シンガポールはわりに若い国であり、その早期の歴史を記録する文字の内容が極めて少ない。およそ西暦紀元三世紀頃、中国人はシンガポールを蒲羅中と呼んだ。それはマレー語からの翻訳で、その意味は「半島末端の島嶼」である。史書の記載によると、14世紀の中ごろ、汪大淵という中国人商人がシンガポールへ行ったことがあり、彼は島にある部落を「トゥマセ島」と呼び、そして当該島には既に華人がすんでいたそうである。『マレー紀年』の記述によれば、現在のインドネシアの境界内に位置するある古代部落の統治者が、ある日暴風雨を避けるために、「トゥマセ島」に上陸する時、一匹のライオンのような動物に出会ったので、この地方を占領し且つ建設すると決定して、そして「シンガポール」即ちライオンの都市(Lion City)という名前をつけたそうである。14世紀の末頃になると、シンガポールと名付けられた島は既に人々に知らされていた。その後、およそ四百年間にわたって、シンガポールは相次いでそれぞれの部落と王国に統治されていた。18世紀の末頃になると、西洋列強が東洋諸国に対する植民と侵入につれて、シンガポールもだんだん西洋の植民地となった、同時にその近代歴史も展開するようになった。今日のシンガポールにとって、近代歴史は画期的なスタートであり、或いはシンガポールの形成と発展に影響をもたらす歴史はイギリスの植民地になってからの近代史であると言ってもよろしい。シンガポールはイギリスの植民地になってから、周りの地方の数多くの移民を引き集め、その中に歴史と地理の原因で大量の華人労働者がシンガポールにきたので、これらの華人とほかの種族の移民によって華人を主とする多種族社会が次第に形成されるようになった。
18世紀後半、イギリスはインドを奪い取ってから、引き続きその勢力圏、且つ中国に対する貿易を拡大して、そしてオランダ人の東インド諸島の拡張を抑制するために、東南アジアで若干の貿易船の寄港地を必要として、イギリスの商船の修繕、補給と保護を提供すると決定した。そこ、イギリス人は1786年にマレー半島のペナンで貿易拠点を設けて、1795年にオランダからマレー半島のマラッカを奪い取った。1818年の末頃、イギリススマトラ島ベンクーレンの副総督を勤めたスタンフォード・ラッフルズが当時のイギリスインド駐在総督に派遣させて、マレー半島の南側で貿易の適地を探し求めた。そして、1819年1月29日に、ラッフルズはシンガポールに上陸して、翌日に統治の統治者と条約を結んで、シンガポールで商館建設の許可を得た。その後、1824年イギリスは2つの条約の締結でシンガポールをイギリスの勢力範囲にと確定した。1つは1824年3月に結ばれた英蘭条約で、イギリスのシンガポール占領をオランダに認められた。もう1つは同年8月にシンガポールの統治者と結ばれる条約であり、イギリスは一時金と年金でシンガポールの主権を得て、シンガポールがイギリスの勢力下に入った。
1826年、イギリスはシンガポールとマレー半島のもう二つの植民地――ペナンとマラッカを加えて、海峡植民地と呼び、当時の東インド会社に支配された。1832年、シンガポールは三つの地方の行政中心となった。1867年4月1日、シンガポールはイギリスロンドン植民地省の直轄植民地となった。その後まもなく、1869年スエズ運河が開通することにつれて、シンガポールはだんだん東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となった。この優れた地理位置は、シンガポールに未曾有の繁栄をもたらした。1873年から1930年までの40年間にわたって、シンガポールの貿易額は八倍も増えた。
第二次世界大戦の勃発で、シンガポールの平和と繁栄が打ち破られた。1941年12月8日、日本は真珠湾を奇襲すると同時に、飛行機でシンガポールの町にも爆撃をした。二ヶ月してから、イギリス軍隊は敗北して、日本軍はシンガポールを陥落させた。日本に占領されたシンガポールは以後「昭南島」と改称され、3年6ヵ月にわたる軍事支配を受けた。1945年9月に、日本の降参の後、イギリス軍はまたシンガポールに戻り、軍事支配を行った。そして1946年3月、軍事管制が終結した後、海峡植民地も解散されて、シンガポールは再びイギリスの直轄植民地となり、ペナンとマラッカはマレーシア連邦の一部分になった。
植民地だった数多くの国家と地区と同じように、第二次世界大戦戦後のシンガポールもイギリス政府により多くの権利を求めるようになった。1947年7月、イギリス植民当局は『立法会議選挙法令』を公布した。この法令によると、植民地総督の諮問機関だった諮問局は、行政委員会と立法評議会に発展させた。総督はまだ権力を握っているけれども、法律の条文では、立法評議会の一部分の議員は選挙人の投票によって選ばれなければならなかったという。そのため、シンガポールは1948年3月20日に、歴史上初めての選挙を行い、合せて22000あまりの国民がこの選挙に参加した。
1953年12月、イギリスはシンガポールの憲法改革をさらに進めるために、リンドー爵(Sir George Rendel)を主席とする委員会を派遣して、シンガポールに対して調査を行った。委員会は調査した結果、1954年2月にある報告書を提出した。報告書の中で、憲法を改正する、選挙人自動登録制度を実現する、立法評議会を民選議員が多数議席を占める立法議員へと変える、部長会議が行政委員会の替わりに政府の最高決策機関となり、総督を主席にさせ、首席部長が議員で多数の議席を占めている政党のリーダーに担当させるなどの提案を出した。当報告書は、イギリス政府の許可を得て、あとでシンガポールにより大きな自治権を与えた新憲法の主な依拠になる。1955年4月、シンガポールは新憲法に基づいて、大選挙を行い、30万人近くこの選挙に参加して、その中に華人は60%を占めていて、マレー人は21%、インド人は11%、そして他の人種は8%を占めていた。選挙の結果、労働戦線が過半数を獲得、マーシャルが首席大臣となり、そしてマレー民族統一機構とマレー華人公会とともに連合政府を構成した。
その後、シンガポール国民が独立を求める叫びが依然として高い。1956年4月、マシャールなどに組織される代表団はイギリスに赴いて、イギリス植民地省と談判を行って、シンガポールがイギリス連邦の自治領として内政の完全主権を求めたが、イギリスに断られて、交渉が決裂した。このため、マシャールは首席大臣の職を辞めた。1957年3月、シンガポールは再び多くの政党に組織される代表団をイギリスに派遣して、その結果イギリスはシンガポールに完全な内部自治を持たせたが、外交、国防と最後の憲法の廃止の権力はまだイギリス政府の手に握られた。1958年5月、双方はロンドンで共同協議に署名して、6月にイギリス政府はシンガポール自治法案を公布して、その後、シンガポールは英連邦の自治領として内政の完全主権を持つことになった。1959年5月、シンガポール自治領で初めての立法評議会選挙が行われて、およそ60万近くの選挙人が投票した。その結果、人民行動党が総議席51の内、43議席を獲得し、大勝した。そして、人民行動党によってシンガポール自治政府が組織され、初代の首相――リー・クアン ユー首相が誕生した。
当時、シンガポールに自治政府が成立されたけれども、まだ完全な独立的な国家にはならなかった。シンガポールの面積が小さく、自然資源も欠乏するので、外部の供給に頼らなければならなかった。特に、ずっとシンガポールと密接的な関係にあるマレーシアの方が、シンガポールの杖として頼られていた。1961年5月、マレーシアはシンガポールを含めた連邦国家構想を発表した。その構想は、シンガポール政府の賛成を得たほか、イギリスからの許可も求めた。1962年、シンガポールで全国民参加の投票が行われた。国民投票の結果、多数の国民は政府の決議を支持したため、シンガポールはこの連邦への参加を決定した。1963年9月16日、マレーシア連邦は正式に設立されて、シンガポールがその連邦の一州となった。しかし、この情況はわずか一年だけ続けられていた。一年間してから、マレーシア連邦内部の諸党派、政治力量と人種の間に、矛盾と衝突がだんだん激しくなった。特に人種矛盾が一番激しかったので、シンガポールに二回の人種暴動が起こった。従って、マレーシア首相とリー・クアン ユー首相が会談を行って、その結果、シンガポールはマレーシア連邦から分離すると決定した。1965年8月9日、シンガポールは正式にマレーシア連邦から分離し、シンガポール共和国として独立して、英連邦における独立な主権国家となった。
シンガポールはイギリスに占領されてから、特にシンガポールは重要な貿易港として大いに繁栄してから、周りの地方から大勢の移民と労働者が移住してきた。その中の大部分は中国の東南沿海地方から来た華人労働者であった。華人労働者ははるか遠い海の彼方から生計のために渡った。その中の大部分はシンガポールに永遠に定着して、お嫁さんをもらったり、子供を産んだりしたから、だんだん繁殖して、独特な華人社会を形成するようになった。華人のほか、マレー人、インド人などの人種もあるから、それぞれの人種とその生活により、多人種社会が形成されるようになった。
シンガポールは移民の社会である。ラッフルズは、シンガポールを自由な港と宣言してから、相次いで大勢の人が移民してきた。これらの移民が幾つかの種類に分けられる。即ち、第一部分は貧乏や天災などで、故郷で生き続けられなかった人達であり、彼らは故郷を離れて、生計のためにシンガポールに移住してきた。第二部分は冒険家と日和見主義者であり、かれらは金持ちになる夢をもっていて、シンガポールに移住してきた。第三部分は、ビジネスをする商人たちであり、彼らはシンガポールを貿易の盛んなところだと思いまして、ここに定着してビジネスをやる。第四部分は、西洋からの宣教師と宗教人士であり、彼らは宗教に対する情熱を持ちながら、布教してきた。その中で、一番人数の多いのは、第一部分の人達であり、その中で、かなりの人達は最初にお金を稼ぐために臨時的にシンガポールにきたから、単身でシンガポールにきて、お金を稼いだら、故郷に戻ると考えた。即ちいつかは故郷に帰る出稼ぎ、「華僑」としての性格が強かった。故郷に帰った人も結構いたから、人口の流動が激しかった。しかし、大勢の人たちがいつもシンガポールに移住してきて、そして大部分の人が定着した。これらの人達は、大部分中国東南沿海からの華人労働者であった。19世紀40年代頃、中国はだんだん西洋列強の侵略対象になり、清朝の統治が腐敗で不能であったから、国家は内憂外患に面しており、国民の生活も貧困を極めた。従って、大量の中国人移民が生計を立てるため海外へ行った。ちょうどその時シンガポールが開港して間もない頃で、大量の肉体労働者が必要であったから、大勢の中国東南沿海の人がシンガポールへ押しよせるようになった。
関係資料によると、1819年ラッフルズがシンガポールに着いた時、島にはただ200人だけいまして、その中の大部分は原住民のマレー人であった。 そしてただ五年間後の1824年になると、人口はもう10600人に達した。その中で、マレー人は6400人であり、総人口の60%を占めていた。華人は3300人であり、総人口の31%を占めていて、二番目であり、他は全部インド人であった。その後何年間してから、華人は55000人に増え、総人口の65%を占めるようになった。19世紀の70年代になると、華人コミュニティの条件が改善されたため、華人の女性はだんだんシンガポールに移住してきた。そして多くの人はシンガポールに定着して、子供を生んで、シンガポールうまれの第一世帯の華人が誕生した。今はシンガポールの300万の人口に、華人がおよそ総人口の76%を占めている。
歴史と地縁からいうと、シンガポールはもともとマレー社会の一部分であった。従って、マレー人は人口の数量には優勢がないけれども、シンガポール社会に特殊な地位を持っていて、強烈な主人意識を持っている。その他、イギリスの植民地政府も華人の存在を無視して、華人を廉価な労働力だけだと見なしていた。即ち、マレー人に比べて、華人はよそから来た人種である。時間の推移につれて、華人の人口はシンガポールの諸人種で一番多くなったけれども、長い時間にわたって、華人はシンガポールを自分の国家として認めなかった。華人は自分たちの利益と中華民族の民族伝統文化を守るため、シンガポールで独自の生活地域と生活習慣、ひいては独立な社会管理組織も形成した。例えば、華人には独自の住居地があり、ふつう華人はあまり他の人種と混じって住んでいない。そして他の人種と婚姻を結ぶことも少ない。中国の伝統祝祭日になると、シンガポールの華人たちは自分の故郷にあるように、歌を歌ったり、踊りをしたりする。華人は生計を立てる時、教育を重視する伝統を謹んで守り、華人向けの学校を創立して、華人の子供に中国伝統文化を教える。そして、数多くの家族連合会、同郷会と商会などの組織を形成した。その中で、南洋華人総商会はすごく影響力のあるもので、華人間の商業利益を調和し、且つ保護するだけでなく、華人コミュニティの教育、福祉、及び紛争の解決などの事柄にも触れる。総じて言うと、華人はシンガポールで相対的に独立的な人種社会を形成するようになった。華人は自分の人種の団結と統一を保持すると同時に、苦しみや辛さを耐え忍び、まじめにこつこつと仕事をやっているから、シンガポールの開発と発展に巨大なる貢献をして、次第にシンガポール社会の中堅的な勢力となった。それと同時に、他の人種の人と仲良く付き合っている。
シンガポールが独立してから、諸人種の習慣を尊重して、宗教信仰の自由を保護する政策を実施して、多人種社会の統合を成功に実現した。リー・クアン ユーは「各宗教の間の相互容認は、多人種、多宗教のシンガポールにとって、非常に重要なことである」と言ったことがある。 シンガポールは多人種の国であり、自分の独特な文化が乏しい新型の国家であるから、シンガポール政府は初めから意識的に諸人種間の相互尊重、協調共存を重視して、国家の統一と安定のために、諸人種の文化を超える「シンガポール国家意識」を養い、且つ樹立しなければならないことを認識した。1988年10月、シンガポール副首相のゴ−・チョクトンは正式的に「国家意識」を発展させる建議を出して、それを「諸人種と諸信仰の全てのシンガポール人が賛成し、且つ頼りにする共通な価値観」だと呼んだ。1989年1月、シンガポール大統領の黄金輝はゴ−・チョクトンの建議に対して、具体的な解釈をした。その主な内容は:「社会を先にする。家庭を根本にする、社会を元にする。共通点を見つけ出し、異なる点は残しておく、相談して一致を見る。人種の調和が取れている、宗教が寛大である」である。1991年1月、シンガポール国会の討論を通して、シンガポール政府により白書が発表され、黄金輝大統領の解釈に更に補充を加えて、正式的にシンガポール共通の価値観の元である五項の内容を提出した。即ち「国家が至上である、社会を先にする。家庭を根本にする、社会を元にする。互いに配慮して支える、互いに助け合う。共通点を見つけ出し、異なる点は残しておく、相談して一致を見る。人種の調和が取れている、宗教が寛大である。」という五項の内容である。 シンガポール政府の長期にわたる努力により、特にシンガポールの経済の飛躍的な発展と現代社会の出現につれて、シンガポール諸人種はうまく行っていて、種族を超えた「シンガポール国家意識」を定着させるようになった。この意識は、諸種族を成功に統合して、華人を主とする今日の多人種社会を形成するようになった。
シンガポールは始終経済の発展を第1位に置いていて、異なる時期の情勢に基づいて、発展に相応しいそれぞれの経済対策を実行していた。半世紀近くの間、世界中が注目しなければならない成績を取り上げた。自分の国家を植民地社会から新興の工業化国家へと転換させるだけでなく、その発展モデルも「アジアの奇跡」だと高く評価される。大部分の非欧米諸国が普遍的に示しているように、経済は一定の程度まで発展していくと、中産階級の市民社会がきっと現れるようになる。シンガポールもだいだいそういう情況を示している。即ち経済に巨大なる発展と成功を取り上げた後、現代意味での市民社会が次第に現れてくる。
シンガポールは島国であり、国土面積が小さいから、大規模に発展する条件が欠乏していて、そして自然資源も少なく、利用できる鉱産物資源はあまりないと言える。利用できる唯一の自然条件は、世界主要な海洋の交通航路にあり、優れた港を持っていることである。この独特な地理的優勢はシンガポールの開発と繁栄に最も主要な条件を与えていた。
1959年の独立の前、シンガポールの経済は長期にわたって、主に港の中継貿易とイギリス駐屯軍にサービスを提供する収入に頼っていた。独立の初期、この経済の構成にあまり大きな変化がなくて、経済の核心は止むを得ず中継貿易に築かなければならない。1960年2月、リー・クアン ユー首相は演説で、シンガポール政府の二つの施政方針を提出した。即ち、中継貿易の最高効能を発揮することとあらためて経済成果を配分することである。リー・クアン ユー首相は「政府の最も重要な任務は、理性的で、且つしっかりとして社会全体の利益を維持して、国家を管理することである。社会の利益は中継貿易に頼り、経営者階層と専門家階層の協力、積極的な参与、また全ての国民の努力が必要である。」と演説した。 ここに、リー・クアン ユー首相は中継貿易の重要度をシンガポール社会全体の利益を維持するレベルまで高めた。この演説から当時の中継貿易はシンガポール経済にどれだけ重要なのかが分かる。
シンガポール政府が中継貿易を重視して、経済を維持すると同時に、工業化の政策も設定し始め、中継貿易だけに頼る不均衡な経済構成を変えようとした。1961年から、シンガポールは第一の五ヵ年経済発展計画で、発展の重点を輸入に切り替える労働密集型の軽工業に置いていた。この時期において、シンガポール政府が基礎施設の発展に力を入れて、投資者のために良い環境を提供しており、そして力を入れて国家の重点工業を育て上げた。この時期の発展を通して、シンガポールは大勢の労働密集型の産業を発展させ、特に食品加工、印刷業、紡績業などの発展が速かったので、就業人数も大幅に増えた。こういう状況のもとで、この時期の中継貿易の平均成長率は4.3%に下がった。それに対して当地商品の対外貿易の成長率は7.5%へと上がった 。こうしてシンガポールの単一の中継貿易経済構成が変えられ、工業化の目標へと邁進する道に歩み始めるようになった。
1966年から、シンガポールは第二の五ヵ年経済発展計画を実施するようになった。その目標は輸出指導型経済が輸入代替型に取って代わり、造船、電子、製油など大黒柱産業を重点として発展させた。シンガポールは当時の発達した国が産業構成の調整を行っている時期を利用して、大規模に外資、技術と設備を導入してきて、輸出向けの労働密集型産業を育て上げた。そのため、シンガポール政府は経済発展局を再編して、発展銀行と金融管理局を設立して、積極的に輸出企業を扶助する政策をとりながら、各種類の措置をとり自国商品の輸出を推し進めた。各政策実施のため、この経済発展計画は巨大な成功を収めた。大量の労働者を引き付けて就業人数を増やしただけでなく、数多く輸出向け型の優勢産業もだんだん形成するようになった。例えば、60年代の後半期になると、シンガポールは既に東南アジア最大の石油製品加工センターになった。この時期に、シンガポールの国民総生産の一年あたりの平均成長率は既に12%に達して、世界中一番成長スピードの速い国家となり、次第にしっかりとした工業化の基礎を定めた。
20世紀の70年代になると、世界中の経済は激動な情勢にあり、アメリカの相対的後退と石油危機の爆発も世界経済に巨大なるショックを与えた。それと同時に、世界経済も新しい技術革命を孕んでいて、即ち伝統工業からハイテクへと転換する革命的な変革に面していた。このような情勢に面して、シンガポール政府も世界の情勢変化に応じて、経済の発展の速度を速める新しい計画を決めた。即ち、第一の十ヵ年経済発展計画を実施しはじめ、ハイテク、高付加値を持っていて、そして国際市場で競争力のある産業を発展させ、労働密集型産業から資金、技術密集型産業へと転換しようとした。それと同時に、アジアのアメリカドル市場を設立し始め、アジア太平洋地区の資金を引き集めようとした。一連の努力により、シンガポール経済は成功に伝統工業からハイテクへの転換を実現して、経済全体における電子工業などの新興産業の比重が大きくなった。70年代において、シンガポールの国内総生産の一年あたりの成長率はおよそ10%であり、同時期の他の国の成長率をはるかに上回っていて、成功にアジア金融及びサービスセンターの地位を確立した。シンガポールは新興工業化国家の行列に入り、著名な「アジアの4匹の竜(アジア新興工業地域)」の1つとして知らされていて、その発展モデルも「アジアモデル」と呼ばれて、世界中に注目され、且つ高く評価されている。
80年代に入ると、世界経済は更にハイテクの発展に頼らなければならない。特に情報産業の発展は経済発展を推し進める強力な原動力となる。シンガポール政府は改めて時機を判断し情報を推し測り、さっそく第二の十ヵ年経済発展計画を制定した。この計画は発展の重点を知識密集型産業、即ちコンピューター、ロボットなどに置いていた。それと同時に、貿易、通信、交通と金融など国際向けのサービス業領域の発展にも力を入れて、シンガポールをアジア太平洋のサービスセンターへと発展させようとした。シンガポールはこの段階の進歩を「第二次産業革命」と呼んだ。実践の結果からみれば、シンガポールは世界経済発展の潮流に乗り、成功に国家の経済を発展させた。80年代の後半期から、外国の多国籍企業と金融機構が大勢にシンガポールへ押し寄せたから、経済全体におけるサービス業の比重がだんだん大きくなり、製造業の比重を上回った。それと同時に知識密集型産業の商品の輸出も凄まじい速度で増えるようになった。例えば、電子製品の輸出量は毎年20%以上の速度で増えていて、コンピューター製品の輸出量は日本に劣るだけであり、アジアの第二位を占めていた。80年代の経済状況をみると、1985年に経済後退があったけれども、依然として一年あたり8%の高度成長率を維持して、同時期の他の国家よりその発展速度がずっと速かったと言える。この時期の発展を通して、シンガポールは世界の経済市場に自分の地位を確立して、国際化程度がだんだん深まり、そして日に日に発達した国家へと邁進していく。
90年代に入ると、経済のグローバル化は世界的な潮流になり、諸国間の経済上の連絡ももう一歩深まった。国際化程度の高いシンガポールも、この変化を意識している。そこでシンガポールは意識的に世界経済に溶け込み、シンガポールの経済発展を更に高いレベルへと推し進めた。1990年から、シンガポール国内の政権の世代交替が行われ、31年間政権を握っていた建国の父リー・クァンユーにかわり、ゴー・チョクトン首相が登場した。1991年シンガポール内閣は『シンガポールのスタート』という報告書と『経済策略計画書』を発表して、未来の20年間の努力目標と方向に対して全面的な企画を立てて、シンガポールを発達した国家に建設させようと提出した。具体的な企画は下記のようになる。即ち、第一歩は1999年に一人あたりの国内総生産がスイスの1984年のレベル、即ち16370ドルに達する。第二歩は2020年と2030年にそれぞれオランダとアメリカを追い越す。長期にわたる努力を通して、シンガポールは既に1995年、即ち期限四年前に第一歩の目標を実現した。アジア太平洋経済協力組織は1995年7月に、1996年1月からシンガポールが発達した国家の行列に入ると宣言した。90年代の後半期から、東アジアの一部分の国家は金融危機に見舞われて、東アジア全体の経済が影響されたから、シンガポールもいささかな影響を受けた。しかし、シンガポールは経済が成熟していて、わりに高い外貨準備高を持っているから、他の国と地区に比べれば、その影響が一番小さかった。シンガポールはは引き続き東アジアの経済発展をリードをしている。今、シンガポールの数多くの経済指標、例えば、一人あたりの国民総生産と収入、一人あたりの政府筋外貨準備高、国民の貯金率、世界における競争力などが世界の前列に立ち、その経済成長率もわりに高いレベルを維持している。例えば、1999年の経済成長率は5.9%であり、2000年の成長率は9.9%であった。 シンガポールは既に経済的な面に発達した国家の列に入り、国民の生活レベルも世界の前列に立っていると言える。
シンガポールは1959年独立してから、今までの40年の間で、戦後西洋の自由貿易システムと新技術革命を十分に利用して、自国の経済を発展させている。この間に、幾つかの短い経済後退の時期を除いて、シンガポールはずっと高度成長の形勢を保持していて、迅速に発達した国家の列に入った。そして経済の発展に伴い、シンガポール社会も不可避ながら著しく変化してきた。
20世紀80年代になると、シンガポールの経済は既に巨大な成功を遂げて、「アジアの4匹の竜(アジア新興工業地域)」の1つになった。経済の繁栄につれて、シンガポール社会に大勢のホワイトカラーが現れるようになった。これらの人達はわりに高い学力を持っているし、比較的に強い経済実力も備えている。そして、経済活動や社会交際が多いから、視野も広い。これらのホワイトカラーにとって、物質生活と経済活動のほか、より多くの人文と社会配慮が必要であり、或いは生活と社交の範囲を拡大する必要がある。ひいては一部分のホワイトカラーが学校のインテリと一緒に、国家の政策に対してより多くの個人的考え方を言い出そうとする。従って、これらの人達は、幾つかの集会と団体を通して、興味のある問題について交流し合ったり、或いは国家の情報や問題を伝達し、討論したりする。これらの集会と団体の現れがシンガポール市民社会の登場だと見なされるべきである。しかし、当時の国際社会はまだ冷戦形勢にあったから、市民社会に関心を寄せていなかった。それにシンガポール政府も社会全体を全方位にコントロールしたから、これらの団体の発展が速くなく、その数量もごく少数に限られていて、未だ一つの社会現象になっていない。80年代の後半期になると、シンガポールのホワイトカラー階層の人数が更に増加して、次第に安定する中産階級を形成するようにった。この時期においてインテリ層もより多くの独立意識を生じて、より多くの政治的要求があり、そして世界中の民主化ブームの影響を受けているため、市民社会の組織は大勢に現れて来た。
それにしても、シンガポール市民社会は20世紀80年代から現れると言い切ったら、たぶん正確というわけでもなさそうである。それは、80年代前に、シンガポール社会には市民社会に類似している民間の団体が既に数多く存在したからである。しかし、ここでいう市民社会は完全な現代意味での市民社会であるため、こういう意味ではシンガポール市民社会の出現は20世紀の80年代からのことだと言っても宜しい。シンガポールの市民社会を詳しく研究するなら、80年代前の民間団体を了解しないとだめである。それは、一方これらの民間団体をシンガポール市民社会の一部分として認める人もいるし、他方には今の市民社会団体の一部分は伝統的な民間団体と一定の関係があり、或いは少なくともその影響を受けたためである。また、一部分の民間団体は改造を通して、既に現代意味での市民社会団体へと変化したためである。
シンガポールは独立した国家としての歴史は短いけれども、その民間団体の歴史はすごく長い。早期の民間団体は主に種族、宗教、郷土或いは血縁関係、職業などを絆として結ばれる互助組織であった。例えば、シンガポールが開港して間もなくの1828年に、中国福建省からの移民たちは「恒山亭」という廟宇を福建幇(結社)の中心機構として設立した。1860年、福建会館(以前に同業組合やギルドが各省都や大都市に建てた集会所)が設立され、そして半世紀後の1915年にイギリス植民地当局華人政務司の許可を得て、登記免除の社団(社会団体)となった。1937年に、福建会館は非営利有限会社として登記して、1977年にまた『公司法』に基づいて、福建基金を登記し設立した。その他、幾つかの家族連合会、商業連合会と下層社会の民間団体もあった。例えば、1946年に成立された南洋華人総商会と1906年に成立された華人商務組織及びずっと前から組織された三合会(清代「反清復明」をかかげ満州政府の支配に反抗した民間秘密結社)などがあった。これらの組織は、華人の商業活動を管理して、華人の商業上の問題の解決に手を貸しており、また福祉、教育などの事柄の解決、ひいては華人間の紛争の解決にも触れたので、華人の社会生活で重要な役割を果たしていた。しかしながら、シンガポール政府の役割が強くなるにつれて、これらの伝統的民間団体の大部分はだんだん落ちぶれていって、家族連合会のほうが特にそうであった。そしてわずか一部分の民間団体が改造を通して、新しい意味が与えられ、現代意味での市民社会団体へと変化した。例えば、80年代の後半期以来、南洋華人総商会はより多く政治の参与に関心を与えて、いつもメンバーに関係資料を提供しており、政府の政策を解釈したり、メンバーの行動を協調したりしている。また、メンバーからの意見を政府に伝えているから、政府が重大な方策を決める時、いつも総商会の意見を求めるし、総商会の代表も重要な政策決定機関の諮問機関に入る。1986年、福建会館、広東会館、南洋客属総会、海南会館など七つの会館が共同で提唱して「シンガポール宗郷会館連合総会」を設立した。この連合総会は各メンバーの現代化改造を助けて、会務の沈滞期に陥った各会館に生気をもたらした。今、連合総会のメンバーはもう186個に達して、「歴史文献資料センター」を設立して華人文化と歴史を研究するデータベースとして使う。また、海外華人研究センターとしての「華裔(居留国に出生し、その国の国籍を取得した中国系住民)館」を設立した。その他、各種類の伝統文化展覧会を開いたり、刊行物を出版したりするとか、華人の団結を促進するため、そしてシンガポール社会の発展のためにも大きな貢献を捧げた。
現代意味での市民社会団体は、基本的に封建的血縁関係、地域或いは種族の限界を打ち破って、共同の利益或いはともに関心を持っている問題を通して結ばれた新しいタイプの団体であり、メンバーが完全に自分の意志で自由に入脱会する。ふつう、1986年の「中小企業公会」の成立がシンガポール中産階級形成の象徴だと思われ、市民社会団体が大量に出現するのは中産階級が形成してからの必然的な現象である。この類の団体として、円卓論壇、シンガポール自然協会、シンガポール伝統協会、南洋学会、アジア研究会などがある。その中に、学術問題をめぐって集会を開き、討論するものもあれば、社会問題に対して議論するものもある。これらの団体の共通のところは、討論の独立な空間を求めて、幾つかの問題に対して自分なりの考え方を出して、そして民間からの声と力を強大にすることにある。これらの活動は社会の雰囲気を活発にさせ、より開放的な社会を建設させるため、積極的な役割を果たしている。そして政治問題をめぐって議論を行い、時弊を指摘し批判して、国を憂い民を憂う立場から、建設的な意見を出す団体も一部分ある。その他、幾つかの宗教団体も積極的に社会問題に注目している。例えば、20世紀80年代、西洋の宗教を信仰する一部分の宗教団体は、宗教自由と人権を広く宣伝して、ひいては自分でパンフレットを出版したり、文章を発表したりした。また政府の政策を批判して、野党の国会入りを支持したので、政府に大きな圧力をかけていた。
シンガポールは市民社会に属する組織をおのおのの専門分野と特徴により「慈善組織」、「社会サービス組織」、「ボランティア組織」などと分けて呼んでいる。これらの組織を総称して「社会団体」或いは社団という。20世紀90年代の中期になると、シンガポールには合せて4600ぐらいの登記した社団があり、今はもうおよそ5000ぐらいまで発展してきた。これらの社会団体はそれぞれの分野において積極的な役割を果たしている。
シンガポールの社会団体は政府筋と民間の二種類に分けられる。前者は政府がある事業或いはある目的のために、自ら組織する団体であり、その任務が政府に規定され、資金も政府からし払われ、団体の責任者も政府に任免されるが、団体自身は政府機関に属しない。後者は単純に民間から発起されて、自由意志で組織された社会団体を指していう。当然ながら、その任務、人事また資金などは政府の管轄と援助を受けていない。厳密に言えば、市民社会は純粋な民間組織を指していう。が、シンガポールにおいて、純粋な民間社会団体であっても、その自由度がすごく限られていて、政府の監督と管理をうけねばならない。但し政府筋の社会団体に比べて、民間団体の自由度が割りに高いだけである。役割からいうと、両者がはっきり分けられない。そして数量からいえば、政府筋の背景を持っている社会団体のほうが圧倒的多数を占めている。従って、シンガポール市民社会を研究する時、政府筋の社会団体を除いては、シンガポールには市民社会がないと言う結論を出すに違いない。
いわゆる政府筋の社会団体として、最も主要なのはシンガポール人民協会(人協と略称する)である。それは、20世紀60年代初期、政権を握ってまもなく、人民行動党は『人民協会法令』に基づいて設立された組織である。組織構成からいうと、人民協会は政府機関ではなく、民間団体に属すべきである。この組織の最高権力機関は理事会であり、リー・クアン ユーが長い間理事会の主席を務めて、そして他の理事が全部政府部長や議員を務める人である。この組織の支部が全国各地のいたるコミュニティに分布している。主な役割は、地方の住民を社会、教育また文化娯楽・スポーツ活動に参加させようと促進して、種族間のわだかまりを解いて、そして種族間の関係を良くすることにあり、こうしてシンガポール人全体の国民意識を養う。リー・クアン ユーは「シンガポールの国民は人民行動党や社会福祉庁などの政府部門と公的に結び付かなくても宜しいが、半独立的、半政府筋の法定機関と一体になることができる。人民協会の目的は、慎み深くて、且つ独立自主に近い各社会団体とコミュニティ集団を、種族、言語、宗教と文化の隔たりを超える場合で、集めることにある。」 と解釈した。人民協会と類似した団体として、市民評議委員会と運営委員会などもある。
その他、最下部のコミュニティで活躍しているボランティア組織も政府筋の団体に属する。これらの団体は政府の発起で成立され、政府の援助と指導を受けねばならない。例えば、種族により設立されたコミュニティ自治組織として、「華人コミュニティ自助理事会」、「シンガポール社会サービス全国理事会」、「シンガポール専門人員センター」などがある。これらの組織は主に各種族或いはそれぞれの分野を通して、社会各方面や各領域の民衆と連絡して、民衆にサービスを提供したり、そして民衆の活動を一定の範囲に入れて、シンガポール社会の安定をも守る。
民間社会団体は主に前に述べた伝統的社会団体と20世紀80年代に現れた、社会問題に関心を持つ幾つかの社会団体を含めている。その中で、最も影響力のあるのは全国職員総会である。全国職員総会も20世紀60年代に成立された非政府筋の団体であるが、シンガポール政府と密接的な関係にある。シンガポール行動党と共産党の闘争において、全国職員総会は人民行動党の側に立ち、そして政府や企業雇い主との関係において、対抗ではなくて協力な立場をとり、政府の経済発展計画と企業の経営策略に対して協力の態度をとって、共同相談で問題を解決する。それと同時に、総会はメンバーに幾つかの福祉待遇を提供して、できる限り職員の利益を守る。全国職員総会と似ている社会団体として、シンガポールメーカー公会とシンガポール婦人組織理事会などがある。
政府筋の社会団体と民間の社会団体がともにずっと前から存在した一部分の団体があったけれども、20世紀の80年代以後になってから、シンガポール社会中産階級の形成と民間団体に対する政府の寛大があり、そして世界民主化潮流の影響を受けたので、市民社会団体がようやく勢いよく現れてきて、或いは元の団体の独立性がやっと強くなってきた。そしてシンガポール市民社会の出現をもたらした。民間団体の元で改造を通して形成された新しいタイプの市民社会団体であっても、或いは新しい状勢や環境のもとで成立された市民社会団体であっても、これらの団体は、いずれにしても共同でシンガポールの市民社会を形成し、且つシンガポール社会に重大な影響をも与えている。
シンガポールは経済上に先進国の列に入り、そして経済の発展につれて市民社会も現れるようになった。が、厳密に言えば、シンガポール市民社会の発展程度は未だ高いとは言えない。ひいてはシンガポールには完備している市民社会が存在していないと考える人もいる。実際に、シンガポールには市民社会が存在しているけれども、他の多くの東洋の国家と同様、その市民社会の存在方式が西洋の典型的な市民社会と比べて、結構相違があるから、市民社会に表れる特徴もそれぞれ違う。シンガポールは多民族に形成される社会であるから、種族によって社会生活に与えられる影響がすごく巨大であり、市民社会も同様その影響を受けねばならない。即ち、大部分の伝統的民間団体は種族に基づいて形成され、そして、現在の団体は改造を通して新しい意味が与えられたけれども、その種族性の特徴が往々にして表れてくる。一部分の同業組合も種族と密接的な関係にある。その他、東洋の国家政治に国家の権威が重視されるから、シンガポール市民社会には社会と政府との関係が密接している特徴がある。それは、市民社会に対する国家のコントロールがきついと言っても宜しい。数多くの団体が政府の需要に応じて設立され、そして比較的に独立した市民社会団体も政府に支持や補充を提供している。従って、シンガポール市民社会のもう一つの特徴、即ち政府に握られている政治分野から遠く離れているのをもたらした。
シンガポールは種族の区別がはっきりしている国であり、古くから人々の交流がおおかた同種族の間に限られていた。特に華人のほうが自分独特な伝統生活方式をもっており、昔からずっと一箇所に集まって住んでいるし、利益を守るために形成された民間団体も往々にして華人コミュニティ内部に限られている。
歴史から見れば、シンガポールに移住してきた華人は、みな比較的貧乏な労働者であり、社会地位が低くて、よそ者としてしばしば馬鹿にされていたから、生存や発展のため、華人たちは互いに助け合わなければならなかった。そして、華人たちは長期にわたる苦難に満ちた生活に緊密な関係を形成しており、しかも自分の利益を守るために、互いに援助し協力し合う団体を設立するようになった。
相互援助は古くから中国人の社会生活に欠かせない一部分である。中国の農村では、家庭はただ村や宗族に属する一つの単位であり、あまり重視されていない。同じ姓氏や同宗教の家庭によって形成される村落こそ人々の活動の核心である。中央集権の君主が存在していたけれども、村落は普通家族の頭に管理され、村の物質生活と精神生活が頭に決められ、村人がみな全て村に属していた。早期の華人移民は、貧乏な生活に迫られ、或いは金持ちになる夢を実現するために自分の生まれの村から離れて、シンガポールに移住してきたが、当時のシンガポールの植民地政府の華人敵視政策に迫られ、再び中国昔からの相互援助の伝統に戻らなければならなかった。当時華人が面している問題は、下記のようである。即ち英語やマレー語が分からなくて、支障なく交流することができなかったこととイギリス植民地当局が華人の存在を無視して、華人労働者の労働力の安値と植民地開発の技能だけを気にかけたことである。そこで、華人たちは自分を守るために、元の村に似ているような新しい組織を形成するようになった。移民が増えるにつれて、各種類の非正式な組織がだんだん正式な組織へと発展してきて、華人のコミュニティに宗教団体、家族連合会、商業貿易連合会、公立病院と公立学校などが設立され、そのメンバーの利益を守り続ける。
早期の華人移民は宗教をシンガポールに伝えた。仏教、道教また民間で流行っている宗教とその寺や廟などは貧乏人の希望の寄せている所であるし、志の遂げられた人の感謝する所でもある。19世紀20年代、シンガポールが開港して間もなく、華人の移民たちは廟一つを建てて、そして40年代にもう一つの廟を建てた。これらのお寺や廟は華人たちが神様や仏様に願をかけたり占ったりするところだけでなく、華人のリーダーたちが合ったり協商したりする所でもあった。これらの宗教がかっている所を通して、数多くの華人たちが団結するようになった。
家族連合会を組織するのがシンガポールの華人たちのもう一つの共通の特徴である。家族連合会は共同の姓氏、共同の方言或いは共同の省の土台に基づいて組織される団体である。シンガポールで一番初めての家族連合会は1819年に設立された曹氏家族連合会であり、19世紀の末頃になると、合せて14個の家族連合会が設立されるようになった。これらの家族連合会は新しく中国から移民してきた人達を受け付ける大家庭である。早期に立身出世した華人たちは、自分を助けてくれた親戚や友人或いは故郷の人達に感謝の気持ちを表すために、家族連合会を通して金を寄付して、新しくシンガポールに移民してきた華人たちに福祉を提供したり、一族のお寺や廟また共同墓地を修繕したりする。中国からの移民たちはシンガポールについた後、みな例外なく一族のお寺や廟に行って、一族のメンバーからの世話に感謝しなければならない。シンガポールに親戚がいないし、そして契約も結ばない人も、家族連合会を通して部屋を借りたり、仕事を探したりすることができる。とにかく、家族連合会のメンバーの出産・養老・医療・埋葬或いは結婚式や葬式のいずれについても、みな全て家族連合会の助けで解決できる。当時のイギリス植民地政府も華人コミュニティにかかわることに処理する力がないと感じて、止むを得ず華人の家族連合会に任せなければならなかった。
ますます多くの華人が商業貿易の分野に入るにつれて、各種類の商業の専門組織も次々と設立された。これらの組織は最初方言により分けられたが経済規模の拡大に伴って、だんだんこの範囲を突破するようになり、華人の商業利益を守ったり、華人の商業問題を解決したりする組織が現れてきた。例えば、1906年に設立された華人商務組織と1946年に設立された南洋華人総商会がこのような組織である。これらの組織は、華人たちの商業活動を管理したり、華人の商業問題の解決に手を貸したりするほか、華人コミュニティの福祉、教育、寄付などの事業も担当するから、華人を団結させるもう一つの絆となった。
華人コミュニティの壮大と華人経済地位の向上につれて、華人自分自身にサービスを提供する病院や老人ホームまた学校などの施設も建てられるようになった。1844年、シンガポールでの初めての華人の公立病院が設立され、その後数多くの家族と個人たちが次々と類似する病院と老人ホームを建てた。
中国では古くから教育を重視する伝統があり、儒家の伝統的な観点では、教育は知識の獲得と道徳の養成に有利であり、四書五経を読んだ人は学識が豊かで、道徳のある者と見なされていた。そして本を読んだり教育を受けたりすることを通じて、科挙(隋代に始まり、清代に廃止された官吏登用の試験制度)試験に参加して、官職また資格などを手に入れることもできた。シンガポールに移民してきた早期の華人たちは、このような教育観念からの深い影響を受けて、しかも故郷を離れることで、自分の後代が中国の伝統文化と習俗を捨てる恐れがあるから、苦難に満ちた条件のもとで華人の学校を建てるようになった。最初に建てられたのは、小学校であり、その後中学校なども建てられた。1956年3月、シンガポールの華人たちが提唱して且つ寄付金を出した南洋大学が設立され、これは世界中中国の国土以外の所に建てられた初めての華人の大学であり、華人たちの相互援助の精神を表している。南洋大学はシンガポール華人や華人団体の支持を得たほか、東南アジア諸国の数多くの華人たちからの支持ももらった。南洋大学に寄付金を出したり力を尽くしたりする人として何も金持ちだけでなく、タクシーの運転手、小商人、ひいてはナイト・クラブの踊り子さえいた。当時の南洋大学の入学式は、交通渋滞を引き起こした。シンガポールの華人たちは、イギリスの植民地で自分の大学を建てたのを大変光栄なことだと思った。南洋大学が創立してから、後日シンガポール社会の人材となった数多くの華人大学生を養成しただけでなく、南洋大学の創立をめぐって、華人たちの団結が促進され、今日になって人々に述べ立てられている「南洋精神」も形成されるようになった。そして南洋大学もシンガポールの華人の相互援助の象徴にもなっている。
以上述べたような公開の華人社会団体のほか、早期のシンガポール社会に下層社会の人達に組織された秘密な組織もあった。その中に比較的に有名なものとして、三合会がある。三合会は最初に17世紀に中国で出現した政治性質の秘密組織であり、その主旨が満州族政府を打ち倒し、明政府の統治を再び打ち立てることにあった。三合会は19の世紀の移民ブームと一緒にシンガポールに伝えられてから、その政治的な役割がまったく喪失して、華人コミュニティ下層社会の組織となり、その主要な役割がメンバーを他人にいじめないように保護することへと変わった。その後、だんだん暴力団のような組織へと発展して、地方から保護代をもらうことで生きていって、賭博場、アヘン館、遊女屋などの職業をコントロールした。このような組織の影響力がすごく大きかったから、華人コミュニティ内の紛争は主にこれらの組織の干渉で解決された。
ほとんどの華人社会団体は、今までに続いていて、その中の一部分が未だ役割を果たしている。例えば、南洋華人総商会と各形式の貿易団体及び病院などが依然としてそれなりの効力を発揮している。しかしながら、シンガポール社会の変革につれて次第に変化していく社会団体も一部分ある。即ちこれらの社会団体は既に衰えたり、或いはだんだんと落ちぶれていくのである。例えば、三合会のような秘密団体がほとんど存在していない、そして大部分の家族連合会もだんだんと落ちぶれていく。これらの団体の変化を引き起こしたのは、主に下記のような原因である。即ちシンガポールは独立してから、その政府の機能がずっと強められている。40余年間の発展を通して、シンガポールがだんだん繁栄していくだけでなく、その政府がほとんど社会生活の諸方面をコントロールしている。今まで華人社会団体が果たした役割はほとんど政府或いは政府に設立される民間団体が取って代わる。そして、もう一つの原因として、シンガポールの国家意識を提唱して且つ確立するため、またシンガポール多民族の社会を統合するため、多民族のメンバーを所有する団体は政府からより多くの注目と支持を得たことにある。最後に、シンガポール政府は強力な教育政策を実施し、中国語学校をキャンセルして英語教育を強化するため、華人団体の教育面への効力がだんだん小さくなり、華人間の団結力も比較的に弱まる。
しかしながら、華人社会団体は依然として存在している。伝統的な民間社会団体の一部分は淘汰されたが、結構多くの団体が環境の変化に順応して、保留してきた。そして、新しくできた華人社会団体も現れてくる。例えば、2000年の夏に、何人かの大望を抱いているシンガポール華人青年が中国語論壇「円切線」を組織した。「円切線」は開放的社会団体であると公開に声明したが、実際に主に華人青年が中国語で時事、社会、経済、文化、教育などの問題をめぐって討論しているから、他の種族のメンバーにとって一種の制限となるから、客観的に言うと、華人青年だけに限られる。その他、南洋学会、アジア研究会、など新興の社会団体も、華人のインテリ層を中心にして組織されたものである。これらの社会団体は今のシンガポール社会でそれぞれの役割を果たしていて、シンガポール市民社会にとって欠かせない一部分となる。
これで分かるように、伝統的な華人社会団体の役割が確かに弱くなったが、数多くの改造された団体と新興の団体に未だ種族の跡或いは民族性の特徴が残っている。即ち、それぞれのメンバーの共同の利益で何かの団体を形成する時に、往々にして一定の種族の範囲に限られる。この原因で、シンガポール市民社会がはっきりと種族性の特徴と表れている。
現代意味でのシンガポール市民社会団体は既に20世紀80年代から大勢に出現し、そして次第にシンガポール社会に大きな影響を与えているから、それは必然的にシンガポール政府に重視され、そして市民社会と政府の関係の問題も自ずから生じてくる訳である。
今までの伝統的な民間団体にとっても、政府との関係という問題があった。但し、これらの団体はおおかたある狭い範囲或いは狭隘な利益空間に限られて、社会に対する関心度がすごく低い、或いは社会に対して責任感を欠けていると言っても宜しいから、植民地政府の重視を引き付けることができなかった。これらの団体は、社会のとある群体勢力或いは政府の圧力に対して自分自身の利益を守るため設立された組織である。その中の一部分は政府の賛成と許可のもとで設立された組織であり、或いは政府からの許可がなかったけれども、一定の種族や業種範囲において人々に黙認された組織であるから、政府や社会に対して何も妨げもないと言える。それに対して、政府の許可を経ずに、秘密的に設立された組織も相当あり、その中に政府を反抗するために設立されたものもあった。従って、このような団体は、当然ながら当地の植民地政府の鎮圧を受けねばならなく、その社会的影響も大きいとは言えない。それに対して、現代意味での市民社会団体は、みな共に政府の賛成と許可のもとで成立され、自分の利益を持っているだけでなく、社会に対して一定の責任感或いは社会性もある。
シンガポール市民社会の出現に対して、シンガポール政府は主に二つの方法でそれに対応していて、こうして市民社会の積極的な役割を果たさせ、或いは市民社会を政府に使われようと試みている。その方法の一つは、引き続き今まで政府の支持のもとで設立された民間団体の役割を発揮させ、そして引き続き新しい市民社会団体の設立を支持して、これらの団体を民衆の意見を知るルート及び基層コミュニティ管理の助手として利用する。もう一つの方法は、相対的に政府から独立している市民社会団体に対して、その行為を規範に合わせ、そして政府の軌道を離れないように引導したり監督したりする。最後に政府の政策に建設性の役割を果たせる力になるように管理する。
シンガポール政府の考えでは、シンガポールをよりよく建設するには、シンガポール人の潜在力を十分に発揮して、そしてその不満を漏らさせることがすごく重要である。そして政府はもっと多くの人が自分たちの時間と精力を捧げ、シンガポールを建設する共同の事業に参加するように希望している。シンガポール人はみな良い教育を受けて、開放的な思想を持っているだけでなく、その見聞や知識も広いから、かなりの潜在力が潜んでいる。それと同時に、全ての社会と同じように、国民たちは政策の制定と政府の管理に対して、それぞれ異なる見方があり、時によると社会管理に強い自我参与感を持っている国民さえいる。このような強い参与精神はシンガポールの発展に有利であり、シンガポール民主制度の建設にも役立つ。しかしながら、社会管理に対する国民の関心を一定の範囲或いは一定の形式を持っている組織に入れなければならない。この一定の形式を持っている組織はまさに市民社会であり、そして市民社会団体存在の意義もまさにここにある。
シンガポールの首相ゴー・チョクトンは何度もシンガポールを「学習の国」に建設して、シンガポールに「思考型の学校」を立てたり「思考する従業員」を養ったりして、そして人々をよく思考して且つ創造するように励ますべきであり、こうして民衆参加の繁栄な市民社会が必要であることに言及した。もし政府は自分の権力を維持するため、市民社会をコントロールし且つ弱めるなら、勉強や思考また創造の促進には役立たない。市民社会の繁栄や社会の進歩を実現するため、政府や市民社会の相互尊重が必要であり、そして社会に対する両者の責任感も欠かせない。
シンガポール政府にとって、市民社会の存在は諮問型の民主の統治方式の一つであり、即ち政府は市民社会を通して、国民の意見を聴取することができ、そして大部分の市民社会が但し政府の一部分の政策に反対するだけであり、政府の全てに反対するわけではない。大部分の市民社会団体は政府に対して建設性の役割を果たしていて、そしてわずか少ない市民社会団体が政府に好まれない。従って、シンガポール政府は市民社会の出現と活動を支持して、それをもっと活力に富んだシンガポールを建設する保障として認めている。
市民社会に対するシンガポール政府の支持のもとで、シンガポールの5000余の市民社会団体の中に、政府に属する或いは政府にコントロールされ、影響されるものが3500ぐらいある。これらの社会団体は、自ら社会福祉にサービスを提供するだけでなく、政策諮問と政策形成のほうにも自分なりの役割を果たしている。実際にシンガポール政府はこの二方面における市民社会団体の発展を促進するために努力を続けている。即ちコミュニティ組織に自分の事務を管理する権利を与えて、同時にこれらの組織を通して市民の意見を集めたり、そしてこれらの意見に対応したりして、市民の意見をできるだけ政策に反映する。
20世紀90年代になると、シンガポール政府は各種類のコミュニティ管理機構を設立して、住民に自分のコミュニティの事務を組織して管理する権力を与える。例えば、区ごとにコミュニティ発展委員会を設立して、公共住宅区に市民委員会を設立して、そして私人住宅区に近隣委員会を設立するなどである。これらの組織は他のボランティア団体と一緒にコミュニティの事務を管理する。最初のほうがただ家政サービスや就職諮問などのサービスや福祉に関する事務を行ったが、今はだんだん多くの分野に触れている。例えば、コミュニティの治安、環境保護、内部の交通また住民紛争の調停などをやる。同時に、これらの組織はそれぞれ違う事務を通して協力を行い、コミュニティの住民の利益を求めている。
1984年、公衆の意見を聞き集めるため、シンガポールにフィード・バック機構が設立された。そして各分野の人たちが誘われて、社会の注目を受ける問題や些かの政策問題に対して議論を行う。技術の進歩につれて、インターネットでフィード・バックすることもできる。この機構は毎月一部の総合性報告をまとめる。そしてこれらの報告は国会議員や関係部門に提出され、公衆も数多くの方式を通してフィード・バックが政府に到達するルートやフィード・バック意見の結果を知る。90年代、シンガポール政府はまた市民諮問委員会を設けて、幾つかの政策について、社会各界人士に諮問する。
既に述べたような政府に属する或いは政府にコントロールされ、影響される市民社会団体に比べると、完全に政府から独立した市民社会団体はより少なくなり、今のシンガポールにはおよそ1500だけの市民社会団体がこの類型に属する。これらの団体は普通独立意識や専門知識を持っている人たちに構成され、そしてメンバーが定期的に集まり、共に関心を持っている社会問題或いは専門の問題に対して議論を行う。しかしながら、これらの団体であっても、政府の厳しい監督と管理を受けなければならない。先ず、全ての市民社会団体はそれぞれの法律により登記しなければならない。シンガポール政府は市民社会団体を管理し且つ監督するため、相次いで『社団法』、『互助組織法』、『協力社団法』、『慈善法』、『会社法』などを制定してきた。社団を設立するには、先ずこれらの法律により政府に申請を出さなければならない。政治や政策領域に触れる市民社会団体はほとんどシンガポール政府の許可をえない。例え審査されて設立の許可を得た社団であっても、成立後定期的にその活動を政府の関係部門に報告しなければならない。
しかしながら、これらの市民社会団体は既に政府の厳しい監督と管理に慣れているようであり、或いは仕方なしに認めるほかないであろう。これらの社団の大部分は政府の政策に対して、支持と協調を主とする態度を取り、自分の活動を制限して、そして政府或いは政府人士と融け合う関係を保つ社団さえ一部分ある。例えば、1983年、シンガポールの一部分の市民社会団体はリー・クアン ユー首相の60歳の誕生日のため祝いの集会を行った。1991年2月、華人宗郷会館連合総会は「リー・クアン ユー首相に敬意を表す」盛会を行い、長年にわたってシンガポールを指導して、巨大なる成績をあげたリー・クアン ユー首相に感謝の気持ちを表した。たとえ政府の政策を批判する社団があっても、それはただ政府のある政策に対して保留の態度を取るだけであり、大衆に他の政策或いは政体を提供しようというわけがない。
これで分かるように、シンガポール市民社会と政府の関係は基本的に相互補充の関係であり、双方が共に協調と協力の態度を取る。即ち政府は一部分の市民社会団体の設立を支持したり、或いは経済的に援助すると同時に、市民社会団体の活動に対して厳しい監督、管理と制限を行う。そして市民社会団体自身は政府に制定される法令を守り、自己制限を行い、政府の政策を支持したり、或いは建設性の建議を出したりする。しかし、今のグローバル化や国際化の発展に伴って、シンガポールの一部分のインテリは政治や政府の政策に対してだんだんより多くの意見を出したり、自分の政治願望を表せ、且つ自分の政治利益を代表できるような社団の形成を要求したりしている。当然ながら、この要求は今の段階で政府の制限をうけなければならない。そしてこれらのインテリもまだ弱い状態にあり、その勢力もすごく限られている。が、この勢力はだんだん強くなるようになり、そしてこれからシンガポールの民主化を進める積極的な要素だと認められている。
西洋の市民社会の本来の意義により、政治性は明らかにその主要な特徴であるのに違いない。即ち、市民社会は自己の独立性や自己管理能力を強調しており、政府に自己のあるべき政治権力を求める。世界近代歴史から見れば、大部分の西洋の国家は全て市民社会の発展を前提にして近代民主社会を建設するようになった。シンガポールは19世紀20年代からイギリスの植民地としてイギリス政治の影響をうけ、そしてイギリスの政治制度が世界中一番民主的なものだと思われるが、シンガポールはやはりイギリス本土と違って、即ち植民地者にもたらされる政治文化はただ表面に民主の色彩を持っている殖民文化であり、植民地政府はシンガポール市民社会の発展を育て上げるようとする気がなかった。従って、シンガポールは依然として東洋の国であり、その政治発展が東洋社会の伝統の影響を受けたから、その政治伝統に現れる市民社会の政治参与の役割は西洋の国家の市民社会よりずっと小さく、シンガポールの市民社会が政治から遠く離れている結果を引き起こした。
シンガポールに高度に集中している政府権力機構があり、高効力の官僚システムや優れた管理技巧また腐敗問題において比較的清廉潔白な記録が政府の権力を一層集中させる。シンガポールが独立して以来、政府は社会の諸方面をコントロールする。特に政治領域のほうが勝手に入っては行けない範囲であり、政府に制約される役所ルートのほか、何も公衆の政治空間がないと言え、各形式の批判が全て簡単に政治挑発だと認められていた。シンガポール政府が自分の国民に宣言したように、「政権を転覆するな」と「心配しないで、私たちは国民の世話を焼く」は既に生活、仕事そして管理の指導原則となった。市民社会団体に対して、シンガポール政府はその設立と作用の発揮を支持するが、政治に触れることを一切禁じる。政府は公衆や選挙人に責任を負うため、政策を評論することを通して自分なりの政治観点を表す全ての団体が政党を成立しなければならないと主張している。
シンガポールの法律には明確的に市民社会団体が政治活動を討論したり或いは参加したりしてはいけないことが定められている。許可を得て登記した団体は政府の監督を受けなければならなく、そしてその登記宗旨の範囲に活動して、規定の討論範囲の問題を討論しなければならない、また規定以外の活動をしてはいけない、特に政治活動をしてはいけない。例えば、20世紀90年代、シンガポール法律協会が政府の新聞・雑誌法令を批判する時、政府からの反応がすごく強かった。即ち政府は当該協会の指導者に厳しく対応して、それにわざわざ法律を改正して、一歩進んで民間団体が政治問題を討論してはいけない規定を強調した。またシンガポール『海峡時報』の報道によると、2001年2月、ある市民社会活動家は市民社会団体「円卓論壇」の活動に参加することで警察に審問された。
シンガポール政府の強力な管理のもとで、シンガポールの市民社会は西洋の民主国家の団体のように公開的に政策を討論する伝統を形成しないだけでなく、かえって大部分のい市民社会団体は自主制限を行い、自ら政治問題を避けている。それに、20世紀60年代シンガポール国内の政治圧迫により生じた影も引き続き一部分の人の政治参与態度に影響を与えているから、数多くの人たちは市民社会団体に参加して団体の形式で存在していても、その恐怖がいまだおさまらなかったから、人々は小心翼々と政治から遠く離れている。
その他、普通の考えでは、シンガポールの教育制度も市民社会を政治から離れさせる原因の一つでもある。長い間、シンガポールの教育は理工と経済だけを重視して、人文や社会科学の内容が欠けている。このような教育は大勢の科学技術と経済人材を養い、シンガポールの経済発展と繁栄を促進して、それにシンガポールを新興の工業化と現代化国家に発展させた。が、あるシンガポール学者がおっしゃったように、「私たちの現代化は現代を抜け出す現代化」であり、即ちシンガポールは現代社会の物質上の繁栄を創造し且つ享受したが、いまだ現代社会の人文精神、思想観念と社会政治制度に触れていない。このような教育制度の元で育てられたシンガポール人は物質上の創造と享受しか知らない。かえって活力にあふれて且つ強力な人にあるべき主動性が欠けていて、政治上の独立性がなおいっそう欠けている。
シンガポールが独立してから、異なる種族、文化、宗教、政治信仰また経済レベルの人たちを団結した国家へと統合して、安定な社会を保持し、且つ巨大なる物質上の繁栄と経済奇跡を創造した。が、この過程も根本的からシンガポールの潜在力を掘り起こした。安定する社会環境を作るため、そして経済を発展するため、異なるイデオロギーや積極的な政治、そして労働者や学生の運動が厳しく鎮圧され、且つ制限された。また社会の安定に不利だと思われるメディア、文学、芸術そしてほとんど全ての政治性活動も厳しくコントロールされ、教育体制も中央集権化され、しかも標準化され、全ての教育の目標は経済や科学技術の人材を養うことになった。シンガポール政府は全国民の精力を経済発展に集めることを通して、民衆の多元政治と文化の思想を取り除き、こちこちの単一化した思想モデルを形成させた。このような思想モデルは、シンガポール人の潜在力の発揮を制約して、シンガポール人の主動政治意識の形成を妨げるので、シンガポール人は政治に対する反応が鈍くなったと言える。
総じて言うと、強力な政府の制限と国民政治意識の欠乏はシンガポール市民社会が政治と関連を失うことを引き起こした。市民社会団体の活動が政治から遠く離れていて、ごく限られている専門領域に触れたり或いはコミュニティにサービスを提供したりするだけであった。しかしながら、20世紀90年代後半期になると、グローバル化の高まりと情報科学技術革命の発展につれて、シンガポール社会は一歩進んで発展する原動力と精神が欠けていることを意識してきた。そこで、創造性精神を養うべきだと唱える人がいて、政治討論或いは政治参与の意識を強めようと要求した。今、シンガポール市民社会の政治離れの現象はだんだん変化しつつあり、より多くの市民社会団体が政治に関心を持つようになっていて、そして政府により多くの自由討論と参与の権力を求めている。このような成り行きがだんだん続いていくようであろう。
もしボランティア社団により提供される社会サービスを基準にして、シンガポールの市民社会を評価すれば、シンガポール市民社会は他の西洋の国家や民主国家と同じように良いが、政府の批判者としての団体或いは社会の管理方法に対して異なる意見を唱える団体を考慮に入れれば、シンガポール市民社会の状況は何も誉められるところがないといえる。まさにこの原因によって、シンガポール市民社会の発展が比較的に遅れていて、その発育程度が低いと思われる。しかしながら、このような状況もだんだん変化しつつあり、シンガポールには市民社会が引き続き増えるような動向を示していて、その政治性色彩もだんだん増えるようになっている。
シンガポールが経済の面で既に先進国の列に入ったことは、世界中に認められ、これ以上議論する必要がないけれども、シンガポールは民主の国であるかどうか、或いはシンガポールは民主の道へと進んでいるかどうか、ますます民主化しているかどうか、またシンガポールの民主には一体どういうような特徴があるのかの問題は長期にわたって残った問題としてずっと議論されている。シンガポールはイギリスの植民地であったから、イギリスの民主思想またデモクラシーなどに影響された。それと同時に、東洋の国として当然東洋の権威主義思想と専制政治体制の影響も受けるはずである。従って、その民主化の過程は比較的特殊で、複雑な様相を呈している。
シンガポールは一体民主国家であるかどうかに対して、それぞれ違うような答えが与えられ、そしてこの問題をめぐって、激しい議論も起こった。一般的にいえば、西洋の人たちはシンガポールを民主国家として認めないが、シンガポール人と大部分の東アジアの政治家や学者は、シンガポールは民主国家であり、シンガポールの民主制度は民主の内包を豊かにして、その上典型的な「アジア式民主」のモデルを形成していると考える。
一般的な意味での民主理論によれば、公正、自由且つ定期的な選挙が行われ、多政党の自由且つ公開な競争が許され、そして社会全体が権力機関に対して監督システムを持っている国家こそ、ようやく民主国家だと認められるようである。アメリカの著名な政治学者ダールの見方では、国民のすべてが「自分の優先選択を確定し且つ表明する十分なチャンス」を持っていて、そして下記のような制度に保障されてこそはじめて民主が存在できる。即ち「自由に組織を作り、自由に組織に加入する」「自由に意見を表わす」「政治リーダーは支持を獲得する権利を持っている」「選択できる多種類の情報源がある」「公職に就く資格があり、自由且つ公正な選挙を行う」などの諸原則である。 大部分の西洋国家の政治制度はこの理論のモデルと合致して、比較的典型的な民主国家に属している。しかし、この理論モデルで大部分の東洋国家を評価すれば、これらの国家は非民主国家であり、或いは少なくとも民主制度の非健全な国家だという結論が出されるであろう。例えば、20世紀90年代の初期頃、アメリカのある研究機関は本当の選挙権があるかどうか、政党を組織する自由があるかどうか、また本当に自由を表わす権利や自決権があるかどうかなどを基準にして、アジア太平洋地方の国家と地区の政治自由度に対して、評価を行った。その結果として、オーストラリアとニュージーランドの政治自由度が一番高くて、満点の10点を得た。その次、日本は9点、バングラデシュは8点、韓国とフィリピンは7点、インドと中国台湾は6点、パキスタン、スリランカと中国香港は5点、シンガポール、インドネシアとマレーシアは4点を得た。オーストラリアの学者エリク.C.パウロは直接に「現代のシンガポールは民主国家ではない」と断言した。それはシンガポールはダールの言った民主実行の必要条件を満たしていないから、「その民主化の過程は一連の変革が必要である。例えば、政治権力に対する人民行動党の独占をやめさせ、自由且つ公正な選挙のため条件を作ることであり、現在公民の公民権と政治を制約する法規を改正することであり、マスメディア、労働組合また司法部門など国民利益を代表し且つ守る極めて重要な組織機構に対する国家のコントロールを結束させるなどである」。 そして、「シンガポールは間もない未来に自由民主の国家になる可能性がない、それはシンガポールにはこういう変化が発生する必要条件は備わっていないからである」。
しかし、大勢のアジア諸国の政治家や学者から見れば、民主の原則は正確であるが、民主のモデルは固定したものではない。東洋と西洋の歴史伝統、文化背景そして価値観がそれぞれ違うから、西洋の民主モデルは東洋の国家にふさわしいとは限らない。戦後何十年間して以来、大部分のアジア国家は国家の現代化を追求していて、経済の飛躍的発展を実現すると同時に、自分の国情に合う民主政治体系も作り立てた。この民主政治体制には一般的意味での民主原則と基本的な民主形式もあるし、東洋諸国の伝統政治における権威主義、即ち国民の十分な討論を踏まえて、集中決策と集中管理を施行する伝統的なものも持ちつづけている。こうして、アジア諸国の経済発展と社会安定が保障され、「アジア式民主」のモデルが形成されるようになった。シンガポールの前首相のリー・クアン ユーはこのモデルの積極的な提唱者と代表人物である。
リー・クアン ユー前首相の考えでは、現在世界中の190余の国家の中に、社会自由、経済放任を特徴とする英米式の民主制度を施行する国家は僅か20個余ぐらいあり、数えられるほど少ない。そして他の大部分の国家は未だ頑張って創業発展、貧困救済、治安強化、教育強化の道を歩んでいる。これらの国家の国民にとって、言論自由権や政治参与権といったようなものを得るより、いかにして生存権や労働権などを獲得するほうがもっと重要である。従って、権威主義の政治体制のもとで、国家と国民の調和と安定がなおいっそう表わされる。そして、アメリカなどの西洋国家の民主自由観念や体制を全面的に模倣して、東洋社会に使うのが必ず通るとは限らない。リー・クアン ユー前首相はフィリピンがアメリカの制度を当てはめて使おうとしたが、最後に成功を遂げなくて、かえって社会が混乱に陥った例を挙げて氏の理論を裏付けた。リー・クアン ユー前首相は民主より秩序の方がもっと有効であり、民主より法治の方がもっと重要であると明確に主張している。氏の考え方では、民主は必ず発展を促進するとは限らない、それより発展時期における国家にとって、紀律の方がもっと必要なのである。民主が氾濫すれば、無紀律と無秩序の混乱の局面を引き起こし、発展に悪い影響を与える。政治制度の良し悪しは、良い社会秩序の建設に役立つかどうか、大部分の人たちの生活レベルを上げるかどうか、またすべての国民に他の人と同様な自由を持たせるかどうかの基準により評価されなければならない。リー・クアン ユー前首相は「私は民主は必ず発展をもたらしてくることを信じていない。国家にとって民主建設より紀律建設の方がもっと切実な問題である」と明確に主張している。 「いかなる社会にとって、成功に民主的政治制度を推進するにはその国民たちが教育と経済上高いレベルの発展に達して、中産階級の人数がかなりの数にのぼり、そして生活はただ生存のためだけではない条件が必要である」。 そして「実際に先進国の民主の歴史から見れば、民主の発展は極めて緩慢な過程である。イギリスにしても、アメリカにしても、経済が高度成長を遂げ、そして国民が教育を受けてこそはじめて、ようやく全面的に総選挙の権利を持っている。」、「イギリスとアメリカにはともに200年間を経て民主制度を発展させたが、経済、教育また社会の先決条件が欠けて、そして植民地統治期間に総選挙が行われなくて、民主政府が設立されなかった新興国家に、独立してから間もない時間、これらの民主制度が実施されると望まれている。」とリー・クアン ユー前首相は指摘した。
1996年8月、シンガポール首相ゴ−・チョクトンも建国記念日の民衆大会で「シンガポールの持続的な生存と繁栄を持ちつづけるため、国家に対する国民たちの献身精神が必要である。もし民主はみなそれぞれ勝手に振舞うことを意味すれば、国家がきっとだめになるに違いない。私の考えでは民主は国民たちが相互承諾して、共通の認識に合致して、そして同じような道を歩むことを意味している。」と指摘した。
今、「アジア式民主」という言葉はますます頻繁にシンガポール民主分析に使われるようになり、シンガポール政府も西洋国家と民主のイデオロギーについて議論するとき、し
ばしばそれを依拠として使っている。「アジア式民主」は明らかに西洋国家の民主モデルと違っている。即ち「アジア式民主」は西洋国家と大体同じような民主制度の組織形式、即ち国会、総選挙と野党などを持っているけれども、強力な政府権威を通して国家と社会の団結を実現して、集団主義を中心とする伝統的な道徳を堅持し、そして個人及びマスメディアの過度の自由によってもたらした社会の混乱を反対することを主張している。アジア式の民主の定義を下記のようにまとめた人がいる。即ち(1)集団の核心とする幾つかの特殊な人物は重視されるが、普通の個人は重視されない。個人の利益より共同利益の方がとりわけ強調され、個人の権利が比較的に無視される。(2)権威と等級制度が重要視される。(3)政権は長期にわたって強力な党によって握られ、そして強硬な政府干与及び中央集権制がある。シンガポールはこういう体制のもとで、経済の発展を遂げ、同時に社会の安定を維持している。そのためこそ、シンガポールが堅持している政治体制は一つのモデルとして高く評価されるわけである。
民主の原則は共通なものであるが、各国が民主を実現するモデルは完全に同じとは限らないというべきである。それはおのおのの国家の具体的な歴史伝統、経済レベル、政治意識、国民素質そして教育程度などの要素がそれぞれ違うかもしれないからである。特に東洋国家と西洋国家の間の相違がとりわけ大きくて、民主を実現する方式とプロセスもそれぞれ異なるに違いない。自国の社会の発展程度に基づいて、民主の原則を選んで、且つ民主の最低限度の形式を備えていれば、民主の国家だと呼ばれるべきである。こういう意味では、シンガポールは民主の国家であり、即ち民主の幾つかの要素或いは民主の形式を備えているというべきである。例えば定期的な自由選挙があり、多政党が存在するなどの民主形式がある。当然ながら、西洋の国家に比べると、シンガポールの民主化程度がすぐにも高められなければならない。実際に、すべての国家にとって、民主を引き続き完全にさせる過程があり、西洋の諸国も勿論例外にされてはならない。シンガポールの民主化過程もだんだん発展していき、このごろ西洋のメディアにおけるシンガポールのイメージもだんだん変わり続けている。1999年7月19日のアメリカの『Time』週刊は下記のようにシンガポールに対して評論を出した。即ち「政府のコントロールが厳しいことで悪い評判を得たこの都市国家はますます競争力と創造力のある、モダンな国家になっている。」
19世紀20年代から、シンガポールは世界中最大の殖民帝国イギリスの植民地となり、各方面においてイギリスの影響を受けた。イギリスは世界中一番初めての民主国家の一つだと普通に思われ、その民主政治体制も大幅政治発展の典型的なモデルになった。しかし、イギリスはシンガポールを百年間あまり統治したが、ただしシンガポールを植民地だけとして見なし、即ち自分の膨大なグローバル貿易のため、シンガポールを有利な海上貿易通路或いはアジアに対する貿易活動の優れた港として位置付けた。イギリスは政治上本土の民主政治体制をシンガポールに移植せず、その代わり長期にわたって英王に任命された総督を通して統治を実現した。即ち総督は権力を一手に握った。従って、イギリスからシンガポールに与えられた政治影響、特に民主制度面の影響はぜいぜいばらばらに見られる思想と観念の影響だけにとどまり、それにこれらの影響もごく狭い範囲だけにとどまり、即ち社会の上層に生活し且つ植民地政府と関連していた人或いはイギリス留学に行ったインテリだけに限られている。
第二次世界大戦の勃発は、イギリス帝国の植民地の夢を打ち破った。シンガポールは三年間余の陥落を経て、1945年7月に再びイギリスに占領され、軍事管制を受けた。1946年3月軍事管制が終わってから、シンガポール社会は既に戦前と違って、自治や独立を求める叫びが現れ始め、イギリスに改めてその統治方式を考えさせた。こうしてイギリスの民主制度がシンガポールに導入され、シンガポールの政治はこれから民主化の過程をし始めた。
1946年3月、英王は勅命を下し、民選議員が参加する行政会議と立法会議の設立を指示した。1947年7月、シンガポール植民地政府は『立法会議選挙法令』を通過させ、選挙区、選挙人資格、民選議員の人数などに対して具体的な規定を定めた。1948年3月、シンガポールは新しい選挙法令によって歴史上初めての選挙を行い、合せて22000余の人が参加した。選挙により成立された立法会議は24人に構成され、総督がその主席を担当して、その他23名の議員がいて、その中の6人が民選議員であった。その後まもなく、立法会議はイギリス植民地当局に意見を出して、民選議員の議席を12名に増加させた。この新しい権力構成の中に、総督は依然として大権を手に握っていた。が、立法会議の一部分の議員は選挙人の投票を通して選ばれなければならなかった。こうしてシンガポール人は歴史上初めて選挙を通して、権力機関に入る自分の代表を選び、自分の政治願望を表わすことができるようになった。
1952年にシンガポールの憲法制度の改革に再び新しい発展が出現した。総督は憲法制度改革に対して全面的な検査と総括を行った上、新しい情勢に応じるため、シンガポールの政治制度をさらに改革する必要があると考えていた。そこで、1953年12月から、イギリスはリンドー爵を主席とする委員会を派遣して、改めてシンガポールの憲法制度の地位について討議を行った。1954年2月リンドー爵をリーダーとする委員会はある報告書を提出した。報告書の中で、さらに憲法を改正する建議を出して、次第にシンガポールを「自治と自主の国家」に発展させ、次第に権力を植民地当局から民選で発生される立法機関へと渡すように定められた。報告書の主な内容は下記のようである:選挙人自動登録制度を施行して選挙人の範囲を拡大し且つ民主の程度を高める、立法会議議員の人数を拡大してそしてそれを民選議員が多数議席を占める立法議員へと変える、部長会議が行政委員会の替わりに政府の最高決策機関となり、総督が依然として総督を担当するが、集団責任制を採用する。リンドーの報告書はすぐ英王とイギリス政府の許可を得て、あとでシンガポールにより大きな自治権を与えた新憲法の主な依拠になる。シンガポールは積極的な選挙準備を展開し始めた。自動登録制度が施行されたことで、選挙人の人数が30万人あまりに達しただけでなく、歴史上初めて各政党が選挙に出た局面が出現して、合せて七つの党派の69名の候補人と10名の無党派人士が25個の議席の選挙に出た。選挙の結果、労働戦線が過半数を獲得して、マレー民族統一機構とマレー華人公会と一緒に連合政府を構成した。
リンドーの立憲政治の実施はシンガポール独立運動の序幕であり、それにシンガポール民主政治の発展歴史において重要な道標でもある。この立憲政治の改革を通して、シンガポール民主政治において極めて重要な政党政治原則が定められ、民選議員の人数と権力も拡大され、そしてシンガポール人の参政意識が強くなっただけでなく、独立を求める意識も一層強化されてきた。その当時、シンガポールは未だ植民地としての地位から抜け出さなかったが、その後のシンガポール社会に独立を求める盛んな民衆運動が出現して、イギリス植民地当局がより早くシンガポールに完全な自治と独立を与えるように促した。
1956年4月、新しく成立したシンガポール政府と諸政党は代表団を組織して、シンガポールの独立のためロンドンに赴いてイギリス政府と談判したが、成功しなかった。1957年3月、シンガポール代表団は再びロンドンに談判をしに行って、イギリス政府と原則上のものに合意して、そしえ新しい立憲政治の協議を結びようとした。1958年5月、双方はロンドンで立憲政治の協議に署名した。当該の協議の内容は下記のようになる:シンガポールはこれから自治領となる、シンガポールはシンガポール国になり、首席大臣は首相と改称される、英王がマレーシア生まれの人を任命して、シンガポールの国家元首に担当させる、新しい立法議院の合せて51の議席が全部民選で選ばれる、そしてシンガポールは外国と貿易や文化の関係を発展する権力を持っているが、対外安全防備と対外関係などの権力はまだイギリス政府の手に握られるなどである。 続いて、6月にイギリス政府はシンガポール自治法案を公布して、そして7月にイギリスの国会で通過させた。シンガポールは正式に英連邦の自治領として内政の完全主権を持つことになった。1959年5月、シンガポール自治領で初めての大選挙が行われて、およそ60万近くの選挙人が投票して51名の新議員を選んだ。その結果、人民行動党が総議席51の内、43議席を獲得し、大勝した。そして人民行動党が労働戦線の連合政府に取って代わり、第一期シンガポール自治領政府を組織して、リー・クアン ユーは初代の首相を担当した。
シンガポール自治領の成立につれて、シンガポール民主政治体制の基本的な建設が既に出来上がり、外交と国防の権力がまだイギリス政府の手に握られるけれども、シンガポール内部は既に完全な自治を実現して、特に政府は完全に選挙によって構成され、議院の議席も全部民選で選ばれるようになった。が、シンガポール国内の政治体制の民主化程度が一層高められなければならない。1963年9月、イギリスの同意の元でシンガポールはマレーシア連邦に加入してから、その国防と外交権力が中央政府に渡したが、シンガポール内部の政治体制が基本的に不変のままでいられ、即ち依然として完全な自治を実行した。その後、1964年に選挙などの問題によってシンガポールとマレーシア中央政府の関係が日一日と緊張に向かって、最後に1965年8月の協議破裂を引き起こした。シンガポールはマレーシア連邦から分離し、シンガポール共和国として独立して、英連邦における独立な主権国家となった。シンガポールの完全な独立は1959年に建設された政治体制を延長させ且つ打ち固めた。
第二次世界大戦が終わってから、イシンガポールの民主政治改革施行からシンガポールの完全な独立まで、イギリスは次第にシンガポールに理想な民主モデルを設計して、民主競争の規則を定め、民主の枠組みを立てて、そして基本的に民主制度と西洋民主形式の政治体制を確立した。イギリスの殖民政治はこのような政治遺産をシンガポールに残し、それにシンガポールを統治する権力をリー・クアン ユーのようなイギリス留学のインテリに渡した。
シンガポールの政治体制はイギリス民主政治体制の影響を受けたため、専制統治の思想と伝統がないが、植民地社会に影響されたから、相応する自由が欠けている。同時に東洋国家の権威主義の伝統文化もシンガポールの政治体制の形成に影響をもたらしている。従って、シンガポールはイギリスの植民統治に残された民主政治の土台に、イギリスと違う、自分独特の民主政治体制を形成するようになった。
シンガポールが独立してから、その民主化過程は大体三つの段階に分けられる。即ち独立初期から1968年までの多党競争時期、1968年から1984年までの一党専制時期、また1984年から今までの民主回復と民主強化の時期である。が、総じていうと、シンガポールが独立してからその政権がずっと一党即ち人民行動党に握られている。従って、シンガポールの民主制度にはすごくはっきりした特徴があり、それは実際に長期にわたる一党支配である。この特徴の元で、人民行動党はできるだけ多方面の意見を聞き取れるようにいささか民主の方式を利用している。その具体的な表現は諮問型の民主である。
シンガポールの民主化過程は、1946年にイギリス人によって行われた立憲改革から始まって、そして1965年の独立になる時、既に基本的に民主体制を確立した。この体制の下、シンガポール政治は政党政治の原則で運行し始まった。即ち多党の選挙競争を通して選挙人の支持を獲得して、そして議席や政府を組織する権力を得る。当時、シンガポールには数多くの政党があったけど、政界においてすごく影響力のあったのはただ人民行動党と社会主義戦線という二つの政党であった。人民行動党は与党であり、1959年大選挙の大勝からずっと政権を握っているのに対して、社会主義戦線は1961年7月から人民行動党から分離した左翼の政党であり、人民行動党と対立していた。こうして二党の相互競争はシンガポールの多党競争の局面を支配していた。1965年12月社会主義戦線は議会を拒むことを宣言して、当選された13名の議員が途中議会に出席することを止めた。その後、町でデモをした形式で人民行動党の政策に反対した。このような行動は両党の矛盾の激化を引き起こし、人民行動党は弾圧の政策で社会主義戦線にひどいショックを与えた。その後の1968年4月の大選挙で、社会主義戦線の影響がほとんど見られなくて、人民行動党は国会の58の議席を全部獲得して、国会内に一党独占の局面を形成した。
1968年4月から、シンガポールは人民行動党一党専制の時期に入った。そしてこの時期は16年間も続いて、1984年12月にも至った。実施に、この時期においてマレーシア共産党を除いて、他の政党の活動は禁止されることがないだけでなく、社会主義戦線もずっと存在していて、そして引き続き人民行動党と選挙に反対している。その他、些かな新しい政党、例えば民主連盟、人民連合戦線、労働者党、正義党、民主党、民主進歩党、シンガポール人民党、シンガポール華人党などが成立した。しかし、これらの政党の勢力は極めて僅かであり、人民行動党と匹敵し難い。この十余年間の間、シンガポールには合せて4回の大選挙が行われたがこれらの政党は一席も取れなかったのに対して、人民行動党は国会のすべての議席を独占した。従って、人民行動党は基本的に邪魔を受けないまま、自分の意志で政策を制定したり、国家を管理したりして、それに政府に提出された法案もほとんど通過させた。しかしながら、人民行動党の一党専制ははっきりした反対を引き起こさないようであり、逆にシンガポール政府は有効な政策を通して、経済のすさまじい発展を遂げ、シンガポールも新興工業化国家の列に入り、「アジアの4匹の竜」だと高く評価されている。このような成功の元で、非政治性のシンガポール社会が作り上げられ、人民行動党により国内各階層にもたらされた裕福な生活は人民行動党の一党専制の色彩を薄めた。
1984年12月、シンガポール独立後の第5回大選挙が行われた。この選挙の中で、人民行動党は前と同じように国会のすべての議席を独占することができなくて、79の議席の中の二つを失った。この二つの議席の数は多くなく、そして人民行動党の与党地位をも脅かさないけれども、それがもたらしたショックはすごく大きかった。即ちそれは16年間にわたる人民行動党の一党専制の統治と人民行動党不敗の神話を破り、シンガポール政界に新しい力をもたらしてきて、一定の程度で1968年以前の多党競争の局面を再現させ、シンガポールを民衆回復の道に導いた。その後、人民行動党は一連の措置を施行して、自分の専制イメージを変えようとした。1985年と1987年にそれぞれフィード・バック機構と政策研究機構を設立して、政策の諮問ルートを拡大した。そして1987年に政府議会委員会が設立され、人民行動党の国家議員に対して監督を行っている。その時から現在まで、シンガポールにまた4回の大選挙が行われたが、その結果は大体同じで、人民行動党が未だ国会において絶対多数の議席を占めていて、議席のすべてを独占してはいない。
上述した三つの時期から見ると、異なる時期においてシンガポールの民主の程度が少々相違があるけれども、それはだだし国会の議席だけに表現しているので、程度だけの違いだと言える。人民行動党はもっとも多くの議席を失うときでも、ただし81の議席の4つしか失わないだけであり、その一党専制の地位に何も影響が与えられない。従って、どの時期においても、シンガポール政治の実質はみなすべて人民行動党の一党支配である。しかしながら、人民行動党は自分の統治をもっと有効にさせるため、或いはより多くの民主精神を表わすため、第三の時期から諮問の方式を通して民主を拡大しようとし始めた。
1984年に、シンガポールは非憲法議員制度を施行し始めた。それは即ち3名の野党のメンバーを国会に入らせ、国家事情の討論に参加させたことであり、しかもこの3名の議員は選挙に参加せずに国会に入ることができる。1990年、シンガポールはまた指定議員制度をし始めた。それは即ち社会の名流や品性が良いと思われる人は選挙に参加せず直接に国会議員を担当することである。これらの制度は他の政党と民衆に喜んで受け入れられて、政治雰囲気も昔より気楽で自由になった。国会に議論の状況が出現し始め、違う政見を持っている人の意見もあり、そしてこれらの論争と意見がメディアを通じて国民に公布することもできるようになった。ここ数年、特に市民社会団体の関心が寄せている話題は幾つかシンガポール国会に提出され、且つ議論されていた。例えば女性問題、環境問題、エイズ問題また少数民族の権利問題などがある。シンガポール政府は真剣にこれらの問題に取り扱い、その中の一部分の問題が討論されてから法案の形式で解決されようとする。
1990年末、ゴ−・チョクトンがリー・クァンユーに取ってかわり、シンガポールの新しい首相として登場して、政権の世帯交替が行われた。ゴ−・チョクトンは首相になってまもなくの晩餐会で、1000余名の専門家に対して、下記のように承諾した。1.政府政策の制定過程をよりはっきりと表明して、国民の討論に提供する。2.民衆にとって不必要な条例、息が詰まるような条例と個人空間を侵す条例を変えて或いは削除する。3.国民により多くの有形空間と無形空間を作り出す。4.引き続き協商の方式を持ちつづける。1991年大選挙後、ゴ−・チョクトンはまた民意処理グループを成立して、定期的に民間代表と会議を行って、民間からの意見を聞き取れる。その他、90年代末にシンガポール政府は方林公園でイギリスのハイデ公園のような自由論壇の開設を許し、民衆に自由言論の空間を与えた。
とにかく、20世紀80年代の後半期から、シンガポールの民主化は些かの発展を遂げ、そして90年代に入ると、著しい発展が見られる。シンガポールはだんだん民主化のスピードを速めている、或いはシンガポールの民主化程度がだんだん深めていくと言える。しかしながら、シンガポールの民主は西洋国家の民主と違って、ただ形式上の民主、即ち定期的な自由選挙などだけをもっていて、実質的な民主が足りない。そして多党間の自由競争が許されるけれども、実際に大勢の資源は依然として与党に握られているため、競争の公平性が欠けていると言える。その他、民主体制の運行に対して機構と世論の監督、とりわけメディア世論の監督が欠けている。それだけでなく、メディアに対するコントロールと制限も厳しい。これらすべてがシンガポール民主化の発展を制約している。従って、シンガポールの民主化過程はまだまだ遠い道を歩まなければならない。
シンガポールは市民社会が既に出現して形成するようになり、民主制度の一般的な形式を備えている。そして両者の間に相互促進の関係が形成されるようになるにつれて、シンガポールの市民社会も引き続き発展しており、その民主化過程も次第に進めていく。特にグローバル化が一層広がっているに伴い、民主化過程は引き続き発展のスピードを速めて、シンガポール新型の民主制度の確立を促して成就させる。
いかなる国家において、市民社会は民主政治にとって必然的な需要であり、即ち市民社会の発展は政治の民主化のため堅固な社会基礎を定め、そして民主化にとって建設的な意義を持っている。それと同時に、民主化も逆に市民社会の更なる成熟や発展を促していて、社会構造や社会的分業などを一層合理化させ、社会の安定と繁栄を保つ。従って、換言すれば、市民社会と民主化は相互促進の関係にある。但し、国家によって、市民社会と民主化の出現の前後順序は必ず完全に同じとは限らない。西洋の国家において、普通市民社会の出現は政治民主の出現を促し、民主化の過程を速めるが、東洋の国家において逆に西洋社会に習い基本的な民主制度を確立してから、ようやく市民社会が出現するようになった。例えばシンガポールがこのようである。即ち、シンガポールの民主化過程は第二次世界大戦後の20世紀40年代から既に始まったが、市民社会の出現は20世紀80年代からであった。
シンガポールはイギリスの植民地として、イギリスの政治遺産特にその民主制度をたくさん受け継いできた。シンガポールの民主をイギリスの民主と完全に同一視してはいけないが、少なくとも体制においてはその民主形式を備えていると言えよう。即ち、定期的且つ自由に国会代表や国家の指導者を選挙すること、互いに制約し合う国家機関があることである。無論、シンガポールの民主は完全な民主という訳にはいかない。即ち、自由選挙は実質上数多く有形と無形の要素に制約され、影響されている。国家機関間の相互制約も大幅に形式に流れている。特に監督システムが欠けているのである。にもかかわらず、シンガポールは民主の社会と言えるようになり、或いは少なくとも基礎の民主体制を備えているというべきであろう。まさにこの体制の下で、シンガポール政治は安定を保っている。これは、多種族及び多宗教の社会にとって、なかなか容易なことではない。政治の安定が保たれるほか、シンガポールの経済もすさまじい発展を遂げた。そして、この基盤の上に立って、シンガポール社会に比較的独立意識を持っている中産階級が出現しており、市民社会を形成するようになった。
シンガポール市民社会は大幅にシンガポール民主化の結果であると同時に、シンガポールの民主化を一層促進する原動力でもある。それはシンガポールの新型市民社会の出現はシンガポール民主化の基盤を強くさせ、拡大したからである。市民社会団体が勢いよく現れ、その参与範囲も次第に拡大して、そして政治に対する関心や参与程度もますます高くなり、現行の体制に対して、より多くの意見を出しており、それを変えようと求めている。20世紀80年代、全世界にわたっている政治民主化ブームの高まりにつれて、シンガポール民主制度の不足がますます多く現れてきて、そしてシンガポール市民社会の出現も更にその民主制度の抜け穴を明らかにさせた。シンガポールは経済上の成就を利用して、自分の「アジア式民主」を広く宣伝したが、大勢の市民社会団体はやはり引き続き民主の深化、真の民主を呼びかけている。即ち形式的に民主制度を備えているだけでなく、実質上民主制度の確立を求めている。具体的に言うと、定期的な選挙があるほか、国民に有形や無形の制約を与えず、自由且つ理性的に国家指導者や国会代表を選ぶ権利を持たせるようになる。一党独裁の局面を変え、世論や監督機関からの監督を強化しており、シンガポールにおいて、所謂「アジア式民主」化社会だけでなく、典型的な意義でも普遍性を持っている民主社会を築き上げるべきである。
無論、シンガポールの市民社会は直接的或いは間接的に政府に反対するという訳ではない。これはシンガポールではまさに不可能なことである。しかし、シンガポールの市民社会は自由に意見を表わせる空間の拡大を要求しており、シンガポール社会を合理化して、完全にさせるため、意見を出したり、知恵を出し合ったりしているつもりである。この要求自身はまさにシンガポールの民主化を促進しているであろう。彼らの考えでは「ある社会において、政府と民衆の話しかないと、世俗化や利益を本位主義とする意見ははびこっているに違いない。それに対してインテリの話の意義はまさに理性的且つ知略のある討論を通して、社会に理想的な前途を設計することにある」。 ここで言うインテリの話は実際にシンガポール社会がより一層民主化になってほしいという市民社会の政治要求を指して言う。
シンガポール新型市民社会の出現はシンガポールの民主化により高い要求を出していて、シンガポールの民主化を一層深化させる。が、シンガポールは東洋の国であるから、やはり伝統的な権威体制に制約され、その市民社会の発展もすごく制限されている。従って、民主化に対する市民社会の促進の役割も、一定の限度に制限されている。現在シンガポールにはおよそ5000ぐらい登録した市民社会団体がある。これは、全人口3000万余人のシンガポールにとって、相当の数というべきである。しかし、ここからシンガポールでは成熟し且つ生き生きとした市民社会が既に形成したような結論が得られない。それはかなり多くの市民社会団体は実際に政府によって発起され且つ成立される、或いは政府にコントロールされている、それに比較的独立した市民社会団体も政治問題の討論や政治活動の従事の面で厳しく制限されているからである。従って、シンガポール市民社会は未だ引き続き発育し成熟することに待たねばならない。真の意味での民主化も、より独立的な市民社会の発育と発展に待たなければならない。
1984年以来のシンガポールの民主化過程を振り替えてみれば、一層民主化させることは主に下記のような問題に関わっている。即ち、国民により広範囲にわたる権利を与えること、そのうち、特により多くの政治権利を与えることが含められている。そして監督を強化して、特に権力機関間の相互制御監督とマスコミ監督を強化すること、自由且つ公正な選挙を実質上実現して、一党独裁の局面を変えることなどである。一党独裁を局面を変えようとするには、最も主要なのは人民行動党一党独裁の局面を打開することである。実際に人民行動党は諮問吸収型の民主政治と意見のフィード・バックシステムを形成して、広範囲にわたって多方面からの意見を聞き取れるようになったが、その諮問吸収型民主と意見のフィード・バックには一定の条件と制限があり、それに意見を処理するすべての権力も人民行動党一党に握られているから、やはり根本的に一党独裁の局面が変えられない。例えば、国会で政府機関を批判したシンガポール労働党議員の例を挙げてみると、1986年シンガポール国会はこれに対して、『議会法案修正案』を通過して、議会の特権を濫用する議員を厳しく懲罰すると定めた。これは実際に所謂意見のフィード・バックや批判許可及び議論の制度などを投げ捨てたやり方である。換言すれば、批判は建議の範囲だけにとどまり、異なる政見の存在が認められない。明らかに自分と異なる政治傾向を持っている勢力に対し、人民行動党は時によると国内の安定措置を取り、それを鎮圧するのである。
この状況から見れば、人民行動党は一党独裁を放棄したくないことをはっきり意味している。その指導者は但し人民行動党はシンガポール社会の政治や経済の発展に伴って相応する変化を行うと強調している一方であり、つまり別に政権を放棄する必要がなくて、シンガポールは依然として人民行動党の政権の下で進歩を遂げていると強めて言う。
政党政治の直接選挙による政権の変えようがないから、市民社会の出現と発展はシンガポールの民主化過程を速める最も重要な形式となる。これは、かなり時間がかかるけれども、20世紀80年代から高まってきた市民社会運動は少しずつシンガポール社会を変えている。政府の支配下にある市民社会団体にしても、今までより拡大した活動空間を取っており、間接的に幾つかの政治問題に触れることができる。そして比較的独立した市民社会団体の方がいかなる許される方法を通して、政治問題に触れている。この状況は次第に政治意識の多元化をもたらしていて、少しずつ人民行動党一党独裁の政治構造を侵食しつつあり、最後にシンガポールの深層的な民主政治体制を実現するに違いない。特にグローバル化の出現につれて、シンガポールが超然として国際社会から遊離していることは既にできない。国際的な市民社会運動の出現や全世界にわたる民主化ブームもシンガポール現行の一党独裁の政治構造に巨大なるショックを与えている。
フランス学者トクウィルはその著名な『アメリカの民主を論ずる』において「民主制度は必ず世界中に拡大される」と指摘した。そしてアメリカの社会科学の権威者であるパセンスも「民主制度は現代社会構造上の基盤の一つであり」「社会進歩の経路である」と書かれた。実践が証明したとおり、民主制度は今までの人類社会の政治科学の中で最も合理的な政治制度である。だからこそ、民主化は既に世界中のブームとなり、民主や民主化に対する理解は国家や人によってどんなに異なっていても、はっきりと民主や民主化に反対する国家と人がまさに少ない。逆にみんなは民主と民主化を崇め尊んでいる。シンガポールもそうである。シンガポールが提唱する所謂アジア式民主は、一般の民主の原則と矛盾してはいない。但し民主を実現する方式と時間の方がやや異なるかもしれない。両者の目標は一致している。それに、グローバル化の深化に伴い、民主に対する異なる理解も次第に減っていく。実践が証明したとおり、華人を主とした多種族のシンガポール社会は民主化を崇め尊び、発展させているだけでなく、より高い程度での民主化を実現する可能性も十分あり得る。この目的に達成するため、困難極まった道を歩まなければならない。にもかかわらず、シンガポール市民社会は必ず引き続き発展した基盤の上に立って着実に一歩一歩と目標に近付いていこうと思う。
[仏]トクウィル著、董果良訳 『アメリカの民主を論ずる』沈陽出版社 1999年9月
中国社会科学雑誌社編集 『民主の再思考』社会科学文献出版社 2000年12月
劉軍丁編集 『民主と民主化』商務印書館 1999年12月
[米]パセンス著、_克利・閻克文訳 『民主新論』東方出版社 1993年6月
シンガポール聯合早報編集『リー・クアン ユー40年間政論選』現代出版社1994年3月
馬志剛著 『シンガポール道と発展モデル』時事出版社 1996年7月
李路曲著 『アジアモデルと価値の再構成』人民出版社 2002年1月
鄭維川著 『シンガポール治国の道』 中国社会科学出版社 1996年8月
王紹光著 『多元と統一――第三部門国際比較研究』浙江人民出版社 1999年10月
曹雲華著 『アジアのスイス』中国対外経済貿易出版社 1997年
_正来著 『国家と社会――中国市民社会研究』四川人民出版社 1997年11月
_正来、[英]J.C.アレクサンダー編集『国家と市民社会』中央編訳出版社 1999年3月
Edited by Anek Laothamatas, Democratization in Southeast and East Asia, St. Martinユs Press, New York, 1997.
Edited by Gillian Koh, Ooi Giok Ling, State-Society Relations in Singapore, Oxford University Press, 2000.
Edited by Heikki Patomaki, Politics of Civil Society: A Global Perspective on Democratization, Network Institute for Global Democratization, 2000.
Edited by Tadashi Yamamoto, Emerging Civil Society in the Asia Pacific Community, Institute of Southeast Asian Studies of Singapore and Japan Center for International Exchange of Japan, 1995.