九条遺言
「新憲法世代」を生きて
一市民の戦後を考える
はじめに
昨年2月23日、二年前の創設から参加し、一世話人を務めさせて頂いている地元千葉県柏市の「かしわ9条の会」の主催で、「憲法討論集会」が開催されました。
その日は期せずして、僕の七十三才の誕生日にあたりました。
この討論集会のテーマが、「私と九条」だったこともあり、それに触発されて、僕の「九条遺言」を遺すことをみなさんと約束し、同時にその日から、憲法を磁場に73年生きた人生を照らして、総括して見ようと自分史の試みを始めました。
その「憲法討論集会」で発言した内容を踏まえて、地元の先輩である元波尊さん(8
3歳)とご一緒に、8年8月15日の敗戦記念日を記念して、「九条遺言の会」をスタートさせました。
そして僕がもう一つ創設以来参加している「旬報9条の会」(弁護士21名が中心に
結集する「旬報法律事務所」所属)の機関紙15号(08.6.6.)に、「九条遺言のすすめ」の駄文を投稿しました。
いま「九条の会」は全国に7000余の組織の拡がりを見せて、いわばヨコ方向に運動が進んできていますが、どの会の会員も、若者の結集に心を砕いています。
そこで、僕のように体の自由が効かなくなった老人一人の力でも、家庭の中でもできる運動は無いものかと思案しました。
その結果が組織拡大のヨコ運動に対する、一族郎党へのタテの運動「九条遺言のすすめ」です。
ご老人のみなさん。ぜひ「九条遺言」を遺して下さい。
「九条遺言」に遺して頂きたいことはたった一つ。
「わが家の末代まで、憲法九条を改める側に加担してはなりません。」
たったそれだけの遺言で結構です。
全国7000の組織に結集するご老人一人一人がこの「九条遺言」を残せば、「護憲」対「改憲」の「永遠の一票運動」の闘いに、末広がりに勝利の展望を広げることが出来ると確信します。
組織拡大のヨコ運動も大事ですが、この「九条遺言」のタテ運動の方が、誰にでも直ぐ出来て、未来に老人の「夢」を託すことが出来る、生きがいのある運動だと思いませんか。
「九条遺言」を遺すことは、その直接の効果のほかに、親子間で真面目な話をするのが困難な中で、この「遺言」をめぐって、老人と若者が対話するキッカケができるという、予期せぬ期待が膨らむはずですし、親の言葉で体験談を聞いてもらうことで、孫の孫まで九条を守ることの大切さを、実感として引き継いで伝えて呉れるでしょう。
「言い出しっぺ」の僕はその責任において、九条遺言「新憲法世代を生きて」という自分史を残すことにしました。
僕は1933年生まれ。幸い朝鮮に生まれて空襲に見舞われることも無く、戦争の悲惨さを、直接の体験として伝えることは出来ません。
しかし世界に誇る「新憲法誕生」の生き証人として、当時の状況と、その後の日米の「改憲勢力」の圧力と、それに対する抵抗を語り、「新憲法世代」の誇りを、後世の若い人に伝えることは出来るはずだと考えました。
出来れば「遺言文」に加えて「自分史」をクロスさせながら、「悲惨」でなく「希望」の伝達を、73年の実体験として、書き残して置きたいと考えました。
「旬報法律事務所」所属の「旬報九条の会」機関紙15号に投稿した数ページの「九条遺言のすすめ」の拙文を見てくれた若い仲間から、自分史に関わる部分を、もう少し詳しく書いてみたらという勧めが動機になり、最初は10ページ前後の「新憲法世代を生きて」で始めたのですが、幸い読んで頂いた方から、「感動した」などのお褒めを頂き励まされながら「ここもあそこも」と書き綴っていましたら、こんな長い拙文になりました。
みなさんにぜひお奨めしたいのは、最初から意気込まずに、まず「九条遺言」を遺す。そしてその裏づけとして、生きて来た過去を少しずつ想い出しながら、楽しみながら書き加えていく。「頭の体操」くらいのつもりで始められることです。
この自分史を「憲法」と対峙させながら見直す作業は、同時にあと僅かに残された尊い時間を、過去に恥じないようにどう生きればよいかの姿勢を決める、その方向を再確認する作業でもあり、僕にとって大変有意義でした。
まずは私の息子淳44才・達42才、娘奏35才に遺した「九条遺言」」から掲載させて頂きます。
息子淳・達、そして娘奏に遺す
日本国憲法第九条は、地上からすべての戦争を亡くす人類の本史の、第一ページを飾るに相応しい、人類的偉業です。
私は、その憲法九条誕生の「生き証人」として青春を迎え、生涯を改悪の圧力に抗する立場で生き、誇りをもって名誉ある死を迎えることが出来る「新憲法世代」のひとりとして、何よりの幸せを感じます。
私につながる子々孫々は、私たち「新憲法世代」の誇りを引き継いで、それぞれの生涯で、いかなる圧力があろうとも、それに屈せず憲法第9条を守り抜き、戦争で人を殺す過ちを二度と繰り返すことなく、決して改悪勢力の側に荷担してはなりません。
2008年2月23日/七十三才の誕生日に記す
父 安藤洋
第一部
「新憲法世代」の希望・挫折・抵抗
自分史に照らして、人間の「生きざま」を考える
① わが「安藤家」素描
私が誕生したのは、朝鮮京城府(いまのソウル市)を流れる漢江という大きな河の、橋の近くの鉄道官舎でした。
真珠湾攻撃は、僕が当時新制の国民学校の第一期生として、龍山国民小学校に入学したばかりの、ランドセルがピカピカの1年生の冬でした。
この年の二月頃、米国ロスアンゼルスから、僕の祖母が末の息子W叔父(当時ハイスクール生)を連れて帰って来ました。
あとで知ったことですが、米国では日米開戦を間際にして、日本人を強制収容所に収監する事件が起き、それを巡って反対した勝気な祖母と、人のいい祖父が口論し喧嘩別れになって、祖母は、アメリカに祖父と娘二人とその家族全員を残して、まだ母離れの出来ない一番下の高校生の息子W伯父さんだけを連れて、日本に引揚げて来たというのが真相でした。
第二次世界大戦の開戦は、安藤一家をバラバラにして、波乱含みのスタートだったのですが、まだ小さな僕には、まったく想像もつかないことでした。
アメリカからの土産物に何が欲しいと聞かれて、僕は即座に大好きなチョコレート、次兄は玩具のピストル、姉はフランス人形、長兄はコダックカメラと願って、それぞれが叶えられてみんな大喜び。あとは自分の宝物を壊されることだけが心配で、僕には絶対触れさせてくれませんでした。それなのに僕のチョコレートだけは、みんな直ぐに手を出して食べる。僕は毎回この不平等に大声を挙げて、泣いて抗議しました。
僕の祖父は、大正の初期、九州の貧しい三反百姓に嫌気をさして、妻と子供四人を置いて突然蒸発し、横浜、香港、フィリッピン、ハワイと八年を放浪してたどり着いた先が、米国ロスアンゼルス。
そこはまさに排日移民法(1924)下にあり、ハワイでコックとして働いていた海軍軍指令官の邸宅の婦人に気に入られて、一家が帰国するとき、祖父をどうしてもアメリカに連れて行くと、「在郷軍人婦人会」を動員した圧力のお蔭で、困難な入国を果たしたということから始まって、アメリカ大陸縦断鉄道建設の飯場のコックとして働くなど、貧しい生活の苦闘の歴史だったようです。この鉄道建設は中国人移民労働者の犠牲の上に完成したといわれていますから、祖父はキットその中で一緒に生活していたのでしょう。
戦後帰国してきた祖父は、自分の日本蒸発から、太平洋の荒波にもまれて死ぬ思いをした航海を、自分で歌(都都逸風)のオーラルヒストリーに記憶していて、家族全員が再三聞かされました。子供の僕には調子はずれの歌にはまったく興味は無く、「また始まった」とイヤイヤながら聞いていたので内容は覚えていません。今になって、兄姉との想い出話に、「録音器があればよかったのにね。」という話が必ず出ます。
ある日九州の片田舎に、8年間音信不通だった祖父から突然一通の航空便が舞い込んで、「家族全員アメリカに渡って来い」と誘いを受けた時は、祖母と娘二人(中学1年生、小学6年生)は、一も二もなく大喜び。
しかし親父と親父の兄貴C伯父さんは、中学5年生と4年生になった難しい大人のはしりで、この誘いに猛反発。
親父からいつも聞かされた話では、一家の中心の働き手が蒸発した後の生活は、貧乏の極限にあったようです。
親父がよく語った悲しい話は、ある日、稀にしか口に入らない卵一個を隣家から貰って、みんなで譲り合った結果権利を得た末妹が、歓び勇んでご飯にかけた瞬間、「アッ!」滑って下に落ちて潰れてしまった話。父は僕たちが「卵かけご飯」をするたびに、この想い出を語り、「中心に穴をしっかり大きく掘れ」と繰り返していたことから推察すれば、想像もつかない貧乏を体験していたようです。
「いまさらオヤジ面して渡米して来いとは何事だ!」と怒り狂って、二人だけ日本に残ったのは、当然といえば当然だったようにも思います。
その後親父は、中学を卒業して朝鮮鉄道に就職。
親父の兄、長男のC伯父さんは、家系を守るために実家の三反百姓を引き継いだのですが、彼もまたある日突然、お爺さんから受け継いだ血が騒いだのか、今流に言えばDNAがそうさせたのか、妻と一人息子を九州の田舎に置いて蒸発。親父を尋ねて朝鮮に立ち寄り、その後中国に渡ったそうです。僕が生まれる前のことですから、僕はC伯父を直接には知りません。彼は中国東北地方に渡って、最後は「馬賊」になっていると噂され、戦後も行方不明になったままです。
もしその時、彼が妻と一人息子を引き連れて父母の居るアメリカ行きを望みさえすればいつでも行けた筈なのに、なぜそれを拒否して中国行きを選んだのか?
このアメリカ行きが兄弟二人の話題にならなかったはずはありません。
久しぶりに逢った弟の家で、夜を徹して語り合ったはずの、エスペラントを学んだことがあるといっていた兄弟の間で、どんな話があったのか?
しかしC叔父さんは、自滅とも思える中国行きの選択をどうして選んだのか?
これから先は、小説的手法で想像力を働かせるしかありませんが、C叔父さんの、社会に対する反発と、親に対する反逆と、そして孤独な決意と、意地と、根性の葛藤を垣間見るようで、いつも心のどこかで、C伯父の生きざまに惹かれ続けて来ました。彼の「馬賊」とは、実は強盗集団でなく、中国東北のパルチザンだったのではないか?などと想像逞しく。
また親父の末弟のW叔父さんは、思春期の米国人高校生として、まさに戦争に突入する直前に、母の帰国に連れ添って敵国日本に移住して来て、兄貴である僕の親父の努力で、東京の明治大学に入り勉学に励みました。
しかし食べ物の無い日本の生活に慣れずに、肺結核を患って九州の田舎に帰り、その上、敵国人として、警察の豚箱に収監されるという災難に遭い、その上、一緒に米国から帰って来たオフクロは、慣れない麦刈りの作業で、両眼を穂先で潰して全盲になるなど、など。
敗戦後、日本語もペラペラの彼は、現地日本で米軍の軍属に徴用されるのですが、軍での仕事の内容は、数年後米国に帰国するまで一言も我々に話しませんでした。
この話は、彼のアメリカ生活、二人の叔母たちとその家族、今では米国で50人以上にもなっているはずの僕の従兄弟、甥、姪と繋がって、話は延々と続くのですが、これを書いていると、いつまでたっても、僕の自分史にたどり着きそうにもありません。今はこれ以上綴りません。
しかし、日本・米国・朝鮮・中国と、四カ国に分断されて、それぞれが翻弄されながら真面目に生きた「安藤家の戦争災難の歴史」は、いつかどこかで、しっかり記録に残して置かなければと考えています。
君たちの時代には、外国が他国を侵略し支配することなど無く、国境を自由に往来して交流を深め、人の幸せを奪うことのない時代が来ることを心から願っています。
さて、僕自身の歴史は~
②軍国幼年生の「夢」騒動
生涯で一番最初の忘れられない想い出といえば、幼稚園生のときの「神に命令した?事件」です。
当時朝鮮半島第一の神社は、市内の「朝鮮神宮」でした。
今と同じように、元旦にはどの家族も「初詣で」をする慣わしで、僕も早起きして親父に連れられて、初めての初詣に出向きました。
その途中、親父に「初詣に行って何をするの?」と聞きましたら、親父は「神様に大きくなってやりたいことをお願いするんだ。」と教えてくれました。
そこで、僕は予てから心に秘めた願いごとがあり、今日こそはそのチャンスと意気込んで神宮に参りました。
広い神宮の境内に入ると、家族から飛び出して一歩前に飛び出した僕は、一人胸を張って、大またにサクサクと玉砂利を踏んで、真っ直ぐ境内を行進して神殿の前まで行き、霊前に直立不動で立って最敬礼をしました。
これで止めておけばいいものを、突然胸を張って、大声を挙げて言いました。
「僕は騎兵の一等兵になるんである!」
静まり返った霊前の突然の叫び声に、家族全員、そして境内の数百人の人々が、一体何が始まったかと一斉に注目して固唾を飲んで見守る中、僕は緊張に体が震えて、次の言葉がなかなか出てこない。
直立不動のまま突っ立っている僕が、次は何を始めるのかと、心配で駈け寄る親父が近づこうとした瞬間、僕は大声で叫んだ。
「お前はそれまでそうしとけ!」!?
その後は親父の慌てた姿しか記憶に無い。
この時の僕は「あなたはどうかそれまで僕を見守っていて下さい。」とお願いしたかったはずなのですが、語彙の貧しい幼児に、そんな器用な言葉は出てこない。
この失敗は後々まで「お前は神様の霊前で、神様に命令したんだぞ。」と、親父や兄姉に事ある毎に冷やかされることになります。
今になって考えてみると、あの時の親父の異常な慌てぶりは理解できます。
もしあの周辺で礼拝していた数百人の目撃者の中に、頭の堅いコチコチの「超国家主義者」の憲兵か警察官が一人か二人いて、僕の言質を「不敬罪」だと判断し、親父もろとも逮捕される危険性が、まったく無かったとはいえない状況だったのだと。一歩間違えれば「幼稚園児、不敬罪で逮捕さる」で、テンヤワンヤの騒ぎが起こらなかったとも限らなかった訳ですから。
いっそのこと「陸軍大臣になるんである。」と、大見得切った宣言でもすれば面白かったのにとは思いませんか?
なぜささやかな「騎兵の一等兵」だったのか?
その心は、「騎兵の一等卒は、馬に乗って、刀を提げて、鉄砲を担げる。最高に格好いい。」
こんな純粋無垢な軍国幼稚園児童でした。
③はじめての民族差別体験
絶対に忘れられない小学生時代の強烈な想い出は、「民族差別」とはどういうことかを、体の芯まで学ばされたことです。
二年生の頃、近所に住む二才年下の韓国女性Sチャンと、近所の建築途中で倒産した廃墟の四階建てビルの一室を、ふたりの手作りで我が家に仕立てて、毎日「ママゴト遊び」をしていました。はじめてのプラトニック・ラブだっかも知れません。
数軒隣に日本人鉄道員の独身男性寮があり、その賄いをして働いていた彼女のオモニ(お母さん)は、いつも娘に「ママゴト遊び」の果物や、お菓子を持たせて呉れました。
ある日、Sチャンと僕が珍しく口喧嘩をしてしまって、僕がつい口走った「朝鮮人」という罵りの暴言を、娘から聞かされたオモニが、突然、背の高い大きな体に、釜炊棒をカッ下げて血相を変えて飛び出してきて、「朝鮮人何で悪い!」と、何度も何度も繰り返し叫びながら、僕はその娘の前で、死ぬかと思うくらい、こっぴどく叩かれました。
日本植民地下ですから、日本人の子供に暴力を振るったとなれば、警察沙汰ではすまない問題なのですが、オモニは怯むことなく殴り続けたのです。その気迫に怖気づいて、僕は父にも母にも、二人が死ぬまで、このことは話せませんでした。子供ながらにオモニの方が正しいと思ったからです。
後に学んだことですが、「国際連合憲章」前文にある「基本的人権と人間の尊厳及び価値と、男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し」とある一文を読んだ時、身を以って諌めてくれたオモニの、あの時のあの姿を重ねて思い出すのです。そしてこの文を書きながら、いま気が付いた大切なことがあります。
「国際連合憲章」は、1945年10月24日に発効。この「オモニ事件」は、真珠湾攻撃の次の年、侵略戦争真最中の、朝鮮支配鉄壁の1942年の春か夏か。
あのオモニは、命を賭けて厳しく教えてくれたのですから、それがどんなに凄いことか。
「虐げられている側にこそ正義がある」という教訓を、理屈でなく学んだ瞬間だったのだと、僕は今になって気付くのです。
当時鉄道に務めていて敗戦を迎えた父は、「朝鮮人へのお詫びに、鉄道の全財産を朝鮮人に引き継いで、自分は最後の帰国船で帰る」と決意していて、言葉どおり三年後に、最後の帰還船で一人帰国して来るのですが、「あのオモニが、毎日の食事や洗濯の世話をして親切にしてくれたよ。」と言って喜んでいましたので、僕はとても嬉しかった。
それにしても、なぜオモニから殴打されたことを、父母に話さなかったのか?
この時の心境が胸に深く凍りついていて、この文を書きながらも、なんども繰り返しあの時のことを想い出し、自問自答しました。
「最後の帰国船で帰る」と決意した父の姿を思い浮かべながら見えて来たのは、あの占領下の朝鮮に在って、僕のオヤジとオフクロには、朝鮮人に対する「感謝」の気持ちはあれ、「差別」の意識は無かったのではないかということです。
僕の父は、貧農に生まれ、父とは10才前後に、母とは15才頃に生き別れて、中学を卒業して朝鮮わたり、鉄道に入社して、平壌での平社員を皮切りに、数ヶ所の田舎駅の助役や駅長を現場で務め揚げて、最後は京城本社の人事課に勤務していました。一緒に朝鮮半島を渡り歩いた母は、長男卓のお産は平壌でしたからまだしも、姉妙子と次男哲は、日本人のほとんど居住していない田舎で生まれましたから、「妙子のお産のとき、お医者さんは居ないし、お父さんが臍の緒を切って、朝鮮人にお世話になった。」と話をしていました。
だからキット父母には、朝鮮人に対する「感謝」の気持ちはあっても、「差別」の意識は無かったのだと思います。
そう言えば二人は日頃から僕たち子供の前で、朝鮮人に対する差別用語を使っていた記憶がありません。もし差別を平気でするような親たちなら、とっくに毎日僕が朝鮮人Sチャンと遊んでいることをきつく咎めたはずです。そんな父母に対して僕が「殴打事件」の報告をすれば、今度は父母から「差別」をしたことを叱られると思った。それが深層の心理だったのだと思います。
その上僕は全く知らなかった事ですが、僕のこの自分史を読んだ姉から最近電話があって、「お父さんは私たちが京城を引揚げた後、あの私たちの家で、朝鮮人家族と一緒に住んで共同生活して、帰る時には家財の一切をその家族に差し上げて帰ったのよ」と聞いて驚きました。当時の日本人家屋は、貧しい朝鮮人にとっては羨望の住宅だったのでしょうから、父と仕事上か何かの縁があって、この人は信頼できると判断した上で、最初から家財付きの一切合財を差し上げることを覚悟の上で、帰国までの期間を共同生活というかたちで住まわせてもらいながら、食事は近所の独身寮の食堂に行って、Sチャンのオモニの世話になっていたというのが、真相ではなかったか?
この話を知ったいまでは、あらためて父を誇りに思い、いつかここに書けなかったことと一緒にして、「父母へのオマージュ」を1章、書き加えたいと考えています。
④学徒集団疎開での楽しい生活
小学五年生の春、疎開先の利川市は、ソウル市から列車で南に半日以上かかる、朝鮮人街でした。
その町で唯一の小学校が、僕たち日本人学徒のために接収されて、学校の体育館が、集団疎開基地になりました。
早朝6時ごろ、全員が起こされて、近所の神社詣でをし、「天皇陛下の宮城に向かって最敬礼」が日課で、それだけが鮮明に記憶に残って、授業を受けた記憶はまったくありません。
毎日食うものが高粱ばかりの握り飯一個で、菜は漬物ばかり。
夕食後には、腹を空かした全疎開生(約150人)が、三三五五と日暮れの校庭に集まって、何処からか一人の女生徒が、押し殺した声で「お母ちゃん!」と泣き始めます。それが瞬く間に輪のように拡がって、「お母ちゃん!」「お母ちゃん!」の大合唱になり、毎晩の儀式のようにパターン化して、これが終わらなければ誰も寝床に向かえませんでした。姉妹で疎開してきていた二人が、ある日突然キャンプを逃げ出して父母の処に帰るといって行方不明になって、警察が捜査隊を出すと言う大騒ぎになった事件も在りました。結局帰宅できず途中で捉まったのでしたが。
幸い僕一人は、ちょっと違った生活をしていました。
あの「民族差別」体験が、「災い転じて福となす」で、疎開先の朝鮮人学校の生徒達と、直ぐに仲良くなって、彼らと一緒に毎日楽しく遊び暮らしていました。
当時の子供たちは、日本人学校と朝鮮人学校は峻別され、日本人と朝鮮人が一緒に仲良く遊ぶなどとは、社会的に許されないことでした。都会地のソウルでは、朝鮮人の子供たちが、日本人街に集団を組んで「ゴミ漁り」しながら飢えをしのいでいた様子でしたが、日本人街に必死の覚悟で入ってくるその集団に対して、日本人の子供たちは石を投げつけて遊ぶ「戦争ゴッコ」をしたりして、険悪な状況でしたから、一緒に遊ぶことなど想像もできませんでした。
早朝に起こされて、隊列を作って、軍歌を歌って高台にあった神社参りを済ませば、後は授業も無く、何もすることがありません。
僕は一人宿舎の体育館からそっと抜け出して、地元の子供たちの溜まり場に、遊びに行きました。先生からは「毎日一人で何処に行くのか」と詰問されましたが、「朝鮮人と遊んでいる」と言えば叱られるので、僕は明かしませんでした。
朝鮮の友人達が、毎朝僕を誘いに来るのも、細心の注意を払って、秘密の場所を作って、そこで密会もどきの待合わせをしました。
彼らの家にも再三連れて行ってもらって、オモニに食事もさせて貰いました。朝鮮人が片膝を立ててする食事作法も、この時初めて見て驚きました。アボジ(叔父さん)が、広い畑の真中に高い塔を立てて、その上でキセルタバコを吸いながら監視する畑から、アボジの目を潜って「まくわ瓜」を盗んで食べる襲撃方法も、悪童仲間が戦争ゴッコに見立てて教えて呉れました。
都会っ子で日本人の生活しか知らなかった僕にはどれもこれも新鮮で、ゾクゾクする体験でした。
学徒集団疎開後四ヶ月で敗戦。
8月14日。ある日、朝鮮人の友達たちと魚釣りに興じていた僕に、先輩の朝鮮人が自転車で駆けつけてくれて「みんなどこかに移動するらしいよ」と教えてくれました。彼の親切が無かったら、僕一人現地に置いて行かれて、「残留孤児」になっていたかも知れません。
慌てて宿舎に帰ったら、もうみんな荷造りが終わっていて、僕は先生にこっ酷く怒られました。龍山駅に迎えに出た母と姉は、「みんな親に抱きついて泣いているのに、あなただけはニコニコしていた。」とチョット不満そうでした。
龍山駅前の大通りは、電車の天井にまでチョゴリを着た朝鮮人が、道路一杯に拡がって、旗やのぼりを乱舞させて、「マンセイ、マンセイ」をくりかえしていました。
利川の田舎には無かった風景で、日本が戦争に負けたことを、この時初めて実感しました。
短い期間でしたが、10歳の幼年期の四ヶ月を、同年齢の外国人に囲まれて、毎日楽しく過ごした想い出は、生涯忘れられません。
いつの日か必ず韓国を訪問して、Sチャンや利川の仲間と旧交を温め、あの頃のお礼を言いたいと願いながら、その後直ぐ始まった朝鮮戦争と、その後の独裁政権、そして反日の嵐に足をすくわれた形で、今に至ってしまい、残念でしかたがありません。
⑤敗戦と引揚げ
「最後の帰還船で帰国する。」と残留を決意した父。そのために家族だけは最初の帰還船で返すと、敗戦の10月には、母と兄姉4人で、釜山港に向けて出発しました。再び逢えるかどうかも判らない状況の中で、「水酒杯」を交わすお別れをした時の、母の激涙は忘れられません。
祖父の蒸発で自分の家族がバラバラにされた不幸な体験をした親父。日頃「家族とはどんなことあって離れない」と言っていた親父の、この時の胸中はいかばかりか。兄たちも姉も僕も、もうこれで父には逢うことが出来ないかも知れないと、全員が涙しました。
一番仲の良かった友人I君は、近所で鉄鋼場を経営していた金持ちの息子で、財産を持ち帰るためにヤミ船を雇って帰国しました。しかし玄海灘で船が難破し、10人以上の家族と一緒に、死亡してしまったという痛ましい事件もありました。
一人にリックサック一個と、例外の無い厳しい荷物制限に、一家のすべての財産を捨てて、釜山から博多に上陸しました。釜山では船舶の手配が予定より遅れて、一週間くらい学校の体育館に数百人がゴロ寝して生活しました。
毛布一枚で区割りした僕たち家族の直ぐ隣に、鉄道病院小児科の先生の奥さんと娘さんがいて、僕が幼少の頃、心臓弁膜症と診断されて世話になったお医者さんの家族だけに、直ぐに親しくなりました。お母さんも娘さんもとても美人でした。僕も直ぐにその娘さん(一級下の四年生)と仲良くなり、近所の山に二人で毎日散歩に出かけました。オフクロが握り飯を持たせてくれた記憶もあります。
ある日、何処からが数発の拳銃の音を聞いて、怖くなって急いで宿舎の体育館に帰った記憶があります。初めて聞く銃声でした。
釜山からの船中では、疲れのためか高熱を発して寝込んでいて何も覚えていません。
日本の本土が見えるとことで母に揺り起こされて、「洋チャン。あれが日本よ」という、母の涙声だけを覚えています。
内地には「塩」が無いという情報で、僕はリック一杯に重たい「塩」を担がされて、釜山から博多に上陸したのですが、それを誰が担いでくれたのかこれも覚えていません。
⑥帰国した父母の故郷
日本帰国の第一印象は、とても悪かった。
逢う人逢う人が殺気立っていて、博多港から駅までの混雑した移動、そして車両への乗り移りは、体ごと窓から押し挙げられた記憶があります。博多から大分までの道中も、焼け野原だったように記憶しています。
母と四人兄姉で、父母の故郷である九州大分県竹田市に三月、それから1キロ先の、小富士村に帰り着きました。
竹田市にある母の兄の家に最初は落ち着く予定でしたが、転がり込んだ一家5人を歓んで受けいれるほど、食糧事情が良くありませんでした。直ぐに伯父の後妻と僕の母との折り合いが悪くなって、直ぐ父の故郷である小富士村に引っ越すことになりました。
帰り着いた父の郷里での田舎の生活は、全盲の祖母と、結核のW叔父と、帰還組5人の合計7人の、苦しい生活の葛藤が始まりました。
三反の田んぼは荒れ放題、素人の僕らには、充分の耕作が出来ません。5人で手分けしてリックで持ち帰った貴重な母の衣類や塩などを、物物交換したりして食い繋ぎました。この「物物交換」はいつもアメリカ帰りのW叔父の役割で、大好きなW叔父のアメリカでの話を聞きながら一緒に同行するのが、僕の楽しみでした。
農村での生活にもかかわらず、主食は、米はほんのつなぎにしか入っていない「かぼちゃご飯」、「おからご飯」、「ヒジキご飯」、「芋ご飯」、「たけのこ飯」などが毎日で、せめて変化だけはという母の心遣いだったのでしょう。
貧しい農村に突如乱入した「よそ者」に、クラスの仲間たちの歓迎は冷たく、全員
にシカトで苛められました。当時の子供社会は、軍隊を模倣した既成の秩序があって、その力関係を掻き乱すよそ者の乱入者には、抵抗が渦巻き、制裁でしか解決方法がなかったのでしょう。
同じ農村でも、あの優しかった朝鮮の仲間たちとは大違いでした。
ある放課後、僕は校門前でクラスの全男生に囲まれて、乱闘騒ぎを起こしました。
当時僕は少年時代体が比較的大きくて相撲が強く、喧嘩に自信はあったのですが、数十人相手ではどうしようもありません。そこで作戦を考えて、一番ボスとの対決は避けて、僕が確実に勝てる三番ボスを選らんで投げ飛ばし、大急ぎで校門から、100米ほど先の我が家に逃げ帰りました。この「作戦勝ち」は、僕の番付を三番に定着させて、それ以降のクラスの序列は安泰になりました。
それでもこの時の悔しさがいつまでも忘れられず、つい三年前、60年以上も経ってようやく、音信不通だったクラス全員の名簿を入手して、「おまえたち、もう許してやるぞ」と、初めての年賀状を書いて、積年の鬱憤を晴らし、ようやく安堵しました。これでもう彼らを恨むことはありません。彼らが悪いのでなく時代がそうさせたのですから。
⑦素晴らしい日本国憲法の誕生
田舎のオンボロの木造教室で、先生が指し示す個所を、墨筆で一行一行を潰して、真っ黒になった歴史教科書の強烈な印象は、忘れることが出来ません。
その代わり「あたらしい憲法のはなし」という教科書が配られて、みんなで輪読し、日本国憲法が「民主主義」「国際平和主義」「主権在民主義」で出来ていることを知って、激変した新世界の誕生に興奮しました。
とくに「戦争の放棄」のページでは、1ページ大のイラストが書かれていて、「戦争放棄」と書かれた大きなカメに、上から兵器がガラクタのように投げ込まれて、下から電車や船やビルや鉄塔が出てくる。
『これからさき日本には、軍隊も海軍も空軍もないのです。これを戦争の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんけっして心細く思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に正しいことくらい強いものはありません。』
『いくさをしかけることは、自分の国をほろぼすようなはめになるからです。また戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことに決めたのです。』と、極めて説得的な文章が、やさしく書かれています。
いま手許に、新婦人の会が複製出版した「あたらしい憲法の話」がります。ときどき引きだして読み返すのですが、どこを読んでも、書いた人自身の生き生きとした歓びがじかに伝わってきて、とても感動します。
つい昨日の墨筆で消したばかりの教科書の文章との対比で、国が根本的に変革された事実は鮮明で、生涯忘れることはありませんでした。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」(憲法前文)
⑧「新憲法世代」の中学生活
中学生への進学は「新憲法世代」への記念すべきスタートとなりました。
日本の歴史上初めての、本物の「平和と民主主義」の嵐が吹きあれて、幼い中学生なりに、その鮮風を一杯に吸い込んで、ここには仲間と一緒に、創造的、組織的に生きた、希望に燃えた青春の喜びがありました。
花火が燃え盛り、すぐに消えるような一瞬ではありましたが。
1946年11月3日新憲法公布。
1949月7月24日レッドパージ開始。
わずか三年の「天国」。
時代は新しい文化に飢えていました。
「人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんの好きな所に住み。自分のすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由はけっして奪われてはなりません。」(あたらしい憲法の話)
自分たちが希望し発案さえすれば、何でも出来るそれが「民主主義」だと、子供ながら生き生きと挑戦しました。「青い山脈」を地で行く心地でした。
初めて経験した選挙による生徒会活動で、学級委員に選ばれました。
先生や兄貴達の新劇運動に加わり公演した「ピーターパン」に主演し、直ぐに大人抜きの中学生だけの自主劇団を旗揚げして、「アラジンと魔法のランプ」を有料公演。(今では考えられませんが、中学生だけの劇団が有料公演することさえも許されました。)
その時一緒に演劇活動した仲間の一人に、その後も演劇活動一本に専念してプロになり、いまも「劇団東演」で活躍している古参団員溝口順子がいます。彼女は八田元夫・下村正夫らと劇団創設から参加し、「女性九条の会」でも活動している僕の信頼できる仲間です。
そして校庭のボール遊びから、誰言うとも無く発案したバレーボール部を創設して、キャップテンに選ばれ、郡大会に優勝し、県大会に三位入賞。生きる喜びを満喫した中学生活のスタートでした。
滝廉太郎の「荒城の月」で有名な岡城のあるトンネルを潜らなければ外に行けない美しい盆地の城下町にも、「新憲法」の風が心地よく吹きまくって、生き生きとした青春を謳歌したことは、生涯忘れることが出来ません。
僕は「新憲法世代」だよと胸をはって自慢できる「幸せの原点」でした。
「レッドパージ」というとてつもない悪夢さえ来なければと、悔しくてなりません。
⑨自殺未遂事件
まもなく歴史は急激に暗転してしまいます。
朝鮮戦争、中学恩師のレッドパージ、下山・三鷹・松川、そして近郊の菅生村での警察派出所爆破謀略事件(地元の共産党組織に警察のスパイが潜り込んで、彼の手で爆破物が投げ込まれ、党員が冤罪にされた。)マッカーシー旋風、アメリカの再軍備要求。
敬愛する恩師T先生をパージした歴史の逆流は、いったい誰の策謀だったのか。
「憲法第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
恩師のレッド・パージ後、学校は一瞬の内に暗転しました。
パージを受けたT先生の退職のあいさつも無いままに、ある日突然、日頃は教室に顔を出したことも無いG教頭がいきなり入って来るなり、僕を指名して起立させ、「お前は素行が悪い。」と、延々と訳の判らない罵倒とおぼしき説教を始め、一時間の終鈴が鳴るまで辞めませんでした。
学校は怯えた先生たちで真っ暗になって、「赤い中学生」の代表として僕が槍玉に上がり、G教頭が先頭に立って、生徒間にシカトを強制して、仲間との交流を妨害しました。校長室が僕一人のための即席教室に変わり、僕の教科書は、小泉信三の「共産主義批判の常識」。読破と感想文を強制されました。この文を書きながら、あの時強制的に読まされた「共産主義批判の常識」とはどんな本だったのか。もう一度読んでみたくなって買い求め読み始めたのですが、今読んでも何を言っているのかさっぱり判らない。こんなものを読ませれば、「アカ少年」が目覚めると思った教師に、あらためて反面教師の資格を贈りたいと思います。
先生が生徒を槍玉に挙げて苛め、全校の生徒に彼に対するシカトを焚きつける。こんな情景をあなたは信じられますか?
九州の田舎町のことで、パージ反対の運動もまったく興らず、一人孤立して悩みました。
当時学校は、新校舎に移転したばかりで、山肌に段構えの仮小屋のような校舎棟でしたが(事実、数ヶ月後には、台風で潰れてしまうのですが)、校舎棟の下には、校庭があり、更に下に「稲葉川」という清流が流れていて、その数百米の所に「魚住の滝」という地元の名所がありました。
ある日、英語の時間中に、胸が張り裂けそうになって、ひとり教室を飛び出して、「魚住の滝」に飛び込んで自殺を図ろうと走りました。英語のK先生が追っかけてきて、滝の入り口で捉まったので助かったのですが、あのK先生の、何のお説教もせず、黙って傍に立って僕を見つめてくれていたことが、先生も自身の悩みを告白しているようで、それが救いになったのだと思います。
そして家に帰って何日かしてある日、兄貴と手作りで倉庫を改造して作った小さな勉強部屋で、首にベルトを巻き付けて、自殺を試みましたが果たせませんでした。あのベルトは、バックルを通して絞ったために、途中で針が穴に刺さって、巧く閉まりませんでした。この「自殺未遂事件」は、後になって姉には話した記憶がありますが、当時は家族の誰も知らないことでした。
救いになったのは、家庭で共産主義者だった兄貴とキリスト者だった父の、夕食の席での毎回の政治談義。傍で黙って聞きながら、自分なりに良し悪しを考えるチャンスがあったこと。そして京都ではレッドパージされた中学校の先生(後に国会議員となった寺前巌さんだったと記憶していますが)を支援する運動が拡がっていることを新聞で知って、僕は間違っていないと少しずつ自信を取り戻しました。
⑩唯物論と唯心論の行司から学んだもの
兄貴は旧制五校から、真下信一を慕って名古屋大学の哲学に進学し、九州に帰宅するたびに、父との間で論争を繰り返していました。この度重なるキリスト者の父と、共産主義者の兄の政治・哲学談義は、僕の思想的成長に大きく影響を与えてくれたと思います。
なにせ「唯心論」と「唯物論」の真剣勝負に、中学生の僕が行司の立場で立ち合うのですから。ある場合には親父に軍配を挙げ、ある場合には兄貴に軍配を挙げる。
時は朝鮮戦争から講和発効まで。親父は聖書を読むことを日課としていた真摯なプロテスタントで、祖父や兄弟姉妹がアメリカに居住していただけに、話題の中心は「日米関係」でした。
アメリカでは、マッカーシー旋風が吹きまくり、ハリウッド・テン(あのチャーリー・チャップリンやマリリン・モンローと結婚したアーサー・ミラー、ジョン・ヒューストン、ウイリアム・ワイラー、ドルトン・トランポなど)の闘いなどが、毎日ラジオや新聞で送られて来ます。
いまの若い人たち知って貰いたいので、この事件についてもう少し述べさせて下さい。
この「赤狩り」に反対して、ハリウッドの共産主義者でない自由な映画人、例えば皆さんご存知の、ダニー・ケイ、ジュディー・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、グレゴリー・ペック、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、フランク・シナトラ、キャサリン・ヘップバーン、べニー・グッドマン等が、この「赤狩り」に反対して抗議運動に立ち上がりました。
「エデンの東」「波止場」で有名な監督が節を曲げて屈したことも話題になりました。あの元大統領ロナルド・レーガンやウォルト・ディズニーは、告発者としてマッカーシー委員会に協力しました。
「反共」がいかに馬鹿げたことで、思想や芸術を堕落させるかを、兄の解説付きで学ぶのですから、結局は兄貴の論証に軍杯を挙げて、その道に惹かれていくことになるのですが、親父のキリスト者としての人間的に誠実な説得も魅力的でした。
その中で僕が学んだ大切なことは、自分がどの立場に立つか。何よりも自分の主体性をしっかり持って判断しなければならないこと。世の中を片方だけ見るのでなく相対的に見る複眼の目が大事なこと。納得できない理論や運動に引きずられるのでなく、間違っている判断したら、チャンとした意見を言う。悪に立ち向かうには勇気が要ることなど。
人間としての「生きざま」を学びました。
兄貴が持ち帰った本の中のどこかに、マルクスが娘たちの出したアンケートに答えて、あなたの好きなモットーはという問いに「すべてを疑ってかかれ」という言葉があるのを知って、この言葉の重みを、何度も繰り返し噛み締めました。
そしてもっとマルクスを学びたいと考え始めました。
中国革命。キューバ革命。バンドン会議。世界の情勢も大きく変わろうとしていました。情勢の中で学ぶには、絶好の機会でした。
⑪菅生村駐在所爆破謀略事件
世界の情勢が大きく前進し変革される中で、僕にも少しずつ確信が生まれました。
社会には、支配と被支配、富裕と貧困、正義と不正義の対立があることを知り、そのどちら側に立って考えるかが、自分の学習の根本的問題だと考えるようになりました。
そんな折、僕が高校2年生の時、「菅生村駐在所爆破事件」(1952.6.2.発生)の大分地裁での裁判が始まりました。その事件の一ヶ月後に「破壊活動防止法」が公布され、この事件の狙いが今日では明らかですが、この事件を理解して頂くために、「菅生事件」をパソコンで検索して、「事件史探求」というホームページから下記を引用させて頂きます。
<菅生事件>
-経緯-
昭和27年6月2日午前12時30分頃、大分県阿蘇山麓の菅生村で駐在所が爆破された。その爆破された同時刻に近くを歩いていた男二人が、待ち伏せしていた警官隊に逮捕された。(この事件の前日、ここまで2時間近くもかかる大分市から約100人の警官隊が「牛ドロボウを捕まえる」という口実で動員され、爆破は駐在所を包囲した中で行われた。―安藤)逮捕されたのは日本共産党員の後藤秀夫と坂本久夫で、仲間3人と爆破犯人として起訴された。当時の新聞は「地下軍事組織を摘発した警察当局は大手柄であった」と報道した。
-謎-
しかし、後藤らが逮捕された状況には不可解なことが多い。まず第一に、なぜ爆破と同時に後藤らが現場付近を歩いていたのか。実際の犯人であれば一刻も早く逃走するはずだ。実は、この二人はこの夜、最近仲間に加わった市木春秋という男に呼び出されていた。
用事を済まして別々に別れて帰宅しようと、市木が駐在所の方へ立ち去った直後、駐在所が爆破した。市木は、それっきり姿を見せなかった。また、爆破と同時になぜ警官隊が付近にいたのだろうか。これに関して当局では、牛泥棒を張り込み中に駐在所の爆破現場に偶然居合わせたのだと弁解している。
第一審において、後藤らの有罪が宣告された。弁護団は、市木が事件の鍵を握っているとして、必死に行方を調査した。そして、ついに市木を発見した。なんと市木は、大分県警の巡査長、戸高公徳であることが判明した。戸高は事件後、上京し行方をくらましていたが、新聞記者(共同通信斎藤茂男記者ら)が、昭和32年3月につきとめて全容が明らかになった。昭和33年6月、ようやく後藤らの無罪が確定したが、真犯人は永久に闇に葬られた。尚、戸高はその後復帰し警部補に昇進した。(事件探求史)
また有名な人権弁護士正木ひろしは、同僚の弁護士清源敏孝の書いた「消えた警察官」―菅生事件-(現代社)の序文に、次のように書いています。
「菅生(すごお)事件は、モノスゴイ事件である。ただの誤判や冤罪の事件ではない。その性質、その規模(きぼ)、その悪魔性において、ナチス独逸(ドイツ)の国会放火(偽装)事件、満州事変の口火を作った柳条溝事件の、日本国内版とでもいうべきものと思われる。小型ではあるが、手はもっと混んでいて、かつもっとインケンである。
日本のジャーナリズムの一部は、当初から、この事件の隠謀性を嗅ぎつけていたにちがいない。それを暗示した1952(昭和27)年6月3日の毎日新聞(西部版)の社会面の記事がなかったら、この事件は永久に闇の中にほおむり去られてしまったであろう。
本書の著者が、毎日新聞の記事によって、本件がおそるべきデッチ上げ事件であることを直感し、直ちに大分拘置所に被告人たちを、訪問したことに対して、私は人類の一員として絶大の敬意を感ずるものであるが、その意味深長なる一文をものした和田毎目記者にもまた、無限の感謝を感ずるのである。
戦前であったならば、こういった事件は、すべて掲載禁止であり、官憲の不正は徹底的に隠蔽された。社会正義と言論の自由とが、不可分の関係にある証拠である。
ともかく、今日の日本国民は、旧大日本帝国の臣民ではない。また今日のジャーナリストは、東条英機に恫喝(どうかつ)されたジャーナリストではない。
東京の新宿で、仮面の(元)警察官(偽大学生)戸高公徳を発見したのは、共同通信社の6人の若き記者諸君であった。 これは、まことに痛快な出来ごとである。6年間、犯人をイントクし、犯罪の証拠イソメツをはかって来た本件の検察当局に、われわれ弁護人たちは社会正義の保障を托することが出来ようか。
戸高公徳ならびに、その背景をなす官憲は、本件の検察官と結托して、偽証をつづけ、裁判所と世間とをダマそうとするだろう。おそるべき国情である。
本書の出版は、被告人たちの自己防衛であると共に、社会正義実現の好資料となることを信じて疑わない。」弁護士 正本ひろし
この事件が起こった当初、「日本共産党員、駐在所爆破で二名逮捕」と、各メディアが大々的に報じました。
しかし僕は、中学校の恩師のレッドパージ事件で、共産党に対する偏見を乗り越えかけていたときでしたし、この犯人とされ逮捕された僧侶坂本久夫さんは、満徳寺という僕の家が檀家の寺の住職でしたから、以前からよく知っていました。
直ぐ直感的に彼がそんなことをするはずがないと判断しました。
余りにも異常で不可解な事件に、日頃は死んだような城下町竹田市でも、緊急に町民の「真相究明の集会」が開かれ、僕もそれに参加しました。その集会の真っ最中に、この町で「泣く子も黙る」と言われていた有名な「森組」という暴力団が、徒党をなして乗り込み、集会潰しに動くという一幕も目撃して、警察と暴力団の黒いつながりを目の前で体験しました。この事件は、僕の思想形成に決定的な影響を与えました。
「反共」というバリアーが、いかに真実の判断を誤らせるか。それを利用した警察権力の暗黒の実態と、それと闘い社会正義を守ることの大切さ。それに怯まず闘う共産党員や、支援する弁護士や、ジャーナリストに深い尊敬を覚えたこと。その人たちの闘いを心に刻んで、もし何かこと有れば自分も、毅然として勇気を持って闘わなければならないと誓ったことなどでした。
こうして連続して体験した「反共」攻撃の渦の中で、日本の政治の中から「反共」という危険な体質を取り除かなければならないと真剣に考えました。
それが後に、2006年の一斉地方選挙の中で、「反共」に反対する「かしわ勝手連」の勝手連運動に、結びつくことになりました。(資料1)
⑫「聞け、わだつみの声」に憧れて
歴史や哲学に興味が湧き、高校は「社会研究会」に入り、河上肇の研究室で学んだという京大出身のH先生に「社会主義」の講義を受け、再三自宅にお邪魔して教えを請いました。
高校の学園祭では、大分合同新聞社から原爆の写真を借りてきて原爆展を主催しました。兄貴から送られてきた「ストックフォルム・アッピール」の署名を教室で訴えて、クラス全員に署名してもらい、更に他のクラスにも訴えて、60名くらい集めて、名古屋の全学連の兄貴に送った記憶があります。
年一度の体育祭では、赤・黄・緑・青の四団対抗の青組団長に選ばれて、団歌にフランス革命の「マルセーエーズ」の替え歌を創り、全団員で合唱の練習をしました。対抗試合の結果は最下位で、団長の僕は、まったく信用を失墜したのでしたが。
受験勉強にはさっぱり身が入らず、高校の1年生の時、英語の先生に旧制第五高等学校を出て、後に芥川賞候補作家になった飯尾憲士さんが就任してきました。
彼の家が僕の家の数軒先でしたから、彼の屋根裏部屋に入り浸って、大人になる洗礼の心地で「角打ち」の楽しさ旨さを教えてもらったり、映画に連れて行ってもらったり、当時彼が熱を入れていた太宰治を借りてきて読み耽ったりで、自由にものを考えることの素晴らしさを教わり、大いに胸を借りて「文学と人生」を語り、考え、学びました。
唯物論者でありながら、太宰治に惹かれ、太宰の霊前で自殺した田中栄光のことなどは、彼の作品を読んだかどうかの記憶はありませんが、僕の「自殺未遂事件」と重なって、一人の人間の「生きざま」として、頭の中からなかなか離れませんでした。
進路に迷って、炭鉱労働者になって底辺の生活の中から、革命を学び殉ずる道を選ぶことで、甘ったれた自分を鍛え直そうと、下見見物に、当時親友だった末吉興一君(後に北九州市長)が引っ越した先の北九州の炭鉱町を訪問。家庭教師のアルバイトで貯めた金もすぐ無くなって、腹は減るし、ぼんやりボタ山を眺めていて、急に不安になって家に帰ったら、父から、どんな人生を選択するかはお前の自由。しかしどの道を選ぶにしても、大学でもう少し勉強してからでも良いのではないかと説得されて、ようやく受験勉強を始めました。
その時は、もうどの大学を選ぶかで、迷いはありませんでした。
戦争に反対し、民主主義を守るための学問を学ぶために、「聞けわだつみの声」像と、末川博総長を慕って立命館大学法学部へ。一年先に立命館に入った同級生のHT君に、学園の様子を詳しく聞き、先生たちの講義の内容まで入って尋ねて、胸を轟かせました。
⑬大学生活アレコレ
京都では、まず生活することが大変でした。
生活が落ち着くまでの僅かの間だけお世話になるつもりで、僕の次兄の親友で、京都大学経済学部に学んでいた先輩O.A.さんを頼って、彼の下宿に潜り込みました。人間的に素晴らしい彼との共同生活から離れられなくなって、とうとう下宿代タダで、2年間もモグリの生活を送らせてもらいました。
彼は島恭彦先生のゼミにいて、学問の上でもマックス・ウエーバーなど、胸を借りて大いに議論をさせて貰いました。
カネがなく、仕事の少ない京都で、「学生相談所」がアルバイトの唯一の窓口。
斡旋システムは、斡旋希望票に一日一回押されるハンコの数で決められ、早朝3時から毎朝並んでハンコを貰い、ようやく職が確保できる。そのようやく得た職が1日で終わるのか1ヶ月以上続くのかは、求職票のハンコの数と並んだ列の順番次第。そんなわけで、河原町の喫茶店のサービス・ボーイや、チャンバラ映画(太秦)のエキストラや、葵祭りや時代祭りのカツラを着けた行列や、京都駅の貨物ホームの仲士や、町工場の旋盤工や、喫茶店のボーイや、駿々堂という有名書店の売り子など、アルバイトばかりしていました。いよいよ食い詰めた時には、名古屋の兄や姉達の家に逃げ込んで、養ってもらいました。
長兄の大学時代の親友だった外信也(ソデ・シンヤ)は、僕の姉と結婚して、僕の義兄になりました。当時彼は名古屋大学の日本史の研究者でしたが、彼は旧制第一高等学校時代、上田耕一郎さんや不破哲三さん(上田健二郎)と一緒に全学連の活動をしていた人で、特に不破さんとは親友だったそうで、僕は彼の胸を借りて日本社会の過去・現在・未来と多いに議論しました。
兄貴にしろ義兄にしろ、彼らは一歩間違えれば命を失うギリギリのところで敗戦を迎え、青春の真っ只中で180度の世界観、価値観の転換を図った人たちでしたから、生き方も考え方も厳しく、哲学・歴史・思想と、半端でない学問をしていました。僕は弟という甘えの特権をフルに活用して、タダ酒をご馳走になりながら、大いに議論しました。
名古屋に帰るたびに、今度はどう理論武装して食い下がるか。その楽しみが僕の学修の励みにもなっていました。義兄は数年前に亡くなりましたが、いつまでも生きていて教えを請いたい大事な人を失って、残念で仕方がありません。
キャンバスでは、毎年12月8日になると「わだつみ像」の前で記念集会が開かれ、必ず末川博総長の記念講演がありました。「未来を信じ未来に生きる。ここに青年学徒の使命がある。」と結ぶ末川総長の甲高い声が今でも聞こえて来るようです。
当時の立命館大学法学部は、末川総長の下に、進歩的な教授たちが全国から集まっていて、まさに「新憲法のメッカ」でした。
講座で記憶の残っているのは、池田誠先生の「中国近代政治史」。エドガー・スノーの「中国の赤い星」や、アグネス・スメドレーの一連のルポルタージュに夢中になっていましたから、授業はとても面白かった。
あまり成績が良い生徒ではなかったのですが、卒業間じかになって、どん底景気で、もし就職が出来なかったら、大学院に残って勉強することも考えました。そのときは「中国近代政治史」を選考しようと考えて、池田先生に相談しました。先生に対する僕の第一問は、「中国語がまったく出来ないし、あの難しい漢字はゾ-ッとするんですけれども、研究者になれるでしょうか?」という問いでした。先生の答えは「そんなのやる気があれば出来るよ。」と当然の答えでしたが、結局それを諦めた僕でしたが、その後中国とのビジネスを選び、「薬膳」を通じて18年間東京と北京を往復する仕事に就いたのですから、人生とは判らないものです。
おかげで、北京大学にあるスノーの墓地には「いの一番」に訪問し、魯迅の旧居。そして中国各地の革命記念史跡を巡り歩くことが出来ました。これも中国近代史の面白さを教えてくれた池田先生のおかげです。
もう一つ忘れられないのは、文学部の講座を「もぐり」で受講したことです。
それは梅本克巳先生の講座です。そのころ僕は「人間」の問題に悩んでいて、梅本さんの講座があるのを知って、どうしても尋ねたかった。最初難しそうだけれども段々面白くなって何回か続けて通ったのですが、そのうち講座が休講になって、とても残念だった記憶があります。「主体性論」については今でも関心があります。
ゼミは北山茂夫先生の「自由民権運動ゼミ」を選んで学びました。北山先生(「萬葉の世紀」などの名著を著した歴史学者)の学問に対する厳しい姿勢に学びながら、今にして思えば、日本国憲法の源流と言われる植木枝盛の「日本国国憲按」など、もっとしっかり勉強しておけばよかったのにと後悔しています。
北山先生には、個人的に大変お世話になりました。
僕の恋人(つまり妻)が当時明治大学にいて、高松への帰郷の途中に京都に立ち寄りその滞在費を稼ぐために、北山先生の原稿の清書を手伝わせてもらいました。そして結婚の仲人をして頂き、娘の名付けの相談にまで乗って頂いて、卒業後も僕の解雇問題など、いろいろご心配を頂きました。
みすず書房から出された北山茂夫「遺文と書簡」第五巻の中に、北山先生が僕の友人のM君に宛てたハガキが載っていて、「安藤洋君も免職闘争の中に、長女をもうけたとかで、奏(かなで)という名をつけたそうです。よほどうれしかったと見え、真理はどうかとききに来ました。それは歌手の名前でよくない、一字にしろ(二人の男は一字、オヤジも一字)といったら、どうやらそれに落ち着いたらしい。大変な意気込みだな。やはり党が伸びていることもあるか。老人の私はそれほど張りきらず、閉戸閑人というところか。」(205ページ)とあるのを知って、いまさらながら先生の心遣いに感謝しています。
クラブ活動では「民主主義科学者協会政治部会」に所属して、仲間たちとマルクス主義の古典を読み、日本の進歩的政治学者の論文に挑戦しました。明治大学で開催された「第一回全日本学生政治学会」にも、立命館を代表して議長団の一人として参加しました。
そのテーマが「社会民主主義の諸問題」で、この会議に参加するために、同志社大学の岡倉古志郎先生を囲んでの学習会を計画し、同志社大学に何回か通いました。
当時同志社大学法学部には田畑忍先生が居られました。田畑先生の日本国憲法の絶対平和主義の考え方に引かれて、何度か講演会に行き、彼の情熱溢れる話し振りは、鮮明に記憶に残っています。
当時の政治理論は、日本共産党が岡倉古志郎の「非同盟中立理論」を担ぎ、日本社会党が田畑忍の「非武装中立論」を担いでいましたので、未熟な僕には、社共対立の構造の中でしか考えられず、肝心の「永世中立論」を、自分の頭で考えることが出来ないままに、岡倉理論に接近しました。
あの時、田畑さんの「非武装永世中立論」の主張をしっかり学んでおけばと今になって返すがえすも残念です。僕がいま「永世中立宣言」運動の構想に執り付かれているのは、あの頃の田畑先生の「憲法九条と非武装中立主義」の考え方に感銘を受けたからといっても過言ではありません。(「永世中立論」については、「新憲法世代を生きて」の第二部第2編にふれてます。)
卒論は、岡崎長一郎先生の「行政学ゼミ」を選んで「都市と農村-その分離・対立・搾取-」をテーマに選び、大学生活総仕上げのつもりで、「関田町学生会館」の自室の窓に黒い暗幕を張って、夜と昼の境を無くし、眠たい限界が来たらゴロリと寝るという生活を何ヶ月か続けました。同室生は同志社大学法学部のF君でしたが、彼もこの間は気をきかせて、ほとんど部屋に帰って来ませんでした。
積まれた本が一つずつ無くなって行くのに心地よい快感を覚えました。その時岡崎先生の指導で、論文の骨子として読んだ、レーニンの論文「いわゆる市場問題について」は、数字を見ただけでも身震いするほど数学嫌いの僕なのですが、何度も繰り返し読んで、最も影響を受けた本を上げろと言われればその一つに必ず挙げます。
後輩のY君が彼のリーベの手作り料理を持って、よく激励に来てくれました。
生涯でいちばん勉強らしい勉強をした一瞬でした。
僕の息抜きは、仲間と酒を酌み交わし人生を語リ、歌を歌うことでした。
ゼミの後輩たちが尋ねてくると、親分風を吹かせて、彼らに僕の書棚にある本を担つがせて質屋に入れて、下宿(百万辺交差点近く)の「どぶろく」を飲ませる安居酒屋に通い、イヌの肉のフライを肴に、喧喧諤諤の議論をしました。
もう少し呑みたいけれども買う金がない時は、加茂川べりに出て、みんなで鼻をつまんで「用意ドン」の徒競走で酔いを誘って、旧制高校の寮歌や、労働歌を歌いながら逍遥しました。
1956年2月24日フルシチョフの「スターリン批判」演説。
日本共産党の「六全協」が出たのが、丁度四回生の時でした。「農村工作」に出た友人たちも帰ってくると期待していましたが、学内で見かけることは稀でした。
丸山真男の論文『「スターリン批判」における政治の論理』などは、何度も繰り返し読んで、仲間と夜を徹して論じ合いました。
丸山真男は、大学に入って政治学を選考することを決めて、最初に読んだ論文が、「超国家主義の論理と心理」でした。ナチスの指導者の独裁が自由な主体意識を前提にして開戦に対する決断に責任意識をもっているのに比べて、日本の戦犯には「我こそ戦争を起こしたという意識」が何処にも見当たらない。その論理と心理の追求ですが、問題設定の見事さといい、論理の明快さといい、それに圧倒されて、眩暈がするほどでした。政治学はこんなに面白い学問だったのか教えてもらって、以降丸山理論は、ものを考える場合の一つの軸になりました。
夏休みには、郷里の大分県竹田市に帰って、高校生たちが自主的に創った「社会研究クラブ」の学習会に、チューターとして参加しました。
そのメンバーが中心になって、開校以来初めて、自分たちの要求を掲げて早朝門前でビラを撒くという事件があり、先生たちに囲まれて「お前がやらせた」などという言いがかりを受け抗議したこともありました。
その高校生の中には、のちに日本共産党大分県委員会の元委員長になる安倍浩三君も居ました。京都の下宿に、事件後、彼から長文の手紙を貰いました。内容は人生を革命運動に捧げる決意のようで,詳細は忘れましたが、僕には書けないような達筆で、立派な文章だった印象は、今でも残っています。
⑭「不当労働行為」に対する、11年間の解雇撤回闘争
ナベ底不況の中での就職活動。
大日本塗料株式会社という会社に、I社長が大学の先輩ということもあって、岡崎長一郎先生の推薦で、ようやく就職しました。そのご恩を忘れたわけではありませんが、結果的にはI社長に反旗を翻すととなり、後輩の就職口を潰してしまったのではないかと、岡崎先生には、大変ご迷惑をおかけすることになりました。
しかし岡崎先生なら、きっと許して下さるでしょう。
時代は安保闘争、ヴェトナム戦争の激化と、平凡なサラリーマンの生活を、許しては呉れませんでした。
入社当初は、まだ会社に残っていた牧歌的で人間的な労務管理が、本格的な競争原理に乗せられて、職場の締め付けが段々厳しくなり、その変化を立身出世のチャンスと捉える上司が横行して、軍隊的規律が職場のルールになり、職場は真っ暗になりました。
営業の第一線に所属して係長という下級職制として、会社からはそれなりに期待されていましたから、出来れば波風立てずにと願って、しばらくは大人しくしていたのですが、業績の揚がらないことを理由に、東京支店幹部のすげ替えがあり、僕が人間的に信頼していた支店長が外され、それまでの仕事を社員と相談して決めるという民主的な作風でなく、「命令」して尻を叩くというスタイルに変わりました。
新支店長Kが大阪から連れてきた子飼いの営業マンと、既存の営業マンに対する差別が目に余るほど酷くなりました。子飼いの営業マンには、会社経費で銀座のあるクラブをアジトにして、自由に飲み食いさせながら作戦会議を練るなど、信じられない労務管理が、半公然と行われました。
真面目な営業マンは差別と強制の中で、厳しいノルマに不満をつのらせ、内勤の女性たちの不満も拡がって、このまま立身出世の道を歩むか、仲間たちと一緒に抵抗する道を選ぶか、僕には二者択一が迫られ、東京支店に「職場を明るくする会」を創くろうという提案をし、仲間との信頼を深めました。
そして1966年、労働組合の組合長選挙で、工場側の社会党員と、営業支店の無政党組合員の一騎打ちという珍しい構図となり、東京営業支店側は80名そこそこ、鶴見工場側は300余名の職場と、票読みでは完全に不利でしたが、決戦投票まで持ち込んで、職場と組合の民主化を掲げて闘った僕たちが勝利しました。
当時は神奈川県総評加盟の組合だったために、組合の社会党一党支持が強制的に上から下ろされ、それに反対し、「反共」という一線で見事につながっている労使協調路線とも闘うことになりました。
最初は組合員には自民党を支持する人も、公明党を支持する人も、共産党を支持する人もいるのだから、労働組合は「労働者の要求の一致点」で団結しなければならないという素朴な路線で闘っていたのですが、その後に日本共産党の「労働組合の政党支持の自由」の論文も出て、シンパシーを感じました。
しかし独占の締め付けの強い神奈川総評の組合指導部からは、「安藤は共産党系」というレッテルを貼られて、その弱点を巧妙に使った会社の攻撃にさらされることになりました。
ようやく資本から自立した労働組合らしい姿が築けかけたころ、四期目の役員選挙を目掛けて、会社は委員長の僕に対して購買課長への「管理職への昇格配転」を、一方的に通告して来ました。(1969年)
組合は、即刻大会を開いて、現職委員長の一方的な昇格管理職配転、管理職は組合員でないから組合活動は出来ないという不当な組合攻撃に断固反対して闘うと圧倒的多数で大会決定をしました。明らかに憲法違反の不当労働行為です。
「憲法第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動する権利は、これを保障する。」
「私を信頼してくれた仲間達を裏切ることは出来ない。」と、副社長から受けた辞令を、彼の目の前で辞令書の前後を逆にして突き返して拒否し、配転に異議を留める仮訴訟を起こし、横浜地方裁判所と、神奈川県地方労働委員会に、不当労働行為として提訴して、二重の法廷闘争を闘いました。
会社はこの組合挙げての闘いを潰すために、即刻組合委員長である私を懲戒解雇して来ました。その3ヵ月後、今度は中心で闘っていた執行委員三名(書記長N君は創価学会員、I君は日本共産党員、H君無党派)も続けて解雇されました。
会社が僕をはじめ、四人を解雇して組合潰しを計ったには、彼らなりの計算があったと思います。
① 当時の労働争議は、共産党員しか最後まで闘えないみたいな「神話」があって、会社も最初はそう読んでいたこと。
② 四人を解雇すれば、共産党員と創価学会員と無党派の間で、必ずいさかいが生じて、三人は共産党離れをして自滅すると踏んだこと。
③ 神奈川県評を牛耳っていた社会党系の悪質な幹部と会社側幹部との間で、「組合の政党支持の自由」を唱える共産党系の現執行部を追い出して、もう一度労使協調路線の組合に逆戻りさせようという密約があったこと。
などが彼らの計算でした。正確に言えば「計算違い」でした。
僕たち四人が「全員の完全職場復帰」を旗印にして、お互いの要求を第一に大事にする民主主義を徹底して、粘り強く最後まで闘ったことにより、思惑が完全に外れて、会社が負けてしまったと言うのが事実です。
1976年10月28日、横浜地裁で勝利の判決を勝ち取りました。地方労働委員会の提訴もほとんど同時に勝利し、会社は「全員職場復帰」を条件に、和解を申し入れて、すべてが解決しました。
その直後に、僕らを解雇した池田社長は辞職させられ、副社長は退職、専務は子会社に配転させられて、親会社の三菱商事から、新社長が送り込まれるという会社側の完敗でした。
無党派二名、共産党員一名、創価学会員一名の争議団で、思想、信条、政党、宗教の違いを超えて団結して闘い、四人全員が、一人も欠けず完全職場復帰を勝ち取ったのは、おそらく争議事件の歴史上二つとない珍しい争議団だったと思います。
いま市民運動に参加して、この時の経験が生きていると思います。
11年の闘いは、侃侃諤諤の闘いで、決して原則的に一貫した闘いだったと胸を張ることは出来ません。僕自身争議の後半は、アルバイトとして始めた出版の仕事が忙しくなって、活動がおろそかになったこともありました。
それが争議の解決を長引かせたことの責任は僕にあったと、仲間達にはいまでも詫びたい心で一杯です。しかしそれが支援の組織のある幹部の「安藤は会社と通じている」という根も葉もないデマとは、縁もゆかりもなかったことは、四人の仲間が一番良く知っていました。だからこそ最後まで団結できたのです。
一時は闘うことを止めようかと悩んだことも有りましたが、旗を降ろせばそれですべてが終わり、会社が犯した憲法違反の不当労働行為そのものを認めることになってしまいます。「憲法違反」を許すてしまうことになります。
どんなに苦しかろうとも、どんなに非難されようとも、絶対に「解雇撤回の旗」は降ろさない。そして何とか最後まで頑張りました。
今にして思えば、「全員職場復帰」だけを唯一の目標に、職場に残った仲間たちも含めて、何度も何度も意思統一を重ねて、思想・信条・宗教・政党を超えて、徹底した民主主義で話し合いを重ね、党派と信条を超えた四人の信頼と団結を計り、完全勝利した労働争議は、おそらく争議団史上で唯一のもので、これからの争議団の有り方として重要な参考となるべき闘いだったと確信します。
そしてこの闘いの中心になったのは、やはり日本共産党員のI君でした。もし彼の存在がなければ、この「職場復帰の全面勝利」は無かったでしょう。
この闘いを一緒に闘ってくれた弁護士事務所が、さきの「旬報法律事務所」だったのです。弁護団の豊田誠先生(後に独立して日本自由法曹団元団長)や、清水洋二先生ほか諸先生、小島成一事務所の中西克夫先生が弁護団を組んで、献身的に支援してくれたことは、生涯忘れられません。
⑮ヴェトナム人民の闘いに励まされて
裁判闘争に勝利するまでの7年間は、入門闘争と職場へのビラ巻きで、夜中に持ち回りで毎日のビラを作り、毎朝7時に、JR戸塚駅からJR鶴見駅まで、京浜東北線に乗って、オモテの胸に「大日本塗料の不当解雇反対」、ウラの背に「米のヴェトナム侵略反対」のゼッケンを着けて通い続けました。最後には白いゼッケンが真っ黒に汚れてしまいましたが、それが誇りでもありました。
同じ頃、神奈川で争議を起こしていた仲間達で「神奈川争議団共闘会議」を作って「自分達一人ひとりの要求を最後まで大切にして、勝利するまで闘おう」と、激励し合いながら闘いました。
もうひとつ僕が引き付けられた関東の争議団は、「日本フイル争議団」と「マスコミ共闘」の争議団です。
前者のお蔭で生涯のクラシックファンになりました。
後者については、僕にゼッケン運動の決断をさせてくれた「ゼッケン男」で有名な日本機関紙協会理事長だった金子徳好さんです。直接お逢いすることは有りませんでしたが、この人に負けないように頑張ろうと四人で始めた「ゼッケン」運動でした。
「ヴェトナム解放戦争」(写真:石川文洋)という写真集があります。(1977.1.30発行)
冒頭にヴェトナム社会主義共和国首相ファン・バン・ドンの「あいさつ」が掲げられ、日本国内の四千数百名の人々がカンパで支えてヴェトナム人民に送った「ヴェトナムに写真集を贈る運動委員会」の豪華写真集。
その中で朝日新聞の本多勝一記者は、古在由重さんの「ヴェトナムの名誉と栄光」の格調高い文に並んで、「写真集ヴェトナム解放戦争の刊行に際して」の文を添え、その中で私たちの闘いを次のように紹介してくれました。
『またある大会社の労組委員長をしていた安藤洋氏(横浜)は、7年間の裁判闘争中、「ヴェトナム人民の不屈の闘いがどれほど私の支えになったことか」と訴え、写真集が完成して手元に送られてきたら、その扉を開いて「私を支えてくれた人々の闘い」と書き、最後のページには、「1976年○月○日、一足遅れて私も勝利した」と書きつけるのを楽しみにしているとのことです。』
1977年2月、完成した立派な写真集を受け取って、私は本多勝一さんにお礼の手紙をさし上げました。約束通りトビラと最終ページに、記念の文字を書きつけた報告に加えて、次のように書きました。
『「私のような弱点だらけの小市民が、どうにかこうにか七年間がんばって、この勝利判決を、しっかり握り締めることが出来たのも」、「こんなことに負けたらヴェトナム人民に恥ずかしいという気持ちが、迷い悩みながらも頑張り遂せた、一つの大きな理由だったと思います。」
「お蔭さまでこの写真集は、私の生涯の宝になりました。そればかりか、私の子供たち(小学6年生の長男、4年生の次男、4才の長女)の父親の生きた時代にナマに触れ、それぞれが自分の生き方を決めるかけがいのない糧になる、その意味で、我が家の「家宝」になるでしょう。」』
⑯夢を見よ。仮説を立てよ。周辺に渦を創れ。
争議団四人の決意通り全員職場復帰して後、私は自己退職し、アルバイト先のY.T.社長(立命館法学部の後輩)とその社員たちが支えてくれて、新しくベンチャービジネスに、挑戦することになりました。
その後、そこからも独立して自分一人でベンチャー会社を立ち上げることになり、私の会社の方針をどうするか?悩んだ末に決めた社是は、
「創造はすべてにまさる歓び。夢を見よ。仮説を立てよ。周辺にウズを創り、中心身を投じて科学せよ。リスクにたじろぐ者に歓喜の歌はない。」
そして大好きな魯迅のアンソロジーを、「迷った時の癒しの糧」にすることを決めました。
「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
「夢」を追い駆けて結集する仲間たちが、心から信頼しあって毎日働くことが楽しい、民主的職場の建設が最大の「夢」でした。
結果は数え切れないほどの山あり谷ありで、何度か職場を変えて、全財産を投出す大失敗も経験しました。事業に失敗し、借金返済のために、町田に作った邸宅を売って、調布の小さな貸家に引越すための、その貨物車のレンタル代が無くて、当時高校二年生だった長男に「おい、古本屋をやるぞ」と急き立てて、彼の高校の仲間を10数人呼び集めてもらって、書斎の本を叩き売ったことも、今ではいい想い出です。辛かったのはオヤジの倒産した姿を友達や先輩に見せなかればならなかった長男淳だったのでしょうが。
この創業あり、廃業あり、倒産ありの苦闘記は、「日本経済新聞」が「ドグメント・サラリーマン」という特集企画の中で採り上げてくれて、第342話『「夢」見続けて』の表題のもとに、9回の連続記事で、私のビジネスぶりを紹介して呉れましたので、ご関心のある方はそちらをどうぞ。(記事:1991.8.26~9.4)(資料2)
その事業の一つ、「航空写真地図」の最初のプロジェクトが、奈良県全県を1800メートルの上空からヘリコプターで撮った全四巻で、特に古墳が一堂に会する資料的価値を高く評価されました。
松本清張さんからは、次のようはお褒めの言葉を頂きました。
「画期的な壮挙である。これまで近畿各県の航空写真は部分的にはあったが、総合した「航空写真地図」はこれがはじめてである。大変な労力と資金とがかかっているのは想像にかたくない。「見本」を見るに、高度も適当で、写真はきわめて鮮明である。鳥瞰図という言葉があるが、文字どおり「鳥の眼」とはこのことだろう。地図では絶対にわからぬことが、この写真によって発見される。ほんらいなら国家的事業として文化庁あたりがやらなければならぬ事業である。」
その後全東京を航空写真に収める「東京篇」全24巻に進んで、これが全財産を失う「命取り」になるとはつゆ知らずに。
⑰「薬膳」交流と中国人民への謝罪
この日経記事の中で、特に「憲法」活動関連する事業として記憶に留めて置きたいのは、中国での「薬膳交流」と「侵略のお詫び」は、私の中で常に一体のものだったということです。
『「夢」見続けて』③④で触れられている、北京市小湯山「国際薬膳博物館」の開館にまつわるエピソードが、その出発点でした。
この北京市から車で約40分の「小湯山温泉離宮」は、清朝時代、西太后の離宮であり、その後は中国軍の保養施設だったものを、日本軍が北京占領中、軍の保養院として接収して、敗戦で破壊して帰った傷深い旧跡地です。
そこには康熙帝の「温泉プール跡地」があり、西太后の「大理石浴槽」があり、乾隆帝の「書庫跡地」など、古い遺跡があります。
革命後は陶少奇や周恩来が好んで滞在したという最高幹部の保養地で、同時に食通で知られた西太后の薬膳食符が残っていて、そのなかに、数千年の王朝文化に引き継がれてきた漢方の伝統健康食メニュー230余が遺されておりました。
僕が「薬膳」というものを初めて知ったのはこれとの出会いからでした。
この中国数千年の健康食文化「薬膳」を掘り起し(当時はまだ中国でも「薬膳」は家庭料理の中に埋もれていた。)世界の未来の健康食文化に引き継ぐために、世界に発信しようと「北京国際薬膳博物館」を建設する提案を、北京市衛生局長にしました。
その建設資金は日本の市民からお詫びとして集めて中国に寄贈しようと、一口10000円以上の寄付運動を興し、日本栄養士会の会員のみなさんや、僕の友人知人にお願いして、1977年6月に完成させることが出来ました。いまでもその時寄付して下さった、日本人482人のご芳名が刻まれた石の記念碑が、北京市小湯山の西太后温泉離宮の「国際薬膳博物館」正面に建っています。
その開館式典には、現中国人民代表大会副委員長の何魯麗女士(当時北京市副市長)が出席され、日本から180名余の参加者で、総勢約500人規模の盛大な祝典でした。この開館式典の機会を、真の日中友好のチャンスとして成功させたい。
私の心に響いていたのは、大江健三郎がノーベル賞受賞記念講演で語った一つの言葉です。
「アジアにおいて日本の軍隊が犯した非人間的な行為を苦痛とともに償い、その上での和解を、心貧しくもとめる」。「その最尾後につらなることを、わたしは志願し続けてきたのです。」
これこそが僕の「新憲法世代」の姿勢そのもので、僕は日本側代表の「あいさつ」で、わがことのようにこの言葉を引用させて頂きました。
大江健三郎は僕と同年齢で、僕たち「新憲法世代」の心を、よく代弁してくれています。僕は彼の小説より評論がピッタリ来て大好きです。
この式典に、占領当時日本軍人としてこの地に滞在した日本人を現地に招待し、当時一緒に働いた中国人との間で、「お詫びと和解の対面」をすべく企画しました。
日本での当時の情報集めには、防衛庁の図書館まで通って、ようやく三人の方の消息が判りました。
そのうちの二人、元軍医のM先生と元兵士のKさんを現地に招待し、この「お詫びと和解の対面」プロジェクトを成功させ、何魯麗副市長からお褒めの言葉を頂きました。式典の只中で、日中の四人は抱き合いながら号泣していました。
その後、中国衛生部(厚生省)との共催で、北京・上海・南京・海口・広州・杭州・播陽・昆明・重慶・ハルビンの10省の主要都市で、「国際薬膳交流各省大会」を成功させました。
各地方に遺された「薬膳」を掘り起し、継承し、発展させようという日中共同の国際プロジェクトです。
「薬膳」といってもなじみの無い方のために、1998年3月29日に開催された海南省首都海口市での「国際薬膳交流大会」での、私の挨拶文の中から少し長い引用をさせて頂きます。
『西洋医学は生から死への生命過程を、二つの対立概念で捉えてきました。
「健康」か「病気」かです。しかし東洋医学は、これに「未病」という独特の概念を提起して、誤解を恐れずに言えば、「健康」「未病」「病気」という連続した三ツの段階を経る過程として捉えているように思います。』
『そして「未病」を退治するに有効な手段こそ「自然治癒力」で、その核心は「食」と「運動」です。これが「薬膳」であり「気功」であり「太極拳」なのです。』
『「飽食から健食へ」というこの世紀的な食文化の転換の時代こそ、長らく埋もれていた「薬膳」の素晴らしい叡智を掘り起し学び直して、新しい研究を重ね、「薬膳」の力を借りて「未病」を退治し、人類の生から死への過程を、「病気」を薬や手術で延命するのでなく、「健康」「未病」、そして「病気」を超えて「自然死」につなげる健康の理想を、いまこそ実現しようではありませんか。』
この「健康・未病・病気」の三段階論と「未病-薬膳」の対応論は、僕の学んだ中国医学からの僕の仮説で、中国でもそれなりに評価され、国家の中医学教科書を編纂して中医学で第一の実力を持つ南京中医学大学の項平学長の招待で、90人の専門家を集めて講演するチャンスにも恵まれました。
「国際薬膳交流地方大会」が開催された主要都市は、例外なく日本軍の侵略の傷跡を深く歴史に遺し、私は日本代表として、すべての大会で挨拶し、その文脈の中で、日本軍の侵略に触れてお詫びしました。
例えば「南京大会」では、あいさつの後半を次のように締め括りました。
『さてこの地に来て、日本人としてどうしても避けて通れないのは、戦時中の日本軍による虐殺事件です。前回下打ち合せのために初めてこの地を訪れた時、衛生庁のみなさんに、他の観光地は次回の本番大会の時に回して、あの記念館だけはぜひにと無理を言って、連れて行って頂きました。
それは本番大会の参加者の中に、日本では「幻の南京事件」などというとんでもない非常識をまともに信じている人たちがいて、大会参加時の観光コースに虐殺記念館を選ぶコンセンサスが得られないのではないかという不安が脳裏をかすめ、「そうなった時のお詫びを事前にさせて頂くつもりです。」と、スタッフの方に申し上げた記憶があります。
しかし今回のみなさん全員、真実を直視しようという賢明な日本人の代表として、訪問先に虐殺記念館を選んで下さいました。
ところで私が最近読んだ「南京の真実」という本の中で、あの忌まわしい事件の中にも、薬膳にまつわる心温まる国際協力のエピソードがあったことを知って驚かされ、深く感動しました。
それはあのジョン・ラーゲが日記に書き留めている事実です。当時の南京では日本軍の侵略で、市内に飢えが恒常化します。そして脚気が蔓延します。そこで南京の人たちとラーゲの国際委員会とが協力して、上海から蒸気船で緑豆100kgを、日本軍のさまざまな妨害を潜り抜けて陸揚げに成功するという活動の記録です。100kgほどの緑豆の配給が実際どれほどの病を救ったのか、ラーゲはその結果に触れていませんが、あの極限状況の中でも.「薬膳」が病を救う糧として重要な役割を果たしたということ。そのために中国人と外国人が力を合わせて、日本軍の妨害と戦いながら、市内での配給を成功させたということを知って、深く感動しました。』
このビジネス上での中国人との付き合いの中から、後で述べる「九条的会中国」(「九条の会中国」)勝手連設立の動きが誕生しました。
時代は進んでソ連の崩壊、アメリカの単独世界支配、アフガン・イラク戦争、そして「憲法九条の危機」。
⑱「九条の会」参加に人生の収斂を求めて
2006年9月、小泉・阿部と続く「改憲潮流」が勢いづく中で、緊急の一票こそ勝負と危機感に襲われて何かのお役に立ちたいと、呼びかけに応えて、「旬報9条の会」に参加し、地元に「かしわ9条の会」を設立しようという呼びかけに賛同して、世話人の一人として参加しました。
その設立に先立つ7月。地元柏市のイベントホール「アミユゼ柏」で、「軍隊の無い国コスタリカ」講演会を、カルロス・バルガスさん(国際非核弁護士会副会長)と、早乙女勝元さんの両講師をお呼びして開催しました。
「かしわ9条の会」の誕生が、あと2ヵ月後という日程のズレで、急遽「市民実行委員会」を結成して、私が委員長を引き受けるハメになりました。
それ以来、私には挑戦すべき課題が、新しく四つ生まれました。
1.中国の「九条の会」勝手連を支援するプロジェクト。
この柏市の「軍隊の無い国コスタリカ」講演会のホームページを開設しましたら、北京のネット上で開いた中国の友人から、中国にも「九条の会」を設立したいので、顧問になって欲しいと相談され、いつのまにか「中国の九条勝手連」支援に巻き込まれることになったこと。
丁度小泉元首相の靖国問題で中国中が怒り狂っていて、「九条的会中国」設立準備会に結集した仲間の鼻息は荒く、早速「日本国憲法第九条を全文を中国語に翻訳した署名文を作り、「これで一億人の署名も夢で無いかも」と意気込んでいました。ところが中国での民間の政治運動は、「法輪講」以来規制が厳しく、北京市政府の認可が容易に下りずに、現在に至るも正式な活動が出来ずに居ます。(資料2)
2.「九条遺言の会」を発起
2008年2月23日に「かしわ9条の会」が主催した「私と憲法九条」の対話集会が、私の73歳の誕生日に当たったため、会場で「九条遺言」を遺す約束をしたことがきっかけで、8月15日敗戦記念日を記念して、83歳のご老人、元波尊さんと「九条遺言の会」発起させました。
狙いは改憲反対の組織を増やしてヨコ方向に広げる運動に併行して、タテ方向に末代まで改憲してはならないという「九条遺言」遺す運動を広げることで、「永遠の一票運動」をタテに掘り起し、遺す作業の過程で、老人のひとり一人が、親と子に対話して運動を広げる、きっかけにしようとするものです。
憲法を守るための運動に参加されているすべての老人が、「永遠の一票運動」に勝ち抜くために、「九条遺言」を遺して下さるなら、時を重ねるごとに九条派は幾何級数的に拡がって、日本が再び戦禍を被ることは絶対になくなります。
何せ老人二人で始めたことですから、遅々とした歩みでまだブログも立ち上げていません。
しかし一橋大学大学院教授の加藤哲郎先生が、九条遺言「新憲法世代を生きて」を、「自伝と論文」として評価して下さって、「ネチズンカレッジ」(117万人のアクセス実績)のデータベースに採用して下さいました。http://members.jcom.home.ne.jp/nokato/database.html
母校の立命館大学の「9条の会」が、ホームページで在校生に紹介して下さったり、次の紹介する、「韓国併合100年」の公式ホームペ-ジでも、全文を紹介して下さいました。
どうぞあなたのホームページやブログでの、ご支援、ご協力を!
3.「韓国併合100年」の「反省と和解の市民宣言」運動に参加
僕の九条遺言「新憲法世代を生きて」の中で、生まれたソウル市(京城市)での小学校2年生時代に、ママゴト遊びの女の子口喧嘩して、「朝鮮人」と罵倒した、初めてで最後の恥ずかしい「民族差別」をしてしまって、オモニ(母親)から死ぬほどに叩かれた体験を記録したことを書いたのが縁で、現在「韓国併合」100年市民ネットワークに関わらせて頂くことになりました。(第一部③はじめての民族差別体験)
日本に帰国後60数年。朝鮮戦争、軍事政権、反日運動と、僕にとっていちばん近く親しいはずの生まれ故郷朝鮮半島が、いちばん遠い処になってしまって、世話になった友人達と「和解」するチャンスを失してしまいました。取り除くべき「日・韓・朝」の溝は厚く、一人で取り除くことは出来ないと考えたからこのプロジェクトに参加しました。
http://ameblo.jp/100net/theme-10009190419.html
韓国にしろ朝鮮にしろ、日本は侵略した側の立場から「反省と和解」を求めるためには、二度と再び、貴方の国には永久に侵略しないと言う日本国家としての国際的誓約がまずなされるべきです。それが「永世中立宣言」だと考えます。
4.「永世中立宣言」プロジェクト。
「バルガス・早乙女講演会」で学んだコスタリカの永世中立主義が、日本のように「条文と実態の乖離」が無いことに学んで、日本おける「永世中立宣言」の可能性についての戦略的仮説に獲りつかれて、会の発足以来三年間、そのフイルターを通して日本の政治状況を観察して来ました。
日本全土に130以上の米軍基地があり、原子力空母も自由に出入りし、核弾頭も配備されて、アメリカの同盟国26カ国の合計を上回る「思いやり予算」を含む、世界第5位の軍事費をもつ国家。
世界に誇れるはずの「九条」も、過去に侵略された隣国の中国、韓国、朝鮮の側から観れば、「九条の衣を被ったアメリカ従属の軍事大国」であるという率直な批判に眼を向けるなら、衣だけでなく名実共に穢れ無き世界に誇る「九条国家」を、一日も早く建設するにはどうすればいいか?
その根っ子は「日米安保条約」にあり、それを一日も早く撤廃しなければなりません。この三年間の「かしわ9条の会」への参加の中で「日米安保体制」に対して「永世中立宣言」の旗を掲げて闘うことが、最良の戦略戦術であると確信するようになりました。このことに付いては、第二部第2編で考えてみたいと思います。
しかしこの「永世中立宣言」運動を、直接「9条の会」に持ち込むことは、戦略
に正しくないと考えます。そのことについては後ほど触れます。
この第一部を閉じるにあたって
あるときは挫折し.あるときは絶望しながらの、紆余曲折の道のりではありましたが、「新憲法世代」の、あの忘れられない素晴らしい時代に青春を生き、それが挫折させられた時代に、腹立たしい悔しさを繰り返しながら生きてきたばかりに、あの夢をもう一度復権させて完結させなければ、結局は自分の人生の「負」の遺産が大きすぎて、死ぬにも死にきれないと、ここまで頑張って来ました。
「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
あの魯迅の言葉を何度も何度も繰り返しながら、いままた声を挙げて読み直しながら、あとわずかに遺された時間を、「新憲法世代」に生きた気概の延長の路線に沿って、もう一度、最後の努力に挑戦しようと考えています。
それが第二部に「新憲法世代」から「若者たちへの世代」として提言した「永世中立宣言」運動です。
これこそ「新憲法」を深める戦略と確信しているのですが、残念ながら僕にとっては、おそらくキット未完の道に終わるでしょう。
この道の課題は、どうしても若い世代に託すしかありません。
ご関心のある方、特に若い世代の方は、第二部をぜひご覧下さい。
そして未来の日本を世界に輝かせるこの運動に参加して頂いて、「永世中立宣言」の旗を高く掲げて先頭に立って下さいませんか。
アメリカ独立革命は「平等・生命・自由・幸福」を謳い、フランス革命は「由由、平等、博愛」を謳い、人類の行くべき道を歴史に深く刻んでくれました。
いま国際情勢は、日本の「永世中立宣言」に追い風です。 TACが育ち、非同盟中立が拡がっています。
今度こそ東洋から日本が、「永世中立宣言」の旗を高く掲げて、「新憲法世代」を短い流産から救い出して、名実共に「九条国家」として再生させようではありませんか。
そして真の「戦後民主主義革命」を完成させ、国連の「集団的自衛権」の限界を乗り越えて、世界に人類の未来国家の姿を指し示し、世界の歴史に敢然と輝かそうではありませんか。
第一部 了
(2009.03.28)