復古と遡行
～歴史を解体する方法～
宮内広利
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＜目次＞ はじめに １ 復古と政治 ２ 日本のナショナリズム ３ 近代と反近代 ４ 柳田國男の方法 ５ 近代の超克 ６ 山人と海上の道 ７ 祝詞とシャーマン ８ 倫理の根拠 ９ 超神道と仏教 10 時間のトライアングル 11 外側からの国家 12 権力の波間で |
はじめに
３．１１後の被災地の復興対策は遅々として進まず、それに引き摺られて社会的、政治的混乱はより深刻さを増しているのであるが、最近は何より、どういう復興のあり方をすればよいかということをめぐって、最終の展望が入り乱れて噴出し、混乱に拍車をかけているようにみえる。直接の被災者以外に原発事故の悲惨さが肌身に沁みたひとびとは、電力の使い放題の消費生活に疑問をもちはじめ、ある者は自然代替エネルギーの使用を電力消費縮減と交換しようと考えたり、さらに電力に限らず大衆消費社会における過剰消費のすべてにブレーキをかけようと試みたりするものだから、デフレスパイラルをますます加速させることになる。このような大衆意識のランダムな反射の中では、たとえ政権交代をしたとしても保守、革新を問わず政党は、きまって上から目線のその場しのぎの景気浮揚策や雇用対策でお茶をにごすことしかできない。また、保守政党は内政の失敗の原因を尖閣列島などの領土問題にすり替え、ナショナリズムの大合唱によってなにかができると勘違いするのである。このような近視眼的な政治家たちの言動はさておいても、とりわけ思想の世界においては、３．１１の原発事故が近代科学技術のあり方により深い反省と疑問を投げかけたことは疑えない。核開発と原発はそれこそ近代科学技術の中心に位置づけられるから、そこでの問題点は各分野に枝葉をつけながらも、畢竟、近代資本主義の限界を露呈したとの見方が体勢を占め、原発事故を契機に文明や文化の根本的な見直し論が登場してきたこと自体は肯ける。しかし、その種の議論は、わたしの見聞きした範囲では、いちように復古的な装いをまとっているようにおもえてならない。
たとえば、中沢新一は、今回の大震災と原発事故は、文明社会が根底からゆさぶられた事件であり、新しい文明への転換のきっかけにしなければならないと声高に主張している。彼が当面している古い文明とは、ユダヤ教の「一神教」にはじまり、貨幣の出現をへて市場経済が生まれ、やがて資本主義までたどり着いた軌跡であり、そのすべてが生態圏の「外部」の思想に支配されていたことだった。この「外部」とは、彼の言葉では「超越的思考」ということになるが、人類史上のある時点で「外部」に依存する思考の転換がおこり、市場経済と利潤獲得競争にはさまれながら、その究極の到達点が原子炉の思想を背後から支えていることになる。そして、そのような歴史観を逆算する試みは、資本主義の利潤獲得競争の後ろには市場経済があり、そのまた後ろには貨幣やユダヤの一神教が折り畳まれてしまい、ついには、野が開けるように歴史の露岩ともいうべき初源の生態圏自然思想に辿り着く。
彼は原子核技術が、本来、生態圏内部に存在しない太陽圏の核分裂を外部から持ち込んだやり方であるとし、人類の初源において現存しない神を「超越的」に持ち込んだやり方と瓜二つであると批判している。彼には生態圏が、あるいは自然（じねん）思想がキーワードになっているため、原子核技術が「自然」と「文明」の間の微妙な均衡を壊しているかにおもえた。つまり、「自然」には「文明」を、「生態圏」には「外部」を二元的に対置できると考えたのである。その上で、生態圏に適した発電技術を提言するなら、「自然」と「文明」が矛盾なく折り合いをつけることができるとしたのである。人類は「自然」社会から「文明」社会へ移行して、飢えや貧困を克服してきたとおもってきたのだが、この原発事故を契機に「文明」の折り返し地点ともいうべき事態に遭遇したことで、逆に「自然」に遡行する方法によって、「自然」と「文明」が折り合う場所を探さなければならないというのが中沢の言いたいことのすべてである。
つまり、中沢の考え方は、マルクスが『資本論』のベースにすえた人間と自然の物質的交換関係の彼方に拡がる「交感関係」のイメージの中に一歩踏み込めるかどうか、わたしたちを試しているのだとおもう。その場合、記憶の背景にあるのは、仏教の源流に見出した狩猟採集民の哲学であったり、ホモ・サピエンスの時代からもち続けた女性原理であったりする。また、魂の交感につうじる「ポトラッチ」的贈与交換は、何万年もの時間をとおして養われたものであり、ひとの心の奥底に積み上げられた地層のように潜在するものであった。かつて人類の揺籃期に「自然（ジネン）宗教」として確かに存在していた母型世界があり、そこで見えていたものは人間の究極の「智慧」としてひとびとの胸底に必ずセットされているはずで、人間が自分の心の蓋を取り去りさえすれば、必ず遭遇できる世界にちがいないと考えられた。少なくとも、わが列島の住人の中には、そういう何万年前から引き継がれたアニミズムあるいは霊的な認識が、紀元前５世紀に完成し伝来した仏教の体系的な哲理とまじりあって、「縄文の思想」という形で生き続けてきた。これは後期旧石器時代から新石器時代への過渡期にかけて、西はフランスのブルターニュ地方から東は北東シベリアまでユーラシア大陸の広い範囲にまで散らばっていた未開人に共有されていた思考の源流を辿るという方法に裏づけられた。
中沢は、今から一万数千年前、バイカル湖周辺のモンゴロイドが、太平洋の北側を日本の東北から南米大陸の南端までドーナツ状に渡っていった社会がいずれも国家や権力をもたなかったことに魅せられている。これはサハリンや北海道のアイヌの縄文文化とひとつながりになったものと推測されており、それらが近代の権力論や国家論の範囲ではおよびもつかないような多様な色彩感をもっているとすれば、わたしたちは人類の母型と目されるアイヌ文化や縄文文化に触れることで、現在を覆う閉塞した人間関係や自然との関係とは対蹠的な文化にめぐり会えると考えたのである。このような母型へのこだわりは、古代史の奥深く眠っている謎の時代としての縄文文化の魅力となって、梅原猛などにも共有されている。
≪いちばん考えられる仮設としては、原日本人がアイヌと同じか、それに似た狩猟民族であり、縄文土器を使っていたとする。そこへ朝鮮半島から弥生系民族が入ってきて、狩猟世界が農耕中心の世界に変わる。当然侵略者と土着民の混血が起こる。それが日本人となる。いっぽうあくまで反抗して東北の方へ逃げていったのが蝦夷である－と考えることができる。そうすると呪術世界も変わらざるをえない。朝鮮から入って来た呪術は、アイヌの持っている呪術と当然違うわけです。それは農耕呪術ですから、そうとう発展した呪術です。おそらくひとつひとつのものに精霊がまとわりついているという考え方はどうしても否定せざるをえない。そういう呪術世界の崩壊とともに、抱合語というものが膠着語に変わっていったのではないだろうか。だから日本語の古代語は抱合語の名残を多分に含んでいるのではないだろうか。≫『怨霊と縄文』 梅原猛著
梅原の場合、呪術という言葉を固有な宗教文化の色分けの基準に使っているのであるが、もともとは、聖徳太子の怨霊を鎮める法隆寺の建立の謎への踏み込みなど、「怨霊思想」の出現が歴史的にどこまでさかのぼるのかという問題点から出発していたことがわかる。この裏側には、文化は固有性でしかないことを引き出しの中から見つけたような驚きが隠されていた。平安時代に一般化したといわれる怨霊思想の根源に彼が見出したのは、アイヌ社会で不慮の事故で死んだとおもわれる人たちの墳墓は、その様式から葬式の仕方まで、特別に丁重に扱われていたことだった。不遇な死を呪ったものたちの魂が、生きているひとにとって特別な意味をもっており、怨霊となっていきながらえることへの恐れが、鎮魂の言葉としてその葬礼の仕方に象徴していると考えることが可能であったのである。それはまた、縄文の土偶が妊婦の姿を形どっているところから、妊娠中に死んだ女性の怨霊を鎮めるための儀礼装飾品であるかもしれないとの想像とも符合する。
ここで梅原によってアイヌと縄文人を囲った広い意味の民族的枠組みが縁取られることになった。この枠組みに対抗するのは、後からこの列島にやってきた弥生人ということになる。彼らは稲作をもちこみ、縄文人との交易や敵対を繰り返しながら、やがて列島の大半を席巻する。縄文時代は紀元前２世紀ごろに終わっているから、それまでに縄文人と弥生人の混血がすすみ、紀元後まもなく弥生人を中心にした国家が生まれたのではないか。それなら『記紀』歌謡の中に使われた古代語は、原日本語の祖語ともいえる縄文語またはアイヌ語との混交がおおきいことを証明できると考えたのである。彼は抱合語から膠着語への移行の過程でふり落とされた言葉が、『記紀』歌謡にも万葉集にも含まれているとしている。こうして梅原にとっては、古代史は縄文人と弥生人の二元的な争闘と和解の史観に編まれていく。
しかしながら、梅原の縄文時代後期から弥生時代にかけての説明は、縄文人と弥生人との文化の争闘と和解の色分けしかないから、権力や国家の成立に関わる問題意識がとても希薄になってしまっている。もし、狩猟採集が権力や国家をもっていなかった人類史の段階とするなら、なぜ、彼らは農耕や牧畜を定着させただけで、突然、権力や国家を誕生させるにいたったか不明なのである。そこでは、たぶん、自然との交感をつうじて狩猟採集をもっぱらとしていた原始的擬似共産制社会が、農耕、牧畜の方法を手に入れることにより食料の備蓄ができるようになり、土地を所有するものと持たないものの階級的格差が生じて、政治支配するための国家が産まれたというエンゲルスに似た解釈しかできそうもない。あるいは、自然思想によって長く生きてきた縄文人の世界に、突然、朝鮮半島から稲作と国家思想を携えて列島にたどりついた攻撃的な弥生人の襲来に、縄文人は逃げ惑い、あるものは弥生人に降伏して「馴化」し、あくまでも抵抗して北へ北へと追い詰められたひとたちがアイヌ民族として生き残ったという、いわば、劇画的なイメージしか思い描けないのである。つまり、権力や国家の出現は、生産方法の違いの説明によっても、あるいは自然思想と非自然思想相互の文化的角逐によるとも断言できないふっきれなさが残ってしまうのである。
梅原は、柳田國男や折口信夫は呪術ということで古代信仰を纏めて解釈してしまうので、どのような種類の呪術なのか分からないと批判している。彼が感じた古代学の物足らなさの真意は、簡単にいうと、柳田や折口の文化や信仰の理解が縄文期にまで及んでいるようにはとうていみえず、どこからどこまでが縄文文化で、どこからが弥生文化か定かに読みづらい点にあるのだとおもう。柳田や折口を普通に読めば、その文面に縄文文化という語彙が見当たらないということである。それにひきかえ、中沢は折口の仕事の襞にまで立ち入って高く評価しているが、それはわが国の国家や権力の所在を考える場合、折口が取りだした宗教概念としての「みこともち」の思想が欠かせないと思ったからである。また、折口は琉球・沖縄への言及によって、大和王権と大和王権以前の国家形態との間にはちがいがあることをはっきり踏まえて発言していた。それを引き継いで中沢は、弥生時代以降の国家形成を考える場合は、国家のプリミティブな段階とその後の大和王権のような統一国家の段階と明確に区別をして、その連関を立体的に構成しなければ、縄文文化と弥生文化の区別さえ見誤ってしまうことをよく知っていたのである。
しかし、梅原はわが列島の国家と権力は、縄文期の反射とそれに対する反動において出現したというような二色の色分けで整理しているので、結局、縄文期は縄文期であるというトートロジーしか導きだせない。こういう態度で歴史をさかのぼる場合、単に、はじめから縄文期に目見当をつけてそのわが国の原宗教としての固有神道を見直すべきだと言っているにすぎないから、それ以降の弥生時代への過渡期において何があったのかさっぱりわからないのである。だが、弥生時代も長期間続いたその間、弥生人がつくった部族国家同士の葛藤や和解の歴史はどうなっていたのかに気づきさえすれば、縄文期が縄文期になったのは、弥生期をつうじて、しかも、その長い戦乱の年月の中で、歴史の陥没や屈折をともないながら移行したであろうことは容易に想像がつく。だからこそ、梅原の二元的な色分け論には権力論や国家論が存在しない分、反対の立場から、大和民族は単一民族国家であるというような民族の一元的な考え方を許してしまうのである。
三島由紀夫は、かつての縄文人と弥生人の二元的対立を、梅原とは逆の意味で明るみに出してくれた。というのは、彼には生成途上の大和王権という視点がまったく欠けているから、あたかも自然のまま国家の像を結ぶかのように、ほんとうの意味での政治権力や国家の関与なしに、同一文化が成立できる誤解まで生じているのである。つまり、民族を担う文化概念は国家や権力概念とは無縁のまま、歴史内に持ち込まれているのである。三島は言語、習俗に限らず人間の行動の形（フォルム）まで含む文化概念としての天皇制あるいは大和王権というものが究極の価値自体として、その倫理的共同体の起源は「全体性」であるから、その要件である時間的連続性と空間的連続性をあわせもつと考えた。つまり、文化概念の中心は、あくまでも「みやび」という宮廷的文化の精華にあり、そこから流れ下るところに「幽玄」、「わび」、「さび」などの美的原理がうまれ、それらを包括しているのが文化の伝統と創造の意味だという。
三島は『万葉集』以降の文化共同体は、こうして天皇の祭祀と御歌所をつうじて連綿と歴史を綴ってきたのであり、この中で、文化を創造することと守ることは一致するとしている。だが、明治以降の近代化は天皇制に収斂する美的原理をなくして、「みやび」に値するものを何もうまなかった。文化共同体としての天皇制の価値を見失った近代文学の担い手たちは、「菊と刀」を比喩する和歌を忘れて、肉体的虚弱者、不眠症のノイローゼ患者たちを当たり前のように認めるようにみえた。和歌こそが日本文学の元素であることは、彼らの無意識に埋めこまれているはずなのだが、それは各種の文学スタイルの中に封じ込まれて、細い糸のように辿られてきたのである。詩は宮廷詩の「みやび」から「みやびのまねび」の民衆詩まで裾野をひろげ、ひとびとは文化の伝承の中で「見る」だけではなく、みずから「つくる」ことで栄誉を受けること、そこにこそ文化的共同体の証明があると三島は『文化防衛論』の中で述べている。
こうして三島のロマンチシズムは天皇制が立憲君主制という純粋政治概念からはみでる部分だけ、天皇制を宗教的な民族概念と同義に受けとめ、文化を一元的に解釈したのである。これは梅原が弥生文化に対して縄文文化を一元的に導きいれたことと、ちょうどメダルの裏表のようになっている。梅原の場合は、縄文時代の民族概念に固着しているが、それに対して三島は宮廷革命の時代の名残りをそのまま国家概念に接木しているにすぎないのである。しかしながら、おそらく三島は気づいているはずだが、「みやび」という美的価値の連続性を保証するのは大嘗祭などの宗教的祭祀と御歌所であるが、それが歴史的に遡ることができるのは、大和王権がようやく安定した奈良時代以降にすぎない。つまり、『記紀』が編纂されて、自らの出自の連続性をアマテラス神から説きあかし、神権政治を合理化してから後のことである。それまでは皇位継承をめぐって、いわば、三島がめざした宮廷革命のようなものが、各部族相互の利害を巻き込みながら幾度も繰り返され、除々に律令体制が姿をあらわして固まっていった。そして、もう少し以前にいくと、もはや民族概念が天皇を中心とする文化共同体とイコールで結ばれる保証はできなくなり、天皇制みずから文化的根拠も政治的根拠もぼんやりしてしまう。
三島は文学者であるから、文化の連続性の価値として「みやび」に向かう古典主義を小説美学の中心におくことを選んだとしても理解できないことはない。それは自身のいうように「言論の自由」の範囲内に属する美的価値であるからだ。しかし、言うまでもないことだが、和歌や行動の美学のように文化を狭義に受けとらず、ひとりひとりが生きて、食べて、暮らすという普遍概念に引き伸ばすとき、その種の文化共同体からうまれる神授政治は、その相対性をまぬがれないとおもえる。部族国家間の争いは、結局、日の神を信仰する大和王権の誕生によって一応の決着はついたものの、その過程においてどのような信仰上の争いや委譲が行われたか、それをとおして権力や国家の輪郭をあらためて問い直さなければならないからである。それができないかぎり、わたしたちは政治や権力の所在がわからないまま、信仰や文化の背後にまとった政治支配者に唯々諾々と従わなければならないのだ。
わたしたちは権力の所在を説く場合、政治的権力あるいは宗教的権力の歴史的根拠を提出することになるのであるが、そこで言われる政治や宗教のどこまでが権力の実体に相応しているのかよくわかっていない。あるひとにとっては、「まつりごと」としての政治や宗教そのものが権力を呼び起こす恐怖の対象にみえたりする。この場合、政治や宗教の許容範囲がどこまでで、どこからが権力の抑圧になるのか、あらためて問われてしかるべきなのだ。その点、ほんとうは権力の外縁を明確に線引きしなければならないはずなのだが、これは歴史の遥か彼方の出来事に由来するから、時間を引き寄せ現在の空間と交錯させなければならない方法は、もしかしたら、ひとの心の奥底をあらわにするのに似て、とても困難な作業に映ってしまう。この源泉をたどれば、わが国のように「まつりごと」と信仰が長い間背中あわせに張りついた民間習俗と深くかかわっていることがわかる。
わたしたちがプリミティブな権力や国家と呼ぶのは、この「まつりごと」からはじまって、「罪」概念が誕生する頃、おぼろげながらひとびとの意識に「倫理」の影がさしてきたときにはじまる。そして、その「倫理」の発生は、ほんとうは支配する側が抱いていた不安感や恐怖が投影したものだが、いつのまにかひとびとの共有意識になってしまっている。いかなる権力や国家であろうとこのカラクリを例外とすることはできない。大和王権にとって、出雲の国に象徴されるかつての農耕土民との心理的角逐やそれにともなう負い目は「原罪」意識となって、『古事記』の中に継承されていた。それを考えると、『古事記』は、はじめから贖罪の物語にみえないことはない。そして、統一部族国家の「原罪」という観念は、アマテラスとスサノオの関係からではなく、より新しい段階の倫理の問題として想定される垂仁天皇の皇后のサオビメが兄と夫との関係に翻弄された部族国家相互間の争いを起点にして、逆にさかのぼって、アマテラスとスサノオの姉弟の氏族的な権力構成の問題に集約されて現れると考えることができる。『古事記』は、垂仁とサオビメのようないわゆる部族の「外」を意識した倫理的関係をとおして、始祖神であるアマテラスとスサノオの内面のドラマを読み取らなければならないのである。
いくら天つ神が国つ神の頭上へ舞い降りたといっても、天つ神は国つ神が存在しなければ自らのアジア型貢納制支配の基盤を築けない。そのため、天つ神は国つ神を分断し、時に応じてスサノオの系統を引くオオクニヌシのような人物に託し、それに対して負い目や畏怖を抱き続けなければならなかった。それは最初から仕組まれていたから、いわば、『古事記』の思弁の罠ともいえるものだ。一般的な言い廻しを借りるなら、支配は倫理なくして基盤を確立することができない。そして、その倫理は二つの相反する方位をもっている。ひとつは支配へ向かうもの、もうひとつは被支配に向かうものという意味である。いいかえれば、支配と被支配の両方が完成するためには、その両義的倫理において「分断」されなければならなかったのである。これは部族国家にかぎらず近代国家まで続き、あらゆる国家という名の支配は、分断支配であるという一般性の証明に適うものである。こうした権力の輪郭と由来が、この列島の中で縄文期から弥生期へと移行する過程で、それ自体においてうまれた理由を説明しなければならないとおもえる。
１ 復古と政治
中沢の生態圏自然思想や梅原の縄文時代への志向というのも、たとえ内在的精神性においてさえも、復古であることには変わりない。そして、もともとあった過去の時代のことをさすから、もし歴史が繰り返すものなら回帰することである。しかし、復古しようとしたり回帰したりするのは、必ずしも、太古の時代へ一直線に向かうとは限らない。それが半世紀前の大戦の記憶に後退したとしても別に不思議ではない。事実、あの戦争の時代にも、復古しようとしたり、回帰しようとした政治家や文学者は存在した。そればかりか、当時の言論は、その復古や回帰の名において大衆の膨大なエネルギーを吸収して、神憑り的な戦争に駆り立てたのである。だからこそ、復古や回帰という言葉を聞くと、いまでもわたしたちに穏やかな感情をもたないのである。それなら、わたしたちは復古や回帰が単なる戦争や政治のロマンチシズムでないかどうか、確かめることからはじめなければならないとおもえる。
わたしは梅原や三島のロマンチシズムは高度の政治性をともなわない、いわば、心性のロマンチシズムとみている。この点は同じ復古の姿勢においても特筆されるべきものである。ロマンチシズムの血筋をさかのぼると、かつて橋川文三は、『日本浪曼派批判序説』の中で、あの戦争に本格的に突入していく契機になった昭和１０年前後のナショナリズムに異様な高揚があったとして、その原動力になった日本ロマン派の中心にいた保田与重郎に注目して、その思想と文学をつぶさに分析した。それによると日本ロマン派の民族主義は明治以降の文学・思想のナショナリズムのどれともちがって、その徹底した集約性において一般的なファシズム・イデオローグに還元されない特質をもっていた。何よりこの時代は、プロレタリア文学運動の挫折と解体からはじまっており、都市中間層のインテリゲンチャの転向や社会的不安の高まりにともない、彼らの精神風土はほとんど頽廃的な雰囲気を醸していた。そういう若いインテリゲンチャ層は右翼、ファシストに嫌悪感を抱いており、彼らの受け皿として保田の漠とした国粋的神秘主義があったことである。
保田は自らの日本ロマン派の運動を「没落への情熱」と「日本のイロニー（あるいはイロニーとしての日本）」の二面性の自意識とみて、前者がイデーであり後者が現実であると述べている。そして、文明開化そのものを否定した上で、没落への情熱をもたなかった近代文学が頽廃したとして、欧米の「植民地文芸」と名づけたその代表格にマルクス主義と安易な「日本主義」を挙げている。日本ファシズムの支配権力は、わが国の封建的な社会秩序の動揺や分裂を自覚しつつもその所在を確かめようともせず、この「日本主義」を使って体制を再編成しようとしたが、その過程でこぼれおちた部分が、日本ロマン派の農本主義的色彩と自然村的秩序に切り取られ、原始的共同体に似た理念を貼りつけた。
橋川は保田の文学はマルクス主義と国学とドイツ・ロマン派の同時並存であると言っているが、肝心なのは、それが非政治的な性格をもっていたことである。これにはロマン主義的精神構造というものが大きくかかわっており、その根源にあったのは、第一次大戦後に国家独占資本主義が急速に巨大化する一方、数次の恐慌によって農村を基盤とする共同体秩序の解体が加速し、そのような社会状況を背景にして、広範な若年層を中心に社会や政治に対する無力感や抑圧感が蔓延してきたことである。そういう彼らにとって、保田の過激な農本主義的神政思想はこの厳しい現実からの逃避行を意味した。そして、橋川が重要視しているのは、この種の過激思想の背面には潜在的に、明治以降の日本文化に反抗する革命思想をはらんでおり、当時の共産主義運動がそうであったように、文学的、主情的な非政治的（ロマン的）形象をとってあらわれたことである。つまり、保田の思想にみられるのは、共産主義的な革命運動に随伴した形をとりながら、その政治性を骨抜きにして組み替え、主情的に古代思想に一足飛びに転移させることにより、現実の革命運動と似かよった過激な反帝国主義的なイデオロギーを結晶させたことになる。現実の革命が不可能なら、そうした政治から疎外されることの不可避性を逆手にとって、みずから後退しながら、現実と革命の隙間を埋めるように、凝縮した日本的美意識の心情を吹き込んだのである。
橋川が述べているように、保田はプロレタリア文学と自然主義文学の間に挟まれて忽然と姿を現した。その場合、自然主義文学がいうところの「自然」概念は西欧のそれとはまったく異質のものであった。わが国における「自然」とは人間の感性のまま、いわば、欲望の命じるままに展開する主情的なものとして考えられている。そのような自然概念にもとづく政治においては、不自然に対応する意識的な自然をさえ排除して、帰一するところ、あるがままの政治を自然のままに受け入れ吸収してしまうメカニズムがうまれる。そのメカニズムを橋川は次のように描いている。
≪このことを、別の視角から見るならば、本来的な政治の動学が成立しないことを意味した。つまり、政治的動学の基盤をなす政治的価値（＝権力）の葛藤関係が、究極的には悠久な国体論のフレームのなかに吸収されるという構造があったからである。そのことは、日本政治システムの「無責任の体系」性とよばれる本質によっても理解することができよう。そのシステムにおいては、究極的な政治責任は「無限の縦軸」としての「皇運」のなかに解消される仕組になっているが、そもそも、責任のない政治的決定というものがありえないという意味で、そこに現象する政治過程の全体像は、結局一種の自然過程（既成事実への屈従過程）としか考えられないことになる。≫『日本浪曼派批判序説』 橋川文三著
保田ら日本ロマン派の存在は、このように本居宣長の非自然主義的な自然の立場の継承を意味した。ここで橋川は、保田の「耽美的パトリオティズム」の由来をなしている自然思想の根拠をマルクスの自然主義のテーゼと比較して説明している。本居宣長の「さかしらのままにてある」思想とは、マルクスでいえば、人間的自然と自然的自然の区別がつかない状態を指している。マルクスは、人間と自然との関係において、相互対象化があるとし、人間によって働きかけられた自然は、もとのままの自然とは異なり、同時に、人間も自然によって自然化され、つまり、自然によって人間の感性が鍛えられることになって、もはや、もとのままの自然として人間の前にあることができなくなる。このような人間と自然の相互関係性は、本来、西欧的な意味の個人の確立を前提にして、自然に向き合う人間の基礎的な認識となるものであるが、もし、そのような相互性がなく、自然をあくまでも元のままの自然として受け入れてしまうことになれば、政治的事件も国際情勢も、当然、「非政治的自然」として想起されることになり、その結果、悠久の非政治的支配と被支配が続いてしまうことになる。
宣長は、わが国の国づくりの神話を作り話であるかないかの詮索が小賢しいと切り捨てて、『記紀』を文字通りに受け入れることを求めた。彼のいう世の中の理（コトワリ）とは、最初、天之御中主神（アメノミナカヌシノカミ）、次に高御産巣霊日神（タカミムスヒノカミ）、神産巣日神（カムムスヒノカミ）の二神が生まれて、この御霊によって天も地も神々も人間も万物が創造されたことを指している。この創造と生成は不思議な神の仕業によるものであるから、人の想像もおよばない天地万物の道理をわきまえないで、人智によってあて推量をしてはならないということになる。だからこそ、それらの一部始終を物語っている『記紀』の記述は太古からひとびとに語り継がれてきたと考えられた。異国風の理屈にこだわって、無理に『記紀』を解釈しようとすれば、この壮大な物語の矮小化や過大な神秘化につながる。そのような試みは、所詮、「私事（ワタクシゴト）」の領域にすぎないと批判したのである。同じように保田は、古の事跡を近代的な小賢しさから解放して、あるがままに受け取ることを古典理解の基本姿勢にした。
神話的世界の「私事（ワタクシゴト）」を超えた広がりは、わたしたちの政治風土の中では、あたかもわが国土の自然（自然詠）が国家の歴史そのものを指し、国家は国土とともに深く根を張っており、それを守り継承する（伝統化する）ことが「神ながらの道」と考えられてきた。その際、国家や政治はあたかも台風や潮の満引きと同じく自然そのものであるかのように、その由来や根拠を問われることなく当たり前に受容し無関心に流される。橋川は小林秀雄の「社会化された私」の課題が、なぜか「伝統」という一言によって妨げられすぐさま頓挫したことをふまえて、同じ危うさが保田らとともに戦争の判断を狂わせた軌跡をあきらかにした。その民族主義は、小林を含む文学者の背面から襲って巻き込み、ウルトラ・ファシズムとして表われて、日本型ファシズムのあらたな類型をつくったことはまちがいない。その結果、神憑り的にはじめられた戦争は、多くの個人の命運をイロニーではなく現実的に実証した。
わたしは、その重さを代償にして得られた橋川の結論は二点あるとおもう。ひとつは、自然思想なるものは幾重ものベールをかぶりながらも、日本の大衆ナショナリズムの核心にあるが、それは天秤のように均衡を失いかねないことから、自覚的な過程としてあらわれる瞬間、政治に結びつくことで反転した自画像をつくってしまうことである。つまり、非政治的であることがかえって政治的になってしまうイロニーを容認してしまうのである。これは昭和十年前後の数年間の社会的不安感と政治不信が蔓延する中、保田らのイロニーにつつまれた日本文化の自己主張に向かう熱情が、若者たちのデスパレートな気分をとらえ、あたかも不満で充満した気球を天空にあげられるような錯覚をつくりだしたことを意味している。それは当然のことながら変革の期待や、新しい現実に見合う文化の待望をひき連れていた。
もうひとつは、橋川は文学をあくまでも歴史性の思想として真価を問われなければならないことの教訓を与えたのだとおもう。それらは彼が、政治や国家に対して個人が主体的自由としての批判的精神をもつことを前提にする丸山政治学の方法をとっていることから導き出された。丸山の歴史的人間は、自然状態の中に放置するなら欲望をほしいままにするというペシミズムが前置きされており、個人が「疑う」ことから初めて、国家や共同体理念が成り立つという西欧の近代主義的な責任観念が下敷きにされているためだ。そこには、反面、歴史は退化したり後退したりすることはないとする進歩的オプティズムもからまっていた。
戦中のナショナリズムに対する被害意識が大きかった反動で、戦後、日本ロマン派の運動についてはほとんど検討されることがなかったが、橋川によってはじめて俎上にのせられた意義は大きい。これは広い意味における「政治と人間」の問題に位置づけられ、彼の場合、文学に対して思想を、非政治に対して政治を対置する近代主義的な視点から、保田ら日本ロマン派に対して批判が加えられたのである。しかしながら、敗戦後、西欧の近代文学をモデルにして日本の近代文学を批判する風潮が体勢を占めたことや、世代によっては傷口をなめるような痛みがともなったことから、顧みられることがなかったのであるが、もともと、日本ロマン派は近代主義自体のアンチテーゼとして登場した経緯がある。つまり、戦後は、戦時中に抑圧されていた近代主義が攻守を替えてあらたに啓蒙思想として再登場したにすぎないのである。このことは戦後まもなく、「日本的進歩主義は、進歩とは関係ないばかりでなく、反動とも無縁であること、したがってそこからは創造のエネルギーは出てこない」と述べた竹内好に、その進歩主義が忌避した日本のナショナリズムへの正当な評価を促した。それは保田らの明治以降の文明開化批判の根底に、近代主義的な問題意識への反発があるかぎり、近代主義をもってしては民族主義へのアンチテーゼでありえてもジンテーゼになりえないという指摘である。
竹内は戦前の近代主義が民族主義との対決を避けたことが、かえって民族主義を硬化させ無制約にしたと考えた。近代主義はおうおうにして民族の泥臭い部分を排除するか、民族的主張そのものを無視した。そして、その二つの立場は交差することもなく、一方の近代主義の立場だけが歴史を支配するようになった。ところが、その虐げられた民族主義が先の大戦の際には、政治の力学を契機にして、突然、ウルトラ・ナショナリズムとして歴史の前面におどりでたのである。そのとき、近代主義はなすすべもなく日本のナショナリズムに足を掬われることになった。その際、近代主義者の方に大衆のナショナルな部分に負い目のようなものがあった分だけ、かつての近代主義者は極端な民族主義者に転向してしまったのである。こうした竹内の考え方は、およそ吉本隆明の転向論の下絵のような論旨であったとおもう。竹内によれば素朴なナショナリズムの心情は民族の全体像を映すものであり、それを抽象的自由人や階級によってのみ切り取ることはできないものなのである。それに異和感をもってこぼれ落ちた部分が、日本ファシズムの権力支配と結びつくことによってウルトラとなって噴出したとみなすのである。ここに日本ロマン派にあたうかぎり近づき、民族の主張を正当に扱おうとする竹内の勇気をみてとることができる。そればかりか、戦後、彼の問題意識はこのナショナリズムを、中国を中心とするアジア全体のナショナリズムのあらわれとみなして、社会革命と結びつける端緒にさえしようとした。
２ 日本のナショナリズム
わが国における明治以降のナショナリズムの様相は、戦争期はもちろん戦後においてもたびたび屈折したり湾曲したりしているから、一筋の糸をとおそうとしても決まって失敗してしまう。それだけ錯綜しているから、まして今の時点の進行形のナショナリズムのありかを探るとなると、なおさら糸口がみつからない。特に、現在のようにふってわいたように「尖閣列島」や「竹島」の問題がひとびとの関心をひきつけるようになると、それぞれの両国間のナショナリズムのちがいが、どのように外交や防衛問題に影響をおよぼすか考えざるをえなくなってくるため、たとえば、かつての竹内好のように中国の遅々としながらも確かな足どりを秘めたナショナリズムのあり方に、アジアのナショナリズムの問題一般を見出すなどということができなくなる。事実、中国が「尖閣問題」においてわたしたちにみせつけたのは、ひとであろうとモノであろうとわけへだてなく憎悪するただの排外主義的なナショナリズムにすぎなかった。つまり、現在では、竹内が欧米列強に対抗するアジアのナショナリズムの問題を提出したときのように、もはやアジアのナショナリズムは一枚岩とみることはできなくなっており、わが国のナショナリズム、中国のナショナリズムのありようというふうに分離して表面化しているのである。
そういう中、先の選挙で政権を奪還したわが国の保守政党は、戦後政治を清算しようとして、憲法改正を公約に掲げ、自衛権の問題から国民の基本的人権や愛国心教育にさえおよぶ政治的・社会的再編をめざそうとしている。その一環として領土問題の領有権を一歩も譲らない国民的合意の形成を求める以上、新たな大衆ナショナリズムの裏づけなくしてはとうてい実現しないのはまちがいない。こういう保守的な危機意識の根元には、グローバル化した経済・社会によって空洞化した国民意識を補填すると同時に、中国の軍事的台頭にともなって、わが国の国際的な位置づけを変えることが急務になったことが重なり、国内的、対外的な政治システムの変革が必要であるとの考え方が隠れている。彼らは現在の停滞感を打破するためか、あるいは、経済大国を誇ったかつての日本を取り戻すためかという謳い文句に振幅があるが、確かなことは、ナショナリズムを変革の武器にできるとの自信が伏在していることである。戦争の期間をつうじて、はじめは文学的・主情的とみなされた日本ロマン派においてさえ、近代主義に対する変革の武器として登場したことを考えると、この傾向は単なる復古や回帰といってすまされない意味をもっている。その上、ナショナリズムの問題は、その政治的なあり方を問われるとき、戦時のウルトラ・ナショナリズムにみられたように、政治権力との結びつき方によっては、ファシズム権力の問題としても浮上する。
わたしたちの従来の一般的な尺度では、ナショナリズムは近代的なナショナリズムをもってしか理解することができなかった。つまり、ブルジョア革命によった誕生した政治的国家は市民社会からの離反をとおして、一方では、ゆり戻しのように不可避に政治的国家同士の相克や市場獲得の植民地争奪競争の過程から帝国主義化することで国内経済の矛盾を回避する近代国家群があり、もう一方では、近代国家の相克の谷間から、植民地諸国の民族ナショナリズムの解放闘争が澎湃と沸きあがる二面性の図式に限られてきたのである。そして、このような図式の延長上には、政治的国家が成熟段階に入るとマルクスのテーゼのように、徐々に政治的国家はその機能を失い、市民社会の中に埋め込まれるはずであった。その場合、政治的国家の存在そのものがナショナリズムとパラレルに存在し、死滅をも約束されたものであった。
しかし、ポスト・モダンの掛け声だけは先行したものの、政治的国家の死滅がほぼ絶望的にみえる現在の状況では、ナショナリズムの強固さは、わたしたちの予想を遥かに上回って存在し続けるようにみえる。その存在感の大きさの原因を探るためには、経済的な理由ばかりではなく、近代社会が誕生したときの構成を支えるすべての要因にまでさかのぼって考えなければならなくなっているのである。その上で、現在のナショナリズムの問題が、明治、昭和期のそれとどうちがうかという点においても検証しなければならないとおもえる。そればかりか、わたしたちをより困難にさせるのは、ナショナリズムと一括してはいるものの、ナショナリズムのありようは政治的ナショナリズム、文化的ナショナリズム、大衆のナショナルな自然思想の核のようなもの、知識人がもつ思想としてのナショナリズムなど、論者によってさまざまな位相のことなったナショナリズムの区別が覆っていることだ。
たとえば、三島由紀夫のナショナリズムは古代の宮廷革命をなぞったものになったし、日本ロマン派はその文体に色彩を敷きつめ、政治との境界をほとんどぼかしたことで、逆に急進的な政治的性格を堅固にした。もしかしたら、梅原猛の縄文時代の固有神道への復古や回帰さえ、わが列島の文化的ナショナリズムの亜種にみえないことはない。つまり、各論者によって唱えられる区別は便宜的なこともあるが、ほとんどが横断的な性格をもっていることである。したがって、それぞれのナショナリティが絡み合って表現されているのなら、それらを遠心分離機にかけて純粋種をとりだす作業自体が不可能になる。その意味で、もし、ナショナリズムが、歴史的に累積されてきたわたしたちの過去の生活や信仰の総体への内省であるとしたら、どのようにそれらの生活や信仰の断片が取捨選択され、表現されているかについてだけはより厳密でなければならないのである。それによって復古や回帰がわたしたちの現在と未来に値するものかどうかをはっきり見定めなければならない。このように多義的なナショナリズムの相貌は、わたしたちが今でも、ナショナリズムが変革の武器につながるのかどうか、また、権力との間にどのような間合いをとっているかさえもわからない限界を裏側から証明しているようにおもえる。しかし、わたしたちはかつての近代主義者や復古主義者とはちがって、時間の遡行に関してだけは遥かに長い射程を手中におさめているのである。敗戦直後に書かれた丸山真男の述懐にこんな箇所がある。
≪世界に喧伝された日本のナショナリズムはそれが民主化との結合を放棄したことによって表面的には強靭さを発揮したように見えながら、結局そのことが最後まで克服しがたい脆弱点をなした。あれほど世界に喧伝された日本人の愛国意識が戦後において急速に表面から消えうせ、近隣の東亜諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させつつあるとき日本国民は逆にその無気力なパンパン根性やむきだしのエゴイズムの追求によって急進陣営と道学的保守主義者の双方を落胆させた事態の秘密はすでに戦前のナショナリズムの構造のうちに根ざしていたのである。≫『日本におけるナショナリズム』 丸山真男著
わたしは急進主義者でも道学的保守主義者でもないから、無気力さやエゴイズムが理解できるつもりだが、見方によっては、丸山は自分こそが本物のナショナリストであるかのように、中国を含む東アジアのナショナリズムの興隆を尻目に、日本のナショナリズムが敗戦を境に急速に統括力を失い、エゴイズムに吸引されてしまった体たらくを皮肉っているようにみえる。また、別の箇所では、「卑しい人民」でありながら、天皇を中心にした縦のヒエラルキーの影に隠れて有無をいわせず無理難題をおしつける下士官に対する丸山の兵役体験の被虐感が露骨に刻まれている言葉がある。それらには戦時にうけたトラウマから、敗戦によるそれらのひとびとの無気力や変貌に、ざまぁみろというような印象まで見え隠れしているのである。こういう言葉に戦時体制の中で国家の権力とも「卑しい人民」からも自由なひとりの知識人の思考の跡をみることはできるかもしれない。
しかし、丸山は、その貴重な戦時体験の中から、敗戦によって虚脱したひとびとの体験をまとめあげ論理にむすびつけ、自身のいう変異な発展をとげた日本のナショナリズムをあらたな展望へつなげることはできなかったのである。これは彼が実践家でなかったことを咎めるのではない。彼のような近代のナショナリズムへの距離のとり方では、近代国家の理念と現実の落差をうめることは、そのまま現実そのものを失うことを意味するからである。そして、なにより、丸山の体験から結ばれた戦争やナショナリズムの像には、あくまでも私的な怨恨の表情が読み取れることに第一の理由がある。一般的にいえば、国家の支配権力体制によって痛めつけられた多くの体験は、その体験が特異なものであって、その特異さはわが国の近代国家そのものの特異さと直接結びつけられてしまう。現実の特異さの認識は、あるべきナショナリズムや制度をひとりの知識人の胸中に芽生えさせ、それからさらに、現実の特異さを再確認するようになる。その循環が繰り返されるにつれて、ますます理想を高みに押し上げるこのメカニズムは、それ以前にもスターリン主義の内部争闘や粛清の過程で実証済みであった。スターリン主義者はソ連邦成立の際にできなかったことを羅列して、それを現実条件の未成熟やねじれのせいにした。社会主義の理念が実現できなかったのは、ロシアの特殊事情に阻まれたせいだというように、自ら立っていると自負する理想の足場から現実と「卑しい人民」を呪詛したのである。ほんとうは特異と呼ばれる現実こそが、ほんとうの現実以上でも以下でもないにもかかわらず、あたかも観念と現実が転倒して二重世界にまぎれこんだことを当たり前のように弁明するとき、この呪詛はやがて反スターリン主義者さえもが逃れられない罠になり、あたかも権力に抗するものの宿命であるかのように、疑われることなくわが国の戦後のマルクス主義者ばかりか丸山のような近代主義者にも引き継がれたのである。
丸山は、自分の書いた書物の中にしかない西欧の近代像を鏡にして、近代国家の形成過程におけるナショナリズムには、健全なナショナリズムと不健全なナショナリズムのふた色の区別があるというような変態の論理を紡ぎだした。おそらく、この健全さと不健全さの区別を支えているのは、敗戦を悲哀や落胆とうけとめながらも、これから世の中がどうなるかわからない不安とともに、一方で戦争はもうこりごりだという安堵感を感じた多くの大衆の心情とは異なり、敗戦をただ解放とのみ感じた一部の知識人や政党の心の中に拠り所をもっていた。そのときもたらした解放の思想は、世界には自由主義世界と全体主義世界の区別があり、全体主義国家は世界に戦争を振り撒きより多くの犠牲者をもたらしたから悪であり、自由主義国家はその全体主義から自由を守るために戦争したのだから善であるという平凡な仮想認識に裏打ちされたものだ。
こういう心情の図式は、丸山に西欧的意味のナショナリズムとまるで似つかないわが国の歪んだ像をことさら強調させることになった。しかも、この歪みの第一は近代国家の形成過程における特異さに原因が求められた。彼は西欧のナショナリズムは、普遍性の意識（ユニヴアーサリズム）をともなうものであったと述べている。なぜなら、西欧ではローマ帝国やローマカトリックの影響のもとにヨーロッパ共同体の一員として各民族国家は成立したからである。たとえ、近代になって主権国家としてそれぞれ分裂していても、普遍主義が裏側で紐帯となっており、はじめから共有の規範意識をともなっていた。それにひきかえ東洋諸国のそれはインドや中国でも、そしてわが国においてもそれぞれ閉鎖的な環境の中で文化圏をもっていたが、１９世紀になって国際社会からの圧力によってはじめて開国をせまられ世界史の中に登場した。そのため、わが国のナショナリズムは、はじめ「攘夷」という思想の形をとったのである。しかし、その「攘夷」思想を担っていたのは、あくまでも支配階級としての士族階層に限られており、国民の大多数はそれから疎外されていたから、当然、国民的意識の醸成にはいたらなかった。こうした国内の支配のヒエラルキー構造をもっているところでは、対外的な場面においても、相手を屈するか、相手によって屈せられるかの国内と同様のヒエラルキーをもった緊張感をもたざるをえない。それが嵩じると無制限の膨張主義につながるようになる。だが、「攘夷」思想の担い手たちは、自らを保身するためには、圧倒的に優位なヨーロッパの産業、技術、軍備でみずからを武装する必要に迫られた。そこで、彼らが考えたのは、ヨーロッパ文明を採用するのは物資文明だけに限り、個人主義や自由主義など精神的な文明を極力移入しないという方法をとった。
こうして「上からの革命」によって東洋で最初の中央集権統一国家が形成されることになる。そして、その明治維新政府は、国内の多元的封建勢力を解消して、天皇の権威のもとに富国強兵策を驚異的な勢いで成し遂げ、またたく間に帝国主義列国の仲間入りをなしとげた。それはあまりにも急激なスピードの近代化であったため、片方で国内の不均衡は拡がった。それについて丸山は、わが国の場合、出発の当初から西欧の古典的ナショナリズムのような人民主権やデモクラシーの原則はまったくかえりみられず、生活面では一歩も二歩も遅れた近代国家として登場したと説明している。国民的解放のためのナショナリズムという基本原則が忘れられたまま、世界地図の中にだけ大きく位置づけられたその結果、国民主権ではなく国家主権のみあって、さらには超国家主権にまでのぼりつめてしまったとされる。彼がわが国のナショナリズムの脆弱点というのは、こうした頂点では近代世界の最先端にありながら、大衆の生活意識の末端においては近代化が遅々として進まず、わが国の近代化の「不均衡性の構造法則」をうみだすにいたった経緯をさしている。そして、その内容において民主化と結合しなかったナショナリズムは、国民意識の中に強固な地盤をもたなかったので、敗戦と同時に急速に表面から消えうせたとされるのである。
わたしが丸山の主張に着目する点は、戦前の権力が、国家意識に郷土愛的（家族、地域）な要素を含んでいることを利用して伝統的な封建的、家父長的忠誠意識を煽り、それを天皇制の観念と結びつけて家族国家的な体裁をとったという認識である。当時、ある程度西欧化していたインテリはともかく、「暗く淀んだ社会的底辺に息づく庶民大衆」はうまれたときから「国体」教育を信じて育った。それら農民、都市庶民階層のひとびとは、市民的自由のない状況と経済生活の窮迫がかさなって、国家の対外発展のうちに心理的代償を見つけだし、やがて総動員体制の中、世界でも類例のない戦時の精神的団結をうみだしたのである。しかし、丸山は、その背景とは裏腹に、そのナショナリズムは市民生活の中に根づいたものではなく、外部からエモーショナルな投射として発現したものであったから、伝統的封建的な家族＝郷党意識が素直に国家意識に反映せず、縄張り根性がはびこることにもつながったと正当に指摘している。この点は、戦後のナショナリズムの解体現象が、一日にして、なぜか「無気力なパンパン根性」になりさがったと見えたこととあわせて、わが国のナショナリズムの本質として、是非、とりださなければならないのである。なぜなら、ここにこそ国民主権が国家主権になってしまう秘密が隠されていたからである。
だが、ここでも丸山は、あくまで幻想のナショナリズムの側に寄り添ってしまうから、その家父長制家族から兵役につく兵士に国家意識と相反する意識があった事実について、悪意をもつかあるいは過小評価してしまっているのである。わたしたちは、そういう兵士らが出征時に国家意識と家族意識の狭間において複雑な内面の表情をみせた一瞬にこそ、丸山のいうような擬似エゴイスチックな郷党意識ではなく、ほんとうの意味の大衆のナショナリズムの核心を読みとらなければならないとおもう。さらに、この兵士が復員して帰郷したときの感慨が、真の意味のナショナリズムの高揚となってわが国の戦後に定着したのだとおもう。現行の憲法９条に込められたおもいは、出征兵士の心の矛盾そのものであったにちがいない。だからこそ、それを反故にしようとする保守勢力は、現在においても、必ず、自分が当事者にはならない安全な位置にいて、この心の矛盾を棚上げにするにきまっているのである。自分が戦地におもむきもしないのに、自衛の名のもとにまたぞろ排外的ナショナリズムを煽り、他人を戦地におもむかせようとする欺瞞のおおもとは、すでに、戦中から敗戦時にかけてのすべての体験に凝縮されていたのである。
丸山の文体は端正な顔立ちをしているが、どこかわたしたちには近寄りがたい冷たい雰囲気を漂わせている。彼は戦前のファシズム運動を推進した社会階層を二つに分け、一方は小工業主、町工場の親方、土建請負者、小売商店主などの擬似インテリゲンチャ層とし、もう一方を、都市のサラリーマン、文化人、ジャーナリスト、学生などの本物のインテリ層とした。そして、軍部、官僚など国家機構の中枢から流れ下るファシズム運動を支えたのはもっぱら第一の類型にあてはまる階層であり、本物のインテリ層は積極的な運動の担い手にはならず、むしろ、ファシズム運動を心の中では軽蔑し、嫌悪の感をさえ抱いていたが、それでいてまとまった抵抗勢力にならず、無関心を装ったままこの運動を眺めていたことになる。後者の心理的抵抗には実感がこめられているから、むろん、丸山自身はこのふたつの組み合わせの後者の類型を代表しており、ファシズム運動を軽蔑し積極的な加担もしないかわりに抵抗もできなかった自分を代弁させたとみなすことができる。そして、このような分類をしたあとも冷静に、家族国家観や農本主義、そして帝国主義列強からのアジアの解放の夢を思想的地盤とするファシズム運動に対抗できなかったのは、ドイツやイタリアと違って、ワイマール共和国やプロレタリア運動の経験もない民主主義の浸透が遅れたわが国の後進資本主義の特異性を理由にあげている。
わが国の近代化はナチズムやファシズムが台頭したドイツやイタリアと比べてさえ遅く、民主主義の伝統が乏しく底の浅いものであったので、ドイツやイタリアの知識人のように頑強に抵抗できなかった。そればかりか、家父長制的な町工場の親方や中小店主等のファシズム積極派におしきられた恰好で、知識人がほとんど表面にでることさえできないまま、内面の問題としてファシズム運動をとらえられなかったとしている。だが、そのような底の浅い文化人について、仕方がなかった以上のふがいなさをみてとっている箇所はどこにもみあたらない。たぶん、戦時中の知識人である丸山は、ただ社会層の影としてのみ存在したのであり、例外的に責任を負う立場にいなかったと想定するほかない。だが、丸山はそのすぐあとで、日本の支配権力体制が天皇に権限を集中させて利用した軍部、内閣をはじめ、だれもが自らは責任をとらない無責任きわまりないものであったことについて口を極めて批判しているのである。そして、結局、民主的な意識の不徹底が国家意識の上でも弱点になり、戦争による国家の没落につながったとしている。また、戦後しばらくは、帝国のシンボルを失ったナショナリズム・イデオロギーは行き場を失って急激に拡散したため、今後のナショナリズムは、戦前のものそのままのものとしては復活しようもなく、ただ反革命としてのみ機能するだろうなどと呑気な予想までしているのである。
丸山は知ってか知らずか巧妙にすり抜けてはいるが、みずからは責任を感じることなく、それでいてひとに責任を求めるその文化人の自由性こそが、その脆弱な民主主義の正体ではないのか。こうして、丸山は、そのようなファシズムの運動を形式論理的に西欧のそれと見比べてはいるものの、自らの反省点として何の問題も汲みあげていないようにみえる。わたしは、この丸山のような戦前の歴史へのさかのぼり方を、空間的にゼロ地点のやり方と考える。つまり、彼は自分自身のかつての体験のことにはまったく触れず、それに無関心なまま歴史がつくれると考えているのである。それは現在の自分につながる要件をまったく無視して、歴史物は固形した岩石のように外側にあるだけで、そこにはなんらの感慨も生じようはずもなく、まったくの手ぶらのまま歴史世界から現在に戻り、祖述することができるという考え方を身につけているという意味である。現在の自分につながらない歴史というのは、いわば、論者がまったくの仮構の位置を占めていることをあらわしており、現在のための歴史という観点からすれば、丸山の歴史性は精緻なけれども、空間性はほとんどゼロに等しいといえる。おそらく、このゼロに針が振り切れるまでには、底深い恐怖や自己嫌悪が胸中に渦巻いていた戦中の自分を始末したはずなのだが、それ自体、戦争に積極的にのめりこむことも、また、積極的に抵抗することもしなかった中性の心性を反映したものである。しかも、その天秤はどちらかというとファシズムへの嫌悪の方により多く針が傾いていたとおもえる。その分だけ、書物の世界には決してあらわれることのなかった家父長制的な町工場の親方や中小店主などの「亜インテリ」の醜悪さに対して、冷ややかな軽蔑の視線を向けることになった。
わたしは歴史への取り組み方は二通りあるようにおもう。ひとつは、過去の中に過ぎ去った自分をみる見方である。つまり、自分の生涯の年輪をひとつひとつ剥いでいくと、現在にくらべて過去の自分を、あたかも未熟であった自分としてみることができるようになる。しかし、それは現在の歴史をストップしたことになり、過去の感慨はそのときのまま裸でそこにうずくまっているにすぎない。そこには歴史の織物だけが存在する。そして、歴史をみるもうひとつの方法は、現在の自分の中に、過去の自分を見出すやり方である。このふたつの方法のちがいは、自分と時間との交わりにおいてあらわれてくる。第一のものは、いわば、時間的な見方の極点に位置しており、後者は時間が極小になり、空間的な見方が極大にたっする見方である。前者は、時間が過去から現在に一方的に流れている状態であるのに対して、後者は、今度は、時間が現在から過去に向けて流れている状態を指している。しかし、双方の時間は無記名ではなく、現在の中で生きている歴史作者の息遣いや生活観が当然織り込まれることになるから、ほんとうは現在の時間をやりすごして純粋過去を振り返ることも、過去からそっくりそのまま移行した過去形の現在も想定できないはずであり、時間と空間の要素はいずれも幾分かの割合で重なりあっているのである。つまり、時間と空間は、必ずしも、極点から極点に流れおちるものではなく、幾分か双方の性質を織り交ぜてあらわれてくる。
こういう考えを踏まえると、丸山の場合は、過去の自分の知識人としてのあり方に何の内省も懐疑を抱いていないようだから、過去をあたかも純粋過去であるかのように、現在からまったく自由な立場で戦前の歴史を冷ややかにみていることになる。いわば、時間性の極大点において時間は過去から現在に一直線に流れているのである。丸山の無機質な歴史の触感は無意識ながら、せっかく、国家権力の推移と庶民大衆を区別して日本社会の二重構造を示しえたにもかかわらず、兵士や家父長制的な町工場の親方や中小店主などは、実体的なモノとして純粋過去としてしか登場しなかった。そのため、兵士らが出征時に国家意識と家族意識の狭間において複雑な内面をみせた一瞬をとらえることができず、郷土愛的なナショナリズムと集権的なナショナリズムの裂け目を深化することができなかったのである。
丸山の方法は、ヘーゲルなどと同じように理念としての自由や民主主義をかざして過去の矛盾をみとめることしかできないから、自分がかつて戦中の知識人として影であったのと同様、現実としての大衆の動向は、たえず、理念の逆立ちした影になってしまう。民主主義という理念は鏡のように倒錯したナショナリズムを映し、逆立ちした日本ファシズムを映して、そのまま円環して理念としての民主主義に戻ってくるのである。そして、もっといえば、対象であるナショナリズム自体が円環の中で、西欧的理想と特殊なわが国の現実との齟齬として宙づりにされるため、愛国心やナショナリズムは健全であればいいのかという戦争に関する究極の問いかけを導きだすことができなかったのである。つまり、愛するにふさわしい民主主義国であればナショナリズムは戦争に替えてもいいのかという、未発達な国家であっても成熟したものであっても、近代民族国家が直面する最後の設問に答えなければならなかったのである。そういう意味で、丸山の近代主義には限界があった。
３ 近代と反近代
丸山真男のような近代政治学がおちいった歴史観の平板化をまぬがれるためには、どうすればよいのだろうか。また、いわゆる近代主義を乗り超える方法はあるのだろうか。それに対して橋川文三が導き出した答えのひとつは、太平洋戦争中に既にあらわれていた近代と超近代（反近代）をめぐる論争の意識の根底をさぐることだった。もうひとつは、わが国の戦前の時代背景を詳細にたどり、思想動向をより短期間に区切ることで、明治期の国家主義と昭和期の超国家主義とはまったく異なるものであったことを際立たせる方法である。このふたつによって、丸山のように幕末から敗戦までつなぐ歴史の流れを、西欧の市民社会の概念を使って、無理やり理念としての民主（自由）主義と国権主義の対立に圧縮してしまう見方に対抗できると考えたのである。この方法をもとめて橋川がとったのは、明治以降の政治体制についての従来の通説とはまったく質のことなった歴史観を対置することであった。彼は北一輝について次のように述べている。
≪明治国家をもって明白に近代的民主国家なりと断定したところに、北の独創がある。この断定は独断的なものと思われるかもしれないが、その反面において、天皇を民主国家の最高機関なりと規定することによって、一見独断的と思われるその明治国家論に一貫した論理性を与えている。天皇を天祖以来、万世一系の現人神とみなす国体論が支配的だった明治期において、これほど明確に天皇と国家の関係を逆転せしめた思想家はいない。天皇への忠誠が国民の本質とされた時代において、天皇の国家への権利と義務を彼ほど明快に論じたものもいない。≫『反近代と近代の超克』 橋川文三著
橋川は、北一輝の思想の内容についてなんら吟味されないまま、軍部ファシズムを扇動した２．２６事件の首謀者として括ってしまう方法が、ほかでもなく誤った近代主義そのものであることを示そうとした。なぜなら、彼は北が明治国家政府の強要する正当的な国体論に対する徹底的な批判者としてあらわれ、明治維新に関する全く新しい近代的な歴史観を展開していることを見出したからである。北の歴史観においては、明治維新によって日本はすでに「民主国」時代に入ったことになっており、天皇についても「民主国」の国民として国家の機関であるとされていたのである。つまり、北は明治憲法の中に表われた国家理念を極限まで引き伸ばすことで、明治維新はフランス革命に劣らず「民主国」を産み落とした革命であり、それによって日本国家は「社会民主主義国家」になったとみなした。そして、そのような理念によって誕生した国家を普遍的に理想化する方法を選んだのである。当時の明治絶対主義体制のもとでは、天皇は国民が臣従する現人神とみなす国体論が支配していたのであるが、北はそのまやかし性を逆転させ、本来、天皇は国家の一員として国家と国民の天皇にすぎないという考え方を提示したのである。にもかかわらず、この明治という理念としての「社会民主主義国家」は、西郷の西南戦争を弾圧したのを契機に、維新革命の裏切りがはじまり、明治十年以降はもはや革命の建設ではなく、革命の後退がはじまったとした。したがって、それ以降の天皇制絶対国家イデオロギーを支柱にした日本の近代化は偽善であり、明治維新が展望した近代化への大きな裏切りにほかならないとして、国体論を激しく批判したのである。
北の場合、明治維新革命は近代的民主国家への革命であるというテーゼがあった。そのため、ほかの右翼と呼ばれる神政復古主義者が文明開化と富国強兵策を裏切りとみていたのとは違って、その方角は常に前向きであった。ただし、それが独占ブルジョア階級と組んだ藩閥政治によって中途で挫折させられたという認識におよんで、西欧の輸入革命理論によって民主化すべきとする近代主義にも反対し、さらに天皇を神がかり的に神聖視する神政復古主義にも反対した。そこで明治維新の革命によって日本は国民国家として独自の発展をしながら、革命的な先進国家として近代化できるとの見方がでてくる。ここから北は近代とも反近代とも異なる超越的理念をもって、第二革命の展望を開くことになる。橋川はこの北の歴史観によって近代日本の歴史観を転倒しうると考えたのである。つまり、わが後進資本主義国家の宿命ともいえる西欧的カテゴリーにもとづく近代と反近代の対立の構図を塗り替えることができるとしたのである。
橋川の歴史の見方によってはじめて、北の思想を媒介にして、明治のナショナリズムとはちがう昭和の超国家主義の全体像をとらえることができた。橋川が丸山真男の超国家主義の定義はファシズム一般との区別はしているが、日本の伝統的ファシズムとの区別をしていないと批判したのはこの意味において理解できる。わたしたちはともすれば、近代国家の興隆から太平洋戦争の敗戦までの軌跡を、日本のファシズムの誕生からウルトラまでたどる道のりをとおして説明できると考えてきた。しかし、北の思想が注目されはじめた大正の終わりから昭和初期にかけての社会・政治状況は、明治や大正期とはまるで異なるものがあった。つまり、北の超国家主義の出自は、明治から昭和にかけての急激な社会状況の変化を考えないでは理解できないのである。その根源にあったのは、国家独占資本主義が急速に巨大化する一方で都市の階層化や農村の疲弊、解体が進み、そのような社会状況の中、広範な若年層を中心に社会や政治に対する無力感や抑圧感が渦巻いていたという歴史的背景である。しかし、これは北が革命とみなした維新を成し遂げた志士たちの心情を裏切った社会意識が表面を覆ったことになり、北の思想にとってはあまりに窮屈な現実であった。草莽の志士たちの心の中にあって、２．２６事件を実行した青年将校たちに欠けていたものはなにかという答えに、村上一郎は青年将校たちが「きわめてシニカルであり、自らをいたずらにいけにえとする風が強かった」ことをあげている。これは北と北のもとに集まった青年将校とのあいだの決定的な分岐点でもありえた。
北の思想の核心には、国家形態や国家装置というような「表皮」ではなく、国家の「骨格」に目が据えられており、その進化こそが「国家をして国家たらしめるもの」への希求となって現われている。しかし、昭和の現実は軍閥政治の肥大化とともに、その天皇への帰一は堅苦しい道徳の衣をまといはじめ、明治の精神を軍人勅諭や教育勅語の中に封じ込めてしまっていたのである。特に、戦時体制になってからは、近代政治の価値はすべて天皇に収斂して、政治上の争闘さえ天皇への直結意識によって自らを正当化するようになった。天皇制下の政治的エネルギーの源には、天皇への距離感とそのヒエラルキーの中における上昇志向が集約され、それは、いわば、個人や家族の生や死さえもまるごと奪い取ってしまう擬似宗教的儀式にもみえた。このようなあらたな歴史の出現に対面して、もはや、革命という大義はあらわれようはずもなく、インテリ層においては保田与重郎の過激な農本主義的神政思想に襟首をつかまれたり、青年将校たちの焦りは北の思想をウルトラ国家主義としてうけとめる風潮につながった。そのため、明治以降伏在していた革命思想のエネルギーは上げ底化され、次第に、軍上層部からの締めつけによってファシズム体制は強力な地盤を築いたのである。その意味からわたしたちは第一に、近代主義と反近代主義の争いが不毛なことを知るのである。
北の思想については、その明治から昭和への時代背景とともに生い立ちや中国革命との関わり、また、法華経の影響が大きいとされている。その中で松本健一は何より北を近代個人主義者にして浪漫主義者であったことを自明視している。松本によると、北は個人の絶対自由主義の果てに、時の明治絶対主義権力に反抗する自我の唯一絶対者の野望を抱いていた。そういう彼は個人と同様に国家もひとつの生命体とみなして、おのれの野望を実現するために、天皇を国家の一機関としての立憲君主と位置づけ利用できると考えた。それは、やがて、彼にとって現行の天皇絶対体制を基礎づける「万世一系」の国体思想こそ棄却すべきであり、それに対して自我の拡張としての「民主国」を対置する動機になる。そして、個人主義者としての自我の野望を実現する道は「民主国」の生存を活かすことと同義になり、個人主義と国家主権主義は併存しながら、最後にはユートピアとしての神の国に託すという理念を編み出した。個人を小我ととらえるなら、国家は大我となって国民国家として登場するが、彼は国家相互間の生存競争によって、やがて、超国家つまり無我＝世界連邦が出現することが歴史の究極の進化と考え、理想の国民国家になれば神の国が実現できるとしたのである。だが、北が中国革命を目の当たりにしたことでおのれの意の限界を知り、日増しに寂寥感がつのって法華経三昧になってからは、あたかも意志と運命が抗うように独裁者を夢見て、２．２６のクーデタという権力奪取の最短手段を求めることになったという横顔をとらえている。
松本は、そういう北の生涯にとって明治政府が天皇絶対体制と制限君主制のヌエ的な結合政治体制であったことが決定的であったとみなしている。それは天皇絶対主義体制を顕教とし、密教として天皇機関制の双頭性をもった体制とみなしたことになる。もともと、明治維新の理念には二通りの流れがあった。ひとつは社稷派であり、もうひとつが、いわゆる近代国家派である。社稷派は天皇を奉り王政復古を志向し、一方の近代国家派は天皇を制限君主にして立憲君主制のもとでの近代的国民国家を建設しようとした。北は、そのヌエ的な構造を密教の側から徹底化することによって、顕教を打ち砕く意志であったとされる。つまり、明治の絶対専制権力の裂け目から北のような考え方が生まれるのには必然性があった。時の権力者は表向き天皇制の絶対権力をふりかざしながら、ほんとうは立憲君主制の中でみずからの権力を合理化しており、それは歴史分析においても比重の置き方によって講座派と労農派の違いとなってあらわれたのである。
一方の講座派が明治維新を絶対主義権力としての天皇制をとらえたことは、軍部内の皇道派が社稷回復を願い、万世一系の天皇を奉じたことに通じるものがあった。これに対して労農派は、明治維新はブルジョア革命として、天皇絶対制は独占ブルジョアジーに依存しているとして、統制派が近代的国家組織の上に立脚して天皇を国家支配の機関として利用しているのと似かよった視点であった。しかし、松本は北が明治維新をあたかもブルジョア民主革命であるかのように規定したとしているが、北のとらえ方は、社稷派や近代国家派とは全くちがっていたとおもえる。それは歴史観の根幹がすれちがっていたからである。この点をふまえて、渡辺京二は次のように解説している。
≪北の発想にユニークさは、何よりもまず社会経済構成の区分のしかたにあらわれている。ふつうの考え方では、封建社会、ブルジョワ市民社会、社会主義社会は、あい異る三つの社会経済構成である。ところが北はそういう三段階説をとっていない。彼は「家長国」から「民主国」へと二段階をもっとも本質的な「進化」と考えている。くわしくいうと、「家長国」をさらに「君主国」（すなわち古代専制王権国家）と「貴族国」（すなわち封建制国家）に小分類し、「民主国」を「法律的公民国家」段階（すなわちブルジョワ市民国家段階）と「経済的公民国家」段階（すなわち社会主義社会段階）に小区分している。より正確にいうと、民主国（これは北の用語では近代公民国家と同義である）は、法律的にのみ公民国家である段階と、法律経済両面における完全な公民国家段階とにわかれていて、そのつなぎ目に社会主義革命がおかれているわけである。≫『北一輝』 渡辺京二著
北のこのような発展段階論からすると、明治維新は革命の名のとおり社会主義に向けた第一段階の社会主義革命であり、次の法律、経済両面にわたる社会主義革命と連続性をもった革命と考えられていることになる。この二種類の連続する公民国家革命は、第一段階で革命の理想を法律に規定し、その上で第二段階の補完革命でその理想を経済や国民の生活において実現するというものであった。つまり、北が第二段階の社会主義革命を第二維新革命と呼ぶのは、連続した二段階の革命を永続革命と定めているからである。したがって、渡辺は松本とちがって第一次の明治維新革命はブルジョア革命とはみておらず、むしろ、明治維新からブルジョアの経済的（階級的）支配がおこってきたとすれば、それは維新革命の逸脱であり逆転現象ととらえたのである。渡辺は、ロシア革命におけるトロツキーなどロシア革命のスターリン反対派の立場と比較しながら、明治維新の本質からすればブルジョア社会が出現してしまったことは「裏切られた革命」ととらえた。
渡辺によると、北は歴史的発展過程の必然を認めないからマルクス主義のように、まず、ブルジョア革命があり、その後、社会主義革命があるという二段階の革命方式は、西欧の輸入思想であるとして嫌い、ブルジョア革命によってもたらされる市民社会原理を歴史から削除してしまったかのような言い方を含めている。もちろん、北は個人の自覚を通過した近代人であるから、社会主義とは個人主義の開花であり、個人主義にもとづかない社会主義をみとめてはいないというものの、個人主義の基本にある原子（アトム）としての人間を認めることができず、はじめから個人と社会とが対立する図式は想定されていなかったとするのである。なぜなら、北は本質的に個人とは社会的人間であるという信念をもっていたため、個人＝社会という認識はいつのまにか、個人は社会的人間でなければならないというテーゼにすり替わって理解されてしまうところに大きな落とし穴があり、この点において、北にかぎらずマルクス主義者も例外なく躓いたとされる。渡辺は北の思想を西郷隆盛などと同じく「日本型コミューン主義」への希求があらわれたものとみなしたのだが、古来の伝統的共同体がわが国に発展しつつある資本制経済システムに押されて行き場をなくしたため、それまでの思想的伝統に類をみないような共同体への飢渇感に合流したとみているのである。
渡辺のような見方が生じるのは、もとをたどれば、北の概念の中では「国家」と「社会」の区別ができていない点に問題があるように受け取られているが、わたしにはそのような見方こそ、近代主義的な歴史観の狭さであるとおもえる。なぜなら、北の思想は、偏狭な国粋主義者、右翼ファシストや復古主義者とは明らかに異なっており、その理由としてあげられるのは、北は「純正社会主義」理論においてダーウィンの生物進化論を社会進化論に援用して独自の社会主義論を展開しているからである。そのことが北に「科学的社会主義」の自尊心をもたらした。このため北の思想の中心には、社会主義は社会の進化を終局目的としており、偏局的個人主義のように社会を個人の手段にするのはなく、しかし、また、社会進化の目的のためには個人の自由独立を不可欠とすることで、個人主義を基礎としながら個人を社会国家の利益のために活動すべき道徳的義務を負う責任をもつという理念があった。この進化という観点からみれば、個人から社会に向けたベクトルと社会から個人に向けたベクトルがすれ違い様になっており、これだけでは個人が国家や社会に埋没した国家万能主義という考え方は生じないからである。何より北は、私有財産制は社会の統一を乱さない限りにおいて認める立場に立っており、同時に、一部の資本家、地主だけが莫大な財産権を奢り、国民の大多数が無産状態になっている現状を、過ぎ去った封建的「貴族国」の遺物として批判する。したがって、明治維新によって切り開かれた「社会民主主義国」が目標にするのは、階級的格差がなくなるというより、むしろ、「全社会の貴族主義」がもたらされる社会進化の過程としたのである。この私有財産について『国家改造法案大綱』においてはより具体化され限度額が明記されている。
個人と全体（部分と全体）の関係、それと資本との関係について滝村隆一は、北のめざした社会主義の根元にある「社会」概念がもともと曖昧で、実体的な「社会」概念をもとに現在の資本主義と社会主義の対立を想定して、それに批判を加えているにすぎないから、結局、社会や資本の本質にたどり着く前に、「＜資本主義＞社会－主義」の立場に失速してしまったとみなした。滝村の言い方を借りると、はじめから北の「社会－即－国家」という社会有機体説によって導かれた社会概念が、とりもなおさず、社会を労働の対象化にともなう人間の「実存」様式としての関係の網目として理解できなかった点において、それにいくら社会主義を接木しても、調和的かつ非敵対的形態な社会を構想することができなかったところに原因があったことになる。もっといえば、滝村は、北の発想では資本とは物的財貨であり、その多寡が人間を不幸にしているという解釈の域をでず、資本主義の本質である対象化された労働が生きた労働を支配する関係としての資本をとらええなかったことで、資本主義批判をクーデタ的政治革命による社会改革によってしか表現できなかった点に最大の弱点があったと言っているのである。それは、北が敵とする対象を制度ではなく個々の肉体をもった「君側の奸臣軍賊」の一掃というところに行き着いたことで証明された。滝村は北の社会主義が個人と社会の対立の構図を内包することにおいて、アジア的な共同体主義を一歩ぬきんでたすぐれた近代的な市民的社会思想であることを認めたその一方で、革命の実際行動の中では、「アジア的デスポティズム」にのっかったクーデタ的政治革命によってしか解決できなかったその矛盾を指摘しているのである。しかしながら、わたしは滝村のそのような見方こそ、階級的視点を欠落しているという読み方で、北をユートピア社会主義者とみなしたりする根拠を与えてしまうマルクスの棒読み唯物史観でしかないのではないかと疑ってしまう。
北一輝をつかまえようとする場合、明治以降の急激な近代化によっても、江戸時代とさしてよくなったともみえない疲弊した農村、都市下層住民の生活の現実を目の当たりにしたとき、明治憲法に規定された天皇制の本質を誰よりも読み抜き、独自の言葉を操って一貫した歴史観をつくりあげた点に注目すべきである。北の思想を一度でも要素分解したことのある者なら、そこから生物学、倫理学、社会学、歴史学、政治学のあらゆる言葉がランダムに溢れだしていることに気づくはずだ。ある者は彼の個人よりも国家社会が道徳的にすぐれているという箇所に失望して国家主義や反近代主義の片鱗を見、ある者は個人の自由なくして国家社会は成り立たないという主張に自由主義のさきがけを感じ取ったりする。しかし、このようにある面では国家主義者であったり、ある面で個人主義者であるというような窓口をとおすと、西欧の市民民主主義原理の立場からは急進ナショナリズム（ウルトラ・ナショナリズム）に映り、片やマルクス主義の立場からは一見ユートピア社会主義者と呼ばれるのがおちで、結局、北の一貫した思想の本質をとらえることはできなくなる。なぜなら、これらはすべて、北の思想を西欧思想のパラダイムによって噛み砕いているにすぎないからだ。
滝村隆一も指摘しているが、北の日本史批判の基盤は、社会（生物）進化論をもとに国体論のスタティックな解釈を退け、天皇制自体が時代の変化に応じて進化したものであることを論拠にした。ここでわたしたちは北の社会主義論に対して、なぜ、唯物史観ではなく進化論かという問いかけをすることさえできる。跳ね返ってくるいちばん通りのいい答えは、北は革命の必然性ではなく必然性の革命を説いたというものである。北がダーウィンの『種の起源』から受けた衝撃は、国家主義でも個人主義でもなく、社会主義でも資本主義でもない、社会主義と「個体主義」が融合した言葉の真の意味の「純正社会主義」という果実に結実した。これには現在から未来に向けた線分と過去から現在に向けた線分が等しく重なりあうような北の歴史への能動的な視角が関与している。
ヘーゲルは「世界史」を�@東洋世界�Aギリシャ世界�Bローマ世界�Cゲルマン世界�Dゲルマン世界の最終段階としての近代世界に区分し、歴史は理性が理性自身を実現していく過程とみなした。その理性のあらわれが、一方では自然的宇宙であり、他方では精神的宇宙、つまり世界史というものであり、そこでの理念こそが永遠の真理であるとした。そして、ヘーゲルの哲学は、理性が世界を支配しているにとどまらず、すでに理性の活動として世界が成り立っていることについて証明するための学問と位置づけられた。そういう意味で、最初から世界史の目的が決められており、世界史とは理念という前提に向かって円環する過程にすぎないことになる。いうなれば、自分の位置から歴史の過去へ遡行し、やがて自分のところにまで戻ってくる過程が世界史とみなされる。この理性の哲学的な自己円環に対して物質的生産の欲望を対置したのはマルクスであるが、そのマルクスでさえ、世界史の各段階が貨幣の出現をへて市場経済が生まれ、やがて資本主義までたどり着いた軌跡を後ろ向きになぞっていることには変わりなかった。
そういう観点からいえば、先に向いて無限に進化していくという北の進化論の方法は、過去においても現在を志向し、現在においても未来を志向する意味において歴史は純粋な固形化されたモノとしてあつかわれていない。現在進行形であることにおいて理念世界が現実に先駆けることもなく、理念と現実はつかず離れずの危うい均衡をたもって、互いが現在の中にぴったり寄り添っているような印象を受けるのである。おそらく、この現在進行形の時間概念は、彼が育った明治という現在の時点が、すでに明治維新革命によって「社会主義革命」の第一歩と考えられたことで確定したものだ。北の歴史観にとっては、明治維新によってわが国はすでに「民主国」時代に入ったことになっており、天皇についても「民主国」の主権を代表する一機関とされていたのである。
彼は進化論が心棒なら社会主義理念と現実批判はその周りを廻っている惑星のようなものとみなした。彼の社会主義は生物進化のための生存競争を認め、この社会は生物進化の法則によって劣敗者を淘汰していくとする。しかし、人間の生存競争は獣類の生存競争とはちがって社会的競争を本質とする。ともすれば生物進化論は生存競争の単位を個人間の競争（個人主義）に限定しがちだが、人間の生存競争は地域、社会、国家単位の生存競争も含んでいるからだ。文明国人は個人としてではなく歴史的知識が蓄積、遺伝した文明社会において文明人として作られたことは、いかに個人主義者であろうと忘れてはならないこととした。そこで北は、社会によって人間は作られるという立場を認めるなら、一体、個人と社会を区別する必要はどこにあるのだろうかと自問自答している。つまり、実体としての個人（原子としての個人）や社会があるという決めつけに対して、個人といい社会というも、結局、同じものの表裏ではないかと回答しているのである。彼は個人は社会の一部分であり、社会は個人の全部であると言い切っている。
≪個人が一個体として意識するときにおいてこれを利己心といい個人性といい、社会が一個体として意識するときにおいて公共心といい社会性という。なんとなれば、個人とは空間を隔てたる社会の分子なるがゆえに、しかして社会とは分子たる個人の包括せられたる一個体なるがゆえに個人と社会とは同じきものなるをもってなり。すなわち、個体の階級によりて、一個体は個人たる個体としての意識を有するとともに、社会の分子としての個体の意識を有す。≫『国体論及び純正社会主義』 北一輝著
北は西欧的な概念としての自我（エゴ）と社会の対立の構造をのりこえるために、このような独自の「個体主義」（個人主義ではない）によって、競争には利己的競争だけではなく、利他的競争もあることを優劣なく示している。彼はホッブスやスピノザが個体を原子的観念においてのみ考察したことを生物学者が継承していることに不審の念をもった。もし、北の言うように空間を隔てた個体同士の関係の延長上に社会があるとすれば、個体の理想は社会の理想にまったく重なり、人類同胞は帰一するところ、文明の進化という大目的に達するための道のりは、いわば、一元論とみなしてかまわないことになる。そういう観点からすると、文明から取り残された人間や野蛮人もやがては生存競争によって進化してこの世から消滅するのは自明であった。そして、何より北が特徴的なのは、人類は神と獣との中間に位置する過渡的生物という考え方を導き出したことである。現在の人類は、神と類人猿との中間に位置する「類神人」ともいうべき半神半獣と位置づけた。個人主義の立場からしたら酷なことではあるが、冷酷な生存競争はやがて行き着く「類神人」として不適なものは劣敗者として淘汰される。このように北における人類の進化論は冷徹に法則性を帯びてくる。
次にその進化論の鏡に映してみると、現在と歴史の現実はどのようにみえるだろうかということだが、彼にはそれらは進化の冒涜や破綻以外ではないとおもえた。人類の生存競争は社会単位と個人単位のものがあるが、ルイ１４世の時代においては、皇帝は国家社会の分子でありながら国家社会のすべてだった。皇帝という一分子のみを国家としたことで、他の分子は国家そのものである皇帝の利益のために存在するにすぎないモノだった。この偏局的（擬似的）社会主義は原人の時代から中世史の終わりまで続き、中世の封建的区画争いによる生存競争も、分子の意思に反するものは社会の反逆者として淘汰された。そして、小単位の社会の進化は同化作用によって征服、併呑され大単位になる。しかし、歴史は同化と分化を繰り返す波状系の進化をしてきたから、やがて、個人の分化により個人間の競争が前面にあらわれるようになる。以前の封建的な社会においては武力において優れた者が生存競争の勝者であったが、フランス革命以降、生存競争の形は一変する。１９世紀に入り個人の労働による権利思想が芽生えると個人主義が拡がり、ついに歴史は略奪によって土地を占有したものが私有財産をもつのが当たり前の時代は終わりを告げる。いまでは個人の価値が究極目的になり、経済的活動のすぐれたものが勝者となった。
そこで北は、人類はいままで偏局的社会主義の生存競争を経由してきたのだから、社会民主主義は社会主義と個人主義のこの二本柱を並行して立てることによって健全な進化がおこなえると考えた。ところが、誰でもが平等に参画できる権利のもとで個人競争ができるのであればいいが、現実はそれとは全く逆になってしまっているようにみえた。つまり、現実は個人の価値意識どおり、よく労働するものが生存競争の勝者になっていない。そこで、再度、競争の内容がよく問われなければならなくなる。以前の偏局的社会主義の時代においても武力をもった者が力づくで経済的勝者になったように、現在の経済的勝者である資本家、地主の中には、昔の古代思想の経済的貴族のような偏局的個人主義がはびこっているのである。というより、産業革命以降、彼らは機械という封建城郭にたてこもった経済的貴族さながら生存競争の勝者の顔つきをしている。このように平等な競争の土壌ともいえる境遇の違いによって、生存競争の勝者は一部の特権階層に限られてきたのである。したがって、北は目の前の現実のほんとうの姿は、いまでも経済的貴族国にすぎないという結論をくだす。そこでは資本主義が絶対無制限になっており、資本によって略奪され労働は軽蔑されたまま、群雄諸候のように割拠した経済的貴族が、国家の分子として国家全体を豊かにするための努力義務を忘れ、国家をあたかも手段のように操っている。その一方の労働者、小作人は奴隷的服従を強いられ、個人の権威はもはや地に墜ちてしまっている。経済的優者のみが現実の社会進化の動因になっており、北は経済的貴族のみが経済的進化をよくしているにすぎないと慨嘆する。
しかし、明治維新による「民主国」の成立は、社会を利益の帰属する主体となす社会主義の理念を約束したはずだった。少なくとも、社会主義の理念に身体の半分は浸かっているはずだ。つい先頃までは私有財産は正義であったが、歴史の歯車によってできあがった社会主義の理念は、古代の国家万能主義（偏局的社会主義）のような本能的社会性に依存するのではなく、社会主義と民主主義が並存し、全社会の富裕と個人の独立を実現するものだった。北がその実現のための方法に挙げたのは、まず、土地、資本の公有化によって経済的進化を推し進めなければならないということである。それにより今日の下層階級に経済的自由、平等を与え、政治的、道徳的独立をすることができる。また、土地及び生産機関の公有化をめざしてトラストを拡大し社会的大生産によって貧困をなくすこと、そして、社会はより進化すると、ゆくゆくは万人の平等な分配という共産主義にいたるはずである。そのような社会主義は清貧の分配の平等ではない。彼はマルクスと同様に、社会主義は貧困の平等をめざすのではなく、また、上層階級を下層に引き下げるものでもなく、下層が上層に上がるものであるとした。一切の階級を掃討して社会が社会的権利において社会の利益を図るようになると、ひとびとは公共心とともに利己心を発動して驚くべき活動の成果を得る。社会の全分子が物資的保護と自由な精神的開発ができることが当たり前の現実になる。こうして純正社会主義とは、社会進化のために競争の自由と個人性の発展を妨げるすべての経済的障害物を取り除いて社会的平等を実現するのである。その結果、個性発展の競争と公共心の動機によって無際限に富んでいく社会進化を実現しなければならない。
その際、北はそのような生存競争の単位においては国家が最大のものであるとしている。彼の社会主義理念によれば、個人の我とともに国家の大我を認め、また、国家がさらに大きな大我としての「世界主義」に吸収されることを説明する。社会主義の究極目標にいたる過程においては媒介として国家間の競争を認めるが、競争の単位としての個体の階級が大きくなっていくとともに、世界連邦国が世界の単位に登場し、競争を決定する機関として活動するようになる。こうして社会主義はついに個人と万国平和の実現を倫理的に望むことができるようになると、更に進化してやがて連邦間の競争もなくなり、人類一国の黄金郷にいたって全人類が同胞になる。そのような社会主義は帝国主義のような空想的な世界統一主義ではないから、いきつくところ、国家主義と個人主義は社会民主主義に包摂されるのである。こうしてみると北が、これ以上ないくらい正確に、一見、ユートピアとみえるところまで国家社会の理想型を引き伸ばしていることがわかる。
そのようなユートピア社会が実現したら経済的生存競争はなくなる一方で、平等な雌雄間の競争は残ると北は言っている。個人単位の生存は、親の細胞が子に伝わり子の細胞が孫に伝わりというように永遠の生命とみなせるから、ひとは肉体においても精神においても不死不滅といえなくはない。そして、生物と同様、ひとは雌雄競争によって異性の中から自己の最も善にして美なるもの（男、女）を得ようとするので、これも真善美の進化であるとする。現実の雌雄競争は愛のために経済的要求にぶらさがり、雌雄競争は経済的競争になってしまっているが、平等社会の実現とともに真の意味での競争に変わっていく。
北の人類進化論の基本は、畢竟、歴史社会の進化を経済的進化に終わらせてはならないという点にあった。そのために、階級としての境遇を掃討して、個人の欲望の発展と社会的欲望の発露を調和させようとしたのである。しかし、今までひとは経済的利益を追いかけるあまり、特権層の経済的進化のみが人類の進化であるかのようにみせかけるさまざまな策略を知らないままであった。たとえば、マルサスの人口論は、人口の増大によって食料の欠乏を唱え、その主張を植民地支配や戦争の口実にした。しかし、北は、社会主義が科学的社会主義の名に値するほどその思想は科学の進歩にそって、衣食住の改善と進化は無限におこなわれることを前提にしなければならないとする。食料の生産方法の改善についても、一切の生産が原始的生産から数次の加工を加える工業的生産に進化すると同様に、科学的進化の途上、止めることができない過程なのである。なぜなら、宇宙には一元的な目的があり理想があり、その意味で生物学は社会主義の基礎であり、社会主義は衣食住の劣敗者の貧困をなくし、子孫の生存においても下等生物と同じような多数の出産を不要にする。したがって、従来のように人口の増加により戦争を説明するのではなく、逆に、中世的思想の専制国家の犠牲になって戦争がおこなわれるため、人口が増殖している事実を説明すべきとした。
北の生存競争＝絶対進化論自体、産業革命の思想の拠り所となって社会的生産の無限性を支えたという意味において１９世紀の科学思想の落し子であることはいうまでもない。その上に立って、もう一度北の思想を振り返ると、彼が進化論と社会主義理念と現実批判を一体にした体系的な革命思想を作り上げたことは、今までわが国において誰もなしえなかった業績として評価できる。とりわけ、彼が理念として提出した個人と全体の関係、全体と部分の関係の理解は優れたものになっている。また、社会主義像についてこれだけ明確に描ききった例は、レーニンの『国家と革命』よりほかに見当たらない。しかしながら、進化論と現実批判において、彼は必要以上に倫理的であった。それは簡単に言うと、彼の革命は国家社会に対する倫理観をもった資本家と大地主の出現によって達成可能なものであったかもしれないということである。もちろん、これには彼の歴史観における能動的な視角が関わっていることはまちがいない。その能動的視角において、もし、北の革命思想が前につんのめっているような感じを与えるとすれば、彼がのちに最初から失敗するのがわかっている２．２６軍事クーデタ（政治革命）に関与したことと矛盾しない。
彼の歴史観では、国家は「君主制」、「貴族制」、「民主制」の三段階に進化したとする。このうち「君主制」はかつて天皇が唯一の君主として国家を体現していた家長君主時代を指し、「貴族制」とは土豪の発達により天皇のほかに武家政権等多くの家長君主が並立していた時代を指していた。そして、明治維新革命によって貴族階級が独占していた政権を否認し、国家が万民に開かれた政体としての「民主制」が誕生したことになる。この「民主政体」こそ、「社会民主主義国家」あるいは「公民国家」と名づけられた。ここで明らかなように北の育った明治という時代は、既に、現実は理念を体現していたのである。もし、そうであるなら、新たな理念を現実に対置するのではなく、理念と現実が食い違っている分だけ、現実の方から理念に擦り寄ればよいことになる。つまり、彼は現実と理念を結ぶ隙間をこじあけることで現実批判をよくなしえることができた。そこからうまれた歴史観は、北に現在から未来に向けて理念を手渡す方法と、過去から現在に向けて理念を開く二つの方法をもたらした。前者が社会主義進化論であり、後者が国体論批判である。
こういう現在の理念としての「公民国家」を起点とする歴史方法は、マルクス主義者である講座派や労農派が当時の天皇絶対制と結びついた資本主義の錯綜した二面性を素通りして、過去と未来を断絶しながら行き来する方法しか提示できなかったことと著しい対照をなしている。北の場合、「公民国家」が媒介されることによって、過去から進化した現在は、現在というだけではなく理念としての二重性をもっており、その理念の伸長はより広い未来の理念に引き継がれることができた。そのため、わたしたちから見ると、過去から未来へはあたかも進化の必然性であるかのように読みとることができるのである。彼は進化論によってこの方法を手にしたのではなかった。現実の「公民国家」そのものである明治憲法の理念の中に沈潜することによって、逆に、この進化論へ向かう動機を体得したとおもえる。彼は遠い未来や遠い過去の夢物語を語っているのではない。いわば、明治維新から間もない現在の中に凝縮した過去と現在を語っているのである。彼の現在には発展段階論の色分けとはちがって、「君主制」や「貴族制」とともに社会主義の理念が色合いを混ぜるように同時に存在する。この場合、現在から振り返ることを不可避に強いられた過去という考え方は、同時に、社会主義の不可避性が背後を支えていた。ただし、北の社会主義の理念がきわだつのは、明治維新によって切り開かれた明治憲法の政治体制が、限りなく立憲君主制に近いことを前提にしての話である。もし、それが「アジア的デスポティズム」でしかないとしたら、北の方法はまるで通用しなくなる。なぜなら、「君主制」や「貴族制」と「民主制」を結ぶ架け橋が失われてしまうからだ。
よく考えると、明治という時代精神の中には科学的思考に対する同種同根の岩盤のようなものが横たわっているようにおもえる。有志の誰もが一度は政治を志し、過去や未来の展望は現在から出発しなければならないことを信じていた。それは柳田國男においても例外ではなく、彼は最初、当時の喫緊の農業問題に取り組んだ後、民俗学の問題は現代のための学問としてみなし、「経世済民の科学」と考えるようになった。
４ 柳田國男の方法
近代主義的な歴史観の本質を明らかにするためには、近代と超近代（反近代）をめぐる論争の意義をさぐるやり方がある。北一輝の方法が優れていたのは、理念としての「公民国家」が媒介されることによって、「貴族制」から「民主制」への移行、いいかえれば中世から近代への移行を、近代の高みから逆にさかのぼった見方をしなかったことである。それにひきかえ、ヘーゲルやマルクスが定式化している方法にのっとるなら、近代と非近代があたかも目の前の風景かなにかのように、実体的に区別されて存在していると考えられてしまう。だが、そこから見たアジア的停滞性や非近代性は、しばらく近代のドグマを離れて正確に再定義されなければならないとおもえる。もちろん、近代資本主義が世界史の頂点に位置し、歴史概念そのものをつくり上げたことを前提にすれば、近代なくしてアジア的停滞と非近代は存在しなかった。その意味で、おそらく、非近代を媒介にした「超近代」はもともと期待しえないものである。わたしたちが歴史観と呼びならわしているものは、ただ、近代を片方向にさかのぼった代物にすぎないからだ。
柳田國男はわが国の「起源」ではなく変遷を問題にした。変遷こそが現在を形づくるものであると信じていた彼は「経世済民の科学」を民俗学に求めた。民俗学が学問として役立つためには、このように今日をあらしめている現実の力になったときである。柳田が政治（政策）との関連でしか民俗を対象にしなかったのは、歴史は今昔を通じる縦の棒ではなくて、横に寝かしたように現存するという考え方に根ざしている。柳田の歴史観の特徴は、歴史を積み木のように重なったものと認めず、平面に横たわっている現存する歴史のみをとらえたことだった。つまり、明治の近代化の中にある前近代を取り上げようとしたため、近代と前近代しかない歴史区分によって、一見、時間を背景に押しやったかのようにみえる。だが、それでも柳田の本意は、山の神、里の神との循環関係にも象徴されてい
るように、その現存する空間は、必ず時間の流れと交叉し、時間は確実に歩むものだと考えたのである。
柳田の『明治大正史』の底を流れる歴史認識に驚かされるのは、衣食住からはじまって、家、生産、消費の経済、恋愛、組織まで見渡す手際が、発展段階論などにとらわれず、前近代から明治近代への遷移が自然のままに流れていることである。わたしたちはずっと以前から、近代と非近代の継ぎ目を問題にしたことがあり、日本的近代社会の二重構造という視点を与えられた。それから得られた結論は、近代と非近代は実体としての差異ではなく、近代なくして非近代はなく、非近代なくして近代なしともいうべきヌエ的なものを想定してきたのだが、それでも次のような滑らかさをもっていなかった。
≪洋食はまったく牛鍋商売の手引きの下に、やっと日本にお目見えをしたと言って差支えがない。…中略…これも洋服と同じで、当人だけはひとかど西洋風だと思っておっても、実は発端からもう十分に日本化していたのである。毎日の衣食は生活の最も心安い部分、人が無頓着になってもよいほとんど唯一の時間であった。それが一つ一つよそ行きになってはやり切れるものではない。だから国風は稀に権力をもって強制せられる場合のほか、いつもこの通りだらしなく、また気まぐれに移り動いていたのである。≫『明治大正史世相篇』 柳田國男著
彼の歴史観の中には、近代がとりわけ重いとも苦痛とも受け取れなかったから、その分だけ、歴史区分にとらわれなかったというのが正しい理解なのかもしれない。ともすれば、彼が以前と呼んでいる時代が、鎌倉時代なのか、江戸時代か、奈良時代なのか不明なのはここに理由がある。これには柳田の歴史の時間軸と空間軸がともに見渡されている方法と密接にからんでいる。また、歴史を「記述された歴史」に限定しない趣旨をもっていたから、ある意味では文学と地質学が縫い合わされたような方法が影響していた。ただ、そういう柳田の歴史観は、主張すべき表現の方法をきわだたせたことで、近代歴史学の立場から見ると、時代を大きく跨いで世界史に交差するとともに、足元に眠って発掘されるのをまっている宝庫のようなものにちがいなかった。
柳田民俗学の世界史的視野をはじめて指摘したのは橋川文三である。橋川によれば、民俗学の発達の歴史は、資本主義の帝国主義的段階において、単数の形を使ってわが民族のことを研究する「フォークロア」と、他方、複数名詞で多くの民族、自国以外の異人種の生活の比較研究をする「エスノロジー」（ethnology）としての文化人類学の二種類があった。しかし、当初のエスノロジーには、キリスト教の神意を信じていたための強い先入観があって、アフリカやアジアの土俗種族の文化を目して、ただ奇異なるものとみなし、恵まれない気の毒な人々の習俗と映っていた。そのため、久しい間、民俗学と呼ばれるものは、もっぱら西欧の宣教師たちの貢物だった。一方のフォークロアも、都市と田舎の区別ができてからのち、都市に移り住んだひとびとが新生活の便利さを味わい始めると、かつての故郷が異境に見えだし、彼らの望郷には侮蔑さえ含まれるようになる。ただし、フォークロアは成長していくにつれて、古い民謡、諺、地名、家名、方言、迷信の類を紹介するにとどまらず、やがて自分たちの習俗の中に、今まで未開の人種に特有なものとばかりおもっていたことと似たものがあることに気づきはじめる。
Ｊ．Ｇ．フレーザーが蒐集した言説はほとんどが伝え書きであり信憑性が薄いなどと皮肉られているが、タブーとして挙げられている実例は多く、中にはなるほど、わたしたちが母親たちに教えられたことで心当たりあるものがある。葬儀のときの習慣、子供の頭を跨ぐこと、何か祈願をかける場合のジンクス、赤子の最初の散髪などは、ポリネシア、北米インディアン、オーストラリア原住民らと共通の時間を持っていたことを窺わせる証拠におもえる。そういう目でみると、近代化が進むならやがて自然にタブーが消滅するかのように考えているフレーザーの姿勢だけが腑に落ちない。フレーザーやデュルケムにとっては、近代と非近代の対立の図式は暗然と横たわっていた。もちろん、柳田においても幾分かそれをまぬがれなかったが、この対立の図式こそが転覆されなければならないと考えている点では、わたしたちと同様な問題意識をもっていた。その対立は、歴史観のみにとどまらず、その近代と非近代が対立する図式そのものを無化することこそが社会的課題にほかならないからだ。
≪一つの国にすでに消失したものは次の国の同一事情のもとに保存せられていた。要するに人類は必ずしも手軽に親々の遺産を放棄してはいなかった。優勢なる新文明が社会をあらためて行く力は、存外に表層膚浅のものであったということが、しだいに会得せらるるとともに、フオクロアは本来各国独立の学問ではあるけれども、しばしば同一の法則の古今多くの他民族に、共通するものがなかったか否かを、尋ね究むる必要に出会ったのである。≫『日本の民俗学』 柳田國男著
柳田は、表層と深層というような使い分けをしているが、ほんとうは習俗の社会的蓄積の異なる「時間」の相違の発見を意味していた。この時間の発見により、同一民族の歴史は世界の歴史とつながっていることを知ることになる。おそらく、橋川が参照したと思われる柳田の『日本の民俗学』という短文は、柳田が民俗学を政治学の一環として位置づけた時点においての普遍的な世界認識の端緒であった。そこには世界史と日本史の接点、あるいは、柳田のいうフォークロアとエスノロジーの婚約が予期されていたからである。
≪もし日本にフォークロアの学問が生まれるとするならば、それはいかなる世界史的ヴィジョンを前提とするであろうかと問うことは無意味ではない。すでにヨーロッパは、自己の絶対性を疑うところにまで、世界の諸民族とその宗教・文化を理解しつつあった。そしてそのもっとも天才的な洞察者の視線は、日本の内部の深くにまでとどこうとしていた。日本は、そうした状態の下で、日本と世界とをどのような方法で知ったらいいのか？私は、日本民俗学の創始者として、柳田の発想を形づくった背後の力は、そのような問題意識だったろうと思う。≫『柳田國男』 橋川文三著
こうして橋川は、柳田を含めた明治期の先進的な思想家によって、わが国のフォークロアがエスノロジーとの結婚をつうじて、やがて一般民俗学史に綜合されるのをみた。橋川はこれをインターナショナリズムとナショナリズムの特殊な結びつきとみなし、インターナショナリズムに媒介されたナショナリズムへの新展開とした。だが、ヨーロッパから見た日本の姿にみずから匹敵するためにはもうひとつの条件がいる。柳田は、単に、ダーウィニズムに寄りかかって、どの文明にも必ず背後には無知蒙昧時代があったことを、ことさらのように言い含めただけではない。また、橋川は、新しい知識や経験が加わり、ヘーゲルの歴史哲学に代表されるヨーロッパの精神と制度が人類史の究極の形態であり、それから見れば、アジアやアフリカの世界はただ停滞し未開であり価値の低いものにすぎないという認識が、ウェーバーやマルクスによって相対化されたことを指摘したかっただけではない。
つまり、彼らにとって次のポイントは、いわゆる文化の「偶発多元論」と「一源移動説」のどちらも選択することができない不可能性の契機をつくったということである。それはフォークロアが人類学と呼び替えられ、現代のような盛況をもたらすずっと前から柳田国男の関心を引いていた。柳田は、当時のフォークロアという学問が一隅好事家の博識にすぎなかった時代から、ようやく学術調査隊の派遣がはじまろうとしていたときにそのような問題意識を抱いていた。柳田は、文明史の中に残る未開の痕跡を二つの方角から読み解くことを教えている。ひとつは、文明世界にも、その背後には必ず、彼らから蒙昧と蔑まれている未開のひとびとにいまもって守られている風習の名残が広く行われていたことである。つまり、現在の文明世界の底辺のほうには、そのものの自覚が未開世界に向けて鏡のように映っていることであった。もうひとつは、他地域の未開世界にもそれ独自の背景をもっており、現在の彼らの風習の名残りは、同時に、彼らが歩んできた前代を説明するものであり、同時に彼らの将来も推測させるものと考えたことである。この二つの断面は柳田によって、文化の偶発多元論と一源移動説の並存ととらえられ、未開と文明世界の前文明とはよくよく比較・対照されなければならない問題とされた。
ヨーロッパの宣教師たちには、未開世界は歴史のただひとつの道筋の上で遅れて歩みつつある後進世界と理解したにすぎなかった。彼らの狭隘な人種優劣観は、アジアやアフリカの辺境の土着民への干渉と教育によって、いかばかりか現地のひとびとを悩まし、発展を妨げたかしれなかった。そして、やっとエスノロジーの進歩によって、白人統治者はそのような勘ちがいに気づくようになる。世界の雑多な民族にはそれぞれ別の人種であるがゆえに、別種の文化の流れの入り口と出口がある。ヨーロッパが築いた一極支配の歴史の道のりを歩いているばかりではなかった。そういう流れの中で柳田によるわが国のフォークロアが位置づけられている。それはラフカディオ・ハーンのような外から見ただけではわからなかったわが国の姿を世界的視野で研究しようとしたことでもあった。
その点、長く鎖国状態にあった日本は豊富な残存（survivals）の宝庫であり、俗信や慣行を確かめるために、わざわざ大洋の孤島に出かけるまでもなく、目の前にシャーマンもいれば鬼も妖怪もいる。突然、開国されて、西欧近代文明に蹂躙された政治さえなければ、もしかしたら、西欧のものとは法則を別にしながらも美しいものの芽生えもあったかもしれなかった。当時のわが国は、まだ文明開化から日が浅いためフォークロアの資料は身近に豊富に埋まっており、わが国の文明的位置はフォークロア研究には有利な条件とみなされた。それを逆手にとって、日本に新しいフォークロアの可能性が開かれる方法的問題意識が柳田に求められた。そのような問題意識の上に立って、柳田は次のようなことを述べている。
≪北でシャマニスムと称する巫覡管理の霊魂信仰は、あるいは昔物語の中の魔法婆とも関係があって、西でも南でも調べて行くほどその区域が弘くなり、しかも熱帯の諸島のものにも、窮北の地と類似する点は一二でない。そうしてその中間の鎖は切れているのである。…中略…（日本のようにどこそこにもシャーマンがいるようなところでは（著者注））そうして比較によってその歩んできた途はおおよそは知れる。僅かな労力を我々がこの問題のために費すならば、証拠のある幾つかの論断をもって、この南北二者の溝渠に橋を架けることもできるであろう。≫『日本の民俗学』 柳田國男著
これは中沢新一がシンデレラ神話とシャーマンを結びつける際に依拠した箇所であるが、柳田の言うように、間にわが列島をはさんだとしても、僅かな労力ではとうてい架橋できるとはおもえない。だが、彼が示した「切れている中間の鎖」についての方法的自覚は、単にわが国の利点の意味だけではなく、世界の北と南、北と西の間の「移動」の理念としてよくよく考えなければならないとおもえる。いままで、この「中間の鎖」をつなぐための方法は、歴史概念の中では二つしか存在しなかった。ひとつは、歴史の記述者の側からは決してみえない「常民」や「平民」、あるいは文字のない不特定多数のひとびとの思考や呼吸をすべて拾い集めることだった。常民は支配の歴史記述の中には決して表面に表われることなく、伝記や年代期からこぼれおちる存在であり、いわば歴史の外側に生きてきたといえる。そういう歴史外においてのみ、中沢のようにシンデレラ神話とシャーマンが出会う場所を設定することが可能になった。
もうひとつは、中沢の採用している歴史前という考え方だ。中沢は、後期旧石器時代から新石器時代への過渡期（中石器時代）のホモ・サピエンスの誕生時に視点を据えて、その後の歴史時代を文字によって後づけられた時代とみなし、その時代への母胎回帰をつうじて、いわゆる「書かれた歴史」をおしなべて相対化した上で、世界の西と東それら相互を環のようにつなごうとしていることである。彼の一見、ランダムともおもえるチベット、南北米、ポリネシア、南島などへの秘境めぐりは、およそ、文字をもたない歴史外の常民と歴史前への遡行によって、共通の岩盤の上に立つ同質の世界として根拠づけられた。それらの世界では定地農業や遊牧が行われる前の狩猟民の儀式や神話をつうじて、自然や社会に面して同じ思考の型をもっているとされる。そういう地盤の上なら、澱のように堆積した文化の層土をすべて掻き分けたら、世界中がひとつにつながっていると想像してもおかしくないとしたのである。柳田國男の「常民」概念の由縁を考えると、マルクスの次の言葉を想起してしまう。
≪死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、そして両者の統一に矛盾するようにみえる。しかし、特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。≫『経済学・哲学草稿』 マルクス著城塚登・田中吉六訳
マルクスは、たとえ特定の人間が特殊な能力をもった個人であり、個体として優劣がつけられるにせよ、その同じ程度において彼は思惟する限り、社会の観念的総体性において現存しているので、社会的な関係や生命活動の中に現存しているとした。だから、死というものが、そういう社会的現存性と矛盾し、ある場合には無視しえたとしても類的存在をまぬがれない、そういう個と類の二重性の統一としてのみ人間は現存しているとみなした。いつの時代でも英雄豪傑はいたが、彼らとて死の矛盾を抱え、それを人に語り、個体性を強調しつつも死を恐れながら一代で何事かをなそうとし、あえて死を荘厳に飾りたてようとした。「死ねば死にきり」と声高にいう者に限って、せいぜい８０年や１００年を測る個体性の意味をふれまわり、時に、翌日にも忘れられそうな平凡な死を軽蔑した。それに逆らうように、柳田が常民概念に込めた思いは、幾分、このようなマルクスの見方と重なる。柳田における常民性とは、「時代を同じくする国内同胞の多数のもの、千人の中の九百九十人までが、既に確信しもしくは予期しているところのもの」を抱懐するひとびとを指していた。ただ、柳田においては多数というのみではなく、歴史性と人間との関係において、次のように媒介されていた。
≪学問は本来至って寂寞なものである。ことにかような人を見る学問に至っては、久しい間の一国の同胞と、自分らばかり対立したような地位になって、国民が「見る人」と「見らるる人」との二つの組に分かれなければならず、自分は彼らの群に混じて、浮かれたり酔ったりすることができなくなる。いわばこれは大昔からもっていた太平無為とのお別れである。もっとも今一段と社会が意識的になれば、ふたたびこの差別もなくなって、同時にまた見られるに値する古代からの伝承も消え去るであろう。≫『郷土研究ということ』柳田國男著
柳田はマルクスとちがって個と類の矛盾を人間の本質的なものとは解していなかったその限りで、常民概念を紡ぎだすことができた。この柳田に対して飢餓や貧困、差別、戦乱、総じて稀少性あるいは階級とかの言葉を反措定することもできた。事実、戦後すぐの頃、イデオロギー的な批判ではなかったが、柳田は戦争責任を問われたことがあった。益田勝実は、柳田が空襲下で『先祖の話』を書きながら、「七生報国」の遥かな歴史的価値を考察する一方で、徴兵された実子の帰還を日記で綴っていた矛盾を指摘し、『先祖の話』で書いていることと、生きて自分の子供の帰還を期待している心情の裂け目に筆が届いていなかったのが、柳田の民俗学のアポリアではないかと指摘した。その上で、彼の民俗学が、一回性としての戦乱や貧困、飢餓に伴う具体的な農民の悲喜の心情や、生活にとって欠かせない年貢の歴史性などを考察の対象外においたのは、常民概念の狭さに起因しているとつけ加えた。また、もし、彼の民俗学が常民についての反省の学問を挙げる意図を中心にみれば、戦争に好意的ではなかった心情と実際の擦り合わせを怠ったギャップが、次第に戦争に対する見通しを見失った原因ではなかったのかとの問いかけがなされている。
≪柳田国男自身の心中にとぐろをまいていたあの戦中の＜疑い＞と、その口々に大声で語られる戦後の＜疑い＞との関連、また＜疑い＞を抱く自己と、口には少しも出さない他の国民大衆との関連の問題、すなわち、「涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった」という観察は大いに正当であろうが、はたして、それがどのようないさぎよさなのか、いさぎよいものばかりなのか、と自分の＜疑い＞の真実性に発して、＜疑い＞の友を発見していけなかったところに、柳田の問題がある。≫『『炭焼日記』存疑』 益田勝実著
ここで益田は、戦後、大戦に対する反省がひとびとに一般化した時点で、「国民共同の大きな疑い」をはさむのは容易だが、戦中において戦争に対して兆した微かな異和感を対象化し、それを共同の疑いとして追及しなかったのは、柳田自身と常民の関係を相対化しなかった民俗学の立場が、とおりすがりの旅人の観察、採集でしかなかったことを意味し、主体性喪失の学問であったと断定している。こういう益田の主張は、当然、柳田が常民という概念をどのような時間幅で取り出したかを考えていないところから出る疑問である。なぜなら、柳田が、戦中期、心の中に萌した疑いと、「家」を中心にした論議は、時間の幅を長くとれば、決して矛盾するものではないとおもえるからだ。おそらく、益田は、戦後、皆が戦争に対する反省を当たり前のように受け取った時点で、戦争批判をするのは意味がないので、心の中に留めた時間に遡るべきだと言いたいのだろうが、その間に流れる時間は、せいぜい「家」の一世代の歩幅にすぎない。柳田が、「家」という場合、先祖から折りたたまれた記憶の束であって、それに比べれば益田がいうような一世代ほど遡って目に映る国民共同の疑いの連帯など、たかが知れていた。ある意味、柳田が戦前、戦中をつうじて「家」のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。
なぜなら、柳田の常民概念は、そういう疑いを持つものと持たないもの、いいかえれば、「見る人」と「見られる人」の矛盾がなくなる未来に照らしてこそ、その有効性を持っていると考えられるからだ。その時点で、柳田にとって振り向くべきものの裏側に、同時に、たどりつくものとしての理念として常民性が含まれていたのである。この時間に対する理念がなければ、おそらく、書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのごとく考える従来の歴史学をおおきく覆すことはできなかったに相違ない。柳田が、「見る人」という自覚に寂寞さを感じたことが、近代の自己意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそが、おのずと「起源」への方向性を開くものだった。
柳田の場合、世界史的視野は、フランスや英国の書籍で概略を整理したものかもしれなかった。それははじめフォークロアとエスノロジーの区別の認識にあった。だが、フォークロアとエスノロジーを同時に見つめる中で、自国の先史の中に未開の異種族と変わらない慣習を発見し、はじめて民俗学に時間観念を招きいれた。しかし、柳田はそれに立ち留まらなかった。その時間を単線と複線に解体したからだ。自国の先史と未開のそれは必ずしも一致するとは考えられないから、もう一度、時間を輪切りにして最初に戻り、つまり、もうひとつの時間を挟んで判断停止したのである。これは世界を時間と空間にわたって同時に描くことになった。だが、資質の必然に導かれた方法は、ほぼ無意識に近かったので、傍から見ていると、この段階のフォークロアやエスノロジーがその要件を綜合していたとはとうていおもえなかった。同時代に産みだされたウェーバーの比較宗教社会学やデュルケムの社会学そのものが、「世界史」という概念がどういうものかに答えられなかったのと同様に、柳田自身にも明快な答えが見いだせなかったからだ。いうなれば、それは世界史と抵触しないということではなく、起源の起源にまで目線が届いていないために生じた罠であった。インターナショナリズムという表の顔とナショナリズムの裏の顔を通すためにはどうすればいいか、自覚的な問答がより深く戦わされていく必要があった。こういう問題提起自体、柳田の一面の弱みであり、同時に、明治、大正という時代を超えた奥深さでもあった。
５ 近代の超克
わたしが改めてアジアの国々の問題を考えてみようという気になったきっかけは、尖閣列島にからむ日中の領土問題の対立である。いわば日米間の対立や摩擦は、いままで常識のように流布されているか、猜疑心に囲われて馴れ合いのように誰かれの意識にも上っているのだが、対中関係での対立の問題が、およそ論理的な見方からすれば、このような混乱した形で表面化したのは、戦後初めてのことだとおもう。こういう対立の構図を一番に政策課題に取り込んだのは保守政党であり、今後、国防論の見直しや憲法の非戦条項の見直しまでみすえて、ナショナリティの締めつけを強化していくことはまちがいない。なぜ、日中関係の問題がわたしたちに新しい驚きを与えたのか考えてみるとき、まず、第一に最近の中国の急速な経済的発展が土台にあることに気づく。つまり、中国の社会主義という上部構造をもった資本主義が膨張体制にあり、近代ナショナリズムが急速に高まったという事情である。もちろん、ここでいう中国の社会主義というのは形容矛盾そのものでしかなく、上部構造と下部構造の捩れとは表向きの話で、実際は、資本主義的な近代国家の埒外にあるものではない。つまり、近代資本主義を一巡りしてきたわが国と隆盛華やかな近代中国の利害対立にともなういがみあいとして表面化したことになる。
もうひとつの理由としてあげられるのは、中国との先の戦争の記憶が薄れる中、わが国の戦後は米国との関係に力を奪われ、大東亜戦争のもうひとつの当事国として戦争をした事実の反省と総括が思想的に全く顧みられなかったことである。もちろん、靖国問題や従軍慰安婦問題程度の問題なら、ときどき泡のように政治課題になっては消えていったが、近代主義者、マルクス主義者、保守主義者を問わず、大東亜戦争の意味の根幹の部分については、まったくといっていいほど触れられてこなかったのである。たしかに、わたしたちの年代でも、戦中のスローガンである「八紘一宇」や「五族協和」、「王道楽土」は知識としては知っていたが、なぜ、そういう言葉がうまれてきたかを知ろうとする前に、単に「天皇制ファシズム」という荒削りな範疇に一括りにされた上、すぐさま敗戦による莫大な死者や原爆の廃墟へと連想が飛んで、死者に拮抗するような重さをもたないと思い込み、それらの言葉は単なる幻想として始末していたのである。それでもわたしたちが、幾分、アジアの問題を自覚的に眺めはじめたのは、戦後まもなく展開された竹内好の中国論をとおしてである。
竹内の主張のひとつは、わが国の近代国家の形成から大東亜戦争にいたる過程における事件や事変を網羅するにはナショナリズムの問題を避けてはとおれないという問題意識であり、もうひとつは、それはアジアのナショナリズムとの関連においてとらえなければならないということであった。つづめれば、竹内の主張は、本来、右翼ナショナリストの専売であったアジアのナショナリズム、あるいは民族主義問題の装いを変えた提出ということにすぎないのだが、彼は戦中の同時代体験をもっているから、その答えを導き出すために迂遠な論理の階段を踏んでいるようにおもえる。つまり、竹内の場合、ナショナリズムの問題は火中の栗をひろうことにもなりかねない危険性をよく知っており、その分だけその論理の幅は限りなく狭くなっているのだ。ナショナリズムの由縁や性格づけのための理由がくねくねした論理にたどられることになるが、そこにこそ彼の長所が現れていると考えなければならないのである。
竹内によると、当時の政治家や軍人だけでなく、戦前の文学者、哲学者だけでもなく、戦後のひとびとによってさえ戦争の意味がたどれなかったのはそれなりの理由があったことになる。彼は正真正銘のファシストである大川周明さえも苦悶せざるをえなかった日華事変の解決不能性を知っていた証拠を上げたあと、次のように続けている。
≪なぜ、解決されないのか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄（関税自主権）は明治四十四年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治九年に朝鮮に不平等条約を押しつけている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。この伝統から形成されたのが「東亜共栄圏」のユートピア思想であり、そのために「大東亜戦争」は不可欠の条件であった。≫『近代の超克』 竹内好著
明治の近代化のうちにはわが国の国家構造のヌエ的な関係が絡んでいることは間違いなかった。それは復古と維新、攘夷と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という対抗軸の同時性ということであり、いわば、わが国の近代化の中にはアジアの問題と西欧の問題が凝縮して現れていたのである。わが国が不平等条約の撤廃を要求したのはアジアとしての方法の自覚であったのだが、その同じ時期、朝鮮や中国に対して不平等条約を押しつけているのは、西欧近代の立場においてであった。その二重性はあたかも双頭の蛇のようであったから、どちらかが尻尾を飲み込むようなことになると、先後どちらが頭がわからなくなるのは自明であった。そのため、蛇は、前に進んだり後ろへ後退したりと無限にジレンマを抱え込まなければならなくなる。このわが国の近代国家の二重構造は、もとは西郷隆盛の征韓論にまでさかのぼって、国策の片面に組み込まれていた。そして、このジレンマ解消の力学は、「大東亜共栄圏」というユートピア思想をうみだし、その結果「大東亜戦争」という結語に行き着いた。竹内の文脈からおしはかると、それは欧米列強の力によって無理やり植民地化されてきたアジア諸国の中でわが国が盟主として指導権を握り、欧米の利権を駆逐してアジアを開放するスローガンに込められたといえる。もちろん、理念とちがって現実の進行はそんなに直線に進まないから、竹内はその理由づけの中身は時間の推移とともに少しずつ盛り込まれた内容の力点が変わっていき、公式の国策遂行スローガンどおりにはいたらなかったことを追跡しなければならなかった。
しかしながら、太平洋戦争が始まる前の当時の知識人にとって、日華事変の戦争状態が続いていることは中国に対する侵略行為であることは自明の事柄だった。それがわかっていながら、なぜ当時の共産主義者はもちろん自由主義的な知識人たちは、戦争に抵抗する勢力を結集することができなかったのか、と竹内は改めて問い直している。竹内は、その問いかけを通じて彼ら文学者、哲学者らの思想的枯渇の実体を暴くとともに、彼らの頭を悩ました戦争の定義づけをやっている。それによると大東亜戦争は、植民地侵略戦争（中国やアジアに対する）であると同時に、対帝国主義の戦争であり、この両側面は事実上一体化していたが、論理的には区別しなければならないとする考え方を取り出した。なぜなら、日本は中国大陸に対するとはちがって、アメリカやイギリスを侵略しようと意図してはいなかったからである。それからいうと、当然、帝国主義が帝国主義に責任を負わせることはできないと結論づけられ、東京裁判に対する批判にもつながる。こういう結論の背景には、対米英戦争の開始された昭和１６年１２月８日の体験は、多数の国民がこの開戦を無条件に礼賛した事実によっても証明される。
１２月８日にいたるまでには、暗澹とした平和よりも戦争の純一さの方がましだというような雰囲気が国民の体勢を占めていた。そして、おおかたの知識人も同様な見方によって思考を停止したのである。長いトンネルのような中国戦線の泥沼に辟易していた国民の目には、対米英開戦はある種の晴れやかささえもたらしたことは容易に想像できる。その当時、共産主義者の多くはすでに転向して内面的に屈折し、もはや現実の推移を追いかける力をもっていなかった。また、近代主義的な自由主義者でさえ拘束されており、その他の文学者、哲学者たちも、いちおうに思想的根拠を失った状態に陥り、開戦に対して異議を唱えたものは皆無だった。そればかりか共産主義者の中には、ナチスへの嫌悪から独ソ戦においてはソ連側を応援しながら、そのことを日本の対中国戦線の虚偽性と結びつけて、太平洋での戦争が心理的なカタルシスを得るという倒錯した思考や知性の放棄にさえ映る事態が出現したのである。しかし竹内は、あくまでも「戦争体系のなかから戦争体系そのものを変革する意図と実現のプログラムを提出する思想」の所在にこだわっており、そのような大東亜戦争の思想的性格の定義の難しさの中にこそ、ほんとうは戦争に対する思想的転機が隠されていたと考えている。
竹内は、雑誌『文学界』が太平洋戦争の開始からほぼ１年たった昭和１７年９月、１０月号に掲載した『近代の超克』と銘打たれたシンポジウムについて仔細に検討を加えている。彼はこのシンポジウムは戦前における最後の思想的営為と受け取り、長びく戦争状態を変える可能性を見ようとした。この「近代の超克」という言葉は、それ以降、知識人をとらえたシンボルとして使われるようになる。保田与重郎を除いて当時の論客がほぼ揃った感のあるシンポジウムの出席者は、三つのグループで構成されていた。つまり、「文学界」同人グループ、京都学派グループ、日本ロマン派グループである。司会は河上徹太郎、出席者は西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄など１３名である。
今日から見ると、『近代の超克』という課題は、さしずめポスト・モダンの呼びかけとも同一視されかねないが、この討論が行われた背景はなんといっても対米英戦争の最中、しかも開戦緒戦の戦勝ムードに酔いしれている時期であったことである。文学者の多くは開戦を無邪気に喜び、暗雲が晴れたように気持ちが高ぶっていたのであり、このことを割り引かないと、とうてい彼らの思想の実質には届きそうもない。その一方で、それまでにわが国はすでに１０年近くにわたって中国大陸で戦争をしており、太平洋戦争から戦争が始まったのではない事実である。このような陰影はここに参加したひとたちに共有されていなかったはずはないとおもえるのだが、竹内によると、アジア情勢に対する無関心は驚くほどであるとされている。そのことが、『近代の超克』に関する竹内の最大の問題意識にとれる。その場所では戦争一般の定義ではなく、どの戦争のどのような戦争の側面かが検討されなければならなかったはずなのだが、出席者のだれも「近代の超克」のためには戦争一般が不可欠であるというふうなとおりいっぺんの解説しかできなかった。竹内はこのことにおいてすでに戦争理念の破綻をみてとった。
戦争理念、つまり、大東亜共栄圏を目指した大東亜戦争の理念は、一方でアジアを主張し、他方で西欧を主張する使い分けの論理にほかならないが、わが国はアジアの盟主を自認しながら、アジアに対する無関心と優越意識があるかぎりアジア諸国との連帯は望むべくもなく、相反する意識はたえず二足のわらじの対手を緊張感に誘い、相互矛盾は拡大していった。なぜなら、アジアの盟主になることはアジア諸国の植民地解放運動を敵にまわすことになり、一方で、みずからアジアの原理を欧米に承認させなければからないからだ。だが、わが国の実際のアジア政策の中身は、ほとんどアジア的原理を放棄しているに等しかった。したがって、その対アジア、対欧米両面においても、いずれ破綻をまぬがれなかったのである。竹内は、その破綻は欧米に対してはアジアであり、アジアに対しては欧米であるヌエ的二重構造の結果であり、どちらにしても「永久戦争」の立場に帰着せざるをえなかったと考えた。つまり、戦前のわが国の国際的立場は振り子のようなもので、たえず、不安定で持続的な緊張と戦争を内包していたことになる。そのことに気づき、どういう手立てを行うことができるかどうかがこのシンポジウムで試されていた。
しかし、ここで立ち止まって考えると、竹内の主張に対してある疑問が湧いてくる。ひとつは、その連帯をつくるべきアジア的原理なるものが、孫文の三民主義や戦後の毛沢東のマルクス主義に結実したとか、社会主義という上部構造をそのままにした中国の近代化であったりすることには納得がいかないということである。もうひとつは、欧米に対してアジアであり、アジアに対して欧米であることからくる永久戦争の論理は、わが国独特の環境によって生まれたものではないとおもえることだ。いいかえれば、先進国に対して後進国であり、より後進国に対して先進国であるわが国の二重性は、西欧近代の発展段階論をなぞったにすぎないのである。それはむしろ、より先進国、先進国、後進国、より後進国の序列を時間軸をもとにピラミッドのように形づくられた資本主義の歴史事実であり、もとはといえば、西欧近代の歴史観の落とし子といえる。しかも、より先進国であるか、より後進国であるかという媒介項をのぞけば、あとには先進国と後進国の対立しか残らないから、各国がすべて近代化してしまえば、竹内のいう永久戦争観は意味をなくしてしまうのである。少なくとも、大東亜戦争の論理は、復古や反動だけからできあがったものではなく、西欧の近代的な装いを背負い込むことで成立していた。事実、それは膨大な犠牲をはらって、敗戦は攘夷と開国、東洋と西洋という対立軸の無力化を証明した。
竹内は、大東亜戦争の思想体系を�@総力戦�A永久戦争�B「肇国（ハツクニ）」の理想の三本の柱が一体化したものと想定し、戦時のあらゆる思想はこの「公」の思想との関係において距離感やバランスの上で展開したとみなしている。あの総力戦の時代は、一部の軍国主義者のみが戦争を扇動したのではなく、善良な大部分の国民も戦争を歓迎していたからだ。その意味で総力戦の体制においては抵抗と屈服とは紙一重だったことになる。竹内のみるところ、この公の思想をもっともよく体現したのは京都学派の哲学者たちであった。彼らは「世界史的立場」としての日本の役割を太平洋戦争に結びつけ、それは日本人がみずから「世界史の哲学」を完成しなければならない危機意識と隣り合わせにいた。そして、その「世界史の哲学」は西欧に対抗するわが国みずからの西欧近代的なものの否定、つまり、「近代の超克」そのものであった。そこで新たな世界的日本文化の創造という使命はそのまま、新しい世界史の原理を確立することであり、それは天皇制の原基ともいえる「肇国」の理想に求心する。
そして、そのイデーのための戦争は、人類の魂を浄化することにあり、戦争は歴史をつくるもっともヴァイタルな力であり、近代が行き詰ったところにはどこでも戦争があるという戦争観にもとづいていた。そのような戦争は、講和や平和を目的とするものではなく、それらの次元を超えたものになり、この度の総力戦は戦争と平和という対立概念を止揚する創造的、建設的な戦争と位置づけられる。これらは開戦の詔勅を見事に解析し、解釈したことにつながる。だからこそ、ここにあらわれている思想は、公の戦争自体の論理の破綻をなぞることになったのである。また、当の戦争自体が目的化してしまうと同時に、戦争の目的そのものがみえなくなり、思想的混乱をもたらすことになった。ここにいたって、最初に述べたように戦争の解決不能性が露出してしまい、その点が多くのひとたちにとって戦争の意味がたどれなくなった最大の理由なのである。ここまでが竹内の京都学派に対する大まかなイメージであるが、彼は京都学派を教義学と呼んでおり、戦争とファシズムのイデオロギーをつくりだしたのではなく、単に公の思想を祖述したにすぎないと評している。彼らの思想の力が現実を動かした事実はないとしたのだ。
≪日華事変は解決不能であり、そのために解決の無期延期の手段として太平洋戦争がはじまった。したがって戦争は当然、永久戦争たらざるをえない。京都学派には永久戦争の紙の上での説明はできるが、解決はできない。そうならば「戦争反対」を叫ぶことで、あるいは戦争反対勢力を結集することで解決できるか。それはできるだろう。しかし、総力戦の中からどうやってその勢力を結集するか。どういう論理で戦争を平和に転換できるか。「和戦という低い対立」を観念上で超えるだけならば「絶対無」の哲学でできようが、それは問題にならない。思想が現実にはたらきかけるものとしての、その思想の論理は何であるか。これは戦争中についに発見されなかったし、今でもまだ発見されていない。≫『近代の超克』 竹内好著
わたしたちは竹内のこのような言葉に触れると、当時の総力戦の異様な雰囲気の中では、どのような思想であろうと無力であることを思い知らなければならない。それは京都学派のようにもっとも体系的な形而上学的思弁（思想）であろうと戦争を推進することも、逆に、戦争を抑止することも不可能なことにおいて実地に証明されたかにみえる。しかし、竹内の思想の主調色は決してペシミズムではなく、僅かな可能性かもしれないが、大東亜戦争の二重性にくさびを打ち込み、絡んだ糸のもつれを解く方法を模索したのである。おそらく、竹内の思想の行き着くところは、アジアの原理（ナショナリズム）と近代の原理を肌身につきあわせながら、近代化する方法の模索に集中していただろうことは予想できる。それに対して『近代の超克』のシンポジウムの結論が、「四分五裂で、実りを結ばないまま時局に押し流された無残さ」に終わったことが残念だったにちがいない。
近代の超克派の発言のいずれにも、求められていたはずの時局に面した個々の主体性の問題、あるいは人間の問題が抜け落ちていた。その事実の側面からいうなら、大東亜共栄圏の夢は現実に掠りもしなかったのである。アジアの原理（ナショナリズム）とは何か、西欧近代の原理とは何かもよくわからないまま、勝手に思い込んだアジアの大義を掲げて戦争は拡大していくにもかかわらず、思想でさえも戦勝気分にのって浮かれ、判断停止したままだったからである。この場合、思想と現実の齟齬は、思想が人間の内面の原理をどの程度つかみ、現実の一歩先に歩を進めているかに懸かっていたとおもえる。しかしながら、わたしは、その要請に答えられなかったということで京都学派の思想を棚上げしてしまうことはできないとおもう。彼らが超えようとした近代は戦争こそないが現在も続いており、無力感において先の大戦の折とそれほどちがった環境のもとでわたしたちは生きているわけではないからだ。もしかしたら、彼らが提出した近代のゆきづまりの形而上学は、その歴史認識自体において永遠につづく課題が秘められていたかもしれないのだ。
廣松渉は京都学派の『近代の超克』のシンポジウムに触れて、竹内とはちがって高坂正顕、高山岩男、三木清、西田幾多郎、田辺元など京都学派の思想を逐一取り上げ、日本の帝国主義の東亜政策、世界政策をイデオロギー的に追認しつつ、それを合理化する性格を色濃く帯びていたと解説している。廣松が問いかけているのは戦争に対する参加のあり方の問題であるが、それが直接、あるいは間接的に戦争賛美のイデオロギー的役割を担ったかどうかというよりも、近代の終焉と超克をめぐる思想課題において普遍性をはらんでいたかという点であった。もとより、近代の終焉の問題は、西欧哲学の内側から生まれたのはまちがいない。そのため京都学派の「世界史の哲学」は、西田幾多郎のように西欧哲学に対する造詣の深い者たちの手で練られたものである。そして、少なくとも、彼らの多くは竹内のいう攘夷と開国、復古と維新、国粋と文明開化、東洋と西洋というわが国のヌエ的な二重構造がアポリアとして存在することを自覚していた。廣松にとって問題なのは、むしろ、彼らがその国家の構造と戦争の二重性を意識的に統一してみせ解決したところにあったというべきである。そのことで当時のイデオロギーの統一性におぼろげながら形を与えることができた。要するに、廣松の論旨は京都学派の思想をファシズム一般に還元することはできないということである。
京都学派の哲学者にとって、西欧文化と東洋文化の対立は、ある場合は、個人主義と全体主義の対立、リベラリズムとファシズムの対立と読み替えられ、これらが双方とも過去の遺物として乗り越えられることが前提になっていた。しかも、その乗り越えは西洋哲学の方法をもって突き抜けたと自認していたのである。本来、西欧的概念を借りて西欧的近代を超克すること自体、矛盾なのだが、彼らは西欧、東洋を問わず現在は世界史的な課題に直面しており、もはや西欧の一、二国の歴史レベルをもってそれに応えることはできないとした。
田辺元によると、そういう世界史については唯物史観が過去からの継続を重視する一方、未来の精神の実現目標を立てると観念論になるとし、そのどちらにも中心化することなく現在の「無の円環的統一」という概念を提示した。彼は過去を種族に例え、未来を個人に例える。そして、過去でも未来でもなく現在こそが真の人類であり、それを保証するのが「国家」であるとしたのである。種族はこうして個人とともに「国家」に吸収されることこそが、個人の自由でもあるという論理を組み立てたのである。天皇制はここにおいて国家の統制と個人の自発性を発揮する軸心になると信じられた。これは西欧の個人主義、東洋の全体主義とはまったく異なった原理にもとづく日本文化の特色であり、世界史の上で開放されるべき原理とみなしたのである。わが国の国体は全体主義ではなく、皇室は過去、未来を含む絶対の中心であり、世界形成の原理があるとされた。これを廣松は天皇制と「八紘一宇」の思想の実現とみなした、また、廣松は三木清の「協同主義の哲学」が、存在論的には唯物論と観念論との対立の抽象性を克服し、認識論的には模写説と構成説の超克としての形成説と名づけられ、新しい史観として提示されたことにも注目している。
彼らのおおもとを探ると、西田哲学が古典的な近代哲学である主観、客観分離を脱却する意図を含んだり、西欧流の「有」の哲学に対して東洋的「無」の哲学、しかも「絶対無」の哲学を対置したことがわかる。それらの思想はあわさって、英米の自由主義的個人主義、ソ連の共産主義的普遍主義、ドイツ・イタリアの全体主義的民族主義を統一し、総じて、東西両文化の並存、対立、止揚の志向をもったイデーとされた。その中には資本主義の止揚も当然のように含まれていた。廣松はこれら「世界史の哲学」と呼ばれる思想が国体思想をきっかけにして発展したものであるとみなしたのだが、必ずしも国体という枠組みにとらわれることなく、はじめは特殊的世界の構成物にすぎないが、それらがやがて結合して全世界が融合して世界の新秩序がつくられると信じられたのである。東洋の諸民族はいままで西欧の帝国主義によって植民地化され蹂躙されてきた。そのためそれぞれの世界史的使命を忘れかけていたのだが、いま、東亜の諸民族は一丸となって、その桎梏を破り、東亜文化の理念を掲げて世界史的使命の先頭に立って奮起しなければならないという合言葉が大東亜戦争を根拠づけたのである。
こうして『近代の超克』論議は、太平洋戦争の戦勝気分の中で人類史の新たな１ページを飾るものとして、あたかも呪術的なスローガンのように流布されるようになったと廣松は締めくくっている。そこには単に理屈の上だけではなく、一種の心情的なロマン主義が裏側から支え、国民意識の中に浸透していく地盤があったことになる。しかし、廣松は、『近代の超克』論議は、当然、俎上にあげられるべき資本主義の止揚という観点からみても、国家独占資本主義の再編成以上の趣旨をもたなかったと批判した。その理由は、彼らが超克されるべき近代哲学に対する理解が一面的であり、さらには歴史的現実と脈絡がつかない抽象論議に終始したことを上げている。つまり、これらは社会有機体説にもとづき、近代哲学の古典的な啓蒙主義に対するロマン主義的な揺り戻しとして位置づけられる限り、決して近代哲学を乗り越えたといえるような代物ではなかったという評価につながっている。しかしながら、わたしたちは彼らの歴史哲学が国体論と踵を接する地点において、より深めた議論をしなければならないとおもう。田辺元は歴史の動因を物質におくか精神に置くかの区別によって、唯物論と観念論とが分岐すると言う。また、唯物論は過去を構成し、観念論は未来を構成するかのように述べ、現在という確固不動の中心点の思想としての国体論を抽出しているのであるが、この収斂する定点の比重は大きいとおもえる。なぜなら、その思想は何より天皇制を支える永遠の今という静的でありながら動的な歴史観の意味するものと接触しているからだ。
折口信夫の民俗学が吸い寄せられているのは、ひとつは他界観念であり、もうひとつが永遠に伝えられる霊魂の思想であった。折口は、すぢぁという「人間」の義の琉球古語の語源を選ばれた神人の蘇る者という意味に数えたが、更に、世代の継承が同音の反復をみせながら無限に響く様を次のようにみていた。
≪すぢぁに見える思想は、日本側の信仰の助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止（前代の死）の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。≫『若水の話』 折口信夫著
ここで言われているすでるという言葉の原義は、「現る」、「いづ」というニュアンスに近く、このため「あら人神」というのも神があるという意味に近い。霊魂とその表現ということで言えば、神人は幾代にもわたって連綿として続き、その表れ（すでる者）として社の神主として資格をもち、更にはその祀る神にもなった。そして、その世代交代は外来魂が来るときに行われ、常世の水の信仰によって裏づけられ、その若返る水（若水）の力で繰り返し霊力があらたまると考えられた。柳田國男においても先祖が支持した大衆の古い常識は、ひとつには神話の世界ではありえた夢、たとえば、岩根木草が言葉をかわした世界を同時に経験したり、三粒の米を入れて一釜の飯のできあがった言い伝えと並べて、夢がそのまま信じられた世界を意味した。そして、もうひとつは、この世とあの世が結ばれており、この世を去った父母や故友と逢うことができる夢の中の世界である。ひとは非日常な精神状態に入れば、普段いつも見たり聞いたりしている事物とちがう霊物に遭遇することができる。それは凡夫にはわからぬだけで、アンテナを高くさえすれば霊界のひとが語ろうとしている言葉が理解できるというのである。そういう意味では、彼には鳥でも獣でも草木虫魚でも皆言葉を交わしているのであるが、こちらに受信するアンテナがないために聞こえないだけであるというアニミズムの思想があった。
柳田は遠い先祖の霊を繋ぐには水と米が絆だったと言う。だから若水迎えに該当する儀式が魂祭りに付随していた。彼はそれを先祖の霊と呼び、その霊は稲作の霊と深く結びついていた。ひとは亡くなってから５０年目、あるいは３３年目の法事を終えて亡霊が神になると信じられた。柳田によると盆と正月の魂祭は、みたまを祭るという意味で、常民の無意識の伝承としてもともとは同じものであった。彼にとって黄泉の世界は、死の親しさといっしょにやってきた。その理由としてあげているのは４点である。�@死んでも霊は遠い所にいかないこと�Aあの世とこの世は交通が自由で単に春秋の定期の祭だけではなく、一方の希望によって、招き招かれることが困難でないと思っていたこと�B死のうとするときの念願が死後には達成すると思っていたこと�C死んでも、再び、三度四度生まれ代わって同じ事業を続けられるとおもっていたことである。
こういう死が親しさをもつためには、ひとびとの死後の行く先が静かで清らかな、この世とはかけ離れた場所でなければならなかった。村から遠望される峰の頂から盆前になると道を刈り払うとか、川上の山から盆花を採ってくるような風習がおのずとその場所を示した。その途中には、あの世に行く道を示すようにさいの川原やでんでら野と呼ばれる場所があった。霊山の崇拝や卯月八日の山登りの風習は仏教の伝来よりも早かった。主人が馬でまたは背負って口寄せの巫女の口を借りて魂迎え、魂送りをするのも、この山の神＝神霊への崇拝があったからだった。田植えの日、田人、早乙女たちが振り仰いで礼賛する歌を歌うのもこの峰々に対してであった。春は降り、冬には帰ってくる稲作の神が、この遠い昔の共同の先祖であって、その神がたえず、村を見守り守護したのである。
≪農民の山の神は一年の四分の一だけ山に御憩いなされ、他の四分の三は農作の守護のために、里に出て田の中または田のほとりにおられるのだから、実際は冬の間、山に留まりたまう神というに過ぎないのであった。…中略…我々の先祖の霊が、極楽などには往ってしまわずに、子孫の年々の祭祀を絶やさぬ限り、永くこの国土の最も閑寂なる処に静遊し、時を定めて故郷の家に往来されるという考えがもしあったとしたら。その時期は初秋の稲の花のようやく咲こうとする季節よりも、むしろ苗代の支度に取りかかろうとして、人の心の最も動揺する際が、特にその降臨の待ち望まれる時だったのではあるまいか。そうしてそれがまた新しい暦法の普及して後まで、なお農村だけには新年の先祖祭を、あたう限り持続しようとした理由でもあったのではないか。≫『先祖の話』 柳田國男著
さらに、柳田は、死の世界と現世の距離が近かったことを説くために、霊魂の生まれ変わりという考え方の在処を問うている。霊が賽の川原を越え山の神にならぬ前に転生ということが信じられ、その行先も先祖の生まれ変わりとか極めて近親のものに多かったと言われている。それが柳田にとっては、「家」というものの骨格をなした。「家」は遠い先祖の霊が立ち帰って、その永続性を保障する幽かな「神ながらの道」の考え方に基づいていた。家の先祖はその霊がこの国土にとどまり、子孫に対して目に見えない力となり威令をもった。そして、死は別れではないという言い方が、死にゆく者にとってどれほどの励ましになるかしれなかった。
柳田が「家」とは何かを考えていたのは太平洋戦時下であった。空襲警報が鳴り響いている中、書き綴っている『先祖の話』では、戦死した若者たちに対して広瀬中佐の話を引きながら「七生報国」という例を出し、数千年の間繁栄してきた「家」の伝統の基礎に「神ながらの道」の信仰があったことを語ろうとした。こういう柳田の「家」に対する思い込みが、国家という制度の枠組みの中では事大主義と受けとめられた。さらに後藤総一郎は、いわゆる人間本来の自然感情にもとづく「家」が、明治国家の課題であったネーションの形成にとっては、家父長的な権威主義性格とあわせて、ナショナリズムの培養器の中で重要な酵母になったと言っている。郷土感情の根である「家」が権力支配の単位として組織され、ナショナリズムの核心として吸収されることで戦争目的に利用されたことになる。しかも、その「家」に対する認識の度合いは、かつての「常民」の家が政治的に閉ざされていたものの、人間本来の自然感情と精神のみずみずしさが溢れていたとみなすかどうかの判断材料にされたのである。そういう反転したものの考え方は、その時柳田が、政治イデオロギーとしての「家」の思想に最も近接した地点にいたという批判に繋がったのは事実である。
こういう柳田の思想を観念論と切り捨てるのは簡単だが、そうすることで出征する兵士の心を満たせるとはおもえない。わたしはこういう「常民」の心の振幅にまで触れなければ、廣松渉は『近代の超克』をめぐる京都学派の国体論の論理を崩せないとおもう。もし、それに対して外来の西欧哲学の中に紛れ込んだわが国独特のアジア的迷妄の特異性としかみなせないとすれば、それは廣松の思想の外来性を表わしているにすぎないとおもえる。現に廣松は保田与重郎ら日本ロマン派グループの行方を十分追跡しえていないのである。つまり、保田が転向してマルクス主義から古典に回帰する態度そのものがよく対象化できていないのである。廣松は日本ロマン派はプロレタリア文学運動の挫折の落とし子であったとしている。彼らは権力の弾圧によって転向を余儀なくされたが、かつて信じたマルクス主義は、近代西欧思想の最高峰であったから、それを失ったことによる負い目と自嘲が重なって、既成の西欧近代文明全体を否定し、東洋的な知へ転向することが不可避あるかのように受け止められた。それは保田のように満州事変や満州国の成立という歴史的状況を媒介にして文明開化の論理の全否定にまで突き進むことが多かった。その過程において、とりわけ満州国建国の理念に込められた新しい世界観の出現に純粋国家の夢を描いたのだが、やがてその満州国自体、標榜された理念の実現ではなかったことに気づく。このような二重、三重もの挫折が心の屈折をもたらし、デスパレートな心情に拍車をかけ、西欧的近代に対する否認が過激ロマン主義を形づくる。ここには近代文明の「没落への情熱」がイデーになり、「イロニーとしての日本」が現状認識を支えたといわれる。こうしてデスパレートな現実否定の彼方に、日本人の心の故郷としての古典世界が見出されることになる。だが、保田自身この原日本的なものへの回帰は自覚的でなかったから、わからずじまいのまま民間右翼とは異なる農本主義的神政思想に落ち着いた。廣松は保田がそれを十分対象化することができず、とどのつまりデスパレートな居直りの域をでなかったと揶揄している。つまり、「文士や評論家の近代超克論などというのは所詮はそのような程度のもの」と考えたのである。しかし、対象化できないのは保田ばかりでない。保田を論じる廣松にも、なぜ日本人の故郷なる出自にまで回帰しなければならなかったのかの検討がまるでできていないことを忘れるべきではない。
この点、少なくとも橋川文三は、このような日本ロマン派の主張には北一輝にみられるような明治以降の日本の文明化に反抗する革命思想が潜在的に内包されており、それがあるときにはマルクス主義と野合したりしたが、やがて、資本主義の大規模な浸透にともになって文学的、主情的な非政治的（ロマン的）形象をとってあらわれたことを指摘した。保田の思想に象徴されるのは、革命運動の裏面に随伴した形をとりながら、その政治性を骨抜きにして組み替え、主情的に古代思想に一足飛びに移入する一連の心理的メカニズムである。そのメカニズムをとおして現実の革命運動と似かよった過激な反帝国主義的なイデオロギーを結晶させたのである。それは現実の革命運動の不可能性があらわになった時点で、政治から疎外されることがわかりながら、その不可避性を逆手にとって現実と革命の隙間を埋めるように、凝縮した日本的美意識の心情を吹き込んだのである。これはわが国の近代化につきまとう復古と維新、攘夷と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という対抗軸の同時間性が問題になるときに不可避に突き合わされる課題であり、それをわたしたちが理想と現実の落差として意識したときに疎外する危機意識の正確な反映なのである。その理想と現実の隙間に住処をみつけたという意味では、保田は時代によってシャーマン的な役回りをあてがわれたとみなしてもよい。
６ 山人と海上の道
わたしたちは、わが国の近代化が先進国に対しては後進国であり、より後進国に対しては先進国であるという二重性を背負わされ、大東亜戦争の理念がこの両極のはざまに宙吊りにされたことをみてきた。その宙吊り感は資本主義の高度化にともなう大衆の疎外感とも共鳴したから、ほとんど神憑り的な戦争の遂行を支えることになった。わたしはこの二重性は、わが国の文化や文明そのものの二重性に由来していることを正さなければならないとおもう。近代の歴史観の礎を築いたのはヘーゲルだったが、彼によれば、歴史は理性自身が絶対の究極目的である以上、その理念だけが現実をつくる栄光に報われるとし、それを歴史哲学と呼んだ。だが、自分自身に還る理念は、当たり前のように、理性を体現した「見る人」の側の一方的な視角のみで成り立っている。しかし、いまもそれを相手に格闘しているわたしたちの近代にあっては、あの大東亜戦争の終わりまでは歴史の感触を「見られる人」の問題としてとらえ、折り畳んだ歴史の時間を座布団のように横に並べることができると信じられる伝統があった。つまり、わが国が近代の坂を登って行こうとしたとき、柳田國男の民俗学には今と地続きの「山」地にこめた次のような感慨が出発点にあったのである。
≪ここにかりに『後狩詞記』という名をもって世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、もちろん第二期の狩についての話である。言わば白銀時代の記録である。鉄砲という平民的飛道具をもって、平民的の獣すなわち猪を追い掛ける話である。しかるにこの書物の価値がそのために些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、その中に列記する猪狩の慣習がまさに現実に当代に行われていることである。…中略…山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一の棒ではなくて、山地に向けてこれを寝かしたようなのがわが国のさまである。≫『後狩詞記』 柳田國男著
ここで山地に向けた矢印には焼畑農業が太古から引き継がれ、歴史の現在に刻印を残しながら、共時的に並べる手法を柳田が獲得した経緯が破曲線のように示されている。柳田の描いた歴史の今昔は、中世の古武士が阿蘇の荒漠たる火山の麓で、弓を引いて野山の鳥獣を追いかけていた時代からはじまって、鉄砲を手に入れた土民が、糊口の種に鹿を絶滅まで追い込むまで各時代をこえて、次第に土地の名目と猪狩りの作法の詳細と伝聞の範囲を広げていきながら、山の民が「山の神」を恐れ、射止めた猪の心臓を山の神に献上する祭文まで辿りつく。このときすでに、歴史の区分けをぬきにしてわが列島の歴史は山から始まったという信仰や伝説が、横へ横へと延びていく柳田のフィールドワークの方法とともに踏み固められた。
異人、天狗、山の神、幽霊、狐憑きなど総じて妖怪じみた民潭を取り上げる柳田は、なぜ、このような民潭を積み上げたのかということは疑問であるが、それに対する答えは表向き柳田には明白だった。つまり、模倣された都中心の文化を否定しようとしたことだ。このことは期せずしてわが国の文化や文明の発祥の射程をおもいのほか長くした。柳田は、のどかな空気と温和な気候・風土、列島の文化が、とりわけ和歌を制約したことにいぶかしげな表情を浮かべている。そうして、わが国の古典研究が再々既成の文学世界にとらわれていくのに対して、自分はそうではなく、文人や歴史家に疎んじられた文化や埋もれた独自の文化を掘り起こそうというのが、彼の強い決意だった。柳田にとっては書物さえあてがわれれば花と緑の葉が際限もなく続く世界があった。故郷の風景として描かれるのは、赤土の岡、躑躅の色、春の麦畑の陽炎、石垣のタンポポや菫、それに藤の紫であり、やや退屈とでも言える日本の原風景だった。だが、彼が抜きんでていたのは、これら美意識の付着した世界と現実の僻村に住む気ぜわしい農民の息遣いとの間に横たわる落差に気づいたことである。それは京都や奈良の風情に慣れ親しんだ文学にはとうてい掬い取れない鮮やかな印象であった。
明らかに柳田は、「梅に鶯、紅葉に鹿、菜の花に蝶」の世界の薄っぺらさを笑っているのだが、それは文学以前ともいえる口碑民潭の移動への考察によって立証された。たとえば、貧賤な若者が山中で一人炭を焼いて暮らしていた。そこへ都から貴族の娘が押しかけ嫁にやって来る。炭焼きは花嫁から小判を貰って、市へ買い物をする道すがら、水鳥を見つけてその黄金を投げつける。ところが、ひとからなぜに大切な黄金を投げつけるのかと咎められると、あんな小石が宝なら自分が炭焼きする谷間には山ほどあると答える。それで拾って来ては、この炭焼小五郎はするすると長者になるというものだ。柳田はこの話が北は津軽の岩木山の麓から南は大隅半島まで十幾つかの例が挙げられ、更に南では沖縄の諸島、宮古島まで類話があることに驚いている。これには更に後日談があって、長者の娘が内裏に召され妃嬪に召されたという話まである。柳田は、それらは断片となって口から耳へ伝承する文学になったのであろうが、書籍のように保存するのが難しいから、どんな事情が同じ話の種を播いたのかが問われなければならないと言っている。津軽にも伝わったこの話が西から北上して伝えられたのは確認されているが、誰が伝えたかという点で彼が上げている推理は、金属を商売にした一群のひとびとが歌詞を巧みに伝えたとみなしたことだ。これは炭を焼くことが、鋳物を焼く、鍛冶屋ということと同義になり、鋤鍬をあつかう金屋の漂泊者がその守護神を祀る意味で伝承したと考えたのである。さらに、柳田の想像は次のように延びていく。
≪播磨の古風土記の一例において、父の御神を天目一箇命と伝えてすなわち鍛冶の祖神の名と同じであったことは、おそらくはこの神話を大切に保存していた階級が、昔の金屋であったと認むべき一つの根拠であろう。火の霊異に通じたる彼らは、日をもって火の根原とする思想と、いかずちと称する若い勇ましい神が最初の火を天より携えて、人間の最も貞淑なる者の手に、御渡しなされたという信仰を、持ち伝えかつ流布せしむるに適していたに相違ない。≫『炭焼小五郎が事』 柳田國男著
つまり、この鍛冶の思想は、火の神または日の神の思想に裏づけられていたからこそ、伝搬されたと考えられているのである。宮の神の火は、特に金属工芸の徒に施され、それによって炭焼長者の伝説が豊後で誕生してから、全国を旅しながらこの伝説を愛護せしめた。高祖の火（日）の神の思想はこのようにして守られたというのである。だが、柳田の場合、蛸つぼの上から民潭の移動を覗き込むようなところがあって、とても歴史の間合いが測りにくい。この炭焼小五郎の話にしても、片一方で『記紀』のアマテラスの神話に由縁があるかとおもうと、中世の鍛冶物語が出現したりして、ほんとうはいつの時代のものとも判然としない。そう考えると柳田には表の顔と裏の顔があるとしかおもえないのだ。片一方で、表の顔として時代に制約されない民潭、物語の類似性への興味があり、裏面では「南日本の海の隈・島の蔭に、散乱して住んでいた我々の祖先の、無数の孤立団体に共通した、いたって単純なる自然宗教」への信仰が生きていた。だから、通常ではこの表裏の世界は決して結びつかない仕組みになっている。つまり、柳田自身がどう思っていたかは別にして、「山」や天狗、漂泊、出奔に込めた想いと、『海上の道』で開いた海や島に寄り添った原日本人の渡来の秘密は、互いに時間の辻褄があわないのである。そして、もしかしたら、山の神から海の神への転移は、時間を遥かに跨いだ跳躍だったかもしれないとおもわせるのだ。
そこで再確認すると、柳田と折口信夫に共通しているのは、日本人＝稲の人というモデルを抱いていたことである。つまり、稲作以降が日本人の歴史ということになる。もとは米はハレの日にしか口にされないものであり、信仰とその行事と名づけるべきものであったがゆえに、コメという言葉はタブーとして形而上的な意味をもっていた。椰子の実の海流に乗って漂着した場所に原日本人の起源をみた柳田は、次のように述べている。もしも漂着をもって最初の交通とみなすことができるなら、椰子の実のように海上を漂って南島諸島に漂着し、この島が住むに値すると考えたなら、一度は元の故郷に引き返した上、妻子をともなって再度、この島にもどってきたとしてもおかしくない。こういう悠長な航海ができることは、動力航行の時代に生まれた者が最も見落としやすい点である。昔の船人の心長さは、種播く農夫の秋の稔りを待つよりもなお久しく、年に一度の往復を普通としていたことであることを考えれば、さして不思議なことではないという。
それでは、一度、漂着して到達したのに、なぜ、妻子を連れてまで引き返してきたのかというと、宝貝の魅力であると柳田はさりげなく答えている。つまり、黒潮に洗われる南島諸島の一帯が貴重な宝貝の宝庫であったからである。しかし、やがて、宝貝の需要がなくなり、原日本人たちは、島づたいの生活では生産の地が足りなくなる。また、彼らは代々米作の栽培者であったから、米作もこの原日本人の手によって伝搬したはずだが、島々の生活は米作に適していなかった。最初に住みついた南島諸島には灌漑設備がなく、水の確保が難しいから、雨ばかりを頼りにして稲作を続けていたのだが、耕地の拡がりとともにそれだけでは足りなくなる。そこで、水豊かで草木の濃く生い茂った地形の雄大な陸地を求めて北上し、本土に辿りついた。米作と民俗の創生とのつながりの確信を深めるためには、柳田はこのような「海上の道」の考え方を前提にしなければならなかった。だから、宝貝と米は原日本人にとって不可欠であり、北進する原日本人の欲望の媒体であった。柳田は、列島各地に遍在する同様な口碑民潭の根拠を求めたのだが、なぜ、東北地方から琉球列島にまで同じ伝説が存在するのかわからなかったのであるが、ここではじめて遥かな時間軸において列島の北上縦断が、その理由として加味されることになった。
伝説ばかりではない。柳田によれば、都の輿や車に檳榔毛で飾り、または宮中の御膳を扇ぐ扇にこの葉を用いたのにも理由があった。これは忽然として現われた習慣とはおもえないから、柳田は南国のコバの葉の由来を祖先の生活と結びつけた。この葦原の中つ国に久しく住みついて後までも、コバが民族の生活に根ざした樹木であったからだ。南島経由で移住してきたという日本人の原型は、沖縄にまずその面影を落としており、信仰の聖地にこの木が植えられているのをみてもわかるとしている。また、蓑笠ばかりではなく椿や田芋も同じく、この細長い列島に常にところてんの箱、チューブのようにある力が加わって、常に南方の文物を北に向って押し出したのである。
柳田の海上文化をめぐる方法は二つである。ひとつは、日本国が南北四百里もあるにもかかわらず、大体、同じ様式の生活しているのは、大部分、祖先を同じくすることと、もうひとつは、海の道を「島伝い」に新しいものが伝播するということであった。そのため文化の複雑な地方分布図を必要としたとみていることだ。互いに縁もゆかりもない地方同士でありながら、同型の民潭、物語が残っているのはこのためである。この地方同士の関係で柳田のこだわっているのはあくまでも「島」＝海の道であり、これが陸上の道を辿る折口との微妙なズレとなっている。これは柳田が「土俗を通過する外部の眼」という旅人の資質を背負っていたことを意味するにちがいないが、却ってわたしにはそれが柳田のフォークロアの危うい限界表現におもえる。
なぜなら、ひとつは、現在では柳田のいう日本人の出自も稲作の移入も南島一元起源というのは、もはや嘘というより空想の域をでない代物になったからだ。わが列島は一万年も続いた縄文時代を経過して紀元前３世紀頃から稲作が持ち込まれ定地農業が産まれてから、ようやく西日本を中心にした弥生文化の兆しが現れたというのが定説になっている。しかし、今まで水田稲作農業などの進んだ文化をもったひとびとが大挙して大陸からやってきて、それまでこの列島に狩猟や採取をしながら生活していた先住民族、縄文人を南と北の端に追いやり、西日本、とりわけ近畿圏に弥生文化を築いたという歴史が流布されてきた。このため縄文時代から弥生時代への転換は画期的なものと考えられたのだ。
しかし、実際には、稲作が導入されて後も狩猟や採取などの縄文的生活様式は長く続いており、日本人の生活様式を深く規定していたといわれている。それは、信仰生活における文化や文物においても疑いないところで、縄文文化と習合した弥生文化、弥生文化と習合した縄文文化が互いに境目がみえないくらいに同化したと考えられる。そして、これは文化のみに限られない。仮に、稲作を携えたひとびとが大陸からやってきたと仮定しても、その種属は長い時間をとおして、もともとこの列島に住んでいた先住民族、縄文人と複雑に混血しながら、同じ民族の範囲を形づくったことはまちがいないとおもえる。だとするなら、わたしたちの古代史は、日本人＝稲の人というリングを外しさえしたら、造作なく民族の問題は解決するのである。もっとありていにいえば、この列島にかつて住んでいたひとびとの総称を日本人と呼ぶなら、その原日本人とは、当然、先住していた種族、後からいろいろなルートでやってきた種族、それらが互いに混血しながら互いの言語や信仰を交換して、列島に一民族という概念を植えつけたのである。あたかも稲の人が渡来するまでは列島には人っ子一人いなかったと考えたり、のちにアイヌと称される先住民以外には住んでいなかったと考える方が無理なのである。
もちろん、その中では稲作の伝来という条件を抜きさえすれば、柳田の言うように南島経由で列島に漂着してきた種族の存在はあったろうが、それは朝鮮半島を経由した種族、または北方から南下してきた種族があったことの蓋然性と同じ度合で認められるものだ。そして、その過程においては、のちに列島全体を支配した大和民族という呼称がほとんど地域的な部族(国家)概念を示すものでしかなく、紀元後の早い段階から近畿地方を根城にして支配していた特定の豪族を指し示す以上ではない。たとえ、大和王権の成立以降千数百年の歴史をもっていたとしても、日本語の成立や血縁の関係を問う場合には、とうてい民族概念の長い時間性に耐えられるとはおもえないのである。もしかしたら、ここでわたしたちはナショナリズムの原点にまで触れているのかもしれないが、柳田が信じた「梅に鶯、紅葉に鹿、菜の花に蝶」の世界の薄っぺらさの根拠は、柳田の方法意識の核心をつきながら、わずかにではあるが的をはずしているようにみえる。
それなら柳田の日本人＝稲の人を中心においた世界像はすべて無効なのであろうか。逆にいえば、その場所こそが柳田学が世界を理解するために対象をどのように組み立てたかを示す勘どころではないかとおもえる。柳田が民族の起源の問題へ近づくについては、当然、異論があった。神島二郎は柳田が民族文化の起源を求めて「海上の道」を追跡したのは、中世から古代、さらに原始への飛躍であり、しかも「異化」の過程のみを偏重したもので、肝心の「馴化」の過程をともすれば忘れてしまう誤りを犯したと指摘した。神島によると「常民」という概念が成立するのは、上の者でも下の者でもなくその中間にあって、９割の民を示すものだった。だからこそ柳田は、「常」の契機が成り立つ中世を上限とする民間伝承に着目したはずだった。
≪一体当時の日本では起源論がまことに多く試みられ、またこれが多くの関心をひいたが、このような起源論の社会的意味は、私見によれば、当時の社会体制が伝統尊重に傾いていたからだと考えられる。その意味で、彼の学問が起源論から脱していたことは重要である。農政家ないし農政学徒としての彼の前歴はもとより「結局政治を改良し得れば、学問の能事了れり」とまで言い切った彼の実践的態度を顧みるとき、それは一層重視されなければなるまい。≫『柳田國男と民俗学』 神島二郎著
しかし、吉本隆明は、赤坂憲雄との対談（『天皇制の基層』）の中で、赤坂が柳田は昭和の初年になると山人論に挫折して常民の民俗学に移行したという通説は間違っているのではないかと投げかけたのに答えて、表面上のテーマとしては影になってしまったが、「山人」という観念を起源の問題として終生持ち続けていたと述べている。つまり、山人という観念は、天皇制（日本人）以前の縄文期にまで遡れるものとして、山岳信仰や、樹木信仰、巨石信仰とともに長い時間の射程をもっていたと言い含めているのである。それこそが、起源や発生史の問題として、わたしたちが柳田國男を読むうえで前提にしなければならないことである。
≪日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。数えた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祗命の附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵・猟人がおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。≫『山の人生』 柳田國男著
「春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもう」山の神と田の神の交代ということで言えば、吉本は季節の巡ることで、山の神が稲の生育期間に応じて田の神に降りてきて、また山へ戻っていく循環をもって柳田が空間軸を横超しようとした兆しとみなしている。だが、山の神、田の神の循環自体について柳田が触れているのはこの箇所のみであるが、当然、それには伏線がなければならない。なぜなら、こういう循環が起きるためには、必ず、季節の移り変わり以上の時間の流れを想定しなければならないからだ。この点にふれて折口信夫は、常世神としての「神」がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られると指摘した。そして、ワキであった山の神が祀られるようになったのは、海岸に沿って住居を構えていた民がより広い山地の耕作地を求めて移住したからであるという言い方をしている。そこで、海の神としての常世神の役回りを山の神に振替えたのがその原因とみているが、海の神から山の神への切り替えは厳密に検証されなくてはならないとおもえる。
それまでは常世神が多くの土地の精霊に対してのりとを言い聞かせる際には、山の神が代表して受けていた。しかし、村、国を本土の内陸部に構えるようになると、常世神の信仰は次第に薄れてきて、それに代わって山の神を尊ぶようになり、山の神が祭りの中心になった。ここで折口は、山の神に仕える神人である山人について語っているのだが、もともと常世神からのりとの受け手であった山の神が、今度は同類である精霊に対して向きを変えるようになったとしている。そのため、常世神のようにのりとを構えて唱えるわけにはいかず、つまり、仲介者として仲間内の者に言い聞かせるような対等の表現をとるようになった。こうして常世神のワキであったはずの山の神がシテとしての資格を得て、いつのまにか精霊を相手に常世神としての物言いがされるようになった経緯を述べている。そして、その一方では、常世信仰の純粋な系譜から高天原に住む天つ神の考えができたことが説明されている。
ここで注意すべきことは、ひとつは高天原の神とは別の系列として「山の神」の信仰があったということ、もうひとつは、山の神の信仰が常世神と土地の精霊との関係で、あたかも段差を含んだ二重の関係性を持ってきたということである。いわば、土地の精霊は二重に疎外されたことになる。この二重性の疎外によってはじめて、この山の神と田の神との間において斜めに走る「時間」を獲得したことになるのである。この二重性は、もともと、常世神がシテ、「才の男」がワキの対立関係として常世神そのものの二重性に胚胎していた。つまり、常世神の二重性は、今度は、常世神と山の神の二重性をもたらして、さらに、山の神と田の神の二重性を生み出したのである。いいかえれば、これは起源に一歩近づく契機になるはずだ。
おそらく、人類の原始的な意識における霊魂の思想は、生と死の矛盾としての「個」の一回性に直面したときから、常世神の信仰を産み出した。つまり、精神は肉体を分離したのである。今度は、人間は肉体を切り刻みはじめた。それは労働の労苦と成果によってもたらされたもので、人間が自然を対象化したときからそれは始まった。信仰とは、はじめ肉体を切り刻み、やがては精神を対象に切り刻みはじめる。これは正確にいうと人間の歴史の循環や回帰ではなく、そうしているうちにいつのまにか人間の居場所がなくなって、常に新しい別の場所を探す原動力になるものだ。民俗学が時間と空間の交差した起源を探るものだとすれば、さらに、列島を南から北に単線で延びる線分にも、同様な交差を見出してもおかしくない。実際、柳田は戯画的なまでに日本人南方起源説を繰り返している。
≪小泉八雲氏が日本を見てあるいた頃には、まだ我々の都市は雑然たる木造小屋の集団であった。…中略…遠い祖先がこの国に渡って来て住んでから、もう何千年だか算えられぬほどここに住み、さらに今一段と豊かなる村を開くべく、地続きなればこそ気軽なる決意をもって、嶺を越え岬をめぐり、次第にこの島の北と東に散らばってからも、なお永い間暖かい南の方の生活を忘れなかったのである。≫『明治大正史世相篇』 柳田國男著
おそらく、こういう物言いだけが残っていたとするなら、柳田はただの民族ナショナリストにすぎなかった。だが、柳田は、「伝説」のでき方、受け取り方について屈折あるもの言いをしている。一口で言えば、「伝説」はあるものではなくて動くものだと考えていることだ。その動き方は、横からと縦からやってくるが、縦からとは「時制」の問題である。まず、根っこに、日本のここかしこに地形に合ったそれぞれ語り継がれ保存された説話がある。次に歴史化がその上に被さるが、この歴史化とは書物や教育により語り物の主人公を歴史上の偉人の口跡に結びつける傾向である。すると、柳田は伝説の数は膨大だが、それを配列してみるとそのパターンは限られるとしている。地方の隅々にわたって数百、数千の伝説が付随しているものの、その形式は共通点が多く、分類してみれば僅かに１５か２０に纏まるという。
例えば、長者伝説、糠塚伝説、金の雛、椀貸、八百比丘尼、巨人、隠里などの名称は、それを伝説の「単形」と「複形」の見分けがつかないという言い方をしている。単独の伝説と思えるものにも背後に複形がある。さらには、ひとつ単形の説話には、前代の物語にはおのずと共通点があったことも考えられる。つまり、単形がそのまま複形である場合もある。一方、全国に分布する伝説には偶然でない一致があり、京都などから女性や聖や金屋等の旅の職人や、轆轤（ロクロ）をもって椀類の木地を製作しながら住所を一定にしない特殊の飛び工人である木地師等が口伝えにやってきて、土着され語り継ぐものがある。この空間的な移動によって根深い説話はほとんど痕跡を残さないくらいに変形してしまう。これらの時間的、空間的運搬の経路を合算すると、説話の区切りはすこぶる不分明になってしまう。柳田のいう「伝説の分解」とは、ほとんど「稲の人の神」が列島の南北の境界線を不分明にすることと同義である。これには新旧の錯綜を極めた文化複合の力が加わったが、それに対して柳田の用いた方法は次のようなものだった。
≪この新旧錯綜を極めた文化複合をかき分けて、国が持ち伝えたものの根原をつき留めるということは、容易な事業でないことはいうまでもない。ただ幸いなことには民族としての結合が、日本は他に比べもののないほど単純であって、この永い間の成長にも、これという障碍も紛乱もなかったゆえに、一方には何段となく進み改まった形が目に付くとともに、他の一方にはその進展の条件に欠くる点があって、偶然にまだ前の素朴な姿のままで、保存せられていたものが発見し得られるのである。その変化の無数の段階の比較が、行く行く記録なき歴史の跡を、探し出し得る希望を約束する。これがまた私たちのいう日本民俗学の立脚点である。≫『日本の祭』 柳田國男著
柳田がここで採用しているのは、地域ごとに散らばった口碑伝承を積み木のように積み上げる方法におもえる。まず、ひとつの題材（伝説、葬制、盆礼、心意現象）について地域のあらゆる痕跡を蒐集する。そこに共通のものを探り、それに対照してその根源が保存されたものを選りわけた上、それぞれの時間を古い順序に斑点の濃度で刻印していく。それは時間の順序にしたがって地域にちらばった異物を積み上げていく方法になる。だが、これだけでは何の解決にもならない。別の列島各地域で同じ濃度の斑点が見えるとすれば、その伝搬した経路を確認しなければならないからだ。この一連の作業をとおしてはじめて、その歴史の古い順に押された斑点を再び元の地域に置き直していくと、列島に刻印の濃淡によってできた点の分布図ができることになる。そして、柳田の場合、この一旦下降し、上昇する方法でとらえられた「記録なき歴史の跡」の分布は面として、唯一、列島を南から北へ縦断する視線に切替えられた。つまり、空間的な偏在を時間化し、さらに、時間を空間化する方法にたとえられる。
そして、柳田において、「山の神」、「田の神」の循環を空間軸と考えれば、「稲の神」の南からの北上は、総じて歴史を時間軸においてとらえたものである。柳田の著書でいえば、その空間軸には『遠野物語』や『山の人生』が対応し、時間軸は『海上の道』が対応している。ここでは、柳田の方法においては、それぞれが同時に見渡されていることが重要なのである。わたしたちが、当初、柳田に感じた「稲の神」と「山の神」が連環しない印象は、ここであらためて結果として目に見えるものになるが、もし、柳田が単に外部から訪れた旅人の目ではなく、よく方法としてそれを確立し得ていたならば、おそらく、先住民、「稲の人」の固定神話は解体されていたに相違ないとおもえる。それは「先住民」と「後住民」の差別と区別を撤廃する「起源の起源」に接近する唯一の道であるからである。柳田の方法を拡大すると、列島を観る眼に映る情景は限りなく圧縮された画像になる。つまり、「起源」の神話は解体され、世界史的視野が「起源の起源」の問題を促進するのである。
７ 祝詞とシャーマン
かつての大東亜戦争が、なぜ、あのようにナショナリズムを高揚させ、あたかも破滅への道筋をまっしぐらに進むかのように国民を駆り立てたのであろうかと考えるとき、現在のわたしたちなら、かつてのソ連邦や現在の北朝鮮など社会主義を自称するアジア的専制国家の変奇さと重ね合わせて、情報が統制されていたから世界認識が狭かったとか、民主主義意識が未熟だったとかさまざまな言い方をすることができる。しかし、本当の原因はもっと別のところにあるとおもえてならない。たとえ情報が自由に往き来していると思われている自由主義国でさえ、正義のための戦争が正当防衛に見えたり、戦争悪に対して戦争悪をと居直ったりすることがあたりの前の「常識」があるかぎり、情報は操作されていることにかわりないからである。であるなら逆に、なぜ戦争を回避することができなかったのかを問い詰めることで、いくつかの回答があたえられるかもしれない。
もしも、あの時代にたったひとりの人物の言動でもいいから、戦争はどんなに倫理的正義や大義を振りかざしても、自国民と相手国民の利害に反すると言い切る「非戦」の思想や文学が存在したならば、わたしたちの大東亜戦争に対する見方はまったくちがったものになったはずだ。しかし、そのためには国家の安全と国民の安全とは全く別のものであるという高度な認識が不可欠だった。この当時の国家と国民の違いということは、国民に値する国家、国家に値する国民になればその隔たりが埋められるというものではなく、構造的な立場の違いを指している。この違いがわたしたちの風土で見えにくいのは、進歩主義者、近代主義者を問わず、国家が天然自然の山河、国土と同じ目線でとらえられて、国家の生命が危殆に瀕しているのは、すなわち国民生活の安全が脅かされていると思っているからである。かつての大戦の悲惨さをくぐりぬけてきたからこそ、一方では、現行憲法９条で「絶対平和」を守ろうとし、片方では同じ理由で、憲法を改正して国防を万全にしなければならないと論戦しあっているのだ。しかし、彼らは同じ土俵の上で見かけ上対立しあっているにすぎないから、ほんとうに戦争という事態になれば、なし崩しに相互に転換してしまう程度のものなのである。
このような見方がいかに大切かについては、たとえば、北一輝のようなナショナリストの方がよく知っていた。北は、社会民主主義は社会主義と個人主義のこの二本柱を並行して立てることによって健全な進化がおこなえると考えた。それは裏をかえせば、個人を抜きにして社会主義は成立しないということにほかならなかった。北の思想では歴史的に国家と個人の間は夾雑物を挟まず裸で向き合っているはずだから、その個人は個人主義という権利意識よりむしろ個体という言い方があてはまる。わたしたちは、北の個体概念を手掛かりに、仮に、国家の支配というもの、あるいは戦争というものは、国家と個人の間に仲介物がはいった状態を指すと定義づけることができる。そのような考えを実体的にとらえた北や大川周明などの「昭和維新」の運動は、軍部のクーデタで「君側の奸」を排除する計画に行き着いた。だが、ほんとうはこの仲介物というのは支配構造そのものであり、特定の人物によって象徴されるものではなく、たとえ彼らを武力で排除することに成功したとしても、今度は自らが排除される対象に替わるにすぎない。むろん、それらに反発する彼らの立場自体、その支配構造の中の一勢力にすぎなかったのである。
いいかえれば、彼らの行動思想の限界は、国家や個人をモノや肉体としてしかとらえることができなかったことにあり、そのことで、結局、個人が国家に近接しようとすると原子の分裂のようにはじかれたのである。この意味で北の「昭和維新」の運動は、国家に直接触れようと意図した革命であったが、厚い壁に阻まれ途絶したというより、はじめから国家と革命のメカニズムに組み込まれた宮廷革命の変種にすぎなかったといえる。その際、北が一切の国家間の戦争のない理想郷を達成するためには、国家競争という媒介や迂回路が必要と考え、その過程で日本国家を盟主とする新しい国際主義が避けられないという戦争史観そのものが、袋小路の中の宮廷革命的発想だったのである。
わたしたちは理念としては国家と国民が過不足なく寄り添った状態を描くことができる。北は人類の進化がどこまでも進んだ果てに、一瞬、そういう夢をもってしまった。そこにたどり着くまでの戦争状態を脱すると、もはや戦争する理由がなくなってしまうから、いわば、戦争の論理の終焉が訪れると考えた。その戦争の論理の終焉という点については、わたしたちは北と違った理念をもっている訳ではない。ところが、現実の歴史は北に、国家は国民の意志に反してまで戦争をすることを教えている。そういう場合、国家と国民は決して等号では結ばれない。国家と国民の間には隙間があり、その隙間から戦争の論理が湧いてくることに考えがおよばない政治家によって実際の戦争は起こってしまうのだ。それならわたしたちは、北のように起こるであろう戦争を追認するのではなく、まず、なぜ、隙間があいてしまうのかという原因を探し出さなければならないとおもう。そして、もうひとつは、隙間の空いた状態でありながらも、国民個々人の意志の総和が国家の意志であることに近づける次善の策を考えなければならないのである。いいかえれば、ひとつは戦争や国家そのものの根拠をひとつひとつ潰していくということ、もうひとつは現実的にできるだけ戦争のできない体制をつくってしまうことである。後者については民主主義を保証する制度をつくることでそんなに難しいとはおもえない。しかし、前者は国民と国家を離反させる感性、意識や社会的関係意識を含む社会・政治制度にまで立ち入る必要があるため容易ではない。わたしはこれまで大東亜戦争を支えた歴史観や大衆ナショナリズムの動向をとおして、この国民と国家との関係が媒介物に阻まれた支配構造をみてきたが、さらにアジア的支配構造と高度に資本主義化した近代制度が混淆した現実の歴史を俯瞰する方法でほぐしていくことができると考えている。
そのような媒介（仲介）の思想は、既にレーニンの国家暴力装置論によって政権奪取の政治革命から社会革命へというプログラムの進行の論理にあらわれていた。そして、労働者の政治権力は、はじめプロレタリア独裁を必要とし、支配者や反革命に対する収奪を終えてのち、自然必然的に国家は徐々に市民社会の中に埋もれていくという待機の論理が、のちのソ連邦の権力を固定化する理由づけに利用されることになったのである。わが国やソ連邦、中国などアジア的専制の遺制があるところで政治主体が、個人（個体）と国家の間を論理的に結びつけようとすればするほど、必ず、裏腹に国家を高みに押し上げ、待機する期間を埋め合わせるためにスターリンや毛沢東神話に類する「信仰」の問題が表面化する。なぜなら、待機させる時間を解釈するには起源の問題を避けてとおれない以上、復古的あるいは回帰する思想が無意識に露出してしまうのである。つまり、わたしたちが国家に近づこうとして歴史の起源を問題にする場合、不可避に「信仰」の問題が立ちふさがる。そして、必ずといっていいほど、個人と国家や神を橋渡しする人間の存在が注目されるのである。
シャーマンを神と人間の間を仲介するひとというように定義する。だが、こういう言い方には一種の異和感がつきまとう。ひとつは、シャーマンそのものがひと（人間）という概念にそぐわないからだが、かといって神人という名を被せてもどこか似つかない。シャーマン発生の条件は、少なくとも、このような人間に敵対する自然、自然に対抗する人間という境界概念を越えたところになければならないからだ。つまり、この場合、意識しない人間、意識しない自然という風に考えれば、シャーマンが神憑りした状態から吐き出す言葉を包む場所に近づくことができるかもしれない。
折口信夫は、わが国の文学の発生を古代生活に由来する深い信仰にもとめた。それによると文学は現在の文学がおかれている立場や目的からはとうてい想像できないような曲折を経て誕生したとされている。彼は文学の発声の第一歩を「かみごと」（神語）にもとめ、抒情詩よりも抒事詩が先行したと主張した。この折口の信仰起源論においては、抒事詩の発達において注意すべきはその人称の問題である。
≪一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人に憑つて、自身の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。…中略…此際、神の物語る話は、日常の語とは、様子の変つたものである。神自身から見た一元描写であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに発想は一人称に依る様になる。≫『国文学の発生（第一稿）』 折口信夫著
このうち、折口の種族の歴史という言い方は、まれびとが発祥した南方から島伝いに渡来してきた特定の種族の信仰の歴史に重きをおいており、広い海岸線をもった列島各地に伝わる信仰を同型のものとして一元的に解釈することにつながるおそれがある点で、にわかには信じられない。ほんとうはさまざまな種族と部族が入り混じって、それぞれ信仰の共同体をつくっていたはずで、その間を縫ってシャーマンの信仰が根をはやし波及しながら次第に影響範囲をひろげていき、あたかも類似の信仰の地盤をかたちづくったかのようにみえたというのが正しい見方だ。神が巫覡（フゲキ）に憑依して、神が一人称式に自らの来歴を述べ、部族の歴史、土地の由緒などを物語るというのは、巫覡が恍惚時に漏らした言葉を集めたものである。この場合の巫女というのが広い意味のシャーマンにあたる。ただし、ここで折口が述べているところでは、シャーマンが特定の個人に定着して、ほとんど職業者のようにあつかわれているから、部族の階層分化が進んだ頃のより高度な段階の共同体を想定していることがわかる。はじまりの神語が次第に三人称風になるにつれ、物語を分化させる。そうして、部族生活に関わりの深い因縁を語り伝えていくうちに、暗誦と曲節が熟練の技術に加わり、巫覡の様式も分化して世襲制の語部（カタリベ）という職業集団を成立させたのである。
当時はおそらく郡ほどの大きさにすぎない国々が、国造、縣主の祖先によって保たれていた。彼らは現人神（アキツカミ）である神主としてそれぞれ語部の民をもっていた。それらのうち高級巫女はもともと権力者であるか、権力者の近親であったが、いわば、神の嫁と考えられており、まれびとは嫁（巫女）の神憑りをつうじて呪言（ジュゴン）を発すると信じられていた。最も古い呪言においては、神託のまま伝習せられた信仰を残し、神の断案、約束、強要が露骨にあらわれており、この呪言の威力は大きく「天つ祝詞（アマツノリト）」と称せられ、永久に伝えられていくものとして大切に秘められていたのである。天つ祝詞には、自らの素性から国産みと山川草木、日月闇風を産み、食物を作り出した理由、人間の死の起源と蘇生を語り、身中に内在する霊魂にまで威力をおよぼすものと信じられていた。
また、火の神の来歴からその災いを防ぐための方便まで知っていることで、火の精霊の弱点を示し威嚇したり、農耕に差しさわりのある荒ぶる土地の精霊を鎮静させる威厳をもっていた。それは時と場所とを変え、あるときは住居の新築のときであったり、一年間の農作業の祝福であったり、時節の移り変わりを教えにくるものであったりした。また、祈願には必ず、今後どうなるかという問いを含んでいたから、祝詞には占いと関係するものが多かった。やがて、祝詞の口授者自身が神になることもあった。祝詞の口授者自身が神になったのは、呪言が宮廷において行われた場合、ひとに対する詔旨を発達させることになり、恒例の年頭の詔旨の場は多く、氏々の代表者が賀正事（ヨゴト）奏上して、天子の寿を賀することに重きをおくようになったからである。本来、賀正事（ヨゴト）は詔旨に対する返答であったのである。
祝詞はもともと、まれびと＝常世神と精霊との主従関係の因縁を説くのが目的であったから、信仰の儀式の場で常世神は、自分が優れた神だということを主張して土地の精霊を説き伏せるのである。常世神の威力がその土地の先住者たる土地、山川の精霊を圧伏した来歴を語り、昔の神と精霊の関係を精霊の記憶に上らせようと、それぞれ常世神と精霊に扮した神人が演舞しながら、結局、精霊は村の生活を脅かさないことを誓うことになる。この精霊の代表格が生まれ、のちに「山の神」と称せられることになる。これは神がシテ、精霊がワキの対立人物に見られるものだが、もとは、神は沈黙を守る土地、山川の言葉をひきだそうとするのだが、精霊たちはいっこうに物言わぬ時代が続いた。そのため、「ほかい」の「ほ」とは、「ほ」をださせるというように解釈されていた。つまり、「ほ」すなわち「うら」の顔を出すという「うらなふ」の原義である。神にとって精霊とは幽界のものであり、物言わぬ精霊に対して対抗しなければならなかったのである。
やがて、精霊たちが口を開きはじめると、あまのじゃくという怪物がでてきて、彼らは神の言葉に口答えばかりするようになる。それが「才の男」で神の宣託を人間の言葉に翻訳し、それをひとの所作にコピーする道化役になる。日本の演劇史のうえでもどき役の「才の男」は土地、山川の精霊に擬されており、この系統が千秋萬歳（センズマンザイ）に発達したといわれている。こうしたもどきがおどけを行うのだが、神の宣託に口答えをするこの「才の男」は、もともとは人形（偶人）であった。神楽の間に偶人が動くことで、語部は託宣をよりわかりやすく説得させようとしたのである。道化役をもどきというのは、この偶人のしぐさに由来するが、偶人は精霊の代表者であり、身辺近くに置いて穢禍を吸いとる役目を果たした。
折口が、国文学の誕生とみなしているのは、常世神との関係が次第に薄れた語部の中から村、家、土地から引き離され漂泊する一群のひとたちが生まれ、神事としての軽佻さがかえって、芸術の開放につながった時代を背景にしている。神人が豪族の庇護を失うのには理由があった。ひとつは大和（ヤマト）の神（日の神）を受け入れたときであり、もうひとつは、仏教の受け入れに順応できず、「神々の死」を認めなければならなかったときである。その後は「その神々のむくろ」を護ることに活路を求めて、うかれびとと称される者たちが後から後から輩出された。それが決定的になったのは、政教を引き裂く大化の政が行われたときである。大化の改新以後、中央政権の官吏たちが国造を罷免したり、地方の実情を知らないまま政事を行ったりして、もとの国造の権限は非力化し、神社の神人の居場所をなくしてしまったのである。地方の国造は、もちろん官吏に無力であり、下級の神人はなすすべもなく官吏と国造のはざまで翻弄され、やがて磊落する。彼らは沢山の家族郎党を引き連れて亡命して流民となり、巡遊が新しい生活様式になった。
新しい神社制度が確立して語部の仕事が下級の神人の手に移っていくと、語部のほかにも地位が低下するにつれて落伍したものが生まれてくる。彼ら神人たちは後ろ盾をなくし、零落して流離生活を始めた。彼らはほかいびとと呼ばれ、土地に結びついた生業を営まず、旅から旅に人に養われながら神事をやることをもっぱらとし、やがてそれが芸道化して「巡遊伶人」となった。彼らの存在は、祝詞から叙事詩への転化と照応しており、その叙事詩に合わせて鹿や蟹の身振りを舞うものまね舞踊がつけ加わった。これは精霊に対する威嚇の意味をもっており、この舞踊がもともと神事に深い関係をもっていたことをうかがわせている。次に、叙事詩から抒情詩へ転化するには創作意識の発芽が必要であった。この時代に語部とほかひびとが相互浸透して行く。そして、ほかいとは無縁であった叙事詩が村から村に語りつがれ持ちまわされ、叙事詩は広く全国に散布されるようになる。全国に記紀、万葉、風土記の中に伝説の分岐したものが見られるのはそのためである。柳田国男は叙事詩の担い手の姿を次のように述べている。
≪クグツまたはサンカが山野の竹や草を採り、わずかばかりの器物を製作してこれを販ぐは、かかる大種族の生計の種としてまことに不十分なり…中略…しかしながら遠く古代の状況に遡りて見れば、彼等はこのほかにまだ相応の収入の道を有せしなり。その一はすなわち祈祷にして、その二はすなわち売笑の業なり。しこうして歌唱と人形舞わしはまたこれに伴える第三の職業なりしなり。時勢の変易とともにこれ等の業はすでに分化して一々の専門となり≫『「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男著
折口は柳田を援用しながら、ジプシー同様の生活をしていたサンカ、傀儡子（くぐつ）とその女性版である遊行婦女（うかれめ）に着目して、彼らは巫と娼を兼ねる先住民の落ちこぼれであったが、各地を流れわたっているうちに、陸路や海路の要衝に定住したのがうかれびとの原型であったとみなしている。そして、ほかひびとがほかひの叙事詩化の過程において彼らと合流したとみなした。「巡遊伶人」は、叙事詩をほかひしているうちに、やがて歴史の表舞台にでるようになると、それは自然と変形され、聞くものの心を誘うため、悲恋を謡うものにさえ修正が加えられて民間伝承になる。その場合、古代史実は事実がそのまま謡われたものではなく、神人が神憑りした際に神の物語った叙事詩から生れてきたのである。そして、その律文で伝承された夢物語が散文化して『記紀』の中に残った。こう見てくると祝詞を原型とする語部（シャーマン）の影響が古代をさぐる鍵になっていることがよくわかる。
こうした経緯をふまえた上で、折口信夫は今日までのさまざまな神道研究は誤っており、ほんとうのあるべき姿を掬い取っていないから、それによって伝統化された神道は、この際、解体して基本から作り直さなければならないと述べている。折口は理念という言葉こそ使っていないが、神道研究は言葉の恣意的な解釈を重ねたことで理念を歪め、古代人の根本思想をとらえられなかったことが、今日の誤解にいたったおおもとの原因であると嘆いているのである。それでは、折口が言わんとする神道の根本とは何か。彼は日本人のものの考え方の型を決定づけたのはみこともちの思想であるという。
≪まず祝詞の中で、根本的に日本人の思想を左右している事実は、みこともちの思想である。みこともちとは、お言葉を伝達するものの意味であるが、そのお言葉とは、畢竟、初めてその宣を発した神のお言葉、すなわち「神言」で、神言の伝達者、すなわちみこともちなのである。祝詞を唱える人自身の言葉そのものが、決してみことではないのである。みこともちは、後世に「宰」などの字をもって表されているが、太夫をみこともちと訓む例もある。いずれにしても、みことを持ち伝える役の謂であるが、太夫の方はやや低級なみこともちである。これに対して、最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。すなわち、天皇陛下は、天神のみこともちでおいであそばすのである。だから、天皇陛下のお言葉をみことと称したのであるが、後世それが分裂して、天皇陛下の御代りとしてのみこともちが出来た。それが中臣（ナカトミ）氏である。≫『神道に現れた民俗論理』折口信夫著
折口は「みこと」という祝詞がひとをつくったり動かすことを踏まえて、ここでふたつのことを言っていることになる。ひとつは、「みこともち」が「みこと」を唱えると、やがてその言葉を発した神と同格になり、それが「神ながらの道」として神の具現化や人間化につながることである。そして、もうひとつは、神になった「みこともち」は、今度は新たな「みこともち」として中臣氏ができたということである。この移動の経過が重要な意味をもつのは、神と「みこともち」と臣下の長の三角関係（トライアングル）は滞留することなく、それぞれの役割を流れだし、留まることなく無限に増殖することを前提にしていることだ。つまり、「みこともち」は「みこともち」に固定化しているのでなく、「みこと」を唱えて神になった後、精霊としての臣下の長は、今度は「みこともち」になり、その下に「みこともち」を作り出し、やがて神として「みこと」を唱えるようになる。こうして、「みこともち」と「みこと」は順次入れ替わりながら上昇し、「みこと」という神語を支えることになる。こういう代位の構造は、最初、「みこともち」がワキであったことを考えれば、常世神がシテであり、山の神が精霊の代表としてのワキであり、やがてワキとしての山の神がシテとして田の神をワキに据えたことと正確に対応している。この意味でこの「みこともち」という神と臣下との間を仲介する思想は、永続性と全体性を兼ね備えたものになったのである。
さらに、一旦、最高位の神が「みこと」を発するなら、最初にそれが発せられたときの時間に戻り、同時に、それが発せられた場所と同じ場所になると信じられたのである。つまり、祝詞を唱えることは時間と空間を超越するといっていることになる。たとえば、大和の国の最高の神人である「大倭根子天皇（オオヤマトネコノスメラミコト）」という称号が日本国全体を指す国名に変わったのは、この祝詞の信仰に由来しており、それは京都へ遷都しても同じ称号が使われた。また、祝詞を唱えることによって、葦原ノ中国という地名や天孫降臨の日向の地は高天原から移動して全国の地名に拡散した。また、祝詞の中では歴代の天皇は神武も崇神もともに「肇国（ハツクニ）しろす天皇」と呼ばれ、時間は世代を超えて飴のようにのびていながら、それぞれ歴代の天皇の在位期間は、初めて国を作ったとされる時間と信じられた。つまり、折口は「みこともち」の祝詞の信仰において、空間の拡大と時間の移動と伸縮の秘密を暗に示したのである。
わたしは、最初、この時間と空間の移動の意味することころがわからなかったが、これによって、なぜ、大和の一豪族にすぎない勢力が、わが列島全体に支配をおよぼすようになったかの秘密を解き明かす糸口を見つけたようにおもえた。シャーマンとは何かと問うたとき、神と人間の間を仲介するひとというように定義した場合、「みこともち」が神と臣下との媒介という考えをみちびきだせる。すると、この仲介役としての神人とは、とりもなおさず、卑弥呼のような最高位のシャーマンではないかということにおもいあたったのである。樋口清之の『卑弥呼と邪馬台国の謎』の中のシャーマニズムの解説を読むと、シャーマンの神憑りにはある段階（ステップ）が想定されている。
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太鼓、笛、鈴などの楽器を奏しながら単調なテンポで踊ることで、自己陶酔から自己催眠に入り、忘我になるのが第一段階。そのとき酒や薬草、特殊な煙を吸い、また身体をリズミカルに打ったり、水浴して冷やしたり、火に入って熱したり、化学的、物理的刺激を与えたり、自分を異常心理に導いたりする努力を行う（これをエクスタシーという）。
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次に自己催眠の中で、自己の脱出、自霊の虚脱が行われ人格転換が行われる（これをトランスという）。
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すると、信ずる神や霊（人、動物、植物など）がのりうつると感じる（これをポセッションという）。
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そして、この霊がこの神憑りした人の口や動作を通じて、意思を託宣する（オラクルという）。
このように神や霊がシャーマンに憑依するとき、肉体が躍動したり震えたりするのを「シャーム」と呼んだことから、シャーマニズムと言われるようになったとされている。シャーマンが神憑りによって託宣をし、それが神意そのものとしてひとびとの社会生活に影響をおよぼすような風習は、沖縄や朝鮮では最近まで有力な信仰として残っていた。おそらく卑弥呼は、その遺伝的素質や修行によって神憑りを自在に行うことのできる技術を身につけていたものとおもわれる。それは宗教的権威にとどまらず政治的采配にまでおよぶようになった。『後漢書』には、倭の時代以降、邪馬台国において卑弥呼が擁立された背景として、彼女の「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」能力をもって、部族「国家」同士の戦乱を収束させたことを匂わせている。つまり、二世紀末の並立する有力部族国家同士の争いの過程で、初期の邪馬台国政権においては、従来の結合関係とは異なる宗教的・政治的再編成がおこなわれ、より高次の結束がもたらされることで戦乱を収束させるとともに、そのことで次第に国家連合を拡大して、統一部族（連合）国家の出現を促したことはまちがいない。その宗教的、政治的推力は、卑弥呼と呼ばれる司祭者と国々から集められた宮廷巫女の集団が祭祀儀礼を共有することによって行われた。
卑弥呼を指して「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」という言い方の中には、神憑りが鬼と呼ばれるような幽魂や亡霊の類を招きよせ、その異常心理から託宣することに長けていたことをうかがわせるが、彼女の能力は、もちろん、政治的、軍事的なものばかりでなく、天候による豊作、凶作を占うとか、農耕生活にまつわる神の宣託こそがその宗教的威厳の中心に据えられていたのはまちがいない。卑弥呼以前の古代の部族国家においても、それぞれこのような巫女をかかえ、その託宣は少なからず政治や軍事に影響を与えており、神権政治と呼ばれたのは邪馬台国だけの特性ではなかったが、卑弥呼の場合には、以前の男王のときには国が乱れたとあるから、女性の宗教的祭祀として部族国家さらには諸国家相互を統べる妖術ともいえる技術がきわだっていたと考えられる。
このシャーマニズムはシベリアから北東アジアの広い範囲に分布するとされているのであるが、樋口はわが国の原始信仰を二重性においてとらえた。ひとつは、呪物崇拝、祖先崇拝、自然崇拝から生霊信仰（イキミタマ信仰）まで、人類の歩みの初期段階においてあらゆる事物（動物、山河、海、岩、風、太陽）に霊が存在するとして崇拝するアニミズムである。これは南アジアの照葉樹林帯特有の信仰であるが、特に、稲作が行われはじめるとともに、農耕に関わりが深い水、雲、山、蛇、太陽に信仰が集まってきた。ところが、北東アジアから持ち込まれたシャーマニズムは、そういうアニミズムの霊魂をシャーマンに憑依する神にしてしまったことから、農耕民にとって太陽（日の神）に対する霊魂信仰は、シャーマニズムに習合しやすかったと考えられている。
このため、樋口清之は、『記紀』神話においてアマテラスの日の神が最高神として現れているのは、もともとあった南方由来の太陽アニミズムの上に、「支配階級」が持ち込んだ北方シャーマニズムによって継ぎ目が分からなくなるぐらいになった証ではないかと推測しているのである。さらに、農耕にとって不可欠な雨の信仰、山の信仰、水の信仰などのアニミズムを縫合させ、シャーマニズムの対象に吸収したのではないかと考えた。これは折口信夫が、まれびと信仰が常世神を客人として受け入れる型を保存したまま、日の神の信仰を受け入れた理由を説明しているのとも符合する。折口は、はっきりと、日の神の信仰は常世神の思想とは全く別のルートをたどって成長してきたとみなしており、それ以前の古代人の信仰は、もともと、アニミズム的な常世信仰、祖先崇拝や生霊信仰が一般的であったが、「新に出現する神を仰ぐ心が深かつた」ため、ある部族の信仰であった日の神の信仰が、それらの農耕土着信仰を包み込む形で取って代わり、普遍化した経路を辿っていくべきだと述べている。その際、折口にとって常世神とは、わが列島の住人が土地の精霊や動物を神と信じるほど古い信仰が生きていた先祖の土地の記憶に結びついており、その名残りをたぐって「其以前の祖先が居た土地」に対して折口が抱いている懐かしさは、列島の住人にとって非常に長い時間の射程をもっていることがわかる。
おそらく、樋口がここでシャーマンを擁した「支配階級」というのは、当時、大陸の高度な文化を背景に、卑弥呼らの支配層はアニミズムに近い未開の意識にとどまっていた農耕土民の中に、朝鮮から高い稲作文化や技術とともにシャーマニズムの信仰を持ち込んだ勢力ではないかという憶測の上に立っている。実際に卑弥呼の出自が朝鮮半島経由であったかどうかはわからないが、北東アジアのシャーマニズムが進出してきたことで、農耕土着的な信仰の根幹を揺るがしたことだけはまちがいない。この問題は、卑弥呼の邪馬台国だけではなく、アマテラスの日の神信仰を携えた勢力にも共通する背景をもっており、『記紀』神話に綴られた大和王権の出自を考える上でも参考になる。
ミルチア・エリアーデは、シャーマニズムの発祥の地であるシベリアおよび中央アジアを中心に、世界中の膨大な数にのぼるシャーマンの技術と理論の形態をスケッチ風に描いている。それによると、シャーマンは世襲制だが、ときには天上からの意志として稲妻に打たれた若者などがあとを継いだこともあるらしい。シャーマンになるためには特別な資質と神から選別されたという保証が必要だったので、選ばれた若者は病弱な割には逆上しやすく、類癲癇性の気質をもち、孤独を愛し、夢と現実の境に彷徨っているような夢見がちな者に限られた。彼らはシャーマンとしての教育をうけ、神々の名前と形態、部族の系譜と伝承、神話などを学び、部族全体から承認されてはじめてシャーマンと認められる。
これからシャーマンになろうとするシャーマン候補は、類癲癇性の者が選ばれやすいのだが、エリアーデはシャーマンの一般的な精神病理学的な説明には反対している。なぜなら、シャーマンは宗教的体験をとおして部族の承認が得られなければならないから、病者がそのままではシャーマンにはなりえないのである。シャーマンは単なる病者ではなく、むしろ、治癒した病者といった方が相応しかった。彼らがシャーマンになるのは病気を克服し、いまなおそれを統御しているためであるから、そのことで彼らはその存在において、直接に「聖性」をおびており、その意味においてのみ異常性をもっているにすぎないとされる。
シャーマンになるためには、次に、イニシエーションという儀式をくぐらなければならなかった。ヤクート人の報告によると、邪霊がシャーマン候補を死の国に連れ去り、ひとつの家の中に幽閉し、ここで肉体の解体と死と復活の儀式が執り行われる。邪霊は彼の頭部を切り取ってそばに置き、彼の体を小さなバラバラな断片に解体してしまう。そして、その断片はいろいろな病気の精霊に配分される。それからのち、再び、彼の骨は新しい肉で覆われ、新しい血液も与えられる。そういう幻想的な苦行を通過することによってのみ、シャーマンは病気治療の能力を獲得すると言われている。このイニシエーションのパターンは、世界中のシャーマンに共通しており、だれもが夢遊病者のようなエクスタシーの中で、水の女王や冥界の王、動物の女王と出会い、宇宙の頂点である「世界の中心」に案内される。さらには、悪魔的存在から手術によって肉体を引き裂かれる責めを受け、病気の精霊、邪悪な霊の弱点を知るまでにならなければならないという。シベリアやオーストラリアにもみられる儀式の共通のテーマは、死と復活のシンボリズムであり、いずれも神話にもとづく宗教的、儀礼的体系に一致する。つまり、イニシエーション的ドラマは身体の解剖をともなう死と蘇生の表現なのである。
また、シベリアのシャーマニズムを特徴づけるものとして「上昇・空中飛翔」の体験があげられている。これは未来のシャーマンが精霊に祈って待望したときに神秘の光を受け、そのとき彼の眼は山々を越え大地がまるで一直線の平原であるかのように見渡すことができるようになる。彼の視界は大地の果てまで達して、遠くへだたった彼方の事物や事件にまで一部始終見とおすことができる。そして、こういう眼力は、自らの肉体を内奥から剥ぎとり、自分を骸骨の状態にまで観想する技術ともつうじあっている。シャーマンにとって、みずからの肉体の骸骨への還元は形而上学的意味を秘めており、人間の精神性、真理そのものを露呈させるのだ。そこでは生誕と死が重ねられ、生命を産みだす胎内に回帰することを意味しており、いわば、ひとが原初に戻る前提条件をなしている。
これらはシャーマン候補が、過去の自分を脱ぎ捨てて、新たな生を踏み出すために避けてはとおれない通過儀式であった。彼らは何か月も森の中に隔離され、死者と同じような状態のまま置かれ、体を傷つけられ、断食し、飢えと寒さの責苦に耐え、過去の記憶をすべて喪ってしまったあと、亡霊のような姿になって村に戻ってくる。エリアーデはシャーマンに不可欠な要件としてトランスやエクスタシーという言葉を頻繁に使っている。未来のシャーマンを選ぶばあい、エクスタシーの中で死者霊や精霊を見ることは「憑依」するしないにかかわらず、重要な意味をもっているからである。霊をみることはシャーマン自身が霊として死んだことにほかならない。そのとき彼は精霊の容器になり、精霊を統御することができるようになると信じられていた。
わが国においても同様に、死と再生のドラマを演じるイニシエーションという儀式を大嘗祭（オホムベマツリ）の中に見ることができる。先帝がなくなったとき、大嘗祭では次の天子になる皇子は、宮殿の悠紀（ユキ）・主基（スキ）両殿の中の御寝所に引きこもって、御物忌み（ミモノイミ）をおこなう。御寝所には蓐（シトネ）、衾（フスマ）をおいて布団や枕もそなえられている。この期間が「喪」の期間と呼ばれ、魂が身体に入るまでの待機の状態である。
これは帝位の譲り渡しを行う儀式にはちがいないのであるが、葦原ノ中国を治めるものは新たに生まれるものでなければならないという古代の観念に基づくとされている。この殿内で次の天子は新穀を食べることによって、この五穀実る豊葦原ノ水穂の国の豊穣さを約束する呪力を身につける。その能力は亡くなった天子から新しい天子にそのまま手渡されるのではなく、新しい天子は今までの生を終わらせ、新たな生の誕生を条件にする。つまり、次の天子は新穀を食べると同時に殿内の神座で布団にくるまり、臥して胎児の状態に戻った後、再び誕生を迎えるという再生の模擬をおこなったとみられる。この神殿の中にはアマテラスの神座もしつらえており、変身して生まれ変わった天子は、アマテラスの面前でみずからの子として認められることになる。『古事記』において、生まれたばかりのニニギノミコトが天孫降臨しなければならなかったのは、このような秘儀の象徴行為を裏づけている。同じことを折口信夫は「すぢぁ」に見える思想として語っている。つまり、すでるという言葉の原義が、「あら人神」という神があるという意味に近く、霊魂は幾代にもわたって新たに生まれ変わり連綿として続くとした。その表れ（すでる者）としての社の神主は、「みこともち」の資格をもち、更には、その祀る神にもなった。そして、その世代交代は外来魂が来るときに行われ、常世の水の信仰によって裏づけられる。その若返る水（若水）によって繰り返し霊力が改まると考えられたのである。
８ 倫理の根拠
わたしたちは、わが列島の住人の古代信仰は、南アジア由来の水、雲、山、蛇、太陽のアニミズムの上に、「支配階級」の北方シャーマニズムが流入しで継ぎ目が分からなくなるぐらいに被さったものであることを見てきた。宗教の二重性というよりは、むしろ、わが国の社会構造の多重性につながるこの問題意識は、柳田國男においては狩猟民と農耕民の差異の中にみいだされ、中沢新一においては国家神道と鎮守様の神のちがい、あるいは、仏教思想がわが国に伝来してから土着するまで、幾度も異和反応を繰り返したことの説明のなかに浮きぼりにされている。また、網野善彦のように、この列島においては縄文時代から、東部と西部の文化意識の差異があったことを改めて強調しているものもいる。網野によれば、２万年以上前の旧石器時代に遡っても、フォッサ・マグナを境に落葉広葉樹林の広がった列島東部と照葉樹林の広がった西部の間には生業そのものが異なっていた。この差異は、言語、民族の差異として歴然としてあった。そこへ西から移住してきた新しい弥生文化の担い手が、この地域差を前提に縄文文化の影響の比較的弱い地域に広がってきて、それが列島の段差をさらに拡大させたとみなしている。そして、彼は弥生人に対してアイヌ系と琉球系、弥生に対して縄文、西部に対して東部、差別に対して被差別、男性に対して女性など次々と差異を選り出し、「日本」という幻想のアイデンティティを解体しようとした。
しかし、これらの説明で差異の継ぎ目のメカニズムが、すべて明らかにされたとはとてもおもえない。そうかといって、その問題を前にして、シャーマン（司祭者）が大和勢力の担い手として差異の継ぎ目を縫い合わせ、そのまま統一王権につながったという証拠が揃っているわけでもない。だが、シャーマンという司祭者の誕生と王権の成立にいたる過程はわからないことが多い中で、司祭者を神と人間の仲介者という意味に限定するとしたら、多くの司祭者と呼ばれる神人たちの根拠だけははっきりさせなければならない。
無辜のシャーマンという考え方は、ほとんど折口信夫の血肉となって天皇観の理念を支えた。その背景には、まれびと信仰を民間信仰のベースにおいていることがあり、彼はまれびと信仰が、農耕に関わりが深い水、雲、山、蛇、太陽の精霊を崇めるようになると、大和勢力がもたらした日の神信仰に形を変えたという見方をとったのだ。やがて、その儀式化が進んでくると、春の初めに天子が高御座（タカミクラ）から臣下に祝詞（ノリト）を発するようになる。それとともに、群臣やさまざまな国々、氏々は、天子の健康と服従を誓う寿詞（ヨゴト）を奏上して、逆に、民間信仰の根を拡げるようになったといわれている。その全体像としては、まれびと信仰が昇華して、天皇がみこともちと呼ばれ、神主として広く神事をつかさどるようになると、その頂点からなだらかな下向きの運動がうまれる。その運動が、天子を中心に地方の役人、豪族の首長、氏々の長たちの間に同心円上に波紋をひろげ、信仰体系を閉じるというイメージを思い描くことができる。それは近江、飛鳥、藤原の時代をつうじて行われ、大化の改新は、地方の古い信仰生活を大和勢力の信仰に統一することにほんとうの目的があった。
ただし、古い信仰のスタイルを守って神事をつかさどっていたものたちの一部は、この列島に統一国家がうまれ、やがて体系化された神社制度に整備されるにつれ、庇護者を失い、軽んじられ吹き寄せられるように落ちぶれていった。彼らはこの信仰体系の外縁をなして、芸能者として放浪しながら村々に古い芸能の伝統をもたらした。このような一連の折口の考え方は、宗教から権力がうまれ国家をかたちづくる過程を故意に遠ざけるような印象を与えてしまうのだが、それは、彼がもともと、神の独り言として一人称式の叙事詩から誕生した文学の発芽を、万葉集以降のわが国の短詩形文学の系譜につらなるものとしてきわだたせる目的意識をもっていたせいである。だが、いうまでもなく、信仰の問題は文学だけではなく、また、不自由な国家をもつくりだすだけでもなく、不可避に生きることの意味を切り詰める倫理の問題を提起する。
わたしたちのかつての共同体の倫理は、ときに軋みや異和を発して、ともすれば、なだらかな発生の神話をつき崩そうとする。『古事記』神話の中ではじめて罪という概念が登場するのは、スサノオが高天原（タカマガハラ）から二度の追放を受けたときにはじまる。イザナギはイザナミを追って黄泉の国へ行ったのだが、思いが届かず、帰ってすぐ禊（ミソギ）をおこない、体を洗ったときたくさんの神々を産み落とす。そのうち左の目を洗ったときに現われたのは天照大御神（アマテラスオオミカミ）、鼻を洗った時には建速須佐之男命（タケハヤスサノオノミコト）が生まれた。イザナギは姉のアマテラスに高天原を支配することを命じ、弟のスサノオには海上を治める権限を与える。ところが、スサノオはそれを拒否して、母のいる黄泉の国に行きたいと、青山が枯れ山になるほど泣きわめいたとある。そして、とうとう怒ったイザナギから高天原を追放されるはめになる。これが一度目の追放である。
そして、スサノオはイザナギが隠退したのをみはからって、アマテラスを頼って高天原にのぼる。アマテラスに不信感をもたれているスサノオは、おもてむき恭順の意を示すのだが、姉との誓いのしるしとして生まれた神々について自分の神の方が勝っていると逆らい、田の畔をこわし、稲を踏みつぶしたり、溝を埋めるなど乱暴をはたらきはじめた。それでも、最初はアマテラスがそれを善意に解釈して咎めなかったことから、姉の好意に甘え、図にのってますます乱暴になった。しかし、神の衣服を作っている機織場の屋根から穴をあけて斑駒（マダラゴマ）の皮を剥いて落として機織女が死んだときには、さすがにアマテラスは恐れを抱き、とうとう天の岩屋戸（アメノイワヤト）に籠ってしまう。
アマテラスは日の神（太陽の神）だから高天原は暗くなり、葦原の中つ国（アシハラノナカツクニ）も永遠の闇につつまれ、あらゆる禍が起こり始めた。なんとかアマテラスに岩戸から出てきてもらおうと八百万（ヤオヨロズ）の神々は思案して、岩戸の前で祭りを行い、鏡や玉飾りを作ったり、祝詞を唱えたりしてアマテラスの興味をひかせる計略を練る。とりわけ、猿女（サルメ）の祖、天宇受売命（アメノウズメノミコト）の狂おしい歌舞によって、一瞬、不思議におもったアマテラスが岩戸から覗き見したところで、ようやく岩戸から引き出すことに成功する。
神々はスサノオに対して壊した物品の弁償をさせるとともに、鬚と手足の爪を切って祓（ハライ）を受けさせ、高天原から永久に追放した。これが二度目の追放である。追放されたスサノオは下界に向かい、出雲の国の肥の河上（ヒのカワカミ）鳥髪（トリカミ）というところに降り立った。スサノオは暴風の神とも呼ばれるのだが、出雲に降りた折に、蚕や稲、粟、小豆、麦などの穀物の種を最初に発見したといわれており、以後、農耕民の始祖としての役割をあたえられる。
吉本隆明は『共同幻想論』で、宗教から法、それから国家へと分岐していく歴史の経過を共同幻想の変容としてとらえたが、その中で、宗教との境界が不分明な段階における「法」として、「天つ罪（アマツツミ）」と「国つ罪（クニツツミ）」の区別に着目している。この場合、スサノオが二度目に追放された罪は、生剥ぎ（イケハギ）、逆剥ぎ（サカハギ）、畔放ち（アハナチ）、溝埋み（ミゾウミ）、屎戸（ヘクソ）などの農耕的な共同生活に即した罪にあたる「天つ罪」であり、上通下婚（オヤコタワケ）、馬婚（ウマタワケ）、牛婚（ウシタワケ）、鶏婚（トリタワケ）、犬婚（イヌタワケ）など、近親姦、獣姦の禁止を指したより土着性の強い自然的カテゴリーに属する国つ罪とは異なっている。
スサノオが犯した田の畔を壊し、溝を埋めるなどの罪に対して祓（ハライ）をおこなう償い方は、まだ、法がひとを裁くのか、ひとの行為を裁くのか不分明な時代の宗教的儀礼にのっとったものである。このような歴史的段階では個々の人格が問題なのではなく、のちに農耕民の始祖になるスサノオという象徴的存在が、そのバックボーンともいえる農耕生活の共同規範を破り、処罰の対象になったことに意味があった。この場合、アマテラス直系の天つ神が出雲系統の土着農耕民であった勢力に対してスサノオという人物を代表させ、それに罪を負わせたという見方ができるからだ。土着農耕民の始祖が農耕生活の罪を負ったということは矛盾であるが、その矛盾をとく鍵は、宗教が法として整備されている過程において、原始的な国つ罪の概念と天つ罪の概念がすれちがいざま、同化したり離反したりして摩擦を生じている場所にあった。
このスサノオが高天原から降り立った（追放された）天つ神でありながら、出雲系統の土着農耕民の始祖であるという立場の二重性は、罪概念においても前農耕社会以前の遥か未開社会までさかのぼる国つ罪と、農耕が定着して氏族制の紐帯がくずれて部族的な共同性がつくられ始めた段階の天つ罪の二重性を反映するものであった。動物や植物を採って狩猟生活をしていた先住族がもっていたとおもわれる血族集団の罪意識は国つ罪のカテゴリーである。そこに新たな農耕技術をもたらした勢力によって部族社会が次第に大きくなり、さらに統一部族国家の輪郭を表わしはじめたとき、天つ罪の概念が次第に色濃くなっていく。だが、この天つ罪と国つ罪の発生は、歴史的な時間の継起とみなされるべきではない。もともと統一的な部族国家が形成されていない段階においては、天つ罪と国つ罪の概念が明確に見分けられようもなかったはずであり、それにくらべて『古事記』が編纂された時点であらわれたスサノオの犯した天つ罪は、比較的新しい解釈と言わなければならないからである。
スサノオの犯した天つ罪の意味合いは、まず、スサノオが天つ神でありながらその規範を破ったということであり、彼は法の侵犯において自ら天つ神の立場の矛盾を背負わなければならなかったことである。だが、この矛盾は、まだ、直接的に天つ神と国つ神の間の争いをひきだす誘引にはならない。わたしたちの古代解釈は、ともすれば、天つ神を擬した大和勢力と農耕土民の出雲勢力に代表される国つ神との間の対立図式と、天つ神による国つ神の平定という単調なシナリオにおさまりがちである。だが、実は、天つ神と国つ神の矛盾にはある段差を含んでいるため、本来、天つ神と国つ神の対立が見えにくいのである。そのため、この第一段階の矛盾においては、スサノオは天つ神でありながら、出雲系統の土着農耕民の始祖であるという立場は、単なる武力によっても、政略結婚によっても解消するものではなく、ある媒介をとおしてのみ、この天つ神の矛盾を転位させることができるのである。
スサノオが禊の対象として一度目に追放されたのは、黄泉の国にまで行ってさえも母親のイザナミに逢って、もう一度、濃密な血族集団生活に戻りたいという願望を象徴していた。いわば、近親相姦の願望であるから、「醜悪な穢れ」である国つ罪に該当している。つまり、スサノオは、一度目は国つ罪によって追放され、二度目は天つ罪によって追放されたことになり、二度目は国つ罪に抵触した前歴をもっていたことになる。したがって、スサノオは、黄泉の国に接する出雲の農耕土民の始祖として、もともと天つ罪であることがそのまま国つ罪でもある二重性を含んでいたのである。
吉本によると、禊のもっとも原初的な意味として、「醜悪な穢れ」を忌むことからはじまり、それが宗教という形をとって現れたものとみなされている。すなわち、あらゆる宗教的な共同幻想の根幹には、黄泉の国につながる「醜悪な穢れ」を忌んで、それを禊の対象として天上に預け、それと同時に現実生活の自由を獲得したいという願望が隠されていた。もし、『古事記』の作者が、天つ罪であり、国つ罪であるという矛盾を天上に預けるという意志をもっていたのであれば、この「醜悪な穢れ」の対象として、黄泉の国や近親姦だけではなく、そこにあらたに出雲の国に象徴される国つ神の支配する原初的な土着農耕民の共同的な宗教性が加えられてもおかしくない。つまり、スサノオの罪が象徴しているのは、単に、天つ罪の概念が国つ罪の上に覆いかぶさったというのではなく、その天つ罪自体が、また、国つ罪の「醜悪な穢れ」をもたらし、それを忌むものとして、さらに天つ罪との対立が生じたと考えられなければならないのである。こう見れば、国家は天つ罪を法規範としてとりだした段階で成立したのではなく、その天つ罪が国つ罪に変異していく過程ではじめてその全貌をあらわしたことがわかる。その意味でわたしは、大和勢力が地方の部族国家を平定していき、統一部族国家ができる前にも、当然、国つ罪だけではなく、土着農耕民の間で天つ罪概念が成熟しており、原始的な狩猟生活をおこなっていた氏族制社会と農耕技術がもたらされた後の部族国家の間には、幾重もの屈折がともなわなければ、統一国家形成までの道のりを俯瞰できないとおもっている。
ともすれば、わたしたちは神話を前にして逆立ちした時間の経過を見守っている。神話においては国産みの天つ神からはじまり、国つ神を媒介してというのは、天つ神が同時に国つ神になることで、今度は、この国つ神が天つ神として国つ神を従えるという順序に見誤ってしまう。しかし、ほんとうの歴史はその真逆で、国つ神が天つ神になり、同時に国つ神でもありながら、更に、その上に天つ神を仰ぐ位相のちがったふたつの三角形（トライアングル）の構図を示しているのである。しかし、『古事記』編纂の時代には、すでに天つ神が国つ神であった時代の記憶がぼやけてきており、いきなりどこからともなく現れた神を天つ神そのものとして仰ぎみたにちがいなかった。一旦、こういう錯誤が生まれてしまうと、あとは、この出生不明ではあるが確固たる天つ神が国つ神を平定するだけの単調な過程にすり替わる。ただ、スサノオが天つ神であると同時に土着農耕民の始祖であるところに、わずかに倒錯の名残りが見えるだけだ。
わたしは、わが列島の統一部族国家の成立については、天つ神と国つ神の入り組んだ葛藤があずかっていたことをみてきた。だが、入り組んだ関係という視点は、わが列島だけに当てはまるのではなく、たとえば、エンゲルスやレーニンの国家暴力装置論やホッブス流の社会契約論を批判する際にも応用できるとおもっている。いずれにしても、広い市民社会の活動領域の全体からすると、国家は狭苦しく数量化できないほど、とても薄っぺらな組織である。にもかかわらず、わたしたち個々人には担いきれないほど重いものという迷妄を植えつけたのにはそれなりの理由があったと考えなくてはならない。その証拠には、氏族社会から部族社会へ移行し、部族社会がその閾値を越えると、はじめて国家が誕生したといえるような分水嶺が土器や石器の後ろに透けて見えてくるわけではない。わたしたちのいう国家の基準は、法整備ができてなくても、微かにではあっても個人の負担と禁忌（タブー）によって無理強いする権力構造が発生して、心のメカニズムをとおして曇った澱の実在が確かめられる場所そのものを指している。わたしたちの倫理観ではわかっていながら、ほんとうはとても軽いと予感させる国家の本質は、ともすれば、現在でも生きることの誤解さえ生んでしまうのである。
９ 超神道と仏教
中沢新一は、折口信夫が着想の原点にしているのは、『古事記』や『万葉集』が編纂されたよりもはるか以前、縄文時代の頃までさかのぼって人類の原初的なこころや思考まで踏み込んだ場所にあるとした。その意味で折口は、「古代」という従来の概念を塗りかえ、わが国の思想史に画期を開いたとみなしている。少なくともわが国の思想を新しものがりやの一部の知識人の周辺だけで考えようとしなければ、源流のような土着の思想がさまざまに枝分かれしながらも、底辺に浸み込み伏流水のように流れていることをぬきにしては語れないとしたのである。
中沢は、まれびとがやってくる「妣が国」、「常世」は、日本人や日本文化のルーツを跡づけるとして、台湾の先住民やインドネシア、フィリピン諸島からの縄文人の渡来や北米西海岸のインディアンに結びつける。そればかりか、まれびとは「あの世」からわたしたちの共同体にやってきた来訪者という意味から、「他界」と現実世界の通路を開いた。中沢によれば、このような信仰はわが国の文化の基層をなしていて、自然（じねん）宗教から能、歌舞伎などの古典芸能の発祥の現場にまで立ち会わせてくれることになる。彼ら芸能者たちの精霊信仰は、この列島に統一国家が産まれ、やがて体系化された神社制度に整備されるにつれ、軽んじられ吹き寄せられるように落ちぶれた存在になった。寺社の下級神人として仕えていたこれら宗教者たちは庇護者を失い、放浪の旅を余技なくされる。しかし、これら芸人や職人たちに対して共感を抱いた折口は、彼らが流浪しながら村々に持ち込んだ精霊たちの言葉にこそ、古代人の思考の痕跡をみとめた。ここから中沢が折口から汲み取ったのは次のような洞察だった。
≪芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりのあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。折口信夫は村々に残された古い芸能のかたちを深く探求しながら、「芸能者の原像」をそのような強力な矛盾をになった生き方をする人々として、描き出そうとした。≫『古代から来た未来人 折口信夫』 中沢新一著
ここには妖しい生き方を強いられた芸能者たちの心情に寄り添うような折口の立ち姿がよく映されている。芸能者たちの矛盾は、まれびとの矛盾そのものである。「あの世」からやってくるまれびとは、すでに死んだ人たちやこれから生まれてくる生命の息吹の象徴であった。古代人たちにとって世界とは、「この世」だけではなく、「あの世」や「他界」も心の半分を占めていたのであり、「この世」と「あの世」は双交通できるものでなければならなかった。そのため、「この世」と「あの世」の接着面は、とてつもなく拡がっていた。「この世」の死者は「あの世」へ送りだされ、「あの世」から「この世」へと生命が戻ってくるこの太い還流の中に、生きることそのものの意義が見出されていた。中沢がここで見ているのは、マルクスのように、現世の稀少性の涙が「あの世」を産み出す原因であるというような、一方通行の宗教言語に表わされた世界の出来事ではない。言語が発せられるその直前の名づけようのない「身体」の行為性のようなものだ。それは善であったり、もしかしたら悪霊のように荒ぶる精霊であったりするかもしれないが、わたしたちには、それが遥かな原初のエネルギーから発せられた肉声のように聞き分けることができる。だが、中沢の文体はこのエネルギーの総体をゆっくりと取り出し、折口といっしょに「超宗教」の扉を向こう側に開こうとする。
中沢は、折口が戦後まもない頃、「神道の宗教化」をめざしていたことに着目している。折口は日本人の形をもたない前宗教的な「自然（じねん）宗教」に組織と体系を与えようとしたのである。しかし、中沢は、宗教に組織と体系を与えた途端、そのネットワークの共同性は国家の介入を許してしまい、その本来性と矛盾をはらんでしまうものではないかと考えた。それならば、折口が説いていたのは「神道の組織化」とは別のありようではなかったのか。そのことに気づいた時、中沢に見えてきたのは、宗教を超えるものとしての神道であり、あらゆる宗教の以前であると同時に、宗教の終りをも指し示す知性のあり方に踏み込んでいる折口の情熱の在処だった。日本の宗教史の中には決して表立ってあらわれることはなかったが、潜在しつづけてきた別の形の神道が確かに存在していたのである。折口にとって、そういう影のような神道は表の顔がもはやかえりみられなくなった現代だからこそ、是非とも再生させ続けられなければならなかったのだ。それに対して中沢は、その原宗教は日本人の精神の奥深くありながら、決して表面に躍り出たことはないが、仏教思想や神々の間に隙間から姿をあらわしているがゆえに、原初（アルファ）であり、未来（オメガ）として理念化できると返答していることになる。
中沢によれば、わが国の神道は、もともと、国家神道とひとびとが生きる実感の中ではぐくまれた鎮守様の神のちがいとして二重性をはらんでいた。この二重性は仏教の布教のなかでも同じような影響を与えた。中沢は、仏教思想がわが国に伝来してきてから土着するまで、幾度も異和反応を繰り返した点について細かにたどっている。都の正統派仏教の末端、衆生に触れる境界のところでは、山で修行するたくさんの無名の仏教者の介在によって、その思想の接触面では必然的に変形や歪みをともなっていた。彼は日本の思想のはじまりをそのようなところに見据えているようにおもえる。
≪日本人の思考のはじまりというものを考える時に、このとき山の奥の水源地や岩山で起こったことはとても重要な意味をもっているように僕には思えるのです。日本人の思想の特質を考えるうえでも、とても大切だ。そこには日本人が、神話的な思考を、「思想」と呼ばれるようなものにつくりかえるときに、なにをやったかということに関わりがあります。水源地の神、蛇神や竜神は、ギリシャ人の古い表現をかりれば、生命の内側にあって生命をあふれ出してくる自然、過剰としていて暗いゾーエーの生命力の場所とつながっている。その力が十一面観音のような造形につくりかえられていくときに、何か大きな変化が発生している。…中略…そこで造形の技術を使って、過剰する自然の力を十一面観音のような仏像に変化させた。その変化の中に、日本人が自然を思索の対象にする行為のはじまりの形態ができあがっています。≫『日本人は思想したか』 吉本隆明、梅原猛、中沢新一著
このような変形と飛躍の智慧は、日本人の原基に縄文的な自然力のエネルギーを蓄えていたものが、本来、仏教がもっている秩序否定（アンチコスモス）の衝動に触れたとき化合し、秘密結社に似た山籠りの儀式や死に接近した山の宗教の形をとったという見方を導きだした。その延長線上に平安仏教に対する最澄や空海の存在が位置づけられ、彼らは仏教の原典と衆生レベルの宗教意識のほぼ中間地帯で、縄文時代以来の日本人の原意識に向けて越境したとされるのである。もちろん、それは中沢がチベット密教の中に見つけた北方シャーマニズムの胎児回帰への修練の奥儀につながっていた。狩猟文化では、子供から大人になる儀式のなかで、必ず、死の場所をくぐり抜けなければならなかった。彼らは断食をやったりしながら自分の体を痛めつけて、仮死状態の中で死と再生の神話を会得しようとした。
ここでは神話的な思考が「思想」と呼ばれるものに変わりつつある経緯が、沈黙の言葉から「行為」の言葉に推移していく線分のようにたどられている。もし、西欧思想のはじまりが、形而上学という自然を越える概念の言葉でつくられているとすれば、日本人の思想という場合、ちょうど、沈黙の言葉とそのような概念の言葉の中間地帯で誕生したとされているのである。その上で、歌であったり、能、生け花、お茶などの造形や技術をとおして、沈黙の言葉の移し替えが行われた。しかも、それらは山に入り込んでいく修験道の伝統と深いつながりをもっていた。
おそらく、中沢の功績は、日本人の沈黙の言葉を探り当てたことだけではない。概念の言葉に表せない沈黙の言葉との中間領域で、「行為」として表出された「思想」のありかを、概念や沈黙と同時に呈示し、「思想」の三層構造をみつけたことだとおもう。それは文字のない沈黙は、行為のメタファーによってしか表現できないものであって、人間の胎内回帰が仮死体験になぞらえるように、それ以上でも以下でもないすれすれの認識だった。これはわたしたちの認識構造の幅をおおきく拡げることにつながった。従来の言語思想では、沈黙の解読に終始したのだが、その沈黙がどうしても理解できないところで、その試みはほとんどが座礁してしまった。どの場所でこの沈黙のかけらを拾い集めるか知らなかったからである。ところが、中沢は、それを「行為」の一点に凝縮した形で理解しようとした。
その上で中沢は、地下水脈のように流れてきた土着の宗教や辺境とよばれる沈黙の言葉が、概念の言葉として、現代の中であらたな意味をもちうるかどうかについて問いかけているのだとおもえる。そこには、中沢特有の歴史観が介在しているのは確かなのだが、その概念は、普遍性や体系性に近づくのをおそれるように、そっと隠されている。彼は柳田國男と折口の違いについて、柳田は共同体に風穴を穿つことができなかったが、それにひきかえ折口は、まれびとという外来の神を共同体の中心に呼び込んだと述べている。これは農耕共同体の構成とその源流をさぐる試みの中心部にまで進入した問いかけにちがいない。それは人間と自然との関係の中で、狩猟民と農耕民の対立にもたとえられるのだが、裏面からいうと、柳田には歴史観が目鼻鮮やかに映り、折口にはそのような歴史観を破壊する衝動が潜んでいた現われかもしれない。
神道の上澄みをかきわけたり、仏教や密教の奥義のかけらを拾い集め、ひとつの大きな流れに吸い寄せられるような中沢の文体をたどっていくときのスリリングな体験は、彼の「超宗教」に心をつかまれたり、掻き回されたりすることで生じるものではなく、それら個々の宗教の枠組みを超えて、ほんとうは、ひとは何を考え、何を信じて生きていくかという初源の問いかけに対する答えが響いているからである。もしかしたら、それは未知の星から持ち帰った微粒子で宇宙の起源や構造を探るのに似ている。どちらも、「自然」や「生命」という概念を作り変え、素粒子のような目で見えるものに変えてくれそうな予感を届けてくれる。
しかし、中沢にとって、「超宗教」という概念は、理念としての構えをみせたときから、必ず、危うい概念に変貌するはずだ。つまり、原初と未来の接合面が試され、その輪（リング）のような歴史をどうはずすかが問われてくるからである。果たして、原初の宗教は未来のものと同じなのだろうか？原宗教が「外部」からやってきて、「外部」にその住処があるがゆえに、未来の「超宗教」に連続すると言いきることができるだろうか？わたしには、この原初と未来の間には、変換の方程式が介在しなければならないとおもえる。たとえていえば、視覚が空間性の度合いであるとすれば、聴覚は時間性を本質とする。輪をはずすための変換というならば、聞こえるように視、視るように聞くことをおいてほかにはない。それが何を触媒にしてできるのか。
そこで、中沢は、ドゥルーズの中心化と非中心化という線分の概念を、均衡と不均衡というような質量の概念に読み替え、二元的な対称性を取りあげた。中沢は人間と動物との間にあった平等な関係が、「神話的思考」によって守られてきたことを指して、「対称性の社会」と名づけている。そこでは、動物は自由に人間に変身することができるし、人間も動物も双方向に変身することができた。人間と動物の間に本質的な違いはなかったというより、むしろ、動物たちこそが奥深い権力を握っており、それに触れようとした人間は、「自然の力」の秘密につながるとおもっていた。ところが、その「自然の力」をわがものにしようとする人間が出現して、やがて、国家をつくりだした途端、人間と自然との間の対称性のバランスが崩れてしまう。そのときから、神話のかわりに「文化」「が始まり、「歴史」が動き始める。その文化は自分たち人間だけが特別な存在であるという傲慢さを根拠にして、あたり前のように動物たちを殺戮し、捕獲をはじめ、家畜にする権利を疑わないようになった。そのような一方通行の権力の誕生の過程を中沢は次のように説明している。
≪それまで、対称性社会では「文化」と「自然」は異質な原理として、できるかぎり分離されていました。ところが、「自然」のものである権力＝力能を社会の内部に持ち込んだ王のいる世界では、このような分離は不可能となります。王自身が「文化」と「自然」のハイブリッドなのですし、クニの権力も同じハイブリッドを原理として構成されるからです。このハイブリッドな構成体にあたえられた名前こそ、「文明」にほかなりません。野蛮はここから発生します。王のような存在を許した瞬間から、人間の力の秘密を「自然」から奪い取った気になって、それまで大切に保ってきた敬虔な心持ちを失い、動物も植物も人間にとって役に立つだけの対象であるように見えてくるでしょう。≫『熊から王へ』 中沢新一著
中沢の説明する国家の成りたちの鮮明さは、いわば、「自然」史的な根源をまとっていることに由来している。彼が描いたのは、環太平洋の北側を日本の東北から南米大陸の南端までドーナツ状に点在するモンゴロイドの社会が、国家をつくるだけの下地をもっていたのにもかかわらず、その臨界点において、あえて国家をつくらなかった理由から反証されたものだ。それらの地域は、いまから一万数千年前に、バイカル湖周辺のモンゴロイドが神話を携え、ベーリング海峡をわたってアメリカ大陸を縦断して広範囲にインディアン文化をもたらしたと言われており、それはサハリンや北海道の縄文文化とひとつながりのものだった。
後期旧石器時代の頃、現生人類（ホモ・サピエンス）の祖先は、自分たちの脳の中に起こった革命的変化に気づいた。それはニューロンの組織化によって、特化された機能を自由に行き来する「流動的知性」を活性化させることができるようになったことだ。それによって、人間は異なるもの同士を暗喩や隠喩で結びつける象徴能力を獲得し、言語を自由に使いこなすことができるようになる。中沢はそれを「野生の思考」と呼んだが、同時に、人間はその流動的知性を自覚するようになって、「超越的存在」の認識ももつようになる。最初、モンゴロイドの象徴的動物である熊をめぐる思考では、熊は人間の生まれ変わりであり、熊も人間と暮らしたり結婚したりすることが信じられており、熊と人間の社会を重ね見ることができた。
その一方、「超越的思考」においては、熊は自然の脅威そのものを体言するものとして、人間を飲み込み、食べ尽くす恐ろしい存在でもあり、人間が頭に描く超越性の極点を象徴する生き物であった。人間は狩りのときや部族間の戦争のときには、熊の威儀を借りて、超自然界と人間界を自由に行き来できるシャーマンや戦士に変身した。この「野生の思考」と「超越性の思考」は、時間も場所も併存する二元性のまま、長い間、彼らの社会の絶妙なバランスを保っていたのであり、人間の世界に自然界の熊につうじた「超人」が出現するのをくいとめてきた。たとえば、インディアンにとって、夏と冬の世界は、昼の世界と夜の世界として明確に分離して管理されていた。
ところが、新石器時代のどこかの時点で、そのバランスが崩れ、自然界と人間界の絆が切れてしまうような事態が起こった。つまり、自然の内奥からもらった超越性を利用して、今までの首長（部族長）とはまったくちがう権力者の像、つまり、「王」が誕生したのである。この点、中沢はあくまでも精神史的な言い方しかしていないが、わたしは、そのとき社会環境の上では、人間が自然に対して思うように猟ができないとか、また逆に、獲物を備蓄する方法が進むなど、欠乏と過剰の偏在化がおこったとおもっている。そこで、生産と消費のアンバランスが生じたことが重なって、人間が「稀少性」をおぼえる事態が発生し、それを転機に、常態的に非常事態が開始されることになったと考えている。
ともかく、それまでの人間と自然の対称性の構造が壊れ、「文化」と「自然」が摩擦を起こし始めたのである。こうして、「歴史」社会の開始が告げられたのである。このとき以来、首長は共同体のもめごとを調整する仲裁の役回りから、一方で「自然」の超越性に顔を向けながら、もう一方では、内に向かって凶暴な姿の権力として現われ、自らを「王」と称するようになったのである。それは夜の世界が公然と昼の世界に顔を現わし、日常社会を超越した自然権力のもとで、ひとびとは個体性を失い、国家に所属する一集団員としてのみ存在を許される生き方に取り込まれることを意味した。こうした「王」は、共同体の周縁部の夜の世界にいたシャーマンを操り、戦士たちの軍事機能を組み換えながら政治的ピラミッドを築きはじめる。
中沢は、流動的知性が穏やかな社会を表わす「野生の思考」の枠を超えてしまうことに、国家や権力の起源を見てとっている。そして、そのことに気づくなら、モンゴロイドの知恵に学び、人間は自然との間に保たれている対称性のバランスを守るため、自然権力をあくまでも自然の精霊たちの中に秘めておくべきだと述べている。このような自然宗教的発想の根は、「王」という言葉をシャーマンにあたうかぎり隣接させれば、折口信夫のような宗教との境がない無辜の自然権力像とも焦点をあわせることができる。折口もまた、実体権力をもたない預言者シャーマンの理想型を追いかけていたからである。
10 時間のトライアングル
マルクスの価値形態論をとおして、西欧形而上学の超越論的な思考方法の転倒に向かう道筋を開き、マルクス思想を可能性にまで膨らませたのは柄谷行人である。柄谷は『資本論』の記述順序は、本来、価値形態論の後に価値論があるべきとした。つまり、価値という概念は、価値形態論がたどった直接的な商品交換から貨幣形態への経路を経てはじめて、「意味」されるものに変わるのであって、価値そのものがアプリオリに実体化されて解釈されることに疑義を投げかけたのである。
柄谷は、異なる二つの商品が等価であるためには、それらに内在的な共通の本質がなければならないとし、商品に対象化された人間的労働がその尺度になるとする『資本論』の通俗的な読み方に対して決定的に異議を唱える。この共通の本質の同一性とは、貨幣形態そのものを表わしているから、『資本論』を価値から価値形態、そして貨幣へとたどっていく論理は、貨幣からはじまり貨幣へつうじる思弁的なトートロジー（同義反復）にすぎないとし、その貨幣形態こそが価値形態の存在を包み隠す元凶とみなしたのである。彼にすれば、リンネルの価値が上着の価値で表示されるということは、リンネルに内在的価値があるためではなく、その場所（市場）ではリンネルと上着という相異なる使用価値があるだけであって、その関係の後から「価値」が現われると述べるのである。
その上、より多くの商品と比較するために行われる特殊的等価形態では、相対的価値形態と等価形態は固定的な関係を結ぶ必要もない。相対的価値形態と等価形態の商品が任意に入れ替わってもなんらさしつかえないからだ。そこでは無数の相異する使用価値の関係とその「たわむれ」が想定されるだけである。ここで柄谷が立ち止まって凝視している場所は、シニフィアンとシニフィエ、表現するものと表現されるものの二元論の立場であり、そこには、なぜ、表現されるものは表現するものと区別されなくてはならないのかという問いかけがあった。人間の思考は表現されたものにしかないのに、あたかも、表現するものが一個の独立した主体としてあるかのように想定される。そればかりか、その主体があるからこそ表現されたものがあるかのような誤解が生じる。すなわち、商品の価値は、それが交換されることによってはじめて価値が生じるにすぎないのに、価値があるから商品が交換されるなどという逆転の論理がまかりとおっているのである。これは、価値を主体として認める形而上学がもたらした逆転劇ではないのか。マルクスにおいて決定的なのは、古典派経済学の使用価値と交換価値の二分法のアクセントを、価値形態論を軸に転回させ、欲望や貨幣の形而上学を一点において踏み越えた点にこそあるのではないか。
柄谷は、のちに、このような思考の転倒を「交換」のモデルに仕立てて、相対的価値形態と等価形態の関係それ自体を、交換様式の一パターンとみなすようになった。だが、『マルクスその可能性の中心』の段階においては、「超越」、「貨幣」、「中心」に対して、ニーチェ、フロイト、ソシュール、デリダ、ラカンを援用しながら、「関係」、「差異」、「脱中心」、「シニフィアンの戯れ」、「無意識」などを対置するポスト構造主義の紹介者にすぎなかった。しかし、彼が人間の意識または「意味」の根源を、「身体組織」の感性的な受動性において認めたことは、「価値」に収まりようもない「身体」の可能性に手を伸ばしてつかみかけたことを意味しており、ほんとうの「自由」とは何かについて考えさせることになった。こういう柄谷の『資本論』なくして初期マルクスも後期マルクスもないというテキスト読解の足どりは、内在的価値およびその空想の価値を見つめる哲学という「主体」の転倒のすぐそばまで肉薄しているのだが、これだけなら「差異」や「たわむれ」がどういうものか説明できなかった。
≪われわれは、ここで、マルクスが、エピクロスの自然哲学について、原子の運動における偶然性、偏差に「自己意識」の根拠をもとめたことを想起してよい。すなわち、人間の自由や主体性は、原因なのではなく結果なのだ。根底にあるのは、自然それ自体の、“偏差”あるいは差異化である。あるいは、シニフィアンの関係のたわむれである。「意味」はその「間」から生れる。だが、この恣意性を抑圧することころに、タブー・制度・体系があるのであって、そのあとでは「意味」あるいは「意識」があたかも自己原因であり超越論的なものがあるかのようにみなされるのだ。おそらく、この「自然史」的認識こそ、マルクスが生涯手ばなさなかったものなのである。≫『マルクスその可能性の中心』 柄谷行人著
そこで、彼は、マルクスの初期の学位論文『エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異』によりそって、人間の原初的「欠如」から出発しようとする。人間は動物とちがって外的環境に自動的に適合できるメカニズムをもたないため、「受苦性」を不可避にまとってしまう。その「受苦性」は、自然や他者に対して遅延化した関係、つまり生産と消費の間に時空間を形づくり、それは外的対象としてなんらかの表象や意味を投げかけることで、他者との多様な応答やコミュニケーション言語のはじまりにつなげている。
つまり、彼がマルクスやニーチェ、フロイトらにみたのは、「身体的組織」における欠如（遅延化）から出発して、欲望や言語、シンボルの「差異性」へつながる通路の再発見であった。彼が「身体的組織」という場合、このような「差異性」を生みだすもとになっている原子の運動における偶然性や偏差を「自己意識」の発生にひきのばすものである。そして、何より、柄谷が注視したのは、この欠如を取り返すために、人間は過剰に振舞うことで、ある思惟形態から逃げられなくなった事実である。それが「差異性」を消去したり、抑圧する形而上学の発生の根拠になり、同時に、その思惟によりどころを与えるためにタブー、制度、体系の隙間を与えたことだった。その意味から、マルクスの哲学は価値形態論によってはじめて、差異（関係）を消去するものとしての貨幣の誕生の秘密を暴露したことになる。
柄谷の「差異性」という概念は、中沢新一の人類がはじめてニューロンの組織化によって特化された機能を自由に行き来する能力と呼んだ「流動的知性」に対応している。中沢のいう「流動的知性」は人間の想像性ほどの意味だが、それは「現世的知性」と「両義性」でつながっており、「自然」と「文化」とのバランスを保つ支点の役割をもっている。柄谷における自己意識の発生とパラレルに産まれる形而上学も、中沢と同様、恣意性から「自由」への回路と考えれば、「自然」から「文化」への越境に近似してくる。もちろん、柄谷の「差異性」の「たわむれ」を恣意性と解釈すれば、恣意性から脱出して「自由」の形而上学への通路には、「身体的組織」と同様な「欠如」の過程が横たわっているからである。一方の中沢にとっては、『資本論』の記述は、資本主義の剰余価値の自己増殖の秘密が、キリスト教の「三位一体論」にオーバーラップして映った。
≪剰余価値の形成において決定的な働きをおこなっていた「精霊」の働きが、ここにも見出される。「精霊」はボロメオの輪の形に結びあった「三位一体」の構造のなかで、不確定性をはらみ、愛と意志によって突き動かされて、贈与をおこなう、ある種の過剰性をそなえているものと、スコラ学は思考していた。この「精霊」が激しい発動をおこなうとき、シニフィアンはシニフィエとの結びつきを解かれて自由に浮遊しはじめ、この浮遊シニフィアンが想像界と交わって増殖をおこなうのであった。このような過程の萌芽が、貨幣―商品―貨幣―……流動体―結晶体―流動体―……の変態のうちに、すでに完全に準備されてある。こうして、資本主義における価値形態論の全領域が「精霊」の息吹に貫かれていることを、私たちは確認することができるのである。≫『緑の資本論』 中沢新一著
中沢によれば、一神教としてのキリスト教は、唯一神としての「父」が「子」を産みだし、神と人間の間に亀裂をもたらしたばかりか、その「父」と「子」の関係を媒介する「精霊」に「自由」を与えた。また、解き放たれた「精霊」の自由さは、ひとびとに増殖性の経済行為への道を開いた。つまり、「父」と「子」の関係は、「精霊」をとおしてのみ、無限に再生産することができるようになったのだ。そこで、ＡＢＣで構成された三角形（トライアングル）の輪は横に流れ出し、シンメトリーの閉鎖性をゆさぶるシステムを作りだす。この考え方は、マルクスの価値形態論から貨幣論への道筋を導きの糸として手に入れられたものだ。いうまでもなく、上着またはお茶またはコーヒーまたは小麦または金＝リンネルとなり、リンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、他の商品もリンネルと交換しなければならず、したがって、いろいろな商品の価値を第三の商品であるリンネルで表現することができるようになる。
こうして、「２０エレのリンネル＝１着の上着」という簡単な価値形態は、途中から逆立の契機を孕むことになる。わたしたちが逆立と呼ぶのは、一般的価値形態の双方向の「たわむれ」から貨幣形態へ至る途中で起こった精神の「段差」を考えることにはじまる。上着の価値をリンネルの使用価値でおしはかることで、リンネルという等価形態にはそれ以上の価値がもたらされ、あたかも精霊の光を身にかざすことになる。そのリンネルは、次々と上着以外の別の女性の憧れの対象となる。中沢はこのリンネルの「受肉」について、精霊をまとってガリラヤ地方を布教しているイエスの姿に喩えている。そのとき、このイエスにはたくさんの可能性が降ってきた。シニフィアン＝表現する地位には、ただ「神の意志」を継ぐもの以上の、多くの流動性や浮遊性に取り囲まれ、やがて、貨幣という特殊な商品を産み出すことになる。
中沢によると、「父」と「子」の関係は、それ自体、精霊という名の貨幣に導かれて「父」と「子」の神話をもたらし、神と人間の関係を逆立ちさせるようになる。それはキリスト教という一神教の中に引き入れた刺を象徴するものであったのだが、忘れてはならないのは、この神とイエスと精霊の三角形（トライアングル）は、わたしたちに、恣意性のキラメキほどではないが、とにかく「自由」を与えたことだ。この「三位一体」の構造とキリスト教の精霊が、商品世界と貨幣世界の遊離をまねき、商品は富として、バーチャル化した欲望と愛の想像力で埋め尽くされた。それは現在の資本主義の原型を形づくったとされるのだが、マルクスの原子論に中にでてくる自然の欠如の回復において、より「自由」な人間的本質をもたらしたことにまちがいない。
自由にもいろいろな形があることを誤解しないように言えば、「自由」とは商人資本家の懐に蓄積された貨幣が、やがて産業資本によって剰余価値の創出へと道すじを開くことを言い当てたものである。そこで内在的な価値は解き放たれ、ひとびとのあいだの商品はつながりを増殖していく。それは柄谷のいう個々の共同体をまたぐ横のひろがりをもたらして、ひとびとの視野を広げながら、自由闊達な世界経済を獲得する。現在進行形の世界は形のない想像性に埋め尽くされている、ということは、ひとはたくさんの可能性を夢見ることができるということだ。よりたくさんの消費は、より多くの欲望を喚起し、欲望はより多くの見知らぬ商品を求めてさまよう。だから、ポスト構造主義だけが欲望を謳歌するのではない。揺籃期の前資本主義の「自由性」そのものが、貨幣の誕生に裏づけられているのだ。表現するものと表現されるものの二元論の足場は、人間の言葉が誰にでもわかる秘密の抜け穴を経由して、表現されないものが貨幣に表現されることによって、心の内側が「身体」で表現されることを可能にした。
ここでわたしが想い浮かべているのは、近代精神の「自己意識」と「自己感情」の関係が、「身体行為」を媒介することによって、唯一、「自由」の発露を許されたことだ。「身体」とは「自己意識」と「自己感情」の等価形態をよくあらわしている。それまでの「自己意識」と「自己感情」の異和は、「身体行為」という貨幣の手助けなくして、出口を見出すことができなかった。しかし、「身体行為」に向けた脱出劇は、あくまでも社会的環境の時間感覚の変位にもとづくものであり、単に、世界を市場にした資本主義のおかげで交通手段が飛躍的に拡大し、ひとびとの意識が世界の隅々まで遠くおよぶようになったことだけに理由を求めることはできない。いわば、空間の隔遠化は時間の隔遠化に裏づけられていた。近代社会というのは生産と消費の時間的隔遠化のことであり、それには貨幣という媒介が不可欠だった。ドゥルーズなどが生産と消費とのあいだの隔壁を高く設け、時間の異和感によりかかって消費を生産から極端にとおざけ、あたかも生産そのものが消費であるかのように振舞うようになり、消費社会の先鞭をつけたのも、資本主義という貨幣の亡霊に極点までつきあった結果なのである。
確かに、柄谷や中沢の予想どおり、資本主義は商品と商品そして貨幣の三角形（トライアングル）で構成されており、それが同時に、貨幣と商品と商品の逆三角形と正接しているのはまちがいない。それを凝視する方法は、中沢の場合は、「流動的知性」は「現世的知性」と「両義性」でつながって、幅広い「自然」と「文化」の接合面をみつめており、一方、柄谷の場合は、レコーダーに録音した自分の声に驚く自分に「視差」の異和感をもったはじまりから、「他者性」の発見と自己、他者を横断するトランスポジショナルな「移動」をみずからの方法に課した。この「移動」は自己と他者、あるいはモノ（商品）とモノ（商品）の間隙にみずからの居場所を設定したことに由来しており、柄谷にとって「他者性」は、テーゼとアンチテーゼそのものの二律背反を包み込むものであった。つまり、「なければならない」と「あってはならない」という貨幣の根拠を見つめるにあたって不可欠のアイテムだった。もし、「なければならない」と「あってはならない」という貨幣の両義性が、その誕生を「自然」と「文化」の接点と考え、「自然がなければ文化がなりたたない」と「文化がなければ自然がなりたたない」とするなら、貨幣は「自然」と「文化」の両義性と重なり、彼らの言う論理学的な二律背反には、ある共通性をもっていることが分かる。つまり、彼らはともに、貨幣の中に「自然」と「文化」の敵対的な関係が圧縮されていると考えていることだ。
中沢はイスラムの貨幣論が利子（利潤）の発生を抑制しようとして、貨幣増殖をベースにした経済構成の出現を押しとどめてきたことを例えている。それはポランニーの経済文明史にも取り上げられているのだが、古代の交易には売買から生じる利潤が見込まれておらず、商人間の取引には担保や抵当によって保証されていなかった。中沢の解説では、イスラムの教えは、この宇宙をつかさどるのは、すべての存在＝実体にあり、全存在は唯一の神アラーの表われだとされ、スピノザの『エチカ』ように、この実体は属性もなく単純そのもので、構造も外延や分割をゆるさないものと考えられている。そして、その単純さは、存在の個々と結びつき、直接的に表出するとされているのである。ここには、「父」と「子」とその媒介であった「精霊」との三角関係はなく、存在と存在者（神）のまったくの同一性とその保存が主張されている。このイメージはわれわれの実感には辿りにくいが、スピノザの哲学の明瞭さを差し引いてなお、資本主義やキリスト教と抗うものと一括りにすれば、決して見えないものではない。
しかし、ここで彼らのように貨幣そのものが倒錯した「王」の起源と考えるのではなく、仮に貨幣の中に「交換」の「身体」としての役割と「交換」の「王」としての役割を割り振るなら、その狭間には階梯のようなものがあり、それを越えると、絶対的な対立は敵対的な対立にすり替わるという認識がどうしても必要におもえる。その場合、わたしは、中沢のように、「二つの身体を持つ王」が、ある閾値を越したときに、対称性から非対称性へ転化されると考えていない。この階梯はモノの拡がりのようにはひとびとの目には写らない。つまり、「恣意性」から「自由」への架橋は、時間概念を導入しなければ理解できないということだ。
なぜ、自然関係の恣意性から貨幣（文化）の自由さへの道筋のほんとうの理解が重要なのか。わたしたちの貨幣という「身体」表現は自由なのだが、それは必ず不自由の壁に当たらざるを得ない。その坂を越えるためには、自然関係の恣意性をそのモデルにすることは可能であるが、その恣意性に復帰するのは、「場所の移動」によってできるほど簡単な作業ではない。なぜなら、自然性（恣意性）と自由（貨幣）の「段差」はあくまでも深く、しかも、それを逆向きに乗り越えなければならないからだ。わたしが柄谷や中沢の恣意性と「自由」のあいだの「両義性」や「二律背反の止揚」に疑問をもつのは、貨幣の「身体性」へ目線が届いていないばかりか、それが空間的な拡がりの中でしかとらえられていないとおもえるからだ。したがって、おそらく、中沢や柄谷のように「野生の思考」や「互酬制社会」をそのまま復活させれば、万事、うまくいくというわけにはゆかないとおもえる。一神教から貨幣が出現して、万物の長として覇権をもったその貨幣が、人間の優しさや動物との一体感を損ねたという解釈に立つ限り、現在の時間の詐取のカラクリに届くことはできない。つまり、「自然」と「文明」の調和という主張にはいかがわしさがつきまとう。
11 外側からの国家
中沢新一が描いた歴史の接合面の対立図式の読み込みは、国家の発生が共同体間の紛争や階級間の争いではなく、自然観の内在的な契機によりもたらされたことを言い含めており、わたしたちにはとてもわかりやすく魅惑的である。これは国家が氏族共同体や部族共同体員相互の対立の仲裁や解消のために生まれたという通説とはルートの異なった展開を秘めているからだ。対称性社会においては権力は存在しなかった。人間が生きるため否応なく動物たちを殺戮するときにも、それら動物たちの尊厳を傷つけないように配慮し、必要以上の捕獲を控えてきた。また、社会の中にも上下関係の権力は存しようもなく、理性ある首長のリーダーシップによって秩序と安定が保たれてきた。そのはずだったのだが、人間が現生人類になるための能力そのものの威力が自然社会を脅かすとともに、人間社会さえ脅かすことになってしまったのである。このとき、「野生の思考」が今一度、国家に抗うように産まれてくる必然性があった。つまり、組織された「野生の思考」と呼ぶべき知恵の役割が、仏教などの出現を促したとされている。
柄谷は『世界史の構造』によって、死滅を予定された国家の輪郭を起源からくっきり浮かび上がらせてくれた。わたしたちに慣れ親しんだ国家観は、共同体の内部からもたらされたものだ。エンゲルスやレーニンは、国家を支配階級が被支配階級を政治的に支配する道具＝暴力機関とみなした。つまり、共同体内部の階級対立を緩和したり、一方の階級を抑圧するためのものとして国家は存在するとされた。だから、この理論だと、当然、支配権力を握ったプロレタリアートは人民を抑圧することが正当化される。だが、柄谷は国家が共同体の内部から発展することはないとしている。なぜなら、氏族、部族的社会には、内部の矛盾を贈与と再分配において解消するシステムがすでに備わっており、絶対的な権力関係やヒエラルキーをつくりださないからである。かといって、外部の共同体の征服によってもたらされたものとも考えていない。征服は一時的なものにすぎないからだ。
一見すると、ドゥルーズのアジア的専制国家に対する韜晦に似ているが、柄谷はホッブス流の社会契約論を下敷きにして、征服共同体と被征服共同体の間の「交換」という無意識的な合意形成を線引きしており、その引いた線分だけは明瞭である。だが、それだけなら、マルクスが言った「幻想の共同性」の意味には届かない。そこで、共同体＝国家の形成において最も重要な役割を果たしたのは宗教であったとしている。共同体においても首長は祭祀の実行者であった。まして、原国家の形成においては、各共同体の神（先祖神、部族神）を超えた神が不可欠であった。
これから後の柄谷は、国家によって農業共同体が形成されたのであって、その逆ではないというような説明が加えられているが、これは農業共同体のユートピアの夢をみやすいロマンチシズムを戒めていることになる。また、国家の形成と同時に、ウィットフォーゲルのように、東洋的専制国家は大規模な灌漑工事を進め、常備軍、官僚制など人の組織を整備していくさまが辿られている。しかし、わたしの狭い知見によっても、このあたりの解説は、少なくとも起源の神話に関しては眉つばとおもえる。なぜか。柄谷は、共同体と共同体の征服、被征服関係が、社会契約によって直接に相殺されるかのような言い方をしているのであるが、この類の共同体相互の交換関係ではとうてい国家をうみだす動機にはならない。彼自身、互酬制が共同体の上下関係を解消するシステムと認めているのに、なぜ、その関係が、急に、征服、被征服に転じたのか足取りが不明であるからだ。何より、そこから部族連合より奥行きもあり広域でもある原国家がすんなり発生してしまうのか疑問が残る。
わたしは、このあたりでホッブス流の社会契約論を借りて原国家の発生を説明するのは無理があるとおもう。というより、ホッブスが単位にした多数の個人と国家との契約という概念について、柄谷が意訳して共同体と共同体間の契約関係にしていったところに落とし穴があった。なぜなら、上位の共同体と下位の共同体ができるためには、媒介になる共同体が不可欠なのだ。つまり、バタイユの「供犠」の発生にならえば、時間の順序からいって、三つ以上の共同体がなければ「幻想性の共同体」は生じない。柄谷は、官僚が主人と奴隷の中間に位置し、奴隷であり「主人」である両義性において、ヘーゲルの言う「主人と奴隷の弁証法」に気を留めているのなら、もっと、この「交換」の二重性を取り出すべきだったのだ。
≪征服が国家をもたらさないとしたら、国家は「内から」来るのでなければならないはずである。が、すでに述べたように、内部からは主権者は出てこない。共同体の内部でいかに氏族間の対立が生じても、それが公的な権力の自立をもたらすことはない。すると、国家は内部で生じるというテーゼと、国家は共同体の内部では生じないというアンチテーゼが成り立つ。しかし、このアンチノミーは、国家の起源として、支配共同体と被支配共同体の間に一種の「交換」を見出すことによって解消される。それは、征服した側が被支配者の服従に対して保護を与え、貢納に対して再分配するという「交換」のかたちをとることである。そのとき、征服という事実そのものが当事者たちによって「否認」されるようになる。≫『世界史の構造』 柄谷行人著
このような共同体間の継ぎ目のなめらかさを「容認」しているかぎり、柄谷の想定している被支配共同体は、よほどお人好しのような気がしないでもないが、かといって、この場合、支配共同体も基本的には「交換」を望むほどお人好しなのだから、さしあたって、どちらがどうということはない。ここでは、そういう共同体の隙間から、国家という更に上位の共同体が相互の「相補性」の中から誕生するという考え方だけを押さえておけば十分だとおもう。柄谷のこのような国家の成り立ちを「共同体の外」からやってくる立場とみなせば、一見、他の共同体との関係を無視しているかにみえる中沢のような「自然」史的な根源とは全く違う印象を受ける。中沢の場合は、他の共同体との関係ではなく、ただ、ひとが自然との面接の振り向きざまによって、「自然の主」である熊に擬されることが自ら「王」と名乗り、そのまま国家の権力支配につながっているようにみえるからだ。
両者の違いはどこにあるのだろうか。だが、片や自然との面接、もう一方では、他の共同体との面接のあり方は、同時に、共同体の外に目が向いていることから、共同体の外から権力や支配がもたらされる点において、同一の基盤に立っているとおもえる。そこで、すぐおもいつくことは、支配共同体と被支配共同体相互の統一の中で、熊信仰が媒介になっているという答えである。これならお互い熊を信仰している共同体同士であるから、共同体が統合され、より広い共同体を可能にするとおもえるからだ。だが、よく考えると、熊信仰を同じくする共同体が連合したり、支配・被支配の関係になる理由などどこにもないことがわかる。
柄谷は宗教が共同体同士の統合に一役買ったかのようなことを述べているのだが、より大きい共同体国家の成立にはもう一つ別の要因を加味する必要がある。つまり、宗教が媒介になるというのは、別の共同体の宗教が媒介になることをおいてほかないのであって、それらが構造化されない限り強固な共同体支配はできそうもない。柄谷は、あたかも、ふたつの共同体がその相補性（交換）においてだけ、外側の共同性と内側の共同性を国家にまで高めるイメージを喚起させようとしており、それは共同体があたかも地層のように重ねられているにすぎないから、とても人間の習俗や神話あるいは心意現象を包摂するとはいえないのである。それらを包摂するとすれば、そこではまったく別の宗教が突然介在すると考えざるをえないのである。
まず、原型をさぐるため、熊を祭るふたつの共同体Ａ、Ｂがあるとする。そこでは、はじめから、統合したり、まして、支配し支配されたりしたりする関係は生じようもない。ところが、それとは別に鮭を祭る共同体Ｃがあるとする。このとき、仮に、Ａ共同体がＢ共同体に対して利害関係（支配関係）をもとうとする場合どのようにするだろうか。国家というのは複数の共同体間の関係の網目からしか生じないとすれば、ＡはきっとＢに対してＣを媒介させるにちがいないとおもえる。Ａの利害を相似形のように示しているＢに及ぼすためには、別のＣの信仰を利用することがもっとも合理的であるからだ。支配・被支配の原型は、すべてＡ、Ｂ、Ｃの共同体間関係及びその信仰形態の三極構造（トライアングル）から成立すると考えなければならないのだ。
人間本来の内奥性に戻るためには言説に依存することはできないと言ったバタイユは、ただ「詩としての言説」のみが、「散文になった言説」がとらえることができない価値をうみだすと考えた。そこでバタイユは死の矛盾をはらみながらも、分節化された言語の定義の限界まで進んでいく。それは「供犠」の実行の中で、はじめ、個人は不安にさいなまれるが、個人は捧げられる犠牲物と同一化し、生贄が事物である世界から切り離される場面に立ち会うことによって、自分の労働や死ぬことへの不安から解放されるようになることだった。不安や恐れは、ひとが個体であり事物である程度によってうまれてくるので、事物たちの世界に取り込まれている限りにおいては、死を恐れるようになる。ひとは死が事物たちの秩序を乱すから恐怖を抱くのである。「供犠」はひとびとに恐怖を抱かせ、このとき、心の奥底の価値がこの個体の破壊＝死によって唯一顔をのぞかせる。事物はこうして脅かされる恐怖をつうじて戦慄する個体のうちで、神聖な聖なる光景を帯びてくるのである。
このような生と死の弁証法は、「供犠」物という媒介をはさんで、共同性の秩序と安定を保証するものであり、ここに死の観念的現実の三極構造（トライアングル）が生まれるのは疑いえなかった。初めに死の不安というべきものがあり、これは自然への畏怖と同じ意味をもち、人間は自然の驚異や奥深さに畏怖して帰依する。権力が生まれるのは、この畏怖が解決不能であることの意識が生じたときだ。さらに言えば、畏怖の飛び越え方において、「供犠」の疑似的な死体験をとおして、死から生に生還するあり方において心の中の死を管理（先取り）し、引き取り格納してしまうことで、共同体や労働の原理をわが物にすると言い換えてもいい。
中沢はシャーマンの秘儀の中にこういう生還の仕方を認めている。シャーマンになるためには何日も飲まず食わずの苦しい修行に耐え、熊の冬眠のように生きているのか死んでいるのか分からない精神状態で、次第に意識が朦朧となり、夢の中で熊自体になりきることができるようになってはじめて現実世界に引き戻される。そうして、彼らは「自然の源泉」に直接触れることができる存在になるのだが、このような高能力は中沢にはもろ刃の剣に見えた。なぜなら、その能力を秘めたシャーマンが社会の内部に入り込んできて、現実の権力を握るようなことになると、あたかもその手に握る自然の内奥の凶暴な力を昼の共同体世界に解き放つことになってしまうからだ。このため、対称性社会ではシャーマンはいつも共同体の周縁部にいて、権力の中心に近づくことを阻まれていた。いわば、シャーマンは共同体や労働にとって、自然からの恵みを受け取る上において不可欠な存在であるが、それが人間と自然の中で「供犠」のように媒介されるとき、共同体やその労働は解体する危機にみまわれると信じられた。これは現実生活上の危機を意味するだけでなく、原始心性としても危険であったからだ。
その自然から降りてくる垂直の危機の度合いに応じて、共同体は水平の危機をも孕んでいた。つまり、人間と自然との神話的関係の危機は、共同体間の組織論に形を変えてあらわれざるをえなかったのだ。人間と自然界が「供犠」やシャーマンを媒介にして結ばれると同じく、共同体と共同体は直接的にではなく媒介をとおして相対することになる。Ａ共同体の信仰の矛盾は、同じ熊信仰をもっているＢ共同体では解消しない。その場合、Ａ共同体は、Ｃ共同体の鮭信仰をとおしてＢ共同体と相対する。このとき、関係はＡ―ＣとＣ―Ｂの系列に二重化する。ＣはＡより下位にあるが、Ｂより上位にあるトライアングルの「段差」は、「みこともち」の思想ちや支配や権力の心臓部を指し示しており、しかも、トライアングルを無限に自己増殖することができる軟体のウィルスにちがいないのである。その過程でそれぞれの信仰は混在しながら、相互浸透し、もとの形をまるで違ったものにしていく。
なぜ、わたしたちは、究極の理想をとおして現在の「段差」を選り分ける眼をもつことができないのだろう。レヴィ＝ストロースが未開の社会構造や婚姻規則に見た二元性と三元性の「段差」にしても、それをひとまわり拡大してやや神秘がかった中沢の自然と文化の「段差」にしても、柄谷の右目と左目の視差と同様、原始時代の人類がアフリカ大陸を出発して世界中に拡散し、居を構え定着したのに、まるで、その移動に要した時間を次第に忘れかけていった過程を時間の変位などと声高にふれ回っているに等しい。そのような時間の感触は、ユーラシア大陸の東端にだれがまっさきに到着したかを競うことによって、「特別剰余価値」を得られたかを探究していることに等しい。ひとびとの移動でちいさな神話同士を結びつけても大きな神話の時間を獲得することはできないし、小さな神話を解きほぐしても、また、別の表面から小さな神話が誕生する、そんなモグラたたきの堂々巡りがいやになったら沈黙するしかない。考えられるのは、わたしたちは、支配と権力秩序のピラミッドにあまりに深くとらわれすぎており、権力闘争と党派のしがらみは、その骨髄にまで達していることを知らなければならないのだ
12 権力の波間で
梅原猛は、古代史の物語の主人公たちをとおして、彼らが翻弄された権力闘争の悲劇を掬い取り、権力の「負い目」がよってくる「怨霊」のありかを探り当てた。彼は政治的に敗北し、流罪になったり、刑死した歌人や貴族の怨念が連綿と続く様を、日本史の決定的な断面としてとりあげ拡大鏡に映しだした。聖徳太子、柿本人麻呂、菅原道真などが生涯を権力の波間に沈んだことによって、いずれも死後、「怨霊」となり神社に祀られていることに権力闘争の決定的な核心を読んだのである。彼は聖徳太子の生前、巧妙なマキャベリストである蘇我馬子が政敵同士を分裂させ、あげく崇峻帝を孤立させ暗殺して独裁的権力をほしいままにしたとしている。しかも、彼は聖徳太子をそのような人間に教育しようとした。梅原は、もし、このような「怨霊」の交錯に支配の継ぎ目や「段差」を考えることができるなら、それを歴史の縦軸に置き直せば、いかなる支配関係も権力闘争もなかったにちがいない有史以前の世界観を、この「不健康」な世界観に対置することができるとおもえたにちがいない。そのとおり、彼は現代文明の危機感をのりこえるために、権力間のむごたらしい争闘を知らない狩猟採集時代にさかのぼってその夢を紡ごうとした。彼はわが国のアイヌや沖縄に色濃く残る縄文時代の世界観を、日本人の精神の根底に共通してもっていながら、現代文明によって見失ってしまった世界観とみなし、これからの人類史を見とおす上での大きな価値をみいだしたのである。
そのことによって、梅原の世界観、自然観の構造は歴史の長い射程を獲得して眼鼻立ちがすっきりと姿を現した。彼は現代文明がもたらした戦争や環境破壊の恐怖はやがて確実に人類全体を滅亡させるほどの勢いを増しているが、その原因については、人類史の中で農耕牧畜文明がはじまって以来、人間を自然の中で特別な存在とみなす世界観や哲学思想が優勢になってきたことに求めている。それはプラトンの理性哲学からキリスト教に受け継がれ、さらにデカルト以来の近代哲学によって、人間が他の生物よりも優越しており、その支配権をもつのが当たり前という考え方を決定的にした。しかし、このような近代思想の行く末には、もはや、絶望感しか残されていないのは明らかになった。今、その袋小路を脱するためには、人格中心の思想から、人間はほかの動植物など行きとし生けるものと同じという思想によって、そのようなものたちと共存する道を考えるよりほかないとする。それはほかの動物や植物に限られるものではなく、山や川、自然現象に対する畏怖にまで及んでいるが、彼はそのような思想を「原初的人類の哲学」への回帰と呼んでいる。
梅原にとって「原初的人類の哲学」とは、直接にはわが国の縄文期の世界観や仏教の世界観を指していた。それらの世界観は、かつて日本人の精神構造の中に脈々と流れてきたのだが、近代国家成立の過程で危機にさらされなければならなかった。明治政府は近代国家の礎を築く上で後進国日本のエネルギーの求心点をつくる必要に迫られた。そのため倒幕のイデオロギーであった国学者や水戸学者が唱えた尊皇攘夷思想を確固たるものにするため、廃仏毀釈をおこない、仏教という外来思想を否定したのである。それを梅原は「神殺し」と呼んでいる。しかし、そうすることによって、この神殺しの対象は仏教のみにとどまらなかった。かつて外来の仏と土着の神々を結びつけたのは修験道たちであったが、廃仏毀釈によってかれら修験道たちも行き場をなくしたのである。こうして明治政府は伝統的な多くの神々の中で、唯一、天皇というアマテラスオオミカミを先祖にもつ現人神のみを信仰の土台に据えたことで、神仏をすべて否定することになったのである。
この場合、梅原が修験道にかさねた外来仏教と土着の神々の交点において頭に描いているのはアニミズムに似たものである。平安時代にでてきた仏教は最澄の影響を受けて、「山川草木悉皆成仏」という考え方を中心においた。それは人間ばかりか、動物、植物を問わず、すべて平等に成仏できるという思想であり、その時点で、渡来した仏教はそれまで遥か以前から信じられてきた土着の古代神道に非常に似かよったものに変質していた。つまり、わが列島の縄文時代以来の土着信仰のアニミズムによって、外来思想である仏教を変質させたのである。また、祖先崇拝や死者供養も、本来、仏教の中にはなかったものであるが、縄文時代の太古からそれが行われてきたことで、あたかも仏教固有のものであるかのように自然に取り入れられたのである。
梅原がいうところの土着の古代神道とは、明治以降、天皇制イデオロギーによって確立された国家神道とは一線を画しており、その特徴はふたつある。ひとつは、畏怖すべき自然現象への崇拝が、山の神、太陽の神、樹木神、蛇の神などの自然の中に霊的な力を認める信仰をうみ、神はいたるところに存在しているとされるものである。それは唯一絶対の神を認めない点において多神教の思想でもある。そして、もうひとつは魂の循環の思想と呼ばれているものだ。ひとの魂は死んであの世へ行き、そして、またこの世に生まれ変わるというように、この世とあの世との間で無限の循環を繰り返すという思想である。人間の魂は肉体を離れあの世へ行って、祖先の霊たちといっしょに普通の家族生活を送るが、やがて、その中の選ばれた霊が、またこの世のひとの魂の中に忍び込んで、この世に生まれ変わるというものである。これらの思想はキリスト教などの超越神、一神教とはまったく異なる背景をもっていたことを示しており、旧石器時代以来の長い狩猟採集時代の人類の共通思想とみられている。
ところが、人類が農耕牧畜文化を発明してから、山や森を開発して都市文明を建設するようになりはじめると、それら森の木や自然の中に潜んだ神々が邪魔になった。それらの神々に代わり自然現象を超えた超越神や人格神が登場し、それらは自然を破壊する手助けをするようになる。そして、近代思想の元祖とよばれるデカルトの時代になると、人間の思惟する自我は絶対性を帯び、思惟は自然を対立物としかとらえられず、自然を単なるモノとしての物質にまで解体させてしまった。こうして人間は自然を完全に包囲し、足元に跪まずかせたのである。
梅原は今日の人類がおかれた危機を三つ上げ、このような近代社会の原理の行く末に警鐘をならしている。ひとつは核戦争の危機、二つ目は環境破壊の危機、三つ目が精神破壊の危機である。とりわけ環境破壊の発端は、人類が狩猟採集社会から離脱したことにはじまっており、産業革命後の工業文明はそれを飛躍的に進めてきた。かつての狩猟採集社会には人間は自然の一員として組み込まれ、同じ目線で自然をみることができた。ところが、農耕牧畜社会になると、もはや人間は自然と対等ではなくなり、特別な能力を身につけているとおもいはじめた。森の木は無機的に伐採されて宮殿や土木工事用に使われ、更地は農牧地になっていく。そのため、その森に住んでいた神々は次第に放逐されるようになる。こうしていまや制圧された自然の残骸は、人間が生存するための環境さえ脅かすようになってきた。
これらが人類の直面している危機とすれば、梅原はどういう思想でそれに対抗しようとするのであろうか。彼はインドで発祥した大乗仏教の来歴とわが国への伝来をわかりやすく説明している。紀元前５世紀に釈迦の始めた仏教は、人間の苦悩の原因は欲望にあるから、この欲望を滅ぼすことで苦悩をとり去り、安楽を得ることができるという教えであった。この仏教のはじめの頃には、出家した仏教僧は肉食妻帯を禁じて、少人数の集団生活で厭世的、隠遁的生活をしていた。しかし、アショカ王がインド全体で仏教を国教にするにおよんで、現世救済の在家の宗教の性格をもちはじめる。つまり、もともと小集団の人間中心であった釈迦の仏教を隠遁的と批判した大乗仏教によって、仏教は超人間的なものに変わり、さらに、伝来仏教がわが国自前の密教に吸収されると、人格中心から完全な自然中心の原理を身につけていく。密教では釈迦は人間ではなく自然そのものであるとされるのである。そして、東アジアに定着した仏教は、さらにわが国の自然崇拝のアニミズムである固有神道の思想と混淆する。それは多神教であり、神々同士の対立のない宗教原理になった。彼は、その原理が長らく継承されているわが国の伝統が、一神教によってつくられた異教を許さない戦闘的な党派性を解体させるきっかけになるかもしれないと考えた。これまでの宗教の歴史はキリスト教中心の見方であったから、多神教から一神教へと向かうのが進歩と考えられてきたが、これからの文明の方向は、一神教から多神教という逆方向に舵を切れば宗教や国家間の対立はなくなるし、核戦争の脅威もなくなるというのが梅原の願望である。
このような観点から、日増しに深刻になってきている公害、汚染、砂漠化、温暖化等総じて環境破壊の問題に直面して、文明の性格を変えるという流れの中で彼が見出した答えは、「森の宗教」という思想によって、無機質な破壊文明に対抗することだった。狩猟採集時代には人類は森に住んでおり、自然の力に畏怖を感じ自然を神と崇拝した。わが国の固有神道も本来はそういう自然崇拝をよりどころにしてきた。そこに人間の基層文化があるとすれば、この原点に立ち返ることが何より求められているというのが結論である。そこで、梅原は文明の対立を切り分け、わが国の文化の中心には「縄魂弥才」の精神が継承されているとしている。つまり、日本文化は圧倒的に縄文文化の元に育った文化とし、弥生人が渡来して稲作を生産の手段としはじめてからも、その影響を受けざるをえなかったという意味である。
≪このように、日本人は縄文人と弥生人の混血であるが、その生産技術において弥生文化の影響が強く、日本人は稲作農業を中心とした社会を営むが、その精神の根底に縄文文化の名残りを深く秘めていると私は思う。例えば日本の固有な宗教と考えられる神道には森がつきものである。なぜ神社に森があるのか。縄文時代には日本全部が森であった。しかし、弥生時代以降、開拓が進んで、平地はほぼみな田となり、山のみが昔の森のまま残された。しかし、神のいる場所には森が必要なのである。神道は縄文時代以来のものであり、それ故に、どうしても神々は森にいなくてはならなかったのである。もちろん森には植物や動物がいる。つまり、神々は植物や動物を養う自然であり、植物や動物そのものであった。こう考えると、縄魂は弥生時代以降も末永く残り、現代でも日本人の精神の基層を形成していると言わなければならない。≫『古代幻視』 梅原猛著
梅原の目線の先から読み取れるのは、人類が農耕牧畜文化の発明から自然を道具化しながら物質的な享楽を追い求め、やがて、自分では制御できないくらいに欲望を膨らませてきたことへの強烈な「負い目」が込められていることだ。彼が仏教に託すのは、布施、忍辱に耐えること、精進の「徳」と呼ばれるものであり、この利己的な欲望を道徳によって正しい場所に戻すことだった。彼が美しい日本人の道徳が廃れていると嘆くのも、ただひたすら安逸をもとめ一時の快楽と享楽の生活を撒き散らしているわたしたちの消費生活への戒めにほかならない。しかし、ここで立ち止まって考えてみると、彼が縄文期、弥生期の文明区分の中に、いつのまにか道徳的訓戒の問題をまぎれこませて、この時代への警鐘を鳴らしていることに気づく。その背景になったのは、冠位十二階と十七条憲法をつくった聖徳太子の仏教国家の夢だったりする。梅原は、十七条憲法に儒教的なもの、老荘思想や仏教の理念の混在を認めているのだが、その心棒になっているのはすべての衆生に仏性があるとする法華経の平等理念ととらえる。そこから「和」を「徳」の中心においた政治の実現の可能性をみることで、聖徳太子の思想にデモクラシーに似た色彩をとりだそうとした。そして、このような考え方をもっと引き伸ばすと、わが国はもともと狩猟社会と農業社会の混交文化を育んできたのであり、その狩猟社会においては財の蓄積がない分だけ、分け前を平等に分配していた長い歴史の蓄積が刻まれていたことになる。
わたしは、狩猟採集社会と農耕牧畜社会の二色の色分けがいけないとはおもわない。また、縄文期の狩猟採集社会がより自然崇拝のアニミズムの影を引いて、ひとびとに精神的により深い痕跡を印象づけるのはまちがいないとおもう。だが、梅原は、なぜ、道徳の問題をとりだして、現在とそれまでの長い歴史を戒めなければならなかったのだろうか。さらに言えば、原初的人類の世界観に教訓を求めることが、つくられた欲望を道徳によって自己抑制することを意味していたら、自由と欲望の関係とはいかなるものだったのかについて疑問が湧いてくる。その疑問のうまれる理由は、おそらく、彼が縄文期から弥生期へ推移していく過程において、農耕という定着産業以外にその転機になる要因が見当たらなかったことによるのだとおもう。その入り口において継ぎ目が見当たらなかったために、仏教的徳の窓をとおす以外に、弥生期から産業社会までの歴史の偏りを揺り戻すための出口をみつけることができなくなったのではないか。それは、彼には、なぜ、農耕牧畜文化がうまれたのかについての答えが欠けていることでもわかる。
梅原のような倫理的な文明区分をそのまま受け入れてしまうと、わたしたちの身の回りに差し迫っている原発推進と脱原発の対立の構図についても、倫理的問題としてしか解決できなくなってしまうのは明らかだ。なぜなら、そこでは、発電効率の高い低いが、そのままわたしたちの欲望の大小に短絡されて議論されてしまうおそれがあるからである。たとえば、原発にかえて自然代替エネルギーを唱えるとすぐさま、欲望の緊縮や生活の切り詰めを覚悟しなければならなくなる。つまり、原発より発電効率の低いあらたなエネルギー源を求めることが、自由の切り詰めにすりかえられて議論されてしまうのである。本来、原発存続の可否の問題は、莫大な犠牲を払っている３．１１の事故をふまえて、より安全性のある電力供給を進めるためのいくつもの方法の枠内にあり、そのことと、わたしたちが自由に電力を使えることとは矛盾しないはずなのだ。そのはずなのだが、利潤率のことしか頭にない電力会社が原発事故の直接の責任も問われることもないまま存続し、あろうことか他人事であるかのように政府といっしょになって、事故による電力不足予測を国民に押しつけようとしている。しかも、片や、被害者であるわたしたちの方はそのような政府と電力会社の行う恫喝の論理と同じ土俵にたって、守るべき「美しい日本の山河」などという時代錯誤のうたい文句に煽られて、脱原発のためには節電、計画停電もやむおえないなどと、まるで自由がなくなってもいいようなことを言い出す始末である。しかし、わたしたちは、まず、自由に安全に電力を使えるためにどうしなければならないかを考えるべきであり、あたかも、安全ということが自由に使用できる電力と矛盾したり、安価な電力ということが自由と矛盾してはいけないのである。原発であろうとなかろうと、わたしたちは、一個の人格の立場において、あくまでも安全で自由で安価な電力供給を求めるべきなのである。
こういう文明史の発展過程にある問題に当面するときには、倫理の問題とは切り離さなければならないのだが、梅原は行きすぎた自然破壊に対抗して、道徳の問題まで持ち出して自縛した思考をもってしまっているようにおもえる。それはある面、わたしたちが、今、安全で自由で安価な電力を求めている文明史の行き詰まり感の前方の鏡に映した逆立ちしたロマンチシズムでしかないことがわかる。たとえば、彼は聖徳太子の描いた政治と自らの仏教道徳のあいだに生じた葛藤を取り出している。それは太子が『維摩経義疏』を描き終えて遊行に出かけたときのことである。そのとき太子は飢えて倒れているひとりの哀れな男を見た。太子の大悲の心がそれに応じて、その男に食を与え、自らの衣服を与えるが、その甲斐もなく、すぐにその男は息を引き取ってしまう。太子はその男を手厚く葬るのだが、このことで太子の心は深く傷つくのである。彼は冠位十二階と十七条憲法を作り、宮臣たちに儒教の教えと仏教の徳をもつことを命じ、自らもそれに応じたより高い徳によって律してきた。それは菩薩のあり方にもつうじており、いわば、太子の仏教観の根本には衆生が病めるかぎり自らも病むべしという菩薩行を旨としたものであった。彼が夢見た天皇を中心にした律令制官僚国家は、この慈悲の徳を中心に政治を菩薩行の立場から行うものであったはずである。
太子は、推古天皇や蘇我馬子といっしょに仏教の興隆によってこの日本を仏の国土にしてきたとおもっていた。ところが現実には、目の前に飢えた男が存在し、その男に慈悲をかけても、次から次と背後には無数の病んだ衆生が存在していることをいやおうなく思い知らねばならなかった。慈悲はどこまでいったらよいのだろうか。大慈悲とは何か。梅原は、この困惑は太子の良心を大きく傷つけ、日本を仏国土にしたという自負を粉々に砕いた事件だったと述べている。つまり、それを太子の二つの人格の葛藤、政治指導者としての人格と宗教者としての人格の葛藤をみたのである。そうして、この心の葛藤とそれにともなう緊張は、たとえ超人的な働きをした太子であっても精神的に長続きするはずがなく、その後、次第に政治の第一線から退き文化と宗教にのめりこみ瞑想者のようになっていき、ついに孤独感から自己崩壊していく契機になったと考えている。太子の死後、子供の山背大兄王は一族もろとも惨殺されてしまう。
しかし、梅原は、このような太子の姿をたどってみても、理想主義者太子の心中の倫理的葛藤だけを覗き見しているにすぎないから、政治に追い詰められて内向していく太子の心の闇を映し出すことができない。ほんとうは、当時の文化後進国であった日本が、対外的には大陸に起こる戦乱の合間に、仏教や儒教、老荘思想などの開明的な思想を混在しながら短期間に集中して受け入れ、しかも、国内では氏姓が互いに覇を競い合う中で、急ごしらえの律令制文化国家の成立めざしたつけが、太子の政治的良心の失意を招いたと考えなければならないのである。でなければ、あいも変わらず、政治と倫理の矛盾や背反を指さすことしかできなくなり、本来、倫理と政治は折り合いがつかないにもかかわらず、仏教的道徳にもとづいた文化国家をつくろうとした太子の夢そのものが矛盾そのものであったという身も蓋もない結論しかでてこない。そして、そういう結論は疑いもなく真実を含んでいるのだが、ただし、梅原の主張が縄文期の文化と仏教的道徳を合わせ鏡にして、政治世界のリアルポリティクスの道徳とのあいだに緊張感をもたせて、内面の倫理的対立があたかも縄文期と弥生期の世界観の違いとして、歴史段階の区別にそのままつらなっていると考えるところに間違いがあった。
そして、また、梅原の歴史段階の区分に従えば、いわば、それら文化相互が斜めに区切られて寝かせられているから、縄文期が弥生期あるいは弥生期以降を包含する形になっている。つまり、どの時代を輪切りにしても、いずれの断面にも縄文文化の要素と弥生文化の要素が等質に含まれている。こういう歴史の解体の仕方だと、縄文文化と弥生文化の隙間を埋めるためには、必ず支配に向けた道徳を介入させずにはおれない。わたしたちの通常の歴史認識の方法では、無意識に横断面と従断面を相互に変換する操作を行っている。つまり、一方では、梅原のように縄文期から弥生期へ進む単線の歴史段階を否定するのだが、もう一方で、その縄文期から弥生期へスムーズにつなぐ環を求めなければならないのである。
わたしは中沢新一が、後期旧石器時代の頃、現生人類（ホモ・サピエンス）の祖先が、ニューロンの組織化によって、特化された機能を自由に行き来する「流動的知性」を活性化させることができるようになったことに人類の転機を見出したのは、そのような歴史の継起を際立たせる方法におもえる。このため、彼は言語を自由に使いこなすことができるようになったことを「野生の思考」と呼び、同時に、「超越的存在」が生じてきた経緯を述べている。この原初的人類の思考では、熊は人間の生まれ変わりであり、熊も人間と暮らしたり結婚したりすることが信じられており、熊と人間の社会を重ね見ることができた。ところが、「超越的思考」が生じてくると、熊は人間を襲い食べ尽くす恐ろしい自然の脅威を示す超越性の極点を象徴する生き物になる。そのとき登場したシャーマンはこの自然と人間のあいだに入り、「野生の思考」と「超越性の思考」を併せもつ人間として人間界のバランスをとっていた。
この併存する二元性を中沢は「対称性社会」と呼んでいるが、その社会は長い間、昼の世界と夜の世界を区分して集団生活の絶妙なバランスを保って、人間の世界に自然界の熊につうじた「超人」が出現するのをくいとめてきた。ところが、新石器時代のどこかの時点で、そのバランスが崩れ、自然界と人間界の絆が切れてしまうような事態が起こった。つまり、自然の内奥からもらった超越性を利用してシャーマンが「王」になる裂け目を露出したのである。この時点で、自然と人間とシャーマンを結ぶ支配の三角形（トライアングル）ができた。つまり、前述したように、人間と自然界が「供犠」やシャーマンを媒介にして結ばれ、自然と王と臣下の三角形の共同体関係が生まれたと考えられる。その場合、Ａという自然（神）は、白昼に現れたＢというシャーマン（王）を介在させて、Ｃという共同体の成員に相対するようになる。
このとき、ＢはＡに面するとき、自然（神）の内奥に潜む威力を自らのものとしながら、今度はその威厳を借りて振りむきざまにＣに対してあたかも自然（神）そのものであるかのように振舞うようになる。つまり、王を媒介にする人間と自然（神）の関係においてＡ―ＢとＢ―Ｃの二つの系列が生じる。ＢはＡより下位にあるが、Ｃより上位にあるトライアングルの「段差」は、支配や権力の発生史を指し示しており、自然と人間社会の関係の構造にほんとうの「段差」が生じたことになる。さらに、このトライアングルは無限に増殖する。ＢとＣとの関係の間にＤ（官僚）を介在させたり、ＤとＣの間にはＥ（警察・軍隊）を介在させることもできる。これらの構造のありかを探すことは、支配の往相と折り返し点を逆にたどる契機になるはずで、それは支配、被支配の構造を裏返しにすることにほかならないのである。
参考文献
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『古代研究�｡ 国文学の発生』 折口信夫著
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『日本人は思想したか』 吉本隆明、梅原猛、中沢新一著
『共同幻想論』吉本隆明著
『日本語のゆくえ』吉本隆明著
『古事記』 武田祐吉訳
『古事記』 梅原猛著
『王権誕生』 寺沢薫著
『世界史の構造』 柄谷行人著
『マルクスその可能性の中心』 柄谷行人著
『熊から王へ』 中沢新一著
『緑の資本論』 中沢新一著
『日本の大転換』 中沢新一著
『古代幻視』 梅原猛著
『神殺しの日本』 梅原猛著
『「森の思想」が人類を救う』 梅原猛著
『対話 日本の原像』 梅原猛 吉本隆明著
『聖徳太子 上・下』 梅原猛著
『怨霊と縄文』 梅原猛著
『文化防衛論』 三島由紀夫著
『日本浪曼派批判序説』 橋川文三著
『柳田国男』 橋川文三著
『ナショナリズム』 橋川文三著
『近代日本政治思想の諸相』 橋川文三著
『近代主義と民族の問題』 竹内好著
『日本とアジア』 竹内好著
『日本の橋』 保田與重郎著
『現代政治の思想と行動』 丸山真男著
『北一輝著作集第一巻』 北一輝著
『北一輝著作集第二巻』 北一輝著
『北一輝』 渡辺京二著
『北一輝論』 松本健一著
『北一輝論』 村上一郎著
『北一輝』 滝村隆一著
『経済学・哲学草稿』マルクス著 城塚登・田中吉六訳
『＜近代の超克＞論』廣松渉著
『縄文の生活誌』岡村道雄著