北京大学国際関係学院世界社会主義研究所シンポジウム「冷戦後の世界社会主義運動」(2002年1月25日ム27日、北京泉山庄賓館)

『葦牙』第28号(2002年7月)所収


 

日本の社会主義運動の現在

JAPANESE SOCIALIST MOVEMENT TODAY

 

 

加藤哲郎(一橋大学教授・政治学)

Tetsuro KATO

Professor of Political Science

Graduate School of Social Sciences

Hitotsubashi University

Kunitachi, Tokyo 186-8601, Japan

Tel & Fax +81-42-580-8276

E-mail:  katote@ff.iij4u.or.jp

URL: http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.html


 1.はじめに──「社会主義」と「共産主義」

 

 「社会主義Socialism」とは、曖昧で論争的な概念である。私の理解では、それは、フランス革命の「自由・平等・友愛」理念を継承し、とりわけその「平等」理念を「財産共同体」として実現しようという、さまざまな思想および運動の総称で、もともと1820年代に英語でこの言葉が生まれたときには 、まだ「資本主義Capitalism」という言葉はなかった。

 カール・マルクス『資本論』と第一インターナショナルの時代に、「社会主義」の担い手としての労働者階級、その運動としての労働組合・労働者政党が「発見」され勃興した。ただし、マルクスが「社会主義」という言葉を肯定的に使ったのはきわめてまれで、自己の理想を「共産主義Communism」ないし「協同社会Association」として述べる場合が圧倒的だった。マルクスは、「資本主義」という言葉もほとんど使わず、「資本家社会kapitalistische Gesellschaft」「資本家的生産様式」という形容詞形がほとんどだった 。

 しかし、20世紀に入ると、「資本主義対社会主義」という体制的対立概念として用いられるようになり、とりわけ1917年のロシア革命以後は、「社会主義」とは「共産主義」の低次の段階とされて、レーニンとボルシェビキの系譜を引く共産党の指導するプロレタリア独裁国家・社会体制、生産手段の国有化を基軸とした中央集権的計画経済体制と同義とされてきた。

 そのため「社会主義」の運動も、19世紀には広義の社会主義の一翼であった第二インターナショナル=社会民主主義の流れが、20世紀には、第三インターナショナル(コミンテルン)=共産主義の側から「資本主義国家体制内の改良主義、市場原理を認めた修正主義」として批判・軽蔑され、今日ヨーロッパ連合(EU)内で多数が政権にある社会民主主義政党、社会主義インターナショナルの流れは、「社会主義」=国際共産主義運動から排除されてしまった 。

これは、21世紀の今日から見れば「大きな失敗」 であったが、20世紀の日本においても、「社会主義」とは、主としてコミンテルン=共産党系の思想・運動、およびソ連や東欧の「現存した社会主義Actually existed Socialism」の国家・経済体制と理解され、受容されてきたので、ここでは「日本の社会主義運動」を日本共産党を中心としたものとして扱い、日本の社会民主主義については、副次的にのみ扱うこととする。

 

2.ポスト冷戦期の日本共産党 

 

 1989年の「ベルリンの壁」崩壊と91年のソ連解体で、世界の共産党は、消滅の一途を辿っている。旧来のコミンテルン、コミンフォルムの伝統を引いた国際共産主義運動は、基本的に消滅した。北欧、イギリス等では共産党が自主解散し、イタリア共産党は左翼民主党に変身して、社会主義インターナショナルに加盟した。かつての「モスクワの長女」フランス共産党は、スターリン主義的過去を自己批判し生き残ろうとしているが、3分の2の党員を失い、弱体化した。アジア、ラテンアメリカにはいくつかの共産党が生き残っているが、アフリカでは、ソ連の援助で作られた共産党のほとんどが消えた 。

 その中で、なぜ発達した資本主義国である日本で、共産党が生き残り得たのだろうか。これは外国からみると、奇妙な状況だろう。しかし、これにはいくつかの根拠がある。

 第一に、1960年代前半から、日本共産党が、ソ連や中国の共産党と論争して距離を置き、「自主独立」の姿勢をとってきた経緯がある。そして70年代のユーロコミュニズムの時代に、イタリア共産党などと同様、ある程度柔軟な政治路線で議会や選挙に参入しながら、階級政党から国民政党への転換の準備をしてきた。そのため、日本共産党はソ連や中国の共産党とは違うというイメージが広がって、1989年の天安門事件や東欧革命、91年ソ連崩壊のショックを、最小限に留めることができた。 

 第二に、冷戦崩壊と同時に、日本の政治状況が大きく変わった。戦後日本は自由民主党が長期に支配してきたが、冷戦崩壊後の保守の分裂で政党再編が進み(日本では「1955年体制の崩壊」という)、1994年には、日本社会党が自民党と連立政権を組んだ。そのさい、それまで「社会主義」をかかげ野党的政策を貫いてきた日本社会党が、社会民主党と改称、日米安保条約や自衛隊の容認へと大きく政策転換した。社会民主主義──社会主義インターナショナル内の最左翼──に属した日本社会党が、事実上解体した。その中で、かつての日本社会党の支持者の一部(つまり旧来の伝統的革新層、あるいは日本の特殊な政治環境のもとでの「戦後民主主義」派、日本国憲法絶対擁護派)が、日本共産党支持へと移ったのである。

 数字の上で見れば、1996年衆議院選挙(総選挙)で共産党24議席・比例区選挙727万票・得票率13.1%で、旧日本社会党の左派の一部が残った社会民主党は11議席・355万票・6.4%であった。2000年総選挙では共産党が20議席・比例区672万票・得票率11.2%に減って、社民党が19議席・560万票・9.4%と増えた。1998年参議院選挙で、共産党は15議席・比例区820万票・得票率14.6%、社民党5議席437万票7.8%を記録したが、2001年参議院選挙では、共産党5議席・比例区433万票・7.9%、社民党3議席・363万票・6.6%まで、両党とも激減した。

 これらの数字は、共産党と社民党の票を足しても、冷戦時代の社会党と共産党を加えた票(例えば1972年総選挙で、社会党1148万票21.9%、共産党570万票・10.9%、合計1718万票・32.8%)には遠く及ばないから、日本全体の右傾化の中で、かろうじて残っている高年齢の旧左翼・伝統的革新層が、共産党や社民党を支え、時々に票を分けあっているといえる。

 第三に、地方政治では、共産党は全国に約28000の支部(かつての細胞)があり、自民党より多い4400人の地方議員(内1300人が女性)を持ち、無所属を除くと第1党になっている。105の自治体では議会内与党になっている。これは、地域活動に熱心な共産党議員個人への支持であるため、かならずしも共産党支持ではなく、ましてや社会主義・共産主義思想への支持には直結しないが、少なくとも社会生活に身近な存在として、国民に定着してきたことを意味する。いわば、地域社会の「護民官」としての共産党である。

 第四に、共産党組織の内部では、戦後長い間党の指導を独占してきた宮本顕治が1997年に退陣し、不破哲三議長のもと、志位和夫委員長ら若い世代にリーダーシップが移ったことである。この新指導部が、旧来の硬直した組織の在り方を多少とも柔軟にする姿勢に乗り出している。たとえば90年代以降、党内抗争やそれによる除名や排除が、少なくとも表面には出なくなった。最高時の1980年48万人から現在38万人へと党員数を減らし、機関紙『赤旗』購読者数も最高時1982年の355万部から現在公称200万部へと読者を減らしているが、今日の日本共産党は、いわばスリム化して、指導部に忠実な層だけを統合する組織を作り上げている 。

 

3.日本共産党の自己矛盾

 

 しかし、以上に述べた存続理由の全てが、実は同時に、日本共産党に自己矛盾と衰退をもたらす要因にもなっている。

 第一に、日本の政治状況との関連では、階級政党から国民政党への路線転換に矛盾がある。1997年の第21回党大会では宮本顕治が退陣し、不破哲三に指導権が移ると共に、21世紀の早い時期に民主連合政府を樹立すると宣言した。政権に近づくために、西欧の社会民主党が経験したような政策の穏健化・国民化が必須になってきた。2000年の第22回党大会規約改正では、「前衛党」や「日本人民」といった旧来のマルクス主義用語・左翼用語を削って、「国民政党」になると公約した。しかしそうすると、大きな支持基盤である旧来の左翼や伝統的革新層からの批判が避けられない問題が出てきた。

 政策上は実際、穏健化・国民化の方向に、舵がきられている。たとえば1999年、不破委員長(当時、2000年第22回大会で議長就任)は「暫定政権論」において、日米安保条約の問題は暫定政権下では棚上げにするとし、また国会の首相指名では、2回目の投票で野党第1党の民主党管直人に投票した。日本が異常事態に陥った時には自衛隊に頼ることもありうるとも明言した。

 東ティモール問題で民兵に対する多国籍軍の介入を黙認し、かつての湾岸戦争時に比べ、国際的な紛争への対応も変わった。北朝鮮船が日本領海内に入った時も自衛艦出動を容認し、2001年9月11日以後の小泉内閣によるテロリズム対策法案の審議においては、対テロ特別措置法や自衛隊法改正には反対しながら、海上保安庁法改正案には賛成した(社民党はすべて反対)。

 資本家団体の会合に出席し、自民党の幹部とも積極的に話し会うようになったから、自衛隊の海外派兵問題についても、かつてとは異なる態度を示す可能性を秘めている。旧来の社会党・共産党の支持層には、日本国憲法第9条の絶対平和主義・戦争放棄擁護、日米安保条約と自衛隊に対する反対が強いだけに、党内からも指導部に反対する意見が出ている。

 第二に、戦前からの日本共産党の最大の特色であった、天皇制への態度が変わってきている。共産党が地方議会に進出して、地域社会に密着すればするほど、「草の根保守主義」やナショナリズムとの妥協を強いられる。現在でも党綱領は将来の天皇制廃止を掲げているが、1999年の「日の丸・君が代」を国旗・国歌にする法案の問題について、共産党は「国民的討論の下で法制化されるならば、受け入れてもいい」と表明した。これは日本共産党にとって、戦前天皇制に反対してたたかい、多くの党員が治安維持法で弾圧されてきた伝統からいえば、奇妙な態度であった。事実、当時の野中広務官房長官は、共産党の表明を聞いて「これなら日の丸・君が代の法制化が可能だと思った」と語っている。2001年の皇太子家の女児誕生にあたっては、妊娠判明時に共産党市田書記局長が「喜ばしくめでたいことである」とコメントして多くの党員・支持者を驚かせた。12月の出産時には、志位委員長が「新しい生命の誕生は等しく喜ばしい」とコメントし、国会の祝福決議にも賛成した。ここから、2003年までには開催される予定の次の党大会での党綱領改訂では、従来とは大きく異なる展望が出されることは、まちがいないだろう。

 注意すべきは、階級政党から国民政党への転換が、日本共産党の場合、ナショナリズムと結びついて、日本国家や日本国民というシンボルを積極的に取り入れながら進められている点である。西欧の社会民主主義のように、労働者階級から中間層へと支持を広げていく方法とは、異なっている。

 第三に、党の指導理論を、かつての「マルクス・レーニン主義」の呼称を1970年代に「科学的社会主義」と改め「プロレタリア独裁」を放棄しても、なお「マルクス主義」の系譜であると名乗ってはいるが、マルクス主義理論の学習は党内で重視されず、理論と政策とのつながりも弱まってきている。

 戦後の日本では、戦前侵略戦争に反対した日本共産党の道義的権威があり、その理論的支柱となった、いわゆるコミンテルン「1932年テーゼ」「講座派マルクス主義」の知的影響力が、知識人・学生の中に根強かった。このマルクス主義理論への信仰が、日本共産党や社会党の支持への背景にあったのだが、そうした知的権威は高度経済成長の時代に衰退し、1989年東欧革命・冷戦崩壊、91年ソ連解体で、最終的に失われた。かつて日本の大学の経済学部では、近代経済学とマルクス主義経済学の双方を学べるよう講義が準備されていたが、今ではマルクス主義を学ぶコースのほとんどが廃止された。

 そこで日本共産党も、宮本顕治の時代には「スターリンは悪かったがレーニンは正しかった」というスタンスを保っていたが、不破哲三はレーニンを公然と批判し始め、同時に党員や知識人にマルクス主義の正統的解釈をおしつけることをやめてしまった。これは、共産党により介入・統制されてきたマルクス主義研究の世界にとっては歓迎すべきことであるが、若い時にマルクス主義を学んで社会主義や共産党を支持してきた人々にとっては、とまどいをおぼえるものであった。共産党自身が、党綱領になお残る「社会主義」や「革命」について語ることがほとんどなくなり、共産党と対立していたいわゆる「新左翼」グループも弱体化・高齢化して、日本の社会主義・共産主義思想は、崩壊寸前にあるのである。

 第四に、インターネットや携帯電話の普及など、かつてイタリアのアントニオ・グラムシが、ロシア革命型「機動戦」から西欧市民社会型「陣地戦」への転換としてのべた階級闘争型政治の構造転換が、今日では「陣地戦」から「情報戦」へと新たな転換期を迎え、ボリシェヴィキの「鉄の規律」やコミンテルンの「民主集中制」で統制されてきた秘密主義的・閉鎖的な組織は、時代遅れになった 。共産党や社民党も大きなホームページを持っているが 、インターネット上では「さざなみ通信」という党内反対派の大きなホームページ が匿名で公然と指導部を批判しているし、「JCP Watch」という党内外の人々が共産党について討論するホームページ もある。党機関紙『赤旗』を読まなくてもホームページで党の動向や政策はわかるから、わざわざお金を払って購読する必要もない。

 共産党指導部は、一時反対派の「さざ波通信」を批判し弾圧しようとしたが、その言論抑圧がインターネット上で話題になり、やめざるをえなかった。私自身「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」という大きな個人ホームページを持っており 、『朝日新聞』紙上で「インターネットは民主集中制を超える」と述べたことがあるが 、このように情報公開と知る権利が保障される「情報戦」の時代になると、共産党・前衛・赤旗・民主集中制・査問・書記局・同志といったコミンテルンの伝統に由来する名称は、秘密主義的で旧ソ連的な否定的シンボルとみなされ、再考を余儀なくされる。労働組合運動が衰退し、日本最大の労働組合である自治労(全日本自治体労働組合)で幹部の汚職も明るみになるなかで、「労働者階級」「階級闘争」といったマルクス主義用語は、社会科学の世界からも消え去ろうとしている。

 第五に、日本共産党の外交政策にも変化が見られる。これまでの共産党は、アメリカ帝国主義に反対し、国際共産主義運動に依拠して国際連帯を進める、「プロレタリア国際主義」と「共産党間外交」が中心であった。ところが冷戦崩壊と共に、世界のほとんどの共産党が崩壊したため、保守勢力や外国政府にも積極的にアプローチするようになった。90年代半ばには、韓国や中国に機関紙特派員を置き、東南アジアの権威主義的諸国家にも不破委員長(当時)が訪問、アメリカの政治家とも積極的につきあおうとした。しかしこれも、伝統的革新層にはとまどいがある。共産党が非合法化されているマレーシアやシンガポールにでかけて、その国の政治指導者と友好的対話を持つことへの批判が、党員のなかから出ている。 

 第六に、国内外の市民運動やNGO・NPOとも繋がりを持つようになってきた。平和・人権擁護や福祉の拡充を主張しながら、市民運動や社会民主主義勢力と結びつく基盤もできてきている。ただしこれが日本の政治を大きく変革する力になったり、国際的な社会主義、共産主義運動の復興に繋がることはありえないだろう。共産党の方はNGOや市民運動に近づこうとしても、かつて共産党の「引きまわし」「フラクション活動」を経験した市民運動の側は、共産党を信頼していない。2001年9月11日の米国同時多発テロ以降の日本では、とりわけインターネットを用いての市民やNGOの平和運動が大きく発展したが、共産党系列のいわゆる大衆団体である労働組合、日本平和委員会、日本原水協(原水爆禁止日本協議会)などは、ほとんど重要な役割を果たすことはなかった 。

 けっきょく共産党は、主として国会・地方議会において、今の日本で急速に進んでいる右傾化の流れに、ある程度の歯止めをかける抵抗勢力にとどまる。

 第七に、組織内部で深刻なのは、平均年齢が50歳代になる党員の高齢化と、世代交代の遅れである。民主青年同盟という共産党系の青年組織は、1970年代のピーク時20万人からいまや2万人にも満たない勢力となった。それも共産党員の子弟が多いといわれる。かつて党員や支持者を大量に供給した学生運動は、いまや大学ではほとんど見られず、もちろん共産党も影響力を持てなくなった。世論調査でも、共産党への強い支持は、老人たちからのものである。

 しかもこのまま方向転換すると、伝統的支持層のなかの、かつて共産主義や社会主義を夢見てきた人々の支持をも失うことになる。指導部は、現時点での政策転換を、民主主義革命から社会主義革命への「二段階革命」における「民主主義革命」の一環であると説明しているが、「社会主義革命」については、ほとんどふれなくなった。政策転換しないと若い世代に近づくことができず、しかし実際の支持基盤は高齢化した伝統的左派であるため、イタリア共産党型の党名変更のような大きな舵取りはできずに、ジレンマのなかにある。

 

4 社会主義運動の展望と課題──20世紀日本の教訓

 

 このように、日本共産党、社会民主党がなお政治勢力として存続しているとはいえ、日本における思想および運動としての社会主義は、21世紀の入り口で、風前の灯である。国家ないし経済体制に転化する可能性は、全くない。

 国民意識のレベルでみると、日本生産性本部の長期の世論調査で、1974年に「社会主義」志向が10%でピークに達したが、それでも「社会改良」志向57%、「現体制」支持17%には遠く及ばなかった。それが「経済大国」となった1980年には「社会主義」4%、「社会改良」35%、「現体制」37%まで後退し、「ベルリンの壁」崩壊後の1990年には「社会主義」1%、「社会改良」30%、「現体制」42%となって、「生活保守主義」「経済大国ナショナリズム」が支配的になった 。知的世界でのマルクス主義・レーニン主義の凋落、とりわけ若い世代での「社会主義・共産主義ばなれ」とあいまって、将来にわたって「社会主義」が国民に受容される可能性は、ほとんどないように見える。

 1989年以降、旧ソ連の公文書館から日本社会主義の歴史についての秘密文書が現れて、日本共産党が「誇り」にしてきた戦前・戦後の党史についても、新しい事実が次々に発掘され、学問研究の対象となってきた。たとえば私自身がモスクワで発見したのだが、これまで存在が知られていなかった1922年9月日本共産党創設時の綱領がみつかり、創立時の党(第一次共産党)は、荒畑寒村・堺利彦・山川均らの指導する、むしろ戦後の日本社会党につながる流れであったことが判明した。1927年にコミンテルンから「27年テーゼ」を与えられるまでは、「天皇制」を問題にしていなかったこともわかった。かつて片山潜・野坂参三・山本懸蔵が加わってつくられたとされてきた「1932年テーゼ」作成に、日本人共産主義者はほとんど関与しなかったこと、1930年代後半の「スターリン粛清」の時期に当時ソ連にいた約80人の日本人が「スパイ」の汚名で逮捕され銃殺・強制収容所送りとなり、無傷で生き残ったのは戦後日本共産党の「顔」となった野坂参三のみであったこと、その野坂が生き残った理由は、「同志」であった山本懸蔵を批判・告発して自己保身をはかったためであったこと、等々が明るみに出て、日本共産党自身も、100歳を越えて「名誉議長」をつとめた野坂参三を除名せざるをえなかった。戦前・戦後の党資金の出所や、宮本顕治が1933年に関わった「スパイ査問致死事件」についても新たな史資料が出てきて、2002年夏の党創立80周年を前に、党史の再検討を迫られている。フランスで『共産主義黒書』が大きな話題になったように、ソ連・東欧の「現存した社会主義」の歴史に加えて、日本共産党の80年の歴史も、日本の社会主義運動にとっては「20世紀の負の遺産」となりつつある 。

 イタリア共産党の場合は、こうしたコミンテルン的過去を清算して、左翼民主党=社会民主主義に変身し、フランス共産党も「自己批判」して、過去に党から追放・除名された人々を「名誉回復」し、復帰をよびかけることまで行った。しかし日本共産党はなお、そこまでコミンテルン的過去から脱皮することができず、党機関誌『前衛』の名前を変えることをいったん発表しながら、適当な代替案がなくて、なおそのままで存続している状態である。このような方向では、遅かれ早かれ日本の「社会主義」はいっそう衰退し、すでにゲットー化している現状から、脱する展望はない。

 唯一の可能性は、冒頭にのべたフランス革命期までさかのぼって、広義の社会主義思想を、日本に再生させることである。しかしその場合は、「平等主義」だけではなく、「自由・友愛」も「人権・市民社会・民主主義・女性解放」をも包み込んで、現存資本主義社会へのさまざまな批判思想・運動を、自由に発展させることが必要になる。マルクスの19世紀資本主義批判は参照されるにしても、「階級闘争」唯一論や「労働者階級の前衛党」といった思考が、日本で生き残る可能性はほとんどない。むしろ、アメリカ資本主義中心のグローバリゼーションが進行するもとで、戦後日本でかろうじて培われてきた平和主義と民主主義、市民運動・女性運動やNGO・NPOにより形成されてきた自由で民主的な新しい国際連帯こそ、かつて「社会主義」とよばれた日本の批判思想が受け継ぎうる、20世紀の遺産となるだろう。

 この場合、理論的には、マルクス主義と関わる、二つの原理的問題がある 。

 その第一は、生産手段の所有関係で規定される「階級」という社会的存在形態が、人間の「自由・平等・友愛」の実現のために、どのような意味を持つかという点である。第二は、社会主義は、人間が自然を改造しての生産力の無限の発展を前提にできるか、またすべきであるか、という問題である。

19世紀の社会主義は「自由・平等・友愛」を求めて出発しながら、資本主義のもとでは生産力が十全に発展できないので社会主義にするという理論構成に向かい、20世紀には資本主義との体制間成長競争に入ったのだが、この100年の飛躍的な生産力発展と、その地球環境・生態系破壊、核兵器から遺伝子操作までの経験を踏まえると、無限の生産力発展のための社会主義という構想は、21世紀の人類にとっては、少なくとも発達した資本主義の世界では、魅力のないものになるだろう。

 もちろん実際の生産力発展の基礎には資本主義があり、マルクス『資本論』は、その蓄積メカニズムを原理的に洞察した「古典」である。しかしその資本主義も、20世紀に大きく変貌した。この問題を考えるためには、20世紀が人類史上未曾有の物質的生産力拡大の時代であり、地球環境・生態系破壊の時代であり、ホブズボーム流にいえば「極端の時代」であったことを、想起すべきである 。それは、マルクスを含む19世紀社会主義者の想像を絶するものであった。市場と国家の関係も、資本主義の発展そのものによって、相互依存的なものになった。社会主義者の構想した市場経済の国家的規制・計画化は、ケインズ主義の時代に資本主義そのものにもビルトインされて、労働者の貧困や失業の問題も、社会保障や福祉国家によって補われるようになった。

むしろ問題は地球大に広がって、「顔の見える資本家」から株式会社、所有と経営の分離、法人資本主義へと脱人格化した資本が、国境を超えて世界市場を支配する多国籍企業となり、国家間・国民社会間の格差を大きく拡大した。レーニン『帝国主義論』は、かつて「独占資本主義」のもとでの「労働者階級の買収=労働貴族」を説明し、帝国主義世界戦争の不可避を説いたが、今日の世界経済の生産統合は、むしろカウツキーの「超帝国主義」に近い。その南北格差は、「民族自決権」による旧植民地の国家的独立では「国民経済の自立」を許さないほどに深化し、深刻化している。1997年のアジア金融危機は、そのことを如実に示した。アメリカ中心のグローバリゼーションである。

いわば、20世紀資本主義主導の国家と経済の相互浸透と、国民国家単位での地球的領土分割の完了が、ソ連型の「現存した社会主義」の国有化・計画経済構想を、後発発展途上国の「開発独裁」の一類型と再把握させ、その生産力的パーフォーマンスの貧しさゆえに、「社会主義」そのものを、魅力ないものとした。「後発工業化」「開発独裁」の原型とみなしても、日本型高度成長や東アジア工業化モデルという、別のかたちがありえたことになる。「資本主義のもとでの社会主義革命から共産主義へ」の唯物史観の想定が、「社会主義による近代化を経て資本主義へ」のモデルに変換されると、発達した資本主義国での「社会主義」は、いよいよ魅力のないものとなる。

国民経済内部に立ち入っても、「現存した社会主義」の国有化や中央指令型計画経済は、直接生産者に「労働の喜び」をもたらすものではなく、むしろ労働者階級の利益を潜称し「代行」した党=ノーメンクラツーラ層の、非効率で無責任な経済運営を横行させた。情報独占と政治的民主主義の欠如のもとでは、生産指標の改竄やサボタージュが労働者の無言の抵抗であった。逆に高度経済成長を達成した日本では、環境破壊や労働災害も極端で、「過労死」とよばれる働き過ぎの突然死さえ経験して、「ゆとり」や「アメニティ」が切実に求められるようになった 。

 しかし、19世紀社会主義にまで遡ってみると、そこには、産業化・工業生産力発展そのものに疑問を持ち、職人的小生産社会・農耕共同体に「自由・平等・友愛」の原型をみる思想も含まれていた。エンゲルスにより「ユートピア社会主義」とされた流れがそうである。マルクスの「協同社会Association」概念が注目されているのも、「資本主義の生産力と生産関係の矛盾=社会主義による生産力解放」よりも、「労働の疎外克服」や「人間主義=自然主義」に社会主義の原像を見いだそうという、原点への回帰である。無論そこには、20世紀科学技術・生産力発展のもたらした環境・生態系破壊、生命・人間性破壊への危機意識が投影されている。いわば、20世紀型生産力発展へのブレーキ、人間的歯止めとして、社会主義思想を再興しようという志向である。

 この点では、社会主義を、むしろ科学技術と生産力を人間的に制御する思想として鋳直すことが必要だろう。 その関連で、「労働を通じての解放(Arbeit Macht Frei)」というナチスの強制収容所にもかかげてあった思想を、再吟味する必要がある。労働者が生産過程における直接生産者であり生産力の本来の担い手だから人類解放の主体たりうる、機械制大工業のもとで潜在的には全面的に発達した個人になり経済も政治も制御できるようになるといった観念を、20世紀資本主義の現実的展開に照らして、考え直す必要がある。

 私自身は「脱労働の社会主義」と言っているが、古代ギリシャのポリス市民まで遡らずとも、近代社会の歴史的展開に即してみても、「労働時間を通じての解放」よりも「自由時間を通じての解放」が、「労働による解放」ではなく「労働からの解放」という視点が、必要だと思われる。ハンナ・アレントやユルゲン・ハーバーマスは、それを労働laborと製作workと活動actionの区別と連関、道具的・技術的コミュニケーションから批判的・理性的コミュニケーションによる公共圏構築へという論理で説いてきたが、社会主義思想の出発点における平等主義的で共同的・友愛的なオリエンテーションを考えれば、こうした大胆な発想の転換が必要と思われる 。

 ただしこの面でも、「現存した社会主義」は、反面教師である。自由と民主主義はもとより、環境保護や人間性尊重ではミゼラブルであった。メドヴェーデフ教授が先駆的に分析し、ソルジェニツィンらが告発してきたように 、1930年代後半のソ連の大粛清期には、全労働力の1割近くが強制収容所の奴隷労働に従事していたから、一方でノーメンクラツーラ特権層の跋扈する経済的不平等社会であったばかりでなく、西欧の歴史学のいう「奴隷包摂社会」でもあった。強制収容所の奴隷労働力は、白海運河建設やシベリア開発に動員されて、ソ連型計画経済にビルトインされていた。

 そして、そもそも「世界ブルジョアジー対世界プロレタリアート」というコミンテルン的階級闘争図式は、宗教や民族や階級内の社会層(階層)を、生産手段の所有・非所有に還元してすべてを階級関係に従属させることで、現実の20世紀の歴史的展開には、無力だった。ましてや、女性の解放を階級闘争に従属させてきた点で、政治的に誤っていた。今日では、国家主義の延長上で地球的プロレタリア独裁・集権的計画経済を夢見るよりも、ローカルなコミュニティでAssociationを構想し、そのネットワーク型共生のなかで多国籍企業や国家への抵抗を考える方が、はるかに社会主義的である。いいかえれば、政治的民主主義と市場経済を前提とした、「国家中心主義」に対する「社会中心主義」ないし「市民社会主義」としての社会主義である。

 「現存した社会主義」の歴史的教訓の一つは、思想の自由・文化的多元主義が、社会主義にとって不可欠だということであった。それは、社会主義の定義そのものにも適用されねばならない。「何が社会主義であるか」をも、後世の歴史の審判に委ねる、思想的寛容が必要である。

 その意味で、日本の社会主義はいったん自然死し、新たな名前で再生することが、課題となっている。中国の皆さんとの日中戦争の「自己批判」をふまえた連帯は、その不可欠の条件のひとつなのである。



研究室に戻る

ホームページに戻る