21世紀に入って、西欧近代の所産である「市民社会」の概念が、復権している。国際連合のインターネット・サイトには、「市民社会におけるパートナー」のページがあり、アナン事務総長の言葉が写真入りで掲げられている。
グローバル化した世界経済の中枢にある世界銀行も「市民社会」を重視し、以下のように述べる。
じっさい「市民社会」とその思想は、発祥地のヨーロッパを越えて、世界のすみずみに広がりつつある。アジアにおける華人社会の発展を克明に論じた本書もそのひとつであるが、そこで受容され構想されている「市民社会」は、この概念をアジアで最も早く受容した日本におけるそれとは、少しく異なっているかもしれない。
そこで、ここではひとまず日本における「市民社会」概念の受容と展開をトレースし、それをヨーロッパやアジアにおける問題と重ね合わせてみることとする。そのさい、社会主義国として発展してきた中国における「市民社会」理解と対比するため、中国よりも早く、マルクスを介して受容された日本の「市民社会」概念の特殊な性格に注目する。
M・リーデルやJ・ホール、コーエン=アラートらの整理によって知られるように、「市民社会」の概念史は、その生誕の地であるヨーロッパにおいても、重層的で複線的である。各国語の表現で微妙なニュアンスがあり、論者によりさまざまな意味が込められている(リーデル『市民社会の概念史』以文社、一九九〇年、参照)。
日本においては、マルクス主義の受容と「市民社会」概念との出会いが重なったため、その翻訳語「市民社会」の原語は、英語のcivil society や仏語のsociete civileではなかった。ヘーゲルを経由してマルクスにしばしば現れる、ドイツ語のburgerliche Gesellshaftであった。
それは、マルクス主義の「土台・上部構造」論と「国家と市民社会」という方法論的メタファーにフィルターされて、しばしば経済還元主義的に扱われ、「ブルジョア社会=資本制社会」と等置しうるものとイメージされてきた。しかも、そのマルクス主義理解そのものが、レーニン主義・スターリン主義のロシア的バイアスを帯びていた。その「階級・階級闘争」概念の中核性・至高性ゆえに、「市民・市民社会」概念が真面目にとりあげられることは少なかった。
そこには、日本語の「市民」とドイツ語のBurger、仏語のbourgeiosとcitoyen、英語のcitizenとドイツ語のBurgerのあいだにあるさけがたいズレ、戦後日本におけるヘーゲル=マルクス系譜の文献解釈学の圧倒的優勢、そして丸山真男・大塚久雄らいわゆる近代主義派に対するマルクス派の種差的アイデンティティも反映されていた。
近代主義派が「市民革命・市民社会」と日本語訳するものを、マルクス派は「ブルジョア革命・ブルジョア社会」と訳し、唯物史観の単線発展段階論と接合することによって、その「プロレタリア革命」「社会主義・共産主義社会」に対する前史的性格・階級的性格を強調することになった。
日高六郎の巧みな比喩を用いるならば、近代主義派が「市民革命」によって達成される「市民社会」を「下車駅」と考えたのに対し、マルクス派は「ブルジョア民主主義革命」によって形成される「ブルジョア社会」を「プロレタリア社会主義革命」によって可能になる「社会主義・共産主義社会」への「通過駅」と考えることによって、前者=近代主義派を批判し、時には軽蔑することさえできたのである。
同時に注意すべきは、戦後日本マルクス派のなかの最大勢力であった日本共産党の系譜が、当代日本の革命戦略を「ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ」と二段階に構想することによって、理論的には対立し「不十分」であるはずの近代主義派も、政治的には「通過駅」までは同行可能な「同伴者」となった。戦後すぐの時期から理論的には「近代主義」批判が行われ、丸山真男に対する批判は晩年まで繰り返されたが、政治史のうえでのいわゆる「戦後民主主義」は、イデオロギー的に対立する両派の政治的影響力の同盟によって支えられていた(山口定ほか『市民自立の政治戦略』朝日新聞社、一九九二年、後藤道夫「戦後思想」、渡辺治編『現代日本社会論』労働旬報社、一九九六年、参照)。
その政治的同盟とは、筆者流に解釈すれば、「階級」と「市民」との対立をこえた「統一戦線」というよりも、「社会」の概念に関わるものであった。敗戦・占領改革によっても、日本には「前近代社会」の様相が色濃く残されていた。「ブルジョア的」であれ「市民的」であれ、ようやく獲得された日本国憲法の「民主主義」の定着が急務であると認識されていた限りで、伝統的保守に対抗する両者の政治的共闘は可能であった。
そもそも日本語の「社会」そのものが、明治維新後の輸入語であり、「社会問題」の源泉であったから、今日風にいえば、伝統的「世間」に対する近代的「社会」の定着のために、マルクス派も近代主義派も、それぞれに役割を果たさなければならなかった。小中学校・高校における「社会科」教育こそ、両派の同盟を象徴するもので、「戦後民主主義」の啓蒙による「伝統的世間の市民社会への転換」が志向されていた。
しかし、高度経済成長を経たある時期から、近代主義派・マルクス派の両者の内部に、亀裂が入り始める。「近代化=産業化=都市化」「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」という経済還元主義的理解からすれば、東西冷戦下で西側資本主義圏でアメリカに次ぐ生産力を持つにいたった日本は、すでに「市民社会」を達成したはずであった。事実、丸山・大塚と共に近代主義派の代表と目された川島武宣らの論調には、変化が現れた。産業化・都市化による「大衆社会の成立」が語られた。マルクス派のなかにも、当代日本の戦略的課題を独占資本支配に対する社会主義革命に設定する論者が現れた。
ただし、丸山真男のような「永続民主主義革命」論者は、「市民社会」を「資本制社会」と等置することはなかった。むしろ産業化・都市化の進行にもかかわらず形成されない「市民的人間類型」を理念的に純化し、「市民運動」の発展に希望を託した。
マルクス派の中にも、内田義彦のように、産業化した日本を「市民社会なき資本主義」とみなす潮流が現れた(『日本資本主義の思想像』岩波書店、一九六七年)。その延長上で、ソ連・東欧など現存社会主義国の民主主義抑圧、市民的自由の欠如を告発し、『市民社会と社会主義』という問題設定を確立したのが、平田清明の記念碑的書物であった(岩波書店、一九六九年)。
一九七〇年代以降は、さまざまな「市民運動」が生まれ発展し、「市民社会」概念は新たな装いで、眼前の「管理社会」や「企業社会」と対置されるようになった。
そして実は、「市民社会=ブルジョア社会」概念発祥の地でも、同様の理論的転換が進行していた。「ベルリンの壁」崩壊後の統一ドイツにおける、burgerliche Gesellshaftとは異なる Zivil gesellshaft論の生成は、それを象徴している。
日本マルクス主義における「市民社会」概念の両義性・問題性は、たしかに日本語の翻訳バイアスをくぐってはいるが、欧米マルクス主義の系譜にも、内在していたものである。加藤『社会と国家』(岩波書店、一九九二年)で略述した、ギリシャ・ラテン語古典系列の政治的共同体(ソキエタス・キヴィタス)の系譜と中世自由都市の経済的政治的自由(ビュルガー)の系譜の語源的複相を別にしても、マルクスの「市民社会」イメージが、ヘーゲルの「家族ー市民社会ー国家」の批判から出発していることの意味は、今日的に興味深い。
ヘーゲル法哲学では、周知のように、「欲求の体系」としての「市民社会」は、司法活動・福祉行政・職業団体を媒介に、倫理的国家へと弁証された。しかしマルクスは、ヘーゲルのburgerliche Gesellschaftにおける「富と貧困の過剰」の官僚制や議会による理念的止揚を認めず、むしろ物質的諸関係にその根拠を求め、普遍的階級としてのプロレタリアートを主体とした私的所有の廃絶に「宗教的・政治的解放から人間的解放へ」の道筋を求めた。その結果、マルクスのテキスト自体に、ヘーゲルの痕跡を残した「市民社会」概念の両義性が入り込んだ。
戦後日本のマルクス主義により「ブルジョア社会」と訳されたのは、「その解剖学は経済学に求めなければならない」とされた歴史的・物質的社会関係=経済社会・資本制社会・階級社会としての「市民社会」であった。明示的には、『経済学批判序言』の有名な「唯物史観の公式」中に「ブルジョア社会の胎内で成熟する生産諸力」「法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からもまたいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的生活諸関係に根ざしているものであった。これらの生活諸関係の総体を、ヘーゲルは一八世紀のイギリス人及びフランス人の先例にならって『市民社会』という名のもとに総括している」と出てくる(以下、訳文は各種邦訳を参照しつつ、筆者の責任で改める)。
主著『資本論』の用例では、重田澄男の研究によると、「ブルジョア的=市民的」「資本家的」「近代的」は、微妙なニュアンスを伴いつつ、ほぼ同義で用いられている。「生産様式」に対する形容詞では「ブルジョア的」二回、「資本家的」二八九回、「近代的」六回であるが、「社会」に対する形容詞としては、「(近代)ブルジョア的」一六回、「資本家的」一二回、「近代的」九回だという(『資本主義の発見』御茶の水書房、一九八三年)。
ここから「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」という経済体制に即した下部構造的「市民社会」理解が生まれ、エンゲルス、レーニンで通俗化されて支配的になった。このレーニン的解釈を下敷きに、「ブルジョア民主主義=形式的平等=ブルジョア階級独裁」「プロレタリア独裁=プロレタリア民主主義=実質的平等」とする「民主主義」概念の階級的分割にまで至ったことは、周知の通りである。二〇世紀マルクス主義における「市民社会」理解の、いわば主系列である。
しかし、ヘーゲル弁証法の「市民社会」概念は、家族と国家を媒介することからも明らかなように、経済的・物質的関係や階級的社会関係には還元し得ない。マルクスにおいても、それは意識されていただろう。そうした「市民社会」の用法の副系列も、初期マルクスの「ヘーゲル国法論批判」、「市民社会と共産主義革命=政治学批判プラン」における「政治制度の思い上がり――市民的制度と国家制度へのすべての要素の二重化」「国家と市民社会の止揚のための闘争」以来、通奏低音の一つとして流れている。
よく知られた例でいえば、マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』には、「全歴史のかまど」であり「生産諸力によって規定され、逆にこれを規定し返す交通形態」としての「市民社会」という規定がある。唯物史観とは「現実的生産過程を直接的生命の物質的生産から出発して展開し、この生産様式と結びつき、それによって産み出された交通形態、すなわち種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと」であり、「市民社会をその国家としての作用において解明すると共に、意識のあらゆる多様な理論的諸産物および諸形態すなわち宗教・哲学・道徳等をすべて市民社会から説明し、そしてそれらの発生過程をそれらがもとづくそれぞれのところから跡づける」といった用例では、「ブルジョア社会」と訳しても意味が通じる。
しかし、「『市民社会』という言葉は一八世紀にあらわれたが、その時というのは所有関係がすでに古代と中世の共同体からぬけだしおえた時であった。市民社会それ自体はブルジョアジーとともにだけ発展するのであるが、生産と交通から直接に展開される社会的組織体は、いつの時代にも国家及びその他の観念的上部構造の土台をなしていて、たえずこれと同じ名前でよばれてきた」という場合には、どうであろうか? すべてを「ブルジョア社会」と訳すとニュアンスがなくなる。
マルクス文献の多くはドイツ語であるが、オリジナルがフランス語や英語で書かれたものもある。その場合には、日本語の場合と似た、用語上の問題が生じる。
たとえば『哲学の貧困』はフランス語で書かれたため、「ブルジョア社会」と「市民社会」の部分的使い分けが行われている。平田清明が「市民社会と社会主義」の発想を得たのは、彼が邦訳マルクス・エンゲルス選集で『哲学の貧困』の訳者となったためであった。
すなわち『哲学の貧困』には、「諸カテゴリーは生産諸関係の理論的表現にほかならない」が「経済学者たちはブルジョア社会 の生産諸関係を自然的・永久的なものとして通用させようとする」といった表現と共に、「封建制度のもとでブルジョアジーによって発展させられていた生産諸力は、彼らブルジョアジーの掌握するところとなった。すべての古い経済形態、それに照応していた市民間の諸関係、旧市民社会の公的表現であった政治状態が打破された」「ブルジョアジーについては、われわれは二つの局面を区別しなければならない。ブルジョアジーが封建制度と絶対君主制との支配体制とのもとで自己を階級として構成した局面と、すでに階級として構成されたブルジョアジーが社会をブルジョア社会 une societe bourgeoiseにするために封建制と君主制とを転覆した局面とがそれである。……労働者階級はその発展において諸階級とその敵対関係を排除する一つのアソシアシオンをもって古い市民社会l'ancienne societe civileに置き換えるであろう。そして本来の意味での政治権力は、もはや存在しないであろう。なぜならまさに政治権力こそ市民社会la societe civileにおける敵対関係の公式の要約であるから」という場合には、明らかにマルクス自身による使い分けが行われたのである。
しかしこれらは、いわゆる初期マルクスの用法である。ヘーゲルを唯物論的に乗り越えたとされる成熟期のマルクスは、『資本論』に見られるように、「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」とイメージしていたのではないか?
実は、筆者自身が平田に触発され「市民社会」概念を社会主義論のなかに組み込んだのは、原文が英語であるパリ・コミューン期『フランスにおける内乱』草稿にも、「市民社会」と「ブルジョア社会」の使い分けを見いだしたからであった。
すなわち、「生きた市民社会 the living civil society にうわばみのように巻き付いている中央集権国家」「市民社会civil societyに寄生しながら、その社会の理想的な模像であるかのようによそおっているこの贅物は、第一ボナパルトの支配のもとで完全な発展を遂げた。復古王政と七月王政は、これにいっそう進んだ分業をつけ加えたにすぎなかった。この分業は、市民社会内部の分業が新たな利益集団をつくりだし、したがってまた国家活動のための新しい材料をつくりだすにつれて、それと歩調をともにして拡大してきた」といった分析のほかに、コミューンは「社会に寄食しその自由な活動を妨げている国家寄生物のためにこれまで吸い取られてきたすべての力を社会の身体に還元」し「人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復」して「崩壊しつつある古いブルジョア社会 old collapsing bourgeois society そのものの胎内にはらまれている新しい社会 new society の諸要素を解放」した、それは「国家権力の社会による再吸収」である、とする論理をマルクスの中に見いだしたからであった(加藤『東欧革命と社会主義』花伝社、一九九〇年)。
にもかかわらず、マルクス主義の「市民社会」理解は、「ブルジョア社会」と訳す方がふさわしい主系列が支配的であった。レーニンの指導によるロシア革命の勝利が、その「科学性」を担保するかに見えた。
しかし、マルクスのテキスト如何に関わらず、自己の思想のあり方によって「市民社会」概念を積極的に位置づけ創造する社会主義者の試みも、なかったわけではない。イタリアのアントニオ・グラムシは、二〇世紀におけるその代表者となる。
この点で、一九世紀末マルクス主義のリベラル化をはかった「修正主義者」ベルンシュタインの場合は、ドイツ語圏での思考であるだけに、興味深い。
ベルンシュタインによると、「社会民主主義は、市民社会を解体し、その成員を一人残らずプロレタリア化することを要求するものではない。社会民主主義は、むしろ労働者を一人のプロレタリアとしての社会的地位から一人の市民Burgerにまで向上させ、そのことによって市民的身分ないし市民的存在を普遍化するために不断に努力する。社会民主主義が要求することは、市民社会をプロレタリア社会に置き換えることではなく、資本主義的社会秩序を社会主義的社会秩序に置き換えることである。」
つとに平子友長『社会主義と現代世界』(青木書店、一九九一年)が指摘したように、ここでは「資本制社会」と区別された「市民社会」の意義が述べられ、社会主義は「市民社会の普遍化」として理解されている。レーニン的「ブルジョア民主主義」批判や「プロレタリアート独裁」概念とは、明らかに距離がある。
そのうえベルンシュタインは、ドイツ語でこのように論じることの困難をも、自覚していた。つまり、ドイツには「特権的市民 der privilegierte BurgerとしてのブルジョアBourgeiosという外来語」があり、「特権的市民der bevorrechtete Burgerの概念と分離したある一つの共同体の同権的市民の概念der gleichberechtigte Burger eines Gemeinwesensを表わす固有の言葉を持たない」として、それを自由主義や民主主義の理解にも結びつけようとした。
ベルンシュタインによれば、「民主主義」とは、「人民支配」(『共産党宣言』)ではなく「階級支配の不在」「共同体の全成員の同権」「最高度に可能な自由」という意味である。「社会主義は、たんにその時間的順序からだけではなく、その精神的内容においても自由主義の正統な相続人」であり、「組織的自由主義」と言い換えうる。このような理解は、下部構造・経済社会としての「市民社会」からはありえない。
アントニオ・グラムシによる「市民社会の再発見」とネオ・グラムシ派によるその継承は、世紀末におけるベルンシュタインのジレンマを非レーニン主義的に克服し、マルクスの主系列に流れる「ブルジョア社会」とは種差的な、副系列の「市民社会」概念を復活したものであった。すなわち、上部構造の要素、ヘゲモニーの領域、自己統治の契機として「市民社会」を積極的に位置づけ、かの「国家=政治社会プラス市民社会、強制の鎧をつけたヘゲモニー」という定式にいたる。
ここでのグラムシ的「市民社会」は、マルクスのいう土台=下部構造でも上部構造でもなく「中部構造」という新たな水準におく解釈をも産み出したが、「東方では国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった。西方では国家と市民社会のあいだに適正な関係があり、国家がゆらぐとすぐに市民社会の堅固な構造が姿をあらわした」とする機動戦から陣地戦へのテーゼ、知的道徳的ヘゲモニー理解をも可能にした。
そのため、経済決定論・還元主義的思考から離れた第二次世界大戦後のネオ・マルクス主義者たちは、グラムシの「現代の塹壕体系」「直接の経済的要素侵入の防壁」としての西方「市民社会」という把握をもとに、教会、学校、社会集団、組合、家族などを含む「市民社会」概念の再構成へと向かう。ルイ・アルチュセールやニコス・プーランザスの「イデオロギー装置」概念は、ここから着想を得たものであった。
この「市民社会」の非レーニン主義的理解が、グラムシの「アメリカニズムとフォード主義」「ヘゲモニーは工場から生まれる」といったテーゼと結びつくとき、レギュラシオン理論のような新たな制度派経済学をうみだし、「強制としての政治社会」に「同意としての市民社会」を対置するノルベルト・ボッビオ風のリベラルなグラムシ解釈を可能にする。
「市民社会」概念は、グラムシの「実践の哲学」のなかで、「構造の上部構造への超克的練り上げ」を行うヘゲモニーの場であり、「カタルシスの契機」となる。「たんなる経済的契機から倫理的・政治的契機への移行、つまり人間の意識において構造を上部構造に仕上げるという高次の精神的同化作用を表現するために、カタルシスという用語をもちいるのがよいだろう。これによって構造は、人間をおしつぶし自らのうちに同化し人間に受動的な状態を強いる外的な力であることをやめて、自由の手段に転化する。すなわち、新たな倫理的政治的形態を創造するための道具、新しいイニシアティヴのための源泉となる」という有機的知識人の役割の規定、「政治社会の市民社会への再吸収」「政治社会の消滅と自律的社会societa regolataの実現」という言説は、「自己統治・制御調整社会における人類の文化的統一」という自由で民主主義的な社会主義像の基礎となる。
ちなみにグラムシは、マルクス「ユダヤ人問題」「経済学批判序言」のburgerliche Gesellshaftを イタリア語にするさい、societa borgheseとsocieta civileとに訳しわけたというが(松田博)、上村忠男は、そのsocieta civileを、敢えて「市民社会」ではなく「倫理的社会」と日本語で新訳した(『新編 現代の君主』青木書店、一九九四年)。
戦後日本のマルクス主義は、一時期マルクス・レーニン主義という名のスターリン主義一色に染め上げられ、近代主義批判・市民主義批判は、それを背景にしていた。しかし欧米マルクス主義には、社会民主主義の伝統やフランクフルト学派風批判理論、実存主義的マルクス主義にいたる、さまざまな潮流が伏在していた。
そのなかから、グラムシを継承したネオ・マルクス主義の流れが、「市民社会の再発見」の一翼を担った。アルチュセール、プーランザスらに影響を受けたネオ・マルクス派のなかでは、B・ジェソップ、J・アーリらが、「国家の相対的自律性」「資本蓄積と国家形態の変化」「広義の国家」「国家=道具説から国家=関係説へ」「国家の民主主義的変形=社会への再吸収」の延長上で、新たな「市民社会」概念を提起した。それは、土台=経済社会と上部構造=国家の方法論上の接点として「市民社会」を設定するものであった。それは、丸山真男が「基底体制還元主義」と読んだ経済決定論・還元主義に反対するもので、グラムシのヘゲモニー概念をもとに、非階級的紛争要因をも承認して「ヘゲモニー闘争の舞台としての市民社会」を論じるものであった。
しかし、E・ラクロウ、C・ムフらの流れは、さらに徹底した経済還元主義・階級還元主義・国家還元主義への批判に向かった。ポスト・マルクス主義である。ラクロウ=ムフらの言説理論では、「市民社会」での言説のヘゲモニー的接合を説き、「マルクスがヘーゲルをのり超えたようにマルクスを超える」(F・ブロック)という方法的立場から、その「社会主義」像をも「市民社会から明確に分化した国家を、多元的市民社会から必要な統御を加える」ものとして構想した。これが今日の西欧「ラディカル民主主義」の潮流に連なる。
一九八九年東欧革命からソ連崩壊にかけて、「市民革命」「市民社会再生」論が世界的に噴出した。かつてベルンシュタインを悩ませたドイツでも、burgerliche Gesellschaftとは別にZivilgesellshaftの語が生まれ、J・ハーバーマスは『公共性の構造転換』第二版序文でZivilegesellshaft概念をとりあげ、その「非経済的意味」を明確にした(未来社、一九九四年)。もともとZivilegesellshaftは、「自律的公共空間」「対抗公共空間」として、共産党一党独裁に対抗する七〇年代以降の東欧市民運動家のスローガンであったが、「ベルリンの壁」崩壊に前後して、「自由な意志にもとずく非国家的・非経済的なアソシアシオン関係」(C・オッフェ)、「底辺民主主義」による「非制度的政治空間」形成過程を示す新語として、ドイツでも市民権を得たのである(井関正久)。
ポスト・マルクス主義段階の欧米左派の社会科学では、「市民」「市民社会」概念が、分析的にも規範的にも、その有意性を再生し復権した。
政治経済学では、「国家の絶対的自律性」の主張と共に、コーポラティズム論、レギュラシオン経済学、アメリカ新制度論との接合のなかで「市民社会」の非経済的意味がとりあげられた。
政治社会学では、かつての階級構造一元論から離れて、人民・階層・消費者・民族・性差などの政治的意味が復権し、生活者としての「市民」の重層的メンバーシップが重視されるようになった。
政治言説学では、「市民社会」そのものが政治的審問・接合の言説闘争の場として設定され、「文化としての市民社会」が語られるようになった。とりわけエコロジー、フェミニズム、エスニシティなど「新しい社会運動」の勃興とその社会科学的意味づけは、マルクス主義的視角からも「市民社会」概念を不可欠のものとした。
かくして、マルクス主義的社会分析に「市民社会」が復権し、脱階級的な「市民」「市民運動」の概念が、左派の社会運動・論争でも用いられるようになった。
その中心は、「市民社会」と民主主義論の接合の領域である。レーニン『国家と革命』を「神聖な教科書」にしたマルクス・レーニン主義風「ブルジョア民主主義の限界」論は、過去のものとなった。ソ連型マルクス・レーニン主義の理論的・実践的崩壊によって、「社会主義」は「民主化過程の一部」と再定義され、「自由社会主義」論が台頭してきた(富田・神谷編『自由社会主義の政治学』晃洋書房、一九九七年)。
共産党の一党独裁と国有化中心の集権的計画経済の破綻のもとで、J・ローマー風「市場社会主義」とは別の文脈で、「所有と生産の民主主義」のために「企業の市民的統治」を求めるR・ダールらリベラリズムの議論や、ボールズ=ギンタスの「公領域としての企業」論も参照されるようになった(以上について詳しくは、加藤『現代日本のリズムとストレス』花伝社、一九九六年、参照)。
同時に「市民社会」論は、「国家と市民社会の二重化」という古典的問題設定を超えるものとなった。
「一国社会主義」の破綻と多国籍企業を主要な担い手とした資本主義の「ボーダーレス・エコノミー」化、グローバリゼーションのもとで、「市民」「市民社会」概念は、新たなグローバルな意味を獲得した。「民主主義」の概念を国家形態に限定せず、「部分社会複合=言説としての市民社会」の論理と接合すると、一国主義的限界を超えて、ローカルからグローバルにいたるすべての階梯での規範的「市民社会形成」が構想され(D・ヘルド)、「地球市民社会」「地球市民」への「程度論的アプローチ」(F・カニンガム)が説かれるようになった。
「経済・市民社会・国家」(J・アーリ)の各領域において、「環境と生産・消費の制御者、有機的知識人、公共圏形成者」としての「市民」「市民権」の重層化・運動化をはかることが「永続民主主義革命」の内実となった。かくして「市民社会」論は、ポスト・マルクス主義をも担い手の一部とした、自由主義・民主主義・社会主義の共通論題となった。
そうした論点のなかには、二一世紀的課題としての「公私」区分の再検討や、「市民社会=公共圏」内部での個人的「親密圏」の保護の問題、情報ネットワーク社会における国境をこえた「市民的自由」、NPO・NGOの役割の問題などが含まれてきている。また、新たな「市民社会」批判としてのポスト・モダニズムの言説、M・フーコーのミクロ権力論やS・ホールらのカルチュラル・スタディーズ、E・サイードらのオリエンタリズム=西欧中心主義批判の挑戦を受けて、「近代」の意味の歴史的再考をも、不可欠なものとしている。
このような日米欧先進資本主義国での「市民社会の再発見」と、ポスト共産主義の市場経済化のもとでのロシア・中東欧における「市民社会」形成の流れが、冷戦崩壊後の一九九〇年代に、「アジアにおける市民社会」という新たな問題設定を喚起した。韓国やインドネシアにおける「開発独裁」型政治からの脱却と民主化、中国やベトナムにおける「社会主義市場経済」採用と経済発展による富裕市民層・中間層の形成が、その背景にみられる。
本書の梁論文に見られるように、現代中国における「市民社会」の基本理解は、「主導国家政治生活の政府と主導国家経済生活の営利的企業間に存在する、幾人かの社会構成員が自ら管理している組織或いは団体」というものである。ヘーゲル法哲学が「家族」から国家への「市民社会」における媒介とした「コルポラツィオン(Korporation 職業団体)」に近く、いわばマルクスを経由しないヘーゲル的「市民社会」の直接的受容である。アメリカ政治学の歴史で言えば、国家制度を解説する旧制度論的政治学から、「集団の噴出」「世論の形成」を背景にベントリー、トルーマンらの「集団理論」が現れ、やがて個人レベルの政治行動論や政治心理学に傾斜していく二〇世紀前半の問題設定を想起させる。日本ではこれが戦後に受容され、丸山真男らの「自立した市民」「理念的市民社会」の方向によりも、むしろ「大衆社会」論、「利益集団」論の方向に生かされていった。
こうした扱いは、アジアにおいてはある程度不可避であり、また経済的に市場を開いても政治を共産党が独占する中国のような国では、その「集団」「職業団体」の形成自体が、現実政治で重要な意味を持つ。本書にメインランド中国の分析がないのはその意味で寂しいが、台湾・シンガポール・香港を主たる対象としているとはいえ、実はこうした「市民社会」研究自体が画期的意味を持っていることを忘れてはならない。
例えば本書執筆と同時期に行われた、アメリカ・ハーバード大学ライシャワー研究所の「市民社会の国際比較」研究プロジェクトについて、所長のスーザン・ファー教授は「アジアにおける市民社会の広がり」のなかで、次のように述べている(The Reischauer Institute Newsletter Tsushin, Vol. 8, No. 2, Fall 2002, http://www.fas.harvard.edu/~rijs/Pharr_CivilSoc_v8n2_2002.html)。
つまり、家族と国家を媒介するヘーゲル的「市民社会」理解を前提とするが、「市場における利益や国家権力の追求を目的としない団体」という点に現代的ポイントを組み込んでいる。
このハーバード大学の「アジアの市民社会」研究では、日本について、「市民社会を、国家や市場から区別して考えれば、市民社会と市場の関係は、市民社会と国家の関係と同様、重要になります。西洋における研究は、市民社会と国家の関係に焦点をあてがちですが、カルフォルニア大学バークレー校のアンドルー・バルシェイは、戦後日本における市民社会に関する議論と、日本の資本主義の本質に関する議論とは切り離すことができない、と指摘します。法政大学の鈴木玲は、日本企業が大きな権力を持ち、労働者を政治社会における一市民としてではなく、企業社会の一員として組み込み、日本の労働組合の市民社会における役割を抑制してきた、と説明しています。さらに、テキサス大学オースティン校のパトリシア・マクラクランは、日本の消費者運動が、国家権力に対して、消費者の利権を代弁するだけでなく、消費者あるいは市民としての権利と責任について教育することにも尽力し、国家および市場から独立した消費者社会を確立しようとしてきた、と詳述しています」と中間報告している。つまり、マルクス主義や近代主義が議論してきた筋道を離れても、日本の「市民社会」には、欧米とは異なる日本的特質が刻印されているのである。
他方、冒頭に掲げた国際連合や世界銀行の「市民社会」概念には、近年著しい発展を遂げた欧米資本主義社会におけるNGO・NPOの役割、つまりファー教授のいう「市場における利益や国家権力の追求を目的としない団体」という非営利性・自律性が、部分的であれ含意されている。この点も、日本ではようやくある程度の市民権を得たが、中国やアジア諸国では必ずしも大きく展開していない、「新しい市民社会」の特質である。
例えばイギリスのロンドン大学(LSE)には、「市民社会センターCentre for Civil Society」 が設置されているが、そこでは「市民社会」は「国家・ビジネス世界と家族の中間に位置する一連の制度・団体及び行動」で、「とりわけ、さまざまな種類のボランタリーで非営利的な団体、フィランソロピー機関、社会的・政治的運動、社会参加・社会契約のその他の諸形態、およびそれらに結びついた諸価値と文化パターン」とされている(http://www.lse.ac.uk/collections/CCS/)。
アメリカ・ワシントンのジョンズ・ホプキンス大学政策研究所「市民社会研究センター」の場合は、より直截に、「非営利団体、フィランソロピー団体、及び『市民社会』団体」を対象としている(http://www.jhu.edu/~ccss/)。カルフォルニア大学ロスアンジェルス校公共政策・社会研究学部(UCLA School for Public Policy and Social Research)による「市民社会センター Center for Civil Society」も、ほぼ同様である。
つまり、国連や世界銀行がNGO・NPO・慈善団体のほかに「ビジネス団体」をも「市民社会」に加えようとするのに対し、これらの大学での「市民社会」研究では、いわば「第三セクター」としてのNGO・NPOの活動に注目し、経済組織については、企業がメセナやフィランソロピーを行う非営利・文化財団型の活動に限定していることがわかる。
実はロンドン大学(LSE)には、もう一つの研究組織、「グローバル・ガバナンス研究センター The Centre for the Study of Global Governance」があり、そこでは二〇〇一年から「グローバル市民社会年報 Global Civil Society Yearbook」の刊行が開始されている。この「グローバル市民社会」こそが、おそらく国連や世界銀行も無視できなくなった領域であり、政府間の「国際関係」に代わって、国際組織・地域団体、企業・ビジネス団体、NGO・NPO、社会運動などをもアクターに含む「グローバル・ガバナンス」を、現代市民社会論の焦点に押し上げている。
わかりやすい事例が、二〇〇二年ヨハネスブルグ環境サミットで採択された、「グローバル・ピープル・フォーラムの市民社会宣言:持続的世界は可能だ」である。社会的平等・人権から公正な国際貿易・再配分・企業の説明責任、政治的公開性・参加、環境保護・新エネルギー開発にいたる多様な問題が「グローバル市民社会」の問題とされている(http://www1m.mesh.ne.jp/~apec-ngo/wto/state02/foei_JP.htm)。つまり、西欧「市民社会」がその形成・確立過程で体験してきた諸問題──マルクスがヘーゲルと格闘し批判した内在的諸矛盾とその解決方法──が、グローバル化した「地球社会」の規模で問題となり、「地球市民」の今日的課題となったという認識である。
この「グロバールな市民社会」「グローバル・ガバナンス」は、もともと世界銀行やIMF、国連などの文書に冷戦崩壊以後に現れてきたものであるが、今日では、世界のNGO・NPO・社会運動の側も、「もうひとつの世界が可能だ」の文脈で、使い始めている。
二一世紀の初頭から、世界の社会運動は、多国籍企業・先進国政府政治家・官僚の集う「世界経済フォーラム(WEF、通称ダボス会議)」に対抗する、「世界社会フォーラム(WSF)」としてグローバルに結集しつつある。通常「反グローバリゼーション」と特徴づけられるWSFの「憲章」には、「世界社会フォーラムは、公開された討議の場です。わたしたちは考えを深め、 アイデアを民主的に話し合い、提案をまとめます。経験を自由に交換し、 効果的な行動を追求します。ここに参加するのは市民の団体や運動組織です。 わたしたちはネオリベラリズムを批判し、資本主義や帝国主義が世界を支配するのに反対します。人間同士が実り多い関係を築き、 人間と地球が豊かにつながる地球社会を作り上げるために行動します。」「世界社会フォーラムは、巨大多国籍企業とその利益に奉仕する諸国家・ 国際機関が推進しているグローバリゼーションに反対し、その代替案を提案します。世界史の新しい段階として、連帯のグローバル化が生まれるでしょう。そうなると、 どこの国にいても、どんな環境におかれていても、男女を問わず市民の権利、 普遍的な人権が尊重されます。社会正義・平等・市民主権に奉仕する民主的な 国際社会の仕組みと国際機関がその基礎となります。」ただし「世界社会フォーラムは、世界の国々で活動する市民の団体や運動組織だけが集まり、 たがいに連帯するものです。しかし世界の市民社会を代表するものではありません」と、西欧「市民社会」で形成されてきた市民・市民権・デモクラシーの諸原理を、地球的規模に展開する方向がうち出されている(http://www.kcn.ne.jp/~gauss/jsf/charter.html)。
日本でも、平成四ー六年の内閣府第一四次国民生活審議会が、市民意識と社会参加活動委員会報告「自覚と責任のある社会へ」を提出して、「市民社会の変革」を前面に出すようになってきたが、(http://wp.cao.go.jp/zenbun/kokuseishin/spc14/houkoku_c/spc14-houkoku_c-III.html)、これまで政府間国際関係のアクターとしての役割を独占してきた外務省も、「わが国の軍縮外交」と題した二〇〇二年「外交青書」中に、「第八部 市民社会の役割」をもうけ、NGOの「市民外交」の役割に注目するようになった(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/gun_hakusho/2002/)。
地方自治体は、「新しい市民社会」を、積極的に採用しつつある。兵庫県は、「めざすべき兵庫県」として「創造的市民社会」を掲げ(http://web.pref.hyogo.jp/plan/saisyuu/s3-4-3.pdf)、広島県の場合は、「いきいき地球市民社会・世界へ貢献する広島県の創造」とある(http://www.pref.hiroshima.jp/soumu/kokuki/p2005/plan05.html)。神奈川県川崎市は、第二次・行財政システム改革実施計画(平成一一年)を「二一世紀の市民社会を展望した自治体改革の推進に向けて」と題している(http://www.city.kawasaki.jp/16/16gyosys/home/0003.htm)。本書の研究及び刊行に多大の援助を寄せてくれたトヨタ財団が、ここ数年「市民社会プロジェクト助成」を推進しているのも、この「分権・自治」の文脈に連なる。(http://www.toyotafound.or.jp/kenkyujosei.htmlhttp://www.geic.or.jp/geic/projects/fund/124.html)。
こうした「市民社会の現代的展開」を視野に入れれば、本書で展開した台湾・シンガポール・香港における「市民社会」形成は、理論的にはなお「近代西欧モデル」を前提にした古典的枠組みでアプローチされている。しかしその実証密度の深さは、日本では類例をみないほどに詳しく実践的である。本書の刊行が、「アジアの市民社会」研究を刺激し、ひいては中国本土を含めて「現代的グローバル市民社会」に合流する建設的道筋に道を拓くならば、その意義は巨大なものとなるであろう。日本の「市民社会」も、そうしたかたちで、旧来の理論的・実践的対立から地球的動きに合流し、新たな21世紀的潮流の一翼に加わることができるであろう。