評者 加藤哲郎(一橋大学)
本書は、山内昭人、石川禎浩ら六人の研究者による「初期コミンテルンと東アジア研究会」の共同研究の成果であり、この分野における画期的業績である。
日本学術振興会の科学研究費を得て研究会が組織され、基礎資料が収集され、刊行助成を得られたところに、最近急速に実学化・政策科学化の波に浸食されているアカデミズムにおいて、一抹の希望と勇気を与える。
というのは、旧ソ連の崩壊でようやく関連第一次資料の大量公開が始まったが、本書「まえがき」で石川禎浩も指摘しているように、「かかる資料状況の好転をもたらしたソ連の解体が、間接的に国際共産主義運動史研究の意義そのものがなくなったことを意味するように理解されてしまった」事情がある。
実際、労働運動史や青年運動史を含めて、わが国におけるコミンテルン研究、社会主義・共産主義運動史を研究対象とする若手研究者は激減しており、せっかく公開・販売されはじめた高価な史資料を購入した研究機関も、系統的・継続的収集の困難を迎えつつある。
そんな中で、果敢にコミンテルン成立期のアジアの社会運動の実相解明に取り組んだのは、快挙である。十年ほど前に、旧ソ連で粛清された日本人犠牲者の足跡を秘密文書で辿った副産物として、本書でとりあげられた時代の史資料の一端をも紹介する機会を持った評者としては、大変心強く、心からエールを送りたい。
本書は、以下のように構成されている。
ウェブ上の不二出版サイトでの本書の紹介には、以下のようにある。簡にして要を得たもので、そのまま本書全体の要約となっている。
こうした問題設定から生まれた本書は、従来、日本・中国・朝鮮・モンゴルなど縦割りの各国共産党史として研究されてきた東アジア初期コミンテルン史を、国境を越えた社会運動家の横断的ネットワークに組み替える。その国際主義の担い手たちも、出身国の枠組みには収まらない。東アジア、ロシアはもとより、アメリカやヨーロッパでロシア革命の衝撃を受けとめた人々も多い。著名な革命家もいれば、後に共産主義を離れる人々もいる。一九三〇年代に粛清された人々も、本書では、初期の献身的活動家として登場する。
山内論文が二つの章にわたっているのは、リュトヘルスのアムステルダム、片山潜ら在米日本人社会主義者団のアメリカ、メキシコ経由の「西回り」と、ロシア人・朝鮮人・中国人をも介したモスクワ、シベリア、上海経由の「東回り」で、日本の共産党が生まれてくるからである。そこに登場するのも、片山潜や大杉栄ばかりでなく、初期の主役吉原太郎はもとより、杉山正三、松本愛敬、富永宗四郎、藤井次郎ら、国内アナ・ボル論争とは異なる「忘れられた面々」の記録である。とりわけ、イルクーツクのコミンテルン極東書記局の役割と、緩衝国家極東共和国の存在が重要だった。
寺山論文によれば、一九二〇年のロシアには、モスクワに三〇〇〇人、シベリアに二万五〇〇〇人の中国人がいて、赤軍兵士をも輩出していた。二三年の人口調査では、極東・ザバイカル地域二〇〇万人のうち、ロシア人一二〇万人が過半を占めるにしても、ウクライナ人三五万人、ブリヤード人一一万人と並んで、朝鮮人一一万人、中国人一〇万人以上が住んでいた。シベリアに出兵した日本からも一万人が入ったとはいえ、本書の描く東アジア初期コミンテルンの活動では、明らかに後発の脇役である。むしろユ(劉)論文や寺山論文、生駒論文が逆照射するように、日本との連絡の必要性・重要性はたびたび報告されるにしても、国内からの反応は弱く、非組織的であった。日本共産党形成が中国・朝鮮より遅れ、それに強く影響されたのも当然だった。
ましてや日本は、第一次世界大戦の戦勝国であり、シベリア出兵で革命ロシアを敵としていた。祖国の再興を願った朝鮮人、列強の植民地化に抵抗する中国人とは、ナショナリズムの在り方が違っていた。資本主義から社会主義への歴史の発展法則、や階級と階級闘争の優位性だけでは、世界革命を根拠づけることはできなかった。
本書からは、階級闘争とナショナリズム・アナーキズム、スターリン粛清、転向・非転向、共産党史と社会運動史・思想史の関係といった理論的・思想的問題も派生してくる。だがこの点では、本書は禁欲的である。第5章石川論文、第6章水野論文が初期コミンテルン大会の中国・朝鮮代表者の氏名特定に専念し、水野論文はかつての自分の研究以後の資料公開と研究の進展を丁寧に跡づけているように、新たに発掘された第一次資料に謙虚で、綿密な史資料批判を加え、史実の復元に集中している。
欲をいえば、山内論文で「西回り」とされたアメリカ、ヨーロッパ経由の動きが、中国・朝鮮共産党の場合はどうであったのかを知りたいところだが、このグループの更なる探求と、黒川伊織が取り組む第一次共産党史についての研究で、いわゆる日本共産党成立史の実像は一新され、二一世紀にふさわしい水準の学問となるだろう。
(『初期社会主義研究』第21号、2009年3月、に発表)