移動する「疑い」の場所
～柄谷行人『世界史の構造』を読んで～
宮内広利
１ トランスクリティークとは何か
柄谷行人が柔らかい言葉遣いでわたしたちに求めているのは、ふたつの郷愁への別れの挨拶のようにみえる。ひとつは、プロレタリアートや階級の名を語る武骨で毛羽立った暴力的な信仰である。そして、もうひとつが貨幣へのフェティシズムである。前者については、柄谷自身がかかわった６０年代の政治の嵐が、政治権力をめぐる韜晦にすぎなかったことをあきらかにする過程ではっきりした。ただ、柄谷は、一般的に言われているように、それが新しいマルクス主義の出現とは映らなかったため、それ以降のたくさんの沈黙の大きさと天秤にかけようとしているかにみえる。その経緯は、彼の歴史の起点が同じ６０年代でも１８６０年代にマルクスが『資本論』を書いていたときにさかのぼるのをみても理解できる。
柄谷の『トランスクリティーク』のカント論とマルクス論は、オタク的批評にうんざりして、オタクなどは革命とは絶対におりあわないとおもっているわたしにとって、いささか刺激的なおどろきだった。また、何が言いたいのか、何をしたいのかさっぱりわからぬ論文を書いている若い学者や評論家に対して、かすかな光源を指ししめすような衝撃をあたえたような気がする。わたしがいつも不満に感じていたのは、彼らはドゥルーズやフーコーの言葉がどこから来て、それがどのような差異を産みだすかをほじくっているのだが、あらためてそれでどうなるんだと問うとき、きまって現実可能性からの逃避を決め込む自称批評家のふがいなさだった。「プラトー」や「脱構築」という言葉がわかって何ができるのかできないのか、わたしたちの「いま」とどう交叉するのか、何も示してはくれない。では、なんのために言葉の世界にとどまりつづけるのだろう。きっと、本家たちが脱構築といっているにもかかわらず、まるでゲームのように外国思想の翻訳・解釈や切れ切れの字づらの分析、それだけが自慢なのだ。
そういう中、柄谷自身の『資本論』の「トランスクリティーク」は、柄谷のいう「視差」の驚きにたちどまらせてくれる。柄谷はそれをレコーダーに録った自分の声におどろく自分にたとえている。このいかにもありそうな着想は、彼が国家を横断する視点をトランスポジショナルな「移動」としてものしたことに由来しているのだが、彼はそれを「内省」に含まれている欺瞞を見いだしたカントの認識論からつかみだした。カントは、「内省」という鏡は、わたしとわたしの共犯性においてしか成り立たない、真に「他者性」を引き出そうとするなら、テーゼとアンチテーゼそのものを二律背反にしなければならないとしたのである。それは「なければならない」と「あってはならない」貨幣を揚棄するために不可欠のアイテムだった。
柄谷にとって、カントとマルクスの距離はそれほど重要ではなかった。その強引さは、「資本制＝ネーション＝ステート」の三位一体に対抗するアソシエーションという協同組合運動に結実する。その運動に必要とされる「道徳性」において、ぜひともカントが必要だった。柄谷の発想の根っこには、一見わかりにくいカント論からはじまっているが、政治運動家にみまがうばかりの柄谷の主旨に踏み込もうとするなら、末尾の読み変えられたマルクスの革命像からみていく方がよいようにおもう。
２ 通りすぎるマルクス
人は書物をどのように読んでいるのだろうかとおもうときがある。長い間読んでいると「無心に読む」などという神話は、とうてい信じられない。金儲けを望んでいるひとは、きっと、目前の金儲けの題材になるものならすべてを吸収したいとおもいながら、貪欲に書物を選んで読むにちがいない。そして、社会の変革を望んでいるひとは、革命がほんとうに必要なのかどうか、どうすれば革命はおこるのか、のんびりと自問しながら、革命のカケラみたいなものを拾い集めながら書物をたどっていく。そんなわたしたちのわがまま初源の動機をかかえたままの場所に、柄谷があらわれたとき、どのような核心を捉えられるのだろうか。
柄谷の文体はあたかも書物の上に書物を重ねているのに似ている。それは自身が決めたクリテイークの原則に従っているからにちがいないのだが、その軌跡はあくまで透明である。何がこういう姿勢をとらせたのか、その内発的な動機が不明で、柄谷自身を批評するのが非常にむずかしい理由がここにある。人間の原意識の核心みたいなものがもともとないのか、隠されているのか、それとも動機を問うこと（内省）自体を拒んでいるのか、それさえも判然としない。それは当然、柄谷が演出するマルクス像にも投影している。
わたしたちは日常のテンポで歩くとき、ほんとうをいえば、マルクスの思想が初期から後期にかけてどう変遷したのかということには格別興味があるわけではない。ただ、現在のわたしたちの生きることや考えることに、実践的にくみ取るべきものがあるかどうかだけが唯一のマルクスの評価軸である。柄谷は、マルクスの思想によりそって、初期から後期まで移動と転回から生じた微細な差異を丁寧に取りだし、さらにはもっとさかのぼって、デモクリトスとエピクロスとアリストテレスの差異を嗅ぎわけた。これらの微差が軸心になって回転し、マルクス評価の決定的な差異になって現われる。とりわけ、柄谷のわだかまりは、『資本論』の価値形態論がリカードの労働価値説など古典派経済学との綱渡り的な違和感から書かれたのに、後世のマルクス主義者はそのことに気づいていないことだった。マルクスとバクーニンなどのアナーキストとの関係にも同様なわだかまりをひろい上げた。そして、マルクスはアナーキズムを徹底して批判したとされるのが通例だが、実は、プルードンの協同組合運動から大きな影響を受けていることがわかった。そのアソシエーションは、共同体とも国家集権的なものともちがって、自由で平等な「社会的」組織であるとみなされ、柄谷の言葉を借りれば、プルードンの原画が持ち込んだ「個体的所有」は、次のように表現された。
≪マルクスが私的所有と個人的所有を区別したのは、何を意味するのか。近代的な私有権は、それに対して租税を払うということを代償に、絶対主義的国家によって与えられたものだ。私有はむしろ国有なのであり、逆にいえば、国有制こそ私有財産制なのである。それゆえに、私有財産の廃止＝国有化と見なすことはまったくまちがっている。むしろ、私有財産の廃棄は国家の廃棄でなければならない。マルクスにとって、コミュニズムが新たな「個体的所有」の確立を意味したのは、彼がコミュニズムを生産協同組合のアソシエーションとして見ていたからである。≫『トランスクリティーク』柄谷行人著
ここに書かれていることは、平田清明の『市民社会と社会主義』にとても似ている。私有制と国有制は同一性の表裏であり、その間隙をぬうように「個体」的所有を「社会的所有」や「社会的国家」と認めているかぎりにおいて、マルクスがプルードンを引き合いに出したと言われている箇所である。プルードンは所有一般を否定したのでなく、働かずに収益を得る権利を「盗み」とみなし否定しただけである。マルクスはアナーキズムとされていたプルードンから学んだ考えを一度も手放さなかったことになっており、柄谷によれば彼らの相互の間には錯綜した関係があったととらえられている。この微妙な関係はそのほかにもフォイエルバッハやヘーゲル、ラサール、シュティルナーとの間にも共有した差異だった。
柄谷は、特に、シュティルナーの思想に紙面を割いて言及している。シュティルナーがフォイエルバッハなどヘーゲル左派のみでなく、プルードンをも批判したのは理由があった。シュティルナーにとって、プルードンのアソシェーションは、国家を否定しているものの、教会や共同体の匂いを嗅いでいた。つまり、シュティルナーは、プルードンの個人が社会や共同体がそれにとって替わったにすぎないとおもっており、それに対して、「無な私という所有」を対置した。その「私」とはあからさまな言い方をすればエゴイズムであり、唯一者の主張であった。それまでは、個人はいやおうなく家族や市民、民族、国民、または人類として括られるため、ただの個人として認められることはなかった。なのに、シュティルナーが組織しようとしたのはエゴイストのアソシェーションとして社会主義である。柄谷はこのシュティルナーの主張がプルードンへの批判に関しては的外れだったことを見逃さなかった。プルードンも個人に対して社会が優位するとは考えていなかったのだ。
シュティルナーはフォイエルバッハも批判したのであるが、それは当時のマルクスも含め、彼らヘーゲル左派が、ヘーゲルと同様に個を類に付帯するものとして見る思考をもっていたからだった。ヘーゲルのように精神を実在とみる見方は退けたものの、個の中の類（一般者）を手放さなかったのである。シュティルナーは個と類をセットで考えること自体を斥けたと柄谷は見ている。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中でシュティルナーを面罵しているが、厳密な意味で、マルクスがヘーゲル左派のイデオロギーを離脱したのはシュティルナーの思想を経由してからのことであった。
こうしてマルクスは、シュティルナーの唯一者をとおして、人間を「社会的諸関係の総体」とみなすことができた。人間は家族、民族、国家それぞれの次元を包み込む関係の総体と同義に扱われるようになり、初めてマルクスの認識論的切断が成し遂げられたことになっている。この事実に込めた柄谷の想いは、いわば、無としての唯一者にまとわる「関係性」自体を人間の本質として見分けることだった。つまり、柄谷の解釈によれば、現実的人間とは、そこを通り過ぎる「関係性」の渦にのみこまれた者とされるようになった。逆にいうと、「関係性」の渦は各々移動や消長を繰り返すものだから、無というわたしの鏡に映しだされた影絵のようなものとみなされることになる。
そういう意味から、柄谷の方法は、マルクス主義やアナーキズムと一括される思考に異を唱えて、マルクスとエンゲルスの違いや、シュティルナーやプルードン、バクーニンの思考の微差を照らし出す鏡の役割を荷ったといえる。柄谷には引き込まれるような原理原則というものはない。いうなれば、中心化や脱中心化の方向を失った純粋な感光器のようなもので、その機械をくぐりぬける過程で、マルクスやプルードンは微妙な色差をともなって、光源から放たれていく。そこから排出されたものから照らしだされるのは核心のない柄谷の文体の流れである。わがままな初源の動機はひた隠しにされて、もっぱら書物の網の目の差異をもとめる柄谷には、逆にいえば、もしかしたら、媒介のような動機としての時間が必要なのかもしれない。
３ 移動するプロレタリアート
柄谷は、現在の状況の中で、もはや地に墜ちてロマンにさえなってしまった革命への道筋を黒土の上の白線のように引いた。このことは特筆されるべきだとおもう。だが、柄谷と同じ結論に達するためには、多くのひとびとへの啓蒙が必要だろうが、それはマルクスやカントの解釈だけでは十分でないとおもえる。たとえ、行きつく先が同じにしても、ひとびとの無意識に訴えるための心の迂回路が必要であり、これからこの無意識を掘り起こす作業が残されているのはまちがいない。そして、この迂回路は柄谷の「移動」の道筋とははっきりした日時で交わる約束はできないし、もしかしたら、すれちがいざまに見失うかもしれないのだから、もし、たえうるなら、あれやこれやのマルクスやカントの解釈を突きはなして、現実の無意識の過半数の触感を確かめつつ前に進むしかないとおもえる。
≪『資本論』において、労働者が主体的となる契機は、商品―貨幣というカテゴリーにおいて、労働者が位置するポジションが変更されるときに見出される。すなわち、資本が決して処理しえない「他者」としての労働者は、消費者としてあらわれるのだ。それゆえ、資本への対抗運動は、トランスナショナルな消費者＝労働者の運動としてなされるほかはない。たとえば、環境問題やマイノリティ問題をふくめて、消費者の運動は「道徳的」である。だが、それが一定の成功を収めてきたのは、資本にとって不買運動が恐ろしいからだ。いいかえれば、道徳的な運動が成功するのは、たんに道徳性の力によってではなく、商品と貨幣という非対称的な関係そのものに裏づけられていることによってである。資本の運動に対抗するためには、労働運動と消費者運動との結合が模索されなければならない。しかも、それは現存するたんなる政治的連帯とは違って、それ自体新たな形態の運動でなければならない。≫『トランスクリティーク』柄谷行人著
ここでは、あれやこれやのマルクス解釈をかきわけるために、なぜ、いま、マルクスなのかにはじまって、道徳性の舞台まで用意され、柄谷のすべての問題意識が煮詰められている。「資本制＝ネーション＝ステート」の交換タイプ類型を軸にすると、状況認識のはじめには、資本の高度化が重工業から情報産業に移行したところにポイントがあった。つまり、現在は、グローバリゼーションの掛け声で国際的な資本の独占、寡占により、国家的な独占巨大企業の解体が進んでいると同時に、ベンチャー企業にみられるような中小企業のネットワークがより緻密に張り巡らされており、あたかも国家独占資本支配以前のマルクスの時代背景と似てきたことが挙げられている。
もはや資本への対抗運動は、剰余価値の源泉を生産過程のなかにのみ見いだし、生産拠点を中心に労働運動を優先した社会運動には担いきれなくなった。消費と生産が分離している商品流通が支配的な社会の中では、産業資本は消費そのものをつくりだし、労働運動さえ資本主義システムの中に囲い込んでしまったからである。労働者の経済闘争は、返って消費の増大として経済の循環を助けることになったのである。このため、労働運動のポテンシャル低下の反面で、育児、教育、娯楽、地域活動などの消費産業の拡がりとともに、消費者運動がせりあがっている。これは、当然、労働力商品の再生産過程へと視線の転換を促すものであり、柄谷は、その座標を移動させ、資本の運動が完結するための流通過程にこそ、剰余価値の実現過程があるとみなした。柄谷にとって流通過程への着目は、現在や将来においてではなく、過去の運動の方向性についてもあてはまるものだった。
彼によれば、マルクス主義者たちが『資本論』を読むとき、新古典派経済学が消費者を市場経済のひとつの可変要素とみなし、抽象的存在にとどめたのに応じて、消費の場そのものがヌエ的なものと映った。その結果、消費の場への無意識の無関心をつくりだしたばかりか、資本と賃労働の関係において消費は副次的なものとして、ともすれば消費社会に批判的態度さえとるようになった。しかし、柄谷は、『資本論』そのものが、それとはまったく別の動機で書かれていることを見のがさなかった。
マルクスの『資本論』が古典派経済学から区別されるのは、価値形態論に依拠した使用価値や流通過程の重視であった。なのに、マルクス主義者たちは、剰余価値論がリカード左派のつくりだしたものであることを忘れ、それに対するマルクスの批判の意味を汲み取ることができなかった。しかし、産業資本の蓄積をうみだす剰余価値は、労働者が作った商品をみずからが買い戻すという過程においてしか実現しない。つまり、柄谷が言いたいのは、労働者の掛け値なしの「自己消費」こそが資本の蓄積運動を支えているということにほかならない。それは国内で安く作って高く売ろうと、高く作ってより高く売ろうと、また、安く作って国外に高く売ろうと、流通過程の本質にはなんら影響を及ぼさないとみなしていることになる。したがって、賃労働と資本の関係は生産現場の窓からは見えないのが当然で、それら流通過程全体をとおした一連の関係と連関において表現されるべきものであったのだ。
従来の社会主義運動は、アナーキズムも含め、工場占拠やゼネストで資本の蓄積過程にとどめをさそうとし、もっぱら生産過程の闘争に閉じ込められてきたのだが、これらの戦略はすべて失敗に終わらざるをえなかった。柄谷によれば、「華々しいロマンチックな革命の予見」と同じ程度において、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」の図式は、本来的な社会運動につながりえない。自己の労働力をより高く売ろうと、安く売ろうと、それだけで剰余価値がもたらされるのではないかぎり、労働運動は経済闘争に終始せざるをえないし、賃労働の廃棄という革命の本質にせまりえないものなのである。そればかりか、剰余価値は一企業のものではなく、社会的総資本としてしか実現しないものであるから、労働者の運動は、国家によって分断され、国家の総資本によって制限をうけざるをえない。
プロレタリアートが生産の面から国境を超えることは、ほとんど幻想にすぎない。ここで、なによりも、柄谷の功績は、プロレタリアートは存在するだけでなく、動くものだとみなしたことだとおもう。しかも、単に経済過程よりも政治過程の重視を唱えただけであれば、レーニン型の政治主導主義の廻りで終始するにすぎないのだが、政治過程と経済過程を往復する視点をもたらしたことが特異であった。生産過程に目を凝らしてみてもプロレタリアートは見えない。プロレタリアートは「移動」しなければ、存在するとすらいえないのだ。この「移動」には、生産過程の闘争から流通過程の闘争への転換の意味づけのみではなく、資本制からネーションにわたる交換様式の異同として位置づけられた。資本とネーションの関わりは、世界史の問題にまで拡張され、その縺れとして把握されているようにみえる。では、プロレタリアートはどのように「移動」すればいいのか。
４ 悟性と感性のギャップ
マルクスは主体（人間）を疑いそれを関係構造の産物とみなしたと柄谷行人は言うのだが、それは簡単にいえば、資本家や労働者、また、貨幣や国家それら相互の「間」こそが問題であり、それぞれにおいて、それ自体は実体として意味をもちようがないと言っているのだとおもう。そして、関係構造の自覚はマルクスの超越論的「場所」からのみ産まれると確信しているのだとおもえる。だから、デカルトの「亡命」やカントの国際貿易都市における体験とともに、旅行や移動はマルクスにとっても決定的であったので、それこそがマルクスの思考をトランスクリティークと名づける所以とした。この言葉の裏には柄谷自身の留学体験が影響しているはずで、そんなに移動や旅行が好きなら、成田空港のそばに家を建てればいいではないかと茶化したくなるところだが、柄谷はいたって真剣である。
柄谷によれば、一般的に考えられているように、マルクスの唯物論的転回は、宗教の批判から政治の批判に代わる時期になされたのではなかった。真のコペルニクス的転回は、むしろ、そのような唯物論を批判し、ドイツ語言説とフランス語言説、イギリス語言説の「差異」を発見した場所に存在したとしている。柄谷は、エンゲルスの経験論にもとづく実証主義からつかみだされた史的唯物論は、産業資本主義の発達を前提にした結果ではあっても、それによって当の資本主義制度の発生や与件そのものを分析することができないと述べている。だから、かえって、ヘーゲル的観念論の「能動的契機」に可能性を認めるべきとした。なぜなら、それはヘーゲル左派のなかにあったころの宗教批判を、国家や貨幣への批判につなげ、経済学を形而上学へと上昇させる動力にしたからである。
このあたり、彼は、簡単に経済学と哲学の綜合ができると踏んでいるところであるが、同じマルクス「学」の解体をみてとっているにしても、わたしたちには、マルクスの形而上学批判の意味の汲みとり方が、少しちがっているようにおもえる。わたしの考えでは、マルクスは古典派経済学やプルードンの経済学の中にも、ヘーゲル哲学と同じような形而上学が含まれているとみなした。そのことは、宗教や貨幣の物象化論以前の認識論の問題である。おそらく、柄谷はマルクスのヘーゲル批判を読み誤っているものだから、ヘーゲルの疎外された意志論を、そのまま経済学を対象にすれば貨幣の分析にあてはめることができ、国家論になればネーションの表現になるとみなしているにちがいない。だから、『資本論』の価値形態論を使って、経済学から逆算して初期疎外論にステロタイプに援用する。いわば、自身も認めているように、マルクスの生涯の同一平面を逆向きに読んでいることになる。
柄谷の哲学的根拠は、マルクスが遅れたドイツから進んだフランスに渡ったとき、ドイツ哲学がフランスの実践活動にまったく歯が立たない挫折感に裏打ちされた言説体系の「視差」、つまり観念論と経験論の差に求められている。「視差」とは『ドイツ・イデオロギー』の言葉を借りれば、「考えていることと現にあることとのギャップの意識」を指している。この点、柄谷の問題意識は、初期以来、ずっと変わっておらず、その発見にともなう不安や畏怖を漱石に認めていたとおもう。それに柄谷自身の留学体験を重ねあわせると、なぜ、言語の違いがテキストの読み方の問題として登場するか、ぼんやりと推測することができる。国境を跨ぐということの意味は、漱石のイギリス留学体験においても、近代史の暗部として重要な意味をもったのはまちがいない。
自己と自己意識との段差について、柄谷は、マルクスの『ブリュメールの十八日』において、経済・社会的な階級構造から一見独立しているように機能する議会制民主主義の実体に意を留めたとしている。これは「代表するもの」と「代表されるもの」との恣意的な言語学的関係への着目が、社会的階級が「階級」として表われるのは、ただ、言説によってであることの畏怖にむすびつく。
ここまでの柄谷につきあっただけなら、わたしたちは、きっと、既視感のような感じにおそわれるにちがいない。ひとつは、どうせ、今も昔も議会制民主主義とはその程度のものであり、政治的無関心の読み変えのうちに、政治的意識と社会・経済的な意識のすれ違いをいやというほどみてきたわたしたちにとって、ナポレオンやヒトラーの例をつきつけられても、目新しさのない極彩色の印象しかもちえないからだ。もうひとつは、大衆意識の変遷や密度を問題にしなければ、代表制のなかで大衆自身の言葉がどのように屈折してあらわれるかをおしはかることができないからである。
しかし、彼がマルクスの『ブリュメールの十八日』によりそって、ナポレオンの甥を皇帝にかついだ大衆意識を分析するあたりから、やや調子が変わってくる。価値形態論が政治の舞台に登場してきたからである。問題は一商品がなぜ貨幣になったかということと同じで、物象化の根本が問われているのである。
マルクスは代表制の二重の性格を指摘した。ひとつは立法権力、もうひとつが行政権力のことであるが、行政権力は国民投票によって選ばれる。このうち、柄谷は、行政権力を選ぶ代表制自体に転倒の秘密が隠されているとして、この行政権力の危機をのぞき見ようとしている。このくだりは、一般的等価形態が貨幣へ転化する場面を比喩しており、ナポレオンの甥は、もはや「代表するもの」ではなく、議会でも大統領でもなく、「皇帝」というひとつの権威として表われたことに権力の仕組みを嗅ぎわけた。この権威はそれ自身で転回しないから媒介が必要であって、つまり、代表制一般ではなく、その仲介として官僚制の誕生を必然化しているとおもえる。彼の「皇帝」という貨幣の出現は「政治的国家＝ブルジョア国家」の出現と過不足なく重なる。
だが、ブルジョア国家の官僚と軍隊は国民を代表するように考えられているが、実際はそうではなく、貨幣が商品の価値尺度とみなされているように、それは隠された真実でしかない。そこで、柄谷は国家の本質は官僚と軍隊であり、代表制はその隠れ蓑と考えるのであるが、わたしは、官僚と軍隊は、国家と資本の媒介にすぎないと考えている。
代表制や普通選挙制は、経済的階級とは別の次元で政治的国家の出現やブルジョア独裁と不可避に結びついているように見えるが、実はそうではない。
５ 超越論的統覚Ｘということ
柄谷はなぜカントなのかという設問に対して、きっとこう答えるだろう。「すべては疑いうる」と言ったマルクスにならって、「疑い」の場所を探り当てたにすぎない、と。柄谷によれば、近代哲学の祖、デカルトの数学が知覚の幾何学から数の座標に転化したことが、自然数から実数への道を架橋し、カントール以降の集合論につながったことを評価している。これは観察者の経験的認識を超越論的に還元したことによって、構造主義の先鞭をつけたとみなしているからだ。だが、そういう観察者の主体は、一方で、「疑い」は必ず、疑っている「私」を疑うことができないアポリアにおちいる。そこで、デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」と言わざるをえなくなった。
デカルトは実生活では仕方なく従っているようなパブリックもあることは認めているが、真理を探究しようと決意したからには、すべてを疑いうることを試してみようとした。しかし、すべてを疑おうとしているにもかかわらず、そう考えている「私」は疑いうるもの以外でなければならないとおもい当たった。こういうデカルトの独白に対して、柄谷が投げかけた疑問は、「疑う」ことと「思う」ことの区別がないから、「私」と「疑う」ことの自明性が崩れてしまう箇所だった。なぜなら、デカルトに疑いを強いているのは、彼が住んでいる環境であり、共同体における「他者性」にほかならないことを認めているからだ。
つまり、柄谷は、「疑う」ことが真であるかぎり、「私」は「疑う」ことと直接的に対面しなければならなかったはずだと考えている。そういうデカルトの曖昧性に対して柄谷は、カントの「思考作用の超越論的主観すなわち統覚Ｘ」を対置した。統覚Ｘとは、いうなれば、デカルトが退けられないモノとして想定した「主観」に「上書き」されるような「主観」とされている。この主観は表象されえないものであり、カントにとって形而上学的核心を携えた武器とされている。
続けて、柄谷は次のように記している。
≪超越論的批判は、それによって見いだされる諸能力＝働きとは別であり、そのどこにも位置していない。それなら、批判はどこから来るのか。それはいわば、カントが立っていた「場所」、すなわち、経験論と合理論の「間」から来るのである。経験論と合理論は、彼にとって二つの学説ではない。彼が出会ったのは、世界内にあることと世界を構成する主体であること、つまり、フッサールが出会ったパラドックスである。しかし、それはカントを「強い視差」を通して直撃した。カントの「批判」はそこに始まる。彼にとって、「批判」は「批判しつつ在る」こと、そのような外部的実存と切り離すことはできない。≫『トランスクリティーク』柄谷行人著
この経験論と合理論の「間」というのが柄谷のトランスクリティークのキイワードである。ここでハイデッガーの「世界内存在」を想起させるような言い廻しが使われているのであるが、柄谷は、たとえ、ハイデッガーが超越論的を「存在論的」と言い変えようと、その内実は決して共同体の外部にあるものではなく、本来的には共同体的に呑み込まれており、「疑う」ことの差異の意識にはいたらないと批判している。だが、わたしなどが見ると、ハイデッガーが「存在論的」と「存在的」の区別をして、超越論的自我から経験的自我を区別するか、または、見おろす時点で、すでに媒介としての「民族」を用意していたとおもえる。これは、ドゥルーズの「自由人」と「奴隷」の「類型理解（タイポロジー）」においても同様な危うさを感じるところである。
柄谷の「超越論的」な主体の位置づけとは、「私」、「私の内省」と経験的事実の隙間からの眺望に比喩することができる。これは、「内省」との「視差」をもたらすはずのものであり、そこから覗くのはなにものにもとらわれることのないアプリオリな「物自体」または「他者」と命名され、「内省」との段差を含んでいない点で、いわば「空間的」な「無」な場所のありかを指し示しているとおもえる。
もちろん、柄谷自身がこれを空間的な場所に限定していない。たとえば、意識の先取りされた時間として「未来の他者」を意味するとすれば、当然、現在から想定された未来ではなく、まったくの新しい「普遍性」の時間に転換されうると言っている。彼が「公共性」を信じないのは、現在からの延長された合意が、あくまでも共同体の影を付着しており、「個人的」にも「一般的」にも未知の時間を挿入することができないからでもある。
柄谷にとって、共同体や国家と「個人」は、背中あわせになったものでしかなかった。その癒着から逃れるために彼が選んだのは「単独者」の思想である。この単独者の視界からみれば、カントの倫理学と芸術論はまったく別様に映った。カントの美意識ということで柄谷が着目したのは、芸術性の客観的な対象であることと主観性（感情）とのあいだの矛盾に関するものである。この矛盾を解決するためにカントは、その主観性と客観性の両者ともに「疑い」をさしむけることであり、もうひとつの「主観性」が、芸術性の規範化や趣味性を差し戻す役割を担うことであった。
この場合、柄谷は、もし、主観性と客観性のどちらかの優先についてアンチノミーが証明されるなら、主観性という命題と客観性の命題の矛盾は存在しないで両立すると考えた。彼の批評の基準に照らすと、芸術価値の判断においては、作品は認識的（真偽）、道徳的（善悪）、美的（快・不快）が截然と区別しないまま混在するのであるが、この区別は、いわば、客観性にひきよせられたものか主観性にひきよせられたものかの区別としてとらえられる。たとえば、真偽と善悪は「客観性」、快・不快は「主観性」の尺度であるといえる。柄谷が認識的になるときは、道徳的なものや美的なものを「超越論的還元」（括弧に入れる）というとき、仮に、主観性を心の時間の起伏と考え、客観性を共同体の空間性（規範性）と呼ぶなら､時間から空間に遡行するものと空間から時間に上昇するものを同等に扱ってさしつかえないとみなしていることになり、とするなら、矛盾が生じるはずもなく、それらは並列してまったくの対等に位置づけられることになる。つまり、時間性と空間性のどちらに重点がおかれるかのちがいにすぎなく、批評は関心領域の「移動」の自由性を担保にとることができるというものだ。
わたしたちは、当然のように、この箇所で柄谷に躓く。それは「他者」への「移動」の出所に関わるものだ。わたしは、彼の「他者性」がどこから来たのかを知りたくおもっている。すくなくとも、思想の消長などという神話を信じないわたしたちにとって、マルクスやカントからはじめて学んだというのは誇張にすぎないとおもえる。なぜなら、彼自身、最初に共同体の中から「他者性」を差し向けられたからであり、意識的には、そのことを自己対話より重視しているように見えるからである。
６ 自由と必然
柄谷がカントやマルクスから触発されたというのは事後的な自己解釈にすぎない。彼は自分の思っていることを実行することと、その結果を引き受けることはまったく別物であると述べている。カントは自由を自己原因的、主体的であるとしたのだが、それに対する反対命題も忘れなかった。つまり、スピノザ的決定論をも導き入れ、わたしたちは依然として自然必然性に支配されており、自由にならないものによって行為を規定されているとしている。その際、柄谷は、カントの自由とは事後的なものであることを見逃さなかった。事前的自由は、ただ「思う」だけであり、それが必ずしもというか、多くは実現したためしがない。現実には自由でなくとも、自由であると自分自身が勘ちがいしているにすぎないからだ。この不自由な自由の背後には意識と行為の分裂が隠されていることを見なければならない。ここでは、ひとは本来的に、自由などはないということを前提にした上で、さらに立ち入って行為の場面まで降り立つなら、ほんとうの自由とは、自分の行為の事後的な結果において、自由であったと見なす時にのみ生じることが示されている。
それなら、柄谷にとって、カントの自由な行為は、ないものとあるものとして二様に考えられているというべきだ。または、ひとの行為は自由な側面と不自由な側面を併せもっていると考えるべきなのである。どういう立場からそれが言えるのかについては、柄谷はそういう言葉を使っていなくて、括弧に入れるかどうかの違いとして一括されているのだが、わたしは、それを「距離感」の違いと考える。要するに、身近なものは不自由に見え、遠くのものはより自由に見えやすい。
それを柄谷は、自然的因果性を一旦括弧にいれれば、行為は自由に見えはじめ、反対に、思うことや意志を括弧で括れば、行為は決定論に従って不自由に見えるといっているだけにちがいない。前者を「実践的理性」、後者を「理論的理性」と呼び、カントの『実践理性批判』は前者の立場から主体や意志を証明し、『純粋理性批判』は後者の立場から、自由の幻想を批判したものととらえられており、それゆえ、両者はまったく矛盾していない。
ここでは、ひとはある時には自由であり、ある時には不自由になるのではない。逆に、そういう考え方は折衷的とされ、「ある場合」が時間の序列と考えられてはいけないのであり、柄谷によれば、それは必ず遠近法からくる「距離感」の違いとみなされる。彼は犯罪者の例を出し、犯罪行為には自由意志（故意）をどの程度認めるかによって、刑罰の重さが裁判されるのが通例であるが、このような自由意志の推しはかり方は折衷的だと言っている。なぜなら、もともと人間には自由意志はなくて、もし、責任が生まれるとすれば、その人間が社会の関係の中ではぐくまれた欲望や失望感、飢餓感を括弧に入れたときに、微かな倫理の匂いを嗅ぎ分けたときである。それは「自由であれ」というカントの言葉とともにのぼってきた場所、つまり、「超越論的場所」である。
柄谷にはマルクスの理論的立場には、どうしてもカントの命令や義務が必要におもえた。いいかえれば、マルクスの超越論的組み換えのためには、カントの「倫理」を必要としたのである。それらが一体になって括弧を外してこそはじめて「実践的」になりうると考えたからである。
≪他者の人格（主体）が人格としてあらわれるのは、このような「義務」によってのみであるということだ。理論的な態度においては、私の人格のみならず他者の人格も存在しない。私の人格と他者の人格（自由）が出現するのは、実践的態度においてのみである。だから、カントの道徳法則は実践的であれということと同義である。≫『トランスクリティーク』柄谷行人著
ここで、「他者の人格」が露わになるときに、「単独者」とは矛盾しないことが、そのまま倫理のありようである意味がつかまれている。だが、「単独者」と「他者」のあいだには微妙な誤差があって、「倫理」という「実践」を媒介にせずにはおれなかったことがうかがえる。そのことから、当然のことのように、たくさんの顔をもった「倫理」の蓋が開けられたことになるが、それでも、その「倫理的」構えは、「理論的理性」と「実践的理性」のバランスによって支えられることになる。
しかし、わたしたちは、柄谷のように、哲学、思想史を理論的態度と実践的態度に振り分け、実存主義から構造主義、ポスト構造主義まで、周期的に訪れる思想的交替劇と解釈する見方に与することはできない。つまり、都合よく、括弧をつけたり外したりできることを真に受けると、ついつい、ある角度からみるとエクボだったり、別の角度からはアバタだったりするのを思い浮かべてしまうからだ。また、左目を閉じて右目で見たものと、右目を閉じて左目で見るものの「視差」を連想してしまう。
ならば、ここで問われているのは、右目から左目に移行する特異な「距離感」には、柄谷自身の共同体からの離脱や移行の経緯が反映しているとおもえてならない。おそらく、「距離感」の眼鏡から見るだけなら、ひとは、自身の過去を振り返るときに、あのときはこうなった、そして、このときはこうだったと事後的に理由づけすることができるはずだ。だが、その過程を無意識の必然のように辿ることはできないにちがいない。
なるほど、彼は、本来的に自由などはないということを前提にしているのだが、それには、もうひとつ別の必然性の解釈や「内省」がつけ加わらないかぎり、自由と必然が糸のようにもつれあった人間（自分）総体の軌跡を辿ることはできないのだ。一生の間に間欠泉のようにある契機があって、自分が転身したかのような言い廻しは、裏をかえせば、ひとがずっと罪びとであったり、悪人であったりするのを認めるのと同じことを意味する。自由と必然の絡まり合いは、あるとき、ひとを殺人者にしたり善人にしたり悪人にしたりする。それは、ひとの一生の刻々刻まれた「もうひとつの内省（時間）」の要素が加担した場合には、当然の真理である。自分が決して殺人者にならないような論理や悪人であることを内包できない二次元の論理には、「超越論的批判」の資格はない。
柄谷を読みすすむにつれ、『言語にとって美とはなにか』の頃の吉本隆明の影響がいかに大きいかがあらためてよく分かる。吉本は、政治的国家は経済社会構成を括弧に入れて幻想領域をそれ自体で説明しようとし、また、言語の意味を括弧に入れて、価値の側面から通時的な文学史を探究しようとした。自由と必然は、吉本の場合、空間性と時間性の二重構造において組み合わされていた。だが、わたしたちは、相も変わらず自由になったとは言えないものの、いくつもの「ある時」を重ねるにつれ、こういう考え方のみでは割り切れなくなってくる。
もちろん、柄谷のクリティークは、吉本の意味と価値の比重を逆転させ、内在的価値論から交換価値論を抽出して切り離し、より広い「他者」の獲得に向けて啓蒙への意志を表明しているのであるが、ヘーゲル左派がヘーゲルの図式を踏襲したように、当時の吉本の図式を正確になぞっていることは疑いない。ただ、吉本と違って、柄谷は、カントをとおして「実践」という倫理的武器を結果として編み出したことの意味は大きいとおもえる。
７ 普遍性の証明
柄谷を読んでいると、批評とはこういうものだったかというような、おもてむき奇妙な錯覚におちいる。わたしたちの経験では、批評は自らを語る場であるというような偏見が根強く残っているせいかもしれない。それは、おもえば、小説家でも詩人でもなく、批評家という存在に固められた強がりやプライドから生まれて、たとえば、小林秀雄や吉本隆明のように、わたしたちに一種独特の雰囲気をもたらしてくれるものだ。そういえば、小林や吉本は時代の雰囲気を頭で考え、小説家や詩人には決してできないような概念をみずから編み出し伝えてくれた。批評としての分野を独立できないというのは、あたかも批評家が定職と考えるような言い訳にしかすぎない。批評の「場」なるものは、小説家や詩人とちがって、この世界の場所のどこにもあるものではないとおもう。そういう意味から、柄谷の批評はその中心において読まれるべきであるが、この批評の軸心は不安定にみえ、あるときは学者然としていたり、あるときは、希望をつなぐ政治運動の使徒だったりする。文体はどこにも自分の顔を表わさないで、ただ、書物の「間」を影がとおりすぎるとき、コトっと音をたてるにすぎないのだが、批評の余韻は確実に残ってくる。
この柄谷に特有の余韻とは、ほかでもなく、彼が歴史や社会に面接するときの姿勢に由来している。ひとは批評家であるとなしを問わず、自分という核を中心にして、あたかもコミットすべき現実があるかのように手触りで確かめたくなる。ところが、やがて、期待された現実はどこにも見当たらないことに気づかざるをえないときがやってくる。そこで、やれ転向だの利己主義だのという言葉が浴びせられ、オレには家族も信頼できる友もなくひとりさ迷っている吹きさらしの実感が、会社という親友をみつけたり、生涯の伴侶をみつけたりして着陸し、身構える姿勢は、徐々に氷のように溶けていく。
だが、それでも諦めのつかないヤツはどうするか。ある者は偽善的な政治運動や、なけなしの理念をかざした労働運動にしがみつくほかはない。夢はとっくに現実に追い越されているのに、涙だけはとめどもなく流れる。
柄谷の場合、そのどちらとも違っている。彼は「普遍性」の夢に賭けたからだ。ここで言う「普遍性」とは、化学の実験に似ている。例えれば、ここに一人のＡという人間がいて、Ｂ、Ｃとの関係があるとする。もし、わたしたちがＡである場合、それは個別性として表われるため、Ｂに対する感情とＣに対する感情は時間的な起伏をもっているから、必ず、差異をもってくる。Ａは否応なくＢやＣを別の認識に納めてしまう。また、Ｂに映ったＡとＣに映ったＡとはまるで異なってくる。その上、Ａ、Ｂ、Ｃが同じ仕事場にいれば、上司と部下、または同僚との関係の歪みを受けるはずだ。
ところが、柄谷の場合、Ａの個別性を捨象したとして、ＢやＣへの認識を、ＡがＡ自身を理解できない程度において、「他者」を選別するので、その限りでＢとＣに反射した自画像は個別性を失ってしまうことになる。これは、現代の恋愛も抽出すれば『源氏物語』の原子記号としての恋愛と本質的に変わらないと言っているに等しく、人間関係の構造と「私」を異和結合させればでてくるエキスにほかならない。
わたしには、柄谷が、あれやこれやの猥雑な現実関係の中にもまれても、何も生み出せないとあらためて覚悟を決めたようにみえる。しかし、そこから重要な結果を招いてしまう。
≪カントは道徳法則を、現に存するさまざまな道徳から抽出したのではない。確かに彼は道徳を形式化したが、それは一般的なものを取り出すためではない。彼の考えでは、道徳的領域は「自由であれ」という命令（義務）において存する。道徳法則は、自由であれということ、同時に、他者をも自由として扱えということにつきる。先に述べたように、カントが義務に従うことに自由を見いだしたことは、多くの誤解を生んだ。それは、共同体や国家の課す義務に従うことと混同されてしまいがちである。しかし、くりかえすが、カントは道徳性を、善悪にではなく、「自由」において見ようとした。≫『トランスクリティーク』柄谷行人著
一般性と普遍性の違いを説明している柄谷の言葉はわたしたちに不思議に響いてくるのだが、しかも、彼は、同じところで、実際には、自由（自己原因）などはなく、あらゆる行為は自然的、社会的原因に規定されていると述べている。この自由と因果性の微妙な隙間にこそ、彼の道徳は位置づけられなければならなかった。それゆえ、どちらかを括弧で括らなければからなかったのだ。その結果、自由とは不自由であり、不自由は自由であるとして、運命を自由な意志で受け入れることが、人間に求められることになった。それに対して、ニーチェは、ただ、弱者のルサンチマンを攻撃したのだが、その深みにおいて不自由の意味を理解しえなかったがゆえに、不自由の寄って来る「諸関係」の所産を見失った。反対に、道徳を社会的規範と考えたものは、個人の道徳律の意味を理解することはできなかったとみなされる。
だが、運命という言葉や自由という言葉にどんなに注釈を振ろうと、その振幅は限られている。もちろん、自身も認めているように、そのような「自由」や「不自由」はどこにも現存しないからだ。それなら、柄谷は、普遍性という言葉から、現実を構成しようとしたときから、たえず、資本主義が好きだったり嫌いだったりする趣味、嗜好の影に脅かされることになるのだ。つまり、構成すべき「他者」を経験的な彼岸に押し上げただけではなく、「ある」から「あるべき」「自己」や「他者」に預けてしまっているからである。「あるべき自己」はまちがいなく、いつも、趣味、嗜好の壁に戸惑っている。
おそらく、柄谷の言いたいのは、資本主義が個人の自由を奪っており、それは同じように他者の自由も奪っている。その上、それに反対する意志をも奪い去った。しかし、その意志を踏みとどまらせるのは、「他者」から見た自分であり、自分とともに自由を回復させようとする意志である。これは、現在の「他者」から呼びかけられた自分の義務だけではなく、義務を引き受ける責任において「未来」の他者に対する義務でもある…と。
こういう廻りくどい啓蒙が成り立つためには、ひとつの条件ともいえる場所が必要だ。想像されるのは、柄谷が趣味、嗜好から始めた批評家としての自分が客観視できるようになったということで、責任が生じたと考える場所である。コトっと音をたてる批評の余韻は、ただ、軽いというのみでなく、別の意味で重いと感じさせるものがないと、わたしたちの心の琴線には届かないかもしれない。
８ 資本主義の恣意性
柄谷が資本主義の欲望を商人資本の成り立ちから説明し、貨幣の蓄蔵が守銭奴の欲望を過不足なく表わし、それをあたかも死にとり憑かれた「死の欲動」と考えることに異存はない。
しかし、わたしは、柄谷の「他者」の発見から「飛躍」への道筋に関して二つの疑問をぶつけてみたい気がする。
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彼のいう超越的な道徳律の自由は、「恣意的な自由」からどう区別され「飛躍」すれば
いいのか。
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交換過程を重視する分析方法は、現在の中でどうして可能になったと言えるのか。
恣意的自由の問題がでてくるのには、もともとマルクス解釈の中には二つの傾向があったことに由来する。つまり、前期マルクスと後期マルクスを区別する考え方である。前期のマルクスの『経哲草稿』の中の自己疎外論への着目は、疎外された労働過程の仮象批判からの回復を意識化することに革命の望みを託し、一方の、『資本論』を軸にした後期の思想においては、恐慌による革命の必然性を唱えたとされる。両者には、革命の自然発生性（自由）と必然性の角逐の図式が込められていた。
柄谷は、そのどちらの側からも資本主義への対抗的運動が組織されることを嫌った。彼はマルクスがいうところの「現状を止揚する現実の運動」のことを「統整的理念」と呼び、片や自由であったり必然性であったりすることで、革命が「構成的理念」によってもたらされることを嫌った。要するに、革命が恐慌によって不可避であったりすること、あるいは、自然意識的な覚醒の動機から行われることは、とうてい考えられないこととしたのである。だが、後者の自然意識的な覚醒については、彼は、いわば、恣意的なもの、あるいは自然過程にそのまま託される以上の意味を込めており、少なくとも「飛躍」なくしては獲得できないものと考えられてきた。そこで、彼は、そういう「飛躍」の秘密を、前期マルクスではなく、資本論の倫理学的分析からの演繹によって試みようとしているかにみえる。
柄谷の『資本論』理解によると、商品は事後的に見れば、価値と使用価値の統一であるかにみえるが、それはあくまでも、事後的なあり方においてそうみえるだけであって、実際には、使用価値としてのあり方しか問題にならないという言い方をしている。つまり、まず、使用価値ありきで、他人にとって使用価値として価値をもたなければ、Ｇ―Ｗ―Ｇの過程は完結しないと断言しているのだ。使用価値は交換価値まで、予感から売れるまでの間に「命がけの飛躍」が介在しており、対抗運動は、この「飛躍」をみずからのものにしなくしては不可能とされるのである。
したがって、この商品の「飛躍」は、わたしたちの「飛躍」に置き換えられる。だが、その商品の「飛躍」の裏側では、事前的か事後的であるかは別にして、「飛躍」のメカニズムともいうべきものがあり、確かに「盲点」には違いないとしても、少なくともわたしたちの「日常の意識」にとって、「欠点」に映るとは限らない。歴史的に資本制の誕生が、商人資本の誕生まで遡及されるのなら、なおさらのことである。なぜなら、商品の「飛躍」がわたしたちに投げかける問いは、その二重性においてろ過することによってしか提起できないということである。
実際、当事者意識として「飛躍」しなければならないのは、直接的には商品を所有するもの（資本家）である。これは労働力商品を投げ売りしているわたしたちにとっては、信用経済でリスクを負い、打ちのめされるのは自分自身ではないことを意識的に認めたうえのことである。もうひとつは、信用経済のリスクは、わたしたちが自由（恣意的）に株を取得して、元本を失うとか、労働力商品を売った分だけ働かなければならないというあたりまえのことを無意識に認めることである。柄谷が言っているのは、生産と消費の「間」の時間的齟齬を指摘しているにすぎないから、それくらいなら、個々の労働者の「日常の時間意識」の中におさまるはずで、あたりまえに交換し、それが等価だったり、不等価だったりするのは、ごくありふれた風景とみなすことも可能だ。
次に、この盲点の「飛躍」は、理由なくしては成立しないということである。つまり、こういう柄谷の考え方がでてきたということ自体、一定の歴史的理由があるということだ。生産過程と交換過程が分離されたのは、わたしの別の言葉を使えば、価値法則が崩れたということにほかならないが、そのことは、初めの問題と関連して、恣意的な自由の問題を抜きにしては語れないことである。
なぜ、価値法則が崩れたのだろうか。おそらく、ここには膨大な生産過程の回路の緻密さと高度化が後押しし、価値、貨幣、資本、階級という構図が、臨界点を超えた証であることは疑いえない。柄谷のいうように、その「間」には信用経済が介在するのみでなく、商品の生産過程における付加価値が膨れ上がり、それにともなって、逓減する消費が対応できないまま、生産と消費時間の均衡が崩れた証拠と受け取れる。ならば、生産と消費の時間的先後関係の齟齬というよりも、生産する時間と消費する時間の齟齬という方が相応しいようにおもえる。こういう言い方は、一見、「階級」的視点を無視しているかのように理解されがちであるが、そうではなく、マルクス時代には考えられなかった資本主義の変貌が、階級関係そのものが時間と空間をはさんで、より超越論的に恣意性という言葉の周りで異常にせり出した結果なのだ。
おそらく、柄谷において想定されている時間の間尺には、階級的な視点によってマルクスの理論がそのまま現代の資本主義に通用するかのように考え、やがて社会主義や共産主義が自明であるかのように想定されている範囲内であり、必ず、当事者意識（内省）を欠如するものである。わたしたちなら、現実に起こっている家族・学級・職場崩壊、それを横目で見ているマスコミ、学者の姿こそ、恣意性の高度化ととらえ、マルクスが経済学の形而上学に込めた関係の網の目をより現実的な方向に着地させることを選ぶだろうとおもう。
９ 『世界史の構造』の方法
柄谷が強調しているのは、国家や共同体、ネーションにも独自の交換様式があって、資本主義を規定しているということである。マルクスは、国家やネーションの交換様式を括弧に入れて、『資本論』の中で資本制の「商品交換」様式のみの解明に専念した。そのため、国家やネーションを上部構造に属するものとして、下部構造としての資本主義の解明に従属するという誤解が生じ、のちのマルクス主義は、後回しにした国家やネーションから足をすくわれることになった。柄谷は、もし、資本制のシステム自体に、貨幣や信用体系のような物質的な生産様式に括られる以上のものがあるとすれば、上部構造、下部構造の区別をとりはらって、それを綜合した歴史的立場で上部構造も含んだ交換の観点から、世界史の構造として提出できないかと考えた。
このあたりの柄谷の主旨は明瞭で、資本制のシステムの中には、貨幣や信用などをつうじて、形而上学と接線を結ぶものがあるはずで、それを「生産様式」のみに着眼するのでは、資本制の搾取、支配の構造をとうてい理解できないとおもえた。形而上学の挿入に見合う分だけ、その資本制のシステムには、国家やネーションの問題が不可避に絡み合っていることがわかってくる。このため、彼は資本制が歴史的に商品交換とは別の交換原理をあわせもっていることに気づき、それを「資本＝ネーション＝ステート」の三位一体と表わし、マルクスが括弧に入れた国家、ネーションへの目差しを含めて、マルクスと同じ方法で解明しようとした、これが柄谷が自身で説明している世界史の方法論のあらましである。彼はマルクスの社会構成体の歴史的諸段階にのっとり、次のように交換様式を区別して図示している。
|
社会構成体 |
支配的交換様式 |
世界システム |
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１ 氏族的 |
互酬制 Ａ |
ミニシステム |
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２ アジア的 |
略取―再分配Ｂ１ |
世界＝帝国 |
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３ 古典古代的 |
〃 Ｂ２ |
|
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４ 封建的 |
〃 Ｂ３ |
|
|
５ 資本主義的 |
商品交換 Ｃ |
世界＝経済 |
この中で、交換様式Ａとは互酬制であり、未開社会にみられる贈与とお返しで成り立つ交換の世界である。次の交換様式Ｂは、国家の発生と切り離せないもので、国家が恩恵を再分配するシステムのことである。ここでは支配共同体は被支配共同体を略奪するだけではなく、服従と交換に安全や利益を保証しなければならない継続する交換様式を指している。第三番目が、商品交換の様式であり、自由な互いの意志により双務的な契約で成り立つ交換で、貨幣の蓄蔵、独占と労働力商品という特殊な商品を売買する交換によって、資本制は階級分裂を完成する。
柄谷にとって、それらに加えて第四の交換様式Ｄが想定されなければならなかった。交換様式Ｄは、交換様式Ｂの国家を否定するだけではなく、交換様式Ｃの階級分裂をも越え、交換様式Ａの互酬制を高度に回復するものとされ、それを指して社会主義、共産主義（コミュニズム）と呼んでいる。そして、これらの交換様式はそれぞれ、Ａはネーション、Ｂは国家、Ｃは資本、ＤはＸに対応しており、資本は「資本＝ネーション＝ステート」の三位一体として交換様式の複合体を構成していることになる。
このような世界史の足取りを俯瞰して柄谷が注意を促しているのは、第一に、この社会構成体の区別が地理的な概念ではないことである。たとえば、アジア的な社会構成体は地域的な概念ではなく、世界中にいろいろな時代に見られるということ。第二は、これらの変遷が、歴史的段階として継起的にあったのではないことである。それぞれの時代に支配的な構成としてあったとしても、どんな社会構成体にも同時的に相互関連をもって存在していた。つまり、一つめで彼は、この区別を時間概念（通時化）として取り扱っており、二つめでは、それと矛盾するかのように、この同じ時間概念を空間化（共時化）して、その社会構成体においては、区別を単独で取り出すことはできないとした。このことは、あたかも歴史が「自由」という単一の概念の完成過程であるかのように考えるヘーゲルの影響を受けたマルクスの単一発展段階論の印象を崩すために、避けてはとおれない手続きであったとおもえる。
なぜ、柄谷は世界史において、「交換様式」の概念を必要としたのか。また、「交換様式」は、なぜ、世界史を必要としたのかと逆に問い返してもよい。ひとつは、言うまでもなく、「生産様式」はあくまで無機的であり、人間社会の顔としては不鮮明ということである。言ってみれば、機械や道具の変遷によって、人間の歴史を説明するには無理がある。機械や道具は人間の関係化や組織化をつうじて、はじめて生産力という形をとる。それを考えるなら機械や道具より先に、「関係」が先行しなければならないのは明らかだった。まして、国家や資本のように世界規模の人間の関係自体を問うためには、「交換」という「関係」概念が不可欠なのである。
わたしは、柄谷がこの資本制を俎上にのせ、なぜ、世界史という世界規模の概念にまでいたらなければならなかったのか、よく理解できる気がする。つまり、彼は、商品交換とは時間の限定された概念であることを見極めたかったはずだ。交換とは貨幣であり、貨幣とは商品である交換の形態はあくまでも、貨幣のフェティシズムでしかない。いわば、貨幣が暗に示すのは「オタク」のあり方にすぎない。わたしの「オタク」の定義とは、人間の生活活動全体の中で、一場面、一断面でしかないものを、あたかも全体であるかのように、拡大鏡にかけてみてしまう性癖のことを指している。ただコーヒーを飲むだけなのに、どんなコップでなければならないか、コーヒー豆は何であらねばならないかにこだわり続ける所作は、貨幣を力と見る者自身の内部の目には決して破れないものだ。
同じく商品交換は、つまり、外部へ放たれて初めて、「オタク」の自覚になる。柄谷は、貨幣を外部から、形而上学の観点から考えようとした。それは、やがて、貨幣以外の交換様式にも言及せざるをえず、世界史の構図に着地する。ただ、同じく世界史に登るといっても、おそらく、オタク的自覚をもっていたマルクスなのだが、マルクスやヘーゲルなどは、その自覚が内部と外部を区別する意識なしに、そのままで外部につながる幸運な時代を生きていた。わたしたちは、世界史との距離感を測定せずしては、決して世界史を語ることはできなくなったのだ。
別のモノを括弧でくくるというのは、ある面で幸運な時代の雰囲気を背景に隠し持っている。なぜなら、括った括弧は外さなければ、歴史は作れないからだ。
１０ 始原のありか
始原は在るものではなく、見つけるものだとの認識に立てば、柄谷がなぜ始原を発見しなければならなかったかを問うことができる。それは同時に、わが国でだれもなしえていない「世界史」という概念を提出しなければならなかった理由を問うことを意味する。
現在の資本制の中では、関係様式が網の目のように張り巡らされ、それに威圧されたわれわれの停滞感と手の届かない無力さを刻印しているのは確かだが、それだけだったら、別に、始原に戻る必要もない。対症療法なら、繊細なくせに放埓なふりをしてみせるポストモダンや、郷愁のプレモダンでもこと足りる。しかし、ひとが世界史へのぼるには別の階梯が潜んでいるようにおもえる。わたしの考えでは、ヘーゲルのような近代社会の最後性の認識が不可欠なのだ、それがなければ始原には戻れない。
柄谷の始原は人類の定住化を起点に、氏族制への経路から始まっている。狩猟採集民が定住するようになったのは、氷河期の後の温暖化の際に漁業に携わるようになってからである。さらに、農耕や牧畜の始まりは、定住の原因ではなく、逆に、定住こそが農耕や牧畜の始まりであり、人類生活の革命的な変化であったことが言われている。
定住は、食物の備蓄を可能にし、そこから始まった氏族制社会においては、当然のように不平等や戦争の萌芽がうまれるはずであった。にもかかわらず、そこでは社会契約に似た互酬制が共同体を踏み支えるものとなった。
≪バンド社会では共同寄託がなされる。つまり、すべての物が共同所有されている。だが、定住して個々の世帯で備蓄が始まると、不平等が生じ、抗争が生じる。それを解消する方法が贈与の互酬である。モースによれば、互酬を支えるものとして、三つの義務がある。贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務、である。このような「贈与の義務」によって、もともと敵対的ないしよそよそしかった集団の間に、強い紐帯が生まれる。また、贈与を通して、世帯内部にあった「平等主義」が、大きな共同体全体に広がる。氏族社会は富と権力の「不平等」が生まれる要素をたえずもっているのだが、同時に、それは「贈与の義務」によってたえず抑制されるようになっているのである。≫『世界史の構造』柄谷行人著
ここで「バンド社会」と言われているのは、前氏族段階の狩猟採集の漂泊小集団（家族）を指している。そのような社会から、定住をつうじて氏族共同体が生まれたのだが、それには、血のつながりではなく互酬制の原則が働いた。柄谷によれば、近親相姦を避けるための外婚制の導入は、デュルケムのように血の不浄の意識からではなく、モースのように互酬制から説明されるべきだとした。氏族社会の親族構造においては、バンド社会のような家族中心の単位が、氏族という上位集団あるいは、氏族と氏族を結びつける部族や部族連合体のような集団をかたちづくるために見逃せない紐帯の役割をはたした。娘や息子は元の家族に所属していながら他の家族に贈与される。贈与は見返りによって元の家族にも家族員が迎えられることになる。これは家族間だけではなく、氏族間でもおこなわれる。それゆえ、親族を基盤とする社会は血のつながりではなく、贈与の力によって安定と平和がもたらされた社会的紐帯と考えるべきだとした。
そこで、柄谷は、こういう氏族集団の保っている平和や平等の原理について着目している。共同体と共同体との間でうまれる不和や角逐はどのように対処されているのかを考えるとき、互酬制は敵対的な関係を変える力をもった。そのシステムはかけがえのないものであり、柄谷においては、遊動性バンドからいきなりアジア的国家社会へ移行することなく、氏族社会へ移行したことが、驚きをもって眺められている。つまり、なぜ、戦争や抗争、富や権力の偏在や格差が支配するアジア的国家社会ではなく、平和や平等の氏族社会が必然のように現われたか、そこにこそ、未来の可能性を掬い取る鍵を望んだ。そして、互酬制をもたらした原因について、フロイトを援用しながら、バンド社会のコミュニズムからの強迫観念によるとみなされている。
贈与と返礼の互酬制とは、食物、財産、女性、土地、奉仕、労働などさまざまなものが贈与され、返礼されるシステムを指している。この交換様式には、もちろん貨幣は媒介されておらず、商品交換に慣らされたわたしたちには、心の情感や嫉妬など心の起伏がとてもたどりにくい交換様式であるが、そこに平等を保障する秘密がかくされているとした。彼は商品交換と互酬交換を見比べて次のように述べている。
商品交換においては、所有権が一方から他方へ移る。そこで、貨幣を手にしたものは、他の物を所有しようとする欲望が起こるから、貨幣を蓄蔵することになる。ところが、贈与の場合には、使用権は移るものの所有権は移転しない。よって、貰い受けた贈与物は、貨幣にはちがいないが、他の物を所有しようとする権利を産まない。それどころか、逆に、それを得ることによって、お返しの義務が生じる。貨幣は蓄積や所有の意欲をそそるが、贈与品は、欲望とは逆方向の義務を生じるのだ。
柄谷は、内在的価値論に裏づけられた一般的等価形態を認めていないから、ここでの貨幣はただの流通手段とだけとらえており、物よりも貨幣を重んじる倒錯（物心崇拝）は封印されている。つまり、贈与物と返礼物の価値の大きさの比較は杞憂にすぎない。こういう杞憂は商品交換がもたらした偏見を吹き飛ばす意味において、互酬制は、人間と自然との関係においても新たな関係を築くことになる。
柄谷は、氏族社会において生き生きと飛び回っていた精霊たちについて、わたしたちとはまったく逆の接近の仕方をしている。バタイユの「供犠」の解釈では、労働世界の事物化した秩序がひとびとのすべての環境を支配し中性化していたことにはじまりがあった。その「死」の僅かな光は、まさに消滅する瞬間において、内奥の生を闇の中からひきだし、別の世界を開示する。内奥の生は現実秩序に覆われ、もはや、自力ではそれを表出することができなくなっているまさにその場面で、「破壊」と「死」の暴力性と消尽が、逆に、生命の悦びをもたらす。
ところが、柄谷は、労働世界の事物化した秩序より、アニミズムこそがあるがままの生であり、供犠に名を借りた「贈与」は、それにより自然に負債を与え、自然の精霊を封印する役割をはたすことになる。つまり、「他者」であった自然を、人間のモノ（事物）としてあつかう認可の意味を「供犠」に込めたのである。つまり、債権の担保として、動物や植物を殺傷する権利を得た。ここではバタイユのように、死が生の偉大な肯定者であることを認めているのだが、それが現実秩序の否定と破壊の方向ではなく、事物としての物＝客体や、人間の内奥に含まれる生命の肯定に差し替えられているといえる。おそらく、ここに柄谷のヘーゲルの弁証法の転倒の契機が隠されていた。
１１ 国家の起源の難しさ
国家の起源について、今まで目に見えるように説明してくれたひとはいなかった。
≪国家はすでに出現する前から、これらの原始人社会がその社会の存続のために祓いのける現勢的な極限として、もしくはこれらの社会が収斂していく点、みずから滅びることなくしては到達できない点として作用している。これらの社会の中には、国家の方に向かうベクトルと、国家を祓いのけるメカニズムが同時に存在し、接近するにしたがってより遠くへと押しやられる収束点が存在する。祓いのけることは、同時に先取りすることでもある。≫『千のプラトー』ドゥルーズ＋ガタリ著 宇野邦一他訳
ドゥルーズの思想が信じられないのは、こういうおもわせぶりな言い廻しが延々と続くからだ。こんな講談思想は、一生、中心化と非中心化の周辺で徘徊していろと言いたいところだ。もし、国家は社会の中に予感という「気分」に閉じ込められるとしたら、先取りされるもされないもないではないか。また、いつでもいたる所に国家は存在したのかしなかったのか、分からないということが、あたかもゲームのようになってしまっているのに気づかない。それでは、どうにもならないではないか。この種の暇人の哲学は西欧哲学の純粋土壌では生きながらえても、ほとんど雑菌だらけのわが国ではまもなく死滅する運命にある。これでは、国家とは同時に反国家であり、また、非国家であり、半国家にもなりうる上、また、逆も真ではないか。国家を否定したときに半国家や非国家がでてきてしまうのなら、未来に向けて何の指針も示さない。
今度、『世界史の構造』によって、死滅を予定された国家の輪郭を起源からくっきり浮かび上がらせてくれることになった。わたしたちの慣れ親しんだ国家観は、共同体の内部からもたらされたものだ。エンゲルスやレーニンは、国家を支配階級が被支配階級を政治的に支配する道具＝機関とみなした。つまり、共同体内部の階級対立を緩和したり、一方の階級を抑圧するためのものとして国家は存在するとされた。だから、この理論だと、当然、支配権力を握ったプロレタリアートは人民を抑圧することが正当化される。
だが、柄谷は国家が共同体の内部から発展することはないとしている。なぜなら、氏族、部族的社会には、内部の矛盾を贈与と再分配において解消するシステムがすでに備わっており、絶対的な権力関係やヒエラルキーをつくりださないからである。かといって、外部の共同体の征服によってもたらされたものとも考えていない。征服は一時的なものにすぎないからだ。
≪征服が国家をもたらさないとしたら、国家は「内から」来るのでなければならないはずである。が、すでに述べたように、内部からは主権者は出てこない。共同体の内部でいかに氏族間の対立が生じても、それが公的な権力の自立をもたらすことはない。すると、国家は共同体の内部で生じるというテーゼと、国家は共同体の内部では生じないというアンチテーゼが成り立つ。しかし、このアンチノミーは、国家の起源として、支配共同体と被支配共同体の間に一種の「交換」を見出すことによって解消される。それは、征服した側が被征服者の服従に対して保護を与え、貢納に対して再分配するという「交換」のかたちをとることである。そのとき、征服という事実そのものが当事者たちにとって「否認」されるようになる。≫『世界史の構造』柄谷行人著
一見すると、ドゥルーズの韜晦に似ているが、柄谷はホッブス流の社会契約論を下敷きにして、征服共同体と被征服共同体の間の「交換」という無意識的な合意形成を線引きしており、その引いた線だけは明瞭である。だが、それだけなら、マルクスが言った「幻想の共同性」の意味には届かない。そこで、共同体＝国家の形成において最も重要な役割を果たしたのは宗教であったとしている。共同体においても首長は祭祀の実行者であった。まして、原国家の形成においては、各共同体の神（先祖神、部族神）を超えた神が不可欠であった。
これから後の柄谷は、国家によって農業共同体が形成されたのであって、その逆ではないというような説明が加えられているが、これは農業共同体のユートピアの夢をみやすいロマンチシズムを戒めていることになる。また、国家の形成と同時に、ウィットフォーゲルのように、東洋的専制国家は大規模な灌漑工事を進め、常備軍、官僚制など人の組織を整備していくさまが辿られている。
しかし、わたしの狭い知見によっても、このあたりの解説は、少なくとも起源の神話に関しては眉つばとおもえる。なぜか。柄谷は、共同体と共同体の征服、被征服関係が、社会契約によって、直接に相殺されるかのような言い方をしているのであるが、この類の共同体相互の交換関係ではとうてい国家を産みだす動機にはならない。彼自身、互酬制が共同体の上下関係を解消するシステムと認めているのに、なぜ、その関係が、急に、征服、被征服に転じたのか足取りが不明であるからだ。何より、そこから部族連合より奥行きもあり広域でもある原国家がすんなり発生してしまうのか疑問が残る。
わたしは、このあたりでホッブス流の社会契約論を借りて、原国家の発生を説明するのは無理があることに気づく。というより、ホッブスが単位にした多数の個人と国家との契約という概念について、柄谷が意訳して、共同体と共同体間の契約関係にしていったところに落とし穴がある。なぜなら、上位の共同体と下位の共同体ができるためには、媒介になる共同体が不可欠なのだ。つまり、バタイユの「供犠」の発生に倣えば、時間の順序から言って、三つ以上の共同体がなければ「幻想性の共同体」は生じない。柄谷は、官僚が主人と奴隷の中間に位置し、奴隷であり「主人」である両義性において、ヘーゲルの言う「主人と奴隷の弁証法」に気を留めているのなら、もっと、「交換」の二重性を取り出すべきであった。なぜ、柄谷は、国家の起源をエジプトやローマの例を引いて説明するのか分からないが、わが国の国家の足跡をについて優れた業績を残した折口信夫は、その発生の秘密をほとんど暗示していた。
≪上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、国家を考へる事がなかつた。邑自身が国家で、邑の集団として国家を思うても見なかつた。隣りあうふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其れ同時に、同族ながら邑を異にする反発心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事実は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に厳に守られた秘密の信仰の上に、霊験あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根抵を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであろう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。≫『国文学の発生（第一稿）』折口信夫著
折口は、シテとして山の神が祀られるようになったのは、海岸に沿って住居を構えていた民がより広い山地の耕作地を求めて移住したからであるという言い方をしている。そこで、海の神としての常世神の役回りを山の神に振替えたのがその原因とみているが、海の神から山の神への切り替えは厳密に検証されなくてはならないとおもえる。
ここで注目すべきは、ひとつは高天原の神とは別の系列として「山の神」信仰があったこと、もうひとつは、山の神信仰が常世神と地霊（田の神）とのはざまで、あたかも、二重性の関係を持ってきたということである。いわば、地霊（田の神）は常世神から二重に疎外されたことになる。この二重性の疎外によってはじめて、列島を縦断する「時間」が山の神を獲得したことになる。二重性は、もともと常世神がシテ、「才の男」がワキの対立関係として常世神そのものの二重性に胚胎していた。つまり、常世神の二重性は、今度は常世神と山の神の二重性をもたらして、さらに山の神と地霊（田の神）の二重性を産み出した。いいかえれば、その連続性は「起源」に一歩近づく契機になる。ここで田の神（地霊）を消費的生産、山の神の信仰を生産的生産とみなすなら、他方、常世神のワキとしての山の神の信仰を生産的消費、常世神を消費的消費に象徴させることができる。そこで時間は消費と生産にまたがって、ひとつは田の神（地霊）と常世神の環が、そして、もう一方で、生産と消費の二つの顔をもった山の神の環が想定される。つまり、消費の時間と空間は生産のそれと鏡をはさんで倒立する。ここではじめて消費的生産と消費としての消費の円環が辿れることになる。なぜ、これが国家の起源なのか。喰うためにはたらく時間（消費的生産）が、列島を縦断するもう「ひとつの時間」と重なるからだ。
１２ 国家論のありか
現在の先進資本主義国で行われている正義は、ネオコンの新自由主義か、さもなくば、資本主義的市場経済がもたらす格差を国家の力を借りて富の再分配を行い、不平等を是正するものである。福祉国家の幻影もまさにそれに帰着するのだが、資本主義経済において貨幣をもつものともたないものの不平等そのものを是正することはできないと柄谷は言う。柄谷は宇野経済学を借りて、マルクスの『資本論』が資本主義経済の純粋モデルであり、段階論や現状分析はまったく別であるとしている。柄谷の段階論の中でもっとも注目すべきは、ロシア革命について全く別のイメージをわたしたちにもたらしてくれたことだ。つまり、どんな幻想も抱かないでレーニンやトロツキーの行った１９１７年の革命を見るなら、最初から裏切られることを運命づけられた革命であった。
当時のロシアには無数のソヴィエトが、議会とともに二重権力状態を作っていた。ボリシェヴィキはソヴィエトの少数派にもかかわらず、軍事クーデタによって議会を閉鎖し、ソヴィエトの反対派を弾圧して、国家権力を手中に収めた。彼らボリシェヴィキはこの時、レーニン自身の『国家と革命』にならって、国家を廃棄する意志をもっていたのだろうか、柄谷はそれを信じていない。この見方は特筆すべきだ。一般に、権力を手中に収めた（奪取した）まではよかったが、プロレタリア権力は国内外の干渉と内戦の危機によって身動きが取れなくなってしまい、自ら疲弊し、反対派の弾圧と閉鎖された交易により物資不足におちいり、自国権益のナショナリズムとスターリンの台頭を許して、どうしようもなく変形し、歪められてしまったというのが通説になっている。事実、第四インターナショナルに活動舞台を移したトロツキーは、もっぱら、政治的に反資本主義的、反スターリニズムの旗を掲げ、「裏切られた革命」を全面に押し出した。だが、それはありうべき政治的・軍事的革命の幻影を追っているに等しかった。
これらの歴史の断面は、柄谷の「世界同時革命」の基礎理念とはまったくといってよいほどそぐわない。一国規模で革命が行われると信じている方が間違っており、世界へ経済と社会が結びついた革命でないなら、実効性がないに等しいからである。彼の描いているそれは、同様に１９６８年の学生反乱のような政治＝文化主義的なものではなく、対抗すべき対象は、資本とネーション（想像力）と国家が三位一体になって閉じられた環をつくっている国家の内側からと外側から綜合される革命をおいてしかない。
≪マルクスがその限界を指摘したため、協同組合や地域通貨、つまり、資本制社会の内部においてそれを脱却しようとする運動は、否定されないまでも、軽視されてきた。しかし、たとえそれによって資本主義を超克できないとしても、資本主義とは異なる経済圏の創出は重要である。それは、資本主義を超えることがどういうものかを、あらかじめ人々に実感させる。…中略…ボイコットには二通りある。第一に、商品を買わないことであり、第二に、労働力商品を売らないことである。だが、そのためには、そうしないですむ条件を創らなければならない。つまり、非資本主義的な経済圏が存在しなければならない。≫
≫『世界史の構造』柄谷行人著
内側からの革命は、流通と生産をまたぐ協同組合、地域通貨、新たな信用システムで、非資本主義的な経済圏の創出によって行われる。しかし、資本制の世界性を考えると、一国の経済圏のみで社会主義が成立するというような言辞は形容矛盾にすぎない。同じ段階で、必ず、外側を向いた国家のありかが問われる。マルクスは、社会主義革命は一国規模ではなしえない、少なくとも主要な諸民族が一挙に同時にのみなしえると唱えた。そのことは、後世のソ連邦や中国の歴史が革命の不可能性の教訓を与えてくれた。カントの言葉を借りた「公民的組織」のみが国家を超え世界共和国を成就する。この世界共和国とは、世界＝帝国のように上位の主権者をもつのではなく、また、交換的正義にもとづき、経済的格差を再分配によって緩和するのでもなく、諸国家が連邦したままで、分配的正義により、かつての部族共同体の例のように交換様式Ａの互酬原理により相互間の実質的平等と相互的独立を保障しあうことである。それはほかでもなく、旧来の世界システムを超えることであり、原初のミニ世界システムをより高度な次元で回復させることであった。
こうして、柄谷は、国家の内側からと外側からの同時進行の革命を目指しながら、内側からは労働力商品と賃労働の廃止による政治的国家の上底化をつうじて社会的国家（市民社会）を実現し、外向きには政治的国家の相互解消をめざし、世界規模の交換様式の入れ替えを行おうとする。
しかし、ここで、資本主義を超克できないとしても、やることの方がやらないで後退するよりもましかもしれないとおもわれている協同組合や地域通貨に賭ける期待と、カントの永遠平和の世界システムの絶対命題のあいだには齟齬は残ってしまう。柄谷はそのことに気づいていて、協同組合や地域通貨だけでは、資本主義経済を変えることはないとおもっているから、言葉の判断停止を隠して小声で喋っている。そのため「政治的国家」と「社会的国家」の接合面に媒介が欠けてしまい、不明瞭な箇所が露出してしまう。
おそらく、国家であって国家でないというアンチノミーに対して、半国家を想定した彼にとって、国家とは外側からくることに比重がおかれたため、国家が外側に映す像と内側に映す像をつなぐパイプがつながらないような仕組みにからまっているのだ。彼の政治革命と経済革命の区別に映る「政治革命」は政治権力の奪取を含まない意味において限界があったのではなく、ほんとうは「政治革命」は、語義どおり権力行使の方法を変えることであり、「政治的国家」の内実を変えることの意味なのだ。
≪＜社会的＝経済的国家＞が＜ブルジョア国家＞であるということは、＜国家権力＞の本質的かつ基本的側面としての＜政治的＝イデオロギー的権力＞―＜政治的国家＞もまた＜ブルジョア国家＞であることをそのまま示すものでは断じてない。＜政治的国家＞を掌握する問題―すなわち厳密な意味での＜ブルジョア革命＞の問題と、＜社会的＝経済的国家＞を掌握する問題とは、従来の殆んど大多数の“マルクス主義者”のように、決して混同ないし同一視してはならないのであり、この二つの問題は明確に区別して究明されなければならないのである。したがって、＜政治的国家＞を掌握する事業と、＜社会的＝経済的国家＞の掌握をもって一応完了する、＜社会＝経済革命＞の遂行とでは、当然のことながらそれぞれ異なった努力が必要だということにもなる。≫『革命とコミューン』滝村隆一著
ここで、滝村が断定しているのは、わが国においては、明治維新によっても「経済＝社会的」にはブルジョア革命を形成したが、それが封建的な天皇制イデオロギーを克服するまでは至らず、ブルジョアジーは終戦になるまで自己を政治権力として確立するにはいたらなかった経緯を説明するくだりで述べられたものである。その国家論を意志論としてとらえた滝村の論旨からすれば、柄谷の「交換様式」をとおして、経済社会と政治的国家を同日に論じてしまうことは、タダモノ論にみえるのは疑いない。マルクス思想の原則を信じるなら、「政治革命」と「経済＝社会革命」の区別もつかないではないか、ということになる。もし、柄谷と滝村が架空の対論をするなら、およそ次のようになるはずだ。
（滝村）
柄谷の論理はアナーキズムにすぎない。その理由は、歴史上、政治的権力がなぜ二重権力として現われるのかということを考えれば明白である。政治的国家は意志の集合であるから、社会的国家とは交わらない。たとえ、地域的に非資本制的な交換様式を採用し、社会的国家として位置づけられても、そのこと自体では、革命は実現できない。アナルコ・サンジカリズムの誤りは、政治的意志の革命を経済＝社会的革命と混同し、あたかも、政治革命を抜きにして、社会主義革命ができるかのように勘違いしているだけだ。
（柄谷）
自分は「政治革命」も「経済＝社会革命」の両方ともに興味はない。というより、両者を包み込む革命を考えている。社会革命には必ず政治革命が先行するかのように考えるのはドグマにすぎない。そのドグマこそがロシア革命の歪みをつくり出した。なぜ、プルードンの思想が参考になるかといえば、それらを包括する「社会革命」を目指しているからだ。国家にできること、国家にしかできないことなどは存在しない。ただ、人間が国家や帝国という魔物を産み出したのだから、人間の力によって、その魔物を追い払うことができるからだ。
確かに、人間が国家を産み出したのだから、それを回収することはできるかもしれないが、そのことの困難さは、不可逆的な往路を復路にかえるほどであるにちがいない。ある日、突然、労働者が自分の労働力が売買されることの理不尽さに気づき、労働をボイコットすればいいというほど生易しいものではない。だが、滝村は、奪取すべき政治権力のあり方はどのようなものかという問いかけには、答えられていない。それにひきかえ、柄谷は、社会的国家を商品交換と同じ交換様式として定式化し、市民社会と同じように構成しようとしており、この点は、一歩前に進んでいるとおもえる。
しかし、政治的国家は１対１の相手国との間で、「相補的」に映るだけとは限らない。「相補性」の意味は、第三者の他国家間の複層的な関係の「間」に挟まっているからだ。その挟まった政治的国家の像は、決して、二国間の交換様式だけでみえるものではない。そこにこそ、ほんとうは政治的国家の内部から、政治的国家自身の顔がみえない秘密が隠されているのだ。
１３ ネーションとナショナリズム
政治的国家の内部から、政治的国家自身の顔がみえない秘密というのは、国家の二重性ということにほかならない。これは、もしかしたら、「交換様式」によっては見えないかもしれない。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の中で次のように述べている。
≪特殊利害と共同利害とのこの矛盾にもとづいて、共同利害は、個別および全体の現実的な利害からきりはなされて国家として一つの独立な姿をとる。そしてそれは同時にまた幻想的な共同性としてである。…中略…すなわち、国家の内部におけるすべての闘争、民主主義や貴族主義や君主主義のあいだの闘争、選挙権などなどのための闘争は、種々な回収のあいだの現実的な闘争がおこなわれるときの幻想的な諸形態にほかならないということ、そしてさらに、およそ支配をめざして努力している階級は、たとえプロレタリアートのばあいのようにその階級の支配がふるい社会形態全体と支配一般との廃棄の条件となるとしても、自己の利害をやはりまた一般的なものとしてかかげるためには（最初の瞬間にはこれはやむをえない）まず政治権力を奪取しなければならぬということである。≫『ドイツ・イデオロギー』マルクス・エンゲルス著 古在由重訳
マルクスがこの「幻想的な共同性」の実在的な土台として上げているのは、家族集合体、種族集合体のうちに存する紐帯、たとえば、血肉、言語、大規模な分業における人間集団である。その上、マルクスにおいては分業で制約されている諸階級、とりわけ支配階級が土台となっているとした。つまり、この「幻想的な共同性」を政治的国家と読みなおせば、柄谷が言っている交換様式Ａも交換様式ＢもＣも土台に含まれていると見なければならない。だが、柄谷はネーションという「想像的な共同体」は、資本制経済がもたらす不平等、格差の欠如を想像的に補填され解消させるものとして、互酬的な共同体に依存しているとした。資本が感性、国家が悟性なら、ネーションとはさしずめ想像力の産物ととらえられ、それは平等主義的な欲求の表れであり、国家や資本へのプロテストの原基になったり、プロテストに対するクッションの役割を演じる。
だが、上記の『ドイツ・イデオロギー』引用文の後段の政治的な闘争が行われるときには、その政治的国家の中で特殊利害を一般利害として押し出さなければならないということと、柄谷の交換様式Ａとは明らかに様相を異にする。「想像的な共同体」が資本や国家のリアリズムに背馳するものであり、その填補という考え方は、闘争関係と食い違ってしまう。別に、マルクスの考えと柄谷の考えが合致しないからといっていけないわけではないのだが、ただ、イメージする国家の位相のちがいだけはわきまえなければならないとおもえる。
柄谷の想定したネーションは、ステーツの原理に即応した「近代国家」であるが、マルクスのいう「幻想の共同性」ではない。つまり、相反する交換意識を喚起するとすれば、資本制経済とそのステーツに対置すべき想像上の産物であり、わたしたちが、通常、国家という場合に想定している政府や行政府のことを指している。マルクスにとって、プロレタリアートが政治権力を奪取しなければならない国家とは、「政治的国家」のことであり、柄谷の言っているのは、滝村隆一の言葉を借りれば「社会的国家」である。
「政治的国家」と「社会的国家」の距離は測りにくい。たとえば、今度の尖閣列島における中国漁船の拿捕に関する両国政府の対応には、その国家をめぐる理解の違いが明らかになった。
中国は油田に対する資源ナショナリズムの観点から、船長の即時釈放をせまり、レアアースの禁輸措置を行った。柄谷の見方からすれば、中国は急速な高度成長の影で、日本と同じように、不平等や格差が生じているのは確かであり、そのことをナショナリズムの問題に補填し、強硬な姿勢をつらぬいたのには間違いないとおもうが、それは決して政治的国家が露出したことにはならない。また、それに応じたわが国の政府も、みずからの思惑としては、社会的国家の一部として解決しようとした。釈放を地検の判断としてこだわったのもそのためだ。もし、政治的国家の問題として処理しようとするなら、自由や民主主義の問題に発展し、拿捕の瞬間を撮影したビデオテープを公開していただろうとおもう。つまり、思惑としては、両国政府とも近代ナショナリズムの手法をとったのであり、先の大戦やイラク戦争のような構えはとれなくなってしまっている。それにひきかえ、マスコミは中国の対応を日本への恫喝とみなし、世界の一般常識がとおらない共産党独裁国家のおそろしさを吹聴している。先に、毒ギョーザやドラエモン人形の剽窃で、マスコミあげて興味本位に後進国中国キャンペーンをおこなったことをケロリと忘れて、また、まことしやかにひとびとの感情を煽っている。つい何十年か前、米国は日本の高度成長経済を妬んで、ひどい日本紹介をやったのを知らないのだろうか。
つまり、これは戦争の問題にむすびつくような出来事ではないことはあきらかだ。なぜなら、ナショナリズムと戦争という交換様式が結びつくのは、政治的国家の水準においてのみである。
したがって、「社会的国家」の交換様式は「政治的国家」の交換様式にそのまま適用することはできない。適用できないというより、Ａという特殊利害、Ｂという特殊利害は、政治的国家においては、そのままの形では現われず、マルクスがいうようにお互いにイデオロギー権力として一般利害という形をとってくる。もちろん、階級の特殊利害の対立も直接的には現われず媒介される。つまり、国家はわたしたちに二重性の負荷を与えてくるのだ。
負荷をわたしたちに与えると言うのは、階級は「政治的階級」と「経済＝社会的階級」の二重性をもたらすということである。ただし、現在の政治的国家のイデオロギー装置や観念的強制力はなくなったわけではないが、軍隊や教育の影響が弱まった分だけ水位が低下している。そのため、生産過程における労働運動が目標を失って、ほとんど壊滅状態であることから、柄谷は、よりわたしたちに見えやすい流通過程での運動を模索しようとしているのであるが、今後、流通過程における運動が必ずしも政治性をもたないとは限らない。もし、流通と生産をまたぐ協同組合、地域通貨、新たな信用システムが一定の水準の拡がりをみせはじめるときには、「政治的階級」として登場するのは明らかである。
柄谷が評価している１９６８年の運動のときから、一部の学生はそのことに気づいていた。多くは、アナルコ・サンジカリズムや政治闘争至上主義の形をとっていたが、別に、政治的国家と社会的国家のちがい、また、政治的国家と経済＝社会構成のちがいをふまえ、階級は「あるものではなくつくるもの」という発想で、政治的階級を創ろうとした。それは、政治権力の奪取だけにこだわったためではなく、社会的国家の権力とは明らかにちがうものとして政治的国家を構成しようとした。ところが、その政治的国家が他国や世界と対峙しようとしたときに、世界史を構成することに失敗し、破綻した。ここにおいて「世界同時革命」はかけ声だけのものになり、逆に、戦争を引き寄せる結果になった。
また、政治的国家を「共同性の幻想」として了解したまではよかったが、自分のものにひきよせることができなくなって、あるものは「共同性」に力点をおいた幻想性に、あるものは、「幻想性」に力点をおいた共同性の解釈にわかれて、政治の世界そのものの再確認を要することになってしまった。「共同性」に力点をおいたひとたちは、内ゲバを行い、集団性を守ろうとし、「幻想性」に力点をおいたひとたちは、政治の世界から離れて行った。
わたしたちにとって、戦争や内ゲバを引き寄せる「共同性の幻想」が無効であることを知っている。おそらく、柄谷は、そういう了解事項から出発し、政治的国家に抵触することなしに、資本＝ネーション＝ボロメオの環をはずそうとしたとおもえる。