吉田悟郎「ブナ林便り」より 


<9月27日>

 アフガン・ラジオのホームページが見つかった。在米の Azadi Afghan Radio である。その目次に POETRY というのがあり、クリックしてみたら バハール・サイードというアフガンの詩人の詩篇が三篇 英訳で載っていた。詩篇の重訳は 難しく 原意をどこまでつかめるかは怪しいが、試訳してみた。

 

私は 耳にしました

バハール・サイード 詩

シェリフ・ファエズ 英訳

 

        これは わたしのくにで 耳にした ことです

        夜は 星々を 恐れます

        木々は 月を 恐れます

        昼は 太陽を 恐れます

        川は 水を 恐れます

 

        これは わたしのくにで 耳にした ことです

        希望は 経帷子(きょうかたびら)に 避難所を 求めます

        乞食たちは 腹ぺこの家々に 避難所を

        父親たちは とりいれどきに 休む 小麦の山の夢に

        母親たちは みなしごの前に 彼女らの 焼かれたレバーを さしだします

        そして 赤ちゃんたちは ミルクのかわりに 母親たちの胸を 噛みます

 

        わたしが 耳にした ことです

        家々は 傷つき

        壊れた 壁の傷跡を 隠す 人も いません

        そして 街路は 苦痛の 叫びを あげています

        爆弾やロケット弾の 轟音が

        窓ガラスを 枠(わく)ごと 打ち砕lきます

 

        わたしが 耳にした ことです

        冬と 雪と が

        氷の上に 書きました

        素裸の 人たちを 粉みじんに 砕く かれらの 誓いを

 

        わたしが 耳にした ことです

        若者たちは 果樹を 愛する ようになり

        そして 花嫁たちは 煤(すす)で 彼女たちの 両眼を 美しくします

 

        これは わたしが 耳にした ことです

        子羊は 草のかわりに 人の肉を 食べます

        そして 明日は 何も 意味しません

        一羽の 雌鳥(めんどり)が 卵を ひとつ 生もうと 思う 以外には     

 

 

国民の悲劇

バハール・サイード 詩

シェリーフ・ファエズ 英訳

 

        石の心臓部を 爆破したのは 誰か?

        すべての 家庭に 嘆きを まきちらしたのは 誰か?

 

        飢えた人々の ため息 − それでは 足りないと いうのか?

        素裸の足 − それでは 足りないと いうのか?

        引きちぎれた 手 ー それでは 足りない というのか?

         − ぴょんぴょん 飛んで歩く 若者では?

 

        犠牲者たちの 血 − それでは 足りないのか?

        近親を 失った 家族の 嘆き − それでは 足りないのか?

 

        あなたがたは 泥と 血の なかに

        わたしたちの 歴史と 文化を 汚そうと いうのか

        発射開始 と命じるのか

        この 比類なき 古代の 宝物に

        そして 時には わたしたちの 子供たちに

        それとも わたしたちの 祖先たちに

 

        人類の 悲しい 涙を 洗い流すことが できるのか

        不名誉にも 傷ついた このような 歴史から?

 

 

風 景

バハール・サイード 詩

シェリーフ・ファエズ 英訳

 

       花は 枝で 燃えている

       草原は また 青白く 変わってしまった

 

       煙が バラから 噴き出している

       香りを 失い

       火炎は またしても 庭を 呑みこんでしまった

 

       雨と 降る 弾丸の テロ から

       燕たちは また 庭から 飛んで 逃げ去っていく

 

       いたるところに つぼみと 枝が ばらまかれ

       血の 流れが また 庭に 溢れている

 

       この 血の 流れ出す 大地からは 嘆きだけが 芽生えてくる

       ケシは また 血の 匂いを 匂わせている

 

       わたしたちの くにの 春は 傷跡で 一杯だ

       これが 再び 弾丸の 雨の 降り注ぐ 景色 なのだ

 

★ 詩三篇の標題にある 英訳という文字をクリックすれば 原文の英訳に飛べます。

 


<11月5日>

 

風砂子アンジェリスさん『ベイエリア通信』3より

  

こどもがいる
爆撃のしたにこどもがいる
「戦争」のさなかにこどもがいる
あなかがすいて凍っていて
ただ逃げまどう
こどもがいる
 
1945年6月のある夜
おねえちゃんと手をつないで
焼夷弾の炎の海を
逃げまどったこどもは
わたしのなかでいまも
「戦争」と聞けばすぐ眼をさまし
身をつきさすような声で泣く
なぜ? なぜまた?
なぜ? なぜ止めないの?       

★ 風砂子アンジェリスさん・カリフォルニア州バークレー在住,『ベイエリア通信』3 より 引用。


                                                  <11月9日>

ミーナの詩(一部の訳)

I'LL NEVER RETURN

私は二度と戻らない

 

私は目覚めた女性
私は立ち上がり、私の子供たちが焼かれた灰を突き抜けて嵐になる
私の兄弟達の流した血から立ち上がった
この国の怒りが私に力を与え
略奪され、焼き払われた村むらが敵への憎悪を掻き立てる
ああ同士よ、私は今までの私ではない。
私の声は幾千もの目覚めた女性達の声に混ざり
私のこぶしは幾千もの同士と固く握りあう
奴隷の苦しみから解き放つために
私は目覚めた女性
自分のゆくべき道を見出し、二度と後戻りはしない
 

★ ミーナ(1957−1987)はカブールに生まれ、学生時代から社会運動・大衆運動に参加し、女性の組織化と啓蒙を進める活動に身を投じ、大学を中退、表現の自由・政治活動の自由を求め、1977年 RAWA (The Revolutionary Association of the Women of Afghanistan)の基礎を創った。彼女は、1979年ソ連・ロシア軍と傀儡政権に抵抗する運動に参加し、数々のデモや集会を学校やカブール大学で実施した。1981年には「女性へのメッセージ」という二ヶ国語の雑誌を創刊、女性解放を問いかけた。マタ、難民の子供達の学校を作り、難民女性が経済的に自立できるように病院や手芸学校を設立した1981年にはフランス政府の招きでフランス社会党大会でアフガン解放運動を紹介した。彼女の活発な反傀儡政権・反原理主義活動の活動で両者は脅威を感じ。ミーナの身辺は危うくなった。1987年2月4日、彼女はパキスタンの国境近くのクエッタでKHAD(KGBのアフガン支部)の暗殺者と原理主義の共犯者の手によって殺害された。



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