国際主義(インタナショナリズム)といえば、今日ならアムネスティなどNGOの活動が思い浮かぶが、帝国主義と世界戦争の時代であった20世紀前半には、主として社会主義者や共産主義者の国際連帯・組織を意味した。日本の社会主義運動は、国際主義の活動と援助によって生まれ、長くその刻印を帯びてきた。研究史も同様で、国際主義を自主的・歴史的に研究することには多くの困難を伴う。第1にそれは、一国内での資料探索では完結できず、二国ないしそれ以上の国々にまたがる調査と資料収集が必要とされる。第2に、それらの資料の解読にはそれぞれの言語とそれぞれの国の社会運動についての歴史的理解が不可欠で、国際主義の研究では、それぞれの国・地域の歴史に関する縦糸の研究とそれらの同時代性という横糸とを紡ぎ合わせる作業が必要になる。第3にそのような関係史を設定したとしても、とりわけ本書のように国際主義を媒介した個人を対象にする場合には、さらなる困難を伴う。ある国で重要な役割を果たした国際主義者が、その出身国や他の滞在先で重要であるとは限らない。逆に出身国で国際主義者として知られていても、滞在した当該国での足跡は残されていないことが多い。
山内昭人氏の本書は、こうした困難をのりこえて、オランダ人社会主義者セバルト・ユスティヌス・リュトヘルス(1879ー1961、日本ではしばしば「ルトガース」などと表記されてきた)の活動を中心に、第一次世界大戦勃発からロシア革命、コミンテルン創設期の「社会主義のインタナショナル史」を描いている。日本ではもっぱら共産党結成前の外国人メッセンジャーとしてのみ知られてきたリュトヘルスを、世界史的な国際主義の文脈のなかにおき、各国語第一次資料をふんだんに用いて、世界でも初めての本格的なリュトヘルス研究に仕上げている。
序章「インタナショナルとリュトヘルス」で本書の課題が設定される。オープトのいう「社会主義のインタナショナル史」の視角から、第2インターから第3インター(コミンテルン)を架橋するものとしてのツィンメルヴァルト運動が著者の本来の対象であり、それを「比較史」ではなく「関係史」として分析すること、その媒介環としてオランダ人技師兼社会主義者で蘭領東インド―アメリカ―日本―ソヴェト・ロシア―ラトヴィア―オランダと活動を続けたリュトヘルスの軌跡を追跡すること、と。そのための関係史料と研究史の整理は有益で、読者は、対象が国際主義者ゆえの研究の困難を知らされ、それを自覚的に克服して著者が収集しえた史資料に圧倒される。
第1章「オランダ―蘭領東インド」は、リュトヘルスの誕生から社会主義への接近、土木技師としての活動、1911年の蘭領東インド出発までの伝記的史実が、一方で家族関係、他方でオランダ社会主義運動史に目配りしながら描かれる。
第2章「蘭領東インド―日本―アメリカ」では、蘭領東インド・スマトラ島の公共事業に従事しながら社会主義者たちと交際したリュトヘルスが、1915年に日本に3週間立ち寄ってアメリカに渡る頃までが扱われる。オランダ植民地で本国の社会主義者が現地の民族的・宗教的運動にどう対処したかが興味深いが、著者はそれを本国の雑誌へのリュトヘルスの寄稿などから探る。リョトヘルスは短期滞在の日本で大逆事件後の労働運動「冬の時代」を読みとり、「日本における帝国主義」などの論文を雑誌に寄稿した。ニューヨークにおちつくと、アメリカ社会主義者との精力的な交流が始まる。1916年にはサンフランシスコの片山潜と連絡がつき、片山父娘はリュトヘルスの招きでニューヨークに移り、物心両面での援助を受ける。片山とリュトヘルスの交流が1904年の第2インター・アムステルダム大会から始まるという通説は、否定されている。
第3章「アメリカ合州国(1)」、第4章「アメリカ合州国(2)」が本書の中心で分量的にも過半を占めるが、それは、アメリカにおけるリュトヘルスの活動の追跡にとどまらない。当時のアメリカ社会主義についての詳細な歴史分析で、本書の独自の貢献といっていいだろう。逆に本書の副題から片山潜・日本社会主義史の本格的研究を期待する読者は――実は評者もそうだった――、『片山潜著作集』の年譜の誤りがただされ、1919年に共産主義的立場に移行する以前の片山の政治的立場の曖昧さが文献的に実証されているとはいえ、やや肩すかしをくう。もっとも当時のアメリカレフトウィング自体が、多くの移民や外国人亡命者をかかえた「国際主義」のるつぼであり、片山らの日本社会主義者団はそのなかのごく小部分であった。著者は、なぜ「片山は日本人のなかでいちはやくボリシェヴィキに近づきえた」かの問題に、「アメリカレフトウィング内の片山」という視点を設けることで答えているのである。
したがって第3・4章の叙述の大半は、アメリカレフトウィングに凝縮された当時の国際社会主義の反戦平和・革命運動の歴史である。アメリカではパネクーク、ホルテルらオランダ社会主義者の名は比較的早くから知られていた。リュトヘルスはオランダ社会主義者の見解をアメリカの雑誌に紹介することで、一つの役割を果たす。1915年当時のアメリカ社会党には多くの移民が加わり、14の外国語別連盟があったが、それらは自治的で母国の社会主義の流れに影響されていた。なかでも有力なラトヴィア人連盟は、メンバー1600人をこえて党内左翼反対派を成し、第3インター結成を唱えていた。彼らを中心とした宣伝リーグによって、ツィンメルヴァルト左派の動きがアメリカに伝わる。ヨーロッパ左翼内の論争は、アメリカ社会党機関誌や左翼雑誌上で、アメリカ人ばかりでなくリュトヘルスらを含む在米社会主義者内部の論争に転化する。
レーニンらボリシェヴィキの見解はアメリカではほとんど知られていなかったが、1915年頃からラトヴィア語でまず紹介され、やがて英語など各国語になっていく。コロンタイ、ブハーリン、トロツキーらがアメリカに滞在し、アメリカ左翼と交流し集会で演説することで、しだいにロシア左翼の見解も浸透してくる。もっともロシアの左派もレーニン風ボリシェヴィキで統一されていたわけではない。レーニン、ピャタコフ、ブハーリン、トロツキー、ルナチャルスキーらはそれぞれの亡命先の反戦左翼と関係しあいながら、しだいにまとまっていった。著者はこれをダニエルズの「この反戦インタナショナリズムの原則の下に結集し、編成された党こそロシア10月革命の勝利の党となる」とする見解を引いて「国際化したボリシェヴィズム」とよぶ。重要な視点で、ロシア革命史の再検討につながる。
その「多様性から統合へと向かう大戦中の試行錯誤」の一つとして、アメリカレフトウィングへのボリシェヴィズムの流入、議論・文献の紹介・翻訳、直接接触、影響力の広がり・浸透、その地域別・出身国別の相違、各種雑誌の論調の分岐、ロシア革命へのアメリカ人左翼の態度・思想的変化、アメリカ社会党や労働組合の動き、1919年の二つのアメリカ共産主義政党創立までの運動、これらを監視するアメリカ政府の動き、等々が仔細に分析される。これらは移民たちからみたアメリカ共産党創立史、もうひとつのアメリカ社会主義史というべきもので、とりわけ日本では研究が手薄なだけにきわめて有益で、本書の独自の貢献である。評者はこの「関係史」を高く評価する。
第5章「アメリカ―日本」は、こうした流れのなかで一つの役割を果たしたリュトヘルスが、1918年4月、アメリカ政府・諜報機関に監視されながら、革命ロシアで技師が不足していることを知って日本経由ロシアに向かうまでが描かれる。アメリカ側が押収したリュトヘルス夫妻の通信のなかに、片山潜のリュトヘルス宛手紙も含まれていた。そこで片山は、日本に向かったリュトヘルスに27人の日本人を紹介していた。たま夫人や親友岩崎清七のほか、加藤時次郎、堺利彦、荒畑寒村らを「同志」とよび、永井柳太郎、三浦銕太郎、ニコライ・コンラッドらも含まれていた。貴重な資料の発掘である。5月に横浜に入港したリュトヘルス一家を迎えたのは、片山が「同志」として紹介した吉田只次であった。そのルートで会った日本人社会主義者たちに託され、彼がロシアに持参したのが、コミンテルン創立大会でリュトヘルスにより紹介された有名な手紙で、これがその後の日本社会主義のボリシェヴィキ、コミンテルンとの「国際主義」的関係の出発点となる。補章「ボリシェヴィキ文献とアメリカ――1917年3月―1919年春」は、レーニン、トロツキー文献等のアメリカでの紹介・翻訳を、その訳文の適否を含めて検討した書誌学的補論である。
以上評者がコメントしつつ紹介した本書は、「一インタナショナリストの包括的な追求によって『戦争と平和』、そして革命の時代の社会主義インタナショナリズムの実体が捉えられるのではないか」という著者の問題意識に支えられている。しかし率直にいって、読みやすいとはいえない。それは、評者の直接の専門領域でないという読み手側の事情もあるが、リュトヘルスの評伝という縦糸と、アメリカ社会主義のボリシェヴィキとの関係史という横糸とが、必ずしもうまく紡ぎ合わされていないことからくるように思われる。書物としては、リュトヘルスの「伝記」、ないし「ロシア革命とアメリカ社会主義」に徹した方がよかったのではないか?
このことは、リュトヘルスの追求から「国際主義」の何が捉えられるかという方法論にも関わる。対象がレーニンであれ「外交官」コロンタイであれ、ポーランド人ローザ・ルクセンブルグであれ、彼らの活動は「国際主義」の一断面であり「社会主義インタナショナリズムの実体」の一構成部分にすぎない。西川正雄氏の『第一次世界大戦と社会主義者たち』(岩波書店、1989年)のような「関係史」に徹するならば、リュトヘルスは主人公ではなく媒介者・脇役にならざるをえない。「伝記」に徹するならば、「関係史」は舞台装置になる。
実は評者も、1930年代にソ連で粛清された日本人医学者で国際共産主義者であった国崎定洞や、インド独立運動の国際主義者ヴィレンドラナート・チャットパディアの研究で痛感しているのだが、「国際主義」の研究にはこうしたジレンマはさけられないのではないか?
「伝記」としては「社会主義者であり土木技師」というリュトヘルスの二重性は興味深いが、「社会主義の関係史」のなかでは副次的たらざるをえない。評者は旧ソ連秘密文書を解読し、医学史家川上武とともに『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)で「伝記」を完成したものの、国崎定洞・チャットパディアら在独アジア人の反戦・反ナチ活動を「関係史」として展開することの困難を感じている。本書の問題意識に共感し、提供された史実の重要性を高く評価するがゆえに、叙述の方法論上での疑問を呈しておく。
(『歴史学研究』1997・6に発表)