社会主義理論学会総会講演原稿 「葦牙」 第31号(2005年7月)掲載  

 

 

社会民主党宣言から日本国憲法へ

――日本共産党22年テーゼ、コミンテルン32年テーゼ、米国OSS42年テーゼ

 

 

加藤哲郎(一橋大学)

 

 


 一 はじめに――この報告の二つの視角

 

 「日本の社会主義 百年」とは?

 本日のテーマは「日本の社会主義 百年」です。社会主義理論学会に集う研究者・活動家の皆さんには違和感があると思いますが、私の報告では、従来の日本社会運動史・社会主義論史や、日本資本主義論争・日本マルクス主義史の系譜とは全く異なる形で、二〇世紀前半における日本社会のトータルな批判的認識と変革像の流れの、暫定的総括を試みたいと思います。

 マルクス・レーニン主義的な社会主義革命を志してきた人々にとっては、一九〇一年の「社会民主党宣言」などいわゆる初期社会主義や、議会政策・直接行動論の論争、アナ・ボル論争などは運動の「前史」であり、「本史」は、コミンテルン系譜の日本共産党創立から始まる。そのコミンテルン日本支部=日本共産党の一九二二年「日本共産党綱領草案」、「二七年テーゼ」、「三二年テーゼ」と『日本資本主義発達史講座』、人によってはさらに三六年「日本の共産主義者への手紙」の戦略構想を振り返り、戦後の綱領論争へと辿るのが、こうした報告のかつての定番でした。

 それはちょうど、一九一七年のロシア革命から人類の「本史」と資本主義の全般的危機が始まり、第二次世界大戦後に東欧・アジアへと広がり、地球の三分の一が社会主義国になった、といった人類史・世界史の展望(全般的危機論)と一対で、照応していました。こうした見方と展望は、一九八九年東欧革命から九一年ソ連崩壊で、破綻しました。

 この系譜の前提した「民主主義革命から社会主義革命への二段階革命戦略」を、今日振り返って奇妙なのは、「君主制=天皇制廃止」を、ブルジョア民主主義革命という低次の段階の、それも入り口に位置づけていたことです。絶対王制を倒したフランス革命や、ツアーリ専制打倒で始まったロシア革命からの類推でしたが、その先にあるとされた生産手段の国有化・社会化は、日本でも、戦時統制経済や戦後改革、官僚主導の経済計画によって、部分的に実施されました。ただし、暴力革命にせよ平和革命にせよ、想定されていた「プロレタリア独裁」はもとより、「人民民主主義権力」も、選挙・政党政治レベルでの権力転換にも、ほとんど近づくことはありませんでした。こうした戦略的展望の変遷を、今日の時点で吟味するのが、この報告の第一の視角です。

 

 「日本民衆の獲得成果 百年」では?

 第二は、社会主義・共産主義党派の戦略・戦術ではなく、二〇世紀の日本民衆の大多数が夢見た、よりよき社会とその実際、二〇世紀に日本民衆の獲得した果実の方から、社会主義を考えることです。

 私は、二〇世紀前半の日本における最大の政治変革と所産は、米軍占領下の日本国憲法制定と、それに関連した一連の改革であったと思います。しかもそれは、コミンテルン=日本共産党系譜が民主主義革命の出発点と想定した「天皇制廃止=共和制」は達成されず、象徴天皇として残しました。しかしそれは、主権原理を転換して民主主義革命の実質を成し遂げ、「平和主義」という、一九〇一年社会民主党創立宣言に副次的に孕まれていながら、その「社会主義を経とし、民主主義を緯として」の影に隠れて忘れられてきた「第三の原理」を、中核に据えるものでした。

 戦後六〇年とは、「三二年テーゼ」や日本資本主義論争の頃に、明治維新ははたしてブルジョア革命だったか否かと振り返って論争したくらいの長さです。今日の大学教育では、コミンテルンの「三二年テーゼ」も、講座派・労農派の日本資本主義論争も、教えるのが困難になってきています。むしろ、戦後改革と日本国憲法の成立史を説明し、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』風に、たんなる占領下の「おしつけ憲法」ではなく、自由民権運動・大正デモクラシー・民間私擬憲法案の流れ、朝鮮・中国・世界民衆と連帯する流れも四六年憲法に合流したことを説くのが、せいいっぱいです。

 コミンテルンの時代には、一九三五年の第七回世界大会まで、「平和主義」は「ブルジョア平和主義」として、否定的意味合いで用いられていました。革命のイメージが「帝国主義戦争を内乱へ」というレーニン型、ロシア革命型でしたから、「平和主義」はむしろ、「第二インターの裏切り」の一部でした。戦争の不可避性を見抜けぬ、誤ったマルクス主義理論の産物とされたのです。ところが現時点で振り返ると、民衆の素朴な願いとしての社会民主党宣言の「平和主義」こそ、日本国憲法に直結するものとして先駆的でした。

 

 「三二年テーゼ」を相対化する「二二年テーゼ」「四二年テーゼ」

 そこで本報告は、この十年に私が発掘してきた新史料のなかから、戦後日本の社会主義者を長く拘束してきた「三二年テーゼ=絶対主義的天皇制」説の呪縛を解くために、その十年前の一九二二年九月に創設されたばかりの日本共産党が国内で作成したが、コミンテルンにより承認されなかった荒畑寒村・堺利彦・山川均による「日本共産党創立綱領」を「二二年テーゼ」とよび、社会民主党宣言の延長上に位置づけます。

 これは、ブハーリンのコミンテルン世界綱領草案に付されたいわゆる「二二年日本共産党綱領草案」とは異なるもので、私が九六年にモスクワの旧ソ連共産党コミンテルン史料館、現在の国立社会政治史史料館(ルガスピ)で発見し、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』の一九九八年一二月・九九年一月号に解読して発表し、関連資料を、九九年八月・九月号に紹介してあるものです。

簡単には、社会主義協会での山川均生誕百周年記念講演「二〇世紀日本の社会主義と第一次共産党」(『月刊社会主義』二〇〇四年二月)でも述べ、インターネット上にも公開してあります(http://homepage3.nifty.com/katote/22program.html)。

 もうひとつ、「三二年テーゼ」の十年後の日米戦争勃発時に、戦時アメリカの情報機関戦略情報局(OSS)が、米国政府・軍・学界の総力を挙げて作成した対日戦略「日本プラン」、特にその中の一九四二年四月の戦後日本改革構想を「四二年テーゼ」として取り上げ、これが戦後の日本国憲法制定に大枠を与えたことを検証します(加藤『象徴天皇制の起源』平凡社新書、二〇〇五年七月、その前に雑誌『世界』二〇〇四年一二月号に発表した「一九四二年六月米国『日本プラン』と象徴天皇制」参照、インターネット上ではhttp://homepage3.nifty.com/katote/JapanPlan.html、米国国立公文書館所蔵)。

 それらが、二〇世紀日本社会主義の起点であった社会民主党宣言の「民主主義・社会主義・平和主義」の三大目標に照らしてどうであったのか、二〇世紀日本の最大の変革=民主主義革命であった日本国憲法制定にどう作用したかを検討します。

 

 「占領下民主革命」と「天皇制民主主義」

 なお、米国OSS「日本計画」を敢えて「四二年テーゼ」としてここにおくのは、戦後CIAの前身とされる戦時OSSが、当時の米国在住反ナチ亡命者、社会主義・共産主義者、日系米国共産党員を含む「反ファシズム・反日本軍国主義」闘争を反映しており、ソ連・中国を含む連合国による世界変革戦略の一部だったからです。戦後日本について、象徴天皇を利用した国民統合と資本主義的「自由と繁栄」を論じていて、三六年の野坂参三・山本懸蔵「日本の共産主義者への手紙」とよく似た、立憲君主制資本主義構想=「天皇制民主主義」(J・ダワー)を早くから提示していました。また延安の野坂参三らも組み込んで、日本国憲法に実質的枠組みを与えました。日本共産党の夢見た「占領下平和革命」以前に、米国占領軍によって「革命」が遂行されたのです(上記史料・文献は報告者の個人ホームページ「ネチズンカレッジ」にファイルと画像が入っている)。

 つまり、この報告では、「革命」は共産党・社会党などの党派や統一戦線など、社会主義・共産主義勢力が指導し中核でなければならないという「前衛党」的前提はとりません。第二次世界大戦後の東欧諸国で起こったことは、日本の「占領下民主革命」とよく似た、「設計され輸出された革命」でした。一九八九年に東欧諸国で起こったことは、私が当時「東欧市民革命」「テレビ時代のフォーラム型革命」と呼んだように、前衛党も恒常的指導部もなく、民衆がさまざまな抵抗・反乱の力を結集して政治体制を変革した「革命」でした。

 かつて鶴見俊輔等「思想の科学」研究会の人々が、「転向」概念の共産党的・政治的用法を希釈して分析的概念にしたように、「社会主義」とか「革命」という概念も、それにあこがれた人々の思い入れや熱情はそれとして、そろそろ歴史的概念として再構築すべきではないかと思います。そういう意味を込めて、敢えて、一九〇一年「社会民主党宣言」の再評価、米国「四二年テーゼ」の意義、日本国憲法による民主主義革命、それにより定着した「天皇制民主主義」という問題を提起したいと思います。

 

二 「天皇制民主主義」と社会主義

 

 天皇を「好感」する平成民主主義

 先ほど山泉進さんの報告で、「明治社会主義、大正デモクラシー、昭和マルクス主義」という、わかりやすい三題話がありました。では「平成」は、何になるんでしょうか? 「新自由主義」や「経済大国ナショナリズム」では、うまくつながりませんね。「平成市民運動・NGO」では、二〇世紀の社会主義は何だったのかになりますね。

 私たちは元号は嫌いですが、元号の区切りで考えることは、意外に重要な問題です。日本の民衆意識が、それに規定されているのですから。

 昨二〇〇四年の末に、NHKが一九七三年以来五年ごとに三十年以上も続けている大規模な継続的世論調査、『現代日本人の意識構造』第六版が出ました(NHKブックス)。そこで大きな変化があった項目のひとつが、天皇に関する感情です。昭和から平成への代替わりのところで大きく変わり、そして、今回初めて「好感を持つ」がトップに躍り出ました。

 昭和天皇の時代には、「無感情」がトップで、七三年の四三%から八八年の四七%へと増えていました。二位は「尊敬」で、七三年に三三%、八八年二八%と漸減傾向にありました。「好感」は三位でほぼ二〇%、反感はマイナーで常に二%でした。

 ところが「平成」に入った一九九三年調査から、「尊敬」は二〇%程度に落ち込み、「無感情」はなお三〇%以上いるのですが、「好感」がぐっと増えて二〇〇三年調査で四一%、ついにトップに躍り出ました。「反感」は減って、ついに一%未満です。つまり、昭和時代の「尊敬」から平成時代の「好感」へと受容感覚が変わり、天皇に反感を持つ「共和派」は、一%の極少数派になったのです。

 しかも、昭和天皇時代の調査では、戦前・戦中世代と戦後世代、高度成長以降の戦無世代で大きな差があり、戦前・戦中世代は「尊敬」なのに戦後・戦無世代は「無感情」という構図でした。ところが平成に入って、世代差がなくなりました。つまり戦後・戦無世代で「無感情」が減って「好感」が増え、若年層でも三〇%以上の「好感」を得るようになりました。

 

 「天皇制民主主義」が残した昭和天皇の政治的役割

 こういう状況のもとで、かつて「天皇制打倒」を錦の御旗・存在根拠にしていた日本共産党までがついに旗を下ろし、「象徴天皇制は君主制ではない」という詭弁で、天皇の臨席する場に公式に出席し、皇室の子孫誕生を公式に祝うようになったのです。ジョン・ダワーがいうところの「天皇制民主主義」の完成です。

 一九四五年の敗戦、四六年の日本国憲法制定のさいに、保守勢力の「国体護持」「天皇制存続」と占領軍の「非軍事化・民主化」が対抗し、第一条の象徴天皇制と第九条の戦争放棄・戦力放棄がバーターされたことは、よく知られていることです。その結果として、戦後の日米同盟も、民主主義も高度成長も可能にする、制度的仕組みが作られました。

 憲法改正問題が焦眉となってきましたが、最近刊行され始めた原秀成『日本国憲法制定の系譜』全五巻(日本評論社、二〇〇四年ム)は、こうした問題のディテールを詳細に明らかにして有益です。日本国憲法の全条項について、それがどこからどういう風に入ってきたのかを研究すると、世界各国の憲法典はもとより、不戦条約、大西洋憲章、ルーズベルトの「四つの自由」、国連憲章、さらには戦前米国に紹介された吉野作造、茅原崋山らの思想や米国政府・軍各機関の思惑が、濃淡まじえて凝集していました。日本国憲法の制定問題そのものが天皇の処遇から始まり、米国国立公文書館所収の機密解除された関係文書を精査すると、いわゆる「天皇退位論」について、米国側では退位したら民間人として戦犯訴追することになっていたことなども、明らかにされています。

 そこで、「象徴」としての天皇は、アメリカの世界戦略にとって利用価値があるとみなされました。戦犯訴追を免かれ「象徴」になった昭和天皇は、占領期に「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」などと述べていたことは従来から知られていましたが、最近では、一九五三年以降も「米軍の駐留が引き続き必要」「強大なソ連の軍事力から見て、北海道の脆弱さに懸念をもつ」「世界平和のために米国がその力を使い続けることを希望する」などと発言してきたことが、米国側資料から明らかになってきました(『朝日新聞』二〇〇五年六月一日)。

 戦後日本の民主主義は、アメリカの「象徴天皇利用による日本改造戦略」の所産でした。

 

 日本の社会主義を振り返る二つの観点

 私は、社会主義理論学会でも何度か話していますが、「社会主義」そのものが、マルクス主義によって独占されるものではなく、フランス革命の「自由、平等、博愛」のうちの「平等」に重きをおいた、広い思想的流れだと言ってきました。初期社会主義とか空想的社会主義と呼ばれたオーエン、フーリエ、サンシモン、あるいはブランキまで含めて、いろいろな社会主義があり、その中からマルクス、エンゲルス以降、マルクス自身が嫌った「マルクス主義」という言い方が、ひとつの権威になりました。しかもそれが、二〇世紀にロシア革命で実現されソ連に体化されたものとされ、それが、日本における社会主義のイメージを、決定的にかたちづくってきました。

 つまり、事実上共産主義運動が社会主義を体現するものとみなされ、それがある時期支配的なものになったため、それ以外の伝統を持たない日本では、今瀕死の葬送段階に入っている、と理解しています。これは、ヨーロッパとは大きく異なります。こういう局面で、日本の社会主義をもう一度考え直してみようというのが、本日の第一の観点です。

 もうひとつの観点は、一九世紀から二〇世紀、明治維新以降の日本で一番大きい社会変革とは何だったのという、素朴な問いです。社会主義を信じる人々は、自分たちが権力を握る人為的な革命を目指しました。しかし、明治維新以降の日本社会が実際にどう変わったかという観点から見た場合、一番大きな変化は、一九四五年の占領下における日本国憲法の制定と、その後の高度経済成長であったのではないか、というのが私の見方です。 

 日本国憲法をはじめとする戦後改革は、前衛党に指導された民衆が革命でかちとったものではありません。あるいは、社会主義のソ連ではなく、帝国主義アメリカ軍の占領下でつくられたから「反革命」ということでもありません。日本社会のなかに、こうやって社会主義を研究する人たちが自由に集まり議論できるような場を作ったという意味で、大きな民主主義の変革だったわけです。「自由、平等、博愛」の、ある種の定着をもたらしたという意味で、非常に大きなインパクトがあったのです。

 そうだとすると、日本国憲法の制定に至る、いわゆる社会主義や共産主義の運動に対する見方も、「革命はおきなかった」とか「挫折した革命」という観点より、この大きな社会変化にどのように対処したのか、その変化をもたらしたものはいったい何だったんだろうかという観点で、見直すことが必要です。それは、日本共産党の路線と指導、マルクス主義者の分析・指針が誤っていたか正しかったとか、吉田茂のような保守的自由主義者がやったという狭い見方よりは、もっと世界史に目を向けて、そういう改革を設計し、実際に変革をもたらしたものはどんな力だったのかという観点でも、見ることもできるだろうと考えたわけです。

 

 日本社会変革構想の流れ――異端の視点で

 本日そのために選んだ素材が、一番最初に一九〇一年の「社会民主党宣言」、先ほど山泉さんが紹介したものです。その三大原理が「民主主義、社会主義、平和主義」です。この原理を出発点に持ってきて、着地点が、一九四七年施行の日本国憲法です。四六年に実質的な制定プロセスが行われるわけですが、その後に「戦後民主主義」という形で定着する。平和主義が、戦争放棄のみならず戦力放棄まで含めて定着したのは、世界の憲法の中でも極めて珍しい事例です。そういう観点から評価してみる。

 そこにいたる主要な変革構想の流れを、みてみましょう。

 まずは出発点に、「社会民主党宣言」です。日本社会主義の源流です。

 第二は、私は平民社や社会民主党の流れに沿ったものだと考えますが、堺利彦、荒畑寒村、山川均たちの第一次共産党の二二年九月「日本共産党創立綱領」です。これは、後で注釈が必要になると思いますが、私がモスクワで十年ほど前に発見したもので、要するに、それまで知られていなかった日本共産党の最初の綱領です。普通、日本共産党の最初の綱領というと、「ブハーリン起草二二年綱領草案」と呼ばれるものがありますが、それはモスクワ製で、おそらくブハーリン起草ではなく、二二年に作られたものでもない、というのが私の見解です。これは後で話します。実際に作られた創立綱領というのは、もっと素朴な、むしろ社会民主党宣言の延長上にあるものでした。それで敢えて、この創立綱領を「二二年テーゼ」と呼んでおきます。

 それから十年経って、モスクワのコミンテルン東洋部で作られたのが「三二年テーゼ」です。こちらの方は、皆さんお馴染みと思います。クーシネンが重要な役割を果たし、日本人では山本正美だけが作成に実質的に関与し、半封建的な寄生地主的土地所有と独占資本主義の上に聳え立つ絶対主義的天皇制という、三位一体図式で有名です。それが軍事的・封建的帝国主義の国家機構で、これを打倒してブルジョア民主主義革命から社会主義革命へと進むのが日本革命だと言います。当時の労働組合にまで「天皇制打倒」スローガンが押しつけられました。

 これを戦後も金科玉条にしたのが、徳田球一、志賀義雄、宮本顕治らの共産党指導部です。三・一五、四・一六事件やスパイ査問致死事件で特高警察に逮捕されたが、幸か不幸か一八年間とか一二年間も監獄に閉じ込められ、戦争には行かなくて済んだ人たちが、戦時中、獄中でコミンテルン信仰を守り、「三二年テーゼ」を凍結し続けて、それを戦後に再び持ちだします。それが講座派理論と一緒になって、戦後日本のマルクス主義のみならず、社会科学全般に非常に大きな影響力を持ったわけです。

 「二二年テーゼ」「三二年テーゼ」ときましたので、語呂合わせもいいので、「四二年テーゼ」というのを、今日ここで初めて発表します。一九四二年にアメリカ軍・政府機関の中で作られた、日米戦争で日本に勝利後の改革プログラムがいくつもありまして、そのなかのひとつです。一九四二年四月ですので、太平洋戦争が始まって四か月後、ミッドウエイ海戦より前のものです。日本がビルマやシンガポールを占領して沸き立っている時期に、日米の軍事力・経済力・政治体制と民衆動員能力を「科学的」にシミュレーションして、日本が負けるのは当然だと見通した。むしろ敗戦後に日本をどうするかを、アメリカ政府の軍・政府・情報機関の中で検討していた資料が膨大にあります。

 その中の、戦後CIAの前身であるCOI(情報調整局、四二年六月にOSS=戦略情報局に改組)の四二年四月「日本計画」を、「四二年テーゼ」とよんでおきます。最初に社会民主党宣言、最後に日本国憲法。そのあいだに日本共産党「二二年テーゼ」、コミンテルン「三二年テーゼ」、米国「四二年テーゼ」とおきました。どれが一番日本国憲法につながったかと言えば、「社会民主党宣言」と「四二年テーゼ」、コミンテルン系譜では「三六年手紙」になりそうだ、という話です。

 

 三 日本共産党の綱領・テーゼの系譜

 

 コミンテルン日本支部=日本共産党の綱領的変遷

 「そんなことを言っても」と、社会主義研究者・活動家の皆さんは反発すると思いますので、皆さんに分かりやすくするため、全部で五枚の資料の中に、一枚の手書き資料を入れてあります。これは、私が三〇年以上前の学生時代に作った「コミンテルン日本支部=日本共産党重要テーゼ比較表」で、パソコンのデータベースには入っていないものです。石堂清倫・山辺健太郎編『コミンテルン 日本に関するテーゼ集』(青木文庫)と、『現代史資料 社会主義運動 一』(みすず書房)をもとに、各種テーゼを比較したものです。

 よく知られているように、一九二二年日本共産党綱領草案、二七年テーゼ、三一年政治テーゼ草案が一時的にあって、戦前の到達点が三二年テーゼ、ただし、人によってはコミンテルン第七回大会の反ファッショ統一戦線・人民戦線が重要だということで、その日本版である岡野(野坂参三)・田中(山本懸蔵)の三六年「日本の共産主義者への手紙」をもってくるのが、普通の並べ方なわけです。

 私も昔はこういう順序で理解してきたのですが、今日は、別のルートをたどりたいと思います。そのために、こちらの通説的流れを、先に批判的にコメントしておきます。

 まず、「一九二二年日本共産党綱領草案」というのは、一九二四年にドイツ語で初めて発表される『コミンテルン綱領問題資料集』中のブハーリン起草世界綱領草案の付録に付いていたものです。日本語で初めて発表されるのは、一九二八年のようです。不思議なことに、それまでは、こんな完成度の高い綱領草案があるという議論は、コミンテルンや日本共産党の文書として残された資料には、ほとんどでてきません。

 

 「伝説」としての二二年綱領草案

 しかし、なぜそれは「党の最初の綱領的文書」(『日本共産党の七十年』)とされてきたのでしょうか。それは、三・一五事件で捕まった市川正一、徳田球一以下の獄中指導部が、「党史」を作らなければ自分たちの戦いの道のり、足どりを説明できないということで、公判闘争の戦術を変えます。それまでは権力に対して黙秘ないしのらりくらりの抵抗をしていたのが、二九年の末ぐらいから、むしろ積極的に、社会主義・共産主義とは何か、共産党はいかにたたかってきたかを明らかにするという、公判闘争戦術の転換を行う。

 そのときに作られた、後に市川正一の『日本共産党闘争小史』に入っていく「党史」の筋道をたてるときに、「二七年テーゼ」をそれまでの最高の到達点とみなして、一九二二年七月一五日に日本共産党が作られ、その同じ年のコミンテルンの第四回大会ですでにわれわれは君主制廃止の綱領を持ったと言うために、モスクワ製のブハーリン二二年世界綱領草案の下位綱領にあたる日本の部分を持ってきた。それがそのまま「伝説」となって今に残っている、というのが私の説です。

 ただし、細かい史実の点では、犬丸義一氏と論争していますので、これからも文献的には実証的に見ていく必要があります。この綱領草案が本当に二二年コミンテルン第四回大会時に作られ、川内唯彦・高瀬清が持ち帰り、二三年三月石神井臨時党大会で審議されたという証拠が出てきたら、私も訂正するにやぶさかではありません。しかし、野坂参三の伝記を書くため収集された戦後の高瀬清証言以外、そもそも確たる根拠がないのです。

 このブハーリン世界綱領草案付録の「日本共産党綱領草案」には、二二項目の要求の中に「君主制廃止」が入っています。二二年頃にコミンテルンが「君主制廃止」と言うのは、当然一九一七年ロシア二月革命、一八年ドイツ革命の類推です。つまり、一九一七年のロシア革命では、二月のツアーリ追放を含む民主主義革命は、十月の社会主義革命、ボリシェヴィキの権力掌握へと急速に転化するさいの入り口です。ドイツで言えば、君主制を廃止してワイマール憲法を作ったが、社会主義革命にはならなかった。

 そのころのコミンテルン風理解からすれば、君主制廃止というのは革命のきっかけ、一番入り口のところにある。君主制を倒すとその次に民主主義政体が現れ、そこでブルジョアジーに権力を委ねず自分たちの社会主義権力を創出し、工場・企業・土地を没収して産業国有化・計画経済に向かわなければならない。つまり、コミンテルンのめざす世界共産主義革命にとって、君主のいる国などまだ「ブルジョア民主主義」以前である、自由平等普通選挙や労働組合活動の自由にとっても君主制廃止が必要だ、という考え方です。

 だから、日本でもまず天皇制をなくせば、その後に普通選挙や言論・出版・集会・結社の自由も可能になる、という考えに立っていた。これが、いわゆる第一革命・政治革命で、第二革命・社会革命によって社会主義になります。

 このように私は、一九二二年七月一五日日本共産党創立説そのものを否定します。また、最初の綱領とされる「二二年日本共産党綱領草案」と言われているものは、実はコミンテルン執行委員会内部で二三年か二四年にロシア語で書かれた、しかも当時の第一次日本共産党にはほとんど影響を与えなかったものだと思っています。研究史上の少数説・独自説で、日本の研究者のこれまでの説の中では、日本共産党の公式党史、村田陽一さんや犬丸義一さんの通説よりも、岩村登志夫さんや松尾尊よしさんたちの説に近いわけです。

 

 「君主制廃止」を押しつけた「二七年テーゼ」

 次は、「二七年テーゼ」です。こちらの方は、第一次共産党の解党の後、二六年の五色温泉の第三回党大会で再建された福本イズムの影響を受けた党指導部がモスクワに召喚され、渡辺政之輔、鍋山貞親、徳田球一ら、それに福本和夫自身もソ連に行きます。山川均は呼ばれたけれども、病気を理由に行かなかった。

 モスクワでは、山川イズムも福本イズムも、どちらも批判され拒否されます。当時福本は日本のレーニンとかブハーリンとか言われていたそうですが、当のブハーリン自身から、お前ら本当にマルクス主義者かと言われて、シュンとなる。それで、これはもうブハーリン自身に作ってもらわなければということで、コミンテルン側に起草を依頼し作られたものが「七月テーゼ」ともいわれるものです。

 これについても、旧ソ連秘密資料の中に、新しい資料がいっぱい出てきています。重要な役割を果たしたのは、ブハーリンというよりも、コミンテルンの日本共産党派遣代表カール・ヤンソンです。私はロシア語資料は共同研究者の藤井一行さんに訳してもらっていますが、二七年の六月一〇日、七月にテーゼが作られる直前に、「親愛なる同士ブハーリン、あなたが多くの諸問題で忙しいのは分かっていますが、われわれは日本共産党を代表して、日本問題に対する政治的テーゼを書いてくださるようお願いします」という嘆願書まで出てきました。片山潜以下九人の名前の中に黒木とありますから、黒木こと福本和夫自身も了解して、日本代表団全員で、ブハーリンさん、自分たちの党の綱領を書いて下さいと願い出て作られたのが「二七年テーゼ」です。

 ここでも中心的な内容は君主制廃止、しかも大衆的前衛党として、非合法でも地下活動だけではなく正面からスローガンを掲げろとコミンテルンから言われた。それを忠実に守って、二八年の普通選挙法にもとづく初めての選挙の直前に、公然と党名を入れたビラを撒いて再建日本共産党の存在が公けになり、二八年三・一五、二九年四・一六の大弾圧になりました。

 

 唯一日本語の三一年「政治テーゼ草案」

 その次の三一年「政治テーゼ草案」は、実はここに並んでいるものの中で、唯一日本語で書かれたものです。

 ただしこれは、すぐに誤りだということで、「三二テーゼ」で訂正される。

 中身は、三〇年にソ連のクートベ(東洋勤労者共産主義大学)から日本に帰国した風間丈吉が、ヤ・ヴォルクという当時のコミンテルン東洋部員の個人的見解を持ち帰って、それを記憶にもとづき再現して文章にした草案だとされます。

 この特色は、一つは、それまでロシア語やドイツ語のテーゼの「モナーキー」をそのまま「君主制」と日本語にしていたものを、初めて公式文書で「天皇制」と訳したことです。

 しかも、天皇制は封建的・絶対主義的なものという「二七テーゼ」までの考え方を改め、日本は東洋における最初のブルジョア革命を既に終わった国で、金融資本の独裁国家であるとしました。

 従って天皇制は、支配階級のファシズム的な弾圧の道具であるという観点、つまり絶対主義ではなくファシズムであるという見解を唱えたものです。

 しかしこれは、三一年四月に『赤旗』に発表されますが、ほぼ一年で「三二年テーゼ」がモスクワから送られてきて、戦略的に誤りであったと批判されます。

 

 「三二年テーゼ」の絶対主義的天皇制

 「三二年テーゼ」では、絶対君主制論が中心になる。しかも、「三二年テーゼ」は、しばしば封建理論といわれるように、資本主義は高度に発達したけれども半封建的な寄生地主的土地所有ががっちりと出来上がっていて、その上に絶対主義的天皇制、つまり封建社会から資本制社会への移行期にある国家形態が存立しているという形で作られます。

 ちょうどその時期、野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎らの『日本資本主義発達史講座』が岩波書店で刊行され、似たような論理構成で、明治維新と日本資本主義形成を論じます。『講座』第一巻の刊行と「三二テーゼ」の発表が、ほとんど同じ時期です。その相乗効果で、いわゆる労農派の日本は既にブルジョア的発展を遂げていて次の革命は社会主義だという一段階革命論に対する、二段階革命論を根拠付けるものになったわけです。これが、戦後日本のマルクス主義、歴史学研究会とか土地制度史学会とか、そういうところでは圧倒的な影響力を持つようになるわけです。

 ただし、日本共産党で「三二年テーゼ」の考えを保持していたのは、三四年に日本共産党の中央指導部はスパイ査問致死事件で壊滅しますので、志賀義雄、徳田球一、宮本顕治ら日本国内の獄中「非転向」組ということになります。なぜなら、三三年に佐野学・鍋山貞親以下三・一五事件等で捕まって獄中指導部の中枢にいた人々の大多数が、まさにこの「三二年テーゼ」的な天皇についての考え方と、日本共産党がコミンテルンを通じてソ連共産党の道具になっていることに反発して、「転向」の雪崩現象がおきます。

 ちなみに「三二年テーゼ」についても、今日ではロシア語の草案が幾つか見つかりまして、これは既に岩村登志夫さんがドイツで出ている『歴史的共産主義研究年報』という雑誌に発表しています。

 

 三六年「日本の共産主義者への手紙」は戦略転換

 最後の一九三六年「日本の共産主義者への手紙」というのは、日本における反ファシズム人民戦線・統一戦線を提唱しています。戦後日本の社会党・共産党の統一戦線を重視する人たち、あるいは端的に戦後の野坂参三の役割を高く評価する人たちは、こっちを強調して、戦前の最高の到達点と言うんです。ただし「テーゼ」とか「綱領」とか名付けられていないため、綱領的・戦略的には「三二テーゼ」が正しく、ただ「天皇制打倒」をストレートに掲げて民衆の遅れた意識水準にマッチしていなかったことが修正されたものだとされます。治安維持法の「国体」条項にひっかかり、弾圧の口実とされたから戦術を改めただけだ、という解釈が多いのです。

 しかしこの時期、コミンテルンは世界革命の戦略全体を再検討して「ソ連邦擁護」のために反ファシズム統一戦線・人民戦線を奨励するので、日本についても戦略的転換といえます。なにより変革の担い手が、従来の労働者・農民・都市貧民から、「都市小ブルジョアジー、勤労インテリゲンチャ」「全人口の九〇パーセントの勤労国民」まで広げられています。ただし、この手紙を受け止め実践すべき日本共産党中央委員会は、当時すでに壊滅していました。獄中指導部にも、政策転換の重大な意味は伝わりませんでした。

 この「日本の共産主義者への手紙」は、当時コミンテルン幹部会員としてアメリカから日本への工作を担当していた野坂参三が、『国際通信』などアメリカで印刷した日本語文書を船員や郵送ルートで海外から日本へ持ち込んだことになっています。日本における人民戦線として、「民主主義日本か軍部ファシスト独裁か」の選択肢を提起したものとして知られていますが、理論的には、あまり重視されることはありません。

 

 ソ連、中国、アメリカを通じて日本国憲法へ

 しかし実は、三六年「手紙」は、日本共産党系の綱領的文書の中では、理論的にも実践的にも、一番その後の日本国憲法につながるものです。つまり、主敵はファシスト軍部で天皇制ではないということを明確にした文献で、これは、戦後の日本共産党再建時に、中国延安から帰国した野坂参三が持ち込む「愛される共産党」の路線になります。なによりも、ソ連共産党も中国共産党も連合国軍の中の重要な政治勢力だったわけですから、そこから占領改革に間接的影響力があるわけです。

 三六年「手紙」は、理論構成そのものが、「二二年綱領草案」から「三二年テーゼ」までのラインとは違います。日本資本主義の見方としては、むしろ三一年「政治テーゼ草案」に近いわけです。つまりファシズム論に立っています。

 コミンテルン第七回決定によりますと、ファシズムというのは「金融資本の最も反動的・排外主義的・帝国主義的分子の公然たるテロル独裁」です。従って「ファシスト軍部」の背後には、それを支える金融資本・財閥がある。「天皇制ファシズム」は三井、三菱によって支えられているという考え方になります。

 事実、この時期、三六年から戦争が始まる四一年までの『プラウダ』『イズベスチア』などソ連の新聞・雑誌、コミンテルン機関紙『インプレコール』の後継紙『ルントシャウ』に出てくる日本分析は、三井、三菱を中心とした日本の金融資本がどう軍部と結びついているかという分析になります。土地所有や君主制よりは、資本主義の方に目が向けられます。絶対主義論は、コミンテルン側の文献・資料では、「三二年テーゼ」の翌三三年以降は見られなくなります。ただし公式には「三二年テーゼ」が否定されません。

 旧ソ連秘密文書からは、この戦略転換が、はっきりわかります。これも藤井一行さんが見つけたものですが、たとえば三五年コミンテルン第七回大会での野坂参三の報告は、議事録として公開される際に、コミンテルン執行委員会の検閲を経ています。「君主制は日本人民を恥辱でおおった」という演説が公表文で「日本帝国主義」に変えられ、小林陽之助(西川)演説では「日本の君主制政府」が「日本の支配階級」という文章に変えられました。天皇制打倒を掲げることが、コミンテルンの側から禁止されたのです。

 戦後の日本共産党は、主要には「三二年テーゼ」の戦略で、副次的な戦術として三六年「手紙」を採用します。しかしあくまで「戦術」と受けとめられたので、戦後の山川均たちとの統一戦線も、あくまで共産党主導で、天皇制打倒につながるものでなければならなかったのです。

 

 四 社会変革構想と日本国憲法への道

 

 具体的資本主義・国家分析の欠如、抽象的政治スローガン

 これらが実際の日本の変革にどういう影響を与えたかを、次ぎに考えてみましょう。

 いずれのコミンテルンのテーゼも、日本支部=日本共産党にとっては、金科玉条でした。民主集中制ですから無条件実行です。だから、三一年「政治テーゼ草案」のような新方針が出ると、党内は混乱します。戦後なら、コミンフォルム批判がそうでした。

 これらを実質的に作成したコミンテルン東洋部は、「三二年テーゼ」時点でも、せいぜい五人位でした。それも、中国革命が主要な担当で、日本の専門家というのは、強いていえばカール・ヤンソン位でした。

 ですから資本主義分析は、おおざっぱでした。日本の経済統計や景気変動・労働市場等を本格的に分析した形跡はなく、農業における土地所有と工業における重化学工業の発展程度を、生産様式の結合具合、経済的社会構成体として見て、「軍事的・封建的帝国主義」といった『レーニン全集』の記述にあてはめるスタイルでした。

 国家権力の分析も、例えば大日本帝国憲法は「紙の上だけ」のものだから具体的運用の詳しい分析はなく、もっぱら絶対主義とかファシズムとかボナパルティズムといった、史的唯物論の国家本質論・形態論のどれに相当するかを論じるものでした。それを具体的な日本社会の政治変革につなげるには、あまりに抽象的で、たとえば「大土地所有の廃止」といっても筋道のつかめない、産業構造のどういう部分がいまどうなっているからこういう風に変革するといった構想をだし得ないものでした。

 しかも、天皇制を「似非立憲主義」と経済的基礎だけで還元主義的に論じ、例えば天皇機関説などはスキップして、とにかく転覆せよという。大正から昭和初期は、社会変容・文化面で面白い時代ですが、それは「上部構造」ですから二義的なものとされ、分析もされない。だからなぜ人々は天皇を受け入れているのかも、もっぱら教育勅語や徴兵制による強制だと理解される。要するに、民衆はだまされているから、マルクス主義の真理を教えれば目覚めるという姿勢です。

 これは、アメリカの「四二年テーゼ」が、膨大な統計資料や地図・写真・映画を集めて日本の国力を分析し、そこから日本の経済構造・政治構造だけでなく、生活様式や「国民性」まで考察して戦後を設計し構想する実証的視角と、対照的です。

 しかしそれは、当時のコミュニスト、マルキストと呼ばれる人々に、世界最高のマルクス・レーニン主義理論にもとづく分析、「科学的真理」として受容されました。

 もうひとつの受け皿は、日本の社会科学です。これは一九三〇年頃の『インプレコール』にヴァルガが書いているのですが、日本では労働者、農民の中にはマルクス主義はほとんど影響力を持っていない、しかしなぜか『マルクス・エンゲルス全集』が世界に先駆けて翻訳された。労働者階級ではなく「小ブル知識人」の中にのみ影響力を持っている、と皮肉に注記しています。要するに、頭でっかちなマルクス主義とコミンテルンのテーゼが影響力を持ったけれども、実際の運動の中では、むしろ労働組合など大衆組織にまで「天皇制打倒」というスローガンをそのまま持ち込み、弾圧を呼び込むようになっていた。

 政局との関係では、「二二年綱領草案」から「三二年テーゼ」までは、基本的に地下の共産党員の信念を支えるだけのもので、天皇制権力の弾圧の対象にはなりますが、大きな政治的力にはならない。

三六年「手紙」だけは、共産党が主導権を取らなければならないけれども、現実に日本から軍部ファシスト独裁をなくすためには、社会大衆党や民政党の一部までも味方に引きつけなければならない、と具体的政治レベルの方針を出しています。

 実際一九三六年二月の選挙は、二・二六事件の直前ですが、無産政党が躍進して、坂野潤治さんの言い方では「昭和史の決定的瞬間」でした。もしもそこで「日本版人民戦線内閣」ができていれば、その後の戦争の道はなかったかもしれないと言われる局面です。モスクワの方も、それと似た見方をしていて、軍部ファシストに対抗するには、社会大衆党、民政党の一部を含む統一戦線を作らなくてはいけないと言っています。

 ところが肝心の共産党はありませんし、反ファシズム統一戦線決定そのものの受け皿がない。当時アメリカにいた野坂参三は、アメリカの労働組合を通じて加藤勘十を秘かにアメリカによびよせ、高谷覚蔵、小林陽之助、伊藤利三郎らを日本に送り込むんですが、ことごとく捕まってしまう。小林陽之助が、ねずまさし・大岩誠を通じて、当時フランス、スペインの人民戦線政府を日本に紹介した中井正一、新村猛、真下信一、久野収ら京都の『世界文化』『土曜日』グループと接触しますが、これも「コミンテルンの密使」と繋がったと言うことで大弾圧を受け、一網打尽になる。政治的影響力は持ち得なかった。

 

 一九〇一年「社会民主党宣言」の三大原理と民衆の要求

 そこで逆に、ある程度今日につながる方を、見てみましょう。

 ひとつは、日本社会主義の出発点に、社会民主党宣言をおくことです。これは山泉さんがご紹介されたので省略しますが、ポイントは「社会主義、民主主義、平和主義」の三原理、それに八つの最大限綱領、二八の最小限綱領が出ています。

 これは、ドイツ社会民主党のエルフルト綱領の影響と思われますが、エルフルト綱領で言う最小限綱領の二八の部分ですが、鉄道公有とか義務教育とかは、まさに二〇世紀に実現するものです。マルクス=エンゲルス『共産党宣言』の一番後ろに出ている要求と同じで、本当はこうした現実的要求・政策こそ、政党にとっては一番重要な民衆との接点なのです。

最大限綱領の第二の「万国の平和を為すためには先ず軍備を全廃すること」が、日本国憲法第九条の受け皿になります。経済的要求の多くは、二〇世紀の中で実現されていきます。労働局を設置して労働について調査させるとか八時間労働制といった具体的要求は、実現されていきました。

 最大限綱領の第一に「人種の差別政治の異同に拘はらず、人間は皆同胞たりとの主義を拡張すること」とありますが、日本の社会主義の出発点はこういう考え方だったというのは、私は重要だと思います。先ほど山泉さんは「外来土着」と言いましたが、土着の社会主義の素朴な願いは、この辺にあったということから出発するしかないと思います。

 コミンテルンの「二二年綱領草案」から「三六年手紙」までは、ほとんど全部モスクワで作られたものでした。日本語で書かれた唯一の三一年「政治テーゼ草案」だって風間丈吉がモスクワでの記憶にもとづいて日本語にしたものです。ほとんど「外来」のソ連製だったわけです。それに比べれば、「社会民主党宣言」こそ、土着の社会主義でした。このラインがどういうふうに受け継がれていったのかを見るのが、日本の社会主義百年だと思います。

 

 一九二二年九月日本共産党「創立綱領」

 その観点で見ると、資料でお配りした二二年九月の「日本共産党綱領」は、その理論的水準や学術的体裁はともあれ、重要なものです。英語文の裏側に旧ソ連秘密資料の中にあった一九二六年の日本語訳もコピーしましたので、これを見ていただきたいと思います。

 これは一九二二年九月と明記されています。日本共産党の言う党創立記念日七月一五日ではないことが、一つのポイントです。

 英文で書かれた綱領です。プログラム・オブ・ザ・コミュニスト・パーティー・ジャパン(日本共産党綱領)とあって、一番最後に「ジェネラル・セクレタリー」アオキ・クメキチ、「インターナショナル・セクレタリー」サカタニ・ゴローという英語のサインがあります。今日は論証は省略しますけれども、荒畑寒村と堺利彦です。真ん中に押印があります。日本共産党執行委員会という判です。この判が押された文書は、モスクワには他にも幾つかありますので、正式の党印であることが分かります。

 二二年の九月の何日か分からないけれども、日本共産党は、英語で綱領を作って、その綱領をモスクワに送って承認を求めた、正式の党印まで押して。そのときの委員長に当たる「ジェネラル・セクレタリー」は、日本語の規約上は「総務幹事」です。これは『日本共産党の七十年』までは、初代委員長が堺利彦ということになっていました。しかし、初代の「ジェネラル・セクレタリー=総務幹事」は、荒畑寒村です。堺利彦は「インターナショナル・セクレタリー=国際幹事」になり、次の二三年二月市川党大会で「サカタニ」つまり堺利彦が「総務幹事」に選ばれます。

 さて中身ですが、英語原文の方が詳しいですが、裏側の日本語を見てください。この英語の創立綱領は、今まで全く日本で紹介されたことはなかったのですが、しかしモスクワでは、実際に日本共産党の綱領として扱われ検討されたことを示す日本語資料です。一九二六年のコミンテルンの日本共産党関係文書綴りの中に入っていたものを、私が見つけました。短いですから、全文を紹介しましょう。日本語訳には伏せ字の空白部分がありますが、英語原文から訳して[  ]に入れてあります。

 

 綱 領
 
 [日本共産党]は国際[共産党]の一部として、官憲に対し秘密に存在し[ているプロレタリヤ党である]。
[日本共産党]は[ソビエト権力を基礎にした労働独裁を樹立して]資本主義制度を廃絶し、共産社会を建設する目的を以て、左の綱領を定む。
 
  一 経  済
 日本は極東に於ける最大の資本国である。殊に其の世界大戦中に於ける特殊の地位は急激なる資本制度の発達を来し、最も横暴無類なる搾取を実現してゐる。
日本共産党は、此の絶大なる搾取力の下に苦悩する労働者、農民、及び其の他の下層民衆を組織し、訓練し、統一して、[政治権力と]生産交通の機関をプロレタリヤの手に掌握し、社会主義的にそれを経営する事を期する。
 
  二 労働問題
 日本の労働運動はまだ極めて幼稚である。政府の苛酷野蛮なる圧迫の下に、労働組合は甚だ不完全なる発達を為しつつある。けれども自覚した労働者の革命的要求は頗る強烈である。組合運動に加入しない一般多数の労働者の中にも、本能的の反逆心は盛んに燃えてゐる。
 [日本共産党]はこれらの反逆心と革命的要求とに対し理想を與へ、方針を示し、戦術を援け、組織を教へる事を任務とする。
 既成の労働組合に対しては、深く其の内部に食い入って其の急進化に努め、無組織の労働者に対しては有らゆる接触方法を以て其の団結に努め、常に共同戦線の趣旨方針を以て資本家階級に対抗し、階級戦の一戦毎に於て共産党の実質を増大し、遂に絶大なるプロレタリヤの前衛となる事を期する。
アナキスト若しくはサンジカリストの思想が日本の進歩した労働者の間には、謂ゆる小児病の現象として、可なりに深く浸みこんでゐる。彼等は或は中央集権に反対し、或は共同戦線に反対し、或は労働独裁に反対し、或は政治運動に反対し、徒に空漠なる無政府の理想にあこがれてゐる。[日本共産党]は是等の夢想家に対し、断乎たる決意を以て、然し乍ら又有ゆる寛大と忍耐とを以て対応し、漸次に労働者間に於ける其の偏見を除かしめ、我々の実際的なる理想と戦術とに転向させる事に努めねばならぬ。
 
  三  農民問題
 工業の急激なる発達は、亦た農村の急激なる衰頽を来してゐる。自作農は高率を以て年々小作に陥り、土地の集中は顕著なる現象を呈してゐる。
 近来、農村に於ける小作争議は頻りに頻発し、小作組合は到る処に組織されてゐる。多くの地主は小作人から土地を返還されて困ってゐる。彼等は土地を売らうとするが買手がない。それで彼等は機械の応用、賃金労働の雇用、或はごまかしの組合組織等を計画してゐるが、いずれも成功しない。
  [日本共産党]は、これらの情勢に適応して、全国の農村に宣伝を行ひ、広く革命的精神を鼓舞し、共産的理想を理解せしめ、多数農民をして堅く都市の労働者と提携し結合せしめる事に努める。
 
  四 政 治
 我国の政党は既に明白な資本家党になってゐる。然し封建制度の余力が猶ほ官僚軍閥として残存してゐる。現在の政治は其の二勢力の妥協である。議会制度は極めて保守的で、まだ普通選挙すら行はれて居ない。要するにデモクラシーはまだ日本に於て甚だ幼稚である。
 [日本共産党]は、議会制度が社会革命の妨害物であり、保守勢力の最後の城壁である事を確信する。然しデモクラシーを出来得るだけ徹底させる事はプロレタリヤ運動の為に有利である。故に我々はプロレタリヤの新しき政治運動を以て、デモクラシーの徹底を促進する。
 然しながら我々の政治運動は、全然新しきプロレタリヤの政治機関を建設する事を究極の目的とする。故に我々はデモクラシーの徹底を促進すると同時に、極力デモクラシーの偽善を暴露させ、議会制度の有害なる真相を摘発する。そして結局、ソビエットの組織に依り、プロレタリヤ独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する事を期する。
 
 五 軍国主義問題
 東洋のドイツと称された日本帝国は、其の軍閥の優勢を以て世界に知られてゐる。日本の軍閥は其の優勢の力を以てアメリカとすら開戦しようとしてゐる。彼等が資本制度を撤廃する[ものではなく、貪欲に市場を切望するブルジョア資本家の自然な同盟者である] 。
 日本軍閥の精神は其の愛国心に在る。国民教育及び軍隊制度に於て極力鼓吹する愛国心は今だに多数国民の心を奪ひ、其の目をふさぎ、其の耳をつぶして[ゐる。軍閥が資本家を]擁護するといふ真[の]目的は、まだ多数国民に看取されて居らぬ。[日本共産党]は此の愛国の迷信を醒まし、軍閥精神の根本を破壊し、遂に軍隊全部の崩壊を計らねばならぬ。
 
 六 朝鮮支那問題
 [日本共産党]は云ふ迄もなく侵略主義に反対する。支那に対する干渉、満州蒙古に於ける勢力範囲、台湾の併合、悉く我々の反対する所である。
 殊に朝鮮の併合は最大の害悪である。故に我々は朝鮮人の独立運動を援助する。
 極東に於ける三大民族、支那、朝鮮、日本は、経済上及び政治上に於ける其の密接の関係からして、是非とも相携へて革命の道を歩まねばならぬ。故に吾々はプロレタリヤの世界的団結の中に於て、殊に右三民族中のプロレタリヤの団結を重要視するものである。
 
 以上は日本[共産党]の大体の綱領である。我々は国際共産党の一部として、其の指導と援助との下に、常に此の綱領に依って努力し活動するのである。

 

 「共同戦線」をめざした大同団結の綱領

 これは、日本資本主義分析としてみれば、あまり面白いものではありません。その後の講座派と労農派との論争などに比べれば、理論的にはつまらない、凡庸なものです。

 「労働運動」のところでは、アナーキストやサンジカリストの思想が日本では強いので、彼らを「転向させる」ことが重要であるといっています。この頃は「転向」という言葉は、むしろ肯定的な意味で使われています。

 「政治」では、普通選挙すらまだ行われていないからデモクラシーが必要だといってます。議会制度には反対するけれども、デモクラシーの徹底は必要だから、議会制度の有害なる真相を摘発しながら加わっていく。これも、当時の公式的な考え方です。

 そして「軍国主義問題」では、日本は「東洋のドイツ」と称され、国民教育および軍隊制度を通じて軍閥精神が貫かれているとしています。

 最後に「朝鮮支那問題」。日本共産党は「侵略主義に反対する」「朝鮮人の独立運動を援助する」「極東における三大民族、支那、朝鮮、日本の連帯」をうたっています。

 およそ中身はこんな内容で、英語はもう少し詳しいですが、基本的には同じです。先に見た「二二年綱領草案」とか「二七年テーゼ」に較べると、あまり理論的に厳密でない。社会民主党宣言や平民社の流れを、色濃く受け継いでいます。それがそのまま日本共産党と名乗った綱領です。起草者は、サインのある荒畑寒村でも堺利彦でもなく、おそらく山川均であろうと思いますが、理論的には、あっさりした綱領にみえます。

 しかし、私は、その点こそ重要だと思います。それまで直接行動か議会政策か、アナーキズムかボルシェヴィズムかと論争し対立してきた日本の社会主義者たちが、ロシア革命に連帯してともかく大同団結しよう、日本にも社会主義の党をつくろうという時に、さまざまな意見の最大公約数をつくり、できるだけ単純にまとめたらこんな風になったと考えると、合点がいくのです。つまり、山川のいう「共同戦線党」の綱領です。だから天皇制をどうするかはないし、それが絶対主義かファシズムかなどと論じる必要もないのです。それでモスクワでは批判され、正式の綱領とは認められなかったのだろうと思います。

 実は、モスクワにあったこの日本語の文章には、誰かが加えたと思われる日本語の書き込みが、何カ所かあります。コミンテルンで何が問題になったかだけを紹介します。

 一つは、議会制度云々のところで「封建制度に対する意見」がないと、クエッションマークが付いている。この訳文は「二七年テーゼ」の策定過程なので、天皇制が入っていないことを問題にしているようです。

 もう一つ書き込みがあったのは、「ソヴィエト組織でプロレタリア独裁の政治を興し、資本独裁の旧政治を廃絶する」と書いているところに、「ブルジョア革命が行われるか行われないか不明」とコメントがついています。要するにロシア革命の一九〇五年段階なのか、一七年二月か、十月社会主義革命の段階かと問いかけているのです。つまりコミンテルン側のいわゆる二段階革命論の規格に合わない、というわけです。

 「朝鮮人の独立運動を支援」というところにも、線が引いてある。おそらく「支援」が「指導」の意味に近く、なぜ帝国主義本国日本の共産党が植民地朝鮮の運動を「支援」するのか、「連帯」でなければおかしい、という意味でしょう。

 

 世界的には最もセクト的な時代の「三二年テーゼ」

 以上が、二二年九月の日本共産党創立綱領です。私が法政大学『大原社会問題研究所雑誌』に訳出し、犬丸義一氏も、これについては本物と認めています。ただし『日本共産党の八十年』がその後に出ましたが、日本共産党自身は認めていない。ところが不思議なことに、『日本共産党の八十年』では、『七十年史』まで初代委員長堺利彦と書いていたのが削られて、当時の指導部は荒畑、堺、山川の三人という書き方に変わっています。

 しかし、この「二二年テーゼ」こそが、「外来」ではない、日本共産党の本来誇るべき創立綱領でした。それが、二三年の一斉検挙と関東大震災でいったん解散する。いわゆる第一次共産党です。その後二六年に、カール・ヤンソンの働きかけと福本イズムによって再建される。その福本イズムに基づく再建の時に、山川・堺・荒畑他第一次共産党の主流の人々は、福本イズムの観念性とモスクワからの圧力・介入を嫌って、第二次共産党に入らなかった。それが、労農派になります。

 したがって、社会民主党宣言の流れは、一九〇一年の社会民主党宣言から、堺、山川、荒畑の第一次共産党、そして労農派、その後は戦後の日本社会党に流れる。ただし向坂逸郎になると、これはむしろソ連に近い、硬直した形になる。こういうかたちで、一つは受け継がれます。

 先に紹介したコミンテルンの綱領的戦略・テーゼの流れは、「二七年テーゼ」のところで、第一次共産党と断絶します。基本的には、二六年五色温泉で再建された福本イズムに影響された共産党であり、それが渡辺政之輔、鍋山貞親、佐野学、市川正一、徳田球一たちによって受け継がれ、三・一五、四・一六で指導者のほとんどが獄中に繋がれる。その流れが「三二年テーゼ」を受容し、まともな大衆的実践もなく、戦後まで凍結される。

 私が三〇年ほど前にコミンテルン研究を始めた頃、素朴に感じた疑問がありました。世界各国の共産党史を調べていくと、ヨーロッパの多くの国やアメリカの党、中国やインドシナの共産党でも、だいたい最盛期は三〇年代後半です。「三二年テーゼ」の頃は、コミンテルン第七回大会で自己批判される、悪名高い「社会ファシズム論」とか「階級対階級」戦術、「左翼社会民主主義主要打撃論」が支配的な、最もセクト的な時期です。

 そのセクト主義は、「三二年テーゼ」にも濃厚です。それがなぜか日本では、戦後にまで最高の理論として継承される。つまり第二次共産党とは、世界共産党史のなかでは恥部にあたる時期にのみ日本に存在した左翼主義の党であり、だからこそ佐野・鍋山のような指導部頂点からの「転向」と、宮本・袴田のスパイ査問致死事件で自滅していくのです。

 

 野坂参三、アメリカ共産党、中国共産党の戦後日本構想

 もうひとつ、モスクワに亡命した野坂参三らの、三六年「日本の共産主義者への手紙」に代表される、コミンテルンに直結した流れがありました。それらが、戦後一九四五年の敗戦で合流し、日本共産党が再建されます。

 この三〇年代後半から戦時中の共産主義の流れは、国内共産党よりも、アメリカ共産党日本人部、中国共産党日本人部と関係します。野坂参三が、一九三四ム三八年はアメリカで、四〇年以降は中国で活動するからです。

 当時のアメリカ共産党は、ブラウダー書記長のもとで、民主党ルーズベルト大統領と融和的な政策を採り、最後は四五年にスターリンから「修正主義」と切り捨てられますが、スペイン人民戦線への国際義勇軍派遣とか、第二次世界大戦が始まると連合国軍へ積極的に協力する路線をとります。これは、コミンテルン第七回大会の反ファシズム統一戦線・人民戦線の延長上にありますから、野坂参三もアメリカ共産党日本人部も、これについていきます。ですから、三五年以降の旧ソ連秘密文書中の日本語文書は、ほとんどアメリカからの日本人共産主義者の報告書や印刷物になります。

 「日本の社会主義」という場合、日本国内の社会主義なのか、日本人社会主義者のことなのかが、問題になるゆえんです。後者なら、アメリカ共産党日本人部は三〇年代後半以降も活動し、戦時中には、ジョー小出とか藤井周而とかすぐれた指導者が、対日戦争・日本民主化構想立案で重要な役割を果たします。二〇世紀の日本社会主義史を語るには、アメリカ、ドイツ、中国などでの日本人の活動まで、視野を広げる必要があります。

 中国の抗日統一戦線の中にいる日本人は、一九四四年のアメリカ軍・情報機関の視察団「ディキシー・ミッション」にインタビューを受けました。野坂は周恩来と一緒にモスクワから中国に入り、中国のいわゆる八路軍解放区、延安を中心とした共産党の影響力ある地域にいました。このミッションの記録が、アメリカ国立公文書館にあります。「延安レポート」という有名なものです。この中に、野坂参三へのインタビューが数通入っています。また国民党重慶政府のもとで抗日国共合作の中にいる鹿地亘、青山和夫(唯物論研究会出身の黒田善治)もインタビューを受け、野坂は、有名な天皇制棚上げ論、支配機構としての天皇制と天皇の半宗教的性格を区別して「天皇制打倒」を掲げない戦後日本構想を、アメリカ国務省のエマーソンらに積極的に話すわけです。

 これらは、アメリカでもそれなりに重視され、エマーソンの野坂・鹿地・大山郁夫による亡命日本人民政府構想にもつながります。ただし、アメリカにいた大山郁夫の反対で、実現しませんでした。原秀成さんの日本国憲法制定史研究では、特に「貴族院・枢密院の廃止」では、野坂=エマーソン・ルートの果たした役割が大きかったようです。

 

 「四二年テーゼ」の象徴天皇利用説、日本改造計画

 こういうさまざまな流れが、最終的にどう日本国憲法にどうつながったかという、最後の話に入りましょう。二〇〇一年にようやく全面解禁された、アメリカ戦略情報局(OSS)の秘密文書中から私がみつけた、「四二年テーゼ」についてです。一部は、雑誌『世界』二〇〇四年一二月号に「一九四二年六月の米国『日本プラン』と象徴天皇制」として発表しましたし、インターネットのホームページにも入れてあります。それをもとに『象徴天皇制の起源』という平凡社新書を書き下ろしましたから、詳しくは、七月発売のそちらを参照していただきたいと思います。

 資料としてお配りしたのは、その「日本計画」準備文書の一部ですが、戦略情報局OSSの特徴は、冷戦時代の戦後CIAとは異なり、「反ファシズム・反日本軍国主義」の力を結集した、連合国側の情報機関だったことです。「四二年テーゼ」は、そのOSS文書の中に入っていた、四二年四月の日本改造計画です。

 当時のOSSには、アメリカ中の大学の最も優れた社会科学・人文科学の研究者が、最高時二千人も組織されていました。反ファシズムですから、リベラル派のニューディーラーはもとより、左派の人々も積極的に協力しました。近代化論のロストウや社会システム論のシルズ=パーソンズらもいましたが、経済分析には、後にノーベル経済学賞を受賞するレオンチェフや、戦後アメリカ・マルクス主義を代表するスウィージーとバランも入っていました。

 対独戦略策定で重要な役割を果たし、戦後ドイツを設計したのは、名著『ビヒモス』のフランツ・ノイマンと六八年学生運動の教祖となるヘルベルト・マルクーゼ、つまりフランクフルト学派左派の人たちでした。ちょうど原爆開発のマンハッタン計画に、亡命ユダヤ人の自然科学者・物理学者が協力したように、社会科学者や歴史学者・人類学者・心理学者も、反ファシズムの信念にもとづき戦争に協力したのです。アメリカ共産党も、もちろん全面的に協力していました。

 「三二年テーゼ」を作ったコミンテルン東洋部は、せいぜい五人くらいで部長のミフは中国革命の専門家でしたが、このアメリカの「四二年テーゼ」を作ったOSSの調査分析部極東課は、最高時百人ぐらいで、中国・日本・朝鮮・東南アジアの問題を実証的に研究し分析していました。日本担当だけで三〇人ぐらいが、経済・政治・社会・文化・地理等々と分業し、総合的・学際的に研究していました。

 だからたとえば、戦後のGHQで財閥解体を担当し独禁法を作ったエレノア・ハドレーという女性経済学者がいますが、彼女は、造船業を担当するOSSの日本アナリストだったのです。その財閥解体があまりにラディカルだったために、ウィロビーの告発とマッカーシズムの中で「非米活動」とされ、一七年間も公職に就けなかったことを、最近邦訳の出た回想に書いています。戦後日本の労働改革の立役者セオドア・コーエンも、OSSの同僚でした(『財閥解体 GHQエコノミストの回想』東洋経済新報社、二〇〇四年)。

 そういうふうに、日本資本主義なら領域別・産業部門別に専門家を配置し、日本の国家構造については憲法学・行政学・政治学から歴史学者・人類学者・心理学者まで集まって、連合軍が勝利した後の地域別世界戦略を組織的に策定し、その中に「日本計画」も入っていたのです。

 

 日本の民主革命の大枠を方向付けた「四二年テーゼ」

 その準備段階で作られたのが、ここで紹介する「四二年テーゼ」です。

 結論的に言えば、戦後日本の民主化をスムーズに進めるために、第一に、天皇を軍部と対立させ「象徴」として残し、戦争勝利のためにも、戦後の日本改造のためにも、アメリカが積極的に天皇制を利用するという方向が、開戦当初から明確に出ています。

 第二に、「二度と日本が戦争をおこさない」ようにするため「真の代表政府をつくる」ことが、戦略目標として出てきます。アメリカ風「自由と民主主義」の移植です。

 そのうえで、第三に、戦後日本の「繁栄と自由」を保証するかたちです。

 つまり、立憲君主制民主主義と自由主義的資本主義再建を、開戦後四か月で対日戦略にしていました。こうした戦略のためには、天皇のみならず、日本の「急進派」「共和派」や、左翼運動経験者、海外生活体験者、もちろん労働運動も朝鮮人の反乱も奨励し動員する、というものです。

 その戦略を導く日本社会分析は、マルクス主義を採り入れた階級・階層分析です。毛沢東の発想とよく似ていますが、軍部を孤立させるために、人民内部の矛盾を全部利用しようというわけです。

 第一に極端な軍国主義者対ビッグ・ビジネス、第二に極端な軍国主義者対宮廷グループ、第三に陸軍対海軍、第四に陸軍内部の派閥、第五に労働者対雇用者、第六に小作人対地主、第七に官僚制対人民、第八に遠征軍の兵士と国内に留まっている安全な男たちという「八大矛盾」を抽出し、その亀裂を大きくすることで戦争に勝利する戦略です。

 コミンテルンの三六年「手紙」とも似てますが、なまじ「金融資本のテロル独裁」といったファシズムの定義や所有論レベルの階級闘争にこだわらないだけ、実践的です。軍部に近い鮎川義介の日産財閥は「敵」だが、三井や三菱の幹部でも軍部と離れるなら助けて利用する、という構えです。無論、日本の「共和派」や、朝鮮人、アメリカ西海岸の日系人をも積極的に利用すると書かれています。

 「天皇を平和の象徴として利用する」と四二年六月「日本計画」には明記しますが、それは別に、昭和天皇を平和主義者と認めたとか、天皇が尊敬できるから残すと言うことではなくて、大日本帝国憲法では天皇にだけ憲法改正の発議権があるから、日本の国家体制を日本民衆自身の意志の表明として民主主義的な体裁で平和的に変えるには、天皇を軍部と引き離し、連合国側につけるのが一番だ、という理解です。

 逆にいえば、社会主義者や共産主義者に任せては大変革はできない、まずはトップを自分達の思うようにして、アメリカがリモートコントロールする手法です。この頃の若きエドウィン・ライシャワー(ハーバード大学教授、戦後の駐日アメリカ大使)の言葉では、天皇を「傀儡」として残し利用すると、露骨に明言しています。ちょうどソ連が、軍事占領下で東欧諸国に、モスクワに亡命していたディミトロフ、ピークら共産党指導者を送り込み、スターリン型社会主義を設計し実現したように、アメリカは、日本の占領を彼らの設計した「革命」の実験場にしたのです。

 こうした米国「四二年テーゼ」型の戦略が、戦後の占領改革と日本国憲法の大枠を規定しました。そのために、アメリカ共産党や野坂参三の考えも、参照されました。ソ連政府も、中国国共合作中の蒋介石も毛沢東も、その方向を承知していたと考えられます。そして、実際、彼等のシミュレーション通りに、日本の「民主主義革命」が進められ、「天皇制民主主義」が誕生するのです。

 詳しくは、近著象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書をお読みいただければ幸いです。

 

※ 本稿は、社会主義理論学会第一六回研究・討論集会(二〇〇五年四月二九日、東京・全水道会館)の報告テープ起こし原稿を、修正・加筆したものである。


ホームページに戻る