初源の言葉を求めて
～中沢新一の自然と「非対称社会」～
宮内広利
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＜目次＞ １ 言葉の秘境へ ２ 妖しい理念 ３ 貨幣としての恋愛論 ４ 贈与の物語 ５ 供犠と権力 ６ 人類最古の哲学 ７ 国家が誕生するとき ８ 神話の倒立 ９ 遡行と移動 |
１ 言葉の秘境へ
≪昔の人間の想像力は正確だった。それは、彼らの想像力が、物質のなかに隠されている「胎生学的なレベル」にまで、いっきに到達するほどの力をもっていたからだ。このレベルでは、物質と想像力が共振現象をおこす。ランボーの言う「物質的神秘主義」は、虹の蛇の棲まう、意識と物質の共振するこの地層で実現される。そこには、たえまなくティクレの滴が降りそそぎ、たえまなく虹色の光彩雲が発生しつづけている。その地層は、私たちの生きるこの世界がどんなに蒼ざめ、生気を失い、解体してしまおうと、いつまでも変わることなく、そこに存在しつづける。虹の蛇は、ダイアモンドのように不死なのである。≫『虹の理論』中沢新一著
中沢新一がチベットの密教僧によりそって描いている鮮やかな虹の光彩は、世界が胎児として生み出された母型の光景として描かれた。虹は太陽の光とそれを屈折させる水蒸気の粒で構成された光学現象にすぎないのだが、ここでは虹を見ているわたしたちと共振作用をすることに母型のありかが問われる。大気と太陽の光の邂逅は、震えながらこれから放射と励起がはじまる空間の拡がりの始まりに喩えられる。もし、そう言えるなら、無限回繰り返されてきた宇宙の拡散のビックバンの開始をおもい浮かべてもいい。世界と宇宙の展開の秘密もすべてこの胎児のような場所にもたらされた虹の一滴によって解き明かされる。つまり、中沢によって喚起されたイメージの渦巻は、人体も含むエネルギー生成の投影された一瞬である。であればこそ、それを見ているわたしたち人間も、その創世の神話に共鳴し、心打ち震わされるのだ。
中沢はこのような創世の神話を文化人類学の視線から嗅ぎ分けた。南米のインディアンの中には、人間とバクとの結婚や川底に棲む巨大な「虹の蛇」の物語、鳥の鳴き声と羽の色のまつわるエピソードなど、彼らが堀りあてたたくさんの原石のような神話が隠されていた。それはレヴィ＝ストロースの言う「自然」と「文明」のインターバルの接近であったり、混合であったりする。レヴィ＝ストロースは、魚獲りの毒、虹、病気を「半音階的なもの」と呼んだとしている。これは音と音の境界空間の出来事であり、毒や病気は生と死の関係の極小化であり、虹もまた、色彩の連続的なグラデーションでできている色彩と色彩の間のインターバルが極小化されている。「半音階的」というのは、中沢の言い方を借りれば、さしずめ、言葉の和音をはみ出している言葉ということになりそうだ。それにたがうことなく、中沢が助けを求めたのは、鳥の言葉が理解できるブッダやキリスト神秘主義の聖人、イスラム神秘主義者たちの不可思議な行動だ。人間には人間の言葉がある、鳥たちには鳥たちの言葉がある、それは人間や鳥たちがそれぞれ世界を見渡すコードに基づいており、普段は、それらコード間の接触は不可能に見える。だが、初源への問いかけは、ブッダや聖人たちにそのコードの壁を横断させるものは何かという問いかけに替えられて発せられてくる。そして、人間と自然との横断の瞬間にこそ、自然はより輝きを増して芸術家たちの前に接近遭遇する。人間と動物の体をあわせもつ牧神こそ、その象徴にほかならない。そこへ、どこからともなく、森や木の精霊たちがつどい集まってくる。
ところが、中沢の「半音階的」世界は、そのようなスタティックなイメージにとどまらなかった。裏腹に毒や病気のパラドックスに気づいており、そのロマンチィシズムの罠についても十分に理解していたからだ。毒を盛って沢山の魚たちを一度に捕獲する方法は、「人間」の中に「自然」を入れただけではなかった。逆に、「自然」の中に「人間」を招きいれ、「自然」の中にとてつもなく大きな断層を生じさせたのだ。ここで、はじめて、「自然」と「人間」の間には、もともと大きなギャップがあることに思い知らざるを得なかった。このようなロマン主義の弱点が露呈したということは、近代の暗闇の中から産まれたその運命ともいうべきものだった。これに対して、中沢は人間と自然の神秘的な合一の瞬間の後に、すみやかな分離をなしとげるユーモアを選ぼうとしているかにみえる。神話のロマンチシズムは、「虹の蛇」さながら、大地の奥底から不気味な毒々しい臭いを放っていた。しかし、その蛇の毒は大地に姿を表わすと同時に、大地の奥底への郷愁が不思議な具合に近代との共存を許してしまった。このパラドックスから脱するためには、より多くの解体と散布が「抽象」のうちにジャンプされなくなくてはならなかったのだ。
中沢はわが国の「虹」を立てる「作庭師」の「抽象」化についてもヒントを与えている。庭は生命の溢れる空間である。その起源は浄土曼荼羅の光景を、石を配し、植物を配し築山を盛って実現しようとするところから出発した。中沢によると、彼らは穢れを「清める」人々の間から職業化したと考えており、中世、死や罪を「清める」のとおなじに、寺院を「清め」ようとするところからはじまった。だが、彼らの仕事が次第にその庭に空間の区切りあるイメージを膨らませていくためには、不可避により「抽象化」された精神を必要とした。
≪彼らはあいかわらず一種の「清め」の仕事にたずさわっているが、それは彼らがこの生きた宇宙をみたしている純粋なエネルギーの流れに、ほとんど素手で触れていることができるからである。かれらは作庭家として、風景を浄化するのだ。風景を脱物質化するのだ。風景のなだらかな連続するひろがりを否定して、かわってそこに風景が生まれたばかりの「顔」として、垂直に立ち上がってくる力の運動を発見するのである。作庭家は、空間を去勢するもろもろの力を去勢することによって、そこに浄められた空間、庭園をつくりだす。≫『虹の理論』中沢新一著
そこで、国家の清めの儀式に捕獲されていた彼らが、仏教の力を借りて宇宙のエネルギーの本体にじかに触れ、運動をまき起こして「石を立てる」ことの意味がほとばしることになる。だが、上に引用した「去勢するもろもろの力を去勢する」という言葉は、関係と関係のもつれが解かれ空間が裸にされ、おそらく、否定の弁証法からもたらされたものである。しかし、わたしたちから見れば、禅の思想に脚色された何の変哲もない石の配置がこのように穿たれている様は、いわば、行方の分からない虹の彼方を見つめているに似ている。
そこで、もし、彼の言うポストモダンが、枯れた木や偶然のように配置された石ころであったり、チベット密教僧の頭の中で組み立てられた渦巻状の「気」や、南米の神話の中に棲息する半獣半人であるとするなら、わたしたちは、いやおうなく、岐路に立ち会わされることになる。ひとつは、秘境やジャングルで食うや食わずで、何日間も瞑想し、「「胎生学的なレベル」にまで、いっきに到達する」ときにでくわす、禁欲的貧しさや汚さをどう処理するかに関するものだ。わたしたちの感覚は、たとえ、自由であっても、こんな禁欲や貧しさには耐えられないと即座に答えるだろう。中沢が挙げているエスキモーのシャーマンの熊の冬眠をおもわせる飢えや寒さの訓練は、シベリアやアメリカ・インディアンの世界など世界中で行われていた。ところが、中沢にはこのパラドックスに対して、もう一つの答えが用意されていた。彼が選んだのは言葉の肯定から無化へ向かう精神の軌跡だった。それは新たな冒険と自負されることになった。
わたしたちは、もはや、近代の中から近代を超えることはできないことを知っている。ということは国家も迷信も近代自身の力ではなすすべがないということだ。そこで、中沢新一が選んだのは、普遍的で体系的な思想とはちがって、曖昧な思想のマトリックス（母胎）のようなものだった。それは始原へのこだわりであったり、宇宙のエネルギーの沸騰にも似た「狂気」や「生命の過剰」への執着だったりする。中沢などよりも少しばかり、食べることの苦痛に慣らされているわたしたちの冷ややかな目には、アイヌ、縄文人の精神的豊かさなどと聞かされても、そのまま素直に受け入れることはできない。ただし、たとえば、普遍性という言葉が歴史を遡る意味でとらえ、その流れを現代になかで検証しようとするなら、超現代をめざすためには共同体内部の視点からは喰い破れないとする中沢の言い分はよく理解できる。
中沢は仏教思想がわが国に伝来してきたものの、土着するに当たって幾度も異和反応を繰り返した点について事細かに語っている。同じように、中沢によれば、わが国の神道にしても、もともとの国家神道とひとびとが生きる実感の中ではぐくまれた鎮守様の神道のちがいとして二重性をはらんでいた。この二重性は仏教の布教のなかでもみのがすことのできない影響を与えた。都の正統派仏教の端っこ、現実の衆生に触れる境界面のところでは、山で修行するたくさんの無名の仏教者の力添えがあったため、その思想の接触面では変形や歪みを必然的にともなっていた。彼は日本思想のはじまりをそのようなところに見据えているようにおもえる。
≪日本人の思考のはじまりというものを考える時に、このとき山の奥の水源地や岩山で起こったことはとても重要な意味をもっているように僕には思えるのです。日本人の思想の特質を考えるうえでも、とても大切だ。そこには日本人が、神話的な思考を、「思想」と呼ばれるようなものにつくりかえるときに、なにをやったかということに関わりがあります。水源地の神、蛇神や竜神は、ギリシャ人の古い表現をかりれば、生命の内側にあって生命をあふれ出してくる自然、過剰としていて暗いゾーエーの生命力の場所とつながっている。その力が十一面観音のような造形につくりかえられていくときに、何か大きな変化が発生している。…中略…そこで造形の技術を使って、過剰する自然の力を十一面観音のような仏像に変化させた。その変化の中に、日本人が自然を思索の対象にする行為のはじまりの形態ができあがっています。≫『日本人は思想したか』 吉本隆明、梅原猛、中沢新一著
このような変形と飛躍の認識は、もしかすると、梅原との共同作業かもしれないが、日本人の原基に縄文的な自然力のエネルギーを蓄えていたものが、本来、仏教がもっている秩序否定（アンチコスモス）の衝動に触れたとき化合し、秘密結社に似た山籠りの儀式や死に接近した山の宗教の形をとったという見方を導きだした。その延長線上に平安仏教に対する最澄や空海の存在が位置づけられ、彼らは仏教の原型と大衆レベルの宗教意識のほぼ中間地帯で、縄文時代以来の日本人の精神に越境したとされるのである。もちろん、それは中沢がチベット密教の中に見つけた北方シャーマニズムの胎児回帰への修練の奥儀につながるものだ。狩猟文化では、大人になる過程のなかで必ず一旦死の場所をくぐり抜けなければならなかった。彼らは断食をやったりしながら自分の体を痛めつけて、仮死状態の中で死と再生の神話を会得しようとした。
ここでは神話的な思考が「思想」と呼ばれるものに変わりつつある経緯が、沈黙の言葉から「行為」の言葉に変わっていく線分のように辿られている。もし、西欧思想のはじまりが、形而上学という自然をこえる概念の言葉でつくられているとすれば、日本人の思想という場合、ちょうど、沈黙の言葉とそのような概念の言葉の中間地帯で産まれたとされているのである。その上で、和歌であったり、能、生け花、お茶などの造形や技術をとおして、沈黙の言葉の移し替えが行われた。しかも、それらは山に入り込んでいく修験道の伝統と深いつながりをもっていた。
おそらく、中沢の功績は、日本人の沈黙の言葉を探り当てたというだけではない。概念の言葉に表せない沈黙の言葉との中間領域で、「行為」として表出された「思想」のありかを、概念や沈黙と同時に呈示し、「思想」の三層構造をみつけたことだとおもう。それは文字のない沈黙は、行為のメタファーによってしか表現できないものであって、人間の胎内回帰が仮死体験になぞらえるように、それ以上でも以下でもない困難さをはらむ認識をもたらすものであった。これはわたしたちの認識構造の幅をおおきく拡げるものになった。従来の言語思想では、沈黙の解読に終始したのだが、その沈黙がどうしても理解できないところで、その試みはすべてほとんどが座礁してしまった。どの場所でこの沈黙のかけらを拾い集めるか知らなかったからである。ところが、中沢は、それを「行為」の一点に凝縮した形で理解しようとした。
こうして、中沢は、地下水脈のように流れてきた土着の宗教や辺境とよばれる沈黙の言葉が、概念の言葉として、現代の中であらたな意味をもちうるかどうかについて問いかけはじめているのだとおもえる。そこには、中沢特有の世界史の概念が介在しているのはたしかなのだが、その概念は、普遍性や体系性に近づくのをおそれるように、そっと隠されているような気がする。彼は柳田国男と折口信夫の違いについて述べ、柳田は共同体に風穴を穿つことができなかったとしている。それにひきかえ折口は、「まれびと」というものによって、外からくる神を共同体の中心に据えた。これは農業共同体のありかと、源流をさぐる試みの中心部にまで遡れる問いかけにちがいない。それは、人間と自然との関係のなかで、狩猟民と農耕民の対立にもたとえられるが、裏面からいうと、柳田には世界史の概念がくっきりと映り、折口にはそのような世界史を破壊する衝動が潜んでいた現われかもしれない。
吉本はこの対談の中で、アイヌの独自の死の観念に着目している。彼らは文字をもたなかったばかりでなく、国家もつくらなかった。固有の軍事力をもたなかったからだ。梅原はそれに応えて、文字ももたず、国家も作らない文化の意味を現代によみがえらせようとする。吉本はそのような姿勢をヒューマニズムと呼ぶのであるが、中沢はそれに対してヒューマニズムの概念をめぐる攻防が一周期を終えた現代においては、回帰であり始まりであるところから、あらたにヒューマニズムの概念が再提出されるべきだと答えている。
２ 妖しい理念
中沢の宗教論は思想というものの間口を著しく拡大させたにちがいない。親鸞を思想家としてはじめて論じたのは吉本隆明だが、中沢はさらにその思想をひとびとの毛細血管のような思考様式にまで攪拌させ、その息遣いに触れる言葉の曼荼羅を展開しているように見える。彼にとって、なぜ宗教なのかを問うことは、思想の消長を問うこととほとんど同義である。次のような語り口がなんのてらいもなく、あたりまえのように繰り出されているのがその証拠である。
≪『チベットの死者の書』は、生命の深層律動を、光の活動として描きだそうとした書物だ。生命活動の最深部では、光の振動としてあらわれてくる、宇宙的な律動が、たえまない活動をおこなっている。生命体はその律動の上に、それをおおいかくすようにして、さまざまな構成体をつくりだしている。そのために、生きている間は、ふつう私たちはこの律動の存在を、意識することがない。ところが、死の体験のさなかに、どんな人も、この光の振動である、生命の深層律動を「見る」ことになる、とこの書物は語るのだ。≫『ディケンズの亡霊』 中沢新一著
ここで宇宙的な律動と流動へ誘いが、死者のまなざしへの通路になるというまでは分かったが、それを体感するまでにどんな身体行為を要するのか、まず、わたしたちは想像できない。彼はドラッグを使ってではなく正真正銘の瞑想によって獲得したらしいが、それには生半可でない荒行や禁欲を通過しなければ見透かすことができないはずだから、どの程度の重力を要するか日常の言葉ではとうてい物差しにならない。しかし、わたしたちは、まぎれもなく中沢のそのように難行苦行によって獲得した「智慧」を、日常の言葉にまで引きおろす試みの真ん中に立ち会っているにちがいない。何より、彼の場合、レヴィ＝ストロースにならって「野生の思考」にのっとり、宗教的ヨガをおこなったり、曼荼羅を観想しながらの実践的な行為をとおして、人類の原始の「自然（じねん）宗教」から仏教へと流れて行く思考の軌跡を鮮やかに再現してみせたことだ。
彼が仏教の源流として見出したのは、狩猟民の哲学であったり、もっと、ホモ・サピエンスからもち続けた女性原理であったりする。要するに、人間の性のように心の構造のなかに潜在する、かつて「自然（じねん）宗教」として確かに存在した岩盤のような世界があり、そこで見えていたものは人間の究極の「智慧」としてひとびとに必ずセットされているはずであった。少なくとも、日本人の中には、そういう何万年前から引き継がれたアニミズムあるいは霊的な認識が、紀元前５世紀に完成し伝来した仏教の体系的な哲理とないまぜになって、「縄文時代の仏教」というような形で生き続けてきた。
もちろん、仏教とは何かを問われるとき、中沢は、キリスト教やイスラム教との違いとして一神教と多神教との相違を選り分けており、そのさまざまな流派のなかで、神と人間の段差や戒律の差異として相互間の違和や、もっと激しくなると、現在のキリスト教圏とイスラム圏との戦争となってあらわれることの必然性にも目が届かせている。しかし、彼は、さまざまな宗派が入り乱れているとしても、それらはたかだか紀元前後の対立や軋轢を出発点にしているにすぎず、宗教が究極の選択を問われるなら、収斂するひとつの思考の束がもたらされるとした。そして、刻印を打つようにではなく、ひとびとのこころに仏教をソフトランディングさせながら、「超宗教」としての意義を提出する。宗教は順調に発達すると、必ず、神秘主義がでてくる。それは、キリスト教であろうとイスラム教であろうと例外なく行きつくところ、北米インディアンやオーストラリア原住民の言葉におちつく。そんな体験が何よりも、仏教がインディアンやオーストラリア原住民の保存してきた原初の思考に戻れる優位性となって後押しした。
このような宗教心の一覧表をみながら、わたしは中沢の仏教に対する定義や未来像は、煎じつめれば多数決の宗教とは何かへと向かうものではないかと想像する。おそらく、共時的には多数決の宗教は成り立たない。だが、通時的には多数決は成り立つとの確信が仏教への導きの糸になっているはずで、その点に揺らぎはない。中沢にとって、なぜ、本来的に、多数決の宗教は成り立たないのか。その答えは、国家の発生とともに宗教の発展がゆがめられた点に求められた。または、「帝国」の出現によって普遍的な宗教性を阻止されたというものである。それは宗教（仏教）本質論の中核に据えられ、「仏教が好き」と彼に言わせたものであり、わたしたちの現代の思想的課題とも交差する一点にほかならない。もし、そのような歴史認識と重ならなければ、宗教の魅力は半減する。
彼はブッダの宗教のはじまりそのものが、もともと古代帝国のはざまにあって、その帝国が部族社会の「智慧」を崩壊させているさまを目の当たりにした時、その帝国の内部にありながら、帝国のシステムそのものの解体させる原理がセットされていたものであり、宗教の脱構築として非宗教の形をとって潜在化したとしている。であるがゆえに、それは現代の科学知識万能の社会にあっても、その「智慧」によって、崩れたバランスの社会の立て直しができると考えた。
≪そうすると、現代において仏教とは何かということが問題になってきます。もう一度ブッダと同じ生き方や戦略を現実化しようとしたら、この一神教的で超国家的な巨大帝国に覆われて、グローバルスタンダードが世界を征服していく世界のなかにあって、それは人間の魂があるべき姿ではないと理解して、そのなかで智恵を生き延びさせる方法として、新しい仏教は生まれるのではないでしょうか。≫『仏教が好き！』 河合隼雄・中沢新一著
中沢は仏教によって何がしたいのか。というより何ができると考えているのだろうか。彼が言う崩れたバランスの中には、現代の物質的豊かさのなかでひとびとに不幸の意識が蔓延していることや貨幣の支配する社会の物神化のありさまなどが含まれている。それらは、いわば、自分と外の世界を区別して、殻の中に自分の世界を完結させようとして楽をもとめようとする妄想のように映った。しかし、この厚い殻が手前にある限り、ほんとうの豊かさへは行きつかないことを仏教は教えており、西欧近代的の個人性の思想とはまるで逆になった思想のありかを指し示していた。
中沢新一の口からは、あらゆる支配の根絶に向けた妖しい理念のようなものが呟かれている。彼の問いかけは、現代と始原の突き合わせであったり、この世の内と外の関係､また、人間と自然の関係だったりするが、大元は、それらの接続面の問題を中心にして、その問いかけの輪が波紋のように広がっていくさまを見つめているような気がする。むしろ、その接続面の微妙さが問題になるところのみを問題にしているといったほうがいいかもしれない。つまり、人間と自然あるいは「この世」と「あの世」の接続面積が広いことが第一条件である。この接合面は「境界性」とも呼ばれ、限界づけられた三次元の世界から高次元の無限の領域に触れる語感さえ含まれている。そして、それが中沢にとって超現代を探す通路になっている。
中沢の本を読んでいると、冗談ではなく、心が洗われるような気持ちになるのは、彼が取りあげる仏教や密教の奥義の核心に心をつかまれたり、かき回されたりすることで生じたものではなく、それら個々の宗教の歴史を超えて、人は何を考え、何を信じて生きていくかという初源の訴えかけに答えるものが含まれているからだ。それは、未知の星から持ち帰った微粒子で宇宙の起源や構造を探るのに似ている。どちらも、「自然」や「生命」という概念を作り変え、素粒子という目で見えるものに変えてくれそうな予感を届けてくれる。
中沢新一は、「古代」という言葉を作り変えた折口信夫が着想の原点にしているのは、『古事記』や『万葉集』が編纂されたよりもはるか前、縄文時代の頃までさかのぼる人類の原初的なこころや思考まで到達したことにおいて、わが国の思想史に画期を開いたとみなした。少なくとも日本の土壌において、源流のような土着の思想があり、それがやがてさまざまに枝分かれしつつも、その底辺には伏流水のように脈々と流れている大河が存在することを言い当てたのである。
折口は、「まれびと」の精霊を「妣が国」「常世」として、日本人や日本文化のルーツを台湾の先住民やインドネシア、フィリピン諸島からの縄文人の渡来や北米西海岸のインディアンに結びつけた。それだけではない。「まれびと」を「あの世」から共同体にやってきた来訪者という意味において、「他界」と現実世界の通路とみなしたのだ。中沢によれば、このような信仰は、日本の文化の源流をなして、自然（じねん）宗教ばかりか、能や歌舞伎などの古典芸能の発祥の場にも立ち会わせることになる。彼ら芸能者たちの精霊信仰は、この列島に国家が産まれ、その体系化された神社の形式が整備されるにつれて、軽んじられ吹き寄せられるように落ちぶれた存在になってしまう。寺社の下級神人として仕えていたこれら宗教者たちは庇護者を失い、放浪の旅を余技なくされた。だが、これら芸人や職人たちに対して同類としての共感を抱いた折口は、彼らが村々に持ち込んだ精霊たちの芸能の世界を追体験しようと、古代人の思考の痕跡を求めて研究に打ち込んだ。ここからくみ取られたのは次のような中沢の洞察だった。
≪芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりのあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。折口信夫は村々に残された古い芸能のかたちを深く探求しながら、「芸能者の原像」をそのような強力な矛盾をになった生き方をする人々として、描き出そうとした。≫『古代から来た未来人 折口信夫』 中沢新一著
ここには妖しい生き方を強いられた芸能者たちの心情に寄り添うような折口の姿勢がよく描かれている。芸能者たちの矛盾は、「まれびと」の矛盾そのものである。「あの世」からやってくる「まれびと」は、すでに死んだ人たちやこれから産まれてくる命の息吹の象徴であった。古代人たちにとって世界とは、「この世」だけではなく、「あの世」や「他界」もその半分を占めていたのであり、「この世」と「あの世」は双交通できるものでなければならなかったので、「この世」と「あの世」の接合面積は、とてつもなく拡がっていた。「この世」の死者は「あの世」へ送りだされ、「あの世」から「この世」へと生命が戻ってくるこの還流の中に、生きることそのものの意義が見出されていた。中沢がここで見ているのは、マルクスのような現世の稀少性が「あの世」を産み出す原因であるというような言葉にあらわされた世界の出来事ではない。言葉が発せられるその直前の名づけようのない「身体」の行為性のようなものだ。それは善であったり、もしかしたら悪霊のように荒ぶる精霊であったりするかもしれないが、わたしたちには、それが遥か原初のエネルギーから発せられた肉声のように聞き分けられる。だが、中沢の落ち着いた文体は、このエネルギーの総体を折口とともに「超宗教」への扉として開こうとした。
中沢は折口が敗戦後、「神道の宗教化」をめざしたことに着目している。折口は日本人の形をもたない前宗教的な「自然（じねん）宗教」に組織と体系を与えようとしたのである。しかし、中沢は、宗教に組織と体系を与えた途端、そのネットワークの共同性は、「国家」の介入を許してしまい、その本来性と矛盾をはらんでしまうものではないかと考える。それならば、折口が説いていたのは「神道の組織化」とは別のありようではなかったのか。それに気づいた時、中沢に見えてきたのは、宗教を超えるものとしての神道であり、あらゆる宗教の以前であると同時に宗教の終りをも指し示す知性のあり方に踏み込んでいた折口の情熱のありかだった。日本の宗教史の中には決して表立ってあらわれることはなかったが、奥に潜在しつづけてきた別の形の神道があった。折口にとって、そういう影の神道は表の顔がもはやかえりみられなくなった現代だからこそ、是非とも再生させなければならなかったのだ。そこで、中沢は、その原宗教は日本人の精神の奥深くありながら、決して表面に躍り出たことはないが、仏教思想や神々の間に隙間から姿をあらわしているがゆえに、原初（アルファ）であり、未来（オメガ）としても理念化できるとしたのである。
しかし、中沢にとって、「超宗教」という概念は、理念としての構えをみせたときから、危うい概念に変貌する。つまり、原初と超現代の接合面が試され、その輪（リング）のような世界史をどうはずすかが問われてくるからである。果たして、原初の原宗教は未来のものと同じなのだろうか？原宗教が「外部」からやってきて、「外部」にその住処があるがゆえに、未来の「超宗教」に連続すると言って済ませておくことができるのだろうか？わたしには、この原初と未来の間には、変換の方程式が介在しなければならないとおもえる。
たとえていえば、視覚が空間性の度合いであるとすれば、聴覚は時間性を本質とする。輪をはずすための変換というならば、聞こえるように視、視るように聞くことをおいてほかにはない。それが何を触媒にしてできるのか。
３ 貨幣としての恋愛論
ドゥルーズやガタリの話をまじめに聞いていると、デジタル回線を駆使する頭脳なら、あたかも資本主義の中から資本主義を追いつめ追い越してしまうような錯覚をおぼえてしまう。ネグリのマルチチュードにしても、そういう知識や思弁的な言語の力がなにがしか大きな力をもっているかのような期待が込められているような気がする。そんな思弁の自己増殖自体、資本主義経済の自己増殖の力に後押しされたものにすぎないと言い放ったのは中沢新一の功績である。ともに、資本主義の経済システムに抗おうとしているにしても、中沢はまったく別の方法をとった。中沢の『緑の資本論』は、２００１．９．１１同時多発テロを背景にした資本主義世界とイスラム世界の角逐の図式から産まれたのだが、それは資本主義とキリスト教世界との親和的な結びつきの洞察をとおして、同じ一神教にもかかわらずイスラム教とキリスト教のあいだの不和解性の対立として目に見えるようにしてくれた。彼は資本主義の剰余価値の産出の秘密をもとめて、キリスト教の「三位一体論」の中に鍬を入れたのだ。
≪剰余価値の形成において決定的な働きをおこなっていた「精霊」の働きが、ここにも見出される。「精霊」はボロメオの輪の形に結びあった「三位一体」の構造のなかで、不確定性をはらみ、愛と意志によって突き動かされて、贈与をおこなう、ある種の過剰性をそなえているものと、スコラ学は思考していた。この「精霊」が激しい発動をおこなうとき、シニフィアンはシニフィエとの結びつきを解かれて自由に浮遊しはじめ、この浮遊シニフィアンが想像界と交わって増殖をおこなうのであった。このような過程の萌芽が、貨幣―商品―貨幣―……流動体―結晶体―流動体―……の変態のうちに、すでに完全に準備されてある。こうして、資本主義における価値形態論の全領域が「精霊」の息吹に貫かれていることを、私たちは確認することができるのである。≫『緑の資本論』 中沢新一著
中沢によると、一神教としてのキリスト教は、唯一神としての「父」が、「子」を産出したことから神と人間の間に疎外をもたらしたばかりか、その「父」と「子」の関係から放射された「精霊」を疎外した。その疎外は他者に向かって贈与という行為をおこなうようになり、増殖性の経済行為につながるきっかけを与えた。この二重性の疎外は、マルクスの貨幣論の核心としてとらえられたとき、資本主義のメカニズムになる。ところが、マルクスは古典派経済学を批判したものの、重商主義や重農主義の中に潜伏していた「三位一体論」を明瞭に自覚していたとはいえなかった。『資本論』は古典派経済学に対して「外部」から臨まなければならなかったのだが、そうしなかったため、マルクスには資本主義の脱出口をみいだすことができず循環に陥った。その大元に踏み込むように、中沢はマルクスの価値形態論にそのはじまりを見出した。
有名な「二十ヤールのリンネル＝一着の上着」という価値形態は、最初から逆立の契機を孕んでいた。リンネルの価値を上着の使用価値でおしはかることで、上着という等価形態には、それ以上の価値がもたらされ、あたかも精霊の光を身にかざすことになるからである。その上着は、次々とリンネル以外の別の女性の憧れの対象となる。中沢はこの上着の「受肉」について、精霊をまとってガリラヤ地方を布教しているイエスの姿に喩えている。そのとき、このイエスにはたくさんの可能性が降ってきた。シニフィアン＝表現する地位には、ただ「神の意志」を継ぐもの以上の、多くの流動性や浮遊性に取り囲まれ、やがて、貨幣という特殊な商品を産み出すことになる。「父」と「子」の関係は、それ自体、貨幣という精霊に導かれて「父」と「子」の神話をもたらし、神と人間の関係を逆立ちさせるようになる。それはキリスト教という一神教の中に引き入れた刺を象徴するものであった。
この「三位一体」の構造に対して、イスラム教は激しい憎悪をもって挑んできた。そういうキリスト教の精霊が、商品世界と貨幣世界の遊離をまねき、商品は富として、バーチャル化した欲望と愛の想像力で埋め尽くされた現在の資本主義の原型を形づくったとされたのである。
それに対してイスラムの経済論はタウヒード貨幣論と呼ばれ、利子（利潤）の発生を禁止し、抑制しようとして、貨幣増殖をベースにした経済構成の出現を押しとどめてきた。中沢の解説によると、タウヒードの教えは、この宇宙をつかさどるのは、すべての存在＝実体にあるということである。全存在は唯一の神アラーの表われだとされ、スピノザの『エチカ』ように、この実体は属性もなく単純そのもので、構造も外延や分割をゆるさないものと考えられている。そして、その単純さは、存在の個々と結びつき、直接的に表出するとされているのである。ここには、「父」と「子」とその媒介であつた「精霊」との三角関係はなく、存在と存在者（神）のまったくの同一性と保存が主張されているのである。このイメージはわれわれの実感には辿りにくいが、スピノザの哲学の明瞭さを差し引いてなお、資本主義やキリスト教に抗うものと一括りにすれば、決して見えないものではない。
イスラムの原理主義がマルクスの中心にあった欲望の関数化を拒絶しているのはよくわかる。関数化とは表象するものと表象されるものの区別におうじて、自他を量や数やで比較し、そのことで、やがて増殖の欲望は歯止めなく拡がり、存在は欲望に支配され、画一化される。一見、多様であるかのようにみえるシステムも実は、その根っこでは表象するものに首根っこをおさえられているから、その多様性はそれ自身はばたくことができなくなって、やがて燃焼し、力尽きることになる。そういう意味で、イスラムの教えは資本主義のシステムに対する警鐘であり、「他者」の鏡になりうると中沢は結んでいる。
しかし、ここで中沢に言いたいのは、非対称的な世界の構図は固定化されると、まるで、「豊かさ」と「貧しさ」が反転したかのようなチグハグさのイメージをもってしまうことだ。変わらなければならないのは、中沢のいう後期旧石器時代から引き継がれた大脳のニューロン組織なのか、それとも肉体としての身体に刻み込まれた感覚なのかをはっきりさせなければならないようにおもえる。つまり、このイメージを払拭するためには、「心の貧しさ」と「物質的貧しさ」を同時にどう終結させるかということに答えないかぎり、「豊かさ」と「貧しさ」の循環は終わることはない。
貨幣の二重性について語る中沢の経済学批判は、柄谷行人の貨幣のフェティシズム論と似ている。だが、柄谷だと資本に転化しない貨幣への望みが、近代世界への導入の評価とセットになっているが、中沢のいう「外部」は文字どおり、国家と農業と動物の家畜化が出現する前の世界にほかならないから、歴史の「外部」、しかも、もっとも深いところへの手招きになってくる。そのとき、一神教と多神教の歴史区分のありかがカギになってくるとおもわれる。中沢は原理としての一神教の評価は、もっと別の言葉で言うと、大昔、世界が宇宙と接して動物と人間がひとつであつた時代の狩猟採集民やシャーマン、アイヌの伝承につながるのかもしれないが、わたしの想像では、世界史としての宗教が人類学と交叉する地点はもっと曲がりくねっているような気がする。
マルクスの「二十ヤールのリンネル＝一着の上着」という価値形態における逆立の契機に対する中沢新一の批判は、現代資本主義への批判となって次のように具体化される。
≪資本主義は、同一性と増殖性との複雑な結合からできあがっているシステムである。その社会は、あらゆるものの商品化を押し進めようとするから、すべてのものごとを等価交換の原理のもとに従わせようと強制する。そのために、徹底した合理化が、人々の暮らしのすみずみまで浸透していくことが、さまざまな方法を通してゆきわたっていくことになる。…中略…この強制力は、産業資本主義の発達した近代になるとさらに人間の五感や直観の細部にまで浸透していくようになる。…中略…感覚の平準化が肉体の深いレベルでも進行していったのであるが、これはあきらかに交換価値の背後に働く「同一性」の原理を表現する貨幣の働きと同じものが、感覚の内部でおこっていることをしめしている。≫『モノとの同盟』 中沢新一著
ここで述べられている資本主義のシステムは、いわれるほど、「複雑な結合」を示しているわけではない。なぜなら、中沢が肉体に接した五感や感情のことを取り上げているのにならえば、男女の恋愛の機微にたとえられるようなものだ。ここに絶世の美女Ａがいるとする。このＡをめぐって次から次と男たちがあらわれ関心を曳こうとする。吸い寄せられた男たちＢ、Ｃ、Ｄは、それぞれ他のライバルのことを知らずにＡにプロポーズする。告白のやり方は千差万別なのだが、もし、告白の裏側から視線をぐるっと廻して、Ａの側からＢ、Ｃ、Ｄの告白を眺めたらどうなるだろうか。そこでは、Ａにはいろいろな思いが湧きあがってきているはずなのだが、ひとりの男性に決めかねている。この何気なく重かったり軽かったりする戸惑いの中に、何億とおりもある男女関係のエキスのすべてがつまっているような気がする。
大切なことは、この場合、Ｂ、Ｃ、Ｄは、Ａにとって交換価値になっているということだ。Ａは、Ｂ、Ｃ、Ｄの等価形態であり、それぞれの特徴が価値の大きさとして表示され、「同一性」の原理に従って見比べられているのはまちがいない。中沢なら、Ａは貨幣に他ならないから、必要以上の妖しい価値が増幅されているとして敬遠するだろう。そして、彼はこのような逆立した価値の増殖を認めないから、当然、そもそものはじめから視点の転換を拒絶するはずだ。もし、中沢が特定のＢなら、Ａの視線から再度転回して退き、そういうブランド名のついた絶世の美女にいれこんだ自分の浅はかさを反省して、今度こそは、もっと多様性をもった異性への入り込み（中沢の言葉でいえば「モノ」との同盟）をしようと決意するはずだ。彼が振られるとか振ったとかとは別に、こういう反省や悔恨は恋愛に限らず、雑踏から離れたときのわたしたちになじみの心痕であるが、それを方向づける視線の往来や移動は、あくまで観念的なままである。そればかりか、もし、中沢が女性なら、その反省は、Ａをとおして女性一般の性の内面深く立ち入ろうとして、一時のシャーマン気分にもなりかねない。いずれにせよ、平板な現実批判におちいらざるをえない。
わたしたちは、この恋愛にどう結末をつけたらいいのだろうか。もしくは、この資本主義社会の商品の物神化にどう立ち向かって行ったらいいのだろうか。そもそも、わたしたちの社会に、等価形態にとらわれない自由はあるのだろうか。そう考えるとき、わたしたちは「時制」の問題に突き当たり、「現在」という限られた視線を拡張していくことの不可能性を知る。つまり、目の前にいるＡに対してほんとうは何を見なければならないのかを問うとき、Ａは自由な選択をしているのだが、刷り込まれた過去をもっていると考えなければならないのだ。それは、物質的豊かさや貧しさの物差しにはならないが、そのまま度合いの大きさで表われることはない。まちがいなく、Ａの感情は、過去の出来事に左右されており、逆に、かつてＢやＣやかＤかであった関与の度合いに左右されるとみなすことができる。たとえば、目の前の男性であるＢは経済力、Ｃは男らしさ、Ｄは優しさという公約数が表象されているかもしれないとすると、彼女の記憶のメモ帳に物質的な貧しさの過去をもっているならＡを、男女関係で折り合いがつかなかった気まずい過去を引きずっている場合はＢ、そして家庭の中に親子関係の亀裂や不和があるならＤをまちがいなく選ぶにちがいない。
だが、関係の網目はそれだけではない。もうひとつの加味すべき要素は、Ｂ、Ｃ、Ｄ自身の過去や未来に関するものだ。自分の過去を照らし出して、無意識のように形づくられた嗜好や感情と、やがてやってくる自分の将来の像を天秤にかけることができなければならない。この際、過去と未来を天秤でかけることこそが、わたしたちが自由になる唯一の道しるべだ。ある人にとっては、光源氏とそれを取り巻く愛人たちが理想の異性であったり、とおい空の下のドゥルーズに、わたしたちは過大に魅せられることがある。だが、平安時代の衣食住の衛生環境をかんがえれば、その男女主人公の髪型や服装はどんなにみすぼらしくて不潔なのか、あいついで自殺や殺人、暴走事故死ばかりが起こっているパリの風景がどんなに乾き、吹きさらしのなかで悲鳴をあげているかを聞きわけられれば、容易に時間と空間の折り目を正すことの意味を知るはずだ。
わたしたちは、小説の主人公のような「同一性」の錯誤のただなかに立ちすくんでいるのであるが、中沢が風穴をこじあけようとしている時間は、過去や現在が未来に流れて行く単線のレールを無限に伸ばしているだけのような気がする。彼によれば、資本主義の合理性は計量可能性や予測可能性や効率性原則を手中に収めた。そうであればこそ、資本主義の商品世界は凹凸のあるわたしたちの顔の表情をおしなべて画一的な基準をあてはめ選別し、一旦産み出された等価形態と貨幣の自己増殖は、ゲノムのように生命そのものが物質的過程に還元され操作されるまでなっている。そして、ひとりがひとりに対して面する多様性そのものといったイスラムの教えとはまるで非対称的な世界を撒き散らしているとされている。この彼の志向性は、物と物との関係が貨幣という媒介（同一性）に支えられていることの不快感を素直に表明したものであり、物ではなく媒介されていないモノの発見が、イスラム世界や縄文やアイヌの世界への飛躍の跳躍台になっている。だが、この現在や過去の出来事は、未来への負荷を背負っているのは確かなことだ。そのことから否定の否定を含んでいない肯定は無理だとおもう。
４ 贈与の物語
中沢は、日本精神史の古層に分け入ったとおなじ方法を携えて、自然のエキスみたいなものに触れようとしている。マルクスは「神の国」の形而上学を現世の経済学に引き降ろそうとしたのだが、現世の壁はいつまでも厚く、その中からは空を仰げないような息苦しさをわたしたちにもたらした。彼の唯一の抜け穴は、労働力という人間に備わった潜在エネルギーなのだが、それさえも生活資料の価値や労働時間に還元されてしか顔を表わさない。そのような計量された労働者が、計量されたこの世界を抜け出すことはおよそ不可能ではないか、という中沢の問いかけの背後には、人間の世界と自然界の抜き差しならない対立という名の「交換」の図式が見え隠れする。
ならば、いっそのこと、人間と自然の「交換」関係を反故にしたらどうなるのだろうか、そういう意気込みが中沢新一の心を捉えた。たとえ、中沢に整除された文体を与えたのがマルセル・モースやレヴィ＝ストロースから拝借した贈与論にあるとしても、そのほんとうのきっかけは、もっと内発的な力にあったことは疑えない。それは行間に伝わる身体のリズムによって確かめられるはずだ。ありきたりの言葉を使えば、中沢が求めているのは人間と自然の「交換関係」の彼方に拡がる「交感関係」のイメージに踏み込めるかどうかの課題におもえる。マルクスの定式にしたがえば、「技術」という媒介をとおして人間と自然は等価の代謝をしていることになる。このマルクスの考えを要約して、吉本隆明は次のように述べている。
≪人間とそれをとりまく<自然>との関係は、人間の自然物質にくわえる<労働>（働きかけ）が、<自然>のほうからは人間的な対象化であり、このとき人間はじぶん自身から疎外されてみずからの働きかけたものと対立し、<自然>もまた人間化されることにより<自然>から疎外されるという哲学がその根底にあった。≫『カール・マルクス』 吉本隆明著
この疎外関係をつうじて、自然が人間の非有機的身体になり、人間は自然によって有機的自然となる。こうして人間と自然は互いに相手を受容するなかで自己を二重に疎外していくというのが、マルクスのいう「貫徹された自然主義あるいは人間主義」の主調音であった。さらに、わたしは、マルクスの人間と自然関係論の最も注視すべき点は、彼が意識をともなう身体の生成行為を通じて、人間の「時間」概念を発見したことであり、この時間化度の累積が歴史の自然史に連動していくことだとおもう。その上で、人間の現実化あるいは自然の現実化が併せて自然史的「時間」に流入していくとき、人間ははじめて、個別性をぬけだし社会性と面接しながら、歴史の不可逆的な往路を辿りはじめる。
これは、マルクスにとって「所有」という観念が、人間が自然とのあいだで「欲望」の大きさの函数として表れることを意味していた。このようなマルクスの認識は、人間の自然の「等価交換」、あるいは「欲望」と生産物の「等価交換」の中から、やがてその価値交換の究極の姿として「貨幣」をうみだす原因になる。だからこそ、マルクスの貨幣批判は「所有」の批判として表われた。だが、中沢の場合は、「欲望」というものが「所有」に直結しないことを知っていたから、マルクスの「貨幣」批判より一歩抜け出していた。というより、「欲望」は必ずしも計量されないとみなされており、人間が自然に働きかけた分だけ生産物を獲得したいという「欲望」をもつとは限らないことを直観したからである。人は自然に与えた分以上のものを受け取る、また、受け取る分以上のものを与えることができる。むしろ、ここでは、貰う、与えるという概念そのものが特殊なものでしかないことを証明しているように見える。彼がバスケットボールや捕鯨狩猟という「身体」行為にみたものは、「欲望」が「所有」に固定化されないまま、ピンポン玉のように人間と自然のあいだを行き来ししている神学的な光景だった。中沢には「労働」はバタイユのように人間の「否定性」の根源とは考えられていない。彼が、チベット宗教そして一見過酷にみえる労働や修行を横断しながらシャッターチャンスをねらっているのは、そのように労働と遊びに挟まれた境界線上の瞬間であり、宗教の内から外へ、外から内へ流れる気流のなかに立ち上る虹のような光景である。
たとえば、マルクスは、人間と自然との関係において、人間をｘの線分、ｙの線分と見立てたとして、xの与えた価値△xは△y、同時に、yは価値△yをxに与えると考えた。つまり、与える価値と受け取る価値は、関数として等号で結ばれるとしたのである。ただし、それは2、3、4次であるかどうかにかかわらずプラスの関数であれば、人間と自然はともにラセンのように上向きに登っていくことで割り切られた。だが、ここでは人間や自然は、いつまでも時間（労働）によって制約されてしまうことになる。また、「身体」の内在性が「自然」の内在性に接触することはない。要するに「自然」との「交換」はあっても「交感」は阻まれており、中沢はマルクスの価値論の限界を見とおしている。中沢がやや改まった言い方をしている贈与論の中には次のような箇所がある。
≪たしかに、モースが考えたように、贈与は結合するエロスの力を持っているのだ。個別化の壁をのりこえて、人と人とを、個別性を越えた次元で結びつける不思議な力が、人間の中には働きだすのである。…中略…つまり、贈り物には「贈与の霊」が宿っていて、「もの」が移動していくにつれて、この霊も人々の間を動いていく。…中略…贈与によって、人々は「もの」を交換しあっているのではなく、おたがいの心に、そのような霊を揺り動かして、それが動きだす瞬間をつくりだそうとしていたのである。≫『新贈与論序説』 中沢新一著
中沢によると、このエロスの力を舞台にした「交感」は、「異教の神々」と人間のあいだにはじまった死者と生者との「交感」にかぎらず、もともと、人間と自然のあいだにも、そして、サンタクロースのように商業主義のイメージに水増しされて、現代のブルジョア社会の只中にも贈り物をかわしあうことで確かめられているものだ。しかし、ブルジョア近代社会は貨幣を手中に握ったときから、人間を互いの個体性に引き離し、人間と自然との敵対関係をつくり出した。それに対してマルセル・モースは、市場経済の彼方に贈与の原理にもとづいた協同体の実現を夢見た。このような「社会主義」は深層のエロスの原理を下敷きにして、贈与の倫理として描かれねばならなかった。
「贈与の霊」は大地の上のわたしたちの生産物に、何倍もの実りをもたらす力の範囲を確かめられる。一粒の小麦種から千倍を超える等号で結ばれた生産物を受け取り、「純粋な自然の贈与」を受けることができる。自然はその潜在的な力が物質化し分裂や接合を繰り返しながら増殖し、わたしたち人間が与えたものから何倍ものエネルギーを発しながら、増殖を繰り返す。農業の生産の秘密とは、このような超越的剰余価値のプロセスにほかならない。しかしながら、サンタクロースのほかには、そのような超越性の物語は、すべての「差異」を包み込んでしまう現代社会の表舞台から辺境へ退却してしまったのではないか。エスキモー、北米インディアン、伊勢神宮の太陽神よりほかに肉眼で見えるものはないのか、そんな危惧をもってしまう。
グローバルスタンダードに便乗して身を縮めながらも、ひと儲けなどと考えている人以外は、一度は、たおやかな理想社会というものがどんなものか夢想してみればいい、そんな誘惑を中沢は運んでくる。だが、このたおやかさは、中沢の冷静な優しい文体と混同されてはならない。もし、そう言えるのなら、中沢の考えている「自然（じねん）宗教」というようなものが経済的・法的交換に組み込まれるや、生まれてくるわたしたちの少なくない違和感にも一度は足をとめてみなければならないのだ。中沢に大きな影響を与えているマルセル・モースの『贈与論』では、ポリネシアやメラネシアの原住民、そして北米インディアンのポトラッチのありさまが、経済的・法的交換のあり方として詳細に調査されている。
これは貨幣の出現前のひとつの制度としての心性を表わしているのだが、食物、女性、子供、財産、護符、土地、労働、奉仕、宗教的役割、位階などが、氏族間であるいは首長と氏族員の間で贈与され、受け取り、返礼される集団的経済のなかを生きていたことである。この贈与と返礼は物に対する義務として行われる。ポトラッチの意味の一つは、贈与する義務であり、首長たちは自分のため息子たち娘たち先祖のため、贈与しなければならない。それは威信のためであり面子のためでもあり、首長たちは、物に託された精霊を活かすため人格を賭け競って贈与する。神々からもたらされた恵みの獲物はすべからく氏族員に配らなければならない。それをしないときには首長はトーテムを代表する顔を失うし、その地位を去らねばならない。
ポトラッチの二つ目は、物を受け取る義務も強制されることだ。贈与を拒むことは返礼を恐れるものと理解される。だから、贈り物は必ず受け取られ、その物は賞賛しなければならない。それを受け取るなら返済義務に縛られることが分かっていても、しかも、返礼は、１年間に３０％～１００％もの利息をつけて支払わなければならないことがわかっていても拒むことはしない。つまり、ポトラッチの三つ目は、厳格な返礼の義務である。十分な返礼義務は強制的なものであり、お返しをしなかったり、同じ価値のものを破壊しなかったならば、受け取った者は永久に面子を失うことになる。これらの贈り物の循環のような贈与交換のシステムが、なぜ、生まれたのかという点で、中沢が目を凝らしたのは、モースの次のような分析だった。
≪贈与交換、つまりわれわれが全体的給付と呼んでいるすべてのもの－その中に「ポトラッチ」を含む－の性質をよりよく理解することができる。この観念の体系の中でこそ、他人の性質や身体の一部をその人に返さねばならないということが明瞭に論理的に理解される。というのも、ある人から何かを受け取ることは、その人の霊的な本質、魂を受け取ることになるからである。そのような物を保持し続けることは危険であり、死をもたらすかもしれない。というのも、そうすることがただ違法であるかもしれないだけでなく、精神的にも、身体的にもその人に由来するもの、つまりその人の本質、食物、動産あるいは不動産などの財産、女性、子孫、儀礼、饗宴などは、受け取った者に呪術的、宗教的な力を与えるからである。≫『贈与論』 マルセル・モース著 吉田禎吾・江川純一訳
ここで述べられているのは、受け取った物はただのモノではなく生命をもっており、与えた者から授かった魂の一部であって、それならもともとの起源へ戻さなければならないような性質の物であるということである。つまり、魂は物の中に入り込み、物は魂の中に混入することが当たり前の心性の前に立ち止まっているのだ。このようにして人間は物と混淆し、人と人は交換される物によってつくられる交わりが、魂の関係にまで入り込んでいく。そして、この魂にとって、貴重な相続財産などの場合は、贈与した者と受け取った者は同一視され、さらにはその霊的な起源にまで遡り、それらを氏族に与えた精霊の先祖である英雄にまで重ねられる。
そして、これらの貴重品はそれを作りだした「精霊」と混淆し、富の源泉としての地位や名誉、氏族の反映の呪術的な根源にさえなっているとした。したがって、ポトラッチの三つの義務は、神話的であり、象徴的、集団的なものであるかぎり、単なる経済行為とみなされるべきではなく、法的、経済的、道徳的、軍事的、祭儀的なものすべて包括した全体的な社会的関係そのものと考えられた。つまり、神話的で宗教的な濃度をもっていたのであり、一見すると、貨幣が循環する市場経済の前段階の「物々交換」とみまがうのであるが、本質は、物々交換を性格づける個人的な契約関係とも異にし、財の移動の大きさからいっても、まったく別のシステムにほかならない。
モースは、北米インディアンのポトラッチのような高貴さと消費の暴力性を含んだ華々しさはないものの、北アジア、メラネシア、インド＝ヨーロッパ語族またアフリカのピグミー族の中にさえその共通性や萌芽がみられることで、世界的な規模の伝播ルートや分布図に広げる可能性を認めているものの、それを確定するまでにはいたらなかった。そのことはモースのごつごつした文体が、中沢の言うように、ソ連や中国の「社会主義」から遠望するものとはだいぶんちがっていたことを意味していた。
それに対して、中沢は、モースの文脈の砂利道の中から石ころを取り除き、滑らかな文体にしようとして、その贈与交換を人類史の特定の歴史的時代区分の痕跡とみなした。そればかりか、たおやかな理想社会の原型にまで拡大しようとする。だが、彼の考えに従うなら、贈与交換を流れるひとびとの意識の移動や循環は、一神教のキリスト教やイスラム教のスタイルとの違いとして、国家という神の規範に似たリゴリズムを生み出す前の平等感や自由感に添うものであったから、あたかも比較級の問題からベターな結論がみちびきだしたようにおもえる。なぜなら､三つの義務感に縛られた贈与交換は、なかのひとびとにとって、自由感が行き届いているとはとてもおもえないし、その禁制を破ったときの落差は部族全体にとってよりも、その個人にかかる負担の方がはるかに大きいようにみえる。
中沢は、たしか、宗教が国家宗教にならないための条件として、個人の自由が全体の自由と矛盾しないあり方を述べていたはずだ。つまり、全体が自由であるとき、個人が不自由でないこと、個人が自由であるとき、全体が不自由でないことこそが、仏教の教えであり、人間の内在的な可能性としていたはずだ。そこから考えると、モースの提起について、精霊の自由が、個人の自由を疎外しない条件として、部族社会や氏族社会のあり方をより踏み込んで検証してみないといけないようにおもえるのだが、中沢はそのようなモースの先にあるプラスαを予見していた。
彼は義務感のようなものがつきまとう贈与に接触してはいても、ひとびとの間に流れる霊力の「増殖」がおこるものとして「純粋贈与」という概念を提示している。これは贈与から贈りモノの循環を外れ、見返りを求めず、贈り主も不明のまま投げだされている、目に見えない霊力の流れのようなものである。贈与者と被贈与者の間に贈与のサイクルがあるとすれば、そのサイクルに向けて垂直方向から介入してくるものを、中沢は「純粋贈与」の原理と呼び、その二つの地点で交わるところにエアポケットが生じ、自分たちの世界の外から「流動する霊」が流れ込むとしている。そのとき、人間は贈与物以上の豊かなもの、「増殖」を直観することができると言う。
しかし、この気流のような「増殖」について、わたしたちはどう解釈すればいいのだろうか。後期旧石器時代のホモ・サピエンスの頃から、人間は宗教的祭儀をつうじて動物たちの「増殖」を祈願していた。動物たちの霊と人間の霊があり、普段はそれぞれのサイクルをもって動いているのであるが、あるとき、ある場所でその両者のサイクルが交点を結んだとき、エネルギーが倍加し、その余剰エネルギーが人間にも、そして動物たちにも降りそそがれる。わたしはその降り注がれたエネルギーを、人間の方は豊かさ、または快楽と実感し、一方で、動物たちには「増殖」を誘うのではないかと想像する。このことは機械化される以前の農業に端的にあてはまる。農民は大地と自然に対して労働を注ぎこむ。それは自然の恵みとして収穫の見返りがもたらされることを期待しており、労働は大地への贈与に値するのだが、その場合、大地は必ずしも反対給付をするとは限らない。ところが、プラスαを加えた労働を与えられた大地は、喜んで人間に収穫物を無償で届けてくれる。労働としての贈与が、大地の無償の贈与を引きだしたこと、ここにこそ「増殖」が行われる秘密があるとされている。中沢がマルクスの『経済学・哲学草稿』に読み込んだのは、人間と自然が疎外された工場労働の味気なさの否定性から反転して、人間とモノとの濃密な「愛ある関係」ともうけとれる。だが、マルクスの論理だらけの言説の近くまでやってきて、愛が説かれているのを見ると、別のわたしが「このような安心の仕方はおかしいのではないか」と呟く声が聞こえはじめる。なぜなら、愛のリサイクル運動は、前近代の職人的な手触りでしか確認できないから、数量化された商品交換に慣らされたわたしたちからすれば、安易なロマンチシズムにすぎないとおもえるからだ。おそらく、これは新石器時代に人間の思考の転換がおこって、贈与と交換が重なったところで国家と貨幣がうまれたことの道筋がまだ不分明なところからやってくるものとおもわれる。
５ 供犠と権力
マルセル・モースは『供犠』のなかで次のように述べている。
≪この手続きは、犠牲という媒介によって、つまり、儀式の中で破壊される事物の媒介によって、聖なる世界と世俗の世界の間の伝達を確立することにある。…中略…あらゆる供犠に含まれている自己放棄の行為は、しばしば個人の意識に対して集合的力の存在を想起せしめることにより、まさしくそれらの理想的存在を維持する。これらの一般的な贖罪と浄化、これらの聖体拝領、集団の聖化、都市の守護神の創造は、定期的に、その神々によって代表される集合体に、あらゆる社会的人格の本質的特徴の一つである、善良、強力、謹厳、恐怖という特性を与え、さらに反復的にそれを更新している。≫『供犠』 マルセル・モース、アンリ・ユベール著 小関藤一郎訳
モースの「聖なる世界と世俗の世界の間の伝達」が中沢の人間と自然の「交感」に当たることはいうまでもない。そして、中沢はその儀式の中で、生贄にされた動物が殺されることによって個体性が破壊されるが、その瞬間にその動物の霊が解き放たれ、再び、自然の懐に帰っていく姿をイメージした。自然から与えられた「純粋贈与」に対する返礼の贈与が果たされることを付け加えたのだ。この場合、中沢は、自然という言葉ではなく「神」への返礼という言葉を使っているのであるが、トーテム社会のように、自然と人間が融合して、動物や植物や魚、山や森と自分たち人間を区別して考えることがない状態、つまり、人間が自然の懐に抱かれていた未明の意識の段階においては、自然は同時に「神」を意味した。自然人たちは、自然の嵐、風、雷のような自然現象さえ区別したり、自ら分離したりせずに、同じ目の高さに同化していたことを意味しており、まだ、宗教になっていない宗教性に支配されていた。
だが、同じ供犠の理解にしても、ひとによって意味づけの差がある。たとえば、バタイユの形而上学は、未明の意識は人間が動物性を離脱して「労働」をはじめたと同時に、「死」への意識をもちはじめた前期旧石器時代に性のタブーが生まれたときにはじまるとした。そこで人間は意識的に自らに羞恥心をもって禁止を課しはじめる。性体験はそれ以降、舞台を心の闇世界に移し、「タブーとその侵犯」という葛藤を背負うようになり、「死」をめぐるアンヴァレンツな劇をもたらした。こうしてエロスをめぐる「死」の恍惚と不安劇は、実存性の暗部に台座を据えた。バタイユによれば、死の一時的な解除は、人間的な実存の本質に呼応するものではなく、あくまで目的や手段にそった道具（有用労働）の世界の出来事にすぎない。だからこそ、「死」はわたしたちの外で絶えることなく自己意識の劇として登場しなければならなかった。原始が未明であるのは、この自己意識の劇が自覚されて行われたかどうかでなく、初めて「死」の驚きが心の中にかすかな差異を聞きわけたときにさかのぼるとした。
そこで、自己意識の中で人間は「死」につつあらねばならないが、そのことを実演できないことを知った人間は、自発的に死につつある登場人物に仮託して、自分を騙していくことで「死」を再現しなければならなかった。つまり、人間はある時点で、自己意識の「表現」の反復によって「死」を所有しようとしたのである。ヘーゲルはこれを人類全体がいたるところでいつの時代も行ってきた普遍的な習慣として取りあげたが、バタイユにとって問題は、無意識のままで「供犠」を執行している者と、こうした習慣を言説で辿る人間の違いとして新たな衣装をまとった。
モース、バタイユ、中沢それぞれの供犠の意味づけを見比べてすぐ気づくのは、自然が「聖なるもの」とされている共通性である。そして、「俗なるもの」との対立から、「死」を媒介にして「聖なるもの」を発現させることにおいて変わらない。もちろん、「俗なるもの」としてあげられているのは、モースの場合は「共同体の不均衡」、中沢は「個別性」、バタイユは「道具性（事物性）」というように呼び名が変わっても、その意味するところは同じである。
≪供犠とは、贈与によって自然の側に負債を与え、それによって自然のアニマを封じて「それ」へと切り替えることである。このことは呪術についてもいえる。呪術を、呪文や儀式によって自然界を操作することとして見てはならない。呪術は贈与による脱霊化によって、自然を「それ」として対象化することを可能にするものである。ゆえに、呪術者が最初の科学者である。≫『世界史の構造』 柄谷行人著
柄谷行人がここで、「それ」と言っているのは、最初の狩猟者が動物を殺さなければならないときの対象像の転換を指している。人間と動物の関係は、このとき「我―汝」から「我―それ」へと変わる。つまり、アニミズムの世界から狩猟が平然と債務の徴収行為のように変わるために、必要な儀式として供犠があったとされているのだ。もし、未明の意識の段階をいくつかに区切るとするなら、一見すると、この柄谷の供犠がいちばん古い段階のものにみえる。自然神をあがめていた自然人が、喰うために動物たちを捕獲するその贖罪の意味において、供犠を執り行うことで狩猟の始まりが可能になったとおもわせるからである。
だが、ほんとうに狩猟者たちは、初めから自然のアニマを封じなければ動物たちを捕獲できなかったのかという疑問が生じる。そして、アニマを封じるために負債を与えるという人間の行為には、早くも「交換」の匂いが立ち込めているのではないか。それらは、モースの「贖罪と浄化、これらの聖体拝領、集団の聖化、都市の守護神の創造」という戒律めいた言葉にも相通じるいかがわしさのようなものを感じる。柄谷は、「我―汝」から「我―それ」への転換としているのだが、そのような枠組みされた自己意識の変移は、ある程度、社会的規範が整備された共同性の出現を前提にしなければ想定できないものである。その意味で、中沢の霊の循環と移動を含む自然から与えられた「純粋な自然の贈与」に対する返礼としての贈与の意味は、「我―汝」の関係を解き放ち、原始心性が自然の中を裸のままで飛び交っている様を想像できるだけに、より普遍化できるものだ。
もうひとつの疑問は、モースは主にヒンドゥーの祭儀を取り上げているのだが、この記述は、わたしたちにもっと古い形態の宗教的祭儀を映すことにもなっていることだ。ありていにいえば、犠牲物は、なぜ、動物でなければならないかという点である。つまり、ヒンドゥーの祭儀をとりまく人間の環境は、じかに自然に接する段階を離脱して、社会的広がりをもって、私的所有による階層間の不均衡が前提になっており、モースの図式が神（悪魔）、犠牲、供犠祭主の三角形になっているとすれば、その原型として想定できるのは、供犠祭主としての王権と犠牲物の意味である。この王権が、仮に、もっぱら宗教的な存在感をもって、自然存在を自由に動かし動かされると信じられていた場合、自然人にとって、王権そのものが犠牲物として供せられる可能性を秘めていることである。自然の災厄の責任が王の肩にかかって天候を左右しているのは王であり、王自身の所作であることが疑われないからだ。そして、それが次第に転化し、ヒンドゥーのような宗教的祭儀の象徴になった時点で、王権は、みずからの身代わりになるものをもって贖うようになったと考えられることだ。いわば、モースの贖罪の意識は、むしろこの時点で生じなければならなかったはずだ。生活意識と宗教意識の区別がつかない原初の歴史的段階では、ほんとうは王そのものが、神への供犠の対象物でなければならなかった。だが、自然人が祭儀を宗教として明確に意識しはじめ、聖なる世界と世俗世界に境界線を引くようになり、犠牲の対象を動物や植物に転嫁したと考えられるのだ。
６ 人類最古の哲学
バタイユにとって、人間が「人類」であることの所以は、その原初からの「否定性」にあることだった。つまり、人間は外部の自然を否定する欲望をおさえることができないから、同時に自身の自然的存在をも否定せざるをえない。つまり、動物性として自然と一体化している生自体を否定し、自分の死さえも人間の欲望にすることができる。それにひきかえ、動物たちは自然の中に溶け込んでおり、自然を否定しないから、厳密な意味において死は存在しない。バタイユにとって、生の一回性は自己意識そのものを意味したのであり、自己意識をもたない動物性においては、自己からの自己の分離は永遠におとずれず、逆に言うと、「類」としての死を発見することができない。「人間とは何か」と問われたら、バタイユは他人に代えられない個体としての死であると即答していることになる。
だが、バタイユの原初の観念は、歴史的時間を未明の曙光にまでさかのぼり、より微細なイメージを喚起しているようにみえる。バタイユにおいて未明の意識はたくさんの段階を踏んで、現実的世界までたどっていく様子がよく分かる。
初めは、人間が動物生の段階にあることである。この動物生の世界は永遠の「内在性」と呼ばれ、直接性、無媒介性、即時性、連続性の世界と表現することができる。バタイユは、あたかも世界の内に、水の中に水があるように存在している状態という喩えを使っている。この世界は「死」の内側と同じように、わたしたちの識見のおよばない世界であり、自己が自己を理解することができないので、閉じられた世界としかいいようがない。この動物生の世界の「内在性」は、バタイユの弁証法の基礎概念に当たっている。
そして、人間生の第一歩は、獲物を捕えたり、火をおこすための道具（技術力）を発明（発見）したことだった。道具は人間にとって、「物＝客体」とみなされることになる。それらの道具は、使いこまれることによって、用途に適応するように、より磨きをかけられ、工夫が加えられていくうちに価値をもちはじめる。その価値は道具の区別をもたらすだけではなく、やがて、対象（目的）の区別も輪郭づけるようになり、次第に何のための道具かというような体系づけがなされるようになってくる。たとえば、長い棒きれは、地面を掘り起こすためのものであるが、その目的は植物の成長を促進するためであり、さらにその目的は食べられるためであり、その目的はそれを食べる人間の栄養を満たすためというように目的が加算されていく。バタイユは、これを世界としての「物＝客体」が配列される過程ととらえた。世界は連続性の平面であらねばならなかったはずなのに、人間によって選り別け、区分けされた断層や不連続線が浮き上がり、デコボコのような地勢図ができあがっていく。これは世界に小さな価値という亀裂がはいったことにほかならない。存在するものの「内在性」に微かな流れがさざ波のようにひろがっていく。
しかしながら、この微かな波動は、まだ、人間の「自我」の形成にはほど遠いものである。その「物＝客体」の中へ明晰な意識をもって浸透することができないからである。次の段階では、その「物＝客体」の世界に内面的な要素を注入するようになる。これは、道具の製作活動をつうじて、自己の作りだした道具を、また自分自身の活動を外から他者として眺める能力を人間が身につけるようになったことを意味した。
このように主体を「物＝客体」の中に入れることによって、ついに人間は、自分自身と動物や世界を、内からと外から認識することができるようになる。それは客観的に考察された主体として、主体でありかつ客体という世界をつくり出したことになったことだ。だが、このような段階の意識は、主体の属性と客体の属性の区別が、まだ、混濁している状態で、自らの制作活動は動物や植物の属性と区別されていない。そのため、動物、植物、大気現象などに、「物＝客体」の超越性が与えられ、自分と同類のものと考え始めるようになる。転位された「物＝客体」は、その人間自身がそうであるように「精霊」として語りかけ人間とおなじように動くものとみなされている。
そして、動物、植物、大気現象などに「物＝客体」の超越性が与えられ、自分と同類のものと考え始めるようになると、このような「精霊」たちの間にもヒエラルキーができはじめる。やがて、そのヒエラルキーは、人間のような身体＝肉体に依拠する「精霊」と、死者の霊や「最高存在」などのような独立した「精霊」とが区別されるようになり、後者は一つの同質的な世界を形づくる。そこで、神は死をまぬがれない身体＝肉体に依存している「至高性」として現れる。このことが神話的世界の対面に「俗なる世界」、つまり、「事物」や身体＝肉体の世界が現実化するようになる。
独立した精霊たちの神話的なあらわれを起点としてはじめて、現実的世界が神話的世界の対極に位置づけられる。肉体＝身体は、それが至高性の精霊に欠如しているかぎりにおいて、神話的世界が築かれた後の残滓として現実的世界を形づくる。人間は、霊＝精神である限り神聖なものであるが、「死」を免れないものとして肉体＝身体を持っていることにおいて「俗」なるものである。現実的肉体＝肉体＝身体とはあらゆる「事物」と同様に「失墜した世界」にほかならないのだ。
おそらく、バタイユの内在史において、この人間と世界の「聖」と「俗」の離反とアンビヴァレンツのもつ意味は大きく、肉体＝身体には、霊＝精神が絶え間なくつきまとっているのだが、容易なことでは霊＝精神は姿をあらわさない。ただし、唯一、それがあらわれるときがある。「死」のときである。「死」が人間をまったくの「事物」に還元させるとき、その「瞬間」のみ霊＝精神をはっきりと現前させる。バタイユは、精神と肉体の中和状態を「事物化」と呼び、さらにその「事物化」を肉体の側から徹底させれば、霊＝精神が曙光のごとくあらわれると言っている。その意味でのみ、人間の死体は霊と精神を完ぺきに肯定するものであり、「死」は究極の「生」の肯定とみなされるのである。ここでは、「生」は死ぬことによって、「生」をあからさまに照らしだすという逆説を産んだ。このようなバタイユの弁証法は「供犠」という死につつある自分を演出することによって解決されることになる。
このバタイユの「供犠」の弁証法は、中沢新一によって、「神話」の弁証法として蘇る。中沢は、神話は現実的世界の矛盾の解決をおこなうものであり、その物語のなかでは「生」と「死」の実存的矛盾が中心に据えられているとした。そして、「死の世界」や「異界（他界）」への接近が、現実「生」に何をもたらすかについて、原初の神話的思考をとおしてあからさまに解説してくれる。彼は、人間が肉体＝身体として「事物化」されるずっと前、「精霊」と交わり、あたうかぎり自然の恩恵を受けながら、自然の「内在性」の深い懐に抱かれていた世界を確かな足どりで再現している。彼にきっかけを与えた神話学は、後期旧石器時代から新石器時代への過渡期（中石器時代）にかけて、西はフランスのブルターニュ地方から東は北東シベリアまでユーラシア大陸の広い範囲にまで散らばっていた未開人に共有されていた思考の源流を辿るという方法からもたらされたものだ。神話は時をへて変化し・屈折や変形を被ることになったが、そのパターンの類似点さえおさえれば、思考の型は保存されている。そんな保存と展開の交錯の中から、ありうべき神話の原型を探り出そうというのだ。
彼の取り上げたシンデレラ物語は、ユーラシア大陸のほとんどすべての地域で異文によって語り継がれてきた。そのどれもが、いじわるな義母や姉妹から蔑まれた心の清い娘が泣きべそをかきながらも我慢して、自然の精霊たちと心を通じ、その善意をふるまわれ、きらびやかなドレスを身につけ馬車に乗って舞踏会へ行く。そして、同じく自然の恵みのように王子に気に入られ、忘れた靴が媒介になって、晴れて結ばれるというサクセスストーリーをもっていた。この靴の媒介というのは象徴であり、ほんとうは社会的な貧しさと憧れの高貴さの媒介というべきで、シンデレラの存在自体が、高いものと低いものの仲介の役割を与えられていたことが分かる。では、なぜ、シンデレラがその役回りをはたすことができたのか。
≪主人公の家族内でも仲介が欠如しています。末娘はとてもつらい立場に置かれています。というのも、家族の中で彼女は社会的なコミュニケーションを途絶された状態にあるからです。そこで彼女はいつもカマドのそばにいて、動物や魚と交流するようになります。人間とはコミュニケーションができないのに、あるいはそのことを代償にして、彼女は自然と超自然の領域とだけ、コミュニケーションできます。しかしこの状態は、世界全体にとってはまだ不均衡をしめしています。そこに社会的コミュニケーションという重要な交通路が開かれていないからです。自然＝超自然とだけつながっていたカマド猫というシンデレラが、人間の世界の王子様とめでたく結ばれることによってはじめて、求められていた社会的コミュニケーションが実現できます。≫『人類最古の哲学』 中沢新一著
このくだりは、中沢は、まちがいなく、結婚したがらない「かぐや姫」もなぞっていて、「ひきこもり」の考古学を念頭においているものとおもわれる。彼が意図していたことをわたしなりに読み替えるとすればどうなるか。シンデレラには、最初、コミュニケーションの欠如があり、身のまわりにはまるで陽差しが差し込まないような境遇におかれている。これは社会的コミュニケーションをおこなうためのきっかけや跳躍台が必要な事態である。彼女の慰めは森の動物たちや魚との交流であった。この動物たちとの交流は、超自然界にしかいない精霊たちのふるまう「内在性」との交感を意味していた。このことで、やがて、いままで閉ざされていた境遇に通路が開かれ、シンデレラストーリーが開始される。中沢は、これは動物たちとの交流が、人間がはじめて自然や超自然界に触れ合ったときにおののきにあたるものとして、「死の世界」や「異界（他界）」との共存や贈与関係をみてとって、その重要性こそ、この神話の古い来歴を語る証明にしている。
その時代には、超自然界や異界との交わりは、その暗喩によって媒介されており、それは「カマド」であったり、「豆」であったりする。「カマド」は、火を使うことによって、人間が動物生から離陸していく境界線上に据えられ、自然と人間の窓口になっている。また、「豆」は男性の睾丸に喩えられ、同時に女性のクリトリスをあらわすことで、男性と女性の交換可能性または流動性を囲むものであり、どちらも両義性をもつものとして、媒介の役割をするものであった。シンデレラが「カマド猫」と別称されるのは、そういう超自然界や異界の領域との交わりができるシャーマン特有の資質を背負っていたからだ。
シンデレラはシャーマンであったがゆえに、超自然界と人間界を媒介するように、身をもって人間界の貧しさと高貴さの媒介を成し遂げることができた。そうであれば、これはハッピーエンドの物語などではなく、現実「生」の生き方の問題であり、神話が現実「生」の只中で、どういう役回りを担ったかの検証にされてもおかしくない。逆に言うと、神話が生きた太古にはあったかもしれないけれど、見えない時代にはありえない物語として、わたしたちを冷たく突き放すものかもしれない。それなら、中沢の秘めた意図は、もっと足元におろすことができるはずだ。
わたしたちのシンデレラは、形だけの神話にとらわれたアニメやゲームのバーチャル世界だけでなく、登山や森林浴の合間にも生息しているかもしれないのだ。なぜなら、中沢は、宗教の幻覚やオイデップスの悲劇のように「死の国」への接近遭遇や「死の国」へ自由に往来できることは、いわば、跛行的な、あくまで不均衡な存在とみなされているからである。彼のシンデレラ神話はマイナス価値からはじまり、結局は、ハッピーエンドのプラスの価値へと転換したが、この転換にはもう一つのマイナス価値が必要だった。つまり、シャーマンは不均衡な存在としてマイナス価値として隈どられていることになる。しかし、このマイナス価値を経由することなくしては、プラスの価値は生まれない。シャーマンは不均衡な「悪」にちがいないが、同時に、均衡を産み出す「善」でもある。中沢の弁証法の先には、もしかしたら、善と悪の中庸や折衷点はないのかもしれないが、その裏側で無意識の小さなシャーマンや小さな自然をまねきよせる誘惑を忍び込ませているように見える。なぜなら、そういう対称性の世界が人類の祖先には確かに存在していたときがあったととみなされているからだ。
７ 国家が誕生するとき
国家というものは数量化できないほど、とても薄っぺらいものである。あたかも、氏族社会から部族社会へひろがり、部族社会がその閾値を越えると、はじめて国家といえるような分水嶺が見えるわけではない。わたしたちの言う国家の基準は、法整備ができてなくても、個人に負担と無理強いする構造の発生とともに、心のメカニズムに生まれる澱そのものを指しているのだ。
中沢にとって、均衡と不均衡とは二元的な対称性であった。中沢は人間と動物との間にあった平等な関係は神話的思考によって守られてきたそのことを指して、対称性の社会と呼んでいる。動物は自由に人間に変身することができるし、人間も動物に変身することができた。そこでは人間と動物の間に本質的な違いはなかったし、むしろ、動物たちこそが奥深い「権力」を握っており、それに触れようとした人間は、「自然の力」の秘密につながっているとおもっていた。ところが、その「自然の力」をわがものにしようとする人間がでてきて、国家をつくりだした途端、人間と自然との間の対称性のバランスが崩れてしまった。そのとき、神話のかわりに「文化」「が始まり、「歴史」が動き始める。その「文化」は自分たち人間だけが特別な存在であるという傲慢さを抱き、あたりまえのように動物たちを捕獲したり殺戮をしはじめ、家畜にしたりする権利を疑わないようになった。そのような国家の誕生の経緯を中沢は次のように説明している。
≪それまで、対称性社会では「文化」と「自然」は異質な原理として、できるかぎり分離されていました。ところが、「自然」のものである権力＝力能を社会の内部に持ち込んだ王のいる世界では、このような分離は不可能となります。王自身が「文化」と「自然」のハイブリッドなのですし、クニの権力も同じハイブリッドを原理として構成されるからです。このハイブリッドな構成体にあたえられた名前こそ、「文明」にほかなりません。野蛮はここから発生します。王のような存在を許した瞬間から、人間の力の秘密を「自然」から奪い取った気になって、それまで大切に保ってきた敬虔な心持ちを失い、動物も植物も人間にとって役に立つだけの対象であるように見えてくるでしょう。≫『熊から王へ』 中沢新一著
中沢が投射する鮮明な成りたちの国家像は、いわば、「自然」史的な根源をまとっている。彼が描いたのは、環太平洋の北側を日本の東北から南米大陸の南端までドーナツ状に点在するモンゴロイドの社会が、国家をつくるだけの下地をもっていたのにもかかわらず、その臨界点において、あえて国家をつくらなかった理由から反証されたものだ。それらの地域は、いまから一万数千年前に、バイカル湖周辺のモンゴロイドが神話を携え、ベーリング海峡をわたってアメリカ大陸を縦断して広範囲にインディアン文化をもたらしたと言われており、それはサハリンや北海道の縄文文化とひとつながりになったものだ。
そのころの後期旧石器時代の現生人類（ホモ・サピエンス）の祖先は、自分たちの脳の中に起こった革命的変化に気づいた。それは特化された機能を自由に行き来する流動的知性を発生させるニューロンの組織化が起こったことだ。それによって、人間は異なるもの同士を暗喩や隠喩で結びつける象徴能力をえて、言語を使いこなすことができるようになる。それを中沢は「野生の思考」と呼んだが、同時に、人間はその流動的知性を自覚するとともに、「超越的存在」の認識ももつようになった。最初、モンゴロイドの象徴的動物である熊をめぐる思考では、熊は人間の産まれ変わりであり、熊も人間と暮らしたり結婚したりすることができるように、熊の社会と人間の社会を重ね見ることができた。その一方、「超越的思考」においては、熊は自然の脅威そのものとして、人間を飲み込み、食べつくす恐ろしい存在でもあり、人間が頭に描く超越性の極点を象徴する生き物であった。人間は狩りのときや部族間の戦争のときには、熊の威儀を借りて、超自然界と人間界を自由に行き来できるシャーマンや戦士になった。この「野生の思考」と「超越性の思考」は、時間も場所も併存する二元性のまま、彼らの社会の絶妙なバランスを保っていたのであり、そのため、人間の世界の中に自然界の熊につうじた「超人」が出没するのをくいとめていた。インディアンにとって、夏と冬の世界は、昼の世界と夜の世界として明確に分離して管理されていた。
ところが、そのバランスが崩れ、自然界と人間界の絆が切れてしまうような事態が、新石器時代のどこかの時点で発生した。つまり、自然の内奥からもらった超越性を使って、首長（部族長）にとって替った「王」が誕生したのである。中沢はそんな言い方をしていないが、わたしには、そのとき、人間が自然に対して「稀少性」をおぼえる事態が発生し、常態的な非常事態が開始されたことが転機になったとおもえる。
ともかく、それまでの人間と自然の対称性の構造がくずれ、「文化」と「自然」が摩擦を起こし始めたのである。つまり、「歴史」社会の開始が告げられたのである。そのとき以来、首長は共同体のもめごとを交渉したり調整したりする仲裁の役回りから、「自然」の超越性に顔を向けながら、内に向かっては凶暴な姿の権力として現われ、自らを「王」と呼びならわすことになったのである。夜の世界から現われ、日常社会を超越した自然権力のもと、ひとびとは個体性を失い、国家に所属する一集団員としてのみ存在を許される生き方を強いられることになった。こうした「王」は、次第に共同体の周縁部にいたシャーマンを取り込み、戦士たちの軍事機能を組み換え政治的ピラミッドを築きはじめる。
中沢は、流動的知性が、穏やかな社会を表わす「野生の思考」を逆に超えてしまうことがあることを国家発生の原因に見ている。そして、そのことに気づくなら、モンゴロイドの知恵に学び、人間は自然との間に保たれている対称性のバランスを守るため、自然権力をあくまでも自然の精霊たちの中に秘めておくべきだったと述べている。
対称性社会では権力は存在しない。人間が生きるため、否応なく動物たちを殺戮するときにも、それら動物たちの尊厳を傷つけないように配慮し、必要以上の捕獲を控えてきた。また、社会の中にも上下関係の権力は存しようもなく、理性ある首長のリーダーシップによって秩序と安定が保たれてきた。そのはずだったのだが、人間が現生人類になるための能力そのものの威力が自然社会を脅かすとともに、人間社会さえ脅かすことになってしまったのである。このとき、「野生の思考」が今一度、国家に抗うように産まれてくる必然性があった。つまり、組織された「野生の思考」と呼ぶべき知恵の役割が、仏教などの出現を促したとしている。
中沢新一が描いた歴史の接合面の対立図式の読み込みは、国家の発生が共同体間の紛争や階級間の争いではなく、自然観の内在的な契機によりもたらされたことを言い含めており、わたしたちにはとても分かりやすく魅惑的である。これは国家が氏族共同体や部族共同体員相互の対立の仲裁や解消のために生まれたという通説とはルートの異なった展開を秘めているからだ。国家が共同体と共同体の隙間から発生することを指摘したのは柄谷行人である。
≪征服が国家をもたらさないとしたら、国家は「内から」来るのでなければならないはずである。が、すでに述べたように、内部からは主権者は出てこない。共同体の内部でいかに氏族間の対立が生じても、それが公的な権力の自立をもたらすことはない。すると、国家は内部で生じるというテーゼと、国家は共同体の内部では生じないというアンチテーゼが成り立つ。しかし、このアンチノミーは、国家の起源として、支配共同体と被支配共同体の間に一種の「交換」を見出すことによって解消される。それは、征服した側が被支配者の服従に対して保護を与え、貢納に対して再分配するという「交換」のかたちをとることである。そのとき、征服という事実そのものが当事者たちによって「否認」されるようになる。≫『世界史の構造』 柄谷行人著
このような共同体間の継ぎ目のなめらかさに拘泥しているかぎり、柄谷の想定している被支配共同体は、よほどお人好しのような気がしないでもないが、かといって、支配共同体も基本的には「交換」を望むほどのお人好しなのだから、さしあたって、どちらがどうということはない。ここでは、そういう共同体の隙間から、国家という更に上位の共同体が、相互の「相補性」の中から誕生するという事実だけを押さえておけば十分だとおもう。柄谷のこのような国家の成り立ちを「共同体の外」からやってくる立場とみなせば、一見、他の共同体との関係を捨象しているかにみえる中沢のような「自然」史的な根源とは全く違うような印象を受ける。中沢の場合、他の共同体との関係ではなく、ただ、自然との面接の振りむきざまによって、「自然の主」である熊に擬されることが、自ら「王」と名乗り、そのまま国家の権力支配につながっているようにみえるからだ。
両者の違いはどこにあるのだろうか。しかしながら、片や自然との面接、もう一方では、他の共同体との面接のあり方は、同時に、共同体の外に目が向いていることから、共同体の外から権力や支配がもたらされる点において、同一の基盤に立っているとおもえる。そこで、すぐおもいつくことは、支配共同体と被支配共同体相互の統一の中で、熊信仰が媒介になっているという答えである。これならお互い熊を信仰している共同体同士であるから、共同体が統合され、より広い共同体を可能にするとおもえるからだ。だが、よく考えると、熊信仰を同じくする共同体が連合したり、支配・被支配の関係になる理由などどこにもないことにおもいあたる。
柄谷も宗教が共同体同士の統合に一役買ったかのようなことを述べているのだが、おそらく、国家の成立にはもう一つ別の要因が加味することが必要で、それらが構造化されない限り、強固な支配はできそうもない。それに宗教が媒介になるというのは、別の共同体の宗教が媒介になることをおいてないことである。柄谷は、あたかも、ふたつの共同体がその「相補性」において、外側の共同性と内側の共同性を国家にまで高めるイメージを喚起するのだが、それは共同体があたかも積み石のように重ねられているにすぎず、人間の慣習や伝説あるいは心意現象を包摂しているとはとてもいえない。それらを包摂するとすれば、そこではまったく別の宗教が突然介在してきたことを想起せざるをえない。
まず、原型をさぐるため、熊を祭るふたつの共同体Ａ、Ｂを想定する。そこでは、統合したり、まして、支配し支配されたりしたりする関係は生じようもない。ところが、それとは別に、鮭を祭る共同体Ｃがあるとする。このとき、仮に、Ａ共同体がＢ共同体に対して利害関係をもとうとする場合どのようにするだろうか。国家というのは複数の共同体の関係の網目からしか生じないとするなら、ＡはきっとＢに対してＣを媒介させるにちがいないとおもえる。Ａの利害を相似形のようにあるＢに及ぼすためには、別のＣの信仰を利用することがもっとも合理的であるからだ。支配・被支配の原型は、すべてＡ、Ｂ、Ｃの共同体間関係及びその信仰形態の三層構造から成立するのは確かだ。
人間本来の内奥性に戻るために、言説に依存することはできないと言ったバタイユは、ただ「詩としての言説」のみが、「散文になった言説」が捉えることができない価値を産みだすと考えた。そこでバタイユは死の矛盾をはらみながらも、分節化された定義の限界まで進んでいく。「供犠」の実行の中で、はじめ、個人は不安にさいなまれるが、個人はささげられる犠牲物と同一化し、生贄が事物である世界から切り離される場面に立ち会うことで、自分の労働や死ぬことへの不安から解放されるようになる。不安や恐れは人が個体であり事物である程度によって生まれてくるので、事物たちの世界に取り込まれている限りにおいて死を恐れるようになる。死は事物たちの秩序を乱すから、人は恐怖を抱くのである。恐怖を抱かせないのであれば供犠の意味がない。そして、内奥の内在性は、この個体の破壊＝死によって唯一顔をのぞかせる。事物はこうして脅かされる恐怖をつうじて戦慄する個体のうちで、神聖な聖なる光景を帯びてくる。
このような生と死の弁証法は、供犠物という媒介をはさんで、共同性の秩序と安定を保証するものであり、ここに死の観念的現実の三層構造が生まれたのは疑いなかった。初めに死の不安というべきものがあった。これは自然への畏怖と同じ意味をもち、人間は自然の奥深さに帰依する。権力が生まれるのは、この畏怖が解決不能であることの意識が生じたときだ。さらに言えば、畏怖の飛び越え方において、「供犠」の疑似的な死体験をとおして、死から生に生還するあり方において、心の中の死を管理（先取り）し、引き取り格納してしまうことで、共同体や労働の原理をわが物にすると言い換えてもいい。
中沢はこういう生還の仕方をシャーマンの秘儀の中に認めている。シャーマンになるためには何日も飲まず食わずの苦しい修行に耐え、熊の冬眠のように生きているのか死んでいるのか分からない状態の精神の中で、次第に意識の変化があらわれてきて、夢の中で熊自身になることができるようになってはじめて、現実世界に戻るとされている。そうして、彼らは「自然の源泉」に直接触れることができる存在になるのだが、このような高能力は、中沢にはもろ刃の剣に見えた。なぜなら、その能力を秘めたシャーマンが社会の内部に入り込んできたり、現実の権力を握るようなことになると、あたかもその手に握る自然の奥の凶暴な力を昼の世界に解き放つことになってしまうからだ。そのため、対称性社会の中では、シャーマンはいつも共同体の周縁部にいて、権力の中心に近づくことを阻まれていた。いわば、シャーマンは共同体や労働にとって、自然からの恵みを受け取る上において不可欠な存在であるが、それが人間と自然の中で「供犠」のように媒介されるとき、共同体や労働は解体する危機にみまわれたといえる。これは現実生活上の危機を意味するだけでなく、原始心性としても危機であったにちがいない。
その自然から降りてくる垂直の危機に応じて、共同体においても水平の危機を孕んでいた。つまり、人間と自然との神話的関係の危機は、共同体間の組織論に形を変えてあらわれざるをえなかったのだ。人間と自然界が媒介で結ばれるときを同じくして、共同体と共同体は、直接的にではなく媒介をとおして相対することになった。Ａ共同体の信仰の矛盾は、同じ熊信仰をもっているＢ共同体では解消しない。その場合、Ａ共同体は、Ｃ共同体の鮭信仰をとおしてＢ共同体と相対する。このとき、関係はＡ―ＣとＣ―Ｂの系列に二重化する。ＣはＡより下位にあるが、Ｂより上位にあるトライアングルは、支配や権力の心臓を指し示しており、しかも、無限に自己増殖することができる軟体のウィルスにちがいない。その過程でそれぞれの信仰は混在しながら、相互浸透し、もとの形をまるで違ったものにしていく。
８ 神話の倒立
中沢が述べているような国家の発生にまつわる神話について、折口信夫はわが琉球諸島に残る「まれびと」の「かみごと」（神語）の中に見つけていた。折口は、「まれびと」信仰が、わが国の神話発生の端緒とみなしたのだが、その神話は古代の生活の極めて遠い記憶の中から育まれたと考えられている。「かみごと」は、神の独り言として、一人称の叙事詩からつくられており、こうした呪言が三人称風になるにつれ叙事詩化し物語にまでたどりつく。そうして、種族生活に関わりの深いものを語り伝えていくうちに、暗誦と曲節の熟練のひとつの様式として巫覡が分化し、世襲制の語部（かきべ）という職業が生まれた。郡ほどの大きさの共同体、邑と言ってもよい位の国々が、国造、縣主の祖先に保たれていたのである。彼らは、現人神の神主としてそれぞれかきべの民をもっており、もともと権力者の近親であった巫女は神の嫁として、「まれびと」は嫁（巫女）の神がかりをつうじて呪言を発する。古い呪言は、神託のまま伝習せられた神の断案、約束、強要を意味した。
≪常世のまれびとと精霊（代表者として多くは山の神）との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一般化して、詔旨（宣命）を発達させた。庶民の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力を及すものと信じられて居た。…中略…詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令の古い形は、かうした方法で宣り施された物なることが知れる。≫『国文学の発生（第四稿）』折口信夫著
この神の呪言は「天つ祝詞」と称せられ、その威力は永久に亡びぬものとして、秘密のうちに大切に伝誦せられていた。「天つ祝詞」には、自らの素性からはじまり国産みと山川草木、日月闇風を生み、食物をつくりだした由縁を語り、人間の死の起源や鎮魂法や火の神の来歴からそれを防ぐ方便までも説いている。また、「まれびと」の相手である精霊（山の神）の弱点を示し、土地を鎮静しようとするものであった。それらは時と場所とを変え、家屋の新築のときであったり、一年の農作業の祝福であったり、時節の移り変わりを教えにくるのである。
こうして、呪言とは、土地の精霊（山の神）との直談判であり、常世の「まれびと」の威力がその土地の先住者たる土地、物の精霊を圧伏した来歴を語り、昔の神と精霊の約束事を精霊の記憶にのぼらせようとした。その祭りにおいて、それぞれ常世神と精霊に扮した神人が演舞し、結局、精霊は村落生活を脅かさないことを誓うことになる。ここには神がシテ、「才の男」がワキ（中沢はトリックスターと呼んでいる）の対立関係が見られ、「才の男」は土地の精霊に擬されていた。「才の男」は神の宣託を人間の言葉に翻訳し、それを人の動作にコピーする役割をこなしおどけを行うのだ。口答えをするこの「才の男」は、もともとは人形（偶人）であったが、神楽の間に偶人が動いてより納得させようとしたものである。偶人は精霊の代表者であり、身の近くに置いて穢禍を吸い取る偶像とされていたもので、この偶人のしぐさを真似た道化役はもどきと呼ばれた。
言葉の世界に海の郷愁やロマンを持ち込んだ折口は、言葉が信仰なくしてどうして伝承され記憶できるのかということを、近代的な切り口をもって見本を示した。折口の古代史には、遥か彼方海上の島々から海岸沿いにやってきたひとびとの微妙な喜怒哀楽の歴史が潜められていた。彼が琉球沖縄の島々は、日本人の移動の道すぢにおいて落ちこぼれとみなすとき、内地にあつた古代生活が、現に琉球諸島に保存せられているとし、この南島にある民間伝承の影が祖先の生活の上にも翳していたとかんがえたのは自然ななりゆきだった。わたしたちの古代研究が、単に、好事家の知識に終わらせないためには、この歴史の中のひとびとの感情の襞にどれだけ迫れるかという問いを含んでいなければならないことを折口はよくわきまえていた。それは「まれびと」がそこからやってくると考えたトコヨノクニの陰影に宿されていた。
≪思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出来ぬ程、海を隔てた遥かな国で、村の祖先以来の魂の、皆行き集つてゐる處として居たのであろう。そこへは海路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の国として、常闇の荒い国と考へもしたらう。風に関係のあるすさのをの命の居る夜見の国でもある。≫『国文学の発生（第三稿）』折口信夫著
常世とは「闇の国」であり、地下あるいは海底の「死の国」、「夜見の国」とも考えられていた。そのため、そこから来臨する「まれびと」を恐ろしい鬼と考えることもできた。だから、村落生活のために土地や生産、建物や家長の生命を祝福し、幸福を運んでくれるのだが、裏腹に、恐ろしいから早く立ち去ってもらいたいと考えられた神でもあった。この神は、のちのち仏教など外来思想を交えてさまざまのバリエーションが生じたが、上辺は変化しつつも、それと違った意味にその概念を育てるのが、わが国の外来文化に対する接触の仕方であり、常世信仰の受容の形式自体は変わっていない。折口のあまりに文学的な語り口の中に含まれている信仰の意味は、にらいかない（儀来河内）が「死の島」であったことを根拠にしており、さらには、この琉球神道が内地の神道の一つの系譜、あるいは、古神道の姿をよく保存しているとみなしたことだった。そこから柳田国男が竜宮伝説を取り上げたときに指摘したニルヤにつながる問題意識を汲み取った。折口の眼には、琉球諸島のひとびとの生活は、萬葉びとの生活をそのまま髣髴させるものと映った。そればかりか、古代生活の研究の先に、暗示以上のもっと露骨な、むき出しの自然を抱えていた。
中沢にとっても、自然は人間にとって恩恵を受けるだけのものではなく、「死の国」への接近遭遇や「死の国」へ自由に往来できる場所としての奥深さを備えていた。その内奥に迫ることのできるシャーマンはマイナス価値として存在したものの、そのマイナス価値を経由することなくしては、プラスの価値は生まれなかった。「自然の力」を蓄えたシャーマンは不均衡な「悪」にちがいないが、同時に、均衡を産み出す「善」でもあったからだ。中沢にとって問題は、そのシャーマンを善悪の片面だけでなく、社会の内面に取り込み、その死の超越性によって振り向きざまに権力の顔を見せたことで、非対称性が生じたことだ。だが、対称性から非対称性への振り向きざまの階梯は中沢が考えているほど、簡単ではなかった。
吉本隆明は、『柳田国男論』の中で、季節の巡ることで山の神が稲の生育期間だけ田の神に降りてきて、また戻っていく循環をもって、柳田が村落の時間軸を垂直に拡げた証とみなしている。だが、わたしは山の神、田の神の循環（相互浸透）の図式は、前もってあったかのように固定してとらえると、少なくとも、「起源」としての信仰を考えようとする場合にはすこぶる危ういとおもえる。なぜなら、狭隘な平地が山々に挟まれ、山の頂からすぐに海が眺望できるようなわが列島のような地形においては、まず、山から始まることをわきまえなければならないからだ。舟からおりついた海岸べりにすぐ山が迫っているとするなら、先住民がいるいないにかかわらず、自らが「山の人」になり焼畑によって山を切り開かねばならない。そこでは「稲の人」の祖先は、まず「海の人」であり、陸地におりるとすぐさま「山の人」として現われねばならなかった。海岸の平野部は開けても一歩奥の世界に入るとまったくの未開で野蛮人や獰猛な動物たちがいるものとした期間が長い間続いたはずだ。つまり、見失ってはいけないのは、定着と耕作を中心にした平野部の村落がはじめから用意されていたわけではないことだ。したがって、地霊（田の神）との交合は時間的継起から言えば、そのずっと後でなければならない。海に接する「山の人」と田に接する「山の人」とはその次元が異なり、山を問題にする限り、まず、海と接する「山の人」と接合しなければならないからだ。
もうひとつは、山の神、田の神の循環の図式だけを強調すると、列島を北へ登って行く「稲の人」の時間軸と交叉しないまま、不安定のまま残される点である。北へ移動するために必要な「もうひとつの時間」は特異ではあっても、時間を包括する視点として初期の柳田にもあったことは見逃せないとおもう。こういう「もうひとつの時間」の意味を加味しなければ、とうてい山の神、田の神の問題には接近しえない。これは折口の問題意識とも重なっており、彼にとって二つの時間軸の交叉の場所が鮮明であった。わたしには柳田や折口が撮った「常民」のモノクロ写真は、こういう雑獏とした彼方の問いかけを含んでいるとおもえる。「山の人」という観念は、天皇制（日本人）以前の縄文期にまで遡れるものとして、山岳信仰や、樹木信仰、巨石信仰とともに長い時間の射程をもっていたと考えられなければならない。これは時間の問題として、わたしたちが柳田や折口を読む上で前提にしなければならないとおもえる
そういう長い時間の射程をふまえた上で、山の神と田の神が直接、循環しないとすれば、どうすれば山の上と下を連環させ時間化（構造化）できるか。また、山の上と下との関係が列島の北上とどう連環するか。そこまで問いつめたときにはじめて、わたしたちは真の意味で「起源」の壁にぶつかるとおもえる。折口は、常世神としての神がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られるとした。
≪初めの姿は、海祇即、常世人（わたつみの前型）に扮するのは、村の若者の聖職なのでした。其が山地に入つて、山の神を、常世人の代りにする様になつて来る。此までは、常世の海祇の咒法・咒詞のうけての代表者は、山の神なので、其山の神が、多くの地物の精霊に海祇の咒詞を伝える役をしました。其が一転して、海祇に代る様になつたのであります。さうすると、山の神の咒詞は、宣下式ではなく、又奏上式でもありません。つまり仲介者として、仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現をとりました。此を鎭護詞と言ひます。宣下式はのりと、奏上式なのにはよごとと言ふ名がありました。ちようど其間に立つて、飽くまでも、山の神の資格を以て、精霊をあひてとしてのもの言ひなのです。≫『翁の発生』折口信夫著
折口は、シテとして山の神が祀られるようになったのは、海岸に沿って住居を構えていた民がより広い山地の耕作地を求めて移住したからであるという言い方をしている。次第に内陸部に移り住み海と疎遠になったため原始人は、仕方なく海の神としての「まれびと」の役回りを、山の神に求めざるをえなくなったとしているのだが、海の神から山の神への切り替えは厳密に検証されなくてはならないとおもえる。ここで注目すべきは、ひとつは高天原の神とは別の系列として「山の神」信仰があったこと、もうひとつは、山の神信仰が「まれびと」と地霊（田の神）とのはざまで、あたかも、二重性の関係を持ってきたことである。
いわば、地霊（田の神）は「まれびと」から二重に疎外された位置になる。この二重性の疎外によってはじめて、列島を縦断する「時間」が山の神を獲得したことになる。二重性は、もともと「まれびと」がシテ、「才の男」がワキの対立関係として「まれびと」そのものの二重性に胚胎していた。つまり、「まれびと」の二重性は、今度は「まれびと」と山の神の二重性をもたらして、さらに山の神と地霊（田の神）の二重性を産み出した。いいかえれば、「まれびと」を見ていた自然人（山の神）は一転して振り向きざまに地霊（田の神）の方を向いて、あたかも「仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現」のように「まれびと」の言葉を操り始めたのである。これは非連続の連続にみえるひとつの転機を動機づけている。その転機を折口は「海の人」が森林を開き耕作地をもつようになったので、「まれびと」と疎遠になり、その代替として山の神を崇めるようになったという事実のなかに、ある時間の屈折を含ませたかったのはまちがいない。
おそらく、人類がはじめて獲得した時間観念は、原初の意識として霊魂（死）の物語である。人間が生の一回性に直面したとき、その受け身の意識は、自然は「まれびと」そのものとして崇めはじめる。つまり、身体は精神を分離させた。そして、今度は、人間は身体を切り刻みはじめ、共同体の内部と外部を分離させた。それは労働の労苦と成果によってもたらされたもので、労働が自然を自分の身体の一部として対象化したときから始まった。その身体から、やがて、霊魂の跡が残らなくなると、逆に精神は身体を対象にして疎外するようになる。このような精神と身体の関係の転倒劇は、人間と自然との関係で言えば、人間が自然から見た人間の視覚を獲得して、定着と耕作を中心にした平野部の村落の内部に自然を取り込んだことを意味している。これが「まれびと」から地霊（田の神）へと変わっていく神の凝縮されたプロセスとみなされる。共同体内部への自然の取り込みは、中沢には、国家や権力の発生のメカニズムと並べて、「富」の源泉の取り込みと表現されている。
≪じっさい同じ流動体といっても、贈与的な社会の人々がとらえていた霊と、貨幣の土台となる金属との間には、根本的な違いがあります。純粋贈与する力の別名である霊は、社会や知の「外」にあるものなので、その霊力のもたらした贈り物はモノとして社会の中に持ち込むことはできても、富や豊穣さの源泉はけっして社会や知の内部に繰り込まれてしまうことがありません。それは、いつまでたっても「外」にとどまっています。ところが、貨幣の形態に変態をとげた富は、富を生む源泉をそっくりそのまま社会の内部に持ち込んでしまいます。それまで自然や神のものとして、富の源泉は社会の「外」にあったものなのに、貨幣はそれを社会の内部に運び込んで、いっさいを「人間化」してしまう能力を持つのです。≫『愛と経済のロゴス』 中沢新一著
ここで「富」の源泉が共同体の内部に持ち込まれた場合、「人間化」されると言われているのだが、詳しくは、人間と貨幣との関係が、消費と生産に分断されるのである。貨幣は消費されるためだけのものではなく生産されるものにも変質し、二系列の時間を吸収するクッション（媒介）の役割を持つようになる。金属の属性と貨幣の違いや、「富」が蓄蔵できるかどうかによる違いではなく、貨幣は自然人が生きることそのものの差異を生み出す象徴と考えなければならないのである。仮にＡを消費、Ｂを生産、そしてＣを貨幣と考えると、関係はＡ―ＣとＣ―Ｂの系列に二重化したトライアングルを形成する。このトライアングルなくして貨幣は自己増殖することができない。つまり、貨幣は自己増殖することにおいて、自然の「富」と区別されなくてはならない。
この場合、貨幣が媒介になって消費と生産に関わって二重性をもつことが、そのまま消費や生産の二重性をもたらすことがポイントである。第一に、中沢の言う「純粋贈与」とは、自然人たちが自然に働きかける（贈与する）とき、反対給付を受けることを前提にしない関係と考えた場合において、労働を捨象して「消費のための消費」と名づけることができる。しかし、次には、贈与をしたにもかかわらず、獲物が獲れないとか、木の実の収穫がなかったとか、人間の労力に見合う成果がだせなかったことや、「純粋贈与」を受けた獲物たちを蓄蔵することが多くなるにつれて、贈与は「純粋贈与」との落差に気づき、労働のための消費を意識せざるをえなくなる。つまり、原始林に囲まれた自然人が無垢の自然とともに歩んできた時間から、自分たちの時間を分岐（自覚）させるようになる。そのために、働くための時間を確保するようになると、たちまち消費と生産はその立場を逆転し、次第に「消費のための労働」の性格を帯びる。この「労働のための消費」から「消費のための労働」への反転は、同じ労働が消費に対して向きを逆にすることで、人間の「富」に対する位置づけが決定的に変化したことを意味しており、自然を主体にした世界は人間中心の世界に転倒する。そこから喰うために働くことが常態化するとともに、もはや「純粋贈与」は労働の過去形になってしまう。実は、マルクスの人間と自然との関係の価値論において、人間をｘの線分、自然をｙの線分と見立て、xの与えた価値△xは同時に、価値△yをxに与えると考えたリニアーな関係は、この段階の自然の「富」の源泉の「人間化」を踏まえていることが分かる。
９ 遡行と移動
中沢新一のさまざまな語り口のなかから繰りだされる原始林のような世界をなんと呼ぶべきだろうか。彼の文体を支える第一の像は、ユウラシア大陸西端から東シベリアまで及ぶばかりか、それをはるかに超えて、北米インディアンのポトラッチ、南米の神話の中に棲息する半獣半人の神話、オーストラリアのアボリジニの慣習、チベット密教僧の頭の中で組み立てられた渦巻状の「気」や鳥の言葉が理解できるブッダや、さらに、キリスト教神秘主義の聖人、イスラム神秘主義者たちがいっしょになってわたしたちに押し寄せてくる。また、それは太平洋をとりまくイメージとして、わが国の縄文人のたたずまいを残しているアイヌの「熊送り」の儀式、南島の「まれびと」の由来、原神道の「自然（じねん）宗教、そして、サンタクロースのように商業主義にまで紛れ込んだ贈与など、わたしたちの現代の只中に、間欠泉のようにときおりみせる翳のような「野生の思考」の面影である。
これらを一言であらわせば、世界中をまわって拾い集めた人類の「胎児回帰」のイメージに喩えられるとおもえる。ここには、たとえ、宗教儀式の密室性にまつわるおどろおどろさがあるとしても、暴力性や残虐さはみじんもない。むしろ、中沢のいう「虹の立つ」静かな熱気と高貴さのようなものを漂わせている。「異教の神々」と人間のあいだにはじまった死者と生者との「交感」は、森の精や動物たちや植物たちが人間と同じ高さの目線で息遣いをしている時間として、欲望のタガを外したような拡がりをみせつける。「数」と「力」の信仰に慣らされたわたしたちなら、これを異形の世界とみなすかもしれないが、反対に中沢は「対称性知性」と名づける。だが、わたしの嗜好でいえば、どうしても歴史概念まで介在させたくなって、国家や権力をもたない社会や文字のない社会のイメージは、「プレモダン」でも「プレ歴史」でもなく、「外―歴史」のイメージに結像する。
≪ホモサピエンスの「心」のおおもとは流動的知性だ。それは高次元で働く対称性の論理によって、世界の真実の姿をとらえている。ところが、人々はその流動的知性の中に勝手に非対称性論理を作動させて、世界を分離と不均質の相貌のもとに見ようとする。言語の構造が、それをバックアップする。神経症的な文明の基礎が、こうしてつくられてきた。しかし、対称性の論理で作動する無意識でもあるこの流動的知性の働きを、さまざまな実践をとおして回復していく試みの果てには、いつか「かくも自由に運動するもの＝心」を人間が取り戻していくことも、不可能ではないでしょう。≫『対称性人類学』 中沢新一著
中沢がフロイトの精神分析学を援用しながら述べているのは、もともと人間は、人間と動物を区別したり、自己と他者を区別しないで、両者はいつでも置き換え可能（対称）なものという同質的な認識をもっていたことである。これが流動的知性、あるいは対称的知性と呼ばれるものだ。ところが、人間の「心」の中心にある流動的知性が、現実に面した自我との対立を交えるようになると、この流動的知性は抑圧され、意識下に沈められるようになる。それからは、無意識の中からときおり湧きたつ「心」のみが、人間の「心」の本性になった。そこで、中沢は、この無意識を開放し発展させることが、現実的自我の作った一神教的強迫を払いのけ、言語、国家、貨幣と一体になった非対称性社会の中に流動的知性をもちこむものと考えた。
意識は非対称性の知性を働かせて、三次元で成り立っている空間に視界を限定してしまう。それに対して、無意識の流動的知性は細やかな高次元の認識を構成する。本来、流動的な無意識的知性が意識的知性を包み込む関係にあるべきで、むしろ、無意識こそが「心」の本質を形づくる原初的な大陸であり、現実世界で作動している非対称的知性は、その「心」の中に忍び込む異物にほかならないと言うのだ。そして、人間の「心」とは、この両者のバイオロジックで成り立っているのだから、対称性人類学は、現代の思想的課題と流動的知性とを結び合わせる試みとされている。
そこでは、夢や分裂症の世界として不完全な形で現われる無意識の欲望と対照されて、風のそよぎや無音の世界、物質の無機質な並びが、脱領域性、高次元性として表現され、完成された無意識をめざす仏教の可能性が語られる。それは、アリストテレス型の論理や現在、過去、未来を時間系列で秩序づけたり、私と他者を分離したり、部分と全体を切り離してしまう言語的知性などの論理の限界を強烈に印象づけるものだ。しかしながら、わたしたちが一番聞きたいのは、この対称的知性という「外―歴史」のイメージをどうやって「歴史の内部」に組み込んでいくかのプロセスである。彼の頼みの綱は、このような「野生の思考」が、眠ってはいても、いまだわたしたちの「心」の中で作動しつづけていることだ。彼は自分の対称性人類学は、後ろ向きの過去にノスタルジーをおぼえるものではなく、対称性の論理で動く創造的な無意識の働きを、前に発展させ、芸術、哲学、科学、経済生活などから顕在化し、現在の科学と資本主義のシステムの中で猛威をふるっている「形而上学化」の抑圧に風穴をあける試みが宣言されている。
中沢がレヴィ＝ストロースから学んだ「自然」と「文化」の対立図式は、「文化」の側に「歴史」の抑圧した姿を刻印した。およそ、「歴史」というものは、樹木のようなもので、いつしか幹を伸ばし、枝を張っていくうちに、幹や枝葉を育んできた土壌を忘れ、対称性無意識が自分を支えていることに気づかなくなる。それ以上に、「歴史」前の神話的思考を意識の下に抑え込んでしまう。だからこそ、「歴史」は神話を抑圧して分だけ、人間の「心」を抑圧する。
中沢によると、「歴史的」抑圧は、二度繰り返されている。ひとつは「原初的抑圧」といわれるものだ。神話的思考が行われていた時代、対称的論理の｢心｣と非対照的｢心｣はバイロジックに接合されて、自由にどちらの側にも行き来することができた。自然人たちは自由に精霊たちの息吹に触れることができた。ところが、「多神教」の宗教的思考が生まれると、対称的論理の「心」は「原初的抑圧」を受けることになり、対称的論理は無意識下に投げ込まれ隠される。しかし、まだ、この段階では、対称的論理と現実世界との間には空洞があり、「原初的抑圧」の隙間から、二つの「心」の作動は横断することができた。二つの構造は媒介を要せずに、神々の往来や精霊の自由な動きが認められていたのである。ところが、次の段階で、一神教の超越神が誕生するや、事態は一変してしまう。モーゼの神が初めに行ったことは、対称的無意識を言葉の論理によって盲目にすることであり、「原初的抑圧」を更に再抑圧する機構を生じさせることだった。超越神はひとびとに肉体から離れた言葉を与え、秩序と律法を与えた。そのため、対称性論理の無意識は、ただのカオスとして封印されてしまうことになる。こうして、「原初的抑圧」は両義的な意味を失い、さらに転倒した抑圧を受けた上、言葉としての言葉は根こそぎひとびとの「心」を奪いさってしまう。こうなると地球上の人類全体の思考は転換し、完全に土壌を忘れて幹や枝だけの「形而上学化」が完成する。このような宗教的展開は、その「同型」のプロセスをもって、国家や資本主義システムのメカニズムや科学的思考を養うようになる。これらが、中沢が描いた人類の「歴史化」のあらすじである。
ともすれば、ひとが作った「歴史」の全否定を匂わせるかのような中沢の目線は、わたしたちに「自然」というものをめぐって、たくさんのイメージを喚起する。とりわけ、重要におもわれるのは、「流動的知性」という人間的「自然」が、脳の進化によって決定づけられていることだ。彼によると、数万年前、わたしたちの直接の先祖であるホモ・サピエンスの大脳におこったニューロンの接合様式の組み換えによって、それぞれの領域で特化して発達していた認知領域を横断的につないでいく通路が形成された。その認知能力により生まれた「流動的知性」は、時空の三次元的な構成ではなく、高次元性の全体認識が展開されるきっかけになったと考えられている。この「流動的知性」は現実に対応する「現世的意識」として発達してきた非対称性の知性とは対立関係にある。中沢の「自然」から「文化」への道筋の起点は、まさに、この「現世的意識」と「流動的知性」のせめぎあいの現場に据えられている。
もっと、微細にみるなら、「流動的知性」から見ての自然概念の「両義性」が、反対側の「現世的意識」に引きつけられるとき、「原初的抑圧」の更なる抑圧を呼び起こすものと考えられていることだ。それから「原初的抑圧」から幾重にも複雑な抑圧が加えられるようになり、形而上学化の運動につき進んでいく。この場合、「抑圧」の保存された原型を遡っていくほどに、わたしたちにすぐさま想起させるのは、同じ自然が親和力をもったり、恐怖をあおる力をもったりする、まるで正反対の顔を人間に押しつけるイメージである。たとえば、天災があったり、人知を越える飢餓があったりする自然の魔性があるなら、シャーマンのような首長は、この自然の強力な力を盗み取って自らのものにし、振り向きざまに恐れおののくひとびとを統率・支配する力の源泉にしたという考え方である。そこには不可避に王と臣民の非対称性が向き合って、それが拡大すると国家の発生になるという考え方につらなる。反対に、もし、自然が柔和な顔をのぞかせ、シャーマンの介入を許さないなら、対称性は保たれる。しかし、こういう自然の「両義性」の捉え方は、よく考えると、人間の内部から生まれた柔軟な「流動的意識」と厳しい「現世的意識」の「両義性」の投影にすぎず、これでは自然と人間の先後関係は堂々巡りになってしまう。つまり、人間がホモ・サピエンスになって以来の「永続的」な本質とそれぞれの時代によって変化する「現世的意識」の角逐の図式に陥ってしまうのだ。だが、わたしには「流動的知性」の対極に据えられるべき「現世的意識」も、「流動的意識」と同様、「自然」であることに変わりないとおもえる。
人間の意識は最初の道具の発明とともに、外部の自然を人間化するに応じてそれを複雑化し、ますます高度な知識や技能を身につけるようになった。しかも、そのスピードは加速度的に上昇するであろうから、その勢いを誰も押しとめることはできない。いわば、技術の高度化する過程そのものが「自然」であり、そうであるなら、人間の本性を無理やり押し曲げないかぎり、人間の自然に根ざすと言われている「流動的知性」とは、本来、対立の生じようはずもないのだ。にもかかわらず、中沢は、両者の「両義性」をことさらきわだたせ、それら相互の葛藤や差異を求めたため、そのバランスを失ったときには、「国家」や「貨幣」が生まれ、人間の尊厳が決定的に崩されると考えた。そこで、「現世的意識」と「流動的知性」のバランスを取り戻し、「自然」と「文化」がほどよく折り合いをつけられる場所を探すことに意を定めたようにおもえる。
しかし、中沢の「流動的知性」は、ほとんど「純粋意識（無意識）」と同じものであるため、その仮定された「純粋意識」は、必ず、「現世意識」と対立を交えなければならないようになっている。なぜなら、永続する時間性に囲まれた「純粋意識」は、人間生の一回性の前には絶対的な矛盾を生じるからだ。しかし、その対立は、形而上学化される起点になるような敵対的な対立ではなく、決して、そのことが非対称性をもたらすことにはならない。このような「対立などない」と言うことと、「絶対的な対立に他ならない」という言い方の間道を抜ける方法はあるのであろうか。絶対的な対立と敵対的な対立ということを次元の異なった世界としてみればよいというのがわたしの答えである。そのためには、「もうひとつの時間概念」が必要になるはずである。「純粋意識」と「現世意識」は「両義性」でつながっているのではなく、その「純粋意識」と「現世意識」の狭間に、階梯のようなものがあり、それを越えると、絶対的な対立は敵対的な対立にすり替わるという認識がどうしても必要におもえる。その場合、わたしは、中沢のように、「二つの身体を持つ王」が、ある閾値を越したときに、対称性から非対称性へ転化されると考えていない。
中沢の言っている「二つの身体を持つ王」とは、折口信夫の「山の神」をモチーフにした比喩である。「山の神」が「まれびと」に接するときは、トリックスターの役割をこなし、村落のひとびとには、「神」として祀られる「両義性」を指している。中沢はその転化を、
「純粋意識」と「現世意識」の狭間で、無時間と時間の領分争いのようにみなしているのだが、折口は「海の人」から「山の人」への転化と考えており、次第に森を開き、奥地の山村ができるまでの時間の推移と「移動」の感覚が込められていた。
「移動」は人間の欲望のタガを外したような「外―歴史」の世界に踏み入れる上で、不可欠な方法論的立脚点である。それはフォークロアが人類学と呼び替えられ、現代のような盛況をもたらすずっと前から柳田国男の関心を引いていた。もちろん、そのことを中沢は知っていたはずだ。柳田は、当時のフォークロアという学問が一隅好事家の博識にすぎなかった時代から、ようやく学術調査隊の派遣がはじまろうとしていたとき、中沢と同じような問題意識を抱いていた。
柳田は、文明の中に残る未開の痕跡を二つの方角から読み解くことを教えている。ひとつは、文明や文化にも、その背後には必ず、彼らから蒙昧と蔑まれているひとびとにいまもって守られている風習の名残が広く行われていたことである。つまり、現在の文明の底辺のほうには、そのものの自覚が未開の世界に向けて鏡のように映っていたことであった。もうひとつは、他地域の未開世界にもそれ独自の背景をもっており、現在の彼らの風習の名残りは、同時に、彼らが歩んできた前代を説明するものであり、同時に彼らの将来も推測させるものと考えたことである。この二つの断面は柳田によって「文化の偶発多元論と一源移動説」の違いととらえられ、未開と文明の中の前文明とはよくよく比較・対照されなければならない問題とされた。
その上で、柳田の世界史的視野からすると、わが国の文明的位置はフォークロア研究には有利な条件とみなされた。なぜなら、わが国はまだ文明開化から間がないので、フォークロアの資料は身近に豊富に埋まっており、西欧諸国のように小さな伝説や慣習を探して、はるばる南海の孤島やジャングルまででかけて、数えきれない雑役に煩わされて、わずかばかりのエキゾチズムを味わう必要がないからである。そのような問題意識を後押しするように、柳田は次のようなことを述べている。
≪北でシャマニスムと称する巫覡管理の霊魂信仰は、あるいは昔物語の中の魔法婆とも関係があって、西でも南でも調べて行くほどその区域が弘くなり、しかも熱帯の諸島のものにも、窮北の地と類似する点は一二でない。そうしてその中間の鎖は切れているのである。…中略…（日本のようにどこそこにもシャーマンがいるようなところでは（著者注））そうして比較によってその歩んできた途はおおよそは知れる。僅かな労力を我々がこの問題のために費すならば、証拠のある幾つかの論断をもって、この南北二者の溝渠に橋を架けることもできるであろう。≫『日本の民俗学』 柳田国男著
これは中沢のシンデレラ神話とシャーマンを結びつける方法に正確に照応している呼びかけであるが、柳田の言うように、間に日本をはさんだとしても、僅かな労力ではとうてい架橋できるとはおもえない。だが、彼が示した切れている「中間の鎖」についての方法的自覚は、単にわが国の利点の意味だけではなく、「移動」の理念としてよくよく考えなければならないとおもえる。いままで、この「中間の鎖」をつなぐための方法は、歴史概念の中では二つしか存在しなかった。ひとつは、歴史の記述者の側からは決してみえない「常民」、「平民」、あるいは文字のない不特定多数のひとびとの思考や呼吸をすべて拾い集めることだった。常民は支配の歴史記述の中には、決して表面に表われることなく、伝記や年代期からこぼれおちる存在だから、いわば歴史の外側に生きてきたといえる。そういう「歴史外」においてのみ、中沢のようにシンデレラ神話とシャーマンが出会う場所を設定することが可能になった。
もうひとつは、中沢の採っている「歴史前」という考え方だ。中沢は、後期旧石器時代から新石器時代への過渡期（中石器時代）のホモ・サピエンスの誕生時に視点を据えて、その後の歴史時代を文字によって後づけられた時代とみなし、その時代への母胎回帰をつうじて、いわゆる書かれた歴史をおしなべて相対化した上で、世界の西と東それら相互を環のようにつなごうとしているかにみえる。彼の一見、ランダムともおもえるチベット、南北米、ポリネシア、南島などへの秘境めぐりは、およそ、文字をもたない「歴史外」の常民と「歴史前」への遡行によって、共通の岩盤の上に立つ同質の世界として根拠づけられたものだ。それらは定地農業や遊牧が行われる前の狩猟民の儀式や神話をつうじて、自然や社会に面して同じ思考の型をもっていたとされた。そういう地盤の上なら、澱のように堆積した文化の層土をすべて掻き分けたら、世界中がひとつにつながっていると想像してもおかしくない。
中沢は、柳田の「中間の鎖」という問題意識を受け、時間を逆向きに無限に引き延ばすことによって遺物の環を包み込み、歴史の外側に確固とした生存権を与えた。だが、彼には、そのような「歴史前」の世界の光景は、人類の歴史が稀少性からはじまって道具をつくり出し、やがて道具に使われるようになった均衡と安定をもとめた後の世界から見れば、あくまでも跛行的であり、不均衡な世界であることには変わりなかった。その結果、「外―歴史」のイメージの世界は、分離されてあくまで世界の外にとどまるから、イメージのままでは「現世意識」の前で失速するか、ピラミッドのミイラのように時間を越え発掘されても、陽に当たればたちまち粉塵のように消え失せ、われわれの歴史への越境を許されないものとみなされる。だからこそ、中沢は、その不均衡世界（対称社会）と均衡世界（非対称社会）のバランスを保つことを目的にしているようにおもえる。だが、わたしは、その「外―歴史」をまるごとイメージとして歴史の内側に越境させるべきだと考えている。柳田も「外―歴史」をまるごと歴史の内側に包みこむことが可能と考えて、民俗学の在処を次のように呟いている。
≪学問は本来至って寂寞なものである。ことにかような人を見る学問に至っては、久しい間の一国の同胞と、自分らばかり対立したような地位になって、国民が「見る人」と「見らるる人」との二つの組に分かれなければならず、自分は彼らの群に混じて、浮かれたり酔ったりすることができなくなる。いわばこれは大昔からもっていた太平無為とのお別れである。もっとも今一段と社会が意識的になれば、ふたたびこの差別もなくなって、同時にまた見られるに値する古代からの伝承も消え去るであろう。≫『郷土研究ということ』 柳田国男著
ここで柳田は「見らるる人」から学問のために追いやられた孤独感を愚痴っているのか、それとも今一段と社会が「意識的」になれば、民俗学という学問分野がなくなってしまうことを危惧しているのだろうか。そうではなく、全く逆に、社会が「意識的」になることのためにこそ、民俗学の意味があると期待を込めているのである。柳田にとって、歴史を探すことは知識を蓄えることではなく、歴史を変えること、あるいは歴史を終わらせることであった。これはまちがいなく、柳田が「歴史化」と呼んだものに相当し、「見る人」と「見らるる人」の「中間の鎖」をつなぐことであり、とりもなおさず、シンデレラ神話とシャーマンが遭遇する場をつくり出すことであった。そのためにとった方法は、中沢には、歴史のスパンを限りなく長くとって、「歴史前」の同じ岩盤の上に立つ地層へとたどりつく「遡行」を促したとおもえる。だが、柳田にとって「見る人」と「見らるる人」は、同時に「移動」するものであり、「遡行」の方法だけではその間を埋められないとおもえた。「見る人」と「見らるる人」は一足飛びに結びあうことにはならないのだ。
柳田は、地域ごとに散らばった口碑伝承を積み木のように積み上げ、ひとつの題材（伝説、葬制、盆礼、心意現象）についてあらゆる痕跡を蒐集する方法を採ったのだが、一口で言えば、「伝説」はあるものではなくて動くものだと考えていた。その動き方は、横からと縦からやってくる。縦からとは「時制」の問題である。まず、根っこに、日本という地形に合ったそれぞれ語り継がれ、保存された説話がある。次に歴史教育がその上に被さる。この歴史教育とは、書物や教育により語り物の主人公を歴史上の偉人の口跡に結びつける傾向である。柳田は、伝説の数は膨大だが、それを配列してみると、そのパターンは限られるとしている。地方の隅々にわたって伝説が付随しているが、その形式は共通点が多く、数百、数千の伝説を分類してみれば、僅かに１５か２０に纏まるという。例えば、長者伝説、糠塚伝説、金の雛、椀貸、八百比丘尼、巨人、隠里などの名称は、それを伝説の「単形」と「複形」の見分けがつきにくく、単独の伝説とおもえるものにも背後に複形があり、さらには、いまひとつ単形の説話には、反対に、前代の物語にはおのずと共通点があったことも考えられる。つまり、単形がそのまま複形である場合もある。
複形というのは、違った物語が、複合してひとつの伝説を形づくるものとすれば、ここで単形がそのまま複形になる場合は、違った物語にもかかわらず、長い時間を経て、まとまりをもって表現された伝説を示している。このような例は、中沢がユーラシア大陸の西と東にシンデレラ神話があることを根拠づけることにつながった。つまり、全く地域空間的に隔たっていても、あたかも同じストーリーをもった神話が所在することは、時間の遡りによって確かめられるからであり、空間を越えて時間の相似形は可能である。そして、時間の相似形ができるとすれば、反対に空間の相似形も可能になる。
ところが、ひとつの神話が伝播されるときには、不可避に時間の誤差もともなわなければならない。つまり、ある地域から別の地域へ神話が運搬されるときには、空間的移動には時間的移動が付着しており、時間を無限に遡って行ったら、同じ地層に固まった粘土のように神話が横たわっているという訳にはいかなくなる。シンデレラ神話の例でいえば、時間的には層土をおなじくしても、伝播の経路によってできた地域その地域のものに別の転移が予想されるのだ。これが、時間的層土と空間的層土の間には、位相の違いがあるとしなければならない根拠である。おそらく、中沢は、この時間的層土と空間的層土を地続きとみなしたとおもえる。中沢は、環太平洋の北側から南米大陸の南端までドーナツ状に点在するモンゴロイドの社会の神話について、モンゴロイドたちが移動した経路と、もともとあった人間の普遍的な思考（流動的知性）の両面から縫合した。だから、時間的な異同と空間的な異同とをそれらは覆い隠して「野生の思考」という名で一括しなければならなかったのだとおもう。なぜ、わたしたちは時間差と空間差にこだわらなければならないのだろうか。そうでなければ、「二つの身体を持つ王」の神話的意味において、「野生」から「王」の神話への推移がみえなくなるからである。言いかえれば、柳田のいう「中間の鎖」をつなぐためには、どうしても避けてとおれない道筋なのだ。
柳田は、全国に分布する伝説には偶然でない一致があることを知り、京都などから女性や聖や金屋等の旅の職人や、轆轤をもって椀類の木地を製作する住所を一定しない特殊の飛び工人である木地師等の口伝えにやってきて土着され語り継がれたことに着目した。この空間的な移動によって、根深い説話はほとんど痕跡を残さないくらいになってしまう。これらの時間的、空間的運搬の経路を合算すると、説話の区切りはすこぶる不分明になってしまうのだ。柳田のいう「伝説の分解」とは、ほとんど「稲の人の神」の列島の南北の境界線を不分明にすることと同義である。これには新旧の錯綜を極めた文化複合の力が加わった。それに対して、柳田の用いた方法では、列島各地域で同じ濃度の斑点が見えるとすれば、その伝搬した経路を確認しなければならないことが前提だった。この一連の作業をとおしてはじめて、その歴史の古い順に押された斑点を再び元の地域に置き直していくと、列島に刻印の濃淡によってできた点の分布図ができることになる。柳田の場合、この上昇し、また、下降する方法で捉えられた「記録なき歴史の跡」の分布は面として、唯一、列島を南から北へ縦断する視線に切替えられた。
中沢という存在は、「遡行」という手段を使って、人類の普遍性の夢をみさせる貴重な方法を身につけた。人間の内部の地層から限りなく外部の自然に近づき、やがて、その接線が分からなくなるようになるまで融合したところに、新たな自然理念を築こうとしているかにみえる。その自然理念をはっきりと見極めるために何が必要かという問いかけに対して、彼が用いたのは、人間の普遍性に対する信頼のようなものだ。しかも、その信頼が大きい分だけ、「自然」と「文明」は対立を深めなければならなかった。だが、その普遍性への信頼の深さは、「自然」から「文明」への移行の道筋を、拡大鏡にかけたように映しだし、ともすれば、氾濫する秘境の旅行記、探検報告の一種のような錯覚をかもしだしている。この原因は文明に対する投げやりなまなざしのせいか、自然への過度の愛着のせいなのかは明らかでない。たぶん、その奥の方には、中沢の文明へ「移動する」視線の方位が影響をもっているのは間違いない。
中沢と同じく「自然」と「文明」間の時空を往来し、その錯綜した境界面で複雑なからみをみてとったのは、レヴィ＝ストロースである。母国フランスからアマゾンへの旅の道すがら体感したのは、単に歴史の時間の巻き戻しではなく、移動の猥雑さがもたらした外側の時間と内面の時間の齟齬のようなものだった。移動の軌跡が時間の埃を巻きあげ、突然、「見る人」の嫌悪や愛惜の感情を吹き飛ばし、「見らるる人」の一群に飛び込んだ当惑をようなおもむきを漂わせている。彼はポリネシアの島々が錨をおろした航空母艦に変わり、アジア全体がたえず硝煙の匂い漂わせ、アフリカの大地に急ごしらえのバラックが筍のように生い茂る様をみせるとき、「見る人」の旅は歴史の不幸に直面すること以外ではなくなったことを知りぬいていた。一神教から始まった西欧文明が誇る秩序と調和の精神は、地上の隅々までかつてひとびとが何万年ものあいだ培ってきた無垢の静寂を破り、まるで汚物のような嫌悪をまき散らしている。
彼にはさまざまな旅行談や冒険談から語り放たれ、魔法の小箱から出された宝が、もはやどこにも存在しないものの幻影の投げ売りでしかないことの欺瞞を指摘する。冒険家の作者は「自然」的なアマゾンの部族の生活に無意識に手細工を加え、精神的調味料をほどこされながら、いくつものパターンに戯画化されてしか、本に書いたり、映像に収めたりすることができなくなってしまっているのだ。この世界が急速に秩序化されることと、未開の部族を野蛮な部族としてしか紹介できなくなっているわれわれの位置は、われわれと部族のあいだの往来なくしては伝わらない感情に違いなかった。しかし、レヴィ＝ストロースの「悲しみ」はこれだけでは終わっていない。彼は幻想が罠をしかける前にその部族たちの「真」の姿を見たかったと慨嘆しているのであるが、それ自体、不可能な壁の乗り越えでしかないことにおもい当たり、次のような問いかけを続けている。
≪結局、わたしは二者択一からぬけだすことができない。一方ではむかしの旅行者として、驚くべき光景に接するが、そのすべてが、あるいはほとんどが把握することができないばかりか、なお悪いことには、からかい気分と嫌悪感を抱くか、また、現代の旅行者として、消え去った、ありうべき現実の痕跡を追うかである。このいずれの場合にもわたしはついていけない。しかも、思いの外に。なぜならば、むなしい外観を前にして呻吟するわたしは、この瞬間に輪郭ができる真の光景には手がでない。それを観察するにはわたしの人類としての段階ではいまだ必要な感覚能力を具えていないのであるから。数百年後には、この同じ場所で、わたしと同じように絶望した別の旅行者は、わたしが見ることができたはずでありながら、わたしが見ないでしまったものがすでに消滅していることを嘆くことであろう。≫『悲しき南回帰線』レヴィ＝ストロース著 室淳介訳
ここでも、レヴィ＝ストロースは、アマゾンの部族の「真」の姿をみることの不可能性の場所で、自己の「悲しみ」をかこっている。いわば、現在であろうが、未来であろうが「見らるる人」は決して「見る人」になれないし、「見る人」はおなじく「見らるる人」になれない追認の宣言のようなものである。柳田国男は、「見る人」と「見らるる人」の区別の度合いは、文明開化のスピードによって左右されると言ったが、同じ色合いで、文化人類学が時間のスピードと空間の移動の齟齬に阻まれていることを言い当てたものである。こういうレヴィ＝ストロースの自問は、おのずと「自然」と「文明」の一足飛びの対位法を破ることになっている。わたしにとって、「自然」と「文明」とのあいだの「移動」とは、レヴィ＝ストロースの言う「必要な感覚能力」のことを指している。その「感覚能力」は、もうすでに無垢ではない部族生活の怪しげに変質した思い出を選り分け、わずかに残された古代の痕跡を探し求めると同時に、われわれの目のまわりにこびりついたありふれた汚辱の現実の差を嗅ぎ分ける力をあわせ持つことにほかならない。もしかしたら、それは中沢の「現世的意識」に対応しているのかもしれないが、それを抜きにして、ただひたすら「純粋意識」の「外―歴史」を捉えられると考えることは、およそ不可能であることを知るべきなのである。そうであるなら、「現世的意識」と「流動的知性」を対立しているものとみなし、そのバランスを取り戻そうと、「自然」と「文明」がほどよく折り合いをつけられる場所を、世界中をまわって探すこと自体、不毛な作業のような気がしてならない。果たして中沢の「純粋意識」は「真」の姿なのだろうか。 （了）