『社会体制と法』第3号(2002年5月)

Tetsuro KATO, Socialism and Democracy in Contemporary World: A Note of the International Symposium at Beijing University


現代世界の社会主義と民主主義──北京大学国際シンポジウムから見えたもの

 

 

加藤 哲郎(一橋大学、政治学)

 


 

1 はじめに──北京で考えたソ連崩壊後10年

 

 2002年1月末、厳寒の中国・北京泉山庄賓館で、ひょっとするとこれが最後になるかもしれないテーマでの、国際学術シンポジウムが開かれた。北京大学国際関係学院世界社会主義研究所が主催したもので、「冷戦後の世界社会主義運動」というものである。

 集まったのは、北京大学ほか中国主要大学の国際関係・社会主義研究者、中国社会科学院、中国共産党中央党学校・中央編訳局・対外連絡部のイデオロギー幹部たち百人近くで、外国人ゲストは、ロシアから『歴史の審判』(石堂清倫訳『共産主義とは何か』三一書房、1972年)のロイ・メドヴェーデフ博士、ドイツPDS(旧東独SEDの流れをくむ民主社会主義党)幹部のベルント・インマ、それに日本の政治学者である私の3人のみ、中国語を英語に通訳してもらっての討論参加であったが、ソ連崩壊後10年を経た中国での社会主義研究の現状に直接触れて、大変興味深いものであった。

 シンポジウムの表題が表すように、扱う領域は多岐にわたり、「世界の社会主義」と銘打ってソ連や東欧の経験にふれながら、中国の人々は自国の「民主化」や「市場経済」への教訓を導こうとしており、「運動」を中心にしながらも、理論や思想に関わる問題提起も数多くみられた。中でも、建国から文化大革命を生きながらえた中国共産党の古参イデオロギー幹部たちと、紅衛兵さえしらない若い研究者たちの討論が白熱し、この国の抱える大きな矛盾を、かいまみることができた。中国語と英語の案内を照合すると、以下のようなプログラムであった。帰国後に中国研究の同僚や中国人留学生に出席者リストを見てもらったら、どうやら中国共産党イデオロギー部門のキーパースンが勢揃いしていたようだ。報告集は、今年中には北京で刊行される予定だという。

開会 黄宗良(北京大学教授、世界社会主義研究所所長)
   越存生(北京大学教授、北京大学共産党委員会副書記)
   許振洲(北京大学教授、国際関係学院副院長)
 
第一セッション 冷戦後ロシアの社会主義運動
 ロイ・メドヴェーデフ(ロシア)「冷戦後ロシアの社会主義運動」
 姜長斌(中央党学校戦略研究所教授)「ソ連共産党とソ連邦崩壊の十大鍵問題」
 李興耕(中央編訳局研究員)「ロシアの中道主義」
 鄭異凡(中央編訳局研究員)「ゴルバチョフの社会主義観」
 叶自成(北京大学教授、国際関係学院外交学系主任)「ロシア共産党とその外交政策」
 左鳳栄(中央党学校戦略研究所副教授)「ロシア共産党の理論の変化」
 
第二セッション 冷戦後中東欧の社会主義運動
 馬細譜(社会科学院世界史研究所研究員)「冷戦後中東欧学者の社会主義に対する省察」
 金雁(中央編訳局研究員)「冷戦後東欧における社会党の特徴」
 高歌(社会科学院欧州研究所研究員)「東欧の転換期における民主主義的社会主義政党」
 自由討論「旧ソ連・東欧における社会主義運動の特徴と展望について」
 
第三セッション 冷戦後社会主義国家における改革開放
 王東(北京大学哲学系教授)「世紀転換期における中国的特色のある社会主義理論と体制の刷新」
 毛相麟(社会科学院アメリカ研究所研究員)「キューバにおける改革開放の歴史的過程」
 譚栄邦(中央党学校「理論戦線」編集員)「旧ソ連・東欧激変後の北朝鮮とラオスにおける社会主義の新たな模索」
 許宝友(中央編訳局副研究員)「ベトナムにおける革新開放」
 高放(中国人民大学国際関係学院教授)「厳しい改革を迫られている社会主義諸国家」
 缸伸雲(中央対外連絡部アフリカ局長)「冷戦後アフリカにおける社会主義」
 自由討論「社会主義国家の改革の現状と展望について」
 
第四セッション 冷戦後西側諸国家における社会主義運動
 加藤哲郎(日本)「日本の社会主義運動の現在」
 ベルント・インマ(ドイツ)「ドイツ民主的社会主義党(PDS)の現代的社会主義政党への転換過程」
 曹長盛(北京大学国際関係学院教授)「西欧社会民主党の理論と実践の新調整」
 殷叙弊(中央編訳局研究員)「フランス社会党の理論的変化」
 王学東(中央編訳局所長)「ドイツ民主主義的社会党の社会民主党化」
 劉東国(中国人民大学国際関係学院副教授)「冷戦後ヨーロッパの緑の党の発展と変化」
 自由討論「冷戦後欧米社会主義運動とその展望について」
 
第五セッション 冷戦後世界社会主義運動の現況と特徴
 喩遂(北京大学兼任教授、中央対外連絡部現代世界研究センター研究員)「旧ソ連・東欧激変後の社会主義に対する認識問題」
 周尚文(華東師範大学教授)「多極世界における発展可能領域」
 王振華(社会科学院欧州研究所員)「現代世界の矛盾と危機からみた社会主義の歴史的使命」
 自由討論
 
結語 黄宗良「転換期にある世界社会主義運動」

 

2 そもそも社会主義とは何か

   

 以上のプログラムの構成からもわかるように、中国の研究者が今日考えている「社会主義運動」とは、コミンテルンに発し瓦解した国際共産主義運動や旧ソ連・東欧諸国の共産主義の流れにとどまるものではない。むしろ、かつては「修正主義・改良主義」と批判・軽蔑してきた社会民主主義の諸潮流に注目し、その経験に真摯に学ぼうとしていることがわかる。その動機が、「社会主義」という理念(というよりタテマエ)と「市場経済」(というより実態としての資本主義)をどうおりあわせていくかという、鄲小平「改革・開放」政策以来の中国の現状にあることは、見易い道理である。実際WTO加盟を実現したうえで、なお「資本主義」ではなく「社会主義」を掲げ続けるためには、ロシア・ボリシェヴィキに発する共産主義の潮流の失敗を率直に認め、資本主義市場経済のもとで高度な生産力の再分配を労働者階級が獲得してきた社会民主主義の潮流に学ぶ以外にない。

 会議の冒頭から結語まで、長老幹部たちから繰り返し語られたのは、「この会議では、社会主義とは何かについて、あらかじめ定めることはしない。何が社会主義であるか自体についても、率直に議論しよう」というものだった。そのため、私のゲスト報告「日本の社会主義運動の現在」の以下の「まえがき」は、もともと私の報告が日本の社会主義の特殊性を扱うために、おそるおそるつけたものであったが、ほとんど抵抗なく受け容れられたばかりでなく、討論の中で、中央党学校姜長斌教授から、「われわれの使ってきたあらゆる概念を再吟味すること」「マルクス・レーニン主義というソ連で生まれたマルクス主義理解を克服すること」の必要性の根拠に、援用されることになった。

 「社会主義Socialism」とは、曖昧で論争的な概念である。私の理解では、それは、フランス革命の「自由・平等・友愛」理念を継承し、とりわけその「平等」理念を「財産共同体」として実現しようという、さまざまな思想および運動の総称で、もともと1820年代に英語でこの言葉が生まれたときには、まだ「資本主義Capitalism」という言葉はなかった。
 カール・マルクス『資本論』と第一インターナショナルの時代に、「社会主義」の担い手としての労働者階級、その運動としての労働組合・労働者政党が「発見」され勃興した。ただし、マルクスが「社会主義」という言葉を肯定的に使ったのはきわめてまれで、自己の理想を「共産主義Communism」ないし「協同社会Association」として述べる場合が圧倒的だった。マルクスは、「資本主義」という言葉もほとんど使わず、「資本家社会kapitalistische Gesellschaft」「資本家的生産様式」という形容詞形で用いた。
 しかし、20世紀に入ると、「資本主義対社会主義」という体制的対立概念として用いられるようになり、とりわけ1917年のロシア革命以後は、「社会主義」とは「共産主義」の低次の段階とされて、レーニンとボリシェビキの系譜を引く共産党の指導するプロレタリア独裁国家・社会体制、生産手段の国有化を基軸とした中央集権的計画経済体制と同義とされてきた。
 そのため「社会主義」の運動も、19世紀には広義の社会主義の一翼であった第二インターナショナル=社会民主主義の流れが、20世紀には、第三インターナショナル(コミンテルン)=共産主義の側から「資本主義国家体制内の改良主義、市場原理を認めた修正主義」として批判・軽蔑され、今日ヨーロッパ連合(EU)内で多数が政権にある社会民主主義政党、社会主義インターナショナルの流れは、「社会主義」=国際共産主義運動から排除されてしまった。
これは、21世紀の今日から見れば「大いなる失敗」であったが、20世紀の日本においても、「社会主義」とは、主としてコミンテルン=共産党系の思想・運動、およびソ連や東欧の「現存した社会主義Actually existed Socialism」の国家・経済体制と理解され、受容されてきたので、ここでは「日本の社会主義運動」を日本共産党を中心としたものとして扱い、日本の社会民主主義については、副次的にのみ扱うこととする。

 出席者の、とりわけ文革世代以上の幹部とおぼしき人々の報告・討論では、旧ソ連・東欧諸国共産党の経済政策上での失敗の指摘が相次ぎ、「社会主義を国有化と考えた過ち」が繰り返し述べられた。ただし「中央計画経済」そのものの問題を議論するものは少なく、「市場経済への混乱なき移行」を達成するために、ゴルバチョフのペレストロイカと1989年以降の東欧諸国の混乱を反面教師にして、なんとか「市場経済の発展と汚職・腐敗の排除」を二つながら実現させようとする意向が、ありありとうかがわれた。

 

3 現存社会主義はなぜ崩壊したか?

 

 したがって、第二の論点──ソ連・東欧社会主義はなぜ崩壊したかについては、スターリンの第一次五ヵ年計画の誤りは当然のものとされ、理論としてのスターリン主義も完全に否定された。レーニンと新経済政策(ネップ)の評価には微妙な違いがあるようであったが、それよりも討論が集中したのは、ゴルバチョフのペレストロイカの評価であった。

 メドヴェーデフ報告への質問も──私はロシア革命の意義、ソヴェトと憲法制定議会の関係やスターリン粛清の問題の議論を期待していたのだが──、1985ム91年のゴルバチョフの外交政策、とりわけ東欧諸国の民主化の動きを放任した点に集中した。ロシア語・中国語の二重の通訳を通しての聞き取りにくい英語であったためニュアンスは確言できないが、メドヴェーデフ博士も、ゴルバチョフは東欧「社会主義」防衛のために何らかの手をうつべきだった、と答えたようである。今日の中国共産党指導部にとっては切実な、「共産党一党支配のもとでの混乱なき民主化」にお墨付きを与えたかたちになる。天安門事件と同じ1989年の激動を、「東欧革命」と明確に述べたのは私の報告だけで、中国側の一般的規定は「激変」であった。

 しかしそうした方向には、中国の若手研究者たちのいくつかの報告が、内容的に根本的疑問を投げかけていた。ヨーロッパの社会民主主義や共産党支配崩壊後の東欧諸国での議論の紹介のかたちをとってではあるが、西欧では民主主義とは自由選挙と複数政党制として理解されていること、「リベラリズム(自由主義)」の概念が急速に拡がり支配的になっていること、東欧諸国の旧共産党は「共産主義」の旗を捨て「民主集中制」を放棄し「分派の自由」も認めることで社会民主主義政党として生き残ろうとしていること、等々の現況報告が相次いだ。

 圧巻は、ドイツPDS(旧東独地域の民主社会主義党)の現況についてのインマ報告に、「なぜPDSはSPD(社会民主党)に合流しようとしないのか」という質問が中国側から出され、インマ氏が、「PDSは政党であると同時に社会運動でもあろうとしている」と答えた時だった。インマ氏によれば、PDSは、社会内に多様な意見があることを前提としており、広い意味で「社会主義社会」を実現しようという政党としての目的を掲げていても、そのプロセスについては多様なあり方がありうる。そうした社会運動としての性格を保証するために、PDSは「民主集中制」型の集権的組織を採らず、むしろ党内「分派」を奨励して討論を活性化しようとしている、党指導部は2003年の綱領改正に向けて2001年に草案を発表したが、ただちに二つの対案が出され、現在三つの草案が党内で論議されている、すでに七つの党内グループから長大な意見が寄せられており、それらもすべて公開され、民主的に討論されている、と述べた時には、若い研究者は眼を輝かせ、古参イデオロギー幹部の何人かは渋い表情で、中国でも不可避になった世代の断絶が印象的であった。

 

4 市場経済の導入は民主化をもたらすか?

 

 このことは、第三の論点、社会主義にとって市場経済と共に民主主義が不可欠であるという前提にたって、中国の民主化をどのように考えるかという問題に直結する。古参幹部たちも、「民主主義」そのものは否定しない。「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」という階級的民主主義規定や、「プロレタリア独裁=プロレタリア民主主義」というレーニン以来の用法は、この会議では全く聞かれなかった。毛沢東の「新民主主義」にも言及がなく、毛沢東思想そのものが後景に退いたようである。

 それどころか、「レーニンも社会主義に民主主義は不可欠だと述べていた」とか「ローザ・ルクセンブルグはロシアの党の民主主義の問題を早くから指摘していた」と、日本で1970年代に議論されたようなマルクス主義文献学を動員する古参幹部の発言もあった。しかし、市場経済を急激に導入するとロシア・東欧のように社会が混乱するから、それをスムーズに秩序あるかたちで進めるのが共産党の使命であり民主化であると説明し、市場経済はやがては民主化をもたらすという楽観的見通しでお茶をにごそうとする。

 社会主義理論学会『21世紀社会主義への挑戦』(社会評論社、2001年)に収録された山口勇・凌星光両氏の論争論文によると、中国ではなお「国家独占資本主義」論が支配的な中で、凌氏らの「社会資本主義」論が注目されてきており、封建社会主義から市場社会主義にいたる二五種類の「社会主義」概念が提起されているということであったが、この2002年北京シンポジウムでの見聞の限りでは、もはや「国家独占資本主義」論風の伝統的マルクス主義経済学の延長上での現代資本主義分析もあまり論議されておらず、「社会資本主義」の概念は、デーヴィッド・コーツの資本主義の三類型論の中の一つとして、英米型市場主導資本主義、日仏型国家主導資本主義に対するドイツ・スウェーデン型の社会資本主義として紹介されていた。全体の議論は、中国風「市場社会主義」の世界市場参入・生産力拡大が、そのまま「社会主義の生命力」として弁証されている印象であった。

 この点では若手の研究者にも、ある種の「改革開放」幻想があり、市場経済化を急進的に推進することによって党内民主化や複数政党制が自動的に実現できるという「希望」=期待が感じられた。

 私は、20世紀日本の経験に照らして、経済的自由市場が政治的民主主義を直ちにもたらすものではなく、民主主義とは政治の領域における独自の課題であると強調した。また、共産主義政党が19世紀以来の社会民主主義の伝統の中からロシア革命期に「分派」として生まれ、1989年以降に再び社会民主主義の流れに回帰していったヨーロッパ(典型的にはイタリア)とは異なり、アジアには、もともと社会民主主義の伝統がなく、日本では社会党さえ共産党内「分派」から生まれてきた歴史的事情から、これまで国有化・市場経済廃絶を語ってきた共産主義政党が「社会主義」理念を保持して民主主義と折り合うのは難しいことを、率直に語った。

 私の報告に対する質問は、日本の共産党と社民党の関係や「社会主義」勢力の自衛隊政策等が多かったが、中国側にも「市民社会と公共性」「平等=機会均等ではなく公正・正義」や「メディアとインターネットの役割」「リバターリアンとコミュニターリアン」といった現代民主主義の論点に耳を傾ける姿勢がうかがわれて、今後の学術的交流の土台はできたと感じられた。

 

5 日本の社会主義運動の教訓

 

 結局、私にとって、この北京会議出席は、21世紀の中国と世界の社会主義の行方を示唆するものとなった。私自身は、日本共産党と社会民主党の系譜の現状と問題点を詳しく分析したうえで、以下のように総括した。

 日本共産党、社会民主党がなお政治勢力として存続しているとはいえ、日本における思想および運動としての社会主義は、21世紀の入り口で、風前の灯である。国家ないし経済体制に転化する可能性は、全くない。
 国民意識のレベルでみると、日本生産性本部の長期の世論調査で、1974年に「社会主義」志向が10%でピークに達したが、それでも「社会改良」志向57%、「現体制」支持17%には遠く及ばなかった。それが「経済大国」となった1980年には「社会主義」4%、「社会改良」35%、「現体制」37%まで後退し、「ベルリンの壁」崩壊後の1990年には「社会主義」1%、「社会改良」30%、「現体制」42%となって、「生活保守主義」「経済大国ナショナリズム」が支配的になった。知的世界でのマルクス主義・レーニン主義の凋落、とりわけ若い世代での「社会主義・共産主義ばなれ」とあいまって、将来にわたって「社会主義」が国民に受容される可能性は、ほとんどないように見える。
 1989年以降、旧ソ連の公文書館から日本社会主義の歴史についての秘密文書が現れて、日本共産党が「誇り」にしてきた戦前・戦後の党史についても、新しい事実が次々に発掘され、学問研究の対象となってきた。たとえば私自身がモスクワで発見したのだが、これまで存在が知られていなかった1922年9月日本共産党創設時の綱領がみつかり、創立時の党(第一次共産党)は、荒畑寒村・堺利彦・山川均らの指導する、むしろ戦後の日本社会党につながる流れであったことが判明した。1927年にコミンテルンから「27年テーゼ」を与えられるまでは、「天皇制」を問題にしていなかったこともわかった。かつて片山潜・野坂参三・山本懸蔵が加わってつくられたとされてきた「1932年テーゼ」作成に、日本人共産主義者はほとんど関与しなかったこと、1930年代後半の「スターリン粛清」の時期に当時ソ連にいた約80人の日本人が「スパイ」の汚名で逮捕され銃殺・強制収容所送りとなり、無傷で生き残ったのは戦後日本共産党の「顔」となった野坂参三のみであったこと、その野坂が生き残った理由は、「同志」であった山本懸蔵を批判・告発して自己保身をはかったためであったこと、等々が明るみに出て、日本共産党自身も、100歳を越えて「名誉議長」をつとめた野坂参三を除名せざるをえなかった。戦前・戦後の党資金の出所や、宮本顕治が1933年に関わった「スパイ査問致死事件」についても新たな史資料が出てきて、2002年夏の党創立80周年を前に、党史の再検討を迫られている。フランスで『共産主義黒書』が大きな話題になったように、ソ連・東欧の「現存した社会主義」の歴史に加えて、日本共産党の80年の歴史も、日本の社会主義運動にとっては「20世紀の負の遺産」となりつつある。
 イタリア共産党の場合は、こうしたコミンテルン的過去を清算して、左翼民主党=社会民主主義に変身し、フランス共産党も「自己批判」して、過去に党から追放・除名された人々を「名誉回復」し、復帰をよびかけることまで行った。しかし日本共産党はなお、そこまでコミンテルン的過去から脱皮することができず、党機関誌『前衛』の名前を変えることをいったん発表しながら、適当な代替案がなくて、なおそのままで存続している状態である。このような方向では、遅かれ早かれ日本の「社会主義」はいっそう衰退し、すでにゲットー化している現状から、脱する展望はない。

 

6 生産力の暴走を制御する社会主義

 

 中国側にとっても、別に「世界の社会主義」の一環として日本の共産党や社民党に期待しているわけではない。日本の軍国主義化やナショナリズム強化への抵抗力の出現を期待しているのである。

 私が報告の中で、アントニオ・グラムシがロシア革命型機動戦から西欧型陣地戦への転換を語ったことになぞらえ、現代民主主義政治を「陣地戦から情報戦へ」の移行としてとらえ、「インターネットは民主集中制を超える」と述べて9.11米国同時多発テロ以降のNGO・NPO・市民による平和運動に言及したところ、休憩時間にある古参幹部は、実は自分はインターネットで第四インターナショナルの拡がりを知り驚いた、この会議でトロツキー系の運動がとりあげられないのは問題だ、と語りかけてきた。私は、そのような意味では、ラテンアメリカの解放運動やNGOの反グローバリゼーション運動が視野に入っていないことこそ問題ではないかと答えておいたが、中国側の「社会主義」理解には、開発主義的・生産力主義的発想が根強いことが、気にかかった。

 また、せっかく西欧社会民主主義に注目しながら、それがケインズ主義的福祉(Welfare)国家段階の社会的弱者への再分配政策よりも、新自由主義段階のブレア=ギデンス「第三の道」風労働振興策(Workfare)であることも、気になった。事実、北京大学の若手研究者たちに聞いてみると、市場経済導入で所得格差・地域格差が劇的に広がっているばかりでなく、かつて「社会主義」として保証されていた住宅・医療・教育等での格差・階層化も、拡大しているという。

 だから私は、敢えてエコロジー運動や女性運動に言及し、「生産力の暴走制御」としての社会主義という持論を述べて、次のように報告を結んだ。 

 唯一の可能性は、冒頭にのべたフランス革命期までさかのぼって、広義の社会主義思想を、日本に再生させることである。しかしその場合は、「平等主義」だけではなく、「自由・友愛」も「人権・市民社会・民主主義・女性解放」をも包み込んで、現存資本主義社会へのさまざまな批判思想・運動を、自由に発展させることが必要になる。マルクスの19世紀資本主義批判は参照されるにしても、「階級闘争」唯一論や「労働者階級の前衛党」といった思考が、日本で生き残る可能性はほとんどない。むしろ、アメリカ資本主義中心のグローバリゼーションが進行するもとで、戦後日本でかろうじて培われてきた平和主義と民主主義、市民運動・女性運動やNGO・NPOにより形成されてきた自由で民主的な新しい国際連帯こそ、かつて「社会主義」とよばれた日本の批判思想が受け継ぎうる、20世紀の遺産となるだろう。
 この場合、理論的には、マルクス主義と関わる、二つの原理的問題がある。
 その第一は、生産手段の所有関係で規定される「階級」という社会的存在形態が、人間の「自由・平等・友愛」の実現のために、どのような意味を持つかという点である。第二は、社会主義は、人間が自然を改造しての生産力の無限の発展を前提にできるか、またすべきであるか、という問題である。
 19世紀の社会主義は「自由・平等・友愛」を求めて出発しながら、資本主義のもとでは生産力が十全に発展できないので社会主義にするという理論構成に向かい、20世紀には資本主義との体制間成長競争に入ったのだが、この100年の飛躍的な生産力発展と、その地球環境・生態系破壊、核兵器から遺伝子操作までの経験を踏まえると、無限の生産力発展のための社会主義という構想は、21世紀の人類にとっては、少なくとも発達した資本主義の世界では、魅力のないものになるだろう。
 もちろん実際の生産力発展の基礎には資本主義があり、マルクス『資本論』は、その蓄積メカニズムを原理的に洞察した「古典」である。しかしその資本主義も、20世紀に大きく変貌した。この問題を考えるためには、20世紀が人類史上未曾有の物質的生産力拡大の時代であり、地球環境・生態系破壊の時代であり、ホブズボーム流にいえば「極端の時代」であったことを、想起すべきである。それは、マルクスを含む19世紀社会主義者の想像を絶するものであった。市場と国家の関係も、資本主義の発展そのものによって、相互依存的なものになった。社会主義者の構想した市場経済の国家的規制・計画化は、ケインズ主義の時代に資本主義そのものにもビルトインされて、労働者の貧困や失業の問題も、社会保障や福祉国家によって補われるようになった。
 むしろ問題は地球大に広がって、「顔の見える資本家」から株式会社、所有と経営の分離、法人資本主義へと脱人格化した資本が、国境を超えて世界市場を支配する多国籍企業となり、国家間・国民社会間の格差を大きく拡大した。レーニン『帝国主義論』は、かつて「独占資本主義」のもとでの「労働者階級の買収=労働貴族」を説明し、帝国主義世界戦争の不可避を説いたが、今日の世界経済の生産統合は、むしろカウツキーの「超帝国主義」に近い。その南北格差は、「民族自決権」による旧植民地の国家的独立では「国民経済の自立」を許さないほどに深化し、深刻化している。1997年のアジア金融危機は、そのことを如実に示した。アメリカ中心のグローバリゼーションである。
 いわば、20世紀資本主義主導の国家と経済の相互浸透と、国民国家単位での地球的領土分割の完了が、ソ連型「現存した社会主義」の国有化・計画経済構想を、後発発展途上国の「開発独裁」の一類型と再把握させ、その生産力的パーフォーマンスの貧しさゆえに、「社会主義」そのものを、魅力ないものとした。「後発工業化」「開発独裁」の原型とみなしても、日本型高度成長や東アジア工業化モデルという、別のかたちがありえたことになる。「資本主義のもとでの社会主義革命から共産主義へ」の唯物史観の想定が、「社会主義による近代化を経て資本主義へ」のモデルに変換されると、発達した資本主義国での「社会主義」は、いよいよ魅力のないものとなる。
 国民経済内部に立ち入っても、「現存した社会主義」の国有化や中央指令型計画経済は、直接生産者に「労働の喜び」をもたらすものではなく、むしろ労働者階級の利益を潜称し「代行」した党=ノーメンクラツーラ層の、非効率で無責任な経済運営を横行させた。情報独占と政治的民主主義の欠如のもとでは、生産指標の改竄やサボタージュが労働者の無言の抵抗であった。逆に高度経済成長を達成した日本では、環境破壊や労働災害も極端で、「過労死」とよばれる働き過ぎの突然死さえ経験して、「ゆとり」や「アメニティ」が切実に求められるようになった。
 しかし、19世紀社会主義にまで遡ってみると、そこには、産業化・工業生産力発展そのものに疑問を持ち、職人的小生産社会・農耕共同体に「自由・平等・友愛」の原型をみる思想も含まれていた。エンゲルスにより「ユートピア社会主義」とされた流れがそうである。日本でマルクスの「協同社会Association」概念が注目されているのも、「資本主義の生産力と生産関係の矛盾=社会主義による生産力解放」よりも、「労働の疎外克服」や「人間主義=自然主義」に社会主義の原像を見いだそうという、原点への回帰である。無論そこには、20世紀科学技術・生産力発展のもたらした環境・生態系破壊、生命・人間性破壊への危機意識が投影されている。いわば、20世紀型生産力発展へのブレーキ、人間的歯止めとして、社会主義思想を再興しようという志向である。
 この点では、社会主義を、むしろ科学技術と生産力を人間的に制御する思想として鋳直すことが必要だろう。 その関連で、「労働を通じての解放(Arbeit Macht Frei)」というナチスの強制収容所にもかかげてあった思想を、再吟味する必要がある。労働者が生産過程における直接生産者であり生産力の本来の担い手だから人類解放の主体たりうる、機械制大工業のもとで潜在的には全面的に発達した個人になり経済も政治も制御できるようになるといった観念を、20世紀資本主義の現実的展開に照らして、考え直す必要がある。
 私自身は「脱労働の社会主義」と言っているが、古代ギリシャのポリス市民まで遡らずとも、近代社会の歴史的展開に即してみても、「労働時間を通じての解放」よりも「自由時間を通じての解放」が、「労働による解放」ではなく「労働からの解放」という視点が、必要だと思われる。ハンナ・アレントやユルゲン・ハーバーマスは、それを労働laborと仕事workと活動actionの区別と連関、道具的・技術的コミュニケーションから批判的・理性的コミュニケーションによる公共圏構築へという論理で説いてきたが、社会主義思想の出発点における平等主義的で共同的・友愛的なオリエンテーションを考えれば、こうした大胆な発想の転換が必要と思われる。
 ただしこの面でも、「現存した社会主義」は、反面教師である。自由と民主主義はもとより、環境保護や人間性尊重ではミゼラブルであった。メドヴェーデフ教授が先駆的に分析し、ソルジェニツィンらが告発してきたように、1930年代後半のソ連の大粛清期には、全労働力の1割近くが強制収容所の奴隷労働に従事していたから、一方でノーメンクラツーラ特権層の跋扈する経済的不平等社会であったばかりでなく、西欧の歴史学のいう「奴隷包摂社会」でもあった。強制収容所の奴隷労働力は、白海運河建設やシベリア開発に動員されて、ソ連型計画経済にビルトインされていた。
 そして、そもそも「世界ブルジョアジー対世界プロレタリアート」というコミンテルン的階級闘争図式は、宗教や民族や階級内の社会層(階層)を、生産手段の所有・非所有に還元してすべてを階級関係に従属させることで、現実の20世紀の歴史的展開には、無力だった。ましてや、女性の解放を階級闘争に従属させてきた点で、政治的に誤っていた。今日では、国家主義の延長上で地球的プロレタリア独裁・集権的計画経済を夢見るよりも、ローカルなコミュニティでAssociationを構想し、そのネットワーク型共生のなかで多国籍企業や国家への抵抗を考える方が、はるかに社会主義的である。いいかえれば、政治的民主主義と市場経済を前提とした、「国家中心主義」に対する「社会中心主義」ないし「市民社会主義」としての社会主義である。
 「現存した社会主義」の歴史的教訓の一つは、思想の自由・文化的多元主義が、社会主義にとって不可欠だということであった。それは、社会主義の定義そのものにも適用されねばならない。「何が社会主義であるか」をも、後世の歴史の審判に委ねる、思想的寛容が必要である。
 その意味で、日本の社会主義はいったん自然死し、新たな名前で再生することが、課題となっている。中国の皆さんとの日中戦争の「自己批判」をふまえた連帯は、その不可欠の条件のひとつなのである。 

 全体テーマの性格上、台湾・香港の社会運動やチベット問題等中国国内の少数民族問題は、扱われなかった。北朝鮮の飢餓状況・個人独裁の問題性も、テロリズムとの闘争におけるアメリカとの政策協調も、自明のものとされているようだった。だが、本来の社会主義とは、そうした問題でこそ試されるのではないかというのが、中国の現実とイデオロギーの様変わりを五年ぶりで見ての、偽らざる印象だった。

        (かとうてつろう、一橋大学大学院社会学研究科・政治学)



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