引用されているのは、ワシントンのアーリントン国立墓地に は奴隷制のために戦った南軍の将兵も埋葬されているが、歴代大統領が参拝するからといってそれが奴隷制に賛成しているという意味はない、同様に首相の靖 国参拝も東条英機ら戦犯の行為に対する賛成の表明になるわけではないというドーク氏の主張だ。だが、靖国に祀られている戦犯は内戦で戦ったのではない。し かも「日本軍」(官軍、皇軍)を相手に戦った国内外の兵士は靖国に一人も祀られていないのだから、ドーク氏の例えは正確ではない。[注1] 彼が主張しているすべての戦没者に対する尊重と弔意表明 の必要性という点は評価すべきものかもしれない。ただ、このような尊重は加害者の側が一方的に要求するだけでは決して実現することはない。アジア太平洋戦 争中に日本が侵略した国々の被害者が許す理由が十分にあると納得してはじめて、すべての日本兵を許し、すべての戦没者を同等に悼むことが可能になるのだ。
これ以外にドーク氏が述べている議論は、大筋として産経新 聞や『諸君』によく見られる議論だ。たとえば、「政府や国民が」戦争で死んだ先人を弔うのは「自然」だという主張。首相の参拝についても、小泉総理本人は 政治的意図はないと言っているのだから、民主主義社会の自由の基本である「他者の尊厳への精神的敬意」に基づいた個人の表現とみなすべきだという主張。こ れを中国やアメリカなどの「外部から」批判するのは「人間の心を排除」する不当な態度だ、といった内容だ。
ただ、この議論のなかにひとつ、今まで注目されなかった興 味深い事例が加えられている。これは1932年に靖国参拝を命じられ、自分の信仰に反するという理由で参拝を拒否した上智大学のカトリック信徒の学生の話だ。これに対し、日本 政府は靖国参拝は「愛国心と忠誠を表すだけで、宗教的慣行でない」と、学生の参拝拒否を許さなかった。ローマ教皇庁にもこの事件が伝えられ、後に教皇庁は 日本政府を支持した。ドーク氏はこの事例から、「その結果、日本カトリック教徒は自由に靖国を参拝するようになった」(赤字、筆者)という驚 くべき結論を引き出している。問題はこれらの学生は参拝する自由を求めていたのではなく、参拝を強制されることに抵抗したということだ。ドーク氏はこの事 実を無視して、ローマ教皇庁は日本国民の「独自の価値観」を尊重したと結論付けている。この解釈では日本人カトリック信徒に参拝を強要した国家の行為(ま た事件に関して中立を守ることにしたローマ教皇庁の姿勢)と、自分の意志に基づいて祈る日本人の権利とが混同されている。日本政府と日本国民は同一のもの とされ、国家の強制力とカトリック教会のヒエラルキーの板ばさみになったカトリック教徒の個人的良心の余地は残されていない。[注2]
いわゆる自由主義史観の魅力は、「自由」と名付けたところ にあるように思われる。罪悪感を永久に担ぎ続けたくないとはだれもが思うことだろう。自国に対してポジティブな感情を持ちたいとも思うだろう。日本国民も 個人として国を誇る気持ちを表現し、国のために死んだ人を悼む自由があるのではないか、あるに違いない。しかし、この「自由」が意味を持つためには、靖国 参拝(あるいは合祀)、国歌斉唱などの国家的儀礼に参加を強制されない自由をも社会が保障しなければならない。そして、個人本位の自由主義に立つなら、国 家の行為によって被害を受けた個人は国籍を問わずその国家に賠償を要求する権利を持つともいえるはずだ。国家戦略の下で行われた加害行為に対する国家の責 任は無限ではないが、多大である。なぜなら、国家のような組織なしには植民地支配も侵略戦争もありえないからだ。
一方、首相が靖国神社に参拝するべきかどうかという問題は 個人の権利あるいは自由の問題ではない。個人が参拝するのを止めろと要求している外国政府は一つもない。だから、首相も参拝する「権利」はある。ただし、 政府の要人であるからには、当然ニュースになるし、外交的な挑発として受け止められる可能性もある。ドーク氏も指摘するように、公人としてであれ私人とし てであれ、問題の質はさほど変わらない。しかし、肝心なのはむしろ、参拝する行為の政治性と予想される外交上の影響を知りながら日本の政治家が行き続ける ということだ。いくら「日本国民が決めるべき内面的な案件だ」と主張しても、首相は参拝によってアジアの近隣諸国に対し、意識的にある態度を表明すること になる。そして、国家間の条約は締結されているものの、植民地化と侵略戦争による個人的被害に対して日本政府は何の賠償もしていないし、しかもその被害自 体を少なからぬ日本の政治家は今も認めていないという状況を背景に、侵略された諸国の多くの人々は靖国参拝という象徴的意思表明に対して怒ってるのだ。す なわち、アジア太平洋戦争が政治的問題として残っている限り、靖国問題の中核は日本的弔慰の伝統や、参拝における公私の定義や、靖国参拝は宗教行動かどう かのニュアンスにまつわるのではなく、日本政府はどうやってアジア諸国の人々も受け入れることができる過去の解釈に到達できるかにあるのだ。
中国政府が被害の記憶を悪用して国民の間にナショナリズム 感情を扇動しているということは事実であり、中国ナショナリズムは最近確かに醜い現れ方をしている。しかし、被害の記憶が悪用されているからといっても、 虐殺や残虐行為の事実がある限り、日本帝国がその責任を赦免されるわけではない。日本軍が犯した残虐行為の長いリストをここではつぶさに検討することはで きないが、すでにほかの研究者によって数多く記録されている。数字や命令責任については議論が続いているが、南京や中国大陸戦域全体、またマニラやシンガ ポールなど東南アジアの都市部で日本兵による非武装市民の大量殺戮を疑う歴史専門家は少ない。強制連行された労働者や捕虜数十万人が餓死、疲労で死んだの も否定されていない。その恐ろしさにおいてナチの実験に匹敵する731部隊の人体実験も、それを行った医師本 人による記録と証言が残されている。
日本帝国そのものはもはや存在しない、そして靖国神社に祀 られている将兵はもう故人になっている。かれらは「弁護できない」のでその行為を非難するのは不当だとドーク氏は書いている。つまり、歴史は裁けないと言 うことだ。この議論は歴史学の方法論に関する複雑な問題につながる。しかしながら、われわれは歴史学者として日常の教育実践のなかで、次世代に何を伝え、 何を忘却に任せ、また教えている歴史よりどんな教訓を導き出すかについて常に選択せざるを得ない。教科書、資料館、記念施設などを通じて、過去を判断する この作業に政府も関与しているのだ。われわれの判断は不完全かもしれないが、しかし愛国心を高揚する以外の歴史的評価をすべて保留するならば、他国のナ ショナリズムに対抗する自国ナショナリズムしか残されないことになってしまう。
しかも、元帝国軍の日本兵が現在の日本政府から恩給を受け てきたなどの事実からも明らかなように、戦後の国家は戦中の帝国と法的に、また制度的に連続している。その連続を精神的レベルで維持することこそが靖国神 社の存在理由なのだ。天皇のための犠牲として日本兵の死を特化し、美化し、また国民の過去についての神話的歴史を保存することによって、靖国神社は現在と 将来の国民を国のために死ぬよう動員する目的の施設に他ならない。[注3] 靖国神社はそもそも私的な追悼のために造られた施設では ないし、1945年 以降、日本の社会や日本人の世界観が大きく変わったにもかかわらず、そういう施設になったわけでもない。だから靖国問題に関する倫理的な立場を探るあらゆ る誠実な努力は、個人の追悼する権利と国内外の被害者に対する国家の責任とを弁別することから出発しなければならない。
安倍はなぜドーク氏の論説を引用することにしたのか。日本 のジャーナリストや学者が同じことを書いていたとしたら、安倍は同じようにわざわざ名前を出して引用しただろうか。米国の大学教授が書いたものだからドー ク氏の言葉に付加価値が付いていると言ってもいいだろう。「米国の大学教授」の意見がこのように利用されること自体に、安倍は靖国参拝を単なる個人的信仰 の表明としてではなく、政治的行為としてみなしていることが見て取れる。
日本の政治家や政治評論家は、自分の主張を正当化する超越 的権威として、アメリカの知識人の言葉をしばしば引用してきた。同じように、小沢一郎やその他の政治家が日本を「普通の国」に変えるために軍事化を主張す るときに、アメリカは暗黙の規範となっている。小林よしのりはその漫画『靖国論』のなかで靖国神社は米国のアーリントン墓地と同じ性格の施設であり、だか ら日本国民は参拝して当然だと主張する(同じ論法はドーク氏も間接的に示唆している)。これらの議論はいずれも、軍隊の派遣や戦争の記念のしかたにおいて アメリカ合州国がよい手本であるという前提に立っている。現在の世界における米軍の役割を考えると、これは疑わしい論法と言わざるを得ない。
ドーク氏の「靖国論」も、それに対する私の反論も、外部か らの個人的な意見に過ぎない。とすれば、われわれが日本のメディアに意見を表明することも国内問題に対する内政干渉になるのではないか。日本の国事に関し てこのように倫理を説く何の権威を持っているのか、と思われるかもしれない。しかし逆説的に、「外部」の「米国知日派学者」ということで、私たちの発言も ある権威とステータスを与えられていることも事実である。日本人が死者をどう弔うかについて、だれも口を挟むべきではないというドーク氏の意見には同感す る。しかも、アメリカ人として、われわれも自国軍隊の非人道行為を直視しなければならない。しかし同時に、日本の政治家が戦争の加害者を「英霊」として崇 めるときに、自分自身あるいは自分の家族が日本軍によって残虐行為を受けた個人的な記憶を持っているアジアの多くの人々が、それに対して怒っても不思議で はない。過去の戦争をどう記憶するかということはいまや世界的な問題だ。どの国民であれ、自国の戦没者を「英霊」扱いしながらその被害者を無視していて は、批判されても仕方がない。このことは広島、長崎やその他の日本の都市、朝鮮半島、東南アジア、などなどの米軍による爆撃を受けた(現に受けている)被 害者に対するアメリカの責任についても当然言える事である。その「英霊」のために何をするかよりはその被害者のために何をするかの方が国の道徳的正統性を 測るよりよい尺度となるのではないか。