日本共産党創立期からの党員、慶応大学出身の温厚な紳士、アメリカ・中国など『亡命16年』に及ぶ反戦活動、スターリン粛清期ソ連を生き残った日本人コミンテルン指導者、戦後占領期の「愛される共産党」のシンボルで国会議員・党最高幹部、晩年は「同志」を裏切ったソ連の「内通者」として除名――1993年に100歳をこえて没した野坂参三には、幾つもの顔がある。その野坂参三を軸に、現代史の暗部に斬り込んだのが、本書である。
「歴史としての野坂参三」については、彼の晩年の政治的失脚を招いた小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋)をはじめ、近年いくつかの書物が刊行された。。日本共産党委員長不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(新日本出版社)や評者の『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)も「野坂問題」を主たる対象の一つとしている。
本書は、それらを参照・整理しつつ、「学問としての野坂参三研究」への昇華をめざしている。もともと1994年に『思想』に連載された同題の論文をもとにしているが、書物にするにあたって大幅に加筆され、朝鮮戦争期北京での伊藤律幽閉問題にも筆を伸ばしている。日本・ロシア・中国・朝鮮での研究状況を知ることができ、巻末に著者の発掘した貴重な附属資料が付されて有益である。
著者は現代史家である。ソ連崩壊で現れた秘密資料を用いながらも、政党指導者やジャーナリストの評価を再吟味しようとしている。その一つが1939年野坂がディミトロフに宛てた手紙の読み方である。『闇の男』により野坂による「山本懸蔵の密告状」として発掘・公表され、日本共産党がそれを追認して除名の最大の根拠にした問題の手紙である。
野坂書簡を著者は、評者を含む「密告」説に反論して荒木義修氏と共に「ぎりぎりの山本弁護」という正反対ともいえる読み方を示す。
評者は、山本の妻関マツ関係資料の扱いなど本書から多くを学んだが、野坂書簡の評価では説得されなかった。当時の状況下で資料を読むのは当然だが、「人民の敵」という表現が出てこないからといって「弁護」になるわけではない。野坂が山本について述べた9点の事実のうち前半7つを「大したことではない」としているのも納得できない。最近藤井一行富山大学教授がインターネット上に公開したモスクワ、レニングラードで粛清された邦人日本語教師たちの1938年供述記録をみても、野坂自身をスパイとして摘発するソ連側の準備は十分整っていた。照屋忠盛のような勇気ある「弁護」のあり方がありえた。当時の文脈で野坂は山本の「弁護」どころか「自己弁護」でせいいっぱいだったのではないか――この点での事実関係は藤井氏のインターネット出版で宮城与三郎の処刑時期などが新たに確定されたが、評者との解釈のちがいは平行線のままである。
中国での野坂の活動、敗戦後モスクワに密かに立ち寄っての日本への帰国の経緯は、本書のもう一つのハイライトである。中国・朝鮮側資料や聞き取りを含む歴史考証は手堅い。占領期日本共産党幹部としてのGHQとの関わりも、アメリカ側資料とつきあわせてヴィヴィッドに描かれている。本書で新たに加えられた50年問題期の北京機関での伊藤律粛清と、同期の朝鮮北部における朴憲永派粛清との対比は、ソ連史ばかりでなく朝鮮現代史にも目配りしてきた著者ならではのもので、あざやかである。ただ、占領期野坂の天皇退位論を「第三の道」と評価する著者の問題提起には、評者は必ずしも同意できない。むしろこの期の野坂路線への思い入れが、39年野坂書簡を「ぎりぎりの山本弁護」と読む著者の評価を生み出しているようにもみえる。
歴史としての野坂参三は確実に学問の対象となった。だが評価が定まるにはまだまだ史資料発掘・解読の気の遠くなるような旅が必要である。その端緒を開いた本書の意義を高く評価し、評者もその長い旅に加わりたい。
(『図書新聞』に発表)