香港は中華人民共和国の特別行政区の一つであり、中国の南部に位置して、香港島、九龍半島と周辺の小島で構成されていて、面積は約1100平方キロメートルであり、人口は約600万人あまりである。香港は自然鉱物資源が豊富ではないが、数十万トンの船舶を停泊させる深水良港に恵まれている。中国大陸の南に位置していることもあり、南中国海に臨み、東南アジアと東アジアの航路連接所である香港の地理は恵まれていて、通運貿易にはとても便利である。
香港住民の98%は中国人で、ほかの住民はイギリスなどから来ている。1840年のアヘン戦争以後、香港がイギリスの占領下で、香港島に居住していたのは5000人程度でした。その後、香港“殖民地”の成立に伴って、多くの移民が香港になだれ込んだ。香港“殖民地”は1860年に九龍、1898年には新界に拡大され、当地の住民も香港に帰属された。その中、8万人あまりの新界住民は長い間当地の人であった。新界の元住民を除いて、香港の住民は主に移民及び後裔で構成されている。イギリスが香港を統治している時、公定言語は長い間で英語であったが、1974年以後には、中国語も公定言語になった。香港が祖国に引き返され、中華人民共和国の特別行政区になった際、公定言語は中国語と英語に定められた。
19世紀半ば以来、香港は中国の管轄からイギリスの統治に移り、又、イギリスの“殖民地”から中国の特別行政区になるという込み入った歴史を経過した。香港は昔からずっと中国の領土として、広東省の新安県に属したが、イギリスは1840年に中国を侵略するアヘン戦争を仕掛けた。戦争期間の1841年1月には、イギリス軍隊は香港島に上陸した。その後、イギリスは次々に三つの不平等条約を通して、香港地区に対する殖民統治を樹立してきた。1842年に、イギリスが中国の清朝政府を強迫し、締結した中英“南京条約”の内容の要点は清朝政府が香港をイギリスに割譲することであった。1842年、イギリスは香港島で正式に“殖民地”を成立した。1860年、イギリスは第二次アヘン戦争を通して、中国清朝政府を再度に強迫し、香港島の向かいの九龍半島の南端地区を割譲する中英“北京条約”を締結した。割譲された土地の面積は広大ではなかったけど、地理的に要点を押さえていたので、イギリスはこれをきっかけにして、香港のイドリア湾を占領し、深水良港を完全に手中にした。イギリスはこの九龍半島南端の地区を香港の“九龍”地区と定めた。イギリスはイドリア湾を手にしたにもかかわらず満足しなかった。19世紀末、ヨーロッパ諸国が中国での勢力範囲を拡大するのに盛り上がり、イギリスは1898年に清朝政府と“香港界祉を広げる専条”を締結し、先手を打った。以前の九龍半島と周辺諸島を賃借りして、“香港殖民地”の土地面積を10倍ほど、水域面積を50倍ほどに拡大した。“香港界祉を広げる専条”条約は借用期限が99年であり、つまり1898年7月1日から1997年6月30日までであることを定めた。イギリスはこの新しく得た地区を“新界”と呼んだ。このようにして、イギリスは“香港殖民地”の土地拡大を完成した。香港“殖民地”はこの三つの条約に決められた三つの地域――香港島(略称は“港島”である)、九龍と新界――から構成されている。不平等条約が“新界”の法律地位に対する規定はその前の、イギリスに占領された香港島と九龍の規定と違っていた。香港島と九龍は永久的にイギリスに割譲したけど、新界は99年間の借用なので、1997年7月1日の期限が来る時に、中国政府が新たに確認しない限り、イギリスは必ず新界を中国に返さなければならないと定められていた。これは回避できない“大限”であった。
20世紀前半、中華民国北京政府と国民政府はともにかつて外交手段で新界の管理権乃至全香港地区の主権を取り戻すように努力したけれど、失敗に終わった。中華人民共和国が成立してから、あらゆる不平等条約を承認しないことを宣言したけど、香港を占めるイギリス領には軍隊を派遣しなかった。新中国政府は香港に対して、“長期打算、充分利用”の基本政策を用いて、つまり長い間にイギリスは香港を統治している状況を改めないで、香港の中国と外国との経済貿易などの方面の役割を果たすことができるので、できるだけ利用して、中国の経済的蓄積と外交戦略のために奉仕させるようにした。それと同時に、中国政府は香港の安定と繁栄を維持し、促進するように一連の措置を講じた。1963年中国政府は公然と香港とマカオに対する政策を声明した:香港とマカオの問題は、歴史が残した帝国主義が中国に押し付けた一連の不平等条約のことであり、こんな問題に対して中国政府の一貫した政策は、機が熟した時には“平和談判”を通じて解決し、まだ解決してない時は現状を維持するというスタイルを採ってきた。11972年、中華人民共和国の駐国連代表の黄華は国連非殖民化特別委員会の主席に中国の香港とマカオ問題の立場、つまり香港とマカオはイギリスとポルトガルの領土に占められた中国の領土の一部であり、香港とマカオ問題を解決するのは完全に中国主権範囲以内の問題であり、根本的にいわゆる“殖民地問題”の範囲に属していないので、反殖宣言が適用する殖民地の地区リストに入れるべきではないという立場を再び提言した。2しかし、イギリスは中英の香港に関する三つの条約が有効で、条約により、イギリスが香港を統治する立場を終始堅持していた。中国とイギリスが香港主権に対する対場は衝突したけれど、両方が香港の現状を維持する黙契と協力は20世紀後半の約50年間にわたるイギリスの管轄を続けることを保障すると同時に、香港の安定で繁栄した局面を維持していた。
1997年租借期限が近づく20世紀80年代の初期に、中国は1997年7月1日に全香港地区の行政権を回復し、“一国両制度”の方法で香港問題を解決する意見を提案して、イギリスと香港の未来について交渉を始めた。困難な交渉を経て、中英政府は1984年に香港問題についての連合声明を調印して、1997年7月1日にイギリスは香港を中国に返還して、中国は香港の主権と行政を回復し、香港特別行政区を成立した。“一国両制度、港人治港、高度自治”という制度を実施することを発表した。1990年に、中国全国人民代表大会は返還以後香港地区の基本法律となる法案“中華人民共和国香港特別行政区基本法”を可決した。1997年7月1日に中国は香港での正式主権の行政を回復して、香港は祖国に復帰し、中国の特別行政区になった。特区首長、行政長官である董建華を筆頭に香港特別行政区第一届政府は行政権力を行使した。香港の歴史は新たなる一ページに飛躍を遂げようとしている。
第二次世界大戦以後、香港は経済発展の奇跡を演出した。19世紀40年代、香港がイギリスに占拠されていた当初、イギリスは中国に対する外交、軍事と貿易の基地であった。その後、イギリスの勢力が中国の内陸部に入ってから、香港の外交と軍事地位が下がったけれど、やはりイギリスの対華貿易及び極東地区の戦略基地であった。また、1842年に、香港は自由主義の資本主義経済政策を実施する自由港になっていった。香港の経済は長い間でトランシット貿易を主にして、経済レベルがかつて遥かに上海に劣っていたにもかかわらず、第二次世界大戦以後、香港の経済は飛躍的に発展して、だんだんとトランシット貿易港から国際的な金融、貿易、海運、旅行センターになり、シンガポール、台湾、韓国と一緒にアジア新興工業化地区になって、東アジアで四匹の“虎”の一つとして褒め称えられた。1997年、中国に復帰した際、香港の一人当たりのGDPは26000ドルであったが、当時のイギリスより高くて、アジアの“虎”では先頭に置かれていた。
1997年香港が復帰してから程なくして、アジア通貨危機の激しいショックを受けて、経済が厳しい困難に直面したけれど、香港は敏活な経済体制と祖国の支援に後押しされて、強い経済ショックを防ぎとめた。そして、2001年に経済が峠を越した。イギリスが管理している間に、香港は中国内陸部とも、イギリスとも違う政治と法律体制を成し得た。香港は独立の政治実体ではなくて、イギリス統治に基づいた殖民統治を実施していた。香港の政治制度は総督の高度集権の行政指導を特徴としていたが、独立の立法機関を設立しなかった。香港は政党のない官僚政治を実施し、政務官が政治と行政権を持っていた。香港政府は委任と民間の意見を採り入れるという諮問政治を実施していて、官僚政府が撤回される前にずっと民衆選挙制度を拒否していた。香港はイギリスの統治下において、自由主義経済と呼応する周到で完備な法治環境を形成した。復帰してからも香港の法律制度は大体変わっていない。殖民主義の部分を取り除いて、香港特別行政区政府は主として“香港基本法”の規定に従って、特区首長すなわち行政長官を筆頭に行政主導型の政治体制を実施している。
イギリスに占拠された香港は元来の発展レールから離れて、人気の少ない小島か辺境の地から一変して発展し、次第に人口が多くなり、アジア最大なトランジット貿易都市に生まれ変わった。それと同時に、イギリスの殖民統治において、商業と移民の特徴を持つ殖民主義社会が形成された。
アヘン戦争以前、香港島には中国の住民が約5000人いて、主に漁民、農民と採掘職人であった。イギリスが占領してから、香港を商港に再建し、香港は多量の労働力を必要とするようになったので、中国内陸部の広東省など各地の若者が労働源として香港に赴いた後、香港の人口は急速に増えた。1851年末に、香港の人口は32985人に達した。1860年、九龍がイギリスに割譲されてから、5105人もの人口が土地と共に香港人口に加入された。1861年、香港の住民(香港島と九龍も含めて)は119321人であった。1881年には、152858人に増えて(軍人を含めない)、1891年には、217936人に増えた(軍人を含めない)。1898年、イギリスは中国政府に圧力をかけ新界を借り、当地の数万もの住民も土地と共に香港の人口に加入された。新界の状況は香港島、九龍と違って、物寂しい辺境ではなかった。新界は遥か昔12−13世紀の中国の宋朝と元朝の時代から、多くの有力氏族は中原(内陸中心部)地区からこの場所に引越して、清朝の時代までには、もう完璧な軍政制度、また多くのお寺、先祖を崇める霊堂や寺小屋などを兼備していた。イギリスに貸す前に、新界には約10万人に近い人々が住んでいた。イギリス軍が新界に入る時には、新界に居住していた人民は武装闘争をした。1901年1月の香港当局の統計に従って、新界には8.5万人がいたが、この数字は一部のイギリス軍に抵抗した住民が中国内陸部の方に撤退した後の数字であるはずだ。1901年に、香港本島及び九龍の住民は283975人で、新界は85000人あまりで、総人口は368987人だった。3
20世紀になってから、香港の人口は増加し続けて、統計の結果では1911年に住民456739人で、1921年の際の住民は625166人で、1931年には840473人で、1937年には100万人もの住民が存在した。抗日戦争が勃発してから、戦火を避けたい多くの中国人は香港に入って、1941年に、香港の人口は百万人を越え、1639337人に達した。日本人に占拠された後、百万人以上の人は香港から離れた。1945年に、第二次世界大戦が終わった時、香港人口の約60万人程が現地に残っていた。4
20世紀の50年代以前、普通の人は自由に香港へ進出できたが、香港の人口変動の所以は主に多くの人口移動の結果で、自然的な増加が総人口の増加に対する影響は微々たるものであった。香港当局は1949年に入境管理制度を実施し始めて、入境人数は制限を受けるようになった後、人口移動の割合は緩やかになった。香港の住民は新界を除いて、大部分は移民で、香港は移民から構成された社会であると言っても過言ではない。
又、香港は極東最大のトランシット貿易センターとして、人口の流動は激しい所でもあった。毎年人口移動の総量は居住人口を超えている。工商業者や船員、観光客以外にもよくあるのが中国内陸部の広東人と福建人が香港を海外へ移民する架け橋にしていることが多々ある。そして、毎年海外へ移住する香港人もかなり多い。5
新しい移民社会と結びついて、19世紀後半から20世紀初期まで香港の住民は当地社会に対する承認が足りないのは普遍的であった。香港に来た西方植民者の目的は公務を執行するかお金を稼ぐことで、多数が香港を公務、或いは商売の場所としていて、年老いてからの隠居場所にしようとはしなかった。任期が終わる時又は退職した後、あるいは金持ちになるか倒産した後、多数が祖国に帰るという形式を取っていた。華僑の多数は中国と故郷(省、地区)を承認していた。彼らは往々にして一人で香港へ行って、良い成果を取ってから故郷へ帰ろうと希望し、香港でお金を多く稼ぐ商人も大分家族を大陸に置き去りにして、香港を永久に住む所にしてはいなかった。こんな考えは当時外国に住んでいる華僑の考えと非常に似ていた。これらが香港人が政治に情熱を持てずに、当地に対する承認が足りない原因の一つだった。
香港人には外国人も中国人もいるが、中国人を主にして、中国人の割合はずっと95%以上占めている。それ以外はイギリス人やインド人などの外国人であった。1845年の香港華民事務局の発表した調査レポートによれば、当時の人口は23817人(軍人を含めない)で、その中に中国人は22860人で、95.98%を占めて、ヨーロッパ人は595人で、2・498%を占めて、インド人は503人で、1・5199%を占めた。半世紀以後の1901年には、中国人が香港住民の96.7%を占めるようになった。
早期の香港華人の多数は技術と技能の訓練を受けたことのない労働者で、主な職業は船舶製造や交通運輸や商業や公用工程及び公用事業部門で、非熟練の体力労働者も大勢含まれていた。又、西洋人の従僕と苦役などの職業を勤める中国人も多くいた。19世紀80−90年代の製造業の発展と伴って、産業労働者(第二次産業労働者)も多くなった。中国人の中には富裕な商人と買べんが少なかった。イギリス人と他の外国人は主に政府の公務員、商人、専門職員、工事監督、警察などの職業を勤めた。6
香港が対外開放してから百年間、中外共居で、中国人が大多数を占めていたけど、イギリスの統治者は人種差別と人種隔離の政策を実施した。イギリス政府は香港で香港島のイトリアセンターをヨーロッパ人の居住地区と商業地区に画定し、太平山を中心にした地区を中国人の居城地区に画定して、その境界線ははっきりつけられた。香港のヨーロッパ人と中国人の間でも別々違う社区と社会を形成した。
1.香港のイギリス人の社会と政府
イギリスは香港が自分の“殖民地”であることを宣告して、香港にいるイギリス人などヨーロッパ人は政治、司法、経済の統治地位を占めて、いろいろな特権を持っていた。彼らは通常政府機関、司法機関、商業や金融部門に勤めた。イギリス人は香港の顕在権力を持ち、ヨーロッパ人社会の中核であった。19世紀には、イングランド中産階級上がりのイギリス人は政府の高級職務をほとんど占有し、イギリス殖民主義政策の忠実な施行者と既得利益の享有者になっていた。
香港の商業社会にて、各銀行は香港経済及び香港政府財政の重要な要である。政府官僚は政権を握っているけど、商人、特にイギリス商人の充実した財力と社会関係が作った香港の社会生活での実質的な実力集団は、政府の政策諮問機関の立法会と行政会に入ることができるようになって、政府の政策に対して影響と圧力を与えていた。ヨーロッパ人社会の人口の大多数を占めている中間と中下階級のヨーロッパ人は収入が中国人より高くて、結社・言論・出版などの社会の権利を受けているけれども、政府政策に対する影響力が小さいのが常であった。
香港の大手銀行と大手外国商人が政府政策の画策に参加できる重要なルートの一つは香港政府の立法局と行政局に入ることである。立法局は総督の立法諮問機関であり、内部の議員はすべて総督に任命されていて、重大な政策について総督の参考となる意見を提出し、そして、総督を通じて法律の制定を要求することができる。立法局の議員の中には政府官僚から選ばれるのは“官守議員”と呼ばれているが、一般社会から選ばれて官僚職務を担当しないのは“非官守議員”と呼ばれている。1850年から1900年までの香港総督に任命された立法局の非官守議員の43人の中に、35人はイギリス大手銀行の経営者或いは大株主であって、その中にイギリス投資の飴和洋行の9人がいた。行政局は総督の行政諮問機関で、メンバーはすべて総督に任命されて、最初は政府の官僚から選ばれていたが、1896年に、初めて非官守議員を2人設立して、しかしこの2人もイギリス商人であった。7
又、総督はイギリスの古い習慣に従って、社会で“太平紳士”を選び、政府と協力して、治安などの事務を管理している。太平紳士の中にも、イギリスの商人が多数を占めていた。例えば、1882年に任命された79名の太平紳士の中ではほとんど商業と銀行業から来たイギリス血統を持っている62名が含まれていた。
香港のイギリス商人は彼らの団体を通じて、政府の政策に影響を与えている。香港総商会(the Hong Kong General Chamber of Commerce)はイギリス商人を主にした職業組織であり、香港政府を影響する重要なルートである。香港総商会は1861年に成立されて、香港で影響力が一番強い商会組織である。その宗旨は商業の利益を守り、商業情報を集め、商業発展の障害を除き、商業紛争を仲裁するなどである。中の長期のメンバーは外国銀行の経営者であったが、1881年以後に中国人も加入していたけど、やはりイギリス商人を主にしていた。香港総商会は香港での財力の一番強い外国銀行と結びついて、香港の経済に重要な役割を果たしているので、提案される意見は香港政府に影響している。総商会が成立してから、本地の財政・貨幣制度・郵政・衛生・教育・賭博禁止など問題について香港政府に提案を出して、政府に重視されている。1884年に、香港政府は総商会に推薦された一人を立法局の非官守議員と任命した。1892年に、イギリス商人は当時にいろんな国の商人から構成される香港総商会に不満を持っていて、別のイギリス中華社会香港分会を成立し、イギリス政府及びイギリス各地の工商業と強く結びついて、イギリスが香港と中国の商務などの方面の政策に影響を与えている。8
香港政治界と外国商人の高層知識階級のいくつかの社団もイギリスなどヨーロッパ人と香港政府との連絡を強めて、直接的或いは間接的に香港政府に影響を与えていた。香港クラブと香港競馬会は中でも有名な社団であった。香港クラブは1846年に成立して、総商会が成立する前は、各外国銀行の経営者・株主の社交と情報センターであり、香港商業の中枢神経と呼ばれていた。総督と駐在軍隊の司令もそのメンバーから選出されていた。総商会が成立してからも香港クラブはやはりイギリス商人の重要な場所だった。香港競馬会は1884年に外国商人及び立法局の議員に発起されて、年に一度の賭博性な競馬行事を司会して、政府の重要な収入源になっていた。その他に、香港政府はかなり自由な新聞出版政策を実施しているので、イギリス新聞世論も政府の政策に社会世論の圧力を加えている。
2.香港のイギリス人が自治権利を目指す努力
1843年にイギリスが香港を統治し始めた時、イギリス政府は香港が“直轄殖民地”であることを宣告し、香港はイギリス政府の殖民地部に属して、当地の住民に自治権を与えなかった。香港のイギリス人は何度も地方の自治権利を要求したけど、すべて失敗した。
19世紀には、イギリスの殖民地政治制度は大体3種類のモデルを形成していた。一つ目はイギリスの殖民地部が直接に総督を派遣し、全権を任され、いかなる議会も設置しなかった。例えば,ジブラル海峡のような殖民地は大部分が軍事用地であった。二つ目は総督の集権の下において、一つの議局或いは行政局と立法局を設置し、議員は総督に任命されて、総督に協力する諮問機関としていた。イギリスのアジア・アフリカ殖民地の大部分がこの制度を使っていた。三つ目は総督の下に行政局と立法局を設置し、議局の議員の一部分或いは全部は資格を持つ当地住民に選挙されることになっている。この制度は当地住民にある程度の自治権利を与えて、アメリカとオセアニアのヨーロッパ移民が主として殖民地に講じていた。イギリスの殖民地体系の中には、香港の役割は対華外交や軍事や商業の目的のためであった。その後、香港は主に商業を発展させてきたけど、未だ対華戦略意義をもって、そして、中国人はずっと香港住民の大多数を占めている。だから、イギリスはイギリス移民を含めている香港住民に自治の権利を与えなかった。
香港の法律制度が成立してから、香港のイギリス商人は何度も選挙の議会を成立し、香港にいるイギリス人が自治する事を要求した。もちろん、彼らの要求した自治権は中国人は享受できなかった。それは当時の香港中国人の中に極少ない人以外にほとんどイギリスの国籍を持っていなかったからである。イギリス政府はイギリス商人の要求を拒否したけど、まったく香港にいるイギリス商人の願望を考えないわけにはいかなかった。そして、イギリス政府とイギリス商人の自治要求との交渉の中で香港立法局と行政局は前後して非官守議員を設置するようになった。
香港の立法局と行政局が設置する以前の議員はすべて総督が政府官僚の中から選んでいた。自分の利益を代表する人は両局には少なかったので、香港にいるイギリス商人はとても不満だった。1845年に、税収の問題はイギリス商人と当時の総督John F. Davisとの争いを引き起こしたが、イギリス商人は初めて自治の市議会を成立することを要求した。香港にいるイギリス商人はイギリス植民地部の大臣に書面を奉り、総督John F. Davisの宣告した税収が憲章に違反することであると抗議した。そして、もし税収を徴収することが必要であるならば、選挙に決められる自治市議会が全権処理するべきだと要求を出した。言い換えれば、納税で自治権利を相互交換することを要求した。イギリス国会が派遣した調査グループは1847年に調査レポートを提出し、市政議会制度を設立し、香港にいるイギリス住民に当地事務を管理する権利を与えると言った。総督デーヴィスが就任中でこの議案を実施されなかった。1949年に、イギリス商人はもう一度イギリス国会に市議会を設立する計画を実施する要求を出し、それに、行政局と立法局で二名ずつの非官守議員を設立することを要求した。後任の香港総督S. George Bonham殖民地部の承認を得て、自治市議会の要求を拒否したけれど、1850年から立法局で非官守議員を設置するが、行政局で非官守議員を設置しない、という中間的なやり方を決めた。
非官守議員はイギリス商人の要求に応じて設置したのであり、総督の立法諮問機関の中で香港にいるイギリス人、主にイギリス富豪の要求を反映していたけれど、早期の立法局の非官守議員はかつて政府職務を担任したことのない社会人層から選ぶこともできるし、政府官僚から選ぶ事ができるが、ただ、非官守議員を担当する官僚は立法局で政府の変わりに個人だけを代表できる。例えば、1883年初の4名の非官守議員の中には、官僚が2名いた。官守議員と非官守議員の限界をはっきりしないと、必ず彼らの立場を影響するであろう。1883年の総督のGeorge F. Bowenはこの状況が非官守議員を設置する本意に反していると感じ、イギリス植民地部に非官守議員が官僚でなく、必ず、政府職務を担当しない工業や商業、社団などの方面の代表人物に担当を任し、非官方の性質を持つという提議を出して、イギリス植民地部に認可された。9
1855年に、香港はもう一回自治権利を目指すように努力して、立法局で民選議席を設置することを要求したけれど、イギリス政府に拒否された。その当時、香港の社会と経済の発展は目覚しく、人口と税収が大幅な伸びをみせて、香港政府の財政収支のバランスがうまくとれて、行政費用がもうイギリス国会の支出金に依頼しないようになった。新しい香港総督のJohn Bowringが就職した後に、すぐ殖民地大臣に香港の政府制度を改革することを提案し、立法局で二つの民選議席を設置することを議決した。具体的なやり方は次の通りだった。立法局は官守議員と非官守議員を3名ずつ設置し、非官守議員は元の2名から5名まで増やして、その中の3名は太平紳士団から選ばれて、外の2名は公開の選挙に選ばれる;立候補者は必ずイギリス公民であり、政府に10万ポンド以上の税金を納付した有産者は人種にかかわらずに選挙権を受けるということだった。イギリス植民地部はこの提議を断って、イギリスが香港に対して直接に管理する制度を固執した。
1894年に、香港にいるイギリス商人が再び香港地方自治の要求を出した。翌年、香港にいるイギリス商人と政府は又政府財政と徴税に関して衝突した。立法局が官守議員に支配されて、納税人のご意見を考えずに財政支出と税金額を通過すると香港にいるイギリス商人は感じているから、政治体制の改革を要求した。立法局のイギリス非官守議員Whitehead, Charter, 何啓三人は連署で請願書の活動を発起したが、大部分が納めた税金の高い人である363人の賛成を得た。彼らは立法局と行政局が官守議員に支配されて、納税人のご意見を考えずに財政支出と税金額を通過すると考え、香港の地方自治を実施し、立法局と行政局の局面を改革すると要求した。それに、立法局の非官守議員が自由の選挙になれば、議員の多数を占めるが、選挙権はただイギリス国籍の人が享受できるので、非官守議員は会議の中で完全に議論権と表決権を受ける一方に、行政局で非官守議員の席を設置すべきだという意見を表明した。イギリス政府は請願書の多数の要求を却下したけれど、折中的なやり方として、行政局で2名の非官守議員を設置することを決めた。1896年に、香港行政局は非官守議員を設置し始めた。香港総督が任命した最初の非官守議員は2名ともイギリス人の富豪だった:怡和洋行(Jardine, Matheson & Company)の経営者のBell Irvingと大不動産商人のCharterだった。
20世紀になってから、香港にいるイギリス人社会は依然として自治権利を目指す行動を放棄しなかった。1916年に、イギリス国籍弁護士の立法局非官守議員Pollockは請願運動を一回発起して、ほとんどあらゆるイギリス商人を含めた566人の賛意を得た。しかし、請願は再びイギリス政府に拒否された。1919年と1922年に、イギリス商人は連署で請願し続けたけど、すべて失敗に終わった。又、香港にいるイギリス商人は立法局で民選席の設置を目指すなどの目標を主旨にした組織を成立した。1917年に、香港政制改革協会((Constitutional Reform Association of Hong Kong))が成立した;1921年に、九龍住民連会(Kowloon Residents' Association)が成立したが、自治権を目指す努力もすべて失敗に終わった。
イギリス政府が香港にいるイギリス人の自治要求を拒否する理由は次の通りだった:中国人は香港住民の大部分を占めているので、権力が少数のイギリス籍の住民に握られる市議会を設立し、中国人の利益を考えずに、イギリス人でないと参加できない選挙を行うのは上策ではないということであった。そして、中国住民の教育レベルが高くないので、それにあまり社会秩序を維持する原則がわかっていないこともあって、現行制度は更に中国人の需要に合わせる必要があった。しかし、イギリス政府は政治制度の改革が香港の総督の権力を弱めて、イギリス政府が香港に対する有効的な殖民統治を影響するということを心配するのは実際の原因だった。イギリスは香港殖民地を設置するのは当地のイギリス住民の利益だけでなく、おもにイギリス対華関係の需要のためだった。だから、イギリス政府が直接に香港の統治権力を握るのは必要不可欠であった。
香港にいるイギリスなどのヨーロッパ移民の社団組織と政治権利を目指す行動はヨーロッパ市民社会の行為思想伝統を表した。彼らは言論や結社や出版などの権利を受けて、団体或いは公民の集団活動を通じて、政府に圧力を加えて、政府の政策に影響を及ぼしていた。特に、イギリス商人は納税者の身分で、納税を条件として、自治権利をめざすのはヨーロッパ市民社会の伝統的なやり方だった。香港の状況は特別なので、イギリス国籍の住民は自治権を実現できなかったけど、非官守議員の身分で立法局と行政局に入り、政府の政策策定に参加し、影響する権利を得た。確かにイギリス富豪は非官守議員に任命できたけれど、また立法局と行政局がただ総督の諮問機関にしかなかったけど、これこそ香港の特徴を持つ非民選の諮問制度の開始であった。香港にいるイギリス人の行為と考え方は直接に中国人に影響を及ぼした。香港の中国社会の上層の富豪はイギリス人の慣例に従って、自身の経済力に基づいて、些かの参政の権利を得た。全体的に考えると、香港の中国社会は長期で伝統的な市民文化を保つと同時に、緩慢に西方市民社会の影響を受けた。
イギリス殖民統治の下にある香港は長期で人種差別待遇と人種隔離政策を実施して、人口の大半を占める中国人はイギリス人と同じような権利を持てなかったが、ヨーロッパ人と別れた中国人社会を形成した。19世紀70年代以後、中国人の経済力が向上して、中国人社会の上層富豪の社会活動能力が促進されて、ヨーロッパ人が辿ってきたルートに従って、自分の社団を成立し、政府の諮問機関にも入った。19世紀末には、新界の数万の中国人が香港地区に画定されたけど、元の中国人の伝統社会の組織は大体を保存し続けて、香港島と九龍とも違う中国人社会の形を成し、その中の伝統的な農村自治組織が香港政府の基層諮問組織になった。
1.中国人の経済実力の成長と中国人の非官守議員の設置
1841年前、香港社会の経済は自然経済状態にあり、イギリスに占領された後、大勢のイギリス人と中国移民が入って、資本主義の国際性の商業港口都市になった。最初に、中国商人は主に中国の伝統方式で、つまり前資本主義方式で経営していた。その後、中国商人の一派は外国商人の貿易方式に従い、段々資本主義の商業経営方式を熟知するようになって、外国商人と共同して事業を経営し、果てには競争の相手ともなった。19世紀70年代末から80年代初頭まで、中国商人と外国商人の実力割合は変わって、中国商人は香港の経済の中で果す役割がますます重要になった。官辺の統計結果によって、1855年に香港にいる外国商人が著しい優勢を占めて、香港で地税を10ポンド以上納めた人数は141人で、その中に中国人が42人で、イギリス人が69人で、中国人は総数の29.8%を占めたが、40ポンド以上納めた富豪の中には、中国人が18人おり、イギリス人が54おり、他の国籍の人は16人おり、中国人が20.4%を占めた。1876年までにも、外国商人が未だ優勢を占めていたが、その間の差はもう小さくなった。香港に不動産税を2,110元以上納めた富豪は20人で、外国商人が12人で、62,525元納めて、一人当たりの納税額が5210元だったが、中国商人が8人で、28267元納めて、一人当たりの納税額が3533元だった。1881年には、不動や税を3990元以上納めた富豪は20人で、中国人は17人で、税額は99110元で、一人当たりの納税額は5830元だったが、外国商人が3人で、税額は21032元で、一人当たりの納税額は7010元だった。中国人は税金総額と人数方面で外国商人を越えたが、外国商人は納税額方面で中国商人より高くて、つまり、外国商人の個人的な財力が未だ強勢を占めていたが、全体的にもう中国商人に及ばないようになった。10
中国商人は生計を立て、独立した後、社会に対する影響も増えた。香港のような商業化の都市では、お金の増加はもちろん社会地位と影響力も増加できる。中国商人は中国社会の上層におり、公共事業や福祉事業にもお金を寄付したり学校を投資したりするなど方式を通じて、社会名誉を勝ち得て、中国人の社団の専務理事を担任する方法を通じて、中国人社会の権勢を持つリーダー或いは社会的エリートになり、中国人社会の指導権と代表人物の地位を手中にした。
上層の中国人は香港社会の既得利益の享有者で、香港のイギリス当局の統治に協力の態度に傾き、香港の社会秩序と経済の繁栄を維持する役割を果たしている同時に、外国商人との間にも利益的な矛盾があった。上層の中国人の興起と政治態度に鑑み、香港政府は19世紀80年代から中国商人を篭絡し始めた。中国商人は1878年から、参政の要求を出して、香港“中国住民の人数は外国の10倍をも越えて、納税の金額も遥かに外国人を超越しているから、もし中国人に本殖民地の公共事務を管理させないと、不公平なことだ。”と総督に直訴した。11
1873年に、中国人は中国人市政局(Chinese Municipal Board)を成立し、各区が中国人を2名選んで、各中国人市政の問題について中国民政務局に提案することを要求したけど、総督に採用されなかった。総督John Pope Hennessyは中国商人が香港社会での地位変化に鑑み、立法局の非官守議員の中で1名の中国人を増やすことを提案した。そして、彼は弁護士の伍廷芳を推薦した。イギリス植民地部はただ伍廷芳が3年に過ぎない臨時代理議員を担任することを同意したけれど、常務議員を担任することを反対した。伍廷芳は1880年2月に就任してから1883年に離任し、一人目の中国人の非官守議員として中国人社会の支持を強く得た。その後、黄勝、何啓と韋玉など相続いて立法局の非官守議員を就任した。1895年まで、中国人が立法局の中で1名の席しか占めてなかったが、1896年には2名に増えた。立法局は総督の諮問機関に過ぎなかったけど、中国人の議員の出現はなんであろうと中国人の参政の第一歩であった。19世紀を通じて、行政局には中国人の議員はいなかった。1926年になった後、はじめて中国人の議員が存在するようになった。1927年の省港ストライキが終わった後、香港の総督は中国の反英意識を和らぐため、及び香港にいる中国人がイギリスに忠心を尽くすことを励ますために、初めてイギリス国籍の中国人の周寿臣を指名して、行政局の非官守議員に任命した。
2.中国人社会を代表する団体
イギリスが香港を占領した後、大勢の中国人は香港に転居して、自分自身の利益を保つために、彼らは自発的に中国の伝統に倣い、いろいろの社団を成立させた。中国人社会の資本主義タイプの社会関係の発展と西方思想の影響と伴って、中国人社会も段々伝統から近代の方向へ発展してきた。
早期香港の社会政治環境に基づいて、中国人の伝統的な血縁(宗族組織)、地縁(同郷会館)、業縁(同業公会)の三種類の社団の中には、同業公会や苦力行幇などの業縁団体の役割が目覚しくて、中国社会の中心であった。その外に、クーリーや職人や無職の遊民から構成された会党的な秘密団体も活躍していた。自分の統治を脅かすことさえなければ、香港政府は非政治性の中国団体に対して、その存在を許すことにしたと同時に、自己の都合によって、影響がかなり大きい中国人社団に干渉、規制を仕掛けた。中国人の街坊公所や東華病院や中華商会などは中国人社会を代表する団体であったから、ますます香港政府はこれらの団体との交流と支配を通じて、中国人社会を連絡し、中国人の意見を諮問する団体体制にさせた。
香港にいる中国人の街坊公所は街坊理事会或いは街坊会とも言われ、早期中国人社会の重要な組織であった。街坊公所は同じ地区に住んでいる人から組み合わせて、組織の構成は締まりがなくて、主な役割は隣近所の関係を調和し、本地区の社会福祉を処理し、例えば救済し、治療し、学校を作り、貧乏な人に葬送費用を提供するなどのことが主であった。
やしろには街坊公所が集合し、討論する場所だった。街坊公所の責任者の大多数は当地の富豪やコンプラドールであり、その同時に、彼らは往々にしてやしろの投資者だから、町の指導者でもあり、やしろのリーダーでもあった。19世紀70年代には、東華病院が成立する前に、街坊公所はもう中国人社会にある支配地位を持っている団体になった。
1868年には、“更練”というのは五環街坊に提案されて、香港政府に認可されて、成立した後、段々制度になった。“更練”は街坊公所に基づいている民間の治安団体で、各々の店舗各自に雇用され、管理された“看更”、
1.戦後香港の国際政治環境
第二次世界大戦以後には、イギリス帝国殖民体系が崩壊した。中国共産党が全国の政権を取った後、イギリスが香港に対する殖民統治は、五十年間ぐらい安定が続き、香港の経済は発展し、繁栄の奇跡を作り出して、東アジア新興工業化地区の“虎”の中で先頭に立つようになった。戦後香港の目覚しい発展と戦前の平凡な一面が鮮明に現れた。戦後香港の特別な国際政治環境は、香港の目覚しい発展に決定的な役割を果たした。
イギリスが香港を占領した百年の間で、1941年末に太平洋戦争は勃発した。その際、イギリスの代わりに日本軍は速やかに香港を占領して、香港の総督は日本軍の捕虜になり、収容所に収容された。三年余りの歳月の後、イギリスは勝者の身分で香港に戻ったけれど、戦争中にひどいショックを受けざるを得なかった。昔、世界を跨り、“”と称していた殖民体系が戦後の盛んな亞非民族解放運動のショックを受けて、統治状況は不安定極まりない状態になった。戦後十年の間に、イギリスは続々とアジアにあるインドやマレーアやビルマなどの殖民地から引き上げた。戦後には、イギリスはかつて香港の総督Mark Youngの政制改革計画を実施して、香港住民に相当の自治権利に与えるつもりであった。これは世界の反殖民主義の嵐の圧力に迫られた一方に、イギリスは統治の危機に面して、引き上げる支度をするためのやり方である。しかし、中国での大革命が香港の運命を変えたけれど、今回はイギリスの殖民主義の統治を覆すことではなくて、イギリスに香港に残ってもらい、統治を続ける機会を与えた。
抗日戦争に勝ってから中国国内ではすぐ戦争が勃発しそうになった。国民党は内戦を準備するために、香港を収める努力をせず、戦後イギリスが香港を統治し続ける現実状況を認めた。1949年に、共産党は全国の政権を勝ち取って、“一辺倒”の外交路線を実施することを宣告し、ソ連をはじめとする社会主義陣営に参加する同時に、西方国家と平等な外交関係を発展させるつもりであった。しかしながら、まもなく朝鮮戦争が勃発して、中国は軍隊を派遣して北朝鮮を援助し、アメリカをはじめとする国連の軍隊と争った、西方の資本主義世界に軍事的に囲まれて、さらに、経済と政治の閉鎖が実施された。こんな国際環境において、新中国政府は極度に敏活な実行方法を講じた。新中国が成立する前に、中国共産党はしばらくの間進駐することを諦め、イギリスが香港を統治している現状を維持することに決めた。1新中国が成立し、朝鮮が政制してから、香港の作用は段々目覚しくなった。外交の方面では、香港は中国政府が孤立的な外交局面を打ち破り、イギリスと外交関係を成立する道具にされた。しかし経済の方面では、香港は西方の封鎖を突き破り、西方世界と経済貿易を保持する架け橋になれた。そういう経緯で、中国共産党はイデオロギーの制限を越えて、実務に応じるができる香港政策を選択した。50年代末から60年代初には、中国はソ連との陣営関係が不仲になり、国際社会でさらに孤立になった中、香港の対外経済貿易作用は代替のできないものになった。1960年には、中国が香港に対する“長期打算、充分利用”という 政策が明らかに発表した。つまり、長期的に香港の主権を収めることを考えずに、中外経済貿易の中で香港の架け橋の役割を果たしてもらい、西方の資本主義国家の経済封鎖を打ち破り、新中国外交を発展させる戦略の一つとして香港特有の役割を果たすことであった。香港を治めないばかりでなく、できるだけ、香港の安定と繁栄を促進する条件を作り上げた。政治方面では、香港イギリス当局が中国との矛盾と紛争に対して、中国政府は原則的に強い言論を発表する以外に、実際に対立手段を行使しなかった。例えば、1949年から1952年までに、“両航事件”の処理の中で2、そうであった。中国共産党中央が国内で行う政治運動と社会改造運動の中で、例えば、資本主義工商業の改造など、全部香港に触れないことを要求した。ただ、1967年に“文化大革命”民衆運動の高潮で、政治は部分的に抑えられない時は、運動は一度香港政治に触れたけれど、中国共産党中央はすぐ香港にいる左派に圧力を与えて、香港の混乱した局面を終わらせた。経済の方面では、中国は長い間、ずっと香港に安くて充分な物を提供し、日常用品から生産原料まで、香港人民の生活と経済の発展に特恵で信頼できる物資保障を提唱した。
イギリスにとっても、もちろん重要な経済と戦略利益をもたらせる、“金の卵を生める鳥”と呼ばれる、アジアにある最後の“殖民地”香港を保ちたかった。西方大国の中で、イギリスは一番早く中華人民共和国を承認した。朝鮮戦争が勃発したので、建交交渉は困難極まりなかったけれど、やはり“半外交関係”――代処級外交関係を作った。対華関係の中で、香港問題はイギリスにとってまず思い浮かぶ問題であった。戦後初期、イギリスは香港で民選の市議会を設置することを主な内容にするMark Young改革を実施するつもりであったけれど、実施は遅れて、最終的には放棄した。イギリスと香港政府の内部の紛争以外に、重要な原因は中国の内部状況の変化であった。最初は、中国政局の激しい変化が香港に衝撃を与えたので、イギリスは改革を延期することを決めたのだが、その後、中国が香港を収めるつもりではないことを再確認してから、完全に改革を放棄した。イギリスの“民主化”改革はいつも殖民統治を反対する圧力に迫られていたが、中国の香港現状を維持する政策はかなり長い時期続くと知り、こんな圧力を除外した。又、新中国政府は原則的に香港の主権は中国に属することを強調していたのだが、香港のイギリス政府が行った“民主化”、“自治”改革は香港人の“公民意識”を増やすことで、つまりイギリスの統治の下において香港本地に対する帰属感を強化し、中国に返還することを排斥することになる恐れがあった。この事に対して、中国は自国が提唱する香港主権に対する軽視と挑発に思われて、中国政府もこんな“改革”を見たくなかった。“イギリス人は外交では現実主義精神を持っていて、かなり円滑にこなしている。……もしイギリスは香港の地位がしばらく変わらないという中国の承諾を得たら、Mark Young計画はかえって邪魔になってしまう……1949年10月には、イギリス衆議院はMark Young計画を終わらせた。”3イギリスは香港にずっと滞在するために、香港が中国政府に反対する基地にならないために、いろいろな措置を施した。中国とイギリスの間には別々の自分自身に対する目的を目指して、香港の安定と繁栄を保持するために、黙契が出来上がっていた。香港はつまり非常に特別な履歴条件において、いち早く戦争の創傷を回復し、国際的な大都市になった。
2、第二次世界大戦以後の香港の経済発展と急騰
第二次世界大戦の終盤1945年から、中英が香港問題についての連合声明の80年代までの40年間では、香港は経済以前のトランシット港から国際性を持つ新しい金融、貿易、港運、そして旅行センターになり、注目の的になるほどの飛躍を勝ち取った。香港経済の発展はいつも順風満帆ではなく、絶えずに危機と困難を乗り越える過程の中で発展したのである。
1945年から50年代までは香港の経済の回復時期であった。香港の経済は、戦争の間主な産業であった対外貿易がほとんど止められた、工業生産が縮んだ損失もあった。戦争が終わってから、香港の対外貿易は、特に中国内陸部に対する貿易は急増し、速くもトレンシット貿易の地位を回復した。対外貿易の発展に従って、香港の経済はいち早く回復し、戦争前のレベルを超えるようになった。
1952年から70年代初までは香港の工業化の時期であった。この段階はトランシット貿易の危機から始まったのである。50年代初には、朝鮮戦争に引き起こされた西方国家の対華物資禁輸によって、香港が中国内陸部に対する貿易は三分の一までに落ち込み、トランシット貿易も急落した。香港人は直ちに産業の枠組みを調整して、西方国家の労働密集型産業転移や中国内陸部の個人資本と人力輸入などの利点を利用して、成人服装業を先頭にして、輸出型の製造業を発展していた。50年代までには、製造業の製品は香港の輸出額の七割にもなって、香港はトレンシット貿易港から工業都会への産業転換に成功した。
70年代初から80年代末までは香港の産業が多元化を実現する時期であった。60年代末から70年代初までに、香港の経済は再び危機に陥った。台湾や韓国など東アジア地区の輸出型の経済が発展してきて、香港の経済体制に対する競争関係になり、先進国の貿易保護主義が立ち上がり、世界範囲の石油危機が香港経済の困難を強めてきた。自由主義の香港経済の規制が自身に対する調整作用を果たして、香港の工業が単純の成人服装から製品と市場の多次元へ発展することを促進した。そして、香港の金融業、旅行業や不動産業の発展を促進して、香港はこれをきっかけとして、産業多元化の国際経済センターになった。
香港経済の速い発展は香港社会に激しい変化をもたらした。中国人の経済は、つまり香港本地の華人資本の地位は速めに出来上がっていて、80年代までには、資本総量の方面では香港にあるイギリス資金に迫りつつあった。イギリス資金は香港経済の支柱の役割を果たして、金融や公共事業などの方面で優勢を維持していたが、中国人資金は不動産、製造、建築、対外貿易、運送業、百貨店や飲食などの方面ではイギリス資金を越えるようになった。そして、世界で有名になった企業家が、例えば、李嘉誠、包玉剛、郭柄湘、呉正光、李兆基、鄭玉_,紹逸夫などの人が注目された。中国人経済の発展は直接に華人が香港政府に対する影響力を増やした。戦後香港経済の発展に引き起こされたもう一つの重要な社会結果は、中産階級の決起であった。これらの状況は後の文章で紹介し、評価する。
1.戦後の香港の人口変化と住民の本地に対する認可
第二次世界大戦以降、香港の人口は割と速いスピードで増えて、本地の人口の自然増加以外には、移民が大勢流入したのもまた人口増加の重要な原因であった。香港のイギリス当局は、1949年以後には日々厳しい移民入港管理を樹立して、中国人の自由な入港を禁止するようにしたが、中国からの移民はやはり絶えずに香港に入ってきて、香港移民の基本成分に構成した。
1841年から1941年までの百年間で、香港政府はずっと自由な出入港政策を実施して、香港の深_港は普通に存在していなさそうに見え、中国人は内陸部と香港の間を行ったり来たりして、上海人が租界を進出するようであった。第二次世界大戦の間、香港の人口は戦争の進展によって大幅で増えたり減ったりしていた。1937年には、香港の人口は100万人で、1941年に大勢の戦争難民が入って、人口は急に163.9万人まで増加した。日本軍に占領された後、人々は我先にと逃げて、1945年に戦争が終わるまでに香港の人口は僅か60万人だけ残っていた。4戦後、香港には移民によって引き起こされた人口の機械的な増加が四回あった。一回目は戦後の一、二年で、二回目は中華人民共和国が成立する前後一、二年で、三回目は1960年前後、中国内陸地は経済が困難になった時で、四回目は中国が改革開放政策を実施する初期であった。
戦後初年度に、香港の人員出入がまだ自由で、第二次世界大戦の期間で逃げた住民は戻ってきて、香港の人口は回復的増加を記録した。1945年には、人口は100万人までに増えた。やがて、中国内戦が勃発して、新しい難民潮流が始まって、1948年には香港の人口が急に180万人までに増加した。5
1948年―1950年、香港には新しい移民潮流があった。1949年の香港人口は1948年より3.17%増えて、1950年は1949年より20.46%増えて、1951年には、人口は大幅で下がって、1950年より9.92%減り、人口は200万人になった。人口の減少は1950年に、香港の青年が内陸部へ帰って建設事業に参加する潮流があったからである。この階段には、移民の重要な原因は中国の内戦と政権の更新期であった。
イデオロギーの方面では敵として存在する共産党の新政権と解放軍の軍事的接近と、日々多くなっている難民の潮流に対して、香港のイギリス政府は1949年から香港の本地の住民と合法入港者を登録する人口登録政策を設立し始めて、そして、“香港身分証”を授与することにした。1950年5月に、香港の深_港で検査拠点を立てて、それから中国人が勝手に辺境地区に入るのを禁止することにした。中国側も中国人が自由に香港に入らせなくて、勝手に辺境地区にはいるのも禁止する厳しい辺境守備検査制度を立てた。厳しい辺境守備官制は共産党に指導される普通の社会主義国家の政策である一方に、中国が香港の辺境守備官制も香港の移民圧力を減らして、香港の安定を維持する願望を含めていた。
1951年から1961年までの10年間で、移民の形勢はまだとても強いものであった。1951年から1961年まで、香港の人口は毎年4.40%の比率で増加してきた。50年代には、移民が増加し続いた原因は50年代から60年代初まで、中国内陸部に多い政治運動と生産方式の改造が例えば資本主義工商業の改造などがあったからである。その他には、1959−1961の中国内陸部の飢饉も香港への移民人数の増加を促進した理由の一つである。40年代末と50年代の移民の中には、旧中国の財産所有者と旧官僚、旧軍人、資本家、管理人員、技術人員や知識分子などの中上層人物が多くいた。移民の中でも彼らは香港の経済にとっては必要である資金、管理、技術をもたらした。上海や天津などから来た中国の工商業都市の資金、技術、人材は大部分がこの時期に香港に移ったのである。大多数の普通の移民は安価な労働力になり、香港の工業製品を世界市場の中でもかなり高い競争力を兼ねそろえたものにした。この段階の移民は、香港がトレンシット貿易から製造業への変更に対する肝要な資本と人力の出所であった。
1969年から70年代初まで、中国の“文化大革命”運動の社会経済の結果が現れてきて、特に都会青年の“上山下郷”運動の中で人々の生活と就職が困難になって、広東から香港に入った青年が多くなり、その中には非合法入港の人もたくさんいた。1969年には、香港の人口は1968年より1.60%増えて、1970年には人口は1969年より2.46%増えて、1971年には、人口は1970年より2.17%増えた。
70年代末から80年代初まで、香港に移住した人数はもう一度急に増加してきた。1979年の一年間で、香港の人数が5.61%増えた。当時には、文化大革命が終わったばかりで、中国側が住民の出国制限を緩めて、多くの中国住民は香港へ移民することができた。1980年から香港政府は入港者に対して厳しい批准制度を実施して、適当に香港の人口増加スピードを緩めた。第二次世界大戦以後には、香港の何回かの移民潮流は中国の政治、経済や社会状況と強く繋がっていた。中国内陸部の移民は大多数が香港に親戚と友達がいるので、多くの移民は香港社会に対してひどいショックを起こしていなくて、かえって資金や技術、管理人材や安価な労働力を提供した。
戦後に香港が出入港人口に対する管理と、新しい移民の来港は香港人の出身地の枠組みと本地に対する承認に影響を与えた。香港の住民身分登録と中国移民入港を抑える政策を実施して、その直接的な効果は香港人口の中でも本地生まれの人の比率が上がったことにある。統計の結果によって、1921年には、香港本地で生まれた人は全体住民の26.7%を占め、1931年の比率は32.5%で、1961年は47.7%で、1971年には50%を越えて、1976年は58.9%で、1981年は57.2%で、1986年は59.4%で、1991年は59.8%であった。6本地に生まれた人の比率の増加は香港人が本地に対する承認感を促進した。広東の田舎から来た先輩とまったく違って、香港の都会環境で育てられた人たちにとって、生活の中心地は香港である。50−60年代の時、世界冷戦や共産党への反対、対華貿易禁運の環境において、昔ずっと盛んな香港と内陸部の人員との経済の交流はいろいろな制限を受けて、香港の多くの学校と父母はわざと子供に中国大陸についての知識を教えるのを回避していた。70年代には、香港にあった中国の話題についての禁止はやっと解除された。香港の社会制度は内陸部と違っている。60年代以後、香港と中国大陸の経済と生活レベルの差が段々大きくなって、香港人が接触できる中国大陸人はほとんど収入が少ない人で、香港に来た移民は経済レベルが低くて、困難で給料が少ない仕事しかやることができなかった。70年代以後、香港政府は非法入港者の激増に対して、大勢の警察を配置して、内陸部からの非法入港者を阻止することにした。1980年に実施された市民身分証携帯制度は更に香港人の本地意識と承認感を強めた。60年代から、香港にあるテレビ局などのマスコミは市民意識に与える影響が日々強くなって、香港の映画業界も大成功を収めた。マスコミと映画などはずっと中国大陸人と違う香港人の市民性格を樹立してきた。こういう歴史背景において、香港人の本地承認は強まっていた。しかし、その反面、中国内陸部から来た移民がいろいろな制限を受けているにも関わらず、やはり続々と移住してきた。移民の人数は香港の人口の中でも相当の比率を占めている。60年代は50%くらいで、70年代は40%で、80年代でもまだ35−40%を占めていた。具体的に言えば、1976年には中国内陸部で生まれた人は香港住民人数の38.6%を占めて、1981年は39.6%で、1986年は37.0%で、1991年は35.6%であった。7香港人は大部分が広東の方言を使用言語にし、中国内陸部と、特に広東省を切れない血縁関係を持っている。家族と血縁感情を重視する中国人にとっては、香港人は情感の方面では中国と分けにくいということである。香港は昔からずっとイギリスの統治の下におる地方自治権利を持っていない経済実体であり、政治実体ではなかった。香港人の本地承認の増加は参政や自治権や民主など問題への注意を促進したけれど、香港を独立させる社会運動を促進していなかった。
2.中産階級の興起
香港経済の速い成長は産業の枠組みの変化である第三産業の就職人数の増加をもたらした。統計によると、1961年には、第一産業の就職人数が9.6万人で、就職人数の8.06%を占めていた。第二産業の就職人数が68.2%万人で、就職総人数の57.26%を占めていた。第三産業の就職人数は41.3万人で、総就職人数の34.68%を占めていた。1987年には、第一産業の就職人数は3.8万人で、1.4%を占めていた。第二産業の就職人数が141.0万人で、就職総人数の52.03%を占めていた。第三産業の就職人数が126.2万人で、就職総人数の46.57%を占めていた。統計結果によって、60年代から80年代まで、香港の第一産業の就職人数は相対人数と比率が下がり、第二産業の就職人数が上がっていたが、就職総人口の比率が下がっていた。ただ第三産業の就職人数と比率が両方とも上がっていた。8
戦後、香港の教育事業は“エリート教育”という旧体制を抜け出して、多階段的で、普及的で、実用主義的で、膨大な教育体系を構成してきた巨大な成果をあげて、香港の経済と社会の発展を促進した。戦後20年間で、つまり1945年から1965年まで、香港の人口は急速に増えたので、教育促進の重点は小学校の位置と適当な先生養成制度を提供することであった。1971年には、香港は正式に小学校義務教育を実施し始めた。70年代には、中等教育はずいぶん発展してきて、1978年には、9ヵ年義務教育制度を実施し始めた。同時に、経済発展多元化の要求によって大いに力を入れて、いろいろな工業技術教育を促進し始めて、それから、香港の教育は経済職業を目的にした実用主義教育の特徴が段々と表に出できた。高等教育の面では(香港で“專上教育”という)、第二次世界大戦の前にはただ1911年に成立した香港大学だけがあって、50年代には、香港浸会学院が設立されて(1956年)、60年には、香港中文大学(1963年)と嶺南学院(1967年)が設立されて、70−80年代には続々と香港理工大学(1972年)、香港城市理工学院(1984年)と香港科技大学(1988年)が設立された。これらの七つの大学は政府の教育諮問機関である大学及び理工教育援助委員会に資金を貰っていた。その他には、政府に承認される専門証明書を与えられる別の種類の学院があり、多階級の高級人材を育てる高等教育体系を構成した。教育の発展は大幅で、香港の労働人口の素質を高めた。1989年に香港政府に公告された1961年から1989年までの統計の結果によると、60年代には、小学校レベルの労働人口は労働総人口の52.7%を占めて、大学專科以上教育を受けた人は13.5%を占めた。大学專科教育を受けた労働人口は職業技術人員(労働総人口の7.4%をしめていた)と行政管理人員(労働総人口の3.8%を占めていた)の重要な源泉になった。9
経済の発展と第三産業の興起と教育の普及にしたがって、一部の社会下層人士が中等収入の階級に入って、香港の中産階級は壮大になった。中産階級という概念はまだ統一されていないけれど、普通に中等収入の人を中産階級と言っていた。例えば、企業と政府の管理人員や専門技術人員、小企業主などであった。統計の結果によって、1976年には、月給が1−2万香港ドルである中等収入家庭は1990であり、家庭総数の0.84%を占めた。1981年には、51,625であり、総数の4.25%を占めた。1986年には、199,611であり、総数の13.74%を占めた。つまり、1976年から1986年までは、物価の変化を考えなければ、香港にある月収が1−2香港ドルの家庭の数字は99.3倍増えた。同時に、月収が1万香港ドル以下の低収入家庭は941,800から1186035まで増えて、たった0.26倍しか増えていない。そして、比率は98.87%から81.65%まで下がった。月収が2万香港ドルを越えた家庭は1976年の2390から1986年の66930まで増えて、数が27倍増えて、比率は0.29%から4.61%まで増えた。この統計の結果は香港住民の収入増加と収入が違う人々の枠組みの変化、つまり中産階級家庭の比率の拡大という事実を反映している。10
普通には、香港の中産階級は専門知識が具備して、又、かなり経済実力を持っていて、大部分が戦後から成長してきた新しい世代であった。彼らは西方思想と生活方式の影響を受けて、家庭だけを重視する伝統的な中国人と違って、公共事務に対する興味がずいぶん深くて、更に社会と政治参与権利を求めていた。70年代以来、政府部門、管理基層と他の社会商業では彼らは重要な地位におり、各専門知識に従って香港の経済と政府施政に評価と意見を提示する能力を持っている。11
専門人士と会社職員工会の発展はこの社会階級の活動と影響を明らかにした。1962年には、香港には約20公務員工会があり、大部分が労働者型の工会であった。70年代の発展を通じて、1985年には、公務員工会は160まで増えて、人数が75000人で、全香港の17万人の公務員の43%を占めていた。この比率は労働者の中に、全港工会メンバーが占めていた14%よりずっと高くて、公務員の社会活動参与と組織程度が普通の人より高いということを明らかにした。その他には、1974年には成立した香港教育工会である“香港教育専業人員協会”にはメンバーが37071人おり、香港にあるメンバー数が一番多い工会の一つであった。公務員工会と香港教育専業人員協会のメンバーは11.2万人であり、当年の香港工会メンバー総数35.91万人の三分の一に接近していた。12
香港にいる中産階級社会政治影響力の拡大は香港の立法と行政局の非官守議員の中にいる専門人士の増加にも現れていた。70年代以前には、立法局と行政局の非官守議員は大体、大商人、大銀行家、大企業家及び彼らの代表から選ばれていたけれど、1970年には13名の立法局非官守議員の中には一人の建築家と二人の教育家がいて、中産階級から選ばれたと言えた。10年以降、1980年には立法局にいた26名非官守議員の中には、大商人、大銀行家、大企業家及び彼らの代表は主な地位を占めていたけれど、中産階級の背景を持っている非官守議員は増えた。1人のお医者さん、1人の大学副学長、1人の女子大学の学長、1人の社会職員と1人の労働給料関係を勤めている伝道師がいた。13
3.社会団体の幅広い発展
第二次世界大戦以降、香港の民間結社は更に自由な発展空間を得て、非政府組織は活躍を見せていた。統計の結果では、1978年12月、香港には登録した社団が2817あり、14工商業者、専門人員、工会、運動と娯楽、宗教と福祉、地方と近所等のいろいろな団体が含まれていた。では次に宗教と職工団体を例に挙げて、香港にある非政府組織の発展がどんなものか研究したい。
香港は開放以来ずっと宗教的に自由な都市であり、住民は完全に宗教信仰の自由選択権を持っている。宗教団体は昔からずっと香港の重要な社会団体であり、戦後も新しい発展を見せ続けていた。香港住民に信仰された宗教は主に仏教、カトリック教、キリスト教、道教、イスラム教(香港では“回教”とも言われている)と孔教(“儒教”とも言われている)の6種であり、他には、ヒンドゥー教などの宗教及び多種多様な民間崇拝もある。90年代の統計では、香港には正式な仏教信徒が60万人余りおり、仏教団体が200余りあり、その中には、第二次世界大戦期間中に成立して、香港が回復される1945年に、正式に登録した香港仏教連合会と1963年に成立した香港仏教僧伽連合会は影響が大きい連合組織である。カトリック教には教徒が26万人おり、香港教区は全世界で最もカトリック教の中国人が多い教区である。キリスト教には約24万人おり、比較的に大きい宗派の上にある連合組織が二つあり、1915年に成立したキリスト教連会と1954年に成立した香港キリスト教協進会である。道教には10万人おり、香港道教連合会は1965年に成立して、団体メンバーが61ある。回教には5万人おり、主な社団は1917年に成立した香港中華回教博愛社と1949年に成立した香港中国回教協会である。孔教、つまり儒教は香港では一種の宗教と思われて、孔聖会や中華聖教総会などの団体がこれに含まれている。15
香港の宗教団体の活動分野はとても広くて、宗教活動以外には教育、医療や福祉事業にも関わりを持っている。香港のキリスト教とカトリック教は宗教出版社を10個あまり経営していて、宗教と他の書類と刊行物を出版している以外にも、ラジオ放送局を通じて宗教番組を放送している。また仏教と道教も刊行物を出版している。戦後に、カトリック教とキリスト教は教育方面で大成功を成し遂げた。カトリック教とキリスト教が開校した中学校と小学校は全香港の中学校と小学校の総数の45%を占めていて、在校学生は全香港学生の総数の50%を占めている。又、1991年の資料では、香港のカトリック教の教区にはカトリック学校と幼稚園を284軒開いて、在校学生は31万人あまりであり、約香港の在校学生総数の四分の一を占めていた。1953年には成立したカトリック教香港教区にある最も大きい社会福祉機関である香港明愛センターは7軒の職業専門学校、15軒の幼稚園、20軒の成人教育センター、4軒の知能障害者特別学校をそれぞれ開いた。他の宗教は教育の方面では、出遅れていて、規模も小さい。仏教は各類の学校を60軒あまり開いて、在校学生は8−9万人である。道教は3軒の中学校と5軒の小学校を所持している。回教も英語の中学校、小学校と幼稚園を開いていたし、孔教は大成中学校、小学校と夜間学校を開いていた。
次に、医療と福祉事業を取り扱う方面では、香港のカトリック教区は6軒の病院、9軒の診療所、17軒の地区サービスセンター、12軒の宿舎、28軒の養老院、1軒の負傷者回復宿舎を開いていた。仏教は1軒の病院、幾つかの漢方或いは西洋診療所及び養老院を開いていた。道教は幾つかの養老院を開いただけである。宗教団体に開かれた学校と福祉事業は宣教の基地であると同時に、社会にも有利有益で、宗教の社会的地位にいい影響を及ぼしていた。
20宗教世紀70年代の以来、宗教組織は社会と政治活動を重視し、参加してきている。カトリック教とキリスト教の教職人員と教徒は‘香港社区組織協会’、‘キリスト教工業委員会’、‘労資関係協進会’などの団体を作って、大衆のために権利と利益を目指すことを宣告し、盲人のストライキとバス会社二社の乗車値段が高くなったなどの社会的事件に反対していた。16中国とイギリスが香港問題について交渉する及び過渡期に入った後、宗教界も香港にある他の各界人士と同じように、香港の前途、政制改革、香港特別区基本法などの問題に着目し、重視していた。1984年キリスト教香港教区主教父胡振中は北京政府にキリスト教徒の香港の前途問題について、“九七”以降でも香港の宗教的自由を保障してほしいと表明した。同年に、カトリック教の北京訪問団も北京政府に一通の“信念書”と“宗教自由説明”をそれぞれ提示した。また、宗教団体は基本法に関わる討論にも参加し、政論文章を発表したり、検討会を開いたり、また群集集会を招集したり、署名運動を呼びかけた。
香港イギリス政府は宗教信仰の自由を尊重し、宗教と宗教団体の合法的地位と宗教及び社会活動に従事する権利を保護し、また宗教団体も政府と良好な関係を保持していた。香港政府は宗教を政府の諮問体系に盛り込んでいた。執政司署の政務総署帰属の社区諮問科、その職能の一つは宗教団体と正常な関係を保持し、政府のために宗教団体の土地を分配する等に及ぶ問題の解決を諮問することにある。政府の重大活動の儀式上、香港カトリック聖教会の会督とキリスト教香港教区主教の位置は、総督、律政司、布政司、三軍司令より下であり、しかし、行政局、立法局の主席議員の上に配置されている。これは他の社会団体が如何にしても遠く及ばないことである。また、政府は宗教団体に対し経済上の優遇を施している。各宗教団体は利用費用が要らない用地や、低価で私用土地を購入することを申請でき、宗教崇拝場所については房地税が免れる。
戦後労働者団体の発展は、香港非政府組織の自由程度拡大のもう一つの重要表現である。第二次世界大戦前、香港政府は華人の伝統的、現代的社団の存在を認めていた。しかし、低層社会の組織、例えば工会の場合は有限制で範囲が限られていて、香港工会組織は抑圧された状態であった。戦後、香港は民間結社の政策自由に大いに開放して、ただ政府の転覆や政治社会安定に重大な損害を与えなければ、法の下で組織を結成し活動することが認められた。1945年、イギリス戦後第一次選挙において、イギリス労働党が執政を勝ち取り、香港総督も香港工会に対する態度を変えた。1946年6月、香港は立法局を再び開き、手始めにまず1929−1936年の間の12工会に対する禁止令を終止せよという議決を下し、同時に政府の諮問組織労工顧問委員会を組みなおした。新しい労工顧問委員会はイギリスが承認している国際労工組織の公約各項目に従い、新しい工会法案及び労資紛糾法案を模擬した。そして1984年に正式通過し、昔の非合法ストライキ及び閉場条例に取って代わった。香港の工会は合法的地位と発展の機会を得ることができた。171985年に至るまで、官庁の統計によると、香港の254万雇用人口の中で391個の工会があり、会員人数は359,100人いて、左派、右派と政治中立的工会が包括されている。左派工会の連合組織は“香港工会連合会”(FTU、略称工連会)、1948年成立し、政治上では中国内陸と親しい関係にあり、70もの下属組織があり、会員は166,388人おり、その多くは産業工会である。これは香港左派陣営にとって重要な団体である。右派工会の連合組織は親台湾国民党
の“港九工団連合会”(TUC、略称工団会)、これも70もの下属組織があり、会員は35,500人に達するが、左派の工会会員人数の四分の一にも満たない。その多くは技芸式工会、建築、飲食サービス業務等産業の労働者を吸収している。政治中立の251の工会は会員数157,179人を占めて、主に公務員や教師の業務に従事している工会である。18
左派の工会は悲劇的な失策、1967年の香港騒乱に巻き込まれ、中国共産党高層政治の制御不能による犠牲品となった。そのため、香港政府の鎮圧に遭い、また中国北京政府にも認められず、香港民衆の眼中において大いにその形象が損なわれた。しかしながら、1967年の騒乱は香港政府に社会、特に低層社会と政府との矛盾の深さを意識させた。香港政府は事態が収まった後、実際の措置を施し、香港民衆の社会状況を改善させて、各階層の民意の諮問に注意を払い、社会矛盾を緩和させるよう努力した。一方、政府に対して温和と協力的な姿勢を見せている右派の工会は、まず始めに官方の諮問機関に参与し、政府の労工顧問委員会においてずっと一人、もしくは一人以上の出席代表がいる状態であった。また、政府も常に温和で妥協的な右派労工界を奨励しもしくは帰納させていた。1976年、工団会の前任秘書長梁達成は立法局非官守議員に委任され、これは香港最高級諮問機関に初めて労働者出身の議員が就任できたのである。左派の工会は80年代初めから策略を、政府に非協力的な姿勢、また不参入の立場から一転して、積極的に官方の諮問機関に参入する立場に変わった。1985年の第一回立法局選挙において、左派と右派は功能団体労工界の二席において、互いに一席を勝ち取った。工会の中でも、公務員、教員から組織された工会は比較的に高水準と組織程度があった。公務員はその身分上非官守議員に出馬できない。しかし、最大の教員工会“香港教育専業人員協会”主席は1985年の選挙で立法局議員に当選した。当然、教育界の人士でこれ以前にも立法局に入った人はいるが、しかし工会の身分で入ったのではない。
1.立法局の変更
第二次世界大戦以降、イギリスの香港の基本政治体制が変わらないように維持し、同時に政策諮問体系を発展させてきた。香港はイギリスの“直轄植民地”地位が香港の政府を指導者は当地の居住民によって選出されることはないと決定させていた。戦前イギリスの香港統治の百年の間に、何度も香港にいるヨーロッパ住民の自治要求を拒否したけれど、妥協の中で諮問のルートを作り、例えば、社会人員を委任して諮問式の立法局と行政局の非官守議員を担任させ、中国人社会の中で名誉が高い社団と連絡して、新界に関連する決策で当地の協議局などであった。しかし、第二次世界大戦の前に、香港政府の諮問面は狭くて、大体ヨーロッパ人社会と上層商業の金融エリートだけである。第二次世界大戦以降、中国人の経済実力の増加、種族隔離制度の破壊、中産階級の興起などの変更にしたがって、香港イギリス政府の制度はもう社会経済の現実に応じないようになった。60年代には、香港で勃発した暴力騒ぎは中国及び世界範囲にある過激思想の影響を受けたからであったけれど、香港本地の民衆が政府に対する不満と不信も否定できない事実であった。香港イギリス政府は事件を鎮めてから政府と民間の交流をつよめ、民衆の意見を重視する姿を樹立し、政治の安定を維持する多種の措置を講じた。こんな背景において、香港政府は諮問と意見聞き取りの体制を調整し、発展した。
香港の社会枠組みの変化を応じて、諮問制度の社会基礎を広げるために、香港総督は更に広い社会基層から最高諮問機関である立法局と行政局の非官守議員を選択するようにした。戦後、両局の中国人の議席は増えて、立法局の変化が最も目覚しかった。1950年には立法局の非官守議員の中には、中国人(中国国籍を持っている人)が3人であり、ポルトガル人(国籍)が1人であり、ヨーロッパ人(国籍)が3人であった。1960年には、中国人が4人であり、インド人が1人であり、ヨーロッパ人が3人であった。1966年には、中国人議員の人数が明らかに増加してきて、中国人が9人であり、インド人が1人であり、ヨーロッパ人が3人であった。1971年には、中国人が11人であり、ヨーロッパ人が2人であり、ヨーロッパ人が2人であった。1976年には、中国人が17人であり、ポルトガル人が1人であり、ヨーロッパ人が4人であった。1980年には、中国人が19人であり、ポルトガル人が1人であり、ヨーロッパ人が6人であった。19これらの数字は60年代の中期には中国人の非官守議員の議席が大体ヨーロッパ人と同じだったが、その後、中国人の非官守議員の議席は大幅で増加して、少なくともヨーロッパ人の三倍の比率を維持している。普通に香港イギリス政府の諮問原則は香港の社会経済に対して重要な役割を果たす社会集団の代表とエリートの意見を受け入れることで、立法局の議席の変化は香港政府が中国人のおろそかにできない経済と社会作用を承認し、重視するようになった事実を反映した。
70年代以降、立法局の非官守議員はやはり商業エリートの優勢を持っていたが、もう商業、銀行エリートなどの狭い階層から、かなり幅広い社会階層に、例えば、中産階級を労工階級などに変わった。統計の結果では、1970年には、立法局の13人の非官守の中には、工業家、商人と社長が7人いて、弁護士(幾つかの理事事務を兼任していた)が2人いて、理事を兼任している銀行家が1人いて、建築士が1人いて、教育家が2人いた。その後の3人は工商業に属していなかった。1980年には、立法局の26人の非官守議員の中には、工業家、商人と理事が13人いて、弁護士が6人いて(その中の4人が同時に会社の理事事務を担任していた)、お医者さんが1人いて、大学の副校長が1人いて、女子校長が1人いて、労資関係について勤める宣教師が1人いて、労工階級の人士が2人いた。201980年には、上層商業エリートの優勢地位が変わらないけれど、非官守議員の枠組みはすでにもっと広い社会基層まで広げてきた。
非官守議員の社会背景の変化は香港政府が社会力量多元化の重視することを表した。商界の議員の中には、昔からずっと担任してきた匯豊(The Hong Kong and Shanghai Banking Corporation)、怡和(Jardine, Matheson & Company)、太谷(Taikoo或Swire Group)などのイギリス投資財団のリーダー以外には、総督はアメリカ投資と日本投資の非官守議員を委任した。1976年以降、総督は台湾の工会人士梁達誠と九龍のミニバスの乗務員を担任したことがある王霖を委任し、立法局の議員を担任させた。そして、下層階級で働く教会人員と社会活動者を委任し、議員を担任させた。特に、香港総督は70年代から“忠誠反対派”と呼ばれる人士を委任し、議員を担任させた。1973年に政治団体である公民協会の責任者の張有興を委任して、1977年に香港革新会の責任者の胡洪烈を委任した。こんな反対意見で有名な人は現行体制を承認して、建設性を持っている反対派であった。彼らの加入は政府が民衆の意見を受け入れるイギリス式民主の姿を樹立し、現行体制に良い意見を受け入れることに役割を果たした。1977年以降、60年代以降の新界にある速い発展に応じて、毎回1名の新界の人士を立法局の議員に委任してきた。21香港にある最も重要な政策諮問機関である立法局と行政局の非官守議員の議席の変化は戦後香港イギリス政府が香港の安定と繁栄を維持するために、諮問を広げることを通じて、幅広く各界の意見を受け入れる努力を体現した。
2、民間圧力集団
香港は“自由があるが、民主がない”所と呼ばれている。殖民主義の統治は民主でないことを意味している。つまり、権力は人民でなく、宗主国から得た。しかし、戦後、香港の住民は中国内陸部を含めている大部分の他のアジア国家と地区住民が持っていない自由権利と法治環境を享有している。例えば、かなり幅広い言論、出版、結社、集会自由とか、法廷が独立に司法権を行使し、政府の不満を引き起こすことがあるとか、完璧な法治、政府が新聞の検査制度を設立しないとか、裁判を受けずに拘禁される政治犯はいないとか、市民集団と個人は政府の決策を抗議し、社会を煽って、政府を強制して、政策を修正する自由権利を持っているなどである。
完全に政府の命令を従う個人と団体を違って、自由で法治に保護される市民個人或いは団体は自分自身の利益を保護するために圧力集団を形成し、諮問などのルートを通じて政府に影響と圧力を与えることができる。政府の方面では、任命で担任された官僚は決策の有効的な実施と社会の安定のために、政策の指定過程で関連がある社会団体を諮問することに重視している。各社団は圧力集団活動の重要な形式である。香港の社団活動はとても活躍で自由だ。官報の統計により、1978年12月に香港には登録した社団が2817あり、工商業者、専門人員、工会、運動と娯楽、宗教と福祉、地方と近所などの各方面の団体が含まれている。
圧力集団が影響を与える時に、最も普通の方式は遊説であり、本当の圧力ではない。圧力集団の代表と政府決策者と私的会談し、異議を述べ、もし政府がある政策を実施したら、どんな困難があり、どんな代価を払い、どんな不利な結果を引き起こすなどを説明してから、代わりの方法を提案して、利点を強調することである。こんな私的な非正式な方式で常に圧力集団の目的を達成することができて、実力を持っている団体は大部分がこんな方式を採用して、他の方法が要らないのである。こんな意見も顧問委員会の中で提案する或いは私人電話及び社交場合で出しても良い。香港総商会の専門秘書は政府の貿易、工業と関税及び他の部門と日常連絡を保っている。著名な商業と専門団体もこんな条件を持っている。直接に政府最高決策者に遊説できる集団はもちろん政府関連部門及び官僚に接近できて、強勢地位を占めている集団である。他の決策する前に政府と密接に触れる団体は決まりにより彼らの異議を立法局の非官守議員に提案できる。政府は法案を制定する前に諮問していないことは政府がこの法案がこれらの利益集団と関係のないと思い、或いは、政府が諮問のチャンスを提供したくないからである。1974年以降、一部の左派団体はこのルートを使って政府に意見を出し、例えば、自動車運輸工会の代表は非官守議員グループに会い、交通違法罰金法案への異議を出した。こんな遊説は時々立法の修正をもたらしている。例えば、1973年に証券法を提案した後、財政秘書は約300の修正意見を収め、それから、230件まで縮めて、最後に、政府はその中の115件を採用した。22
もし個人の接触は満足する結果を得られないなら、圧力集団の次の手段は往々公開の運動を発起し、政府を説得し、或いは圧力を実施することである。方法は編集と記者の援助を求めるために、新聞社に手紙を出し、記者会を開き、新聞に自分の報告を提供し、公開講演を行い、広告を貼るなどの方法が含まれている。同情態度を持っている非官守議員は立法局で質疑を出す可能性もあるし、香港九龍街坊連合会或いは民選の市政局の議員は説得されてから講演を発表して、反対者の立場を支持する可能性もある。組織者は実際にはそんなに公衆の支持が要ることではないが(支持を歓迎するけれども)、公衆に彼らの異議が幅広く賛成を得て、政府は政策面では譲歩しない理由はない印象を与えるのが目的である。
もう一つの方法は民間団体の志願者に公衆の署名を招集されて、総督或いはイギリスの国務大臣に請願することである。イギリスと関連する団体は仲良い衆議院の議員を誘い、イギリスの議会で質疑を出し、大臣が香港政府に圧力を与え、民衆の声を聞かせることを促進することであった。1972年には、新界の1人の卿村委員会は香港政府が許した補償に不満して、かつて北京に請願する或いは代表を派遣し、北京へ行くことで脅かした。こんなやり方はただ政府を困らせるだけである。
もし成功しないなら、さらに一歩進んだ圧力手段で、平和デモを行うことである。例えば、1971年に盲人労働者が香港盲人協会所属工場の給料標準を講義するためにデモ行進して、多くの通っている市民はお金を寄付して、同情を表した。こんな状況は旅行部門が香港の姿を作る努力に不利なので、行政部門は48時間以内にもう譲歩して、盲人協会に盲人労働者に要求された付加資金を提供した。しかし、他のデモは成功しないこともあった。政府と関係が深い圧力集団はこういう方法を採用しないで、彼らの武器は政府が不可欠な協力をキャンセルすることである。彼らはこんなことをする可能性があることを知らせるならば、政府は譲歩せざるを得ない。もちろん、圧力集団の活動は必ず法律の範囲以内で行い、政府と交渉する間に自分自身の利益を目指して努力するはずである。暴力の活動は必ず世論の非難と法律の制裁を招致することである。
3.各種類の諮問組織
戦後香港政治制度の新しい発展は政府が幅広く諮問組織を設立することである。戦前に、香港イギリス政府は専門問題について諮問委員会を設立した。20世紀60年代以降、香港政府は総督高度集権を実施し続けていると同時に、社会各界の意見を受け入れ、社会と政府の矛盾を緩めて、有効的な管理を実施するために、多くの諮問委員会を設立して、政府各部門と相応し、協力する諮問体系を完成させた。1962年には、政府が設立した諮問組織は67個あり、1984年までには368個になった。23
香港政府が幅広く諮問委員会を設立する原因の一つ目は60年代中期に、香港は政府に反対する大規模の民衆運動と騒ぎを起こして、香港の社会と政治体系には顕在している問題を見せた。それは上層商業エリートを依頼するだけで、中下層社会の利益をおろそかにする制度と政策はすでに統治の安定を保証しないようになった。これに対して、専門人士と社会各階級の市民の意見を聞き、決策の有効性を強め、政府の開放執政体勢を確立するために、香港政府は諮問委員会体系を拡充した。原因の二つ目は60年代以降、香港の経済は急速発展の階段に入り、政府管理に関連する専門知識がますます多くなり、政府管理は専門人員の意見を聞く必要があり、社会管理について必要がある専業評価と意見を獲得するために、政府は諮問することを励ますことにした。
イギリス学者N. J. Minersはこれらの諮問組織を任務と作用の差に従って、以下の何通りかにわけている:24
(1)専門家の意見を聞き入れ、管理の効能を高めるために、幾つかの専門性が比較的に強くて、政府が必ず制御を実行するべき領域では、政府は諮問委員会を設立した。例えば、薬品と毒品委員会、放射物委員会、危険部品常務委員会、外貨基金諮問委員会などである。
(2)商業と他の職業の活動に対して指導し、激励する必要がある領域では、政府は諮問委員会を設立し、例えば、香港生産力委員会と公制度量衡委員会などである。
(3)政治方面では非難に遭う可能性がある決策を採用することができるだけ正面から責任を取ることを避ける領域では、諮問委員会を設立した。例えば、首長級公務員薪俸常務委員会、公務員薪俸及び服務条件常務委員会、腐敗問題諮問委員会などである。政府がこの種類を利用する典型的な例は天星フェリー事件であった。1966年には、天星フェリー会社は政府に船の切符の値段を高めることを申し込んだ。この要求はこの会社が持っている特許権に合っているが、公衆の反対に遭った。政府はこの問題を解決するために、一つの官方人員が少数を占めている諮問委員会を設立した。この委員会は14票の同意と1票の反対で同意することにした。その後の3晩は騒ぎがあった。この諮問委員会は政府の責任を分担した。
(4)“消費者”の憤慨を発散させることと意見改善の機会を提供し、民衆を慰めるために、政府が商業或いは公衆にサービスを提供する領域では諮問委員会を設立した。例えば、飛行場設備委員会、飛行場営運委員会と航空諮問委員会などである。民航責任者と職員はこれらの諮問委員会で航空会社と旅行社の代表と会談する。港口委員会、港口管理委員会、貿易と工業諮問委員会も類似の作用を果たしている。多数の委員会は関連している専門家により構成している。公衆から選ばれたメンバーがいることもあり、例えば、交通諮問委員会がある。
(5)代行行政機関の幾つかの勤務職能を果たす志願団体の有効的な協力を保証するために、政府は諮問委員会を設立した。例えば、社会福祉諮問委員会、医療諮問委員会、教育委員会などである。社会勤務を主管する行政部門は非常に教会と東華病院集団らの福祉機関が設立した学校、病院と福祉設備を依頼しているから、彼らは決策の過程では重みのある意見を発表することを許さなければならない。
(6)又、幾つかの諮問委員会の設立はただ公衆に政府が問題を重視し、処理することを表すためである。例えば、交通事故被害者工作委員会などである。
第4類と第5類諮問委員会は政府決策に最も影響力を持っている。委員会の中の非官方メンバーは大体専門家であり、実際業務と職業利益は政府決策の正確を保証し、少なくとも彼ら自分自身に便利なことを要求している。もし彼らは不満してから公開に責めたら、行政当局を非常に困らせることになる。一般的には、自分の答案が委員たちの同意を獲得するために、行政部門の責任者は委員会に対して非常に丁寧である。こんな支持は提案が行政主管部門と行政局の許可を獲得することに非常に重要なことかもしれない。
幅広く諮問組織を設立する作用は積極的である。諮問組織は政府と公衆を連なり、政府が社会各界人士の意見を聞き入れ、矛盾を緩め、民衆を慰めるために条件を提供する。そして、諮問組織は日々上がっている専業人士の長所と意見を受け入れ、合理的に決策することにルートを提供する。しかし、諮問組織が政治参与の中での作用に対して誇張してはいけない。民主の代わりとして、諮問が決策過程する時の役割はとても知れたものである。ある学者が言った通りに、大多数の重要な諮問委員会は行政部門の首長に主管され、議定を決められて、委員会のメンバーは行政の首長に選ばれて、官守委員(つまり政府官員である委員)は普通に重要な委員会の中で多数を占めて、幾つかの委員会は非官守委員がいない。委員会は普通に政府部門が支度した文書によって討論を行う。選ばれた委員は会議中で発言される時には、常にとても慎重で、臆病で、果てには官員たちは非官守委員が自分の異議を発表することが許されないこともある。251978年には、立法局の非官守_蓮如女子は“幾つかの委員会は頑固な官員に主管されている。彼らは如何なる形式な評価意見を受け入れないから、よく意見を出す人たちは拒否された。”と鋭く責めた。26民政署長John Waldenも“幾つかの重要な委員会には公衆代表がいない。幾つかの法定委員会の用途は政府の決定に捺印することだけである。幾つかの政府部門は職権を行使する時に、非官方人士の意見を受け入れるべきなのに諮問委員会を設立していない。”と言った。27だから、諮問組織は政府決策の補助機関として作用が積極的だけれど、市民民主参政する変わることとして、作用は知れたものである。
4.区域諮問制度
戦後に、香港は不同層の区域性の諮問機関を設立し、発展してきて、最高諮問機関である立法局と行政局から、第二級の諮問機関である市政局と区域市政局に至り、又、第三級の諮問機関である区議会に至る三級体制に構成してきた。
(1)市政局(Urban Council)
市政局の前身は1847年に、香港が開放した後、すぐ成立した公衆衛生及び潔浄委員会であり、責任は公共衛生問題を処理することであった。1883年に、香港政府は衛生局を成立して、衆衛生及び潔浄委員会を代替した。1935年に、衛生局が改革して、今まで使っている市政局に名を変えた。
市政局は政府が民衆の意見を聞き、形式的に一部の市政事務決策と管理に参与する、非政府の区域諮問組織であり、区域政府機関でない。28市政局の主な任務と責任は港九市区(香港島、九龍と新九龍が含まれている)の環境、公共衛生、健康娯楽と文化勤務事務のために、諮問を提供して、一部の具体的な事務の管理に参与して、例えば、街の掃除と虫、鼠を殺すなどの公共衛生事務、洗濯店、公共風呂、葬式場許可証の給与と検査、市場、小商人の許可証の給与と管理、食品と薬品の許可証の給与と検査、海辺泳場、プール、公園、テニス場などの公共娯楽場所の管理、ビリヤードとボウリングなどの娯楽施設及び酒類営業許可証の給与、市政庁、公共図書館、博物館、画廊の管理などに責任を取る。その他に、権利を得て、娯楽、文化、体育施設を設置すること、戯曲と音楽を協力し、文学、芸術、体育競争を行うことに責任を取ることである。
市政局のもう一つの職能は市民の疑問を受け、答えることである。1973年以降、市政局は港九市区で事務所を設置して、市民の疑問を処理し、答えることにした。しかし、市政局が問題を解決する権力が非常に有限だから、市政局の議員は如何なる関連している政府部門同士で接触する権力を持っていない。普通のやり方として、事情を政府部門と公共団体に移って処理させ、関連している疑問に協力を提供し、或いは、関連している政府部門を催促することである。
市政局は名義上の施行機関が市政総書(その前身である市政事務署も含まれいる)であり、実際には市政総署は市政局の管理を受けなくて、政府の行政部門である布政司の文康市政科の管理を受けている。市政総署の職員の雇用と給料は政府に決められることである。市政総署はただ署長の指導の下において、市政局の決定を施行できる。市政総署は区域の政府行政部門であり、市政局の主な効能は諮問を提供することである。
市政局の初期メンバーは官守議員(政府官員)と委任される非官守議員(政府に委任される社会人士)に分けていた。1952年に、元の11名の議員以外には、初めて2つの民選議員の席を増えて、共に13席であった。当時には、イギリス政府は正式に立法局で民選議員を設立することを重要な内容のMark Young政制改革方案を放棄することを宣告した。市政局で民選議員を設置するのはこの決策の補償であった。それで、香港の政府諮問機関の中には始めて民選メンバーが出現して、その後で、民選議員の比率は絶えずに拡大して、1965年には、市政局は6名の官守議員、10名委任される非官守議員、10名の民選議員を設置して、共に26名であった。しかし、市政局の主席と副主席はやはり官守議員に担任されて、普通に市政総署の署長に主席を担任され、医務衛生署で衛生事務を主管する副署長に副主席を担任されていた。1973年には、市政局は一歩進んで調整して、官守議員を設置しなく、委任される12名の非官守議員と12名の民選議員から構成し、市政局の主席と副主席も応じて全体議員が無記名投票の方式で選挙することにした。1984年までに、市政局は一つだけの民選議員がおり、一部の政府行政事務を参与する諮問機構であった。
市政局は香港政府が環境衛生文化娯楽事務を処理し、諮問と民意を行い、政府が要る中国人エリートを養成することにかなり役割を果たしている。市政局が管理するのは市民の日常生活と密接に関連している事務であり、市政局の仕事は区域行政部門である市政総署に市民に直接に責任を取る保護を提供しているが、市政局議員の民選と市民意見に対する反応は市民と政府の間で交流する役割を果たしている。又、市政局は政府が中国人政治エリートを養成し、訓練する基地である。政府は英語が上手で、高等教育を受けた、中国人社会で影響を与える人物を選び、まず、市政局の議員に委任して、経験を得させて、更に適当な人士を選んで立法局の議員に委任する。この役割は60年代の中期には特に目覚しかった。戦後から1964年まで、立法局の議員に委任されたあらゆる中国人議員は全部、市政局で議員を担任したことがある。1951年―1964年に、市政局の14名の中国人議員は全部その後で立法局に入った。2960年代中期以降、香港イギリス政府は多くの諮問委員会を設立して、その中から、立法局の議員を選ぶので、市政局から立法局に入るチャンスが以前より少なくなった。
(2)区域市政局(Regional Council)
区域市政局と市政局は並列して、共に非政府の区域諮問組織である。二者の区別は次の通りである:第一、区域が違う。区域市政局は新界と離島地区事務に対して責任を取り、市政局は港九市区に責任を取る。第二、区域市政局の成立は市政局よりずっと遅かった。1985年に、“臨時区域議局”が成立し、1986年に、正式的に“区域市政局”に改称した。
区域市政局は効能と組織の方面では大体市政局と似ている。区域市政局は新界と離島の公共環境、公共衛生、娯楽体育施設サービス、酒類経営許可証を配るなどの事務に責任を取る。名義上、区域市政局の執行機関は区域市政総署であるが、実際には区域市政総署は政府の行政部門の命令に従うのである。1985年に、臨時区域議局が成立する時に、メンバーは24人であり、その中には総督に委任されたのは12であり、新界の9区議会に選挙されたのは9人であり、他の3人当然議員は郷議局の1人の正主席と2人の副主席である。1986年に、区域市政局が正式に成立して、議員は元の24個の席以外に、新界の各選区に直接に選挙される12席を増えて、共に36席である。
(3)区議会(District Boards)
区議会は非政権の区域諮問組織であり、香港立法局と行政局――市政局と区域市政局――区議会の三級諮問機構の下層機構であり、効能は市政局と区域市政局と似ていて、たださらに小さい範囲の中で役割を果たしている。
70年代以後、多くの人口は港九市区から新界まで移って、新界の新しい町は早めに発展して、新しい町の人口は遥かに新界の元の住民を越えた。人口の分散の変化により、政府は1977年には新界で“地区諮問委員会”を設立して、1981年には、区議会に名を変え、港九市区でも同じような機構を設立した。香港イギリス政府がこの時、迅速に全香港で区議会を設立するのはイギリスの撤退を準備するのと直接な関係があった。1997年に、香港総督は北京を訪問して、中国政府が新界を借りる期限の1997年に条約を続けなく、香港を回収することを確認してから、急いで政制の改革を実施した。
区議会の重要な職能は主に二つあり、一つは区内の環境を改善することであり、第二には区内の娯楽健康活動を促進することである。区議会は“市民と会う計画”も実施し、住民の区内事務に対する意見と改善方法を諮問し、区内の住民の困難と要求を政府に反映し、住民に政府の政策と処理過程を説明し、区内の市民と政府を繋げ、普通民衆の政治参与のルートである。区議会と並列して、地区管理委員会を設置していて、官方人員から構成して、区内の行政の実権を持っている。区議会は地区管理委員会の諮問機構である。
区議会の議員は4種類の人員がいる。第一は総督に委任される政府官僚であり、つまり、委任される官守議員である。第二は委任される非官守議員である。第三は民選議員である。第四は当然議員である。新界では、当然議員は各郷の郷事委員会の主席であり、港島と九龍市区では、市政局が区内で設立する民選議員と委任議員である。区議会の民選議員は本区内で直接に選挙することである。各区の区議員の人数は違ってもよく、委任議員と民選議員の人数は総督によって決められることである。
(4)郷議局(Heung Yee Kuk)
郷議局は1926年に成立して、1959年に香港の法律規定により政府の法定諮問機関になり、関連している新界の元住民事務の諮問を担任している。郷議局の議員は当然議員と特別議員に分けている。当然議員は27個の郷事委員会の正副主席と新界の非官守太平紳士であり、特別議員は共に21人であり、三つの選挙地区に村代表と“社会賢達”から別々に7人を選ばれていた。郷議局内部は執行委員会を設置して、執行委員会には1人の主席と2人の副主席を設置している。郷議局の所属組織は郷事委員会と村代表である。新界の郷村民は村代表、郷事委員会、郷議局三級の民主選挙制度を通じて、諮問事務に参与している。村民は村代表を選び、村代表は郷事委員会の主席を選び、郷事委員会主席は郷議局の議員及び執行委員会の委員を選び、執行委員会の委員は郷議局の正副主席を選挙する。郷議局の議員は太平紳士以外にこういうルートで選挙されることである。歴史的な原因により、新界の元住民は移民から構成している市区住民より早く間接な選挙諮問機関のメンバーの権利を持っている。しかし、新界の郷村の自治権利が全体的な香港政治に対する影響は極小さいものである。区議会は成立してから、郷議局は保存して置き、区議会と相重ねて、郷議局の主席と副主席は区議会の当然議員である。
香港政治は殖民主義的で、非民主的な政治であった。香港の最高行政長官である総督及び総督を初めとする政府は万里以外のイギリス政府に委任されて、イギリス政府に責任を取り、香港で選挙されてなく、香港の住民に責任を取らなかった。総督は全部の権力を持ち、総督を中心とする行政主導型の体制を実施して、立法局と行政局はただ総督の諮問機関として存在してた。20世紀80年代には、イギリスが撤退する前に、イギリスはいかなる形式の政治選挙をやったことはない、香港政府は民主と自治を実施しなかったけれど、香港住民の民意、専門特長を利用し、市民との連絡を取るように、巨大の諮問体制を発展してきてた。戦後には、香港の諮問体系はヨーロッパ人社会と極少数中国人上層だけ限りではなく、段々中国人社会の各階層に幅広く開放してきた。諮問制度は中国人が政府の管理において政治と社会管理に参与するチャンスを提供して、中国人が政治参与に対する理解にも影響した。
長期以来、香港の中国人は経済に精神を集中して、政治に興味を持っていなくて、これはすでに一種の伝統に構成した。原因として、一つは香港の中国人住民は中国内陸部から来て、中国伝統文化を影響を深く受けたが、その中国政治文化は政府とリーダーを選挙する伝統はなかった。民衆は往々と開放皇帝或いは“人民の救星”に以来していた。近代以来に、民主をアピールする思想家がいたけれど、自由民主制度を実現したことはない。第二は、多くの中国人は内陸部から香港に入り、政治或いは宗教の理念を持つことではなく、政治圧迫を避け、或いは生活のためであった。彼らは家庭、仕事、収入以外の価値に対して、認識が足りなくて、興味も持っていなく、政治に参与する条件も足りなかった。香港には民主はないけれども、同じように民主のない中国内陸部と比べると、香港は資本主義経済と社会の自由、法治及びかなり高い収入を提供している。中国から香港に移民するのはイギリス的で民主のない統治を選ぶことを意味する。第三は、香港の制度は市民の民主意識と民主習慣を許せなく、育てないことからである。香港の中国人は民主伝統が足りなくて、西方文化から民主の観念を勉強し、実践で民主の習慣を育てるしかなかった。しかし、香港を統治し、西方から来たイギリス人は民主と自治を実施してなかった。イギリス統治者は香港で、昔からずっと西方を尊敬し、従う殖民地の気持ちを育ててきて、民主の要求ではなかった。中国人住民が殖民主義政治対する受動的な適応は政治の無関心を作った。劉兆佳は、政治方面の無力感は“香港の中国人の政治無関心を続ける一番直接な要素である”と考えている。30
香港の諮問体制は香港人の政治参与意識に影響した。香港人は民主というものは基本的に諮問と関連して、投票選挙することでないことであり、民主政府が民意を諮問する政府であると、いつも思っている。政党政治に対して、香港人も伝統的な見方を持っている。つまり、政党政治が公益の方面では本当の認識を破壊する可能性があると思っている。それは政党に目指されているのは個別団体の利益だけからである。政党は政治の衝突を意味して、それは香港人が心配することであり、香港人が政治の衝突、社会と経済の安定に対して、非常に重視しているからである。31
60−70年代以後、香港の経済と教育が素早く発展して、公務員本地化がどんどん発展して、諮問組織は幅広く成立して、中国人は政権機関と諮問組織に参与するチャンスと能力が絶えずに増えて、中国人社会特に戦後本地誕生の新一代の中国人の政治意識は変わった。80年代に香港が中国に回収される前景は明らかになった。この巨大の変化は極激しく香港人の政治意識を刺激して、民主の要求と民主問題についての論争は複雑な中英衝突の中で日々に、上がってきた。
1周恩来は、われわれは全国解放する前に香港を解放しないことを決めた、と言った。1993年7月2日の“香港経済日報”に載る金堯如の“香港の現状と地位を維持する戦略思想”を参考してください。1949年初,毛沢東はスタリンを代表して中国へ状況を調べに来たソ連のリーダー Anastas Ivanovich Mikoyanに中国共産党が香港とマカオの特別な地位を利用して、海外関係や輸入出貿易を発展する考えを教えた。この歴史は北京の中央文献出版社に1991年に出版された師哲に書かれた“歴史巨人のそばにいた”(回想録)の380ページを参考してください。
2 “両航”というのは中国民航会社と中央航空会社だ。中華民国国民政府は前者の80パーセントと後者の100パーセントの株を持っていた。1949年初に、国民政府が失敗している間に、両航の基地は香港に移った。1949年11月9日には、両航の職員はほう起を宣告して、中華人民共和国中央人民政府の指導を受けることを宣告した。台湾の国民当局は11月24日に両航が香港にある財産を凍結することを申請して、12月12日に両航の株をアメリカの会社に売ることを宣告した。1950年1月に、イギリスが中華人民共和国政府を承認することにしてから、香港高等裁判所は香港で凍結している両航の資産が中国政府の財産であり、イギリスに承認された新中国政府に所有されるはずのことを判決した。しかし、イギリス政府はアメリカ政府の圧力に迫れて、最後に、原判決を変更して、アメリカ会社に所有されることを判決して、中国政府がひどい損失を受けた。これに対して、中国は自制した態度を採用して、厳重な抗議をした以外には、ただイギリスが上海にあった資産英連船工場及びマレ機器製造工場を徴発することにするだけで、香港に対して、経済的な封鎖を実施すること或いは騒ぎを起こすことをしなかった。
3 三連書店有限会社(香港)に1992年に出版された史深良に書かれた“香港政制縦横談”の193ページ。
4 戦前と戦後初期には、香港の人口数は上海人民出版社には1997年に出版された、陳_と郭志坤編集された“香港全記録”第一卷の248ページ、北京の中国社会科学出版社には1993年に出版された、楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の349、354ページに載ってある。
5 戦後香港の人口数は上海人民出版社には1997年に出版された、陳_と郭志坤編集された“香港全記録”第一卷の248ページ、広州の中山大学出版社に1992年には、出版された、何肇発に書かれた“香港社会問題研究”の36−37ページに載ってある、李若建に書かれた“人口及び人材の外流”、北京の中国社会科学出版社には1993年に出版された、楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の349,355ページに載ってある数字である。楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の355ページに提供された1979年に香港人工の増加率は5.16%である。
6 人口数字は香港の広角鏡出版社に1983年に再出版された、魯言などに書かれた“香港掌故”第四集の40−42ページに載ってある張愛月に書かれた“香港1841−1980”と楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の365ページを参考してください。
7 楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の365ページを参考してください。
8 “香港経済貿易統計編集1947−1987”、間接に何肇発に書かれた“香港社会問題研究”の35ページに載ってある、李若建に書かれた“人口及び人材の外流”に引用された。
9 楊奇に書かれた“香港概論”(続編)の210−237ページを参考してください。
10 何肇発に書かれた“香港社会問題研究”の36ページに載ってある、李若建に書かれた“人口及び人材の外流”を参考してください。
11 魯言などに書かれた“香港掌故”第四集の40−42ページに載ってある、張愛月に書かれた“香港1841−1980”を参考してください。
12 香港大学アジア研究センター出版社に1988年に出版された、陳坤耀、伍錫康と呂大楽に編集された“工運と社会の発展:香港の経験”の123−124ページに載ってある、陳明求にかかれた“現在香港工会発展及び歴史原因”を参考してください。
13 上海翻訳出版会社に1986年に出版された、イギリスのNorman J. Minersにかかれた、伍秀珊などに訳された“香港の政府と政治”の216−217ページ参考してください。
14 Norman J. Miners, The Government and Politics of Hong Kong, Hong Kong, Oxford University Press, Third edition second impression 1982, p.264。
15 宗教団体の統計結果は全部、楊斉に書かれた“香港概論”(続編)の319−343ページから引用した。
16 “盲人工潮”:1971年10月、木場街“盲人訓練中心”工場の労働者が香港提督に給料の引き上げを土日の仕事条例の改正を要請した際、工場方の拒絶に遭い、労働者はストライキを決行しさらには路上に泊まり込むという事態になった。学生組織は“連合戦線”を張り、盲人を支援した。対談と社会各界の圧力を経て、工場方は労働者の三項の要求に合意した。
“_巴”価格吊り上げ事件:1980年8月と10月、九龍汽車有限会社(九巴)と中華汽車有限会社が通貨膨張と改善を理由に、乗車値段を引き上げることを申請した。“九巴”は100%の引き上げを申請した。12月、学生とその他の人士が前後に反対を表明した。
17香港大学アジア研究センター出版社に1988年に出版された陳坤耀、伍錫康と呂大楽に編集された“工運と社会の発展:香港の経験”の134ページに載ってある、米勒に書かれた“工会の政府構造にある代表と参与”を参照してください。
18香港大学アジア研究センター出版社に1988年に出版された陳坤耀、伍錫康と呂大楽に編集された“工運と社会の発展:香港の経験”の122−124,127ページに載ってある、陳明求に書かれた“当前香港工会発展及び歴史原因”を参照してください。
19 Norman J. Miners, The Government and Politics of Hong Kong, Hong Kong, Oxford University Press, Third edition second impression 1982, p.127.
20 上海翻訳出版会社に1986年に出版された、イギリスのNorman J. Minersにかかれた、伍秀珊などに訳された“香港の政府と政治”の216−217ページ参考してください。
21 上海社会科学出版社に1991年に出版された、李昌道などに書かれた“香港政制と法制”の40−41ページを参照してください。
22 圧力集団については、Norman J. Miners, The Government and Politics of Hong Kong, Hong Kong, Oxford University Press, Third edition second impression 1982, pp.258-261.を参照してください。
23 北京の中国大百科全書出版社に1995年に出版された、余縄武、劉蜀永に書かれた“20世紀の香港”の37ページ、香港政府印務局に1985年に出版された“香港1985年:1984年の回顧”を参照してください。
24 Norman J. Miners, The Government and Politics of Hong Kong, Hong Kong, Oxford University Press, Third edition second impression 1982, pp.117-118.
25 余縄武、劉蜀永に書かれた“20世紀の香港”の38ページを参照してください。
26 香港の“南華早報”(South China Morning Post)の1978年11月4日を参照してください。
27 劉兆佳の“香港の社会と政治”の130ページであり、間接に余縄武、劉蜀永に書かれた“20世紀の香港”の38ページを引用した。
28 北京社会科学文献出版社に2001年に出版された、劉曼容に書かれた“香港イギリス政府政治制度論(1841−1985)”の244ページを参照してください。
29 Norman J. Miners, The Government and Politics of Hong Kong, Hong Kong, Oxford University Press, Third edition second impression 1982, p.233.
30 中国社会科学出版社に2001年に出版された、候雅文などに編集された“香港の社会政策”の17ページを再引用した。
31 同30。