『20世紀を超えて──再審される社会主義』花伝社、2001年)書き下ろし「序論」


  

 

カルチャーとしての社会主義──資本主義と民主主義のはざまで

 

 


 1 戦争と革命の二〇世紀

 

 「短い二〇世紀=極端の時代」

 太陽と月の動きに合わせた自然的時間、時計の針で均質に刻まれる物理的時間のほかに、社会的時間というべきものがあるとすれば、二一世紀は、すでに十年前から始まっていた。

 一九九四年に、一四年の第一次世界戦争勃発から九一年ソ連崩壊までを、「短い二〇世紀=極端の時代」と早々と総括し、描きだしたのは、ロシア革命の年に生まれたイギリスの歴史学者、エリック・ホブズボームであった。

 彼が、三冊の大部の著作(革命の時代、資本の時代、帝国の時代)で描いた「長い一九世紀」と比すると、「短い二〇世紀」は、二次の世界戦争を体験した「破局の時代」と、その後の東西冷戦が経済発展競争となった「黄金の時代」で構成される。しかし、やがて「地すべり」がおこり、八九年東欧革命・冷戦終焉、九一年ソ連解体でサイクルを終えた(邦訳『二〇世紀の歴史』上下、三省堂、一九九六年)。

 その著書の冒頭に掲げられた、アイザー・バーリン以下一二人のヨーロッパ知識人・芸術家の二〇世紀短評は、一九九二年に採られたものではあるが、辛辣かつグルーミーであり、すでに始まった二一世紀の不透明性・不安定性とオーバーラップする。

 曰く、「西欧の歴史におけるもっともおそろしい世紀」「虐殺と戦争の世紀」「人類史上最も暴力的な世紀」等々。科学技術進歩や女性の歴史的台頭から希望を語るさいにも、「人類がこれまで抱いた最高の希望を打ち出し、同時に幻想も理想もすべて打ち砕いた」(音楽家ユーディ・メニューヒン)と留保が付された。二つの世界戦争に冷戦を加えた暴力装置の増殖と人為的行使、地球を限りなく一つに近づけた科学技術と経済市場の発展は、同じコインの表裏であった。二〇世紀の百年は、「極端の時代」として、これらすべてを凝縮し、人類史のテンポを飛躍的に高め、地球のすみずみに、その効果を及ぼした。

 ホブズボームより早く、日露戦争の一九〇四年に生まれて二〇世紀を目撃し、二一世紀に九七歳にして『二〇世紀の意味』を著した稀代の思想家石堂清倫は証言する。「日本にとっての二〇世紀の始まりは、帝政ロシアが極東に進出して、アムール河北岸に住んでいる中国人約三千人を虐殺したという大事件です。第一高等学校の寮歌『アムール河の流血や』が日本中に流行しました。つまり帝政ロシアのアジア進出への脅威にたいする反応で、日本の二〇世紀は幕をあけたことになります」。しかしこの歌のメロディは、一九二〇年代に「聞け万国の労働者」と歌詞を変えて最初のメーデーで歌われ、メーデーが禁止された頃に、今度は「日本陸軍の歌」になる。「おなじメロディが、わずか二十年のあいだに、愛国の歌から労働者解放の歌になり、それがすぐに巻き返されて軍国主義の歌にもなった。」

 そして、百年を省みていう。「転換を果たせなかった世紀」と。

「新しい世紀に当面する経済のグローバリゼーションには、核戦争の代替戦略の一面があります。それは資本主義の退行を示すものですから、労働運動自身も独自のグローバルな対抗戦略をもつ必要に迫られています」「二〇世紀は前衛やエリートの考えた運動であったとするならば、二一世紀は民衆自身を主体とする運動に転化できるかどうかということが重要だと考えています。一九八九年以来の『歴史的共産主義』の崩壊は、それがすでに現代社会の複雑化に適応しえなくなっていることの表現でした」(『二〇世紀の意味』平凡社、二〇〇一年、七七・八八頁以下)。

 

「戦争の時代」の政治

 二〇世紀は同時に、デモクラシーの時代でもあった。人権・市民権の拡大、男女平等普通選挙権によって、政治に加わる人々が飛躍的に広がった。政治のアリーナも、宮廷や議会に留まらないものとなり、国民国家間でも、民族自決・内政不干渉がうたわれた。ただし実際には、普通選挙権の拡大も、デモクラシーの制度化も、戦争動員のための手段であったり、敗戦による国民統合再建の出発点である場合が多かった(加藤『国家論のルネサンス』青木書店、一九八六年)。だから、「民主主義のための戦争」もありえた。

 二〇世紀日本を代表する政治学者、丸山真男は語る。

「政治は経済、学問、芸術のような固有の『事柄』をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は『政界』における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断する面にとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である」(「春曙帖」昭和三六年、『自己内対話』みすず書房、一九九八年、七三頁)。

 つまり、二〇世紀の政治は、潜在的には、全体主義の危険を内包するようになった。だから、二〇世紀を「戦争と革命の時代」とか「科学技術発展の時代」「国民国家の時代」等々と特徴づけたとしても、それは、けっきょくは一つのキーワードに行きつく。つまり、「戦争の時代」である。熱い戦争も冷たい戦争も、国民国家間の関係も、科学技術の急速な発展も、国民国家内でのデモクラシーの拡充や労働者福祉さえも、基本的には、国家間戦争の性格変化に照応するものであった。

 そして、その「戦争の時代」には、戦争を物質的に支える経済体制も、住民を「国民」として動員する国民国家体制も、戦争に反対する市民の運動さえも、ある種の戦争のかたちを、とらざるをえなかった。ガンジーの非暴力・非抵抗運動、宗教者の焼身自殺、核兵器や軍事基地に対する「人間のくさり」のような「脱暴力・脱戦闘」の動きはあったが、「戦争とは、別のかたちでの政治の延長である」というクラウゼヴィッツのテーゼは、「政治とは、別のかたちでの戦争の延長である」と読み替えられて、共同体内部での抗争も、議会での政党政治も、経済や文化の領域も、「内戦」の性格を刻印された。政治決戦、選挙戦、貿易戦争、経済戦争、企業戦士、受験戦争と、戦争のメタファーは、競争原理の働くあらゆる領域に、ある種の軍事的・暴力的色彩を、付与するものとなった。

 

 2 資本主義対社会主義

 

 カルチャーとしての社会主義

 「資本主義と社会主義の対決」は、この「戦争の世紀」の政治の焦点であり、政治の「カルチャー」であった。日本語で「(精神)文化」「生活様式」「(知的)教養」などと訳され、ミシェル・フーコー風に「修養・培養」でもあるような意味で、「カルチャー=culture,Kultur」であった。この構図は、二〇世紀に特有のものであり、「資本主義」も「社会主義」も、政治の言説世界に現れたのは、比較的新しい。

 「社会主義=socialism」という言葉は、英語では、一八二七年にロバート・オーウェン派の機関誌で、労働者状態改善の言説として用いられたのが最初といわれる。フランス語の文脈では、一八三三年に、P・ルルーが「個人主義」との対比で、サン・シモン派の思想をさして用いた(阪上孝『フランス社会主義』新評論、一九八一年、伊藤誠『現代の社会主義』講談社文庫、一九九二年、和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、一九九二年)。

 もっとも、ドイツやイタリアでは、すでに一八世紀後半に、カソリック保守派がグロチウスやプーフェンドルフの自然法思想を攻撃するさいに、「社会主義的」というレッテルを貼って非難した記録がある(Wolfgang Schieder, Sozialismus, in, Geschichtliche Grundbegriffe, Stuttgart)。

 カール・マルクス自身が、自己の思想を「社会主義」とよんだ用例はきわめてまれで、もっぱら「共産主義」と称した。「共産主義」の語は、中世キリスト教の共同体主義まで遡り、フランス革命期に流布したもので、マルクスに直接つながるのは、カベーのイカリア共和国のような財産共同体思想である(W.Schieder, Kommunismus, ebenda)。

 要するに「社会主義」は、西欧語でも二百年足らずの、歴史的概念である。「カルチャーとしての社会主義」は、後に「資本主義」と特徴づけられるようになった市場的「自由」のもとでの弱肉強食・生存競争システムに対する、「平等・友愛」原理からの批判的思想であり、社会運動であった。マルクスの時代には「ユー・トピア(=そこにないもの)」であったがゆえに抑圧され、しかし輝いていた。そこでのポイントは、むしろ「主義」以前の「社会」の理解・イメージであった。

 二〇世紀「社会主義」の硬直化の一因となる「科学的社会主義」なる言葉も、一八四〇年代ドイツで、サン・シモン主義をさして生まれ、それが後に、F・エンゲルスにより「ユートピア社会主義」と対比された。それが普及するようになるのは、「科学」も輝いていた時代であり、ダーウィン『種の起源』(一八五九年)の自然淘汰説・進化論の延長上で「社会進化論」が高唱される頃だった。つまり、一九世紀の科学技術信仰、生産力主義が、影を宿していた(W. Schieder, Sozialismus, a.a.O., Hans Pelger, Was verstehen Marx/Engels und einige ihrer Zeitgenossen bis 1848 unter "wissenschaftlichen Sozialismus", "wissenschaftlichen Kommunismus" und "revolutionarer Wissenschaft"?, in,Wissenschaftlicher Sozialismus und Arbeiterbewegung, Trier 1980)。

 日本の場合には、明治維新後の「society=社会」という翻訳語を媒介として、さらにバイアスがかかる。日本に古くからある「世間」という言葉とはニュアンスを異にする、諸個人の自律的・水平的つながりとしての「ソサイアティ」という言葉は、その実体がない時代に日本にもちこまれ、福沢諭吉らは苦労して、当初は「会社」とか「人間交際」などと訳した(加藤『社会と国家』岩波書店、一九九二年)。

 「社会主義」は、「欧化」の時代に加藤弘之らにより「ソシアリスメ」という一つの経済学説として紹介された後、一八八〇年頃から「独国社会党の説」などを示す訳語として、定着した(山泉進『思想の海へ、社会主義事始』社会評論社、一九九〇年)。日本語のバイアスを伴い翻訳された「社会主義」は、中国に(逆)輸出され、毛沢東やとう小平による再解釈を受けて、いまや「社会主義的市場経済」に変身している。

 

 体制としての資本主義

 他方の「資本主義」は、共産主義・社会主義よりも、さらに新しい。日本の明治維新直前に出版されたマルクス『資本論Das Kapital』(一八六七年)は 、文字通り「資本」についての原理的探求で、「資本主義Kapitalismus, capitalism」の語を用いなかった。「資本主義」という体制概念が普及するのは、二〇世紀に入ってからである。

 すでに、重田澄男の研究が詳細に明らかにしているが、一八〇五年にゾーデン『国民経済学』中に「資本家的生産kapitalistische Produktion」が使われたが、その後にはつながらない。ルイ・ブラン『労働組織』(一八三九年)のcapitalismeは「資本の排他的占有」の意味で、「資本の有益性」と対置された。P・ルルー『マルサスと経済学者』(一八四八年)の「資本主義capitalisme の鞭のもとに働く鎖につながれた諸国民」が後の用法に近いが、同年のマルクス・エンゲルス『共産党宣言』が告発したのは、「近代市民社会moderene burgerliche Gesellschaft」における「ブルジョアジーの時代の階級対立」であり、当時一般的だったのは、「市民社会」「近代社会」「市場」「自由競争」「私有財産制」等々であった。

 だから、マルクス『資本論』全三巻では、「資本家的生産」が一三二回、「資本家的生産様式」は二〇一回と頻出するが、「社会」の形容詞としてのkapitalistischeは一二回で、burgerlicheの一六回より少なく、「資本主義Kapitalismus」の語は、第二部でわずかに一度、概念的に規定せずに出てくるだけだ、という(重田澄男『資本主義の発見』御茶の水書房、一九八三年)。

 したがって、「資本主義」という体制概念に、マルクス『資本論』の影響が大きかったといっても、それが普及するのは、ジョン・A・ホブソン『近代資本主義の展開』(一八九四年)、ヴェルナー・ゾンバルト『近代資本主義』(一九〇二年)、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇四年)、特にゾンバルトの書物によってであった。「資本主義」は、「社会主義」の勃興と関わって、その対概念として、二〇世紀の政治文化のなかに定着したのである。

 それは、後のマルクス主義用語で言えば、すでに株式会社が普及して「資本家」の顔がみえにくくなり、産業資本に対する金融資本の支配が確立した、独占資本主義・帝国主義の時代に入ってからのことであった。「資本主義対社会主義」という思考そのものが歴史的であり、かつ、そこに「非和解的対立=戦争」のイメージが、オーバーラップしているのである。

 

  3 機動戦の時代

 

 機動戦としてのロシア革命

 「戦争の時代」を、社会主義思想の流れから忠実に体現したのが、ロシア革命の指導者ヴェ・イ・レーニンであった。「帝国主義戦争を内乱へ」「全権力をソヴェトへ」は、レーニン率いるボリシェヴィキ党の革命戦略であった。「社会主義」は、そこで国家となり、体制となった。

 第一次世界大戦は、バルカンの小国に発したとはいえ、ヨーロッパ全域を戦場にし、参戦諸国の民衆を動員した。「国民戦争」の性格は、フランス革命後のナポレオン戦争時から語られてきたとはいえ、クラウゼヴィッツのテーゼが最もよくあてはまるかのような「政治の延長」としての戦争イメージが、当事者たちにも、それに反対する国民国家内の平和勢力にも、浸透していった。

 マルクスの第一インターナショナルを引き継いで、晩年のエンゲルスが期待を寄せた第二インターナショナルは、たびたびの反戦決議にもかかわらず、いったん一九一四年に大戦が勃発すると、帝国主義国家内の多数派が「国民国家防衛」へと軸足を移した。そのなかの少数派、レーニンらロシアの急進的グループは、むしろ進んで「戦争状態」に介入し、「パンと平和」を訴えて兵士を組織した。

 それが、一九一七年一一月の武装蜂起と一八年一月の憲法制定議会解散により、ボリシェヴィキに勝利をもたらした。ひき続く内戦と干渉戦争も、赤軍の軍事力と「革命的テロル」で乗り切った。それは、国家権力の打倒・掌握という軍事的要請からすれば「革命的合理性」を持ったが、七四年後の倒壊時には、「クーデタ」の一種として振り返られるものとなった。

 ともあれ、この「戦争を内乱へ」の生成の論理は、「国際帝国主義の包囲」というその後のソ連邦存立の脆弱性と相まって、ロシア社会主義の歴史的展開に、つきまとうことになった。ボリシェヴィキは、第一次大戦後も「社会主義労働者インターナショナル」として生き残った第二インターナショナルに対抗して、「共産主義」の観念を再興して共産党と改称し、「社会主義」と「共産主義」を、ポスト資本主義の二つの歴史的段階に仕立て上げた。

 その思考を世界化した、第三インターナショナル(共産主義インターナショナル=コミンテルン)による世界革命の設計は、典型的な「機動戦」であった。プロレタリアの武装したソ連邦を根拠地に、世界に共産党という「軍事的規律」を持った「革命の前衛」を配置し、「革命戦略」を各国毎に位置づけ、労働組合から平和運動までを「戦術」の次元で指導し動員することをめざした。

 そのさい、フランス革命を範とした「ブルジョア民主主義革命」を、ロシア革命に表現される「プロレタリア社会主義革命」の前段階=下位におき、資本主義国の政治を侮蔑的に「ブルジョア民主主義」へ、ソ連邦の現実態を至高の「プロレタリア民主主義」へと階級還元主義的に「民主主義」を引き裂いたことが、一党制政治・スターリン独裁確立と相まって、「カルチャーとしての社会主義」に深い傷を負わせ、癒しきれないトラウマを残すものとなった。

 

 軍事技術の政治術への読み替え

 このロシアにおける革命の勝利は、イタリア・ファシズム期の革命家であるアントニオ・グラムシにとって、当初「資本論に反する革命」と把握され、後の『獄中ノート』で「機動戦(war of manoeuver)」と特徴づけられた。それは、ローザ・ルクセンブルグの「大衆ストライキ、党および労働組合」(一九〇六年)に示唆され、「軍事技術の概念」を「政治術」に読み替えたものだった。そしてその読み替えから、トロツキーの「永続革命」論を批判し、乗りこえようとするものだった。

 グラムシの「機動戦」とは、軍事的には、「戦争において敵軍要塞への突破口、すなわち自軍が奇襲して(戦略上)決定的な勝利もしくは少なくとも戦略方針において重要な成功を収めるのに十分な突破口を切り開く」ような、武装蜂起であり、奇襲であった(デイヴィド・フォーガチ編『グラムシ・リーダー』東京グラムシ研究会監訳、御茶の水書房、一九九五年、二七〇頁)。

 そして、「政治において、機動戦が存続するのは、決定的でない陣地の獲得が重要であるあいだ、したがってヘゲモニーと国家の全資源が動員されないあいだである。だが、なんらかの理由でこれらの陣地がその価値を喪失して、決定的な陣地のみが重要性をもつようになると、抑えつけられた困難な包囲戦に移行し、そこでは忍耐と創意精神という希有の資質が求められる。政治においてこの包囲は、形勢がどうであれ、相互的であり、優勢な側が自分たちの全資源を誇示しなければならないという事実からだけでも、彼らがいかに敵を重く見ているかがわかる」(二七六頁)。

 「だが」と、グラムシはいう。

「産業的および文明にもっとも発達した諸国家間の戦争において、機動戦は戦略的機能よりも戦術的機能に格下げ」された。「同様の格下げは、少なくとも『市民社会』がきわめて複雑で(恐慌や不況など)直接の経済的要素の破局的な『急襲』に耐える構造となっているもっとも発達した諸国家に関して、政治術および政治学のなかで生じるにちがいない。市民社会の諸々の上部構造は、現代の戦争における塹壕体系のようなものである」(二七二頁)。

 そしてそれは、「現代民主主義」と関わる。「『永続革命』の一八四八年定式は、政治学において、『市民的ヘゲモニー』の定式のなかで練り上げられ、乗り越えられた。軍事技術に生じたことが政治術において生じている。つまり、機動戦はますます陣地戦となり、国家は、平時において細心かつ技術的に陣地戦を準備するならば、戦争に勝利するといえる。現代民主主義の盤石な構造は、国家的諸組織としても、市民生活における諸組織の総体としても、政治術にとっては陣地戦における『塹壕』と前線での永久要塞のようになっている。すなわちそれは、かつて戦争の『すべて』であった運動の要素を、たんなる『部分的』なものにしている」(二七九頁)。

 

 4 陣地戦の時代

 

 東方の機動戦から西方の陣地戦へ

 では、グラムシのいう「陣地戦(war of position)」とは、何であったのか?

 軍事的には、「陣地戦は実際、正真正銘の塹壕だけで構成されるのでなく、配備された軍隊の後背領域の組織機構および産業機構の全体によって構成されているのである。また陣地戦は、突破や退却後、消耗物資をすみやかに補填しうる豊富な補給量によるばかりでなく、とりわけ、大砲・機関銃・小銃の急射撃力や、特定地点への舞台の集中度に左右される。もう一つの要素は、軍の陣容に参加し、きわめて非同質的な価値をもつ巨大な人間大衆(マス)である」(二七一頁)。ここには、まだ戦車も航空機も登場しないが、これを政治的に読み替えると、「国家=政治社会プラス市民社会、つまり強制の鎧をつけたヘゲモニー」という、かのグラムシ的国家概念の定式にいたる。

 ただしグラムシは、機動戦を陣地戦戦略の部分的戦術に「格下げ」しつつ保存したように、ローザやトロツキーを批判しながらも、レーニンとロシア革命には敬意を払い、理解を示した。「イリイチは、一九一七年に東方で適用されて勝利した機動戦から、西方で唯一可能であった陣地戦への転換の必要性を理解していたように思われる」と。それが、コミンテルンにおける「統一戦線」の定式化であった。以下の、グラムシのよく知られたテーゼは、それを踏まえて提示された。

 「東方では、国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった。西方では、国家と市民社会とのあいだに適正な関係があり、国家が揺らぐとただちに市民社会の堅固な構造が姿を現した。国家は前方塹壕にすぎず、その背後には堅固に連なる要塞とトーチカがひかえていた。もちろん、国家によって多少の違いはあったが、これはまさしく国民性の綿密な調査を要求していたのである」(二七四ー二七五頁)。

 グラムシのこの「機動戦から陣地戦へ」テーゼは、もともと、ロシア革命は成就したのにヨーロッパ諸国に広がる世界革命につながらなかったのはなぜか、という問題設定から、初期コミンテルンの「統一戦線」戦術の延長上で、思考されたものであった。だが、グラムシが「機動戦」の起点としたフランス革命の二百周年にあたる一九八九年東欧革命、九一年ソ連崩壊の後には、現存社会主義の市民革命による瓦解=「市民社会の復活」の文脈で、注目されるようになった。初期グラムシの「資本論に反する革命」テーゼと共に、「市民社会」の概念も、デモクラシーが成熟しない「東方」の国における「機動戦」的正面攻撃=「奇襲」型権力奪取の存続不可能・崩壊必然性の弁証に、用いられるようになった。

 

 陣地戦における社会民主主義の優勢

 だが、「陣地戦」の方は、どうであったのか? グラムシの想定したのは、「国家=強制の鎧をつけたヘゲモニー」の機能が教会や学校やさまざまな職能団体を通じて制度化しているもとで、マキアヴェリ的意味での「現代の君主」と理念化された共産党が、「市民社会」の「堅固に連なる要塞とトーチカ」に組織的に入り込み、そこで知的・道徳的ヘゲモニーを行使し、国家機能を転換しうるような、「大衆的前衛党」の構築であった。

 二〇世紀の歴史を階級論的に見た場合、この役割は、グラムシの期待した第三インターナショナル=コミンテルン系列の共産党によってではなく、レーニンからいったん「崩壊」を宣告された第二インターナショナル系列の社会民主主義によって、担われることになった。労働者階級の自己組織=労働組合を基盤として、「西方」の「国家と市民社会のあいだの適正な関係」のなかにトーチカを築いていったのは、社会民主党・社会党・労働党などと名称こそ異なるが、資本主義的市場原理の枠内で、選挙と議会を通じての社会改良を制度化していった、社会民主主義の流れであった。

 その現存社会主義に対抗しての「改良」が、第二次世界大戦後にヨーロッパ諸国で支配的になり、二〇世紀の労働者階級の獲得物として、二一世紀に受け継がれた。その社会民主主義的「陣地戦」が、当初は第三インター系列と同じく生産手段の国有化・公有化をめざしながら、選挙による議会多数派から政権に到達し、労働者や社会的弱者のための社会政策・セーフティネットを資本主義の中にビルトインして、第二次世界大戦後のほぼ二〇年間に、先進資本主義国家の一般的変容として、福祉国家を定着させた。それは、「デモクラシー=民主主義」を否定・軽蔑せず、「カルチャーとしての社会主義」に組み込んでいたがゆえに、現存社会主義の崩壊を尻目に陣地戦で橋頭堡を築き、「ヨーロッパ社会主義」「社会主義インターナショナル」として、生き残ることになった。

 現存社会主義は、ソヴェト型国家自体を陣地とし、資本主義国に「前衛」「斥候」を送り込んで社会民主主義を「改良主義・修正主義」と批判しながらも、自国の失業廃絶や労働者福利充実を唱えて、「労働者が主人公の国の真の福祉」をきわだたせようとした。しかしその内実は、政治犯の奴隷労働まで組み込んだ、一部の党官僚=ノーメンクラツーラによる特権的支配であったことは、世紀末には、白日のもとにさらされた。

 

 社会主義の陣地化・国家化のパラドクス

 丸山真男は、自分なりのマルクス理解から、こうした「社会主義の陣地化・国家化」に注意を促した。

「マルクスが疎外からの人間恢復の課題をプロレタリアートに託したとき、プロレタリアートは全体として資本主義社会の住人であるだけではなく、人間性の高貴と尊厳を代表するどころか、かえってそこでの非人間的様相を一身に集めた階級とされた。自己の階級的利益のための闘争が全人類を解放に導くという論理を、個人の悪徳は万人の福祉というブルジョアジーの『予定調和』的論理と区別するものは、ひとえに倒錯した生活形態と価値観によって骨の髄まで冒されているというプロレタリアートの自己意識であり、世界のトータルな変革のパトスはそこに根ざしていたのである。
もし『逆さの世界』は敵階級だけの、その支配地域だけの問題とせられ、世界のトータルな変革とは、人間性の高貴と尊厳をムム完全にではなくともムムすでに代表している己の世界が、他者としての『逆さの世界』をひたすら圧倒していく一方的過程としてのみ捉えるならば、それはマルクスの問題提起の根底にあった論理や世界像とはいちじるしく食いちがうことは明らかである。他者を変革する過程を通じて自らもまた変革されるし、されなければならないという痛いまでの自覚にかわって、そこにあるのは現実政治において昔ながらの通念になっている善玉悪玉の二分論と安易な自己正義感にすぎない。
社会主義の思想と運動が今日のように発展したことを人類のために祝福するものは、まさにそれゆえに、資本主義世界の内部の運動として出発したものが、その外部に巨大な権力を築き上げたところから来る問題状況の複雑化について、どんなに鋭い注意と周到な観察を働かせても、しすぎることはないだろう」(「現代における政治と人間」一九六一年、『現代政治の思想と行動』増補版、未来社、一九六四年、四九〇ム四九一頁)。

 

5 情報戦の時代

 

 グラムシの予見しえなかった戦争技術

 資本主義のもとでの政治を、生産手段の所有・非所有に根ざした、階級間の非和解的闘争に還元する俗流マルクス主義の立場からは、最終的には、ブルジョアジーの粉砕・打倒しかありえない。国家は階級支配の道具であるとする俗流国家論からすれば、プロレタリアート=労働者階級が、その「前衛」である共産党が国家権力を奪取して、旧支配者の財産を没収し、生産手段を国有化して計画経済を実行すればいい。その方途として、武装蜂起の機動戦か、議会の革命的利用による陣地戦かは別として、労働組合の職場闘争から「組織戦」を積み重ねることになる。グラムシにあってさえ、「ヘゲモニーは工場から生まれる」と想定された。

 しかし、二〇世紀の一つの特質は、政治が、そのような階級闘争の場=「戦場」に尽きないことが、明らかになったことである。

 戦争は、グラムシの死後の第二次世界大戦で、航空機による都市絨毯爆撃や、ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾にまで、暴力をエスカレートした。第二次世界大戦後には、「冷戦」型核兵器開発競争が常態化し、湾岸戦争のような電子情報機器を駆使した塹壕攻撃を可能にするにいたった。いいかえれば、グラムシの試みた「軍事技術の概念」の「政治術」への読み替えを、論理的に不可能にした。「政治の延長」での戦争は、人類絶滅、政治の死滅をも可能にする水準に達したのである。

 多木浩二が、世紀末の『戦争論』(岩波新書、一九九九年)において、二〇世紀のさまざまな戦争を回顧しながら、クラウゼヴィッツの「戦争は、別のかたちでの政治の延長である」というテーゼに疑問をもち、「戦争とは、政治、経済、文化等々がからみあっている歴史的な文明のどこかが崩壊したことではないのか」(五頁)と執拗に問いかける時、「ほんらい国家の政治とは、人間の社会生活を安定させるべく、社会的不平等や矛盾を調整するもの」(四一頁)という、古典古代以来の政治観が前提されている。「階級闘争」としてのマルクス主義的政治でも、「友敵関係」のなかでのカール・シュミット的「決断」政治でもなく、戦争そのものを否定しうるような、民衆のつくる政治、市民の自律的秩序形成、自己統治の政治である。

 二〇世紀に現存した社会主義の政治も、「戦争」になぞらえた政治のあやうさを、別のかたちで示した。すなわち、「労働者階級の権力」の頂点にたったものが、ほかならぬ労働者たちからの不満やサボタージュや、指導部内での異論に直面したとき、それは「外国帝国主義のスパイ」か「残存ブルジョアジー・富農の手先」と論理的に前提せざるをえず、それに「軍事的・組織的」に対応した極限状態が、スターリン時代の「粛清」であった。それは、同時代の資本主義の奇形児「ファシズム」に比しうる人間性の徹底的な暴力的破壊であったがゆえに、「カルチャーとしての社会主義」に、取り返しのつかない負荷を科した。

 資本主義国での核兵器の出現に対して、「社会主義防衛のための核兵器」「正義の核戦争」を対置した時、現存社会主義の文化的道義的頽廃は、極限に達した。もはや、グラムシ的「陣地戦」も、役割を終えていた。

 

 戦争の言葉で革命を語るということ

 したがって、アントニオ・グラムシの「機動戦から陣地戦へ」というメタファー自体、階級闘争の軍事化の時代、世界戦争が現実のものとなり、世界革命が夢想された時代の、歴史的所産であった。そもそも「戦争」のメタファーで政治を論じることに、いかなる意味があったのだろうか?

 「ファシズム対民主主義」の時代を、ドイツ、イタリアの同盟国の一員として体験し、日本の敗戦をヒロシマで迎えた政治学者、丸山真男は書き残した。

「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起せる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ平和の道徳的優越性がある。革命もまた戦争よりは平和に近い。革命を短期決戦の相においてだけ見るものは、『戦争』の言葉で『革命』を語るものであり、それは革命の道徳的権威を戦争なみに引下げることである」(「春曙帖」『自己内対話』九〇頁)。

 陣地戦についても、丸山の言説は、示唆を与える。

 「社会機構の相互依存性。有機性が高度になることは、一面では権力(政策決定力)がトップ・レベルに集中する傾向として現れるが、他面では、政治の特殊な領域というものが、ますますなくなって、社会的に、かつての政府の機能が拡大される。その後者の影響のために、社会や小集団のレヴェルにおける『小さな』権力関係の変動が、中央に甚大な影響を与えるようになる。──構造的改良の考え方は一つにはここから生まれた」(「一九六一年ノート」『自己内対話』四七頁)。

 ここでの「構造的改良」とは、日本におけるグラムシ思想導入期のキーワードで、レーニン主義的「奇襲」と対比しうる「分子的変化」の平和的累積を意味した。

 その変化は、グラムシにより、長期のヘゲモニー闘争、「受動的革命」と把握された。グラムシ・丸山の思考の延長上で、二〇世紀を見届けた革命家石堂清倫は述べる。

 「短期決戦的な行動によってつくられる制度は、生活の外からつくられるものであった、生活の中から生まれてくるものと性格が違うことは崩落したソヴィエトの社会生活をみればよくわかります。生活のなかからしみだしてくる諸要求が資本主義の生みだす欠陥を、あるものはとり除き、あるものは別の水路にみちびきいれる歴史的移行の長い過程と考えるならば、変革行為の形態論は、かならずしも本質規定にはならないのです」(『二〇世紀の意味』六八ー六九頁)。

 

 「ファシズム対民主主義」の教訓

 しかし、そうした陣地戦的状況も、一九八〇代には、新たな局面を迎えた。ヨーロッパの社会民主主義的福祉国家が、一九五〇・六〇年代の高度成長を経た後、多くの国々で経済危機、財政破綻を経験し、それは、福祉国家に内在するパターナリズム=庇護者国家的性格による、個人の自発性・イニシアティヴの抑圧によるものだ、と攻撃された。

 「イギリス病」や「スウェーデン病」の声高なきめつけのなかから、二一世紀に受け継がれる支配のイデオロギー=新自由主義が勃興してきた。しかもそれは、機動戦段階での左翼政党や労働組合活動への直接的抑圧によってではなく、むしろ選挙と議会を通じて「国民合意」をとりつける陣地戦的手法で、支配的なものとなった。イギリスのサッチャーリズムがその典型で、先駆であったが、アメリカのレーガノミクス、日本の中曽根内閣、西ドイツのコール首相も、同じ時期に、同じ方向へと歩み始めた。

 この新自由主義の登場の頃から、旧来の陣地戦型政治も、限界を露呈し始めた。テレビを中心にしたメディア政治が、組織と利益集団を基盤とした政党政治と併行し、それを補完するかたちで現れた。やがて、最大資本主義国アメリカ合衆国の大統領選挙キャンペーンは、政治信条や政策を訴える理念的政治から、イメージやシンボル操作で有権者を掌握する感覚的政治へと、変貌していった。グラムシに学んだスチュアート・ホールが、サッチャー首相登場を「権威主義的ポリュリズム」として注目したような、政治のアリーナ、政治スタイルの変化である。

 そうした変化の原型は、グラムシ「獄中ノート」の時代に、「ファシズム対民主主義」というかたちで、すでに胚胎していた。二〇世紀の歴史の中で、せいぜい一〇年という短い期間ではあったが、「資本主義対社会主義」を超える「ファシズム対民主主義」の時代があり、そこで文化的・文明的道義性をもちえた「民主主義」が勝利し得たことは、二一世紀の人類にとっての、貴重な歴史的遺産となった。ただし、「民主主義のための戦争」としてであり、「あらゆる戦争と暴力を廃絶するための民主主義」にはならなかった。

 

 大衆の登場、アウラの凋落

 その時代に、グラムシは、イタリア・ファシズムとの対決の中から、「ヘゲモニー」という本質的に文化的・倫理的概念を、政治のアリーナに登場させた。しかし、この領域での変化を、より人類史的射程で感得し、「カルチャーとしての社会主義」の運命に示唆を与えたのは、ドイツ・ファシズムの台頭で亡命を余儀なくされたユダヤ人、ヴァルター・ベンヤミンであった。

 ベンヤミンは、写真入り新聞や週刊ニュース映画の登場する時代に、ナチズムの台頭を目撃し、人類の知覚における「大衆の登場」と「アウラの凋落」を見いだした。

 「石版画が絵入り新聞の可能性を秘めていたとすれば、写真はトーキーの可能性を秘めていたわけだ。音の複製技術は、前世紀末に着手されている。つまり一九〇〇年を画期として、複製技術は、在来の芸術作品の総体を対象とすることにより、芸術作品の影響力に深刻きわまる変化を生じさせる水準にまで、到達したのだが、ことはそれだけに済まず、芸術家たちの行動のさまざまな在りかたのうちにも、複製技術はそれ自体、独自の場を確保する水準にまで、到達したのである」(ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」野村修訳、一九三六年、多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、所収、一三八頁)。

 それは、一回限りの存在というオリジナルの真正性と権威を揺るがし、「カルチャー」の時間と空間の存在様式を変えた。伝統的芸術作品の「アウラの凋落」を導き、秘教的な「礼拝的価値」を「展示的価値」に置き換えた。「写真が現れたことで、全戦線において展示的価値が礼拝的価値を駆逐しはじめる」(一五二頁)。「大衆が母体となって、現在、芸術作品にたいする従来の態度のいっさいは、新しく生まれ変わっている。量が質に転化している。関与する大衆の数がきわめて増大したことが、関与の在りかたを変化させてしまった」(一八一頁)。

 

 ベンヤミン以後の複製技術

 当時のベンヤミンはなお、ファシズム政治の倒錯した耽美主義・戦争賛美に対し、「現在の所有関係の廃絶をめざしているプロレタリア大衆」を対置することができた。ただし、そこで参照しえた「複製技術」は、せいぜいグラビア雑誌やトーキー付き映画の段階だった。確かにヒトラーのベルリン・オリンピックやチャップリンの「モダン・タイムズ」は、陣地戦の在り方を変貌させた。

 第二次世界大戦後は、その「複製技術」の精緻化・高速化・音声化が進み、ラジオ・テレビ・電話・ファクス・パソコン・インターネット・携帯電話と、視覚・聴覚・触覚の関係性、知覚とコミュニケーションの在り方を変容させるものとなった。「大衆にリアリティを適合させ、リアリティに大衆を適合させてゆく過程」(一四五頁)の進行であり、ハリウッド映画出身のレーガン大統領や「鉄のレディ」サッチャー首相に「大衆」がなびく、「カルチャーとしての政治」の台頭であった。

 そこでは、いったん築かれた陣地・要塞に、「敵」の広告やファッションがなんなく侵入し、身振り・演技のちょっとした失敗が、たちまち陣地の崩壊につながる。労働組合と強固に結びついて政権についたはずの社会民主主義=イギリス労働党が、足元の労働者「大衆」がサッチャーを支持しているのを見出し、イタリア・キリスト教民主党や日本の自由民主党が、長期の利益集団との恩顧主義的結合にもかかわらず、いやそれゆえに、幹部の汚職やスキャンダルの発覚で陣地を揺るがされる。情報公開のなかでの陣地戦は、かつてグラムシが「国民性の綿密な調査」を要求したように、情報収集・分析技術を不可欠にし、情報操作・メディア対策を不可避にした。

 そこに、一九八九年に東欧諸国で、九一年には発祥の地ロシアに及んだ、現存社会主義諸国、共産主義運動の崩壊である。グラムシもベンヤミンも見通しえなかったかたちで、「テレビ時代のフォーラム型革命」が実現した。世界史は、二百年前のフランス革命以来の混沌・再編期に入った。グラムシ、ベンヤミンの延長上でいえば、「情報戦」の時代の到来である。よりグラムシ的にいえば、それが「戦争」である限りで、「陣地戦」を戦略から戦術の領域に「格下げ」し、「機動戦」は戦術選択肢からはずさざるをえず、政治戦略も経済戦略も、「大衆の世論」をめぐる言説や文化の位相に設定されるような「戦争」である。

 「情報戦」は、言説(discourse)の闘争であり、コミュニケーションとシンボル・イメージの闘争である。「カルチャーとしての社会主義」は、機動戦の時代にはそれにふさわしい組織や機関紙を考案し「宣伝・煽動」した。世界各国に軍隊的規律を持つ共産党が創立され、ロシア革命の成果であるソビエト連邦が「万国の労働者の祖国」 =根拠地と夢想された。陣地戦の時代の組織も、演説に加えて「広聴・広報・広告」という言説を動員した。しかし、脱軍事化し、脱組織化した政治文化のアリーナにおける情報戦は、「民主集中制」のような機動戦的組織を有害無益にし、政党と労働組合との癒着のような陣地戦的組織化をも無効にした。「カルチャーとしての社会主義」にとって、ネガティヴ・キャンペーンや政党広告のほかに、いかなる戦略・戦術がありうるのか?

 

 情報戦の時代のヘゲモニー

 国民国家間関係での情報戦は、いったん「民族自決権」の名のもとに帝国主義・植民地主義に対抗し、「想像された共同体=民族・国民」のアイデンティティをめぐる、ナショナリズムのせめぎあいとされた。そのもとでの「陣地戦」は、「ナショナルなもの」をめぐる諸勢力のヘゲモニー闘争となった。

 この点については、あまたの「社会主義者」の議論よりも、「民主主義の名におけるファシズム」という朝鮮戦争当時の雑誌討論において、丸山真男が述べたことの方が、おそらく参考になる。「敵」の言説そのものの論理的・文脈的矛盾に内在し、言説のなかでヘゲモニーを貫くことである。

「今後の戦争は一面高度の機械戦であるとともに、他面ますます心理戦の要素が強くなるので、必ずしもイデオロギーや象徴の役割が低下するとは思えない。朝鮮事変を見ても、ある程度そういうことがいえるのじゃないかと思います。純粋の機械力の限界、純粋の物質力の限界ということです。……軍隊にとってイデオロギーが重要な要素であることには変りがないと思う。それは附け焼刃ではだめです。アメリカにしても、現在どんなに変質したとこで、やはり多年の伝統を背景にした『民主主義』というイデオロギーがある。現在の保安隊はどうか。ある旧軍人の話では、どうも『民主主義』では弱いので、やはり『郷土を守る』という郷土愛に訴えているということです。ところが郷土愛ということになると、全国くまなくちりばめられた米軍基地の存在と直接ぶつかって、このシンボルは弱くなる。自国民の基地反対運動に鉄砲を向けなければならぬというディレンマに陥るわけです」(『世界』一九五三年一〇月号、『現代政治の思想と行動』増補版、未来社、一九六四年、五二六頁)。

 ただしそれは、ベンヤミンがなお信じた理念的「プロレタリア大衆」ではなく、生身の「大衆」のアンビバレントな態度を前提とする。丸山は、一九六〇年安保闘争直後に述べた。

「現代の政治権力が巨大なマス・メディアを駆使して『民意』を画一化する傾向はすでにしばしば指摘されているが、権力のイデオロギー的宣伝はひとびとのイメージの積極的な形成力としては『限界』があるのであって、その意図も効果もむしろ対抗宣伝の封殺、あるいは好ましからざる方向からの通信、つまり『雑音』の遮断という点にある。……マス・メディアと支配層との利害同盟説、あるいは前者の『独自』権力説もステレオタイプの形成についてはすべてを語っているとはいえない。『世の中』イメージは、マス・コミを含めた意味での『上から』の目的意識的な方向づけと、ひとびとの『自我』がいわば自主的につくり出す『疑似環境』(リップマン)との複雑な相互作用による化合物にほかならない。……現代においてひとは世間の出来事にひどく敏感であり、それに『気をとられ』ながら、同時にそれはどこまでも『よそ事』なのである。自我の政治的『関心』は、『自分の事柄』としての政治への関与ではなくて、しばしば『トピック』への関心である。しかしそれは必ずしも関心の熱度の低さを意味しない。むしろ現代の『政治的』熱狂は、スポーツや演劇の観衆の『熱狂』と微妙に相通じているし、実際にも相互移行しうる性格をもっている。逆に無関心というのも、『自分の事柄』への集中でほかの事が『気にならない』ような無関心ではなくて、しばしば他者を意識した無関心のポーズであり、したがって、表面の冷淡のかげには焦躁と内憤を秘めている。現代型政治的関心が、自我からの選択よりも自我の投射であるように、現代型『アパシー』も、それ自体政治へのムムというより自己の政治的イメージへの対応にすぎない。政治的関心かアパシーかが問題なのではなく、政治的関心の構造が問題なのである」(「現代における人間と政治」一九六一年、『現代政治の思想と行動』増補版、未来社、四八三頁以下)。

 

6 民主主義の永久革命

 

 カウンター・カルチャーのアリーナ

  二一世紀の「情報戦」の世界では、エリック・ホブズボームが、「極端の時代=短い二〇世紀」と特徴づけたような、「資本主義と社会主義の対立」を基軸にした時代は、いまや「記憶」の片隅の、遠い昔の出来事のようである。二〇世紀をいろどる重要なサブカルチャーであった「社会主義」は、ヨーロッパではなお「社会民主主義」として勢力を保つとはいえ、日本語の言説政治上ではすでに埋葬されて、「物語」のなかに残照を残す。「カルチャーculture」のcultivate(耕作・栽培)能力喪失である。先進資本主義国では、二〇世紀末の最後の十年に、インターネットや携帯電話の新たなコミュニケーション手段が入り込み、アントニオ・グラムシが「機動戦から陣地戦へ」とのべた変化も、色褪せてきた。

 「陣地戦から情報戦へ」への新しい展開も、アメリカ国家安全保障局のグローバル盗聴装置「エシュロン」や、日本政府の「小泉内閣メールマガジン」二百万部の前では、再版「受動的革命」に組み込まれるのが、せいぜいのごとくである。そこでの批判的言説は、さしあたり「カウンター・カルチュア」としてしか展開しえないが、そのアリーナである「カルチャーとしての政治」は、どのように構成さるべきか?

 それは、戦争の時代の「資本主義対社会主義」ではなく、「デモクラシー=民主主義」を、戦争と暴力になじまないアリーナとして定着させていく政治である。国民国家間の関係を、民族自決に委ねるのではなく、非暴力のコミュニケーション、討論で律していくような政治である。一言で言えば、経済・社会・学問・芸術を横断する政治の、国境を越えた民主化である。

 二〇世紀には、民主主義さえも、戦争に従属され、国民国家の枠内に留められた。そのため第二次世界大戦は、「自由のための戦争」「民主主義のための戦争」となった。しかし「カルチャーとしての民主主義」は、「プロレタリア国際主義」とは異なるかたちで、核兵器廃絶や地球生態系維持、女性やこども・高齢者の人類史的解放にも、用いられ始めた。

 多国籍企業をエンジンにした資本主義のグローバル化は、膨大な移民・難民・外国人労働者をつくりだし、ナショナルなものの同質性を脅かし、地球上にさまざまな生活圏のモザイクを産みだした。それに対して、「西欧中心主義」「オリエンタリズム」への批判の中から、「異質との共存」「多文化主義」「共生」など、エスニック・ナショナルなものの新たなアソシアシオンとネットワークの原理が模索され始めた。従属論・世界システム論の問題提起は、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル・スタディーズに受け継がれ、グラムシの「サバルタン」概念が注目されて、地球的規模での貧困・福祉・ジェンダーギャップ・歴史記述が再審された。

 それは、あらゆる紛争の非暴力的・言説的解決という面からみれば、西欧民主主義の原点である「内面の自由」「相互承認」「寛容」の復権であり、二〇世紀後半の日本で試みられた「平和」と「民主主義」の関係の原理的組み替え・思想的接合である。

 そのアリーナでは、ナショナリズムも「革命」も、「戦争の時代」とは異なる新たな倫理的・道徳的動機付けを迫られる。いや、その言説がひとたび「民主主義」の土俵をはずれる時、一時的・局地的に「機動戦」を正統化しえても、長期の権力独占は困難になる。「利潤」や「開発」で動機づけられる経済活動も、政治の横断的媒介作用を受けて「経済民主主義」と接合し、「適者生存」「弱肉強食」の進化論的論理のみでは、もはや展開できない。国民国家単位である程度の「陣地戦」的合理化がなしえても、「民主主義の世界化」は、異質なものの共存・共生や平等互恵型投資を、道義的に強いるものになる。

 二〇世紀に飛躍的に広がった国際機関や国際法、情報交通網、NGO・NPOの「包囲戦」のなかで、国境を超えた活動も、自由・平等・公正・正義・連帯・平和・環境といった、普遍的価値へのコミットメントを迫られる。なお戦術的選択肢として残る陣地戦・情報戦は、デモクラシーの戦略に従属し、人間の尊厳と非暴力を原則とする。

 

 陣地なき時代の革命

 だからそれは、他者を「仮想敵」に設定したり、自己を「カリスマ」に仕立て上げても、たえず権力は拡散し、正統性がゆらぎ、「大衆の世論」に監視され包囲されるような政治である。塹壕やトーチカそのものが溶解・浮遊し、言説にさらされ再審されるような政治である。そこでの「革命」は、文化=カルチャーの領域にあり、「社会主義」はもとより、「資本主義」「社会民主主義」「民族自決権」さえも、安定的「陣地」を持たない。

 丸山真男の遺稿は語る。

 「社会主義について永久革命を語ることは意味をなさぬ。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義とは人民の支配ムム多数者の支配という永遠の逆説を内にふくんだ概念だからだ。多数が支配し少数が支配されるのは不自然である(ルソー)からこそ、まさに民主主義は制度としてでなく、プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである。『人民の支配』という観念の逆説性が忘れられたとき、『人民』はたちまち、『党』『国家』『指導者』『天皇』等々と同一化され、デモクラシーは空語と化する」(「春曙帖」一九六〇年八月一三日、丸山真男『自己内対話』五六頁)。

 「意味をなさぬ」の評言は、「資本主義」にもあてはまる。経済システムとしての資本主義ないし市場競争は、それ自体としては、予定調和的均衡・自己制御をもたらすものではない。民族自決・内政不干渉も、二〇世紀民主主義の中途半端な国民国家的妥協の所産であり、地球的規模での「平和」への途上にすぎない。「民主主義の永久革命」こそが、「二〇世紀社会主義」の遺産を引き継いで、その遺骸と墓標を乗り越えて、またそれを反面教師として、人類史の第三ミレニアムにサバイバルしうるのである。

 マルクス風にいえば、二〇世紀に、問題が問題として生起してきた。二一世紀の市民は、「すべてを疑え」の精神で、資本との情報戦のなかで自己の言説を研磨するばかりでなく、「仮想敵」をもたない「非暴力・寛容・自己統治」の政治にも、習熟しなければならない。

 

(本書のための書き下ろし、ただし冒頭部分に、「思想の言葉:短い二〇世紀の脱神話化」『思想』一九九九年一月号、の一部を使用)

 


加藤哲郎(かとう てつろう、katote@ff.iij4u.or.jp) 一九四七年/東京大学法学部卒業/一橋大学大学院社会学研究科教授、ネチズンカレッジ(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml )主宰/政治学・現代史研究/『コミンテルンの世界像』(青木書店)、『社会と国家』(岩波書店)、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)、『現代日本のリズムとストレス』(花伝社)他。


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