戦後大衆意識の成長と変貌
～現在を映すカメラをさがして～
宮内広利
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＜目次＞ はじめに １ 欠如のない時代の方角 ２ 戦前の思考 ３ 戦後意識の転回 ４ 文体と戦後大衆社会 ５ 戦後意識の芽ばえから ６ 戦後意識の変貌 ７ 私生活の「像」意識 ８ 大衆消費社会と観念的交通 ９ 日常性の現在 10 時間の消費と言葉の解体 |
はじめに
わたしは３．１１の東日本大震災の前と後で戦後史を塗り替える必要があるとおもう。ここにきて、ようやく、戦後の日本が到達した世界像について、３．１１の後からみればどう見えるかということが課題になったとおもえるからだ。そのような課題がうまれるには、たくさんの材料がころがっている。電気のこない冷却システム、放射線で体内被曝する作業員、爆発の鎮火のため出動するヘリコプターの放水、人が入れない瓦礫の山をくぐりぬけるロボットの活躍、電気のとおらない避難所暮らし、ロウソクの火の節電要請etc。政府や東京電力に言わせれば、地震や大津波とおなじく、これらの場面は「想定外」だったのかもしれない。だが、わたしたち人間が自然の猛威を前に、原始人のようにひれ伏したりさえしなければ、反対に、これら以外のわたしたちがつくったものすべてが「想定外」だったことを証明するものだ。作られたシステムは完璧だったというおもいは、人間の意のままに動かないシステムへの怒りをさそいだすばかりか、結局、プログラミングではなく、人間の生身の「肉体」をとおしてしか元どおりに戻らない悔恨につながっている。ロボットが人工頭脳をもって、人間に抗いはじめたかのようなＳＦ映画程度の無意識しかないものだから、システムの内側がほんとうで、外側が偽物のようにおもえて、システムは電源を切られたらおしまいだということさえわからなくなる。福島原発事故後の放射能汚染で主にテレビに登場する農家、酪農家を見ていると、東北には第一次産業以外ないのかとおもわせるが、これも日頃、システムの陰に隠れている社会の生地が綻びのあいだから露出した証拠である。
この東日本大震災に対する問題提起にはさまざまな見方があり、地震や津波によって寸断されたのはどんなシステムかという点も論者によってさまざまなのだが、急に特需景気にわいたかのようなテレビの原子力専門家は別として、論者がそれぞれ日頃追いかけている論点の延長上でつかまえているニュアンスは伝わってくる。中沢新一ならおそらくこういうだろうな、と予想していたら、案の定という具合である。中沢の主張を一言でつづめると、今回の大震災と原発事故は、文明社会が根底からゆさぶられた事態であり、肝心なのは、元どおりに復旧させることではなく、新しい文明への転換のきっかけにしなければならないというものだ。わたしも中沢のこの意見にほぼ賛同する。ただし、彼が新しい文明という言い方をしている背景には独自の文明史観があって、「エネルゴジー（エネルギー存在論）」への問いかけが含まれているのだが、技術から社会への架橋の仕方については十分に検証されなければならないとおもう。
彼の提出したエネルギー存在論は、いまから約４６億年前、太陽が形成する過程で地球が誕生するところからはじまる。そのときからウランは地球上に存在していたが、自然の力では濃縮されることなく臨界に達することもなかった。それから約２５億年～２０億年前になってから、地球に光合成をおこなう藻が発生するようになり、吐き出された酸素と結合し、濃縮ウランは臨界に達するレベルまで上がり、天然の原子炉がつくられる条件が整った。つまり、地球誕生の秘話までたどりつくと、「原子の灯」は太古にすでに存在していたことになる。中沢がいう「原子力とコンピュータの時代」と称するエネルギーの第七次革命の中身は、この太陽エネルギーの中に含まれていた原子炉から取り出したイミテーションにほかならないということだ。
中沢は、この太陽エネルギーの出所について「媒介」と「無媒介」という差別を設ける。「媒介」というのは、石油や石炭に代表される燃料が、太陽エネルギーを浴びた植物やプランクトンの死骸が長い年月をかけ、生態系によって分解され、炭化されて出来上がるプロセスを指している。つまり、石油や石炭は、同じ太陽エネルギーに由来しているにしても、それが植物やプランクトンの発生になり、その死骸が堆積するあいだに「生態圏」において何重にも「媒介」されてはじめて化石燃料になったのである。それにひきかえ、原子炉内の核分裂連鎖反応によってエネルギーをみちびく方法は、太陽の核反応過程そのものを、「外部」から生態圏の「内部」に、直接、「無媒介」に取り込んだものである。したがって、原子力発電は石油や石炭を利用した発電方法と根本的に異なっている。ここで、中沢が科学技術論の範囲で「媒介」という言葉と同じようにこだわっているのは、生態圏の「内部」か「外部」かという点である。このニュアンスは、映画の一光景さながらヘリコプターが海水を汲んで、建屋に放水している「肉体」のチグハグな光景の原因がどこにあったかを教えてくれる。多くの視聴者が、原子核反応に対応するにはあまりに原始的な方法に唖然とした感想をもったことの説明をしてくれるものだ。
さらに、中沢は「外部」の思想が現代社会を象徴するという観点から、自然宗教からユダヤの「一神教」への転位、さらに一神教から貨幣の出現をへて市場経済が生まれ資本主義まで伸びていく軌跡が、ほとんど「超越的思考」によって推進されたということに着目した。つまり、原子炉の思想の背後を資本主義の内閉性が支え、また、その後ろには市場経済があり、そのまた後ろには貨幣や一神教が折りたたまれて隠されており、ついには、歴史観の最後として初源の生態圏的自然思想が人間的な台座を占めるべきものになる。
≪一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象を持ち込んだやり方と、きわめてよく似ている。思考の型として、まったく同型である。一神教出現以前の人類の宗教は、生態圏の閾域の内部でおこなわれてきたが、一神教の出現とともに、そこに生態圏に所属しない神が組み込まれることによって、人類の宗教には不安定が持ち込まれた。≫『日本の大転換』 中沢新一著
もし、中沢の意に反するかもしれないから、ここでは「自然」か「文明」かという二者択一のあてこみはしないことにしよう。たしかに、彼はエネルギー存在論の結論で、太陽光を利用した光合成を人工的につくる太陽光発電の技術開発がもっとも生態圏に適したものとし、矛盾なく「自然」と「文明」の調和ができると主張しているからだ。だが、この本でとりあげられているポランニーの市場経済批判と同じ論法をとるなら、「文明」や資本主義を規制し、制御する幅広い「社会」の原型が理想として掲げられているのは明らかである。この理想について、いままで中沢は北米インディアンのポトラッチ、南米の神話の中に棲息する半獣半人の神話、オーストラリアのアボリジニの慣習、チベット密教僧の頭の中で組み立てられた渦巻状の「気」や鳥の言葉が理解できるブッダや神道などをとおして、さまざまなイメージをつないできた。それは母胎回帰に似た世界の横断におもえるのだが、その劇画めいた内容をしっかりした文体に翻訳した魅力はあるものの、わたしたちには、それらの神話的な共同性の親和力や共感に対するある種の違和感をぬぐえなかった。しかし、それを差し引いても、「技術史観」を社会変革論につなぐ手際は、原子力の専門家といわれるひとたちの自戒や啓発くらいには役立つとおもえるが、すでにいやというほど資本主義や貨幣の「自由さ」も「不自由さ」の洗礼を浴び、頭の中にインプットされているわたしたちからすれば、時間の間尺があまりに大きすぎると言わざるを得ない。というより、中沢は、地震、津波と原発事故を区別して、地震、津波は生態圏の治癒力で回復できると楽観しているのだが、いくら時間の間尺を長くとっても、身内を亡くした被災民の心の芯にとどくには、どちらも同じくらい難しく感じられる。なぜなら、地震と津波の被災民に対する直接的な救援の方法も旧態依然のものであって、社会的・政治的機能がまるで発揮されていない上、被災民が陥っている就職難や生活難を回復する手立ては、現在のわが国の経済全体を覆っている停滞感以上のものを映していないからだ。被災しても被災しなくても等価で演じられる悲劇こそ、被災民にとって一層息苦しいものと想像する。
震災前はたくさんの商品が店頭に並べられていた。しかし、避難所にはクーラーも水もない。なぜ、ありあまる商品は按分して利用することができないのだろうか。これは、わたしたちの世界が、空間的な富の偏在がおこなわれているのとおなじに、時間的な富の偏在のありかを指し示していることになる。食料品や衣類など商品としてあらわれるほかないから、単なるモノ不足ではないはずで、政府やマスコミは、商品という偽名を隠して人道援助を叫びながら、商品の二重性に気づかないふりをしているにちがいない。
わたしは今度の大震災は、敗戦時の被害とは同一平面でくらべられないとおもう。敗戦時は資本制自体が試された体験であったのだが、今回は、資本制以後の世界像が試される節目だとおもっているからだ。つまり、商品の欠如が問題ではなく、ありあまる商品の欠如が問題だとおもっている。ありあまりながら偏在する商品がつくられるというシステムダウンが震災後の混乱をひきおこしたと考えるべきなのである。その後の政府の情報開示、情報統制のゴタゴタは、ただ、大元にあった原発推進派と官僚機構のプログラムミスの象徴でしかない。つまり、どこにもありながらどこにもないような高度消費社会、高度情報化社会というシステム社会の破綻を示す以外ではないのである。そのような観点は脱原発の政治的スローガンにまぎれさせるものではなく、本格的に論議しなければならないとおもう。３．１１であらわになったのは戦後史の到達点であり、その意味で、これから３．１１後の目で見た戦後史を検証してみたいと考えている。
１ 欠如のない時代の方角
３．１１前でさえ、あまりに速い入れ替わりなのに、停滞感がぬぐえないのはなぜだろうとおもってきた。誰だって、ファシズムの予感のような不気味さに劣らず、自意識が総敗北をしているのではないかというような焦燥感を抱いていたのだ。しかし、このような思想状況は、わが国だけの特殊な背景があるのか、それとも世界的な地殻変動なのかは定かでない。そんな疑問に答えるかのように、大澤真幸は次のように交通整理している。
≪整理するとこうなる。まず、理想の時代は、欠如を前提にしたスタイルの時代です。ついで、欠如の不在の段階がくる。そして九〇年代の、つまり『エヴァ』の時代には、再び若者は、欠如を覚えていることになる。しかし、この三番目の段階では、何が欠如しているのか。思うに、具体的に特定しうる何か―たとえばお金だとか、社会主義のような来るべき理想の社会とか―は、何も欠如していないんです。欠如しているとすれば、それは、欠如そのものです。何も欠如していないことに、欠如感を覚えているんです。これは自己矛盾的な欠如ですね。欠如が克服されたとき、今度は、欠如がまさに不在であるということに欠如を覚える段階がやってくるんです。それが現在です。≫『戦後の思想空間』 大澤真幸著
この本が書かれたのが１９９０年代というその「現在」が、歴史上の激変の只中ということもあって、「何も欠如していないことに、欠如感を覚える」などというふざけた台詞に、はたして実体があるのかどうか疑わしいのは当たり前で、まるで哲学者の理念が一人歩きしているかのようにみえるのは致し方ないのかもしれない。だが、こういう図式的な戦後の思想空間の整理の仕方が再生産されるのにもそれなりの理由がなくてはならない。大澤がここで「理想」の時代と呼んでいるのは、それこそ大雑把な言い方で、「理想」を共有できた蜜月時代というほどの区分であることがわかる。それは敗戦による米軍の占領に始まって、対米依存と反発のバランスを繰り返しながらも、アメリカの世界経済における繁栄を理想の焦点としていた懐かしの時代のことである。つまり、ある種、精神的にもアメリカを超越的な他者として価値の源泉としながら、高度成長経済に邁進していった昭和４０年代前半までの時期を指している。そのとき、理想や未来をアメリカの自由や民主主義に託し、現状と現在を「貧しさ」や「欠如」と感じた日本は、アメリカという超越的価値から振り向いて、自身のアイデンティティの承認を求めていたことになる。そこでは経済的な目標と精神的な目標が重なって、日本のアメリカに対する構造的依存体質が固まっていた。
ところが、そんな日米関係も１９７０年代の初頭には、微妙な誤差を生じはじめる。アメリカに対する心的な軸心が大きく変化し、まるで、それまでの幻想が剥離したかのような感覚が前面に出て来る。戦後日本が敗戦の復興から年率１０％を超える高度経済成長を続けていくうちに、次第にアメリカという超越的立場に肩をならべる予感が芽生えるにつれて、自身がアメリカ抜きで、普遍的世界に入り込めるかのような錯覚がうまれたのだ。それと同時に、日本人（昭和）という意識が希薄になって、あたかも世界と同時に向き合い、むすびついているという感覚にとらわれるようになる。大澤は直接に言及していないのだが、わたしなら、そのようなアメリカに対する見方の変化は、７０年代初頭のアメリカの世界的規模の威信低下として、次のように裏づけられるとおもう。
まず、第一に、１９７１年にドル・ショックが起こったことである。戦後、世界経済はアメリカのドルを基準通貨として、ＩＭＦ体制（国際通貨基金）によって維持されてきた。各国通貨は金と兌換性のあるドルとの比率が固定され、アメリカの豊富な金準備と国際収支の黒字によって、ドルによる世界経済の支配がおこなわれていたのである。ところが、ベトナム戦争の泥沼化とともに、アメリカの国際収支が赤字になり、ドルの海外流出がつづき、ドルの危機、国際通貨危機が深刻になった。１９７１年８月１５日、ニクソン大統領は、ドルと金との交換の一時停止、１０％の輸入課徴金の実施、各国と通貨の為替レートの変更について話し合いをするというドル防衛策を発表した。これは、ドル・ショックとして世界経済を直撃したが、ドルの基軸貨幣の崩壊という点で、この影響はいまだに引き摺っており、世界経済を観る上で欠かせない重要な因子である。日本政府は、７３年から変動相場制に移行したが、ドル・ショックにより、ドル安・円高により輸出にブレーキがかかり、輸出関連の中小企業は大打撃をうけた。
もうひとつの政治的激動は、１９７１年７月、米大統領補佐官のキッシンジャーが、極秘のうちに中国を訪問して、周恩来と会談したことである。翌７２年２月には、ニクソン大統領が中国を訪問し、毛沢東、周恩来と会談し、中国はひとつであるという米中共同声明が発表されることになる。その間、７１年９月には、中国招請・台湾追放決議による中国の国連加盟が実現していた。ここに戦後の世界体制が、政治と経済の両面で根底から崩れることになった。これらはベトナム戦争の終息とともに、国内的には学生運動の急速な減退と重なり、わたしたちの戦後の記憶を直撃した。
大澤は、アメリカという超越的価値を失ったことは、７０年代をとおして、あたかも欠如自体を失った事態であるかのように、わたしたちの精神状況を支配したと考えている。ある朝、ふと目を覚ましたら、まるでちがった夢をみていたことに気づいたといわんばかりに、時代の大きなターニングポイントとして位置づけされる。政治的欠如や物質的欠如に対するルサンチマンの時代から、欠如のない「戦後・後」の時代に突入していったとみなしたのだ。それ以降、社会や政治を批判する理念や思想が次第に空疎なものに移ろい、理想を追求する時代は急激に色褪せたとされている。裏腹に、理想や理念、個人のアイデンティティを探す意味、共同体の重みから解放されたかのような思想が現れてくる。そこで大澤が挙げているのは、サブカルチャーの登場人物などではなくて、廣松渉と山口昌男など、あくまでも堅物の哲学者たちの面々である。廣松の場合は、マルクスの疎外論から物象化論への転回をもたらしたこと、山口においては、共同体の中心に対して周縁の意味を繰り込み対置しながら、ともに、人間性の中心という概念から距離をおいて思想や理念を相対化したことになる。しかし、わたしたちの実感では、丸山真男に代表される進歩的イデオロギーの失効や理念の退廃という意味なら、少なく見積もっても、彼の唱えるターニングポイントは、４、５年前倒しされなくてはならないとおもえる。
こうして、アメリカへの依存と反発を繰り返しながらも、戦後の米軍占領を引き摺ったまま、背後にアメリカの善意を信じていた第一期、次に、アメリカの影が次第に遠近感をもってみれるようになり、それに反比例するかのようにアメリカの像としての理念が遠のき、世界や人生の意味を支える理念を喪失したことに気づいた第二期、そうして、８０年代以降、現在と地続きの三番目の段階に入り込む。大澤真幸は、１９８０年代以降の思想を「消費社会的シニシズム」と呼び、それをニューアカデミズムによって象徴させた。彼によれば、たとえば、浅田彰は思想や「知」を消耗品（商品）のように扱い、それぞれを消費されるための記号的な差異としてとらえた。もちろん、これには消費社会の成熟が加担しているのは間違いなく、わたしたちには、商品の生産と消費の遅延化が主な動因であることを知っているが、現象的には大澤の言うように、相対的な差異を求めて、微小な差異を競い合うというようなゲーム思想を定着させた。しかし、大澤の穿った見方によれば、浅田や蓮實重彦は、そういうシニシズムのパロディを演戯したつもりであったのが、それをまじめに受け取った側では、彼らの意に反して、そのシニシズムの毒気をまともに吸引してしまった。浅田らは、意識的に相対的な価値には解消されない絶対的な差異の提供を逆説的に浮かび上がらせようとした。にもかかわらず、それを実体と表層の区別と受け取ったひとたちは、表層だけの差異を競い合い、ゲームや戯れの中に思想を還元してしまうことに慣れてしまったとされる。
だが、直輸入思想がわが国の負性の伝統であることを知っているわたしたちにすれば、ニューアカデミズムの流行とは、概してフランス思想の教科書風の切れ切れの解説が仲間内だけにわかるように暗号化され、いかにも得意げにお喋りをつづけている連中のことを指していた。したがって、このようなパロディ以前の段階において、自分の言葉に翻訳するための粘りも、ひとの実感に訴えかけようとする積極的な気持ちも欠けた中途半端さに対する大澤の評価はにわかには信じられない。ただ、彼らは、差異や戯れの中にいながら、ほんとうは逆に、相対化が許容される実体の範囲でしか、その自由な遊戯ができないとした大澤の突き放した見方の方が、現在と地続きの中で韜晦する思想の在り処に、より寄り添っているといえる。
そして、大澤はデリダの「デコンストラクション」が、自分自身の虚偽性を自覚したメタ虚偽意識のイデオロギーという点において、消費社会的なシニシズムの代表格であることに突き当たる。大澤はハイデッガーの思想とのからみで、デリダの思想の核心を「自己―外―存在」と位置づけ、精神が精神としての同一性をもたない不在の精神のありかに言及している。それは自己精神の動きが純粋な差異そのものによって作られているメカニズムにおいて、たえず、同一性から逃れる差異性と定義される。「不安のないのが不安」というこのシニカルな差異性について、大澤は、資本主義そのものの現象としてとらえる。彼が、資本主義が行為や体験に意味づけを与えることを「経験可能領域」と呼び、それを資本主義の定義にする場合、この「経験可能領域」をより包括的なものに普遍化していくシステムを指している。
この普遍化とは、「経験可能領域」が定常であることなしに、たえずダイナミックに変化していくということ、そのことにおいて安定していくこと、このような、一見、矛盾する行為を前提にする。過去の労働の蓄積が、過去に労働力を買い、現在に働かせることで剰余価値を生み出すこと自体、時間の変異をつらぬいて、価値変化が起こったことを意味し、過去の規範やルールを打ち破ることなしにはできないメカニズムである。過去の時間と現在の時間の交叉や変異を包摂するということが、普遍性ということの証明になりうるからだ。しかし、それにとどまらず、この普遍性へのステップはより高次に移行していく。「経験可能領域」は、より普遍性の高みに登ろうとするのだが、その都度、具体性や特殊性に阻まれてしまうから、抽象的なエレメントの超越性への参加と同時に、いままでの経験可能領域をみずからの内部に取り込もうとするようになる。つまり、以前の「経験可能領域」は、特殊性の対象となって格下げされ、いわば、メタレベルからオブジェクトレベルに解体されていく。それでも置き換えられた超越的エレメントも完全な抽象性はありえないので、また、置き換えられ格下げされる。壊したものは壊される、そして、また、それを壊したものも同様な運命をたどる。解体の解体とその解体…、それ自体にあたかも超越性があるかのように、そんなメタレベルが存在しないことの証明を繰り返す逆説的行為が、資本主義を再生産し、思想のシニシズムや脱構築を支えているとみなしたのだ。
ここで大澤は、貨幣の抽象性が資本主義を支えており、それから次第に抽象性そのものの質が変わっていく経緯を、使用価値と交換価値の対立をめぐってさぐりをいれている。やがて、こうした超越性の不可能性を弁証することによって、大澤はポストモダンの現在のありかが、ちょうど、１９３０年代のファシズム台頭期にあらわれた「近代の超克」論議と相似していることに気づく。そして、京都学派の西田幾多郎や田辺元らの哲学が、人類普遍的なものが、直接、国家、民族などの特殊的でしかないものに結びつくカラクリを暴こうとしたのである。彼は１９３０年代の思想を見ることで現代の思想をおしはかることができると述べており、ここから昭和初期の日本の思想がポストモダニズムなら、現代はファシズム前夜であるという結論に達する。
２ 戦前の思考
わたしたちは、大澤真幸が第一次大戦と第二次大戦の間の断層にこそ、ファシズムが登場した理由があったとするのは、ナチズムの台頭に限定すれば肯ける。その戦間において１９２３年の世界恐慌があり、帝国主義列強の植民地強奪競争のつばぜり合いの中、資本主義の不安定さや破綻の予感が現実のものになったからだ。しかしながら、資本主義の世界的終末観そのことと日本のファシズム台頭は直接には結びつかないとおもえるのだが、大澤はそう考えていなくて、その理由を二つ挙げている。ひとつは、第一次大戦で戦場となった西欧諸国の経済の疲弊と世界システムの中心からの脱落によって、その主導権はアメリカに移ったということ。もうひとつは、恐慌によって貨幣＝金本位制が解体したということである。
これらが当面したのは、ある種、世界システムの「超越性」が否定される事態だった。とりわけ、前者は、それまで世界の文明史を牽引してきた西洋近代の普遍性への期待が地に墜ちたということであって、究極の価値や普遍性の不可能性への認識が深まり、どのような普遍性もせいぜい普遍性を偽装するに過ぎないものとして、拒否されるべきだとするシニシズムを育てる温床になった。が、「近代の超克」論者は、その拒否すること自体を逆転の契機にして、その普遍性にいたる夢を志向しはじめた。「不可能性」を否定的な媒介にして、最も普遍的な境地に立つことを確認したのである。この逆説的な超越性を措定してしまうことで、普遍性はより確実に担保された。この内面化された超越性こそが、「国民の天皇」として天皇制ファシズムの根源にあったとされるのである。つまり、要約すると、大澤真幸は資本主義の普遍性への志向性そのものが、ファシズムをもたらしたと考えていることになる。そして、おそらく、資本主義の危機性がファシズムをもたらすという点において、同じ資本主義なら、現在との通路を開くこともできると考えたのにちがいない。
しかし、当然のことながら、戦前のファシズムの運動を資本主義の現象面からのみとらえることは不可能である。要は、大澤の倫理観も関係しているとおもえるのだが、「非合法」性が資本主義の「合法性」の範囲の中でどう位置づけられるかに関わっている。丸山真男のように、明治維新が「下からの革命」でなかったがゆえに、わが国の近代社会が脆弱で未成熟であって、超国家主義的ナショナリズムの流れを食い止めることができなかったという「特殊性」を言い訳に挙げれば、そもそものはじめから、わが国の近代化は跛行的、もしくは「非合法」であったことになる。だが、もはや、近代社会への入口の歴史においては、農民から強権的に土地を奪い、飢える自由をもった労働者に変えていったことや、資本主義が商品や労働力の売買だけではなく、戦争で命の売買もおこなったことを知っているわたしたちにとっては、西欧諸国とわが国はさほどの通路のちがいはなく、あくまで近代化の急激さと緩慢さの時間の長短にしかすぎないとおもえる。当の西欧諸国にも現実的に存在しない理想的な「市民社会」像をわが国に無理やり当てはめるのは、逆に、丸山自身が正当に指摘したように、外来の思想を雑多にまる飲みしてしまう「理論信仰」でしかない。そこで、もし、戦争の不可避性も含め近代国家の「非行」性を認めた上の論理に限定して、ポスト・モダンが唱える「戦争機械」のように、善悪の区別なく戦争を吐き出してしまう身も蓋もない戦争だけではなく、別の戦争の形もあることも踏まえれば、ナショナリズムや政治的国家のかたちは、「合法」と「非合法」の区別が前提になってくるとおもえる。
仲正昌樹は、『日本とドイツの二つの戦後思想』の中で、第二次世界大戦に対する責任の取り方に言及して、ホロコーストなど大悪事を犯したため周りの国々から徹底的にその責任を追及されたため、戦後、ことの善悪をより深くわきまえて、内面にまで届いた反省の態度を示している大犯罪者のドイツと、中途半端な悪事を働いたから、中途半端な責められ方しかされなかったため、曖昧なままの戦争責任論にとどまってしまったわが国の比較をしている。つまり、同じ「非行」には違いないが、「人道に対する」罪まで問われなければならなかった「非合法」なドイツの戦争犯罪との比較級で、わが国は戦争責任の所在が明らかでないと言われているのだ。これには、もちろん、戦後、国家が東西に分断され、冷戦構造の危うい均衡の上に挟まれたドイツの現実政治の背景が発言の根拠になっており、そのせいもあって仲正は、戦争責任論が提起された時点の状況の中で、政治的国家の立位置が戦前の国家に連続しているかどうかを改めて問い直している。その前提を認めた上で、戦前・戦後をつうじて、より鮮明な近代国家であったかどうかが善悪の尺度にされており、戦争責任論が出された時期の思想のスタンスの違いをのぞけば、ほとんど、丸山など理念の近代主義的な見方の延長にある論議に過ぎないとおもえる。
いいかえれば、仲正は、天皇の処遇や戦争責任を謝罪する主体の不明確さが、ナチスを根絶やしにしたドイツとは違うとして、大日本帝国憲法と日本国憲法の連続性の矛盾点をついて、政治的・法的問題があたかも、善悪の根拠に包められるような言い方をしているのだ。しかし、そういう政治的・法的な中途半端性、曖昧さこそ、わが国の戦前と戦後の連続性の非連続性、非連続性の連続性を象徴しており、逆に、ホロコーストのドイツとは異なり、こちらの戦争の方が「非合法」であった根拠になるとおもえる。つまり、わたしは、丸山や仲正の見方とちがって、大衆のナショナリズムが資本主義に対する「非合法性」として突出した点にこそ、わが国の戦争の問題が集約されていると考える。わたしたちの一般的なナショナリズム理解では、日中戦争からやがて太平洋戦争に突き進んでいく過程は、歴史事実を検証しても何も見えてこない印象をもってしまうからだ。つまり、支配の側にいたはずの個々の政治家、軍人、そして、もしかしたら天皇でさえ、ほとんど、何ものかに誘導され自然の嵐がとおりすぎるのを見守っているような感じがあり、普遍性、特殊性を問わず、近代国家の中心を外れた位置にナショナリズムの核心があるようにみえる。
したがって、大澤のように、ナショナリズムの変遷を資本主義の歩みとともにセットで点綴し、「天皇の国民」の明治期、無風状態の大正期、「国民の天皇」であった昭和というアウトラインを引いた縦割りの近代史概念ともすれちがってしまう。彼が指摘した１９３０年代のファシズム台頭期にあらわれた「近代の超克」論議に含まれている資本主義の超越化も仲正とほぼ同じ視角においてとらえられているが、近代国家を支える資本主義自身が帝国主義的にウルトラ化していったというのは、その天皇制ファシズムの影の側面をきわだたせたものにすぎない。それらの核心を外した齟齬をときほぐしていかない限り、ドイツの目鼻立ちがくっきりした戦争責任論に照らされ、およそ、近代と半近代の距離で埋められる程度の対立図式に流されてしまうことになる。
おそらく、戦前の思考は、表向き立憲君主制に傾いた天皇制の表看板があり、あくまで、その表面から大衆に向けて攪拌するように本体が隠されていた。そのような表裏が合わせ鏡のようになった戦前のファシズムの本質は、立憲君主制から象徴天皇制に憲法上の政体が交替したからといって、公式の歴史観ではうかがい知れないような反目の構造をもっていたにちがいない。戦前・戦中からの知識人が、転向体験や戦争体験を公に語りたがらず、ある面、戦争責任が次第に闇に葬られ、自然の成り行きのように風化していったのにも理由があった。ほんとうなら、戦争に抵抗しながらも、あるいは、同意する間もなく家族に見送られて出征し、やがて死ぬのが当たり前と覚悟して黙々と軍務に従い、生きて帰ったのが奇跡でもあったみずからの体験を赤裸々に語ればよかったのに、米軍の占領とともに、だれもがなし崩しに民主主義者に転向して、見えない国家の幻想に責任をなすりつけ、口を噤んでしまった。
そうして、一度は加担した理想と苦すぎる生死の体験との落差は、ひとびとの心に沈み、曇りガラスをはさんで遠近感をなくしたようにしか語ることができないものになった。やがて、半世紀を超えて後遺症がようやく癒え、ポスト・モダンの思想状況になってからはじめて、子供や孫たちの口を借りて、そもそもの戦争体験と向き合って反芻することになった。だが、それに呼応して浮かび上がったのは、戦前の資本主義の危機感と、現在、わたしたちが陥っている資本主義のどんづまり感の二重写しの姿に、天皇制が引き寄せられるように上重ねされたナショナリズムの姿である。そこには現在の位置からは、戦前の資本主義よりも遥かに遠い封建的遺制の含みがあった。しかし、かつてのナショナリズムがウルトラ化されるためには、その逆の契機も必要であって、封建的遺制の側に引き寄せられた近代資本主義のあり方こそ着目されなければならないのである。
ずっと前、吉本隆明は、封建的遺制と明るい近代が同居する大衆のナショナリズムのありかを指して、その二重構造こそがわが近代に課せられた宿命として、文学批評の基準においていたときがあった。それは戦前の共産主義者の転向と年長の文学者の戦争責任を読み解くための必須のキーワードであった。親しみと残酷さ、大衆と知識人、共同性と孤独、反米と愛国、これら一見、二項対立にみえるものの不思議な同居が、ひとりひとりの人間の内面劇を屈折させ、やがて近代史のうねりの中で、雪崩を打って戦争に突入して行く背景をなした。吉本はこうしたわが近代の二重性の屈折を総体のビジョンとしてとらえそこなったことに知識人の敗北の原因をみつけた。多くの知識人は、マルクス主義、モダニズムの理念をもて遊びながら、その反面、それと自身の内面の封建的意識を主体的につきあわせることなく、表向きの理念が大衆からの孤立感に襲われたとき、いかに脆く崩れ落ちるかということを転向論において立証した。それは大衆のナショナリズムにおいても同じで、土俗の意識が上昇する知識としての近代的意識に触発されたとき、自らの足元を掬われ、そのナショナリズムは知らぬ間に、ウルトラナショナリズムとして侵略戦争に迎合していった。それから言えば、大衆のナショナリズムは近代資本主義からの侵食をぬきにして、ウルトラナショナリズムとして発現することはなかったことになる。こういう考え方は、一見、大澤の資本主義と天皇制の相補性の観点と似ているように見えるが、大澤の場合は、ポスト・モダンにも通じる資本主義の類似性にウェイトをおき、あくまで資本主義の通時性を前提にして天皇制の問題を取り上げているのだが、吉本にとっては、戦前の政体が立憲君主制とは名ばかりで、実際は、アジア的専制国家とみなして、その負の遺制が資本主義と接触する途中で、近代的武器を引き寄せ軍拡路線をたどったという見方をとっていることだ。
そのため、彼は、近代資本主義に招き寄せられた大衆のナショナリズムを「社会ファシズム」と呼び、反対に、大衆のナショナリズムが近代資本主義を招き寄せた場合を「農本ファシズム」と呼んで区別している。大澤がポストモダニズム後の予感に警鐘を鳴らしたもの、また、仲正が戦争責任の厳格さをみぬいたドイツのファシズムとは、この「社会ファシズム」に該当する。「社会ファシズム」が資本の高度化による産業・軍事体制の再編成を意味するとすれば、「農本ファシズム」は、戦前の圧倒的多数の農民層を背景に、資本の収奪によって疲弊した当時の農村の暗い涙やため息となって、ナショナリズムの核を形づくった。吉本はこの「農本ファシズム」にせき止められたナショナリズムが、大衆意識の吸引力を増し、泡立ち増幅しながら侵略戦争に駆り立てたとしている。しかし、わたしはそれだけではなく、積極的な意味で、もともと、この「農本ファシズム」こそ、当時の支配層によって「非合法」の刻印を貼られたものと考えている。
実際に、明治維新以後、唯一の革命思想として大衆の心情をゆさぶり、代弁していたとおもえたのは、『日本改造法案大綱』の北一輝をおいてほかにない。北の洞察が優れていたのは、資本制によって追い詰められた故郷の農村の崩壊を背負って、その受け身でしかない土俗のエネルギーを、天皇制を逆手にとって革命の積極性に換え、一瞬ではあったけれど、資本制の廃絶の夢を紡いだことだ。もちろん、このエネルギーは大衆意識の根幹で上げ底化され、やがて、資本制のより一層の浸透を前に抵抗のバネを失い、核を失った日本的「自然思想」の当然の運命であるかのように、敗戦による「農地解放」で息の根をとめられることになる。しかし、国家の「戦争」支配力をも超える戦争エネルギーは、まちがいなくこの「農本ファシズム」の力にあずかっていた。
「農本ファシズム」の吸引力に比べれば、「社会ファシズム」を支えたのはブルジョアジー、政治的支配層などに限られており、支配権力にとって組しやすかった。「社会ファシズム」は資本制の仇敵ではなく、資本制的権力の補完勢力でしかなかったから、その基盤は戦後もしばらく持続して、社会党、共産党などの旧左翼の政治的最低綱領として、共産圏ブロックの裏支えを演じ続けてきた。つまり、戦後の大衆ナショナリズムの先端は、このよう擬似進歩的なポーズには決して触れることはなかった。
３ 戦後意識の転回
≪いわば、丸山や大塚が「近代」という言葉で述べていたものは、西欧の近代そのものではなかった。それは、悲惨な戦争体験の反動として夢見られた理想の人間像を、西欧思想の言葉を借りて表現する試みであった。「個」の確立と社会的連帯を兼ねそなえ、権威にたいして自己の信念を守りぬく精神を、彼らは「主体性」と名づけた。そうした「主体性」を備えた人間像を、丸山は「近代的国民」とよび、大塚は「近代的人間類型」とよんだのである。≫『＜民主＞と＜愛国＞』 小熊英二著
小熊英二はこの本の中で、敗戦直後から高度成長経済を経て、１９７０年ころまでの間の戦後のナショナリズムに関する言説の変遷を検証している。それによれば、敗戦から１９５５年までを混乱と改革の時代として「第一の戦後期」と呼び、１９６０年以降は安定と成長を旗印にした「第二の戦後期」と規定した。そして、このような色分けが可能であるためには、あらかじめ１９９０年以降の「第三の戦後期」との比較において問題意識が設定されていなければならなかった。なぜなら、「第三の戦後期」は、社会主義ブロックの崩壊とともに、敗戦時から続いていた東西の冷戦構造が消滅して、それまで第二次世界大戦の記憶によって支えられてきた世界秩序はおおきく揺れ動く時代に直面したからである。わが国にとってそれは、ほとんど第二の敗戦体験といってもよかったから、あらためて過去の戦争や戦争をつうじて変化した戦後のナショナリズムのありかが問い直されることになったのである。つまり、現在の行き着いたゼロ地点から振り返って、戦後思想の最低限の了解事項が追認され、再検討を迫られる事態になったのも自然な成り行きだった。それは不可避であり、また、わたしたちのだれもが認めざるをえない過程とおもえる。
小熊によれば、丸山真男や大塚久雄の「主体性」の問題は、敗戦直後の時代状況のなかで、ひとびとの戦争体験の記憶という広範な土壌に根づいたものであったから、多くの知識人が抱いていた心情の最大公約数を表現していた。彼はそれに「ナショナリズムとデモクラシーの綜合」という名称を与え、「民主」と「愛国」が両立していた稀有な時代の代名詞とみなすことになった。このような見方は、もし、戦後思想というべきものが明治以降の近代史の中で重心をもち、決して近代史一般に埋め込まれてしまわない現代をきわだたせる目印になりうるとすれば、何より先に、戦争体験をどう思想化するかであり、日本人にとって戦争の記憶とは何であったかを問うことと同義であった。戦争と敗戦からの出発は、戦死した親族のことや空襲で焼け出され何もなくなったところから、ひとびとは「死」とは何か、「正義」とは、「国家」や「公」とは何かを頭で理解するより前に深く心に焼きつけ、生半可な言葉や思想への懐疑と反発によって開始された。そこでは、大衆のナショナリズムの核心は、戦争体験という「個人」の体験でありながら、同時に、「他者」の体験でもある共同性の行為の表出になっており、「民主」と「愛国」は共存して、戦後の改革・民主化運動の推進力となった。この小熊の主張の目新しさは、戦争体験を共同体験として、それ自体ナショナリズムを喚起するものに見立てたことであり、それこそが戦後思想の枠組みをつくったことを示したことにある。
しかし、小熊はそのような枠組みを拡大再生産させるどころか、途絶させるような事態が生じたと考えた。それは、戦後意識の風化を待つように、ある言説の大きさが無視しえなくなったことだ。戦後思想の異変に対する危機感が如実になったのは、戦争の記憶の風化とともに、戦争体験の共有意識が大衆ナショナリズムにとって代わり始めた１９５５年以降である。１９６０年の安保闘争をはじめ、まず、第一の戦後思想の危機は、言葉に尽くせない戦争体験を基盤にしているゆえに、戦争体験をもたない世代と共有する言語思想をつくれなかったことだった。「第一期」の戦後が終わり、高度成長の中で相対的安定期を迎えた頃には、戦争体験にもとづく思想は、もはやひとびとの潜在意識に訴える力をもつことができなくなり、戦争を知らない世代との断絶をうみだした。こうした背景を後押しするように、吉本隆明や江藤淳の戦後思想批判がはじまった。彼らの戦後思想批判は「戦後民主主義」批判と総称され、その波紋は６０年代の安保闘争後の戦後世代による帝国主義批判やその後の江藤の抽象化した戦死者のシンボル化に偏ったナショナリズムとして、左右両翼から発せられたことに現われたとされている。こうして「民主」と「愛国」の共存状態は破綻し、それ以降、批判対象としての戦後思想は、安易に「戦後民主主義」と揶揄されることになり、のちのちまでその批判は、戦後という去りゆく時代を呪縛したと指摘する。
小熊は、吉本や江藤の戦争のくぐり抜け方をつぶさに観察しており、それをとおして、彼らがともにロマンチックな戦争観をもちながら「戦後民主主義」批判を行ったとしかおもえなかった。敗戦時の若すぎた体験思想は、強い被害者意識に彩られており、さかのぼれば、世代や階層によって偏った戦争観が増幅される証明とされた。彼らの年長世代への反発は、たとえば、吉本の戦争責任論のように、戦前の一部のマルクス主義者が戦中には戦争賛美を行い、戦後はすました顔をして「民主主義者」を詐称して再転向していったことに、ことさら目くじらをたて、拡大鏡にかけて覗きこんでいるように見えた。小熊は、そもそも均一な戦争体験や戦争像が形成されること自体が疑わしいのに、そうであればこそ、その片面で戦争体験が国民的ナショナリズムの核心をとらえたにもかかわらず、言語化する段になってあらためてそのことを思い知ったかに見えた。
戦争体験がもっていた言説の可能性を剥離させ、無理やり「民主」と「愛国」の間を裂いて、いわば、メタ戦後の方向にひっぱっていったのは、戦争体験の風化であり、その風化を加速した吉本や江藤の言説だったというように考えたのだ。小熊には、それ以降のさまざまな言説は、共通の前提になっているはずの戦後ナショナリズムの原点からの逸脱としかおもえなかった。「戦後」批判が、より若い戦後思想によって行われるようになった時点において、丸山や吉本、江藤などがつくった戦後思想のレールの上でさまざまに蒸しかえされ、彼らから与えられた言語圏で幻想の戦後と対面しながら、独り相撲をとっているようにみえたのだ。
しかし、わたしは戦後思想の鞍部とは、たとえ、読み間違いが起こるかもしれないが、大衆のナショナリティをどれだけ至近距離で、いち早く反映することができるかどうかにかかっていると考える。もちろん、ナショナリティとはイメージの世界にすぎないから、結像するには条件があって、小熊の疑似的なルポタージュの方法では不可能だとおもう。彼が吉本や江藤の体験を特殊なものにすぎないという批判の仕方では、どこのだれの体験が一番都合よく戦争を体現しているか示さなければならないし、そうでなくとも、あれやこれやの特殊な場所から抽出される体験の相を選り分け、普遍性に向かう経路を示さなければならないはずだ。つまり、いうなれば、使用価値から価値をつくらなければならない。わたしのいうナショナリティとは、この場合、貨幣価値のことを指している。さらに、貨幣は時間をうみだすから、場所だけではなく、人間の心的なレベルで凝縮された普遍性までが、当然、計測されていなければならない。つまり、戦争と聞けば、第一に戦友のことだったり、塹壕堀りだったり、傷痍弾で焼かれる家だったり、被爆だったりするひとの数だけちがう特殊な体験を普遍につなげるには、言葉と現実との距離測定をしなければ、影の薄いモンタージュ映画のようなものにしかならない。小熊は普遍と特殊の切り割りの言語論を知らないまま、より抽象化したレベルまでの手間を惜しんで、貨幣単位（貨幣の貨幣）を貨幣価値と読みまちがえたはじめから、「民主」と「愛国」の対立軸を既定の事実のようにして、それだけで戦後思想をふるいにかけようとするところへつながっていった。そのため、かえって彼が否定しているところの「保守」と「革新」の対立の構図にどうしても似かよってみえてくる。「保守」と「革新」が互いを必要にして十分条件として共存しているのと同じくらい、「民主」と「愛国」の関係自体、もともとコップの中のようにつながり、補完的なものにすぎない。それなのに、戦後当初、しばらくは「民主」と「愛国」は幸運な共存をしていたのに、あるとき目を覚ましたら、突然、ウルトラ「民主」やウルトラ「愛国」が出現したことに慄然とし、稀有な共存の夢が破れたことに気づいた彼は、その原因を探してこの新しい悪夢を精神分析しようとさえしている。だが、そのウルトラ「愛国」は戦前の「農本ファシズム」や「社会ファシズム」とは似て非なる顔つきをしていることに更なる驚きがつけ加わる。少なくとも、「民主」と「愛国」の共存自体、それ以降、凡庸な中間点から見た錯視でしかない時点が想定されなければならなかったのだ。こういう折り返し地点は、やがて、小熊によって「戦後民主主義」の危機と名指しされた江藤淳においても危険な均衡を背負わされていることになった。
時事的な文章をみるとよくわかるが、江藤淳の思考が敗戦の痛手を強く受けているところから始まっているのは明白である。しかし、はじめの頃は後年のように保守的な日本への回帰の論調というよりも、むしろ、逆に、近代主義的な見方を前面に押したてていた。『二つのナショナリズム』で、頑迷な攘夷論を開明的ナショナリズムから区別し、勝海舟が体現した近代国家観を評価し、また、『英語と私』では、外側から見た日本を具象像として自覚する過程が描かれており、その主張はいずれも、国家社会（国際社会）の相対性の中での国家や国民の基本的なあり方が近代主義的な色調で統一されている。とりわけ、国家への忠誠が「天皇」や君主へのそれにすり替えられる封建性を、藩閥や戦中期のファナチズムのうちに見てとって、それからの対比で「公的なるもの」への忠誠を、国民と国家への信頼感のうちに内面的に位置づけ、それを冷静な知覚で理想化している姿勢には、古典近代的な国家観が息づいているのがわかる。また、江藤が自らを律する立場を一言で言えば「治者の論理」であるが、これも責任ある社会的地位にあり、責任ある言動をとるべき人間の倫理として「自己責任」の論理から近代的な立場で説明するものである。
江藤が「近代」の定着を、内面の自意識の劇としてとらえるようになったのは『小林秀雄』を書いたときである。小林にとって自意識の処理方法は、「近代」を内在化する方法を方向づけた。ここで特徴的なのは、小林の自意識の劇は二項対立の精神の揺らぎとして表現されたことである。つまり、江藤がのちのちの批評活動を決定するパラダイムである「父」と「子」、「自然」と「社会」、「生」と「死」、「現実」と「自己」などの近代の二元的な思考様式がはっきりと色づけされたことである。そして、これらのパラダイムによる解剖から浮かび上がったのは、もともと、「現実」嫌悪がその資質であったのが、「倫理」の介在によって、「他者」と不可避に対面せざるえない二律背反が円環をなして、内面の対立と相克を繰り返した自意識そのままの小林秀雄像であった。「現実」嫌悪を本質とする小林の「精神」は、マルクス主義への異和感をつうじて「社会化された私」の問題を俎上にのせると同時に、「歴史」との対面を強いられたとされている。
ところが、長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係に遭遇することによって、再び、小林を「歴史」の彼岸に連れ出していく。そういう「歴史」の彼岸に最も親しい風景を江藤は、「青い海」に象徴される心の内奥のイメ－ジに凝縮させて「死」の意識と呼んでいる。だが、当時の戦争突入頃の時代背景は、小林をこの内閉的な場所にとどめておかず、個人の思惑などはるかにこえて、急激な自意識の崩壊に直面させずにはおかなかった。暗い戦争の影は、自らの「文学」を「大衆」としての「他者」とのつながりの中で、やっと確証せざるをえなかったからである。
しかし、戦争に対する絶望感は、更に、彼を「青い海」の虚無の風景に吸い込ませてしまう。小林の「精神」は、戦争期間をつうじて「仮面」の透明感とモノの手触りに回帰していくのである。これは小林に親しい「死」の意識とモノの感触との統一感として溶解していく場所にほかならない。こうして小林の積年の自意識を中心に据えた揺れと振幅の円環は、敗戦によって完結する。この小林の「精神」に対する江藤の着眼点は、江藤の眼を完結することにも手を貸した。江藤における早熟の眼は、このような場所でそれからの身の処し方を決定づける。しかし、俗にいうように、江藤が『小林秀雄』を境にして、進歩的立場から保守的立場に変わったという見方は見当外れである。『小林秀雄』の中でも、あくまで、江藤は「精神」における近代主義的な思考様式を如実に示しているからである。もともと、江藤は、『夏目漱石』によって「近代」における二律律反を「倫理」の問題として提出した。この「倫理」的方法は、『小林秀雄』における「倫理」の問題を映して二重化されているからである。おそらく、真の意味で、江藤が変質したのは、もっとのち、明治の群像の中に「現在」を溶解しようとする意志をもってからである。まだ、『小林秀雄』の段階では、「現在」を「現在」のままで提出しようとしていたとおもえる。
江藤の本来的な資質から言えば、『成熟と喪失』で俎上に乗せた安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介など戦後第三の新人の作家たちに擬された「母性回帰」の願望は、潜在的に共有されていたはずのものであった。だが、彼はそれを「父性原理」、「公的なるもの」、「治者の論理」に黒白に反転させて際立たせた。彼は『成熟と喪失』の中で、小島信夫の『抱擁家族』に触れて、「母」の喪失がわが国の文学者にどのような陰影を強いるかを次のように述べている。
≪今や日本人には「父」もなければ「母」もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させていくだけである。時子がのこした「家」がこのような状況の象徴であるとすれば、そして時子自身が実は「父」を求めていたのだとすれば、作者は少なくとも『抱擁家族』のなかに「父」の欠落を明瞭に刻みこんでおかなければならなかった。それが実現されていないのは、前に指摘した通り作者にはじめから「父」の機軸が欠けていたからにほかならない。これはかならずしも小島信夫氏だけの弱点では
ない。『沈黙』の作者遠藤周作氏をも含めて、いわゆる「第三の新人」一般に「母」に対する敏感さとうらはらに「父」の背後に超越的な「天」を視る感覚が欠けているのである。彼らは昭和三十年代の産業化がもたらした具体的な解体現象をとらえ得ても、その先にある問題を、つまり内にも外にも「父」を喪った者がどうして生きつづけられるかという問題をとらえ得ていない。≫『成熟と喪失』 江藤淳著
しかし、江藤のいう文化的な背景を背負った≪母と息子の粘着性の高い関係≫への着目は、自身が４歳のとき母をなくして以来、周囲のあいだにいつも癒しがたい違和感をもち続けてきたことと決して無関係ではないとおもえる。この経緯は、江藤のコンプレックスの所在として、吉本隆明が指摘したことがある。吉本は、江藤のコンプレックスを「母」と死別した乳幼児期の体験に原型を求めている。この不幸な傷跡は、江藤には出来損ないのおちこぼれ意識をともなって、親の目をかすめて文学作品を読み漁ることで、慰めをみつけた少年期をすごしたとされている。だが、彼には「母性」喪失の高い代価を支払ったものの、経済的余裕と教養主義的な家庭環境と再会すべき「一族」があった。この家庭環境を支えとして江藤は、「外」の世界へ向かうことができた。彼の「治者」とは、これら「一族」たちの家庭環境のバックボーンすべてを意味した。だが、残念なことに、彼は落ちこぼれであった自己に、一瞬、対面しえたかとおもえた『成熟と喪失』期をのぞいて、自己資質と面接することを避け、文体にかかわる視力を失ってさえ、喪失した「治者」の立場に固執し続けたようにみえる。江藤を見ていると、ひとは「文学」が慰安であった時期から、やがて、大人の文学者に成長していくにつれ、自らの過去を忘れようとしたり、喪失感をともなって別の自分になることが、「公」に対する義務であるかのようにおもい定めることの意味を考えさせられる。老いについても、所詮、どう老いるかということに過不足なく重ねることができるとすれば、もしかしたら、第三の新人のような場所に踏みとどまっていたなら、自殺しないですんだかもしれない。
それにしても、『成熟と喪失』は、近代日本の知識人の脆弱さ、未熟さを、戦後文学者にとどまらず、「近代」の精神史のパ－スペクティブにおいて摘出した点において、個人と社会、内面と外面、個人と共同性の関係等『夏目漱石』以来のもち続けた問題意識がすべて出揃っている。つまり、戦後知識人の神話に対して自己反省がない社会意識の暗部に垂鉛を届かせ、「甘え」と「ゴッコ」に奔走する彼らの内部精神が、いかに自己欺瞞に満ちたものであるかを、鋭く指摘することになった。江藤の筆鋒は、わたしたちにおざなりの「民主主義」や「平和」、「ヒュ－マニズム」などの「戦後民主主義」の合言葉が、空疎で擬制に満ちたものでしかないことを教えたばかりか、何よりも、自分の存在の底から絞りだされた言葉でないものを振り回すことの自己喪失感に気づかせてくれた。時に傲慢に、時に卑屈である戦後知識人の態度が、「大人」であることの悲哀や責任の重圧への忍耐によって解体されるさまは、国家、個人、社会の背離を浮き彫りにする以前に、江藤という文学者の内部精神の所在が、生き続ける生活者であることの意味をとおして、知識を映しだすために加担した幸運な場面でもあった。
４ 文体と戦後大衆社会
昭和３０年代後半から始まる高度成長経済の只中の時期、江藤がめざす「近代人としての役割」が、微妙な揺らぎを見せはじめ、屈折をともなった変異が生じたのは、おそらく、この直後ではないかとおもえる。この時期以降、成熟するための条件であった「公的」意識に対する江藤の距離の取り方が、微妙な誤差を生じはじめた。この変化は、江藤の敗戦に対するアンビヴァレンツな意識をとおして、高度化した資本制社会において、みずからの身の置き方に疑念を生じ、適応を迫られた結果かもしれない。これは江藤にかぎらず、すべての知識人が直面した現実感の希薄さと結びついていたが、ただ、彼の場合は過剰反応したことで誤算がうまれた。
高度成長期をつうじて家族の構成も「母性」の崩壊を反映して、核家族化に拍車をかけていた。『成熟と喪失』が刊行される直前の１９６６年には、早くも「家つき・カーつき、ババー抜き」という言葉が流行りはじめていた。その言葉は核家族化の進行とともに、女性の意識の変化をはかる象徴になった。都市に集中した若い核家族は、生産と消費が分離される二重生活をするようになる。住居では消費機能だけをになうようになり、そのなかにインスタント食品、冷凍食品、使い捨ての消耗品がはいりこみ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの電化がいっせいにすすんだ。消費の社会的依存が高まり、消費支出が増大したが、消費支出の増加は、消費者物価を上回る賃金の上昇がささえた。このような膨れ上がった生産・消費意識の変調を、江藤は、「母性」の喪失さえ意に介さない大衆の「私的感性・意志の拡散化」の過程としてとらえそこない、『成熟と喪失』で主張した「治者の論理」は、概念としてのみ機能しはじめる。そのため、「治者」は内実が形骸化したまま拡延したところで、「国家」意識との無媒介な結婚に繋がることになったとおもえる。この大衆社会にまるで共鳴しない「国家」意識や「戦後民主主義」批判は、ただ影として概念の中に殻のように包まれ、閉じられていく危険に晒されるようになる。
江藤は、『成熟と喪失』にはじまり、わが国の近代知識人の脆弱さの根底から、「現実」と「他者」の発見をとおして逆転し、そこから「公的」なるものの責任概念を引き寄せる方法を一歩踏みだし、近代日本の草創期に遡り、近代史の総体をとらえようとした。だが、もはや同じ大衆ナショナリズムの「現実」でないことに無自覚であったため、その過程で抽出された「国家」概念は、期待されただけの分量しか充たさないものだった。そして、その概念の余剰は、ますます、「公的」なるものが息づいているかに見える明治の群像に理想像を投射してしまうことになる。いわば、大衆社会の時間性にシンクロナイズさせることなしに、時間の流れを遮断もしくは逆倒して辿ることになったのである。さらに、この投射における心理機制には、江藤の敗戦時の占領軍に対するアンビヴァレンツな感情移入も加担したことは疑いえない。それとともに、一方で、当時は日本の大衆社会そのものが初めて「外」から眺められる場所に立った時期に当たっており、日本人のアイデンティティを論理化するに際して、心理的切迫感に寄りかかる性急さも災いしていたとみなせる。
「現実」や「他者」は概念として抽象すると、いかなる場合でも言葉の風化を避けることができない。また、イメ－ジが先行する江藤の方法にとっては、その概念が大衆社会状況に後押しされることなく、目前の微妙なイメ－ジの転移に追いつかなくなった時点で、「現実」や「他者」は、一切、具体性をもたないまま、イメ－ジが容易に歴史的壁画のような「国家」意識へと求心していく。そうした文体は、当然、必然性を失い、縮退化してしまう。
文体の問題については、さいわい、江藤は初期の『作家は行動する』という優れた著作をもっている。『作家は行動する』における言語論の特徴は、まず、言葉が人間の外側にある実体―モノではないことを取り上げ、人間の行動としての言葉を位置づけたことにある。したがって、文体とは書きあらわされた人間の行動の軌跡であり、人間の主体的な「行為」と不可分なものである。また、文体が人間の全人格的な「行為」そのものであるなら、文体の問題は、個々の作家たちと、日本の近代の「社会的現実」とのあいだの動的な交渉の過程の問題ということになる。どのような状況のもとで、彼らはどのように行動し、その行動は状況をどのように変えたか変えなかったか文体の中からあきらかにされることになる。
つまり、江藤は、言葉はモノではなく行動する思考そのものの過程として、「現実」の中での、主体的で責任の所在のあきらかな行動を辿ることに批評の基軸をおいた。そして、何よりも、言葉の機能に着目して、客体化されたモノとしての言葉の浸透によって、「社会的現実」を時間化（主体化）しようとしないニヒリスティックで静的な「文体」を「負の文体」と呼び、小林秀雄や私小説など非行動の文体を例にあげ、支配的な近代文学が陥っている「停滞」を批判した。また、「社会的現実」を主体化するに際しては、散文のことばが痩せすぎており、言葉に先行する「イメ－ジ」の「自由」な働きにより、ダイナミックに現実をとらえ、具体的に総合化することを重視した。こうして、彼は「イメ－ジ」と記号としての言葉の関係の拮抗を次のように記している。
≪ことばの記号としての性格はつねにイメ－ジのこの吸収力に反抗しようとする。したがって、「文体」は、想像力の豊かな作家の場合、吸収しようとするイメ－ジと流動しようとすることばとのディアレスクティックな拮抗のうちに成立するのである。ことばは個々に孤立しようとする恣意的なイメ－ジの自己運動を抑制しようとする。そして、そうしながらそのなかから「主導的な思想や感情」の基調となるイメ－ジをえらびだし、それによって他のイメ－ジを「規制」しながら従属させようとする。≫『作家は行動する』 江藤淳著
確かに、江藤の言うように、問題なのは「言葉」の自由さの選択の問題であり、後年、江藤が拘っていたのも、日本人の言葉のアイデンティティの所在であった。だが、言葉の理解においては、奪われているか否かという帰属の問題より前に、主体から離陸した言葉の水準と位相が確定されることが先決ではないか。言葉を所属する主体との距離感だけで確定しようとするのは、恣意的な権力（反権力）との距離を言葉の内部に呼び込むおそれがでてこないか。
このような陥穽が、江藤のいわゆる主体的な言語観に根ざしているとするなら、それが恣意性の程度に応じて大衆意識との落差を生み、必要以上に外国（アメリカ）による日本の文化占領に対する被虐感をつのらせてくるかもしれない。この点で、江藤の言語観における言葉の主体的なとらえ方にその遠因があると言わねばならない。江藤の文化観は、こういう戦後文化の被虐感によって抽出され、求心する憎悪が敗戦時の個人的体験に裏づけられているかどうかを検証するためにも、言葉は初源に遡ってその水準を確定してみなければならないのだ。その証拠として後年の文体の問題をあげてみる。江藤は『女の記号学』の冒頭、女性を記号として捉える趣旨を説明するのに当たり、その文体上の秘密を鮮やかに示している。その論理は次のように展開される。
�@「女の記号学」という表題で、おりふし心に浮かぶことを書き留めていきたい。
�A かといって－（記号学について難しい議論をはじめるのではない。記号学は、関心
を惹きつつある学問の割りには内実がはっきりしない。）
�B しかし－（眼は口ほどにものを言いということわざにもあるとおり、記号により女性を理解すべき文章表現は多い。）
�C つまり－（言外の想いを託すのに、女性は、眼の表情や化粧などの記号を駆使し、
日本人はそれに意味を認めてきた。）
�D いや－（化粧や衣装は記号学の対象にならない。なぜなら、それらは意味作用が顕在化していないから、徴候であって、記号ではないと考える見方もある。それを裏づけるム－ナンのような学者がいる。一方、衣装の体系を記号学原理の中心に据えているバルトのような学者もいる。）
�E もとより－（私はどちらに軍配を上げようとする訳でもない。）
�F ただ－（女性は、自分の気持ちを表そうとするとき、決して言葉のみを用いてきたの のではなく、言葉を含む記号を使用し、喜び、悲しみを表現してきたのだ。）
このような女性の記号的表現をいくつかの文学作品に即して探索しようとする理由を述べるくだりで、江藤は、短い文章中に「かといって」、「しかし」、「つまり」、「いや」、「もとより」、「ただ」などの接続詞を多用し、論理を展開しているのであるが、この展開を支える文体には、他の作品と同様ないくつかの特徴点がある。いってみれば、展開が「なめらかさ」を帯びたものにするための、工夫（技法）として浸透するこの文体は、ときとして、わたしたち読者とのコミュニケ－ションの棘や了解作用を分解するような働きをする。わたしたちが、江藤の文体に感ずる安息感も実はここに出所をもっている。この点において、わたしたちには、江藤という作者たる主体と「現実」という対象との間に介在する距離を象徴しているとおもえる。どうかすると江藤の文体は、わたしたちに心地よいリズムと浸食感を味わわせてくれるものの、これは江藤が、絶えず自分の肉声を語っているからというよりも、作者－現実－読者の間に介在する距離を主体の整合性の過剰さが邪魔して、「現実」時間が読者に向かって流れるのを塞き止めているからではないか。『女の記号学』に即して言えば、まず、女性を記号として捉える一般的な傾向を述べ、記号学そのものは基盤があやふやな由縁を上げ、次に、日本人の生活感性の中に入り込んだ記号の意味を問い、これに対する賛否両論を代表する学者の見解を取り上げる。そして、自分はどちらに軍配を上げるのでもないが、ともかく、女性は言葉以外に自分の意見・感情を表現する方法を持っていることを喚起するのである。
ここからも分かるように、江藤は記号の意味について、結論はともかく、論理の展開過程の中では、どちらでもいいようなことしか言っていないにもかかわらず、記号の社会的役割という理解を自分と読者の間に架橋しようとするに急ぐあまり、ほとんど「現実」の表面を撫でているに等しい文体を編み出している。確かに、自分にとっては切実さがあるのかもしれないが、本来、結合すべき「現実」や「女性」に対しては、等距離の必然性しか感じられないのだ。だからこそ、彼の文体は接続詞の多用による「なめらかさ」を必要としているのである。
いわば、彼はここで、自身の初期の文体論にあった弱点の延長上で、作者自らが天動説のように精神的には動かず、彼のまわりの「記号」や「女性」たちがいかにもなめらかに動いているかにみせる方法に固執していると受けとれるのである。江藤においては、なぜ、現在、「記号」論的思考が必要なのかという自問をとおして浮かび上がるのは、「記号」が「現実」の必然性として存在することの意味が理解を超えていることを明示しているに過ぎないのだ。このことは「記号化社会」の所在の問題として「私的感性・意志」の自己認識の深度にかかっている。
わたしは、戦後の文学史は表現意識上にあらわれた「私的感性・意志」の動向によって読み取ることができるとおもっている。文学は、たとえ、孤立した文学者の内面意識から表現されるものであって、みずからが意識的に関わりあおうとしなくても、表現者の言語思想には、言葉（単語）と言葉（単語）の関係性の網目に応じて、不可避に社会的意識が浮かび上がるからである。人間だけが「こころ」と呼ばれる自己意識をもっていると仮定すると、人間は「現実」に対して意識的に言葉を働きかける（指示する）ときに、「こころ」は現れた言表行為よりも広い「余剰」をもっているその事実を覆い隠して、言葉の発端に「欠如」や「過剰」を見つけ出そうとする。そのため、言葉にとって意味や価値を「こころ」の表象とみなすようになり、「現実」意識の亀裂から言葉が生じるとした言語反映論の基礎が生まれてくる。その一方で、もともと、言葉の意味や価値は、言葉自体の中に内在化された実体ではなく、言葉から投げ出された外部の現実から言葉の内部へと転移する一連の過程的関係、いわば、言葉の二重性から生じると見る考え方も存在する。そうすると、言葉を繰り出す意識は、一見、意識の「外部」も言葉の環境の構成要素とおもえるようになる。
たとえば、憂欝な気分を表現する場合、「彼」が「暗く映った海面をみやった」というのと「気分が落ち込んでいた」というのでは、作者と「現実」の距離感がまったく異なってくる。同じ「彼」が「現実」を映すことにかわりがないものの、作者が「彼」の内面に感情移入する場合と、外面から「彼」を眺める表現とでは、作者の「行為」に面して言葉の位相が異なり、憂鬱な気分の質感が全くちがってくる。それなら、こういう関係面に沿って言葉の世界を意識的に構成しようとすると、あるときは停止し、あるときは動き始める文体の振幅は無限の可能性へ開かれてくるとおもえるようになる。こうして意識（心）と「現実」との層面に、人間意識の「行為」を介在させることによって、言葉は彼岸と此岸を往復する内面劇の主人公になる。
こういう考え方は江藤淳の文体論がそのはしりであった。彼は『作家は行動する』の中で、作品の具体的評価軸が、テ－マにも絵画的な美意識の濃淡にもないとしたら、どこにあるかとの設問に対して、作家が作中人物とともにどれだけ「自由」に行動に参画できているかどうかだと答えた。つまり、主人公が作中で行動する時間と共有する振幅が大きければ大きいほど、作家と作品の固定的な関係を覆し、「私」の「主体性」があると考えたのである。彼は、石原慎太郎の小説を具体例に挙げている。殴打のリズムとあわせ効果的な句読点や感嘆符の多用により、≪大胆不敵に日本語の秩序を破壊し、変形している≫ボクシングの描写場面について、作者が完全にボクサ－の行動の中に参加して、充実した主体的な「時間」の軌跡が引かれている行動的文体のモデルとした。だが、よく考えてみると、もし、行動、非行動の有無によって判断するなら、裏がえせば、行動にコミットしない作者を、行動しない作中人物のせいにしてしまう恐れも当然でてくる。テ－マ論を退けたはずなのに、なぜか、主人公の行動の有無が作者の文体の有無とすり替えられる逆転が生じてしまう。そこでは、作中人物のスタティックな行為が、作者の文体の弱点に必ずしも直結しないという当たり前の原則が忘れられと同時に、のちのテ－マ主義への接近と、文学意識上の誤差を生み出したとおもえる。そのため、のちの江藤の場合、文学批評の評価軸が、すべて結果として表出された美意識上の判断に委ねられることが多くなる。テ－マによる評価の良否が判断材料になってくるばかりか、作品評価上の容認と肯定、または、否認と否定の混同が起こり、作者が容認する美意識をそのまま作者が肯定しているかのように誤認し、美意識を結果としての作中人物判断に全面的に依存させて、すべて主人公の好悪の対称にして作品を理解してしまうようになる。
≪しかし敗戦によって私が得たものは、正確に自然が私にあたえたものだけにすぎない。私はやはり大きなものが自分から失われて行くのを感じていた。それはもちろん祖父たちがつくった国家であり、その力の象徴だった海軍である。私は第二次大戦中の海軍士官の腐敗と醜状を自分の眼で見る機会があったから、この海軍が祖父の時代の海軍と同じものではないらしいことに漠然と気がついてはいたが、それでも連合艦隊が消滅したことは心に空洞をあけた。≫『戦後と私』 江藤淳著
当初、彼の日本近代史への接近は、「成熟」するための支えを「天」に見いだすため、「一族」に遡行することの言換えであった。ここには、敗戦によってうちくだかれた自分を立て直すことが、自分にとって戦後の意味であった経緯が素直に披瀝されている。海軍最年少の提督だった江藤の祖父への愛着を通して、海軍が礎になった近代日本の生成を辿る、あまりに人工的イメ－ジが強すぎるこのような疑問は、江藤が手を染めたノンフィクションノベルの主人公に共通する優等生的性格ともからんで、わたしたちに「実感」と「常識」としての仮構の意味を考えさせるに十分な条件を提示している。『海舟余波』、『海は甦える』、『昭和の宰相』など江藤の描く近代日本の群像は、その価値の源泉としてそれ自体、まず、史実に拮抗するといえるものだろうかという疑念が浮かぶ。戦後喪失した（と思える？）価値は、近代天皇制を通じて、ここでは戦後を相対化する以上に美化されて映されてはいないだろうか。たとえば、彼の描く作中主人公たち、勝海舟、山本権兵衛、西郷隆盛らのだれも、あまりに「国家」に対して律儀であるばかりか、物事の判断、処理が官僚的で硬直的すぎる。これは戦後世界が、作者から見ると、ル－ズで無軌道であることに過剰反応したことに原因があるとおもえる。要するに、作者の胸奥深く固着した美意識上の問題にすぎない。江藤は、戦前の天皇制を立憲君主制と読み替えているのだが、これは憲法解釈上の単純な錯誤であり、統治機構に対する理解が、憲政上の条文解釈を上滑りしている証拠である。現実的に「実感」に即して少しばかり考えればすぐわかることだが、明治の統治機構が立憲君主制を名目に掲げて、議会、行政運営を十分に機能させていたことを確証しうる資料があるとはおもえないし、その中の政治家、財界人が個人として、現実的に魅力ある人物の可能性は更に少ない。
こういう作中人物を描く江藤の立場から、戦後の「国家なき国家」の風景を肯定していると断罪された作者の作品でさえ、江藤の否定の根拠そのものが、見方を逆転させればそのままで、戦後の空白感を象徴させるものとして評価を与えることもできるはずだ。江藤にとって、否定的である作者の否認さえ、否定していく根拠は、この『作家は行動する』で示した言語文体論における主体的行動自身が、作者イコ－ル作中人物の二重化を前提にするものとして、言葉を主体との関係で外在的にとらえる認識論の欠陥そのものに由来するのである。
また、江藤の文体論は、「社会的現実」の発見と格闘を主軸として、その中で「イメ－ジ」をとおして「他者」に結びつき、「歴史」に架橋する作家の「個」性との統一を図っている点で、歴史参加の構図ともなりうるものだが、江藤にとっては、この構図の前提ともいえる「現実」との対面が、「正」か「負」のいずれか一方を選択すべき態度の対象になっているのみで、それ自体としての「現実」は、いわば江藤の彼岸にある。だから、「歴史」の不可抗力性は江藤の当方にしかなく、「現実」の変容と必然性が彼に強いる側面を最初から考慮していないといえる。彼にとって「現実」は「イマジネ－ション」の刃が突きささるか突きささらないか、その軟硬においてみているにすぎないのだ。後に、江藤が戦後世界の変容する様式に対して屈折していく理由も、このような「個」と「歴史」に二分割する歴史参加の構図に原因が求められる。
それでは、言葉を「外部」も含めてその環境の中で問うた場合、内面をまったく度外視した「外部」との関係、つまり、言葉が言葉としてのみ機能する側面に着眼することはできるだろうか。たとえば、言葉を「心」を映す鏡と考えるのではなく、言葉に応じて変化する「現実」が、単に、塗り替えられたり、選択されたりする客体ではなく、まず、「現実」が主体となって構成する言葉の位相から、言葉が自然と「私」の眼前にある「現実」に対して失速感をおぼえてしまうような場合である。それは、「私」の解体だけではなく、意識の内面と外面自体の解体を通じてしか、言葉はその機能をおし測れなくなることである。もし、そうであるとすれば、「私」が思い描くはずのものは、「憂欝なもの」という不安一般自体に解消すべき錯覚かもしれず、「私」の不安というべき理由は言葉の意味や価値の中に発見することはできないかもしれないのだ。
「私」の解体とは、この場合、おそらく、統覚感のもとになる時間意識の解体と呼ぶべき性質のものである。ただの時間性としてのみ機能している言語意識は、「現実」との距離感喪失の代償として、「現実」の内面に繰りこまれた言葉として、あてがわれた当為としてのみ存在するのである。わたしたちが、現在、全社会的に繰り広げられている言葉の流動化に対して、時間に宙づりにされているとおもうのは、この種の時間概念の変容に裏づけられているといえる。
よい悪いは別にして、言葉の時間意識は、直線的な流れから次第に細断化しはじめ、江藤の文体論に確実にあった「いま」、「ここに」ある存在感が希薄化して、意識を凝集しないかぎり、いまにも統覚感を喪失しかねない危機感に晒されている。時間は過去から現在に集積されているはずであるが、それが地盤ごと崩落して、時間とのリニア－な関係づけを失ってしまった。そういう言語のあり方ができること自体、本来、言葉の行動の間尺を問題にする場合には、言葉は世界に対して、ただ、「外」的関係としてのみ存在することを前提に考えなければならないことを教えてくれる。たとえば、「海」を見たとき、人は「やま」と言表することも、「もり」と表しても任意である。この「海」の意味が、表音と概念の結びつきにより、眼前の波立つ海に見合ってさえいれば十分だからである。そして、もっといえば、言葉が対手との間に媒介されると考えるかぎり、自己に対してのみならず、対手に対するインパクトも考慮すべきはずなのに、受け取る側は、言葉を発する側のニュアンスを任意に選択する恣意性をもっている。その甚だしいのは、イメージの類似性を「喩」として表わすときである。
しかし、こういう言葉の任意性が、「海」を眼前に見ている「私」という主体の「意識」をともなっているかどうかは別問題である。この任意性を考える際には、たとえば「私は海を見た」という場合、「私」「は」「うみ」「を」「みた」という言葉の組合せを通して判読されるが、これを「私」「みた」「を」「うみ」「は」と変換することは不可能である。なぜなら、意識として何を選択すべきかは、自己意識に関わりなく「現実」に繰り込まれ、あてがわれた構文をぬきにしては考えられないからである。こうして、言葉に関する不可解さは、�@概念と表音との結びつき�A言葉の構文�B言葉の「喩」の要素によって判読されるが、それら相互の関係がチグハグになったとき、言葉の解体に面接させられるといってよい。
わたしたちは、どこかで、言葉を弄んだり、選択したりという行動を繰り返しているうちに、いつのまにか言葉をみくびってしまった。言葉には裏づけられた意味や価値をもとに、「私」と「現実」との関係に正確に照応する根拠が与えられていると勘違いしていたのである。「現実」は言葉に届くとき、必ず、屈折や変形はまぬがれない。が、いままでの言語論の錯誤は、現在の大衆社会において、言葉が他者に通じないこと、自己内面に沈潜する気分を分散すること、更には現実感を喪失する一方という言葉の到着点によって、その代償を払い続けなければならなくなった。これらの要素は言葉に対する不信感や不可能性の回答を用意しているのだが、もともと、言葉に対するわたしたちの問題点のうち最も大切なのは、「こころ」の陰翳の問題でもなければ、他者に対する意思疎通の確実性の問題でもない。そのことを忘れて、言葉が自ら根拠を失い、自己に対する関係づけをもっていないことに戸惑っているのが、現在、露出した言葉というより言語思想の危機と呼ばれるものだ。だが、こういう言葉の架空性については、どうやら、大衆の「私的感性・意志」に正確に対応する言葉の深化をおいてほか、まぬがれる方法はないようにおもえる。
５ 戦後意識の芽ばえから
表現行為そのものには、自らの内面に沈潜すればするほど、外面に向かって拡散してしまう逆説が秘められている。この逆説は、「私的感性・意志」のあり方と結びつけて考えるとき、戦後のナショナリズムの動向は、いままでとはまるでことなった顔つきをしていることが分かる。それどころか、戦後の大衆意識の推移のなかで文学意識をおしはかる際に、「私的感性・意志」以外に有効な武器はないとさえおもえる。敗戦を境にして国家意識統合のシンボルを喪失したことによって、戦後のナショナリズムはひたすら拡散していった。このような認識を基調にすえれば、わたしには戦後の大衆社会の動向は３段階に区分され推移したとおもえる。まず、第一段階は、１９４５年の敗戦時から、朝鮮戦争の特需から経済復興がはじまり、ようやく戦前の水準にまで回復して、政治的には講和条約締結で独立をはたした直後の１９５５年前後までの間である。その間、敗戦によって統括軸を失い、戦前は縦の関係に吸引していたナショナリズムの核が奪われ、行き場を失ったひとびとの感性・意識が横へ横へと分散していった時期である。次の第二段階は、その後の高度成長経済の到来とともに、経済大国のナショナリズムは膨化しながら、１９７０年から数年の間の収縮期をくぐり抜けたあと１９７５年頃まで「私的感性・意志」は膨化の一途を辿り、とうとう第三段階の「私的感性・意志の解体」をまねきよせ、現在にまで至っているというコースである。
後年、敗戦期のトラウマと米国の占領化への反発に固執する江藤淳は、敗戦後１０年間の区切りをもって、戦後社会と文学はすべて、米国の占領政策によってお仕着せられたタブ－の支配を許してしまったと述べている。もし、そうであれば、戦後の全階梯を反故にしてしまったも同然になり、あとは戦前に回帰することしか残されていない。しかし、米国の影響下にとどまったのが事実であるにしても、戦後のわたしたちの感性・意識は、それ自身に刻印した時間の累積をもっている。それは第一段階においては、何より、国家権力の解体によって戦後を出発する際、ナショナリズムの求心軸が喪失するのに応じて、ひとびとは新しい時代の実感を物質的欲求によって表現しようとした。その「自由」が先鋭な輝きを放ったことである。これは野間宏、椎名鱗三、梅崎春生などの第一次戦後派が、戦争時の体験を「自由」に表現したことにおいて意義をもっており、その「自由」の背後には、江藤のいう「占領軍からの自由」だけでなく、「自由」を物質的なものとして、身の丈にあった社会的な広がりの中で考えることができる環境をつくりだしていたことである。江藤が認めたがらない敗戦と戦後の「自由」は、ポツダム宣言受諾のあり方や占領軍による検閲など国家的レベルの理解としてではなく、大衆意識の即物的な面から抽出すべき理由がここにある。
戦後いち早く花開いた第一次戦後派の文学者たちは、戦前・中・後のこの「自由」を連続させるアイデンティファイに失敗した体験を、自我の喪失あるいは解体として表出しようとした。しかし、これは実際には「内面性」に関わるというよりも、より正確には、家族と死別したり、着の身着のまま焼きだされ、家財道具を失っても「闇市的自由」は、今まで味わったことのない感触が加担した解放と自覚するべき性格のものであった。戦前・中の経済統制のもと、配給券以外に生活物資を得るすべをもたなかった都市下層庶民にとって、「内面性」はもとより、一部のブルジョア階級を除いて、「自我」に値する特権を享受する自由などありえなかったはずだからである。縦に貫通するブルジョア国家権力による統制と天皇制国家の経済外的強制の圧迫下をくぐりぬけた敗戦による大衆の解放は、本人たちの自覚の如何を問わず、何よりも第一に、農地解放による食料に対する「自由」であったと同時に、何をしても誰からも咎められないという明るいニヒリズムの到来を膚で感じたことだった。
この二重の「自由」が大衆意識上の原点であることは、戦後を考える場合、まず、前提にしなればならないとおもう。戦中、戦後をつうじて食料に窮することがあっても、あくまで痩せ我慢をつらぬいた江藤や、食料に対する「自由」も知らず、江藤の本を通じてしか戦後を知らない、より若い世代の政治家たちが「美しい国ニッポン」などと、まるで、海外から訪れた観光客のような気分で、戦前・中・後を一筋につないで、つぎはぎだらけのナショナリズムを煽るような試みは、ほとんど、外皮だけのナショナリズムの妄想でしかないことを知るべきである。
しかし、この奇妙に明るい「闇市」的自由は、やがて経済復興と、占領から独立へと続く政治的変動を通過するにつれて、安定と秩序を求める国家的・社会的再編成の前に次第に色褪せてくる。それとともに、６０年安保闘争を最初の発火点とする経済至上主義の到来をまって、「自由」は戦後当初の明るさと恣意性を失っていき、文学的表現としてもモノト－ンに変調していくのである。そういう意味から、それまで米軍基地反対闘争、炭鉱争議などはあったが、６０年安保闘争は真の意味で、敗戦直後から拡がった国家の意志に抗する「恣意的自由」の存在性が試され、次に継承されるかどうかが問われた最後の闘いにちがいなかった。６０年安保闘争に遭遇した吉本隆明は、戦後意識の変容を次のようにとらえていた。
≪戦後十五年は、たしかにブルジョア民主を大衆のなかに成熟させる過程であった。敗戦の闇市的混乱と自然権的灰墟のなかから、全体社会よりも部分社会の利害を重しとし、部分社会よりも「私」的利害の方を重しとする意識は根づいていった。…中略…丸山（真男）はこの私的利害を優先する意識を、政治無関心派として否定的評価をあたえているが、じつはまったく逆であり、これが戦後「民主」（ブルジョア民主）の基底をなしているのである。…中略…また、これら社会の利害よりも「私」的利害を優先する自立意識は、革命的政治理論と合致してあらわれたとき、既成の前衛神話を相対化し、組織官僚主義など見むきもしない全学連の独自の行動をうみ、まず、戦前派だったら自分でこしらえた弾圧の幻想におびえてかんがえもおよばないような機動性を発揮した。…中略…このような「私」的利害の優先原理の浸透を、わたしは真性の「民主」（ブルジョア民主）とし、丸山真男のいう「民主」を擬制「民主」であるとかんがえざるをえない。≫『擬制の終焉』 吉本隆明著
全学連と行動をともにした吉本がやり玉に挙げているのは、戦前派の率いる社共と国民共闘会議など転向ファシズム的組織感覚にとらわれた自称「前衛」運動と、丸山真男や竹内好などのイデオローグを擁する啓蒙市民主義運動であった。特に、市民民主主義は、「私的感性・意志」の発露が、自らの運動に都合よく按分されたときだけ進んだ部分と理解し、政治的無関心や傍観者になったときは遅れた部分として否定的評価を与え、かえって、みずからを古臭い公的立場に追い込むことにつながった。そういう丸山の唱えた「民主主義」を擬制的と呼び、「真性」民主こそが既成の前衛神話をくつがえし、安保闘争を独自の行動に駆り立てた原動力になったとみなした。その上で、学生を中心とする急進的な運動も、それに対して一見、傍観者でありながら、「声なき声」を支えた多くのひとたちも、「私的感性・意志」の流出であるかぎりにおいて同列にあつかったのである。話が横道にそれるが、それからも吉本は国家や党派に依存しない自立思想をめざすのだが、のちに親鸞を批評した際、「信」に殉じる衆生ばかりか、「不信」の衆生をも救い出す弥陀の本願をひきあいに、「信」と「不信」の区別を解体するばかりの限界線を問うたのは、同じように政治的関心をもとうが、政治的無関心派であろうが区別せず、ともに私生活によって国家や党派から自立するひとびとの声に応えるものであった。
ともかく、１９６０年代初頭においても「私的感性・意志」を中心に据えた大衆のナショナリズムは、もはやあともどりのできないくらいの大きさになっていた。それから本格的な高度成長経済の滑走期を迎えて、１９６５年（昭和４０年）を境に、さらに、社会意識の質的な転換がおこる。その過程こそ、わが国の戦後世界の中で真に変容しつつある時間の別名になった。これは全社会的な消費活動、生産・流通の網の目の拡がりと緊密さにおいて、公的意志よりも私的利害をより重視する「私生活中心主義」が定着した時期であった。私生活中心の意識は「マイホーム」にむすびつき、片や企業社会では、「モーレツ社員」を産みだした。「マイホーム」を維持するために企業内エネルギーを投入し、それによって企業の生産性を上げ、そこで生まれた商品が市場のなかで、さらに多くのひとびとの「マイホーム」への欲望をかきたてるという私生活意識の拡大循環が起こるようになったのである。１９６０年から７０年までの１０年間で、勤労者世帯の実支出は２．６倍となり、支出構成では食料費の割合が低下し、耐久消費財や教養、娯楽、交際費などの支出が増加した。マイカー時代が到来し、自動車、カラーテレビ、ルームクーラーが新しいステイタス・シンボルとなった。また、若者にとっては余暇関連支出が急膨張した。所得の増加、労働時間の短縮により、レジャー産業ではボーリング、ゴルフ、スキー、旅行の大衆化など、つぎつぎと欲望の肥大化をもたらした。ここにおいては、私生活意識＝マイホーム意識という「消費は美徳」意識が、職域、地域、家族のなかで他をおしのけて前面にでてくる。より便利な豊かさへの競争に一旦入り込むと、消費生活の向上が、「世間並み」の生活実感に言い換えられ、すぐさま「中流意識」の浸透とむすびついた。１９７０年の時点で、みずからを中流とおもっているひとは、すでに９０％に達していたのである。この飽満意識の拡充は、その後、１９７５年（昭和５０年）頃まで続き、大衆消費社会の爛熟期の意識変容を決定づける。高度成長に酔うもの醒めているものを問わず、大都市圏のスモッグと通勤ラッシュに窒息しながらも、それが当たり前のように、より豊かになる可能性がすぐそこまで来ている期待に向けて足並みをそろえたのである。
とかく、「私的感性・意志」からあふれ出た経済至上のナショナリズムは両刃の剣であった。おそらく、江藤淳における変節と擬されているものは、主に、大衆社会の変質期に当面して自分の居場所を見失い、そこから振り返って、敗戦直後の「恣意的自由」の氾濫から戦後経済社会の高度化にともなう大衆意識の膨化の関連づけに失敗したことに帰因していた。なぜなら、第一次戦後派に対して素直な違和感を吐露してみても、さて、その反発のルーツを探して辺りを見渡したが、そこにあるのは醜悪な（に見えた）私生活ナショナリズムばかりであった。そのことに気づいた江藤は、一瞬、目をつぶってみたが、まぎれようはずもなく、その届かないおもいは、大衆消費社会の爛熟期をくぐりぬける過程で、さらにアイデンティティ不在の疎外感をつのらせる。とどのつまり、イメ－ジ＝概念として戦後の歴史的時間を繰り込むことができなかった彼は、「一族」のイメージと「治者」の概念を継ぎ合わせることに落ち着いた。他面、この経過のなかで、必要以上に「日本的なるもの」に固着を促したのには、留学体験の力が大きかった。
留学は、江藤にとっては、当然、「外」から見る日本の自覚を迫った。この場合、「外」から見た当時の日本は、懸命に経済成長に邁進している最中の姿であった。しかも、その日本は、「外」から見られているよりも、自己を求めるのに急ぐあまり、「内」と「外」の相対感覚を脇に置き忘れたかのように映り、江藤にとって衝撃は倍加した。江藤のその後の方向を決定づけたのは、この「外」の世界への方位感覚であり、それが「外」から見られていることを内在化した論理として、ぶざまな姿を「外」に晒してはならぬという度はずれた使命感に形を与え、必要以上に力瘤をつけさせ、緊密な文体をひきよせたといえる。彼の近代史を総ざらいするようなノンフィクションノベルの舞台装置が、ともすれば人工的で硬直しているのは、これらの要因による相乗作用にほかならない。
また、両刃の剣は反対側に倒されたとき、学生の反乱に象徴された。
６ 戦後意識の変貌
問題は、経済社会構成の高度化によって「私的感性・意志」が拡散していった状況の背景には、理念としての「現実」や「他者」が、ただの生活者の想いと同背丈のイメ－ジに納まり得ない事情があったのである。このような理念の形骸化は、ちょうど高度成長経済の爛熟期と時を同じくしていた。ひとびとは経済的豊かさの中で、戦後大衆意識の一階梯を終え、新たなステップを用意していた１９７０年代前半のことである。わたしたちにとって７０年代は、やや年長の世代が振り回していた理念がすべて嘘っぽく見えはじめていた。もちろん、それに替わるべき理念などだれももちあわせていないので、できるだけ醒めた心に蓋をして、あてもなくとおりのよさそうな本を集めて濫読していた。そういうわたしたちは、６０年代末の学生反乱は、マスプロ教育からの疎外感や日本帝国主義の社会的再編成から始まったと聞かされてはいたが、大学を良くするような発想に対しては、「それはないだろう」というのが本音だった。在学中に二度、学費値上げ反対運動に関わった際、大学がつぶれても仕方がないとはおもったが、教授連といっしょにカリキュラムを良くしようなどという連中の心意はとても理解できなかった。大学などは、所詮、いい加減に単位をとって卒業証書さえもらえばいいので、その間、時間に余裕があるかぎり、自分の身になる本をせいいっぱい読んだほうがいいに決まってる。後でおもいかえすと、そのようなまっとうな考えも、当時は、ツッパッて大学解体と「他者」にいえない気持ちが交錯して、どこかチグハグにおもっていた。少なくとも、わたしには何も始まっていないわけだから、「現実的」とか「実践的」という言葉には胡散臭さを感じてしまっていた。まだ、６０年代の余燼がくすぶっている沖縄の本土返還の頃で、返還協定に反対と叫びながら、人並みにデモはしたのだが、みなの横顔をみると、沖縄は本土に返還されてもきっといいことはないだろうと内心予感していたのか、いちようにうつむいて、熱気が感じられない。ともかく、もちあわせの言葉がないまま、本土の犠牲になってきた沖縄が可哀想だ風のアジテーションはしたものの、どこかで嘘をついているという気持ちをぬぐえなかった。
大学３年になると、政治日程もなくなり、まるで社会から隔絶した真空地帯に迷いこんだような気持ちになった。外の世界を実感できない焦りから、夜中起きだして「何か面白いことはないかなあ」とつぶやきながら、街頭の灯を数えて延々と徘徊しているうちに、学生時代の後半は過ぎていった。その頃の自分へ投げかける言葉があったとすれば、「若者は心の過剰さをもてあましている」というような大人の戒めかもしれないが、そんな太宰治風の言い方は気に食わない。ひそかに太宰は読んではいたが、「罪の意識」というのが腑に落ちなくて、周りにいた学生運動くずれの太宰信者が格好ばかり真似しているのを見ると、虫唾が走った。運動から離脱することで「罪の意識」を誘うほど、大衆を巻き込んだ大きな運動があったわけでもないし、たいした役割を担っていなかったくせに、大仰過ぎるじゃないかと毒づいた。そのときは、それも気持ちを切り替えるための方便ともしらないで、こちらは心の整理もつかないまま、社会に出ていったのだが、もちろん、そんな怠惰な気持ちを受け入れてくれる場所はどこにもない。自分であって自分でない、心の底辺のモラトリアムは依然続いていた。そういう自分をやや自覚的に眺めることができるようになったのは、ようやく、８０年代に入ってからだった。
幾分、仕事の要領はつかみかけたが、自分の閉ざされた心のありようが、仕事の人間関係とすれ違ってどうしようもないときには、失意や懐疑で頭の中がグルグル廻った。どのように振舞えばいいのか分からないのは、ひとに対する「自己関係づけ」が原因らしいのは分かったが、実感するのはとてもむつかしい。ようやく、それを自分と自分、自分と他者の二面性の問題として自分を納得させたようにおもう。しかし、なるほど、自分に見えている組織の人間関係と、組織の中に映る自画像の落差を痛感するのだが、考えればかんがえるほど深みに落ち込むことにかわりなかった。そんな人間関係の罠から「外」の世界へ抜け出すことはできないかと思いつめたときはじめて、これは、単に、自分が属している小組織だけの問題ではなく、ヒト、モノを含めた広義のコミュニケーションのあり方が、職域、家族、地域社会の全領域に負荷していることに心当たったようにおもう。そのきっかけは、コボルやベーシックなどの初期の幼稚なプログラム言語を習いおぼえて、旧式のパソコンでやたら、大判でふにゃふにゃのフロッピーディスクにデータを投げ入れはじめてからである。みなそういうスキルが、今後、ますます必要になることを察知して、互いを意識しあいながら、競争のように参考書を漁りはじめた。
それまで、あらゆる組織には組織固有の原則があり、組織理念としても、経営組織（会社）、官僚組織（役所・サービス公企業）の区別にかかわりなく、上意下達とか、広く下意上達にすべきとか段階上の差異を含みながらも、一定のコミュニケーション・パターンを踏襲して、社員同士の認識を支えてきた。これはいいかえれば、どのような組織たるべきか以前に、組織＝組織というかたちで有無をいわせぬ了解の認識が強固であったからである。ここで支配する固有の認識時間が、組織の伝統ともいうべき歴史時間と交叉して、倒産しないかぎりは組織に対する堅固な防備力を形づくっているとおもわれてきた。つまり、組織のあり方や成立そのものに触れること自体、組織理念に対する侵犯であるかのようなタブーが支配していたようにおもえる。ところが、一見、堅固であるように見えた組織の防備力も、その頃から、情報化社会とかの呼び名で総称されるソフトな感性社会への転換が、組織が掲げる目的（利潤、サービス）そのものの質的変化を強制しはじめると、そのためにはどのような組織原則が必要かという問いにまで発展しそうになっていた。たとえば、自社の製品やサービスが顧客層の変化やニーズそのものの変化によって、必然的に商品開発の促進を強めた場合、その企画の段階に応じて、どういう創造性のスタイルが社会的な需要に応えられるか、組織のあり方の吟味は、組織開発の名によってシステム変革を俎上にのせなければならなくなった。また、組織はサービス、製品の圧力だけではなく、それ以上に、構成員の意識や感覚の差異によっても変化していく。特に、若年層の社会意識と年長世代との世代間のギャップは大きく、実際、組織の中で、上層、中堅の管理ポストを占めるひとたちと若手社員との間では、組織に対する考え方の隔たりがきわだってきた。
しかし、そのとき、問題は世代的ギャップだけに責任を負わせられるものではなく、実は、若年構成員に代表される意識、感性上の変化を消費社会への窓口として、組織がどのように取り込むかがその課題になろうとしていたのである。わたしたちはだれも、いやおうなく、消費社会への質的転換を、ひとびとの意識、感性上の変化で追認しなければならなくなったのだ。それは組織として「私的感性、意志」の拡散化をどうとらえ、どのように組織として繰り込むかにかかっていた。その意味で、会社組織は、ひとがおもっている組織の自己時間と組織が維持されるための自己時間がギシギシ音をたてて、調停すべき手だてをもたないまま、コミュニケーション方法の軸心を揺さぶられているかに見えた。
１９８０年代を色彩るいくつかの言葉をひろい集めてみる。いわく「高度情報化社会」、「ソフト化社会」、「ハイテク社会」、「パーソナル化」、「ライト感覚」、「ユニセックス」、「モラトリアム」、「ピーターマン・シンデレラコンプレックス」、「ネオ・シューマ二ズム」、「デジタル化」、「症候群症候群」etc.これらカタカナ言葉に代表されるソフトな感性革命の素地を、わたしなら次のように輪郭づける。消費社会の成熟と全面的な開花は、高度成長経済の帰結であり、それは「私生活中心主義」のマイホーム主義と呼ばれた。だが、その裏では、ソフトさだけでなく、企業への献身にささえられて「モーレツ社員」の半面ももっていた。しかし、８０年代は、社会構成と社会意識の重心移動と流動化をともない、生産、流通、消費部門のそれぞれで、大衆のモノやヒトへの関係づけの仕方や視点の移し方に、意識変化や感性的変質を決定的に刻印づけたのはまちがいない。誰もが感じている現実像の変容は、ひとつには物質的豊かさを土台にしながら、その一方で、マス・コミュニケーションをはじめとする「観念的な交通様式」の高度化も手伝って、社会意識の拡遠化と視圏の拡大が、「私的感性・意志」と社会的意識のあいだに亀裂をまねきいれ、大衆意識の流れが方向性を見失っていたことに原因があった。だが、一般的にいえるこの大衆ナショナリズムの変貌も、いったん、その内実を具体的に問う段になると、家族、地域の中においても、また、職域においても問題は平板ではない。とりわけ、組織としての職域集団をあつかう場合、さらに二重の困難に直面せざるをえない。ひとつは、職域における人間の存在態様は、本質的に自己や他者との関係づけが共同性としてしか表出されないため、家族集団や純粋な個人としての自己関係とは逆立ちすること。もうひとつは、共同性のみの観点からすれば、家族関係や仲間（サークル）とのちがいはないが、職域集団がいったん組織としての構えをみせるときから、全く異質な感覚を受け取ることである。わたしたちは誰もこの澱のような組織性に立ち向かって、自分の無力さを噛みしめたときがあるにちがいない。組織の中のごちゃごちゃした人間関係は、不可避に「外」に向かってはけ口をみつける。最初の２、３年はがむしゃらに与えられた仕事をおぼえようとするが、いつのまにか「内」と「外」の使い分けを知るようになり、気づいたときには一人前の組織人になっている。一人前であることは、株式会社であろうとヤクザな政治組織であろうと変わりなく、人間をダメにするから、もう永遠に元に引き返すことはできない。こうして、職域集団に面するときに生じる固有の問題を要約すれば、一方で、共同性一般の関係のそれであり、さらに共同性から組織性への架橋の問題に解消される。そして、組織集団がさまざまな段階の違いをくるめて、ヒトやモノとのコミュニケーションの差異をめぐってあらわれる最後のものであることをわたしたちに教えてくれる。だからこそ、組織のあり方を問うことは、社会変化の圧力に洗われたコミュニケーションの方法が、どのように浸食されているかを見定めることになるのだ。
１９８５年にわが国は世界一の債権国になり、８７年には一人あたりのＧＮＰはアメリカを追いぬいた。日本経済は柔軟な配置転換や新機器の導入に積極的なことで、「日本的経営」や日本的労使関係は成功の秘密として世界に唯一のモデルになり、「経済大国」を世界に誇るようになっていた。その一方で、「日本的経営」は大企業が多国籍化し欧米への進出が進むにつれ、次第に舵きりをせまられるようになる。その様子を加藤哲郎は私生活中心主義のゆらぎとして次のようにとらえた。
≪「減量経営」にしたがって節約し、大幅賃上げもマイホーム購入もあきらめ、消費生活向上の目標を、耐久消費財の新モデルへの買いかえやファミリーレストランでのささやかなグルメ気分、他人とちょっとちがったファッション、一点豪華主義の輸入家具購入にトーン・ダウンしたものの、高度成長期のような充実感・向上感はえられない。子どもの教育にたくした夢は、かさむ教育費として家計にはねかえったばかりか、競争のすそののひろがりで、自分の子どもだけをエリートに育てるのがどんなに困難かを、思いしらされて。夫の残業・単身赴任や子どもの過密塾通いで、家庭生活にもうるおいがなくなる。…中略…それが自分と家族の幸せにつながると信じたからこそ、日本経済のため、会社のためにいっしょうけんめいつくし、心身をすりへらしてきたはずなのに、そのゆきついた先が中高年昇給あたまうち・退職金切り下げでは、「使いすて」ではないか、と「ただがむしゃらに四十年」の人生にも疑問がわいてくる。≫『戦後意識の変貌』 加藤哲郎著
とても身につまされる記述であるが、そこから加藤は、私生活中心主義の物質的・消費中心的心情が飽和点にたっし、労働時間の長さや休暇もまともにとれない窮屈な私生活意識にゆらぎが生じたとしている。次第にニューリッチやニュープアなどの所得格差やコンピュータ化に必死に取り組むひとたちのストレスの集積などで、生活実感の低下が徐々に意識にのぼりはじめた。こうして、ひとびとは６０年代の高度成長経済以降はじめて、企業の豊かさは決して自分自身の豊かさとはつながらないことをかみしめる事態に遭遇したことになる。さらに、それまでの経済成長が当たり前のように育った「新人類」の出現によって新しいライフスタイルが生まれる。彼らは、先輩たちが「モーレツ社員」であったからこそ「私生活中心主義」になったという説明に疑義をはさみ、会社のために心身をすり減らすなどは論外で、働くことはもっぱら、自分の趣味や実益を活かすための方便と割り切った。彼らの多元的な関心領域や脱政治性はきわだっており、独特のこだわりを示したのである。このような疑義はアメリカの「ミーイズム」に近いものの、エコロジーや「脱産業的価値」、精神的充実の方面に向かうことなく、あくまでも「物質主義的価値」追求に傾き、個性や差異を持ち物や商品によって表現するようになったというのが加藤の結論である。
加藤のいう「物質主義的価値」のありかが、現在のオタク商品の売買、流通の爛花につながっているのはまちがいない。すでに、８０年代の後半からわが国の大衆意識の進路は定まっていたのかもしれない。だが、加藤の「中心の安定と周辺のストレス」という「段差」の図式は、もうひとつ別の媒介をふまえないと決して解決できないようにおもえる。彼は社会的中心として大企業経営者、政治家、高級官僚、土地所有者、大企業のエリート社員をあげ、片や、中小零細企業の労働者やパートで働く女性たち、寝たきりの高齢者や障害者を周辺の弱者と対置させている。このような振り分けは、所得の多寡や労働時間の長短によって区別されており、当然、時間の媒介を挿入すれば意味をなさない場合が多い。二世社長や二世議員でも成功者はいるのかもしれないが、その格差はいつも属人によりかかっているものではなく、まして、ひとりの時間の中でも推移がある。つまり、たくさんの不幸の意識や幸せの意識が乱反射のように微かな光を映しており、それを一括りにして安定とストレスの対象として切り分ける啓蒙意識を前提にしているかぎり、ひとびとの意識のすきまに何かを届けるのはむつかしい。啓蒙の手段はひとつではない。そればかりか、啓蒙するためには、多くのひとびとが浴びているイメージの系列の変化や意味を解析し、別の言葉の回路をもとめなければならないようにおもえる。その迂回路をつくることが新しいコミュニケーションのあり方として再認識されなければならないのだ。
「私生活中心主義」がようやく定着しようとしていた７０年代初頭においても、コミュニケーションの問題は、わたしたちを挫いた。同じ気持ちを抱いているとおもっている仲間同士ならすこしの感情のもつれや諍いおさまりがついたが（のちには心的外傷をうけたが）、「外」の世界の人間とは、まるで言葉がつうじない、異星人が発した言葉のように受け取られるという失意感は、脱コミュニケーションの罠におちいらせた。当時のわたしたちの幼稚な考えでは、「私生活中心主義」は保守主義や傍観者として見かけ上の敵であった。相手から「ひとそれぞれの考え方がある」というように会話を拒絶されることが多くなると、次第に話しかけるのが億劫になり、その分だけ自分の心と言葉の間隙をぬうように、わかるものだけがやる身体「行為」が過激になったようにおもう。そのくせ、自分だって少しは将来の生活の保身のことが頭をかすめたから、相手と同じ土俵で「私生活中心主義」にとらわれているのかとおもうと、よけいに八つ当たりしがちだった。
そんなディス・コミュニケーションが、ひとはひとに影響を与えることも影響を受けることもないという居直りに換わるのはまもなくだった。ただ、学年が上になって、ゼミでお互いの論文を見合うようになると、そういう一見、わたしには心を閉ざしていたように見えていた人間が、とても自由な、闊達なイメージをもって文章を書いているのに驚いた。それに比べると、自分の文体はひとつの文に沢山の咀嚼されない意味概念を閉じ込めているようで、とても窮屈に映ったのにショックを受けたのだ。話し言葉のように書くことでわたしと接する同級生が、たくさんの心の顔をもっていることにはじめて気づいたことになる。後になって考えたのは、ごく当たり前なのだが、人間にとって話し言葉は、書き言葉にくらべて何倍も大きな容量を占めているということだった。もちろん、話し言葉から書き言葉が生まれたにはちがいないが、わたしたちは書かれた言葉によってイメージをつくり話していたわけだから、逆に、話すように書くことが新鮮に映ったのだ。
もし、当時、この逆方向の言葉のカラクリを理解していたなら、書き言葉に活気をあたえた「私生活中心主義」を取り込んで、別の身体「行為」に導いたかもしれないとおもうようになった。話し言葉のように書くことこそが、ひととひとが交換可能な価値をつくりだし、自由な身体「行為」と結びつく可能性を秘めていると考えたからである。コミュニケーションとは、いきつくところ交換価値をどうつくりだすかにかかっている。いわば、自由なコミュニケーションとは、いかに多様な自画像をもち、交換価値を多様に繰りだせるかどうかにかかってるのだ。もちろん、今でこそ、「書き言葉＜話された書き言葉＜書かれた話し言葉＜話し言葉」の不等式が成立しているのがわかるが、それからのわたしは、わけもわからず、書き言葉によるコミュニケーションに不信感をもつようになったばかりではなく、書き言葉から「行為」につうじる通路を探すことを断念したようにおもう。
しかしながら、そのころから、わたしたちが何より不安に感じていたのは、まわりの書かれた話し言葉の圧倒的な氾濫の中にあって、あれやこれやの不幸の意識や幸せの意識を写す鏡がないことが原因ではないかということだった。実際、書かれた話し言葉のなかで、中流意識が蔓延し、敵対すべき対象が見定められないということは、貧困や疎外感が消滅したとみまがうばかりで、わたしたちを呪縛しているのは、もはや資本でもなければ国家でもないようにさえおもえたことだ。いわば、資本によって操作されたステロタイプの話し言葉の記述＝情報観念というより、むしろ、逆に、情報観念によって生成された資本経営そのものが、人間と社会の間の交通の網目を切り裂き、支配の図式をシュミレートしているかに見えた。わたしたちは、ともすれば錯覚して、「私」たちがあくまでも主体であり、情報や観念は受身で操作されるモノぐらいに考えがちであるが、実は、反対に情報や観念によって操作され弄ばれているのは、主体である「私」たちの方なのだ。これは８０年代以降の時代が、書かれた話し言葉を解放する観念的交通手段の肥大化と「私的感性・意志」の拡散化を受け入れたときから、かつてモノや財を生産し、そこから生産関係を切り結ぶことが社会的交通の原型をかたちづくった生成資本主義期とは、全く異質な土壌に突入してしまったことを示している。
少し前まで、資本制社会の成熟途上の段階において、労働者は工場で汗まみれになって働き、生産し、資本家や他の労働者と関係を結び、工場近在の住宅街に戻って家族とともに食卓を囲み、ささやかな団欒をすごすというような平凡で単調な生活のリズムを受け入れていた。実際にこういう非凡な幸福感があったかどうかは別として、少なくとも、こういう生活が理想として描かれていたことは確かである。毎月のサラリーがたとえ家族を養うにギリギリであろうと、労働という社会的交通の「価値」が安定しているかぎり、同僚と不満をぐちりながら納得ずくの代償とすましていた。労働者はなけなしの賃金を得るため工場にかよい、そこで労働者としての共同意識を学びながら、それを家族や地域に持ち帰ることで、明らかに資本家や経営者とは肌合いのちがった「価値」を身につけたのである。各階層、各階級の関係意識は、共同意識をつうじて固有の社会的「価値」や「意味」を培っていた。
ところが、マス・コミュニケーションをはじめとする観念的な交通様式の拡延化は、このような労働にともなう固有の意識の空隙に割りこみ、共同意識を風化させただけではない。労働そのものと「価値」の経路も切断し、あげく、職域や地域に縛られることのない恣意的な関係意識を提供したのである。都市論において都会と田舎の差異パターン論が暗示するのは、ほんとうは都会と田舎の境界線がなくなったことの反証であり、同時に都市の労働者街とその他の街、さらには、都市と田舎の機能の無力化であった。それは定在するひとびとの関係意識が、もはや、決して階層や地域、職域とともに帰属する街並を変えないことの証明であった。この意味において、ひとびとの普遍性意識（グローバリズム）の端緒は浮遊性の意識に重なっていた。観念生活と実体生活との懸隔が、労働者（働くこと）としての生活そのものと、その固有の「価値」との間の疎遠さの事態にまで拡がったのは、わが国にかぎらず、欧米の先進資本主義国も事情は同じだった。そればかりか、社会主義ブロック圏の雪崩のような解体とは何より、支配者がひとびとの生活意識や感性、意志の拡散化を観念と実体の乖離として受けとめられず、いつまでも実体経済にしがみつく硬直した「社会主義思想」による工業主義、計画経済の敗北を意味した。
テレビＣＭ・広告媒体で流される夥しい情報観念の氾濫は、購買者が抱えていた固有の意味関係を剥離させ、自立した別のイメージを喚起した。たとえば、「軍靴」を「ブーツファッション」に結びつけたのは、イメージや言葉を意味の共時系から切断し、それをコードの組み換え部品の一部にしてしまうことによって、異次元の関係空間を演出したからだ。「軍靴」のイメージの放つざわめきが変異なのではなく、異空間に移し変えることが別の社会システムを呼び寄せ、元のシステムとの「段差」をきわだたせることに成功した。そうして、情報観念の氾濫こそは、言語、イメージのコード化を条件づけたともいえる。
高度情報化社会とは何か。また、その情報観念とは一体何をさすのか。この種の問いかけは別段目新しいものではない。活用できる情報を大量に入手するというだけなら、すでに６０年代の後半に大衆生産、大量消費の呼び声に応じて盛んに吹聴された。しかし、８０年代に出現したのは、情報が先端技術としてのエレクトロニクス技術と結合して、広範囲に、しかも迅速な流通を可能にする予感にうち震えた事実である。それは、いずれ、観念としての人間の意識、感性をコードの渦に巻き込み、あたかもコミニュケーションの枠組み自体が、情報の質によって逆規定をうけているかのような状況への入口だったのである。このまま情報、通信手段が進歩すれば、とおからず、すべての職場、家庭にオンライン・ネットワークが張りめぐらされ、生産産業の合理化はむろん、消費生活の場面においてもメディアを通して情報の提供、伝達、処理は時間と空間の制約をとりはらい、居ながらにして商品の選択、購入や知識、ニュース情報の厖大なサービスを受益するようになるのは時間の問題だった。その結果、人と人あるいは人とモノ、個人と社会間のコミュニケーション形式は著しく変貌するにちがいないと。
おそらく、こういう新しいコミュニケーションの拡延化をつうじて、従来の工業社会の中で価値を構成したはずの商品や貨幣と情報の形成、構成、流通にともなって産み出される価値とのあいだで齟齬をきたすことは明白だった。従来から、人間の観念的な拡延を考えるときには、常に巨大なメディアがやり玉に上げられ、それがもたらす自己疎外（言った当人の喪失）とアイデンティティの欠落（自分の言葉の消失）に焦点があてられてきた。この結果、良識的な文化人は、マスコミに対してはミニコミを、巨大なメディアに対しては弱小メディア（ミニメディア）を対抗させ、虚偽に対してはほんとうのニュースを提供することがメディアの倫理と定義づけられた。確かに、歴史的にみればコミュニケーションは、情報の売り手、買い手の相関で決定され、言語やシンボリックな動作はその相関の上に立って、メディアの質を決定してきた。だが、わたしたちの目前に浮上してきたのは、情報の売り手－メディア－買い手の環のうち、これに三者の比重の構成と相関そのものの不和である。そこでは、以前のように、売り手側の供給衝動が買い手の市場（マーケット）を制約し、しかもその制約がメディアの大小を決めるというような予定調和的な等式は想定しがたくなっている。図式化して言えば、決定的に変化したのは、この函数の不等式の拡大であり、いうなれば、売り手に対する買い手需要の先行であって、次いでメディアそのものの自立化である。もっとも、買い手側の比重増加といっても、もともと買い手と売り手は変換可能であるし、売り手の囲い込んだ市場（マーケット）に条件づけられる買い手の不安定な立場をも考えあわせれば、買い手の質量は相対的に低下する。そうなれば、後には、自立化と自己拡延化を図るメディアそのものが残ってしまう。
７ 私生活の「像」意識
オンライン・ネットワークなどのメディアの発展は総体的でしかもドラスチックであったため、ほとんど情報の売り手－メディア－買い手の環を全面的に書きかえ、従来のコミュニケーションルートを完全に転覆させた。もちろん、テレビや新聞に代わる情報・エレクトロニクス技術による新しいメディアのヘゲモニー確立の背景には、世界史的規模の技術革新と「人間」と「自然」関係の質的変容が後押ししている。それをまって情報システムは、売り手と買い手の引力から主導権を掌握したメディア本位の時代に突入した。だから、今では供給、需要バランスによるマスコミ、ミニコミの区別や、マス・ミニメディアの大小区分や対置は一切意味をもたないのである。意味をもっていると考えるのは、売り手先行の需給函数が今なお生きていると信じているメディア論者の古臭い頭蓋の中だけである。そんな牧歌から遠くはなれて、わたしたちは、灰色に塗られた砂を噛むようなコード革命の只中で、観念とともに逆立ちした中性の現在に足止めされているにちがいないのだ。人間の必要性がメディアという名の構築物を作らせたにもかかわらず、今度は逆に、支配するメディアがそれ自体として、ひとつのシステムとして人間の必要性を被造物に変えてしまう。これらはメディアそのものが商品を「観念」として表示し、売り手と買い手がモノとしての側面だけでなく、その「情報」も含め二重の交換関係にはいることで、今までの価値論の基底に対抗するばかりか凌駕しようとさえしているからである。
マルクスが発見したものの第一は、何をおいても時間であるという言い方は、ヘーゲル的な観念論への重大な逸脱と映るかもしれない。にもかかわらず、わたしは、経済学的カテゴリーの前提として、マルクスが商品の分析からはじめたことは、商品なくして資本主義なしという以上に、時間の発見なくして資本主義は成立しないことを示しているとおもえる。マルクスにとってはじめに時間があったというのがほんとうなら、商品は労働時間の差異の発見とともに、はじめて商品になったといえる。マルクスのいう商品は、なんでもない普通の人間が自然との間にかわす対象化関係の基底にむきあった「価値」が、使用価値と価値の二重化と分裂としてあらわれた途端、その時間の差異をあたかもひとりの宗教家が発明したかのように言いふらし、独り占めにしようとする衝動の中から産まれた。
だが、ここにきて、その信者のうちのある者は、宗教家はたった一人ではなく、その影または風評とともにあることに気づいて、ぬかりなく利用しようとした。この影あるいは風評こそが「情報」の本質を照らしだし、「情報」の生産と消費は、商品そのものが商品それ自体の二重性の分裂に投影すると読み替えられるのである。そこでは、「情報」の質量は、商品そのもの、あるいは有用性としての物財をさしおいて、自立的に流通しながら互いの交信を手探りでたぐりよせようとする発信力の大きさに依存しているかにみえる。つまり、「情報」操作はシステム化され整序されるにつれて、商品の商品として、捨象された商品に付加価値を内面化させる。その上で、この過程全体は、使用価値と価値の二重性の分裂でみられたと同じく、観念的流通を普遍的におこなう中で、あたかも商品そのもの、物財そのものと背馳するかのように、生産、流通、消費の販路を深めて拡延していく。そして、そのまま行きつくところ商品の「解体表現」にたどりつく。
工業産業社会における「価値」は、もはや、商品としても労働生産物としても、わたしたちを満足させたりはしない。マルクスは商品の物神化（観念化）を経由して貨幣を麻薬とみなしたが、いまでは、わたしたちを麻酔させるどんな呪術的な「価値」もありえない。観念と実体、交換と必要性の分裂と二重化は、観念の二重の分裂を加え、システム価値（メディア）としてだけ「情報」を空漠とした「時間」の中へ吸い込んでゆくからだ。もし、この「情報」の価値論を前にするなら、商品として何が先かを問うことは、商品にとって価値と使用価値のどちらが先かと問うこと以上に愚かなことである。要するに、この際、先後関係は一切関係ない。ただ、「情報」がそれ自体、商品として成立すると、対象の商品の「商品化」を目的にしていたにもかかわらず、その商品との距離がシステム価値（メディア）によって観念的に転倒される。つまり、商品にとっての売りと買いは、「情報商品」にとっては買いと売りに逆さまに投影するから、生産と消費の場にいる人間には自然らしさに対する認識の歪みが生じ、自己関係の異和が生じた分だけ、商品の目的性から引き離し、商品を無化しようとする全体像をおさえることが必要になってくるのである。つまり、目的性を生産と消費の側面から剥離する度合は、システム価値（メディア）が商品を「商品の解体」に異化する尺度で測られるようになるのである。
たとえば、言葉の余剰又は余剰としての言葉の「像」を、この社会の中で最もラジカルに集約させている場所が広告の世界である。テレビＣＭはその中でも特に「像」がアトランダムに反射する世界であるから、通常の話し言葉から遠く「外」の世界へ誘う。本来、ＣＭは、企業が消費者の商品購買意欲を高めるための広告塔として、「像」の広がりとともに商品の広がりを期待するものとしてはじまったのだが、次第にその目的を失いつつ、ＣＭ独自の「像」世界に閉じられる逆説を示し、ＣＭはただ「像」としてだけ一人歩きしはじめる。この企業と消費者を結ぶ目的意識の系列の外に販路を求めはじめたＣＭ「像」こそ、商品に随伴した「情報価値」から自らを解きはなつ原動力である。もともと、テレビスポットが開始された当初、それは商品自体とまちがいなく血縁関係にあった。つまり、商品は類型化すると次のパタ－ンで説明されていた。
�@ 商品の優れた特性を強調する。
�A 有名タレントのネ－ムバリュ－を借りて、商品に箔をつける。
�B 商品名を覚えやすいリズム、画像に乗せて視聴者が口ずさむか、記憶に残りやすいものにする。
�C 商品の細画像又は簡潔なイメ－ジ像によって、商品を印象的に特徴づける。
しかし、これらに特徴づけられる初期のＣＭは、次第に露呈してきた商品の収縮化によって、根底的な転回を迫られることになる。この収縮化の過程は、次のようにやってくる。
�@ ＣＭ映像が商品を利用した場合の快適な生活像を包む。
�A 商品と直接関係ないイメ－ジを外挿して、商品イメ－ジを増幅する。
ここにおいて、映像は、他の映像との「異化」をめざすことになり、いわば社会像を内包することになる。そして、映像の増殖と拡大競争で特徴づけられる微差異によってのみ、ＣＭの効果を評価されることになったのである。しかし、問題は、商品そのものとはまるで異なるイメ－ジ世界が帰属すべき場所の問題であり、ＣＭ「像」が「像」の上に「像」を重ねる地歩を獲得したことを意味した。また、表現史上、これは言葉の「像」と「概念」が明確に乖離した姿に対応している。おそらく、かつてのＣＭにおける商品の「説明」原理はあくまでも、企業と視聴者との分離・区分により、消費者を操作する可能性をもっていたが、もはや自由に操作できない消費者の登場とあいまって、「像」においてＣＭと消費者をつなぐ密接な環が溶解した。
この視聴者と消費者の不等式の中ではじめて広告コピ－という概念が登場した。広告コピ－としてわたしたちをとり囲むのは「像」という言葉の洪水ともいえる。テレビで毎日流される何千というコピ－のうち任意にどれを選んでもよいが、そこに表現された言葉は、決して実在しているのではなく、ただ流出していること自体において存在意義が認められるかのような「概念」の異化「像」である。これは明らかにＣＭが視聴者の「内部」にも存在しないことを示しているが、一方で、操作不可能なマ－ケティング戦略を企業が取得した契機にもなってくる。企業の中にメディアを含め、企業－ＣＭ作者（コピ－ライタ－）－視聴者－消費者をつなぐ系列を想定するとき、企業マ－ケティング戦略の発する商品ＰＲは、ＣＭ作者にとどく前に拡散し、ＣＭ作者（コピ－ライタ－）の「外部」によってはじめて、彼の表現の位相を確保すると同時に、消費者の意志との間にコミニュケ－ションの不能性を証明してしまったのである。
こういう経過は、ＣＭ作者（コピ－ライタ－）が主観的にあくまでも、企業と商品に忠実であろうとし、商品のタイトルをなぞったＣＭ映像を多く生み出そうと意志したかどうかは別問題である。ＣＭが商品を「外在」化してしまったとき、それ自身、自立性をもって表出の位置にのぼった事実が重要なのである。いいかえれば、企業マ－ケティング戦略が求める商品ＰＲが、商品の「概念」を先行させ、「像」を提供するのに対し、ＣＭ作者（コピ－ライタ－）は、まず、それを「像」として受けとめることではじめて、「概念」を受容することができる。おそらく、この時点で、公正な情報「市場」は居場所がなくなったと推測される。つまり、双方向に成立するコミュニケ－ション・メッセ－ジは、俗にいう「分衆」の誕生という言葉に覆われているものの、実際は、その経路が、閉鎖圏域に閉ざされた結果に基づいていると考えるのが、より正確な認識である。このことを抜きにして、消費者の個別化した嗜好を問うことは意味をなさない。すべては言葉になる以前に、言葉の「像」と「概念」の位相が従来とはまったく変わってしまったことに起因しているのである。そして、消費者ニ－ズの高度化（肥大化）とは、ＣＭ「像」の高度化と視聴者の受容能力の関数におけるその誤差（落差）から生じたものにほかならない。
消費者ニ－ズ（ΔＳ）＝商品ＣＭ像（ΔＣ）－視聴者の受容能力の許容度（ΔＭ）
１９９０年代から、商品ＣＭ像の高度化とともに、ひとびとの欲望はますます肥大化する一方にあり、それとともにその急激な水流のあおりをうけて、欲望と反比例するかのような自己意識を統御できない不安感がつのってくる。それは自己意識の拡散と放散であることにおいて、「私的感性・意志の解体」を象徴するものであることはいうまでもない。
わたしたちは、「私的感性・意志の解体」が介在することによって、「像」と「概念」の異化結合の現場に立ち会わされているのだ。現在、フランス革命が産んだ原型的な資本主義は、はっきりと目に見える形で変質している。先進資本主義国であるわが国では、ここ十数年で何十年分かの時間を加速した。これには戦後の復興経済、高度成長経済、脱産業化、高度消費資本主義の進行過程にともなって、「私的感性・意志の拡散化、解体」に集約される現在の到達点が介在している。個人の消費欲望の閾値が肥大化するとともに、それ自身背馳する国家・政治や党派性へのアパシーを増幅させており、これらに対抗するためどのような「生産力思想」をもってきたとしても、この保守的な大衆性のイメージを壊すことはできないとおもえる。
すでに生地の自然を失って久しい「自然」概念の変容と「社会」意識上の細断化にはさまれて、「私」意識は、現実そのものになって膨大に膨れあがった社会「像」からおしよせる言葉に限りなく貼りついているかにみえる。「社会」はどこからはじまってどこからが尻尾かもわからないまま、浮遊する「像」としてだけ確からしく実在しているからである。たとえてみれば、わたしたちは視界のかぎられたのぞき窓からの風景を、これが社会そのものと思い込んでいるに似ている。その錯視の原因は、「像」の側と「私」の側の両方にある。そこでは、かつての大衆消費社会が、モノの消費であると同時に、時間そのものの消費競争を促進するゲ－ムでもあったため、幾分かの職人肌の手触りや文化の奥行をもたらせたことなどはとっくに忘れ去られてしまった。モノ自体の確実性は、時間の消費の「自由」さとともにあったが、大衆消費社会が爛熟してのち、消費は消費されるべき消費と名をかえ、同時に自由は「自由であるべき自由」にすり替わった。
像＝イメ－ジは、なぜ、「私」と「社会」の狭間から「外」に放出して、今や、それだけが唯一確からしく実在しているかのように見えるのか。そして、「概念」の不可能性によって、なぜ、「像」は活き活きとして、そこからすべてを引き出せる魔法の小箱に見えるのか。これに対して最も手っとり早く答えようとするなら、「私」から「社会」に架橋する視線がたどれなくなったとき、ひとは「概念」を放棄して「像」に言葉の肉体を与えるというものである。こういう考え方は、無意識のうちに「概念」と「像」は本質的に背馳するとの前提をふまえている。たとえば、「神は存在する」という「概念」を想定すると、ある場合、自然の霊妙さからたちのぼる光と霧を思い浮かべることもあるし、また、教会に飾られたイエス・キリストとマリアの「像」を胸にえがくこともある。そして、それはn個の「像」があるはずだ。だから、この「概念」に対する「像」の関係はあくまでも恣意的に見える。
しかし、これは不特定多数の「像」から予定された「概念」への帰路が設定できない不可逆的な関係が影響しているものの、「概念」が幾通りもの「像」を紡ぐことは、決して背馳する関係とはいえない。ただし、この関係にまきこまれることは、いわば、「意味」が転移する瞬間に立ち会っていることにほかならない。つまり、「意味」が時間の流れとともに生起することに原因があるとすれば、「概念」としてもっていた「意味」が薄れたときに「像」がうまれるということである。「私は神が死んだと思う」という言葉の「意味」は、「私」「は」「神」「が」「死んだ」「と」「思う」という語彙の連なりから成立しているが、これは各単語の時間的ズレが織り成す文体から構成される。ところが、「像」はそうではない。比喩的にいえば、フロイトの夢の中の「像」がその典型だが、時間的先後はまるで関係なく、また、ひとつひとつの「像」の集合体は、「像」の「意味」全体を明示するとはかぎらない。このことは、「像」の表出主体と「私」の関係が、「意味」の構成の有無に影響を与えていることを示している。
これに対して「概念」として「私は神が死んだと思う」の場合、「思う」表出主体は「私」との関係を計りながら、内面的時間を統括し、継続して転移させていく。ところが、「像」においては「私」が不在であるかのように、無時間でアトランダムな連鎖になってしまう。そこでは、「意味」や「価値」は「私」があるときのみ、時間の中から生起して「概念」世界を立体化していくといえそうである。そして、言語を構成する表出主体を想定するなら、まず、「像」が先行し、それから「概念」が浮かび「意味」として言葉に定着する。それなら、「像」の束や重なりが「社会」と「私」の間に分厚い層をなしているかにみえる現在の状況は、先行する「像」が「概念」や「意味」に連動しないで、立体化を阻む表出意識のありかを指し示すことになる。表出主体上の「私」の不在は、「意味」に連節することなく「像」を反復し、投げ返すだけにおわり、その結果、「像」は「私」の此岸でますます滞留してしまう。あたかも、三次元の世界を平面のままに留めおき、決して立体化（時間化）しない言葉とは、つまり、表出意識の単調さと繰り返し以外ではなく、「像」が無方向に放散していくカオスの塊に吸い寄せられるのだ。時間の欠落および「外」の思考とは、単調さと繰り返し、それと何より「像」の細部へのこだわりを追いかけて、むろん、この「像」の世界においては、「世界」と「歴史」は無縁である。「私」と「歴史」との関わりという発想そのものが消失してしまったとおもえるから、「私」への距離感覚の喪失とそれにともなう時間の内面化がその輪郭をかたちづくる。
言葉の世界の「像」は、いわゆる「像的思想」のありかを帰結させることもできる。ここでいう「像的思想」とは、「像」に寄りかかって思想を語ることを意味しているのではなく、必然的に「像」を語る言語思想のことでもない。「像」を思想として提示する表出意識の構えそのものが、不可避に「像」としての体裁をとっている思想をさしてそういうのだ。そして、この思想の最大の特徴は、まず、「歴史」を「像」の連鎖として考えることであり、続いて、そのために、「像」によってとらえられた歴史的現実の断面が、経過を輪切りにするものではなく、ひとつの歴史と別の歴史の相克によって区画するのである。この思想の中では、「モダン」、「ポストモダン」、「プレモダン」など、相互に対立する色分けはあっても、パラダイム変換を跡づける要素Ａは非Ａであるとの関連がぬけおちているため、「像」が別の「像」と同一平面の上で並列されてしまうのだ。したがって、「モダン」の要素に内在するモザイク的細部に過剰な意味づけがなされ、機能的側面からのぞかれた感性的差異が各社会の特色に色あげされるようになる。
要するに、「ポストモダン」とは何よりも明瞭に「モダン」とは異なるということが「像的思想」の唯一の立脚点にすぎない。たとえば、「ポストモダン」の主張とは次のような論理である。
�@ 「モダン」は「パラゾ」原理に基づく。
�A それに対して「ポストモダン」は「スキゾ」原理として明瞭に区別される。
�B 「パラゾ」と「スキゾ」は明らかに同居しえない原理である。
このように論理を展開していくのだが、すべてをつうじて「主語」としての歴史が表面に表れている。この�@、�A、�Bが互いに「主語」と「述語」として連関しながら、文体の上下関係をつくることは考えられない。これは記号論的とらえ方に一般的に通じることだが、「像」としての言葉は、言葉の疎外態として表象するため、記号と同様に「像」的意味の中に表われた「歴史」的表徴を、頭の中で言葉の内へ再置換えすることにおいてしか、歴史の意味がたどれなくなる不用意さを指している。言葉と「現実」の間に記号が介在することによって、記号としての言葉は「ポストモダンはポストモダンである」という同義反復しか生みださない。なぜなら、「ポストモダンは～の原理である」という「主語」の内容を決定する言葉が、記号を言葉に翻訳する過程で、自動的に「述語」に転化するためと考えられるからだ。
つまり、「ポストモダンとは～である」という「現実」が、記号論的言葉として、「～はポストモダンである」に転移し、その結果、言葉の思想としては「ポストモダンとはポストモダンである」になってしまうのである。「像」としての思想が不可避にいきつくところは、どこまでいっても記号論的というより、むしろ、「主語」「述語」の反復の連鎖だとおもえる。「像」の特性そのものが「現実」を構造化しえないものであるかぎり、反復の介入を許すことにより、言葉に対して二重の疎外を引きおこすためである。「像」としての言語思想そのものが、主体との位置を明確に設定しえない距離感でおおわれているので、「現実」意識が欠落する理由になってくる。また、「像」としての言語思想は、それ自体として、何ら積極的な契機をもちうるものではない。では、思想としてその「像」はどこまで、現在の状況に引き寄せられるのか。これは、「像」的世界が届く「現実」世界の境界をおしはかる際にうまれる当然の疑問である。もし、「モダン」世界に対する「像」的認識が「世界史」に結びつく可能性をもつとするなら、果たして、「像」は「ポストモダン」という未知を開くことができるのだろうか。それは大文字の「歴史」ではなく、わたしたちひとりひとりの実感として、肌で感じる未知への模索の過程においてでてくる疑問にちがいない。
かつて、「世界史」という言葉は、わたしたちを虜にした時期があった。資本主義から社会主義へとつなぐ媒体として、歴史的発展段階が流布されるのに理由などいらなかった。そして、それは漠然としてものであったかもしれないが、脚色次第で「個人」と「社会」の矛盾とその止揚というヘーゲル的な課題設定にも呼応し、幅広い草花を育てる土壌になりえた。しかし、同じ「像」でありながら、もはや「像」は、時間認識を欠落して構造化できなくなった以上、「像」そのものが感性的思想として「私」たちと「社会」を引き裂くと考えられるので、「世界史」的理念として登場することができないとおもえる。「像的思想」が果たした役割は、「社会」から押しつけられる「像」と「私」がおもい描く「像」の食い違いが、決して「理念」へと方向づけられることなく、わたしたちの世界に根づかなかった点において、「世界史」をこの世界から疎外してしまったのである。だからこそ、逆にいえば、「像」によって疎外された「世界史」は結果として、言葉としての「概念」を取得したといえる。こうして言葉における「概念」と「像」の分裂という考え方自体、「世界史」的理念に翻案された「像」を媒介する「社会」と「私」の断絶感の投影にすぎないことがわかる。言葉に回帰する「私」意識と言葉の「外」に広がっていく「像」との交点がほかでもなく、わたしたちの内向する意識のありかを示すのは、この理由によってである。現在、わが国の高度資本制社会が当面しているものは、「像」の高度化と言葉の内向化の矛盾によって、言葉の過剰が限界値を超えたところにある。言葉が言葉の余剰であるとの認識の場所は、ここにちがいない。
８ 大衆消費社会と観念的交通
問題なのは明らかに、観念的交通のネットワークが神経細胞のように、わたしたちの生活意識の端から端まで覆いつくし、二重性の疎外を引きおこして、内実を「観念」として奪胎してしまったことである。いわば、高度な技術革新をくぐりぬける過程で、人間は自然に対する人間化された自然としてのみ「技術化」され、同時に自然化された人間としての観念的な自然にいやおうなくつきあわされているのである。その結果、ランダムな観念的交通によってもたらされた複合した「像」は、「私」と「社会」の隙間に入り込み、「生活感」を上底化し、「観念生活」との転倒をひきおこした。もともと人間と自然との間の対象化関係において、本来、「技術」そのものはわたしたちの消費意識を計るものでしかないが、その「技術」が欲望につながり、より多くの商品を求めるようになると、消費と欲望のバランスが崩れ、過剰としての欲望の様相をみせることになる。さらに、欲望は労働の現場を離れるとともに、わたしたちに、少ない分け前しかのぞめない苛立ちや不安感が、消費意識を撹乱し、「観念」の中に人間を折りたたむようになる。つまり、欲望と消費の誤差だけ人間は「観念」の世界に足をとられることになるのである。ここでわたしたちが、二重性の疎外というのは、もともと言語の観念的本質から派生するものだ。
三浦つとむは、その言語論の中で「語」を客体的表現と主体的表現に振り分けている。客体的表現とは、「海」、「山」、「川」、などの名詞、「ある」、「書く」、「走る」などの動詞、形容詞、副詞などを指している。一方の主体的表現は、話し手のもっている主観的な感情や意志を表わすもので、悲しみのときの「ああ」という嘆きや懇願の「ねえ」などの感動詞、「…だ」、「…ろう」、「…らしい」などの助動詞、そして、「…ね」、「…なあ」などの助詞を含むものである。なぜ、言語表現を主体と客体を分けたかについて、三浦は、言語は絵画や映画とちがって対象を感性的に模写する表現ではないから、対象性からの制約をのがれたということに理由をみいだしている。言語思想は、自分の目にしたことのない過去の歴史を描いたり、自分が将来、遭遇するかもしれない危難を前に動揺したりと、他の人物になったり、架空の物語世界に参加して他の人物や場面をあたかも実際に見たかのように喋ったりできる。このことを考えると、一つの表現の中に現実界と観念界の二つの立場の往来を考えなければならなくなる。そこで、三浦は、ひとが想像するとは、現実の世界以外に観念的な世界をつくりだし世界を二重化するとともに、現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだし、自分自身の二重化を演じることにほかならないとした。言語の構造に中では、それは一人称においても変わりない。
≪一人称の表現の場合、見たところ対象となっている自分と話し手は同一の人間です。しかし何かを対象としてとらえるということは、対象から独立してその対象に立ち向かっている人間が存在しているということなのです。対象とそれに立ち向かっている人間とが同一の人間であることはできません。一人称の場合には現実に同一の人間であるように見えても、実は観念的な自己分裂によって観念的な話し手が産れ、この分裂した自分と対象になっている自分との関係が一人称として表現されるのです。≫『日本語はどういう言語か』 三浦つとむ著
たとえば、これを死について人間が考える場合に当てはめると、現実界には隣人の死と家族の悲しみという客体的事実がある。それを見た「私」は、自分の将来の死を想像するが、それには当然、死をとりまく「私」の家族の悲しみや痛みをもともなっている。そして、「私」が死の現実界と想像界をみわたす視点を考えるときには、必ず、それを見ている「私」自身が二重化されている。三浦はこの二重化は言語の構造にも反映されるとして、客体としての死は自分も含めて隣人の死として、「人は死ぬ」と表現されるとした。ところが、未来の自分の死については「自分は死ぬだろ」と表現される。それだけではなく、それを未来の予想からいったん引き下がって現実に引き戻される場合、主体的表現である「う」という言葉がつけ加わって「自分は死ぬだろう」という現実態におさまる。つまり、現実から出発した「私」は、想像のなかの「私」に入り込み、最後には現実の「私」に戻ることになる。この一文のなかには、こういう「私」の立場の移行や飛躍がなされてひとつづきの「過程」が仕組まれていることになる。なぜ、人はこのようなめんどうくさいことをしながら、自分の感情や不安を伝えなければならないのかをたどっていくと、「媒介」という概念が介在していることがわかる。マルクスの「交通」という概念は、観念世界においても物質界においても、媒介をはさむということを意味しており、媒介としての「生活の生産」ということである。労働の対象化が生産といえるなら、その生産物を食べたり使ったりして消費するのはただの消費であるだけではなく、人間の生活を再生産することでもある。その「生活の生産」という意味は、人間の観念的世界の生産も当然含むであろうから、言語活動など観念的コミュニケーションのあり方そのものに影響を及ぼすのである。
観念的世界の本質は、すべての言語活動に含まれているものである。「私は泣いた」という表現の中の「私」は、あくまで「私は泣いた」と言った「私」のことではなく、「私」の客体化されたものであり、ほんとうの「私」は「私は泣いた」と表現した「私」であるのは、「私小説」を例に挙げるまでもなく、言語学にとっては自明のことにすぎない。であれば、観念的に二重化されているのなら、将来の自分の死を見ている「私」は、現実の「私」より、より臆病であったり、豪胆であったりしてもおかしくない。ただ、あくまでも、現実から出発した「私」が観念の「私」とのあいだで距離をたもち、帰り道を忘れさえなければいいのである。三浦は、ハイデッガーの「本来的」と「非本来的」に分けられた生は現実界から想像された「本来的」な生があたかも、ほんとうの生であるかにみまがう点で、観念論であると言っているが、三浦の論旨をそのまま理解するなら、ハイデッガーは、「本来的」と「非本来的」を媒介するものがなかった、そのため、直接的統一に身を任せるしかなかったとおもえる。
このような言語の認識構造において人間の観念的な対象化の原理を知っている三浦にすれば、「情報」の生産や消費ということに過大な意味づけを与えることはなかった。「物の価値」にくらべて「情報価値」が重視される社会になったのは確かだが、その「情報革命」でさえ、技術的な産業革命の一種であり、コンピュータをつうじて情報が行き交うさまは、航空機、タンカー、トラックなどによる物質的な「交通」に対応する観念的な「交通」の発展に過ぎないとした。つまり、情報化社会とは、マイクロ・エレクトロニクスをとおした技術革新によって、交通の分野で情報の往来が広範にいきわたるようになった社会の断面とみなしたのである。もちろん、生産と観念的交通を含む広義の交通は互いに影響を及ぼしあう。三浦にとっては生産が決定的な契機であり、交通はその二次的なものでしかないが、交通はまた生産に反作用をおよぼすようになる。生産現場における生産手段の技術革新は、交通の分野で交通手段の革新をもたらすが、逆に、交通手段の革新が生産手段の革新につながることもある。「情報科学」の浸透とともに、ひとびとは、交通手段の分野での観念的生産の革新が表舞台の先陣を切って成果を挙げることに目をとられ、あたかも観念的交通がそれ自体で、社会変革の決定的な契機になるかのように錯覚しはじめる。この錯覚が自然的社会の段階区分にとどまらず、社会の歴史的段階区分にまで適用されると、とんでもない「技術史観」や「人間機械論」の素地が生まれてしまう。そのような未来予測図の延長上で、コンピュータが一般化されるにつれて、まるで人間の知的想像力が増すかのような幻想のもとに、自動機械を利用して労働が大幅に軽減されることや、あれやこれやの煩わしい資本家や労働者の対立から離れて、非階級社会の未来像をばら色に描くようになる。
むろん、このような楽観論の反面で、この未来予測図から悲観論の流れも登場した。たとえば、情報革命による知的労働の全産業構造化が、資本主義の金融化と金融資本のグローバル化、通貨管理体制の不定化、非正規雇用、移民労働とともに噴出した現状に、息のつまるような管理社会の内面をみてしまう視点である。アントニオ・ネグリは、物質的、観念的な労働力の「交通」世界の拡がりの中で、国民国家の古い管理形態に後戻りできないような新しい「帝国」的な政治経済構造が出現しているとして、階級闘争は「帝国」に対して知的想像力の進化もって対抗しようとする思想をとりだした。彼は情報産業や多国籍企業の存在は、近代国家を超えてますます肥大化しており、価値増殖の形態と搾取のあり方において根本的な変化がおきていると考えた。そこでは、もはや、マルクスの定義のままでは搾取の形態は見えなくなっており、そのため近代国家の枠組みの外から発生した「生権力」の存在を強調しなければならなかった。非物質的労働の全面的な開花によって、領土、国境を超えることになった個々の企業の利益は、生産部門間の関係と交換の社会的関係の中でしか現実化することができなくなったからである。そこで、いまや「帝国」は、グローバルな時間と空間の交点において社会的協働を管理する権力に転化しており、社会的諸関係の全体性を覆いつくすものとして、その「生権力政治」がもろもろの出来事の全体性を包み込んで、労働と生活にわたってなま身の人間の皮膚感覚までも従属させているとした。マルクスのいう搾取が一国的な規模における労働力の時間の簒奪であるとすれば、現在の搾取は、「全体」と「個」を分け隔てなくグローバルな関係で結ぶ価値の簒奪に変わってしまっている。わたしたちには、ネグリの思想の下敷きになった労働は、事業所内労働のＩＴ化によって、パソコンの前に座って情報通信しながら、拡遠化した労働をこなしている人間が、上司に隠れてそっと、世界に向けて社会を網状に繋いでいるイメージを想起させる。
ネグリによれば、「情報」の生産・操作が生産活動の首座にのぼった現在だからこそ、労働者たちの流動性と柔軟性が「マルチチュード」の価値として湧きだし、過剰な労働生産性の行方が問われることになった。そして、そのような巨大な労働力によって生み出されない生産力はないから、この協働的で知的な現実、関係的でありながら情緒的な現実こそ、新しい階級概念に結びつくという結論がみちびきだされる。つまり、階級間の搾取と闘争の矛盾の総体が、もはや工場内だけではなくて、社会全体の領域において提起されることが、自由と必然を切り結ぶ可能性に選ばれる。彼によれば、この反「帝国」の運動は、単に、産業的な搾取への抵抗ではなく、社会的搾取に対する抵抗でもあり、同時に労働者階級の特殊な利益の表現ではなく、全勤労者にとって社会的な利益の表現であった。また、それは単独的な多様性の総体であり、単独的存在もマルチチュードの総体でもある。こうして、マルチチュードの概念は、唯物的な生産力であり、問題は社会化したマルチチュードがいかに共同的なものによって主体化されるかその方法にかかっているとされるのである。
しかし、このようなネグリの想定した関係のネットワークの中でも、たとえパソコン操作に習熟し、システム設計に卓越した才能をみせる知的労働者であろうと、生産の場面では、ひとりの資本家が作った商品が売れなければ、その資本家は倒産を前に別の資本に衣装替えすることができないと同じく、その労働者は資本家ひとりのさじ加減だけで、ひとりの失業者になったり、失業者予備軍になることは自明である。概念の上では知的で協働的でありながらも、ネットワーク言語（プログラム言語）の届かない暗黙の了解の下では、単独的存在が最後の責任を引き受けてしまうことには変わりないもうひとつの現実が存在する。わたしたちは、ここで、三浦と同じく、「生産」と「交通」を区別して、いくら観念的「交通」のネットワークが緻密になっても、それだけでは生産や消費の拡大は望めないことを認め、「交通」に対する「生産」優位の現実をかみ締めなければならないのだろうか。
わたしたちは観念的「交通」の発展と「生産」のふたつの世界の二重性に対面したはずだったのだが、三浦つとむにすれば、物の「生産」と同じく情報など観念的「生産」に携わっている人間の違いがあるにすぎなくなる。こういう三浦の見解に対しては、ただひとつ、「交通」の観念性の深度と同じように、「生産」の観念性の深度も測定しなければならないことを付け加えなければならないとおもう。
≪創造的なデザインをほどこした商品が、大流行をつくりだし、企業に莫大な利潤をもたらすということも、現在の社会ではしばしば見受けられる事実であって、これもデザインとよばれる＜情報＞が多くの価値を生んだのだと解釈されている。たしかにデザイナーの知的労働はそれなりの価値をつくったが、それは売りまくった商品全体の価値にくらべるとまことに微々たるものでしかない。価値を創造し利潤の源泉になったのは、その商品の生産に関係したさまざまの労働者であって、デザイナーはそのうちの一人にすぎない。デザインは多くの商品を売る契機となり、多くの利潤をもたらすことができたけれども、だからといってデザインそれ自体が利潤の源泉だということにはならない。≫『マルクス主義と情報化社会』 三浦つとむ著
三浦は、ここで、単に、創造的デザイナーの収入がそれを製品化し販売する多くの労働者より多くなってはいけないと注意喚起しているのではない。これはマルクスの剰余価値論の基本に触れるものであり、ブルジョア学者が「情報」や「知識」それ自体が、多くの価値を獲得する手段や契機になっているかのような考え方をするのに対して本気で反駁しているのである。しかし、わたしは、彼が述べていることは、「生産」の観念的性質にどのような物差しをあてがっているかを示すにとどまらず、この行間には、言語の観念的本質の理解にまでまたがる大きな問題点が介在しているとおもえる。先に、「死」の意識の例示をして、三浦が言語の主体的表現と客体的表現の区別をしたことを知った。つまり、自分の死は他者の死から類推し、「自分は死ぬだろ」と表現されるが、それだけではなく、一文の中には、それを未来の予想からいったん引き下がって現実に引き戻される場合、主体的表現である「う」という言葉がつけ加わって、「自分は死ぬだろう」という現実態におさまることで、主客の置き換えがおこなわれるのだ。
そこでは現実の中の客体的な「私」から出発して、想像のなかの「私」に入り込み、最後には現実の「私」に戻る一連の過程こそが、現実の「私」に観念の過程的構造を与えることが示されていた。いわば、この媒介過程において、マルクスの剰余価値論が労働を「観念的」労働やその他の労働様態にかかわらず、労働時間の着地点に帰還しなければならない根拠につらなっているのだ。つまり、言語が不変的に現実の「私」に戻らなければいけないのと同じに、労働の価値は不変であり、デザイナーのつくりだした価値と製作者や販売員との間の関係の比率は動揺することがあってはならないことが前提にされている。このことは、柄谷行人のように作られた製品が買われることなく、前借した資本の償還ができない資本家の不安とは性質のちがうものであり、あるときは、製品そのものが安く売られたり、逆にブランド品のように高く売られたりして、企業が莫大な利潤をもたらすことがあることに見合ったより不安定な現象である。このような現象は、ただの紙切れでしかない証券に高値がついたり、円やドルの貨幣価値そのもので差益を儲けたり損をして倒産においこまれたりすることと、ひとつながりになっているにちがいない。
ここで、もし、見方をまちがえれば、労働価値説に戻れとか金本位制に戻れとかいう掛け声に紛れ込ませてしまうことになりかねないが、現象の所在そのものに対しては明確に基準を設けなければならないとおもえる。「生産」の観念性あるいは「情報」の観念性をおしはかる上で、通常の社会的労働時間に比べて時間の余剰または欠如が生じることについてはさまざまな意見が提出された。たとえば、岩井克人がシュムペーターをつうじてマルクスの剰余価値論に着目したのは、「特別剰余価値」と接触する部分においてである。一般的な剰余価値ではすぐに平準化してしまう利潤も、ひとたび絶えざる技術革新競争において勝者にまとまった利潤が約束されるとなると、その運動は終わりなく永久に繰り広げられる。マルクスは死んだ労働が生きた人間を支配するとし、一般的な剰余価値産出を過去と現在の差異に認めたのだが、岩井の時制の場合は現在と未来の差異が突出し、「特別剰余価値」の秘密こそ資本の原動力とみなした。こういう時間に対する異種感覚は、「生産」の観念性や「情報」の観念性を当然のように包み込むものであり、それなくしては達成できない利潤の観念的予測であることはまちがいない。
しかし、岩井は、産業資本の差異創出がシステムの差異、それによる時間の差異や余剰であるかのように考えているのだが、労働者の側に寄りそってみれば、システムそのものによって店頭に並べられたすべての商品が恒常的に安くなり、生活が楽になるわけでもない。見た目では、資本家は労働力を買い、作った商品にラベルを張り替えて市場にもって行って売るという空間的な移動をおこなっているにすぎないから、資本家にも労働者にもことの全体像を把握することができない。なぜ、自分たちはいつも仕事に追いまくられるのだろうというような古典的な生活感の出所にはなるかしれないが、現在の逼迫しつつも、一方で余裕があったりもする生活感を、自分にうまく納得させることはできないはずだ。わたしたちは、もはや、一方にマクロの経済学があり、もう一方にはミクロの経済学があるというような区別では満足できない。こうして、ひとびとの心と体の生活感をつらぬいて同時に説明できないようなマクロ、ミクロ経済学は、「観念性」の前で思考停止する。つまり、そこからひきだされた結論は、わたしたちの現実生活、観念生活の余剰感や欠如感の説明にはとうていなりえないのである。このことが明らかにされるためには、「情報」社会の中でひとはどのような観念的影響をうけているかをよく見てみなければならないのである。
わたしは一般的に価値法則の崩壊と言われている事態は、生産の観念性は消費の観念性との兼ね合いで、「欲望」というもっとも観念的なものによって抽象されるべきだと考えている。そのことは三浦の意志論においては明白だったのだが、「情報社会」論の分析の中では影を潜めてしまっている。
９ 日常性の現在
ここ十数年の社会の変化は、日常生活意識の変兆にはじまって、家族、職域、果ては社会・政治状況まで、断面をどこで拡大しても、意識、感性、生活様式の深奥にまで垂鉛をのばし、わたしたちを従来とは全く異質な社会的感性の土台に連れ去ろうとしている。ところが、残念なことにわたしたちは、このような異質な社会状況の突然の襲来がどうして起こったのか、それがわたしたちの日常に何をもたらしているのか、また、その行きつく先がどうなるのか全く予想できないまま、ただ「高度情報化社会」の到来とか、人間性不在の時代とかの予言的言いまわしを使い古しているにすぎない。おそらく、コンビニの前にたむろして、友達同士が隣にいるのにもかかわらず、携帯電話でほかの友達と通話している若者の姿や村上春樹の本が発刊前に何十万もの予約が殺到する現象は、ともに「いま」、「ここで」しなければならない「行為」の自由度や必然性の異和以外ではないのだ。
つまり、沖合いから陸地を眺めるように社会意識の雪崩現象という比喩でとらえられているのは、資本主義がより高度化し、いわゆるソフト化社会の動向が時間ととともに、良い意味でも悪い意味でも、ほぼ「私」的意識と社会的意識の乖離において「私的感性・意志の解体」に圧縮された姿であるということはまちがいない。もちろん、それは今回の東日本大震災の甚大な打撃によってＧＤＰが落ち込んだり、電力が当たり前に供給されたりするものではないことみてもわかるとおり、飛躍的な生産力の拡充によってはじめて現実化したものである。今ではモノとの関係づけの側面で、わたしたちはコミュニケーションの勝利を、経済的な取り分の多さや時間的ゆとりとして享受しつつある。自己時間は生産と消費の異和として、せりだしている消費活動の肥大化につれてうみだされているにちがいないからである。だが、人間と自然との不等価の交換関係の中では、生産が消費的生産と生産的生産に区別されるのと同じように、その消費は生産的消費と消費的消費に分かれ、それが矛盾となって「私」的意識をその外部の観念として疎外するようになる。そのため、一方で「私」的意識は時間の極大化をもたらしたかとおもうと、もう一方で、その極小化を裏面に貼りつける。そのことで、わたしたちの社会的関係においては、「知」や「富」は、時間的な「偏在」化と空間的「分極」化としてあらわれることになる。つまり、一方で豊かさを志向するモノやヒトとのコミニュケーションルートを拡遠化する空間で表現しながら、その裏面で、拡遠した「欲望」が社会的生産力とともに時間として跳ね返ってくるとき、モノとヒトとのコミュニケーションの隙間に余剰時間を堆積させ、日々、極小化する時間の重荷を引き受けざるをえなくなる。このふたつの相反する時間・空間意識はひとびとの心の中で共存して、「私的感性・意志」の社会的意識からの離反をうながしている。
はたして、このようなコミュニケーション様式は家族、職域や組織のコミュニケーション方法と和解できるのか、それが次のステップだった。だが、このまま職域や組織のコミュニケーションの関係を横にひきのばしても、おそらく、この消費時間の延長からもたらされる時間のゆとりは、その逼迫感の中に紛れ込まれるにちがいない。むろん、大衆の私的意識・感性においては生産的消費に対する防御的意味が増大してくるが、それが具体的に何に対する防御かは、ひとによって労働時間の長さや仕事の向き不向き、人間関係の気まずさなどの不本意さであったり、賃金に対する不満であったりするのだが、どちらにしても、当体が時間の異和を本質とするかぎり、いちように漠然とした不安に晒されることはまちがいない。しかし、たとえ、それが不安の拡大であったとしても、消費時間の拡大なくしては、わたしたちの「自由」の拡大は考えられないのだ。わたしたちは、この「恣意的自由」の拡大こそ、わが国の戦後の生産と消費をつなぐ経済活動の第一の指標であったとかんがえる。
そういうわたしたちの不安の出所は何か、との疑義や焦りがうまれてからたくさんの時間が経過した。すでに１９８０年代には、この新しい自由と不安をめぐっての問題意識がうまれていた。本棚の隅に埃をかぶっていた山崎正和の『新しい個人主義の誕生』などを読みなおしてみると、時よりみせるイデオロギーのにがりは別にしても、他のハイテク讃美論者と同様、飛躍的な生産力の拡充にともなう大衆意識の未知の変化を日常生活に着地させようとする方向づけが読みとれる。つまり、ひとびとの視界を抽象的な国家観から市民社会への下降をうながして、生産主導から消費主導への転換を、モノの飽食と時間そのものの消費が結合した豊かな社会の個人主義の確立に結びつけていることがわかる。確かに、わたしたちには既知のものであるこの経済生活は、物質的繁栄か精神的安定かの二者択一の選択を無効にするほど膨張した。だから、このことを既得権であるかのように主張する根拠はありえる。また、物質的繁栄が、直接的にモノに対するよりも、むしろ個人の時間を消費するような消費のための消費をめざす方向で、心のゆとりの函数になっているのも事実である。理念だけは、一見、遠大だが、その実、わが国の戦時中の配給制度同然の公平な分配を自賛していたかつての「社会主義」国家などよりも、豊かさを誰もにまき散らした現在の高度資本制国家は文句なく優れている。このことを認めようとしない批評家は、物質的繁栄が先行した結果、心の問題がなおざりにされたとして、青少年の非行や風俗の乱れを例証してみせる保守的な政治家と同様、物質的な繁栄と心のゆとりとのプラスの函数を不問に伏してしまっている。そのかぎりで、自分達の特権に気づいて気づかぬふりを装うカマトトでしかない。
こうして山崎は個人の時間の復権を前提にしたうえで、豊かな社会からこぼれ落ちる余剰時間の流れの通路を開き、いわば、絶対的な時間から相対的な時間獲得へのスムーズな移行を夢見ているのだが、その反面で、モノではなく時間の消費を競うかのような均質空間で、その同じ与えられた時間が余裕どころか、逆に停滞していたり、空虚であったり、また、追い立てられたりする被虐感を与えるのはなぜか、ということに答えられていない。問題は、時間をめぐるものにちがいないが、一方を切り捨てただけの時間は、少なくともわたしたちの実感にはそぐわない。わたしたちはどこにあっても、このようなチグハグな当惑に身に覚えあるはずだ。わたしたちは、まちがいなく、この二つの時間、即ち極大化へ向かうそれと極小化へ向かう時間の間に揺れ動き、その時間のたわむれを見つめて、引き裂かれ、または、立ち往生している。これこそが、「恣意的自由」を覆うベールであり、二つの時間をもつことで、「いま」、「ここで」という時間と空間の根拠を喪失しているのである。それは心と体、時間と空間が交錯し、その組み合わせが幾通りもの心の襞を織りなしている。この場合、推測できることは、世界がもはや概念としての概念によってではなく、イメージ＝「像」が「肉体」そのものに、直接、同化することによってしか表現を許されない、いわば、思想言語を、考える肉体として肉離れしているとでも呼ぶほかない実質に表現を転移させている事実である。逆の言い方をすれば、概念は肉体言語としてしか機能しえなくなっているから、現在の深い陥没が概念としての概念を停滞感に引きずり込むのは当然なのである。
西尾維新は推理小説のなかにある思想を組み込んでいる。『きみとぼくの壊れた世界』を読むと、既に文学の方では世界は幾重にも壊われていることがよくわかる。まず、主人公の「僕」はいかにも饒舌で、自分自身をよく意識化しているのだが、別の言葉でいえば、自己の観念に忠実である。彼は、一見、どこにでもいるような高校三年生でありながら、それでいて稀有ということが境界線なくまじりあっているから、突然の契機さえなければ猟奇の影に肩を押されることもないだろう。つまり、どこでもいそうで、どこにもいないそんな主人公として設定されている。そして、この高校生の周辺にはりめぐらされた恋愛や友情関係が軸となって、主人公との間にかわされる生活と意識の糸が、あらすじの展開とともに、より大きなうねりとなって現われる。この主人公には、はじめから相反する意識があった。「僕」は妹、夜月との間に擬似近親相姦的な関係意識を遊んでいる。その一方で、シニカルでどこか遠くを見ているような、自分が世界と関係していないのではないかという、とり残された関係の異和感も感じている。この相反する意識は、どちらが先行するでもなく、妹との愛情関係と世界との異和感とが同居している。そのかすかな揺れ動きの中に、作者のテーマのすべてが流れているとしかおもえない。そんな作者は次のように意識している。
≪不安、恐怖。自分は世界と関係ないのかもしれない、という不安。自分は殺されるかもしれない、という恐怖。それぞれ、病院坂黒猫、琴原りりすから口にされた台詞だが、案外、この二つは似通った要素を含んでいるのかもしれない。≫『きみとぼくの壊れた世界』 西尾維新著
いうまでもなく、この場面において世界と無関係かもしれないという不安と、誰かに殺されるかもしれないという恐怖の二面性が紙一重であるのは特異なことである。わたしの理解では、不安とは時間に対して空間意識の過剰を意味し、恐怖とは空間に対しての時間意識の過剰を意味する。つまり、それぞれ自己に対する関係意識の余剰を操りながらも、そのような異変が共存している点は注目されるべきである。時間性とは、僕、妹、友達、恋人らそれぞれの顔がちがうようにもっている各自の堆積された経験の総体を指し、空間性とは主人公をめぐる彼らとの関係それ自体を示している。だから、この場合、時間は各人によって経験の蓄積の大小で表わされることもできる。そして、過剰としての時間は、空間を折りたたむように時間化し、登場人物がそれぞれ任意の匿名性にかえがたい思想をもってあらわれてくる。逆に、時間の空間化とは、任意の関係に置き換えられる思想を主人公がもっていることを表わしている。この主人公に特異なのは、その両面を双方向に「同時」に別の時間性として意識にのぼらせていることなのだ。こうして作者は、主人公とともに、天空から世界を見わたしているように饒舌になっているのだが、その世界はまるで球体の中心から周りを見るような安易さでお喋りしていることに気づく素振りはない。
そんなところへ妹にちょっかいをだした同じクラスの男子生徒との確執がはじまり、やがて、その男子生徒の殺人事件にまで発展する。そこで、擬似近親相姦的関係は、殺人事件をつうじて、自分は殺されるかもしれないし、殺すかもしれないという濃密な関係に移り変わる。ただし、今まで同居していた相反する気持ちにさざなみがおきるが、それとて、作者からすれば、殺人事件がそういうさざなみをおこす契機でさえあればよかった。なぜなら、それから、だらだらと推理小説らしく、「僕」の恋人とも親友ともとれない保健室生徒の病院坂黒猫の口を借りて、犯人探しの種明かしがおこなわれるからだ。結局は、「僕」と同じクラスの剣道部の親友と恋人の琴原りりすの二人が犯人ということになるが、それも単なる物語の風景であり、あくまで、特別、波立った事態ではない。ここでは殺人事件でさえ、日常の生活の一齣を覆うような大それた価値をもっておらず、主人公の意識のより奥にある不安感の所在を指し示すものでしかない。作者は二つの相反する意識を見ることができる視線をもっているゆえに、殺人事件はこうして日常生活に組み込まれていく。しかし、「僕」は理性的であることを誇りに思って最大の能力を発揮しているが、現実は綻びから破滅に向かっていく。そして、まちがいなく確実に、喪失感や不安感の傷痕だけが残るのだ。
わたしには、この主人公の落ち込んでいるのは、いわば、空間の時間化と時間の空間化とを「同時」にやってのけている場所のようにおもえる。これは、アナーキーとニヒルとが同居する場所ともいえるのであり、いわば、作者は現実でも理想でもないところから世界をみていることになる。わたしは、この主人公の背景には、多くのリストカットやオーバードーズ依存症の人たちが見え隠れしているようにおもえる。リストカットのひとたちにはどんな心の振幅があるのだろうか。
≪人はあまりにもショックな状況に慢性的にさらされると、目の前の現実を受け入れないように脳が働き、現実と異なる“べつの人格や記憶”を自分の中に作ろうとするらしい。現実とは違うニセの記憶を自動的に脳に入力してしまうのだ。…中略…これが「解離」。元の人格を「主人格」といい、＜ウソ人格＞は「二次的人格状態」と呼ばれたりもする。…中略…結局は、自発性（「～したい」という気持ち）のままに切ったり、やめたりしている点が重要だろう。切りたいから切る。見つかりたくないから、こっそり切る。怖いから切りたくない。別に切りたくなくなったから切らなくなった。家族への期待値を下げたら切りたいという気持ちが薄らいだ。自傷は、手近な依存対象（血、薬など）を消費することで、自分自身の＜自発的な関心＞に自分で「鍵」をかけている行為なのだ。≫『生きちゃってるし、死なないし』 今一生著
そして著者は、リストカッターは自分の十字架と一緒に他人の「無関心」という罪の十字架をも背負う二重のプレッシャーを受けるとする。しかし、わたしにはこれは二重のプレッシャーではなく、表裏の関係にあるとおもえる。ひとつは自己の希薄になった存在感から逃れて、自己確認しようとする行為である。もうひとつは、本来は他者に向けられるべき暴力（傷害行為）を自分に向けることで、あくまで、自己を抑制しているのである。つまり、ひとつの行為の中で相矛盾するものを同時に行っており、自己確認と自己抑制を同時に行っているのだ。これはアクセルとブレーキを同時に踏んでいるに等しい。ここでも注目すべきは、アナーキーとニヒルが「同時」に行われていることだ。特に、対象が自分になるか近親者の違いはあるものの、親子、肉親間の殺人事件なども、おそらく同一の心的な構造をもっているにちがいない。
時代は滑走を終えて行きつくところまできたという感慨は、いま、あらためて、わたしたちを強く魅惑する。３．１１前には見えなかった稜線がおぼろげに姿を現わしつつあるからだ。ただし、その感慨が復古的なメロディや無力感を伴走させたりすることは決して許されないのだ。わたしたちは、わたしたちの「生活」が逼迫しながらも、それが、もはや「観念」としてしか表現できなくなった例示を、テレビＣＭやインターネット、ツイッター産業の繁盛に象徴させることができる。これほどまで社会そのものと社会認識の異和が落差にまで広がった時代は、かつてわが国の近代史上において戦争期を除いてはなかった。どちらにしてもイメージ＝像や言語は「意味」を解体し、ただシステム価値としてだけで機能している。
１０ 時間の消費と言葉の解体
わたしたちは生活感の問題として、大衆自身が自由に使える極大化した時間をゆとりや余裕として表現しようとする実態を、世論操作上の作為とみなして、「中流意識症候群」などと軽く受け流すべきではないとおもう。実は、マルクスにおいては、時間は外的自然の獲得と同義であった。そこでは、人間が自然に対して働きかけを強め、対象的自然を人間化する過程で自己確証すればするほど、人間は自由になり、時間の消費やゆとりを感受できるものと考えられた。すなわち、そういう豊かさへの距離感にそって言えば、自己時間に対する消費時間の増大が時間感覚の方位の基準になっていた。だが、忘れてはならないのは、彼の自然哲学が、自然の人間化の反面を、人間の自然化の相互性で補完していることである。自己時間に対する消費時間の増大が、同時に、消費時間に対する自己時間の減少を意味するかぎりにおいて、人間の方が今度はたえず自然によって欲望の調整を強いられ、人間が自然に働きかければかけるほど、ますます加速度的にその自己関係を修正してゆかざるをえない。この観点から、ハイテク技術や生産様式の高度化がはたす役割は二面的である。表面だけとってみると、確かに、生産力の高度化は、対象的自然をかつてみられなかった規模で人間の所有物にし、獲得した時間の使用量を増して、消費生活を豊かにさせた。だが、そのことは裏面では、反作用的に絶えざる生産的欲望の増加をまねき、生産様式の改変を迫るものとして人間自身を駆り立てることにもなった。
人間は自然に対峙して道具を用だてる「知」を手中におさめたが、それにもまして自然は人間に対してより巧緻な道具をつくることを強制する。大澤真幸はこのような資本主義の特性を「消費社会的シニシズム」または「知」のパラドックスと呼んだ。人間は対象的自然をより多く欲しがり、たくさんの生産物を産出する。すると、今度は反対に、自然の方が人間に高度な欲望を求めて、それがまた高度な生産力をうみだす、この連鎖は無限である。だが、わたしたちは安易な文明批判論におちいらないためにも、ここで踏ん張って、高度大衆消費社会の妄想にとらわれてはならないのだ。その点において、「消費社会的シニシズム」という言い方には、古代の市場の形成からはじまって、資本主義の生成、高揚、爛熟期というように、単線で結んだ歴史の足取りが時間の層となって語られてしまっている気がする。つまり、あたかも時間の流れが一直線に続いているかのような妄想が底流にあって、資本主義の変位とその時間の構造の中で発生した屈折を見えなくしているのである。時間の屈折を見ようとするなら、どうしても生産活動に限定された時間の側面における自由だけでなく、獲得された消費時間がひとびとによってどのように咀嚼されているか、自分自身にとっての自由の意味が問われてこなければならないはずだ。ここに時間をめぐる二番目の相対的価値の課題が登場する理由がある。
時間は消費されるという自覚こそ、わたしたちが現在に近づく起点に位置づけられなければならないとおもう。少なくとも現在の資本主義は、自己にとって消費が感受される条件を譲られたのであり、その意味で時間の生産から時間の消費への相対化を迫られたといえる。わたしは、このような大衆消費意識の変質が、プラス、マイナス両面を含めて、とりもなおさず大衆の時間受容の変容であり、それが職域集団や家族関係の組織性、共同性の観念的コミュニケーションルートを開き、従来みられなかった規模の「私的感性・意志の解体」をたぐりよせたと考える。いうなれば、あれやこれやの自覚的な時間の消費方法こそ、資本主義の変容をおしすすめるアルファーでありオメガである。
人間と自然の欲望の関数を、時間概念をとおして対象的に取扱ったのはマルクスであったが、マルクスのこの概念はようやく覆されなければならない時期にきたとおもっている。それはひとびとが資本主義に満足したからでも、別の社会システムが理想化できなくなったからでもなく、たどり着いた資本主義がまったく別の歴史的な形を如実に露わしたからである。先廻りしていえば、まず、マルクスの時間概念は、豊かさの期待の方角に向かって流れていた。つまり、マルクスの「商品」分析では、人間労働の対象化された価値に代表される時間取得の多寡が、そのまま外的自然の克服によって人間にもたらされる剰余時間（価値）の必要十分条件であったことである。そして、そのより多くの時間の生産に向かうプロセスは、自由への道程とみなされた。つまり、自己の再生産のための時間に対して相対的に剰余価値を算出する時間（剰余時間）が多ければ多いほど、ゆとりや豊かさが保証されると期待されたのである。剰余時間の多さは、まず、わが国の１９６０年代から７０年代前半にかけての大量生産・大量消費において表面化するが、やがて、８０年代以降その現われかたは一様ではなくなる。もし、それが自覚的な時間の消費となる転換点を経過したとすれば、消費は必ずしも生産的欲望には連動せず、剰余時間の一部は純粋な消費時間となる。つまり、自己の再生産のための時間とは別に、純粋な「自己時間」というものが想定されることになる。この自己時間は自己の再生産にまったく関与しない意味において、ゆとりとも飽食とも異なり、価値算出にたずさわらない「なにもしない時間」と名づけられる。わたしたちは、このような時間軸を設定しなければ、とうてい自足するイメージが支配する観念的世界の根拠やありあまる商品の欠如の理由を理解することができないのだ。
では、ここでいう自己時間と剰余時間の区別をどこでつけるのか、という設問が提出される。１日の自然時間２４時間のうち、自己時間の抽出は生産時間の内部で不分明なはずだから想定しようがないではないかという当然の疑問である。だが、わたしが自己時間というのは、消費行為という当為に結びつく時間を指すのであって、しかも、当為が意識として「私」を観念的に疎外する構造の内部に隠されているから、剰余時間の途中に刻みをつけ、ここまでが自分の時間、ここからが他人の時間というような線引きができるような実体ではない。たとえば、以前と同賃金でありながら以前より多くの商品を買うことができるという相対的剰余価値生産の秘密にしても、意識作用に影響をおよぼす当為として考えないかぎり、実質賃金の高低をうんぬんするだけでは実感がともなわない。それと同じように、自己時間は行為の働きかけとしてだけ存在して、生産と消費の枠組みの外に次元の異なった屈折をともなって現われる。だからこそ、「なにもしない」ことのように、従来の生活観や労働観からすれば不可解な行為の必然性が納得できる。
つまり、この「私」の自己時間とは、食べるために働くとか、働くために食べるとかの意味や価値をすべて相対化するところにうまれているのであり、かといって、使用価値そのものにモノの本質が宿るとか、自然物との接触によって何かがつかめるとかいうようなオカルト的な神秘性を土台にしているのではない。おそらく、わたしたちの剰余時間の総体はモノの層土のような累積だけではなく、歴史的に蓄積された膨大な幻想の束を抱え込んできた。にもかかわらず、それがわたしたちの咀嚼能力を超えるとわかったときはじめて、「権力」や「知」を内在化する生産と消費のバランスシートは壊れ、極大化と極小化の狭間で揺れ動くようになる。ここに、わたしたちが、もう一つの時間としての自己時間のありかを考えなければならない理由が存在する。
おそらく、大衆のナショナリズムの中では、この種の「なにもしない」時間の領分は、ハイテク技術の導入や生産力向上、豊かな物質水準が向上するにつれ、今後、拡大することはあっても縮小することはないだろう。それは、マルクスにとって、相対的剰余価値生産が、たとえ、労働現場では搾取を意味づけるにすぎなかったも、労働者の関係する時間の領分として生産、流通、消費と販路を拡張するスピードにのって、より向上した生活感を支える概念に転換したとおなじことである。ただし、こちらの場合は、必ず、「富」や「権力」の時間的な「偏在」化と空間的「分極」化と同一歩調をとるであろうことは疑いない。マルクスが唱えた命題が「死んだ時間が生きた時間を支配する」とすれば、わたしたちのそれは「外部の時間が内部の時間を支配する」となる。
この現象は、個人の消費生活としても、社会・政治意識としても、戦後民主主義を裏支えした私的感性・意志が雪崩現象をおこしている証しなのだ。それがアモルフな政治的大衆の登場につながり、近代国家の政治空間を拡散させるとともに、既存の国境線を超える潜在的な可能性をはらんでいるのは疑いえない。また、この資本主義の変質は言語思想の世界に象徴的な影を落としている。カルチャー、サブ・カルチャーの区別の風化はもとより、わたしたちは言葉の分厚い層に包囲されて、ほとんど内面の統括軸を喪失したかのようなおもいに晒されているのである。かつて「現実」と言葉は、「私」の中でパラレルになっているような気分を受け入れてくれた。だから、「私」たちは「現実」に合致しない言葉の不誠実さを、自分自身につきつけることもできた。ところが、いつのまにか言葉と「現実」の関係が逆転し、「現実」の中に言葉が包摂されてしまうや、今度は言葉となった「現実」が言葉を切り刻んでしまったのである。このような言葉に対する「現実」の侵入の逆説こそが、全社会的な大衆消費社会への変質に支えられて、言葉の肉離れを囲いこんでいるのである。
その結果、「現実」としての共通性をもたらしていた言葉とのつながりの岩盤はくずれ、言葉は「私」の言葉の「外」へ流出しはじめている。この「内」と「外」、または言葉と行動の矛盾という考え方そのものが、言葉が自己意識の「時間」の「外」に加速して、「私」の中での「内」と「外」の区別を無意味化してしまったのだ。ここにおいて、言葉は「私」との直接的な結びつきはもちろん、「現実」との関係の総体を喪失したといえる。もはや、「現実」→「私」→「言葉」の連関は切断され、時間の持続性として言葉は、単に、時間性としてのみ機能しているにちがいない。たえず、なにものかに追われるように受け身で生きているわたしたちの強迫感は、自己内面を追い詰め、生き急いでいること自体が言葉を操作しているといってもよい。こういう内心の思いを対象化して言葉にのせられない不安こそ、言葉の発生史を不問に伏し、ほとんど立論自体を無意味化してしまった原因である。なぜなら、操作される言葉の機能自体が拡遠化したことを高度化と呼ぶなら、この機能の高度化が加速を増し、ほとんど原型として言葉の発生までの時間をはるかにしのいで、言葉がかつて言葉であった意味や価値を外の世界に収縮したといってもよいからである。そのため、わたしたちは、全社会的に繰り広げられている言葉の流動化に面して、いわば、時間に宙づりにされている。この種の時間意識は、時間概念の変容に裏づけられており、時間意識は、直線的な流れから次第に細断化され、「いま」、「ここ」にある存在感が希薄化して、意識を凝集しないかぎり統覚感を喪失しかねない危機感に晒されているのである。時間意識はもともと、過去から現在まで集積されているはずであるが、それが地盤ごと落壊して、現実とのリニア－な関係づけをほとんど喪失してしまったのである。
こうして、大衆消費社会の爛熟は、モノに対すると同様に、社会の全過程にわたって、デジタル記号化とイメ－ジの差異を刻印づけ、私的感性・意志の解体は、大衆社会にロート状の吸込口をつきだし、飽くことなく画一化したフレーズを発散する。それによって、エレクトロニクス・サブカルチャ－によってもたらされた言語思想は、ほぼ、大衆的意味を喪失した。そこまでいえなくても、わたしたちが、幾分、絶望的な感情の場所に引っ込んだときには、いくらＰＣ操作に長けていても、携帯のメールタイプが速くても、それにつれて、ものの理解力や想像力がアップするなんてことは絶対ありえないとおもってしまう。それでも気を取り直して、算術計算よろしく分析的になったら、良いネットと悪いネットを嗅ぎ分けて、ネットに公共空間をつくろうなどと耳触りのいい論者の真似をする。だが、算術計算に１＋１＝０の虚妄もありうるから、ネットの空間が公共性などもちえないことをおもいしる。なぜなら、私的感性・意志は独自な積極性を失って、言葉に表出される意味を無化するとともに、同時に、言葉の先行性を許容してしまい、包摂された「自己」を鏡に映してしか言葉を確認できないゲ－ム言語の洞窟に落ち込んでしまったからである。本来、匿名の言語などというものは絶対の背理である。自己言語は私的感性・意志が先行してはじめて成立するにもかかわらず、ここでは、私的感性・意志の対象としてのみ意味をもっていた「現実」が言葉に包摂されているため、自己言語は匿名の「私」のメタ言語としてしか機能していないのである。つまり、現実－私－言葉の環がメビゥスの輪のように閉じられ、言葉－私－現実と双方向に流れることで、「私」の独自性は不要になっているのである。だから、「私」は現実に面してというより、わたしたちは「現実」になった言葉によって、言葉に対して不要な格闘を強いられているのだ。ここにおいて、現実から、たえず追いかけられているという衝迫感は、言葉に対する被虐感と等価である。ただ、どちらが、その当体であるのかを確認すべき「私」が不在で、空白感しかないだけによけいに煽られる。
状況はわたしたちの失語を尻目にはるか前方を疾走し、何も分からないとつぶやく遅れたランナーに向かって慰めの一言さえ与えず、ひたすら前方へ駆られている。それでいて、間違いなくまちがっているのは、わたしたち遅れたランナーの方である。会社ではうつ病などメンタル関係の病気が増加し、学校はいじめで荒廃し、家庭では子殺し、親殺し、幼児虐待、あげくの果ての赤ちゃんポストで示した関係意識の表出は、凝集し屈折した関係への修復渇望と読むべきではなく、むしろ「関係域」そのものの意識的実体を「肉体」それ自体で打ち消そうとする観念的交通形態の異変を特徴づけている。おそらく当事者である彼らの心性を支配するのは、感性、意志の主張や表現ではなく、逆にそれらの性急な「肉体化」と手形交換された「なにもしない」空白感そのものにちがいない。そして、ひとごとではなく、環境さえちがえば、わたしたちの日常でも同じ必然性をもってもおかしくないのだ。
しかしながら、ドラスチックな時代の噴流はリバイバルでも回帰するものでもない。ましてや概念としての表現でもないわけだから、言葉の屑かごから陳腐ななつかしの言葉をかき集め解釈をほどこし、当座の埋め合わせで片づくほどなまやさしいものではない。だが、保守的な遅れたランナーは、最初、ここ数年の社会状況の猛烈な変動を、目を閉じてやりすごそうとし、それでも無視しきれないとみてとると、はじめそういう事実をまったく理解できないかのようにおどろく素振りをして、眉をひそめひた隠しにした。それでも事態はいっこうに好転しないばかりか、ますます泥沼化してゆくのがわかると、今度は、いじめ問題で荒れ、親子の断絶が社会地域的に拡延した関係意識の変質を、書庫の隅にあった大時代的な家族・国家倫理まで総動員して、強引にとり繕い収拾しようと企てる。しかし、いくら反動的な教育政策をもって子供達を強圧的にねじふせ、一時的な平穏を取り戻したとしても、子供たちの親世代に対する「関係」や学校に対する「関係」また社会そのものに対する「関係」のとり方が決定的にすれちがう以上、子供たちの心中にくすぶりを残し、やがて思春期に再燃するのは自明である。すでに反動的な倫理を武器にＰＴＡや学校管理者が施そうとしている内容は、「肉体」としての時代からも概念としての「肉体」からも取り残されていることを知らねばならないのだ。
「関係意識」の変容は親子間関係を地域や職域の中で拡延し、猟奇の隙を無理やりこじあけたような重苦しさを沈殿させているが、これらは家庭内に呼び込んだ「富」や「権力」の偏在化や分極化を象徴する断面である。また、マスコミの膨化にともなって「観念的交通」のネットワークが肥大化するにつれ、「社会的交通」の網目は上底化され、求心するシンボルの方位を失い、一方における「公」から「私」の逃避と片方における「私的感性、意志の拡散化と解体」を招きよせた。さらに、エレクトロニクス技術を媒介にした情報体系の社会的層化と緻密化は、感性、意志の拡散化に一層拍車をかけ、ますます肥大化する「観念」の方位によって乖離した「私」性と社会性の結び目に無限の雪崩現象をひき起しているのである。
３．１１東日本大震災によって一時的に麻痺し壊されたもの、そしてその後の状況をとおしてはっきりわかったことは、現在のすべての言語思想は、「肉体」をとおしてしか表現できないことである。すでに、子供たちと親世代たちの間には、分厚い層のような隔壁ができてしまっている。その隔壁は、ときおり間欠泉のように、関係の澱を巻き上げるのだが、その意味を表わす言葉は内向しており、決して、隔壁の隙間には届かない仕組みになっている。いわば、お互いに「私」が存在しないため、親子の対立は、膨大な言葉の連なりやイメージの対立でしかない。そこで、膨れあがり分節化した言葉の連なりに虚妄を見た中沢新一は「自然」の露岩に回帰しようとした。だが、そこへたどりつく道のりは平坦ではなく、資本主義の「超越的思考」の原型に市場と貨幣を求め、さらにはユダヤの一神教の出自にまで遡ろうとするのだが、いかに科学的な粉飾をこらそうと、その目的である「自然」の手触りは、定かには確証しようのない神話世界でしかない。もしかしたら、彼が唱える原子炉内の核分裂連鎖反応によってエネルギーをみちびく方法は人間には制御できないという解説も、それ自体、神話的思考の所産かもしれないのだ。わたしが想像するに、現在の濃密な、それでいて空疎な関係意識のもつれが、「肉体」をとおしてしか表れないのに気づいたのだが、中沢は、その「肉体」表現を「肉体」そのものと取りちがえたため、媒介された「自然」と無媒介の「文明」の対立図式に滑り込ませたものとおもえる。このような誤解は、新しい貨幣を作るのではなく、貨幣そのものに不信感を募らせることにつらなっている。それとはちがって、わたしたちは、「肉体」という貨幣ではなく、また、「貨幣の貨幣」でもなく、ほんものの新しい貨幣を作りださなければならないとおもう。