『古事記』神話の解体学
～支配と倫理のメカニズムをめぐって～
宮内広利
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＜目次＞ １ 神代の物語 ２ 天孫降臨 ３ 神武東征 ４ 原始王権の所在 ５ ヤマトタケルの英雄譚 ６ 神功皇后以降 ７ 支配と倫理 |
はじめに
わたしたちの神話や伝承に対する距離感は不思議なものである。それらはお伽噺でないかわりに、虚像であるとわかっていながら、手の届かないところから忍び寄り、気がつくといつのまにか、わたしたちの喉元に骨のように刺さっている。一見、現実生活から時間と空間を隔てた世界にしか見えないが、確かに、「いま」、「ここに」ある視界の裏側に貼りついて、宗教性と呪術性は自明のように神社や墓地を占拠しているのである。そればかりか、もしかしたら、日本人と呼ばれるひとびとの立ち居振る舞い、信仰、習慣総じて文化にまでまたがって、ひとの表情や呼吸さえその陰影を落としているのかもしれない。
そのような裏面の読み方からではなく、表現としての神話をとりあげるとなると、神話には虚実が入り混じったさまざまな暗示が隠されている。そのため、読みようによっては歴史書にも文学書とも解釈できる。また、とんでもなくこちらの都合を膨らませると、一本のイデオロギーの帯にもなったりする。しかし、それらはいずれも神話自体に責任はなく、読む方の視線の結び方を示すにとどまる。『古事記』の編纂が完成したのは奈良時代のはじめ和銅５年（７１１年）とされているが、梅原猛はこのとき律令体制を完成させようとする藤原不比等（フジワラフヒト）の独裁的権力と、時の元明天皇（ゲンメイ）の政権を安定させようとするイデオロギー的な改変の渦中でつくられたとみなしている。つまり、編纂当時の政治的支配者の意向が色濃く滲みでていると言っていることになる。
もし、作り話であるかどうかを問わず、ストーリーの改ざんということだけに限ってみれば、天照大御神（アマテラスオオミカミ）が孫の邇邇芸命（ニニギノミコト）に譲位したという天孫降臨（テンソンコウリン）の物語は、時の政権の事情によって捏造されたという説も成り立つ。なぜなら、奈良期に女帝であった持統天皇（ジトウ）が孫の文武天皇（モンム）を帝位につけたこと、それを知っている文武天皇の母の元明天皇が、今度は文武天皇の忘れ形見の孫の元正天皇を帝位につけたことを合理化するために、『古事記』を利用したという説明に根拠を与えるからだ。さらに梅原は、アマテラスを背後で操る高御産巣日神（タカミムスヒノカミ）が、元明天皇とともに政権の中枢にいた藤原不比等その人に擬することもできるとしている。
これに対して、作り話であるかないかの詮索が小賢しいと切り捨てて、神話をそのまま文字通りに受け入れることを薦めたのは本居宣長である。宣長のいう世の中の道理とは、最初、天之御中主神（アメノミナカヌシノカミ）、次に高御産巣霊日神（タカミムスヒノカミ）、神産巣日神（カムムスヒノカミ）の二神が生まれで、この御霊によって天も地も神々も人間も万物が創造されたことを指している。この創造と生成は不思議な神の仕業によるものであるから、人の想像もおよばない天地万物の道理をわきまえないで、人智によってあて推量をしてはならないということになる。だからこそ、それらの一部始終を物語っている記紀の記述は太古からひとびとに語り継がれてきたのである。異国風の理屈にこだわって、無理に記紀を解釈しようとすれば、この壮大な物語の矮小化や過大な神秘化につながる。そのような試みは、所詮、「私事（ワタクシゴト）」の領域にすぎないと批判した。
宣長が槍玉にあげたのはただひとつのことである。わが「皇大御国（スメラオオミクニ）」は、天之御中主神（アメノミナカヌシノカミ）にはじまり天照大神（アマテラスオオミカミ）、つまり、日の神が生まれた国であるから、天地世界の唯一の中心に位置する。そのため、この国は開闢以来、五穀実る葦原の水穂の国の豊穣さを誇るものであり、このアマテラスの子孫が統治されている国だから、これから幾代にまでも栄えることはまちがいない。それにひきかえ、異国（シナ）には神代の古伝説がないから王統はたびたび変遷し、そのたびに新王はみずからの道理を勝手に定め、あたかもそれぞれの王統のみが正義であるかのように言いふらし自惚れているのである。
しかし、神代記をもたない異国の習慣が異国で信じられるだけなら仕方のないことだが、困るのは、わが国の学者と呼ばれる者たちが、この皇国の尊い物語を知らないで、異国の書物が入ってきてからの妄説（儒仏）だけをありがたがっている有様である。そのような妄説が流れ込んで千年以上経過して、思考の垢が染みついているものであろうから、ひとはこころして漢人（カラビト）の説のような小賢しい考えは厳に慎まなければならないというものである。
このようないかにも形式的な「神ながらの道」を説く宣長だが、千年以上の時間を超えたこの江戸期において、なぜ、外来のすべての書物を否定してまでも、儒教や仏教を誤った思想として指弾しなければならなかったのか、その点に限ってみるとよくわからない。確かに、宣長は『古事記』を再発見し、精緻な概念に作り変えたにはちがいないが、なぜ、そうせざるを得なかったのか、その必然性は不明である。もしかしたら、宣長の時代にはすでに分厚い書物の整理と分化が進み、選り分けてみると身の廻りは外来思想に埋め尽くされ、日本文化の自己喪失の劇が映しだされて、いやおうなく古典にひきつけられたのかもしれないと推測できるだけだ。だが、そういう見方は、反面で、国学がやがて攘夷派の思想的根拠になり、ある側面において明治維新を成し遂げる原動力になったという後からの目差しにたよっている。
明治の急速な近代化をくぐりぬけたあと、津田左右吉は、宣長と同じく言葉を信用しなければならないというところから記紀解釈をはじめた。ただし、彼はこのような神話がたぐりよせた古代の精神を史実から引き離し、神話研究は後世の確実に知られている事実から出発しなければならないとした。津田は、記紀の神話を歴史的事実であるかのように信じるのは、天皇家の先祖の神（皇祖神）を中心とするイデオロギーに引き摺られた「固陋の思想」にすぎないとする。また、その内容はあくまでも架空の物語であって、実際の古代史でないのは明白である。にもかかわらず、その物語がほんとうのことであるかのように、事実の伝説化ととりちがえ、非合理な事柄は「喩」として裏側には事実が隠されているとして、そのいちいちについて事実に引きなおして解釈する悪い癖が残っている。それらは自己主張のために古典を利用しているだけで、政治権力者への迎合にほかならないとした。すなわち、科学的態度によって神代の物語や上代史を見直すならば、非合理的な物語をそのまま非合理的なものとしておき、そこにいかなる意味があり、いかなる思想が表現されているかを考察しなければならないとしたのである。
そればかりか、もともと記紀神話は古代人によって共有された思想として伝承されたものでもないとする。であるなら、神話は実際の歴史からも、また、古代人が信じていたのだから、物語には幾分かの史実が含まれているにちがいないという憶測ともに成立しないことになる。そういう考えをすすめると、記紀を語ることは、とき時の支配者が編纂過程でどのような主張や目的をもち、権力の内部事情に沿ってどのような改ざんや添削が行われたかを辿ることが中心になってくる。
そして、神話は目的をもって記録される過程で虚構を深めたり、変形されたということが事実なら、記紀の原史料が編纂されたとおもわれる６世紀から８世紀初頭までの時代背景そのものだけが史実と重ねられる。その作為と改ざんの歴史は、それ自体が幾重もの虚構を増していくことによって、逆に、古代史の中に軌跡を残したとみなされた。そのような歴史学の立場から、津田は天皇の系譜のうち神武天皇から第９代開花天皇（カイカ）、あるいは１４代仲哀天皇（チュウアイ）までの実在を疑ったのである。つまり、記紀神話は歴史的観点のみで取り上げられ、その資料としての価値は史実との関係においては終止符を打たれたのである。
しかし、このような津田の見方は、『古事記』の中にでてくる大和の地名が具体的にどの地域を指し、神々が実際にどこを支配していたかを詮索するのと同じように、神話の世界が現実世界と地続きであることを裏側からみとめた考え方にすぎないとおもう。逆に言えば、本居宣長が記紀の言葉をそのまま理解すべきと訴えたこととまったく対称に、天と地、神と人の配置をひっくり返しただけにすぎないとおもえる。つまり、神話の中の人物と場所をあたかも固有名詞であるかのように勘違いしている点において左右対称なのである。事実、宣長と津田は「事実とは何か」に関して、神話の中の「高天原（タカマガハラ）」は人間の住む世界ではなく、神の住む世界でしかないと口裏をあわせている。神話と現実を平面に並べて結びつけると、当然、わたしたちには神話の世界は滑稽で荒唐無稽にしかおもえない。
だが、いうまでもなく、神話の荒唐無稽さをあげつらっても、なぜ、二千年近くにわたって長らえてきて、無意識ともいえるような支配権力の基盤になってきたのかを説明できない。まして、宣長のいうように「神ながらの道」が、「私事」からは決して見えず、人間によって対象化される自然概念に捕捉されるような「自然」ではないとしたら、逆に、その皮膜に包まれた荒唐無稽さこそ神話の本質であることを知らなければならないのである。いわば、ひとびとの観念に訴えかけるもの以外に、神話には改ざんも捏造も存在しない。ただ、とらえどころのない虚像のような実像、実像のような虚像が神話世界の人物と行動を操って、わたしたちの観念と交流していると考えるほかないのである。そうであるなら、虚像を理解するために、『古事記』を重畳化した網目のように文学書とも歴史書とも哲学書の全体とみなして、相互の視野から見た虚像と実像の交わったところに焦点をあてるしかないとおもえる。
１ 神代の物語
わたしたちの神話は、アダムとイブと同じく、伊耶那岐神（イザナギノカミ）、伊耶那美神（イザナミノカミ）の国産みからはじまる。国産みは、まず、天つ神（アマツカミ）に託された矛によって海水をかきまぜたあとしたたりおちた塩がかさなって島が現われた。この島にイザナギ、イザナミは高天原から降りくだり、まず、淡路島や四国、隠岐、九州、本州（大倭豊秋津島（オオヤマトトヨアキツシマ））など大八島（オオヤシマグニ）や山の神や海の神などの神々を次々と産み落とした。ところが、火の神を産み落としたイザナミは御陰（ミホト）を焼かれて死んでしまう。
最愛の妻のことを忘れられないイザナギは泣き叫び、イザナミを追って黄泉の国（ヨミノクニ）に向かい再会するのだが、そこで見たのはイザナミの変わり果てた姿であった。イザナギは恐ろしくなって黄泉の国から逃げようとするが、裏切られたとおもったイザナミが追いかけてくる。インディジョーンズ張りのドタバタ逃走劇のあと、黄泉の国への通り道（黄泉比良坂（ヨモツヒラサカ））を大きな石で塞ぎ、イザナギは、やっとのことで降りきり地上に逃げおおすことができた。
黄泉の国から帰ってきたイザナギは禊（ミソギ）をおこない、身につけていたものから、また、体を洗ったときたくさんの神々を産み落とす。そのうち左の目を洗ったときに現われたのは天照大御神（アマテラスオオミカミ）、鼻を洗った時には建速須佐之男命（タケハヤスサノオノミコト）が誕生した。イザナギはアマテラスに高天原（タカマガハラ）を支配することを命じ、スサノオには海上を治める権限を与える。ところが、スサノオはそれを拒否して、母のいる黄泉の国に行きたいと、青山が枯れ山になるほど泣きわめいたとある。そして、とうとう怒ったイザナギから高天原を追放されるはめになる。
やがて、イザナギが隠退したのをみはからって、スサノオはアマテラスを頼って高天原にのぼる。アマテラスに不信感をもたれているスサノオはおもてむき恭順の意を示すのだが、姉との誓いのしるしとして生まれた神々について自分の神が勝っていると言い募り、田の畔をこわし、稲を踏みつぶしたり、溝を埋めるなど乱暴を働きはじめた。それでもアマテラスはそれを善意に解釈し咎めなかったことから、姉の好意に甘え、図にのってますます乱暴になった。しかし、神の衣服を作っている機織場の屋根から穴をあけて斑駒（マダラゴマ）の皮を剥いて落として機織女が死んだときには、さすがにアマテラスは恐れを抱き、とうとう天の岩屋戸（アメノイワヤト）に籠ってしまう。
アマテラスは日の神（太陽の神）だから高天原は暗くなり、葦原の中つ国（アシハラノナカツクニ）も永遠の闇につつまれ、あらゆる禍が起こり始めた。なんとかアマテラスに岩戸から出てきてもらおうと八百万（ヤオヨロズ）の神々は思案して、岩戸の前で祭りを行おうと、鏡を作ったり、玉飾りを作ったり、祝詞を唱えたりしてアマテラスの興味をひかせる計略を練る。とりわけ、猿女（サルメ）の祖、天宇受売命（アメノウズメノミコト）の狂おしい歌舞によって、一瞬、怪しいとおもったアマテラスが岩戸から覗き見したところで、ようやく岩戸から引き出すことに成功する。
神々はスサノオに対して壊した物品の弁償をさせるとともに、鬚と手足の爪を切って祓（ハライ）を受けさせ、高天原から永遠に追放した。追放されたスサノオは下界に向かい、出雲の国の肥の河上（ヒのカワカミ）鳥髪（トリカミ）というところに降り立った。スサノオは暴風の神とも呼ばれるが、出雲に降りた折に蚕や稲、粟、小豆、麦などの穀物の種を最初に見つけたとされており、以後、農耕民の始祖としての役割をあたえられる。
田の畔をこわし、溝を埋めるなど乱暴に対して祓いをおこなうという罪（天つ罪）の償い方は、まだ、「法」がひとを裁くのか、ひとの行為を裁くのか不分明な時代の宗教的儀礼にのっとったものである。このような歴史的段階では個々の人格が問題なのではなく、やがて農耕民の始祖になるスサノオという象徴的存在が、そのバックボーンともいえる農耕生活の共同規範を破り処罰の対象になったことに意味がある。むしろ、この場合、天つ神（アマツカミ）が出雲系統の農耕土民であった勢力に対してスサノオという人物を代表させ、それに罪を負わせたといった方がより正確かもしれない。農耕民の始祖が農耕生活の罪を負ったということは矛盾であるが、その矛盾をとく鍵は、それ以前の原始未開世界の罪概念のありかをさがすほかにない。
吉本隆明は、宗教から法、それから国家へと分岐していく時間の経過を、共同幻想の変容として解釈した。彼は同じ法といっても、宗教との境界が不分明な段階におけるものとして「天つ罪（アマツツミ）」と「国つ罪（クニツツミ）」の区別に着目している。スサノオの犯した罪は、のちに神功皇后（ジングウ）の予言どおりに仲哀天皇（チュウアイ）が急死したことでひとびとが怖れおののき、罪を払う大祓（オオハラエ）の儀式をとりおこなったときのものとはちがっていた。そのときは、生剥ぎ（イケハギ）、逆剥ぎ（サカハギ）、畔放ち（アハナチ）、溝埋み（ミゾウミ）、屎戸（ヘクソ）、上通下婚（オヤコタワケ）、馬婚（ウマタワケ）、牛婚（ウシタワケ）、鶏婚（トリタワケ）、犬婚（イヌタワケ）など、あらゆる罪が入り混じって対象になっていた。吉本はそのうち、生剥ぎ（イケハギ）、逆剥ぎ（サカハギ）、畔放ち（アハナチ）、溝埋み（ミゾウミ）、屎戸（ヘクソ）などを農耕的な共同生活に即した罪ととらえ、後段の罪と区別して天つ罪と呼んでいる。それに対して上通下婚（オヤコタワケ）以下の近親姦、獣姦の禁止を指した罪は、土着性の強い自然的カテゴリーに属するものとして国つ罪の概念にあたっているとした。
このスサノオが出雲の土着農耕民の始祖でありながら、高天原から降り立った天つ神という立場の二重性は、罪概念においても前農耕社会以前の遥か未開社会までさかのぼる国つ罪と、農耕が定着しそのことで氏族制の内部から部族的な共同性がつくられ始めた段階の天つ罪の二重性を反映するものであった。ここでは天つ罪と国つ罪の発生は歴史的な時間の継起とみなされるべきだ。動物や植物を採って狩猟生活をしていた原住氏族がもっていたとおもわれる血族集団の罪意識は国つ罪のカテゴリーであり、そこに新たな農耕技術をもたらした勢力によって部族社会が次第に大きくなり、さらに統一部族国家の輪郭を表わしはじめたとき、天つ罪の概念が次第に色濃くなっていく。
しかし、統一的な部族社会が形成されていない段階においては、天つ罪と国つ罪の概念が分離されていなかったはずだから、それにくらべてスサノオの負った天つ罪は比較的新しいものと言わなければならない。その反面、スサノオが禊の対象として追放されたのは、黄泉の国での母親イザナミとの近親相姦の願望にほかならず、しかも、黄泉の国に接する農耕土民の始祖としての罪であるから、国つ罪であって天つ罪でもある二重性を背負っている。吉本によると、この禊のもっとも原初的な意味として、「醜悪な穢れ」を忌むことからはじまり、宗教として現れたものとみなされている。
すなわち、あらゆる宗教的な共同幻想の根幹には、黄泉の国につながる「醜悪な穢れ」を忌んで、それを禊の対象として天上に預け、それと同時に現実生活の自由を獲得したいという願望が隠されている。もし、『古事記』の作者が、天つ罪であり、国つ罪であるという矛盾を天上に預けるという意志をもっていたのであれば、この「醜悪な穢れ」の対象として、黄泉の国や近親姦だけではなく、そこにあらたに出雲の国に象徴される国つ神（クニツカミ）の支配する原初的な農耕土民の共同性や宗教性が加えられてもおかしくない。つまり、単に、国つ罪の上に天つ罪が上におおいかぶさったというのではなく、その天つ罪自体が、また、国つ罪の「醜悪な穢れ」をもたらし、それを忌むものとして、さらに天つ罪との対立が生じたと考えられなければならないのである。その意味で、わたしは、原始的な狩猟生活をおこなっていた氏族制社会と農耕技術がもたらされた後の部族国家の間には、幾重にも媒介をはさんでいなければ、国家形成の連なりを俯瞰できないとおもう。
西郷信綱はスサノオの住む出雲とは何かという問いかけを発している。
≪出雲にしても、神代の物語でそれが決定的ともいえる役を演ずべくわりあてられたのは、宮廷にまつろわぬ勢力がたんにそこに蟠居していたからではなく、その勢力が葦原の中つ国をという一つの世界を代表するものとして神話的に考えられていたからである。そしてこのことにかんし一ばんものをいったのは、大和が東であり、この東としての大和から見て出雲が海に日が没する西の辺地にあたっていたという宇宙論の存在であったと思う。…中略…当然、東はただたんに一つの方位であるにとどまらず、聖なる中心であった。そういう聖なる中心としての大和にたいし、出雲は俗なる周辺として、日の隅の国であったわけで、高天の原と葦原の中つ国との神話的対立も、このことを抜きにしては理解されない。≫『古事記の世界』 西郷信綱著
西郷は東と西の対立は二元的な宇宙論からきているもので、高天原と葦原の中つ国、天つ神と国つ神、伊勢と出雲、日向と襲、大和と熊野なども神話的思考の範疇として並列されたものであると述べている。片や、聖、善、陽、天、父、東を代表し、もう片方が俗、悪、陰、地、母、西を代表する。そして、後者が、「中心」に対して「周辺」を代表しなければならなかったのは、その奥まったところに黄泉の国のもたらす穢、罪、暗、地下、妣というような、もっと暗い範疇と境を接していたからである。つまり、死の「醜悪な穢れ」を起点に聖と俗の対位法でしめくくられているのであるが、こういう宇宙論には陰陽道が影をおとしているのは明らかであるから、『古事記』編纂当時の大和朝廷が宗教的にも政治的にも安定してからのちに埋め込まれたものにちがいなかった。したがって、西郷のような解釈は、少なくとも表面的には、聖が俗になったり善が悪にもなったり、その逆であったりする思考の跡を読みとることはできないのであり、それだけなら、天つ神や聖から始まる神話の思考法が定着したことを追認しているにすぎないのである。
ともすれば、わたしたちは神話を前にして逆立ちした時間の経過を見守っている。神話においては国産みの天つ神からはじまり、国つ神を媒介してというのは、国つ神が同時に天つ神になることで、今度は、この国つ神が天つ神として国つ神を従えるという順序に見誤ってしまう。しかし、ほんとうの歴史はその真逆で、国つ神が天つ神になり、同時に国つ神でもありながら、その上に天つ神を仰ぐ位相のちがった二重構造を示している。しかし、『古事記』編纂の時代には、すでに天つ神が国つ神であった時代の記憶がぼやけてきており、いきなりどこからともなく現れた神を天つ神そのものとして仰ぎみたにちがいない。いったん、こういう錯誤が生まれてしまうと、あとは、この出生不明ではあるが確固たる天つ神が国つ神を平定するだけの単調な過程にすり替わる。ただ、スサノオが土着農耕民の始祖であると同時に天つ神であるところに、わずかに倒錯の名残りが見えるだけだ。その倒錯の断片は、スサノオが降り立ったといわれる「出雲」の意味自体が多義的になっていることからも推測できる。記紀の最初に、スサノオが出雲の須賀の宮を築殿する際、歌ったとされている有名な歌がある。
≪八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を≫
『古事記』の中の説明では、出雲の須賀の宮を作るとき、そこに雲が立ち上っていたのを見て歌ったとされている。だが、いちばん普通に、古人になりきってこの意を解釈したのは本居宣長である。彼が普通にというのは、「出雲」を国の名とみなさなかったことである。『出雲風土記』にも国の名はこの歌よりのちに作られたとされており、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞ではないという。むしろ、たくさんの雲が沸き立ちのぼる八重雲を強調するため、「出づる雲」を見渡したとしなければならない。そして、重なった雲の被いが、わが妻を隠しておく垣根にたとえられる。だから、実際に垣根を作るのを見ながら歌ったのではなく、雲にふさがれているさまを、あたかも垣根をされたかのように詠んでいるのである。宣長は、須賀の宮の垣の意ではなく、ただの雲の様子にちがいないと言い切っている。彼にとっても、歌は神代という天上界から生まれたのではなく、あくまでもこの地上の国において、はじめて歌われたことにちがいがなかった。ただし、記紀の神代の物語そのものは、地形や人名に還元しないで、そのままの姿を受けいれて読むべきとの信念は崩さなかった。
しかし、この歌をもっと大胆に切り刻んだのは、折口信夫である。折口になると、この歌のできたのは、もっと時代を下るとされている。なぜなら、この歌の意が単純明快な上、そのイメージがストレートに読者に伝わってくる理由をあげている。スサノオが存在したと信じられた時代より遥かに後、短歌が盛んにつくられるようになってから、作り手は不詳だが、スサノオが歌ったにふさわしいということでとり入れられたと考えた。したがって、「八雲立つ」という枕詞と「出雲」には特別な因縁があることになり、しかも、出雲の人が作った屏風や帳は結婚した祝いに幾重にも囲んで、妻を迎えていることだという風に、具体的な情景としてつかまえられている。その枕詞と出雲が結びつく具体性からもわかるように、結婚に際して新しい家を建てる誉め言葉になっていると同時に、新婚の幸福を祈る祝いの歌と解釈するのだ。地の物語の部分と歌の成立年次がちがうという見方に関しては本居宣長と同じだが、折口の場合、それがより具体性をもって情景や風景に結びつけられていることが、歌の成立年次を大幅に後の世に向けて更新させることになった。
両者とは反対に、歌の成立を大和王権誕生からもっと未開の方角に向けて遡らせる方法もある。吉本隆明が三角寛の『サンカの社会』から引用した伝承では、この歌はまったく相貌を異にする。それによると、元歌をたどれば、「八雲立つ」は「八蜘蛛断滅」、つまり暴漢をやめさせるという意味になる。何の暴漢かというと、婦女子を手込めするような乱脈な婚姻関係を、掟（八重垣）をつくって絶ったことが歌われていると理解した。出雲地方の古歌としてこのような掟をつくった伝承があり、それをもとに改ざんされ記紀に取り込まれたのにはそれなりの理由があった。つまり、天皇の支配権がおよぶ前に、それぞれの未開の部族国家のあいだにある婚姻形態が存在し、それがあまりにも乱脈なものであったから、それに対して制限を加えた過去が存在していたと想像するのである。しかも、その掟は農耕に関する掟ではなく、一夫一婦制を定めたものであるから、農耕法としての天つ罪の概念ではなく国つ罪の概念に含まれる。こういう国つ罪の痕跡が、このようにスサノオの場所にでてくること自体、スサノオが天つ神と国つ神の接合面にあらわれてくる出自を示している。
こうして、天つ神と国つ神の交点にたったスサノオから大国主神（オオクニヌシノカミ）への足どりは、まだ、天つ神でありながら国つ神でもあるそれらの間の距離感を整える過程であるようにおもえる。たとえば、一つの胴体に八つの顔があり、八つの尾がある八俣大蛇（ヤマタノオロチ）は、水の神である地霊神の象徴であり、その征伐譚においては、暴風の神のスサノオとどちらが神格化されてもいいような関係をたもっている。スサノオはこの大蛇にまもなく生贄にされようとしていていた櫛名田比売（クシナダヒメ）を救おうと酒を用意させ、大蛇が飲み寝いったところを剣で切り散らし退治した。その尾からは草薙の刀（クサナギ）を取り出し、アマテラスに献上したとある。こうして、スサノオはクシナダヒメと結ばれ子供をもうける。
スサノオから数代を重ねて大国主神（オオクニヌシノカミ）が生まれるのだが、このオオクニヌシは、ほかに４つの名を持っていた。いちばん土着色の濃い大穴牟遅神（オオナムチノカミ）から八千矛神（ヤチホコノカミ）、葦原色許男神（アシハラシコオノカミ）、宇都志国玉神（ウツクシニノタマノカミ）、最後に政治的君主であり、やがて国譲りをするオオクニヌシまでである。これはオオクニヌシが天つ神であったり国つ神であったりする度合いによって境遇が名を変えていったことを示している。
オオクニヌシには兄弟の八十神（ヤソシン）がいたのだが、かねてより彼らから疎まれ、いじわるをされている。心やさしいオオクニヌシは、鮫をだまして丸裸にされた因幡の素兎（イナバノシロウサギ）を助けたりするが、かえってその優しさが八上比売（ヤガミヒメ）に対する兄弟間の求婚競争の仇になる。兄弟の神々は焼いた石を山の上から落としたり、大木の下敷きにさせようとしたりしてオオクニヌシを殺してしまう。しかし、その都度、母の神の力によって蘇生する。たまらず、母の神のアドバイスに従って、オオクニヌシはスサノオのいる根の国に逃げ込む。
その死の国でスサノオの娘の須勢理眦売（スセリビメ）と結婚する。だが、いかんせんそこは黄泉の国、スサノオから気持ちの悪い蛇、ムカデ、蜂の部屋に入れられるなど度重なる難題を吹っ掛けられるも、その都度、スセリビメから邪悪への撃退法を教えられてすりぬける。そして、スサノオが寝いったところを、スサノオの髪を部屋の垂木に結いつけて戸口をふさいで、力が倍増する太刀と弓矢を奪い取ったオオクニヌシは、スセリヒメを背負い、ともに地上の国に逃げおおせた。こうして大人への通過儀式にも似た数々の苦難を乗りこえ、晴れて生まれ変わったオオクニヌシは、この太刀と弓矢で兄弟を追い払い、ヤガミヒメも手に入れ葦原の中つ国にはじめて国を作り支配する。
オオクニヌシは嫉妬深いスセリビナの監視をかいくぐって、あちこちの女性と浮き名を流すが、最後まで互いの夫婦仲はよかった。オオクニヌシは神産巣日神（カムムスヒノカミ）の子の少名眦古那神（スクナビコノナノカミ）と兄弟になってともに国を治めようとするが、まもなく、スクナビコノナノカミは黄泉の国に旅立ち、オオクニヌシが憂いていると、海から来る神があり聞くと、その神は大物主神（オオモノヌシノカミ）と答えて、大和の三輪山においてわたしを祭れと言ったとある。
２ 天孫降臨
一方、アマテラスは、自分の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳神（マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノカミ）に葦原の水穂の国（中つ国）を治めさせようとするが、この国は乱暴な神々が多く乱れているので、どうしたものかと案じて神々に相談をもちかける。その結果、次々と神々を葦原の中つ国へ遣わしたのだが、帰伏させるどころかオオクニヌシにへつらい、報告もしないでなかなか帰ってこない。そればかりか派遣した天若日子（アメワカヒコ）は高天原を裏切って、後から来た使者を矢で射殺してしまう。矢は高天原にまで届き、これに怒ったアマテラスは、この矢を衝き返すとアメワカヒコの胸を射抜いた。
最後にアマテラスは、建御雷之神（タケミカズチノオノカミ）を中つ国に遣わし、出雲の国で剣を抜き波の上に逆さまに刺し立てて、その剣の上に胡座をかいて、オオクニヌシに対して、この国はアマテラスの子に治める国であるから献上せよと問い詰めた。それに対してオオクニヌシは、息子の意向に従うと答える。息子のひとりである建御名方神（タケミナカタノカミ）は抵抗するが、タケミカズチに破れてしまう。とうとう観念したオオクニヌシは葦原の中つ国をアマテラスの子孫に献上する（国譲り）ことを誓って隠れる。
こうして葦原の中つ国を平定し終わったので、アマテラスは皇太子のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノカミにこの国に降りることを命じるが、皇太子は支度をしている間に子供が生まれたので、その子を降ろしたいと答える。その子こそ天邇岐志国邇岐志天日高日子番邇邇芸命（アマニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギノミコト）である。ニニギノミコトは、国つ神の猿田眦古（サルダビコ）の案内によって、勾玉と鏡と草薙の剣を携えて雲をかきわけ、高天原と葦原の中つ国を結ぶ天の浮橋から、筑紫の国の日向の国の高千穂の峰に降り立った。これがいわゆる天孫降臨（テンソンコウリン）である。天つ神の御子という名はこのときより使われる。
天孫降臨したのがアマテラスの子ではなく、生まれたばかりの孫であったという点に関して梅原猛は、『古事記』編纂当時の元明天皇が、文武天皇の忘れ形見の孫の元正天皇を帝位につけたことを合理化するために歪められた説話というように受けとった。また、西郷信綱は、神話は何ものかを指し示す象徴行為とみなして、帝位の譲り渡しを事実の次元から引き離し、葦原の中つ国を治めるものは新たに生まれるものでなければならないという古代の観念に基づくものとした。これは西郷が神話を新嘗祭や大嘗祭などの祭式との関連で物語られた象徴的観念と解釈するものであり、彼の神話理解の基本的な方法に触れている。
西郷によると宮殿における大嘗祭の秘儀は、悠起（ユキ）、主基（スキ）という原始様式の殿舎で営まれる。この殿内で次の天子は新穀を食べることによって、この五穀実る豊葦原の水穂の国の豊穣さを約束する呪力を身につける。しかし、そのような能力は、亡くなった天子から新しい天子にそのまま手渡されるのではなく、新しい天子は今までの生を終わらせ、あらたな生の誕生を条件にする。彼は稲を食べると同時に殿内の神座で布団にくるまり臥して胎児の世界に戻った後、再び誕生を迎えるという変身の模擬をおこなったとみられる。この神殿の中にはアマテラスの神座もしつらえており、変身し生まれ変わった天子は、アマテラスの面前でみずからの子として認められることになる。生まれたばかりのニニギノミコトが天孫降臨しなければならなかったのは、このような秘儀の象徴行為の結果と考えられた。
同じことを折口信夫は「すぢぁ」に見える思想として語っている。つまり、すでるという言葉の原義は、「現る」、「いづ」というニュアンスに近く、このため「あら人神」というのも神があるという意味に近い。霊魂とその表現ということで言えば、幾代にもわたって連綿として続き、その表れ（すでる者）として、社の神主として資格をもち、更には、その祀る神にもなった。そして、その世代交代は外来魂が来るときに行われ、常世の水の信仰によって裏づけられる。その若返る水（若水）によって繰り返し霊力が改まると考えられた。
もうひとつの象徴行為として西郷が指摘しているのは、天孫降臨が筑紫の国の日向の国の高千穂の峰に降り立ったという点である。高千穂の峰に降りたったのは、山と積まれた穂の豊穣さを表わし、日向はヒムカシ（東）という古人の宇宙観からひきだされたものであるとしている。彼によると、神話の中の、一見、固有名詞であるかのように装っている言語は、象徴的飛躍をろ過したものであって、扁平な自然主義的な解釈を受けつけない。ヒムカ（東）への信仰は、二元的な宇宙論がかかわっており、高天原と葦原の中つ国、天つ神と国つ神の対立、とりわけ、大和から望むとき、日の沈む西にあって黄泉の国につながる出雲と日の昇る東にある伊勢の対称関係はきわだっていた。オオクニヌシの出雲大社の創立とアマテラスの神の伊勢神宮への遷座は同時におこなわれ、記紀に隠された政治的・宗教的意味を読みとる上で欠かせないものであった。こういう考え方を受け入れるなら、わたしたちはのちの神武天皇の東征も同じく、日の神の信仰から方位にこめられた神話であることに気づく。
ニニギノミコトは出会いった美しい女、木花之佐久夜眦売（コノハナノサクヤビメ）との間に、火照命（ホデリノミコト）、火須勢理命（ホスセリノミコト）、火遠理命（ホオリノミコト）またの名を日高日子穂穂出見命（ヒコヒコホホデミノミコト）をもうけた。ホデリは海佐知眦古（ウミサチビコ）と呼ばれ、海でいろいろな魚を獲った。立派な美男子であったホオリは山佐知眦古（ヤマサチビコ）と呼ばれ、山の獣を獲って暮らしていた。ある日、ヤマサチビコはウミサチビコにそれぞれの狩りの道具を交換しようと申し入れ、借りた釣針で魚を釣ろうとしたのだが、一匹も釣れず、そればかりか兄から借りた釣針を魚に取られてしまった。ウミサチビコは怒って失くした釣針を返せとつめ寄り、ヤマサチビコが海辺で途方に暮れていると、塩椎神（シオツチノカミ）が現われ、舟を作ったので、教えられたとおりに潮に乗って行くと、浦島伝説さながら綿津見神（ワタツミノカミ）の御殿に着く。
御殿の中に入ると、召使いに豊玉眦売命（トヨタマビメノミコト）のもとに通され、双方が一目惚れする。トヨタマビメの父親の海神はヤマサチビコを見た途端、皇太子であることをみぬき、さまざまな饗宴でもてなす。そういう厚いもてなしが３年間続いたある日、ヤマサチビコは溜息をつきながら、釣針を探しに来た目的をトヨタマビメに話す。そこでトヨタマビメの父親は海にいるすべての魚を呼び寄せ、聞いてまわり、赤鯛が釣針を飲み込んでいることを知る。その釣針をヤマサチビコに返すとき、いじめられたウミサチビコに対するある計略を教える。地上に戻ったヤマサチビコは、父親に言われたとおりのことを実行すると兄は貧乏になり、とうとう打ち負かし、家来にしてしまう。
トヨタマビメは、天つ神の子を宿したので地上で産みたいとヤマサチビコを追いかけてきた。渚に鵜の羽の産屋をつくり、いざ、お産をしようとしたのであるが、どういうわけか、子供を産む姿を見ないでほしいと言う。不思議におもってヤマサチビコがそっと覗き見すると、妻は元の国の姿に変身し、大きな鮫になってもがいている。驚いたのはトヨタマビメの方で、恥ずかしさと恨みに耐えかねて、綿津見の国に帰ってしまう。そのとき産まれた子は、産屋にちなんで鵜葺草葺不合命（ウガヤフキアエズノミコト）というあだ名で呼ばれる。正式には、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命（アメノヒタカヒコナギサタケルウガヤフキアエズノミコト）という。吉本はこの長い名前のうち、「日高日子」という言葉はこの神武天皇の父親だけに使われていることから、ここにおいて「天津」一族が日本列島を支配する最高の統治者になったことを表わしていると指摘している。
この妻（女）の姿を見るなといわれて覗き見したばかりに、それが禍となったり、あるいは人生の転機になったりする話は、『古事記』の中ではトヨタマビメのこの場面以外に二箇所ある。ひとつは、イザナギが黄泉の国でイザナミに再会したときのこと、もうひとつは景行天皇が皇太子のとき言葉を喋らなかったため、出雲に参拝して都に帰る途中、肥長比売（ヒナガヒメ）と一夜をともにした際、様子を見ると大蛇であったときである。
≪垂仁天皇の皇子ほむちわけが、出雲国造の娘ひなが媛の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろちの姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。おなじ事はいざなぎの命・いざなみの命の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷（雷は古代の考へ方によれば蛇である）が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛の話と、ちつとも違うてゐないではないか。≫『信太妻の話』折口信夫著
これらには国のちがう者同士の結婚、恋愛は、本国の神に仕える期間は夫にも知らせないという同じ文脈が流れている。もし、この誓いを破って夫が秘密を知ってしまうと互いの仲は決定的に壊れてしまうと考えられた。だとすれば、民潭にしばしば出てくる「異族の神」を苦々しく眺める心持ちがこのような物語をつくりだしたのはまちがいない。折口が例に挙げているのは、琉球女性が母から伝わり、嫁入りには必ず持っていくという香爐である。これは女性だけが祀る神を意味し、夫や子にさえ拝むことを許されていなかった。そこで折口は、根源までさかのぼるなら、これらは村々を呪縛したトーテミズムの禁忌にまで対象を拡げられると解釈し、トーテミズムの対象は動物だけでなく、植物も空気も風もそれぞれの村の信仰生活の第一歩であったと述べている。だが、少なくとも、スサノオからはじまる神話の構造においては、トーテム的氏族社会のエピソードは、すでに天つ神と国つ神が入り組んで部族国家が統合と離散を繰り返す長い道のりをとおしてその意味を薄められており、むしろ、部族国家同士の軋轢や異和の象徴として深く塗り込められていたとおもえる。
トヨタマビメは綿津見に帰ったのちも、ヤマサチビコへの思いが募り、妹の玉依眦売（タマヨリビメ）を夫のもとに遣わした。やがて、ウガヤフキアエズは、叔母であるタマヨリビメを妻にして四人の子供を産んだ。その末っ子が若御毛沼命（ワカミケヌノミコト）であり、またの名を豊御毛沼命（トヨミケヌノミコト）、もうひとつの名が、神倭伊波礼眦古命（カムヤマトイワレビコノミコト）という。カムヤマトイワレビコこそ神武天皇のことである。
３ 神武東征
神武天皇は高千穂の国を離れ東征を決意する。カムヤマトイワレビコは長兄の五瀬命（ゴカセノミコト）とともに高千穂から筑紫へ行き、安芸から吉備、明石へと船を進め、浪速の港につく。転戦しながら進むが、先住していた登美（トミ）の那賀須泥眦古（ナガスネノビコ）の軍が待ち受け、兄のゴカセノミコトが矢の傷を負ったことから、自分が日の神であるにもかかわらず、日に向かって西から東に進むのは間違いであったことに気づき、南回りに紀伊半島を東に回って進むことにする。カムヤマトイワレビコが熊野についたとき、ある事件がおきる。熊を見てカムヤマトイワレビコとその軍勢が、全員、失神してしまう。そこに、高倉下（タカクラジ）という者が、高天原の建御雷之神（タケミカズチノオノカミ）から貰い受けたという一振りの太刀をもってくる。それによってカムヤマトイワレビコは、熊野の山の荒ぶる神たちをなぎ倒すことができた。また、天の神の命令を受けて、八咫烏（ヤタガラス）に導かれると吉野川の下流にでた。
このあたりは荒ぶる神が多く、東征は難航した。国つ神の方は罠をしかけ策略をこらし、カムヤマトイワレビコを殺そうと待ち構えている。それでも、敵の裏切りや運に助けられて難を逃れ、久米歌で凱歌を上げながら次々に国つ神を配下におさめた。忍坂（おさか）の洞窟に入ったときには、大勢の土雲が待ちかまえていたが、その乱暴者にご馳走を振舞うふりをして、気がゆるんだすきに、詠まれた歌を合図に彼らを皆殺しにしたとある。その後も「撃ちてし止まむ」という軍歌を歌いながら、反抗する荒ぶる国つ神を平定してしまう。こうして、カムヤマトイワレビコは畝傍（ウネビ）の橿原の宮（カシハラノミヤ）で天下を治めたといわれている。
神武東征については、事実としてあったのか、それとも神武そのものが実在していたのかどうか、戦前の津田左右吉から始まって多くの議論があった。そんな中、神武東征の実在を純粋に地誌学の観点から証明したのは古田武彦である。古田によると、神武は宮崎の日向の出身の豪族であったが、野心家であったから、既に大きい文明圏のひとつであった九州の地においては、地方の一豪族以上にはなれないという不満をもっていた。そのため、あえて東進という大きな賭けにでた。その目標の先には銅鐸文化圏と呼ばれた近畿文化圏が据えられていた。長兄のゴカセノミコトとともに、日向を出発して大分の宇沙に着き、土地の豪族であって、瀬戸内沿岸に睨みのきく宇沙都比古（ウサツヒコ）、宇佐都比売（ウサツヒメ）の厚遇を受けたとされる。その後、船で関門海峡を通過し、安芸（アキ）の多ケ理の宮（タケリノミヤ）に寄航し、次に吉備の高島宮に着く。この間に１５年もの歳月が流れたとあるから、瀬戸内海水軍から軍事技術を学び習得に要した期間と考えてもおかしくない。そして、いよいよ船団を率いて淡路島を越え浪速で戦闘が開始される。
神武らは登美（トミ）の那賀須泥眦古（ナガスネノビコ）と、いわゆる日下（クサカ）の楯津（たてつ）というところで対峙したとある。ここでクサカという残存する内陸の地形から考えて、船団による襲撃が一転、陸上戦に変わったかのようにおもえるのだが、古田は新しい発見を提示した。弥生期から古墳期にかけて、大阪湾のさらに奥に河内湾という内海があり、その内海の突き当たりにこのクサカという地名があったことが明らかになったのだ。古田はその内海に面したクサカという場所が、『古事記』編纂当時にはすでに河内湾の細い入り口がふさがれ河内湖になり、それから湖が埋め立てられた後になっても、なんの異和感もなく史実として語り継がれたものだと述べている。
さらに、『古事記』には、クサカの戦いで敗退し、兄のゴカセノミコトが矢の傷を負ったため、河内湾から脱出を図るとき、自分は日の神であるから、日に向かって西から東に進むのは間違いで、「南の方より廻って」船を進めたとある。しかし、船団はクサカから南へは進めないとおもわれるはずだ。ところが、古田は「南の方より廻って」船を進めるという方角の解釈に異をとなえて、地名との符合を主張した。つまり、ちょうど大阪湾と河内湾の北端の細い入り口の地名が「南方（ミナミカタ）」になっているのである。それなら、ミナミカタを迂回して大阪湾にでて、それからほんとうに紀伊半島の南廻りに熊野をくぐりぬけ大和へ向けて行軍したことも考えられる。彼は、神武神話は埋め立てられる前の弥生の地形が残っているあいだに作られ、奈良期まで伝承されたと主張している。もし、地名が時代とともにそれほど変化しないとすれば、そのまま神話の中の地名として表現され、しかもストーリーと違和感なく接合できるなら、神話はフィクョンでも絵空事でもないと考えたのである。
こういった古田の地誌的方法は、古代史の中で最大の難問とされてきた卑弥呼の「邪馬台国」の場所を特定する際にもあらわれている。「倭」国のことが中国の史書にはじめて登場したのは『後漢書』である。光武帝紀の建武中元二（西暦５７年）の条に、「百余国」ある中の倭の奴国の使いが後漢の都洛陽に来て、光武帝は彼らの首長を「倭の奴国王」に封じ、金印紫綬を与えたとある。この金印の印面には「漢委奴国王」と刻まれており、江戸時代に福岡県志賀島で出土されたとされているものである。この「奴国王」は半島との交易がおこないやすい九州を中心とする並存する国々の中のひとつであったとみられており、福岡平野の那珂川の流域を中心とした勢力の連合体の中心国家と推測される。
その後、三世紀の終わりに編纂された『三国志』の中の「魏志倭人伝」の記述によれば、倭の国では並立する「三十国」がある。通説では、このうち北部九州にあったと考えられるのは、対馬（ツイマ）、一支（イキ）、末盧（マツラ）、伊都（イト）、奴（ナ）、不弥（ホミ）などの国々である。また、港から「水行十日・陸行一月」とされる邪馬台（ヤマト）は畿内にあったとされ、女王卑弥呼（ヒメコ）により近隣２１国と交流をもっていたか傘下に治めていた。これらの諸国家連合以外に投馬国（ヅマ）は「水行二十日」とされており、『古事記』の中で描かれた有力部族の推測からして、出雲の国である可能性が高いと言われてきた。同じく邪馬台のグループに属さず境界を接している狗奴国（クナ）の男王卑弥弓呼（ヒメクコ）は、その後、邪馬台を脅かし互いに攻撃をくりかえすようになったとある。
だが、古田は、このような通説が大和朝廷中心思想に侵されていると批判している。第一は、「邪馬台国」と一般に呼ばれている国の名称に関わっている。魏志倭人伝の原本によれば、「邪馬臺台国」（ヤマタイコク）ではなく、「邪馬壹国」（ヤマイチコク）が正式名称であるとしたのである。『三国志』の古写本を倭人伝以外の当該文字の記述と逐一照らし合わせてみると、どれもイチコクになっていた。彼はこういう誤解の原因は、ほかでもなく、一般的にわが国の王といえば大和王権しかないという先入観から、邪馬台（ヤマト）と呼ばれたのではないかと推察している。そして、そのヤマイチコクの場所については、古田独特の手法で里程を検証することからはじまった。「魏志倭人伝」には倭の三十国は、現在の朝鮮半島のソウル近辺の帯方郡地というところから測定して、ヤマイチコクまで総距離一万二千余里とされており、それぞれの国の間が方位とともに里程で記述されていた。今まで恣意的な解釈によって、この里程距離そのものが誇張されており信用できないとされていたのだが、古田は、里単位そのものが間違っているため、誇張のように見えるだけで、里単位をそろえ各国相互間の距離の部分を足し算すると、全体で一万二千余里に符合するというのである。そうして測定すると、ヤマイチコクは大和ではなく、北九州の博多湾一帯に存在していたことがわかった。つまり、わが国最大の弥生期の密集出土地帯と重なっていたことになる。
このような古田の地誌学は、古典の読み方としてひたすら文献学の中に閉じこもっていた本居宣長から続く記紀解釈の方法を白紙に戻してしまった感がある。さらには、今後、地誌学が考古学や地質学、文献学とより緊密に横断的に統一され、歴史学の本流に流れ込む可能性を秘めていることがわかる。
『後漢書』に書かれた倭の時代以降、邪馬台国で卑弥呼が擁立された背景には、卑弥呼の「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」能力をもって、互いの部族「国家」が相争う戦乱を収束させたからである。つまり、二世紀末の有力部族国家同士の争いを終息させ、より高次の結束がなされたことで統一部族（連合）国家が出現したとおもわれる。その過程で初期の邪馬台政権においては従来の結合関係とは異なる宗教的・政治的再編がおこなわれたことはまちがいない。その宗教的・政治的推力は、卑弥呼と呼ばれる司祭者と国々から集められた宮廷巫女の集団が、祭祀儀礼を共有することによって行われた。
そこで、わたしたちの関心をひく最も大きなポイントは、古田が指摘しているように、北九州に邪馬台国のような統一王権が存在することは、同じような規模の宗教的・政治的部族国家連合が列島のいたるところに並立していた可能性の事実である。後の『古事記』の作者によって切り取られ、姿をあらわした神武神話にはじまる大和王権だけではなく、互いに対峙しながらも、九州にも東海にも関東にも東北にもそれぞれ王権は群立していた。
しかし、これらはいずれも、邪馬台国が他の部族国家をそうしてきたように、やがて大和王権の力によって次第に追い詰められ、質のことなった宗教的・政治的威力によって併呑された。もし、その可能性があるとすれば、それぞれの王権にも物語があったはずであり、権力関係の消長は宗教的権威の消長ばかりではなく、物語の収奪でもあるから、物語は時間の経過とともに昇華されて、匿名のように記紀の中にそっと結晶したとも考えられる。その意味から、わたしたちは、神話のはじまりと消滅の軌跡は権力関係を映す鏡として、その本質を見きわめなければならないのである。
わたしたちは、邪馬台国の卑弥呼の実在によって、アマテラスとスサノオの神話をとおして、姉が祭祀（宗教権）をつかさどり、弟が現実政治を行う統治組織の原型を想像することができる。しかし、このような国家のなりたちについて、一口に神権政治と呼んで宗教的・政治的権力を説明したとしても、どこか物足りなさをおぼえてしまう。神権政治という言い方に西洋的なニガリがともない、どのような神を対象にしてある国は巨大な宗主国になり、他を従えるようになるのか、その秘密を明らかにすることができないからだ。だが、ヒントは隠されている。
樋口清之は神権政治がシャーマニズムに由来するとして次のように解説している。
≪これは、まずシャーマンが、太鼓、笛、鉦、鈴などの楽器をリズミカルに奏しながら単調なテンポで踊ることで、自己陶酔から自己催眠に入り忘我になることを第一段階とします。そのとき酒や薬草を飲み、特殊な煙を吸い、また身体をリズミカルに打ったり、水浴して冷やしたり、火に入って熱したり、とにかく化学的、物理的刺激を与えたり、自分を異常心理に導いたりする努力をします（これをエクスタシーという）。次に自己催眠の中で、自己の脱出、自霊の虚脱が行われ人格転換が行われます（これをトランスという）。すると信ずる神や霊（人、動物、植物など）がのりうつると感じます（これをポセッションという）。そしてこの霊がこの神憑りした人の口や動作を通じて、意思を託宣するのです（オラクルという）。このような過程を経る信仰は、神の憑依のとき、肉体が躍動したり、ふるえたりするので、これをシャームと呼んだので、シャーマニズムと言われるようになりました。≫『卑弥呼と邪馬台国の謎』 樋口清之著
このようなシャーマンの神憑りによって託宣をし、それが神意そのものとしてひとびとの社会生活を左右する風習は、沖縄や朝鮮では今でも有力な信仰として残っている。卑弥呼は、おそらく、その遺伝的素質や修行によってこの神憑りを行うようになり、やがて国家連合は大きくなり、宗教的・政治的権力を行使したものとおもわれる。だが、卑弥呼が「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」という言い方の中には、神憑りが鬼と呼ばれるような異常心理を作り出し、幽魂や亡霊の類を招きよせ、たくみに託宣することに長けていたことをうかがわせる。古代の部族国家ではそれぞれこのような巫女をかかえ、その託宣は政治や軍事に影響を与えており、神権政治は邪馬台国だけのものではなかった。しかし、卑弥呼の場合には、以前の男王のときには国が乱れたとあるから、女性として国さらには国同士を統べる妖術ともいえる技術が備わっていたと考えられる。
このシャーマニズムはシベリアから東北アジアの広い範囲に分布すると言われているのであるが、樋口清之は日本の原始信仰を二重性においてとらえている。ひとつは、呪物崇拝、祖先崇拝、自然崇拝から生霊信仰（イキミタマ信仰）まで、人類の歩みの初期段階においてあらゆる事物（動物、山河、海、岩、風、太陽）に霊が存在するとして崇拝する、アニミズムからはじまるアジア照葉樹林帯特有の信仰である。とりわけ稲作が行われはじめると、農耕に関わりが深い水、雲、山、蛇、太陽自体に信仰が集まってきた。ところが、北方から支配層の持ち込んだシャーマニズムは、そういうアニミズムの霊魂をシャーマンに憑依する神にする。とりわけ、太陽に対する霊魂信仰は、農耕民にとってシャーマニズムに習合しやすかったと考えられている。
そうであれば、卑弥呼が果たした鬼道も、政治的、軍事的なものばかりでなく、天候による豊作、凶作を占うとか農耕生活にまつわる神の宣託が多かったことはまちがいない。その点において、樋口は記紀神話において、アマテラスの日の神が最高神として現れているのは、南方の太陽アニミズムに支配階級の北方シャーマニズムが重複された証とみなしているのである。また、農耕にとって不可欠な雨の信仰、山の信仰、水の信仰などのアニミズムを糾合させシャーマニズムの対象に吸収したのではないかとおもわれる。
おそらく、樋口がいうところの支配階級というのは、当時、大陸は高度な文化をもっていたから、卑弥呼らの支配層はアニミズムを信じていた農耕土民に朝鮮から高い文化や技術とともにシャーマニズムの信仰を持ち込んだのではないかという憶測に立っている。実際に卑弥呼の出自が朝鮮半島経由であったかどうかはともかく、東アジア大陸のシャーマニズムを取り入れ、土着的な信仰を揺るがしたことだけはまちがいない。この問題は、卑弥呼の邪馬台国だけではなく、記紀神話の対象である大和王権の出自を考える上でも参考になるにちがいない。
もとに戻ると、神武天皇は日向の国にいるとき、阿比良比売（アヒラヒメ）と結婚して、多芸志美美命（タギシミミノミコト）という子をもうけていたが、天下を治めた後、比売多多良伊須気余理比命（ヒメタタライスケヨリヒメ）という正妻を娶った。この姫は三輪の大物主（ミワノオオモノヌシ）が通って産ませた娘といわれている。天皇とこの娘との馴れ初めは大久米の命が仲立ちになって歌の問答からはじまった。こうして三人の男子をもうけ、長男が日子八井命（ヒコヤイノミコト）、次が神八井耳命（カムヤイミミノミコト）、次が神沼河耳命（カムヌナカワミミノミコト）である。
神武天皇が亡くなった後、タギシミミノミコトは皇后のヒメタタライスケヨリヒメを妻にし、三人の子供の殺害を企てる。そのため、ヒメタタライスケヨリヒメは、子供たちに危険を知らせる歌を送る。そこで、逆に、子供たちはタギシミミノミコトを殺害しようとするが、兄のカムヤイミミノミコトは手足がおののき震えて殺すことができず、かわって弟のカムヌナカワミミノミコトが兄の武器を奪い取って、タギシミミノミコトを殺害する。こうしてカムヤイミミノミコトは弟に天皇の位を譲り、みずから天皇の祭事を補佐する忌人（いわいびと）になることを約束する。カムヌナカワミミノミコトは綏靖天皇（スイゼイ）になる。
綏靖の後、安寧（アンネイ）、懿徳（イトク）、孝昭（コウショウ）、孝安（コウアン）、孝霊（コウレイ）、孝元（コウゲン）、開花（カイカ）と続くが、これらはどこで天下を治めたか、誰と結婚し、子供は何人あったか、享年と御陵などの帝紀しか記されておらず、物語が添えられていない。
４ 原始王権の所在
次の祟神天皇（スジン）の頃、疫病が流行して多くのひとびとが死に民心が揺らいだ。このことを憂慮していた天皇の夢枕に三輪山の大物主大神（オオモノヌシノオオカミ）がでてきて、この疫病は自分の心向きである、わたしを祀れば神の祟りはなくなるだろうと託宣する。このため、大物主の神が女のところに通って子供を産ませた子孫と呼ばれる者を呼び寄せた。このように大物主の神が通って産ませた子供という話は、神武天皇の正妻になった比売多多良伊須気余理比命（ヒメタタライスケヨリヒメ）の出生についても同様な記事がみえる。この男が言うのには、娘が結婚していないのに妊娠したことを知って父母が聞くと、名の知れない立派な男が夜毎に来て、自然に孕んだという。そこで、着物の裾に麻糸をとおした針を刺し、それをたどって行くと三輪山の神の社についたというものである。この者が鎮魂の祭りをおこなったことで国は安らかになったとある。
また、この世に北陸地方や東海道の服従しない人民を平定したとされている。一方、山城の国では天皇の庶兄（ママセ）の建波邇安王（タケハニヤスノミコ）が反乱を企てており、ある女の歌った詞によってそれを知った天皇は、伯父の大眦古命（オオビコノミコト）を遣わして平定した。これらのことから祟神天皇を初めて国を治めたという意味で、御真木（ミマキ）の天皇という。
垂仁天皇（すいにん）の皇后は沙本眦売（サオビメ）といったが、この女性の悲劇の性格は、わたしたちに古代の家族と共同体の入り組んだ関係をさし示している。この皇后の兄の沙本眦古王（サオビコノミコ）が、夫と兄とどちらが好きかと問い詰め、天皇を暗殺して二人で天下を治めようと唆す。それとは知らず、天皇はサオビメの膝を枕にして寝ていた。サオビメは兄からもらいうけた小刀で天皇の首を刺そうと三度振りかざしたが、その度に哀しみの気持ちが湧きおこり、涙が溢れおもいとどまる。サオビメからサオビコノミコの謀反の企てを聞いた天皇は、サオビコノミコに軍隊を差し向けたが、城をつくって立て籠ってしまった。しかも、サオビメは兄を哀れにおもって宮殿から逃げだし、兄の城に入ってしまう。そのときすでに、サオビメは子を身ごもっており、その城の中で皇子が産まれる。このため天皇の軍隊は、すぐに城を攻め落とすことを躊躇し、なんとか子供とともにサオビメを救出しようとして、屈強な部下に髪をひっぱってでも母子ともに取り返すことを申し渡す。ところが、サオビメは兄の元を去りがたい気持ちから、髪を剃ってひっぱられないようにして、皇子だけを引き渡してしまう。そして、とうとう天皇はサオビコノミコを攻め殺し、サオビメも運命を共にする。
神話の読み口を実際の歴史の方に開放すれば、いかようにも恣意的な解釈がゆるされるだろう。あげく、それにみあってほんとうの歴史の錯綜した時間は途絶えてみえてしまう。それに対して吉本隆明は、あらゆる神話世界の共通性としてとりだしうるのは、ただ、「共同幻想の構成（ゲシュタルト）」としてだけであると述べた。吉本は、その幻想という言葉において、考古学の対象である古墳、装飾品などの出土品から想像される事実や事件と無関係に、神話は観念性の中の共同性や「対幻想（家族）」の関係においてとらえられるべきものとした。そして、彼が『古事記』に流れる時間の連鎖において着目したのは、共同幻想と対幻想の関係の折り目をとおしてみた、氏族的段階の共同幻想と統一部族的段階の共同幻想の狭間に発生した「倫理」の問題であった。その氏族的段階とよばれる共同幻想の構成とは次のようなものである。
≪スサノオは『古事記』のなかで国つ神の始祖とかんがえられている。いいかえれば農耕土民の祖形である。「高天が原」を統治するアマテラスというのは神の託宣の世界を支配する＜姉＞という象徴であり、スサノオは農耕社会を現実的に支配する＜弟＞という象徴である。そしてこの形態は、おそらく神権の優位のもとで＜姉妹＞と＜兄弟＞が宗教的な権力と政治的な権力とを分治するという氏族（または前氏族）的な段階における＜共同幻想＞の政治的な形態を語っている。≫『共同幻想論』 吉本隆明著
あらためてこの箇所を読んでみると、吉本が言わんとする制度の影を背負った「倫理」の発生に関するメカニズムはよく理解できる。だが、やや分析的な見方をすると、ここでは「氏族的」、「部族的」、「統一部族的」という言葉が折り重なって繰り込まれており、「姉妹」と「兄弟」が宗教的権力と政治的な権力とを分けて統治するという段階は、あるときは統一部族国家の直前までであったり、また、別のときには氏族的段階の社会から産まれたばかりの部族社会に隣接したりして、どこからどこまでかが不分明で、誤解をうけやすい言い廻しになっているようにおもえる。
もちろん、歴史の継起が氏族社会から部族社会へ、さらに部族が大きくなり統一部族的社会へと単線で流れていくとはかぎらないのであるが、現在から彼の『共同幻想論』の趣旨を俯瞰してみれば、時間軸をより鮮明にするため、さらに歴史の区切りきわださせる必要があるようにおもえる。というのは、わたしの引用した箇所は、終り近い「罪責論」からであるが、その前まで、自己幻想から共同幻想への橋渡しの意味から対幻想に大きな比重がかけられていた。しかも、原始から古代への仲立ちには、彼が家族関係の拡延の結び目として「姉妹」と「兄弟」という対幻想が意味をもち、その政治的意味あいにおいて、氏族的社会から部族的社会への布石ができるような言い方をしている。それなら、アマテラスとスサノオに象徴されているのは、氏族的社会以降、部族的社会までの道のりを集約した共同幻想の構成にちがいないはずだ。
この問題を引きあいに出すのは、ほかでもなく、そのことよりももっと重要なことが隠されているからである。これは彼が統一部族国家＝大和朝廷勢力が「罪責」感をどう埋めあわせしたかを語る方法に示されている。彼は、折口信夫が指摘したスサノオの「原罪」が産みだされるメカニズムについて語っている。それによれば、イザナギはアマテラスに高天原を支配することを命じ、スサノオには海原を治めることを命じるのだが、スサノオはそれを納得せず、母親（イザナミ）を慕って泣き悲しんでいるばかりいたから、とうとう高天原を追放される。スサノオが慕っていたのは農耕土民の社会を投影した「妣の国」であって、それはつまり、「姉」が神権をつかさどり、「弟」が現世的な政治権力を支配する氏族制以前の政治形態であると言われている。こうしてスサノオが高天原から追放され、背負わされた「原罪」意識は、この氏族制以前の政治形態と『古事記』を編纂した統一部族国家である大和朝廷との間の軋轢が反映したものであるかのように解釈される。つまり、本来なら農耕土民を統括し、統一する過程で生じたであろうはずの共同幻想の葛藤や軋轢がスサノオという人物に託され、初源的な「倫理」の問題がとりだされるとみなされている。
だが、大和朝廷のような強大な統一部族国家が直接的に氏族制（または前氏族制）社会の共同幻想との軋轢をもつとは考えにくい。事実、吉本自身、氏族社会から部族国家へ、また、統一部族国家への道すじには、何千年もの時間の経過が跡づけられるとみなしているからである。それならわたしは、統一部族国家の「原罪」という観念は、アマテラスとスサノオの関係からではなく、吉本が次の段階の「倫理」の問題として想定している垂仁の皇后のサオビメが「兄」と夫との関係に翻弄された部族国家相互の争いの渦中に、よりあからさまに現れていると考えざるをえないのである。
垂仁天皇のサオビメは兄と夫の間に引き裂かれ、結局、兄の元を去ろうとせず、兄と運命をともにしてしまう。この箇所について吉本は、政治権力が宗教的権力よりも優位になった段階の社会の「倫理」の問題に転化しているとした。
吉本によると、アマテラスとスサノオの姉弟関係は、アマテラスという宗教的権力を前提にし、それをめぐってスサノオの政治的権力との隙間に「倫理」が発生したものであるが、サオビメの場合は、政治的権力の優位が固まった後に、依然、遺制として潜在していた原始的な共同幻想のゲシュタルトとの断層の中で、その悲劇を象徴的に背負わなければならなかったとされている。だが、大和朝廷勢力という統一部族国家が平定する過程で従えた部族国家との間から産み落とされた「原罪」という観点は、論理的な先後関係からいえば、垂仁天皇とサオビメが背後にかかえた関係とのあいだで翻弄された部族国家相互の争いの渦中でこそ、その意味をもたなければならないのである。なぜなら、この話には後日談があるからである。
神話は、天皇はサオビメから奪ったその御子を大切に育てたが、大きくなってもその子は言葉を喋らなかったとある。そのとき、それを心配した天皇の夢の中に出雲の大神がでてきて、その祟りであることがわかり、天皇は急いで占いに優れていた曙立の王（アケタツノオウ）を副えて御子を出雲の神に参拝させた。都に帰る途上、斐伊川（ヒノカワ）で仮の宿泊をしたとき、出雲国造（イズモノクニノミヤツコ）の祖先の岐比佐都美（キヒサツミ）という者がご馳走をふるまったところ、突然、御子が目の前の山を指して、葦原色許男神（アシハラシコオノカミ）＝オオクニヌシの祭壇ではないかと口にし、お供の者たちは初めて喋るのを聞いて驚き、早馬で天皇に報告した。
その夜、御子は肥長比売（ヒナガヒメ）と交わったが、密かに様子を見ると彼女は蛇に変身していて恐ろしくなり、追いかけてくるのをふりきって逃げたとある。その後、御子が喋るようになったのを聞いて天皇は喜び、ただちに出雲の神の宮を修理させた。
ここで言えることのひとつは、神話の中でアマテラスとスサノオやオオクニシなどの神代の世界と、神武から数えて１１代天皇である垂仁との時代はそれほど分け隔てられた時代とは考えられていないことである。つまり、問題となっている大和朝廷にとって、出雲の国に象徴されるかつての農耕土民との心理的角逐やそれにともなう負い目は「原罪」意識となって、『古事記』の中ではじめから継承されていることである。そして、もうひとつは、この出雲の国の実体というのは、スサノオが宮殿をつくり、大蛇から身を護った櫛名田比売（クシナダヒメ）と結ばれ、子供をもうけ、それらから数代を重ねてオオオクニヌシが登場した頃には、すでに、多くの併存した部族国家と同様、または、それ以降の統一部族国家に近似した共同幻想の構成をもっていたということが想像される。このような横断的な共同幻想の見方は、折口信夫によってスサノオの黄泉の国との往来や、恋人や妻の蛇や鮫への変身をつうじて、夫婦間の異和や齟齬としてつかまれており、スサノオの時代から部族相互の暗黙の掟となって神話の中の心性を決定づけた。
５ ヤマトタケルの英雄譚
『古事記』のあらすじは、神とも人間とも色分けのつかないあわいに、あるいは微かに聞きとれるにすぎない時間と空間の齟齬の中に、国産みからはじまって天孫降臨の天つ神がスサノオの系譜の国つ神を平定していく過程や、天皇位をめぐっての骨肉の争い、神武天皇やヤマトタケルなどの英雄譚が描かれ、その周辺に天皇たちの恋歌が縁どられている。そして、読んでみて何よりも目につくのは、争いや恋の告白にその主人公たちの性格の骨組がくっきりと現われていることである。
特に、争いをとおして詐術謀略や残虐さは主人公たちのあたりまえの個性となって、性格の自然さが流露する。スサノオが八岐大蛇を酒に酔わせて斬ったことからはじまって、神武天皇が大和を平定する際にトリックを使ってだまし討ちしたこと、ヤマトタケルがクマソタケルの屋敷に女装して酒の席に入り不意打ちを仕掛けたことまで、それは彼らの象徴的政治行為にはちがいないのだが、卑怯でもなんでもともかく相手を騙し、敵の命をとればそれは美徳にも智慧にも転化できる可能性が、物語全体をとおして赤裸々に表現されているのだ。そこから喜怒哀楽の直接性とでも呼べるような人間の倫理性の原型が刻印される。折口信夫の倫理観からは、その智慧を獲得する過程に幾多の試行錯誤が介在していたことがうかがえる。
≪純良なおほくにぬしは、欺かれつつ次第に智慧の光りを現して来た。此智慧こそは、やまとなす神の唯一のやたがらすであった。愚かなる道徳家が、賢い不徳者にうち負けて、市が栄えた譚は、東西を通じて古い諷諭・教訓の型であつた。ほをり・神武・やまとたける・泊瀬天皇など皆、此美徳を持つて成功した。道徳一方から見るのでなければ、智慧と悪徳とは決して、隣りどうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎も触れた事がある。人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想い至るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬしを仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。≫『萬葉びとの生活』折口信夫著
選ばれた萬葉びととは憤怒、憎悪、嫉妬を具備しており、それこそが国と国との間の争いごとに勝つことができた美徳であると人々に信じられていた。今でこそ粗野で残虐と非難されるかもしれない言行も、当時としては尤もな振る舞いであり、むしろ、それを楽しむすべを知っていたひとびとから見れば、それが存分に行われる権能を選ばれた神人として認められていたのであって、それに触れることが古典を読むことに値する。その機微は小道徳家には決して分からないことなのだと折口は突き放しているのだが、この倫理のはじまりの動機については、神話の側から見た人格とみなすことはできない。あくまでも主人公に投射された制度としての顔や行為であり、いずれも共同体からもたらされ、あるいは強いられたと考えるべきだとおもう。
それに対し、同じ共同体から産まれた幻想にしても、『古事記』にはスサノオや神武天皇のような荒々しい物語とはちがった説話の類もまじっている。たとえば、先の垂仁天皇の頃、天皇は皇后のいうままに、美知能宇斯（みちのうし）の王の娘たち四人を召し上げようとしたが、妹二人は醜くかったので故郷に送り返してしまう。そこで帰された娘は近所に知られては恥ずかしいとおもい、家出して木の枝に懸かって死のうとした。そして、森をさまよって、とうとう険しい淵に墜ちて死んでしまったとある。また、天皇は三宅の連の祖先の多遅摩毛理（タジマモリ）を常世の国に遣わして香りの木を持って帰るように命じた。しかし、持って帰ったときにはすでに天皇は亡くなっていた。そして皇后に半分を皇后に、半分を御陵に納め、みずからは泣き叫びながら死んだというものである。両方とも覇権争いを繰り返す権力者たちの時間の隙間に、小さいけれども自ら意志して死を選んだという点において、強いられる死と拮抗する人格の表情がかすかに表れている。
こういう一群の軽い挿話は、イザナギが黄泉の国から逃げた際、イザナミの追っ手をかわすため、イザナギが髪につけていた蔓の輪を後ろに投げると野葡萄に変わり、魔女がそれを食べている間に時間稼ぎをしたとか、櫛の歯から筍が生え、魔女が食べるという一瞬の場面の不協和につながっている。このような軽い挿話と英雄譚の落差がごく自然に存在することをわたしたちはどう考えればよいのだろうか。
第一はその目線の位置が、天皇やその群臣のものとはまったくちがう印象を受ける。つまり、目線は下から遥か上を仰ぎ見るように据えられているから、期せずして天皇の骨肉の争いや英雄譚を相対化する役割をはたすことになっている。あとで述べるが、ヤマトタケルはその荒々しさから父の景行天皇から疎まれ、スサノオと同様、政権の中枢から排斥されて、部族間の戦さのさなかに非業の最期をとげる。そこで、山口昌男は、スサノオとヤマトタケルの英雄譚が、中心（天皇）と周縁（皇子）の対立において、皇子はスケープゴートとなって日常世界から排斥された罪と穢れた非日常世界（暴力性、異常性、放浪性、辺境性）を象徴しているとみなした。彼らはその媒介者としての役割を担うことで、非日常的な混沌を秩序の側に組み込むバネとして、天皇制の深層構造を形づくったとされたのである。
これは王権の両義性ともいいうるものであり、嫌悪された皇子と天皇は一対（ペア）となって、相互補完的に秩序を守護するものであった。もともと山口は、「自然」と「文化」のパラダイム的対立という図式をもっていた。自然とは不義、混沌、凶暴、抑制の欠如等を指し、反対に、文化とは正義、温和、秩序、抑制を指している。たとえば、ヤマトタケルが征伐したといわれている東夷や土蜘蛛は凶暴で、邪神を信じ、淫姦であるとされ、特に、蝦夷は力が強く、人民からの略奪を繰り返し、まったく服従しないことから、王権の脅威たる負や悪の象徴であった。それだけではなく、彼らを鎮圧するため遣わされたヤマトタケル自身にしても「荒ぶる神」と呼ばれて、いわば、対立する自然と文化の両方の属性を兼ね備えており、それゆえにこそ媒介者として立ち振舞うことができた。ここでは対立の図式は空間の中におかれただけなら、東夷や土蜘蛛のように相手を殺戮することでしか解決されないが、ヤマトタケルのように別の次元に置きかえてみると、自然と文化は相互に既定しあって、秩序（文化）を構成するという意味づけがなされている。
これに対して、赤坂憲雄は山口の中心と周縁という二元的対位法自体、記紀神話によりかかるかぎり、王権や秩序の側のモノローグに同調しているにすぎないと批判している。二元的対立は神話の形式をまとった舞台上の王権の語りのしぐさでしかない。そんなものよりも、民衆芸能の中に折口信夫のいう貴種流離譚にくるまれて、スサノオやヤマトタケルの挿話の転形や受難の皇子たちの末裔が御霊神となって長く伝えられている目線こそ大切にしなければならないとしたのである。そこで赤坂が強調したのは、国家レベルの二元的対立と村落共同体の二元的対立を同列にあつかうことはできないということだった。村落共同体においてもスケープゴートは存在し、マレビトが担った村落の浄化のための役割は確認できる。だが、それは記紀の中の王権のコスモロジーから直接流れ下ったものではなく、そこにはシャーマン、祭司の村落の首長から王にいたる歴史的過程をとおして「媒介の原理」をはさんでいる。また、逆に、王権コスモロジーが村落のコスモロジーの「再現」されたものではないことは、記紀と土着の風土記伝承の差によってよく伝えられている。確かに、赤坂の言うようにスサノオの神話がのちに出雲系の農耕神の始祖として現れたとき、一見、王権は農耕神と一体化したかにみえたが、その一体化は水平方向からくる農耕民の空間認識から「再現」されているものではない。いわば、スサノオとオオクニヌシの国づくりは天孫降臨のために予定された地ならし以上の意味をもたない。
≪ここでの媒介の原理とは、同一物の「反復」やアナロジーにもとづく「再現」といったものではなく、たとえば水平的な空間認識が垂直軸（アメークニーネ）に沿って再構成されるような、位相変換や反転・歪形をも孕んだ転位の関係式をさしている。そうした媒介式によることなしに、村落の宇宙が王権のコスモロジーに位相変換されることはありえない。このことは実は、たいへん重要な問題を内包している。のちに触れることになるが、天皇制を日本に固有な＜自然＞的制度とみなし、土着的なるものからストレートに天皇制を析出できるとかんがえる「土俗天皇制」論（―と仮によんでおく）は、この媒介の原理にたいする認識を欠いたまま、土着的なるもの／天皇制を癒着接合させるところに成立するとおもわれるからだ。≫『王と天皇』 赤坂憲雄著
赤坂の指摘は、民俗の側からみての農耕民の共同性の組み方と、支配層が語る王と皇子と臣民によってつくる共同性の組み方がリニアに連結されないと言っているのと同じであるが、それが水平な空間認識と垂直軸に沿って再構成された認識の違いとして明らかにされている。つまり、農耕民のコスモロジーと王権のコスモロジーの間には隔壁があり、その上で、この隔壁を越えて相互浸透するときには、必ず、互いに「位相変換や反転・歪形をも孕んだ転位」が生じるということである。そのような視点から引き出せるのは、ひとつは王権が確立していない時代の初源の共同性へのパイプを開いたこと、もうひとつは、王権が物語を組み立てた後、非農耕的な生業（なりわい）に携わった職人たちの多くが、伝説上の皇祖とみずからの出自を結ぶ天皇伝説を組み立てた事実に分岐する流れであった。つまり、記紀によって支配者が村落のコスモロジーを再構成したことと、その後、多くの民衆が王権のコスモロジーをどう咀嚼してみずからのものにしたかということになる。
だが、赤坂は後者については詳細にたどっているのだが、記紀は王権の作りだした支配イデオロギーだとして容認していないから、前者の王権がどのように村落のコスモロジーを再構成して歪みをつくったか、記紀の中に踏み込んで考えているようにはみえない。その意味で、記紀の中で異和のように光を放っているいわゆる軽い挿話は、いかに記紀の中に民話や伝承が歪みを受けながら取り入れられたかを知る上で貴重な資料になっている。
軽い挿話と戦闘シーンにあふれた英雄譚の落差の起源のもうひとつは、そういう農耕的日常のひとびとの生活思想が、思わずため息のように吐き出したユートピア思想（夢物語）に結びついているということである。タジマモリの場合は、文字通り常世との往来が現実に可能な夢を託された。また、召かかえられず失意のうちに死んでしまった娘にしても、一瞬ではあれ殿上界との接点をもつ夢をひとびとに育んだことにちがいないからである。
そして、イザナギが投げた櫛や飾り物がそのまま野葡萄になったり筍であったりすることは、農耕をしなくても野生の果実が豊富にとれたり、狩猟・漁労にそれほど労力を費やすことなく生活できる夢や、種子さえ播けば思いどおり豊かな収穫が期待できる農耕民の夢が託されている。このような小思想の文脈は、現在でも多くのひとびとの心に沈殿しており、東北のような北国なら延々と降り続く雪の中で、歩く道筋を飛び越したいというような空間剥離の思いや、動力も不足がちだから手仕事で、冷害や害虫に悩まされながら稲や作物をつくらなければならない農耕にともなう悪戦苦闘が暗転して滲みでているものだ。もしも、こういうところに点綴するひとびとの微かな息づかいを読み取らなければ、神話全体の意味は、それこそイデオロギーの羅列になってしまうとおもえる。
この場合、テーマごとにみうけられる軽重さだけではなく、スサノオの黄泉の国からの逃亡劇にあったように同じテーマ中にありながら、なぜ、この場面で野葡萄や筍に立ち止まらなければならないのか、また、逆に、このような大きな問題をあっさり描写していいのかという疑問の中に、神話を流れる時間の濃淡の秘密が隠されている。もともと説話の軽重によって時間が圧縮されたり、間延びしたりして感じられるのは、編纂された時期から遠くさかのぼらなければならない古い語り伝えの場合、架空の説話のストーリーを邪魔するかのように神話の本質に割り込んでくる。そういう神話の齟齬にこそ、神話を編纂した時期や大和王権が確立した時期とは重ならない世界がのぞいていることを読み取らなければならないはずなのだ。
垂仁天皇の次は景行天皇（ケイコウ）であったが、その皇子には大碓命（オオウスノミコト）と小碓命（オウスノミコト）とがいた。このうちオウスノミコトは、些細な理由で兄のオオウスノミコトを殺してしまう。天皇はこれを聞いて、この子はなんと荒い気性をもったものかと恐れ、遠くへ追いやるため、西の熊曾建（クマソタケル）という兄弟の征伐を命じる。このときオウスノミコトは、まだ、十五、六歳であった。オウスノミコトは女装してクマソタケルの宴会の中に紛れ込み、その兄弟二人の間に座り、やにわに懐から剣を取り出し、兄のタケルの胸をひと刺しにして、剣は背中まで貫通した。弟のタケルはびっくりして逃げだしたが、追いつき尻から剣を刺しとおした。息絶えだえのタケルがオウスノミコトの素性を聞いたので、自分は景行天皇の子で大和朝廷に従わないクマソタケルを征伐にきたのだと答える。すると、弟のタケルは観念して、自分の名前をさし上げようと言った。その時から、オウスノミコトは倭建命（ヤマトタケルノミコト）と名乗るようになる。
この九州遠征から帰る途中、出雲の国で出雲建（イズモタケル）という服従しない者に対してヤマトタケルは、友達を装い、お互いの剣を交換しようともちかけ、自分の偽の剣を渡し、すばやく相手を打ち殺してしまう。こうして、ヤマトタケルはだまし討ち、計略を駆使して次々と敵を滅ぼし、天皇に従わない勢力を平定して、都で天皇に凱旋報告する。ところが、景行天皇は、今度は、東国の荒ぶるたくさんの神を平定するよう命じる。ヤマトタケルはやむなく都を出発するのだが、伊勢神宮で叔母の倭比売命（ヤマトヒメノミコト）に、西国を征伐したばかりなのに、今度は東の方を平定せよと命令する天皇は、わたしが早く死ぬことを望んでいるのではと愚痴をこぼす。ヤマトヒメノミコトはそれを聞き、ヤマトタケルに草薙の剣（クサナギノツルギ）と一つの袋を授けた。
相模の国に着いたとき、国造から沼に強い神がいると欺かれ、行ったところで野に火を放たれたが、危機一髪のところで叔母の袋をおもいだし、取り出すと火打石が入っていた。それで剣で草を狩り払い、それに火をつけ煽ると炎は退いた。このあと、海を渡った際、波が高く船が前にすすめなくなった。そのため、お妃の弟橘比売（オトタチバナヒメ）が神を鎮めるため入水した。そのとき歌ったといわれるのが次のような歌だ。
≪さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも≫
この意味は、高い山の立つ相模の国の野原で、燃え立つ火の中に立って、わたしを呼んでくださったあなたですもの、というものである。これを神武天皇が妻の比売多多良伊須気余理比命（ヒメタタライスケヨリヒメ）と出会った頃のことを歌ったとされる次の歌と比較するとその差は一目瞭然である。
≪葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて わが二人寝し≫
これを見ると、オトタチバナヒメの歌は、想像力が格段に飛躍しているのがよくわかる。この場合、想像力というのは、もちろん、挿入された歌から後に説話がつくられた可能性を含むもので、ヤマトタケルが野原で火に囲まれて危機一髪の状況とはまったく切りはなされたように歌が完成されているという意味である。それにひきかえ、神武天皇の方は感情が直叙されており、歌人がそのまま粗末なつくりの家で添い寝している情景しか思い浮かばない。いわば、説話と情景がぴったり重なって、あたかも説話がなければ歌がなく、歌がなければ説話がないようにみえてしまう。こういう詩歌意識の差がでるのは、ヤマトタケルの時代がもはや神代のような現実離れした天つ神と国つ神の陰影が薄れ、『古事記』の作者にとっては、次第に輪郭が分かるようになり、遠近感のはっきりした物語性を確立していく過程に入っているからである。考えてみると、ヤマトタケルという名前自体、普通名詞的な呼び名であり、大和を中心に勢力を拡大している政権にとって、東国攻めの軍事を担う複数の人物の面影を宿している。そこでは、天つ神と国つ神の闘いの個人の英雄譚というよりも、支配を固めようとしている大和の中央政権と、各地の部族国家との争いを背景にしてはじめて理解できる伝承になっている。
こうして、ヤマトタケルは難を逃れ国造を屈服させた。それから東に進み荒ぶる蝦夷（えみし）を打ち破り、乱暴な神たちをことごとく平定したとある。その後、かねてから恋人であった美夜受比売（ミヤズヒメ）と尾張国で逢い、ご馳走をふるまわれた。ところが、その日、ミヤズヒメの着物の袖には月経の血がついていたのでそれを契りの歌にしたためた。それからヤマトタケルは草薙の剣（クサナギノツルギ）をミズヤヒメのところに置いたまま伊吹山（イブキヤマ）の神を退治にでかけた。この山の神くらいは素手で打ち殺せるとおもったのだが、途中、大きな雹が降ってきて彼を大いに悩ませた。続いて、当芸野（タギノ）へ着いた時には、連戦の疲れが重なって、心とは裏腹に足が曲がりくねって、くの字になったと嘆いている。それからも戦さが続くうちにヤマトタケルの体はボロボロになって、その頃には、次のような望郷の歌をたくさん作っている。このような哀歌からは伊勢神宮で叔母の倭比売命（ヤマトヒメノミコト）に天皇に対する愚痴をこぼしたのとおなじように、もはや天つ神らしくない人と共同性の間の軋みが伝わってくる。
≪倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し≫
病気がだんだんおもわしくなくなる。そして、ミズヤヒメの元に置いてきた剣のことを想い、歌を歌った後、すぐに亡くなった。天皇のもとにヤマトタケルの死が報告された。都の后や御子は終焉の地である能煩野（ノボノ）に来て墓を作り嘆き悲しんだが、そのときヤマトタケルは、大きな白鳥になって天高く駆けあがり海の方に飛んで行ったとある。后と御子はその白い鳥の後を追いかけていった。その追いかけるあいだに作られた四つの歌は葬儀の際に歌われた。ヤマトタケルは垂仁天皇の娘の布多遅能伊理眦売命（フタジノイリビメノミコト）との間に帯中津日子命（タラシナカツヒコノミコト）をもうけていたが、それがのちの仲哀天皇（チュウアイ）である。
６ 神功皇后以降
仲哀天皇の世になって、日本書紀では卑弥呼に見立てている神功皇后（ジングウ）の息長帯日売命（オキナガタラシヒメノミコト）は、当時、神懸りの状態になっていた。皇后は神の意志を教えるように、天皇に向かって、西の方に金銀宝物に包まれた豊かな国がある、それを、いま、お前に与えると言う。天皇は西をみても海ばかりで、あなたは嘘をつく神様だと反論した。そうすると皇后に乗り移った神は、お前のような者はこの国を統治する資格がないと罵り、さっさと黄泉の国に行けと脅した。と、まもなく、仲哀天皇は琴を弾いている最中に息絶えていた。それを見てひとびとは驚き恐れ、天皇の亡骸を安置して、あらゆる罪を払う大祓（オオハラエ）の儀式をとりおこなった。罪とは生剥ぎ（イケハギ）、逆剥ぎ（サカハギ）、あ離ち（アハナチ）、溝埋み（ミゾウミ）、屎戸（ヘクソ）、上通下婚（オヤコタワケ）、馬婚（ウマタワケ）、牛婚（ウシタワケ）、鶏婚（トリタワケ）、犬婚（イヌタワケ）などである。
建内宿禰大臣（タケウチノスクネノオオキミ）が、再度、神に問いただしたところ、先日と同じことを言われ、オキナガタラシヒメノミコトのお腹に宿っている子供がこの国を統治せよと言う。さらに問うと、その神は、これはアマテラスの意志であるから、海の向こうの国がほしいとおもうなら、天つ神、国つ神ばかりか、山の神、川の神など、すべての神に御幣（ゴヘイ）をささげ、食器をたくさん積んだ船で大海を渡るがよいと宣託した。こうして、とうとう軍船は新羅国（シラギノクニ）に押し寄せた。これに新羅の国王は怖れつつしんで、これからのちは天皇の意思に従い、毎年、貢物を積んだ船を送りましょうと約束した。こうして、百済国（クダラノクニ）を天皇の領地と定めたとある。
この新羅国征伐から帰る途中、筑紫の国で皇子は産まれた。オキナガタラシヒメノミコトは御子とともに大和に帰ろうとしたが、留守のあいだに大和の群臣が裏切っていないか気がかりだった。不安におもって、棺を乗せる船を用意してその船に御子を乗せ、御子が亡くなったという噂を広めた。案の定、香坂王（カゴサカノミコト）と忍熊王（オシクマノミコ）の兄弟がそれを聞きつけて、オキナガタラシヒメノミコトを暗殺しようと待ち構えていた。カゴサカノミコトは実行する直前に猪に食われて死んでしまったが、弟のオシクマノミコは軍をおこして棺以外の船を襲ったのだが、棺の船の中には軍隊が潜んでおり応戦し、虚をつかれたオシクマノミコの軍は退却した。その後も両軍の激しい戦いが続き、なかなか決着がつかなかった。そこで、オキナガタラシヒメノミコトの軍は、オキナガタラシヒメノミコトが既に戦死したので降参するというような素振りをみせ、相手を油断させ、追撃した。こうして、ついにオシクマノミコは琵琶湖に身を投げて死んだ。
この御子はやがて応神天皇（オウジン）になる。応神天皇には二人の息子、大山守命（オオヤマモリノミコト）と大雀命（オオサザキノミコト）がいたが、別に、近江の国の美しい娘、宮主矢河枝比売（ミヤヌシヤカワエヒメ）との間にもうけた宇治能和紀郎子（ウジノワキノイラツコ）がいた。ある日、天皇はオオヤマモリノミコトとオオサザキノミコトに「兄と弟のどちらがかわいいか」と尋ねた。オオヤマモリノミコトは上の子がかわいいと答えたが、オオサザキノミコトは小さい子は若いので愛らしいと答えた。そこで、かねてよりウジノワキノイラツコに帝位をつがせようと思っていた天皇は、オオヤマモリが山と海の狩りのことを司り、オオサザキは国の政治を行い、ウジノワキノイラツコには天皇の位を継ぐよう命じた。
ウジノワキノイラツコの母、ミヤヌシヤカワエヒメとの間には天皇との美しい馴れ初めがあった。近江の国の木幡村というところで見初め、ご馳走を受け、かねてからこういう娘が欲しいとおもっていた矢先の出会いだったと歌っている。また、天皇は日向国で諸県君（もろがたのきみ）の娘の髪長比売（カミナガヒメ）が美しいと聞きつけ召し上げた。ところが、そのときこの娘を見たオオサザキノミコトはすぐに魅せられ、タケウチノスクネノオオキミに、この娘をくれるよう天皇に取り合ってくれないかと願い出た。さっそく、取り合うと二つ返事でよい返事が返ってきたという。天皇は新嘗の祭の日にカミナガヒメに酒の柏をもたせて、オオサザキノミコトに渡させる計らいをみせたという。
ところが、応神天皇が亡くなると、オオヤマモリは天下を狙って、弟のウジノワキノイラツコを殺そうと企んだ。オオサザキはそのことをいちはやくウジノワキノイラツコに知らせ、それを聞いたウジノワキノイラツコは、宇治川のほとりで天幕をつくって憩んでいるかのように見せかけた。そして、オオヤマモリが川を渡るときのことを考えて船上に油を拭いておいた。それで、ウジノワキノイラツコは船頭の姿に変装し、オオヤマモリの様子を一部始終見ていたが、川の中央にさしかかったとき、船頭は船を傾けて仕掛けどおり、オオヤマモリを川にすべり落とした。このとき、川のほとりに隠れていた兵たちがいっせいに矢を放ち、オオヤマモリは矢がたくさん刺さったまま水の底に沈んだ。こうしてオオサザキとウジノワキノイラツコは天下を互いに譲り合った。天皇亡き後、天皇の遺志どおり、オオサザキは天下をウジノワキノイラツコに譲った。のちにウジノワキノイラツコは夭逝したので、やがてオオサザキが仁徳天皇として天下を治めるようになる。
この応神の時代、『古事記』には史実とおぼしき帰化人の固有名の記述がみえている。百済から阿知吉師（アチキシ）がやってきたこと、また、和邇吉師（ワニキシ＝王仁）が『論語』十巻、『千字文』一巻を貢進したとある。そのほか、朝鮮の鍛冶や呉の機織、秦造（ハタノミヤツコ）の先祖などがやってきて帰化したとなっている。ここで『古事記』が史実と抵触するのは第１５代天皇である応神以降であるという仮説は確かなものにおもわれてくる。これは『論語』や『千字文』という具体的な書籍名が語られているからではない。書籍名はすでに『古事記』編纂前から知られていたはずだから、その名を応神時代に遡らせて記述することも可能であるはずだ。
わたしたちはこの史実とのゆるやかなきっかけができたことで、文献学の観点からもっと深入りすることができるかもしれない。この際、『古事記』を解体する方法は、史実性自体との距離ではなく、むしろ、通史的な記述の欺瞞を見破る方法にみいだされる。津田史学を継承する直木孝次郎は、記紀の記述のほとんどが虚構によって成り立っているとの前提に立って、虚構の中から史実を選り分けるため次のような整理の仕方をした。
�@
記紀もすべてが虚構ではなく若干の史実は含まれている場合
�A
史実ではないが史実を核とする記述、修飾された記述、変形された史実が含まれているので、修飾や変形を復原させると史実を取り出すことができる場合
�B
記述はまったくの虚構であって史実を全く含んでいない場合だが、虚構を検討することによって虚構が作られた時代や思想を知ることができる場合
ほんとうは、まず、こういうアプリオリな問題設定そのものが問われなければならないはずなのであるが、見たところ直木の場合、史実を裏づけるのは、中国側の文献に見える５世紀末の日本の天皇に関する記述である。「宋書」や「梁書」では、讃、珍、済、興、武の五王と名指しているのが、仁徳（ニントク）、反正（ハンゼイ）、允恭（インギョウ）、安康（アンコウ）、雄略（ユウリャク）らの継承関係に似ていることから、応神以降はほぼ史実に近い理由があげられている。そのため、１５代天皇である応神以降は上記の�@または�Aに該当するとみなされており、直木の虚構性かどうかの証明の軸はこの点にかかっていた。であれば、彼が採用したのは応神から歴史を巻き戻して逆算する方法以外ではなかった。そのため、もともと中国側の文献に依存することも仮説でしかないのだが、７世紀末以降の記紀の編纂過程から振り返って時間がどれほど経過しているかを、記憶がぼやける度合いによって、より虚構が大きいか小さいかの判断がおこなわれることになる。
特に、彼が目をつけたのは、奈良朝後期に導入された天皇の漢字表記名以前の和風諡号（ワフウシゴウ）である。応神が品陀和気（ホムダワケ）、仁徳が大雀（オオサザキ）、履中が大江之伊耶本和気（オオエノイギホワケ）というように、素朴な名前になっており、１４代以前の神武（カミヤマトイワレヒコ）、孝安（オオヤマトタラシヒコクニオシヒト）、景行（オオタラシヒコオシロワケ）などと比べて著しい対照をなしている。これには名前の修飾・造作がかかわっているにちがいないから、これらの天皇の実在性は疑わしいとされている。また、諡号の傾向性によっても色分けして裏づけをしている。それによると、歴代の天皇名と比較すると、神武から９代の開化までには、共通して「ヤマトネコ」という称が多く、１０代崇神から１４代仲哀までには「タラシヒコ」という名を多く含んでいることがわかる。それで、１代から９代、１０代から１４代はグループ分けできるとみなされた。さらに、２代綏靖（スイゼイ）から安寧（アンネイ）、懿徳（イトク）、孝昭（コウショウ）、孝安（コウアン）、孝霊（コウレイ）、孝元（コウゲン）、開花（カイカ）までの９代には帝記のみが記されており物語の部分を欠いている。これは『古事記』の編纂過程で、初代の神武天皇を遥かな歴史の彼方に置いて、辻褄をあわせに天皇の系譜を机上で挿入した証拠ではないかと疑った。
そして、１０代の崇神（スジン）、垂仁（スイニン）、景行（ケイコウ）、成務（セイム）、１４代の仲哀（チュウアイ）までは王権継承の整合性の観点からは無理があり、本来は応神以降の天皇の系譜を書くはずだったのだが、天皇の威光をより高めるため、伝承や記憶をたよりに、応神以前に大和を支配していた部族政権の系譜を取り入れようとしたとの見方を示した。つまり、部族国家の交替が応神の時代に起きたと考えられている。こういう断絶を含んだ理解をもっと敷衍するなら、逆に、考えることもできる。つまり、直木の場合は、無意識に起点である神武という人物の口跡を認めてしまっているから、応神の時代との辻褄あわせをするかのように、『古事記』の中の皇位の整合性を問い返しているにほかならないのである。伝承は人物のみとは限らない。神武という神人の存在自体が伝承されることはありうる。もっとつきつめれば、『古事記』を通史的に眺める場合には、散文的か詩的かの違いがあっても、また、大真面目な戦闘シーンかトリッキーな軽い神話が混在するチグハグさをつうじてであっても、全体を部族国家間の角逐像とみればいいわけで、その部族の中心に天皇がいたかどうかは二義的な問題にすぎないということである。
その上に立って、はなから神武が１３７歳で畝傍山に葬られたことになっていることなどにこだわらなければ、わたしには神話の中でアマテラスとスサノオやオオクニシなどの神代の世界と、神武から数えて１５代天皇である応神との時代は、それほど長い時間の間合いで考える必要がないとおもえる。つまり、大和朝廷にとって、出雲の国に象徴される農耕土民との心理的角逐やそれにともなう負い目は「原罪」意識となって、『古事記』の中ではじめからスサノオの「倫理」の問題として織り込み済みであり、それは遥か彼方の部族国家同士の争いの話ではないことを考えれば、そのことをぬきにして史実性を詮索すること自体まちがっている。
あくまで歴史性（史実）ということにつきあえば、わたしの考えでは神武天皇に擬した人物は存在していたとおもう。垂仁天皇の皇后のサオビメの悲劇は政治と倫理の狭間に掛けられた事件であり、部族政権内部をゆさぶる事件にちがいなかった。また、ヤマトタケルに相当する人物が、源氏が平家を追討したように、西国や東国を平定したのはまちがいないとおもえる。なぜなら、神武やヤマトタケルの存在は大和の部族国家の宗教性としての日の神の象徴そのものであるからだ。直木のいうように部族国家の共同性のつながりの断絶ということなら、神武の存在を無視していいかもしれない。だが、政権内部の単なる後継争いではなく、部族国家の共同性そのものが問われる場合には、必ず、それに値する一般名の人物の伝承があると考えるのがこの場合、普通におもえる。その点からすると、応神以降の天皇の時代には、もはや共同性に関与する宗教的色合いが影をひそめており、政権が安定したということでもあるし、宗教的な政治体制の問題が薄らいだことを示している。ただし、神武が遥か彼方の人物とは考えられない。たかだか３～４世紀以前に遡らない時期に部族国家を拡げ、統一部族国家の骨格を作ったにちがいない。
仁徳天皇の在世は「聖（ヒジリ）の帝の御世」と呼ばれた。というのは、あるとき天皇は高い山の上に登って国中を見渡したが、竈の煙がのぼっていないのに気づき、民がみな貧しいことを憂いて、３年間は税と使役を免除した。そのため、天皇の御殿も荒れ放題になり雨漏りなどしたのだが、いっこうに苦にしなかった。３年ののち、国じゅうに竈の煙が立っているのでやっと安心して、税と使役を課すようになったとされている。そういう天皇であったが、こと女性に関しては多くの浮き名を残した。しかし、皇后の石之日売命（イシノヒメノミコト）は、大変、嫉妬深いひとで、天皇が女性と親密になろうものなら、恐ろしいくらいの執念でその女性につらくあたった。その中のひとりであった吉備の海部直（アマベノアタイ）の娘の黒日売（クロヒメ）は、皇后に恐れをなして 故郷に帰ってしまった。それでも天皇はクロヒメ逢いたさに旅にでると偽り、クロヒメの地元で再会した。二人は逢瀬の悦びと切なさをあわせて歌をかわしあった。
また、天皇は皇后が留守の間に、八田若郎女（ヤタノワキノイラツメ）と浮気したことがあった。ひとづてにそのことを聞いた皇后は、怒り猛り、旅行先から御殿へ帰らず、山城の地に止まってしまった。天皇は皇后に早く帰ってきてほしいと歌に託し、使者として口子臣（クチコノオミ）が皇后のもとに通うのだが、皇后は理由をつけて会おうとはしなかった。このクチコノオミの苦労を見ていた妹の口日売（クチヒメ）は、皇后に仕えていたので、口添えして仲を取り持ち、天皇を皇后のいるところに来させることに成功したとある。それでも歌を見ると、ヤタノワキノイラツメへの恋情は変わらなかった。
ヤタノワキノイラツメの腹違いの妹に女鳥王（メドリノミコ）という女性がいた。このメドリノミコも天皇の弟の速総別王（ハヤブサワケノミコト）の仲立ちで天皇に仕えることになっていたが、本人はハヤブサワケノミコトの妻になりたいと言い、ふたりは契りを結んだ。ふたりはそのことを天皇に知らせなかったので、天皇はメドリノミコに求愛の歌を寄せるが、帰ってきた歌はハヤブサワケノミコトこそが天下を支配すべきですというような内容であった。それで、天皇は激怒してふたりを殺そうとした。彼らは逃げたが、宇陀の蘇穪（ウダノソニ）というところで捕まり殺された。そのときの追討軍の大将の山部大盾連（ヤマベノオオタテノムラジ）は、メドリノミコの手に撒いていた腕飾りを剥ぎとり、自分の妻に与えていた。それが皇后のイシノヒメノミコトにばれて、死刑を言い渡された。
仁徳天皇の子、允恭天皇（いんぎょう）が亡くなった後、木梨之軽王（キナシノカルノミコ）が天皇の位を継ぐことになっていたが、即位する前に同母妹の軽大郎女（カルノオオイラメ）と密通して恋情に溺れ、ふたりいっしょに寝るのなら世の中なんか乱れてもよいというような歌をつくった。このため人心がキナシノカルノミコから離れ、同母弟の穴穂御子（アナホノミコ）に移っていった。キナシノカルノミコは御殿を出て、大前小前宿穪大臣（オオマエコマエノスクネノオオキミ）の家に逃げ、戦さに備えた。双方軍備を整えオオマエコマエノスクネノオオキミの家の前でにらみ合いが続いた。アナホノミコの歌に答えて、オオマエコマエノスクネノオオキミの芝居がかった振舞いと兄弟喧嘩を諌める歌によって、なんとか戦さになることなく、収めることができた。しかし、オオマエコマエノスクネノオオキミはキナシノカルノミコを捕えて、アナホノミコに引き渡した。キナシノカルノミコが伊予に流されてからも、カルノオオイラメへの恋情は歌のやりとりで続き、とうとう後を追ってカルノオオイラメは伊予の国に行き、ともに死んだとされている。
アナホノミコは安康天皇（アンコウ）になり、石上の穴穂宮（イソノカミノアナホノミヤ）で天下を治めた。安康天皇は弟の大長谷王（オオハツセノミコ）のために、いとこの大日下王（オオクサカノミコ）に伝えて、妹の若日下王（ワカクサカノミコ）が欲しいと命じた。オオクサカノミコは喜んでさし上げることを使者に伝えたのだが、使者は天皇にこの婚姻は同族間のものであるから、オオクサカノミコがこの申し出を拒絶したというような嘘を伝えた。怒った天皇はオオクサカノミコを殺し、その正妻の長田大郎女（ナガタノオオイラツメ）をさらって自分の皇后にした。
オオクサカノミコとナガタノオオイラツメの間には眉輪王（マヨワノミコ）という七歳の子供があったが、ある日、父親が天皇に殺されたということを知り、寝室に忍び込み、置いていた太刀で天皇の首を切って殺害した。マヨワノミコは都夫良意富美（ツブラオオミ）の家に逃げ込んだ。そのことを知った安康天皇の同母弟のオオハツセノミコは烈火のごとく怒り、すぐさま仇討を行おうとしたのだが、兄の黒日子王（クロヒコノミコ）も白日子王（シロヒコノミコ）も煮え切らない態度をとったので、クロヒコノミコは刀で打ち殺し、シロヒコノミコは穴を掘って埋めてしまう。オオハツセノミコはツブラオオミの家を取り囲み追い込み、本人の意思によって、ツブラオオミはマヨワノミコを殺し、そして自害する。
こうしてオオハツセノミコは雄略天皇（ゆうりゃく）になる。雄略天皇の気性の激しさは、たとえば、次のような話にも現われている。たくさんの猪や鹿がいるということで、いとこの市辺押歯王（イチノベノオシハノミコ）といっしょに狩りに来たのだが、翌朝、まだ寝ていた雄略天皇に対してイチノベノオシハノミコが早く起きて狩りに行きましょうと言ったことを仕えていた者が、無礼な物言いだと進言したところ、天皇は、すぐさま馬でイチノベノオシハノミコを追いかけ、矢を抜いて射殺したという。また、山の上に登って国中を眺めていた際、堅魚木（カツオギ）をあげてつくった家を認め、臣下のくせに天皇の御殿と同じ造りにするなどけしからんと怒り、その家を焼こうとした。家主が恐れ謹んで懇願してようやく怒りが収まった。
一方で、それとは正反対の逸話もある。天皇はワカクサカノミコを娶ったのだが、あるとき三輪川（ミワガワ）に遊びに行った時、川のほとりで洗濯している美しい童女に出くわした。一目でその童女に魅かれた天皇は、大きくなったら宮中に呼ぶから嫁に行くなというようなことを言った。その童女は引田部赤猪子（ヒケタベノアカイコ）と呼ばれたが、その後、ずっと天皇の招きを待ち望んで、８０歳を越えてしまったという。その経緯を彼女が天皇に伝えると、天皇は可哀そうなことをしたと詫び、歌といっしょに多くの品物を与えた。
雄略天皇の皇子の白髪大倭根子命（シラガノオオヤマトネコノミコト）は清寧天皇（セイネイ）となり、天下を治めたが、皇后もなく、また、皇子もなかったので、この天皇が亡くなってからは王がいなくなった。そこで、宮廷では世継ぎを探したが、あるとき、播磨の国での宴会において、火焼きの少年二人が見事な舞いと歌を披露して、それが履中天皇の皇子の市辺押歯王（イチノベノオシハノミコ）の子供であることがわかった。皆の者はこれを聞いて驚き、早速、大和に報告した。彼らの叔母であった飯豊王（イイトヨノミコ）は喜び、呼び寄せた。二人は意邾王（オケノミコ）と袁邾王（オケノミコ）と呼ばれた（以下、意王、袁王と呼ぶ）。袁王は恋敵の志眦臣（シビノオミ）という者と争い、やがて、歌の掛け合いが昂じ、意王と袁王が相談して、シビノオミの家を取り囲み殺してしまった。
二人の王子は天皇の位を譲りあった。意王は弟の袁王に譲った。こうして、袁王は顕宗天皇（ケンソウ）になり、近飛鳥宮（チカツアスカミヤ）で天下を８年間治めた。この天皇が父親のイチノベノオシハノミコの骨を探したときに、賤しい老婆の力を借りたことを恩義に感じ、いつまでもこの老婆を宮殿の傍におき慈しんだ。そんな天皇もその父親を殺した大長谷天皇（オオハツセノスメラミコト）の霊を、大変、恨んで、その墓を壊そうとしたが、兄の意王に止められ、意王が自ら赴き、墓の側の土を少しだけ削って帰ってきた。なぜ破壊しなかったのか怪訝におもって天皇が問いただしたところ、意王が父親の仇を討つのはよいが、相手は天皇にはちがいない、天皇が天皇を辱めるとひとびとの天皇に対する気持ちが離れてしまうというような説明をすると、顕宗天皇はもっともなことだと納得した。この天皇が亡くなった後、兄の意王が仁賢天皇（ニンケン）となって継いだ。その後、武烈天皇（ブレツ）、継体天皇（ケイタイ）、安閑（アンカン）、宣化（センカ）、欽明（キンメイ）、敏達（ビタツ）、用明（ヨウメイ）、崇峻（スシュン）、推古（スイコ）と続いた。
７ 支配と倫理
イデオロギーの流儀が神話をイデオロギーにするだけで、神話自体はひとが考えているほどイデオロギーの匂いを放っているわけではない。神話をとおして支配と被支配の接点、つまり勝敗の分かれ目がぼんやりとしか映しだせないのはそのためだ。ただし、その神話は勝った側から見ているから、その接点は無意識にいい気な勝者の表情にくるまれている。それでもよく見ると、どちらが勝者でどちらがどの場所で敗者になるかの問いかけを介在させなければ、勝者と敗者にとって倫理という言葉は二重にみえてくる。つまり、勝者は敗者が自分の敗北を認めたときから勝者になるのであって、最初から勝者であったり敗者であったりするのではない。
そこで、勝者の側から覗く倫理観を象徴するものはあるのだろうかと問いなおしてみる。これは勝者の側とっても泣き所でもあるから、『古事記』には突然になにげなく挿入されている箇所が該当するはずだ。すると、『古事記』の中で、大物主神（オオモノヌシノカミ）という天つ神の系譜に属さない荒ぶる神が登場する場面が、少なくとも三箇所ある。最初は、オオクニヌシが神産巣日神（カムムスヒノカミ）の子の少名眦古那神（スクナビコノナノカミ）と兄弟になってともに国を治めようとしたのだが、すぐにスクナビコノナノカミが死に、オオクニヌシが憂いていると、海から大物主神と名のる神がやってきて、大和の三輪山においてわたしを祭れと言ったとある。この神はオオクニヌシが天つ神に国譲りをしたのちにも登場し、他の神々のようにただ戦いを仕掛け、平定すれば従うだけの国つ神とはちがう様相をみせている。
また、神武天皇が天下を治めた後、比売多多良伊須気余理比命（ヒメタタライスケヨリヒメ）という正妻を娶ったのだが、この娘は三輪山の大物主神がひそかに通って産ませた娘といわれている。そして、最後は、祟神天皇の時代、疫病が流行して天皇が憂慮していると、三輪山の大物主神が夢枕にでてきて、この疫病は自分の心向きでうまれたものだ、わたしを祀れば神の祟りはなくなるだろうと告げる。このため、この神の子孫と呼ばれる者が鎮魂の祭りをおこなって疫病を退散させたとある。
もうひとつ別に、天つ神が農耕土着民に対する「負い目」を引用できそうな場面がある。垂仁天皇の子が大きくなっても言葉を喋らなかったとき、心配した天皇の夢の中に出雲の大神がでてきて、その祟りであることがわかり、天皇は急いで子を出雲の神に参拝させた。都に帰る途上、斐伊川（ヒノカワ）で仮宿したとき、突然、子が目の前の山を指して、オオクニヌシの祭壇ではないかと口にし、お供の者たちは初めて喋るのを聞いて驚いたとある。
これら『古事記』物語全体の結節部にでてくる大物主神や出雲大神は、天つ神にふりかかった災いの原因や自らの出自を確認するときに立ちあらわれる点で共通しており、天つ神にとって無意識の底に沈めてはならない大切な背面の神であることがわかる。もちろん、それはスサノオの流れをくむ農耕土民の祖としての意味あいをもっているからである。そのため、大嘗祭の秘儀においては、次の天子は新穀を食べることによって、この五穀実る豊葦原の水穂の国の豊穣さを約束する呪力を身につけるとされており、その農耕祭儀のイメージの中にすでに、土着農耕民の始祖を自らのものとして模擬する様式として伝わっている。大和政権は政治的には農耕土民の部族国家の支配権を次第に拡げたにちがいないが、よくみると、幾重にもわたって宗教的習合を重ねた跡がみえ、その都度、天つ神はこれらの農耕土民の始祖神に「負い目」を感じなければならなかった。いわば、天つ神の歴史の裏面に張りついたように、国つ神を象徴する農耕土民の始祖神は、不可避に、定期的に『古事記』の中に繰り返し登場しなければならなかったのである。
その上、こういう繰り返しがでてくる別の理由は二つしかない。ひとつは、『古事記』の時間軸が終わりからはじまっていること、つまり、天つ神にとって最後にネックとなるべき農耕土民勢力を治めるという結論が、最初から神代の物語中にも繰り出されていることである。もし、神話が神代から語られだした起点から、現存の史実を確認できるところまでの時間を神話の時間とすれば、神話によって紡がれた支配倫理は、終わったところから始まっているとおもえる。つまり、神話は通史的に解釈されるべきではなく、その終点からさかのぼって逆向きに始まっていることを知らなければならないということだ。スサノオが天つ神であると同時に国つ神の統合の象徴であったことをおもえば、物語の最初において、すでに天つ神と国つ神の立ち位置は決定されていた。しかし、そういう立ち位置を持続するためには、天つ神は国つ神の統合過程を利用し、国譲りの秘儀を繰り返し再生産しなければならなかったのである。
大和王権にとって、出雲の国に象徴されるかつての農耕土民との心理的角逐やそれにともなう負い目は「原罪」意識となって、『古事記』の中ではじめから継承されていたことを考えると、ある面、『古事記』が贖罪の物語にみえないことはない。そして、統一部族国家の「原罪」という観念は、アマテラスとスサノオの関係からではなく、吉本が新しい段階の倫理の問題として想定している垂仁天皇の皇后のサオビメが兄と夫との関係に翻弄された部族国家相互間の争いを起点にして、遡っては、アマテラスとスサノオの姉弟の氏族的な権力構成の問題が現れていると考えることができる。『古事記』は、むしろ、垂仁とサオビメのようないわゆる部族外を意識した倫理的関係をとおして、アマテラスとスサノオの内面のドラマを読み取らなければならないのである。
天つ神が国つ神の頭上から舞い降りたといくら言いふらしたとしても、天つ神は国つ神が存在しなければ自らのアジア型貢納制支配の基盤を築けない。そのため、天つ神は国つ神を分断し、時に応じてスサノオの系統を引くオオクニヌシのような人物に託し、それに対して「負い目」や「畏怖」を抱き続けなければならなかった。これは物語の最初から仕組まれていたから、いわば、『古事記』の思弁の罠ともいえるものだ。一般的な言い廻しをするなら、支配は倫理なくして支配を確立することができない。と同時に、その倫理は二つの相反する方位をもっていた。ひとつは支配へ向かうもの、もうひとつは被支配に向かうものという意味である。いいかえれば、支配と被支配が完成するためには、その両義的倫理において「分断」されなければならなかったのである。これは部族国家にかぎらず、あらゆる国家という名の支配は、分断支配であるという一般性の証明に適うものである。
また、この繰り返しは別の意味づけを与えてくれる。神話時間はあくまでも歴史を遥かに遡れるかのように作為されているものの、神話の中でアマテラスとスサノオやオオクニシなどの神代の世界と、神武から数えて１１代天皇である垂仁との時代はそれほど隔たった時間とは考えられないことだ。実際の世代間の長さは圧縮されているとみなせば、神話は二つの方向から解体できるようにおもえる。ひとつは、神話の通史的な時間の幅はおもっているほど長くないから、読む側が神話のスピードを超えるように、より高速度でイメージ画像を処理できれば、神話がつくるイメージの束やイデオロギーの塊は剥離する。もうひとつは、ひとつの神話と別の神話を並立させる方法である。二世紀頃、北九州に邪馬台国のような連合王権が存在していたことは、同じような規模の宗教的・政治的部族国家連合が列島のいたるところに並立していた可能性を示しており、後の『古事記』の編者によって切り取られ、姿をあらわした神武神話にはじまる大和王権だけではなく、互いに対峙しながらも、九州にも東海にも関東にも東北にもそれぞれ農耕土民の部族王権は群立していたのはまちがいないからである。
では、なぜ、群立していた王権が統合されていったのかを問うとき、原始宗教の習合のあり方が問題になってくる。柳田国男は、琉球の島々の神道が、中国大陸からの影響がいたって少なく仏法も無力であったため、大和の信仰から受けた中世の政治や文学の与えた感化と変動を引き去れば、わが国の古代のまま残された信仰生活の一端を垣間見ることができるとした。その例として、彼は祭りの日に里に接した丘または平地の林にあって、草木が茂り入り込むのに難しい「御嶽（オタケ）」と呼ばれる場所に、祝女（ノロ）、神人（カミンチュ）など女性のみが式法にのっとって神を迎え、その祝詞を受けるしきたりがあったことを上げている。その神は祭りの祈りのとき自ら選んだところに現われ、巫女を通じて神託によって神の本意を伝え、村人はそれに基づいて信心をおこなっており、何より女性のみがその祭りを支えていることが重要であった。おそらく、卑弥呼の「鬼道」と呼ばれるものも、もとよりそのような神に憑依する神秘的な霊力を指していたとおもわれるが、ただ、卑弥呼のシャーマン的な霊力は、それが邪馬台国の宗教的基盤となって広域部族間の信仰圏まで形成するにいたったのである。
邪馬台国の卑弥呼は次第に絶大な力を近隣諸国に及ぼすようになり、大陸からみて「倭王」としての資格をもつようになった。そこで、わたしたちの関心は、この邪馬台国という部族国家は、日の神を拝み、天を尊ぶ大和の「天降神話」神話とどう関係づけられるのかという点である。古事記の初期天皇群は、最初は、まちがいなく魏志倭人伝に記述された邪馬台国の規模ぐらいの共同生活を地盤にしていたとおもわれる。それが次第に部族国家を広く統括する過程で日の神信仰はどのようにその宗教的役割をはたしたのであろうか。それに関して、柳田国男は折口信夫とちがって、常世の観念が日の神に結びついて天の信仰に移行したという見方をとっている。
≪日本でも古く経験したように、日の神を拝む信仰は、最も容易に天を尊ぶ思想に移り得たのだが、それが沖縄ではやや遅く始ったために、まだ完全なる分離を遂げなかったのである。朝夕に天体の運行を仰いでいた人々には、いわゆるニルヤ照りがありカナヤ望月が、冉々として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になお一つのより貴い霊地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或いは天の神格を認めるよりは前であったろう。…中略…是が新たな神観の移行を導くに便だったことは、海をアマといい、天をアメという二つの日本語の互いに繋がり通うていた実状からも類推し得られる。≫『海神宮考』柳田国男著
柳田の場合は、琉球は常世神＝日の神と天の神の信仰とが未分化なまま残っているというような言い方をしているが、折口は、はっきりと、常世神の思想は日の神信仰と全く別のルートをとって成長してきたとみなしている。もともと、ひとびとの信仰はアニミズム的な常世信仰、祖先崇拝や生霊信仰（イキミタマ信仰）が一般的であったが、「新に出現する神を仰ぐ心が深かつた」ため、それらの土着信仰に覆いかぶさる形で取って代わったとして、ある部族の信仰であった日の神信仰が、普遍化した経路を辿っていくべきだと述べている。しかも、両者は常世神そのもののニュアンスがちがっている。折口にとって常世神とは、わたしたち日本人が土地の精霊や動物を神と信じるほどの古い信仰が生きていた先祖の土地の記憶に結びついている。その記憶をたぐって「其以前の祖先が居た土地」に対して折口が抱いている懐かしさは、わが列島の住人にとって非常に長い射程を持っていることがうかがえる。そして、折口のその懐かしさの方位の先は西方の海を指しているようにおもえる。いわば、折口はかつての日本人が渡来してきたルーツであった南西太平洋を振り返るとき、それが常世信仰の根拠をなしているのであるが、柳田の場合は、その同じ信仰の根拠が昇る日の神と重ねられて東方を向いている。これも柳田と折口が日の神をどう位置づけているかに深く関わっており、日本人のルーツともいえる東進の動機の違いとも受け取れる。それは、ひたすら東に向かって移動するか、もといた場所である西方を振り返りつつ東に移動するかの違いになってあらわれる。
ひとまず、「日本人」という一般概念にならえば、もともとの信仰生活を破綻させたのが外族との抗争とするなら、統一国家の生成に向かって歴史が辿っていくこの経路を、折口は一本の線を延ばすように描いた。たとえば、紀元前の弥生時代に稲作のため河川に沿って同じ灌漑水路を共有している小共同体が、河川の上流、中流、下流に集まり、水系支配集団の紐帯を示すような集落があるとする。そのような集落生活においては、集落の自己意識はあっても、その集落自体が「王」を擁して「国家」と認められているような状態であったから、集落を超える統一的な部族意識は希薄であった。隣り合う集落同士は同族ではあっても利害が折り合わない限りは互いに反発して、時にはもめごとや争いごともおこった。それぞれ国家連合が鼎立し、利害と駆け引きが始まり、同族でありながらも集落に分かれる前をまるで忘れたかのような気持ちが支配していたのである。
ところが、こういう集落間の併合が生まれるきっかけになったのは、信仰の習合、宗教の合理的統一であった。これにより、その集落の間にあった従来の秘密の宗教の上に、霊験あらたな異族の神が自然と忍び込み、集落生活の紐帯を根底から変えていく。飛鳥朝以前にはすでに、太陽を祀る信仰・祭儀などが取り入れられ、段々と集落の生活を一色に塗り替えられることになる。折口はそれを集落生活には古くからの神を保つとともに、新たに出現する神を仰ぐ心が深かったというような言い方で説明している。集落は領主の国造によって私的に国と名乗り、その国造は神主として民に臨んでいたのであるが、そういう集落を統一したのが大和朝廷である。
しかし、集落の生活がひとつの宗教に統一されていても、つまり、大和朝廷のもとで単なる集落のひとつとして国造が豪族になっても、集落時代の生活を簡単に変えようとしなかったところに軋轢が生じることになる。そのことは『古事記』においては、垂仁天皇の皇后のサオビメが兄と夫との婚姻に隠された部族国家相互間の争いのかたちに象徴されており、アマテラスとスサノオの関係を二重写しのようにみせている。わたしは、アマテラスとスサノオの関係とサオビメの兄と夫の関係を別物と考えていない。むしろ、アマテラスとスサノオの関係は、サオビメの兄と夫の関係から演繹的に紡ぎだされたものだとおもっている。また、アマテラスとスサノオが先行する物語であって、それに続いてサオビメの兄と夫の話が変形されたのではない。実際に、編者はそのことがわかっていたとおもわれるから、『古事記』において、スサノオがアマテラスによって天上界から追放され出雲の国に降り立ったように仕組まれているのだ。『古事記』に対しては、内容に含まれた歴史の流れとは反対に読むべきだとしたのは、この理由によっている。
わたしたちは、折口が認めたこういう争いや内紛にこそ、『古事記』があたり前のように前提にしている思想を解体する可能性を認めなければならないはずなのだ。つまり、集落間の信仰は、歴史を遥かに遡る長い間、もともと呪物崇拝、祖先崇拝、自然崇拝から生霊信仰（イキミタマ信仰）まで、動物、山河、海、岩、風、太陽などあらゆるものに霊が存在するとして崇拝するアニミズムからはじまっている。やがて、稲作がはじまって、部族国家の骨格ができるようになるとき、次第に農耕に関わりが深い水、雲、山、蛇、太陽自体に信仰が集まってきた。ところが、卑弥呼がそうであったように北方大陸から持ち込まれたシャーマニズムは、そういうアニミズムの霊魂をシャーマンに憑依する神にしてしまう。
卑弥呼の「鬼道」とは、弥生時代の祭祀を統合して飛躍し、「首長霊継承」という一種の宗教改革であったとみなされる。つまり、女性が権力の承継に必要な首長霊観念が生まれると、その鼓舞を儀礼化した際、男王は女性祭司の持つ生殖力や太陽神と交合する呪術性が必要とされた。そのため、太陽に対する霊魂信仰は、農耕民にとってシャーマニズムに習合しやすかったと考えられる。これは折口のいうとおり、大和王権の確立とともに、その呪術性は、銅鐸から古墳時代との繋がりを求めて「前方後円墳」がつくられることになる。
このようなアニミズムとシャーマニズムの縫合は、アニミズムの対象であったものが、シャーマンという媒介者を挟むことによって、宗教的な支配と被支配の原型をつくった。そして、次第に部族国家そのものが政治的に変化してくる。いわば、天皇が宗教的権力をもつということは、天皇自体が神職であり神の意志を伝達するものとして巫女の役割を演じていたことになる。
そのため、天皇は祭祀の統合者であるとともに統治（政治）の責任者であった。こうして、３世紀初めには奈良盆地で巨大な政治的、祭祀的権力をもった大和王権が誕生する。これこそが倭国の新しい政体と言われるものであった。
わたしは、原始的な狩猟生活をおこなっていた氏族制社会と農耕技術がもたらされた後の部族国家、あるいは土着農耕民の部族国家同士の間は、幾重にも媒介をはさんでいなければ、国家形成の成り立ちを俯瞰できないと述べた。そういう目で『古事記』の内容を振り返ると、そこに描かれているのは、国家形成の長い道のりのごく一部であって、しかも、新しいものであるとの確信を得た。その確信はいくぶんか国家形成史の事実を含んでおり、と同時に、国家というものの普遍的本質にいたる道のりを方向づけるキーワードだとおもえる。しかし、残念ながら、いま、わたしが知ったのは、国々の神と神としての天皇の間には対立の構造があるという発見のみで、その構造がどうして肌に張りついたような支配や被支配の秘密になるのか、十分に摘出することができなかった。いいかえれば、勝者の罪悪感が、なぜ、敗者の罪悪感に転化しなければならないのか、その理由がわからないのである。それがわからない間は、『古事記』の編者に敗北しているとおもっている。
参考文献
『古事記』 武田祐吉訳
『古事記』 梅原猛著
『古事記の世界』 西郷信綱著
『日本国家の起源』 井上光貞著
『共同幻想論』 吉本隆明著
『日本語のゆくえ』 吉本隆明著
『初期歌謡論』 吉本隆明著
『魏志倭人伝』 山尾幸久著
『王と天皇』 赤坂憲雄著
『文化と両義性』 山口昌男著
『卑弥呼と邪馬台国の謎』 樋口清之著
『日本神話と古代国家』 直木孝次郎著
『本居宣長集』 本居宣長著
『玉くしげ』 本居宣長著 山口志義夫訳
『津田左右吉歴史論集』 津田左右吉著
『歌の話・歌の円寂する時』 折口信夫著
『古代研究� 祝詞の発生』 折口信夫著
『折口信夫全集 古代研究』 折口信夫著
『王権誕生』寺沢薫著
『柳田國男全集』 柳田國男著