ソ連邦や東欧圏のいわゆる社会主義ブロックが崩壊して、すでに15年近くがすぎさった今、「なぜ、マルクスなのか」という疑問があることは分かっている。そして、また、学問、知識の大衆化がいっそう進んでいるなかで、なぜ、<学>なのかという疑問も、当然、ありうる。もうとっくの昔から、大学の地盤沈下とともに<学>などは解体しているにきまっている、といわれそうである。しかも、そういうわたしは、マルクス主義者でもなければ、政党に加わっているわけでもない。
だが、よくよくみると、わたしたちの周囲には、マルクス主義的な考え方が、左翼にも市民主義者のなかにも、またどうかすると保守主義者のなかにも、表面では影をひそめているものの、その論理的思考の型は遺伝子として、平等や福祉のスローガンとともに生き延びているのではないか。それを後から追跡し、欺瞞性を徹底的にあきらかにして解体したいという趣旨であった。
そして、そのことをつうじて、「すべては疑いうる」と言ったマルクスの思想(マルクス主義ではない)が、「現在」に何を残したかをあきらかにしたいとおもった。しかも、マルクス主義は政治・社会思想として瀕死の状態であるが、マルクスの思想は「現在」にも十分たええると確信をもてた。政治的国家の廃絶や死滅の思想は、特にそうだ。その点について、今日的な課題があることもはっきりさせてみたかった。
また、マルクス<学>とは、マルクスの批判的批判の対象であると同時に、マルクスの死後、その思想を歪曲し、または短絡し、自称、他称を問わず、その痕跡をひきずっている者たちをさしており、それらとの格闘を経ずしてはそれを確証できないと考えた。
左翼は総じて何ものかに破壊されたのではない。自壊したのだ。もしくは風化したのだ。だから、自然のうつりかわりのように左翼が消滅したという考え方にくみすることはできないとおもう。左翼性の神話で、まだ、残っているものは、すべてを、壊せば壊すほどいい。
わたしは奥深いところで、もしかしたら、いまでも30年以上も前の「全共闘運動」の体験をひきずっているのかもしれない。自分はその運動にわずかしか関わっていないが、その体験をおくればせながら反芻しつつ、それが「思想的表現」として表現されればどうなるか、それが何かを探し出すために、この論文を書いたといってもよい。全共闘はいわば言葉の<解体>表現であった。それが<学>の解体の出発点ともなった。
おそらく、当時の全共闘の学生たちは、言葉をもっていなかったはずだ。マルクス主義はもちろん、反マルクス主義にたいしても同様である。ただし、彼らには内発的な言語があった。形をもたなかったにせよ、確かに身体的言語を発した。もし、全共闘が形のある言葉をもっていたら、どのようなものになったか、というのがわたしの自問の出発点であった。これはもともと不毛な作業かもしれない。すべてを否定することで、答えがみつからないかもしれない。たが、一見、あの全共闘運動も不毛であるかにみえた時期があったのだ。
こうして、結局、わたしはマルクスに帰ってきた。いや、たどり着いたというのが、より正確な言い方である。わたしはマルクスのあの熱情にみちた不毛性が好きだ。何かのためにというよりも、すべてを否定しつくし、気がついてみたら、自分のうしろに大きな道すじがついていたというような生涯のとじ方がとても魅力的にみえるからである。マルクスは猛烈に<学>を否定した。それを知らないマルクスのエピゴーネンたちは、マルクス<学>の呪縛からでられなくなり、そして、ソ連邦、共産圏とともに崩壊していった。これこそ思想の歴史の悲喜劇というものだろう。この架空の劇場の幕をきっておとせたら、それ以上の喜びはない。
レーニンによると、カール・マルクスの思想は、ヘーゲル的要素と古典派経済学とフランス社会主義の寄木細工からできているそうだ。また、おなじように弁証法という方法や唯物論という方法や体系の化合物らしい。さて、ここで是非ともレーニンに理解してもらわなければならないのは、マルクス以前にマルクスは存在しなかったというごくあたりまえの事実である。レーニンが金科玉条のように掲げるマルクス像を一見して気づくことは、思想の肉体より初めに言葉があったということである。聖マルクスはまさにヨハネの予言どおり言葉より誕生した。これがレーニンの無意識の前提になっている。だから、レーニンの思い描くマルクス像は、マルクスのエピゴーネンたるおのれの似絵を型どって映しだした虚像というほかない。しかし、わたし(たち)にとって、マルクスの軌跡はこれとは裏腹に言葉を解体することにおいて開始されたのである。
レーニンの頭に描かれたマルクス像には、まるで円を閉じたかのようにロジックが完結しているため、全くといってよいほどつけいるすきが感じられない。一体、哲学の堅牢なロジックがあらかじめ用意され、その絵解きパズルをなぞって、現実的な社会(経済)関係に踏みこみ、そしてそのあとでロジックを確証し再構成しなおすマルクスに、自分の信念や言葉を自己確認するだけのために生きている「宗教家」以上の何をみいだせばよいのだ。または、こういいかえてもよい。「熱情」や「実践」を説いたあのマルクスが、ここでは前もって答えのでている設問を事務的に蒸しかえし、小声で反芻している貧相な小役人にまでおとしめられている。
とりかかりから、レーニンは「実践」の意味をはきちがえているとしかおもえない。「実践」ときけば、すぐさま政治的実践とか現場の生産労働のことぐらいしかおもいうかべられないものだから、「実践」を知的労働あるいは「知」そのもののあり方として、自己にひきよせて内省できないのだ。マルクスのいう「実践」とは、ほかでもなく、言葉の解体あるいは<学>の解体・批判を意味するにもかかわらず、レーニンによれば、マルクスは<学>そのもの、すなわち、哲学的唯物論によって出発しなければならないのだ。
こういう見方からすれば、マルクスの生涯が<学>の発展であったり、飛躍であったりするのも当然である。マルクスにとって端緒であるはずのものが、レーニンにたいしては帰結としてあらわれてくるため、レーニンがマルクスのエピゴーネンにすぎないことを覆いかくしながら、逆にマルクスがレーニンのエピゴーネンにすりかわっていく言葉の魔術の必然の結果である。
だから、マルクスが一個の<学>にすりかわったときから、マルクスの実像は、レーニンの論理学的な歴史主義のなかで影になってしまう。それからは、レーニンの頭脳からつむぎだされた弁証法的唯物論、経済学、社会主義は三位一体の<学>となって、何はばかることもなく自働展開することになる。たとえば、『ドイツ・イデオロギー』が、マルクスの思想の前期・後期を分かつ重要な指標としての意義を論ずる際にも、ただ、レーニンの論理学的歴史主義を完成するうえで、転機や飛躍を表象する手段でありさえすればよいのである。たとえ、マルクス自身が、こういう抽象的な歴史記述を批判していようと、いっさいおかまいなしに<学>の歴史はつくりだされる。
これにたいして、L・アルチュセールは、マルクスの思想もあらゆる思想がそうであるように、「歴史的形成物」であるとの考え方から、<学>と<学>がはじけあい、発展や飛躍をしながら生成していくような思弁の歴史に疑義をなげかけた。したがって、もしマルクスに転機とよぶべきものがあるとすれば、レーニンのように論理学的な裁断をとおしてではなく、マルクスをとりかこむ「構造」的な思想の地層との相関のうえにたって具体的にみきわめなければならないとした。そこで、アルチュセールには、『ドイツ・イデオロギー』はまったく別様に映る。
まず、マルクスの思想を方法と体系に要素分解すればフォイエルバッハやヘーゲルが飛びだしてくるマルクス解釈に異をとなえて、アルチュセールは方法と体系の不可分な結びつきを明らかにする。従来、マルクスにたいしていわれてきた「ヘーゲル哲学の転倒」という命題は、方法と体系を区分けしたうえで、方法の外部にある体系の観念論部分にのみあてはめて理解された。つまり、適用された対象がヘーゲルにあっては「精神世界」であり、マルクスにおいては「物質世界」にかわっただけで、方法としてはかわらず弁証法であるというように理解されてきた。ところが、アルチュセールによると、ヘーゲルの方法と体系は分かちがたく結びついており、方法の抽象性がそのまま体系の抽象性を規定している。マルクスが「ヘーゲル哲学の転倒」を意図したとき、それは単に体系の転倒をさすにとどまらず、体系を条件づけている方法にまではいりこみ対象にしているのは明白であった。アルチュセールにはヘーゲルの弁証法にたいするマルクスの転倒こそ、ほんとうの意味での「ヘーゲル哲学の転倒」であった。それこそが、ヘーゲル、フォイエルバッハとマルクスをつなぐ思想史上の色分けをするための指標であり、イデオロギーから「科学」の分岐を証明する礎にみえたにちがいない。
マルクスの弁証法を「科学」にまでおしあげたのは、抽象的に形どられた矛盾の概念の単調さからの脱却であった。それはアルチュセールの用語をかりれば、「重層的決定」の矛盾概念の発見にほかならない。ここで、アルチュセールは、ロシア革命のダイナミズムから、単調な普遍性の神話のベールをはぎ、例外的事件の連鎖以外ではない革命の矛盾の多様性を身をもってつかんだレーニンの側面をひきあいにだしている。それによると、矛盾の単調さは、あくまでも現実的事件を頭脳のなかに昇華した抽象物であり、現実は、単調さどころか、多種多様な次元を異にした矛盾の複合体で構成されていることをマルクスがみてとったことを強調している。
それにひきかえ、ヘーゲルには、一見、複雑さを装っている仮面の下にも、実は、平板な論理の展開がみえる。それは弁証法という方法における単調さであり、同時に、方法と不可分な体系の単調さである。マルクスが単純な観念論や経済決定論からまぬがれていたのは、マルクスが「重層的決定」の概念をみずからのものにしていた証明である。上部構造の独自性や諸矛盾のトータルな把握を欠落した世界観の抽象性について、方法と体系の両面から、アルチュセールにヘーゲル弁証法との完全な<切断>のありかを示していたといえる。
その上、アルチュセールがどうしても「マルクスを甦ら」せねばならなかったのは、ほかでもなく、マルクスが方法と体系の両面において忌避したはずの抽象的思考方法が、マルクス自身にたいしても公然と行使されているからである。方法と体系を二分法で分け、体系の変化のみをもって、マルクスのマルクスたる所以を求めようとする態度があとをたたないためである。そうである限り、マルクスの思想の推移を抽象的にあとづけるマルクス解釈<学>は生きのこる。こういう解釈は、ヘーゲルやマルクスの思想を思想の円環のなかに閉じこめることで、真空のなかの実験材料にしてしまい、思想を純粋培養する。いわば、ヘーゲル的世界とマルクスのそれを図式的に対置し、一方を一方の源泉とするか結果と考える目的論的分析にその理由があるのだ。
アルチュセールは、マルクス自身の世界観が導きだしたように、そしてマルクスの思想もあらゆる思想がそうであるのと同様、「歴史的形成物」という見方にくみしていた。マルクスも決して生身の肉体をもたなかったわけではない。彼はまがうことなく時代精神の子であった。彼の背後にはみようとすれば、イデオロギー世界の土台や思想の地層が横たわっている。ヘーゲルからマルクスへの稜線を定めるためには、この堅い背後の地層をほりださなければならない。ヘーゲル的世界の転倒もマルクスにとっては、自己意識の内側の人格化したヘーゲル思想を対象化するにとどまらず、当時の支配的なイデオロギー世界の土台や思想の地層との必然的な葛藤から産まれてきたとみなさなければならないのだ。レーニンなどのマルクス解釈学は、こうしたマルクスが背負ったものを遠ざけてしまうものだから、ヘーゲル的世界の転倒があたかも論理学的な秩序をなぞるかのように、飛躍や発展の構図にすべりこませてしまう。
アルチュセールが、「青年マルクス」にみたものは、いまだ、この生得的な関係から自由になりきれないで、もがき苦しんでいるマルクス途上のマルクスの姿であった。レーニンなどの論理学的な歴史主義には、こうしたマルクスの錯綜した現実がみえないから、結果論的因果関係を無邪気に適用して、「青年マルクス」は真にマルクスか否かのしようこりもない堂々めぐりに終始してしまう。もし、彼らが、歴史の「構造」さえふまえていれば、方法と体系の観念的な二分法にまどわされず、「青年マルクス」がヘーゲル的あるいはフォイエルバッハ的世界がすべてであった思弁哲学のなかから、その転倒にいたる道すじを「科学」にいたるまで跡づけることができたはずであった。そのとき、弁証法は無傷でひきづられたままの転換で割りきれようはずもなかった。
要するに、アルチュセールの結論は、マルクスは当時の支配的なイデオロギー世界の土台や思想の地層を支えるヘーゲル的思弁哲学との格闘をつうじて、方法においても体系の面においてもコペルニクス的転倒をなしとげたということである。「青年マルクス」はこれら生得的な堅牢な地殻から自由になっていない限りで、マルクスになりきっていない。マルクスがマルクスになるのは1845年の<切断>を、つまり『ドイツ・イデオロギー』をまたねばならなかったというのである。いわゆる前期よりも後期により重心をおくアルチュセールのマルクス理解は、イデオロギーよりもむしろ「科学」への成熟に意味をみとめるため、一見すると飛躍と発展を強調するレーニン的な解釈と見まちがえるおそれがある。しかし、成熟の摘出において、アルチュセールはより慎重であった。彼は独自の「構造」的分析において媒介の論理をつくりだした。そのことで、直線的で平板なマルクス解釈から、より重層的な立場をくりだすことによって、マルクス解釈<学>の解体の一歩をふみだしたといえる。レーニン的<学>の思弁的展開をさえぎる「構造」概念によって、思弁がたえず相対化され、先験的(アプリオリ)なマルクス像の設定が不可能になってくるのだ。レーニンにとっては、もともと、接木加工によって方法と体系に分解すれば、ヘーゲル的要素やフォイエルバッハの還元されてしまうマルクスに、みずからの歴史主義の検証以上の価値をみとめていないわけだから、マルクスの肉声などほんとうはどうでもよかったといえる。その意味で、アルチュセールの<切断>としての『ドイツ・イデオロギー』の新たな発見は、マルクスの現実を救出したといえなくはない。
ただし、わたしなどがみると、アルチュセールが<学>の歴史においつめられ窒息寸前のマルクスを「甦らせ」たかどうかを問われたなら、依然、慎ましやかな一歩を踏みだしたとしか答えようがない。というのは、アルチュセールにしても、いまだ歴史主義のなごりを払拭しきれていないからである。彼は、前期マルクス、後期マルクスの神話に執拗にこだわりつづける度合に応じて、<学>にたいする<学>の<切断>を絶対視してしまう。しかも、その<切断>を媒介する「構造」がアプリオリな「概念」でしかないのである。ただ、彼がレーニンなどと相違するのは、<学>を「歴史的形成物」としてイデオロギーや思想の土台との脈絡でみわける関係で、中途半端な発展や継起の構図をうけいれがたかったというだけである。だが、アルチュセールのなかには、幸か不幸か、マルクス主義(マルクスの思想とはちがう)という「一般概念」が根強くあって、イデオロギー世界や思想の土台自体が<学>の範疇をでなかった。だから、イデオロギー世界や思想の地層のなかで、マルクス的なものが狭い範囲の表面上をただよっているにすぎない。またしても仮想のマルクスが右往左往しているのになんら変わりがないのだ。それはだれのせいでもない。アルチュセールがでっちあげた自己概念のためである。レーニンのマルクスができあいの<学>を選択する行為に自己の基盤をみつけだしているとすれば、ここではできあいの<学>に自己の解釈<学>を対置するアルチュセールがいる。ともかく、アルチュセールにとっては、マルクスはヘーゲルともフォイエルバッハとも異なる偉大な<学>そのものでなければならないのである。こういう<切断>面からマルクスの境涯をみる視角が、エピゴーネンたる自己の投影以外のなにものでもないことを認識させるには、マルクスは決して批判の<学>をもたらしたのではなく、逆に<学>の批判を本質的に時代につきつけた事実を強調するに過ぎることはない。アルチュセールやレーニンの歴史主義の錯誤は、遡れば、彼らがともに、自分たちの頭のなかで勝手にでっちあげた幻想の「マルクス主義」にたいする内省を棚上げにして、それを理念としながら理念の袋小路から歴史を辿ろうとする逆立ちを演じることで、マルクスを<学>そのものに仕立てあげる箇所に由来している。マルクスはどんなときにも<学>を言葉にしなかった。いいかえれば、言葉を解体し<学>の批判をつらぬくときにこそ、彼の決定的な意味が現われるのだ。だから、ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義にしても、マルクスにとっては、ただ、「現実性」が不可避に思弁的思考にながれつく<学>の抽象性を批判する対象でしかなかった。この意味でのみ、彼らが存在しなかったならば、マルクスは存在しなかったという理解は正当性をもっている。
マルクスの批判は、『ドイツ・イデオロギー』以前であろうと以後であろうと、「現実性」をないがしろにするあらゆる形而上学に向けられている。とりわけヘーゲルを中心とするドイツ思弁哲学は、経済学的な形而上学や空想的社会主義などがいちおうに帰着する頂点として、マルクスの最大の障壁となって立ちはだかっていた。
あらゆる<学>の解体をめざすマルクスにとって、つまり、批判の<学>ではなく<学>の批判を試索するマルクスにおいて、最初で最後の敵は、ヘーゲルを中心とした《現実的人間を捨象するドイツ的な近代国家の思想像》にほかならない思弁哲学、それである。その<学>は、マルクス以前の長い期間、近代国家の歪みが現実的人間を捨象するのに対応して、後進国ドイツと近代列国の断層を補填するための観念的な支柱になっていた。たしかに、ドイツは近代的国家・社会から遅れをとっていたが、哲学や思想の面では、最もラジカルに近代的国家・社会の矛盾を先取りしてそれを鏡に映す役割をはたしていた。したがって、マルクスが、ドイツ思弁哲学を批判することは、とりもなおさず後進国ドイツ国家の現状を批判することにととまらず、ドイツ国家の未来像である近代国家を批判の対象にすることを意味した。
マルクスの眼前の標的は、まず、いかにもドイツ的な顔つきをしたへーゲリアン、ブルーノ・バウアーである。バウアーは、当時、ユダヤ人問題をめぐる論争の渦にのみこまれていたが、決して自己の立場を見失うようなことはなかった。または、こういってもよい。彼は強固なドイツ的伝統哲学の窓をとおしてしか、ユダヤ人問題を取り扱いえなかった。彼はユダヤ人解放の問題を純粋な宗教的問題に変えた。ユダヤ人の解放はユダヤ教の解放とキリスト教の解放以外ではなく、しかも、それがユダヤ教やキリスト教自体の「現実性」の解放というよりも、ユダヤ教の自身にたいする、またはキリスト教にたいする「否定」が解放の必須条件となる。彼がユダヤ人にもとめるのは、何よりもキリスト教の本質と訣別する信念である。このため、ユダヤ人の解放は、ひとえにユダヤ人自身の哲学的・神学的な成熟度にかけられる。
こういう要求が、マルクスからみれば、「現実的」なユダヤ人やユダヤ教の「存在」の否定にみえた。はたして、ユダヤ人がキリスト教にまつわる疑念や自己にたいする疎隔感を信念にまで高めさえすれば、「現実的」に存在する宗教はあとかたもなく消滅してしまうのか。ここに、マルクスが投げかけた問いの第一があった。もし、バウアーのいうところにしたがって、ユダヤ人の解放の鍵がユダヤ人自身の知的な意識の成熟度にあるとするなら、ユダヤ人問題が存在するか否かすら、ユダヤ人自身の意識のなかで決定されることになるばかりか、ユダヤ人問題はブルーノ・バウアーの主観的意識の奥深く消えてしまうことにもなりかねない。つまり、マルクスはユダヤ人にとっても、バウアーにとっても解放とは抽象的な「当為」にすぎないといっているのだ。問題は、ユダヤ教やキリスト教という観念的な「存在」自体にあるはずなのに、バウアーにとっては「存在」にたいする主観的意識が先に前提としてあって、「存在」が二義的なものにされるか否定されてしまっているのである。
こうして、バウアーの神学的な立脚点からすれば、ユダヤ人はアプリオリに解放されてしまったあとではじめて論議の対象にされる。現実にユダヤ人がユダヤ人問題として「存在」し、解放を希求するユダヤ人が存在する事実が否定され、解放の幻想を後追いするかのように、観念的で抽象的なユダヤ人の存在のみが残される。そして、当然、バウアーの主観的意識のなかで宗教は消えても、現実の宗教は残っている。
マルクスの思想は、《ユダヤ人の秘密を彼らの宗教のなかに探るのではなく、その宗教の秘密を現実のユダヤ人のなかに探る》というように、ユダヤ教を廃棄するため、彼らの現実的な存在様式そのものの社会的基盤を探る方向に転倒する。ユダヤ教は現実世界から昇華したものであるから、現実性としての近代国家でこそ特別な色彩を帯びて完成する。だから、その本質を探ろうとするなら、当然、近代国家そのものに下降し批判をくわえなければならない。マルクスが現実性としての近代国家をみいだすとき、ユダヤ教の秘密とその揚棄は、ほかでもなく政治的国家・市民社会をつらぬく原理としての「ユダヤ的利己主義」までつらなって認識されていた。
こうして、近代国家・市民社会はマルクスによってはじめてとりだされる対象に転化した。マルクスの眼が現実をつくりだしたのではなく、現実がマルクスの眼をつくりだしたからである。ユダヤ人問題の入り口は、まさに、政治的国家と市民社会の狭間に存在しているのである。
ユダヤ教の現実性は、政治的国家・市民社会の完成をもって具体化した。すなわち、ユダヤ教の経験的本質であるところの「利己主義」は、類的生活としての紐帯を、政治的国家という観念的生活に担保し、片や個的で感性的な人間生活の生存様式のなかで、生地のまま発現する市民社会の利己的原理に即応するかぎりで自己実現する。だから、もし、ユダヤ教に「貧困」というべきものがあるとすれば、それは政治的国家と市民社会の離反という近代的な国家構造の「貧困」にその根源をもとめなければならない。また、ユダヤ教の「貧困」の揚棄も、政治的国家と市民社会の揚棄を射程におさめなければリアリティをもたない。こうしてマルクスの宗教批判は、政治的国家・市民社会の批判にのびていく。
マルクスのブルーノ・バウアー批判の眼目は、バウアーの宗教批判が、はじめから神学的抽象の先入見の枠内から、宗教揚棄の<当為>によりかかって、宗教の<存在>そのものゆくえを見失ってしまい、論理的な現実性がすぐさま「批判的批判」としての思弁的<学>の運動に吸収されてしまう点に集約する。要するに、バウアーの方法だと、宗教はすでにバウアーの頭のなかで解放されたあとに再び対象にのぼってしまうのだ。宗教からの解放は、とりもなおさず、宗教をかたちづくる「存在」そのものからの解放であるのに、バウアーは自分の頭のなかで架空に描いた解放のビジョンを無理やり押しつける結果、「存在」をとり逃がし、解放の幻想にふりまわされながら、現実に爪をたてることができなくなってしまうのである。それゆえ、ユダヤ人解放の主観的前提が堂々めぐりして一歩も前進がかなわぬのだ。
バウアーが宗教揚棄を「政治的解放」のみの力にたよるのも、彼のこういう自己円環的な発想法にねざしている。おそらく、政治的解放にのぞみを託すバウアーには、後進国ドイツの彼岸へ越境するのは、宗教をのりこえられないのと同様、思想的に不可能であった。彼の視界に映るのは、政治と宗教が一体化したときだけ国家の存立要件がみたされるドイツの遅れた政治国家にすぎなかった。彼の思考には、たとえ宗教が政治的解放によって国家の足元から離反していこうとも、依然、宗教の基盤は残るドイツの国境の彼岸にひろがるイギリスやフランスの政治的国家・市民社会のありようは理解できなかった。これにたいして、思想の情景に映ろうと映るまいと、あるがままの現実は認めなければならないと自認するマルクスは、あらゆるくびきをふりはらって政治的解放の問題に直面する。
政治が政治そのものとして表現されるための政治的解放は、類的存在と個的存在の離反を政治的国家・市民社会の二重性のかたちで完成する。その際、社会は個的存在が個的存在としてとりだされるための条件として、類的存在としての政治的国家を市民社会の補完物として産みだす。この場合、宗教は政治的解放の恩恵にあずかって揚棄されるのではなく、政治的国家の足元を離れ、市民社会が国家の制約からときはなたれるとともに、ますます市民社会の中で自在にふるまう。政治的解放は政治の解放であるとともに、市民社会が国家のくびきから解放され自由になることでもあるのだ。つまり、宗教は国家の類的幻想の手中をのがれ、市民社会のなかに流出し、自在な個的幻想をふくらませていくのだ。バウアーの場合、現実の宗教を否定し自己の主観的願望のなかに宗教を流し込み、余った宗教意識を論理学的思考にそって、政治的解放の概念にあてはめるだけだから(否定の否定)、その程度におうじて、論理学の前提事項が政治的解放の概念の絶対化にのりうつってしまう。だから、バウアーも、レーニンが弁証法という方法概念にたよったり、アルチュセールが「重層的決定」という概念をとおしてしか現実をみれなかったと同様な誤りにいたっているのだ。大切なのは、概念をこえた「現実的」な政治的国家・市民社会への遡及であり、どういう種類の解放が本質をとらえるかということである。マルクスの言葉を借りるなら、宗教の「存在」の批判や政治的解放の批判こそが、ユダヤ人問題の最終的批判になるのである。
こういう宗教に関する認識を語ったマルクスが、のちのソ連邦・東欧圏のように宗教や政治的自由を、それが幻想であるだけの理由で、抑圧・制限することは考えられないのだ。そういう弾圧こそが、現実の宗教や政治的解放の形而上学的転倒からでた迷妄であることは自明であらねばならなかった。にもかかわらず、人類はこのことが分かるのに膨大な時間を浪費したのだ。
マルクス最初につきあたった障壁は、ユダヤ人問題の波に洗われながら、決して自己を見失うことのなかったバウアーを支える強固なそれであった。その壁は、頂にのぼりつめるとヘーゲルという巨大な近代国家<学>の化石が横たわっている。群小へーゲリアンの背後にはヘーゲルがいる。つらぬくべきは化石そのものである。では、何をもって?化石には生きた人間を武器として、そして、生きた「現実」を武器として。
マルクスがヘーゲル哲学から完全に脱皮したのは、『ドイツ・イデオロギー』以後であるというまことしやかに流布されている伝説は、マルクスがヘーゲルを目してすでに、『経済学・哲学草稿』の段階で、「批判の一般性」から、「一般性の批判」への観点をうちだしている意義を十分くみとっていないし、それが<学>の批判の自己認識とむすびつけて提出された経緯も完全に見落としている。ヘーゲル的世界の残滓をのこしているフォイエルバッハ的発想にさえ、マルクスの批判が範囲を拡げて自己認識されているのはほとんど自明である。なぜなら、<学>の自己認識を欠落させたまま、ヘーゲル哲学、弁証法一般の批判はおよそ考えられないからである。
『経済学・哲学草稿』における疎外概念は、もはや概念としての疎外ではない。マルクスがケネー、アダム・スミス、リカード、セーらの古典派経済学をさして疎外された経済学とよぶとき、問題なのは、経済学と哲学との区別や観念論か唯物論かのふりわけではない。古典派経済学の中心をしめるカテゴリーにヘーゲル的思弁<学>に照応するような母斑を指摘するところにあった。マルクスは古典派経済学のアポリアを次のように指摘する。
ここでマルクスは、疎外された労働を俎上にのせ、古典派経済学をとらえている<現象>と<本質>の二分法を問題にしているのである。労働の全生産物が労働者に帰属するという立場は、労働を人間の活動的な財産とする古典派経済学によれば、市民社会の理念におかれるべき<本質>である。それでいて、一方、<現象>においては、実際、労働者の手元におきうる生産物は全生産物の極少部分にすぎないとする。とすれば、古典派経済学の認識では、<現象>を<本質>にたいする偶然の例外とみなすことになる。そこで、この二面的な観察をそのまま延長すると、<本質>からいうと、本来ならそうであってはならないはずの<現象>がたまたま眼前に展開されていることになり、その結果、<現象>そのもの自体を原因からはじまって分析することを放棄してしまうことにつながる。
したがって、古典派経済学は、バウアーがすでに頭のなかで解放されたユダヤ人を<当為>の側にすりよせ、現実のユダヤ人の<存在>を論理の彼方においやってしまったのと全く同様の手際で、<本質>の側から労働をみることによって、<現象>としての歪んだ労働の実態を、あたかも論理以前の自然物であるかのように自明視してしまう。マルクスは、古典派経済学のこういう先験的な問題の立て方を、単に現実の賃労働や資本を経済<学>の手段におとしめる手法という。また、経済<学>自体が疎外され、現実の賃労働や資本の奴隷になっているという。いうなれば、古典派経済学の辿る人間は、操り人形やバネじかけの人形ではありえても、決して生きた人間ではない。資本や賃労働も、ただ<学>に奉仕するだけのものとして、<本質>としての理念や架空のイメージの舞台で、役柄をあたえられ必死に演戯している登場人物の一員でしかない。だが、マルクスの抽出した賃労働や資本は、舞台をおり化粧をおとした生身の主役でなければならない。そこに現われたほんとうの疎外された労働の姿は次のようなものであった。
そして、この労働の対象化が外化としてしかあらわれない疎外された労働の生産物(対象)との疎遠な関係に規定されて、労働主体にとって労働そのものが外的になる。マルクスはそれを類的存在様式の欠損、疎外であり、人間からの人間の疎外になると言っている。マルクスは、人間の本質的な自然規定である類的能力、すなわち、みずからを意識的に歴史化する能力を基軸にして、この能力が現実社会では、人間の自然にたいしてや自己にたいして隷属的な関係であらわれるほかない構造をみすえている。その上、疎外された労働主体は、外化された労働をつうじて労働の外部にたつ人間のこの労働にたいする関係を必然的に産みだす。労働にたいする労働者の関係は、とりもなおさず、労働者や労働にたいする非労働者の所有関係でもある。こうして、非労働者の所有関係が資本家の私有財産の内実をつくる。そこで、マルクスは疎外された労働は、私有財産が原因とみなし、疎外された労働から私有財産まで一直線で跡づけようとする。
しかしながら、思弁的な<学>に首までつかっていることを自覚しない古典派経済学は、疎外された労働を自然物以上に取り扱おうとしないものだから、私有財産の許された範囲内でしか労働の問題を取り上げようとしない。その結果、<現象>と<本質>に二分法にもとづいて巧妙な同義反復のレトリックを操る。
本来なら、賃労働や資本を説明する場合には、私有財産が現実に生起する物質的過程と対照しない限り、何も説明したことにならない。にもかかわらず、古典派経済学は私有財産への問いを含むどころか、逆にあらかじめ前提にしてしまうので、現実は表面の抽象的な公理をなぞるのに終始する。彼らは、架空の原始状態に身をよせ、あたかも全能の神の手であるかのように現実をもてあそぶ。だからこそ、独占の学説にたいしては競争の学説を、同業組合の学説には営業自由の学説を何の裏づけもなく恣意的に対置することができるのだ。マルクスにとっては私有財産の運動の論理的根拠とおもわれた当の現実が、いったん古典派経済学の掌中にとり込められるや、<学>と<学>の相克や思弁の自己展開にすりかわってしまう。マルクスは疎外された労働を<神>そのものの関係の内奥にたちいって論証することを求める。古典派経済学にとって私有財産は<神>にまで高められているとマルクスは主張しているのだ。
疎外された労働を透視することは私有財産という岩盤を穿つことであり、私有財産を透視することは疎外された労働の実態にたどりつくことである。この事実から眼をそらし、古典派経済学は、疎外された労働からはじめるが、決して私有財産に思いおよばないから、<現象>と<本質>の自己矛盾をまぬがれず、不安定なモザイク遊びをやめる気配をみせようとしない。そこで、この自己矛盾を衝いたプルードンは、<現象>としての疎外された労働をして、私有財産の否定を導きだす新たな試みの材料に変える。だが、<現象>や<本質>は、それ自体、疎外された労働の結果でしかなく、その上、私有財産の運動に延びていく軌跡とつなぎあわせてはじめて理解されるものなのだ。プルードンは全く、古典派経済学と同様の手順を踏んで<現象>と<本質>の二分法の罠にはまっているので、疎外された労働の対症療法の枠内で、労賃の引き上げがそのままで、私有財産の否定であるかのような錯覚を抱くにいたってしまう。そればかりか、私有財産のおよぶ圏外で私有財産が否定できるかの幻想をふりまく。全く鳴かない鳥(古典派経済学)を鳴かせて夢をふりまく男とはプルードンのことをさすのだ。これは、プルードンの頭のなかで勝手にでっちあげた先験的な労働や私有財産とその否定の帰結である。
またしても、プルードンは形而上学にたいして形而上学を対置してしまった。この点において古典派経済学の自由の哲学とプルードンの貧困の哲学は表裏一体である。マルクスは<学>一般の揚棄をこめて、貧困の哲学をとなえるプルードンに哲学の貧困の名称を与えた。マルクスによると、プルードンとヘーゲルの違いは、一方が、「純粋理性」の弁証法的契機を信じるのにたいし、他方が目的論的発想法に立脚しているとした。すなわち、プルードンは、「平等」という名の神慮にも似た「目的」に向けての経済的諸関係の変転が歴史を決定づけるという点で、ヘーゲルの矛盾、対立の弁証法と袂を分かつ。しかも、「平等」という「目的」をもたらす推進力が、ヘーゲルの「純粋理性」ではなく、「人類の理性」となっている。しかし、この差異もよく見れば、プルードンが現実的経済諸関係を「理性」からみた「経済学的カテゴリー」に分解、還元してしまうため、現実的関係を論理学的思考の展開にゆだねる<学>の志向性で軌を一にするといえる。そうだとすれば、プルードンの経済的諸関係の哲学は、直接にヘーゲル的意味で理性の哲学となり、<学>が目的に向けて道徳的に求心してゆく順序をなぞれば、<哲学>の<哲学>になる。いいかえれば、プルードンにおいては、歴史が「人類の理性」の目的論的意志の総体とみなされるのだから、彼の哲学の対象は、ただ「平等」の目的をそなえ、さらに現実的な経済諸関係そのものと同義におかれて流れていく<学>のドラマにほかならない。プルードンは<学>をそれ自体で独自に取りだし、また、「平等」の観点から<学>の運動を目的論的理性にしたがって論理学的に組み立てることが経済的諸関係の哲学であるかに錯覚している。まさに、ヘーゲルが法律や宗教のためになしたところを経済諸関係の哲学に適用しているのである。彼の哲学の総合は概念的で抽象的な思弁の自己運動であり、カテゴリーの組み換え以外の何ものでもない。マルクスはプルードンのこのような方法を「絶対的方法」と呼んでいる。
いったん、抽象的な思弁の運動の系列化を開始すると、あらゆる現実的なものは消えうせてしまう。あくまでも現実の抽象は現実の表現であるものが、ここでは逆立ちして抽象的なものが現実を実現する。マルクスがプルードンに要求するのは、価値、競争、分業というカテゴリーではなく、これら現実的関係そのものの実像をみきわめることである。たとえば、分業を取り上げるなら、プルードンの方法では次のようになる。分業の<学>としての意味は、古典派経済学が言及するように不可避性にねざした長所と、社会主義が批判する労働の分断をともなう短所をあわせもっているという。そして、プルードンによれば、分業の短所の側面は、やがて機械という関係のカテゴリーを反措定として産みだす。もちろん、機械は分業がもたらす労働の分断にたいする否定的要素のみをもたらすのではなく、労働に権力の原理を導入するとともに、分業が階級的格差や貧困をもたらすのを助長する作用もあわせもつ。だが、それでも、分業の利点をひきつづき残すためには、機械の発達は、分業によってもたらされた分散化した労働を綜合するために不可欠な要因である。なぜなら、分業にたいする機械の役割は、よりよい究極の「平等」理念に照らして重要な意味をもっているからだ。はたして、機械は分業労働にまつわる「不平等」の再編成であるというのである。
このようにしてプルードンの「歴史記述的方法」は、分業から機械をへて「平等」にいたる道すじを明らかにする。マルクスにはこの道すじが、プルードンのように「平等」を主観的にしたためている人間にとってのみ必要な性急な歴史におもえた。実際の歴史は、プルードンとは全く逆に展開されなければならない。機械は分業の結果であるどころか、反対に分業が機械の発達の結果である。その上、分業と機械はお互いを規定しあう関係であるから、措定、反措定の関係ともちがう。機械を「平等」の再編成とみなすにいたっては、古典派経済学以下の幼稚な幻想にすぎない。プルードンの分業と機械の歴史は、いわばプルードンの論理学的思考のなかで流通するにすぎない。彼は、古典派経済学と社会主義のカテゴリーの間隙をぬって綱渡りをしているにすぎないのに、あたかも両者を批判し現実的経済諸関係を綜合しているかのようなそぶりをみせる。
そもそもプルードンの論理学的方法が、理性の目的論的発想を土台にしたときから、「平等」が概念的な「理想」にとりちがえられる、そこに問題があった。そして、この場合、「理性」と「現実性」の矛盾は、「理想」と「平等」の矛盾に転化するとおもえる。たしかにマルクスにおいても、あらゆる疎外が揚棄される共産主義の「平等」を、私有財産の否定において想定していた。しかし、この「平等」は、歴史の弁証法や目的論の力添えをえて先験的に仕立てあげられた「理想」ではない。
共産主義は将来の必然的な原理でありながらも、到達すべき「理想」などではなく、人類の前史が終わりをつげるための現実的契機であるにすぎない。これが「理想」についてマルクスにいわせたことのすべてである。歴史とはとりもなおさず、「歴史化」する運動のいいかえである。プルードンのように「理想」に求心していく発展に歴史の実質があるとすれば、現実は「目的」にたいする「手段」以上の価値をもちようがない。だからこそ、目的論的発想がプルードンを歴史の外へ飛び出させ、道徳的な色眼鏡をつけさせるのだ。彼の哲学は、いくら科学的綜合の装いをこらそうと現実社会の吐息や願望をこえることはないであろう。マルクスがプルードンをさして、「プチブル」といったのは、出自や環境のせいではなく、絶えず現実社会から追い越されながらも、貧相な道徳的信念を後生大事に抱きつつ、抽象的な<学>の殻に閉じこもっている姿勢からである。
要するに、プルードンは、ヘーゲルから流れる形而上学の方法を正直に必死になって経済哲学の世界に組みかえて生きただけなのである。前からいこうと、後ろからいこうと、結局、マルクス<学>の批判は、ヘーゲルその人の批判に行きつかねばならない。
へーゲルはエンチクロペディの序論で次のように述べている。
ヘーゲルは、いわゆる経験的な認識にたいして必然性の法則を帯びてあらわれる理念の<学>としての哲学的認識を対置したうえで、その哲学を体系的に整序し、自然哲学、論理学、精神哲学に区別する。そして、あくまで「自分自身へ帰る思惟」という哲学的特性から精神哲学に最も比重をおいている。つまり、哲学は、対象を単に概念にまで高める操作にとどまらず、思惟の活動の条件を満たす限りで、思惟自身に立ちかえり対象とする哲学としての哲学においてのみ、何ものにもさえぎられることなく自己実現することができるとみなされる。したがって、ヘーゲル哲学の体系が、論理学の姿をとって思惟の疎外態にはじまり、絶対知という名の思惟自身にたち帰る以上、これらの内容は、それ自体、思惟としての思惟の内容に転化するのは自明である。ヘーゲルのいう「概念の概念」とは、思惟としての思惟の自己対象化、あるいは自己産出史にすぎない。だからこそ、ヘーゲル自身「絶対知」そのものの化身なのだ。こうして思惟としての思惟の疎外態は、ヘーゲルの体系のなかにおいてだけ存在し、機能する部分的な抽象物になるか、または逆に、ヘーゲルの体系は思惟としての思惟や思惟の疎外態の概念をまってはじめて意味をもつかのようなロジックを身にまとうのである。
こうしたヘーゲル哲学の、一見すると魅惑的な要求も、仮象をとり除き生地を曝してみれば、現実的な敵対物(対象物)から身を守ることを唯一の目的にして、みずからの絶対性を、臆病な感性にくるんで強気におしだしている姿が見透かされるようである。確かに、彼が求める哲学は、人間が決してそのままで人間であるのではなく、自己を歴史的に作り出して、次第に人間になっていく「生成」にこそ、人間の活動的な本性が存在する事実に関して重要な洞察を含んでいた。ただし、これは、人間の活動が自己完結しているばかりか、理性的なものが現実的なものであるというような倒錯した理解や、自己還帰する哲学的思惟を土台にすえ、前置きなしにその絶対性を認めればのはなしである。マルクスは「概念の概念」のいたりつく抽象的なヘーゲルの体系を前にして、哲学的精神の封印された<学>のぶ厚い障壁を実感せずにはいられない。マルクスにとっては、ヘーゲル体系がしめす概念の自己把握がもたらす哲学的精神の袋小路をぬけだすことなくして、あらゆる思想・概念が「現実性」への通路を押しひらくのはとうてい不可能であった。
ヘーゲルの場合、現実的関係の疎外(たとえば、富、国家、宗教等)を真に人間的なあり方から疎外された存在態様であるとみるが、それ自体、ただ、純粋に哲学的精神をつうじて、それ自体疎外された思弁の内側でのみ存在し、理解し、展開されたものである。なぜなら、ヘーゲルによれば、このような疎外態の止揚の可能性が、すべて自己意識をもつ疎外された主体の意志にかかっているからである。ヘーゲルは、人間の自然規定を全く省みることなく、抽象的労働をつうじて映した人間の発生史を、意識と自己意識の対立からはじめる。その場合、対象とは外化された自己意識そのものであり、措定された自己意識そのものであって、それが、「即自」と「対自」との対立、あるいは主観と客観の対立に全幅の運動形態をあたえる。そこで、対象は、ただ措定それるものとしての虚無性を示すことにおいて、外化の否定性を証明することになる。同時に、自己意識の外在態は、外化の否定性を意識にたいして保有する意味に関して肯定的な側面をもあわせもつ。いうなれば、外在態そのものを自身が知ることにおいてである。ここに、ヘーゲルは、一切の存在の唯一の自己確証行為のモメントとして、疎外の自己獲得の契機を自己意識の閉鎖的な環のなかからとりだすことができた。知識は知識そのものが対象に措定され外化されているのを知る点において、無意識的な知識の限界と一面性をのりこえ、外在態の止揚をなしえるのだ。その結果、ヘーゲルの疎外の止揚は、疎外そのものの止揚には何ら手を触れることなしに、外化されたそのままで止揚をなしとげる。対象世界が現実的にはどうあるかを問うことなしに、ただ、単に止揚の思想の内在的な契機の力によって、他在そのもののなかでおのれのものにあると称するのである。まさに、問題なのは疎外そのものの止揚ではなく、思弁のなかでの止揚の思想なのだ。こうして、ヘーゲル哲学の展開は、止揚された私権は道徳に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された家族は市民社会に等しく、止揚された市民社会は国家に等しいというように、個々の疎外態の「現実性」をのみつくし運動自身の諸契機にまでおとしめつつ、「絶対知」にたどりつくまで運動をやめようとしない。それゆえ、ヘーゲルの思考の弁証法にとっては、宗教、国家、自然、芸術、市民社会、の真のあり方は、宗教哲学、自然哲学、国家哲学、芸術哲学、社会哲学なのだ。
マルクスが批判しているのは、ヘーゲルの弁証法が止揚する現存在は、思考された存在の止揚の限りで、何ら現実規定性をもたないということ、そして、同じく現存在を包括する概念が概念としてだけとらえられた「概念の概念」、すなわち哲学的な<学>にすぎないということである。この頭がささくれだってきそうな誤解は、もともと歴史のうちでは概念やカテゴリーが支配し、それが人間の現実的な生活様式とおなじものであるという考え方に根をもっているのだ。なぜなら、ヘーゲルの弁証法においては、絶対精神が前提としてはじめからあった。それが自己展開して矛盾を止揚しながら自己完成するのである。いかにこの種の歴史認識が強固であるか、また、思弁哲学の罠がいかにこみいったものであるかは、ヘーゲルのみならず、ヘーゲルの批判者たちでさえも、この閉鎖世界にからめとられたのをみても明らかである。ヘーゲルを批判する一方で、フォイエルバッハ、バウアー、シュティルナーらヘーゲルを批判する立場であるはずの青年へーゲリアンを念頭において、マルクスは思弁弁証法のとめどもない膨張の秘密を次のように指摘している。
青年へーゲリアンたちは、ドイツ哲学の祖ともいうべきヘーゲルの圏内で思弁的に哲学をもてあそんできた。マルクスが指弾するのはこういう哲学一般である。支配階級は現実的な社会関係において支配するとともに、精神生活関係においても支配する以上、支配的な思想はいついかなる場合であろうと支配階級の思想である。だから、支配という視点からみれば、支配的な思想と支配階級は同義にうけとれるはずである。ところが、ここで支配的な思想と支配階級を全く引き離す故意の誤解が生ずればどういうことになるだろう。マルクスが敵とみなしたへーゲリアンたちは、いちおうに支配的な思想を支配的な階級関係と無関係にとらえ、歴史のうちではいつも匿名の思想というものが支配し歴史を動かす動因であるという架空の図式をでっちあげた。そのため、歴史における実質的な歩みはすべて思想というものに還元されてしまう。したがって、ここでは実際の具体的な歴史がどのような起伏をともない、どのような道程をたどるかにおかまいなしに、単に、概念やカテゴリーとして表象したそれのみが、歴史の自己規定として、唯一、真に歴史と呼ばれる。歴史は歴史そのものである前に、歴史についての概念やカテゴリーでありさえすればよいのだ。だから、青年へーゲリアンたちは、経験的な実践を介して概念やカテゴリー、表象を叙述するのではなく、逆に、概念やカテゴリー、表象を介して経験的な実践を叙述する。
それだから、彼らがたとえヘーゲルを批判するかのそぶりをみせようと、実際は、ヘーゲルの哲学的精神の自己円環から一歩も踏みだせずにいるのだ。彼らの描きだす歴史は、歴史というよりもむしろ、ヘーゲルの歴史観の帰結が理念の自己展開であったのにたいして、概念やカテゴリーに人格化した哲学者、批判家の狭くるしい視界に反映した自己意識の似せ絵であるにすぎない。なるほど哲学者や批判家の概念やカテゴリーをなぞり乗りうつってしまえばその任務をはたすことになるこういう彼らの方法だと、自己意識の歪みが多様な像をむすぶのに応じて、対象的世界は種々多彩な解釈を許すに相違ない。だが、いつまでたっても世界を等距離からトータルに眺望するのは不可能である。
マルクスのこの言葉は、政治的実践を勧めたものではない。マルクスがフォイエルバッハ、バウアー、シュティルナーらへの批判を、ヘーゲルにたいするのと同じ音階で、思弁哲学のドイツ的伝統に向けられたときに発せられたものである。彼ら哲学者たちはヘーゲルを批判する場合にも、ヘーゲルの本質的な思弁性に手をつけず、そればかりかその手法を借用して、ただ世界の解釈を変えて、形だけの目新しさをヘーゲルに置きかえるだけである。ヘーゲルの体系を「妄想」と言葉で片づけさえすれば、つまり、その「妄想」を呪文の生贄に供して、主体的意識の特権をより高めれば高めるほど、いつでもどこへでも行ける通行手形を手に入れることができるのだ。フォイエルバッハもそのひとりであった。
フォイエルバッハは、ヘーゲルの「否定の否定」が思弁の自己還帰にもかかわらず、その思弁性そのものを迂回して一足飛びに絶対の「肯定」を対置した。彼はヘーゲルの「否定の否定」に不安定な哲学の自己矛盾を嗅ぎとり、自己の感性的基盤にしたがって確かな土台の上に絶対的な「肯定」をうちたてたが、思弁的な哲学的弁証法を手放すにいたらなかった。初期マルクスがフォイエルバッハの影響下にとどまっていたという風評は、とんだ誤解であって、マルクスは確実にフォイエルバッハの思弁性の出所についても、みるべきところは見ていたのである。
マルクスが批判の俎上にのぼらせる青年へーゲリアンのなかで、もっとも微妙な立場を表現していたのはフォイエルバッハであった。彼は神学(超越者)の否定に関して、ドイツ思弁哲学が進みうる最遠距離まで歩をすすめていたが、やはり自己意識の哲学を捨てきれなかった。その「否定」は観念的でしかもスタティックな像に終わってしまった。神学(超越者)を否定するうえで必要不可欠な基盤の抽出にあたって、自然的人間が自然との相互規定性のなかから歴史をつくるという意味がぬけおち、歴史のなかにはとうてい登場しようもない「人間」という常識的ないいまわしのなかに封じ込められた「原人間」の行為があらわれてくるにすぎないのである。マルクスは「人間」の概念を無媒介に提出しなかった。自然とのかかわりのなかから、人間の自然化と自然の人間化として、相互媒介のなかから歴史化するものとしての人間をとりだしたのである。「原人間」などという架空の存在は、概念やカテゴリーのなかに考えられても現実世界には存在しないのだ。フォイエルバッハにしろ、ドイツ思弁哲学の伝統下に育った哲学的<学>としてヘーゲルの絶対性の体系に収斂していく点では、バウアーやシュティルナーと大同小異であったといえる。
マルクスはヘーゲルや青年へーゲリアンたちにたいして、何度も、人間が現実に実存している存在のあり方と、それについて人間が自身にくだしている判断とは異なることを説いた。つまり、社会的生存様式、関係とそれについての観念、意識、表象との相違である。
人間は、支配者からいかに抑圧をうけ、極度の貧困に耐え、疎外された生活を強いられたとしても、必ずしも、その社会に反抗する意識をもつとは限らない。そればかりか、かえって支配者の意識を真似ることだってできる。これはよくよく考えてみなければならない恐ろしい事実である。マルクスはこの恐ろしさを持続的にみつめ残すことによって、ドイツ思弁哲学の支配の恐ろしさを批判した。
時代の支配的な観念や意識は、いついかなる場合であろうと支配階級の所有物である。
だから、人間は社会的に支配され抑圧されながらも、支配者の所有物を受けいれなければならない。いうなれば、彼は一方で階級として、そして、他方では観念的に疎外され、他者のおしつけた身ぶりをあたかもみずからの代弁者であるかのように受けいれなければならないのだ。もし、人間が人間である限り、観念や意識にわが身のすべてを託さねばならず、それも支配者のそれに託さねばならないとしたら、一体、それでなくとも社会的な階級として抑圧されている人間は、どこに救いをみいだしたらよいのか。
その上、支配的な観念や意識がその出自を忘れられ、それ独自に時代を支配する幻想をもたれるとき、現実的な人間の生存様式が、さらに観念や意識の影に押しつぶされるのはいうまでもない。観念、意識、表象そのものが、あたかも自立的に生起し時代を包むものであるかのように認識する錯覚こそ、生身の人間とその生存諸関係を封殺する原因にちがいない。マルクスは、ここにおいて、観念、意識、表象が人間の社会的生存様式そのものと同義であり、また、歴史を支配する動因であるととらえる見方一般に、決定的な異議をとなえているのだ。もし、反対に、観念、意識、表象が人間の社会的存在様式そのものに背馳し、歴史を支配する要因としても選ばれないとしたら、そして、それによって自己意識の限界線を明確に引きえるとしたら、わたしたちはヘーゲルら思弁哲学の「概念の概念」の<学>は、その行き場をなくしてしまうのを知るにちがいない。そこで、わたしたちは概念やカテゴリーにおいて人間をとらえるのではなく、逆に、それらをつくりだし、絶えずそれらの領域を逸脱するような人間の実存様式の実相に眼をそそぐことになる。そういう意味で「ヘーゲルの弁証法は頭で立っている」のである。これをひっくりかえそうとしたマルクスの定式を再び繰りかえせば、「解釈するのではなく、問題は世界を変革することにある」。
マルクスにとっては、「概念の概念」の<学>を批判することが、現実を変革する思想の展開のための前提条件であった。では、通称マルクス主義者とよばれるひとたちは、マルクスがおこなったと同じ手順をふんで、マルクス<学>の陥穽をまぬがれていたか。そのなかで、戦後、マルクス解釈<学>の解体を、経済学の側面から行おうとしたひとりに宇野弘蔵がいる。彼はマルクスの『資本論』を解釈するうえで、「科学」的態度の峻厳さを要求した。
経済学は宇野弘蔵にとって、最も科学らしい「科学」でなければならなかった。ほかでもなく、宇野がマルクスの『資本論』の方法にみたのは、科学が決して科学以外のものに邪魔されず、それ自身の論理を整合していく峻厳な過程であったからである。「理論と実践の弁証法的統一」などという神話が、マルクス<学>の曲解によって捏造され、イデオロギーによりかかった『資本論』解釈がいかに大手をふってまかりとおっていようと、それが論理の原理的整合にたえられない限り、経済学としてなにほどの意味もみいだされないとしたのである。
経済学は、それ自身の内在的展開にみあう題材と構成を不可避に背負っている。宇野はその重い負荷をイデオロギー支配の拒絶と、経済学の方法論として原理論、段階論、現状分析の明確な三段階区分でいいあらわした。イデオロギーの峻別は、いうまでもなく、マルクスの方法の当然すぎる帰結であって、ブルジョアイデオロギーの歴史的に特殊な限定性と、さらにイデオロギーそのものが、経済社会構造に依拠する本源的相対性の認識をうちに秘めていた。一方、三段階区分論は、マルクスによって自覚されなかったものの、マルクスが『資本論』の対象を具体的な現実素材に求めながらも、あくまでその素材を純粋資本主義モデルにまで抽象し、論理的展開を一貫して持続した方法がひきつがれたとみるべきである。この科学にまつわる二側面が、宇野にとって、なぜ科学としての経済学かをめぐって、固執してなおかつ拡大しながら志向すべき根拠になっているのである。宇野が原理論のなかで、流通論、生産論、分配論のそれぞれの区別をふまえつつも、ともすればそれら相互の連関をつかみあぐねているかにみえるのも、マルクスの論理を論理そのもののなかにわけいってとりだすことの困難に耐えかねて、<実践的>や<歴史的>方法の力添えをえて、論理を足元からつきくずすのをためらったがためであり、『資本論』に示された科学的方法の厳密さをぬきにしてはかんがえられない問題である。
資本主義社会もそれ以前の社会と同様に階級的社会にはちがいないが、商品生産の支配にそれがまかされるという一点において、流通、生産、分配をつなぐ環を曖昧にしてしまった。奴隷制、封建制社会では、流通に限ってみても局部的であり限定的であった。しかし、資本主義社会はあらゆる関係の隅々にまで、商品法則をもちこんだ。経済学の近代的な変革は、いわばこの商品法則の一般化とともに、厳密な法則的認識や個別細分化した科学の礎をもたらしたといえる。とくに、本来ならば、商品になるはずのない人間労働力さえもが、流通・生産・分配のキーになりながら、まるごと価値増殖のための商品にくみいれられた経緯は、他の社会関係とはよほど異なった特色を刻印づけた。つまり、「労働力の商品化」は、商品法則が単に拡がりをみせた資本主義の歴史的特殊性を証明するにとどまらず、内部的により深化した歴史的段階をしめした。経済学を科学らしい科学の姿にもどそうとする宇野は、まず、この事実を受け入れ、事実に拮抗する科学の足場を、科学そのものをおおいつくすほどの歴史の流れのうちで検証したうえできずきあげようとかんがえた。したがって、マルクス自身が多分に曖昧なまま放置しておいたかのようにみえる価値法則が、従来、商品体の関係態様のみに限定して解釈されてきた弊害をとりのぞこうとする。
「価値法則」とは、とりもなおさず、資本家と労働者の関係を、資本との距離感のうえにたって認識するためのネックとなる概念である。もともとマルクスが『資本論』をつうじて資本主義の階級的基盤をみきわめるに際して、商品を価値表象にまで普遍化するのも、商品形態をとおして、人間が自己との関係をもふくめたあらゆる関係のなかで、転倒された結合を強制される構造を裏づけるためであり、この点で単なる商品体としての価値の像は、価値の擬人化をつつみこみ、より具体的で人間的な概念に反映し、ひきつがれるとみなさなければならない。『資本論』における商品論から資本の形態論への展化過程は、商品体に表現された価値が労働者(力)の商品化を条件にするか、または同義にするかをまって、剰余価値論のトータルな展望を可能にするのだ。
旧来の解釈が、労働価値説の一側面を援用し、価値法則を単にひとつの商品体の価値が別の商品体との関わりあいのなかで、無機的な合法則性をつらぬく点に固執して、商品法則の幅を狭くみたのにたいして、宇野は資本主義を規制する三大法則の一つに価値法則を数えあげるからには、生産手段とともに労働力をもひとつの商品として購入するのを条件に価値増殖をおこなう点に、資本の人格化した階級的形姿の中核のイメージをみつけ、そこに内在する法則をこそ、ダイナミックな価値法則の視点としてとりださなければならないとした。そうでなければ、<実践的>や<歴史的>な眼によりかかった常識的な社会科学においてならともかく、膨大で特殊な資本主義のメカニズムを洞察する意味を経済学に求めることはおよそ不可能になってしまいかねない。
「人口法則」にしても、労働力の商品化を軸に形成されることに変わりない。好況、恐慌、不況の産業循環のサイクルは、本来、商品になりようもない人間が、労働の繰り返しによって自らのうちにうみだした自然法則と価値法則の間の矛盾がひきおこすバランスシートにほかならない。資本の剰余価値へのあくなき渇望は、資本蓄積の増大化に応じるかのように、生産方法の改善をおしすすめるやいなや、過剰資本をきたし、資本蓄積にみあう労働力の欠損をまねく。その結果、労賃の上昇は、本来の目的とは裏腹に剰余価値の減少化をもたらす。そこで、今度は、資本は不況のなかで有機的構成の高度化をねらい、相対的過剰人口の形成をめざす。これは資本が労働者にとっても資本家にとっても人格である立場を固守していくための方便であり、これなくして資本の延命を実現できぬかぎりで、資本の生命線の自己証明でもある。
ところで、三大法則の最後の「利潤率均等化」だけは、他の二つの法則と異なり、資本家と資本家の関係のなかでの利潤分配に作用する法則性を明示したものだ。いうまでもなく、剰余価値は資本の有機的構成の高度のものよりも低いものの方が大きい。すると、当然、資本家の利潤追求の衝迫は、より小さい構成の産業に傾く。しかし、商品流通における価値の実現は、単なる物と物との自然的な絡み合いのなかではすまされず、生きた人間の行為にのっとって構成されるものであるので、この場合、自然的な物品を受容する側の意志をぬきにかんがえることはできない。つまり、生産段階での内在的な価値は、需給の現場にたちあったとたん、社会的な需要から修正を迫られることになり、もしも、全資本の利潤量をトータルにのぞむ地点にたてば、社会的需要はより多く集中化した産業の過剰な生産物に低い価格をつけ、逆に少ない生産物に高い価格をつける。その限りで、構成の高低にかかわりなく、なべてほぼ同等の利潤をえている事実が理解できるという。
資本主義を規制する法則が以上の三点に限られるとはいわれていないが、ともかく、資本家と労働者の階級的対峙に商品法則が色濃く影をおとしている実態を軸にして特色づけるなら、この三点が中心をかたちづくるものとされた。そして、また、この点が宇野弘蔵にとって科学のよってたつ土台を形成する根拠にもなっているのである。
宇野の科学が科学らしい姿を整備するためには、資本主義の広さと深さにねざした歴史的形成力と、そこから派生する二つの科学的実践命題をみたすことが必要不可欠であった。歴史的形成力の深さと広さとは、資本主義がその階級的性格を深化するのとあいまって、ひとつには、本来人間のものであるはずの労働過程が、関与する主体でありながら、その総過程を直接的に統括、触手しえない逆転した客観的な法則性のまえにひざまずく客体に転化する側面である。もうひとつは、資本主義以前の関係と何らの脈絡をもたぬほどの分断化され細分化された経済的諸部門の純化を歴史的にもつことをふまえ、商品経済化を草の根にいたるまでおしすすめると同時に、あらゆる生産活動が商品としての二重の意味で普遍化してくる経過をあらわしている。だから、宇野は経済学と歴史の推移の関連をかんがえるうえで、経済学が歴史上はじめてその整合性を体系の形で提示し、法則的認識をわがものとした時期として、17、18世紀以降、いわば資本主義が商品生産の頂をなしながら、全社会的に一般化した時点に着目しているのだ。
しかしながら、あるべき科学がそのまま引き継がれるとは限らないし、科学という名の「科学信仰」が奇妙なおしきせにまもられて再生産されないとはいえない。そこで、科学は実践命題として対象の範囲なり心構えなり、より主体的な態度までさかのぼり内省をくわえる必要があった。
理論自身の性格として、マルクスの『資本論』とレーニンの『帝国主義論』の相違は明瞭である。前者はいうなれば、純粋資本主義のモデル像を想定して資本主義が自己展開としてゆく軌跡を超空間的な幅にとりこみたどっているのにたいして、後者は、資本主義が19世紀後半以降、次第に純粋に調和的な発展を逸脱しながら、独自な相貌をおびてきたことを重視し、資本主義の帝国主義化への道程をより密着した距離からみきわめている。これは、マルクスとレーニンのいきた時代の対象の相異というよりもむしろ、対象をとりあつかう手法が、時間的な進展に重点をおくか、空間的な推移、拡延に眼をとどめてみるかのちがいになってあらわれたものといえる。マルクスやレーニンの科学へのいわれなき中傷や、逆の物神化は、この理論的構成の密度の相異をわきまえず、帝国主義に面するにあたって『資本論』概念の密輸入や、逆に『帝国主義論』の立場にたった『資本論』の批判など、政治的主導権争いの二番煎じを演じる土壌に温床をもっていた。宇野の科学はここで『資本論』と『帝国主義論』の両方を醜悪なメシア信仰からすくいだそうとする。
両方すくいだすということに関しては、理論と実践の区分はもっと切実なものであった。
イデオロギーは科学をもって裏づけるのは不可能であり、科学はイデオロギーの手を借りておしつけるのはなおさら困難である。科学と唯物史観との関連でも明らかなように、なるほど『資本論』は唯物史観を導きの糸にして活用し、また、それを前提にしてはじめてなりたつ世界にはちがいないが、それ自体が科学自身のなかで実証されるべき法則的認識にまつわる整合性と直接結びつくものではない。科学はあくまで現実を映す鏡にしかなりえない。もし、現実の変革をしようとおもうなら、鏡をもってではなく鏡を打ち砕くほどの政治的構想力によってほかない。経済学のなかで叫ばれる<実践>の意味が政治力と結びつくとき、経済学はみずからを扼殺するにとどまらず、政治的構想力をも侵害するのである。
自然科学と社会科学のちがいは、その対象となるものが単なるモノであるか、それとも変幻自在な行為の可能性をもつにんげんであるかの違いである。したがって、社会科学の場合、認識主体自身が同時に認識対象になる二重性を背負わされる。経済学もその例外ではなく、従来から、認識の二重性を自覚するにつれて、これにともなう溝をうめるさまざまな企てが試みられてきた。その意味において、社会科学の方法論のうちのひとつとして、特に、<実践>との関わりがむしかえされてきた。マルクス<学>に主導された経済学は、唯物史観の現象的な概念操作から産みおとされた主知主義的な判断を下敷きにしながら、認識主体=経済主体の等式をあてはめることになった。そして、経済関係はいうにおよばず、経済と不分離な関係にある歴史、社会を対象とする科学的認識は、すべて論理の正確さを保障するためには、まず、経済主体にのりうつり、そこからひきだした体験をエトスにすることで、法則一般にたいしてより拡大した理解ができると考える。こうして、<実践>の力点は、認識主体と認識対象の距離を、認識対象と<実践>との距離にすりかえ、かたがわりさせることで、認識の意味を<実践>そのことの意味に転嫁した。いいかえれば、認識主体の関わりあうべき法則が、物化し不動の位置を占め、認識対象と実践をつうじて同位に立ちさえすれば、あたかも玩具でももてあそぶかのように、身近な距離からより正確な認識がもたらされるような錯覚をうんだ。しかし、宇野のいう法則には出来合いの尺度によって測られる要素は全くない。まして、自然科学が想定するモノを法則におきかえるなど論外で、社会科学の認識にまつわる二重性の出発点そのものを帳消しにしてしまいかねない。たとえば、商品法則の価値的性格や利潤率均等化の法則にあらわれているように、たとえ本人に自覚されていようといまいと、また、希望しようとしまいと、法則は、人間の具体的な行動関係によって逐次訂正を加えられながら、それでいて、本質的な一般性を内包し貫徹していくものなのである。あらかじめ認識主体によって予想されるような先験的な法則・概念が法則の名に値いしないのは、経済学が時代の哲学思想のイデーのうえにあぐらをかいたままで、対象を技術的にあやつれるかのように錯覚をくりかえしている近代経済学諸流のていたらくをもちだすまでもない。マルクスが<学>の解体をとおして、社会の経済的基盤の重要性を説き、経済社会構成へ遡及していった経緯には、偏向した<実践>がいとも容易にイデオロギーと結びつくことで、思想概念の整理、展開の手かせ足かせになることの厳しいみとおしのうえにたっていた。実践と認識対象との間隔は、それ自体でとりだせようはずもなく、法則それ自体になりきる程度に応じて不分明になるのだ。だからこそ、社会科学は自然科学と異なる操作を強いられるといわねばならない。
認識主体が認識対象になろうとするやいなや、もはや認識主体とはいえない。なぜなら、法則は認識主体の思惑をこえて有無をいわせずおし流していく。その上、実践と認識対象との距離測定が不可能な限り、法則にたいする距離を実践の側から裏づけられないことにしたがって、認識主体、対象間に交わされる距離自体もが意味を失うからである。主体は、ただ、ひたすら法則に面してみつめてさえいればよい。宇野が<実践>と交差しかねないイデオロギー支配や政治力の拘束にたいする配慮からも、この点を主張してやまなかったのも、あくまで、科学は科学の足場からのみ出発できることを、差し迫った感慨で自覚していたからにちがいない。<実践>そのこと自体が、経済学にとって、そして思想にとって何ものかであるなどという迷妄がいきつづけるうちは、宇野弘蔵の方法は死なない。
宇野弘蔵は、ここで経済学があくまで科学としての経済学であることを強調するために、膨大な労力を使っているようにみえる。しかし、おそらく、これはマルクス自身の当面した問題意識とは大きく食い違っているはずだ。そして、その労力はマルクスが<学>の解体に費やしたそれに匹敵するかもしれないが、その間に介在しているのは、ロシア革命や国際共産主義運動を経由することで手垢にまみれてしまったマルクス<学>という名の歴史の蓄積であった。マルクスは好きな標語として「すべては疑いうる」と言った。
カール・マルクスは1818年5月5日ドイツのライン州の小さな町トリールで9人兄弟の3番目として産声をあげた。カールの父は弁護士だったが、ユダヤ教からキリスト教に改宗し、ルソーを崇拝しているような啓蒙思想をもったインテリだった。母はオランダの名門の出身で同じく弁護士だった。父親はカールがベルリン大学在学中に亡くなったが、もともとマルクスは恵まれた境遇に育った。
カールは、はじめボン大学でついで1836年プロイセンのベルリン大学に学んだ。当時、マルクスにとって最も大きな思想的影響をうけたのはヘーゲル(1770〜1831)であった。ヘーゲルの国家学をはじめとする哲学一般は、新興ドイツの象徴で、この国の絶対精神であった。その国家学は、プロイセン国家を合理的なものにすることに転化していたのだ。
学生マルクスにとっては、はじめヘーゲル哲学は好ましく映らなかったようである。このマルクスをヘーゲル哲学に深入りさせたのはヘーゲル左派のグループである「ドクトル・クラブ」であった。特に、その理論的指導者であったブルーノ・バウアー(1809〜1882)の影響は大きかった。バウアーはボン大学で講師をしていたが、バウアーの思想、そのヘーゲル左派の思想は、封建的な人間の隷従と拘束から人間を解放して、人間の自由を獲得することを目的としており、資本主義の黎明期に適した思想であったといえた。マルクスはこの急進的な自由主義のなかに身をおいた。
彼は学位論文で『デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違』を書いた。当時、ヘーゲル左派であったマルクスは、これによって1841年イエナ大学の学位を受けた。大学を卒業したマルクスは、友人バウアーのすすめもあって、ボンの大学の教師になりたいと志望願書をだした。しかし、当時のプロイセンは危険思想には鋭敏であって、バウアーも大学に許される人物ではないとされ、ボン大学の講師をやめさせられることになった。マルクスもボン大学の講師になることを断られた。それをうけてマルクスは何もためらうこともなく象牙の塔をすてた。
大学に地位をえることを思い切ったマルクスは、アーノルド・ルーゲ(1802〜1880)やモーゼス・ヘス(1812〜1875)とともに、1842年ケルンの『ライン新聞』の編集長となった。この新聞は、ライン地方の資本家たちの要望によって発刊したもので、大学生以来のヘーゲル左派的な自由主義をスローガンにして出発した。しかし、実際にやってみると、その自由主義はおしよせる産業革命の波にゆすぶられて、学生的ラジカリズムの空疎さをおもいしらされずにはいられなかった。マルクスはこのとき検閲制度や木材盗伐、農民の問題、自由貿易と保護貿易の問題などの物質的利害のからんだ問題に直面して現実的な問題に関する論評をとりあげた。そこで、マルクスは現実問題、特に経済問題に関する研究をはじめる必要を感じていた。『ライン新聞』はマルクスを現実に眼を向きかえなおさせたが、これはのちのマルクスを考えると、貴重な経験といえた。しかし、その自由主義のラジカリズムがプロイセン政府の反発を買い、この新聞は弾圧された。マルクスは編集責任者として責任をとり、自由を求めてパリに移り住んだ。1843年11月のことであった。この年の6月に、マルクスは自分より4歳年長で、高級官吏を父にもつジェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚している。
当時のパリは、産業革命が華々しく進行し、工場にはプロレタリアも急激に膨張してきていた。また、フランス革命にたいする反動の渦も逆巻いていた。そういう混沌のうちにパリでは、フーリエ主義、シスモンディ、ルイ・ブラン、プルードンなどがそれぞれ活動していた。パリが新しい思想のるつぼになったのは、ドイツの亡命者だけでも8万5千人にものぼっていたからであるといわれている。自然に陰謀クラブなどもでき、ブランキ主義(オーギュスト・ブランキ1805〜1881)の運動が勢力をはっていた。ブランキの思想は、少数の行動的な革命家集団が武装蜂起によって政権を奪取し、社会主義を宣告するというものであった。ドイツを逃げだしてきたマルクスはこのような坩堝のなかにとびこみ、プルードン(1809〜1865)などとも交際をした。彼は個人の家族の絶対神聖を主張し、国家権力を否定していた。
しかし、マルクスは、彼らとは全く別に、ルーゲとともに1844年に雑誌『独仏年誌』を編纂発行した。この雑誌は1号と2号のみの短命に終わったが、このなかの第一論文でかれは『ユダヤ人問題について』を論評した。これはバウアーのユダヤ人解放論の批評であった。マルクスはここで人間を社会的存在とみなし、それを分析しようとしている。第二の論文は『ヘーゲル法哲学批判序論』である。マルクスはこのなかでわれわれに幻想をいだかせる国家や社会の真の姿をまず見定めることが必要であり、われわれは宗教(天上)の批判の前に法律の批判が、政治の批判がなければならないとした。そして、その解放の主体をプロレタリアートにもとめた。
彼の思想がここまで発展してきたのは、ふたりの友人との離合があったためである。そのひとりはマルクスより2歳年下のフリードリヒ・エンゲルス(1820〜1895)との出会いであり、今一人はマルクスが学生時代から懇意にしていた先輩のブルーノ・バウアーとの別れであった。マルクスがエンゲルスを知って着目したのは、彼が『独仏年誌』に寄稿した論文のためだった。それはエンゲルスが自分の目でみた『イギリスの状態』という社会評論であったが、とりわけ『国民経済学批判の大綱』にマルクスは注目した。マルクスは経済学を勉強しようとする矢先であり、そういうときエンゲルスがイギリスからマルクスを訪ねてきたのである。これにより二人の終生不変の友情がはじまった。
旧友バウアーとの別れはその正反対であった。『ライン新聞』ではマルクスはバウアーといっしょにやってきたが、『独仏年誌』はさそったが断られた。バウアーはより純粋に観念論的な方向においてドイツ哲学をやろうとしていたのである。
マルクスは1844年には集中的に経済学の研究にうちこんでいる。そして、同じ年に『経済学・哲学草稿』が書かれている。ここには、「疎外された労働」をはじめ、アダム・スミスやリカードの労働価値説をこえる視点が提出されて、のちの『資本論』の価値論、物神性論の理解の裏づけになる認識が示されている。マルクスの世界観の成立に最も大きな役割を果たしたのは、この間の古典派経済学の研究であった。古典派経済学によって資本主義の本質を理解し、近代的労働者階級の歴史的立場を把握することができたからである。
ところで、マルクスはパリ時代にハインリヒ・ハイネ(1797〜1856)と頻繁に交友関係をもっている。ハイネは『独仏年誌』にも詩を寄稿しているし、マルクスとエンゲルスはこれらの詩を激賞していた。
次に、マルクスにとっては、バウアーの思弁哲学が批判の的になった。そして、1845年2月末の『聖家族、別名批判的批判の批判、ブルーノ・バウアーとその伴侶を駁す』は、マルクスとエンゲルスの共同作業でできあがった。この論文では、ヘーゲル左派がヘーゲル右派とまったく同様な場所にたって、人間を具体的に救うことができない。現実の人間はプロレタリアートであり、それは富、私有財産とあわせて具体的に対立する存在であるとし、社会主義の立場を鮮明にうちだしたからである。マルクスは経済学を勉強し、『聖家族』においてプロレタリアートと階級を発見し、それをもってバウアーと訣別した。マルクスとエンゲルスはプロレタリア階級の歴史的意義を、イギリスのあるいはフランスのプロレタリアートの生活と意識のうちに発見したのである。エンゲルスは1845年夏に『イギリスにおける労働階級の状態』を出していた。
こうしてマルクスのパリ滞在は1年を少しすぎる期間にすぎなかったが、猛勉強のおかげでその思想は飛躍的に精緻になった。パリにはドイツの亡命者が多くいた。それが気にいらなかったプロイセン政府はその取締りをフランス政府に依頼した。そこで、ギゾー政府は1845年1月にパリ退去を命じ、マルクスは、今度はブリュッセルに移った。まもなくエンゲルスもブリュッセルにやってきたが、1845〜47年の大部分をここで過ごした。このとき、彼らは『聖家族』ではじめた続編をかんがえていた。すなわちバウアーのみでなく、もっとひろくドイツ哲学を批判して、ドイツ古典哲学のなかから育ってきた二人が、自らそれと訣別しようとしたのである。そして、3月には『フォイエルバッハに関するテーゼ』を書いている。ここでフォイエルバッハの唯物論が理論的、批判的であるのみで少しも実践的でないことを批判した。そして、その訣別の過程において、プロレタリアートの社会運動の基礎になるような原理を築こうとした。それが1845年末から46年の始めに書かれた『ドイツ・イデオロギー』である。この『ドイツ・イデオロギー』が、マルクスの「唯物史観」を基礎づけたといわれている。これは、正確にはヘーゲル左派に向けられた批判であり、ここではフェイエルバッハ(1804〜1872)、ブルーノ・バウアー、マックス・シュティルナー、カール・グリューン、ゲオルグ・クールマンなどの批判がなされている。その「イデオロギー一般」の項においては、「人間の社会的存在が彼らの社会的意識を規定する」という命題を次のようにたてた。
したがって、唯物史観の意義は、第一にそれ以前の歴史学説がせいぜい人々の歴史的活動の思想上の動機を考察したにとどまり、こうした動機がなにによってよびおこされたかを研究せず、社会関係の体系的発展における客観的合法則性を把握していないとした。これらの関係の根源が物質的生産の発展の程度のうちにあることを見てとらなかった、という。また、それ以前の学説は、ほかならぬ「住民大衆」の活動をかんがえにいれなかったが、これにたいして唯物史観は、大衆の社会的条件とこれらの条件の変化とを、自然史的な正確さで研究することをはじめて可能にしたといわれている。いわばマルクス思想は、主導的な思想で歴史を解釈する主観主義を排除したともいわれる。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』は、ヘーゲルにおいては、歴史は哲学精神の前提となる「絶対精神」の自己運動であったが、それがヘーゲル左派において「哲学的自己意識」の運動にかたがわりしたにすぎないことを徹底して批判したのである。
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』でドイツ古典哲学を総括したので、今度はフランスの社会主義を批判しなければならないとかんがえた。そこで、プルードンが労働者運動に影響をもっており、いかにもそういうフランス社会主義の典型であった。プルードンは1840年に『財産とはなにか』という書物を書いて、「財産とは盗品である」と結論づけた。しかし、プルードンは私有財産を攻撃したけれども、どうして廃止するかに関しては空想的であったのである。彼は、財産が労働の盗みであることをいい、この盗みを可能にするのは財産の独占的な性格である。だから、労働者が労働を盗まれないようにするには、労働者が生産手段を所有して、人々が相互扶助の原理に立った経済制度をつくって、そのなかで、労働交換銀行によって、平等、自由な直接的な交換を行うべきであるという仮説をたてた。そして、「自由こそ秩序の母」であるとして、国家権力を否定した。あらゆる権力は専制的であるというのである。そういう空想的社会主義、絶対の個人主義、一種の無政府主義であった。そこで、プルードンが『経済的矛盾の体系、別名、貧困の哲学』を出版すると、マルクスは直ちにそれをとりあげて、『哲学の貧困』を書いた。この本でマルクスは、経済、特に商品の価値、労働の価値の問題をほりさげ、社会主義はその土台のうえにたって説かれており、マルクスの唯物史観にもとづく初めての著書といえた。1847年の7月であった。
『哲学の貧困』が公刊されて5か月たった1847年の12月、マルクスがブリュッセルのドイツ人労働者教育協会で経済学について講義した。この講義の原稿が下敷きになって、後にエンゲルスが訂正をして公刊された。これが、現在、流布されている『賃労働と資本』である。この輪郭の大要は、すでに『資本論第一巻』を簡略化したものになっている。賃金労働の本質について、剰余価値を生む労働としてはっきりと射程においているのだ。このように、『哲学の貧困』と『賃労働と資本』は、マルクスの経済学にたいする位置づけが、これまでとちがって古典派経済学から独立したまとまりを示しており、ほとんど『資本論』のレベルにまで達しているともいえ、マルクスの経済学の発展のうえで画期的な意義をもっている。
また、マルクスはこの時期『ドイツ・ブリュッセル新聞』に『ライン・べオバッハテルの共産主義』、『道学的批判と批判的道徳』を書いて、唯物論の立場から政治権力と経済的諸関係との結びつきを述べている。労働者が封建的身分と絶対王政にたいするブルジョアジーの革命運動によって、彼ら自身の革命運動が促進されることを知っている。だから労働者は、ブルジョア革命を労働者革命の条件として利用する。ただし、労働者はブルジョア革命を究極目標にすることはできないとした。こうしてドイツ労働者階級革命運動の戦略を明らかにしたのである。
マルクスがパリにいたとき、ドイツの亡命者たちの秘密結社は「正義者同盟」とよばれ、これは、急進的なプロレタリア的分子がつくったものであったが、マルクスはこの結社の人々と関係があった。当時、そのグループには冒険主義的な傾向がしばしばみられた。しかし、近代的プロレタリアートの運動に立脚しない旧い社会主義の間違いに気がついてくる人々もみられるようになっていた。マルクス、エンゲルスの思想が、ドイツ、ロンドン、パリ、ブリュッセル等で少しずつ影響力はのばしていたのだ。そこで、マルクスは幾つかの論文を書いて彼らの雑誌にも載せるようになっていた。彼らを新しい唯物史観による革命の方向に誘ったのである。
これにたいして、マルクスは組織力を与える必要を感じていたが、1846年2月ブリュッセルでマルクスは「共産主義的通信委員会」をつくった。これはこの地の革命主義者を教育しようとするものであった。フランスやドイツの都市にも同じようなグループができていた。そういうグループのなかでは、マルクス、エンゲルスのいう「批判的共産主義」が議論されるようになっていた。そして、マルクスに各地の「通信委員会」の総会に出席してほしいとの要請が寄せられるようになった。
また、「正義者同盟」もその革命主義を捨てて、広い地盤を求めるようになっていた。グループの名称も「共産主義者同盟」と改め、国境をこえた国際的な団体となろうとしていた。この同盟は第2回の大会を1847年11月ロンドンで開き、マルクスとエンゲルスを招待した。大会は決議により、マルクスの考えを満場一致で採用した。このグループの立場を公然と世に訴えようということになり、その宣言の起草をマルクスとエンゲルスに委嘱した。
こうして、「共産主義者同盟」の宣言の起草は二人の責任になった。そして1848年1月『共産党宣言』を発表した。この宣言は2月末ロンドンで印刷され23ページの小冊子として刊行された。そのうち何部かはパリとドイツにもちこまれた。『共産党宣言』は、ヨーロッパの各国の労働者が集まっている小さな思想団体「共産主義者同盟」という団体の「理論的にして実践的な綱領」であった。この集団はあえて党といえるかどうかさえわからない政党の綱領であった。これには、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という言葉ではじまり、社会発展の法則が階級闘争の歴史として説明され、近代資本主義社会の成立史が要約され、また、プロレタリアと共産主義との関係、社会主義および共産主義の分類、反対党にたいする共産主義者の立場等が示される。『共産党宣言』は、プロレタリア階級の本質を歴史のなかにとらえ、彼らの位置づけを示し、そのうえにたって彼らの運命と使命を論じた文書である。彼らは将来、必ず社会の主人となる運命を背負っている。それを闘いとれといっているのである。また、マルクスは政治権力について「独裁」の思想を明らかにした。最も民主主義的な共和国も、少数の資本家階級の支配の形態であり、ブルジョア独裁の政治形態であるとした。政治権力を握ったプロレタリアートは階級対立が残っている限り、プロレタリアートの独裁でなければならないとし、これこそが実質上の民主主義であるとした。『共産党宣言』を書いたときマルクスは30歳であった。
その頃、フランスでは、1848年の2月革命の只中であった。これは形のうえではブルジョア革命であったが、早くも人民的な革命の萌芽が含まれていた。この革命の波はすぐにドイツにおよんだ。マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は、世界の労働者を相手にしたものだったが、具体的情勢のもとでは、フランス、ドイツにおける革命運動をつうじてそのよびかけを行うことになった。そういうとき、二月革命の臨時政府はマルクスをパリに招き、1848年3月マルクスはパリに移った。「共産主義者同盟」の中央委員会もパリで構成しなおしマルクスが委員長になった。パリに移ったあと、マルクスは『ドイツにおける共産党の諸要求』を執筆してドイツの三月革命に期待をかけた。マルクスもドイツ亡命者とともに、ドイツに入った。ドイツでは「労働者協会」という労働者階級の組織活動をはじめた。その中心は「共産主義者同盟」員であった。このとき、ケルンでは革命主義者が新しい新聞をだそうとしていたので、マルクスもこれに参加し、この革命を推進しようとした。ケルンはライン州の中心でドイツのなかで近代産業がもっとも発達したところで労働者も多くいるところであった。この新聞がマルクスの『新ライン新聞』で、初号は1848年6月1日に発行された。この新聞は題の下に「民主主義の機関紙」という副題がついている。
この新聞は大成功であった。この新聞でマルクスはブルジョアジーにたいするプロレタリアートの基本的な対立をプロレタリアートの意識にのぼらせることとともに、ブルジョア民主主義を徹底的に実現させるために、プロレタリアートは絶対王政的封建的専制に対立し闘争する限りにおいてはブルジョアジーを支持しなければならないことを力説し、1848年のドイツでは、まず、ブルジョア革命を、次いでプロレタリア革命をかんがえ、二段階革命を主張した。封建制がまだ支配的であるドイツにおいては、当面の革命はブルジョア革命であるべきで、プロレタリアートが自らの階級的要求を立てるのは時期が尚早であるとした。これがマルクスの社会の発展の法則を認識した行動綱領であった。マルクスは、また、この新聞に『賃労働と資本』の原稿を連載した。
マルクスはドイツの統一とドイツ憲法の制定をかちとるために奮闘をかさねたが、ドイツの革命運動は必ずしもスムーズにいかなかった。1848年6月のパリの労働者はブルジョア連合勢力に敗れ、革命の推進力としての敗退は、ドイツ革命の運命にとって重要なポイントになった。プロイセンの王軍は議会をとりまき、武力をもって民主主義者を議会の内外において弾圧をはじめた。この弾圧のため、『新ライン新聞』も発行を停止され、マルクスに国外退去を命じた。そこで、マルクスは301号をもってこの新聞の最終号とし、ドイツの読者と別れることになる(1949年5月19日)。革命の崩壊は明白であった。各地の第一戦で戦っていた「共産主義者同盟」の人々はすでに弾圧されてしまっていた。1848年2月にパリではじまり、3月ドイツにおよんだ革命の波が1849年には退潮した。エンゲルスもスイスに逃れていた。マルクスは『新ライン新聞』の借金を整理してパリへ向かった。
パリへ逃れてきたものの、ここでも反動のなか、長くとどまることは許されなかった。1849年8月落ち着く先はロンドンしか残されていなかった。ロンドンから見た大陸の空は反革命の暗雲が立ちこめていた。各国の亡命者たちの心はすさんでいた。そこでは、彼らは喧嘩口論にあれくれ、やるせない気持ちをまぎらわしていた。
マルクスはエンゲルスをさそって、新しい評論月刊雑誌『新ライン新聞、政治経済評論』を発行した。この雑誌にマルクスは『フランスにおける階級闘争』を、エンゲルスは『ドイツ帝国憲法戦争』を載せた。『フランスにおける階級闘争』(1850年)は、『ルイ・ボナパルトのブリュルール18日』(1851年)、『フランスにおける内乱』(1871年)とともに三部作をなし、時代の政治史であった。
マルクスはこの論文で、フランス二月革命は、ドイツ、オーストリア、イタリアにおける革命運動をひきおこして全ヨーロッパ的意義をもったが、どうしてそれが起こったのか、ブルジョア共和主義者の独裁をへて、結果的になぜルイ・ボナパルトを大統領につかせたかを論じた。エンゲルスによると、この論文は唯物史観にもとづいて書いた現代史の最初の試みであった。これらの事件の進展の内的必然と歴史的意義を書いた。それがどういう経済的な土台からでてきたかを示した。そして、マルクスは二月革命がたとえ敗北しても革命そのものは将来に続くしかないと結んでいる。
マルクス、エンゲルスは「亡命者委員会」をつくって亡命者の救援をするとともに「共産主義者同盟」の再建にとりかかっているが、これは困難な作業であった。分裂騒ぎもおこって、1852年11月17日「共産主義者同盟」は解散した。1851年12月2日ルイ・ボナパルトがクーデタで政権をとってナポレオン三世となり、第二共和制が滅びる。これに関してマルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュルール18日』を書いた。
プロレタリア革命をその萌芽のうちにつみとってしまった資本は、1850年代のイギリスはもちろん、フランスもドイツでもその経済はめざましい成長をとげた。マルクスはできるだけ亡命者たちの不毛な紛争から離れて、経済学をもう一度勉強しようとかんがえた。労働者の階級的利害の共通性をみいだせるような経済学の確立をかんがえたのだ。労働者がいかに資本家に搾取されているかの筋道が分かるなら、そのような搾取制度を廃止する目標をもつ社会主義の意義と一致するとおもえたのである。資本主義制度の革命にはそれよりさきに、その革命が必然であることを根拠づける経済学が必要であるとかんがえたのである。
マルクスは、当時、友人の紹介で1852年から1862年の間、アメリカの『ニューヨーク・トリビューン』紙に1週に2度定期的に寄稿して生活費を稼いでいた。これには、インドと中国に関する記事があり、のちに「アジア的生産様式」の問題として大きな課題を提起した。その他進歩的な新聞にも時評を書いて糊口をしのいでいた。しかし、マルクス家は極度の貧窮になかにあった。家賃がたまって借家をおわれ、貧しいアパート二間に一家5人が重なりあって住んだ。子供は大きくなりかけては死に、産まれては死んだが、オムツを買う金も棺桶を買う金もなかったような状態であった。この間、エンゲルスはマルクスに金銭的援助を惜しまなかった。
1850年代をつうじてマルクスは、大英博物館で、毎日、朝から夕刻まで経済学に没頭した。そして1859年6月経済学の勉強の成果を出版することになった。これが『経済学批判』である。このなかで「剰余価値学説」が提示された。1859年はダーウィンの『種の起源』が出た年でもあった。そして、この本にはもうひとつ唯物史観の定式を正式に提示していることでも知られた。マルクスはこの本の序において公式としてまとめあげていた。
『経済学批判』につづいてマルクスは『資本論』の完成をめざしていた。『資本論』の第一巻は1867年、マルクスが49歳のとき完成した。第二巻(1885年)と第三巻(1894年)はエンゲルスが公刊したものであるが、エンゲルスが『資本論』第三巻を出したのはマルクスの死後12年目であった。マルクスが『資本論』に費やした時間は、ロンドンに亡命して経済学をはじめてから『経済学批判』をへて『資本論』第一巻ができるまで通算すれば16年である。
『資本論』の第一巻は資本の生産過程を扱い、第二巻は資本の流通過程を第三巻は資本の総過程をとりあつかっている。マルクスは、第一巻で資本主義の基本的法則を明らかにし、階級及び階級闘争と資本主義的生産関係そのものの発展との必然的な関係を明らかにした。そして第二巻、第三巻において具体的に資本主義の基本的矛盾の現象を示したのである。
一般的なマルクスの『資本論』理解でいわれているのは、資本主義的蓄積の一般的作用が失業者の増大、労働者の生活の不安定をつくりだし、労働者の「窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取」を増大させ窮乏化作用をつくりだす。しかし、同じ資本主義は、反面、訓練され結集され組織される労働者を産みださざるをえない。なぜなら、資本主義が、労働過程の協業的形態をもたらし、社会的労働が結合され、計画的な労働の客観的条件が整備されるからである。その生産、交通、通信、運輸において大規模に結合した労働をもたらすのである。そして、資本主義的蓄積の矛盾とは、生産力の巨大化にたいして生産手段の私有制のそれであり、この矛盾が経済恐慌となって周期的に爆発するといわれるのである。そうして、窮乏化にたいする労働者階級の反抗は、ますます組織的になってあらわれてくる。資本主義は社会主義の方向に向けてしか行きようのない物質的、経済的条件をつくりだす。だから、労働者の意識は、この資本主義の必然的な発展法則を認識したときから、社会主義へ向かわざるをえない。社会主義とはこの資本主義の基本的矛盾をとりのぞき、生産手段の私有と無政府性の外皮を取りさって、生産の計画性、有機的結合、組織的結合をもたらし、生産力の無限の発展の条件をつくりだすことにある、というのである。マルクスは『資本論』でこのような近代社会の経済的運動法則を明らかにした。これこそが「科学的社会主義」と名づけられたものである。
マルクスは1850年代をつうじてほとんど政治活動を行っていなかった。1864年9月28日に、第一インターナショナル(国際労働者協会)が旗揚げされた。この協会は、ヨーロッパとアメリカの戦闘的プロレタリア階級を一同に結びあわせるという明確な目的をもって作られたものであった。マルクスもこの集会に招待され、すぐにこの中心的存在となった。マルクスはその創立宣言と規約を起草した。このインターナショナルにおいて、マルクスは総務委員会の中心として支部を各国におくことに尽力した。マルクスは、当時、『資本論』の完成にうちこんでいたが、この労働者の国際的連帯のためには、そのエネルギーを割くことをいとわなかった。特に、彼はイギリスの労働運動に大きな期待をよせていた。その改良主義的な傾向にたいして、『賃金、価格及び利潤』という講演のためのパンフレットをつくるなどした。また、イギリスではインターナショナルの会員が中心になって普通選挙権の運動が労働組合を中心に展開された。1866年インターナショナルの第1回大会がジュネーブで開かれた。マルクスは出席しなかったが、マルクスの綱領規約、創立大会宣言はこの大会で正式に可決された。この大会はヨーロッパ、アメリカの労働運動に大きな影響力をもった。1866年には経済恐慌がはじまり労働者の生活を逼迫させていたからである。イギリス及びヨーロッパ大陸に大きなストライキがおこり、インターナショナル総務委員会はこのストライキを支援した。
次いで大会はローザンヌ、ブリュッセルと開かれた。1869年9月にバーゼル大会があった。この大会において、バクーニン(ミハイル・アレクサンドロヴィッチ 1814〜1876)の無政府主義とマルクスとの角逐は深刻なものになった。バクーニンの思想は一切の悪を国家と神にみる。だから、バクーニンはブルジョア国家のみでなく、プロレタリア国家にも反対する。バクーニンからみると、マルクスの組織的行動や政治革命の主張は国家主義や官僚主義に見えた。マルクスを「権威主義者」とみなしていたようだ。1870年はドイツで大会が開かれる予定であったが、開かれなかった。
一方、1870年7月19日に普仏戦争が勃発した。そして、ナポレオン三世が破れ、捕虜となり、パリの労働者が9月4日、共和国を宣言した。マルクスはインターナショナルの宣言のなかで、ドイツの労働者がフランスの共和制を壊すべきではないと主張している。また、フランスの労働者に、プロシアの侵略者のパリへの進撃から共和制を守ることを要請した。しかし、フランスのブルジョア共和主義者が労働者を裏切って、ビスマルクとむすび労働者に反革命的な抑圧を加える。このため、1871年3月18日に労働者革命が勃発する。いわゆる「パリ・コンミューン」である。パリ・コンミューンは、5月28日にヴェルサイユ軍(ブルジョア共和政府)に敗退するまで3カ月間続く。この間、インターナショナル総務委員会は、これを支援してマルクスの手による三つの声明を発表した。これがのちにエンゲルスがまとめた『フランスの内乱』である。パリ・コンミューンは、史上初めての社会主義権力の実現であった。マルクスはこの経験のなかから多くのものを理論的に摂取し、彼の革命理論を豊富にした。『フランスの内乱』の第三部で、パリ・コンミューンがいかにして生まれ、その72日間の短い期間に何をなしたか、そして、いかにして死んだかを順序を追って分析して、その意義をとらえている。マルクスはコンミューンのなかに実現され、将来の社会主義社会にも通じる構造を具体的に描くことができた。プロレタリアートが政治権力を掌握した国家の形態とその性格をはっきりと示すことができたのである。まず、マルクスがまずコンミューンを評価したのは、常備軍の廃止と武装人民による代替であった。そして、コンミューンは《本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ。》(『フランスの内乱』)とした。権力を握ったプロレタリアートは、徹底した民主主義を遂行すべきであるとした。しかし、パリ・コンミューンは凄惨な流血のうちに潰えさった。
インターナショナルは、1871年9月にロンドンで協議会が開かれた。このときにもマルクスとバクーニンとの間で激しいやりとりがあった。マルクスは労働者の政治活動を強調して無政府主義の政治否定論を批判し、労働者が自前の政党をつくることを強調した。
パリ・コンミューンが倒れるとともに、インターナショナルも内部の意見の対立が一気に噴出したのである。1872年のハーグ大会では、その衰退がだれの目にも明らかになった。この大会で総務委員会の権限の強化とプロレタリアートの政治活動の問題でマルクス派とバクーニン派は真正面から対立した。そのとき、インターナショナルは事実上、力を失ってしまっていた。一方、バクーニンなど無政府主義の側からは、マルクスとの対立は次のように見えていた。
インターナショナルの総務委員会のニューヨーク移転が可決された。その後、第一インターナショナルは1876年11月にアメリカのフィラデルフィアで大会を開いたが、解散を正式に表明したものだった。第一インターナショナルはパリ・コンミューンの崩壊とともに、各国の労働者にたいする弾圧と内部抗争により倒れたといえる。
この活動面においては、マルクスは必ずしも成功したとはいえなかった。フランスではブランキ主義、プルードン主義など極左的ブランキストやバクーニンの無政府主義の傾向が強く、ドイツでは政治活動の自由がなく、イギリスでは労働組合が議会主義の枠内で行われていたからである。どの国でも労働者の代表が足並みをそろえてインターナショナルに参加しようとはしなかった。セクト間の争いが根強かった。出席者のうちにはプルードン主義者が多く、かれらがマルクスに反対の立場を表明した。また、半封建的ナショナリズムが、インターナショナリズムの炎を窒息させたことも影響した。実践的には彼が失敗したのは事実である。
マルクスが『資本論』の続編を自分の手で出すことができなかったのは、インターナショナルの活動による心労によるものといわれている。その心労から彼は急速に老衰していった。エンゲルスなどマルクスの友人は、マルクスの健康回復のためにできる限りの努力をおしまなかった。
マルクスの衰えた健康のなかでも、各国の労働者は運動の指導を求めてきた。1875年のドイツ社会民主党の合同問題については、『ゴータ綱領批判』となって表れた。このなかには、資本主義の政治権力を奪取したのちの経済・社会や政治形態が具体的に示されている。これがマルクスの最後の文献であった。
マルクス夫人は1881年12月2日に死んだ。エンゲルスはマルクス夫人の死んだとき、「マルクスもまた死んだ」と言ったそうである。1883年3月14日マルクスはエンゲルスに看取られて息をひきとった。死因は肝臓癌。享年65歳であった。
マルクスは1871年のパリ・コンミューンにふれて、その原則を次のように描いている。
また、一般論として、《労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない。》と述べている。
そして、コンミューンは、《本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であり、そのもとで経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であったのだ。》とした。
エンゲルスは、『フランスの内乱』の第三版の序文において、パリ・コンミューン20周年記念に当たり、パリ・コンミューンを「プロレタリア独裁」と呼び、マルクスがパリ・コンミューンにいだいた思い入れを補足するように、労働者階級は権力を掌握した場合、古い国家機関で間に合わせることはできないこと、行政上・司法上・教育上の代表者を一般投票で行うこと、また、その代表者は他の労働者が受けとる賃金のみを支払うことを取り上げて評価している。とりわけ、この旧来の国家機関の破壊と、真に民主的なものによるそれの代替が必要不可欠な要素であったとむすんでいる。その一方で、パリ・コンミューンはブランキストとプルードン主義者の寄り合い世帯であった限界もあって、経済的な点で多くのことが等閑視されていたという批判も忘れなかった。
のちにレーニン(1870〜1924)は、1917年10月のロシア革命の前夜に書き上げた『国家と革命』のなかで、パリ・コンミューンの経験に関するマルクスの分析に論及している。この箇所はレーニンの思想が、歴史の未来にとどきうる長い射程をもっていた唯一の場所である。レーニンは、マルクスがこのパリ・コンミューンの経験をもとに、プロレタリア革命の前進として、これを足がかりにして従来の理論の見直しを行ったとかんがえた。そして、マルクスはこの経験をとおして、あえて『共産党宣言』の一部を修正することを、1872年のドイツ語版の序文において示したとした。
その一部とは、《労働者階級は単にでき合いの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできない》ということの意味あいであった。これに関するマルクスの主意は、革命は既存の国家機構を単に奪取するのにとどめるのではなく、その官僚・軍事国家機構を粉砕しなければならないことであると述べている。
そして、粉砕された国家機構は何にかえるかについて、マルクスがとりあげた常備軍の廃止、公職者を公選で選び、すべての役職を解任の対象にすること、議員報酬や官僚の金銭的特権を廃止する等が、ブルジョア民主主義から「プロレタリア民主主義」への質的転換であるとする。これは、もう本来の特定の階級を抑圧するための特別な権力という国家の枠組みをこえ、すでに本来の意味では国家といえないものに転化している。その上で人民の大多数が支配する権力は、もはや抑圧の必要性が薄れ、国家は死滅を開始する段階にあるとしている。
特に、レーニンがこだわったのは、議員報酬や官僚の高級国家官僚の俸給の引き下げなど官吏の経済的特権の廃止であった。こういう原始的な民主意識こそが、従来の国家権力とことなって、その役割が簡略化され、だれでもできるものとなり、通常の労働者の賃金で遂行できる程度にまで簡単な機能になることが前提条件であった。これこそが資本主義から社会主義にいたる現実的な架け橋になるという。
また、レーニンはマルクスが議会制を否定しているとみなした。レーニンにとって、議会制とは、支配階級の人民抑圧の道具であり、これは立憲君主国に限らず、民主主義の最先端をいく共和国においても同様である。コンミューンは、駄弁のとびかうブルジョア社会の腐敗した代議制にかえて、《議員が自分の足で活動し、自分の手で法を執行し、自分の目で実施事項の確認を行い、選挙民に対して自分自身で責任を負う》代議制の実働機関にしたとするのである。
レーニンの描いた構想はこうだ。プロレタリアは権力を握るや、国家官僚特有の「上からの指揮」を廃止し、それにかえて「現場監督・会計係」にたとえられるような新たな官僚機構を構築し、その新官僚機構があらゆる官僚制を徐々に廃止する。これがプロレタリア革命を成就するための第一段階である。ここからは、ますます平易化する「現場監督・会計係」の役割を全員が輪番でこなすようになる。
社会主義の政治的原則を提示したレーニンが愚直なまでにこだわったのは、マルクスがパリ・コンミューンにみた以上のような原則だった。レーニンにとっては、社会主義と政治闘争が、最終的に国家を消滅させるものであるとした。支配階級として組織されたプロレタリアートは国家の消滅にいたるまでの過渡的形態であると結論づけたのだ。レーニンの社会主義とは国家消滅の過程であったといえる。
レーニンには、まず、国家とは何かという設問があった。
ここでレーニンがいっているのは、国家と呼ばれる権力、すなわち社会のなかから発生しながら、社会のうえに君臨し、社会から疎遠になっていく権力の意味である。それは武装した人間からなる特殊部隊(警察・常備軍)で、監獄そのほかの施設をともなっている暴力組織である。抑圧された階級を搾取する道具としての国家の役割は、大衆が普通選挙権をもつ民主共和制のもとでも本質的にかわらない。
エンゲルスを援用してレーニンは、現在は、一握りのブルジョアジーが、大多数の被抑圧人民を支配する道具であるブルジョア国家は、プロレタリアートがブルジョアジーを抑圧するための権力(プロレタリアート独裁)におきかえなければならない、プロレタリアートは、まず、最初に、政治権力を掌握し、政治的支配権を手に入れ、国家を支配階級として組織された武装したプロレタリアートに変えなければならない、という。そして、これこそがプロレタリア革命によるブルジョア国家の「廃絶」である。ブルジョア国家は「死滅」するのではなく、そこでは、革命の過程でプロレタリアートによって廃絶されるのである。その際、このブルジョア国家からプロレタリア国家への転換は暴力革命をぬきにしては不可能であることになる。プロレタリアートは国家権力、中央集権的な権力組織を必要とする。それはブルジョアジーの抵抗を抑圧するためであり、社会主義の新たな経済的体制を創出する作業において圧倒的多数の住民、農民、プチブル、半プロレタリアートを組織化するためである。
そして、言葉の厳密な意味において国家の「死滅」というのは、社会全体の名において生産手段が国家の支配下におかれたあと、すなわち社会主義革命が成就した後、国家の統治形態は、プロレタリア国家または準国家の最高の民主制に移行するが、この民主制でさえも国家であることにかわりがないので、国家が消滅するときには民主制も消滅する。その過程を国家の「死滅」と呼ぶのである。なぜなら、階級対立のない社会では国家は必要ないし、存立条件をうしなうからである。だから、プロレタリアートに必要な国家は、死滅していく国家、ただちに死滅しはじめ、必ず死滅するように設定されている国家のみである。
以上のマルクスの原則の見取り図のうえにたって、レーニンは、ひとつは、資本主義から共産主義への移行期において、ブルジョア国家を徹底して粉砕したうえで、「プロレタリアートの独裁」を認めるかどうかが、日和見主義者や改良主義者のマルクス主義の歪曲と分かつ試金石になるという。また、もうひとつは、究極の目的である国家の廃絶を認めるかどうかである。つまり、人間一般にたいするあらゆる暴力が残らず死滅することをもとめたのである。レーニンは確信する。社会主義は共産主義に転化し、それにともなって人間一般にたいして暴力を行使する必要や、一部住民を他の住民に服従させる必要がいっさいなくなるという社会をつくることでできるのである。それは、いわば民主制そのものの死滅である。つまり、民主制はあくまで国家の一変種にすぎないのだ。
レーニンの思想の分水嶺は、徹底した民主主義が社会主義に転化していくことである。国家を死滅するためには国家行政の機能を単純化し、それを住民の大部分に務まる「監督と会計」という単純な作業にしているからである。また、出世主義を完全に排除するため国家行政ポストを労働者と同等の賃金にしているのである。
次に、レーニンは、国家死滅の経済上の原理の問題を明らかにする必要があった。レーニンは資本主義社会から共産主義社会の間にある移行期をとりあげた。その過程においては、政治的移行期をぬきに考えることはできなかった。それはプロレタリアートの「革命的独裁」以外にはありえない。ただし、それは資本主義のもとでの国家のような国家ではなく、もはや過渡的な国家であり、言葉の真の意味での国家ではない。そして、共産主義社会になると資本家の抵抗もなくなり資本は消滅し、階級もなくなる。こうなってはじめて国家が姿を消し、ひとびとがはじめて自由について語ることができるようになる。
しかし、資本主義を母体としてこの世に生まれたばかりの共産主義社会は、共産主義社会の第一段階=社会主義社会と称すべきものである。この経済的段階は次のようなものである。
これはマルクスの説明からみて、依然として「労働に応じて」消費財を分配せざるをえないという点で、「ブルジョア的権利」にとどまっている、とレーニンはいう。したがって、共産主義の第一段階は、まだ、公正と公平をもたらすにはいたらない。この社会においては「ブルジョア的権利」以外の基準はまだ存在しない。そして、その限りにおいて依然として国家は必要とされるのである。ここでは、国家は生産手段の共有を擁護し、労働の平等と生産物分配の平等を擁護するような国家である。その国家は集計と管理が主な任務になる。共産主義社会の第一段階においては、すべての市民が武装労働者からなる国家に雇われてその従業員になる。すべての市民が、国民全体からなる一個の国家「シンジケート」の事務職員及び労働者となるのである。この労働の給付の集計・管理は簡略化され点検と帳簿つけなど、読み書きのできるものならだれでもこなすことができる簡単な作業となっている。このような作業が国家の任務とするなら、国家はもはや「政治的国家」である必要はなく、純粋な行政的機能に変質している。社会全体が、労働も賃金も平等な一個の事務所ないし工場となる。ただし、これは究極の理想でも目的でもない。全員が社会生産を自力で管理することをおぼえ、管理をおこなうようになると、その共同生活の簡単かつ基本的なルールを守る必要はごく短期間のうちに習慣化するからである。そのとき共産主義のより高度な段階はじめていたる。
共産主義社会のより高度な段階=共産主義社会に達すると、分業と訣別し、頭脳労働と肉体労働の対立も解消され、人間社会の生産力が飛躍的に発達する。そうなれば、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことができるようになる。こうなってはじめて国家が完全に死滅する段階にいたる。ブルジョア的権利の視野の狭さを克服されるこの段階になってはじめて、生産物の分配についても、各人が受け取る生産物の量を社会の側から規制する必要がなくなるからである。それは国家の完全な「死滅」につながっていく経済的な段階である。
マルクスやエンゲルスの言葉の断片を切り張りして引用しながら、パリ・コンミューンの経験の検討に基づいて、プレハーノフやカウツキーをマルクス主義の歪曲・日和見主義であるとして批判したレーニンの思想の要約は次のようになる。
国家にたいしてプロレタリア革命がいかなる態度をとるべきかは、レーニンの掲げた原則が明瞭に示した。しかし、歴史は皮肉にもレーニンの思惑とはまったく対極のソヴェト国家をもたらしたことをおしえている。国家は死滅するどころか、党と官僚組織はますます肥大化し、テロと粛清と相互不信の恐怖政治がうまれていた。その後のソ連邦の歴史は、レーニンの理想をことごとく裏切った。これは1991年のソ連邦崩壊までつづくことになる。
この原因はどこにあるのだろうか。これらをレーニンのあとを引き継いだスターリンにすべての責任をとらせることができるのか。レーニンとともにロシア革命を指導し、やがて左翼反対派となったトロツキー(1879〜1940)は、スターリンによるソ連邦追放後、1936年の『裏切られた革命』で、スターリンをやり玉にあげてそう書いた。ソヴェト体制はもともと、党が官僚にたいして牽制していた。官僚が国家を動かしていたとしても、党がその官僚を統制していた。党がつねに官僚とあるときは公然と、また隠然とたたかっていた。ところが、スターリン一派が、自らつくった機構に党を従属させ、しかもその機構を国家機構と癒着させることによって、責任の二分状態をこわしてしまった。こうして、官僚専制の全体主義体制はできあがった。スターリンの勝利はスターリンが官僚にたいして奉仕をおこなったからこそ確保されたという。そして、トロツキーは、次のように続けている。
少なくともトロツキーにとっては、レーニンの掲げた理想を裏切ったのは官僚専制であり、スターリン主義の問題であった。彼が第二補完革命の対象とするのは官僚絶対主義であり、「スターリン主義」とはそのことをさしていた。
レーニンの想定したプロレタリア独裁の体制は、そもそもの誕生のときから古い意味での「国家」である機構をやめるはずだった。官僚機構としての国家はプロレタリア独裁の初日から死滅しはじめる。ところが、ソヴェト国家は死滅しなかったばかりか、死滅しはじめようともしなかった。そればかりか、史上かつてなかったように、官僚が大衆に席をゆずって消滅するどころか、大衆のうえに君臨する無統制の権力に転化してさえいる。マルクスやレーニンが描いた労働者国家の構想と、スターリンがつくりだした国家の間にはかすみがかかったような遠い距離がある。それはなぜか。トロツキーは言う。以前に支配していた階級の残滓ではなくて、《物質的な欠乏、文化的な後進性、およびそこからでてくる「ブルジョア的権利」の支配−もっとも直接的にかつ鋭く各々の人間をとらえる分野、つまり個人の生存の保障という分野での−のようなはかり知れぬほど威力のある諸要因なのである。》と。
つまり、トロツキーの主張しているのは、レーニンの国家のあり方の定義は、ソ連が帝国主義戦争と内戦による国土の荒廃という歴史的地盤のうえで、すすんだ資本主義国家におよばない経済的後進性と国際的孤立性のなかにいることを前提にして、問題提起していなかったということである。しかも、もともとのはじめから、レーニンをはじめ初期の革命コースのなかに「一国における社会主義」など想定もされていなかったのである。しかし、革命的危機はヨーロッパに社会主義革命をもたらさず、現実には、国際的な支援もなかった。レーニンが「息つぎ期間」と考えていた時期が、こうして歴史的時間となってあらわれたのだ。このため、資本主義にさえおよばない低い労働生産性が、不公正な分配とカースト制度をまねいた、という。トロツキーによれば、ソ連の歪曲は、こうして理由づけられる。しかも、当の国家官僚はそのことを理解していないし、理解しようともしない。なぜなら、その無自覚が彼らの特権を保障するものだからだ。だから、官僚はその経済・外交政策上のジグザグな失敗をおおいかくす。だからこそ、社会主義の原則に反していようと、「社会主義を完成した」などという嘘を嘘でかくすことをくりかえすのだ。
こうした官僚は、プロレタリアートの反動によってより大きくはぐくまれた。革命のあとの長引く疲労と失望が、大衆を次第に離反させていったのだ。革命的な英雄主義が無気力と出世主義へと席をあけ渡した。くわえて、コミンテルンの誤った指導にもとづいて、ドイツや中国の国際的な革命運動の敗北は、大衆に失望感をあたえた。官僚がスターリンという指導者を選びだしたのはそういうときだ。その結果、その官僚たちは、ボリシェヴィキ党を打ち破り、その墓堀人となった。これが「ソヴェト・テルミドール」の実体であった。かつてのボリシェヴィキ党は死に、体制は全体主義が支配した。対外政策においても、ソ連は「一国社会主義」の理論が「世界革命」を退けた。革命当初の指導者は10月革命が世界革命の序章とみていたが、みずからが世界の発展に大きく依存しているにもかかわらず、それを放棄した。そればかりか、テルミドール官僚はコミンテルンの指導者として世界の労働運動に災いのほかに何ももたらさなかった。ヒトラーの勝利とドイツ軍国主義の台頭をもたらすことになったドイツのプロレタリアートの壊滅や中国革命の壊滅はひとしくコミンテルンの政策の失敗のせいである。ソ連の敗北は世界プロレタリアートの主力部隊の敗北であった。官僚はソ連を《ヨーロッパ=アジアの現状維持の体制の中に含めることによってソ連の不可侵に保険をかけるという考え》に到達したのである。
では、なぜ、国家制度や官僚は再生産され維持されつづけるのか。現実のソ連社会は社会矛盾に満ち、消費の分野において緊迫しているから、社会的な闘争の根が廃絶できない。だから、官僚の権勢は必要だし、そのため国家を廃絶できない。いわば、社会主義の勝利は最終的であるとも決定的であるともいえないからである。また、必要なものをすべての万人にではないが、革命当初にくらべて、つつましやかに物質的水準が高まったが、少数者に特権を与え多数者を駆り立てるまでにはなった。これが生産力の向上と官僚の増大との関係であった。それだけではない。官僚自身が不平等をつくり守っているのである。つまり、自らの特権を守るための機能が、日々、社会の貧困から発生しているのである。
レーニンの社会主義の<理想>はなぜ裏切られたか。トロツキーによれば、その悲劇は、もともとロシアにおけるプロレタリア革命が、資本主義の最も弱い環から誕生したことに由来する。この国のプロレタリアは未成熟であり、それと内戦と国際的孤立があいまって、工業、農業の生産手段の国有化・国家集中に着手したものの、資本主義をこえる経済的条件どころか、資本主義の労働生産性にも及ばない劣悪な環境条件にあった。消費物資の絶対的な不足はおおいようもなく、できたばかりの労働者国家は貧困の一般化をまねき、大衆の消費生活を直撃した。そんな物質的、文化的条件のなかで、国家の機能を死滅させることはとうていできなかった。レーニンが国家の「死滅」という言葉で考えていたのは、物質的、文化的な条件が、国家を必要としないまでに高度化していることであったはずだ。だから、そのような条件がないところで、国家は死滅するどころか、官僚専制支配を永続化させ、あわせて、官僚はその特権を再生産させる動因になったのだ。ここにおいて、ソ連のこうした「堕落せる労働者国家」を打破するための第二補完革命を不可欠としている。ソヴェト民主主義が官僚体制にとってかわらなければならない。そして、経済に民主主義がとりいれられることによってさまざまな計画を勤労者のためになるように抜本的に検討しなおすことが必要である。いままで経済問題は官僚の統制のもと自由な審議がなされなかった。そして、「ブルジョア的権利」ではなく、経済的平等の理念の再考が見直されなければならない、という。
トロツキーはソ連邦を資本主義と社会主義の中間にある矛盾を含んだ社会であるという。そこでは、生産力の国家的所有が不十分であるが、いまだ社会的変革は所有関係と社会主義の意識が生き続けている。また、「ブルジョア的な分配基準」があらたな根拠になりつつある。官僚は社会的特権層となっており、無統制な社会主義と無縁なカースト制度になっている。矛盾が増大すると、資本主義に後退するする可能性もある。そして、最後に社会主義に向かう途上においては、労働者が官僚を打倒しなければならないだろうと結んでいる。
こうしたトロツキーの主張をみたあとで、わたしたちは、1991年のソ連邦の崩壊やベルリンの壁の崩壊を体験した。わたしは、そのときの「あっけなさ」の感慨を忘れることができない。まさにそのためにこそ闘ってきたと信じてきた当の現実が、あたりまえのように、あたかも幻が消え去るようにあとかたもなく崩壊したのだ。政治的制度の変革とは、こういうものだったのかと改めて感じ入った。これは同時代を生きただれもが共有した感慨にちがいない。しばらくして、後にのこったのは、あのロシア革命とは何だったのだろうかということであった。そして、よく考えみると、そのことは何一つ解決めいた回答を与えられないまま、不問にふされ、歴史の闇にうずもれようとしているのである。にもかかわらず、ここでわたしたちは、ともすれば、歴史にたいする皮肉な疑問につきあたる。はたして、ソ連は、「擬似」社会主義としても、マルクスやエンゲルスのそれと関係があるのか、それはレーニンなどの理想の歪曲として位置づけられるのか、それとも、ほんとうの社会主義というものがあったとすれば、それはどのようなものであったのか、というような疑問である。合否があらかじめわかった入学試験のようであるが、その論理のからくりは検討するにあたいするとおもった。
こういう疑問には、歴史家が都合のよい回答をあたえてくれているはずだ。歴史における「裏切り」や「歪曲」をとりあげる歴史家にことかかない。トロツキーとおなじような視点から、ロシアの歴史を描いたドイッチャーも、そのような歴史家の一人だ。ドイッチャーはロシア革命50周年にあたり、ソヴェト・ロシアの革命を未完の革命として、持続と断絶の両面から次のように追認している。
そのひとつは、ロシア革命はブルジョア革命と社会主義革命を結合したものだった。だからこそ、この二つの革命の衝突がその後のソ連の国内体制を支配した。これは労働者と農民の対立として、あとあとまで尾をひいた。その上、生産力の社会的編成のブルジョア化ができていないところに、計画経済をもちこんでしまった。
このことは、ロシアが社会主義の必要条件として豊富な物資と公共施設をもっていなかったこととつながる。つまり低開発国の社会主義を標榜する政権が同様に当面する事態のなかにいたのだ。こうして欠乏は不平等を産んだ。これにくわえて、何年にもわたる世界大戦と内戦、外国の干渉にため工業化は遅滞した。このなかで、労働者階級は内戦で分散し、内部分解がはじまっていた。その階級は基盤をなくして、もはや社会的勢力としては存在しなくなっていた。これが、体制の官僚的堕落の起源である、とドイッチャーはいう。このような状況下では、「プロレタリア独裁」とか「ソヴェト民主主義」は空洞化したスローガンにすぎなくなった。労働者階級が不在のあいだ、官僚はプロレタリアートにかわって「独裁」を行使する代理権を獲得したのである。ここに、官僚独裁、無統制の権力および権力の腐敗がまっていた。その上、おもてむきの一時しのぎの方便として、単一政党制を樹立した。これらは、明らかにレーニンやトロツキーの当初の意向と思想に反していた。体制の変容は革命の思想の堕落であった。ひとびとは、社会主義とは、国有化と計画経済のみでなく、スターリンの個人崇拝、特権主義、反平等主義、国家の警察化と裏腹であることをおもいしらされることになる。スターリニズムは公式の理論であったため、社会主義とマルクス主義の堕落とともに、国際的にも、西欧などの労働運動にも甚大な影響を及ぼした。ロシアでは、革命の熱望と革命の現実は、ほかのどこよりもはるかにかけ離れていた。革命はこの矛盾をひたすらかくすために、さらにテロと粛清を拡大再生産させねばならなかったのである。
ここでは、多くの歴史家とおなじように、トロツキーと区別がつかないほど、うりふたつの論理が語られている。つまり、資本主義が成熟しないまま、プロレタリアートが政治権力を掌握したということ、また、それが国際的孤立の代償をはらわねばならなかったこと、そして、その貧困の一般化が官僚化をまねいたことなどである。しかも、それらが、レーニンが、当初、考えていた革命の<理想>のイメージを大きくゆがめた(堕落させた)というのである。ここにあるのは、内外の社会的情勢が社会主義の道をゆるさず、不可避に社会主義への所定のコースを大きく逸脱せざるをえなかったということである。こうして、<現実>は<理想>とくいちがってしまった。
廣松渉は『マルクスと歴史の現実』のなかで、ソ連・東欧圏が瓦解したあとになって、マルクス・エンゲルスの思想的アクチュアリティが、後のロシア革命によって保証されたことを検証すると称して、マルクス思想の実験場がソ連邦であったとすれば、「実験条件が果たして正常であったか」ということを考えなければならないなどと述べている。そして、《後進国における革命が先進資本主義国での革命との結合・援助なしに経済建設を進めざるをえなかったという事情、あまつさえ過重な軍事的負担を強要されたという事情、この「撹乱的条件」を無視するかたちで「実験の失敗」を云々するのは短慮の見だ》という。
だが、わたしは、そのような<現実>が<理想>を裏切った(堕落させた)などという<歴史>は、「解体」されなければならないとおもう。なぜなら、<理想>は<現実>に沿うようにつくられるべきであるとおもうからである。また、その<歴史>には、現実社会にたいする目線の錯誤がかくされているからである。
ドイッチャーは次のように述べている。
ここには、革命の持続性に対するシンパシーと、その歪曲にたいする憤りの流れのままにおされて、奇妙にねじまがった論理がある。ドイッチャーは、ここで社会的優先の順序の逆転や、目的と手段の混乱をみつけだしているが、目的が<理想>的イメージで、手段が物質的困窮や官僚制としているのであれば、本来なら、これは全く逆でなければならない。まず、目的であるのは、「国民の物質的、文化的存在の水準」の<現実>的な向上であり、そのために<理想>はどうあるべきかが問われなければならないはずだ。にもかかわらず、ドイッチャーは、ブルジョア社会の未成熟としての不利な条件と国際的孤立が欠乏や不平等を産んだ。このため、あらかじめ描かれたイメージにそって<現実>は推移しなかったという。ほんとうは、これと全く逆の発想で、歴史は描かれねばならない。そういう欠乏や世界大戦があったからこそ、実は、革命は<理想>を必要とし、必然化したのである。ドイッチャーは、労働者と農民の二つの階級の結合が、やがて革命後のロシアの矛盾を拡大したというが、それは結果からみた推論であり、プロレタリア革命が起こったのは、当時の大衆の経済状況と、長引く世界大戦による疲弊という、それ自身他の歴史には還元できない理由があった。そのことを頭においておかないと、トロツキーら左翼反対派からみると、歴史はすべて陰画になってしまう。まるで、ほんとうのあるべき歴史とそうでない歴史がふたつあるかのような錯覚をおぼえてしまうのだ。歴史がふたつないのと同様に、<現実>はひとつしかない。ひとつの<現実>が、その不可避性におされて<理想>を産みだしたのである。そして、<現実>はスターリン主義官僚を産みだし、そこから脱出するためみずからの<理想>が力をえたのである。
ドイッチャーやトロツキーは、<理想>の鏡をとおして歴史をみている。だからこそ、<現実>は逆立ちして映るのであり、それ自体、<理想>と<現実>の逆立ちである。まず、<現実>があり、その不満や願望が宗教を産むのとおなじように、<理想>という現実の吐息を生む。ここでは、まず、<理想>があって、それとは逸脱した現実の理由づけをあれこれさがしまわっているのだ。ここで、ドイッチャーやトロツキーは、正しいことを正しく言ってしまっている。しかし、彼らが批判するスターリン官僚たちだって、彼らと同程度の歴史認識をもっていたのはまちがいない。だからこそ、逆説的にテロや収容所をつくったのだ。それはだれのせいでもない。それ自身、彼らが頑固にもっている<理想主義>の所産なのだ。
特に、トロツキーは、官僚制度にたいしては、資本主義にさえおよばない低い労働生産性が、不公正な分配とカースト制度をまねいたと、その成り立ちをとらえている。にもかかわらず、わたし(たち)の見方によると、「ソヴェト・テルミドール」以前へ官僚の意識改革を切望しているかにみえる。官僚は、現実を捩じ曲げ、虚偽の情報をたれながしながら、無責任にもジグザグな政策を大衆におしつけた。しかしながら、トロツキーは、官僚が、ソ連邦がおかれている実態を歪みのままに認識することをのぞみ、指導することをもとめ、そのために彼らの意識を啓蒙することに主眼がおかれている。トロツキーの官僚たちへの投げかけは、たとえばこうだ。「きみたちは社会主義を信じるのか。信じるならソ連邦が共産主義社会を実現したなどというたわごとを撤回しなさい。一国社会主義の実現などという虚妄の神話をすてて、世界革命の理想にもどりたまえ。そして、世界で初めての労働者国家の栄光を守ろうとするなら、いままでとってきたみずからの政策の誤りをすべて認め、その権力を、即刻、労働者大衆にひきわたしなさい。そして、労働者大衆の未来を信じることだ。」
だが、当の官僚たちには、トロツキーの詰問はあまりに空想的にみえた。だから、あたかも事実は、「信じる」ことが、真実らしくまことしやかに流布されてきた現実と拮抗できないことを知っていた。その<理想>を裏切った歴史的根拠をトロツキーと同じ程度に分かっていると認識していたからだ。その点で、トロツキーの大衆意識の成熟による官僚制の打倒への期待とは裏腹に、<理想主義>の安売りを官僚にもとめている限りにおいて、実は、官僚制を無意識のうちにささえていたといえる。
また、ドイッチャーやトロツキーの描く歴史には、理念のイメージが強すぎて、まず、理念があり、それとひきくらべて現実をその逸脱(裏切り)とみなし、その結果、また、理念にかえっていく理念の自己円環のパターンがみられる。おそらく、これがマルクス主義というよりも、マルクス<学>の最終地点なのだ。そして、いわば、<理想主義>的な理念の限界ともいえる。
これは、もとをただせば、レーニンやトロツキーの描いた<理想>がはじめから先験的にかんがえられ設定されていたからである。レーニンが「国家の死滅」をいいだしたのは、マルクスの『フランスの内乱』から演繹した論理であった。ただし、『国家と革命』が書かれたときの状況は、革命の予想外の勃発によって、大衆の意思とそれに即応して革命に形を与えようとする衝迫のなか、現実的な葛藤をみずからのものにしつつあった。それは、マルクスが、その『フランスの内乱』をパリ・コンミューンのただなかで書き、コンミューンの政治形態を、これが《ついに発見された政治形態であった》と述べたと同じ立場に立っていたときである。少なくとも、これは、マルクスが一般的な演繹論理ではなく、コンミューンに参加した多くの労働者が導きだしたものを、歴史の必然的な力学とみなしたところと同じであった。ところが、トロツキーは『裏切られた革命』において、レーニンの<理想>から演繹してソ連社会の歪曲を批判することになる。これは、もともと、レーニンの「国家の死滅」の思想が、マルクスにとっては、大衆の生活利害に一致していることをみないところに原因があった。「国家の死滅」とは、大衆の生活水準が少しでもよくなることと同義である。だからこそ、マルクスは「国家の死滅」をもって人類の前史が終わると言ったのである。人類の経済的生活、文化的生活が向上するための条件としては、「国家の死滅」が最終の段階である。このことが、忘れられ、逆転して「国家の死滅」が、経済的生活の改善の結果とみなされたときから、理念の逆転は避けられなかった。そもそも、<歴史>にたいする構えが異なっていたのだ。だが、ドイッチャーと同じくこれらは批判の<歴史>にしかすぎない。それにたいして、マルクスにとって方法の核心にあったのは、すべての歴史の<批判>または「歴史の終焉」であった。
すべては原則にたちかえらなければならない。歴史の基本は<現実>であり、この<現実>は、物質的、文化的貧困を脱しようとする大多数の大衆の意思と利害関係が、その内容である。それが、<理想>をうみだし、レーニンやトロツキーの思想を支えた当のものなのだ。わたしたちは、大衆の意思と利害関係をこそ、歴史の原動力とみなさなければならない。歴史認識はともすれば逆転し、レーニンやトロツキーの思想によってうみだされたかのように勘違いをしてしまう。だから、マルクスがあれほど批判した<学>は、再び、自己の殻に閉じこもってしまっている。
ここで、もう一度、マルクスにたちかえって検証するほかない。マルクスの思想は、どこからはいっても、<理想>が大衆の<現実>をはなれて語りかけてくるようなことはないことを確認するためである。
ソ連邦の崩壊に際しても、なお、革命ロシアへの最期のオマージュを捧げている黒田寛一は、次のように述べている。
そして、レーニンのボルシェビキ党に領導された労農兵ソビエトが史上はじめて樹立した労働者国家が、そのスターリン主義的変質を克服すると称して開始されたゴルバチョフの「ペレストロイカ」政策によって打ち砕かれ、ソビエト社会主義連邦が終焉したという屈辱を味わったとつけ加えている。ここで、「反帝国主義、反スターリニズム」を政治信条にしてきた黒田がソ連邦の崩壊に際して、何と何を天秤にかけて屈辱と感じているのであろうか。社会主義の理念であり、マルクス・レーニンにたいする冒_であるとみなされているのだ。いや、スターリンは間違っていたが、ついでにレーニンの社会主義理念やレーニン型前衛党の投げ捨てが許せないのだ。したがって、黒田の反スターリニズムの主張は、少なくともレーニンとトロツキーが指導したということで、ソ連という労働者国家の存在だけは認めていた。その「労働者国家」を埋葬することが黒田には許せなかった。
しかし、かつて、対馬忠行は、ソ連が生産手段を国有化しているというだけで、「労働者国家」であるかのような偏見にたいして、「官僚独裁制国家資本主義」と正当に呼び、次のように戒めた。
その上にたって、黒田はスターリン官僚制専制国家にたいする第二補完革命を夢想した。その場所でわたし(たち)の反スターリニズムと、黒田のそれとは根拠がまるでちがっていたことにおもいあたることになる。わたしの中にはあらためて、疑問が頭をもたげ、回り道をしなければならなくなる。反スターリニズムとは一体何だったのか!
スターリン批判は、もともと1956年2月のソ連共産党第20回大会において、当時のソ連共産党第一書記のフルシチョフが、その報告において、過去30年余にわたってソ連共産党および国際共産主義運動の最高指導者として君臨してきたスターリンによる個人独裁、個人崇拝、大量粛清などに対する赤裸々な暴露と批判を契機にしたものであった。この権力の中枢からのスターリン批判を決定的なくぎりとして、スターリン主義という20世紀の妖怪から左翼運動が解き放たれなければならないときがやってきたのである。
このスターリン批判は死後3年を経て、レーニン以後の国際共産主義運動において絶対的権力をもってきたスターリンをこの玉座からひきずりおろしたという点で、世界史的な事件であった。これに呼応するかのように、56年6月ポーランド、10月ハンガリーにおいて民衆暴動が勃発し、ソ連軍が武力介入することによって、スターリン批判は東欧諸国に大きな波紋を広げていった。クレムリンの指導部によって口火をきられたスターリンとスターリ二ズムの弾劾は、世界の国際共産主義運動に大波乱を起こすと同時に、一大試練にさらした。
黒田はわが国ではいちはやくスターリ二ズム弾劾の問題をとり上げ、スターリン批判の問題がなによりもまず、共産主義者ひとりひとりの主体性にかかわるマルクス主義の哲学的問題としてうけとめられなければならないとした。
こう述べた黒田は、後進国ソ連邦における政治経済体制や党組織の官僚制度化などの客体的条件がスターリンへの極端な崇拝を助長させた要因となったという。それに加え、ロシアの独特の「ロシア共産主義」とよばれるような宗教的信仰に似た精神的風土が合体して、スターリン主義の行為とイデオロギーを発生させたと続け、このようなロシアの過去との訣別こそがスターリン批判の基本であるとみなしている。
そして、マルクス主義が宗教的信仰の対象になるソヴェト・ロシアの共産主義は、直接には、共産主義者としての主体性の欠如に由来するものであるという。これは、ソ連邦に限られたことではなく、主体的には、共産主義者において個人意識が個人意識として確立されていないからにほかならない。この主体性の欠如、その客観主義が、極端な個人崇拝や権威主義、教条主義、盲従主義の根拠になる。そればかりか、反スターリ二ズムでさえもが、裏返しの個人崇拝に陥り、一切の誤謬や欠陥の責任をスターリン個人になすりつけることにもなる。だから、ここにおいてスターリン批判は、ひとりひとりの主体性に関わる問題として共産主義者としての自己自身への反省と批判こそが提起されなければならないとする。にもかかわらず、スターリン批判を他人事のようにうけとめるスターリン主義者もいまなお生き続けている。スターリン崇拝とスターリン理論にたいする弾劾がそれ自体で非主体的で、無理論的でしかなかったからである。それが上からのなしくずし的なスターリン批判の限界を示すものであった。その原因は、マルクス主義哲学そのもののなかにある客観主義的偏向に由来している。
だから、スターリン批判は、マルクス主義哲学の客観主義的偏向との対決でもある。このスターリン哲学の批判的克服がスターリン主義批判の基礎にすえられなければならない所以なのだ。では、その客観主義とは何か。黒田はマルクスの「実践的唯物論」が受け継がれていない点に着目した。人間主体の唯物論究明、実践論ないし労働論の不在、すなわち、唯物主義的な社会経済理論、史的唯物論の機械論化、図式主義的なイデオロギー論、人間がいない認識論などのエセ・マルクス主義理論がそのあらわれであるとした。エンゲルスやレーニンなどの唯物論のなかにあった不明確な点や客観主義的な要素を明瞭にし、マルクスの実践的唯物論のなかに位置づけなおすことが現代的課題であるという。こうして、スターリン批判はマルクス主義哲学の批判とならざるをえない。その意味でマルクス主義哲学が客観主義としなっていまっているからこそ、スターリン批判を行われなければならないのであり、「スターリン批判」の批判を行わなければならない根拠なのだ。このようにしてはじめて、表面的で一面的なスターリン主義批判をのりこえ、裏返されたスターリン主義にすぎないレーニン主義を尺度にすえ、その権威によりかかるだけのそれではなく、真にスターリン主義を批判し克服するための道である。それが日本革命の具体的指針をあみだしていく土台であるとむすんでいる。
また、スターリン批判に引き続いて起こったハンガリー事件は、進歩的知識人の試練に輪をかけた一大事件であった。このハンガリー事件のはらむ問題を大きくとらえる黒田は、スターリン主義の窓口から見る限り、そのゆきづまりに陥ってしまったかのように映った。それが彼らの思想の限界状況を示すものになった。ハンガリー事件がスターリン批判を推し進めるための突破口になったからである。黒田にとってハンガリー事件は第二補完革命であり、それにうちつづいてソ連圏全体にわたる革命の序曲になければならなかった。ハンガリーの第二補完革命は全世界のスターリニズムの崩壊を提起した。
だが、スターリン批判を上からはじめたスターリン主義官僚は、もともと、ソ連の一般民衆の不満を未然にふせぎとめ、自己の特権を守り抜こうとする自己保身からでたものであった。だから、スターリン批判の極端化を、一方で防ぐ必要がある。スターリン批判を徹底して遂行することは自己の特権的地位を脅かすことにつながるのである。ハンガリー事件はこうして、クレムリンの官僚の手によって軍隊の手で扼殺された。そして、国内的矛盾を隠蔽するために、そのかわりに反帝闘争にかりたてる手段が強調されることになる。帝国主義の侵略と陰謀と挑発をがなりたてるクレムリン官僚のこうしたやり方のあらわれが彼らの「平和」政策の基本方針になった。
彼らの「一国社会主義」路線が、資本主義陣営と社会主義二大陣営間の「平和共存」路線と結びつき、プロレタリア世界革命の放棄そして民族共産主義となってあらわれてくる。これがフルシチョフによるスターリン主義の修正版であった。フルシチョフ路線はスターリン主義の最後の克服では決してなかった。それはスターリン主義の土俵のうえで、それを社会民主主義的に粉飾したものにすぎない。こうして、彼らは、全世界の労働者階級の階級闘争や革命闘争を「平和共存」のスローガンでもって、絶えず阻止する役回りを担うことになった。この「平和共存路線」をもって、日本革命についても、日共は、人民民主主義形態の革命が議会的手段による「平和的移行」によって革命がおこなわれるという図式を密輸入することになるのである。
この人民民主主義革命とはコミンテルン型の二段階革命論の新装版でしかない。二段階革命論は中進、後進国における「ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ」という戦略的展望にもとづくものであるが、黒田によるとその誤りは次のようになる。
第1点目は現代世界が全体として帝国主義の時代にはいり、ソ連邦が成立するなど帝国主義列強が根底からゆさぶられており、「世界革命の前夜」にあるということ、ここにおいてはプロレタリア世界革命以外には考えられないということである。
第2点目は次のように語られている。
そして、ブルジョア民主主義的諸課題は、古典的にではなく現在的・場所的に解決していくということが強調され、次のように戦略化される。
とされるのである。ここで黒田が言っていることは、要するに、ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命へという歴史的な順序は、革命の対象を時間化してとらえており、本来、現在的、場所的に統一して考えられなければならない論理的把握を欠落させているということである。つまり、<ここで>という問題性を、空間の時間化が外挿されることによって、<いま>ありもしない歴史的過去を現実に当てはめようとしている、といっているのである。そして、黒田は帝国主義的現代において実現されるべきいっさいの革命の本質規定はプロレタリア独裁にほかならず、後進国、中進国などにおいても、同時にブルジョア民主主義的な課題が改良的諸任務の一環として遂行される。しかも、その場合、帝国主義経済の世界史的性格とプロレタリアートの世界史的使命のゆえに、そのプロレタリア革命はつねに世界革命の一環として実現される必然性があるとされる。
ここにあるのは、「帝国主義経済の世界性」という言葉が誇大に意味づけられることで、「現在的・場所的」という解釈を接木して、また、そのうえにあるべき「使命」という当為をつぎはぎし、革命を無理やり凝縮した世界に押し込んでしまった印象の世界像が示されている。この世界像に生命を与えることができるのは、唯一、「世界革命の前夜」という幻覚にすぎない。なぜなら、《論理的把握の歴史的解釈への解消》という言葉で示されているのは、ただ、歴史的時間の空間化の断面にすぎないからであり、逆の、空間の時間化を無視し、双方向の認識を欠落させているその限りで、その結果、時間と空間の位相を混同させた世界認識にもとづくプロレタリア世界革命という「あるべき革命」しか残らないのである。ここでは、黒田は、現状認識のおそまつさのうえにあぐらをかいて、日共の二段階革命戦略にプロレタリア革命を対置するにすぎなくなっている。しかも、歴史的時間の空間化は、もとをただせば、黒田がスターリン批判をはじめたときからあった思想的・哲学的錯覚である。
他のだれよりも早くスターリン批判をはじめたころ、個人崇拝をすべてスターリン個人の責任になすりつけようとした御都合主義的なスターリン批判をやり玉にあげながら、スターリン批判は同時に党組織そのものの自己批判として、党員としてのおのれ自身の誤りの自己反省としてうちだすことが大切であると言い、個人崇拝に陥ったスターリン主義の土壌にたいしても眼を向けるとして、次のように続けている。
ここでみられるような主体的=倫理的問題に収斂する言葉を、スターリン批判が出発して間もない時点のため、そのなかにもスターリン主義の残滓が不可避にまとわりついていたとすませることができるだろうか。そうではない。これは、スターリン主義からの主体性の回復の問題をとりあげ、批判を進める黒田の基本的な構えから不可避に産まれでてきているものだ。いわばスターリン批判の支柱になる概念であり、これをぬきに黒田の方法を語ることはできない。また、この点は彼の革命戦略が「時間の論理化」で解釈されたと同様の、黒田の倫理性の所在をあきらかにした箇所である。
黒田のプロレタリア党をめぐる人間は、本来、<いま>と<ここで>で構成されなければならない世界像のなかにおいて、<いま>が奇妙に縮退してしまい、ただ<ここで>に収斂・変容してしまう奇妙な風景に裏づけられている。時間と空間の交叉が、あたかも空間の方角に拡延して、ほとんど時間の感覚を消失してしまっているのだ。そのため、疎外された階級対立を止揚する運動が、なんの媒介もなしに<いま><ここで>実現するかのように個人にたいして倫理をおしつけている。これは時間で区切られた目的・過程の境界をなくし、現在の世界を極端に肥大化させてはじめてなりたつ世界である。
だが、世界は、または大衆の生活自身は、空間のなかだけにあるものではない。類としても個としても特定の時間として<いま>を生きている。革命を語るためには、まず、この現実をまず認めなければならないはずなのに、黒田によると、組織と人間をめぐる弁証法のなかにあらわれた大衆の生活は、<いま>を吸収した<ここで>だけが、よりどころとなっているのだ。何より問題なのは、資本主義に対抗するはずのためのプロレタリアの運動が、このように「現在的・場所的」に展開されているところに、ほんとうはすべての責任があった。だから、「現在的・場所的」とされる場所は「非在」としての時間である限りで、非現実的な場所にほかならない。もっといえば、黒田がマルクス主義を発展させると自称している反スターリン主義の立場は、<学>の非在化が<学>の根拠になってしまっているといえる。
<ここで>を無限に拡延させていく方法は、彼の「プロレタリア・インターナショナリズム」または「プロレタリア世界革命」の図式の中に典型的に示されている。彼は、1956年のふたつの事件、スターリン批判とハンガリー革命の意味するものを、20世紀の共産主義運動の断絶として主体的にとらえたもののみが、真の革命的共産主義者という言い方をしている。それを主体的に汲みとり、反スターリニズムを世界の革命勢力と連繋して推し進めていくことがインターナショナリズムであるとしている。それに比べれば、戦後日本の大衆運動の結節点になった60年安保闘争などを誇大に評価することは、戦後日本革命の挫折にかかわる根本的な問題への追求をすりぬけているとするのである。だから、多くの現代日本「左翼」思想が、日本の戦後を画する大衆運動への即自的な反応に終始しているとみなし、思想的頽廃が象徴されているかにみえた。そして、それらは、マルクス主義の適用の論理を欠落しているとしている。
黒田には、次のような思想の方法論がある。つまり、本質論と実体論そして現象論の区別であり、本質論は現象論から実体論へさらに本質論への下向的認識の螺旋的運動に媒介されたその産物であり、他方、本質論の適用においては、新しく形成された歴史的現実の特殊性、個別的条件の科学的な認識に立脚して、それを本質的で普遍的な理論の特殊的、個別的な現象形態としてとらえかえすことにより生きた現実形態論を展開することができる。これが上向的展開とよばれるものである。したがって、下向的認識の過程は、現在から過去への歴史的反省としての意義をもち、また、上向的綜合の存在的展開は過去から現在への歴史的構成としての意義をもつものであり、この意味から直接的現実の論理的把握はその歴史的把握と本質的に統一されているという。この本質論と実体論と現象論が立体的なかたちをとってからみあっていることをみないのが修正主義だとした。
ところで、黒田にとって本質論とは19世紀資本主義社会の理論的把握の産物としてのマルクス主義理論であり、適用の論理はもっぱらそのマルクスの本質論にもとづいて、現実社会に適用する論理を上向的にもとめていくこととされる。ただし、そのためには主体的な立場を確保して、理論や法則を適用しようとする実践的な立場が不可欠な条件となる。なぜなら、その認識主体が欠如するならば、たんなる「あてはめ」となってしまうからである。現実へ理論が押しつけられ、現実は理論によって裁断されてしまうはめになる。これが公式主義や教条主義の根拠になっているのである。
だから、黒田は次のように釘をさしている。
ここで言っている黒田の論点は、要約すると、理論認識について宇野経済学をまねて、原理論と段階論と現状分析のような立体的な構造にした点であり、それによって、理論と現実を一対一に対応させる鏡的反映論を退けたことである。だから、19世紀の市民社会に対応したマルクス主義にたいして、20世紀の大衆社会の状況に直接対応させた歴史的継起としての新しいマルクス主義の登場などという、平板な構造改革の論理を批判しえたのである。また、本質論と現象論を混同させてプロレタリア独裁の理論をうちたてたレーニンやトロツキーの思想をも批判した。
だが、ほんとうは、こういう方法にこそ、思想のドグマチズムは胚胎していたのだ。なぜなら、この上向法には、もともとマルクスの思想そのものは対象外におかれているし、そのうえ、上向法のなかで実体論や現象論においては、過去から現在をみる時間化を遮断されており、いわば、認識主体が「現在的・場所的」に限定されている。つまり、無理やり<いま>が<ここに>吸収されてしまっている。これが現代の創造的マルクス主義の発展というのだから、その発展とはマルクスがマルクスにかえっていく自己円環にしかならないはずだ。いわば、認識した<学>の流れが堰きとめられ、あとは箱庭のなかで<学>と<学>のはじけあいや、融合や反目の連鎖しかのこされなくなってしまっているといわなければならない。いいかえれば、ここにあるのは<学>の空間的把握であり、これがヘーゲル的な意味で理念の自己展開にならなかったらどうかしている。まさに、黒田が繰りかえしているように、「革命的共産主義」や「革命的マルクス主義」の立場からはじまって、またそれに自己回帰する一連の運動の循環である。だから、「プロレタリア世界革命」や「インターナショナリズム」は、いうところのスターリン批判やハンガリー事件に触発された「革命的マルクス主義」という<学>の体系の一契機にすぎない。黒田が大衆の方へ顔をみせる瞬間は深く閉ざされているのだ。
いま、黒田のトロツキズムや第四インターの遍歴は問わないにしても、黒田が反スターリン主義という名の「スターリニズム」というのと同じく、大事なのは反スターリニズムの質の問題である。なぜなら、スターリン主義が反スターリニズムというマルクス主義の鏡を反射することなく、資本主義によって崩壊したいま、歴史的に第一に問われなければならないのは、反スターリニズムが資本主義を超えるものであったかどうかということである。
黒田など一般のスターリニズム反対派の範疇には、党派闘争の不毛性にかかずらった分だけ、奇妙な具合に目的と手段の錯誤があった。ハンガリーの大衆が、スターリン主義によって搾取されていることを自らのものとして自覚し、反スターリン主義をもって大衆がそれを乗りこえようとしたことを評価したまではよかったが、それがいつのまにか、時間意識が空間意識にすりかえられる錯覚をまぬがれなかったため、ハンガリーの大衆のどこに感情移入したかが問われなければならなかったのである。だから、「ハンガリーの大衆の抵抗が挫折したのは革命的マルクス主義で武装されていなかったからだ」というような本末転倒が起こるのだ。そこには、大衆が経済的貧困や文化的貧困から解放され、より豊かさを求めることを第一とする思想よりも、状況次第では、それに耐え忍ばなければならないこともあるなどという欺瞞や、革命の完遂のためには、未来を先どりした倫理をもとめなければならないというような倫理主義が、主体性の名をかりて思想の前面に出てきてしまった。また、現実の社会構造の変質にともなって変わっていく大衆意識を追跡していくという柔軟な思考は、修正主義として蓋をしめられてしまった。こういう傾向のことを、骨がらみになった悪しき政治主義というのであり、もっといえば大衆の解放とは無縁の官僚的<学>の体質というのだ。
わたし(たち)にマルクスのことをあらためて考えさせてくれるきっかけを与えたのは、ベルリンの壁の崩壊とソ連邦の崩壊の衝撃だった。黒田とはちがって、反スターリン主義は目に見える現実の力となって、わたしたちの眼前を嵐のようにとおりすぎていった、とおもった。嵐のあとに何が残ったか。一瞬の静寂と沈黙だった。しかし、問われなければならないことはたくさんあった。「プロレタリア革命」という言葉の意味がその全体をあらわした。なぜ、「プロレタリア」なのか。また、マルクス主義とは一体何だったのかという問題意識が尾をひいた。その代表的な言葉を上げると、「一国社会主義」であり「世界革命」、「国家の死滅」の問題だった。また、「前衛党」は必要かどうかということだった。だが、ほんとうにわたし(たち)が立ち止まっていたのは、マルクス主義という「理想」が転覆したことにたいするとまどいだったのではないか。その上で、最大の疑問は、「反スターリン主義」でソ連邦の崩壊は理解されるのかということだった。反スターリン主義をしのぐもっとおおきなうねりが大衆をとらえてソ連邦は瓦解したのではなかったのか。そういう意味からいうと「反スターリン主義」のスローガンさえ、俎上にとりあげるべき対象になった、といえる
マルクス<学>という名の神話は多岐にわたっている。だから、反マルクス<学>の対象の幅も広い。そのなかでも、とりわけ前衛党の存在の絶対不可侵性はきわだっている。なぜか。前衛党の存在は国家と政治の存在の規定と不可避にむすびついているからだ。国家のなかで政治的意志を表明するかぎり、なんらかの形でフラクションを必要とするという論理である。しかし、そのあり方は一様ではない。国家の歴史性段階に深く規定されているのである。革命の戦術として、党の前衛性を前面におしたて、大衆にたいするその強力な指導力を強調したのはレーニンであった。また、レーニンの命題を金科玉条のように掲げて、レーニンの時代とそっくりそのままのそのハードさを誇る組織もあれば、ややソフトに変身したものもある。だが、彼らに共通しているのは、革命の前衛的組織の指導がなければ、革命は達成できないという確信である。
マルクスの時代においても同様な議論がかわされていた。第一インターナショナルにおいて、マルクスとバクーニンとの間で激しいやりとりがあった。マルクスは労働者の政治活動を強調して無政府主義の政治否定論を批判し、労働者が自前の政党をつくることを強調した。バクーニンにとっては国家の破壊が自由な社会の前提であった。だから、バクーニンは、ブルジョア国家のみでなくプロレタリアによる国家権力の奪取も否定した。バクーニンは、近代労働者階級の組織的な行動、特に、その政治的行動を否認したのであるから、必然的に、マルクスの組織的行動、国家機関をつくりかえる政治革命の構想は、国家主義や権威主義、官僚主義に見えた、と一般にはいわれている。
だが、マルクスとバクーニンとの間には奇妙な議論のねじれがあった。バクーニンは次のように主張している。
これは、マルクスに向かって言っているのではなく、ブルジョア出身のブルジョア的社会主義者、急進的ブルジョア共和主義者を相手どって、労働者の支援によって政治革命で「政治的自由」を獲得しても、その権力はブルジョアに利するだけで、労働者はそれを社会革命のための手段として有効に使うことはできないとしているのである。だから、「政治的自由」は欺瞞的な見せかけであり、虚構にすぎないとする。労働者にはその自由を享受するための余暇と物質的手段が欠乏しているからである。しかも、たとえ、代議政体に選出された労働者がいたとしても、これらの労働者代表は、事実上、労働者たることをやめてしまい、ブルジョアになっていく。ブルジョア的労働者ほどしまつに困るものはない。
少なくとも、バクーニンのこういう理念がマルクスとの間に矛盾する根拠は見当たらない。マルクスは、社会革命をぬきにした政治革命をバクーニンと同じく認めない。また、社会革命と同時に進行しない政治革命には意味はないとマルクスなら言うだろう。バクーニンはここで、政治革命と言っているのはブルジョア革命のことであり、社会革命が労働者の経済的、社会的革命をさしているのである。バクーニンは、ただ、ブルジョア革命→労働者の経済社会革命の二段階革命が錯視にみえたのである。マルクスとバクーニンの乖離ははた目ほど大きいものではなかった。ただ、両者が一点だけ違うとしたら、政治革命としての「プロレタリア独裁」を認めるか否かという点にかかってくる。
しかし、のちの歴史にはバクーニンも予期しなかった飛躍が出現した。政治と政党の距離について、いつのまにか政治には政党が必要であるというような強引な理屈ができてしまった。これは国家と政党の関係の言い替えでもある。そして、もっと強引な飛躍は、この政党が強力な民主集中制のプロレタリア原則を採用さなければならないというような偏見である。これは、のちのマルクス主義の伝統のなかからもたらされた。そこから、マルクスも知らなかった組織論という範疇が生まれた。
ルカーチは、経済決定論(タダモノ論)を相対化するため、階級にたいして「階級意識」という概念を持ち込んだが、これは、確かにマルクスの唯物史観の定式の幅を拡げた。なぜなら、その「階級意識」とは、客観的、経済的な互いの階級的利害の区別をこえた獲得すべき意識であるからである。ルカーチは、その「階級意識」こそが、党と大衆の関係を決める決定因子ととらえる。
もともと、プロレタリアート内部の諸社会層の意識の相違があることによって、前衛党を成立させ、それが組織上の独立をもたらすのである。この諸社会層とは経済的な階層を意味するのではなく、「階級意識」の発達過程における各段階をさすという。そして、こうして産まれた共産党は、プロレタリアートの「階級意識」の発展過程を進めるために次のように闘争を行う。
ルカーチはここで、プロレタリアートに正しい「階級意識」の発展を促すといういい方をしている。そして、客観的な最高の階級意識と事実上の平均的な意識状況の差を埋めていくことこそが、意識的前衛の役割であるとするのだ。
また、そこでは、共産党の組織問題に関する「正しい」理論の機能が不可欠になってくる。その上で、その理論的判断は、プロレタリアートの行為の最高の客観的可能性を代表しなければならない。そして、この理論と党と大衆のあいだには、たえざる弁証法的な相互作用が働いているという。だから、大衆の直接の要求が党の理論のなかに反映されることもある。しかし、それをもって党の本来の目的の独自性が失われるということではない。そのような見方が生じるのは、「正しい」理論についての確信や、プロレタリアート自身の自己認識についてのそれが十分でないことを意味している。それは、共産党がみずからの行動によって、プロレタリアートの階級意識発展の過程を早めなければならないということを認識していないところに生まれるのである。
だから、ルカーチは、大衆との協力のどんな可能性も一般的な方式として採用してはならないとするのである。なぜなら、プロレタリア階級意識の発展と共産党の発展とが平行して発展することはないからである。そして、革命的前衛の意識的な組織的な結合は、どこまでも、その意識的な前衛自体の自由な行為であると結論づけている。
さて、以上見てきた党の存在とプロレタリアートの階級意識をめぐる弁証法に関するルカーチの結論をみて、ふたつの問題意識が生じる。ひとつは、大衆の<正しい>階級意識の最高段階とは何かということ。そして、それを発展向上させるために、ほんとうに党は必要であるのかという党の「前衛性」に関わる観点である。もっといえば、そもそも<正しい>階級意識とは何なのか。もうひとつは、そういう党の理論の<正しさ>の観点を何が保障するのかという「党派性の論理」に関する問題である。
まず、<正しい>階級意識、または、最高の階級意識とは何か。ルカーチには、その<正しさ>を決めるのは、《歴史的過程全体にたいする正しい関係》と言いあらわされているが、ヘーゲル哲学に影響を受けたとみられる発想のもとをたどれば、主観的意識にたいする客観的意識の深化とでもいえる包括的な視覚をさしていることは疑いをいれない。それは、また、ヘーゲルの絶対精神が自分自身を認識する過程に照応するという意味で、まず、目的として階級意識の最高段階があり、それに向けて次第に自己の階級的立場を認識していく階級意識をもあわせて指し示すものである。そして、その際、<正しさ>の基準は、たえず、階級意識の最高段階である。
しかも、その場合、存在と意識との関係で、前衛が意識に喩えられているのをみれば、最高の客観的意識としての階級意識を体現しているのは革命的前衛ということになる。もともと、ルカーチは党と大衆の関係を規定するのは、階級意識であるとしたところからはじまっていたが、いつのまにか、<正しさ>と<最高段階>の言葉がでてきたところで、弁証法は寸断され、歴史的認識の全体性のなかで、前衛意識の優位と、そこから導きだされる大衆の発展過程の固定化の図式化が産まれてしまった。こうなってしまった後では、弁証法的相互関係も何もない。<正しさ>を保障された進んだ前衛が、遅れた大衆を牽引するという構図が定着してしまうのは時間の問題だった。これは、党と大衆の位置をおしはかる媒介概念としての「階級意識」を密輸入したときから、この結末はみとおせた。なぜなら、「階級意識」というものが、精神の自己展開を絶対化したヘーゲルの精神のヒエラルキーの必然的な結果であるからだ。こうして、階級意識の発展過程の温度差がそのまま、党と大衆の間の序列につながってしまってくる。ここでは階級意識とは、ほかでもなく意識の深まり度合を測る尺度になってしまう。ここでは、プロレタリアートは即自的プロレタリアから階級的に自覚した革命的プロレタリアートへの主体的自己形成がのぞまれているのである。
したがって、ルカーチの方法には、本質的には党を超える大衆は存在しないに等しい。というよりも、党を超えるという発想そのものが欠落している。なぜなら、階級意識にとらわれている限り、絶対精神としての究極の認識があり、それが<マルクス主義>や<革命の目的>という理念に支えられているからである。だから、たとえば、党を超えるということは、<マルクス主義>を超えるということを意味してしまうのだ。事実、ルカーチのようなマルクス主義者のいるところでは、いつでもどこでも、党を超えることは、マルクス<学>を超えることでなければならないはずだ。ルカーチの弁証法のカラクリは、党の絶対精神からはじまってその同じ絶対精神で終わるものである。その過程で、階級意識が党を一時的に否定されることはある。しかし、その運動は、必ず、否定の否定によってもとのさやにおさまるようになっている。大衆はこれらの<学>によってからめとられ、その発展度合いを測定され、いやでも上位にたつ党の指導を受けることになる。
前衛党の<正しさ>が正当化されるところでは、一方では、大衆との関係において意識の序列化をつくったとするなら、もう一方では「党派性の論理」をつくった。意識の序列化が、「党派の優越性」と呼ぶなら、「党派性の論理」は党の絶対性を認めるものだ。そのどちらも組織の閉鎖性を明らかにしたのにはちがいない。
「党派性の論理」はセクト主義的固定化に見出される。「党派性の論理」はその歴史性に根拠をもっている。スターリン主義組織とトロツキーなど左翼反対派とのせめぎあいは、歴史に深い傷跡を残して、現在の「党派性の論理」にひきつがれている。
第一次大戦の後、ソ連においてはスターリン派によって粛清されつつあったトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフらの合同反対派は、党内で多数を獲得し、党とコミンテルンを改革するという目標をもっていた。トロツキーは新しい党をつくれという性急なセクト主義をきらい、非公然の党内反対派の結成を組織戦術とした。そして、1929年の世界大恐慌が始まり、ソ連は5か年計画と農業集団化がスターリン派によって開始された。この時期、トロツキーは、国外に追放され、左翼反対派は「社会ファシズム論」に反対し、統一戦線戦術を追及した。ドイツにおける反ファシズム統一戦線の結成を目標にした彼らは、ドイツ共産党内に分派を結成するために闘った。
そして、スターリンの「社会ファシズム論」の結果、ドイツのプロレタリアートの運動は、ヒトラーに圧殺された。そして、その反動としての右翼的な「人民戦線戦術」により、またもやプロレタリアの運動を失速させた。このようなスターリンのジグザグな対外政策がついに、ドイツのプロレタリアの運動をヒトラーに敗北させられる。この歴史的事件を前に、トロツキーはコミンテルンの破産を宣告し、第四インターナショナルの樹立を提起する。
第二次世界大戦の勃発によって世界的な動乱のなかにはいった1938年から40年の時期は、コミンテルンは、民族排外主義、祖国防衛の愛国主義をあおり、ファシズムの嵐に対抗するため、スターリンの一国社会主義のイデオロギーとむすびつき、「ソ連防衛」のスローガンのもと、ソ連中心の従属体制がつくられた。こうして、ソ連の国内外を問わず、スターリン主義体制が強化され、世界のプロレタリア運動はその方向性を全く見失う結果になった。しかし、1938年にコミンテルンに対抗として樹立された左翼反対派による第四インターナショナルは、その活動をおもうにまかせぬまま早くも分裂した。それでもヨーロッパにおいては、ナチス占領下のパリにおいてトロツキストの非合法の地下闘争が組織されていた。この時期のトロツキストは、スターリンの戦争協力方針に反対しつつ、反戦闘争のための労働者組織の共闘を組織し、帝国主義国の敗北、帝国主義戦争の内乱への転化、プロレタリアートの権力樹立を綱領にして闘った。だが、第四インターナショナルが樹立されてから2年後に、トロツキーはスターリンによって暗殺され、トロツキスト運動は危機に立たされることになる。
1943年にはユーゴスラビア共産党に指導された反ナチ闘争はスターリンの指令にも反対しながら、帝国主義にたいして勝利をおさめた。ひきつづきソ連軍はナチスに反撃を開始した。こうしてナチスは敗北した。だが、スターリンの人民戦線戦術(二段階革命論)はヨーロッパのプロレタリアートの権力樹立の運動をおしとどめる役割を果たした。さらに、ソ連軍は東ヨーロッパに進駐を開始し、ソ連緩衝地帯をつくり、「人民民主主義国」と名づけられた。こうして、世界の戦後体制は、スターリン主義派の党派論理によりかたちづくられた。
歴史のダイナミズムは、党派政治の只中で、あらゆる裏切りと歪曲にまみれ、また、血塗られた途方もない数の大衆の死体の累積の上になりたっている。そこでは、党派思想にたいして、また、別の党派思想がうごめき、その犠牲を膨らましている。ここで、確かなことは、批判すべき対象をスターリンとその一派のみに限定することはできないということである。また、トロツキーや左翼反対派の側につくことが、歴史の審判をもたらすものとも考えられない。スターリン派をいろいろな理由をつけて擁護することも、トロツキー派につくこともたやすい。だが、党派思想のダイナミズムがいかに歴史の裏面を形づくり、その中でいかに多くの大衆がうごめいていたかを測ることが困難なのだ。こういう擬制は、ソ連邦の崩壊、東欧圏の解放によってすべてぬぐわれたか。とうていそうはおもわれない。「党派性の論理」をのりこえない限り、ぬぐわれないものだからだ。
黒田寛一の組織論をみると、前衛党を職業革命家集団にまで矮小化したセクト主義からの脱皮は、たとえば次のように想定されている。革命的プロレタリアートの前衛組織は、既成の左翼諸政党や労働運動の「内部」に入り込み、革命的マルクス主義者の政治集団との関係においてその実態的基礎をなし、闘争を具体化して、左翼諸政党や労働運動の公認指導部をのりこえ闘いを推進する下部組織の役割をになう。また、公認指導部の日和見主義や誤った闘争方針を是正し、闘争全体になかで分派活動の役割もになっていく。そして、こういう、「内部」の組織と「外部」の政治集団が統一して闘争を推進することの意味は次の点にある。
黒田の組織戦術は、要するに、労働者に「外部」からのみ働きかけることによって、同心円的に党派を拡大していく方針にたいして、党派を横断的につなぐことでセクト化をふせぐとしているのである。しかも、これは革命党と労働者コンミューンの母胎である労働者評議会との間においても同様に考えられている。しかも、それだけではなく、この前衛組織は自己の物化に無自覚な賃金労働者が世界史的使命を階級的に自覚した革命的プロレタリアートとして主体的に自己形成をなしとげ、共産主義的人間に脱皮していくための舞台とならなければならないのである。したがって、それは単に政治組織の機能を超えでていくものであり、人間変革をなしとげた実現されるべき将来社会の「共同体」(永遠の今)の萌芽形態とみなすのである。
ここでは、黒田の「反帝・反スターリ二ズム」の世界革命戦略にもとづく歴史的経緯の分析のことに触れないことにしよう。また、既成の公認左翼政党や労働組織のなかに包囲され、その包囲を「反スターリニズム」のスローガンで食い破っていこうとする戦術それ自体に認識論上の致命的な過誤があるわけでもない。それでも、ここには途方もないことが語られている。だが、これは黒田(の組織)のみに特有のものではない。いわゆる「新左翼」と呼ばれる勢力が、かつて、そして今も似たようなことを考え実行に移しているからである。労働戦線の深部にプロレタリア革命党の土台を築こうとする方法は、どのセクトも同じようなことを考え、そして、その際、「党派性の論理」で同じように躓いたといえるのである。
ここにある組織論は、「党派性の論理」の横滑りとでも呼ぶべきもので、政治集団が政治的下向と上向を繰り返すことにその特色があり、政治的志向の混濁したあり方をしめしているばかりか、「党派性の論理」をまたいでしまっている。もとをただせば、何よりも、党派性が絶対性とたちあらわれてくるその労働現場のプロレタリアートにたいする認識が足りないことが、致命的である。
第一の問題点は、革命的前衛が「内部」へ入り込もうとした労働現場が、政治的関係にすりかわってしまうことである。というよりも、革命的前衛が「内部」にはいったとたんに、その集団を規定する関係は労働現場自体ではなくなっていまっているのだ。第二は、その現場が「永遠の今」と呼ばれる社会革命の場に変質してしまっていることである。これは政治集団の二重の変質以外ではありえない。これは政治集団が、社会集団→政治集団→社会革命の順番に、各段階を飛び越して空間的に拡遠してしまっているのだ。政治闘争と社会・経済闘争の区別、そして政治革命と社会革命の区別さえわきまえられないこのような政治集団の<空間的>肥大化は、政治密教化の一歩手前まできてしまっている。これは、黒田の日本プロレタリア革命からプロレタリア世界革命まで空間的に肥大化させる戦略と同様の手つきに基づいている。いわば、黒田には、意志としてなりたつ国家論がまるで欠落しているのだ。三浦つとむは、その国家論のなかで次のように述べている。
政治とは国家意志をめぐる争闘のことである。この国家は観念的に対象化された意志であるから、階級意志からも個人意志からも、相対的に独立している。それと同様に、政治的意志も観念的な対象化された実体でしかない。したがって、階級意志とも直接に、無媒介に同一視されないのは自明である。黒田はこの媒介に目をつぶり、労働現場の「内部」に、そのまま政治的意志を接木しようとしているのである。労働現場の階級意志は、代表的政治家をもってしても、国家や政治的意志に結びつけようもないにもかかわらず、「革命的プロレタリアート」をもって、その媒介を飛び越そうとしているのである。これは、プロレタリアートという言葉を無媒介に使っているせいである。黒田は、「プロレタリアート」という言葉を、ただ概念としてとらえているのみで、何らその実態にまで踏み込んでその<位相>と<段階>の概念がわきまえられていないところからくる錯誤といえる。
マルクスはプロレタリアートの運動が社会の現実的な原動力になるという。マルクスがこのことを導き出すのにどれだけの周到な準備をしたかをみてみるとよい。
それはふたつの意味からである。ひとつは、「だれ=プロレタリアート」が、現実社会の只中から産みだされたということ。もうひとつが、そのプロレタリアートの登場が、「どのような理由で=「歴史の終焉」」にむすびついているか、ということである。したがって、この両方の接点でマルクスにとって<理想主義>は意味を超えているのだ。
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、次のように述べた。
『ドイツ・イデオロギー』のあと、『共産党宣言』を書いたとき、マルクスは30歳であった。『共産党宣言』は、《あらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である》という言葉からはじまっている。そして、封建社会の没落からうまれた近代ブルジョア社会においても階級闘争の例外はない。そこでの階級闘争は単純化され、ブルジョア階級とプロレタリア階級の現実的な支配権をめぐる生活利害の闘争になった。ブルジョア社会では工業、商業、航海、鉄道が伸びるのにしたがって、ブルジョア階級は発展し、その資本を増加させた。ブルジョア階級自身が生産様式や交易様式における変革の産物であった。そして、ブルジョア階級はきわめて革命的な役割を演じてきたといえる。
ブルジョア階級はかつての封建的な、家父長的な、牧歌的ないっさいの関係を破壊した。すべてを《利己的な打算の水のなかで溺死させた。かれらは人間の値打ちを交換価値に変えてしまい、お墨つきで許されて立派に自分のものとなっている無数の自由を、ただ一つの、良心をもたない商業の自由と取り代えてしまった》。また、ブルジョアは自分の生産物を拡大しようとする欲望にかられ全世界をかけめぐり、世界市場をつくりあげた。
そして、ブルジョア階級の特徴は、何よりも、生産用具を生産関係、社会関係を絶えず革命しなくては生存できないことである。生産のたえまない変革、永遠の運動こそがブルジョア社会の第一の特徴といえるものである。そして、あらゆる国々の生産と消費をむすびつけ、世界主義的なものにつくりかえ、すべての民族を文明のなかにひきいれる。農村が都市に、未開は文明に、かれらは、自分の似せ絵にかたどって世界を創造するのだ。
ブルジョァ階級は、かれらの短期間の階級支配のうちに、過去のすべての歴史を凌駕するほどの大量の生産諸力をつくりあげた。自然の征服、機械装置、工業や農業への化学の応用、航海、鉄道、電信、運河など大規模な開発をなし遂げた。そして、このような大規模な生産諸力の発展の歴史は、近代的なブルジョア社会がつくりあげた生産諸関係、所有関係とさえ矛盾するようになる。その顕著な例が経済恐慌である。恐慌は周期的に繰り返され、ブルジョア社会の存立を脅かすまでになっている。社会が自由にすることができる生産諸力が、生産関係の歯止めを突破すると、社会は、より大規模な痙攣が生じるようになる。だから、ブルジョア階級が旧来の封建制を打ち破るためにもちいた力は、ブルジョア自身に向けられることになった。その上、ブルジョア階級は、自らを死に瀕するための武器を鍛えたばかりではない。その武器を使う人々をもつくりだした。それが近代的労働者、プロレタリアである。彼らは、ブルジョア階級が資本を増加するにつれて同じだけ発展する。
しかし、かれらプロレタリア階級の特徴は次のところにある。
したがって、労働の不快さが増すにつれて、賃金が減少する。そればかりか、機械や分業のより多くの導入によって、労働時間や労働量も増加する。かれら労働者はブルジョア階級によって奴隷化され、搾取される。しかも、プロレタリア階級は、小工業者、承認、農民らの没落によって補充され、中産階級をまきこんでますます増大する。
続いて、マルクスは、プロレタリア階級が発展し、ブルジョア階級にたいする闘争が個々のブルジョアにたいするものから、次第にブルジョアに対抗する組合をつくり、同盟を結びはじめ、地方的闘争から一つの国民的闘争、階級闘争の発展の一般的な段階をたどる。この階級闘争は政治闘争である。こうして、プロレタリアは唯一の革命的階級として階級へ、政党へ組織される。つまり、ブルジョア社会は、大工業の発展とともに、その足元からかれら自身の墓堀人を生産する。
では、このプロレタリアの台頭が歴史的にもつ意味とは何か。なぜ、プロレタリア階級なのかという点である。ここが、マルクスの『共産党宣言』のネックである。プロレタリアは無所有である。しかし、そのことが今までの階級と違っている唯一の点ではない。支配階級になろうとするプロレタリアにとって、次のことが今までの階級と異なっている。
プロレタリアートは、すべての階級を解放しないかぎりじぶんを解放することができない。しかも、プロレタリアの運動は、途方もない多数者の利益のための運動であることが必須条件である。つまり、ブルジョア社会で権力を握ったブルジョア階級にしても、自分の似せ絵にのっとり社会を革命した。しかし、プロレタリアは、のっとるべき似せ絵をもっていない。なぜなら、その似せ絵は、汚辱にまみれているからだ。だから、何も、私的所有していない階級としてのプロレタリアは、ただ、変革すること自体が、その存在条件であり、必要性から産まれた目的なのだ。いいかえれば、プロレタリアは、積極性として社会にうちたてるべきものは何ももっていない。その否定性という面においてだけで、歴史的存在であるということになる。そこが、ブルジョア階級の歴史性と決定的に違う点なのだ。ブルジョア階級ばかりではない。歴史を支配したかつての階級ともっとも違う点なのだ。わたし(たち)は、この階級的相違点に、マルクスの「永続革命」の視点をみてとる。ただし、その永続性は、継続性という意味とは、全く逆に、「最後性」という意味あいをもっている。
この《現代社会の最下層としてのプロレタリア階級》の否定性については、従来、プロレタリア階級の歴史的「使命」というように解されてきた。しかし、これは、プロレタリアの役割を、変革するべく運命づけられた「宿命」とみなし、ともすれば、階級意識を倫理的に理解する糸口になってきた。しかし、それはマルクスの主意をくんだ正しい受けとり方とはいえない。なぜなら、マルクスは、ますます窮乏化するプロレタリアに関して、一方では、ブルジョアが、みずからの生存条件を社会に強制する能力をもたない結果とみなしているからだ。いわば、全社会の生存条件をブルジョア社会と矛盾し、相容れないとみているのである。実際にプロレタリアがその後の歴史的過程において、ますます窮乏化したかどうかではなく、論理的な帰結としてプロレタリアをどう位置づけたかを考える際、「宿命」論的な理解がマルクスには全くみられないからだ。むしろ、時間性の意識として、最後の階級としての「歴史性」をおしだしたとする見方が妥当性をもっている。
したがって、「最後の階級」を印象づけられたわたし(たち)にとって、プロレタリアートの登場が、どのような理由で「歴史の終焉」」にむすびついているか、ということは明らかである。マルクスはプロレタリアートの歴史意識について、次のように述べている。
マルクスにとっては、階級意識が、現在から未来にながれており、あらかじめ与えられた理念によって、プロレタリアの階級意識をゆさぶるというような志向性は欠如している。階級意識そのものが、理想から現実へ流れくだるのではなく、逆に「理想の現実化」がある。また、そこには、必然的に<歴史>の解体があり、その点において、その進歩史観はあらゆる意味を失っているのだ。
「共産主義は、つくりだされるべき一つの理想ではなく、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である」と答えたマルクスには、時間性の尺度からいえば、現在を止揚する論理こそがその運動の唯一の条件であった。これは、いいかえれば、運動の進行形こそがすべてということである。
そういうマルクスからすれば、『共産党宣言』のなかの次のような綱領は、最低限度のプログラムにすぎなかった。
マルクスは言う。共産主義の目的は、ブルジョア的所有の廃棄である。賃金労働は資本という財産をつくりだすが、その資本は賃金労働を搾取する。労働者はただ資本を増殖させるためにのみ生活している。したがって、財産は資本と賃労働という対立をめぐるものである。だから、この財産である資本を共有財産に変えることであり、そのことにより財産の階級的性格を奪うことが目的である。そのための労働者革命は、プロレタリア階級が革命によって支配階級となり、支配階級としてその政治的支配を利用して、ブルジョア階級からすべての資本を奪い、すべての生産用具を支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中することである。また、このことはブルジョア的生産諸関係への強権的な干渉なくしてはできないことから、マルクスは、@土地所有の収奪A強度の累進税B相続権の廃止C亡命者、反逆者の財産の没収D信用の国家集中E運輸機関の国家集中F国有工場、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化、改良等々の例にあげている。そして、この過程によって、階級差別が消滅するならば、すべての生産が結合された個人の手に集中されることで、政治権力は政治的性格を失う。そして古い生産諸関係の廃止とともに、《プロレタリア階級は、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配を廃止する。》
それは、《階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。》
ここで、マルクスは意に反して<理想>を語っているのであろうか。理想を語らないことを宣言し、<歴史主義>を反古にしてきたマルクスの歴史意識は「転向」したのであろうか。マルクスは綱領に名をかりてうかうかと理想のプログラムを描いてしまったのか。
いやそうではない。資本主義の可能な「死」を見据えているのだ。プロレタリアが階級として自己否定し、階級としては死滅するのと同時に、それを歴史の死滅と受けとめているのだ。死滅したあとで、どのような社会ができるかはわからない。だが、確実に「死」が介在することだけはマルクスには疑いえなかった。
マルクスは「死」について、次のように述べている。
だから、ここで、マルクスは、類的存在という人間の自然との媒介関係という自然規定をとおして、歴史の極点にたって、そこから現在の階級社会をみているのだ。この死の意識はレーニンやトロツキーが見落としたものだ。これは理想なのではない。歴史の死滅は、『ゴータ綱領批判』で、もっと簡潔で直接的な表現をもとめる。それは最大限綱領といってもよい。マルクスがとりあげるのは、過渡期の国家、社会のあり方である。
国家形態については次のように述べている。
そして、分配に関しては、《それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会ではなくて、反対に、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会》においては、古い社会の母斑をつけている。だから、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものをとりもどすという。ただし、ここで支配しているのは商品交換を規制するのと同じ原則である。したがって、ここでは平等な分け前であるが、これは平等な権利であり、まだ、ブルジョア的権利の範囲にとどまっている。だれもが労働者であるのだから、階級差別は見出せない。しかし、これは労働者の不平等な労働の給付能力を認めている限りにおいて、不平等な権利である。
だから、この社会ではすべての権利と同様に、内容的には不平等の権利が支配しているのである。なぜなら、不平等な諸個人に同じ尺度をあてはめ、しかも、ある特定の視点からのみからとらえて、たとえば、諸個人をただ労働者としてだけ眺め、それ以外の資質をいっさい認めず、無視されるからである。さらに、マルクスはいう。ある労働者は結婚しているのに、他の労働者は結婚していないとか、ある者は他の者より子供が多い等のことも捨象されている。しかし、このような欠陥は長い産みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けられない。権利は経済的形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることはできないからである。
しかし、《共産主義社会のより高度な段階》においては、それとは異なってくる。
こうして、『経済学・哲学草稿』、『ドイツ・イデオロギー』、『共産党宣言』、『フランスの内乱』、『ゴータ綱領批判』とたどってきて、マルクスが描いた「歴史の終焉」に向けた社会変革のプログラムはこうだ。まず、近代的工業から輩出されたプロレタリアが、ブルジョア社会のなかで権力を握ったブルジョア階級との闘いのなかで、政治的階級として組織される。そのプロレタリアが、階級闘争をつうじて政治的国家の権力を掌握する。政治とは、共同意志としての国家として独立した幻想的な共同体を形成している権力をめぐる闘争だからである。プロレタリアは自己の利害を一般的なものとしてかかげるためには、まず、政治的権力を奪取しなければならないのだ。ここから、資本主義から共産主義のあいだの過渡期の政治形態として「プロレタリア独裁」が登場する。この段階の国家は、単にできあいの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することはできないので、従前のブルジョア国家機構を徹底的に破壊することが、その成立の第一条件である。 その第一の布告は、常備軍の廃止と、武装人民によるその代替とである。また、国家の吏員は普通選挙によって選出され、有責であって短期に解任され得る議員から形成される。その議員の多数は、プロレタリアまたは階級の公認代表者である。国家の構成は、代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体である。警察は、ただちにその政治的属性を剥奪され、そして責任を負い、いつでも解任され得る国家の手先きとなる。行政府の他のあらゆる部門の官吏もそうである。そして、議員以下、公務は、労働者と同等の賃金においてされねばならない。したがって、この「プロレタリア独裁」の国家は、もはや従来の国家とはいえず、半国家または準国家とよべるものになっている。以上は、いわば、マルクスの国家という幻想的な共同体の政治権力をめぐる「政治革命」のプランである。
この権力は、同時に、いよいよ社会・経済構成の変革をするため、ブルジョア階級からすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家として組織されたプロレタリア階級の手に集中する。これは、ブルジョア的生産諸関係への強権的な干渉なくしてはできないことから、土地所有の収奪や強度の累進税や相続権の廃止等をその手段として使用する。
そして、国家の社会・経済構成への干渉をつうじて、次第に、階級支配が消滅するならば、すべての生産が結合された個人の手に集中されることになり、プロレタリアがもっていたその政治権力はその政治的性格を失う。そして、ブルジョア生産諸関係の廃止とともに、プロレタリアは、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配をも廃止する。この段階において、「社会革命」は軌道にのり、ここに姿をあらわすのは、共産主義の第一段階としての社会である。しかし、その社会は、まだ、資本主義社会から生まれたばかりであり、古い社会の母斑をまとわりつけている。だから、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものをとりもどすという商品交換を規制するのと同じ原則をもっている。したがって、これは生産物の配分にたいする平等な権利であり、その限りで、まだ、ブルジョア的権利の範囲にとどまっているものだ。
その後、それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会になると、分業がなくなり、精神的労働と肉体的労働との区別も対立もなくなる。また、労働がたんに生活のための手段であることをやめ、生活のために労働することもなくなり、それにともない、かれらの生産諸力も成長し、富が各人の要求に応じるまでに豊富になったときに、そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられる。その際、富と教養は生産力の高度な発展を前提とする。この発展がなければ、ただ欠乏だけが一般化され、窮乏とともに必要物のための争いが再開され、古い社会が立ち直るからである。共産主義は生産力の普遍的な発展及びこれにつながる世界交通を前提にしているのだ。その段階になって国家は完全に止揚される。そして社会は、各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて求められる一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。
このように、マルクスは、「政治革命」からはじまって、「社会革命」が完成するまでの全過程をさして共産主義と呼んだ。
ここで、マルクスと同じ手順を踏んで、あらためて「理想の現実化」を問うてみるとする。すると、マルクスの「政治革命」、「社会革命」の見取り図は、わたしたちの現在に何を沈殿させるだろうか。それが、わたしたちの切実な課題でもある。もちろん、そのためには、マルクスのドグマをそのとおり辿ることではなく、マルクスの方法がわたしたちに教えた教訓を踏襲することである。ひとつは、「だれ」がという現実的な主体的条件をそなえていることである。それは、マルクスの場合は、自分の身を切り売りしなければならない労働の疎外態としてのプロレタリア階級であった。そして、もうひとつは、その<理想>の条件として「歴史の終焉」、または、その解体と不可避にむきあうということである。このふたつの条件を兼ねそなえていない限り、マルクス<学>が陥ったと同じく、<理想主義>の轍にはまりこんでしまうからである。
その原則をふまえるとするなら、しかも、もし、マルクスの思想を基本的な指針としてかかげるとすれば、当面、わたしたちには、「政治革命」の課題からはじめなければならない。その際、忘れてはならないのは、前衛党は必要かという問題、世界革命かそれとも一国革命か、先進国革命か後進国の問題か、二段階革命か一段階革命か、暴力革命か平和革命か等々の古典的シェーマの選択は、ことごとく二義的であるということである。なぜなら、これらは、すべて、マルクス<学>のカテゴリーに属している。それは、非現実的という以前に設問自体が迂回路でしかない。直線回路をとろうとすれば、問題は最小限原則のみでよいはずだ。
吉本隆明は、戦争と平和の問題に触れて、次のように「理想社会」の条件を直截に述べている。
その「リコール権」とは、「国家を開く」ということであると吉本は言う。国内的には政府が一般民衆の利害を主体に考えないとリコールされるということを意味すると同時に、国際的には国家を開いていくということにもつながる。つまり、国家が自国の民衆にたいして開かれると同時に、国際的にも開かれるということを意味するのだ。このリコール権があれば国家が、勝手に戦争をやりはじめるようなことになってもそれを阻止することができるという。そして、そのリコール権のための条件は、先進国の一般大衆はすでに経済的にもっているという。
つまり、先進国の大衆はすでに、経済的には国家を開いている。これから必要なのは、政治的にはっきりとそれを保証する制度をつくることである。吉本は、ここで「政治革命」を射程においてリコール権を主張しているとおもえる。この考え方には、「だれ」がという現実的な主体的条件もすでにそなえている。つまり、個人消費者大衆ということである。 ただし、吉本は、その個人消費者大衆が、何を媒介にして政治的権力を握るのかという点が曖昧である。むろん、国家を開くためには、その個人消費者大衆がどのような経路で、その果実を収穫するかということが大切なのだ。
その次の問題は、これが最後の「歴史」として登場してくるかどうかだ。これには、吉本独自の読みがあった。資本主義は、産業資本主義の段階をはるかに離陸して、ポスト産業資本主義への転換、さらには高度消費資本主義を経由して、「超資本主義」の段階に到っているという。それが、経済的リコール権をすでに手中にしている大衆の現在のあり方なのだ。おそらく、ここで吉本は資本主義の「臨死体験」を語っているようにおもえる。つまり、もう一押しで資本主義が変質するその臨界点を見定めて、その上で歴史の問題に焦点をあわせているのだ。
もうひとつ別の場所で、独自の理想を「コミュニズム」につなげている者がいる。柄谷行人である。柄谷はマルクスの価値形態論に依拠しつつ、その思想史上の内在的な批判から、資本主義社会の本質的な批判を行っている。
柄谷は、マルクスの『資本論』を古典派経済学から区別するのは、通説に反して、流通過程の重視であるという。剰余価値は労働者が作った商品を労働者が買うことによってのみ実現する。だから、生産過程がどうであれ、流通過程においてしか、剰余価値は実現されない。また、社会的総資本としてしか実現されない。古典派経済学は生産過程にのみ利潤を見出したことをマルクスは批判したという。
柄谷の見方からすると、もともと、労働組合運動が革命性をもたないのは、当然であった。なぜなら、労働組合は生産過程にのみ剰余価値を見いだすリカード左派の理論にもとづくからであり、その必然的な帰結である。だから、それが工場占拠、ゼネストに拡大したとしても、資本制経済の息の根をとめるというのは幻想にすぎない。たかだか、一企業または一国家の総資本に打撃を与えるにすぎないからである。柄谷が対象にする世界資本主義にとってはなにほどのものでもないのである。
したがって、生産過程に資本主義を打倒する契機をみつけだすことは不可能であるという。では、これにたいして労働者は主体的に立ち向かうことができないのかと問う。もともと、労働力商品を売る立場である労働者は受身でしかありえない。だが、唯一、主体としてあらわれる場所がある。それが「消費の場」である。生産と消費は貨幣経済によって分離されており、それが労働者と消費者を切り離してきた。しかし、消費者運動は、実は、労働者の運動でもある。労働運動は消費者の運動と結合してはじめて資本主義を越境する。剰余価値はグローバルにしか実現されないのなら、それに対抗する運動も、当然、グローバルにならざるをえない。生産点に固執するかぎり、労働者の運動は国家に分断され、資本にも分断されるにちがいないからだ。
労働者は労働力商品の所有者として、たえず解雇される恐怖をもっているが、資本家にとっても生産物が売れない恐怖を潜在的にあわせもっている。資本が処理しえない「他者」としてあらわれるのは、労働者が消費者としてあらわれるときである。それゆえ、資本への対抗運動は、消費者=労働者の運動としてなされるほかはない、と柄谷は述べている。
そして、「可能なるコミュニズム」の展望は、マルクスが描いたように、生産−消費協同組合のグローバルなアソシエーションにしかない。しかし、それは、つねに諸資本と諸国家に囲い込まれており、実現は困難であるが、資本に対抗する運動の鍵は、『資本論』のなかに求めるほかない。そこで、柄谷行人は次のように可能性と不可能性の狭間のすれすれの願望を託している。
そして、柄谷は、国家の廃棄も、私有財産の廃棄との関連で、コミュニズムの実現として、資本の廃棄と抱きあわせで生産協同組合運動のなかに見ている。これは、従来のマルクス主義者が抱いたような生産過程に重心をおいた共産主義が、国有化による計画経済によって国家集権的な体制へおちいったことへのアンチテーゼとして提出されたものである。そればかりか、それは、私的所有の廃棄を内包することによって国家の廃棄をもたらすものでなければならないとする。コミュニズムは、したがって、私有と国家のパラレルな関係をうめるものとして「個人的所有」をめざし、それが生産共同組合のアソシエーションとしてみるのである。
ここには、アナーキズム系統の思想が拡大再生産されている。特に、フーリエ主義の理念が復権しているといえる。
吉本と柄谷に共通するのは、「だれ」がという主体を消費の側からみていることである。つまり、それは、マルクスがアクセントをおいた生産者としてのプロレタリアートではなくて、消費者としてあらわれたプロレタリアートを意味する。
ただ、両者が異なるのは、同じ消費の側面をとりあげてはいるものの、柄谷が資本主義の通時性を強調しているのにたいし、吉本が高度資本主義から超資本主義への変質をその論拠にしている点である。
そのほか、柄谷のかかげているプログラムの問題点を整理すると、ひとつ目は次のようになる。
これらの疑問点を集約するなら、生産−消費協同組合自体が国家の共同性に足をすくわれない成立の必然性を明らかにするべきであるということである。柄谷はそれを保障するため、「倫理的」な枠組みを設定しているかにみえる。しかし、国家のもつ逆説的な恐怖をバクーニンは次のように述べている。
柄谷はおそらく、このバクーニンの問いかけにいずれ答えなければならなくはずだ。また、よりグローバルな協同組合が、世界資本主義に対抗するという言葉で、「世界」や「グローバル」という言葉を何度唱えても、蚤のひと飛びほども説得力をもたないことを知るはずだ。
次の2点目は、消費活動を組織化するための根拠として、現在の資本主義のあり方をどうとらえているのかということである。柄谷は、現在の資本主義が生産と消費の両面からどうなっており、どういう段階にあるかを答えなければならない。にもかかわらず、柄谷の消費=生産主体の概念は、もともと、『マルクスその可能性の中心』の『資本論』の価値形態論解釈から論理実証的に導きだされたもので、消費資本主義も帝国主義段階もまったく関係なく、マルクスの時代と同じ資本主義の原則から「こうあってしかるべきだ」式の演繹論理から結論づけられたものだからである。ここでは、柄谷は、歴史を資本主義の「解体」の観点から見る逆方向の視点が決定的に欠けている。
3点目は、2点目とも関連するが、生産−消費協同組合という概念は、プロレタリアートが現在のあり方のままで存続し、なおかつ見方をかえれば、プロレタリアートでなくなるという観点を含んでおり、決定的に歴史認識が思弁的である。少なくとも、吉本は、現在の資本主義が死滅してしまう予感のなかから、「死」からみた消費者の動向の意義をとらえようとしている。だから、そのような現在と未来を媒介する歴史概念があるからこそ、吉本には、消費プロレタリアートなどという直接的な概念が産まれようがないのだ。これでは、消費を操作したときから、せいぜい産まれてくるのは、「戦時共産制体制」が関の山である。吉本は、現在の高度消費社会の動向から上向して、資本主義の「死」という将来の資本制の重大な屈折点を予想して、今度は逆に、現実の消費者の動向に下向しているのはあきらかだ。
第4点目は、そのように消費プロレタリアートが実体的な概念であるところから帰結することであるが、柄谷の場合、生産−消費協同組合の目的が先に設定されて、その枠内であれこれ現在のプロレタリアートを批判するのであるから、その批判は意識主体になってしまう。つまり、思弁のなかで解決されてしまったあとで、再度、問題を設定している。一足飛びに近未来のプロレタリアートを想定することが、必然的に、その実体論的裏づけになり、マルクスの弁証法がいうところの「現在を止揚する」という意味あいを失わせてしまう。柄谷の消費=労働というのは実体的なプロレタリアートを対象にしているが、吉本の消費者はいわば<喩>としてあらわれたものである。だから、本来、「政治革命」の問題であるのに、その点に、直接、触れていない。そこが、根本的に違っているから、吉本が「政治革命」の範囲でプログラムを組み立てていると想定されるのに、柄谷は「社会革命」にまで飛躍しているのだ。だが、その場の主体になるのは実体としてのプロレタリアートではない。プロレタリアートが直接的にあらわれることなく、媒介としてあらわれるはずだ。それなしでは論理は思弁化する。この点を吉本はよくわきまえている。
第5点目は、消費行動がプロレタリアートにとって、唯一、主体的に行動する場であるとしているが、その意味をどうとらえるかにかかってくる。わたしは、消費行動の主体性は、高度大衆消費社会のなかで獲得されたものであると考える。つまり、社会的な自己意識上の「富」、「知」の「偏在」化と「分極」化を象徴させる尺度は、現在の高度大衆消費社会の成熟度のなかに認められる。これを証明するために、たとえば、1日24時間を労働日8時間と残り消費時間16時間(a)に分割し、更に、労働日をマルクスに倣って、必要労働時間(b)と剰余労働時間(c)に分割できると仮定する。すると、大衆消費社会における価値法則の崩壊を前提にするなら、労働(生産)過程に比して消費活動が大きくなる算式、a〉b/cが極大化する方向を示していることになる。これを次の図式で表わすとする。
必要労働時間 =b、剰余労働時間=c 、消費時間=a
仮に、いま、労働(生産)時間を不変で、相対的剰余価値が増加する場合、b>b′、c<c′で Bb=Bcとなる。ただし、b+c=b′+c′が条件である。このとき、この労働者の生産過程における(不)自由度はb/cで表される。また、相対的に必要時間が減少した場合の量は、Bb/Bcで示される。
そこで、これを消費時間との比較におくと、次の不等式が成立すれば消費活動を含めた全生活過程において、より自由度を感じることになる。
b/c < a/(b+c)
だが、bであらわされる必要時間は労働力の価値としてaの消費時間を規定する。したがって、上の等式が成立し、消費するための自由度が高くなるためには、必要労働時間bが無限に0に近接するか、たとえば週休3日制が実施された場合など、1労働日が消費時間以下に大幅に減少するほかない。
しかし、これには、a/bの極大化という条件を代償にしなければならないが、それは、ここで想定する労働者の自己意識にとっては、いわば、その反面で、消費活動に対する欲望の自由度と生産力の拡大条件の自己意識上の極小化を意味している。つまり、消費時間として疎外した生産的消費過程と生産時間として疎外した消費的生産過程上の、時間的ジレンマをはらんでいるのである。
少なくともこのような時間を生産過程に限定して抽出することは、もはや、現在、意味をなさないのは自明である。時間は、生産と消費の異和として、せりだしている消費活動の肥大化につれて生じているからである。しかも、その一方が片面で、時間の極大化をもたらし、もう一方でその極小化を刻印づけ、わたしたちの社会的層面において、時間的「偏在」化と「分極」化を、「知」や「富」のありかとして示しているのである。
おそらく、この消費時間の延長からもたらされるものは、時間の余裕以上にその切迫感にちがいない。むろん、大衆の私的意識・感性においては防御的意味が増大してくる。そして、それが何に対する防御かは、人によって労働過程そのものであったり、賃金にたいするそれであったりするが、ただ、当体が時間の異和を本質とする限り、漠然とした不安に晒されることはまちがいない。しかし、たとえ、それが不安の拡大であったとしても、消費時間の拡大なくしては、消費者プロレタリアートの自由の拡大は考えられないのだ。わたしたちは、この恣意的自由の拡大こそ、生産と消費をつなぐ経済活動の指標であると考える。もっといえば、大衆の欲望の到達点であり、そこからすべてを考えるべき基点につらなっている。これらのプラス面を柄谷の消費概念は見逃してしまっている。
そして、経済上の自由感の拡大は政治的自由の拡大前提である。しかし、国家の解体は、その条件にうらづけられて、種々の自由を受けとる。
以上みたところから、わたし(たち)には、生産−消費協同組合という概念や、国家廃棄が、「個人的所有」とイコールでむすばれるなどという概念から想定するのは、歴史の単線的な進化の神話でしかない、とおもう。歴史はつながっていながらも、断絶する。なぜなら、歴史はうしろ向きにしかつくられないものだからだ。それが<歴史>の解体ということの意味あいである。マルクスから学んだのはそういう歴史観であり、唯物史観とはそういうものである。その点でも柄谷は、マルクスを読み間違えたとおもう。だから、柄谷は悪い意味での<歴史主義>から流れくだるマルクス<学>の分厚い層から、まだ自由になっていない。
ここまでマルクスを辿ってきたわたし(たち)の場所なら、吉本や柄谷たちとはちがって、現実的与件と展望にもとづき、ここで、はっきりした現代の革命のビジョンを示すことができるような気がする。ここでいう現実的与件と展望という言葉には説明がいる。つまり、ビジョンは、現在の高度資本主義社会をそのまま推移させればたどりつくだろうという延長線と、現実とは乖離した理想としてかかげる理念線との交点から、下降して現在に戻ってくる場所からはじめなければならないということである。
そういう前提をふまえて、わたしたちが開拓すべきなのは、既存の政治体制とはまったくちがった不可視の政治空間である。この政治空間は、現在の公認党派や運動のすきまのどこからのぞきこんでもみえないものであるが、確かに胎動している何ものかである。そして、その空間へ入り込むためには、柄谷のいう「消費プロレタリアート」から<消費者>への転位が、必要な第一条件である。もちろん、柄谷の「消費プロレタリアート」は実体のみの概念であり、ここでいうのは<理念としての消費者>のことである。つまり、古典的な概念である「プロレタリアート」としての自分から離脱すればするほどいいのだ。それは、もちろん生産者としてのプロレタリアートではなく、消費者としてあらわれたプロレタリアートでもない。要するに、マルクスが使った「プロレタリアート」という概念を捨て去り、マルクスが「プロレタリアート」という概念をとりだしたと同じ手順によってつくりだされた概念が<消費者>にほかならない。なぜなら、マルクスの「プロレタリアート」概念も、<理念>と<実体>の両義性をその本質としているからだ。
従来、生産現場に階級分化の根がかくされていたとするなら、そういう土台から90度ずれたところに<理念としての消費者>像を想定すればよいのであるから、そこに変革の主体をもとめるべきである。これは、具体的には、流通、小売、総じて第三次サービス産業に従事している労働者である消費的生産労働者を変革の主体に定めるということではない。主体は、一貫して、「消費一般にたいする利害」そのものを指し、消費こそ彼らの生活の土台になるものである。なぜなら、この主体は、消費という側面から照らされた大衆の最後の欲望であることにおいて、自らにたいする自己肯定であるとともに、歴史の最後性という意味で自己否定でもあるからだ。
ここでは、わたしたちの革命論は、古典的なシェーマの選択をすべて放棄せねばならない。その上、マルクス<学>がもたらした政治思想の図式のすべてを転覆させねばならない。かつて、レーニンは、プロレタリア民主主義を標榜してプロレタリア独裁をめざした。また、毛沢東は暴力革命をつうじて農村根拠地から都市を包囲した。一方、アナルコ・サンジカリズムは、議会制民主主義を否定し、投票行動をボイコットすることによって、強圧的な国家権力のなかで自主管理にその突破口を探ろうとした。その後、これらの挫折から、先進国における革命が停滞していることを理由に、後進国へ視点をずらし、片や、国内的にも公害、障害者、フェミニズムなど、いわば、国内の第三世界の問題に過剰な意味づけをして左翼は総じて歴史の舞台から退場していった。これらは、すべて、現実のなかの架空の場所をもとめ、根拠づけしようとした結末である。それらに共通するのは、たとえ反マルクスを主張しようと、実は、マルクス<学>の引力の圏内にあるのにちがいがなかった。わたしたちは、いま、目に見える政治意識から不可視の政治領域にはいらなければならない。でなければ、大衆の政治的課題から迂回し、そして国家の問題からも逃避することになってしまうのだ。
国家の問題は、なぜ、消費の問題と交叉するのか。マルクスの考え方を解像すると、それは明瞭である。生産主体としてのブルジョアとプロレタリアートの階級闘争 のおこるところでは、必ず、国家を必要とした。つまり、マルクスによれば、国家とブルジョアとプロレタリアは同義なのである。たとえ、消費者としてあらわれようとプロレタリアートの存在は、国家そのものと結びついている。とするなら、プロレタリアートでありながら、国家を揚棄することは絶対の矛盾であるといわなければならない。これは、ソ連邦の崩壊や東欧の崩壊をまのあたりにしてみちびきだされた教訓のひとつである。
ただ、プロレタリアートでないということのみが、国家の揚棄とつながっている。生活物資が選択的消費にむかうほど潤沢であり、大衆の利害や欲望が全面的に開花することだけが、国家の揚棄と同義なのである。プロレタリアートの概念をあれこれもてあそんでいるうちは、絶対に国家はなくならない。だからこそ、消費を理念として抽出する根拠があるのである。
わたしたちは、こうしてレーニンの国家暴力装置論を根底からひっくりかえす必要にせまられる。レーニンとことなって、「国家とはブルジョアとプロレタリアートの実体概念から産まれた幻想である」というようにおきかえなければならない。だから、国家を揚棄するために、プロレタリアートの独裁など必要としない。というよりも、むしろ、その独裁が国家存立の条件になっているのだ。大衆の利害にとって、何が必要十分条件か、ということを考えさえすれば、ロシア革命後70年もの膨大な回り道は必要ではなかったのだ。
しかし、具体的に政治過程に登場する<理念としての消費者>とは何か。もともと、消費の条件でない限りで国家に関与する消費はそれ自体矛盾である。しかし、不可避に政治に登場するとすれば、いくつかの条件が必要である。そのひとつは、消費主体としては現実的に登場できないということがある。これには、戦後日本の復興経済、高度成長経済、脱産業化、高度資本主義の過程進行にともなって、「私的感性・意志の拡散化」に集約される現在の到達点がその背景となっている。つまり、個人の消費意識としても、社会・政治意識としても、戦後民主主義の根底をささえた私的感性が雪崩現象をおこしているのだ。政治主体として登場する以前に内省が先行し、自分自身との面接を他者との関係性のなかでおこなえない状況が切実になっているからである。だから、もちろん、これは集合性として党派政治に結びつくこともなくなってしまっている。
それと併せて、個人の消費欲望の閾値が肥大化するとともに、それ自身背馳する国家・政治や党派性へのアパシーを増幅させているのである。これらは、対抗倫理としてどんな「生産力思想」をもってきたとしても、保守的な大衆性のイメージとして結像することはないまでに膨らんでいる。だが、この現象が、かえって裏面からみれば、アモルフな政治的大衆の登場につながり、現在のブルジョア政治空間を拡散させるとともに、既存の政治的国家を超える潜在的な可能性をはらんでいるのは疑いえない。現在のブルジョア国家が国家を開くどころか、国家をブルジョア的利害関係と偏狭なナショナリズムの巣窟にかえてしまっていることにたいして、消費者大衆は、すでに可能性としてそれをこえる存在基盤をすでにもっているのである。ただ、それが現存の政治の構図のなかに切り込む角度のみがここで重要なのである。
わたしたちは、政治過程に切り込むために、「プロレタリアート」という名辞はもはや必要ではない。いかなる「プロレタリア政治」も同じである。そればかりか、プロレタリアという言葉自体が、現在、反動に堕してしまっている。現在の最も切実な課題は、プロレタリアから<消費者>への移行なのであり、プロレタリアの残滓がある限り、前進できないのは明白である。たとえば、プロレタリアの残渣とは、生産にまつわる労働価値論そのうち交換価値と使用価値の区別と連関であり、剰余価値の生産であった。しかるに、ボードリヤールは、現在がその生産の意味を決定的に変質させたという。
今日では事態は決定的に変わった。構造的価値法則は、労働と生産が記号として、非労働、消費やコミュニケーションなどと代替可能な項として、それ自身のエネルギーや実体を振り落していき、シュミレーションモデルにかえてしまったのである。これが、ボードリヤールがいうところの「生産の終焉」の実現である。
プロレタリアート概念は、その意味を失い、脱色させられている。現在、利潤、剰余価値、階級闘争などは、シュミレーションモデルとしての経済学に組み込まれさえしている。
これは、生産、労働、生産諸力の全領域が、サービス労働にかえられ、記号の交換に還元されていることを意味し、「消費」の領域のなかでコンピュータ操作される価値に変換してしまう。消費されるのは生産や労働だけではない。知識、性、身体、想像力さえもが、投資の対象になっているのだ。そしてもしかしたら、「無意識」や「革命」や「マルクス主義」だってそうかもしれない。ボードリヤールはすべてが、ゲームの規則のなかにとらえられコードの網の目の断片になってしまっているという。つまり、現在の消費社会が使用価値の消費や欲求の消費ではなく、記号の消費というところから生産の記号化が産まれているといっているのである。
ボードリヤールにとっては、このシステムに対抗できるのは、こういう「社会の死」にたいして「死」をさしむけることにほかならない。それは、システムに同一性を投げ入れることだ。
これはコードの二重化した記号において、それぞれの項が自己革命をつうじて脱項化され、そのなかではたすべき役割を廃棄することである。これこそがコードの構造的革命に匹敵し、それにうちかつ象徴的暴力であることになる。
ボードリヤールは、ここで資本主義を対象にしているのではない。資本主義の「死」を前提に、商品の価値法則の支配するシュミラークルをこえた第三のシュミラークルである構造的価値法則をとりあげている。だが、それよりも前に、ほんとうは資本主義の「死」を検死することではないか。その点から次の疑問をさそう。近代社会の「生産」中心社会の終焉を導きだした後、消費者はどのような役割をになうのか。また、消費社会とその主体と国家との関係はどのようになるのか。ここには、何も語られていない。
『消費社会の神話と構造』のボードリヤールは、資本主義のただなかのモノの消費現象の構造の分析からはじめた。モノは記号となって戯れ、わたしたち消費者におしよせてくる。それは導かれた消費性として組織化され均質化されている。そして、何より希少性に逆らう浪費による豊かさ、ポトラッチが大量消費を活気づけるのである。また、生産の目的は、モノの使用価値を増加するのでなく価値としての時間を奪い取るためになされるのである。消費社会が存在するためにはモノの破壊が必要なのである。
資本主義のシステムは構造的不均衡をかかえている。構造的過剰と構造的窮乏を同時にかかえているのという。むしろ、逆に、システムは不均衡と構造的窮乏によって生存している。システムは貧困を必要とする。この点において、平等と経済成長を信じる理想主義者を批判する。
だから、システムは、新しい階級差別(カースト)を生み出している。知識と権力が希少財になりつつある。消費対象の質の差別化による差別を生んでいるのだ。
こういう事実にそくして考えるなら、消費は財とサービスの使用価値の個人的取得の論理とは全く別物になる。ひとつは、消費が交換システムの側面をもち、他方、社会的差異化の過程としての側面をもつ。
ただし、この差異は社会全体がコードとして個人に強制したものである。なぜなら、消費の加速度的増加は欲求の充足に関する個人的倫理を放棄して、差異化の社会的性格をぬきにしてはそれを説明できないからだ。しかも、消費の領域は、階層の上から下へのヒエラルキーを下っていく。だが、欲求は、生産力の増大とパラレルではありえない。われわれの社会は競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法でなりたっている。欲求のシステムは生産のシステムの産物なのである。そして、モノと欲求は直接には結びついてはいない。いわば、ねじれている。
つまり、記号としてのモノは、無制限に取替え可能であり、その意味を不断に流動化させているのである。欲求はここでは、特定のモノへの欲求ではなく、無限の「差異への欲求」によってなりたっている。ここでは購買者の完全な満足などは期待できない。
ただし、ここでも重要なのは、この消費が記号の集まりをつうじての価値の交換、伝達、分配というように社会的な機能なのである。だから、交換の構造は無意識的に個人に社会から押しつけられるものとしてあらわれる。だから、消費は、消費者が享受しているのではなく、知らないうちにこのシステムに巻きこまれているのである。したがって、消費者が自立的に享受するという見解は、消費者に関するイデオロギー的幻想にすぎないとボードリヤールはいう。こうして、ボードリヤールには主体としての消費者は登場できない。
消費は差異化された記号の活動として、権利や享受ではなく、義務として強制された制度(言葉)になってしまっている。そして、一層悲観的な結論に達する。つまり、個人的レベルでの欲求の無秩序や偶然にゆだねられているように装いながらも、実は、「私的」領域として「私的」行動の余地をみいだすものではない。《活動的で集団的な行動であり、強制であり、モラルであり、制度でさえある。消費とはひとつのまとまった価値システムである》ということになる。そして、それは、生産力とその統制の拡大再生産の過程において産まれる強制そのものである。
ところで、この消費者はこの生産システムに異議申し立てをするだろうか。いや、生産システムは消費者にコードをあてがうが、消費者はだからといって集団的連帯をつくりだすということは決してない。彼らは無自覚であり、未組織である。消費が私的な領域でおこなわれることによって、連帯することが不可能だという。
ここまでボードリヤールの体験をくぐりぬけてきて、はっきり分かるのは、『消費社会の神話と構造』と『象徴交換と死』がわたしたちにもつ意味がまったく異なるということである。『消費社会の神話と構造』は、消費現象の変異をあれこれ事例をまじえ描いているが、基本的には生産力とその統制の拡大再生産の結果、こういう消費の特異性が生じたことをたどっており、いわば、生産至上主義システムの影響下において、消費が記号となりシステム化し、なおかつ、その消費者にたいしては、生産から強制されたシステムのもと、反抗を封じられた消費者の嘆きのようなものが伝わってくる。それにひきかえ、『象徴交換と死』は、すべてがハーパー現実主義的システムによって管理された世界においては、生産さえその終焉を迎えようとするそのメカニズムにおいて、より徹底された構造的価値法則のありかを伝えているのみだ。最初の生産の要請が→消費のあり方を決め、さらに生産にたいしても反作用する一連の構造をしめしているという点において、ボードリヤールの消費社会論の強調する力点の推移がよくしめされている。
この推移は、最高度に発達した商品生産社会(資本主義)の推移を端的に象徴している。つまり、大量生産・消費社会から脱工業化社会をくぐりぬけ、純粋なコード社会のありかへ向かう一直線である。だが、この推移の中には、期せずして、断絶が伏在している。それは何かといえば、資本主義の「死」という終焉の儀式である。ボードリヤールはそのありかをにおわせてはいないが、『消費社会の神話と構造』と『象徴交換と死』の間には、「臨死体験」が伏在しているはずだ。なぜなら、『象徴交換と死』の世界は、いわば「死後の世界」であり、「死」そのものであるにちがいないからだ。一方の『消費社会の神話と構造』に感じられるのは、資本主義が高度化していくただなかの「風景」である。だが、『象徴交換と死』にはもはや「風景」という牧歌は残されてはいない。事実、『象徴交換と死』には、<消費者>としての「主体」はもはや存在しないに等しい。たしかに、『消費社会の神話と構造』の段階においても、産業システムに統括され規制される消費の記号の氾濫のなかで、<消費者>としての「私的自由」のはいりこむ余地すらないようにみえる。だが、それは資本主義が次第に成熟するただなかの変異であり、「平等」、「福祉」など理想主義の旧来のモラルの介在するすきまを与えている。それは、事実、そういう消費性向にたいしてはモラルとの格闘を必然化したのである。だから、もしかしたら、生産、産業システムを変革すれば、消費のシステムも変位する可能性を含ませることができた。これは、資本主義というシステムがまだ、生きていた証明である。だが、のちのハイパーリアリズムの世界には、資本主義社会全体の「死」しかない。そこで問題となるのは、死後の世界で何をなすべきかの韜晦の連鎖なのだ。
わたしは、この生と死の狭間としての「臨死体験」こそが、ほんとうは、消費、生産、流通、交通の問題の要所であると考えている。しかし、ボードリヤールは、その場所を空白のまま捨象してしまった。なぜなら、記号論として社会を裁断しているから、進歩も退歩もそこには生じる余地がなく、すべてはシステムの変異でかたづけられてしまうからである。わたし(たち)の、現実認識の時間は、おそらく、この「臨死体験」の周辺にわだかまっている。つまり、生産至上主義からうまれた消費の往路と、やがてその消費が生産中心主義をも、凌駕する復路の折り返し地点のありかなのだ。そして、わたしの関心にひきつけていえば、『消費社会の神話と構造』にあったマルクス<学>と、マルクス<学>を完全に払拭した死後の『象徴交換と死』の違いなのである。消費社会における神話とは、いわば、マルクスの通俗的な解釈にもとづく疎外論にほかならない。ただし、マルクス<学>とその死を架橋するものとして、前提は、ボードリヤールが影響をうけているとみえるニーチェの思想とおなじく、時間性の推移の認識こそ、そのαでありΩなのだ。
そして、その実体こそ、「生産」から「消費」への媒介は何かということであり、時間意識を欠落したニーチェ的方法では回答をえられないのだ。
ボードリヤールは消費を言語活動になぞらえている。おそらくソシュールの示差記号としての言語を念頭においたとおもわれる。だが、ソシュールの記号言語学においても、意味するものと意味されるものの隙間には、言語の価値ともいうべき「主体性」が産まれる可能性がある。だから、言語において自明であると同様、消費においても生産と消費の間には「主体性」が確保される領域が必ず存在する。それが、生活資料の消費が人間の生産であるという「消費的生産」の側面である。つまり、消費が人間の生産を意味するといってもよい。この生産は、自分自身の生産はもちろん、家族の生産をも含み、消費を規定する生産や消費のシステムと背馳する。ここでは、消費の自己にたいしてか家族にたいしてかは別にしても、あきらかに他者との<関係性>が生じる。
いいかえれば、消費はシステムを相対化できるのである。これが「自由」の拡大の根拠になり、この恣意的自由の拡大こそ、資本主義が曲がり角をむかえた社会の生産と消費をつなぐ経済活動拡大のための指標であると考える。もっといえば、大衆の欲望の到達点であり、その「主体性」を自己意識として取り出しえるかどうかにすべてかかってくる。それを<消費者>の自己権力としてとりだしたときにはじめて、「政治としての消費」が産まれてくるのだ。「政治」といえば、マルクス<学>の立場からは、すぐに前衛党や権力、あげくに民主主義や独裁にすぐ結びつきがちであるが、そうではない。ここでは、不可避に「政治」を無化する「政治」が<消費者>の理念とともにあらわれてくるのだ。
そのとき、<消費者>が、消費行動と背馳する「国家を開く」ためには、その際のマニフェストは、次のようになるだろう。
そして、政治権力をにぎった消費的大衆は、すぐさま、流通、小売、総じて第三次サービス産業に従事している労働者である消費的生産労働者に権力を委譲すべきである。革命の目的は消費者を解放することであるから、消費的生産労働者は、ただちに国家機構の全面的で徹底的な「廃絶」に乗りだすだろう。
なぜ、消費プロレタリアートを解放するのか。それは、かれらの主体的条件を十分開花させるためである。統一スローガンである労働日の短縮も、本来、その目的に沿うためのものであり、政治的課題なのだ。
こうして、マルクス<学>の理想主義、アナクロニズムを切断した後にみた消費社会の理想化は、現在の批判に十分耐えられるものになるはずだ。
(了)