首尾は、誤って導かれた党員を裏切った堕落した不誠実な指導者のせいにされた。しかし、少数派の献身的な共産主義者たちと、「改良主義」指導者に忠実でありつづける多数派の労働者たちのあいだの西欧諸国での亀裂は、いつまでも続き、時を経るにしたがって深まった。レーニン死後のコミンテルンの試金石はナチス・ドイツとの対決だった。1930年の選挙で、ドイツ共産党は前回にくらべて130万票増の460万票を獲得した。だが、ナチスも80万票から640万票へと驚異的な大躍進をとげた。社会民主党は、かつての910万票から後退したとはいえ、1917年のロシアにひきうつしていえば、メンシェヴィキと類似の地位を占めていた。

 

《コミンテルンは、1928年から1932年初めまで、かの社会ファシズム論によって、社会民主主義者に対する攻撃を展開しつづけた。もっとも、30年の選挙では、ドイツ共産党はファシズムを最大の敵と規定して闘ったのであって、社会民主党攻撃だけに集中したわけではなかった。だが、コミンテルン及びドイツ共産党は、ファシズムをあなどっており、ナチスはやがて解体してしまうという確信を抱いていた。従って、コミンテルンとしては、ケレンスキー政府時代における対メンシェヴィキ闘争よろしく、社民党の下部党員をいかにして、自己の元に結集するか、これに腐心した。それが、社会ファシズム論にもとづく主要打撃であり、1932年正月に到るまで、-ちなみにこの年の7月の選挙で、ナチスの得票が社共の合計を超えたのだが-「社会民主党の指導者に対抗し、彼らを排除する場合にのみ統一戦線の結成が許される」という方針の固執とって現れたのである。社民をあと一歩追いつめて労働者階級の間でのヘゲモニーを掌握し、そこでナチスとの決着をつけようというわけである。》      『現代革命論への模索』廣松渉著 

 

これにたいして、トロツキーは、ナチスの危険性を早くから強調した。彼の場合、ロシア革命の経験にひきうつして言えば、ナチスはいうなれば、コルニーロフの反乱軍に相当するものであり、たとえケレンスキー内閣ならざるワイマール政府を支えることになっても、ともあれ労働者の勢力でナチスに打撃を与えなければならなかったのだ。ここにおいてとられるべき戦術は、トロツキーの場合、1917年の経験に立脚したかねてからの持論であり、コミンテルン4回大会に際して彼が文章化したあの統一戦線戦術である。すなわち、当の時点でのドイツにおいては、社民的指導部をも一応含めての統一戦線である。トロツキーは、社会ファシズム論の誤謬と矛盾を批判しているが、おそらく、彼も社会民主党の革命性には一片の幻想もいだいてしないはずだった。統一戦線戦術のもう一つのパターンとなったフランス人民戦線も同様に、ナチス阻止の防波堤にはならなかった。ここでは、コミンテルンとフランス共産党は、大衆をひきつけるためには、人民戦線綱領は、ファシズムと戦争を阻止するために努力している人民の最も基本的な諸要求に限らなければならないとし、まったくの右翼日和見主義的方針を打ち出して破綻した。フランス人民戦線にたいするコミンテルンのこの方針は、いかなる革命路線から出てくるのか。コミンテルンは、しかし、このあと、1935年に第7回大会を開催し、その「左翼的偏向」をきびしく批判しつつ、ディミトロフの「反ファッショ人民統一戦線政策」をうちだし、フランス流の間口の広い方式を採用した。この方針は、何ら新しい世界革命の路線に立脚するものではなく、コミンテルンがスターリン外交の一手段以外の何ものでもないことを公然と宣言したのである。

 

35 「左翼主義小児病」批判

 

1919年の中頃、コルチャック軍はシベリヤで撃退された。革命の後方、ペトログラードにたいするユーデニッツ将軍の急襲は挫折した。労働者と農民あての手紙は、これらの勝利から教訓を引き出している。敗北したコルチャック軍と連合国軍は、最後の試みを企てた。これが、革命にとって最後の試練になった。南部から進出したデニキン軍がモスクワを圧迫しだした。彼は直通電話で各戦線や各司令部と連絡をとったり、作戦計画を検討したり、工場にでかけていって、労働者たちと会談し、彼らに根気よく事態を説明したりしている。

レーニンは、その後もコミンテルンの活動に大きな注意をよせていた。コミンテルンの第二大会は、1920年7月19日から8月7日にかけて開かれた。この大会を、レーニンは慎重に準備した。彼は、この大会において数ヶ国語で演説し、ロシア革命の教訓を学びとるように代表たちに訴えた。レーニンは、ロシア革命が歴史的意義と国際的価値をもっていることをかつてなく高く評価していた。逆に、また、彼は、ブルジョアジーがロシア革命にむかって手を振りあげるやいなや、世界の革命運動が「その手をおさえている」と考えていた。

レーニンはこの大会に向けて、4~5月に有名な『共産主義内の「左翼主義」小児病』という著作を仕上げた。この労作は、ロシア革命を勝利に導いたボリシェヴィキ党の闘争経験に照らしあわせて、当時、イギリスやドイツの党内の、左翼はねあがり分子の言動をいちいち具体的に批判しており、実践活動の指針として貴重な古典というる。コミンテルンの内部に現われた、いわゆる「小ブルジョア革命性」による左翼的偏向を批判し、「マルクス主義の戦略戦術」の基本を説明したものである。レーニンは、この著書の発行が第二回大会に間に合うように印刷の行程にまで気を配ったが、7月には、ドイツ語、フランス語、英語版のものも刷り上り、予定どおり、第二回大会の全代議員に配布された。

レーニンは、プロレタリアートの独裁は、「より強力な敵」であるブルジョアジーとのきびしい闘いであり、国際資本の力、習慣の力、小規模生産の力をふまえたブルジョアジーの、死に物狂いの反抗をうち破るには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が、一つの基本条件であると述べている。ボリシェヴィキ党は、まさにこの「真に鉄のような規律」をもっていた。このような規律は、高い自覚、勤労大衆との結合、政治的指導の正しさという条件がなければ実のあるものとならず、長期にわたる労苦と苦しい経験によって、はじめてつくりあげられる。また、教条ではなく、実践と結びついた正しい革命理論は、これらの条件をつくりあげるのを容易にする。レーニンは、10月革命の勝利までにいたる闘争の歴史を6つの段階に分け、ボリシェヴィキ党の各段階での戦術をあとづけて10月の勝利とその勝利の維持は、長期にわたる周到な準備、豊かな経験の積み重ねのなかから生み出されたものであることを示している。

その上にたって、レーニンは、ボリシェヴィズムは、労働運動の中のどのような敵とたたかって、成長し、強くなってきたのかと設問し、その答えとして、「日和見主義」と「小ブルジョア革命性」という、二つの敵との闘いをあげている。『共産主義内の「左翼主義」小児病』は、特に、このうちの「小ブルジョア革命性」の闘いのほうに焦点をおいていることはいうまでもない。「この小ブルジョア革命性は、いくらか無政府主義に似ているか、または、それからなにかを借りてきたものであり」、資本主義のもとで急速に零落していく「逆上した」小ブルジョア=小所有者の意識を反映している。彼らは、「たやすく極端な革命性に移っていくが、忍耐、組織性、規律、確固さをあらわすこと」ができず、たえず、動揺し、幻想にはしり、「はなはだしくなると、あれこれのブルジョア的な<流行>思想に<熱狂的>に魅せられてしまう性質」を持っている。レーニンが「<左翼>偏向」あるいは「左翼主義小児病」という場合、このような「小ブルジョア革命性」にもとづく方針上の、未熟な左向きの誤りをさしている。ボリシェヴィキの歴史におけるその特徴的な現われとしては、1908年、反動的な「議会」に参加することを頑強に拒否したボリシェヴィキ「左派」の誤り、1918年ブレスト-リトヴスク講和でのドイツとの「妥協」を「原則的にゆるすことのできないもの」とした同じく「左派」の誤りがある。「妥協を<原則的>に否定し、どんなものであろうと、妥協一般をゆるすことをいっさい否定するのは、児戯に類したことであり、まじめに取れあげることもできない。

レーニンは、このようなボリシェヴィキの歴史的な経験の理論化に立脚して、当時、コミンテルンの内部に現われていた「左翼主義小児病」の症状を具体的に指摘し批判していく。たとえば、ドイツ共産党「左派」は、「指導者の党」か「大衆の党」か、「指導者の独裁」か「大衆の独裁」か、というふうに問題をたて、「下からもりあがってくる」闘争に期待する「大衆の党」、「大衆の独裁」のほうをそのスローガンとした。これにたいして、レーニンは、日和見主義的「労働貴族」の裏切りのなかで、「指導者」と「大衆」との背離が生じていることは事実であるとしても、だからといって、「大衆」に「指導者」一般を対置し、「一般に大衆の独裁は指導者の独裁に対立するとまでいうことは、笑うべきナンセンスであり」、党精神と党規律を否定し、プロレタリアートを小ブルジョア的な分散性に陥らせ、団結して整然たる行動をとる能力を失わせるものだと批判する。

また、反動的な労働組合のなかでの活動を不要なものと考え、新しい「労働者同盟」をつくるべきだとする「左派」の意見を取り上げて、レーニンは、どんなに困難でも、「大衆のいる組織」のなかでの根気強い活動こそが必要なのだと力説して「左派」の意見を厳しく批判している。次に、レーニンは、「左派」が議会制度は歴史的にも政治的にも「時代おくれ」となっているとして、「ブルジョア議会」に参加することを否定している点を取り上げる。議会制度は、共産主義者にとって、「時代おくれ」のものになってはいても、ドイツの大衆にとってはまだそうなってはおらず、まだ、議会制度一般に味方している。「ドイツの『左派』が、自分の願望、自分の思想的、政治的態度を、客観的な現実と取り違えたことは明らかである。これは革命家にとって、最も危険な誤りである」。「諸君に、ブルジョア議会やその他の型のどんな反動的な機関でも解散する力がないあいだは、諸君はそういう機関の内部で活動しなければならない」。「われわれは、ロシアであまりにも長い、苦しい血みどろの経験によって、革命的気分だけにもとづいて革命的戦術を打ち立てることはできないという真理を、確信するようになった。戦術はその国家(とそれを取り巻く諸国家と、世界的な規模からみたすべての国家)のすべての階級勢力を冷静に、厳密に、客観的に評価し、また、革命運動の経験を評価して、その評価に基づいて打ち立てられなければならない。議会的日和見主義に悪口を言うだけ、議会に参加することを否定するだけで、自分の『革命精神』を発揮することはあまりにもやさしいが、しかし、あまりにやさしいからこそ、これは、困難な任務の解決にはならないのである」。

左翼的な空理空論をきびしくいましめている『共産主義内の「左翼主義」小児病』は全体として、いかなる政治的立場におかれたとしても、汲めどもつきない貴重な示唆を与えてくれる。

 

36 革命の勝利

 

産まれたばかりのソヴェト-ロシアは、ついに干渉戦、国内戦の試練に耐えぬいた。ソヴェト政権は、いわゆる「戦時共産制」といわれる経済政策のもとで乏しい経済力を前線へ集中し、赤軍を質量ともに強化して、文字通り生死をかけた戦いに死力をつくしてたち向かっていった。外国の領土に攻め込んだ侵略軍が民衆の敵意のなかで孤立することは、今も昔もかわりがない。まして、この武力干渉は、労働者と農民が闘いとったばかりの革命の成果を奪おうとする反革命の攻撃である。結束したロシア人民にささえられる赤軍の士気は高く、一方、干渉軍のなかには、兵士たちの動揺や反抗がおこりはじめた。連合国の内部にも干渉反対の気運が強まった。日本を除く干渉国は、1919年から翌年にかけて、ロシアからの撤兵を余儀なくされ、そして、1920年11月ヴランゲリの率いる白衛軍がクリミヤから一掃されたとき、干渉戦、国内戦での赤軍の勝利は、もはや不動のものになった。

 

《戦争が革命軍の勝利をもって終結したとき、ボリシェヴィキ党の影響は、ロシア中で決定的に固まっていた。だから、ブルジョアジーの猛反撃は、厳格な、はげしいプロレタリアートの独裁の期間に、マルクス主義が定立した諸任務の遂行をいっそう促す羽目になったのである。この独裁は、内戦中には、いっさいの合法性を一時停止して、無制限に作用した。勝利はつぎのような代価を払った。すなわち、非常に中央集権化された国家が設立されたこと、武装された人民、官吏の抑圧、プロレタリア国家の死滅などにかんするマルクス・レーニンの諸命題が放棄されたこと。政治指導者、革命の戦略家、経済学者、科学者、行動家としてのレーニンの影響は、このときから、ロシアの国境をこえて、全世界に拡がっていった。》      『レーニン』 H.ルフェーヴル著 大崎平八郎訳

 

 ルフェーヴルは、革命で獲得したものと喪失したものを天秤にかけるよりほかなかった。レーニンの闘いの勝利は、理念の<変形>でもあったからだ。必要以上の中央集権国家、国家の死滅の放棄、世界革命の放棄など、失ったものは大きかった。だが、その喪失は不可避ではない。もともとレーニンの理念のなかに介在していたのだ。それをある人は実践家とみる場合もあれば、分析家とみえる場合もある。

 この重大な数年間の彼の活動ぶりを目撃していた多くの人たちは、レーニンが問題の全体をつかむ能力をもち、同時にまた、どんな些細なディテールにも関心をもつことのできる、そして全体を再び把握する人であったと描いている。彼は革命的情熱を、事務能力や「能率」感覚と結びつけていた。彼の仕事と時間は厳密に管理されていた。彼が多くの会議や委員会に出席して、議長をつとめ、指導する場合には、会議は正確に定刻どおりに開かれた。仕事は準備されていた。彼は、提案は正確ではっきりしたものでなければならない、質問は簡潔で具体的でなければならないと、報告者や演説者にきびしく要求した。非常に重大な複雑な問題も、彼がいると、奇蹟的に解決された。彼は明るさだけでなく、楽天性、確信、あけっぴろげの陽気さをもたらした。レーニンが議長をつとめた会議に出席したあるイギリス人は、「かれの微笑は力の笑いであった」と語った。

 ただし、国内戦のいろんな困難や気苦労があったにもかかわらず、そのために、彼は科学上の問題について省察したり、学者たちの状態に気を配ったりすることを忘れなかった。飢餓の真只中にあって、彼は、パヴロフが実験をつづけていた犬への食料割り当てを与えさせた。

 病気になった戦士や戦争によって痛手をうけた人々にたいして、彼は時間をさいて手紙を書いた。彼との会見を希望した使節団、とりわけ婦人の代表たちとは親しく懇談した。彼は、婦人が革命に参加することに絶大な意義を付与していたからである。「数百万の婦人たちが社会主義とはなにかを理解するようになり、社会主義の建設に参加するようになるとき、革命の歴史的課題は遂行されるだろう」と彼は語った。戦争のきわめて緊迫した時期にあってさえ、彼は休息をとりながら、哲学者や哲学史家たちのものを読んだ。ギリシャ哲学に関するツェラーとゴムペルツの著書を例外的な資格で一晩だけ貸出を依頼した図書館カードが発見されている。

 レーニンは、彼自身が参加することによって革命的な熱狂を起こさせることができた。ロシアの労働者たちが、戦争のために瓦解した社会主義祖国の再建のために数時間の無償労働をするようになった「共産主義土曜労働」(1919~1920)のことを聞いて、レーニンは非常に喜び、挨拶を送った。レーニンは、この土曜労働が、社会主義的生産力と社会主義的労働規律と、経済および生活の新しい社会主義的条件をつくりだすものとして、この土曜労働に新しい要素と創意をみた。1920年5月1日に、厳粛な「共産主義土曜労働」が全国的に実施された。レーニンもクレムリン広場の取りかたづけ作業に参加した。

 ここで、さらに、レーニンは左右両翼からの反対に遭った。右翼反対派は「ゴエルロ」つまり、工業化と電化の計画をあまりに野心的なものであると見ていた。「左翼共産主義者」たちについていえば、彼らは、労働組合を純粋単純に国家機関化し、大衆と前衛とのあいだのあらゆる差異を除去し、命令によってことを運びたいと望んでいた。「民主主義的中央集権派」と呼ばれたグループは、工業および運輸における指導者の個人責任制を拒否していた。そこで、プロレタリアートの独裁のもとでの労働組合の役割および機能について、大論戦が行われた。徐々に一つの学説に結晶していった「トロツキズム」の攻撃にたいして、レーニンが激しく答えたのは、これが最初ではなかった。しかし、論戦は、たしかに、はじめて、きわめて激しい形をとるに到った。というのは、きわめて、重要で緊急を要する実践的な諸問題が問題になってきたからである。

ロシア一国における社会主義建設が問題になってきた。レーニンは1920年の11月から12月にかけて(中央委員会会期と第八回ソヴェト大会におけるボリシェヴィキ派代議員の会合において)労働組合を軍隊化し、したがってプロレタリア大衆自体を党から切り離し、プロレタリアートの独裁に反抗させているとして、トロツキストを批判した。彼は、また大衆の自然発生性に委ね、政治指導を放棄し、プロレタリアートとその前衛との結合を彼らの仕方で断ち切ろうとする「右翼的」偏向をも非難した。論文「党の危機」および小冊子『ふたたび労働組合について 現在の情勢について トロツキーとブハーリンの誤りについて』のなかで、レーニンは、労働組合の役割を「共産主義の学校」であり、団結と連帯性の学校であり、国家行政および経済管理の学校であると述べている。彼は、また、そこに真の矛盾があり、労働組合は、労働者たちの身近な利益を擁護すると同時に、国民経済全体の必要という、直接的ではない利益をも考慮しなければならないと指摘している。これらの問題を解決しうる機関は党以外にはありえない。

 労働組合論争は、レーニンの思想について、われわれがすでに知っていることを確認している。彼はつねに方法論的・理論的原則や、もっとも練り上げられた諸概念から出発して、実践や、具体的状況に戻り、それらを考慮して、諸概念を発展させている。この論争の過程で、レーニンは、反対派(左翼ならびに右翼の)欠点は、なによりもまず、弁証法にたいする無知にあったことを指摘している。右翼は折衷主義に、左翼は独断主義に陥っている。そして、ブハーリン批判のために書かれた論文には、論理学と弁証法の関係に関する注目すべき叙述が含まれており、この叙述は『哲学ノート』を補完している。レーニンは、そのとき、党の統一を、情勢の基本的な側面として前面に出している。しかし、第十回党大会で、リヤザノフが次のような動議を提出したとき、レーニンは、それを却下させたことを、ここで強調しても、しすぎることはないだろう。リヤザノフの動議というのは、党内の少数派にたいして、彼らが独自の「綱領」をもち、それを大会や党全体に提出することを禁じようとしたものだった。レーニンが党の統一について論じるようになるのは、さらけだされてくる諸矛盾、特に、ソ連邦の現実そのものにおける「古いもの」と「新しいもの」との諸矛盾が提起するいろいろの問題を解決しようとするにあたって、この党の統一が絶対不可欠なものであることがだんだんはっきりしてきたときであった。

国は戦争状態から、「戦時共産主義」から経済の再建および発展へと、計画化および電化へと移行する。

 プロレタリアートと農民大衆との関係は変わらざるをえない。なぜなら、維持すべき彼らの同盟の内容が変わるからである。それまでに地主とブルジョアジーにたいしてむけられていたこの同盟は、より積極的な任務に向かって、社会主義の建設のために向けられなければならない。

 

37 一国社会主義革命の建設

 

先例もなければ青写真もなかった。マルクスとエンゲルスは、階級のない、最後の形態(共産主義の段階)とそこへゆくまでの過渡的な「プロレタリア独裁」の時期とについて、社会主義社会の一般的組織原則を暗示的に述べた。だが、マルクスとエンゲルは、社会主義革命が高度の工業国でおこるか、または、ヨーロッパ全体でほとんど同時に起こることを、暗黙のうちに仮定していた。レーニンと彼の政府も、最初は、ロシア革命が西欧におこる社会主義的蜂起のきっかけになるだろうと、期待していた。この期待が見込み薄になったとき、彼らは、一国において、しかもわずかばかりの工業セクターが戦争と内戦でめちゃめちゃになった農業国で、マルクス主義の原則を適用するという、気の遠くなるような困難に直面した。6か月間、政府はその日暮らしのありさまだった。

 ソヴェト制度の成果と欠陥を判断するさいには、理想的な社会主義国家というような抽象的・絶対的な基準によって、判断してはならない。そのことは、レーニンとロシア革命の評価をする場合には、いくら強調しても強調しすぎることはない。そうではなくて、まったくの例外的なほど困難な条件のもとで、絶望的なほど不十分な物的・人的資源をもって、先進諸国ほか文明世界の他のほとんどすべての政府の、公然たる敵意にさらされながら、思いがけなく行わなければならない実験の一部として、評価しなければならない。

 当時、レーニンと彼の政府は、彼らが普遍的に妥当すると考えていた原則を、ロシアの特殊な条件に適用しようと試みた。きわめて困難な状況にぶつかったときに、レーニンの次のような最も偉大な資質が発揮された。すなわち、本質的な点を除けばどんな場合にも容易に妥協できること、たいていの人が釣り合いの感覚を失ったときにも、本質的なことが何であるかをいつもしっかりとつかんでいることである。

1917年11月8日の朝、レーニンは、スモーリヌイ学院(もとの女子大学でここから臨時政府打倒の指揮をとった)の司令部をでて、同じ建物のなかの別室で開かれていたペトログラード・ソヴェトに出席した。彼はペトログラード・ソヴェトではあまりよく知られていなかった。レーニンは、革命直前の数ヶ月間は警察の目をさけて身を隠していたし、また、だいたいいつもソヴェトの仕事は、彼よりも演説の好きな同志にまかせていた。だが、この日は、どうしてもしなければならない仕事があって、そのためにレーニンは自身で出かけたのである。レーニンは数分にわたる聴衆の熱狂的な拍手が静まるのをまって、まるで、歓呼の声をはらいのけるように、腕をふりおろして、まっすぐに話の要点に入っていった。ボリシェヴィキがいつもその必然性を躊躇していた、労働者と農民の革命が起こったが、この第三革命は究極においては社会主義の勝利に導くに違いないと述べた。

 レーニンは、ソヴェト政府の綱領として、すべての国に即時講和を提案すること、農民に土地を与えること、財貨の生産と分配に労働者の管理をくわえ、銀行を人民管理にうつすことを声明した。その日の午後にひらかれた第二回ソヴェト大会は、この綱領を行動に移した。その日の数日後に、階級、性別、民族、宗教の相異にもとづく、いっさいの不平等を廃止し、銀行、鉄道、外国貿易および一部の基幹大工業を国有化する法律が可決された。土地問題において、ボリシェヴィキは、彼らの最もおそるべき敵(農民政党である社会革命党)のとっておきの切り札を巧みにつかった。レーニンはまだ若いうちから、ロシアにおける社会主義革命には、農民の支持が必要だと主張していた。すでに1906年に、レーニンは、革命がおこったら、農民は憲法制定会議の招集をまたずに、直ちに土地をあたえられるべきだと言明した。その翌年、レーニンは第一、第二の両国会に選出された農民代表の要求が、エス・エルの綱領よりも急進的で、実のところ社会民主労働党の綱領よりもなおいっそう急進的であったという事実にすばやく注目した。

 ヘーゲルはその「歴史哲学」で、アジア的理念を次のように特徴づけている。

 

《中国社会の一般原理をとらえる必要があるが、それは、共同体の精神と個人が直接に一体化しているとみとめられ、いいかえれば、人口密度の高い所で広くいきわたっている家族精神がその実体です。中国には主体性という要素がいまだ存在せず、個人の意思を食いつくす共同体権力に対抗して、個人が自分の意思を自覚することもなければ、自分の自由意思にもとづいて、共同体権力の正当性をみとめることもありません。個人は、共同の意思の命ずるままに素朴に行動し、共同体権力が自分に対立するようなものとして存在することを知らない。…中略…中国では、共同の意思が個人のなすべきことを直接に指示し、個人は無反省・無自覚にそれに追従する。…中略…国家の全体に主体性の要素が欠如しているがゆえに、国家は人びとの心情に基礎をおくということがない。というのも、共同体を直接に背負うのは皇帝という主体であって、かれの発する法律がそのまま人びとの心情となっているからです。》       『歴史哲学講義』 ヘーゲル著 長谷川宏訳

 

 これが、アジア的歴史段階における個人と共同性の関係を規定するものだ。個人には主体性がないということは、反省する意識をもたず責任意識もないことになる。ただ共同体の命令でやったことにすぎないからだ。この主体は共同体のなかに過不足なくおさまっている程度に、共同性から主体は無限に離反している。すべての責任は皇帝(指導者)にあるからである。その皇帝がいなくなり、自己意識が芽生え始めた段階の共同性がいかに脆いかを、主体性のないアジア的思想の限りで、レーニンは、よく密着して捉えていた。

 1917年までにエス・エルの綱領はもっと革命的になった。エス・エルの綱領のなかには、土地の私有を廃止して、大地主の所有地を選挙で択ばれた農村委員会に分配させることが含まれていた。マルクス主義の見地からみれば、これはまだ「ブルジョア民主主義」的綱領にすぎなかったが、それでも、このような綱領が実行されたら、地主の権力は破壊され、農村は革命に既得権益をもつようになり、広汎な権限をもった農地委員会がつくられることによって、農村地方の民主主義的組織化が促進されるだろうと考えた。依然として農村であまり力をもっていなかったボリシェヴィキは、エス・エルの綱領を採用して、土地の「社会化」と、それを耕作する人々への平等分配を宣言した。

 何よりもまず、ボリシェヴィキは、農民を直接行動に立ちあがらせ、農民が自らの創意に確信をもつようにさせたいとおもっていた。6月にレーニンが全ロシア農民代表ソヴェトにもちこんだ決議文では、次のように勧告されていた。農民は農民代表ソヴェトをとおして、組織的な仕方で、即時にすべての土地を奪取し、憲法制定会議もしくは全ロシア・ソヴェト会議が、土地問題を最後的にどのように決定するかを少しも気にかけることなく、土地の耕作をしなければならないとした。実際におきたことは、土地所有貴族の大小の地所やストルィピン改革によって土地を集めることができた、一般にクラークとよばれる富裕農民の耕作地を、農民たちが没収して、自分たちのあいだで分配したということであった。2月革命以来、ずっとエス・エルの指導者は、臨時政府に入閣していた。だが、彼らは、急進的な下部大衆の要求を満足させるようなことは、何もしていなかった。農相として入閣していた社会革命党のチェルノフは、1917年中に12の法案を提出したが、ひとつとして10月革命までに法律として成立したものはなかった。一方、エス・エルの土地綱領は、9月に開かれた全ロシア農民代表ソヴェトによって再確認された。そこで、ただちに、レーニンは、もしボリシェヴィキが権力をとったら、この綱領を実現するだろうと約束した。実際、この会議の決議は、1917年11月8日のソヴェト法のなかで、一字一句、たがわずに生かされた。なお、ソヴェト法では、そのほかに土地、機械、家畜の分割は、公選の地方農地委員会に委任され、ただちに開始されるべきであると附言されていた。ところが、エス・エルは憲法制定会議の認可をまって、このような措置が実施されることを望んだのである。その結果、まったくひどいことになった。社会革命党の指導部と下部とが分裂し、左派はまもなくソヴェト政府に加入し、左派エス・エル党員が、農業人民委員になった。それ以来、全農民が最も固いつながり、つまり利害関係のつながりによって、ボリシェヴィキに結びつけられた。また、下からの建設的な革命運動が、農村地方でも動きはじめたので、農民や大部分が農民からなる軍隊を、ソヴェト政府の転覆のためにつかうことができなくなった。革命前の旧体制はたった一撃で、武装を解除されてしまった。その上、ボリシェヴィキは、既存の国家機関をだしぬいて、下からの直接の創意を刺激することによって、さらに点をかせいだ。

 ところで、ボリシェヴィキの農業綱領が、集団農場による大規模耕作を予定していたという点については、レーニンは率直であった。ソヴェト大会で農地法を提案するにあたって、レーニンは次のように述べた。民主的な政府である以上は、たとえわれわれの考えとはちがっていても、一般人民の決定を無視することはできない。この法律を実行に移して、現地で実施すれば、経験の試練のなかで、農民は真実がどこにあるかを理解するだろう。もはや国内に地主がいないのだから、農民が自分で自らの生活を処理しなければならないということを、農民にしっかり納得させることであるとした。これこそは、レーニンが、うまずたゆまず、繰り返し教えようとしたことである。すなわち、ロシアの人民は、何世紀ものあいだ、地主や雇主や官僚のいいなりになって、黙々と支配に服してきたので、まず、第一に自尊心と自信をもつ必要があるが、自尊心と自信は、自分で自分の生活を処理することに、実際の経験をつむことによってはじめてえられるものである。大衆の主たる欠点は、仕事を自分の手ににぎることに臆病で、ためらうという点にあると、レーニンは1918年7月に地方ソヴェトの執行委員会議長に語った。

 1917年6月にレーニンは、最善の機械をつかい、科学的訓練された農業専門家の助言に従って、農業労働者が共同で土地を耕作するようにならない限り、資本主義のくびきからのがれることはできないという信念を重ねて述べた。だが、それはまだ将来のことであった。1917年11月においては、重要なことは、農民にたいして、自分が自由な人間で、一家の主人だという確信をもたせることであった。それは、深刻な道徳的、心理的革命であり、これに比べれば、その他のことは、みんな二次的な重要性をもつにすぎなかった。レーニンがのちに述べたように、農村地方で10月革命がはじまったのは、1918年の夏から秋にかけてのことであった。そして、それは1930年代のはじめの集団化によってはじめて完了する予定であった。

 都市においても、同一の手法が適用された。11月8日には、すべての行政事務が事実上ストライキ状態にあった。そこでただちに、ボリシェヴィキは事務をとった経験のあるすべての労働者によびかけて、政府の関係部局の指示にしたがうように要請し、ストライキによってどういう困難が起こっているかを説明し、労働者の支持を求めるビラをペトログラードの市内に貼り出した。政府が一般の人々にたいして、このように率直に内情をうちあけたので、政府官庁の事務の渋滞と不能率にたいする大衆の怒りが、ホリシェヴィキにむけられないで、ストライキをしている人々に向けられた。ストライキをしていた人々は、国民の不満を組織するチャンスを失い、一方、政府はその窮状を公に声明することによって、新しい協力者を得たのである。軍隊においてもやはり同じであった。ドイツとただちに休戦交渉をはじめよという命令を、軍司令官のドゥホーニンが拒否したので、彼は免職になり、最下級の将校である少尉のクルイレンコが軍司令官に任命された。それと同時に、レーニンは、軍隊にあててアピールを発表し、このなかで、まず、状況を説明し、反革命派の将軍を逮捕して戦争を停止するよう軍隊によびかけ、「兵士諸君!平和の成否は諸君自身の手中にある!」と結んだ。ドゥホーニンは、自分の部下の兵士の手で私刑にされ、休戦交渉が開始された。その後、数ヶ月のあいだというものは、ソヴェト政府にたいして反抗するために、いうにたるほどの軍隊を集めることができた将軍は、ただの一人もいなかった。12月29日に、上は軍司令官にいたるまでのすべての将校を、選挙で選ぶ原則がたてられた。各部隊において、最高の権威をもつのは兵士委員会と兵士ソヴェトであると宣言された。これはもちろん純政治的な、そして一時的な措置であったが、だが、講和が成立するまでは、軍隊を集結させておかなければならないし、また、その間中、将校を監視していなければならなかった。その過程において、監視者たちは民主主義と管理方法について多くのことを学んだのである。

また、いっさいの旧来の司法制度を廃止して、選挙で選ばれ、公開で運営される人民法廷に替えることを規定した12月12日付けの法律の場合にも、結果はまったくおなじであった。新しい法廷がまったく申し分なく機能するようになるまでは、当然、かなり長い日時がかかったし、困難な実験期が必要であったことは疑いない。だが、それまでの間は、新体制の敵にたいして、法律の保護が停止され、新たに選ばれた判事たちは、最良の方法で自分の仕事を習得し、一般大衆は、自分たちの目の前で、自分たちの制御のもとで行われるこの実験に、積極的な関心をよせた。司法行政をしばらくの間とはいえ、「革命的自覚」と「社会主義的法概念」にまかせるのは、危険なことではないかと考える人があるかもしれないが、その場合、次のことを忘れてはならない。すなわち、ツァーリロシアの法律は、きわめて野蛮、未開な点が多かったから、かなり開明的な人の常識をもってすれば、容易に西欧の法思想に一層よく合致する結果が生みだされることは間違いなかった。

ソヴェト政府が成立するとまもなく、広汎な範囲にわたる多数の法律が可決された、これらの法律はいますぐ細部まで適用される見込みのほとんどないものであった。その一例は1919年12月26日の法律であり、これによると、8歳以上50歳以下のソヴェト・ロシアの市民で読み書きできないもの(人口の半分以上)は、国家の学校で各自の自由選択により、民族語かロシア語の読み書きをならう義務があった。このような法律は、政府がこれからどしどし仕事をするつもりであることを明らかにし、他方、ソヴェトが自ら率先してこれを実行に移すよう奨励するという効果があった。

レーニンは、1919年3月23日の党大会での演説のなかで、この点について論じた。

もし、ソヴェト国家が何百という法令を起草するだけで、農村地方の生活を一変させることができると思っているとすれば、見当違いである。だが、もし、政府がこれから進まなければならない道を、法令のなかで指し示さなかったとしたら、政府は社会主義を裏切ることになるのである。これらの法律は、いますぐに、全面的に実施することはできないが、宣伝のために重要な役割を果たした。以前には、政府は、一般的な真理を説くことによって宣伝をおこなっていたが、いまでは、仕事によって宣伝を行っている。法令は大衆的な実践行動を呼び起こす指令である。かつて、レーニンは、市ソヴェトを一時廃止するという法律を擁護して、これが市ソヴェトの適格、不適格の判定するよい尺度になるといった。つまり、存在価値のある市ソヴェトなら、決しておめおめと解体はしないだろうというのである。成立当初の政府は、事実上、次のように呼びかけていたのだと、後でレーニンは言明した。「さあ、ここに法律がある。われわれはこういうやり方で国家を管理したいと思っているのだ。ひとつ試してみたまえ!われわれはわれわれの法律を周知徹底させることによって、どういう帰結が生じようとも気にしない」。

 最高国民経済会議のある委員は、1917年12月に、レーニンがすべての銀行と株式会社を国有化し、いっさいの外債と内債を破棄し、誰もが労働するようにし、いたるところに広汎な消費組合をつくり、有産階級の人々にも配給のための労働者手帳を発行することを規定した単一法案をつくることを提案したとき、彼の同僚たちが、いかに困惑したかを述べている。委員たちは、この奇妙な混合物が、いったい政策の声明なのか、それとも法律として一挙に実施しようというのかとレーニンにたずねた。レーニンは、自分の意図が後者の点にあるとまじめくさって答えた。そこで、かなりの議論を重ねたあげく、この法律が採択された。この場合、レーニンの直接のねらいは、当時、彼が言明したように、有産階級の労働義務制を制定し、労働者手帳で統制することによって、サボタージュや反革命と闘うことにあった。だが、法案の起草にあたっては、彼はもっと広汎な刷新的措置を考慮していた。当面の実際的保安措置が実施されてからは、この法律のなかで宣言された一般原則を、もっと余裕をもって実施することができるようになった。

レーニンが革命直後において政治革命よりも、はるかに困難だと予想していた経済の組織化と発展の時期は、外国の干渉戦のために、さらに3年先に繰り延べられた。すなわちこの3年間にイギリス、フランス、日本およびアメリカが、白衛軍の傀儡将軍に資金と装備と軍事援助をあたえたので、ロシア全国が戦場になった。1918年末になると、ソヴェト政府支配下の地域は、16世紀はじめのモスクワ国家とほぼ同じぐらいにまでせばめられた。3年の間、ボリシェヴィキは、歴代の皇帝が四世紀の間に、営々と築きあげた領土を、席巻した。1921年に農作物の取入れがおこなわれたのは全体の60%以下で、総収穫高は戦前の半分以下であった。大地主の経営がなくなったので、市場向け余剰穀物の減退は、なお、一層、甚だしかった。1920年の重工業産出高は、戦前のわずか13%、軽工業は44%にすぎなかった。運輸と国内商業は完全に崩壊してしまった。外国貿易もまた、事実上、停止状態に陥ったが、それは1920年1月まで続いた貿易封鎖と、1921年夏まで続いた金融封鎖のためであった。これらいっさいの結果として、どんなにひどい貧窮と疫病と死がもたらされたかは、とうてい、筆舌につくしがたい。一体何百万人の人が、暴力や飢餓や伝染病で死んだかは、誰も知らない。1918年のモスクワの住民一人当たりの食料配給量は、戦争中のドイツの配給量の七分の一、イギリスの配給量の十分の一のカロリーしかなかった。

 従って、1917年直後の数年間にソヴェトの政策が、はげしいジグザグ・コースをたどったのは、当時のやむをえない必要のためであった。戦時中、軍需への集中のため、また、徴兵に伴う農業、工業労働者の不在のために、生産は跛行し畸形化されていた。革命それ自体と内戦の惨禍は、経済、社会、金融の崩壊の図を完全なものにした。飢えと寒さが住民の大半を襲った。経済の病にたいするボリシェヴィキの最初の治療薬は、平等な分配、工業と土地の国有化、労働者統制といった一般的原則の宣言以上のものではなかった。すべてのヨーロッパ諸国が、1914年~1918年の戦争のときには、ある程度の国家統制や管理を行う必要に迫られた。1918年~1920年のロシアでは、ツァーリ支配と世界大戦における軍事的敗北によって、国の経済がすでに崩壊していたので、国家の統制が絶対に必要になった。

実際、ボリシェヴィキは、前もって予想していたよりも、はるかに多くのことをはるかに早急に統制しなければならなくなった。1917年以前でさえ、ロシアの官僚制度は煩瑣で融通がきかず、能率が悪いという悪名が高かったこと、1917年以後は、きわめて多数の高級官吏が職場を放棄して、残ったものはスパイやサボタージュばかりしていたこと、彼らのあとがまには、おそらく彼らより能力の劣る旧下僚が登用されるか、または情熱的ではあっても、行政上の経験がほとんどないか、または経験のまったくない共産党員の知識人や工場労働者がつれてこられたこと、これらのことを考慮すると、この機構がまがりなりにも機能しえたということは、全く奇跡のようにおもわれる。そして、また、このように考えるなら、1918年の夏、政府を駆りたてて、のちに「戦時共産主義」という曖昧な名で知られるようになった、より激烈な政策への導入が無理やりに採用された、ややもすると、粗野な方法の意義を一層よく現わす。

 都市と工場の労働者は飢えていた。食料が第一優先事項であった。クラークや投資家による農村の食料退蔵をやめさせるために、政府は種子用と自家消費用に必要な量以上のいっさいの穀物を、公定価格で国家に供出する「食料分遣隊」の組織を命じた(1918年5月13日)。これに続いて、「貧農委員会」(雇用労働を使わない農民の委員会)が組織された(1918年6月11日)。この委員会は、食料人民委員部の指示のもとに、穀物その他の農業生産物を調達、分配、都市への発送を監督する機関である。これにより、余剰の穀物を没収し、農村における食料や農業器具の配給機関の役目をはたした。

しかし、貧農委員会は短命に終わった(1918年12月)。革命初年の農民の自然発生的行動の結果は、おびただしい数の小規模耕作者への土地の分割、すなわち耕作単位の数の増大と縮小であって、これは農業の効率化にも食料供給にも全く貢献しなかったからである。それにかわって、当局はその呼びかけの対象を、貧農よりは上にあり、富農あるいはクラークよりは下にある中農に転じた。しかし、内戦の混乱のなかで、いかなる策も農業生産を刺激することはできなかった。当局は、ときおり、大規模集団耕作という社会主義の願望を甦らせ、いくつかの、農業コミューンあるいはコルホーズ(集団農場)が、一部の理想主義者によって試みられたが、都市への食料供給問題には、ほとんど貢献しなかった。ソヴェト地方、地方ソヴェト、時には最高国民経済会議の統制化にある工業企業によって、飢えた都市、工場労働者に食料を供給するという特別の目的のために、ソフホーズ(国営農場)が設立された。それは、賃金労働者を雇い、時には「社会主義的穀物工場」といわれた。だが、それらは農民の抵抗にあってあまり進捗しなかった。農民はソフホーズを、革命によって破壊された大土地所領への復帰だと考えたのである。

 工業においては、戦時共産主義は、工業のサボタージュを停止させるために、国有化が急テンポですすめられた。1918年6月28日の法律で、二千の大企業が国有化され、1920年12月には10人以上の労働者を雇用しているすべての工場が国有化された。これらの工場は選挙でえらばれた労働者や労働組合に指名されたものや、職場に踏みとどまっていた技師によって、当時の状況のもとでできる限りの最善をつくして、運営された。

これを促したのは、ひとつには増大する内戦の脅威であり、もうひとつは、革命の最初の数ヶ月間に、多くの工業企業が、最高国民経済会議に知らせもせず、その認可も受けずに、労働者が自発的に工場を奪取するのを未然にふせぎたいとの意図があった。しかし、形式上の国有化は、あまり重要なものではなかった。重要なのは奪取したものをいかに組織し、管理するかということであって、この機能を労働者統制が果たすことはできなかった。

これは最高国民経済会議の仕事であり、最高国民経済会議は全工業を管理するために、いくつかの「ツェントル」あるいは「総管理部(グラフキ)」を設立した。混沌状態は集権的統制を緊急に必要としたが、時によってはこのことが、混沌を一層悪化させたのかもしれない。工業生産に必要な熟練労働力は新体制にはほとんど手に入らなかった。どのレベルの工場管理も、実際上は、革命前からそこで働いており、今では「ツェントル」、「グラフキ」の部署についている人々に委ねられていた。上級管理者、経営者、技師はたちまち、その仕事が不可欠であると認められるに到ったが、彼らは「スペシャリスト」(専門家)と呼ばれ、特別俸給と、特権とが与えられた。

しかし、内戦の緊急事態が、次第に、工業生産の上に影をおとしてきた。赤軍の需要が最優先であり、他の部門は犠牲にして、2、3の重要な工業部門に精力が集中された。その他の小規模企業などは、資材不足に悩まされた。工業の破滅的衰退を示す統計のうち、最も雄弁なのは、大都市の人口減少である。革命後3年のうちに、モスクワは人口は44.5%を、また、工場集中度が最大のペトログラードは57.5%を失った。健康な人の一部は赤軍に徴集され、そして大量の人々が、食料のある農村へと流出した。

分配の問題も、厄介な問題だった。私的商業を全国的規模での物資分配の計画的システムにおきかえるという党綱領で宣言された目標は、はるかかなたの理想であった。農民の貯蔵穀物を交換するための消費財ストックを獲得するよう食料人民委員部に権限を付与した1918年4月の法令は、死文のままだった。都市における配給と固定価格を実施する計画は、供給の不足と有効な管理の不在に直面して崩壊した。いやしくも商業があるとするなら、それは非合法に行われた。

貨幣は急速に価値を失いつつあったので、都市と農村のとの間の物々交換の計画が立てられたが、農民の欲した物資もまた供給不足であった。領土さえ白軍の侵入によって絶えず収縮されている内戦のさなか、赤軍、軍需生産に携わる工場、都市住民の不可欠の必要を満たすには、穀物を調達するのに、不十分なことがわかると、都市労働者が農村地方に派遣され、自分たちのための穀物を獲得したり、穀物の徴収に協力した農民に工業製品を配給したりした。都市では配給制度が再開されたが、足りないものをなるべく公平に分配するというだけの効果しかなかった。貨幣はまったく価値を失っていた。

戦時共産主義は、労働の組織化にとって、重要な帰結をもたらした。地主とブルジョアには強制が適用されるが、労働者の労働は自発的な自己規律に規制されるだろうと期待されたが、この期待はすぐに裏切られた。1918年1月の次第に増す危機的雰囲気の中で、レーニンは意味深長に、「働かざるもの食うべからず」という有名な言葉を引用した。また、
労働人民委員は、サボタージュと必要な強制策に言及した。レーニンは、出来高払と「テイラーシステム」を奨励し、当時の左翼反対派の憤激をかった。

革命は、労働者国家における労働組合の役割に光を投げかけた。いずれも労働者の利益を代表すると主張している労働者代表ソヴェトと労働組合の関係は、微妙であった。労働組合と国家との関係はそれ以上に難問でさらに一層論議された。労働組合は他のソヴェト制度同様、労働者国家機構の一構成部分であるべきなのか。あるいは、労働者国家の他の要素から独立に、労働者の特殊利益を擁護する機能を保持するのであろうかということである。メンシェヴィキと一部のボリシェヴィキは、革命はまだブルジュア民主主義段階を通過していないので、依然、担うべき伝統的役割をもっていると主張して、労働組合の国家からの完全な独立を支持した。しかし、議長を務めたジノーヴィエフは、ボリシェヴィキの公式見解を大多数で通すことができた。

それによれば、革命の過程で労働組合は「社会主義国家の機関に不可避に転化され」なければならず、また、その資格において、生産組織化の主な責務を負わなければならないというのである。労働生産性の向上、労働規律の改善、賃金調整、ストライキ阻止これらは今や、労働組合が最高国民経済会議や他の国家機関と提携して果たすことが要求された義務であった。労働組合の機能と労働人民委員部のそれとの差異は、ほとんど形式的になり、労働人民委員部の主要官吏はこれ以降、労働組合から任命された。
 内戦で、デニーキンとコルチャークが敗北した1920年初め、軍事的危機は克服された。だが、それはほとんど全面的な経済崩壊という、同様に重大な問題に道を開いたのである。これらの問題が、戦場で勝利をもたらしたのと同様な形態の規律によって対処されなければならないようにみなされた。軍事人民委員のトロツキーは、経済復興の道をひらくための労働の徴募と「軍隊化」の唱道者になった。戦闘がやんだとき、軍事単位は、再建に必要な労働のための「労働軍」に転用された。当初から労働者への強制策を疑いの目でみていた人々、労働組合の独立を支持していた人々等は、結束してトロツキーの専横行為を攻撃した。

トロツキーは、経済再建という巨大な緊迫した問題に突き動かされて、また自分の計画にたいする労働組合の抵抗に苛立って、労働組合の「揺さぶり」を要求することで、火に油を注いだ。レーニンはこの問題でトロツキーと袂を分かった。前代未聞の広がりをもつ激しい討論が冬の間中戦わされ、戦時共産主義の政策が、最終的に1921年3月の党大会で放棄されたとき、初めて決着がついた。しかも、それは農民反乱によって、遂にやむなく戦時共産主義からネップに道を譲る決定をするに到ったとき、公式路線になったのである。

一部のボリシェヴィキの理論家は、戦時共産主義を無理に擁護しようとした。彼らは貧困のなかの平等を、まるで共産主義社会への直接の移行のように賞賛し、破局的なインフレーションでさえも、中産階級を収奪する手段だとか、貨幣経済への隷属からのがれる手段だといって擁護した。レーニン自身は決してこういう馬鹿げたことは言わなかった。1921年10月の演説のなかで、レーニンは、大衆をおしひしぐような軍事上の問題と共和国がおかれていた絶望的ともみえる状態のために、政府は直接に共産主義的な生産と分配に進むことを決定するという誤りをおかした。ほんのわずかの経験で、これが間違いであることが分かった。これは資本主義から社会主義への移行について、われわれが以前に書いたことと矛盾している。つまり、社会主義的計算と管理の中間期間をとおらずには、共産主義の低い段階にさえ、近づくことはできない。大衆は経済戦線において、きわめて手厳しい敗北をこうむったと言った。だが、レーニンが、自分自身もこの誤謬をおかしたものの一人であるかのように言っているのは、どうみても公正なこととはいえない。戦時共産主義が絶頂に達した1919年12月に、集団農業の先駆者の集まりで演説したとき、レーニンはにべもなく無愛想に次のように宣言した。「われわれはいますぐに、われわれが社会主義社会を樹立できないことを知っている。われわれの子供の時代になって、あるいは孫の時代になって、できればよい方だ」。つまり、レーニンのいだいていた目的や、全体としてのロシア革命の発展方向と歴史的意義を、この時期の一時的な現象によって判断してはならないのである。

 ところで、一国だけでもロシアより強力な国が、たくさんよってたかって、ソヴェト制度を打ち倒そうとした干渉戦の時期に、ボリシェヴィキはどうして権力を維持することができたのであろうか?まず、第一に、ボリシェヴィキの国際的アピールが、干渉国の人民の同情をえたので、干渉国の政府がソヴェト・ロシアにたいして自分の全軍事力を集中できなかったという事情がある。だが、ソヴェト制度が生き残るのを助けた国内的要因としては、どのような要因があるのだろう?

 そのひとつの要因は、組織労働者の支持であり、ボリシェヴィキは1917年にこの支持を得て以来、決してそれを失わなかった。だが、ロシアの住民は5人のうち4人までが農民であった。しかも、当時の政府は、とにかく戦争を続けるために食料を手に入れようとして、農民にたいしてかなり荒っぽい政策をとらなければならなかった。それにもかかわらず、ボリシェヴィキが農民の支持をたもつことができたのはどうしてであろうか?

レーニンは1919年12月にこの問題を取り扱った。それは強力な連合国の支持を受けたコルチャック提督がシベリアで権力を維持できなかったのはなぜかという問題を取り上げたときのことである。

シベリアはロシアでも最もプロレタリアが少ない地域であり、1917年にもボリシェヴィキへの投票が最も少なくて、しかも、社会革命党への投票が最も多く、しかも、社会革命党の指導者はコルチャックを支持していた。その上、この地方にはもともと大地主制度がなかったので、ボリシェヴィキが農民に与えるものはほとんどなかったのである。「コルチャックがボルシェヴィキにたいして勝利を得るにはなにが足りなかったのか?彼に欠けていたものは、また、すべての帝国主義者に欠けていることでもあった。つまり、彼は依然として搾取者であった。民主主義と自由について彼は語った。ところが、現実に可能なのは二つの独裁のどちらかであった。つまり、狂暴に自分の特権をまもろうとする搾取者の独裁か、それとも労働者の独裁かどちらかである。ボリシェヴィキは、農民にたいして魅力的な見通しを描いてみせることはしなかった。彼らは、農民が鉄の規律なしに、労働者階級の堅固な権力なしに、資本主義社会から浮かび上がることができるとは、言わなかった。だが、彼らは労働者の独裁によって、農民から搾取者のくびきがとりはずされるだろうと言った。そして、ボリシェヴィキの正しいことが、事実によって立証された。

 農民にとっては、白衛軍が勝つということは、つまり、地主が帰ってくるということを意味し、ロシア人以外の民族にとっては、白衛軍が勝つということは、大ロシア人の優先権と特権が復活するということを意味した。農民が次のように語るのは、珍しいことではない。つまり、ボリシェヴィキが地主を追い払ったから、ボリシェヴィキを支持する。だが、われわれは共産主義者を支持しない。なぜなら、彼らが個人農業に反対するからであるという。また、ブルジョアジーが、農民に対する影響力を得るための闘争で成功をおさめた結果、一時、反革命がシベリアとウクライナを征服することができた。だが、農民の目を開かせるのには、ほんのわずかの日時しかいらなかった。農民は急速に実践的経験をつみ、ボリェヴィキを嫌っていたが、それでも、まだ、彼らの方が白衛軍や憲法会議よりはましだというようになった。

 これは農民を説得し、なだめることが、この上なく重要であった1921年7月に、レーニンが書いた宣伝文である。だが、このことは、別の情報によっても、十分、裏書できる。シベリアのアメリカ軍司令官は、つぎのように言明した。「もし、私がシベリアにいた間に、もしかりにすべての連合国の支持がなくなったとして、東部シベリヤでコルチャックが1か月もちこたえられる程度の人民の支持が、コルチャックによせられたことは一度もなかった……東部シベリヤで、ボリシェヴィキが人間を一人殺すごとに、反ボリシェヴィキ派は百人の人間を殺したといっても、決していいすぎではない」。

 テロによって維持されなければならない制度は、能率的でもなかった。反ボリシェヴィキ派の腐敗ぶりと臆病さをまじかにみてからは、大衆の大部分がひそかに、ボリシェヴィキに同情をよせるようになったとおもう、とコルチャックのもとで働いていたイギリスの将校、フェルプス・ホッジス少佐は述べた。南部ロシアのデニキン軍のかくれもしない腐敗ぶりについても、これと全く同じような話が残っている。1919年秋までに、シベリヤでは農民一揆とコルチャック軍の兵士の大量の逃亡がおこった。なかには、二万の兵力の一軍団が装備と軍需品もろともに消えうせたこともあった。

 ボリシェヴィキは、農民や多数の旧専門家の階級の愛国心によびかけることができた。つまり、ボリシェヴィキ権力が安定するにつれて、ボリシェヴィキはロシアを代表する立場にたつようになったが、一方、反革命家の方は、ますます公然と、外国の侵入者の支持に依存するようになり、しかも、その外国侵入者がロシアの独立という点について、究極においてどんなねらいをもっているかは、ほとんど疑問の余地がないほどはっきりしていたからである。したがって、元来は敗戦主義者であり、国際主義者であったボリシェヴィキが、最後には、激しい農民の愛国心を、つまり外国人を一掃してロシアの独立をまもるという決意を、利用できるようになった。ロシアの宿敵であるポーランドが、ソヴェト・ロシアの敵と合流した1920~21年には、このことが特によくあてはまる。この事件が、純ロシア的な愛国心をいかに高揚させたかは、1914年~17年の大戦中に実際にすぐれた効果をあげた唯一のツァーリ時代の将軍であるブルシーロフが、ボリシェヴィキの指揮下で服務することを申し出たという事実によって、象徴的に示されていた。彼は全ロシアの将校にたいして、赤軍を助けるように要請する宣言を発表した。

 だが、赤軍はこのような支持によって、ポーランド軍をワルソー城門まで追い返すことはできたとはいうものの、西欧に革命を拡大するための戦争にまでは乗りださなかった。干渉戦が続いているうちは、ボリシェヴィキの第一のねらいは、彼らに敵対する政府に反対して、革命運動をおこすようによびかけることにあった。だが、平和が回復されると、こういう画策は当面の重要時ではなくなり、国内問題が前面にでてきた。全ヨーロッパを賭けた死活の闘争が続いているうちは、戦争の遂行ということが、いっさいのその他の考慮に優先した。だが、1921年になると、世界資本主義は、土地に根ざしたロシアの農民の愛国心に支持されたロシア革命を打ち倒すほど強力ではないが、一方、ソヴェト政府も共産主義インターナショナルの支持をもってしても、西欧資本主義を打ち倒すほど強力ではない、ということが明らかになったのである。国際的闘争は手詰まりの状態になり、ソヴェト政府は1918年はじめにとりかかりはじめていたロシアの再建という問題に、再び直面した。

 だが、その間に情勢が変化した。1918年にも、国は経済的に疲弊し、破産していたとはいえ、多くの困難を首尾よく乗り越えた労働者の間にも、楽観的な精神と自信がみなぎっていた。1921年のロシアは、飢饉におそわれ、国のすみずみまで荒らされ、経済生活は停止状態にあった。ソヴェト政府は主として都市労働者の支持に依存していたのであるが、この都市労働者が疾病と飢饉で大量に死亡し、失業のために士気沮喪し、あてもなく、もといた農村へかえっていった場合が多かった。だが、なんといっても一番悪かったのは、ボリシェヴィキ党の党員の死傷が多かったことである。内戦中に党員は一般なみに兵役の義務をはたした。1920年には、婦人を含む全党員の三分の一以上にあたる、28万人の党員が赤軍にはいって活動していた。困難な状況がおこると、いつも、「共産党員は先頭にたて」というスローガンが掲げられた。その上、白衛軍は共産党員と政治委員と将校を捕虜にすれば、必ず、全部射殺した。その結果、経済と政治の再建の指導者となるべきはずの何千何万という経験のある労働者や知識人が、いよいよ彼らの活動がソヴェト制度にとって必要となったときに、いなくなっていた。したがって、1921年には単にボリシェヴィキのはたさなければならない任務が、1918年当時に比べてはるかに困難になっていただけでなく、政府が支持をもとめうる勢力も1918年当時に比べて、はるかに経験が乏しく、頼りにならなくなっていたのである。

 ボリシェヴィキの政策は、熟練した要員の不足にいつも悩まされていた。1917年と1918年の前半に、レーニンは古い国家機構の粉砕を主張し、大衆自ら、行政事務をひきつぐように呼びかけたが、その際、つねに、彼は、きたえられた熟練した政治的指導者の指導的中核体が存在することを、暗黙のうちに仮定していた。ところが、その中核体がひどく減少してしまったのである。外国の干渉軍と戦うために、赤軍は政治委員のきびしい監督のもとに、旧ツァーリ軍隊の将校をつかった。だが、この旧軍隊の将校は1937年~8年の粛清が行われるまで、いつも紛争の種になった。おなじく旧文官もしばしば再登用しなければならなかったが、彼らはレーニンが繰り返し倦むことなく非難した「ソヴェト官僚」の中心になった。

 世界革命の見通しが遠ざかると、農業国ロシアに社会主義を建設するにあたっての行政上の諸問題が全面に出てきた。そこで、官僚がますます重要になった。晩年のレーニンはますますこの問題に頭をなやますようになった。レーニンはソヴェト国家のことを「官僚的にゆがめられた労働者国家」と名づけ、このゆがみをとり除くことが、政府の政策の主要な目標のひとつだと言った。「いまやわれわれは無慈悲なほど確乎とした政府のために、もっと決然と闘わなければならない……官僚主義をくりかえし、倦むことなく、つみとるためには……下からの統制をもっと多種多様にしなければならない」。レーニンは、全国民が政府の仕事に参加することを望んでいた。なぜなら、そのようにしてはじめて、すべての人が行政技術を学ぶことができるし、また、要人階級などという馬鹿げた偶像から、まぬがれることができるからである。「われわれの目標は、すべての労働者が8時間の生産労働『課業』を終えたら、無償で国家の義務をはたす、というようになることである」。ソヴェト政府と労働組合との関係の問題について、レーニンがトロツキーとあのように鋭く意見を異にしたのは、このためである。トロツキーは労働組合を上からの指令によってうごく国家機構の一部に転化しようとした。だが、レーニンは官僚を、民主主義的に抑制するために、労働組合を利用しようと考えたので、労働組合が、あらゆる政府機関のなかで直接に活動し、政府機関にたいする大衆の統制を組織することによって、ソヴェト政府の活動に積極的に参加することを望んでいた。労働組合は、党と他の労働者との間の「伝導ベルト」にならなければならない。労働組合は「教育のための組織-徴募と訓練の組織」でなければならない。労働組合は学校であり、管理の学校、経営の学校、共産主義の学校であり、労働組合の役目は「国家権力の貯水池」になることであった。

ところで、革命は端緒であって終着駅ではない。それは政治的な変化であって、経済的な変化ではない。政治権力がソヴェトの手に移り、ソヴェト政府が成立してから最初の数週間に可決された、嵐のような法律によって、経済上の管制高地が奪取されてのちは、社会主義をめざす、じみな発展の時期、緩慢な、やや退屈な時期があることを、レーニンは見通していた。経済的に破産状態にある、この後進国の生産力の増大を促進するためには、国家権力による統制が利用されるだろう。このようにしてはじめて、社会主義社会のための安定した土台を築くことができる。かつて、レーニンは、一般的にはブルジョア革命とプロレタリア革命の課題の差異、特殊的にはロシアのプロレタリア革命が直面する困難を分析して、次のように述べた。封建制の内部から発生するブルジョア革命の場合には、新しい経済組織が古い秩序の胎内で徐々に形成され、これによって、封建社会のあらゆる側面が徐々に変革される。ブルジョア革命の任務はただひとつ、つまり、以前の社会のあらゆるきずなを一掃し、ふるいおとし、粉砕することだけである。あらゆるブルジョア革命は、この任務を遂行することによって、必要ないっさいのことをなしおえる。つまり、資本主義の発達を促進するのである。それにひきかえ、社会主義革命はまったくちがった立場にある。社会主義革命を開始しなければならない国が、後進的な国であればあるほど、古い資本主義関係から社会主義関係に移行することがますます困難になる。国内の敵に勝利するという任務は、きわめてたやすいことである。政治権力をうちたてるという任務もきわめてたやすい。というのは、大衆が、われわれに足場を、この新しい権力(ソヴェト)の土台をあたえてくれたからである。だが、非常に困難な任務がまだ残っている。ソヴェト権力は、もっとも発展した形の資本主義以外には、なにも出来合いの関係をうけついでいない。しかも、この資本主義にしても、実際には、工業のわずかな最上層部に及んでいるだけで、農業にはほとんど全く及んでいないのである。大企業における計算と統制を組織し、全国家経済機構を単一の巨大な機械、何億という人々を単一の計画によって指導できるように動く経済的有機体につくりかえることが、こういう巨大な組織的任務が、われわれの双肩にかかっているのである」。

 1918年5月にレーニンは、もし労働者がブルジョアジーに「金をやって追払えば」、社会主義の平和的勝利が可能だとマルクスが考えていた1870年代のイギリスに、社会主義革命がおこったとした場合と、ロシア革命の地位とを対比した。その時、語ったのは次のような趣旨だった。プロレタリアートが権力を奪取したのち、搾取者の武力抵抗とサボタージュが粉砕されたのちには、いまから半世紀まえのイギリスで、かりに社会主義への平和的移行が開始されたとした場合とほぼ同じような条件が存在することは、明白ではないか。ソヴェト・ロシアで勝利をもたらす重大な要因となったのは、労働者、プロレタリアートが人口の絶対多数をしめて、高度に組織化されていたということでなくて、労働者が貧農から支持されたことであった。最後に、ロシアの人民は高い文化水準も、妥協の習慣ももっていない。ロシアのプロレタリアートは、政治構造の点、労働者の政治権力の強さの点で、イギリスやドイツより進んでいるが、それにもかかわらず、能率的な国家資本主義を組織することについては、文化水準の点、社会主義を実施するための物質的・生産的準備の程度の点では、ロシアは西ヨーロッパの最も遅れた国よりもまだ遅れている。

 したがって、ロシアの場合の中心問題は、すでに1918年にレーニンが見とおしていたように、「文化水準」を高めることであり、農業と工業の設備、技術力の熟練、行政上の経験、政治的感覚などが、西欧の水準に追いつき、さらにそれを追い越すまで、高めることであった。また、資本主義によってプロレタリアートの手に残されたもの以外に、共産主義を建設するための材料はない。つまり、何百年、何千年にわたる奴隷制、農奴制、資本主義、小さな個人企業、自分の生産物や自分の労働のための市場と高価格をもとめる隣人との闘いによって、台なしにされた莫大な人的資源以外にはないのである。したがって、すぐにも西欧で革命がおこるという希望が放棄され、孤立した、遅れたロシアで社会主義を建設するという問題に直面しなければならなくなると、レーニンは、長期にわたる「じみな、めだたない、こつこつとした建設作業」が必要なことを予想した。その際に共産党員に要請される能力は、もはや燃えるような雄弁でもなければ、向こう見ずな勇気でもなく、恐れを知らない偶像破壊主義でもなくて、これまで軽蔑されていた、最もけちくさいブルジョア的資質であった。すなわち、「正確で誠実で簿記を実施し、倹約を守り、作業中は怠けず、盗まず、最も厳格に規律をまもること」がそれである。

 レーニンは1921年3月の第10回党大会によって提出され、実施された新経済政策が、実は1918年の古い経済政策であるといつも主張したが、彼は、新経済政策が大規模な一時的後退であり、新しい息抜き期間であり、新たな攻撃のための撤退、経済戦線のブレスト=リトウスクであることをかくそうとはしなかった。ロシアの労働者階級は、ひどい出血で疲れ果てていた。ソヴェト共和国を救ったのは、主として農民の軍隊であった。都市に食料が供給されない限り、工業生産の再開は不可能であった。だが、そうするためには、大多数の農民との間に、満足な経済的・政治的関係をうちたてなければならなかった。新経済政策の対象は農民であった。

 1921年3月にはボリシェヴィキの古い根拠地であるクロンシュタットで、守備兵の暴動がおこったが、これは危険な徴候であった。もっとも、当時のクロンシュタットの守備兵はもはや1917年のときのような忠実なプロレタリアではなくて、若い農民であった。だが、それだけにかえって、この暴動は重大な事件であった。あたかもそれは赤軍がポーランドで進撃を阻止され、西欧革命ののぞみがうすれたときにあたり、レーニンはこれをみてただちに、急激な政策転換を主張した。

 大地主所有地の細分がおこなわれたので、そのひとつの結果として、富農と貧農にくらべて「中農」の数が増加した。したがって、もし、ソヴェト政府が穀物の供給を確保し、これを増大させようとおもうなら、中農と折り合いをつけなければならないとレーニンは論じた。もはや、内戦のときにさかんにおこなわれた軍事的穀物徴発方法をとったり、中農に反対して貧農を支持したりしないであろう。また、トラクターと農業機械が大量生産できるようになるまでは、大規模な集団化も、実行可能な政策にはならない。したがって、まず、第一歩として、中農をはげまして市場向け食料と工業のめの原料を生産させることが必要であるとした。

 そのためには、美しい言葉や約束だけでは不十分であった。階級をだますことはできないとレーニンは言った。階級というものは、何か物質的なものを与えなければ、一片の紙切れでは満足しない。そこで、レーニンはさらにすすんで、小生産者に商業の自由をゆるし、農産物と交換するために都市で消費物資を生産するように主張した。まず、農民にたいして、これからは勝手に徴発したり、強制的に販売させたりしないという保証を与えて、彼らが自分の農業経営を発展させるように、励ますべきである。農民の生産高のうち決められた累進現物税を引き渡したら、残余の農産物は各自の好みどおりに、市場に売り出し、どこのだれに売るのも許すということであった。このことを可能にするには、工業、特に職人的な小工業にたいして、農民が買いたいとおもうような商品を生産するように推奨しなければならない。これはまさに、戦時共産主義下の大規模重工業重視の逆転であった。私的商業が復活し、ここでは、協同組合に大いに依存した。これらすべては、ルーブリへの急落への歯止めと安定通貨確立を含意していた。

そして、1922年には、社会主義国家における私企業の地位と権利を規定した、ソヴェト法典が制定された。レーニンは中央執行委員会の多数の反対をおしきって、「革命的法秩序をまもり」ある程度まで画一平等な裁判を実施するための官選弁護人を任命させた。

 レーニンはネップの基礎原則を次のように規定した。@すべての土地と「生産面での管制高地」を国有にしておくこと。A小生産者の自由な商業を認めること。B国家資本主義に私資本を誘致し、外国の資本家に利権をあたえ、私的利権受入と国家の名義人との合弁会社を設立すること。これらの原則はいずれも、ボリシェヴィキ党の内部闘争をへてはじめて採用されたものである。

 実際、クロンシュタットの暴動は、ちょうど党内で激しい論争が行われていたときにおこった。トロツキーと彼の支持者たちは、戦時共産主義の方策をそのまま続け、さらにそれを強化することを望み、経済危機から脱出する方法としては、労働を全般的に組織化し、軍隊化するように主張した。この政策は労働組合の指導者から反対されたし、また、レーニンがただちに指摘したように、トロツキーはいつもその傾きがあったが、農民を全く無視していた。赤軍の歴史を書いたある論者は、クロンシュタットの暴動が、共産党の頭首、ロシアの支配者になろうとしていたトロツキーの野望に警鐘をならせたという意味のことを言っている。このような見方は、党内でのトロツキーの重要性を誇張しているようにおもわれる。なぜなら、トロツキーがボリェヴィキ党に入ったのは、わずか3年半まえのことにすぎないからである。

だが、クロンシュタットの暴動が契機になって、レーニンの主張していた新経済政策が直ちに採用されるようになったことは、間違いない。しかし、政策を宣言しただけでは、闘いはまだ半分しか終わっていない。それ以降、レーニンは部下のものをやかましくせめたてて、農民に物資を引き渡すことに全精力を投入した。ネップは共産主義国者が国を統治できるかどうかをためす真の試金石である、と彼は宣言した。

 レーニンは1921年7月の共産主義インターナショナル大会において、ネップの根底にある政治哲学を、いつもの率直さで、次のように要約した。ソヴェト政府は農民の窮状をただちに緩和するために、政策をすばやくきりかえることができるし、また、実際にそうするつもりだということを、農民に見せなければならなかった。政府はある程度まで、欠乏の負担をいろいろに配分したり、いろいろな階級にこの負担をかけたりすることができるし、このようにして、住民のある層の状態を相対的に緩和することもできる。それはプロレタリアートの権力を維持できるような具合に、この負担を配分しなければならない。これがソヴェト政府の唯一の指導原則である。ロシアの農民が革命によって、労働者階級より多くの利益をえたことはまちがいない。政府はいまも農民に援助を与えているが、それはプロレタリアートが政治権力を維持するために、絶対にそうすることが必要だからである。一方、協同組合商業は農民が管理の仕方を学ぶための学校になる。それは、労働組合が都市労働者のためにはたすことを、レーニンが期待していたのと同じ役割である。

 われわれはレーニンの考えていたネップについて評価をくだすことができる。10月革命は、ソヴェト政府に権力を与えた。革命は、消極的な面では完全な成功をおさめた。つまり、皇帝と地主は永久に姿を消した。だが、革命後、直ちに社会主義を実施するわけにはゆかなかった。ロシアのように経済的に遅れた国では、そういうわけにはゆかなかった。多くの共産主義者は、西欧のもっと進んだ労働者が、ロシアの小さなプロレタリアートを助けにきてくれることを、期待していた。だが、1921年3月ごろになると、西欧で近いうちに革命がおこりそうもないことが明白になり、また、人口の大半を占め、外国干渉軍にたいして政府を支持するために結集した農民が、戦時中にやむをえず採用された方策を、これ以上続けることを、我慢できないことも明らかになった。ある程度までわれわれの革命はブルジョア革命であったとレーニンは述べた。これまでのところでは、大地主の追放と土地の分割によって、農民がもっとも多くの利益をえていた。だが、ボリシェヴィキは、ただ、ブルジョア革命をその論理的結論までおしすすめただけではなかった。彼らはまたソヴェト政府とロシア全国にソヴェト制度をうちたてて、社会主義革命のための闘争をやりやすくした。では、その上、何が必要だったのか?

 この問いにたいするレーニンの次のような回答をみれば、その後の20年間のソヴェトの政策の意味が非常にはっきりしてくる。小農民生産者が人口の圧倒的大部分を占めている国で、社会主義革命をなしとげることは、資本主義の発達した国なら全く不必要なような、多数の特殊な過渡的方策を用いることによって、はじめて可能になる。事実、まず、第一には国家権力を維持しなければならなかった(そのためには農民との友好関係が必要であった)、ついで、この権力を使って、遅れたロシアの生産力を発展させ、西欧なみの経済水準に到達しなければならなかった。共産主義とは、レーニンが有名な警句に要約したように、ソヴェト権力プラス全国の電化である。1921年以降は、ソヴェト制度を維持して共産党の手に政治権力を維持するという最も重要なことを脅かさないかぎり、生産力を刺激するためにありとあらゆる方策をとることが、社会主義のために必要だと考えられた。ソヴェト政府はこの唯一の留保さえみとめられれば、ロシアの経済生活がふたたび回転をはじめるようにするためなら、ほとんどどんなことでもするつもりでいた。私営商業が復活し、ルーブルが安定し、さきに国有化された一部の小工場が生産協同組合にゆずりわたされ、なかには、再び私有に返還されたものさえあった。外国資本家との利権折衝にはじまり、ソヴェト体制の安定性を彼らに信頼させるために、あらゆる努力が行われた。  ロシア人は先進諸国の労働者と比べると劣悪な労働者であると、レーニンは1918年に述べたが、これは愉快なことではないが、事実であった。さらに、レーニンはこの後進性の歴史的理由も述べたが、それにもかかわらず、彼は一連の過激な対策を提案した。それはその後のソ同盟の歴史のなかで広くしられるようになった方針である。すなわち、官吏や管理責任者が、漠然とした会議体のかげにかくれてしまわないように、彼らの単独責任制を強力に主張しなければならないとか、出来高払賃金とか、テーラー・システムを実験してみなければならないとか、競争を奨励するべきだというのが、それである。出来高払賃金は、実際に、1918年に採用された。だが、個人の利己心に訴えるこの種の差別のある配給制度やボーナス制度が十分な効果を発揮したのは、ネップが実施されるようになってからであった。

 平等主義者たちはショックを受けた。彼らは、革命的英雄主義の時代があまりにも速やかに過ぎ去ってしまったと感じた。だが、レーニンは、彼の常識に富んだやり方に確乎たる自信をもっていた。しかも、どんな場合でも、彼はマルクス・エンゲルスの著作から十分な論拠を手にいれることができた。利己心は発展させるだろう、とレーニンは1921年10月31日の『プラウダ』に書いた。「しかも、われわれは、まず、第一にあらゆる犠牲を払っても、生産を発展させなければならない……直接に熱狂によってではなく、大革命によって生みだされた熱狂に助けられつつ、利己心、個人的利益および経営上の原則に立脚して、諸君はこの小農民国に国家資本主義をへて、社会主義にいたる堅固な小さな橋をかける仕事に、とりかからなければならない」。ソヴェト国家にたいして、どんなに敵意をいだいていても、かまわずに、ブルジョア専門家を利用しなければならない。ソヴェト国家がブルジョア専門家の助力なしに、純粋な共産主義者の力だけで、共産主義を建設することができるという考えは、子供じみている。資本主義文化の遺産を利用せずに、社会主義を建設することはできない。たとえ、ブルジョア専門家が一歩すすむごとに抵抗し、闘争しようとも、彼らがいやおうなしに協力せざるをえないように、組織された、創造的な、調和のとれた活動で、彼らを包囲しなければならない。もし、われわれが賢明に学びさすれば、どんな高い授業料でも高すぎることはない。

 レーニンはネップについての見解を要約した例の有名なスローガンのなかで、われわれか彼らか、つまり資本家か、それともソヴェト政府かどちらかだと言った。また、一部のソヴェトの経済学者が、永久的にネップをつづけるとか、クラークが「社会主義に成長する」とかいうことを夢想したとき、すでにレーニンは、全国の電化とか重工業の計画的発展とか、農業の集団化とか世界戦争に備える準備など、当時すでに彼は戦争の不可避性までみぬいていた。

 すでに1918年2月に、ソヴェト法は、社会主義農業へ移行するために集団農業を発展させることについて述べ、その9か月後にレーニンは、農業の共同体的、協同組合的形態への移行方法について論じた。彼は、集団農業の技術的可能性をつくりだすことではなく、農民にこの可能性を利用する準備をさせるのも、国家の仕事だということを、重ねて強調した。いまだかつて小農が理論的信念にうごかされて集団的生産に移行したことはなかったというカウツキーの嘲笑に応えて、レーニンは反論した。「だが、カウツキー君、もし農民が小生産のための農具をもっていなくて、プロレタリア国家が彼らを助けて、土地を集団的に耕作するための農業機械を入手させてやるとすれば、いったいどうして『理論的信念』が問題になるのか?」。あらゆる形の個人農業は過渡的なもの、もはや寿命のつきたものと、みなされるべきであると、1919年2月のソヴェト大会中央執行委員会の決議は述べた。さきに没収された大土地所有地には、すでに2、3の国営農場や集団農場が設立されていた。1920年までに、これらの農場の数は1万6千以上になり、たえず政府の奨励を受けていた。

 レーニンは彼の最後の労作のひとつで、再び、この問題を取り扱った。それは『協同組合について』という有名な論文で、彼が1923年1月に、1度に30分ずつ、非常な苦しみに耐えながら、口述したものである。革命前には、マルクス主義者は協同組合運動によって、社会主義へ直接に移行するというユートピア的夢想を軽蔑していたと彼は述べた。だが、いまでは、政治権力の移転によって、すべての事情が一変した。実際、国家権力が労働者階級の手にあるのだから、そしてこの権力がすべての生産手段を所有しているのだから、住民を協同組合に組織することこそは、われわれがこれから本当に遂行しなければならない唯一の任務であるとした。

 かつては、ホリシェヴィキは革命と政治権力の奪取を強調し、「改良主義者」を嘲笑したが、権力がすでに奪取された現在では、組織、教育活動、改良主義的方法が大切である。政治革命が完遂されたので、経済発展の面では、「漸進主義」をとることが可能になった。共産党はこの事実をしっかりとつかみ、この事実にもとづいて行動するための、気分の切り替えに幾分困難を感じたが、レーニンはうまずたゆまずこの点に、党員の注意を促した。戦時共産主義にかわってネップを採用するのは、いわば強襲によって城砦をとるのに失敗したあとで、攻囲戦に移るようなみものだと彼は言った。全国的規模の長期にわたる不屈の組織活動における英雄主義は、蜂起のときの英雄主義より、はかりしれないほど、困難であるが、それはまたはかりしれないほど優れたものであった。

 ロシア共産党は、奈落のうえにぴんと張られた一本の綱の上を歩いているような立場にある、ということをレーニンはよく知っていた。党は自分がしっかりと理解している線に沿って人民を導こうとしていた。だが、党は、人民のなかでは、大海のなかの一滴のしずくのようなものであり、人民が心の中で考えていることをわれわれが正しく表現した場合に、はじめて党はうまく管理することができる。党の綱領を実行にうつすためには、主導権を党の手にしっかり握っていなければならないが、党の勢力は干渉戦によって悲劇的なほど消耗してしまっていた。社会主義を建設するために、共産党にとって、まず、第一に必要なことは、ロシアを西欧資本主義なみの経済、文化水準にまで高めること、さしあたりは、ある意味で、資本主義を再建することにあった。階級のない社会の前提条件を建設するために、利己心という動機を利用し、個人の創意を刺激するために、国家の統制を利用し、住民に民主主義を教育するために、独裁を利用することが、必要であった。1億5千万人の人間の再教育という、この膨大な仕事は、この教育をする人々に、ほとんど耐え難いほど激しい精力と私心のない献身とを要求した。党員たちはレーニンの鋭い目がたえず彼らの上に注がれていることを必要とし、レーニンの鋭い舌鋒、あるいは励まし、あるいは辛らつに嘲笑し、あるいは意気消沈させ、あるいは、自己満足をゆるしがたい犯罪ときめつけるレーニンの鋭い舌鋒を必要とした。責任のあるソヴェトの地位(あるいは大して責任がなくてもかまわない)を占めていて、良心的な人だという広汎な尊敬をうけている共産主義者こそは、国内におけるわれわれの最悪の敵である。

 だから、ネップ(新経済政策)は、レーニンの思いのなかでは、戦争経済から社会主義建設への移行の難しさや、資本主義にたいして譲歩する必要を唯一の理由としてもっていたのではなかった。さらに、根本的には、ネップは、政治的な内容としては、社会主義建設における労働者階級と農民大衆との経済的同盟の意味をもっていた。このことは、小商品生産にたいする譲歩をともなった。現物税が「食糧割当徴発制」にかわり、現物税そのものも減った。そこで農民は、余剰分を自由に処分することができるようになった。その結果、商業の自由が生じ、農民の労働生産性の上昇にともなって、資本主義が不可避的に生ずることになる。しかし、農業の発展によって国営工業の発展が容易になり、そして、この国営工業が、再生しつつある私的資本主義を駆逐していく。このようにして、社会主義的蓄積は、急速なテンポでもって(右翼の反対に反して)、また農民を疲弊させたり、彼らに犠牲を強いることなく(左翼の反対に反して)行われうるはずだ。

 ネップは、だから、それまでの目標にたいして戦略的な退却をおこなったものであった。長期計画が共産主義の即時かつ急速な実現の思想にとってかわった。レーニンとボリシェヴィキ党は、反対派が敗北とみなし、決定的な失敗であるとさえみなした旋回をやってのけたのである。その際、レーニンの念頭を離れなかったことは、『共産主義内の「左翼主義」小児病』のなかで、彼が指摘した意味での実り豊かな妥協であった。

 だから、ネップは、レーニンにとっては、すぐれて歴史的・理論的意義をもつものであった。ネップは、支配階級になったプロレタリアートが絶えず新たな矛盾に直面することを、特別に意味していた。プロレタリアートは、これらの矛盾を解決する手段をもっている。党は、このような客観的条件において、これらの手段のうちで、最も重要で、最も有力な手段であることを証明した。

 

《全体としての社会の首尾一貫した漸進的な発展-上部構造と土台との照応-は、数多くの問題の解決を必要とするし、闘争を通じて遂行される。主体的な要素、すなわち、理念と知識、上部構造と国家、ひとことでいえば、政治的要因が規定的なものになる。ところで、党は、これらの諸要素を集中し、支配する。問題が複雑になればなるほど、諸矛盾が深まれば深まるほど「主体的要因」と客観的認識の最高の形態としての党がそれだれますます重要となり、党の統一と「党の精神」とがそれだけますます決定的な役割を演ずるようになる。党は、レーニン主義の皮相な解釈者たちや、教条主義的なまたは批判的な「支持者」たちが考えるように、一つの目的、一種の目標そのもの、一種の絶対的なものとなってはならない。党は、目的と現実、理念と契機、知識と大衆、自然成長性と生気を与えられた意識等々のあいだの媒介にとどまっている。しかし、それは、この主要な伝達機関に、決定的な行動的要素になっている。》

          『レーニン』 H.ルフェーヴル著 大崎平八郎訳

 

 ネップは、プロレタリアの独裁のもとでのロシア革命における資本主義と社会主義との仮借なき、死にいたる闘争を意味していた。レーニンは1920年に「誰が誰に」という問題を提起した。社会主義が勝利するために、独裁とその基礎をなす労働者と農民大衆との同盟を強化しなければならないとレーニンは党に呼びかけていた。特に、経済管制高地を死守し、それらを急速な経済的社会的進歩の方向に沿って、利用するように呼びかけていた。

 労働者階級と農民大衆との同盟の歴史的条件によって要求される革命的妥協としてのネップは、いろいろの問題を提起したが、これらの問題は、遅かれ早かれ、あらゆる国のすべての革命党に提示されるだろうということを、レーニンは指摘していた。彼にとって、一時的退却としてのネップは、近い将来においてさらに、広汎な攻撃戦線をもたらすであろうと考えていた。農業の社会主義的改造を保障するこの新たな攻勢に転ずるには、その基本的な前提として、まず、生産力の増大と、トラクター、燃料、肥料などを農民に供給しうる重工業の創設が必要であった。

 その頃、レーニンの指導のもとに、「国家計画委員会(ゴスプラン)」が設立された。このゴスプランは計画(ゴエルロ)を完全なものにし、社会主義建設の要求や政治経済学の一般法則にしたがって、このゴエルロ計画の実行を保障することを任務としていた。レーニンは、電化計画の実施を自ら指導した(最初の水力発電所はカシーラとヴォルホフに建設された)。彼は経済の発展に地方当局が参加するように、自ら指令(労働国防会議布告)を書いた。上から刺激を与えながらも、レーニンは下からの運動を、つまり、大衆の感情や熱望をたえず非常に重視していた。彼は、労働者や農民たちと会談したり、彼らに自分で手紙を書いたり、また、たくさんの手紙を受け取り、これらの手紙を大そう丁寧に整理した。レーニンは大衆を教えながら、同時にまた、大衆から学ばなければならないと述べている。

 彼は官僚主義と戦い、「官僚主義の侵犯」があった場合は、それを裁判に付する指導機関の設立を要求していた。公共の財産の浪費者や窃盗者にたいしては、たとえ、それが労働者であっても、彼は峻厳な態度をとった。彼は創意をほかのいろいろな資質より高く評価していた。こうして、彼は革命精神を徹底させた。プロレタリアや党員をふくめて人間は、世界を変革するために自分自身を変革しなければならないし、また、自分自身を変革するためには、世界を変革しなければならない。道義的、思想的変革は、彼にとっては、実践的、社会的変革の本質的な側面であった。このように、新しい世界、新しい人間、新しい意識が、彼にあっては、社会主義と同義とされていたのである。

 人間そのもののこのような変革のなかで、党はまた基本的な役割をはたさなければならなかった。党員の数だけでなく、その質にも意を用いる世界でただ一つの政府党であるとレーニンは書いた。彼の指令に従って、入党の条件はさらに厳格になった。党員候補者には長い「党員候補」期間が義務づけられ、大工業に10年以上勤続した労働者については、党員候補期間が6か月に短縮された。追放が行われ、「官僚化したもの、不誠実な連中、たよりのないもの」たちが党から一掃された。レーニンは、これらの追放を「革命の重要な勝利」とみなした。

 だが、しかし、その後も、レーニンはたえず、繰り返して、共産党員はまだ教養や実務能力や問題意識を欠いていると述べていた。なぜなら、都市と農村とのあいだの商取引が発展していったネップ期には、共産主義者たちは、いろいろの新しい形態の商業を営なまなければならなかったし、管理、行政、計算の発達したセンスを必要としていたからである。なぜならば、民族政策の適用(自由に結合した諸民族の連邦組織)によって、ボリシェヴィキ党が、ソ連邦諸民族間の主要な鎖となり、統一と計画化その他の「継ぎ目」となったからである。諸課題が集積された。

 レーニンは非常に頑健な体格をもっていたので、1918年に受けた傷から生き残り、激しい労働を再び始めることができた。しかし、1921年の冬から1922年にかけて、彼の健康は悪化した。1922年5月に、最初の卒中が右半身を襲い、言葉がもつれ始めた。1922年の夏中、健康はやや小康を得て、彼は再びいくらか仕事を始めることができるようになった。1922年10月31日に、レーニンはソヴェト中央執行委員会で演説したが、彼は、新しいロシアは先進資本主義諸国よりもはるかに低い水準から出発したが、これらの国々に急速に追いつき、追い越すだろうと宣言した。

 11月18日に、インターナショナル第四回大会で、レーニンは、ネップについて総括を行った。もういまでは国家としてのわれわれが、商業を営み、農業と工業とのしっかりした地位を確保し、前進することができるという証拠があると語った。ソヴェト国家は重工業の発展に当てられる2,000万ルーブルを、すでに18か月のうちに蓄積することができたと彼は報告した。 それから8日後に、彼はモスクワ・ソヴェト総会で演説して、次のように言明した。

「われわれは社会主義を日常生活に引き入れた。ここでわれわれは事柄がどうなっているかを理解しなければならない。これこそこんにちの任務である。これこそわれわれの時代の任務である。」

1924年1月21日午後6時ごろ、レーニンは激しい発作に襲われ、意識を失った。意識はそのまま戻らなかった。午後6時50分、レーニンは永遠に帰らぬひととなった。

 

38  レーニンの最後の闘争

 

 1922年3月6日、レーニンの病状は急変して重態となり、9日には三度目の発作をおこした。ついに、これ以降、レーニンは政治活動にかかわることがまったくできなくなった。雪解けをまって、5月に、彼はクレムリンからゴルキ村へ移された。7月頃から、レーニンは少し快方へ向かい、10月19日にはモスクワへでかけ農業博覧会に立ちよったりしたが、これがレーニンの見た最後のモスクワだった。

これは、レーニンの最後の公式の意思表示であり、彼の最後の演説であった。1922年12月12日に、彼は、クレムリン内の自分の書斎で執務したが、これが、そこで彼が仕事をした最後の日となった。しかし、1923年はじめに、彼は一連の重要な論文、「日記の数ページ」、「わが革命について」、「われわれは労農監督部をどう改組すべきか」、「量はすくなくても、質のようものを」をそれぞれ口授することができた。

 これらの最後の諸論文のなかで、レーニンは、ソヴェト社会と社会主義建設に脅威をあたえている大きな危険、つまり官僚主義について、くどいほど注意を促して、新しい問題を指摘している。

 1921年3月の第10回党大会の党規律強化に続いて、党の粛清があった。これは、一年後の第11回党大会で更に強調され、そのほとんどがかつての労働者反対派であった22人の異端者が譴責され、その5名の指導者のうち二人が党から除名されたが、レーニンは、5人すべての除名を要求していたのである。この新たな危機は党機構の一層の強化を必要とした。1920年に任命された三人の同格の党中央委員会書記は無力であったことが明らかになり、解任された。ネップによって開始された経済復興過程は、レーニンが永きにわたる致命的な病におわさわれたことによって、影がなげかけられた。

1922年5月、レーニンは数週間にわたって、仕事が不能になる発作に襲われた。10月には仕事にもどり、いくつかの演説を行った。しかし、彼の体力は明らかに無理な状態にあった。12月13日レーニンは再度、病に倒れ、医師のすすめでかれは、クレムリンの一室にひきこもった。1922年4月4日、第11回党大会の数日後、スターリンが書記長、モロトフとクイブィシェフが書記になることをレーニンは受け入れた。むしろ、彼自身がそれを提案した。誰もこの発表を特に重要視していなかった。スターリンは勤勉かつ有能で、忠実な党役員として知られていたのである。レーニンが最初の発作の後に職務に戻ったとき、彼は明らかに、スターリンが根気よく書記局の権力と権威を築き上げ、しかも、自分自身の個人的地位をも築いているやり方に驚愕した。スターリンは、今や初めて党内の指導的人物になっていた。この地位は、後になったほどには重要でなかった。しかし、その年のうちに重要性を増大させたが、それにはレーニンの不在が関与していた。スターリンは身の回りを自身で選んだ人々で固めつつあった。そこに2つの課題が持ち上がった。

一つは、外国貿易の独占の破棄を約束した者がいたが、レーニンはこれに反対した。3月にはレーニンの議論が勝ちを制したように見えたが、政府筋は討論をつづけ、レーニンはスターリンにたいして計画案を停止するよう命令した。しかし、それはレーニンの言葉ではなく、スターリンの所見が付け足されていた。レーニンの原則は、ようやく5月22日に政治局で採択された。ところが、レーニンが仕事に復帰してから数日後、10月6日のレーニン不在の中央委員会の会合で、国家の貿易の独占を削減する提案が批准された。レーニンはこの決定を個人にたいする攻撃であると感じた。彼は中央委員会の決定を覆すため戦いに突入し、次の中央委員会総会のための地固めを始めた。政治局はやむなく譲歩し、中央委員会の投票にかけることにした。スターリンは不本意であったが、こうして、レーニンの要請に賛成して、中央委員会にかけることの票固めに成功した。だが、レーニンは病状が悪化しているので、12月12日トロツキーと話し合い協力をとりつけた。同じ日、レーニンはスターリンその他の中央委員に宛てた書簡で引退を表明した。

 中央委員会と政治局では、後継者の問題がひそかに指導者たちの心を占めていた。レーニンのおかげで点をかせぎつつあったトロツキーは、古参ボリシェヴィキからみれば傲慢な闖入者でしかなかった。トロツキーにたいする憎悪と彼を権力から遠ざけておこうとするスターリン、カーメネフ、ジノヴィエフの三頭政治がこの数日で姿を現した。12月18日中央委員会は、レーニンにあれほどの心配をかけた、先の決定は無効にされた。スターリンは後退した。これは彼が劣勢にあるときの通例の戦術だった。それにひきかえ、今は病床を離れられなくなったレーニンは、成功をよろこんでトロツキーを暖かく迎えた。

この一連のいきさつで分かることは、レーニンの指導力に関するもので、レーニンの意見と提案が自動的に採択されるものではなかったことである。彼はしばしば指導者層の他の人々にたいしてそれを擁護するよう要請したということである。もう一点は、レーニンが新経済政策を実施するうえで意味している危険性を感じていたことである。農民との同盟は譲歩なしには達成できないものであり、他方では譲歩は他にいくつかの予防策を維持することが必要であった。このような独占の自由化は国家から物価や農業生産者を統制する一切の手段を奪ってしまうことにもなりかねなかった。

 レーニン最後の闘争の二つ目は、民族問題をめぐるレーニンとスターリンとのやりとりである1920年から21年にかけて、6つの民族共和国(ウクライナ、ベロロシア、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、そしてロシア連邦)の関係が明確に規定されていなかった。いままで、ロシア連邦と他の5つの各共和国との間で結ばれた二国間条約によって規制されていた。各共和国の政府は、ロシア政府の構造に準じた構造を有していた。国家からの監督は、モスクワの中央委員会と政治局に従うことになっていた。ただし、軍事については、各共和国別個の軍事的単位を保持する権限をもっていた。コーカシア地方の三つの共和国は赤軍に征服されるまでは、ソヴェト権力にならなかった。

内戦の期間、オルジョニキーゼが、コーカシア戦線における政治、軍事双方の指導者であった。ソヴェト政権の側にコーカシアの諸共和国を軍事的に獲得したのは、彼であった。戦争が終わっても彼はそこにとどまり、党コーカシア局の長としてその地域のモスクワ代表となった。レーニンは、1921年コーカシア局に三つの共和国の経済的統一化を行い、トランスコーカシア連邦を結成するよう力説した経緯がある。しかし、オルジョニキーゼは彼自身グルジア人であるが、ロシアとソヴェト体制との絆を肯定しながらも、民族的独立意識の強いグルジアの党中央委員会と対立することになった。したがって、彼らは、党内の他のいかなる民族グループよりもソヴェト体制の枠内での独立の原則を強調した。スターリンの支持をうけたモスクワ中央委員会の代表とグルジア中央委員との紛争は激しさを増した。グルジア人たちは、経済的統合を妨害し、国境に守備兵を配置し、居住証明書を要求した。グルジア人たちは革命軍事委員会、ソヴェト大会で、民族的独立の不可侵性に関する決議を行っていた。にもかかわらず、オルジョニキーゼは1922年3月、グルジアの反対を押し切り、アルメリアとアゼルバイジャンの従順な指導者に頼って連邦憲法の草案を発表した。スターリンとオルジョニキーゼを一方とし、グルジア中央委員をもう一方とする緊張は、さらに高まった。

1922年8月10日、次の中央委員会の会合のために、ロシア連邦と他の諸共和国間の関係を調整する委員会をよびかけた。委員会の議長はスターリンであった。そして、スターリン自ら「自治化計画」として知られている決議を起草していた。これは、これらの「独立共和国」を「自治共和国」としてロシア連邦に包括することを規定していた。スターリンの計画は、アゼルバイジャン、アルメニアでは承認されたが、その他には反対を受けた。グルジア人たちの返答は断固たるものであった。各共和国の反応がモスクワに集められると、委員会は再び9月24日、25日に会合を開いた。そして、グルジアの代議員の棄権を除いて、スターリンの計画は何の修正もうけずに採択された。ただし、ロシア連邦政府がすべての諸共和国の政府となることを定めたこの計画は、彼らの真の希望ではなかった。程度の差こそあれ6人のうち4人がそれに反対していた。

他方、レーニンは、まだ回復途上にあったが、この問題に鋭い関心を払っていたので、スターリンに委員会の仕事の進展具合の情報を求めた。そのときにはレーニンは、グルジアの紛争には関心をひいておらず、オルジョニキーゼとスターリンから供給された情報を信じているようであった。他方、レーニンは、スターリンが「あまりに急ぎすぎている」と見ていた。つまり、レーニンが自治化計画を拒否し、別の解決策として、「平等の権利を享受する諸共和国の連邦」を実現することを望んでいた。ロシア政府は、この連合体の政府にはならない。レーニンは、ソヴェト共和国連合の連邦執行委員会と新しい連邦人民委員会議、つまりその管轄下にロシア政府そのものを含んだ一つの組織を提案した。こうして、ソ連邦(USSR)としてやがて知られるようになった計画案がつくりだされた。その間、スターリンは短気で自分の見解の正しさを確信し、既成事実を確立してしまう決意を固めた彼は、レーニンの意見を待ってはいなかった。スターリンは政治局員にレーニンの覚書を送付したが、それには、きわめて公然と人民委員会議議長を「民族的自由主義」として、分離主義を勇気づけるとして非難した書簡を付した。スターリンはその書簡で、一点一点についてレーニンに反撃している。しかし、スターリンは、自分が中央委員会で少数派になると知ると、前言を翻し、譲歩し、レーニンの修正案を組み入れて自治化計画を連合計画に変えた。それでも、オルジョニキーゼとスターリンは、個人的な復讐を画策し、彼ら二人が正しく、他のグルジア人が誤っていたことを立証する方法を考えた。いまやオルジョニキーゼは一層強力な方法を用いた。モスクワの書記局からの支持を背景に、彼はグルジア中央委員会を支持するものにたいして、懲罰措置としてモスクワ中央委員会の処置に身をまかせるよう命令した。

グルジア中央委員会は、この情報をブハーリンに伝えた。ブハーリンが彼らの不服をレーニンに伝えると、彼の「連合」の原則とグルジアにたいして行われている政策との矛盾を見ていることができなかった。グルジアの中央委員会は前例のない行動に出た。10月22日彼らは総辞職した。これはオルジョニキーゼが望んでいたことであった。この時点でレーニンは、状況に対して不安を感じはじめた。オルジョニキーゼがグルジア共産党員を威嚇していると伝えた情報を得た。レーニンに最初に情報を提供した人々に疑惑を感じるようになった。その後、オルジョニキーゼが共産主義者の統治者として征服国で植民地総督のように振舞っていることも耳にはいった。この由々しい事態は、彼の病状を悪化させた。

レーニンのもとで、スターリンは第一級の指導者になった。レーニンはスターリンを第一級と認めていた。にもかかわらず、国際主義が中央集権制の犠牲にされてはならなかった社会主義イデオロギーの諸原則を、不断に心に止めておこうとする決意が、レーニンの連邦計画案とはすれ違いと摩擦をなって表現されたのである。

 1922年の10月、レーニンはトロツキーに「官僚制に反対するブロック」を形成し、その闘争を指導することを依頼した。この時、トロツキーは、官僚制にたいする闘争は、党および党指導部から除去することを披瀝した。12月16日の朝、レーニンは非常に激しい発作を襲われた。情報を入手し、意見をだし適当な人々に伝えるためのレーニンの困憊した闘争がはじまった。面会は禁止になった。ただし、レーニンの病状の確認、監視人にスターリンが選ばれたということである。

クルプスカヤとスターリンの間におこった事件は、12月22日に起こった。前日、クルプスカヤがレーニンの口述で書簡を書いたことを通報者から知ったスターリンは、彼女に電話をかけ、クルプスカヤ自身の言うところでは、彼女の上に「下劣な罵言と脅迫」を言ったというのである。さらに、彼は医師の命令に従わせなかったという理由で、党中央統制委員会に彼女を処分させるとおどかした。このような無作法はいままで例のないことだった。スターリンは激しい怒りに駆られて行動していたから、慎重さと思いやりにたいする一切の配慮をかなぐり捨てていたのである。書簡はトロツキーにあてられ、外国貿易の独占についての中央委員会の討議で勝利したことを祝うものであった。

スターリンはレーニンとトロツキーの間が最近、ますます親密になっているのを懸念していた。これが、スターリンが彼の権力の一切を挙げて、レーニンに対する監督を一層強化しようとした理由であった。この一例は12月23日に起こった激しい発作のあと、翌朝、右手と右足が麻痺していることを知った。彼の頭は国家と党の将来で占められていた。そこで、毎日5分ずつ口述の許可を求めた。医師たちはとめようとしたが、レーニンは一切拒否した。「遺書」はこのようにして書かれたのである。「遺書」は12月23日から31日までと1月4日の補遺とからなっていた。

 12月23日の覚書は、政治局員の回覧に供するため直ちにスターリンに送付された。おそらく、スターリンはそれを誰にも見せなかったのだろう。それに続く他の覚書は、もしスターリンがそれを見ていたならば彼を安心させるような内容だった。しかし、それは、少なくともしばらくの間は、誰にも伝達されなかった。それは、レーニンの指示によって「絶対的な秘密」にされたのである。レーニンが危惧した党の分裂とは、権力の頂点にいる人的関係にあった。彼が、「近い将来」の脅威として描いた分裂は、中央委員会メンバー間のものであり、スターリンとトロツキーの関係は、「その分裂の危険の大半」であった。それから6人の指導者、スターリン、トロツキー、ジノヴィエフとカーメネフ、ブハーリンとピヤタコフの肖像を描き出していた。

 レーニンからにみたスターリンとトロツキーの肖像は次のとおりである。

「同志スターリンは、書記長になってからは無限の権力を手中に集めた。私は、彼が常にその権力を充分な注意をもって行使できるかどうかについては確信がない。他方、同志トロツキーは、通信人民委員の問題をめぐる彼の中央委員会に対する闘争がすでに立証したように、傑出した能力によって群を抜いているだけではない。彼は個人としては、おそらく現在の中央委員会の中でもっとも有能な人であろう。しかし、彼は、あまりにも大きい自信を誇示し、仕事の純粋に行政的な側面に過度の関心を示してきた」。

 しかし、レーニンは党に後継者を提案する権限があるとは感じていなかった。要するにこの段階のレーニンは、二人の最も卓越した指導者スターリンとトロツキーがぬきんでた地位を保持していることを提案していたのである、とレヴィンは語っている。

しかし、それから10日後、1923年1月4日、レーニンは、「遺書」に最後の部分をつけくわえた。そしてそれは初めの部分の均衡をまったく覆した。レーニンはスターリンから書記長としての権力を剥奪することを提案した。

「スターリンはあまりに粗暴である。この欠陥は、われわれだけの中では、またわれわれの中で党員を扱うには充分耐えていけるが、書記長にあっては耐えがたいものになる。それが、私が、同志諸君がスターリンをその地位から取り除く方法について考え、彼に代えてあらゆる点で同志スターリンよりも優れた別の人、つまり彼よりも寛容で、忠誠で、鄭重で、同志にたいして配慮に厚く、気紛れでない別の人を任命することを提案する理由である。」この豹変が12月23日のクルプスカヤにたいするスターリンの無礼な取り扱いが原因になったことは充分考えられる。たしかに、レーニンはその二ヶ月後にスターリンに宛てた次のような書簡で、そのような振る舞いを許すような人間ではなかった。

「私は、私にたいしてなされたことをそう簡単に忘れるつもりはない。また、私の妻にたいしてなされたことを私自身にたいしてなされたものと考えていることについては、言うまでもない。」実際にはクルプスカヤは、レーニンの健康に影響を及ぼすことを恐れて、事件当時は話さなかったと推測される。それから、何日かたって、彼女が自分から話したのか、彼が質問攻めにしたのかは分からないが、その時、レーニンが怒りにまかせて直ちにこの覚書を口述したのかもしれない。

 だが、レヴィンはそのような見方を否定している。つまり、このクルプスカヤの事件によって、中央委員会内部の力のバランスを乱すような政治的行動に、レーニンを駆り立てたとはおもえない、というのだ。彼がそこまでいうにはもっと重要な理由があった。このことを示す証拠は12月30日、31日に口述された民族問題と自治化に関する覚書のなかにある。民族問題に関する考察は、自己批判からはじまっている。レーニンは彼の政権が、少数民族を守るために充分手をつくしてこなかった。ソヴェト政権のもっとも高い地位にいる党指導者さえもが、些細なことについてであるとはいえ、全く帝国主義的な振る舞いをしたのである。レーニンによれば、党の指導者は国際主義的な精神で、民族問題を解決するに当たって、自らを導くべき第一の原則すらわきまえていなかった。スターリンは、乱暴なまでに性急で、いわゆる「社会民族主義者」にたいする怒りに身を任せたと非難している。レーニンは率直にオルジョニキーゼとスターリンを、大ロシア的な弱いものいじめをもたらしたこと、プロレタリア国際主義の原則を破ったこと、そして、帝国主義的な態度に陥ったことについて非難した。彼は、オルジョニキーゼにたいする「みせしめ的な懲罰」を要求し、スターリンとジェルジンスキー、この二人の政治的責任者にも公的な非難を行うよう要求した。

 1923年の1月と2月は、5つの論文を書き数週間後に行われる党大会のために仕事の完成を急いでいた。実際的には特に三つの問題が彼の心を占めていた。彼は官僚制に関する強い猜疑心をもっていたので、それに関するデータを見ようとしたが、スターリンの許可が必要だった。このことが1月10日レーニンに癇癪を爆発させ、さらに1か月後の2月12日に神経の危機を引き起すことになった。医師がレーニンの要望していることまで把握しており、「中央委員会が医師に命令している」印象をレーニンがもった。レーニンが心をしめていた第二の問題は、中央委員会と最上層機構を改組しようという計画であった。

しかし、彼が最も気がかりな問題は、グルジア事件とソ連邦の憲法であった。その証拠の収集をおこなう過程のなかで、スターリンの横槍がはいり、政治局の名において書類を持ち出すことがむつかしくなっていた。あまりに危険な文書は書類の中から消えていた。それで、レーニンの意向にそった問題について調査委員会をつくらなければならなかった。レーニンは、党内の悪しき傾向を排除することを徹底的に暴き排除することを狙っていた。

レーニンは作業に拍車をかけた。彼の健康はおぼつかなかったが、しかなる犠牲を払っても、来るべき党大会に民族問題についての覚書を配布したいと考えていたのである。3月3日に委員会はその結論を提出していた。しかし、その文書は今に到ってもあかるみに出ていない。レーニンは、この不幸なグルジア事件が、さらに根深い疾病のひとつの徴候にすぎないことを確信した。しかし、レーニンの健康の衰えがこのような道徳的、神経的な緊張のなかで長く生きていくことを許さなかった。彼の病状は急速に悪化した。そして同盟者としてトロツキーに書簡を宛てた。トロツキーにとっては、レーニンが提案した「官僚制に関する問題」は、トロツキーの以前からの念願が解決したことを意味していた。レーニンはスターリンのクルプスカヤにたいする侮辱的に処置について、スターリンあてにもう一通の書簡を宛てた。これには、謝罪するか、「同志的関係」を絶つかの詰問がなされていた。

しかし、3月7日、彼はもう一度激しい発作を起こした。彼は危篤状態にあった。3月10日彼の半身は麻痺した。彼は二度と口をきく力を取り戻さなかった。まだ、壮年期なのに、すっかり疲れ果てていた。レーニンは事実上の引退を余儀なくされたのである。こうしてレーニンの政治生活は終わった。彼はまだ53歳だった。彼はそれから11か月後、1924年1月21日に死んだ。

 レヴィンは、レーニンの「遺書」の要約をして、次のように書いている。

@ 民族主義、特にロシア民族主義を抑制すること。全統治機構によって強化されつつあるこの大国的排外主義と戦うこと。連邦の諸国民を国際主義の精神に目覚めさせること。

A 党指導部のレヴェルをも含めて、あらゆるレヴェルにおいて無知で浪費的で潜在的に抑圧的な官僚制と戦うこと。能率的な国家行政を創出するために努力すること。

B スターリンを除去すること。

 だが、レヴィンは、これらの言葉の裏をはっきりと見据えていた。それは、次のように表現されている。

 

《レーニンは、官僚主義の熱烈な敵であったが、それを充分深く分析していなかった。彼は、自分がまだその減少を充分に理解していないことを認めていた。「それは、まだ、われわれが研究することができなかった問題」であった。一般に彼は、それを旧体制から相続したものと見なしがちであった。この説明は、部分的には正しいとしても、不充分である。その上、官僚制は、その構成と方法によってソヴェト社会を分かつことができない一部となり、ソヴェト体制に深く根を下して間もなく過去からの要素は一切の重要性を失うことになるのである。説明は、他のところに求めねばならない。》

              『レーニンの最後の闘争』  M.レヴィン著 河合秀和訳

 

 レーニンが官僚主義に反発をしていたのはまちがいない。ただし、官僚主義の根深さを充分理解していたとはいえなかった。だから、レーニンの最期にあたって自分自身に向けられた官僚主義の圧力にたいして、最後の抵抗をこころみた。そして、中央委員会の増員や中央統制委員会の新設など、統治機構の改革を構想した。だが、レヴィンが見失わなかったのは、その改革された組織の中に、レーニンその人が非在であるという恐怖である。どのように組織改革を推し進めてみても、レーニンが不在であるならば、彼に代わる優秀な官僚をあらたに教育しなければならない。それが官僚の特権化につながることもわすれてはならないのだ。ロシア革命は、もともと上から下への革命を続けてきた、この体制を維持する限り、官僚主義の再生産はまぬがれない。レーニンが、レーニン以後を含めて、官僚主義をなくそうとする理念を生み出さない限り、官僚主義はなくならない。そこにレーニンの官僚主義にたいする甘さがあったのである。

12回党大会(1923年4月17日開会)がせまっていたが、それにどう対応するべきかは、困惑のもとになった。これまでの大会では異議なくレーニンがまとまっていたリーダーシップの外套を、一体、だれがしきることになるのだろうか?レーニンが回復することもまだ絶望視されてはいなかった。しかし、暫定的選択にせよ、将来の継承を予断する可能性があった。過去に異端歴をもつ新参党員のトロツキーは、1917年以来の彼の権威ある地位を、レーニンのたゆみない支持に負っていた。これを奪われた彼は孤立し、党を率いる願望をもたなかったし、また、もつことができなかった。彼がある程度の傲慢さをもって扱った直接の同僚は、彼を嫉妬の入り混じった嫌悪感をもって眺めた。そして、かつての労働軍隊化の唱道のせいで、彼は労働組合界で疑惑の念をもってみられていた。他の三人の最も著名な指導者たち-ジノーヴィエフ、カーメネフ、スターリン-は、トロツキーの役割のいかなる増大をも阻止するという決意の下に接近した。この暫定的三人組において、スターリンは下位のパートナーであった。そして、彼は、多分この頃までに一般党員までではないにしても、他の指導者たちに知られていたレーニンの個人的敵意を何とかして帳消しにする必要を痛切に感じていた。カーメネフは、個性の力よりも知性の方をより多くもっていた。ジノーヴィエフは無能で、虚栄心が強く、野心的で、ただひたすら空いた玉座を占領したがっていた。彼はこの大会で、欠席している指導者の権威への追従たっぷりな言葉づかいで司会し、演説し、同時に自分がレーニンの英知の後任の解説者であると示唆しようとした。対照的に、スターリンは計算づくの謙虚を装った。彼は、自分には何も要求せずに、繰り返しレーニンのことを、そのすべての言葉を彼が研究し、正しく解釈しようとして「師」と呼んだ。そして、組織について語ったとき、彼はレーニンの官僚制弾劾を繰り返し、偽善的にも、これらの矢が主に、彼自身に向けられていた事実を無視した。民族問題についての報告のなかで、彼は力をこめて、レーニンの「大ロシア排外主義」攻撃を支持し、「性急さ」の罪は自分にはあてはまらないかに見せかけた。トロツキーは、明らかに、いかなる直接的対決をも避けたがり、民族問題に関する討論に参加しなかった。彼の大会での役割は、経済状況に関する重要報告の提出に限られたが、それは工業と「単一経済計画」の大義を述べたもので、目下の政策を直接には攻撃してはいなかった。ジノーヴィエフとの潜在的不一致は、用心深く隠された。

 1923年の夏の間、経済危機が昂じ、レーニンの回復の見込みも次第になくなっていく中で、個人的敵意は表面化こそはなかったものの深部で煮えたぎっていた。トロツキーは、正式に指導者の座を狙える立場にはなかったが、彼の強烈な個性、内戦時の業績、論争での説得力、そして華麗な雄弁の才は、一般党員間での広い人気のもととなっており、彼をいかなる政策論争においても恐るべき敵にしたてた。ジノーヴィエフ、カーメネフ、スターリンの三人組は4月の党大会で首尾よく謀って彼の進出をくいとめていた。彼らは、今や、彼を粉砕する機が到来したと決断した。キャンペーンは細心の注意で始められた。というのも、一つには、ジノーヴィエフとスターリンは、既に、おそらく十分には相互に信頼していなかったからである。

 挑発はトロツキーの1923年10月8日の書簡からおこったが、この書簡は、先ず、現下の経済政策を痛烈に批判してから、「党内の不正で不健康な体制」にたいする攻撃へと乗りだしてきた。それによれば、党組織中の主要役職への人選において、指名が選挙にとって代わっていた。そして、現体制の維持に忠誠を誓っている人々が任命された。「上からつくられた書記局装置」の手中にあらゆる糸が集中されているため、一般党員による参加は「幻想的」なものになっていた。この書簡は「書記局官僚主義」を「党内民主主義」に代えるべきだとの要求で結ばれていた。それは、政治局の一員からは恐るべき告発であり、その矛先はみまがう余地なく、スターリンに向けられていた。数日後、「46人の声明」は、「書記局のヒエラルキー」と普通党員の間の裂け目を嘆じた。あらゆる批判を封じる「党内独裁制」は、1921年3月の第10回党大会の緊急決議にさかのぼるとされた。この体制は、「必要以上に生き延びすぎて」きた、というのである。三人組は、その権威にたいするこういう公開挑戦状を無視することはできなかった。

 奇妙な運命で、まさにこのときトロツキーは、その後、2、3年時折彼を名喩増し続ける、間歇的で正体不明の発熱によって初めて倒れた。10月25日、病気のトロツキーの欠席下で党中央委員会は、彼の10月8日の書簡を「分派的グループ(46人の声明)への導火線の役割を果たした」「由々しい政治的誤謬」であると非難する決議を採択した。11月の間中、『プラウダ』紙上での経済、政治問題の活発な議論には、トロツキーも三人組も介入しなかった。トロツキーは引き続く病のために無抵抗の役回りを余儀なくされていた。しかし、12月初め、彼は3人の指導者と交渉し、その結果、1923年12月5日の政治局決議が合意された。三人組の戦術は、トロツキーを反対派から切り離すために、原則面では最大限の譲歩をすることであった。決議は、「ゴスプランの独自な重要性」、「官僚主義化」と「ネップ下での党活動家の一部の堕落」の危険、一層の「『労働者』民主主義」の必要について語っていた。党内における「非プロレタリア」分子の優位という現状は、「工場労働者の新カードルの流入」によって矯正されるものとされた。これは、「党内民主主義」の保証とみなされたのである。しかし、党中央委員会が10月8日のトロツキー書簡と46人の声明の両方を非難していた10月25日の旧決議が特に再確認されたので、トロツキーは彼自身の以前の立場を放棄し、トロツキー支持を表明していた人々への非難を黙認したかのように見えた。にもかかわらず、トロツキーはこれを彼の原則にとっては勝利とみなしたのである。

 かくも人為的な妥協は、長続きすることはできなかった。3日後、まだ公開の席上に顔を出すことのできなかったトロツキーは、党の会合で読まれ、『プラウダ』に掲載された公開書簡において、この決議の彼なりの解釈を詳述した。彼は「機構の役割を過大評価し、

党の独立性を過少評価しがちな保守的な性向の人々」を批判した。彼は、1914年以前のドイツ社会民主党を、「日和見主義」に堕落してしまった「古参」の好例として挙げ、「党官僚制にたいして最も鋭く反応する」新興世代に訴えた。後書きの中で、彼は「国際革命の引き伸ばされた性格」と密接に関連する「ネップの危険性」に言及した。三人組はまだ躊躇していた。12月11日のモスクワ党組織の集会で、プレオブラジェンスキーとラデックを含む数人のトロツキー支持者が演説した。そして、ジノーヴィエフとカーメネフは反対派を非難しつつも、トロツキーを注意深い丁寧さで扱った。

 数日後、すべての抑制はとり払われ、三人組はトロツキーの公開書簡を宣戦布告として扱うことを決意した。12月15日、スターリンは、『プラウダ』の論文において反対派への全面攻撃を開始し、それはトロツキーに対する辛辣な個人的愚弄で結ばれていた。これは、ジノーヴィエフ(「トロツキー主義」なる言葉を新たに造りだしたのは彼のようである)カーメネフ、ブハーリン、そしてそれほど重要ではないその他の党員の一連の論説、論文による罵倒キャンペーンの烽火であった。反対派に好意的な論文は、もはや『プラウダ』に載らなかった。学生は反対派支持を明示し、コムソモール(青年共産同盟)の組織を従わせるためにその中央委員会が粛清された。しかし、モスクワとペトログラードの党大会では、ほんの少数の労働者が、公式路線反対の演説をしたり、投票しただけであった。トロツキーはかつて労働軍隊化の唱道者だったから、彼が労働者の大義の擁護者として現われることは困難だった。党組織の増大する権力、何らかの積極的な、あるいは大衆的に提起された代案の欠如、失業が広まっている時期に犠牲者になることへの危惧、ロシア労働者階級の数と急進的伝統の脆弱さ-これらすべてが反対派の敗因の原因になった。『プラウダ』の差別的態度にたいするトロツキー、ラデック、ビャタコーフの抗議にたいして「中央委員会機関紙は中央委員会の完全に確定した路線を遂行する義務がある。」との党統制委員会からの回答が提出された。この決定は、最終的かつ絶対であった。これ以後、『プラウダ』はもっぱら党中央機関の公的な声で発言したのである。

 トロツキーへの個人的中傷の過程は、急速に力を増した。1924年1月初めのコミンテルン執行委員会会期中にジノーヴィエフは、彼の性格、党歴、見解にたいして一層容赦ない攻撃をかけた。トロツキーは病に疲れ、勝ち目のない闘争を放棄し、医師の勧めで1924年1月半ばコーカサスにでかけた。数日後、党協議会は圧倒的多数をもって、反対派を弾劾し、党指導者にたいするキャンペーンについてトロツキー個人に責任があるとみなした。

 

 

                                                                 (了)

 

 

<参照文献>

 

『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』レーニン著 西島有厚訳 中央公論社  平 6

『国家と革命』       レーニン著 菊池昌典訳          中央公論社  平 6

『貧農に訴える』      レーニン著 日南田静真訳        中央公論社  平 6

『なにをなすべきか?』   レーニン著 マルクス=レーニン主義研究所訳大月書店  32

『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』レーニン著 相田重夫訳中央公論社平 6

『共産主義における「左翼」小児病』 レーニン著 朝野勉訳            大月書店    昭 58

『唯物論と経験批判論』   レーニン著 川内唯彦訳            河出書房     40

『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』レーニン著 レーニン全集刊行委員会訳  47

『帝国主義』        レーニン著 和田春樹訳                 中央公論社  6

『一歩前進、二歩後退』   レーニン著 平沢三郎訳                 大月書店   39

『レーニン』        H.ルフェーヴル著 大崎平八郎訳  ミネルヴァ書房  44

『レーニンとロシア革命』  クリストファー・ヒル著 岡 稔訳 岩波新書   昭45

『社会主義と戦争』     レーニン著 川内唯彦・川上洸訳  国民文庫社  28  

『ロシア革命』       E.H.カー著 塩川伸明訳        岩波現代文庫 6 

『レーニンの最後の闘争』  M.レヴィン著 河合秀和訳        岩波書店   昭44 

『永続革命論』       トロツキー著 姫岡玲治訳                現代思潮社  51

『わが生涯』        トロツキー著 森田成也訳     岩波文庫   12 『ロシア革命史』      トロツキー著 山西英一訳     角川文庫 昭 50 『裏切られた革命』     トロツキー著 藤井一行訳     岩波文庫   4 

『レーニン』  中野徹三・高岡健次郎著                清水書院   昭55

『フランスの内乱』     マルクス著 木下半冶訳                 岩波書店   48 

『資本主義的生産に先行する諸形態』 マルクス著 手島正毅訳     国民文庫  昭 52 

『歴史哲学講義』      ヘーゲル著 長谷川宏訳      岩波文庫   平11

『革命とコンミューン』   滝村隆一著            イザラ書房  51

『資本主義的生産に先行する諸形態』 マルクス著 手島正毅訳           国民文庫  昭 52  

『スターリン主義批判』   対馬忠行著                           アテネ文庫  25 

『現代革命論への模索』   廣松渉著             新泉社   昭 50 

『共同体の基礎理論』    大塚久雄著                         岩波現代文庫 平 12

『レーニン主義の諸問題によせて』 スターリン著 田中順二訳        大月書店   昭 48