言語の初源から限界まで

~言語思想はどこへ向かうか~

                             宮内広利

 

 

<目次>

 

1 イメージとしての敗戦

2 変節と概念

3 沈黙の意味と概念

4 言語の論理学

5 主体的表現と客体的表現

6 言語の価値

7 言語の逸脱

8 死の中で考えること

 

 

1 イメージとしての敗戦

 

ひとがあるイメージを好きであったり嫌いであったりすることの意味はなんだろう、というような任意の設問をたててみる。そうすると、そのイメージに込められたひとびとの体験やこころの起伏に連れそって、変化や屈折がプリズムのように放射されていることに気づく。それで何かがわかったような気持ちになる。しかし、イメージには必ずひとの生涯と同じように、誕生と最期の軌跡がこめられていなければならないはずだ。そう考えなければ、イメージが現実の行為を引き起こしたり、生身の生そのものを傷つけたりすることの意味を理解できない。わたしたちは、イメージにかき回されたり翻弄されたりするひとの生涯をつぶさに観察してきたのだが、大切なことは、イメージの生起が誠実であるかどうかだけを基準に選ぶべきだと考える。

江藤淳は、『退屈の美学』の中で、古井由吉が記憶の底に眠らせたまま、決して露わにしようとしないあるイメ-ジの懐かしさを呼び止めている。江藤の解釈によれば、このイメ-ジとは古井の心が安息と秩序を保っていた記憶の断片であるが、この記憶の中身こそが、ほかの誰でもなく江藤が自らに説得し、納得させようとした発ち帰るべき故郷の原イメージにほかならなかった。江藤の時間は、そこからはっきりと折り返し地点をみつけ、現在の家族や社会が置かれている危機感の行きつく先を断念した。文体は回帰するものに押し流されていく分だけ安息と秩序に満ちていた。江藤自身の案内にしたがうと、このような回帰するものは、漱石にあっては「漢学の世界」であり、小林秀雄の中では「青い海」に象徴される日本の美しい伝統的儒教倫理の世界であった。これらは、それぞれの色合いの変化をもちながらも、いちように近代を通過することによって行きづまり、それをのりこえようとした彼らの体験の傷跡を色濃くにじませたのである。つまり、もともと、イメ-ジが言葉に先行する江藤の文体論の原型は、イメ-ジの出自そのものよりも、イメ-ジの質が反転しながら回帰するものとして描きだされるところで、その方法論を着地させているのである。

 漱石や小林秀雄に自らの分身をみている江藤の折り返し地点からすれば、敗戦による傷跡であった一度目の敗北体験も、反芻しているうちに、やがて分身の住む戦前世界の時間への接続にとどまらず、もしかしたら、まだ見ぬものへの飛躍であるかのように反転する瞬間をもった。そのことに気づいたのは、外見では戦争の傷跡も薄れ、高度成長経済が軌道にのり、世の中が一面の安定と半面の不安をかこつようになってからである。というより、漱石や小林の回帰を知っている江藤にとって、半面の不安とは、目の前に繰り広げられている「近代」そのものというよりほかない高度成長期の猥雑ないまいましさの感覚よりも前の、戦前世界の安定と安息のイメ-ジを前提にして成立していたのだ。ここにおいて、もはや、彼を傷つけたのが「近代」という「他者」なのか、それとも戦争の「時代」であるかの区別は、先行するイメ-ジにとって意味をもたなくなり、要は、彼に違和感を植えつけたものが、戦前と戦後を結ぶ時間の「段差」として自覚されたことだけが問題になった。

 だが、江藤にとって安息にちがいない二度目の敗北体験は、何によって撹乱され郷愁の対象にならねばならなかったのだろうか。通説では、漱石や小林秀雄の完結されたイメ-ジを想起させると同じく、江藤においても「近代」という名の「他者」の闖入にアンビヴァレンツな心理が働いたことになる。しかし、よくみると、漱石や小林の言語から江藤の言語へのつらなりは直接的ではない。その間には、江藤の敗戦時に味わった心の葛藤と漱石や小林の言語をとおして高度成長期の心にきざした戦前世界のイメージが介在しており、心の葛藤劇は複雑に絡み合って、「近代」の言語の交換関係を規定する。ともすれば、「近代」は、貨幣の魔術とともに強欲さの悲哀を秘めて立ち現われながら、メタフィジカルな成熟と喪失の神話にソフトランディングするのだが、もはやハムレットのような近代的悲劇は過ぎさったようにしか現われてこない。少なくとも、わが国の高度成長期の悲劇の質には似つかわしくないとおもえる。こうして、そこにわだかまる齟齬は、「近代」の違いや「戦争」の爪あとの違いを内包して、記憶と原像の崩壊というイメージを疎外する。これを指してルサンチマンと呼ぶかどうかは別にして、江藤は、敗戦を違和感や欠如として選択し、うしろ向きの表現を担って戦後を出発せねばならなかった。そして、確かなことは、そこで誕生した異和や欠如は、漱石や小林秀雄の直面した「近代」とのさらなる違和に直面したとき、「近代」の反芻は、やがて「戦争」の翳とともに、戦後の米軍占領史に固執する際の復古的なイメ-ジを結像する。この間の隠された経緯を仲介したのは、「言語」が「言語」に受け渡される際の危うい均衡のようなものだ。

江藤にとっては、現在と戦前世界を接続させる上で曲げられない前提条件があった。敗戦は絶対に「無条件降伏」ではなく、主権国家としての条件をもった終戦のイメ-ジがどうしても必要だったのだ。

 

≪日本は昭和20年8月10日の連合国に対する第1次回答で、ポツダム宣言の条件中には、「天皇の国家統治の大権を変更する要求」が含まれていないとの了解の下に、同宣言を受諾する旨の付帯条件提示を、明らかに行なっている。これに対して連合国側が、翌8月11日、直接これには答えず、単に降伏と同時に天皇と日本政府の「国家統治の大権」が、「連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす」る旨を回答して来たことはよく知られているが、記録によってみると、連合国側、特に米国は、日本の付帯条件提示を少なからず重視していた形跡がある。≫『「静かなる空」と戦後の空間』 江藤淳著

 

 いうまでもなく、この箇所は、敗戦と米軍の占領が少年期の江藤にとって屈辱であったとされる根拠になっているところである。だが、そのこだわりの前に、少年の江藤にそのような屈辱のイメージがどのように植えつけられたかを考えてみる必要がある。それは、まず、占領期間をつうじて、自由に書くことを封じられ 被虐感を募らせた文学者、マスコミのそれであったこと。次に、敗戦が「有条件」であったがどうかを詮議する自由な法解釈を制限され、たびたびGHQの顔色を窺わねばならなかった、官僚組織の役人のものであったことである。それをあたかも、日本人すべての敗戦体験のイメージとして固着してしまうと、誰もが「死」を身近にひきよせた戦争体験の意味を法解釈の中に溶解してしまうことになりかねない。それにもまして、戦争や敗戦をイメージの底に沈めてしまうことになる。彼は「敗戦」解釈が日本国家の主権の連続性への挑戦とみなし、占領体制の圧迫感として普遍化したのだが、実際に多くの日本人が敗戦によって味わったのは、戦時中の国家資本主義の肥大化のあと突然おとずれた、奇妙な空白感と放心状態であったのである。それは自分で確かめられなければ、父親や祖父に直に聞いてみてもわかるはずだ。きっと、本土決戦に備えて塹壕を掘りながらも、自分は生きて故郷に帰れるとはおもわないという意味では死ぬのは恐ろしくなかったが、突然の戦争の中断に実感がともなわず、これから日本はどうなるかさっぱり分からなかったというような答えが引き出せるにちがいない。

 戦後生まれのわたしが、ちょうど父親が兵役にいった20歳になったころ、北山修の『戦争を知らない子供たち』というフォークソングが流行っていた。その歌の詞に対して、当時、なんとなく違和感をもった。そういえば、近年見た『硫黄島からの手紙』で嵐の二宮君が塹壕掘りをさぼって「こんな島、アメ公にくれちまえばいいのに」と戦友と話していた場面にも同じような違和感をおぼえた。そのときは、なんとなくであったが、北山修の父親は戦争にいってないのではないかとおもった。実は、わたしはその前に、戦争体験を一切しゃべらなかった父親にしつこくせがんで、その体験を聞きだしていたからかもしれない。

 わたしの父親は召集されたなんでもない初年兵として、徳島の連隊にはいった。召集される前から、その時代のすべての青年とおなじように、自分はあたりまえのようにお国のために死ぬものだとおもっていたという。それでも、満州へ行くことになったとき、船に乗り込んで、玄界灘から最後に本土をみたときは、さすがに涙がでたそうである。朝鮮半島をのぼって満州、ソ連の国境線までの汽車からみた情景はおどろくぐらい鮮明に記憶していた。プラットホームで遊ぶ朝鮮の子供たち、つらなる朝鮮の禿山。そして、満ソ国境についてからの荒涼たる地平線、訓練と塹壕堀りのこと。訓練中、手袋を忘れて凍傷になった兵士、当時、武器が一番整備されているといわれていたはずの関東軍が、対戦車戦として火炎ビンを使う訓練などである。

 そして、ソ連が満州に侵攻する直前、満州に残るもの、南方戦線に行くもの、本土決戦に備えるものというように、兵士は振り分けられた。そのときはわからなかったが、あとでふりかえると、この時、運命がきめられたと父親は納得した。そういえば、父親に聞く前になにかの本で読んだことがあった。徳島の連隊の一部だけが、本土決戦に備えて高知へ帰り、九死に一生を得たとあった。満州に残った者は戦死し、あるいは抑留され、ニューギニアなどの南方戦線にやられたものは玉砕したという。父親は高知に帰るときも、本土決戦があるので、とうてい生きて実家に帰ることはできないとおもいさだめていた。ただ、高知と実家は近いので、最後は、実家まで後退してそこで死にたいとおもったらしい。こうして、父親は、高知で終戦をむかえた。塹壕を掘りながら、食糧不足でしまいにはフラフラになって、8月15日のラジオ放送を聞いたが、雑音が多くて聞き取れなかったという。その雑音の正体は、わたしが中学生のとき父親といっしょに見た『日本の一番長い日』という映画だったことに後になって気づいた。終戦のとき、勅命にさからってまで、徹底抗戦を叫んだ一部の青年将校がいたことを知った。映画の中では黒沢年雄が好演していた。それは別の意味で、あとになってから心に響いた。そういえば、たしか、学生運動の終わりもそうだった。

 父親の兵役体験は、あの大戦の一番の最後の方で、おそらく、通算して数ヶ月にもみたないあいだに、もくもくと命じられるままに塹壕を掘っただけだろうが、たくさんのことを体験したと想像する。ひとつは、徴兵制は大衆に国民的政治体験を強いたということである。そして、その照り返しのように、戦友、親戚、家族の死はもちろんだが、一兵卒には侵略する意図はなかったものの、中国戦線にいった友人たちから、植民地になればその国民はいかに惨めなかを聞かされていたという。父親は、日本軍が大陸で酷いことをしたと口を極めていう。中国や朝鮮のひとたちが、なぜ、今になっても反日感情が消えないかよく理解できるとのことである。それでも、わたしは体験してないが、父親のような見方をする人間がいるかぎり、まず、日本の戦死した兵士、本土にいて空襲で被災してなくなったひと、障害になったひとたち、総じて父親が偶然によってそれをまぬがれたひとびとのことを第一に考えるべきだとおもう。それらのひとたちに罪はないとおもうからだ。それから、次に、侵略された中国、朝鮮のひとびとのことである。この順位はわたしの思想からでてきたもので、その考えを変えるつもりはない。

父親たちの世代は、敗戦後、いわゆる戦中派として、本当の意味で最初に戦後民主主義の洗礼を受けた。それにもまして、1960年代から70年代にかけて日本の高度成長経済を支えた。それに対してひとびとの意識は個々の生活に細断化され、もしくは風化しているかもしれないが、戦争が終わったときに感じた、二度とこのような体験をしてはならないという日本人の総意が、無意識の土台になっていた。その総意は目に見えない糸でわたしたちに引き継がれて、アメリカから押しつけられた平和主義などというたわごとを蹴飛ばすものになっている。わたしは、父親たちの戦争体験のとてつもない大きさの痕跡は、なにより憲法第9条の理念に反映されているとおもう。この憲法のとてつもない理念は体験思想として極北の価値があり、わたしたちの歴史とともに、日本人の総意だとおもっている。わたしの父親も今年86歳になったが、父親は戦争中、こんな体験を自分の子供に家族団欒の中で話すことができる時期がくるのか、夢におもったことがあったと言う。わたしたちは、そういう感慨と同じように、憲法第9条によって戦争がこの地上から一切姿を消す時期があるのか夢想しながら、それをいかに変革の思想にできるか模索していくほかない。

わたしは、この現実にはじまって夢に終わった戦後体験の意味するところを、求心するシンボルをなくした戦後ナショナリズムの行方の問題として、私的感性・意志の横への拡散化としてとらえてきた。その意味からいうと、戦争の終結は、まちがいなく日本人すべての胸中に近代史の断層を招き入れた。それにひきかえ、江藤の占領史話は、敗戦による大衆ナショナリズムの横への拡散とは異なり、ネガフィルムのように裏返しの陰影を描いた。彼にとって大衆意識の断層は、戦争の終結による混乱そのものからではなく、その混乱を収束させた勢力によってもたらされた。しかも、混乱の収束はより巧妙であったので、断層さえ見分けがつかないほどその後の日本人の感性に奥深く浸潤し、いつ終わるかも見通しがたたない新たな戦争への絶望感にさそうことになったと言う。占領軍GHQの「検閲」は徹底を極め、戦後の言語表現すべてにわたって、「日本人的なるもの」すべてに「反動的」とのレッテルを貼り、口を封じただけではない。検閲の対象は反米的な言説や「検閲」それ自体に対してもおよび、その結果、言葉の呪縛は、米軍の直接的な検閲が廃止されてもなお、日本人の意識の奥深くに無意識のタブ-を澱のように植えつけた。さらに、戦後文学の空疎さも、その原因をさかのぼれば、この呪縛の構造に内部に閉じ込められたというのである。これについて、江藤はうず高く積まれた資料の厚さをもって検証に応えようとした。

 「検閲」の実態が明らかになり、日本国憲法の制定過程にさえおよんでいたことでさらに驚きがつけ加わる。江藤のいう1946年憲法=日本国憲法は、以後の「検閲」によって巧妙に隠蔽されてはいるものの、実際に起草に関与したのはGHQ民政局であった。その上、その憲法たるや、第9条2項に示されているように、米国に対して日本国そのものが将来にわたって脅威にならないようにするために交戦権を否定することで、「主権制限条項」を含んでいたのである。江藤にすれば、それは、もはや、日本は国家ではなく「国家なき国家」に転落したといっても過言ではなかった。そして、占領憲法起草の過程を発端に、日本と米国の関係は、≪保守改憲派、革新護憲派、および米国とのあいだに存在する黙契の関係、反発力というよりはむしろ相互に不思議な親和力が作用しあっている≫関係を密教としてきた。戦後憲法が改正されないかぎり、その政治的タブ-は再生産されて現在をも拘束し、その後、経済力をつけてきた日本と米国の力関係のうちに見られる「現実」とのギャップを拡げながら、「日米戦争は終わっていない」という江藤の確信につながった。

 本多秋五との間に交わされたいわゆる「無条件降伏」論争も、彼の戦後史が近代史総体の中で、過程としてではなく昭和20年に停止した時間を逆に押し戻した価値観のありかを浮き彫りにした点で、その後の江藤の方向を決定づけた。江藤は、「自由」と「禁忌」の対句をつうじて、いわば、戦前の天皇制国家を一方的に「闇」として断罪し、逆に、戦後民主主義社会を「進歩」とする通念を反転する。つまり、明治維新後の近代国家形成の道筋からすれば、依然として続く占領米軍の威圧の元での拘禁状態の方が例外であるとしたのである。その上で、戦争と敗戦の意味を曖昧にやりすごし、占領軍にあてがわれた戦後民主主義に自己同一化してしまった戦後知識人の内面の方が「闇」と呼ぶに相応しいとした。彼からすれば、戦後社会は今でも米国の占領下であるというのは、文学的メタファ-でもなければ、架空のイデオロギ-でもなく、「国家なき国家」でしかありえない日本の受け入れている「現実」であった。彼の口吻は、あれほど莫大な犠牲を払い、懸命に近代国家の礎を築いてきた営為が、戦争によって水泡に帰したばかりか、戦後はその理想と現実のギャップを埋めるてだてもないまま、日本は米国の世界戦略のレ-ルの上を走っていることに向けられている。米国の世界戦略としてばかりか、その射程は「文化」の根底にまでおよび、無残にも骨抜きにされ、「禁忌」に支配された言語空間に気づこうともしていない。戦後史の核心は、言語をめぐる「自由」と「禁忌」の周辺に切実さをもとめられた。

江藤にとって、わが国の戦後は米国の占領政策の中で決定づけられ、ほんとうの「自由」を奪われ続けてきた。しかし、ここにきて日米間の関係は重大な節目を迎え、経済的にはほとんど対等な立場にまでいたった。また、米国は世界戦略の上でも重大な転換を迫られ、米国主導の世界体制は大きく揺らぎ、混迷と移行の時代を迎えている。それにもかかわらず、精神的鎖国状態の日本は、あいかわらず、米国に押しつけられたタブ-を保守しながら、鏡貼りの密室で堂々巡りの議論に明け暮れしているありさまである。江藤は、これを「閉ざされた言語空間」と呼び、日本の主権の回復と世界の「現実」の直視を訴える。また、文学における政治の論理の横行は、この言語空間の閉鎖性と正確に照応していると考えられた。江藤が理事をつとめていたペンクラブの中さえ、ペンの政治は堂々と行使され、ユダのペンは反対派圧殺に汲々としている実態があり、「私」としての立場を固守する批評の立場こそが、文学を政治から守る唯一の方法であると述べている。ペンの政治学は、「自由」と「平和」を誰もが認める薄められた心理の高処を後ろ盾に、「私」の周囲にタブ-を貼りめぐらすものでしかない。

 しかし、江藤の場合、こういう「私」の逼迫した被虐状況の認識や「言語」の拘禁感に対する失意と抵抗の舞台は、残念ながら、占領からはじまった「戦後」という単色の世界に限定されている。戦後と「私」に関係づけられた固有の認識は、戦後そのものの舞台が変質していくとき、仮構の舞台装置を求めることになりかねない。この内省が欠如しているから、彼にとって敵は仮構としての「私」たちでしかなくなる。当時の江藤からは、「私」の言葉の危機は、戦後や米軍からもたらされる性質のものではないのではないか、本当の敵はむしろ、この膨大にふくれあがった大衆消費社会の「時間」サイクル自体にあるのではないかという自問の肉声は聞けなかった。わたしには大衆消費社会からくる「私」の失速感、客体化こそが、彼に戦後の「閉ざされた言語空間」という仮構の舞台を設定する理由を与えたようにおもえる。「私」の主体の変容は、それ自体としてとらえられるものではなく、奪われた時間の質量に応じて計測されるものだ。だとするなら、どこからくるか不明な漠然とした不安、焦りの感情が増せばますほど、敵は「私」の外側に投射され、戦後占領期に居座った江藤の想像上の戦後と「私」の関係を妖しく照らしだす。

 江藤は、「閉ざされた言語空間」のこちら側で、もっとむきになって戦後大衆社会のもうひとつの「現実」と対面すべきであったのだ。もしも、感受性の差異というのなら、自身の初期の文体論に立ち戻って考えてみればよかった。「現実」や「他者」は概念として抽象化すると、いかなる場合でも言葉の風化を避けることができない。また、イメ-ジが先行し、言語をあと押しする江藤の方法にとっては、その概念が大衆社会状況に晒されなくなり、目前の微妙なイメ-ジの転移に言語が追いつかなくなった時点で、「現実」や「他者」は、具体性をもたなくなる。そのため、イメ-ジが拡がらず、時間に圧迫され、時計の針が逆回りして、たどりついたのが縮退化した「国家」意識であった。なぜなら、経済社会構成の膨大化によって、理念としての「現実」や「他者」が、ただ生活者の感慨と同背丈のイメ-ジに納まり得ない社会背景が横たわっていたからである。

 このようなイメージや概念の意味変容は、70年代中頃から80年頃までの、ちょうど高度成長経済の爛熟期と符合していた。ひとびとは経済的豊かさの中で、戦後大衆意識は一階梯を終え、新たなステップを用意していた。その頃からわたしたちは、戦後の文学史を大衆意識における「私的感性・意志」のゆくえという方法で考えることが大切だとおもってきた。文学が文学意識の表出とされるかぎり、社会意識の関係が歴史と交差する場所にのみ、言語の現実性がうまれると考えるからである。つまり、この私的感性・意志のあり方は、戦後のナショナリズムの動向とも結びつき、ひとびとの生活意識に照らして、文学意識を測定するきわめて有効な基準と考えるのである。

1980年代に入って、ようやくポストモダンのかけ声が遠巻きに聞こえる中で、わたしたちは江藤の言説に当惑し、もはや文学的位置づけをするのが難しくなった。彼が文学意識の必然として拘っている戦後史論は、政治情勢論の観点から眺めると、わたしたちが60年、70年安保闘争を経過する過程でつかんだ「常識」の範囲に属したが、ナショナリズムを煽る点については、まるで正反対の方角を向いていたからである。それでは、わたしはなぜ、江藤淳にこだわっていたのだろう。今からおもいかえすと、第一は、何度も反芻できる文体に秘められたある種の安息感に起因していたようにおもう。わたしたちは何ものかに追われるように、前へ前へとつんのめるように生き急いでいるが、江藤の作品には、わたしたちを立ち止まらせてくれるものがあった。仕事を終え、深夜、布団の中で寝転がって読み進んでも、時の経つのも忘れさせる文体の毒気のようなものがあって、不思議なことにそれからは他の作家の文体が妙に空疎で読むに絶えられなくなってくる。この無意識のうちに吸いこまれる誘惑について、現在の言葉の水準のなかで、文体の秘密としてときほぐしてみようと思い立ったのが精読しはじめた理由だった。やや意識的になるうちに、江藤のような近代史、現代史の俯瞰や抗いを続けられるなら、気分が和らぐような気がしてきはじめたが、それはどこかで彼の文体の強さにおもねるような気もした。そして、正直に告白すると、江藤の敷いたレールにのってトロッコでゴトンゴトンと揺られながら居眠りし続けたいとさえおもうようになったのだが、同時に、それは先行きが細るような、危ういなという予感も抱いた。わたしには文学的な「死」の意味など分かりようもないが、突然、江藤が66歳という若さで自殺したと聞いた時には、なぜか、思いあたるものがあった。

しかしながら、次第に頭をよぎりはじめたのは、江藤の文学、近代史、現代史に対する視角が、本格的に批評するほど現在のアクチュアリティに耐えられるのか、という疑問である。江藤の方法は、現在、文学そのものが、進歩的、保守的を問わず、現実社会の底辺からサブカルチャ-の台頭と大衆意識の知的アパシ-の波頭をまともに被っている状況において、そのままで社会に対する有効な武器たりえるのだろうか、という疑念をぬぐうことができなくなっていたのだ。西部邁は、『海は甦える』の解説の中で、江藤の批評の方法の現在性を、大衆性とつかず離れずの姿勢において、大衆意識の底部と響応するものとして好意的な解釈をしているが、ここでいう大衆性の実態こそが、江藤の保守性の時間を測定し、「現在」のありかさぐる目印になると考えられる。おそらく、気分としてだけからいうと、江藤の世界には、わたしたちと交差するアクチュアルなプラスの表現意識を見いだすことは不可能である。だが、もし、かぎられた生活の場面を想定するなら、たとえば、病に倒れ、ふっと弱気な心の裸の生地をさらして、現実生活の窪みを飲みくだすとき、これからもひとは江藤の世界に引き寄せられていくだろう。それとも一知半解の政治家たちに付け焼刃の保守性を与えるのだろうか。そんな架空の時間と場所が、江藤の秘密の隠れ家だとしたら、彼の現在性は幅の広い間口をもって判定することが必要になるかもしれない。

 江藤の代表作『成熟と喪失』が書かれたのは、高度成長経済の只中の1967年(昭和42年)であった。わたしたちが、近代の懐にしのばせている「不安」な影におされ、ふりきることのできない心の弱さを現わすとき、それが江藤のいう「大人の喪失感」であると同時に、「子供」であり続けることのできない現実社会の背離である。ともすれば、『海舟余波』、『海は甦える』、『昭和の宰相』などのノンフィクションノベルの主人公の身構えすぎる幼稚な使命感に辟易しがちなわたしたちも、「成熟と喪失」劇には心の温かいところで、ふっと涙腺をゆるませてしまう。そこにおいて、江藤のデリケ-トな時間が確実に存在する。そういう視線からみたら、彼の批評の核心には、時代がどう移り変わろうと変わりようがない人間の条件ともいうべき現実社会の宿命や別離の表情が貼りついている。これを指して江藤自身は「伝統」と呼びたいらしいが、その実質は「生活者」の感慨が、そのままで生活思想に根づいていく結び目に「伝統」の目が据えられていたことがわかる。ただし、江藤にとって「成熟と喪失」劇は、もともと、生活者の伝統に根ざした生活の知恵である以前に、戦後文学者の思考パタ-ンへの批判を行う武器であった。武器を鍛えた彼は、やがて、戦後史や近代史に駆けあがるため、アメリカのロビイストみたいな床屋政談の役回りや江藤家一族との再会という舞台装置を必要とした。おそらく、目先のきくインテリが、生活者の知恵とか伝統という場合、おうおうにして近代史や戦後史の視点との架橋に失敗する困難は江藤を例外にしなかった。江藤が描く「子供」から「大人」への道のりは、喪失感の代償として直接的に「国家」あるいは「公的なるもの」を呼び寄せねばならなかった。そして、その分だけ「大人」の喪失感は、「大人」の世界がかつて歴史的に実在したかのような幻影を背負い、「国家」の影を近代史の中にあらねばならぬ理想として高処に押しあげた。その結果、それを現在の不在感の代償にして、あたかも絵巻物かなにかのように時間を逆さまに巻いて、復古的な姿勢にスライドしてしまうのである。彼の望む「大人」の世界はここにはなく、彼岸の世界にかすかに胎動していたはずだから、もとの道を改修しさえすれば、中断した「国家」の足跡は、明治の群像とともに立ち現われるにちがいないとおもえたのだ。

 しかし、わたしたちにとって、江藤が中断とみなした戦後の数年間の占領期とは、父親たちが敗戦の虚脱感からこれからはじまろうとする活力の源泉であった。つまり、占領期間は歴史のわき道ではなく、前に進むための助走期間であったのだ。まして、戦後史を書こうとするなら、戦争につづくこの期間は、わたしたちが現在、遭遇している新しい歴史の階梯と未知の困難においては、その起点として正確にとらえられ、伝えられなければならない期間だとおもう。わたしたちは、江藤が戦後史の空虚感に加担すればするほど、言葉の過剰さが掌からこぼれおちるようにおもえ、明治から昭和にかけての群像が浮世離れしてしまう白々しさを隠すことができない。もちろん、ポストモダンの衣装を借りて新しいものねだりをする訳ではないのだが、江藤が何よりも偏重する文体のありかを考えても、「閉ざされない」江藤の言語は、草深い「日本的なるもの」の世界に安住することに満足しないかぎり、これ以上のインパクトをもって読み継がれることは難しいと感じる。この点、自らの立場を保守のユ-トピアに自己設定し、戦後大衆社会と懸命に格闘しようとしているかにみえる西部邁の方が、言葉にならない言葉の位相を紡ぎだす姿勢がはっきりしているだけに、よりラディカルといえる。西部はそういう自分にジレンマを見いだし、空虚感への自問を投げかけており、江藤の座っている安定にはほど遠いが、大衆社会との接合面は広い。

 西部邁の抱えるジレンマは、保守すべき何ものも現在の大衆社会には見いだせないこと、もうひとつは、それとは逆に、革新の立場が現在の大衆社会状況に甘んじ、保守しようとさえしている二面性に、より自覚的であったことである。このとき保守の立脚点はユ-トピアにならざるをえないとの臭覚が、逆に、彼の虚空性の足場を積極的に支えている。この二面性のジレンマは、おそらくユ-トピアという「非在」を生きるかぎりにおいて、不可避に個人の改革者の悲哀を帯びているはずのものであり、それは西部が60年安保闘争の体験者であることに由来しているようにおもえる。彼はそのことについて、センチメンタリズムでしかないと自嘲しているが、実は、1960年のくぐりぬけ方において、そのような彼の精神の型は決定された。しかも、それは自ら選んだものではなく、非在者であることを強いられたところに彼の特異性があった。その意味で、当時と同様に現在も、西部は「社会」から強いられた倫理の影をひきずって生きるものである。わたしには、自己にとって何が恥辱なのかを自問する形式そのものが、もはや60年代後半の運動にはみられなかった理念の足場と映り、彼が吐きつづける大衆社会への呪咀は、言葉にならない独り言に連なりながら、そのままで保守の立場に転位しているようにおもえる。

 しかしながら、彼の非在としての立場は、とうてい身の周りには、つまり大衆社会のどこにも着地点をみいだすことができそうもない。オルテガの『大衆の反逆』のベクトルを逆さにした最初の頃から、彼の文体の目は、おそらく、「外部」へ、しかもその内容が光源そのもののような論理的な「外面」にのみ注がれていたのではないか。つまり、「伝統」とか「常識」への回帰といっても、放散する精神の消失点そのものと化している大衆社会状況に面と向かっているだけに、彼のいう保守の立場は、論理的足場を一度失うと、無限に転落してしまう危険性をはらんでいる。その意味で、彼は、江藤とはちがって、豊かな伝統も豊かな情感も信じることができないような乾いた空を仰ぐことになる。そのため、「高度大衆社会」としての現在を、保守主義の立場から批判する西部のアジテ-ションは、おおくは産業主義、平等主義、進歩主義に対する永久の告発者につらなる。

その上、文学者としての資質だけは大事にしていた江藤とはちがって、西部の徒労感が吐き出される大衆社会の矛先は、イデオロギ-の此岸と彼岸の境界線上にとどまった。そのため、当然のように、ラディカルな保守性というわりには、否定対象のフィ-ルドは学際的である。彼によってすべての責任を負荷された大衆人=知識人が、自らの無力感をただよわせるのは、知識人、大衆を問わず、社会的「時間」の軋轢に耐えられないからである。あげく、西部が、倫理の結節部を社会的メカニズムから大衆の心理的事実に還元する時点で、懐疑の根拠そのものが、社会の前面で空転してしまうことになる。なぜなら、彼自身がほんとうは、大衆社会から頭半分だけもたげ、身体のほとんどを大衆社会状況の渦中に埋もれさせているにもかかわらず、なぜ、知識人は知識人でしかありえぬか、また、大衆は「知」を所有するしないにかかわらず、なぜ大衆でしかありえぬかを忘れてしまったからである。その結果、知識人と大衆の概念に社会経済概念をかぶせて大衆社会状況のシェ-マを描いてしまったのだ。そのため、自己の大衆性の足場を消し去り、歪みをもってしか大衆社会を省察しえなくなって、西部の大衆社会状況批判は、政治的アジテ-ションでしかなくなる。

 欲望、貪欲、高慢、野心、復讐などの卑小な人間がひしめく大衆社会の危険性に対して西部が対置する「反価値」は、安定、秩序、伝統、均衡、節度、中庸とおよそ形をなさない心理的事実の影がつきまとった。だが、心理的事実を誹謗したり非難したりするかぎり、あくまで、それは政治的ロマンチズムによりそった個人の期待や願望でしかない。おなじロマンチズムの残滓をひきずっている点で、一見、酷似しているかに映るかもしれないが、江藤には「戦後史」を「内部」から見る安定感があった。この安定感こそが、ポストモダンの潮流が逆巻き、近代個人主義の終焉のかけ声の浮かぶ中で、ひとつの支えを見いだしている根拠ではないかとおもえる。とかくポストモダンの主張には、近代史を大鉈で裁断したような荒削りさがつきまとった。近代的なものとして肯定している当然の制度、思考様式が、たかだか100年ほどの時間にも耐えられないものだとするその主張は、わたしたちに、ときに、原色の歴史意識を生地のまま露出したかのような印象をもたらす。そのたかだか100年の歳月に、どれだけの歴史的背離と矛盾が詰まっているかにおもいをはせるとき、「個」と「歴史」の相克という江藤のモチ-フの積極性が浮かびあがってくる理由がある。

 たとえば、数十年の戦後意識の変遷を辿ってさえも、近代個人主義としての個我意識は高度成長経済期の前後では態様が異なる。また、70年代と80年代の境界においても大衆意識は急激な「段差」を体験した。まして、明治、大正、昭和と変遷してきた近代日本史の中では、江藤のいう戦前、戦後の区別以上の亀裂や断層が歴史に伏在しているはずである。しかし、江藤は、その相克を担保にして貪欲になり、より多くの安定感を得ようとそれらを「永遠」と手形交換する。そこでは自我の問題も、そしておそらくは小賢しい「内面」の切迫性も希薄化して、ただ、「日本」という永遠のテ-マだけが最後の課題として浮かびあがった。

 

≪“昭和”という時代が単に一貫した持続であるばかりでなく、また同時に一つの有機的な共時的時空間であることは、たちどころに明らかになる。それは生者のみならず、死者たちもまたそのなかに、対等の重みを以て存在を許容されている時空間である。それは天皇をいただき、天皇の記憶を概ね共有する者たちの時空間である。天皇を拒否し、“昭和”を拒否する人々といえども、実はこの共時的時空間の外に逃れ去ることはできない。何故なら天皇は、日本人であることを恥じることによって、日本人は恥辱を回避することができず、日本人以外のものになることもできない-たとえ国籍を離脱しても、このことに少しも変わりないということを、誰よりも深く知悉している存在だからである。天皇が日本の君主であるという事実と、このこととはおのずから不可分に結びついているのである。≫『天皇とその時代』 江藤淳著

 

 昭和は終焉したことによって江藤の回帰は終わったのだろうか。職場、家族、学校等における苛立ちと退廃は、昭和史の晩期を象徴するものである。この混乱の中でも、ただ、世界は確実に変貌しつつある。この変貌するという予感のみが、ポストモダンを裏面から支えている。そして、この趨勢はここしばらく、わたしたちに内面の葛藤と混乱を強いることはまちがいない。正論を吐く言語の内面性は屈折し、閉ざされた圏域に内向と放散を繰りかえすことはほとんど自明である。これは、ちょうど、「私」たちが「時間」と競争することを意識したとたん「現実」は加速度を増し、「私」たちが衝迫感や無力感を受け取っている証明にちがいないからだ。このような背景を背負っているところから、もしかしたら、江藤の希求する「日本」への郷愁は、ひとびとの心に浸潤していくかもしれない。だが、江藤のいう「現実」への回路は、「検閲」によって邪魔されてはいないのが確実なように、同じ「現実」というその岩盤そのものも、もはや、確固としたものでないことを知らなければならない。

 江藤は、批評活動を開始した当初から、「現実」の発見の場所を探し続けてきた。この「現実」とは、彼にとって「タブ-に拘禁された戦後社会の不自由な言語(文化)」という言語に行きついたかにみえる。ところが、この「現実」の言語さえ、一方で、それを対象にする「私」と「現実」そのものの変貌の前に、もはや「歴史」のメタレベルに底上げされつつあり、「私」と「歴史」の齟齬は、それ自体を自己疎外しながら、言語を希薄にして、溶解してしまおうとしているのである。このことを考えると、「伝統」と「秩序」への先祖帰りにみえる江藤の言説は、およそ希薄化した「伝統」や「秩序」を構成しようとするかにみえ、意識されすぎたものになって、明らかに自己撞着にすぎなくなる。もし、江藤のことを一言で表わすとすれば、わたしなら「最後の近代知識人」の宿命をやどしているとみるだろう。つまり、彼にとって知識や文学は、言語に対する否認を露呈させることであった。言語を囲む状況に対して言語によって対峙するすべての「知」を「近代知」と呼ぶなら、彼こそ永遠を刻むものとして、自らの胸中に刻印するように言語を抱きかかえるものだ。しかし、永遠の言語といういい方そのものがすでに背理である。言語も社会の変化と同じく、それ自身として否応なしに移ろっていく。ここに言語が保有する「時間」の限界がある。なぜなら、過去の歴史の底にまどろむ言語を取り出すことは、直接、言語を誕生させた「心」までそのまま引き出すことにはならないからだ。

 ここで「最後の近代知識人」と呼ぶべき江藤像には、さらに注釈がいる。それは戦後、「近代」化に邁進した半世紀も満たないあいだに、はやくも「近代」は終焉を迎えようとするわが国特有の「時間」のパラドックスが加担していたことである。その意味でいうと、江藤の「近代」への固執は、最初から「近代」への疑義に転倒されかねないハンディキャップを抱えていたことになる。江藤にとって言語はあくまでも自己の「実感」の範囲内にあり、そのことが「近代」の内部に張りついた言語の初源になっていた。ところが、この初源としての言語の裏面には、必ず、「現実」と「他者」の水位が社会の方角に向けて提示されている。わたしたちにとっては、現在の最大の課題は、「言語」自体にほかならないが、その中で江藤に代表されるオ-ソドックスな「知」は、「近代後」の社会の水面に対して言語としての水位を保ちえなくなってきたのではないかとおもえる。なぜなら、彼にとっての「成熟」は、実利的で確固とした「大人」の世界に「知」を現わすことであったはずだが、その「知」の着地点として、あらねばならぬはずの「現実」がイメ-ジとしてしかとらえられていなかったため、短期間に言語との齟齬がうまれ、「現実」の方から言語の歪みを受けてしまったのである。そして、その歪みの分だけ、江藤は「永遠」に向かって言語を差し向けたのではないか。まさに、「知」の「歴史」に連なることはやさしいが、「現実」への接近には「時間」との格闘に似た困難な作業が横たわっていた。その意味からいうと、彼が名ざした占領期間の言語は、永遠に拘禁されるものではない。拘禁しているのは、むしろ、彼自身の「永遠」によって固められたメタ言語の方なのだ。江藤がこだわった言語思想には、いわば、一種のフェティシズムのようなものがあって、それから言語の被虐感という誤認が生じたものとおもえる。言霊などという土俗の言語が用いられるのは、呪術の世界だけで十分なのである。

江藤の言語思想の無意識にあったのは、言語の表出行為が「心」の中心をとらえているかのような言霊信仰であった。だからこそ、占領軍の「検閲」は言語の表出行為を抑圧したから、日本人の「心」もいっしょに拘禁してしまったというような妄想をうんだ。人間の自由度は言語表出の自由度によってのみ測られたのだ。だが、表出されないまでも、あのような戦争の体験はこりごりだという大多数のひとびとが抱いた内面のおもいは、占領期間にもかかわらず生き続け、唯一の表出行為である憲法第9条を支えた。実際はGHQの中の若い理想主義者が起草したのかもしれないが、その思いは占領体制の枠組みや政治家、官僚の法文解釈を越えて「心」として生きた。それに対して江藤は、そういう大多数のひとびとの「心」とは別に、「検閲」されない言語を復元させれば、大河ドラマのようなドラマツルギーも復刻するとおもえた。彼にとって「国家」を支えた明治の群像は、そのまま日本人を「公人」としての「心」を取り戻すモデルになりうるとみなされたのである。しかし、わたしには、言語表出を操作すれば、「心」に綱をかけて引き上げられるというようなことは、マネキンに言葉を覚えさせたら人間になるかのように考えるのと同じく不可能におもえる。また、それは憲法第9条を守ってさえいれば、変革の思想に組み替えなくても、平和がやってくるとおもうのと同様に、とうてい信じることができない。つまり、言語には構成する要素として、「心」や「イメージ」、「概念」、「言表」などいくつかの階梯があり、それらの関係と構造の中から「現実」の言語がうまれるとおもえるからだ。問題は、保守、革新を問わず、本質的な言語思想を出現させることができるかどうかにかかっている。

 

2 変節と概念

 

江藤における変節と擬されているものは、おそらく、第一に、戦後第3期に当たる大衆社会の変質期に当面した自分の居場所を誤認したところからやってきた。そこからふりかえって、戦後当初の恣意的自由の氾濫と、その後の社会経済構造の高度化に伴う大衆意識の解体現象の二面の関連づけに失敗して、目をそらすまでもなく、実感として納得できなかったことが、更に、大衆消費社会の爛熟期をくぐりぬける過程をつうじて増幅された結果、戦後の歴史的時間の刻みを繰りこみえなかったそのことに帰因している。他面、この経過の中で必要以上に「日本的なるもの」に傾斜をうながしたのは、留学体験が深くかかわっていたとおもえる。

 留学は当然、「外」から見る「日本」の自覚をせまった。この場合、「外」から見た日本は、懸命に経済成長に邁進している渦中の姿でもあった。しかも、その日本は「外」から見られているよりも、自分自身を求めるのに急ぐあまり、「内」と「外」の相対感覚を脇に置き忘れたかに映り、江藤にとって衝撃は倍加した。江藤のその後の方向を決定づけたのは、この「外」から「内」へ「内」から「外」に向けた方位感覚によって、「外」から見られていることを内在化した「概念」が、ぶざまな姿を「外」に晒してはならぬという度はずれた使命感に形を与えた。そのため、彼に必要以上の力瘤をつけさせ、緊密な文体を呼び寄せたといえる。彼の近代史を総ざらいするようなノンフィクションノベルの舞台装置がともすれば人工化し、硬直しているのは、これらの理由による相乗作用にほかならない。

 実際、『海舟余波』、『海は甦える』、『昭和の宰相』など、江藤の描く近代日本の群像は、文体そのものを価値の源泉としたら、史実によく拮抗しえるだろうか。戦後喪失した(と思える?)価値は、近代天皇制を介して、ここでは戦後を相対化する以上に過度に美化されてはいないか。当初、彼の日本近代史への接近は、「成熟」するための支えを「天」に見いだしたあと、「一族」の歴史を近代史にオーバーラップさせることになる。『戦後と私』には、敗戦によってうちくだかれた自分を立て直すため、自尊心は何を必要としたかを素直に披瀝している箇所がのぞいている。

 

≪しかし敗戦によって私が得たものは、正確に自然が私にあたえたものだけにすぎない。私はやはり大きなものが自分から失われて行くのを感じていた。それはもちろん祖父たちがつくった国家であり、その力の象徴だった海軍である。私は第二次大戦中の海軍士官の腐敗と醜状を自分の眼で見る機会があったから、この海軍が祖父の時代の海軍と同じものではないらしいことに漠然と気がついてはいたが、それでも連合艦隊が消滅したことは心に空洞をあけた。≫『戦後と私』 江藤淳著

                      

 海軍最年少の提督だった江藤の祖父の時代へのノスタルジーは、海軍が礎になった近代日本の生成史へののめりこみをうながすが、その理由と目的はあまりに手際がよいようにおもえる。この微かな憶測は、江藤が手を染めたノンフィクションノベルの主人公に共通する優等生的性格と響きあって、わたしたちに「実感」と「常識」の仮構の意味を考えさせるに十分な条件を投げかけている。たとえば、彼の描く主人公は、勝海舟、山本権兵衛らのだれも、あまりに「国家」に対して律儀であるばかりか、物事の判断が一本木で堅苦しい。これは、戦後世界が作者から見るとあまりにル-ズで、無節操にみえたことに過剰反応した結果であるが、つまりは、この過剰反応は、彼がほんとうにプライドを傷つけられた敗戦直後の時期からではなくて、「成熟」したあとの戦後世界からやってくるものでなければならなかった。 

江藤が唐突に「連合艦隊」の消滅に空洞を感じたのは、戦後、随分たってからである。その戦後は、江藤より少し年長の親たちが復員後、妻子を養うため買いだしにでかけ、職を求めていた占領期とはことなり、その親たちの頑張りで、高成長経済が一応の軌道に乗り、ベビーブームの子供たちが食うや食わずの生活を脱したあとの別の戦後にほかならない。このタイムラグは、わたしたちには、言語の反芻やイメージの反復におもえ、作者の胸奥深くに止まった美意識のありかを知らせる役目をはたしている。しかし、わたしたちの戦後の遠い記憶をさぐっても、その残像は肌触りを超えることはできない。わたしにとって「有機的な共時的時空間」の実態とは、冬場は雪が吹き込む隙間だらけの家と、水道もなく、母親が井戸水をバケツに何回もくんで、離れたところにある五右衛門風呂を沸かす光景しかおもいうかばない。そして、山あいの交通路は整備されておらず、たしかに、すぐ近くの森や川には恵まれてはいたが、それはあたり前の日常でしかなく、江藤とはちがって、古井由吉の『退屈の美学』にならえば、そこには子供心に田舎の閉鎖的な家の重み、因習や土地の境界をめぐって争いがたえない鬱陶しい光の乱反射がまぶしかった。もう少し時間を手繰れば、戦前のムラの生活は、ラフカディオ・ハーンや柳田国男など旅行者の目からは、金銭にあくせくしない村人の穏やかな性格や礼儀正しさに映ったかもしれない。だが、その内側には、都会育ちの旅行者には嗅ぎとれない黙契や家族道徳の金縛りに包まれた世界があった。「自然に帰れ」などという呼びかけは、それこそ戦後の復興から新しい段階を迎え、都市と田舎の境界がなくなってから後の「概念」のつぶやきや吐息にすぎない。その言葉は、貧しく、電気も水道もない、衛生環境もよくない共同体が、いかに泥のような心の暗部や暗い偏見を育てるかを知っているものからは決して発せられないものだ。

わたしたちが若いころ、すでに高度成長経済が頭打ちになりつつあったにもかかわらず、周りにはナロードニキを気取ったものや、「東京にいくな、だまって根を掘れ」とアジった詩人にかぶれたものもいた。そういう牧歌だけでなく、もう少しスマートになると、「関係の革命」などと、生活や生きざまの共同性が、あたかも政治的に意味ありげに語られながら、中身は高校生の生徒会活動の延長みたいな雰囲気をかもしだしているかくめいソシキもあった。そういう共同性の幻想にかぶれなかったのは、わたしにとって良くも悪くも、共同性が特別の意味をもって傾斜していく先が、両隣の私生活を妬み、干渉しあいながら、そんなことに狎れてしまうに閉塞感や疲弊感が「不自由」におもえたからであろう。そうでなくても、ただ、みんなでやるよるも、ひとりで何かをやりとげることのほうが心地よいとおもったせいかもしれない。諸種のかぶれにつきまとう慣れは、歴史文学を読んだら、あたかも、「みやび」というどこかの世界が実在したかのように錯覚し、『源氏物語』の主人公が汚れた長い髪をして、洗濯機であらったことのない着物を羽織っていたことなどまったく想像できない心の貧しさと同じである。こういう重ねられた言語の齟齬の中にしか、「草深き故郷」は存在しない。

明治の統治機構が立憲君主制を名目に掲げながらも、議会、行政運営を十分に機能させていたことを確証しうる資料があるとはとうていおもえない。そんな中での政治家、財界人が個人として、十分魅力ある人物の可能性は更に少ない。江藤は、戦前の天皇制を、立憲君主制と読み替えているが、これは霞が関の役人が公文書のすきまでモグラたたき風に曲解する程度のものでしかなく、彼の統治機構に対する理解が、憲政上の条文解釈を上滑りしている証明になるような、憲法解釈上の単純な錯誤といわなければならない。もちろん、江藤にとっても、明治から太平洋戦争末の破局までの道のりが理想づくめで万事うまくいったなどとは言っておらず、近代国家形成の途上で理念が挫折し、屈折した事例は、陸軍の頑迷さや軍閥の対立等を引き合いに出して描かれている。ただし、俗流史観を排するという謳い文句の陰で、彼らノンフィクションノベルの主人公たちを取り巻く知的雰囲気の中では、恣意的な大衆意識の流露がほとんど塞き止められているように感じる。これは大衆が一人として作品中に登場しないという意味ではなく、文学意識の上でインテリとしての自分自身に甘え、距離測定を見誤って「死んだ言語」をあたかも生きているかのようにとりあつかっているところからきている。

それなら「生きた言語」とは何か、というより、言語の生死という問いかけがあるとしたら、それは何を根拠にし、わたしたちをどこへ向かわせるのか。わたしは江藤の美意識を「概念」的な国家像に見立てた。その「概念」なるものは「脱概念」というところから逆にたどることもできる。もし、概念をぼやけさせることができるなら、よほど指の先にも神経をゆきわたらせるように意識的にならなくてならないことだけは想像できる。つまり、言語と言語の連結装置をはずし、それらの細いすきまをこじ開けるような芸術と融合した哲学の技術を要するとおもえる。それに応えられる技術によってのみ、「概念」の輪郭を壊し、再構成することができるにちがいない。

 

≪諸種の大規模な哲学は世界を、諸理念の秩序のなかに叙述するだが、そこで用いられる概念の輪郭はどれもこれも、いまではとっくに崩れてしまっているのが通例なのだ。…中略…いいかえれば、現在のこれらの試みはすべて、経験世界ならぬ理念世界に関連づけられている場合にすらもなお、共通して、自身の感覚を手離そうとしない。いやそれどころかしばしば、自身の感覚をいよいよ強調して繰り拡げている。じっさい、これらの思想的構築物は、諸理念の秩序を記述するものとして発想されたのだけれども、そのなかに現実的なものの像をえがこうと思想家たちが強く意図すればするほど、それだけますますかれらは、後世の解釈家が心底から意図してわがまま勝手に理念世界を叙述するのに好都合とならずにおかぬような、概念の秩序をあれこれと作り上げる羽目になったのである。≫『認識批判的序説』 ヴァルター・ベンヤミン著 野村修訳

 

 なるほど、これをみるとベンヤミンは、必ずしも「概念」というものに否定的ではなく、プラトンの理念論やライプニッツのモナド論、また、ヘーゲルの弁証法による世界の記述に匹敵する「概念」の建て直しを哲学者に求めているように読める。辺りをみわたすと、哲学とは名ばかりで、実際は、世界を概念によって細切れに解釈し、経験世界(事実世界)を理念世界と混同するような、みすぼらしい研究者の群ればかりが跋扈している。これは哲学の方法が小手先の器用さだけで演繹理論をまねきいれ、細切れになった「概念」で、継ぎはぎだらけの世界像しかつくれなくなったことへの嘆きにつながる。だが、ベンヤミンは、あくまでも嘆きという悟性的な認識にもとづく感情とは無縁である。彼の認識論的切断はもっと乾いている。なぜなら、経験世界に依拠した「概念」の限界を感じたとしても、その前に、そもそも、なぜ、哲学者はそういう理念世界への接近をしなければならないのかという問いかけが、その認識論には内在しているからである。

彼は「自然」や「運命」なる概念の由来を正確に押さえているばかりか、もしかしたら、「国家」や「反国家」という仮構の建築物の正体の上に安住している哲学者の思弁にも気づいていた。彼は哲学の縦横無尽な文体にこだわり、言語が歩き、動き、止まりといった身振りをまじえて持続する意志を肯定する。そして、この意志は自ら作り出すものではなく、理念という別の意志に動かされるものでなければならなかった。彼の独自の理念論においては、理念は「真理」と名を変えて、人間の意図や経験とはまったく無縁のモノと考えられている。そのような人間の意図の介入を許さないモノは「存在」の根源に触れるものであり、いろいろな要素に分解した目に見える経験世界の現象の総和ではない。であればこそ、このモノは哲学者の思惑によって他のものと比較されたり、肯定や否定されたりの関係を結ばないのであり、自分自身に向けた力そのものとして姿をあらわす。だが、その自分自身へ向けた力は、スピノザのような「神」の必然性や運命であってはならず、モノによって動かされているという有限や無限の、その実、有限の意図があってはならないのだ。また、理念を語る手際はヘーゲルに似ていても、絶対知の自己円環を完遂したヘーゲルの理念と決定的にちがうところである。

ベンヤミンがヘーゲルとちがうのは、「概念の概念」の再生ではなく、「概念」そのものの破壊を企てようとしているからだ。理念は事物の象徴や法則であったり、平均であったりするのではない。理念は事物の共通性や差異性を集約した概念ではないから、概念によってつかまえることができないとされている。事物現象は概念に従属するが、理念はそうではない。それは、概念が事物に従属する場所といっても同じことで、その区別において理念はきわだっている。理念は、一般的な思考の習慣である学問的認識の演繹の体系や、逆に、個別学問の精緻ではとうてい歯が立たない代物である。そこで次のような問いかけがうまれる。では、哲学者は理念とどう向きあえばいいのか。ベンヤミンにとって哲学者は、言語が認識し、理解し意味づけることに迷い込まず、理念の発語そのものを聞き取るなかで、理念の言語を叙述することでなければならなかった。それは、いわば、言語誕生の初めに言葉ありきの命名に近いものであって、理念が語として現れてきた瞬間をとらえるものであるが、決して遊びや恣意性の介するものではない。このような理念の表現は、仏教の瞑想や静観に似て、わたしたちには馴染みのない世界にみえるが、とりあえず、言語の発語が意味づけることから隔てられる受動性に第一の眼目がおかれているのはうたがいない。ひとはおうおうにして、認識論の手前でためらっているものだが、彼は認識の階段を一足飛びに越えた。

もっと、近代的な言い方で言うと、哲学を探求することは、言語の「所有」から距離をおくことだった。彼は理念の真理は認識の領域に導きいれようとした途端、姿をくらましてしまうとしている。なぜなら、認識とは知の「所有」にほかならないからだ。哲学者の認識は、その対象を所有しなければならないという至上命題をもつ。しかし、いったん「所有」されてしまってからでは、自分自身に向けた力そのものである「理念」は何も語らない。彼の理念の美へのエロスとして細やかな愛の表現をもってすれば、所有物にとって、みずからを叙述されることは副次的なことになってしまうからである。つまり、所有の手をのがれようとする理念は「所有」された時点で死んでしまうので、自ら発語することも自らの言語を哲学者にとどかせることも不可能になってしまうと言っていることになる。この理念の特性をベンヤミンは、「所有」され、意味づけされたら、もはや叙述することができない「存在」そのものの属性とみなした。

そこには認識が、問いかけの限界を前にして立ち止まり、中断し、途方にくれる瞬間が訪れる。こうした「存在」のあり方は「概念」の整合性や統一性とはちがって、対象への問いかけの届かない世界であるからだ。ここではじめて、わたしたちはベンヤミンが「概念」をどのように料理していたかをつきとめることができる。彼にとって「概念」は、経験的な対象を自らの意志で意味づける悟性のはたらきによって統括されているということだ。それに対して彼がやろうとしていることは、より形而上学的な取り組みということになる。彼の形而上学においては、部分と部分は切断され、極端と両極端は並べられ、中断と継続が文体へ共鳴する、そのような無垢な不連続の連続性の文体へ誘惑する。時間と空間の交わり自体、いうなれば、悟性が「ここ」と「いま」とを組み合わせた世界にすぎず、対象を「所有」しては、そこに投げ入れるくもの巣の糸にほかならないと言っているようにおもえる。細部と全体が共時的に振動する空間や継続と中断を同時に組み上げる母胎があるとすれば、それこそ理念をみちびきいれる場所であった。

 このようなベンヤミンの方法は、ドイツロマン派やバロック劇やの作品批評に適用されている。しかし、わたしたちは、彼の力を借りて、「知」の所有ということや文学言語の出自に関して、もっとイメージを膨らませることができるにちがいない。わたしは、所有されてしまった「知」こそ「概念」を意味すると前述した。つまり、その時点で「概念」の言語は伝達機能を不可避にまとってしまう。だが、「知」の永続性や未完成を意識し、ただ、「志向性」において言語が立ち現れる場合、そういう死後の世界までふまえられた言語においては、言語の伝達機能は限定される。そこから、ベンヤミンの「純粋言語」という類別がうまれた。彼は模写理論に見向きもしないで、翻訳について触れながら外国語の作品を母語になおすには、言語の親縁性や類似性は関係ないとして、言語作品の本質があくまでも永続性と言語の不断の生長に内包されていると考える。だが、諸言語においては、語でも文でも文脈でも、意味するもの、意味されるものなど個々の要素をみれば互いに排除しあう関係にある。それでも、現在においては互いに拒み、拒まれているものの、お互いの言語を含む作品が、死後のあるいは発語された時点の「志向性」において、親和してゆくところにおいて理解されるなら、翻訳はその「意味するもの」の制約を越えて、ある水準にたどり着くことができる。それこそが、伝達機能をとりはらったあとの高次の言語を予感することができるとされるのである。この高次の言語こそ、「純粋言語」と呼ばれた。

 ここでベンヤミンが言っていることを、わたしの「概念」の破壊という問題意識に照らして考えるなら、「概念」のレベルにおいては、二つの言語相互の交換は可能であるが、それでは外国作品に刻まれた歴史の総体と、母国語の言語の移り変わりの線分を除外しており、ただの伝達になってしまうというほどの意味に受けとれる。たとえば、ひとつは、「意味されるもの」を「家」と「house」の違いとして表わすなら、この場合、一対の同質的相異において空間的な距たりを意味する。そして、もうひとつは、なぜ、同じものを表現するのにふたつの違いがうまれるかという点に着目すると、「意味するもの」の時間的違和感を示すというわけである。だが、それでもこれらが互いに補完しあう認識の次元にのぼれば、言語は別の側面をみせる。つまり、自他の言語表現がめざしている到達点からふり向いてその「未完成」の段階がおのずと明らかになるそういう別の次元が想定されるということである。その次元が「純粋言語」というものの足場なのである。

ベンヤミンの言語表現の到達点が「理念世界」に正確に照合しているのは容易に理解できるが、それを言語表現のなかに繰りこむのは容易なことではないようにおもえる。なぜなら、それには二つの異なる言語の時間と空間の違和のすき間をくぐりぬけることが求められているからだ。これは二つの異なった言語のあいだの交換関係に限定されない。母国語同士、「家」と「海」との関係においても違和感は同じように表現されるにちがいない。「家をでて海にいく」の場合においても、「意味されるもの」である「家」と「海」は互いに補完しあい、同時に、その隔たりは明らかである。次に、「意味するもの」の側面では、「家」から「海」に展開するのに時間の経過が必要であり、「私」の時間的な違和感が起こる。しかし、もし、「家をでて海にいく」という日常の光景を叙述した文から、たとえば、「家はまったくもったいぶった孤独だから、ただっぴろい海の彼方に吊るしてしまう」というように変形すると、同じ「家」から「海」に行くにしても、まるで、秘密の世界に迷い込んだような気分にさせるのがわかる。つまり、シュルレアリズムにありがちな「意味されるもの」である「家」や「海」の指示する内容がまったく異なるだけではなく、その「意味するもの」の時間の足跡もみえなくなる。こうして、言語の位置を変えるだけで、日常世界は異物をさしはさんだように別様に映りはじめる。ただし、このような変形後の文にも、時間と空間の織りなす模様はうっすらと感じとれる。いわば、これは「もうひとつの時間」の存在であり、その時間が「概念」を吹き飛ばしているのだけははっきりみえるはずだ。

ベンヤミンに近づけば近づくほど、わたしたちの「概念」で覆われた煩わしさの世界から離陸したような気持ちになって小気味よいのだが、すこし反省的になると、「私」の存在を抜きにして言語概念は語れないのではとおもってしまう。ベンヤミンの虚空に吊るされた「理念」が、突然、降ってきたりする神秘体験におもねると、なぜ、わたしたちが、リンゴが「赤い」と形容されてわかったつもりになったり、アバタがどうしてもアバタに見えてしまう理由が心にとどかないからだ。つまり、一般的な概念が、どうして「私」の概念になるのかの説明がつかないのだ。その回答を与えたのはマルクスだった。

 

≪普通の人は、リンゴやナシがあるといっても、すこしも異常なことを云うとはおもわない。だが哲学者がこれらの実存を思弁的なやり方で実現するときは、なにか異常なことを云ったのである。かれは奇跡をおこない、「くだもの一般」という非現実的な悟性物から、リンゴやナシなどの現実的な自然物をうみだしたのである。いいかえれば、自分の外にある絶対的主体として、ここでは「くだもの一般」として、思いうかべられたかれ自身の抽象的悟性から、かれはこれらのくだものを創造し、かれが云う一つ一つのくだものの実在のうちに、かれは創造行為をおこなっているのである。≫『聖家族』 マルクス著 中野正訳

 

 ここでマルクスの言っていることは哲学者だけの問題なのだが、どんな人間でも「くだもの一般」から目の前のくだものに触れたり、匂いを嗅いだりしながら食べているにちがいない。ただ、哲学者とわたしたちがちがうのは、「くだもの一般」という抽象的悟性が生まれた経路については、個々人があずかり知らないことである。つまり、マルクスにおいては、哲学者は目の前の実際のリンゴやナシから「くだもの」という一般的表象がつくられ、その「くだもの一般」それこそが実在するリンゴやナシの本質であり、特殊な感覚的な区別は、もはや必要ないとおもってしまう思弁的理性の働きにつまずいたとされている。そして、マルクスは実際のくだものから抽象的表象である「くだもの一般」をつくりだすのはやさしいことだと述べている。しかし、今度、「くだもの一般」から実際のくだものを編み出すことは難しく、そのカラクリは哲学者の思弁の中に隠されている。思弁的理性はさまざまな個別の属性をもったくだものから「くだもの」という抽象物をつくったのだが、その概念が実際にいきいきとした内容をたもつためには、その概念から具体物であるくだものそのものに戻らなければならない。

そこで、哲学者は抽象物を放棄することになるのだが、実際は、放棄するようで放棄しない、放棄しないようで放棄する、より巧妙な手口をためすことになる。この際、たどりついた概念から元の道に引き返すのは、ためらいや自責の念がうまれるはずなのだが、思弁哲学は、実際のくだものは「くだもの一般」という本質の現象であると考えてしまった。つまり、実際のくだものは「くだもの一般」の生命のそのときどきの現われであり、その化身であるとみなされるのである。そうでなければ、「くだもの一般」はただの抽象物になってしまうから、生命の契機にかえるためには、どうしてもそのような解釈が必要だったのだ。こうして、今度は上記の引用箇所のように「くだもの一般」の方が、不断に実際のくだものの区別を産出しはじめる。

しかし、マルクスにとっては、そこから生まれた実際のリンゴやナシの属性は、悟性的認識が産みだしたヘーゲル的な弁証法の幻想にすぎなかった。ベンヤミンの「理念」よりはるか手前において、悟性的認識が人間にまとわって、「概念」を産みだすにとどまらず、その「概念」は実際のモノやヒトを操り、いわば、「概念の概念」をつくりだす世界がある。この折重なった思弁の罠をマルクスは、認識が「実体」を主体にして「絶対的人格」をとおしてしか世界を理解できない倒錯した思考方法とみなした。マルクスが、このような「絶対者」を必要とするキリスト教の神学にとりかこまれたヨーロッパという風土の中で、力ワザを要したのは、単に、哲学者の頭脳の中で展開される「概念」の拡張をおしとどめるためでも、リンゴやナシの特性を直感によってたしかめられることを言いたいためでもなかった。人間の社会や関係がいかようにも転倒され、歴史の重さや営みが、歪んだ像を当たり前のように呼吸する事実に還元されてしまうことに、憎悪をもって対抗したからだ。わたしたちの土壌は、「赤いリンゴ」と言うだけのことに、重層的な意味をくみとったマルクスの憎悪の大きさを正確には測るにはあまりに貧しい環境しかなかった。かつて、江藤淳は、サルトルの『嘔吐』を病者の文学と呼んだことがある。このとき、江藤はこの病者の憎悪が必要である認識論や存在論の系譜が、彼地にはどれだけうずたかく積まれているかについておもいをはせることができなかった。それは、後に、彼がほんとうの「日本的なるもの」とは何かを探る手間を惜しんで、「日本」という概念の「実体」のもと、そこから流れくだる「日本的な」ヒトやモノの「定在」を与えながら、「有機的な共時的時空間」の系列をなした絵巻物を描くになったことにおいて十分に証明された。

 

3 沈黙の意味と概念

 

 わたしは概念と言語をおなじものとしてあつかってきたのだが、それらのあいだは薄い皮膜のようなものでさえぎられている。概念は言語を要するし、言語にも概念が必要だが、その皮膜は「こころ」の震えのようなものに感応する。言語の本質がこの種の震えを含まないとしたら、あるひとが失語症のように沈黙の淵に落ち込んだり、あるいは一見意味のなさそうな饒舌を繰り返すのをよく理解することができない。そこで、わたしたちは人間の認識領域に足を踏み入れることになるのだが、この場合の「認識」は、ベンヤミンが批判した「知」と結合した認識のことではなくて、「こころ」の内部に波動のように揺れて、いまはまだ、言語の形をなす以前のささやきのようなものを指している。だが、このささやきを推し量るのはなかなか難しい。その理由は、ひとは産れたときから無意識の認識(こころ)の領野を言語とともに拡げてきたと考えられるからである。そのため、認識の深まりは、言語の分節化とともに歩んできたといわれるようになった。だから、ここでいう認識と言語をまったく別のものとして先後関係を問うこと自体、意味があるとはおもえない。 

ところが、ひとはある場合には、憂鬱な心の中とまるで相反する楽しい言語を喋ったり、心は過去を向いているのに、言語だけは未来を予測するようなことも起こりうる。小説家などは、始終、そんな嘘を撒き散らせている種族といえなくもない。もっとひどくなると、金縛りにあったように言葉が浮かばなくなり、あたり前のように沈黙する日々が続いたり、心の中のものを伝えることができないもどかしさにとりつかれることがある。その場合、言語を沈黙として示さなければならない心の内側によりそって好意的に解釈すれば、「沈黙の言語」という風になるのかもしれないが、言語に二つの種類があるとするのは、心に意識と無意識があることから類推された結論にすぎない。つまり、乳幼児から堆積された心の層のようなものが一定の言語を指示して発語されると考えられているのだ。それなら、むしろ、沈黙は一方の言語の欠損ということではなく、無意識の心の過剰や欠損の裏づけとして理解されるべきものであり、たとえ、それは言語の質を決めたとしても、無意識そのものが言語を産みだしたとは考えられない。

このように言語は、心とまったく無関係に考察することも、混同してしまうこともできない不安定なものである。言語と心はあるときは関係をむすんだり、関係しなかったりのグレーゾーンを包みこんでいる。もし、その中間領域をとおして言語が、心と言語自身に向けて双方向に流れると考える場合のみ、言語と心をつなぐその結節部に、ある共通の通路が開けるとおもえる。

わたしたちは、既に、「概念」が言語の過去形であること、それ以上に「概念の概念」が言語の反芻以外ではないことを知った。また、それは心のあり方において、現在の「私」がおかれた位置関係において、「いま」、「ここに」という意識の希薄さが後ろ盾になっていた。これらいずれからも、「時間」の流れが関与しているらしいことがわかる。いちばん辿りやすいのは、わたしたちの日常に流れる「時間」の場合である。現在のわたしたちにとって、「時間」はまちがいなく心のあり方を浸食している。なぜ、わたしたちは、なにものかに追われるかのように、前へ前へつんのめるような生き方を強いられているのか。資本主義の自由競争原理?それとも、消費生活の拡大による欲望の肥大化(?)であろうか。しかし、これらは結果であっても原因ではない。マックス・ウェーバーは「時間」の吝嗇に懸けて、プロテスタンティズムと資本主義の精神をつないだ。

 

≪彼らは旧約聖書にならい、また「善き業」の倫理的評価からの類推をもって、目的としての富の追及を邪悪の極地としながらも、職業労働の結果としての富の獲得を神の恩恵と考えたばかりではない。これはさらに重要な点であるが、たゆみない、不断の、組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲的手段として、また再生者とその信仰の正しさについてのもっとも確実かつ明瞭な証明として、宗教的に尊重する立場は、われわれがいままで資本主義の「精神」とよんできたあの人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆とならずにはいなかったのである。≫『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 マックス・ウェーバー著 梶山力、大塚久雄訳

 

ウェーバーは、プロテスタンティズムが無頓着な所有の享楽や奢侈的消費を排除するばかりか、さらに無駄なお喋りの時間や労働以外の休息時間さえも削ぎとるような「時間」の吝嗇を前にして、わたしたちのおかれている世界との倫理的同質性を見取って比較している。確かに、この宗教的熱情は、神経症的であって禁欲的な生活態度の徹底さにおいて、わたしたちの「時間」を手前に手繰り寄せようとする意識のあり方とどこか似かよっている。ウェーバーが資本主義を、富を所有すること自体にあるのではなく、どのように速く世界に馳せ登るかという側面から、「時間」の獲得競争とみなしていたことは疑いない。だが、わたしたちの資本主義は、「時間」は過去と現在にわたって封じ込められているから、禁欲の果ての未来に神の恩恵を期待することはできない。わたしたちの世界にゴールはどこにもないからだ。そういう「時間」の所在は、マルクスにも同様に語られているのだが、マルクスの場合は、職業労働の倫理さえ押し流すように、資本主義が自らの魔法の力を解き放ったものの、制御できずに引きずられるように不可避に前に進んでいく世界像となって現れた。

マルクスにとって近代ブルジョア社会は、生産用具や、生産関係をたえず革命していかなくては生存しえないものであり、その結果、社会状態の絶えざる動揺や不安定が不可欠の構成要素となった。そればかりか、生産用具の改良にともなって、あらゆる国々との交通が容易になり、資本は市場を求めてどんな未開の民族をも文明の中へひきいれ、世界を単一の欲望と消費の坩堝に塗りかえた。こうして都市は農村を包囲し、資本はそれぞれの民族を支配した。わたしたちはこの世界像を、資本主義の原型と呼び習わすのであるが、その上にもうひとつ、絶えざる運動の加速という補助線を加えると、いわば、過小な「時間」と支配する過大な空間の不均衡という資本主義の図形に変換できるようにおもえる。それは、わたしたちの社会の動的な均衡やダイナミズムが、いつ貧困におちいるかわからない不安にそのまま内面化され、絶えず「時間」に脅迫されながら、そのことが直接、富の獲得に結びつくことはなく、ただ、モノやヒトとの「関係」の異変が日常化し、その異常性に慣らされた世界を思いえがくことができる。つまり、この社会においては、「時間」の異変は、社会的関係の中で、まず、人間と自然との関係、人間と人間との「関係」に投影される。

 マルクスは、自然の「人間化」と人間の「自然化」として、人間と自然とのあいだの相互媒介をとおして時間の問題を提出した。「時間」とは自然に対する人間の働きかけと受容することの相互性の交点に生まれるものであった。人間はこの関係の相互媒介をつうじて自分たちの時間を刻んでいく。もし、この自然史的過程において、自然と人間の均衡が破れるとすれば、「時間」受容の異変が生じる。この異変の原因を、マルクスは商品社会や私的所有に求めて批判した。

 しかし、わたしは、この自然史的過程においては、道具としての技術は、人間の社会的関係へ離脱していく過程で「私」の中に移しかえられた「時間」そのものとして現れると考える。つまり、一旦、社会史的過程に入り込むとき、技術は、それによって受容されるものと、技術そのものの高度化との間に不均等を生じることで、「私」たちに必要以上に「時間」の加速化を感じさせることになる。この時点において、「時間」の加速化は、一方で、技術の高度化をまねきよせるとともに、資本の回転・流通、消費のリズムに応じて、大衆消費社会の原因であるかのように現象的には表れてくるのだ。ここにおいては、「時間」は絶えず先送りされて、「時間」の持続そのものが現在を脅かしていることになる。これは現在が不在と呼ぶことも、反対に、すべて現在によって満たされた世界と呼ぶことも可能だ。このことを理解しないかぎり、現在の世界の自由や拘禁感が由来する背景の認識について誤差を孕んでくることは確かだ。江藤淳にとって現在の苛立たしさは、戦後世界の外的な拘禁感からもたらされているかのように幻想されているが、そうではなく、戦後の大衆社会そのものの「時間受容の異変」にこそ求められなければならず、その言語観に誤認があったのである。

 わたしは、この社会の「時間」の加速化による「時間受容の異変」にこそ、沈黙のほんとうの原因があるとおもっている。しかし、この「時間」による心の侵食はよくみると、決して単色ではないことにおもいあたる。つい先頃、反原発デモの際、柄谷行人は、街宣車の上から、自分の学生の頃(1960年頃)にはデモは日常の風景のように頻発していたが、「最近は」国家に対する直接的な意思表示が影を潜めている。だから、この原発反対「デモ」の意思表示そのものに意義があるとアジっていた。You tubeで見たかぎりで内容を要約すると、沈黙は沈黙を許している、真に国民主権を勝ち取るにはデモをすることである。デモによって何が変わるかというと、それはデモのできる社会に変えることができることである。とにかく自分たちが主人公になってはっきり意思表示して、そこから次の方向性を引きだすほかはない。それこそが真の民主主義だというような意味づけだったとおもう。柄谷の言っている「最近は」という過去の幅は、1960年安保の時期から数えているから、あまりに沈黙の期間が長すぎるとおもえるのは当然で、デモの若い参加者たちは、彼の強引な真意をはかりがたかったのではないかとおもう。

しかし、柄谷は、3.11の大震災が戦後史を区切る重要な転換点になっていると考えたからこそ、こういう言い回しが生まれたはずだ。つまり、わが国の戦後の周期は一回りしたという感慨が根拠になったのではないか。いいかえれば、わたしたちの認識の土台になってきた「時間」意識が、今回の大震災によって阻害され、直線で進むかにみえた時間の流れが停止した。1990年のソ連邦の崩壊のときは、この「時間」意識を追い風にしたところで生じたため、ごく少数のひとたちのパニックで終わったのだが、今回はそれとちがって、このわたしたちの認識が正面から逆風にあたって、今まで保有していた沈黙の意味を失ったのである。だから、柄谷は、その残骸の割れ目から見えた、生きること死ぬことの意味をとおして、原発反対の意志を素直に表明したのだとおもう。もっと理論めかすと、分厚い沈黙の層土は割れ目をつくり素地を垣間見せた。

カントに依拠する彼の認識論からすれば、「とらえることができないモノ自体」という観点によって、不可知論とスレスレのところで、今回の大震災がもたらしたシステムの断絶や数万人規模の死の空洞に直面し、さらには、原発事故の蔓延に対する未来の不安や恐怖がかさなって、デモの呼びかけにつながったにちがいない。彼が文筆の意思表示ではなく、「街頭の意思表示」を選んだのは、この人間の生死の「モノ自体」の触感を見とどけたいためである。「モノ自体」は肉体や身体につうじるといってもよく、その自由や不自由と並んでしかみえないからだ。

 わたしたちは、ときに、言語の沈黙と肉体の沈黙とはどちらが重いのだろうと考えることがある。これは心と言語の距離と心と肉体の距離のどちらが長いかという設問に言い換えることもできる。肉体の沈黙の方が比重や密度が大きいとしている柄谷などは、当然、心と肉体の距離の方が大きいと答えるにちがいない。しかし、この距離感の認識をそれ自体としては測定することはできないから、わたしたちは、これを概念の距離感にゆだねて読みとらなければならない。たとえば、柄谷は、「疑い」の場所を「私」でもなく、「私の内省」でもなく、「経験的事実」でもない三者の間隙にみいだし、この超越論的」な主体の位置を「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」と呼んだ。

 

≪超越論的批判は、それによって見いだされる諸能力=働きとは別であり、そのどこにも位置していない。それなら、批判はどこから来るのか。それはいわば、カントが立っていた「場所」、すなわち、経験論と合理論の「間」から来るのである。経験論と合理論は、彼にとって二つの学説ではない。彼が出会ったのは、世界内にあることと世界を構成する主体であること、つまり、フッサールが出会ったパラドックスである。しかし、それはカントを「強い視差」を通して直撃した。カントの「批判」はそこに始まる。彼にとって、「批判」は「批判しつつ在る」こと、そのような外部的実存と切り離すことはできない。≫『トランスクリティーク』 柄谷行人著

 

この経験論と合理論の「間」の瞬間というのが、柄谷のトランスクリティークのキイワードである。この「外部的実存」は、「内省」との「視差」にたちどまる。その一瞬の立ち止まりから覗かれるのは、何ものにもとらわれることのないアプリオリな「物自体」または「他者」である。この視線は「内省」のように、「疑う」私と「疑われる」私の段差を含んでいない点で、いわば空間的な無な場所のありかを指し示している。「疑い」の場所をさがそうとしている柄谷には、「疑い」は、必ず、疑っている「私」を疑うことができないアポリアにおちいることがわかっていた。だから、デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」と言わざるをえなくなったとされる。デカルトは、すべてを疑おうとしたにもかかわらず、そう考えている「私」は疑いうるもの以外でなければならないことに戸惑った。このデカルトの独白に対して、柄谷が指摘したのは、「疑う」ことと「思う」ことの区別がないから、「私」と「疑う」ことの自明性が崩れてしまうことだった。なぜなら、デカルトに疑いを強いているのは、彼が住んでいる環境であり、共同体における「他者性」にほかならないことを認めているからだ。

ここでデカルトは、「疑う」ことが真であるかぎり、「私」は「疑う」ことと直接的に対面しなければならなかった。それに対して、柄谷は、「疑い」の初源まで遡れば、「私」は「私」から剥離するはずだと考えていることになる。デカルトの曖昧さに対して、柄谷は、いうなれば、デカルトが退けられないモノとして想定した「主観」に「上書き」されるような「主観」、つまり、統覚Xを対置したのである。この主観は表象されえないものであり、カントには形而上学的核心を携えた武器とされたのである。わたしたちは、「私」からの「私」の剥離ということについて、概念の水準や形態として二つの側面から取り上げようとすれば、どのようになるかが試されている。

まず、概念の幅や距離感について考える場合には、対象物は概念によって取り込まれ、いかようにも拡がりをみせることを肯定しなければならない。マルクスは『聖家族』の中で、リンゴやナシから「くだもの」という一般的表象が作られた時点で、実際の目の前の感覚の特殊な対象であるリンゴやナシは現象の影に隠れ、「くだもの一般」こそ、さまざまなくだものの本質とみられるようになると述べた。だが、「くだもの一般」という表象で一般性を印象づけているマルクスは、表象や概念にとって一般性の階段の上限はどこにも見当たらないことを付け加えるべきであった。もともと、「リンゴ」という概念にしても、私の目の前のあるリンゴに対する認識とは異なっており、概念としてみられた場合、その分量だけこのリンゴの特殊性は無視されている。もちろん、認識にとって感覚的な属性を保有していながら、それとはちがう共通性としての「リンゴ」が並んで認識の対象になっているにはちがいない。「リンゴ」の概念の個別性は、このリンゴの存在のあり方によって、なお既定されている。

しかし、一端、リンゴが「くだもの一般」にすり替わるやいなや、それ自体、一層、包括的な「作物」や「食物」というようなより普遍的な概念を付与される。その結果、「くだもの一般」さえ、特殊な概念として遠景に退けられるようになる。このようにして概念は、たえず、認識の中で遠方に向けて飛躍しながら、より広い視界に位置づけられるようになる。それに応じて、それらの概念は、次第に、人間の五感ではとらえられないようになっていく。もし、この認識の過程を「このもの(リンゴ)」→「もの」→「モノ」や「コノひと」→「ひと」→「他者」とそのまま上昇していけば、やがて認識は具体物からもっともへだたった「モノ自体」、「他者一般」にたどり着くのは容易に予想できる。しかし、このような認識や概念の抽象化の過程自体は、思弁的でも観念的でもない。いわば、人間にとって不可避な道のりにすぎない。マルクスが思弁哲学とみなしたのは、今度は、「モノ自体」や「他者」などの概念が、実際に現実のものとして動き回らなければならないとして、意匠をこらし息吹を吹き込み、具体物の誕生であるかのような作為がなされたときである。

ひとは具体物からさまざまな概念を産みだすうちに、「モノ自体」や「他者一般」があたかも実在しているかのように勘違いして、その像をさがしもとめる。対象物から認識への往路のうちには、概念の確かさが保障されていたのだが、復路をまたぐとき、対象物は「もの」のすべてであったり、「ひと」のすべてであったりして、どこをみわたしても存在しない「モノ」や「ヒト」に対面することになる。このため、「モノ自体」や「ヒト一般」は一人歩きをはじめる。そこから、現実には存在しないにもかかわらず、概念としては「モノ自体」は別のものであるから、必ず、存在するにちがいないと思い込むようになる。そうして、目を凝らし耳を澄まし、感覚の隅々をそばだてて、それらの事物との奇跡的な邂逅を期待するような気持ちにおちいる。これらの認識は人間の被造物でしかないものに魅惑されて手足をあたえるかわりに、自らの方がよろめき、そのうち呪縛され、進んで困難をひきうけて、神学の世界や形而上学に道を開いた。認識や概念の空間の拡延化は、その危険水域をこえて、わたしたちの世界を逆さまに映すことになった。

 サルトルなどもハイデッガーの死の概念に触発されて、マルクスと同じように哲学者の概念の普遍性が陥る詭弁を批判している。それはわたしたちには、「死」の恐怖をもって、ひとを恫喝する方法への批判に映る。

 

≪要するに、私の死にのみ特有であるような人格構成的能力は、そもそも存在しない。むしろ、まったく反対に、死は、私がすでに私を主観性のペルスペクチヴのなかに置いている場合にしか、私の死とならない。私の死をして、代理のできない主観的なものたらしめるのは、反省以前的なコギトによって規定される私の主観性であって、決して死が、私の対自に、代理のできない自己性を与えるわけではない。この場合、死は、まさにそれが死であるがゆえに、私の死として特徴づけられることはできないであろう。したがって、死の本質的構造は、死をして、われわれが期待しうるような、人格化され資格づけられたかかる出来事たらしめるに、十分でない。≫『存在と無�』J=P・サルトル著 松浪信三郎訳

 

 これはハイデッガーの現存在が、日常的な非本来的なものから本来的なものに移行する際のプロセスにおける死の個別化に関わっている。サルトルは、ハイデッガーのやっている手品の種明かしをしながら、死の個別性と一般性の矛盾を突いた。サルトルによると、ハイデッガーは死の一般性から出発して、だれも身代わりのできない一人の人格の死について語る。そのあとで、現存在の個別性をもちだす。つまり、死の個別性の後で、自己の死の可能性に向かう現存在の投企がされているというのである。サルトルからすれば、このような死の個別化から現存在の個別化が引き出されるのは、逆転した物謂いになる。なぜなら、サルトルは死の攪拌によって、恐怖やら漠然たる不安のような気分に支配されるのを嫌っており、死の一般性概念や死の個別性が、現存在よりも前に設定されることを認めないからだ。つまり、死の概念が個別性であったり一般性であったりするのは、まず先に、現存在の投企があったはずだから、この場合、死は当然、わたしの死以外は根拠をもたないとしているのである。死は自己の主観の中の映像にしか存在しない。ありていにいえば、死が恐怖であったり不安につながったりするのは、それが死だからではなく、自己がそう考えているにすぎないからであって、あたかも死が実在するかのように強迫するのは自己欺瞞であると論難した。

このように、先に「私の主観性」が生じるということに関しては、わたしには、サルトルの言っていることに分があるようにおもえる。むろん、ハイデッガーのように日常性と本来性を類別化し、日常的な存在から本来的な実存への通路そのものに立ちふさがった困難を、死が媒介にすえられることで、心の段差をのりこえると称する併存がなされることに、当然のように疑義が生じるからだ。しかし、サルトルの「実存」という概念の提出のされ方においても、人類が原始から築き上げられてきた意識の発生史や個体史の意義が置き去りにされているようにおもえる。いうなれば、あまりに死は乾いていて慣れ親しんだ概念への触覚のようなものが欠如しているのだ。これを証明するためには、死の意識についての切実さを秤にかけながら、他者の死を前にひとがどう考えるのかを具体的に想定すればよいようにおもえる。たとえば、ある人には自分の死期が予期できても、他人のそれにはそれほど切実でない場合、もうひとつは、ひとりの人間においても、ある時は切実であっても普段は切実でないことがある。このアンバランスをどう理解すればいいのかということに答える必要がある。つまり、どうしようもなく、死は親族、隣人、友人の死によって触発されることをどう考えればいいのか。そのとき、他者の死はサルトルのように全くの匿名性とみなすこともできるし、ハイデッガーのように心が激震に遭遇する体験にもなりうる。これには心の二重性ということが深く関わっていることが想像できる。

 

4 言語の論理学

 

 わたしたちは、いろいろな色彩の微差に取り囲まれているのだが、ここまでは赤いリンゴ、ここまでは青いリンゴというように、いつのまにか感覚器官が色彩に一定の幅をもうけて了解している。このような了解がおこなわれるのは、実際には、個々別々のリンゴの全体像がありながらも、写真や映像とはちがって色の自然な線引きがなされ、つまり観念的な抽象化がおこなわれている証拠である。感覚的にはまったくちがった種類のものが並べられ、これらに「くだもの」一般という概念を与えたときから、人間の認識領域においては、この概念はますます抽象化しながら、普遍世界をかたちづくるようになる。そうした概念における抽象化した認識が、言語表現にみちびく出入り口になってくる。概念と呼ばれる認識は、ある面においては個別の属性を枝葉のように削ぎ落し、取捨選択しながらより普遍性に近づいていく。そのような概念そのものは、感覚や表象をつうじて感性的なものから産み落とされたものであるにもかかわらず、実際のリンゴやナシの変化や消滅とは関係なしに、頭の中で自由に動きまわることができるのである。

それは感性的な対象物と認識が独立して互いに対立していることを示すものだが、個々の認識がそれぞれ独自に理解されるためには、それらの対象物がそうであるように、互いに正しく区別されていなければならない。そのため、今度は超感性的な認識を区別するために、自然発生的に感性的な手がかりを付与することになった。つまり、対象である犬やネコが擬制語として「ワン」や「ニャオー」となるのは、認識における一般的な概念の働きが、聴覚や視覚と結びつき、感性的なありかたとして言語表現における音声や文字のかたちに結実したものだ。

 

≪概念は超感性的でありながら感性的な手がかりを必要とするという、人間の認識それ自体の非敵対的矛盾が、概念を直接に表現しようとする言語表現においても、この認識の矛盾に照応した表現の矛盾を要求してくることになり、音声や文字が種類として超感性的でありながら具体的な感性的なかたちを持つということになったのである。≫『認識と言語の理論』三浦つとむ著

 

 ここで、「非敵対的矛盾」とされているのは、三浦の弁証法の語彙である「直接的同一性」、「媒介的統一」、「相互浸透」などの中の、「矛盾」のあり方を指しており、そこでは非和解的な敵対性と、本来、おこるべくしておこる解決可能な非敵対性の矛盾を区別するものである。概念が音声や文字に変わるとき、同時に、個々の言語自体が言語表現と非言語表現の二重性をつくりだす。三浦の場合、それが矛盾の背後にある人間の認識構造の特異性をたぐりよせる契機になっている。そのうち、言語表現の側においては、言語は対象物の感性的な模写ではないのだが、反面、その主体的立場のあり方を抜きにしても、言語は成立可能である。三浦は、そのような矛盾のさまを時枝誠記の国語学の力を借りて、「主体的表現」と「客体的表現」という二種類の言語形態によって区別した。つまり、写真や絵画のような主体性と客体性が混淆した表現と比較しながら、単語が個々に独立して分離される認識構造をもった日本語の言語表現の特異性を意味づけたのである。それを時枝は、表象を表わす言葉=「詞」と主観を表わす言葉=「辞」に大別する。この「辞」とは、てにをはなどの助詞、助動詞を指し、他の名詞、動詞、形容詞などの品詞である「詞」のちがいとして、さらに「辞」が「詞」を包み込む構造を「風呂敷型統一形式」として意味論の俎上に挙げた。

たとえば、次の「学生らしい」というおなじ言語について、その認識構造はまったく異なってくる。

 

�@  彼は学生らしい態度をうしなわなかった。

�A  昨日訪ねて来たのは学生らしい

 

�@の「らしい」は接尾語、�Aは推量の助動詞となる。ここでは同一の語彙が、意味する内容が異なっているばかりでなく、�@では話し手が対象である相手の様子を語っているだけだが、�Aの場合には、話し手が対象としている人間について、「学生」みたいな、あるいはそう感じられるという主観を交えている点である。このように客体の反映としての認識の表現が客体的表現となり、それとは相対的に離れたところで、感情や意志の表現が主体的表現になる。というのは、三浦は、日本語が膠着語に属しており、表現構造が単純であって、ヨーロッパの言語のように動詞の語尾変化にように客体的表現と主体的表現の両方が癒着した構成になっていないところに原因を求めている。そのため、外国の言語の現象的な違いを抜きにして、ソシュールや構造言語学などを日本語に適用させるのは無理とした。

 三浦がなにより着目したのは、時枝の言語過程論と言われるものだ。時枝の発した疑問は、言語の本質とは何かということからはじまって、言語は音でもなく文字でもなく、思想でもなく、それらの連関と構造こそが、言語学の対象とみなしたことである。わたしたちは、小説や論文の内容をつかむため、その内容に結びついている作者の頭の中の認識へ、描かれた対象や時代背景へと関係を遡って読み解いていく。つまり、言語としての文字は言語表現を逆にたどっていくための手がかりを与えてくれるものだ。これをもとに作者が表現した観念的世界の近似点にようやく近づくことができる。そこから、三浦は、たとえ文字や音声の形式をもっているにしても、言語は本質的には実体的なものではないと定義する。その観点から、マルクス主義が模写論や反映論におちいっており、ソシュールなどの記号学が、言語は表現される前にあらかじめ頭の中に貯蔵されて、それを使うときはじめて、国語辞典の中に収められた言葉の引き出しから取り出すかのように考える言語道具説を批判した。そうして、三浦は対象-認識-表現の過程こそが言語の構造的成り立ちとみなしたのである。記号学のような形式主義は、三浦にいわせれば、関係概念の取り扱い方を知らなかったがための誤謬にすぎなかった。

 

≪音声や文字を見ても、そこにはもはや対象や文字とを切りはなして、そこには「形式のみあって全く無内容のもの」という考えも生まれたのですが、対象から認識への複雑な過程的構造が音声や文字に目に見えない関係で結びついているところに、言語表現の内容を見、「意味」の存在を認めるのが、ほんとうの言語過程論です。≫『日本語はどういう言語か』三浦つとむ著

 

 三浦の言語過程論を要約すると次のようになる。まず、感性から次第に高度な認識の一般化までのぼっていく認識論にはじまり、現実の対象物から抽象されて普遍的概念が分析される。そうして人間がその概念を組み合わせて判断を下すようになると、その判断は、個別的、特殊的、普遍的に腑分けされる。次に、その判断は観念的に対象化され、逆に、下降し、感性的にとらえられる言語表現になっていく。それには、言語規範が媒介されなければならないから、恣意的な選択の余地はなく、その言語規範は表現内容にかかわるものと、表現形式にかかわるものに二重化されている。その際、表現内容とは、主体的表現にかかわるもの、客体的表現にかかわるものに分けられる。一方、表現形式になるのは、音声=音韻、文字=字韻というものだ。以上の対象→認識→言語のコースこそが論理的=歴史的な科学にならって、立体的に構成された言語表現のありかたを示すことになる。

 時枝誠記は言語過程論の立場からソシュールの記号言語論を激しく批判している。彼は、ソシュールが方法的に自然科学的な原子論的構成論をとっているため、ラング(言語)概念を聴覚映像と概念(意味)の連合した実体のようにみなしているとした。ソシュールは、いわば、ラングがあたかも頭のどこかに潜在的にプールされ、それを使用するパロール(言)によって、個々の意味が限定されるかのような考え方をしているからだ。それなら聴覚映像と概念(意味)はあくまでも並列的な関係をもち、言語というものを構成する要素になってしまう。それに対して時枝は、言語は人間の外にちりばめられ、組み立てられた要素の束ではないと反駁した。つまり、言語は主体の外側にプールされ、使いこなされることをまっている道具ではない。時枝は、言語の存在条件として、まず、�@主体(話し手)�A場面(聞き手及びその他)�B素材の三者を上げ、主体がこの素材を場面に応じて聞き手に伝えやすいように変形・加工する「主体的な機能」にこそ、言語の本質があると考えた。 

言語においては、概念や思想はあくまでも外側にあるものであり、それらについての概念作用、あるいは意味作用にこそ言語の本質をもとめたのである。しかし、ソシュールは概念と聴覚映像が概念化するという結果から出発し、逆に、それらが結合したものが前もって、心的実体として存在するかのように誤解したのである。時枝は言語表現とは、主体の聴覚映像→概念、概念→聴覚映像として繰り返される継起的な精神生理的過程現象であり、聴覚映像そのもの、または、概念そのものに言語の実質があるのではなく、それらが継起する過程に具体的な言表行為があるとした。いわば、言語は概念や思想を導く水道管のようなもので、形式のみあって内容のない形式のうちにこそ言語過程論の根拠があるとしたのである。彼は言語過程を基本的な心的過程として、つぎのように図式化する。

 

(話し手)

 具体的素材、表象→�@第一次過程・概念→�A第二次過程・聴覚映像�B第三次過程・音声→�C第四次過程・文字→空間伝達過程

(聞き手)

空間伝達過程→�@第四次過程・文字→�A第三次過程・音声→�B第二次過程・聴覚映像→�C第一次過程・概念→具体的素材、表象

 

 この場合、話し手と聞き手はまったく同じ過程を逆にたどっていることがわかる。つまり、話し手の話す対象である具体的素材や表象は、一旦、抽象的な概念に翻訳されて、それが音声、文字に結びつき、聞き手の手元に届くのであるが、このとき、話し手が想定していた具体的素材、たとえば、本、机などは、音声や文字をつうじて、どこにでもある一般的な概念として聞きとられ、読みとられるにすぎないが、話し手がどういう状況や感情でこの本やこの机のことを語っているのかを追体験して、はじめてその本その机にまでとどくことができるものである。その意味で、聞き手は同時に話し手であり、また、話し手は主体的動機として具体的素材のことを聞き手にわかりやすいように示さなければならないから、同時に、聞き手にもなるという相補性が存在している。

三浦は、こういう過程的構造を前提にしてはじめて、言語の「意味」を説明することができるとする。意味を概念や心的状態とおなじく実体と解すれば、概念の持ち主である話し手、書き手がいなくなると意味が消え失せることになるし、また、言語を単なる記号であるかのようにあつかえば、聞き手や読み手によってたくさんの意味が生じて、誤解というものがないことになる。それなら、「意味」とは話し手、書き手と聞き手、読み手の相互関係の間にあると言わなければならない。つまり、意味とは、話し手がなんらかの概念をもって、音声や文字に写そうとするのであるが、その概念の手前には、話し手のいろいろな具体的事物や事件との関係をもっているという客観的事実(場面)がある。その関係は、同じ事物や事件であってもさまざまな角度で関わり、その関係に応じた語彙をつくり、また、過去の事物や事件に時間をさかのぼって関係をもつ。むろん、未来の出来事の予想にも関係を結ぶ。これらの事物や事件総体との関係は、手でつかむことも目で見ることもできないが、「意味」を生じるのはこのような客観的な関係自体であると言われている。

 たとえば、これを三浦つとむ流に、「私」と「テレビ」という事物とを関係づけて言語表現から読みとることにする。

 

�@  テレビある

�A  テレビある

 

 この「が」と「は」の単語はそれぞれ助詞であって主体的表現をさしている。ここではその表現の差によって微妙に意味がちがってくる。「が」は、私がテレビいう事物と関係を結ぶことであり、たまたま、見上げたときテレビの存在に気づいた関係が読みとれるにすぎない。つまり、「は」とくらべて限定的な使用法となる。ところが、「は」というのは、テレビのほかにいろいろな家財道具があって、そのうちテレビという事物はもっているという広い世界を前提にして成り立っている用法になる。それはテレビのみに関係をもっている場合と、冷蔵庫や洗濯機とも関係を結んでいる認識の関係づけの差異とみなされる。これよりさらに主体の位置の往来が激しくなると、一人称や時制の問題がからんでくる。同じくテレビを見ているのだが、今度は、存在そのものではなく映像を見ている場合である。

 

 私はテレビを見

 

 一見、何の変哲もないようにみえるが、三浦は、一人称代名詞の「私」は主体そのものではなく、主体の客体化(対象化)したものであるとした。そして、現実の「私」は「私はテレビを見た」と表現をしている話し手であるとする。この主体は観念的に分裂しており、その対象化された「私」が向こう側にいてテレビを見たり、本を読んだりしていることになる。しかも、この場合は過去の出来事であり、時制の問題が関係してくる。直接、現在の時点でテレビや本の対象に関わっているだけではなく、主体が、想像の世界や過去の世界と地続きになっている。表現者の「私」は対象化した過去の「私」とも対面しており、「テレビを見」という過去の時点の対象者「私」に表現者の「私」が現在形で対面し、そののち、表現者の「私」は現在の「私」の位置まで戻り、それが過去の出来事だったことを表現して、「た」の助動詞を使うというわけである。現在の時点aから過去の時点bまで「私」が行くと、そのときの「私」とは現在であり、そのあと、bからaに戻った時に過去の出来事であることがわかるというものである。

 そこでは人間が想像をめぐらしたり、夢の世界へ行くこと、未来の予測をするときもまったく同様に、自己分裂した「私」が想像や夢の世界を対象化し、そこから現実へ戻ってくる過程そのものが、表現の意味ということになる。ともすれば、時間的な経過は対象としての「私」の経過としてのみ現われ、表現者とはかかわりをもたず、表現者は一点からどこにも動かないというように見えるが、実際は、表現者としての「私」は時間の経過とともに過去や未来に動いている。この相対的な時間がこの一文に関与する時間である。というように聞かされると、わたしたちは、観念的に分裂した二種類のちがった時間に取り囲まれているようにおもえてくる。だが、三浦のbaabと往来する時間は、一本線のように結ばれているからこそ、往来できるのだということを忘れてはならない。逆に言うと、テレビという事物をつうじて、「私」が二人いるというように考えれば、表現者と過去の「私」は直線で結ばれる。こういう時間の流れは、基軸的な時間が信じられていなければ維持できない。万が一、時間が現実の事物にそなわっているものとして客観的に存在しているものではなく、主観との親和的な「関係」が損なわれたりしたときは、過去、現在、未来は折り畳まれた、ただの形式でしかないもののように見えはじめる。

 

≪時間は基軸的なものであることをやめて、順序的なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定でなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。…中略…≪私≫の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって<これを最後に>順序づけられる<前>と<後>である。≫『差異と反復』ドゥルーズ著 財津理訳

 

ドゥルーズを知らなかったずっと以前から、わたしたちは言語の異変に気づいていた。その様子は最初、言語の過剰に映りはしたものの、よくみると言語の枯渇への怖れのようなものに対する代償行為におもえた。彼の『差異と反復』によって語られた時間は、ただの形式となって見えない敷居の前であらがい、やがて、それが当然であったかのように「概念」の解体劇が進んでいく。というより、「概念」への反逆は、この場合、「概念化」への拒絶、言語が一般性にはせのぼる階段そのものを阻止しようとする強い意志に満たされている。三浦つとむの言語論からすれば、観念的に自己分裂した「私」が時間の法則におかまいなしに、いつまでも現実の「私」のもとに回収され統一されることなく、もう片面の「私」と断ち切られること、それ自体が、「私」の空無の根拠にされてしまっているのである。ひとはどんな場合にも夢想し、想像をめぐらし、まったくの別世界に入り込みたい衝動に駆られる。それを防ぐことができない意味において、病者と健常者にちがいはない。ただし、ドゥルーズが観念的自己分裂を認めないのは、差異を否定と否定の否定ではなく、まったくの肯定の対象であるとする場合、肯定それ自身における差異として、自己分裂が創造=発生されなければならないからである。

このような目的で、彼は同一性に対抗するものとして「反復」という負の色調を塗りこめた。この「反復」は、概念の主体の一貫性も対象の一貫性も排除し、ただ、一般性に対抗するだけの動機にされた。彼は「概念」の一般性を阻止するのは、この「反復」をおいてほかないと自信ありげである。概念の同一性を解体する「反復」の本質とは、ただ同じものが繰り返されるのではなく、概念の差異にすぎないものと、概念を破る「理念」の内部での差異とのあいだの差異であり、「理念」の過剰を裏づける肯定的な反復である。そこで、当然のように二つの時間は折り合わないから、それを維持・増幅するために、ドゥルーズの時間には二つの時間が交差しないような作為が張りめぐらされている。その秘密は「前」と「後」の「中間休止」のあり方に求められる。ここでは引き継がれた神話的な時間は、故意に信じさせようとしても無効なので、時間を取り込むにはふたつの条件が必要だ。ひとつは物理的な過去、現在、未来の時間の進行への信頼、もうひとつは、その物理的時間の進行に応じて「私」が観念的に時間の移動をすることができることである。

ドゥルーズの主要な論点は、アリストテレスからライプニッツ、ヘーゲルにいたる差異の概念は、概念的な差異にすぎないとみなすことだ。たとえば、アリストテレスの種的差異のロゴス、ヒトという種別は非ヒトと差異するかのようにみえるが、そこにヒトが理性的動物という語を述語にとった場合、ヒトと非ヒトを包括する動物という類の規定に亀裂が走るという言い方をしている。また、ヒト、非ヒトの種的差異を一義的に語っているときにも、より上位の類概念の力を借りていることになり、それが概念そのものの不安定さを示す根拠にされている。もし、亀裂が走るとして、なおかつ、アリストテレスが一貫性をもつためには、概念に対する判断のモデルをもっていなければならない。それはより大きい、より小さいと比較するためのヒエラルキーをもつものでなければならないのだが、それはあくまでも反省的なものにすぎないから、やがて、カタストロフをまぬがれない。

 

動物(類) ヒト(種)は存在する    ヒトは理性的な動物である

      サル(種)は存在する  サルは動物的な動物である    類

 

ここで言われているのは、ヒトとサル(非ヒト)の存在することを規定するためには、その類としてのあり方から導かれる。そればかりか、ヒトについて「理性的」という場合、サルに対する規定を失うから、上位の類としての動物の概念性に亀裂が走って、カタストロフをもたらすというのである。ところが、この同じよう場面で、マルクスは次のようにいなしている。

 

≪人間は直接的には、ただ自然存在である。…中略…しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。≫『ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判』 マルクス著 城塚登・田中吉六訳

 

 ドゥルーズは「理性的な動物」ということに異和をみつけ、「概念」の差異の袋小路を告発するのだが、マルクスにしたら、ヒト、動物という概念に関する「矛盾」、すなわち、それが段差を含んだものであることは彼の弁証法にとって自明であったので、「矛盾」のくぐりぬけ方を心得ていた。マルクスの言っていることは次のようなことである。人間は一方では受苦的な制約や欲求を個有性としてもっている点で、動物や植物と同様、自然の一部である。にもかかわらず、そういう自然存在でありながら、人間的な自然存在でもあるのは、人間が対象的世界を実践的に産出し、つまり非有機的自然を加工し、自らのを二重性の意識で眼前に確証できるからである。この対象化活動としての物質的・精神的生産をつうじて自然は、人間の制作物を現実化し、逆に人間も自然によって現実化していく。つまり、概念としての自然存在という個有性は、固定したものではなく、そのなかにはっきりと時間の流れがくるまれているということを知っていたのである。

 

  ヒトは動物であるが、理性的な動物である。

 

 この一文は、「が」という接続助詞をはさんで、話し手はふたつの観念的分裂をおこなっていることになる。前半の思想は、ヒトは動物であると断定されているから、時制を超えてあたかも永遠の真理でもあるかのように受け取れる。しかし、この場合でも、その真理は、過去の歴史をはるかさかのぼり、また、無限の未来へもわたる対象にはちがいないが、話し手は観念的に自己分裂して、それぞれの時において外界と客観的関係を結びながら、過去から未来への道すじをたどっていることにはちがいない。もしかしたら、読者はサルが道具を発明し、やがてヒトに進化してきた経過のあとを飛び石のように伝って、現在の自分に戻っているのかもしれない。動物からヒトへの進化は、決して概念としてアプリオリに行われているのではないからだ。

次に、「が」という前半と後半が順接するか逆接するか不明な接続助詞によって現実に戻ってきた話し手は、別の概念に移っていく。このとき、聞き手は「が」という助詞によって、ヒトの動物としてのあり方と矛盾するかのような理性的なヒトのことを想像して、肯定されるとおもったり、逆に、ヒトの動物生をなおさら強調されるようなことを想像する。そして、実際、その予測とはちがって、ヒトの動物生は裏切られたとおもったりする。そればかりか、話し手は、もしかしたら、後半においてほんとうの自分の主張をおしだすため、前半では、自分本来の主張ではなく、他人の立場に乗り移って、ヒトの動物性を語ったのかもしれない。このような言語の交錯した認識構造からすると、問題は、後半にこそ語り手の独特の視角がこめられていることは確かである。しかしながら、こういう認識構造を知らず、主体が時間的にも空間的にも移動する位置づけをはずしてこの一文をたどってしまうと、ヒトの動物生と「理性的」な二重性が、あたかも矛盾するかのようにみえてもしかたがない。

ドゥルーズの言っている「順序づけられる<前>と<後>」の区別は、そういう人間の認識構造に裏切られたせいかもしれない。ドゥルーズがニーチェやキルケゴールに新しい表現を見出したのは、彼らがともにヘーゲルやカントの西欧形而上学を現実態に移行させようとしたからであると考えられている。彼によると、ヘーゲルやライプニッツは、個別的なものと「概念」の一般性の運動をするものとして非難される。したがって、彼らは「根拠」から出発しているとして批判されている。ドゥルーズのヘーゲルの弁証法批判は、マルクスと同じで、ヘーゲルの差異は否定性といわれているが、その差異があらかじめ決められた一本の軌道の上を走っているものでしかないか、同一性に従属し、露呈するための手段にすぎないとみなされる。だが、わたしたちから見ると、ドゥルーズは主体の概念よりも概念の主体に比重がある分だけ、分裂した自分と現実の自分との異和をとりあげ、概念としてのヒトやモノのありように不快感の表情を露わしたものに映る。さらにいえば、厖大な言説の山に埋もれて、それらがまるでガラクタだと言い切れないで、かろうじて形而上学批判を装いながら、そのまま形而上学的にすぎない路につらなっているのかもしれない。

5 主体的表現と客体的表現

 

≪辞即ち助動詞は、これを過程的構造についていえば、概念過程を持たぬ処の語であり、従ってその表現性からいえば、詞が客体的なものの表現であるのに対して、辞は主体的なものの直接的表現であるということが出来る。更に具体的にいえば、詞は第三者のことについて述べることが出来るが、辞は主体的なものしか述べることが出来ない。右の様な表現性を持つ詞と辞は、これをその相互の意味的連関についていえば、詞は包まれるものであり、辞はこれを包む処のものである。≫『国語学原論』 時枝誠記著

 

 時枝は、名詞、動詞などばかりか、人間の主観的な感情である「嬉しい」、「悲しい」、「喜ぶ」、「怒る」なども、話し手の客体化した表現であるかぎり概念語と名づけ、「山」、「川」、「走る」などと同様に、物事を言いあらわす表現として「詞」すなわち「客体的表現」と呼んだ。それに対して、助動詞、助詞、感嘆詞など、話し手の主観に属する判断、情緒、欲求等の観念内容のうち概念化されない直接的な表現を「辞」と呼び、「主体的表現」として区別した。辞と詞はその次元を異にする用法であり、日本語では別の単位の語でありながらも、話し手の具体的な思想はこの主客が結合して、常にその結びつきにおいてしか表現されない。また、話し手の立場からすれば、辞は客体的世界に対する語り手の総括機能の表現であり、いわば、辞が詞を包む関係とみなされたのである。

 

  寒い、雪は降るだろう

 

 この一文の場合、末尾の疑問詞の「か」が、雪が降るという予測全体を包み込む辞として、話し手が文全体を統一するものであり、その概念内容を風呂敷のように包み込む関係にあるとする。このような包む-包まれる関係は、もともと話し手のモノに対する認識の構造に由来するものであり、「か」という助動詞によってはじめて、「雪は降る」の表現は話し手に関連づけられた対象であることがわかる。もちろん、実際に雪が降らなくても、それが想像の中の対象として降るということであれば認識内容にはちがいないからだ。また、「雪は」の助詞「は」においても、ただ単に、「雪」と「降る」のあいだの繋ぎとみなされるべきではなく、話し手を中心においた関係において、モノ相互の関連性をうみだすものと考えられた。この包むものと包まれるものとの形式を、時枝は引出しと引き手の関係に喩えて、引き手は形の上では引出しに付属しているものにすぎないが、それがなくては引出し全体の意味がなくなる点からみて、引出しを統一し、総括する関係に立っているとしたのである。

 この辞と詞の分類と区分けは、時枝の言語の過程的構造の形式のちがいから導きだされたのであり、彼の言語本質論を抜きにしては理解できない。彼は言語の本質は音声・文字にも概念の側にもなく、概念が音声や文字に表現される一連の過程それ自体に存することを明らかにした。その意味からすれば、時枝にとって言語は一回性の過程そのものを指すことになる。これはソシュールなどの構成的言語論がすべての単語を、意味内容と音声・文字が固形したものとして、アプリオリに存在しているものと考えることに対する批判から生まれた。もし、ソシュールの言うとおりなら、あらゆる単語は差異がなく等価であって、言語の区別や分類は無用になってもおかしくないからだ。しかし、時枝の言語過程論によれば、その過程形式自体において語の重要な違いを認めなければならなくなる。つまり、話し手が対象から音声までの過程的構造において、概念を経由するものと経由しないものの違いをみいだすことによって、詞と辞の区別を重ね合わせたのである。つまり、前述の過程的構造の下図において、�@の第一次過程・概念を経由することなく、そのまま第二次過程に進むものとして、直に音声となったり、聴覚映像になる例として感嘆詞のような自然の叫び声に類する表現の位置づけを迫られることになるのである。

 

(話し手)

 具体的素材、表象→�@第一次過程・概念→�A第二次過程・聴覚映像�B第三次過程・音声→�C第四次過程・文字→空間伝達過程

 

このように時枝は、概念の過程を飛び越す言語としての辞の役割を、助動詞、助詞、感嘆詞の特異性にもとめ、言語本質論からすれば詞と辞の区別を、当然、単語の分類や文法上の違いにおいてふまえなければならないとした。主体的表現と客体的表現の区別は、三浦つとむに言語学の「コペルニクス的転換」と言わしめ、彼に強い影響を与えたのだが、時枝の辞の総括的な意味作用という視点は、現象学に影響された誤解と指摘されるようになる。

三浦は時枝の表現主体が対象を認識する概念が、なぜ、意味に結びつき音声表象や文字表象にあらわれるかについて正確に答えていないとしたのである。確かに、音声や文字は話し手の認識あるいは概念を実体としているにはちがいないが、それ自身が「意味」と呼ばれるわけではない。意味を形成する実体と意味との関係の段差が、当然、想定されなければならないのに、時枝は、主体の対象に対する超感性的な活動それ自体が意味作用として言語の実質を荷っていると考えたため、音声や文字というような物理的な存在としてのあり方そのものに対する主体の実践的活動を排除してしまったのである。三浦によると、時枝の場合は、文字自体は意味をもっておらず、それを理解する聞き手の投影した概念が意味を掬い取るというように、形式と内容を短絡的に混同しているように映った。その機能主義からすると、話し手においてもそのような投影が繰り返されていくうちに言語体験が習慣化され、表現能力が高まるにつれて、ようやく意味の外観をみせるようになるとしたのである。

せっかく、形而上学からの出発ではなく、科学の対象にはじまり概念に抽象され、それが物質的な音声や文字にいたる一連の過程を言語の意味の生起としてたどってきたにもかかわらず、少なくとも言語を言語行為に限定したかぎりにおいては、三浦のいうように時枝は唯物論的ではない。概念という超感性的な認識から現実的な音声や文字へ架橋する方途を見失っているからである。言語には音韻論ばかりか意味論においても、意味するものと意味されるものの組み合わせを必要としたから、記号論はこの隙間をぬって勢力を保持した。そこで、三浦は、対象から概念への道すじと概念と音声、文字との間には、同じ概念であるにしても種類のことなったものであるとした。つまり、その間には相対的に独立した階梯があり、同じ認識を文字や音声に媒介する過程があって、その過程をつうじて対象から抽出された不分明な概念の塊を区切り、音声や文字に変える規範を定めている。彼の比喩を借りれば、音声・文字というようなレッテルを貼った概念と、対象からそのまま抽出された概念のあいだには大きな隔たりがあり、その突合は言語規範によっておこなわれるとみなしたのである。そういう観点から、三浦は、時枝には言語規範の分析が欠如しているとした。

 このようなレッテルを貼られた言語とそれ以前の漠たる概念言語の存在を示すことにおいて、三浦の考え方は、わたしたちに下降する言語思想のありかを伝えてくれる。ただし、これにはある条件がいる。三浦は、対象の感性的なあり方と概念の超感性的なあり方が言語規範を媒介にして音声・文字に引き継がれることによって、あたかも感性的なものと超感性的なもののあり方の矛盾が止揚されるという言い方をしているが、結果として音声や文字に現れた超感性的な二重性自体、話し手にとっては矛盾として表れることを認めなければならないとおもう。これは概念のあり方というよりも、むしろ、話し手の心の起伏をどう扱わなければならないかの問題に置き換えることができる。経験的にいうと、わたしたちは、自分の思いが言葉にできないもどかしさをかかえることがある。衝いて出た言葉はどこか満足できない、どこか浮かない。それだったら、言葉にしなければよかったなどと考え、つい思い悩むことになる。三浦の言語と概念の矛盾は、その間の思いを合理的に説明してくれる気がする。もしも、現象学の立場であったらそうはいかなくて、沈黙と言語は和解する余地がないだろうから、その間に言葉に吐き出せないという意識が介在していることになり、沈黙の理由づけそのものが崩れてなくなってしまう。

わたしたちは、言語の表現行為という場合、表現できないもどかしさは、国語辞典の語彙や表記法、文法をいかに知っているかという文字の世界にかぎられたものではなく、日常的にひとと会話し遭遇している日々の韜晦のそれぞれの場面において試されていると考えなければならない。なぜ、ひとはたわいのない言葉でしか自らを表現できないのかという異和感は「私」の側だけではなく「ひと」も必ずそうおもっている。その意味で、三浦の言語学における語り手の活動は、精神的以前の実践的意味をもっており、わたしたちに言語思想のあり方の可能性を開いてくれるものだ。このような可能性が空間的なものであるとしたら、彼のもうひとつのキーワードである「観念的自己分裂」は、わたしたちを時間的可能性に誘ってくれる。

三浦は時枝理論の欠陥として二つ挙げている。ひとつは上述したように、言語の本質を主体の概念作用と考えたことから、言語の意味を主体の対象に対する意味作用そのものとして、言語表現に伴う社会的な約束としての言語規範の問題を欠落させたことである。もうひとつが、彼の主体的表現の中では、現実についての表現と想像についての表現との区別や相互関係が取り上げられていないことである。後者こそが三浦の独自性をより際だたせることになった。

これについては、先に「私はテレビを見た」という文から、一人称代名詞の「私」が主体そのものではなく、主体の客体化(対象化)したものであるとして、どのように現実と想像のレベル間を行き来するかという点に触れ、そこでは、主体は、想像の世界や過去の世界と地続きになっていることを確認できた。これだけなら、時枝も一人称代名詞の説明を同じようにおこなっている。だが、三浦は時枝の主体と客体の関係が二重化されておらず、言語構造が平面的な、のっぺらぼうになっていると指摘した。これは言語本質の理解にとどまらず、言語の可能性にとって基本的なすれ違いにみえる。三浦は、時枝が考案した零記号を使って簡単な説明をしているのでそのまま引用する。

 

A 雪だね。

B 雪ですね。

C 雪■ね。 

 

 零記号■は表現の省略を指している。この場合は、雪が降りそうだということの判断辞の「だ」、「です」の省略を示しているのだが、この省略の中に何を見るかによって、主体の位置づけが問われてくる。

 

≪否定や疑問は、まず一つの想像的な世界をつくり出してから、現実の世界に立ち戻って否定したり疑ったりするのであって、そこでは世界が二重化しており、否定辞や疑問辞以外に想像の世界での「主体的立場」を表現する判断辞ないし単純な陳述を必要とするのである。現象学はこの世界の二重化を観念論の立場から無視し一重化してしまうので、「否定辞や疑問辞も単純な陳述の変態と考えるのが正しい」ことになり、立場の表現の二重化もこれまた一重化されることになる。そしてCの場合の主体的表現が、判断辞と感動表現と二重化されているにもかかわらず、…中略…これを「客体界に対する言語主体の総括機能の表現」にして一重化したのであった。≫『言語学と記号学』 三浦つとむ著

 

 もし、このCをA、Bから類推しないで、平面的にとらえると、「雪」という詞に「ね」という感動表現を読みとることしかできない。時枝の主体的表現と客体的表現の区別では主体的表現が文を統括し、締めくくるという考えにもとづくから、きっとそうなる。ところが、三浦の主体的表現においては、その主体は想像の世界と現実の世界に二重化している。つまり、一旦、「雪の降る」想像の世界がつくられ、そこに現実から「観念的自己分裂」をした主体がその雪が降るのをながめ判断したり陳述したりして、そののち、今度は現実の世界に戻った主体が「ね」という感動表現をしていると理解される。否定辞や疑問辞の場合、現実の主体の否定辞や疑問辞以外に想像の世界での主体的立場を表現する判断辞や単純な観察・陳述を必要とする。三浦は、こうした目に見えない主体の二重性についての理解は、主体的表現と客体的表現が分離した言語表現という特殊性と、絵画や写真の表現を比較するところから思いついたものと想像できる。

 時枝の主体的表現という立場なら、写真の表現構造にはどこにも主体性は見いだせないはずだ。しかし、わたしたちには当たり前のように、写真の被写体である客体の選択、シャッターチャンス、映す場所、アングルなどには、写真家独自の見方や感情が含まれていることを知っている。つまり、客体的表現を行うことが同時に主体的表現であり、両者は不可分に統一されている。それに対して、言語表現は概念的表現として主体的表現と客体的表現が分離されていることから、それぞれ主体の立場のちがいをともない、ある場合は観念的な自己の立場に行ったり、ある場合には現実的な自己の立場にあるというように主体位置の移動がおこることである。その移動は一文の中にも、また、小説中の主人公の立場とただの観察や分析、記述の違いにも現われ、観念的あるいは想像上の自己と現実的な自己の立場の区別として、相互の立場のちがいをわきまえなければならなくなる。こうして、三浦は時枝の主体的表現と客体的表現の区別から、それをさらに言語主体の立場論に置き換えることによって言語表現の構造を重層化したといえる。

三浦つとむの言語主体の「観念的自己分裂」のスタイルの理解は、鏡という道具を使う人間の自己認識から始まっている。唯物論の俗流反映論では、人間の認識は外界を反映する意味においてしか像がとらえられていないのに対して、像は人間の認識のこちら側だけではなく、向こう側にも存在することに焦点が当てられたものである。つまり、像は人間の外側にも存在するということで鏡の像が持ちだされた。ひとが鏡を見るとき、自分と鏡との間と同じ距離で、鏡の向こう側に自分が実在しているように眺める。そのとき、向こう側にこそ自分がいるとおもっている本物の自分の視線は、自分以外のものにすり替わり、それが観念的な自己としての性格を帯びる。そうすることで自己を客観的に見ることになるのであるが、それにとどまらず、その観念的な自己は、さらに別人の視線に観念的な転換をすることもできる。あるときは恋人の視線にすり替わって、恋人に気に入られるように鏡の自分に悩ましく囁きかけることもできるのである。つまり、現実的な自己から観念的な分裂をした自己はいかようにも変身をとげることがわかる。

また、三浦は、人間は、まず、他の人間という鏡をもって自分を映してみるというマルクスの言葉を援用している。つまり、人間は、精神的な模写としての鏡の特性だけではなく物質的な鏡をもっており、人間の認識が外界の精神的鏡と呼ぶなら、人間の認識は外界にも物質的鏡をもって、それらが同時に対立と相互の浸透が行われているとしたのである。ガラスの鏡が現実的な自己を一定の空間で離れた所からとらえるものとしたら、他者という鏡の場合には、時間を飛び越してさえ自分を客観的に眺めることができる。自分の幼児の時を知りたければ、現在の子供たちがどのように育っているかをみて、自分自身の知らない過去を想い浮かべることもできるし、死後のことや未来のことを知りたければ、親戚や近所の老人のことや葬式の様子などから、その現実的な他人を観念的な自己に置き換え、そのことによって、こちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換えることができるのである。

このような物質的な鏡に映った像は、時枝も取り上げたように主体の対象化された実体である。ただし、その主体が対象化される際、三浦はそれを見ている自分が観念的に分裂したもうひとりの自分であることを付け加えることによって、観念世界と現実世界のちがいを相対的に独立したものとして、時枝の理論の不備を加筆・修正したのである。もし、鏡の中に自分がいるとするなら、それを見ている自分は他人であり、現実とは区別されるもうひとりの自分でなければならない。わたしたちは鏡の前でこう呟くことができるが、言語のそのからくりは、案外、簡単だ。

 

   オレさびしい男

 

この場合、「オレ」は現実の自分が鏡に映った像を指しているにはちがいないが、「さびしい男」と形容した語り手は現実の自分でも鏡の像でもなく、「こ」によって示された架空の自分である。こういう自嘲にいかがわしいところがあるとすれば、語る主体の変換によって、背後に自己省察の放棄に似たものが隠されているからだ。このように三浦は観念的な対象化と観念的な自己分裂を区別したのである。観念的に分裂した現実の自分ではない自分は、いわば、匿名の自分あるいは自分の余剰にほかならない。想像や空想の中では、鏡に映った自画像と同じように一人称の「私」は、現実の自分から分裂した匿名の自分が描きだした像である。その「私」への反問や欲求から、余剰としての言語は発生した。

わたしたちはこの言語の余剰をどう見るかということで、言語の可能性や失意感を知ることになるのであるが、三浦の意味論においては、匿名の自分の余剰があるかないか、あったとしてその態様によって5つのパターンに区別されている。

 

�@  雨が降っている

�A  雨が降る

�B  雨が降っていた

�C  雨がふるだろう

�D  雨が降らない

 

�@は眼前に雨が降っている継続・進行の形容動詞を使っているので、分裂した自己を含まない。それに対して、�Aになると、一見、観念的自己分裂がないかにみえるが、天気の事実を述べるような場合のその一瞬をとらえたものであって、現在という関係がずっと続いている中において述べられたものであり、その間の観念的な運動を見逃すことはできない。�Bや�Cになると、雨が降っていた過去や未来の予想を想像の中でめぐらすものであるから、当然、分裂した自己は過去や未来に行って、そのときどきの観念的関係をとり結ぶ。�Dは否定の判断であるが、否定するには否定する対象が必要である。前もって雨が降るという予想をしたり、過去に雨が降ったという事実の対象が必要である。このため話し手は、否定の理由になっている雨が降っている未来や過去に行くことで観念的自己分裂をひきおこす。

三浦は、言語の意味の核心にあるものを、語り手の想像や移動にもとづくものであることを、膠着語である日本語の特性の中から広場に引きだした。意味のちがいは、一面、主体的表現と客体的表現のちがいとして表現され、さらに、その主体的表現の中に想像や空想によって、言語表現が折り畳まれ、構造化されると考えたのである。これは主体的表現と客体的表現の矛盾が、主体的表現の中に集約され、さらに奥まったところに波紋のように意味の輪を広げていく模様が編まれているようにみえる。わたしには、このような考え方は、言語は必ず対手に対して意味を求めるものだという前提から出発しているようにおもえる。

しかし、わたしたちは、三浦や時枝のように、聞き手や読者に対して言語の意味を押しつけようとする言語理論だけでは、どうしても解きほぐすことができない言語の一面があることを知っている。そのひとつは、言語が発せられる寸前のコワバリのようなものの正体は何かということである。この発せられる寸前というのは、時間的に個体としての現在でもそうであるし、また、乳児期から幼児期につれて言語を習得しようとする時期、あるいは、類としての人間が、原始言語を発したであろうと推定される始まりという意味をも含み、総じて、初源の言語、または、言語の初源の問題にかかわっている。もうひとつは、言語が繰り返されるうちに負荷される重量の問題にかかわってくる。これも同じく、類としても個体史の問題にも被せられ、同じ言語が繰り返し巻き返し使われるうちに重力みたいなものにひっぱられて、いつしか意味が変形され消耗したりして、やがて繰り返しに耐えられなくなったときの感覚を想定することができる。ひとの一生は、ゆるやかな登り曲線を描きながら、やがて円を閉じるように下りの曲線を降りて行くかのように見られている。そういう先入観からは、ごく自然に肉親や周りの者たちの真似をして言語の幼年期を過ごし、次第に言語規範を習い覚えながら成長していくとされるのであるが、初めての言語を発するときには、あとになってその多くは無意識の中に沈殿してしまうものかもしれないが、必ず意識の動機や言語意識が起動するためのある種の転位が隠されているにちがいない。

こういう同じ表現を反復することによって加重する意味のズレの体験と初源の起動とを重ねあわせてみると、言語の意味の問題は、時枝のような「主体の意味づけ」にも、また、三浦のように主体が想像の中で未来や過去へ行くことでうまれる「客観的関係」にも還元できないものに触れるのを見逃すことができない。つまり、言語理論はここで幼児の心的世界や原始人の登場にも対面しなければならないし、文字通り言語を生活の糧としている文学者の存在にも帳尻をあわせなければならなくなる。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』で、三浦つとむの言語主体と対象とのあいだの「客観的関係」においてすら、対手(聞き手、読者)に「意味がわからない」ということで三つの場合があることを指摘している。彼は、「意味がわからない」ということから、逆に、意味の定義づけをはじめている。

 

�@  言語に固定化された客観的関係が意味としてたどれない場合

�A  客観的な関係以外の意味を示しているようにみえる場合

�B  客観的な関係自体をたどるのが難しいような場合

 

最初の�@は、万葉語など古語にみられるように、現在ではまったく使用されていない語法や死語を含んだ言語において、「客観的関係」が死滅しており、現代の人間には言語の流れがたどれない場合である。�Aは暗喩のような場合で、語り手がもっている感覚や感情の起伏を、実際にはありえない対象物を借りて誇張したり、逆説的な表現がされているような場合のことを指している。いうなれば、擬事実を上に重ねているため、本来の意味するところがつかまえがたくなっている場合のことである。�Bは言語主体が「客観的関係」自体をみずから不明にするような作為がほどこされている場合である。ここでは、単語のつらなりをひとつひとつたどっていっても、また、全体の文脈のなかでも意味がとらえられないときが想定されている。これらの意味の不明性をとりだす上で、吉本が言語理論として提出したのは、言語の本質を「自己表出」と「指示表出」の織りなした編み物として考える方法であった。

わたしの理解によれば、「指示表出」は、対象物から反射された対象性の理解や認識を指し、「自己表出」とは、その「指示表出」とは別に、表出主体の内在性からの上昇意識からうまれる対象化された表現意識である。吉本のこのふたつの表出意識はそれぞれの語に含まれており、この区別は、三浦つとむの「客体的表現」と「主体的表現」の区別と、一見、似ているが、吉本は言語の「客体的表現」である名詞や動詞にも「自己表出」があり、「主体的表現」である助動詞、助詞にも「指示表出」があるとしており、いわば、三浦の「主体的表現」と「客体的表現」が重畳化されているような格好になっている。これは吉本が、三浦のように言語を客体的表現から主体的表現へ、主体的表現から客体的表現に移り変わり推移していく単語の曲折とはみなさず、言語が文や文章全体との関係の中からの点綴として表現されていることに気づき、言語をプラグマチズムのコミュニケーション論やマルクス主義の「階級的役割論」に還元させてはならないものとして力点をこめているからである。さらには、言語を社会的価値とするよりも、むしろ芸術的価値であるとの観点を導くために避けてとおれない方法であったからである。このような自己表出と指示表出の交点で言語の意味をとらえると、前述の「意味がわからないもの」は、吉本によって次のように解読される。

 

�@  言語の自己表出としては読解できるが、指示表出としてはもはや死滅している場合

�A  自己表出としての比重がかかりすぎ、指示表出が擬事実に変形している場合

�B  自己表出がすべての指示表出を被いつくしている場合

 

 吉本は意味が不明である理由を、指示表出が死滅したり、変形したり、被いつくされているこの三つのパターンに集約し、意味は、言語の指示表出と深くつながっているとみなしたのである。吉本が、指示表出という言葉を選んだのは、三浦つとむの「客観的関係」という概念に対応しているのがよくわかる。だが、この「客観的関係」がたどれなくても、意味がなくなったのではなく、伏在しているだけであり、微かに意味が読み取れるということで、意味概念の間口をより大きくとらなければならなかった。そのため、吉本は意味を自己表出と指示表出との関係において見直さなければならなかったのである。 

わたしは、先に、言語を発するときのコワバリの根拠として、同じ表現を反復することによって加重する意味のズレの体験と、初源の起動体験の重さを指摘した。初源の起動体験とは、沈黙の中から言語を選りだすときには、ある種のためらいや飛躍をともなうという事実によっている。それは原始人が悲鳴や叫びのようなものからはじまって、言語の形を定着するようになったり、だれもが幼年期ようやく言葉をおぼえはじめだそうとする、いま、その心の中でどのような劇が展開されているかということからも類推できる。同じような事実は、同一言語が反復しているうちに、本人は親しみ、使い慣れるが、次第に、心のありようとすれ違い、言語の停滞や倦怠を隠すことができなくなる。そして、新しい言語に乗り移ろうと葛藤するのだが、最初は咀嚼しきれず、初源の起動とおなじく沈黙から飛躍への経路を選んでしまうのである。吉本は、言語の意味について理解するためには、指示表出だけではなく、自己表出という概念もあわせて使用しなければならなかったのだが、わたしは、上記の�@~�Bを別の言葉で言いかえることができるとおもえる。

 

�@  もはや言語の繰り返しに耐えられなくなった場合

�A  もはや言語の繰り返しに耐えられなくなって、初源の言語を起動させた場合

�B  初源の言語に圧倒され、慣れ親しんだ概念と決別した場合

 

こう見てくると、わたしの考える初源の言語は、吉本の自己表出と重なったかにみえるが、わたしは、言語は繰り返されるという属性を抜きにしては語れないとおもう。吉本のいう自己表出は、意識発生以来の積み重なりとしての連続性を背景に隠しもっており、その考え方は『言語にとって美とはなにか』をつうじて、いまだ、毎日のように繰り返し同じ言語を喋ったり書き綴ったりする事実の重さにとうてい耐えられないとおもえる。だが、少なくとも、吉本が価値論の根底においた自己表出という概念は、初源の言語に限りなく接近している。

 

6 言語の価値

 

 吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』は、価値論を下敷きにして、言語の価値をマルクスが商品の価値について述べたと同じように、言語がどれだれ対象を鮮明にとらえ指示しているかということと、意識発生以来の積み上げられた力能をもつかという二重性においてとらえ、指示表出価値(使用価値)と自己表出価値(価値)の区別をあらわしたものである。この点、ソシュールなどは、語が観念(概念)と交換することができ、他の対立するような語と比較されることができるかどうかの片面を価値の基本とみなしている。だから、より価値が高いのは、同じ事実を示していながら、それがどれだけたくさんの意味を代表しているかによって測られることになり、意味の有用性を課題にしているだけで、言語本質にまでふみこめていない。いわば、言語の意味の経済学的な限界効用を問うているにすぎない。

 

≪各時代といっしょに連続して転化する自己表出のなかから、おびただしく変化し、断続し、ゆれうごく現在的な社会と言語の指示性とのたたかいをみているとき、価値をみているのである。そして、言語にとって美である文学が、マルクスのいうように「人間の本質力が対象的に展開された富」のひとつとして、かんがえられるものとすれば、言語の表現はわたしたちの本質力が現在の社会とたたかいながら創りあげている成果、または、たたかわれたあとにのこされたものなのだ。≫『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著

 

 これを読むと、それぞれの時代の言語水準とよばれるものは、歴史と社会の交わるところで言語が戦っている場所であることがよくわかる。歴史と社会の争闘は、やがて、吉本に言語の「像」の出自として明確にかたどられることになる。吉本にとって初源の言語という観点は、この「像」を、自己表出と指示表出の矛盾として描きだしているところに大きなアクセントをおいている。なぜ、「像」はうみだされるのか、というより、なぜ、自己表出と指示表出は矛盾しなければならないのか。おそらく、吉本は次のように考えている。対象に対する指示性は、人間の対象に対する意識作用として行われ、それと同時に、その作用のせいで、今度は、人間は対象の方から反作用をうけることになる。指示表出と自己表出の段差はこの関係の異和として産出されるにちがいないのである。これは、三浦つとむが観念的な対象化と観念的な自己分裂を区別したのと同じ構造をもっていた。指示性に発した言語の意識は、より指示性を増すために自己表出を繰りだしたところ、ますます、対象性からは遠ざかる抽象性を手に入れなければならなくなった。自己表出に向かう方位が指示表出に向かう方位と重なり、指示表出に向かう方位が、逆に、自己表出の方位につながっていく。この矛盾がもたらした一瞬の隙間にこそ、「像」の来歴の秘密が隠されていた。また、この異和は、未明の意識のように、より強い指示表出とより弱い自己表出のあいだにもうまれることはある。もし、指示表出の力をΔX、自己表出の力ΔYとすれば、「像」は、ΔX<ΔY、ΔX>ΔYのアンバランスによって立ち上がることになる。実際は、これらの力は羃乗されるであろうから、未明の段階を過ぎるにつれ、自己表出の深度は深まって「像」はますます立体化されていくにちがいない。

この吉本の主調音は、共同体的契機においては、「意識に自己表出をうながした社会的幻想の関係と、指示表出をうながした共同体の関係が矛盾をきたした、楽園喪失のさいしょまで」さかのぼり、指示表出と自己表出の間から、欲望や欠如の意識が開花したことを意味した。通俗的な言い廻しをするなら、全体と部分、あるいは、類と個、理想と現実の離反ともうけとれるものだ。これらは社会をより緊密に統合しようとしてうみだされた国家が、逆に、社会の首を絞めるようになった背景や、現在の近代国家群の強固な遺制が世界経済との間に捩れている現象と別物ではない。もちろん、世界経済の必然性や偶然性を割り切ったところで考えれば、後者はメタ言語(像)との類似の範囲に入るにすぎないのであって、決して、初源との関連でとらえられないものではないからである。

言語を初源においてとらえる場合、まず、対象との関わり(関係)と自己との関わり(構造)の網目において言語をみることが必要になる。未明の意識には「像」や「象徴」の氾濫はみられたが、自己との関わりが弱く、欠如にささえられた想像力の認識はともなわなかった。そのため、もともと全体と欠如という認識そのものが欠けていたから、分節化した言語の誕生にはいたらなかったのである。しかし、わたしたちが、普通に言葉をあやつり、不自由しないということは、言語のはじまりがより強い自己表出を獲得し、沈黙を破り、はじめて有節音声を発したという事実とは決して矛盾するものではない。わたしたちの沈黙のその程度におうじては、依然、初源の言語の帯域に包まれているのである。

わたしは、言語価値の発生は、「時間」の経過ととともに併走するものと考えてきた。マルクスは、転位したり変転したりしているかにみえる貨幣や資本、階級の概念に伸びる線分を逆にたどれば、時間によって量られる価値というものに帰着することを論理的に実証した。具体的にいえば、目の前にいるプロレタリアートこそが価値の源泉であり、貨幣や資本の産みの親であることを発見した。つまり、時間という価値は、もともと一直線に進むはずであったのに、その過程で時間の詐取や隠蔽のカラクリが潜んでおり、そのしわ寄せを受けたのが、ほかならず、価値の源泉であったのだ。マルクスは、この価値の詐取や隠蔽のカラクリは、人間が時間を掠めながら分節化していく過程と相似形であったので、ひとびとが、あたかも自然史的過程であるかのように勘違いしてしまっていることをみぬいた。言語の発生の神話は、自然史のような価値増殖過程の神話のまま残されてしまったのである。それ以来、言語によって語られる言語思想の多くは、この神話の繰りだす軌道をはずれることができなくなってしまった。

言語の価値と商品の価値形成とは、そのままでは結びつかない。ただ、「時間」という媒介をとおしてのみ、同じ型の道すじをたどることができる。まず、言語における意識作用は、対象から受ける知覚がひとの脳にあるゆらぎをうみだすことからはじまるのだが、もちろん、この知覚は言語の時間意識になんら影響することはない。つまり、自己が自己に向かう時の異和をおいてほか時間の発生する余地はないはずだから、時間とは自然(対象)に対する人間の働きかけの際に与えることと受容することの相互性の交点にのみ生まれるものと理解することができる。

 わたしたちが言語を発するときを反省してわかるのは、まず、おぼろげな概念や像を思い浮かべ、それに形を与えるために相応しい語彙と言語規範を選び拾い集めていることである。最初からなにもないところから、突然、言語が舞い降りてくることもなければ、概念や像より先に言語が選ばれることも考えられない。まして、言語でものを考えるなどということはとうてい信じられない。そうだとするなら、その概念や像はどこから生じるかというと、以前に繰り出した自分やひとの言語の自己表出と指示表出の隙間から生まれると考えられる。そして、その隙間というのが言語と以前の言語の関係とするなら、そのまた概念や像はというと言語の隙間であり、その繰り返しは、まるで、逆向きに無限に初源の言語や初源の呟きに遡ってしまう。こういう逆向きの繰り返しをささえ、根拠づける形容がとりあえず必要であるが、先に、わたしは指示表出と自己表出の間から、「欲望」や「欠如」の繰り返しの意識が開花したことをみてきた。それは、語られたひとつの文全体とその欠如の意識との関係のみではなく、欠如の意識の繰り返しにおいても、言語の意識を起動させるものにほかならない。

吉本隆明はこの起動する力を自己表出と呼び、それがモノの指示意識に関与し、変形する力に価値の源泉をみつけた。それに加えて、彼は、言語の価値を「意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値」と定義づける。ここでいわれている「全体」という意味は両義的である。なぜなら、ひとつの文の中にもある全体を統括する価値の主旨にも、また、意識発生以来の積み重ねられた連続した自己表出史の全体というようにもうけとれるからだ。しかし、後者だとしたら、わたしたちのたずさえた言語のひとつひとつに意識発生以来の拘束や美学が奥歯にはさまっていると考えざるをえないし、文学表現の歴史の中でも、おそらく、それをあとづけることはすこぶる困難である。

だが、吉本が自己表出の出自に拘泥したことは、想像力における時間の解釈を拡大する結果をもたらした。

 

�@  わたしは死ぬだろ

�A  わたしは花が萎むように死ぬだろ

 

この二つの文を比べて、想像される時間の場面はふたとおりある。三浦つとむであれば、「わたし」が観念的に想像世界をつくりだして、死後の世界を現実と二重化するだけではなく、同時に、現実の「わたし」以外にその想像した世界の中でそれに相対している観念的な「わたし」をつくりだし、自分自身の二重化を意味することになる。将来の自分の死を前にそれに対坐しているもうひとりの架空の自分を「客観的関係」にあてはめて、そのときの状況が描かれ、やがて、それが現実の自分ではなく将来の自分であることを示すように、最後に現実の「わたし」に戻り、「う」という推量の助動詞でしめくくられていることになる。すなわち、客体としての死は自分も含めて隣人の死として、「人は死ぬ」と表現される。ところが、将来の自分の死については「わたしは死ぬだろ」と表現される。それだけではなく、それを将来の想像からいったん引き下がって現実に引き戻される場合、「う」という言葉がつけくわわって「わたしは死ぬだろ」という現実態におさまる。つまり、現実から出発した「わたし」は、想像のなかの将来の「わたし」の時間に入り込み、最後には現実の「わたし」の時間に戻ることになる。この一文のなかには、こういう「わたし」の立場の移行や飛躍が時間として仕組まれていることが確かめられる。

しかし、ここには、現在の「わたし」と将来の想像上の「わたし」との間には同じ時間が流れており、観念的な往来はあるものの、�Aのように「花が萎むように」という比喩の表現がされていようと、それによってその時間の流れが変わることはない。全体をとおして「死ぬ」ということの意味を前面におしだしていることに時間の要点であり、その意味の力が加わって聞き手や読者の心の中にゆらぎをおこすことはないからだ。三浦の解釈なら、語り手の心の中にも、まるで、ゆらぎがないかのような安定した言語の意味作用のみが残ってしまう。

もうひとつ別の解釈として、このような心のゆらぎを言語の自己表出と結びつけるとどうなるだろうか。吉本のように解釈するなら、この「花が萎むように」という比喩が加わったことによって、「死ぬ」という言語にいろいろな像を喚起することができるように変わってくるはずだ。「花が萎む」というのは寂しく死ぬということだろうか、それとも、花が枯れるように静かに穏やかに最期をむかえることだろうかとか、聞き手や読者にもいろいろな死を呼び起こす。そこまでくると、「わたし」が死を想起するようになったきっかけにまで深入りすることができる。肉親や友人の死をまじかに感じた体験が背後にあったかどうか、自分の将来の死は早くなるか遅くなるのかという現実的な不安も含め、当然のように、自分の死をとりまく「わたし」の家族の悲しみや痛みをもともなってくることが聞き手や読み手に届くようになる。

わたしは、この心のゆらぎこそが、「全体」に対する「わたし」の欠如意識だとおもう。その欠如感は、時間の異和とも表現できるが、そのことによって言語は、心の過不足感を表現できるようになったのだといえる。そればかりか、吉本隆明によれば、人間は自己表出を獲得することによって、対象世界のより深い襞にまで立体的に肉薄することができるようになった。しかし、それは同時に、自分が自分に異和をおぼえてしまう心の過不足感を代償にしなければならなかった。この矛盾のなかにこそ、言語における時間の異和は位置づけられる。しかし、おおかたの見方からすれば、言語の欠如意識といえば、すぐさま共同体的な疎外感や孤立感をおもいうかべて、そのような現実の失意に言語を起動させるエネルギーがあるかのように考えられているが、ほんとうはそうではない。確かに、人間の表現意識は認識作用のあとにうまれるにはちがいないから、原因と結果のような関係になっている。だが、わたしたちが注意しなければならないのは、一旦、表現として音声や文字となって外部へ定着された言語そのものに欠如感がなければ、言語は心の中の原因をさがすための機能や道具になってしまい、言語本質を棚上げした形式主義に落ち込んでしまうことだ。それ以上に、言表された言語について、媒介をなくしたまま、そのまま認識に還元してしまうことになる。もちろん、定着された言語においては、欠如だけではなく「全体」も存在するから、欠如は言語が発せられる前の段階の漠然とした概念や像の「全体」と食い違った欠如を指すともうけとれるのだが、そういう意味で、概念や像が表現された言語とまったく重なったりすることは、音声や文字の形をまとった言語の本質としてありえない。概念や像をさす沈黙の言葉と表出された言語の像が同じになると考えることは、言語表出と認識を混同しているとしかいえないのである。言語の表出意識の地面にこそ、全体と欠如のドラマを見なければならないのである。

マルクスによって「時間」は、自然の「肉体化」と人間の「自然化」として、「類」としての人間と自然とのあいだの相互媒介をとおして語られた。人間はこの「関係の構造」という相互媒介をつうじて自己時間を高度化していく。もし、この自然史的過程において、自然に対して与えることと、人間が受容するものとの均衡が破れるとすれば、そこにこそ、自己と社会に対する「時間」受容の異変が生じると考えられた。このようなマルクスの唯物史観の基礎的な定式は、交通という概念においても適用され、媒介としての「生活の生産」ということが述べられている。労働の対象化が生産といえるなら、その生産物を食べたり使ったりして消費するのはただの消費であるだけではなく、人間の「生活の生産」をすることでもある。その「生活の生産」という意味は、資本制社会においては労働力商品としての人間の再生産を意味し、労働の生産物が再び対象化されるということにほかならない。ここでは、マルクスは、生産や消費が一回性としておわらないことを前提にしており、人間と自然とは持続的な代謝をするということが、はじめから決定づけられていた。

このマルクスの自然・社会哲学を精神世界の活動におきなおしてみる。はじめに、自然は圧倒的な質量をもって畏怖すべき対象として人間の眼前にあらわれる。そのとき人間は、過不足なく自然に包まれている。だが、肉体的な飢餓感や欲望を満たさなければならないから、動物を捕獲したり、野生の植物の実を食べたりして生きている。その途上で、エンゲルスが人類のはるかな歴史の中で、火をおこしたり、槍を削ったりして道具を使うようになったことに大きな意味づけをしたのは、わたしたちの自然史的過程においては、道具としての技術は、人間が動物生から離脱していく過程で人間の中に移しかえられた「時間」そのものとしてあらわれると考えたからである。つまり、一旦、社会史的過程に入り込むとき、技術は、それによって受容されるものと、技術そのものの高度化との間に亀裂を生じることで、人間に対して必要以上に「時間」の加速化を感じさせるものになる。この時点から「時間」の加速化は、一方で、さらに技術の高度化をまねきよせるようになり、「時間」は絶えず先送りされて、「時間」の持続そのものが、いわば、停滞した現在を脅かすようになる。

槍や弓などの道具が物質的な道具であるとすれば、言語は精神的な道具としてはじまった。エンゲルスの「科学的」な唯物史観の定義としては確かにそうだ。だが、いくら自問を繰りかえしても、エンゲルスの解説した科学のように、顕微鏡を覘いてもわからないことが多い言語の世界には、より緻密さがもとめられなければならない。その点、言語の発生史について、吉本はこれ以上書きようがないくらい丁寧な暗示をわたしたちに与えてくれる。

 

≪たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視角に反映したときある叫びを<う>なら<う>と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視角に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官に反映したことにたいする反射的な指示音声だが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられていることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<()>という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することとなる。このとき、<()>という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。≫『言語にとって美とはなにか』 吉本隆明著

 

 ここで言われているさわりが自己表出の正体であることは明らかであるが、はっきりした自己表出が獲得される前の段階において、�@反射的な指示音声の段階、�Aさわりを含んだ指示音声の段階の区別は明快なわけではない。わたしはこの区別が重要だとおもうのは、言語を発する前の沈黙の深さを測る上で欠かせない目印と考えるからだ。おそらく、�@と�Aのちがいは、対象物(海)との間の距離的な遠近感ではなく、自己意識の時間的な遠近感を反映しているはずだ。同じ指示音声でありながら、その価値の重さが相違するのは、一方の反射的な有節音声が、はじめての海との遭遇によって、海に対して身構え、働きかけ(指示性)をもたらしたのであるが、それに対応する海の像は自己の内面に取り込めなかったことが理由にあげられる。

それに対して、�Aのさわりを含んだ有節音声は、すでに他の対象に対して指示音声が反芻されており、たとえば、実際に山や谷の対象物をみなくても、その像が思い浮かべられるほど輪郭が深まり、そのことで指示表出が成立している段階をしめしている。そのため、森林生活をしていた狩猟人がはじめてでくわした海に対しても、ただ、身構え、意識を対象化(指示性)するだけではなく、わずかばかりではあるが、自己の内面に引き込むことができたことをあらわしている。つまり、ここには、対象化した海と実際に自分に跳ね返った海との間で、自己が観念的に分裂する萌芽が隠されているのである。いいかえれば、対象物に対象化された自己と対象から投げ返された自己の誤差が生まれていることを暗示している。

もし、この場合、意識の対象化を「全体」というふうにみなせば、跳ね返された意識は必ず欠如となって、自己意識の俎上にのぼるはずだ。たとえば、ここで、意識の対象化を生産と呼ぶなら、その跳ね返りは消費と呼ぶことができ、これがただの消費ではなく生産のための消費につながるとき、その結果である「生活の生産」と消費の間には、軋轢や誤差を含むある段差が認められることになる。それこそが自己意識の発生や高度化の根拠になるものだ。より正確にいえば、言語意識の上昇過程に入ることができるということである。指示表出の幅よりも自己表出の抽象度の方が大きくなって上昇し、また、その逆であれば、下降することになる。その上昇、下降をふたつの時間のからみあいとみなすなら、上昇は時間の増幅、下降は時間の圧縮につながり、指示性をそれ自身でとりだすと、吉本の表現転移論のように、自己表出史を「文学体」と「話体」という文体の区別に応じて、上昇したり下降したりする表出意識のパターンを描くことができる。こうしてわたしたちは、繰り返しに耐えるということが言語理論の中に繰り入れられないかぎり、言語の本質にはとどかないようにおもえる。もしも、その言語の繰り返しに耐えられなくなったら、わたしたちはとおからず沈黙するほかはない。このような言説の沈黙へ、まるで、宗教理論が宗教そのもののと見分けがつかなくなるぐらいに、意志的に向かって行ったのは、たとえば、バタイユであり、わが国でいえば、さしずめ中沢新一というところだ。彼らは初源の言語の出生の秘密を知っていたから、繰り返されない言語を求めて、分節化した言語にはとらえることができない世界を描くため、あえて語彙を多義化する奇術をやってのけたのである。

自己表出と指示表出の網の目において言語の初発の動機と言語域を確定した吉本にしても、自身の言語体験により自覚的であるためには、バタイユや中沢新一などと同じように、あらためて初源の言語の意味を反芻しないわけにはいかなかった。吉本がマルクスの価値論から一歩ぬけだして『言語にとって美とはなにか』の掌からとびたったときにみえたのは、ひとつは、言語の範囲を、前コミニュニケーションの段階である胎児期、1歳未満の乳児期まで拡大して、この乳胎児が母親とのあいだにかわす濃密な関係に、言語と同等な息吹を吹き込んでからである。言語の自己表出や指示表出が、とりわけ、意識の前面に拡がった領域で自己や他者、対象との外向けのコミュニケーションを指すとすれば、反対にここでは、内側に傾いたコミュニケーションの物語をあとづけていることになる。乳胎児期の子供と母親との心的なつながりへの着目は、ほとんど無意識が支配する言語世界を開拓したことになるから、自己表出と指示表出の枠組みをよりおおきく拡大することになった。それは聞きとられたり書き取られたりして発語された言語の世界ではなく、いわば、指示性ゼロの内言語を対象にしており、それだけにむしろ、その後の人格形成の基盤をつくるものとされている。この親から子供へ向けての一方的な言語の異和がおこれば、とりかえしのつかないほど子供の心を傷つけ、のちのち、病的な妄想や幻覚、作為体験などがおこりやすい素質をつくる原因にもなるとされた。

なぜなら、吉本の見方によると、母親が乳児・胎児期の子供との接触の中で、母親の方が不安定な心的状態にあると、それは必ず情緒不安定な気質や資質として産まれた子供に刷り込まれるからだ。そういう無意識が荒れた子供が大きくなれば、正常と異常とのあいだの障壁が低いため、正常から異常へ容易に移りやすく、のちに幻覚や幻聴など自己表出と指示表出に異変が起こるようになると言われている。つまり、それを回復させるには厖大なエネルギーを要する心的負荷を引き受けなければならなくなる。一生涯のうち心の形成で一番大切な時期があるとすれば、人類がはじめて未明の心的状態から言語を発した野蛮・未開の段階にあった頃に類比できる誕生の物語の中にしかないとしたのである。

やがて、吉本は、初源の言語を乳胎児段階と人類の未明段階に結びつけるために、言語論にある膨らみをもたせるようになった。つまり、言表行為は純粋意識の活動ではなく、自己表出は内臓の動きや心の動きに関連し、指示表出は感覚の動きにつらなっており、そのことから言語は、情動性と感覚性が織りあわさった関係の産物としたのである。人間の表現は、一方で、内臓の働きにかかわるものとして植物神経系と結びあい、もう一方では、眼や耳など動物神経で働いている器官にひきよせることができる。表現活動の根本にまでさかのぼれば、それぞれ植物神経系は自己表出に関与し、動物神経系は指示表出に関わっているとしたことだ。つまり、言語をメタフィジックの極点に立たせたら、人間の生理的、身体的な部分にまで下降してとらえることが可能であり、極端にいえば、言語は、心(情動)と脳の結び目において発せられるとみなされているのである。これは吉本が、『言語にとって美とはなにか』以降、沈黙の言語をも包摂しながら、言語領域を著しく拡大させた結果であった。

しかし、彼の言語領域の拡大はこれだけではなかった。次に、吉本は、自己表出と指示表出の織りなした範囲を逸脱する品詞があること、また、ある言語が示すイメージとは全くことなるイメージを持っているとしても、それも言語として認められるとしている。いいかえれば、言語の「異常性」において言語の価値の幅は拡げられるとみなしていることだ。言語の価値についてわたしたちの喚起するイメージは、およそ、先入観によって決定される。たとえば、「美しい」という言語で、普通に思い浮かべるイメージは、木々の緑であったり、赤く咲き乱れた花だったりする。ところが、これとは全く別なものを「美しい」と見なしたとすると、「美しい」という形容詞が、通常の自己表出と指示表出の表出レベル以下か以上かのレベルで使われたことになる。そればかりか、どうかすると、「美しい」ものと「美しくない」ものがひっくり返っていたりすることもある。このような転倒においては、一瞬、使われるべき言葉でないものが、使われてしまった過不足感にさいなまれることが多いが、その種の言語と異和結合したイメージや概念は、正常と異常の垣根をこえてしまうことで、わたしたちを言語の成り立ちの現場に立ち会わせ、未明の闇を照らしだす役割をはたしている。わたしたちは、なにげなく、善と悪、正義と不正義、聖と俗と並べて、それが指すものがどういうものかわかったようなつもりになっている。善人と悪人はまったくイメージを異にした人間であり、義のない戦争はよくないが、正義の戦争は正しいと思い込まされている。

 

7 言語の逸脱

 

善人なほもつて往生を遂ぐ。況んや、悪人をや。『歎異抄』

 

 親鸞にとってこの言葉は、逆説的な意味あいをもっていない。ただ、そのまま、世間のひとたちが普通、悪人でさえも往生する、まして善人が往生するのは言うまでもないとしているのだが、弥陀の本願である他力の救いの本旨からすれば、悪人こそ救われるというように逆にならなければならないと受けとめるべきだ。このほかにも親鸞の言語思想は、愚と賢、信と不信の対立についても、宗祖にふさわしくない異常な使われ方をしている。この異常さとは、善より悪が正しく、賢より愚が正しく、信より不信が正しいというように、ひとびとの先入観にあったイメージを逆転させたものであることがわかる。あるひとにとって、「美しい」ものが、庭の木々や自然の草花ではなく、カーレースの爆音だったりするのとおなじく、ここでは「往生する」のは善人ではなく悪人ということになっている。

わたしたちは、ここで親鸞に次のような疑念をぶつけてみることもできる。弥陀の本願がほんとうなら、善人とか悪人の区別なく、同じように往生できると主張すべきではないのか。ことさら、善人と悪人をわけへだてなくても、信心の深浅にかかわりなく、すべての衆生が等しく救われるといういい方にこそ、弥陀の慈悲深さをにおわせるべきではないのか、と。事実、浄土門の一部のひとたちがそのような正統派の回答をもとめたことは疑いえない。しかし、親鸞にとって、そのようなまっとうな善意は、まだ、自力の引力の圏内にある。他力ならあくまでも悪人正機であることは自明であった。他力本願は、悪の領域を無辺に拡げることができる。意識した善意は意識しない善意にはおよばず、さらに、意識した悪意は意識しない悪意に遠くおよばない。ひとの悪行やそれについて意識しているかどうかなどの区別はものの数ではなく、実は、その裾野にひろがるたくさんの善意や悪意を溶かしこむ大きな坩堝の前で、ひとびとはいちように佇んでいる。悪人、善人という言語を成り立たせているイメージの帯域を仮定すると、親鸞は、善と悪の間には空白の帯域は存在せず、一部の帯域が重なっているか、極端に言うと、善は悪の帯域にすっぽりと包まれているかのようにみなしたはずだ。いわば、信心深いとか善行を積んでいるとか、本来、善人の範囲に含まれるようなことがらが、悪行に首根っこをつかまれているか、もしくは、すべて悪行の中に括られているかしている。こういう言語の使用方法は、おそらく、正統派の宗教思想からすれば、当時も今も禁じ手または異常にみえるはずだ。しかし、そういういい方がゆるされるなら、罪責感や自己嫌悪をぬきにしては、とうていこの世を生き延びることはできない辱世において、人間の狭い了見で善悪の境界を線引きしようとする自力の図らいが、もはや、信仰の支えにならないことはあきらかだった。

当時、飢饉、大地震、大火によって何千という死骸や浮浪者が巷にあふれ、それとともに、心の安らかさを失ってさえひとびとは、俗世への執着を断ち切れず、それが罪悪かどうかもわからないまま、一部の特権階級の輩たちにすりよって、財産や権力の亡者のような醜悪さをむきだしにしていた。そんな中、飢餓や病苦が衆生にもたらしたのは、現世の安心立命への願いだけではなかった。生への執着が悪なら、死への執着も悪にちがいなかったが、明日はわが身かもしれない死への怖れとともに、汚濁した現世への嫌悪感も渦まいていた。また、念仏を称える間もなく死んでいくひとびとにとって、往生するための念仏は一念でよいかというような、一見、矮小ともとれる問いかけが、実は、浄土門の帰趨に関わるものとして、彼に具体的な回答を迫った。親鸞は、弟子たちにあおられて、信とは何か、不信心とは何かを本質的に問いかえさなければならなかった。

 

≪「念仏申し候へども、踊躍・歓喜の心おろそかに候ふこと、また、急ぎ浄土へ参りたき心の候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」と申し入れて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。≫ 『歎異抄』

 

 弥陀如来が衆生を救済すると約束した四十八願のうち、特に、第十八願に対する報恩が繰り返されるフレ-ズの中に、突然、闖入されるこの「信」の不確実さはなにか。これは念仏者として専修念仏に帰してのちも、親鸞が、終生、抱きつづけた信の揺らぎの表明であるが、決して罪の意識や懺悔の告白だけに終わっていない。親鸞においては、信そのものの出発点が、不可避に不信や懐疑を包摂しているとしかいいようがないほど、その言語は生の初源から発せられているからである。この言語の指示性の場所は、明らかに前提された浄土(死)の空の場所ではなく、現実嫌悪を抱きつつも、「死ねば死にきり」という煩悩にまみれた現世の意識が倒れ込んだ地上の場所であり、善悪以前の場所でもある。おそらく、これらの言語の背後には、飢餓や病苦に苦しむ衆生が、一刻も早く娑婆の苦しみから解放されたいと浄土に憧れながらも、源信の時代のように、素朴に、念仏と浄土の世界のつながりを信じきれない懐疑が隠されていたとおもわれる。死は一方で生の反面であると同時に、生の代償でしかなかったからである。

 こういう衆生の懐疑に向かって開かれていた親鸞の言語思想は、念仏門に心が定まってのちも、この不信に面して、絶えず、意識的な相対化を忘れなかった、親鸞における信と不信の隙間は、いわば、紙一重である。親鸞にとっての信は、信と不信とを同時に見渡すことのできる垂直の上空に台座が据えられていた。したがって、そこからみると、信と不信はある契機をぬきにすると全く等価である。というよりも、むしろ、はじまりにおいて、不信につながる信を不確実性の意識として包みこんでいたとおもえる。もっと極端にいえば、親鸞に救いという思想が果たしてあったのかどうかさえ疑いたくなる。これは、彼の浄土門という仏門の世界が、現実意識として人間の実存の内奥に感応したところによびよせた方便にすぎず、まず、浄土があって、それにどう近づくかにのみ心をくだいたと、俗に流布されている易行の念仏者の面影とは全く別の顔をもっていたことをうかがわせる。親鸞の現実意識が、ここから何を得たのかを、直接、確かめるすべはないが、ただ、飢えて、明日の命を保証されない衆生がうごめいているにもかかわらず、このような世相になんら答えるすべもなく、加持祈祷を繰り返しているにすぎない既成仏教は、自らの涸渇した言語イメージの内側に佇ちつくしている醜悪さそのものと映ったことはまちがいない。この場所にこそ親鸞にとって、言語の起動力と世俗との格闘が出発したはずだ。

 わたしは、吉本隆明の『最後の親鸞』については、1970年代半ばの発表時にすでに読んでいた。しかし、その意味については、当時は十分読み込めたとはおもえなかった。いや、大衆の原像の繰り込みの変奏ぐらいのニュアンスだけをつかみとっただけで、それまでとはちがう吉本の立ち位置までおもいいたらなかった。今はそのとき衝撃をうけたかどうかさえ思いだすことができない。ただ、戦後知識人批判から自立思想を深めている吉本が、なぜ、絶対他力なのか不審のまま残っていて、やや意識的に再読することができるようになったのは、吉本の思想的な全体像を追うことができるようになってからだ。吉本自身は、当時、価値論としてではなく、マルクスの自然哲学の疎外論と呼びならわしていたが、わたしの吉本像からすれば、峻厳なリゴリズムを詩作に表わしていたそのままの姿から想像して、マルクスの疎外論との遠近感で彼の意識や思想をおしはかることができるとおもえるようになった。なぜ、マルクスの疎外論なのかを吉本自身がみずからの体験にひきよせて詳しく解説しており、彼の「疎外」意識や思索を辿る上では、戦争体験とその後の歩みとともに、三つの側面を想定することができるようにおもった。

ひとつは、少年期のはじめからぬきがたくもっていた疎外感の原型のようなもの、次に戦争に入れこんだ敗戦時の体験のショックの延長からうまれ、他者や現実が何も信じられなくなり自己嫌悪におちいったときの現実的なもの、そして、三番目に、同じ戦中体験に根ざしながらも、戦争の非日常性への洞察がより根底的であったため、戦後思想の体系的色づけをもたらした理念的なものの明確な区別である。60年代中頃から70年代初頭にかけてのこの三番目の時期に、『自立の思想的拠点』、『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』や『心的現象論序説』などが書かれた。更に、もっと云えば、戦後・後につながる現在と同じ認識の囲いの中におきなおしてみると、疎外意識の三側面を含め、すべてを俯瞰する視点を手に携えたとき、吉本はそれを「転向」という言葉に託して自己総括している。

 

≪こうしたいくつかの兆候を考え合わせると、日本の社会では72年を中心にした2、3年でとても大きな曲がり角を迎えたという認識に達します。72年が一つの転換点だと気づいたことによって、僕の仕事の方向性もはっきりしてきました。一つは大衆文化を本気に論評しようということ、もうひとつが都市論をキチンと考えようということです。文学評論の余技として大衆文学を論じるのではなく、大真面目に大衆文化の問題を正面に据えなければいけないと思ったし、都市の実態をもう一回考え直さなければいけないということになりました。≫『わが転向』 吉本隆明著

 

 ここでいういくつかの兆候とは、たとえば、1970年代を境にして軽い文学・ポップ・カルチャーなどの明るい感性に乗って、映像、音楽、ファッションを中心にした知識や教養が社会の全面に台頭し始めたことや、また、経済・社会的には、流通、サービスなど第三次産業に従事するひとの割合が働く人の過半数を占め、国民総生産も第二次産業を追い抜いたこと、また、ミネラルウォーターが売られはじめたことに象徴されるように価値法則が崩れたこと、国民の9割が中流意識化して、マルクス主義を中心とした左翼陣営の寄って立つ基盤が喪失したこと、都心を中心に超高層ビルが林立し始めたことなど、都市の風景が外貌でもひとびとの内面意識からも一変したことをさしている。これらを「現在」の出現と呼び、吉本は「超資本主義」への転換期とみなした。この時点において、吉本自身、従来の思考方法からの舵切りを迫られ、転向を強いられたと振りかえっているのだが、わたしには、この転向は、迫りくる現実感覚・イメージの変容のスピードに対して、吉本の現実に対する理念的な受容が追いつかず、言語の自己表出性の内部において理念の総体が崩れてしまったことで、明らかに一次元飛躍した四番目の疎外意識がもたらされた結果とみなすことができる。いわば、疎外感の現実感覚・イメージの変化のスピードというとらえどころのなさが、自己の言語意識に引き寄せて直視されたとき、理念的な現実認識そのものの再検討が問われたのだとおもえる。

やがて、予想を超える大衆消費社会状況の進展に歩調をあわせるように、自立の姿勢にニュアンスの変調が起こり、吉本の疎外意識に転機が訪れる。つまり、資本主義から資本主義ではない何者かへの移行期という臨死体験としての「現在」の着地点そのものが、社会システムの「死」を見据えたものであるかぎり、吉本自身、未知という「死」からの視点をいやおうなく引き受けたともいえるのだ。その結果として、「死」の彼方に延びる疎外意識の未知を選択したことこそ、吉本の「現在」を象徴しているといわなければならなかった。おそらく、この未知へのステップになったのが、この『最後の親鸞』の執筆である。

 読みようによっては、この本は、自立の往相、還相を親鸞の思想に投射したものとみえ、従来からの自立思想の焼き直しと映るかもしれない。だが、ここにおいて屹立する自立の姿勢が、現実像の変容の不可避性の只中で、居場所を失い、疎外感を映している現実というもののとらえどころのなさが凝視されて、自立の足場そのものの再検討が求められていたのだ。だからこそ、吉本からみた親鸞という思想家は、現実に対してどこまでも開かれていなければならなかった。

まず、親鸞の生きた時代は、慢性の飢饉状態と天変地異が頻発している。こういう死と鼻をつきあわせたような民衆の生活状態に対して、どんな理念が民衆を救済できるかという親鸞の自問が最初にあった。このとき、親鸞は、どんなに親身になろうと、どんなに深くかかわっても、自分を救済できないのと同じように、ひとびとを救済することはむずかしく、そうできる保証はどこにも得られない。むしろ、ひとびとは、生きているあいだ救済されないことの方が確からしい。それなら、死に臨んでいるひとびとにできることといえば、死後の世界の浄福を説き、浄福者となったのちに、また現世にもどってくることを教えるしかないことをおもい知る。これが餓えて死んでいくものたちの唯一の答えになるかどうかは分からないが、それ以外には方法がないという選択は、絶対他力の世界による救を求めざるを得なかったのである。

 だが、そのような安息すら現実はやすやすと許してはくれない。第一、死後の世界の浄福のためとはいっても、称名念仏と浄土のあいだに、はっきりとした確約がとれる人間などいないのではないか。なぜなら、煩悩に迷い救いをみいだそうとする人間は、どこまでいっても煩悩そのものによって救われるほかない人間的な存在にちがいないからである。ここにいたって、吉本は、再び現実をつきはなしてしまう親鸞をのぞきこんでいる。つまり、親鸞の「機縁」の概念を借りて、人間はただ、不可避にうながされて生きるものだとして、称名念仏を媒介にして浄土とかろうじて結ばれていた浄土教の理念を疑義に晒してしまうのである。

 こうして最後の親鸞は、この不可避性の極限において、「機縁」自体を自己解体してしまう。いいかえれば、「信心」そのものの解体ですらある。「知」から「絶対他力」に跳びこそうとすれば、どうしても、念仏を棄てようと棄てまいと「面々の御計なり」という地点まで超えていってしまうからである。ここに吉本は、「知」と「愚」がともに相対化され「知」を放棄する親鸞の思想の最後の着地点をみいだした。

 

≪<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。≫『最後の親鸞』 吉本隆明著

 

 わたしたちが、ここで親鸞の最後にみるのは、現実というものに面し、その確からしく思われたものが不可避性の衣をまとっていたことで、主体そのものが自らの基盤を喪失してしまうことにでもたとえられそうな相対化の極限にほかならない。そのあげく出てきたのは「死」からの視点だけが確実な「世界視線」というものであった。それまでの吉本の疎外意識は、敗戦時に破れた心の空白を跡づけ反転しながら、自己と現実の熾烈な格闘にも似た姿勢を持続してきた。しかし、ここにきて、その自己理念の距離感すら相対化の波に洗われ、動揺にさらされているかにみえた。もちろん、還流すべき「非知」は、自覚的な過程としてだけなら、一方で、彼が戦後知識人批判の武器にした「大衆の原像」への回帰という理念的な疎外意識の帰結と受けとれなくはないが、むしろ、ここでは「大衆の原像」の意識そのものが、メタレベルに転移されていることが特徴であった。つまり、「知」と現実がパラレルに対応していたはずだったが、「大衆の原像」が遠のいた分だけ、死からの視線の照り返しをうけて「知」は均衡を失い、歪んだ鏡のように「知」におさまりきれない現実の相貌を、一瞬、垣間見せてしまったのである。いわば、現実を掬ったはずの言語が現実を切れ切れの断片に刻んでしまうようになったため、現実や大衆という名の固形のシンボルを言語の中心に呼び込むことができなくなってしまったのである。この変質は、現実的意識の変貌の速度が勢いを増し、もはや、大衆自身の手のとどかないところまで、肥大化した兆候にはちがいなかったが、裏面では、戦後社会が一階梯を終え、ようやく知識人に依存しない大衆像の片鱗をみせたことでもあった。吉本は、ここではじめて「知」をふりかざす知識人や大衆の概念の「死」というものに当面し、資本主義の「死」の感触にまで手を届かせようとしていたのである。

 言語思想の死は、人間の死への対面によってよりあからさまに、かつ重層的に出現する。つまり、死は、生とのコントラストにおいて、生に侵蝕し、言語の逸脱や越境をまねきよせるからだ。だが、そのためには死がいたるところに偏在しているという条件がいる。善悪が二重写しになってはじめて、生も言語もあらたな意味を付与されるのと同様に、死が特定の個体の死であったり、生から直線で伸びる時間の点であったりした場合は、生は揺るぎようがないし、言語も硬い鎧をぬぐことができない。そこでは、死は時間的に生の途切れた点から発生するとか、空間的に離れたところから順序よく訪れるというような迷妄が厳密に排除されなくてはならない。

わたしたちが、ありふれた思想に納得するのは、成人して勤めはじめ、結婚し、それから子供を育て、巣立ち、やがて年老いてゆくという順序の線上に人生を刻んでいることを受け入れてしまうからだ。その反動から、途中からその軌跡が途切れたり、屈曲したりすると、ありふれた生活でなくなったとおもいこみ、ひとびとはわが身にふりかかった不幸を嘆くことになる。あるいは、世の中のことが何もかもわかったつもりの若年寄のように、無常観とすれすれの場所で世捨て人の思想をいだくきっかけになったりする。それら両方とも嘘っぽいのは、自分に対する思想と自分が他者のなかで位置づけられている関係づけの異変に気がつかない理由によるとおもわれる。つまり、自分の方からみる視線と、向こう側から見る視線はおのずと喰いちがっていることがわからない錯誤、または「関係妄想」であるほかない。そういう齟齬をつうじて、吉本は自己幻想(自己意識)と共同幻想のちがいの中から死の触感を次のようにたどることができた。

 

≪人間の生理的な<死>が、人間にとって心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい<死>は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい想像や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。人間にとって<死>に特異さがあるとすれば、生理的にはいつも個体の<死>としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の<死>としてしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの<死>についての怖れや不安でさえも、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想としてあらわれるのだ。≫『共同幻想論』 吉本隆明著

 

 ハイデッガーなどの場合には、死に向かう現存在が、なぜ、死を前にして恐れ不安を感じなければならないのかの理由について、なんら本質的な回答を与えているとはいえない。というより、むしろ、死者のどのような死が、また、誰の死を契機に死を自分自身の問題として感じなければならなかったかが不明のまま、現存在が現存在自身の否定によって引き受けられた死が当然であるかのように、そのまま受けとめられている。普通なら、死の意識にいたるのには、当然、その行程があるべきはずなのだが、それを無視してそのまま死に着地する点や面を拡大鏡にかけたように覗き込んでいるような印象を受ける。

ところが、吉本にとっては、死の問題はハイデッガーとはちがって、自分が心的に体験できないだけではなく、他者の死さえ切実には接近できないことが、はじめに前提にされている。にもかかわらず、死が目前の恐怖であったり、漠然とした不安であったりするのはなぜかという点に、死の問題のつかみどころのなさをかぎわけた。そのような問いかけは、現実界には肉親や隣人の死と家族の悲しみという事実があるが、ひとは死そのものよりも、そのすぐそばの死でさえも十分にわがものにすることはできない絶望にこそ、死の真実があるかのように、他者の悲しみをじぶんのものにすることはできないというところからはじめているのだ。他者の死はじぶんの不安とは直接的につながらない。もし、つながりうるとしたら、ただ、共同幻想という鏡をとおして、その彼岸に死を仮構することよりほかにはできないとみなされた。

吉本の『共同幻想論』においては、自己幻想のなかに組み込まれた共同幻想として、死は共同幻想の彼岸にある「他界」観念にとりこまれている。その場合、吉本が共同幻想として想定している心性は、柳田国男の『遠野物語』を材料にしていることからわかるとおり、およそ、原始未明の心性ではなく、個体の意識と村人の共同性の観念が矛盾し、利害がからまった世界である。つまり、原始未明の意識から遠く離れて、個体の意識がともすれば、共同性の意識とぶつかりあい、ある意味で矛盾や桎梏をともなう世界の出来事をベースにしているから、その中では死は特定の場所をもちようがなく、あるとすれば、共同幻想の彼岸や自己意識の中でしかありえない。その共同幻想を媒介にしてしか、死という未体験ゾーンへの切り込みは本質的に提起できないとしたのである。

吉本は、ここで、共同幻想と自己幻想が分化した段階においては、死の意識をかたちづくる「分からなさ」と「不安」は矛盾なく同時にひとに訪れる心性だと言いたいようにおもえる。なぜなら、彼の規定からすれば、死は人間の自己幻想が極限のかたちで共同幻想に「侵蝕」された状態と想定されているからである。「分からなさ」とは、共同幻想自体の分からなさであり、吉本の言葉でいえば、自己幻想と逆立した共同幻想によって侵蝕された状態の分からなさである。この分からなさは、同時に、共同幻想から疎外された心性を喚起し、共同幻想の彼岸の「他界」観念とは、このような疎外意識によってもたらされる。おそらく、このメカニズムによって、「類」としての人間は転倒する。この転倒はおおく、死の不安として関係妄想によって定義されるはずだ。

もし、この死を関係妄想というように考えれば、人間の自己意識の了解構造の異和にこそ、転倒の影が牽引されているとみなければならない。共同幻想によって自己幻想が侵蝕されたと解釈しようと、自己幻想の中に共同幻想が覆いをもたらすと考えようと、ともに死が決して単独では個体の自己意識の俎上にはのぼらないことをみとめなければならないからだ。ところが、前述した三浦つとむの場合は、死を自己意識の「客観的関係」に還元しようとする。

 

 わたしは死ぬだろ

 

三浦つとむはこの一文の中で、現実には生きている「わたし」が、家族の悲しみをさそって棺桶に納まった死後の観念的世界を想像し、現実と想像が複雑にからみあった「客観的関係」のしくみから、不安にかられた「わたし」の意識と心情を抽出しようとした。その場合、「わたし」という主体にとって、死後の観念的世界と現実界の双方に二重化されるだけではなく、同時に、現実の「わたし」以外にその想像世界の中でそれに対面している観念的な「わたし」を疎外して、自分自身が二重化することを意味している。将来の自分の棺桶姿を前にそれに対坐しているもうひとりの架空の自分を「客観的関係」として設定し、そのときの葬儀の様子や自分がいなくなったあとのさびしい家族のゆくえが細やかに思い描かれ、やがて、それが現在の自分ではなく、将来の自分であることを示すように、最後に現実の「わたし」に戻り、「う」という推量の助動詞でしめくくられていることになる。

この一文の中には、こういう現在の客観的関係と将来の客観的関係の往復が含まれ、「わたし」の立場の移行や飛躍が時間として仕組まれていることが理解できる。しかしながら、ここには、現在の「わたし」と将来の想像上の「わたし」との間には、観念的な往来はあるものの、共通の直線の時間が流れており、それによってその時間の流れが途切れたり、異和を発したりすることはない。いわば、死に向かって同時に、「ひとは死ぬ」という場合と現在の時間の延長線上に、自己の現在を認めるにすぎないから、そのことがどうして現在の自分を威嚇するかについては、依然、不明のままになっている。全体をつうじて、物や植物が生成と死滅を繰り返すと同じように、ひとが一般的に「死ぬ」ということの意味を飴のようにひっぱっているところに時間の要点であり、それが「わたしの死」に無言の圧力を加えて、自己意識の動揺や心のゆらぎをおこすことはないからだ。そのため、三浦の解釈なら、語り手の心の中にも、まるで、ゆらぎがないかのような安定した言語の意味作用のみが残ってしまう。

しかし、死は共同幻想によって多義的にあらわれることのみが生と死をつなぐ環にほかならない。ともすれば、死は将来の想像の産物とおもわれがちであるが、それは共同幻想によって紡がれたものでしかないのであって、「わたしは死ぬだろ」というのも、もちろん、死を個体の未体験ゾーンと考えた場合、共同の幻想の一般的なあて込みでしかない。それをみずからのものとして追認するためには「う」という推量の助動詞が必要であった。つまり、「わたしは死ぬだろう」という一文の中には、すでに、共同幻想に組み込まれた自己幻想のありかが時間性の相違としてひとびとに不安や恐れを生じることが決定づけられている。つまり、自分の想像世界とおもっていても、実は、家族や隣人の死でしかおしはかることができない遠方の時間を、自己幻想の時間に無理やり圧縮したような心持ちをさそうカラクリが隠されているのだ。逆にいえば、自己幻想に繰り込まれた共同幻想と自己意識との角逐や離反が予想されており、言語思想の一文としてみれば、死の意識は、たえず、人間の「個」と「類」の「絶対的な矛盾」そのものとしてあらわれざるをえないのである。

それは共同幻想からの疎外感の表われには相違ないが、そうはいっても、あくまでも自己意識の転倒でしかないから、逆に、死の意識は共同幻想に対する渇望の表現というわけにはいかないとおもえる。実際に吉本が例に挙げているところによれば、遠野の鷹匠は山奥で山人に出会い、格闘したあと家に帰り、死ぬかもしれないとおもいながら、3日ほどして実際に死んでしまった。ほんとうは疲労困憊して幻覚におそわれ、足をすべらして谷底におちて打ちどころが悪く、死んでしまったという事実にすぎないが、山人という共同幻想の対象との関係づけで死んだ場面にかぎってみれば、共同幻想への同致によって死を包み込むことで、みずからまねき寄せた死と解釈することができる。その場合にも、死の欲望がすなわち共同幻想への渇望ということで考えられなくもない。わたしたちが死に対して抱く不安や恐怖を見透かしてみると、家族、親族、友人との「関係」の断絶にともなう感情であることは、手安く予想できるからだ。

共同幻想への渇望にみえるかもしれないそのような見方に対する吉本の答えはふたとおり用意されていた。ひとつは、そういう死への渇望がおきるときには、必ず、背景に共同体生活の経済的な貧困など現実的な人間「関係」の不全が横たわっていることである。もうひとつは、『共同幻想論』のテーマである「関係」の位相の違いという方法で切開できると考えられた。自己幻想や対幻想に取り込まれるはずのない共同幻想が割って入ること自体の迷妄については、吉本にとっては莫大な犠牲がともなっていた。戦争中、有無を言わせず、死ぬことは国家という共同幻想への同致を意味したから、彼は三島由紀夫のように共同幻想への渇望という言葉を選ぶことができなかった。渇望は一方通行のものであったし、敗戦によって死にきれない自分と共同幻想との距離感を寒々と体験した彼は、死とは共同幻想への関係妄想の産物としか言いえなかったのである。

 

8 死の中で考えること

 

そういう関係妄想の世界からいったん離陸して、人間はどうあるべきかを考えようとしたら、どんな答えが紡ぎだせるのだろうか。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、学問とは何か、宗教とは何かを、死の底に触れるように教えてくれる。宮沢賢治があたかも死という背景の中に浮かんでから、人間が考えることは一体何なのかを問い詰めているからだとおもえる。主人公のジョバンニは、活版所でアルバイトをしながら学校にかよっている内気な少年である。以前は、学校帰りに同級生のカムパネイラの家に寄って遊んだりしていたのだが、今は仕事がつらく、学校でも疲れていて、あまり話しをしないような間柄になっている。ジョバンニの父親は漁に出たままなのか、それとも噂どおり監獄に入っているのかはわからないが、家に帰ってこないことで、学校のみんなからからかわれたり、仕事場でも冷たい視線を感じている。

星祭りの夜だった。ジョバンニは学校から母親が病気で伏せっている家に帰ると、その日、配達されなかった牛乳を取りにでかける。途中で同級生のザネリに会い、また、父親のことをからかわれてしまう。もう少し行くと、同級生たちが烏瓜の灯りを川に流すところに出くわす。その中には、カムパネイラの姿もあった。牛乳屋で牛乳のできるのを待つうちにジョバンニは、牧場の上の丘の上に立つと、天の川が南から北にむかってわたっていくのが見えた。頂の天気輪の柱の下に寝ころがって夜空を仰いでいたところ、突然、野原から汽車の音が聞こえてきたかとおもうと、いつのまにか銀河ステーションからその列車に乗り込んでいることに気づく。

天の川の岸に沿って南に走る列車の窓からのぞむ風景は、あくまでも青白く澄み切っている。しばらくすると、目の前に、いるはずがないカムパネイラが少し青ざめた顔色で座って、黙って外の景色を見ている。列車は銀色の空の下、すすきの揺れる中を進んでいく。眼下の天の川の水はガラスよりも透きとおって、波をたてながら虹のように流れている。紫のりんどうの花があたり一面に咲きほこっている野原のあちこちには、幻燈のように青白い燐光の三角標があっちにもこっちにも立っている。夜の11時きっかりに列車は白鳥の停車場に着いた。二人は列車をおり、砂が一面の水晶の川原におりたって、そっと水に手を浸してみると、水は水素よりも軽く透きとおっている。もう少し歩くと、プリオシン海岸という広場に突きあたり、学者らが百二十万年前の化石を掘りだしているのに出会って話しを聞いたりする。

それから、列車に戻って、もとの車席から窓の外をのぞいていると、ぼろぼろの外套を着て、荷物をいっぱい肩にかけた赤ひげの男が乗り込んでくる。この男、いかにもがさがさした言葉使いで「わっしは、鳥をつかまえる商売でね」と自己紹介する。鶴や雁やさぎが川原に降りてくるところをまっていて、地面に足がつくかつかないうちに押さえ込むのだと言う。すると鳥たちは安心して死んでしまうから、あとは押し葉にするらしい。その押し葉の鳥たちを取り出して、ジョバンニとカムパネイラに食べろとすすめた。それはチョコレートのような甘い味がする。そういったかと思うといつのまにか、鳥採りは、汽車の外で川原に舞いおりた鳥を獲っている。こんな男だが、汽車を降りる間際になってみると、ジョバンニは訳もなく無性に切なくなって、このひとのためならなんでもしようという不思議な気持ちがわきあがるのを感じてしまう。

入れかわるように、黒い洋服を着た青年と幼い姉と弟が連れだって、隣の席に乗り込んできた。青年の話では、どうやら三人は船に乗っていたのだが、氷山にぶつかって沈没した姉弟と家庭教師らしく、避難ボートに乗り移るときに小さな子供を押しのける勇気がなくて、一瞬、戸惑ったため乗りおくれ、冷たい海に投げ出されたらしい。青年は祈るように語り始めた。すると、汽車の中は聞きなれた306番の讃美歌の節がどこからともなく聞こえてきた。 

天の川の水面を飛び跳ねるイルカの群れや、鉄砲玉のように飛んでいく何万もの鳥たちを見ながら、カムパネイラと姉の女の子は親しく話しはじめている。ジョバンニは、突然、孤独感がこみ上げて来て、カムパネイラに嫉妬する。そして、時計がきっかり2時をさした頃、遠くの方から「新世界交響曲」の旋律が響いてくると、窓の外には大きなとうもろこしの葉が風に揺れて、インディアンが弓に矢をつがえて汽車を追ってくるのがみえる。汽車はやがて、急な斜面を川面にめがけて速度を上げてどんどん下っていく。真っ赤なサソリの火を飛び越して、やがて列車はケンタウル村の祭りを過ぎ、もうじきサウザンクロスに着く頃で、青年は姉弟に降りるときだと告げた。

いよいよ、ジョバンニと青年と姉と男との別れのときがやってくる。ジョバンニのもっている切符はどこまでも乗っていくことができるのだから、ジョバンニは二人を引きとめようとする。しかし、青年たちは天国へいく駅におりなければならないと断ってしまう。そのとき、ジャバンニは「天上になんていかなくてもいい、ここで天上よりももっといいところをこさえなければならないんだ」と懸命に訴える。そして、あなたの神さまは嘘の神様だ、と彼はほんとうのたった一人の神様のことを言ってしまう。キリスト教の神様などではなく、ひとりのほんとうの神様のことをジョバンニは言いたかったのだ。そのとき、天の川の川下に青や橙の十字架が立って輝きみえた。汽車の中のみんなはざわざわと十字の方角に向かって、いちおうに祈りを捧げはじめた。「ハレルヤ」「ハレルヤ」とみんなの声が響きわたり、列車は十字架の前に停まった。彼らは黙ったまま行ってしまう。

とうとうジョバンニはカムパネイラと二人きりになってしまって、ジョバンニはカルパネイラにどこまでも一緒に行こうと話しかける。彼らは天の川の一角にある大きな真っ黒な穴の向こうにあるような、みんなのほんとうの幸せを探しに行こうと約束しあう。ところが、すぐさまカルパネイラは綺麗な野原を指さし、あそこにいるのはお母さんと叫んだかとおもうと、ジャパンニの前から突然消えてしまった。ジョバンニは窓から体を乗りだして、力いっぱい大きな声で鳴き叫んだ。すると、どこからともなく、いままで、ときどき聞こえてきた例の声が聞こえてきて、振り返ると大きな帽子をかぶった青白い顔の大人が、カルパネイラがいた席に座っていた。

その大人は、ひとはみんなほんとうの幸せをさがそうとするのだが、その途中でカルパネイラのように姿を消してしまう。でも、カルパネイラのような子のことをほんとうにおもうなら、ジョバンニはその切符をもって、その夢を追いかけなければならないと言う。今ではだれも水は酸素と水素からできていることを知っている。でも、昔は水銀と塩でできていると言ったりして、自分の方が真実に近いと議論したり、勝負がつかないで敵対したりしてきた。そして、その大人は次のように語る。

 

≪もしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる。≫

 

この大人がもっていた辞典には、過去から現在までの地理と歴史が載っていた。紀元前千二百年前のひとが考えていた地理と歴史、また紀元前千年のひとが考えていた世界、そこには今とはまったく違った世界観が繰り拡げられていた。自分たちの考えだってこれと同じで、後のひとたちがみたら変に映るにちがいない。それを聞いたジョバンニは、汽車やその人や天の川のことが、一瞬、頭の中から消え失せたように感じた。あらゆる世界や歴史がぽかんとがらんどうのように消えた。ジョバンニの実験は、きっと、これらが消え失せたところから、これらのきれぎれの真実を見分ける実験の方法をつくりださなければならないようにおもえた。ジョバンニは、お母さんのためにも、カルパネイラのためにも、みんなのためにもほんとうの幸せを探そうと決意する。その大人は、ジョバンニに向かって、もはや夢の鉄道ではなく、ほんとうの厳しい現実世界の只中で、その切符を抱きしめて生きていかなければならないと静かに語る。すると、いつのまにか、ジョバンニから天の川は遠くなって、風が吹く丘の上に立っていた。

眠りから目覚め、目を開いて現実に戻ったジョバンニは丘をおり、急いでお母さんのための牛乳を取りに向かった。大通りにでると、そこでは橋の方を向いてひとがたくさん集まっている。分け入って聞くと、ザネリが烏瓜の灯りを川に流そうとして水に落ちた。すると咄嗟にカルパネイラが水に飛び込んで、ザネリを岸におしやって助けたのだが、カルパネイラは行方不明になったという。カルパネイラのお父さんもやってきて、懸命に探すのだが、落ちてからすでに45分も経っているから絶望的だった。ジョバンニは銀河鉄道で出会ったカルパネイラは、きっと、天国に召される途中だったにちがいないとおもった。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の魅力はふたつある。ひとつは、天の川の川原にそって、汽車の窓から繰り拡げられる目線そのものの特異さである。決して、真空の宇宙空間を遊泳しているのではなく、青さを基調にする現実の世界を4次元のスクリーンに映したら、天の川の透きとおったパノラマや大地の果てまで続くすすきやとうもろこし畑は、きっと、このようにみえるにちがいないとおもわせる。そこでは、現実の日々の暮らしと同じように、川原には水晶のような水が流れ、魚をとるため発破をしかけたり、考古学調査があったり、リンゴを作る農園があったり、アメリカの大地のようにインディアンがいたりする。幻想的にはちがいないが、現実との接点は保ち続けているのである。

もうひとつは、宮沢賢治の思想が読者にはっきりと読みとれるように書かれていることだ。この思想的体験にも二色ある。第一は、彼のユートピア思想が点綴するように現われている箇所がある。たとえば、銀河鉄道自体、スティームや電気で動くのではなく、ただ動くように決まっているから動いている様子。また、鳥採りが瞬間移動したかのように列車の内外を往来するので、理由を聞くと「来ようとしたから来たんです」と言うところや、リンゴ園ではたいていは自分の望む種子さえ播けば、農業は骨おれることなく、ひとりでにどんどんできるというところである。ここには、北国の延々と降り続く雪の中で、歩く道筋を飛び越したいというような空間の剥離の思いや、動力も不足がちだから手仕事で、冷害や害虫に悩まされながら稲や作物をつくらなければならない農業の悪戦苦闘が反転して滲みでているからだ。

このユートピア思想については、いずれ技術の進歩によってどうにか片づくようにおもえるのだが、第二の倫理的体験は容易ではない。彼がいう「ほんとうの考え」や「ほんとうの神様」は、ひとびとの「ほんとうの幸せ」に結合するものだから、ともすれば、わたしたちを真空の中に迷わせ、心震わせるものになって迫ってくる。つまり、ほんとうの幸せにつながるほんとうの考えやほんとうの宗教という言語思想への問いかけは、かつて、わたしたちの日常では発せられることのなかった設問におもえてならない。こういう初源の問いかけは、 早熟の子供のものにちがいないから、もし、大人たちが子供からこのような問いかけをされるとすれば、なんと答えたらいいか、皆目、見当がつかないのだ。

それでも、ほんとうの考えに近づく方法への道すじは、ジョバンニがどこまでも行くことのできる銀河鉄道の切符のことを知り、あらゆる時代の世界の歴史やキリスト教の歴史やが、ぽかんとがらんどうのように消えた瞬間からはじまっている。キリスト教の歴史は、青年や姉弟の敬虔さや善意の塊によって形づくられているのだが、それでも、歴史の裏面には、敬虔さや善意でははかり知れない中性の悪意で満たされているといってもよい。それだけに、ジョバンニのぽかんとがらんどうの感情は、このような神が守っていた「聖」と「俗」、「善」と「悪」の囲いを期せずして解き放って、異次元の世界に誘う発端になった。その現われは、鳥採りという登場人物によって、密かに予感されている。

この鳥採りは、がさつな言葉使いと容貌と不思議な瞬間移動の能力をあわせもった人物として描かれており、他の人物とはきわだって、現実感をもった味わいをかもしだしている。宮沢は、一見して、夢の世界を走り続ける銀河鉄道にはふさわしくない風貌と個性を登場させることによって、作品の段差をつくりだすことに成功している。だからこそ、ジョバンニもカルパネイラも、この鳥採りがいなくなって、妙に寂しくなり、もっとこのひとの話しを聞いておけばよかったとか、このひとのために尽くしてあげたいという感情にとらわれる。つまり、この人物に象徴されているのは、いわば、「聖」と「俗」との合流地点であり、「善」と「悪」がまじりあった俗世の還流場所にほかならないのである。宮沢はこの合流地点にほんとうの考えとほんとうの宗教のまじわりを仄めかしたのだとおもう。わたしは、この鳥採りが登場しなければ、この銀河鉄道は、単なる天国へつうじる聖域にすぎなかったのであり、この鳥採りによって、ジョバンニの切符がほんとうの幸せに向かう無限切符と気づかれたことは、とても意味深いことであったとおもえる。

いつの世の中にも、ほんとうに甘ったるい聖人や、聖を振り回す俗人はいたが、ひとになくてはならない思いを抱かせる聖と俗がまじりあったほんとうの聖人はいなかった。ほんとうの考えは、聖人と俗人が交わったブラックホールのようなところに隠されている。それが見えないということは、放射能や善意や悪意が見えないということではない。放射能なら感覚を少し引き上げた程度の検知器でわかるし、もしかしたら、善意や悪意も容易に経済関係に還元することができるかもしれない。わたしたちの錯誤や疲労の多くは、この見えないものを無理に見ようとして、感覚をとぎすませる徒労からもたらされた。だが、感覚だけをいくらとぎすませても、ほんとうの実験機械がないかぎりほんとうの考えは導きだせないのだ。わたしたちは他人の微かな表情から真意を読みとり、インターネットのきれぎれの活字からひとの表情を読み取ろうとする。ほんとうの考えは、そんな感覚の探り合いの中には存在しないにもかかわらず、無駄な感覚競争の中で議論を戦わせたり、腹のさぐりあいに明け暮れしているのである。

中途半端な関係妄想は、いわば、結論のでない無限の遜りや奢りの妄想を膨らませる。死は五感ではとらえられないのだから、はじめから終りまで生きることを前提にした放射能汚染や人間関係の感情のもつれなどは、ひとびとの心の中にいつまでも滞留して、反動的な感覚をとぎすませるにすぎない。それなら、わたしたちの感覚でわかることとわからないことをはっきりと線引きすべきなのだ。わたしたちはこの五感から離れてはじめて、ほんとうの考えや嘘の考えを区別し、ほんとうの幸せに近づく土台を築くことができるにちがいない。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の背景が、全体をとおして、青や紫の色調で統一されているのは、その土台を築くために不可欠の条件になっていた。つまり、青や紫に抽出された「死」の面影は、乱反射するような視線の所在を表現して、関係妄想から外れた可視と不可視の闘いである死の普遍化という条件でのみ、ほんとうの考えが産みだされることを示しているのである。

わたしたちの言語思想は、もはや、関係妄想の世界から飛び立たなければならない。ここでいう関係妄想とは、生と死を直線で結びつける思考方法を指している。死はほんとうの幸せを考えるときに必要条件なのだが、生と死が同じ時間の推移によって関連づけられるなら、必ず、「聖」と「俗」の対立や「善悪」の妄想から逃れられなくなる。いってみれば、あらゆる言語思想は、生と死の往来がわたしたちをさらに言語の限界に近づけ、死の中で死と闘うことにほかならないが、その死は、あくまでも不可視のものでなければならないのである。

わたしたちが言語の初源にこだわるのは、発生と死滅、つまり、死の問題が俎上にのぼってきたからである。発生と死滅のつらなりからすれば、ものの発生は死滅を前提にするし、逆に、その死滅は発生を前提にするから、人間ならDNAの発見は生死を支配する。そこでは、死の世界は胎内回帰と同じとみなしてもおかしくない。つまり、インプットとアウトプットは正確に重なり合う部分をもつ。宮沢賢治の言い廻しを借りれば、昔は、水は酸素と水素からできていることを知らないで、水銀と塩でできていると言ったりしてきた。それと同じように、普遍概念としての自然は変異しているし、もちろん、その自然の上に組み立てられてきた経済も社会も変異していなければならないはずなのだ。言語思想は発生や死滅のつらなりで、自然や社会を考えなければならないのであるが、今でも、経済学は限界効用だの使用価値などと当たり前のように迷妄を受けいれている。 

宮沢賢治の「信仰も化学と同じようになる」という視点をうけいれれば、現在が行きついた高度な視線は、この物質としての自然の外側に、素粒子への解体をとおして、生成と消滅を繰り返す「過程」が潜んでいることをみつけることができるようになった。そこでは一方では目に見えるさまざまな用途をもった物体としての同じ自然(使用価値、交換価値)が、見えない世界ではざわめき、動き、産まれ、消滅する生成の過程も内包しており、それが人間と自然の全体像を俯瞰する上で不可欠の要因になったと考えられる。マルクスによれば、有機的自然(自然の一部)としての人間は、精神あるいは肉体を使って「働きかけ」、人間の欲望をみたす有用性のために、自然を有機的自然として価値を産み出し、そのことで、逆に、自身を非有機的肉体としていく媒介関係のなかにあるが、今ではその対象たるべき自然の物体の形状や性質の巨視的構造以外に、発生、死滅の構造そのままが、分子や原子とかの微視的なモノとの二重性においてとらえなければならなくなったのである。

そして、ここでいう素粒子、分子、原子を背景にかくした構造は、いつも、時間―空間の変容によってもたらされるものだ。それらが物質の価値領域の極限を表わすとすれば、マルクスの有用性の価値あるいは交換価値の概念などは、いわば、その断片にすぎないことになる。そうであれば、逆に、そこで、極限概念としての価値に比重がかけられ、マルクスの交換価値概念が時間経路にそってあらわされるとしたら、未来の価値概念は、時間―空間の価値の変容体であり、全自然の価値化の領域が著しく拡がるほど、極限においては価値概念の不可能性が表われることが見とおされることになる。そこでは、むしろ、その極限の時間―空間の変容のなかから逆算して、現在の有用性や交換価値は位置づけられなければならないのである。このような視点を吉本隆明は社会経済的概念から普遍経済学的概念への転換と名づけた。

もし、吉本のいうように、科学が高度化して価値化の領域が無限大に拡がるとすれば、人間が人間化した自然については、さまざまな形で存在する自然とその物質の基底にある過程を相互に交叉させ疎通させることができるようになる。それがほんとうなら、「生きるためには働かなければならない」ということが人間概念の限界と考える前に「存在し変容する」という矛盾や軋轢、また、価値によってあるものは労働者になり、あるものは資本家になる類型ができることに対する疑義はより鮮明になる可能性がある。これは言いかえれば、労働価値説では理解できない貨幣の移動や価格の変動、また、人間自身においても素粒子までいかなくても、DNA鑑定によって、全体の中で個人が特定できる視界をもったことなどをあわせ考えると、個と全体の対立、自己と他者の対立、権力と反権力の対立図式を超える高度な視線が求められていることになり、この視線の先には、現在の社会が囲む時間と空間の隙間にほころびが映され、その未知の領域は限りなく拡がる。そうなれば、人間は素粒子、分子、原子を背景にかくした微視的構造と同様、動物や植物の中の一種として地表上に存在するかもしれない可能性のひとつといえるかもしれない。ここではどんな都市があるかとか、町村やどんな川が流れているかなどはどうでもいいものになってくる。また、人間や他の動物たちもその生活空間も隠された視線である。そのなかで、ひとびとの痕跡として働き、遊び、恋愛し、泣いているかなどは埒外において、その人間が人工的な建物や突起物を地層上に築き、変化させることのみが抽出される。

微視的な価値化の拡がりは、極限の巨視化とパラレルである。かつて埴谷雄高は宇宙飛行士が見た地球には国境線がないと、未来を予兆するようなことを述べた。もし、この視線をもっと一般的に拡大したらどうなるか答えようとして、吉本は「世界視線」という言葉をあみだした。宇宙への旅立ちに、往路と復路があるとするなら、埴谷と吉本の差は、技術の高度化をはさんで、往きつつある死と還りつつある死の違いとして分岐する。むろん、バタイユも往きつつある死の側にあった。これは「死」の意識に近似する。マルクスは時間のことをと呼んだ。そして、は個人の死滅ととらえられている。ここからすると、は死滅しそうにないことが前提になっている。そこで、現在の欲望の最終地点において、時間が厖大に膨れ上がり、全貌が見えなくなり、それでも「現実性」をみつめ残すと仮定したらどうなるか。

その結果、死の意識が訪れ、その高みにおいて現実をみるなら、ただ、限界の空間性としてしか見えなくなるのではないか。いわば、それは時間と空間の同在性の意識にほかならない。わたしたちは、もはや、空間の時間化や時間の空間化の視界だけではなく、第三の地点に立たざるをえないのである。こうして、マルクスの時代とちがって、わたしたち人間とその言語思想は、時間と空間を両方見渡せる端緒に、ようやくたどり着いたのである。