(『新明社会学研究』第5号、1995、新明正道『ドイツ留学日記』1997、時潮社、所収)


                             

 ベルリン反帝グループと新明正道日記

 

                 加藤 哲郎

                   

 私は、本来現代国家論や比較政治学を専門としているが、近年はもっぱ

ら現代史に沈潜し、元東京帝大医学部助教授国崎定洞の生涯に関わる3冊

の書物を上梓してきた。一つは、旧ソ連で国崎定洞が粛清された過程を分

析した『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞、山

本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年)、もうひとつは、半分専門研究

も加えて「プロレタリア国際主義」と越境の問題を考察した『国民国家の

エルゴロジー――「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ』(平凡社、

1994年)、そして国崎定洞評伝の決定版『人間 国崎定洞』(川上武

と共著、勁草書房、1995年)である。

 

 「抵抗の医学者」「忘れられた思想家」国崎定洞

 

 国崎定洞は、1894年熊本の生まれ、1919年に東京帝国大学医学

部を卒業した医学者である。伝染病研究所助手を経て、1924年に東京

帝大医学部衛生学講座助教授に就任している。26年秋から2年間のドイ

ツ留学から帰国すれば、新設される予定の社会衛生学講座主任教授となる

ことが約束されていたが、ベルリンでドイツ共産党に入党し、そのままナ

チス台頭期のワイマール・ドイツに留まり、在欧日本人・アジア人の反

戦・反ファシズム闘争を組織した。

 これらについては、1970年に川上武・上林茂暢編著『国崎定洞――

抵抗の医学者』(勁草書房)が刊行されている。その本の帯には、新明正

道の娘婿である歴史学者家永三郎が、「忘れられた思想家」と題して、以

下の推薦文を寄せている。

 「東京帝国大学医学部教授の地位を約束されていながら、その『栄光』

の道を自らすて、人民解放のたたかいへのいばらの道を好んで選びとり、

異郷に消えた主人公の生涯には、社会医学の先駆者としてだけではない、

類まれな人間的良心がかがやいており、感銘を禁じえない。この忘れられ

た思想家の人と業績とを、とぼしい史料のたんねんな集積のうえにみごと

に復原された著者の努力に心から敬意をささげる。」

 日本の社会医学の先駆者として、レーニン『共産主義内の「左翼」小児

病』の邦訳紹介者としての国崎定洞については、戦前の社会運動関係者、

とりわけ医療・医学関係者には、よく知られてきた。つい最近でも、宮田

親平『だれが風を見たでしょう――ボランティアの原点・東大セツルメン

ト物語』(文藝春秋社、1995年)が、一章を割いて論じている。

 だが、国崎定洞のその後については、謎がつきまとってきた。1932

年9月に、モスクワのコミンテルン幹部会員片山潜に招かれ、ドイツで結

婚したフリーダ夫人と幼い娘タツコをつれて、ナチスの迫害を逃れモスク

ワに亡命したことはわかっていたが、その後の消息については、長く不明

であった。東洋勤労者共産主義大学(クートベ)に入り、スターリン粛清

最盛期に行方不明になったという噂があったが、戦後も千田是也や有沢広

巳ら親しい友人たちは、世界のどこかで生きているのではないかと願って

いた。

 

「流離の革命家」国崎定洞の粛清と名誉回復

 

 国崎定洞の死亡が最終的に確認されたのは、1975年のことである。

74年秋に、ベルリン時代の国崎の友人で、戦後読売争議の指導者、釜石

市長を長く勤めた鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手当たり次第に

あたって、存命していたフリーダ・レートリヒ夫人を奇跡的に見つけだし

た。

 ドイツ共産党員であったフリーダ夫人は、1937年8月4日の深夜に

モスクワで国崎定洞が突然逮捕された後、獄中の夫との面会もままならな

いまま、38年2月にスターリンのソ連政府から国外追放になった。当時

9歳の遺児タツコと共に、ヒトラーのナチス・ドイツに強制送還された。

フリーダ母娘は、ナチス支配下の迫害、ドイツの敗戦、東西ベルリンの分

断をかいくぐって、なんとか西ベルリンに生き残り、夫国崎定洞の消息を

ソ連大使館に問い合わせてきた。1959年頃に、フリーダは突如ソ連大

使館によびだされ国崎の死の通知を受けたが、何の証拠もない口頭でのも

のだったので、成人した娘タツコにもそれを告げずにきた。

 鈴木東民は、石堂清倫と共に、1975年2月、有沢・千田ら国崎のベ

ルリン時代の友人たちによびかけ、フリーダ夫人とのベルリンでの再会の

報告会を開いた。小宮義孝・曾田長宗ら東大医学部の後輩たちも参集し

た。国崎の生存は絶望的になったが、異郷の地でのスターリン粛清最盛期

における不当逮捕と客死の真相を探求し、「名誉回復」を求める運動が始

まった。この動きが新聞・雑誌で大きくとりあげられると、日本共産党

も、ソ連共産党に公式に問い合わせ、国崎定洞は1937年8月4日に逮

捕され同年12月10日に「獄死」したこと、その逮捕は不当なものと認

められて、1959年にソ連政府が法的に「名誉回復」していたことを発

表した。

 私は、大学闘争の末期に川上武らの『国崎定洞』を読んで国崎に興味を

持ち、卒業後の1972ー73年のドイツ留学中に、国崎がナチス台頭期

ベルリンで組織した革命的アジア人協会機関誌『革命的アジア』を探索し

てきた。川上武と共に「国崎定洞をしのぶ会」を結成し、日本における

「名誉回復」の運動に加わった。そして、フリーダ夫人・遺児タツコと文

通をはじめ、1926ー32年当時の国崎のベルリンでの友人たちから聞

きとりをして、いくつかの論文にまとめた。それは、川上武『流離の革命

家――国崎定洞の生涯』(勁草書房、1976年)、川上武・加藤哲郎・

松井坦編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』(勁草書

房、1977年)にまとめられた。もう20年以上も前のことである。

 ところが1993年に、国崎定洞の最期についての新たな情報がもたら

された。1989年東欧革命と91年ソ連崩壊の結果である。日本のジャ

ーナリスト加藤昭・小林峻一氏によって、『闇の男――野坂参三の百年』

(文藝春秋社)探求の副産物として、旧ソ連マルクス・レーニン主義研究

所(現代史資料保存研究センター)文書館から、国崎定洞の粛清と名誉回

復に関わる個人ファイル「国崎定洞ファイル」が発掘された。そのファイ

ルを他のファイルや既存史資料を参照して解読すると、国崎定洞の悲劇的

最期に関する、驚くべき新事実が明らかになった。

 詳しくは前述『モスクワで粛清された日本人』『国民国家のエルゴロジ

ー』および『人間 国崎定洞』に譲るが、国崎定洞がソ連秘密警察(NK

VD)に「日本のスパイ」の嫌疑を受け、37年8月4日に逮捕され、1

2月10日に「獄死」ではなく銃殺に処された直接の理由は、当時の在モ

スクワ日本共産党代表山本懸蔵の密告によるものであった。

 

 山本懸蔵の告発したベルリン日本人反帝グループの活動

 

 創成期日本労働組合運動の指導者であった山本懸蔵は、1937年11

月にモスクワで逮捕され、39年3月に「日本のスパイ」として銃殺され

た。もう一人の日本共産党指導者であったコミンテルン幹部会員野坂参三

が、山本を助けるどころか、逆にディミトロフ宛の手紙で山本の疑惑を告

発し、それが92年夏に明るみに出て、百歳でなお日本共産党の顔であっ

た名誉議長野坂の除名・失脚を招いたことは、大宅壮一ノンフィクション

賞を受賞した小林峻一・加藤昭『闇の男』によって、よく知られている。

 その悲劇の主人公山本懸蔵が、実は、ドイツ共産党員であった国崎定洞

をコミンテルン組織部に密かに告発していた証拠が、「国崎定洞ファイ

ル」には含まれていた。そればかりではない。山本懸蔵は、モスクワ外国

労働者出版所日本部の国崎の同僚で日本共産党員であった伊藤政之助を、

国崎定洞の前に告発していた。伊藤が先に逮捕・処刑されたため、国崎の

有罪判決には伊藤の強制自白による供述調書が用いられていた。また、国

崎のクートベ及び東洋学専門学校の教え子である4人の沖縄出身日本人共

産主義者たち(アメリカ共産党員)の逮捕・粛清には、今度は国崎の拷問

によると思われる自白供述が用いられていた(『闇の男』『モスクワで粛

清された日本人』参照)。

 しかも、山本懸蔵の国崎定洞告発には、更に複雑な背景があった。山本

懸蔵は、1928年夏に、日本での3・15共産党検挙を逃れてソ連に渡

ってきた。当時在モスクワのコミンテルン幹部会員片山潜は、そのあまり

にあざやかな山本の国外逃亡に疑問を持ち、「特高のスパイ」と疑った。

それを山本懸蔵は、ベルリンの国崎定洞ら日本人左翼グループが片山に

「疑惑の噂」を告げ口したためと信じ、逆恨みしていた。

 山本懸蔵の方も、片山潜を疑っていた。片山の次女千代子が、29年7

月に父の看病のためソ連に入国したさい、日本領事館とアナーキスト作家

武林無想庵が関与したことをコミンテルン指導部に伝え、千代子のクート

ベ入学も父との同居も拒否した。モスクワ日本共産党頂点でのこうした疑

心暗鬼のなかで、山本は、30年10月に、当時のモスクワでの片山の私

設秘書勝野金政と、国崎の紹介で片山のもとにやってきた根本辰という哲

学青年を、ソ連秘密警察(30年当時はGPU)に売り渡した。二人は

「日本のスパイ」と疑われ、勝野は強制収容所送り、根本は国外追放にな

った。すでに70歳をすぎた片山も、逆に山本の3・15逃亡疑惑を告発

しようとしたが、重病で倒れた。30年末のことで、クレムリン病院に半

年入院した。31年4月に新たに日本から入ソした野坂参三は、片山・山

本の確執の調停役にまわったと推定される。

 1932年9月に国崎定洞一家がベルリンからモスクワに亡命したの

は、片山潜の強い勧めによるものであった。しかし、片山と野坂が進めた

国崎のクートベ入学に、山本懸蔵は最後まで反対した。これが野坂と山本

の対立の起源であったと、後に山本懸蔵や山本の妻関マツは、ソ連当局に

供述していた。野坂参三も、ディミトロフ宛の山本懸蔵告発状のなかで、

間接的にそれを認めている。

 山本懸蔵は、1934年9月のコミンテルン組織部極秘文書のなかで、

国崎定洞を疑わしいとする政治的根拠を、国崎の指導した在ベルリン日本

人左翼グループが全体として「党に反対」であり、帰国したメンバーは運

動から離れ、「反共産党闘争」をしたり「ファシスト」になったりしたこ

とを挙げた。

 片山潜は、すでに33年11月に没していた。野坂参三は、34年春に

アメリカに渡っていた。だから山本懸蔵は、モスクワ日本共産党の責任者

であった。片山秘書勝野金政は、30年10月に逮捕され、3年半の強制

収容所生活を経て、34年夏にモスクワ日本大使館に保護された。パリ大

学留学中にフランス共産党に入党し、モスクワではソ連共産党籍のあった

勝野金政を、28年にモスクワの片山潜に紹介したのは、ベルリンの国崎

定洞であった。その勝野と蝋山政道の人脈を通じて知合い、国崎定洞に紹

介したのは、当時フランクフルトに留学していた平野義太郎だった。平野

は日本に帰国し、共産党シンパ事件で検挙されて東大を辞職したが、『日

本資本主義発達史講座』で「講座派」の論客になっていた。しかし生粋の

労働者あがりの山本にいわせれば、モスクワに「特高のスパイ」勝野を送

りこみ、「反共産党闘争」にたずさわったことになる。

 蔵原惟人らの指導する日本のプロレタリア文化運動に対して、ベルリン

から批判的意見を送った勝本清一郎は、山本懸蔵によれば「ファシスト」

であった。勝本は、島崎藤村の3男蓊助を連れてベルリンに入った後見人

であった。「反共ブルジョア作家」島崎藤村と親しくしていることが、山

本には許せなかった。コミンテルンと「党」を絶対と考える山本懸蔵にと

っては、「講座派」の中心メンバー平野も、プロレタリア作家小林多喜二

の原稿を命がけで守った勝本も、「反共ファシスト」と映っていた。

 山本懸蔵の密告により、1934年10月にコミンテルン組織部の事情

聴取を受けた国崎定洞は、こう弁明した。平野義太郎の紹介で、フランス

政府から国外追放になった勝野金政をモスクワに送ったが、当時の勝野は

フランス共産党員で、そのルートは正規のモップル(国際赤色救援会)の

紹介状によるものだった。自分の指導した在独日本人左翼グループは、ド

イツ共産党日本語部の指導下にあり、和井田一雄・小林陽之助・喜多村

浩・野村平爾・大岩誠らは共産党員であった。堀江邑一・三宅鹿之助・千

田是也・山田勝次郎・平野義太郎らは、日本に帰国後検挙されたにしても

「裏切り者」ではない。和井田一雄・喜多村浩・安達鶴太郎・千足高保ら

は、33年ヒトラー政権成立後もヨーロッパに留まり、野坂参三とも連絡

をとって反ナチ活動を続けている、と。

 しかし、コミンテルンとソ連秘密警察は、国崎定洞の弁明より山本懸蔵

の密告を重んじた。35年2月には、国崎は秘密警察の監視下におかれ

た。これらはすべて、旧ソ連秘密文書「国崎定洞ファイル」の解読で、初

めて明るみにでた(以上、詳しくは『モスクワで粛清された日本人』『国

民国家のエルゴロジー』『人間 国崎定洞』参照)。

 山本懸蔵とソ連秘密警察から「党に反対」と評価された国崎定洞らベル

リン日本人左翼グループの活動とは、果たしてどのようなものであったの

か? 私は、政治学の専門研究から離れて、20年ぶりにこの問題を再検

討せざるをえなくなった。そして、さしあたりの準備作業として作ったの

が、別表1・2・3・4のリストである(本稿のための別表をかかげた

が、ここでは省略する)。

 

  ベルリン社会科学研究会と反帝グループの群像

 

 表1は、もともと1926年秋の蝋山政道来独をきっかけに始まる、有

沢広巳・堀江邑一・国崎定洞・千田是也・鈴木東民・山田勝次郎・土屋喬

雄・平野義太郎・蜷川虎三らが加わった「ベルリン社会科学研究会」の参

加者ないし関係者のリストである。1930年代の講座派(平野・山田

ら)も労農派(有沢・土屋ら)も、両派をおしつぶした体制派(国民精神

文化研究所の経済学担当・思想善導係になる山本勝市、柔道赤化防止運動

の工藤一三ら)も、一緒にマルクス主義を学んでいたことが興味深い(加

藤「ワイマール期在独日本人の社会科学研究会」『大原社会問題研究所雑

誌』1996年、参照)。

 参考のために、後に詳しくみる新明正道らのコルシュ・タールハイマー

研究会については、この表に別立てで加えておいた。

 表2は、ベルリン社会科学研究会参加者であった国崎定洞・千田是也ら

に、29年頃にベルリンに入る勝本清一郎・小林陽之助・藤森成吉らが加

わって、反戦反ファシズムの実践活動を始めた在独左翼グループである。

その中核は、国崎定洞を責任者とするドイツ共産党日本語部であるが、そ

の周辺には、ナップ[全日本無産者芸術団体協議会]ベルリン支部、プロ

レタリア科学研究所ベルリン支部、革命的アジア人協会などを組織し、国

際反帝同盟、国際赤色救援会(モップル)、国際労働者救援会、文学・演

劇・美術・建築・写真などの左翼国際組織と連絡していた。政治的には、

モスクワの片山潜および日本共産党指導部岩田義道らとつながり、いわゆ

る「32年テーゼ」は、河上肇・平野義太郎・小宮義孝らを介して、この

ルートで日本に送られた(加藤「政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合」

『情報と社会』創刊号、1996年、参照)。

 「ベルリン在住日本人左翼グループ」「ドイツ共産党日本語部(エル・

ゲー)」「在独日本人革命家グループ」などさまざまな名前で特高外事警

察記録や関係者の回想にでてくるが、ベルリンに本部をおく国際反帝同盟

のよびかけに応えた反戦闘争が活動の中心であったので、ここでは「ベル

リン反帝グループ」とよんでおく。

 表3は、ベルリン反帝グループと主要なメンバーが重なり、政治的にも

人的にも密接な連絡を保っていた、パリ在住日本人反帝グループのリスト

である。1932年1月には「ガスプ(GAASP)」を結成して、学習

会など組織活動を行っていた。「ガスプ」とは、パリ及びベルリンでの中

心メンバーの一人であった野村平爾(後の早稲田大学教授、労働法)によ

れば、「在巴里芸術科学友の会」の略称であった(『民主主義法学に生き

て』日本評論社、1976年)。パリという場所がら、若手画家が多く、

戦中・戦後の日本美術界にも、そのネットワークを残している。

 表4は、国崎らベルリン反帝グループと一緒に活動したことがこれまで

判明している、主として「革命的アジア人協会」に関わった中国人・朝鮮

人のリストである。

 

 「新明正道日記」と文部省在外研究員ネットワーク

 

 国崎定洞のモスクワ粛清の解明から、私は現代史研究へと迷い込んだ。

すでに多くの関係者は没していた。千田是也(1994年12月没)とな

らぶ貴重な生き証人である石堂清倫氏から、国崎定洞と重なる時期に新明

正道や大熊信行もベルリンに留学している、と示唆を受け調べてみた。そ

の結果、新明正道の『ワイマール・ドイツの回想』(恒星社厚生閣、19

84年)と『新明社会学研究』に収録された「新明正道日記」に出会っ

た。

 新明正道の在欧「日記」は、山本鎭雄氏が整理しているように、『新明

社会学研究』第3号に掲載された@日本出発からベルリン到着まで(19

29年4月6日ー4月25日)、A「伯林日記第一」(1929年4月2

5日から6月24日)、同第2号に掲載されたB「伯林日記第二」(19

29年6月25日ー8月30日)、C「伯林日記第三」(9月1日ー10

月10日)、遺著『ワイマール・ドイツの回想』に掲載されたD「ケルン

大伽藍の空の下で」(1929年11月11日から12月15日)、D

「ベルリン大学内外」(1930年1月1日から9月24日)、それに、

『新明社会学研究』第4号収録の「ヨーロッパを旅して」(1931年1

月ー3月11日)、E「ヨーロッパを去りつつ」(31年3月28日ー5

月8日)、から成る。途中に若干の欠落はあるが、この期の在独日本人研

究者の日記としては、「河合栄治郎日記」(1932年4月6日ー193

3年3月24日、『河合栄治郎全集』第23巻、社会思想社)とならん

で、ナチス台頭期のベルリン日本人事情を知る貴重な記録である(平井正

『ベルリン 1928ー1933 破局と転換の時代』せりか書房、19

82年、は、これら日本人資料を含む原資料で当時のベルリン全体を再現

した、すぐれた作品である)。

 「新明正道日記」には、国崎定洞の名前は出てこない。だが、ベルリン

反帝グループの千田是也や勝本清一郎の名前は、幾度か出てくる。帰国途

上のパリでは、後にパリ・ガスプの中心となる内田巌や佐藤敬と会ってい

る様子である。「日記」によると、新明正道は、1929年4月にベルリ

ンに到着し、31年3月に帰国の途についている。

 「新明正道日記」に出てくる日本人は、主要には文部省派遣の在外研究

員である。文部省派遣の在外研究員は、関東大震災後に著しく増大した。

自ら文部省派遣在外研究員で、ベルリン反帝グループの小栗喬太郎と関係

を持っていた、山形高校ドイツ語教授岡部福造(帰国後結核で死亡)の遺

品の中に、文部省専門学術局発行『文部省在外研究員表』(昭和7年3月

31日調)がある。

 それによると、文部省の在外研究員派遣は、明治8年度の11人から始

まり、明治32年度の55人あたりから増えている。大正8年度の108

人以降、大正末から昭和初めに年150ー200人を大量派遣する。滞在

期間はおおむね2年、私費で延長もできたから、新明正道の渡航した昭和

3年度の派遣は157人、年度末の在留者は423人(内女性5人)にの

ぼった。ただし、1930年代に入ると、国際社会のなかでの日本の孤立

により、急激に減少する。丸山真男・大塚久雄・川島武宣ら「市民社会青

年」たちは、東大助教授になっても留学機会を逸する。都築勉は、興味深

い指摘をしている。

 「『市民社会青年』の範疇に含まれる知識人たちが、昭和10年代の

『暗い谷間の時代』の時代状況に制約されて、いずれも青年期に留学とい

う形での西欧体験を持たなかったのは、注目されるべき事実である。この

ような制約は、彼らの上の世代も下の世代も持ち合わせていない。彼らに

おいて観念としての『市民社会』がいよいよ抽象化され、それに伴ってま

すます普遍的な意味が付与されるようになる背景は、おそらくこのあたり

の事情にもあったと思われる」(都築勉『戦後日本の知識人』世織書房、

1995年)。

 文科系と理科系を比べると、理科系の方が多い。例えば1932年3月

末現在では、文科27、法科11、経済科20、理科36、工科29、医

科37、農科16、その他15計191人である。1932年度の留学先

を国別で見ると、ドイツ83、イギリス23、アメリカ21、フランス2

1、オランダ6、イタリア3、ギリシャ3である。2年間に数ヵ国をまわ

るパターンが多いが、圧倒的にヨーロッパが中心で、とりわけドイツは、

必ずといっていいほど留学・渡航先に入っている。

 1932年度在留者の名簿を大学別で見ると、東京帝大24、伝研4、

京都帝大16、東北帝大9、九州帝大9、北海道帝大9、大阪帝大2、東

京商大3、金沢医大3、東京工大4、東京文理大4、東京高師3、広島文

理大3、桐生高工3などが主なところで、旧制高校や各種専門学校もおお

むね隔年1人は送っている。当時の大学序列がわかる。

 

 新明正道と杉本栄一を結びつけた「井上鎧三」について

 

 この文脈で、私が「新明正道日記」に注目するのは、1930年夏、東

北帝国大学派遣の新明正道・服部英太郎が、杉本栄一・小畑茂夫・大熊信

行・井上鎧三ら商大・高商の若手経済学者たちによびかけ、勉強会を開い

たことである。彼らは、1926年に当時のドイツ共産党(KPD)主流

派から「極左派」として除名されたカール・コルシュ(1886ー196

1)と、同じく28年末に「右派」として除名されたアウグスト・タール

ハイマー(1884ー1948)を訪問し、集中的に勉強会を開いてい

た。

 「新明正道日記」によると、コルシュ宅に初めておもむくのは1930

年7月16日、ロンドンから大熊信行が移ってきた直後である。その翌日

から、タールハイマー夫妻との交流も始まっている。主なメンバーは、新

明正道、杉本栄一、服部英太郎、小畑茂夫、大熊信行の5人、新明と服部

が東大法学部出身、大熊・杉本・小畑は東京商大(現一橋大)出身で、大

熊・杉本は福田徳三ゼミの先輩・後輩である。

 もともとこの二つの流れをベルリンで結びつけたのは、東京商大出身で

新明と同じ下宿の隣室に入った、横浜高商教授の井上鎧三であった。この

井上の紹介で、新明正道のドイツ人脈は秋山範二・新庄博らに広がった。

ただし7月18日の「日記」の記述によると、井上は「勉強不足で気が進

まない」という理由で、勉強会には加わらなかった。

 ここに出てくる「井上鎧三」のことが、私の調査ではどうもはっきりし

ない。昭和5年当時の『職員録』で調べると、横浜高商には2人の「井

上」姓の教授がいた。どちらも「経済学及び商業学」専攻で「井上鎧三」

と「井上龜三」というよく似た名前である。始末の悪いことに、昭和7年

版の『文部省在外研究員表』には二人とも登場し、二人とも「商学士」で

渡航先も「独伊米」と全く同じである。異なるのは留学時期で、井上龜三

が1929年5月15日ー31年8月10日であるのに対し、井上鎧三は

1931年11月1日ー33年5月1日である。つまり、新明正道と留学

が重なるのは、井上鎧三ではなく、「井上龜三」の方である。年齢・号俸

も近いらしく、当時の『職員録』の横浜高商名簿には、「井上龜三・井上

鎧三」とならんで出てくる。当時の学内序列と在外研修の重要性からする

と、留学の順序も「井上龜三→井上鎧三」となるだろう。

 しかし、「新明正道日記」の「ケルン大伽藍の空のもとで」序文には、

新明正道自身が、井上龜三ではなく「井上鎧三」と明記している。文藝家

協会の『文藝年鑑』1937年版「文藝家総覧」には「井上鎧三」のみが

載っており、「明治33年生・大正14年東京商大卒・生糸経済研究所

長・横浜高商教授」とある。東京商大卒の杉本栄一・小畑茂夫を、新明正

道に紹介するにふさわしい経歴である。ただし、『職員録』の横浜高商名

簿では、1938年まで「井上龜三・井上鎧三」がならんでいるが、39

年に「井上龜三」のみになり、鎧三の名が消える。どこかに転勤したのだ

ろうか? 『人事興信録』『紳士録』『文化人名録』などの戦中・戦後版

にも、「井上鎧三」の名はない。戦後に杉本栄一の留学時代のことを調べ

た伊東光晴によると「井上鎧三」だったと思うというので、ここでは「井

上鎧三」として話を進めるが、事情をご存じの方のご教示を乞う。

 やや回り道をしたが、このコルシュ・タールハイマー勉強会から多くを

学んだのは、近代経済学とマルクス経済学の架橋をめざしていた福田徳三

門下の俊英杉本栄一、新明より1年送れて到着した社会政策の服部英太郎

だった。服部を回想する文章で新明正道が語り(『服部英太郎著作集・月

報1』)、伊東光晴も杉本の著書の解説で注意を促している(杉本『近代

経済学の解明』岩波文庫版・上巻解説)。

 

 新明正道のみた武林文子と「吉原の影」

 

 しかし、なぜコルシュとタールハイマーなのか? これが、小論の隠れ

た主題である。

 『新明社会学研究』第2号の山本鎭雄「ベルリンはなおワイマール文化

の真盛り」が詳述しているように、留学中の新明正道は研究目的をはっき

り定め、ベルリン大学のフィーアカントばかりでなく、ドゥンクマン、ヴ

ィーゼ、マンハイムらから最先端の社会学理論の摂取に努めていた。当時

の社会科学のもう一つの有力な潮流であるマルクス主義をも学ぼうとした

こと自体は、何の不思議もない。日本社会学会は、25年に第1回大会を

開いていた。

 カール・コルシュは、『マルクス主義と哲学』(1923年)の著者と

してばかりでなく、日本では特別の意味を持っていた。もともと吉野作造

と大正デモクラシーに始まる東大新人会が一気にマルクス主義に近づいた

のは、レーニンを学んで留学から帰国した福本和夫の「福本イズム」の影

響によってであった。石堂清倫の回想によれば、「そのころコルシュやル

カーチの本が大量に輸入され、その新鮮な理論と福本理論に相似点があり

そうなことも、福本の評価を高めることになった」(『わが異端の昭和

史』勁草書房、1986年)。しかし「福本イズム」がコミンテルン「2

7年テーゼ」で否定されると、在欧日本人もコルシュから離れた。新明正

道らが勉強会をもつ1930年当時、コルシュもタールハイマーもドイツ

共産党(KPD)から除名され、「文筆業に身をやつし」ていた(新明正

道「ドイツ留学中の思い出」『服部英太郎著作集・月報1』)。ちなみ

に、新明・大熊らの後、32年には2度目の留学の河合栄治郎がコルシュ

のもとに通う。

 表1の「ベルリン社会科学研究会」は、ちょうど新明正道の来独した2

9年頃に、より実践的な組織になる。しかし、もともと蝋山政道・有沢広

巳・国崎定洞ら東京帝大助教授だった文部省派遣在外研究員たちが、堀江

邑一・谷口吉彦・山本勝市ら京大河上肇ゼミ出身者、蝋山の弟山田勝次

郎、菊池勇夫・舟橋諄一ら九州帝大の東大法学部出身者らによびかけて、

26年秋から始められたものである。やがて鈴木東民・与謝野譲らジャー

ナリスト、千田是也ら左翼芸術家も加わった。日本人のみの勉強会であっ

たが、KPD系労働学校講師ヘルマン・ドゥンカーを招いたりもした。ス

ターリン、ブハーリン、レーニン、マルクス、エンゲルスなどの著作を伏

字なしで自由に読めるワイマール共和国の雰囲気のなかで、ドイツ資本主

義や日本の情勢についても活発な討論が行われ、親睦を深めた。この期の

ベルリンは、世界の学術・文化・芸術の中心と目されていた。

 これも山本鎭雄論文が触れているが、新明正道が来独した29年頃に

は、約500人の日本人がベルリンに滞在していた。九州帝国大学教授の

鹿野木員信が、在ベルリン日本大使館と結んで、日本人会の右派を代表し

ていた(宮本盛太郎『宗教的人間の政治思想・軌跡編』木鐸社、1984

年)。東大教授を辞した国崎定洞は、ベルリン左派の代表である。朝日新

聞特派員黒田礼二や電通特派員鈴木東民は、両派をつなぐ存在である。

 文部省在外研究員たちは、主として西の中級住宅地に下宿し、これらの

はざまで勉学にいそしみながら、それぞれに自分のスタンスを定めた。山

本論文が指摘するように、藤森成吉のモデル小説「転換時代」(『改造』

1931年10月号)には、国崎定洞ら反帝グループが、メンバー全員が

東部の労働者街に住居を定めるよう決議する場面が出てくる。とはいえ、

必ずしもメンバー全員が東に住んだというわけではなかった。数軒ある日

本料理店やビア・ホールなどでは、しばしば各派が顔を会わせた。

 新明正道は、入国当初の1929年5月3日、作家武林無想庵夫人の文

子と日本料理店「藤巻」で出会っている。このころパリに住んでいた無想

庵は、5月1日から金策のために日本に一時帰国していた。7月に片山潜

の娘千代子を連れてシベリア鉄道経由で戻るのであるが、その間、文子と

娘イヴォンヌ(後の辻まこと夫人)は「藤巻」の世話でベルリンに滞在し

た。文子は、7月末にパリに戻るまで、ポーランド人妻をもつ黒田礼二と

いつもの「恋の病い」に落ちる(武林無想庵『巴里の腹へ』記録文化社、

1983年、山本夏彦『無想庵物語』文藝春秋、1989年)。新明正道

は、そんな文子を「悲惨」と見ている。

 実は、武林無想庵が29年7月の帰国時、ウラジオストックの日本領事

館の頼みで片山千代子をシベリア鉄道で同行したことが、数ヵ月後のモス

クワでは、山本懸蔵が片山潜を批判する口実とされ、千代子のクートベ入

学も父との同居も不許可となる理由の一つとされる。だがそんなことは、

無想庵も黒田も新明も知る由がない。風間丈吉らが証言を残していたが、

旧ソ連崩壊で明るみに出た秘密文書に片山千代子の姉安子の証言が出てき

て、ようやく確認されたことである(『モスクワで粛清された日本人』参

照)。

 5月17日には、ベルリンで上映された日本映画「吉原の影」を見る。

「技術はいい。ただところどころ仕草の少しグロテスクに見えたところは

ある」と評している。『新潮』1929年9月号の「伯林風見筆」では、

より詳しく論じている。実は、この映画(原題「十字路」)の監督衣笠貞

之助は、前年からベルリンに滞在し、千田是也の下宿にころがりこんでい

た。ベルリン日本人会の会合で、鹿野木員信らは「国辱映画だ」と上映反

対を唱えたが、ベルリンに長く住む黒田礼二がとりなして、ようやく上映

にこぎつけたものであった(衣笠貞之助『わが映画の青春』中公新書、1

977年)。

 

  「酒井一雄に似た顔」=国崎定洞?の謎

 

 しかし、ベルリン到着間もない新明正道は、こうした事情をおそらく知

らない。まだ東大吉野作造ゼミ・新人会の先輩黒田礼二とも会っていな

い。映画「吉原の影」を観た翌5月18日、大分高商教授の藤野靖らと共

に昼食をとった後、ビアホール・ヴィッテルバッハに一人で夕食に赴く。

そこで「酒井一雄に似た顔」の日本人に出会う。これがおそらく、新明正

道と国崎定洞のベルリンでの初めての出会いである。

 「どこか間の抜けた、でも可愛らしい顔である。どこかの先生だろう。

一度見たことのある男だ。しかしこの男気質良くして過ち易しと考えた。

一隅からの観察である。好漢少し目先を明るくせよ。――などと思って外

に出る」とある。好意的ではない。

 この「酒井一雄」は、おそらく、1925年3月の関西労働学校連盟主

催「全国労働学校関係名士招待会」出席者44人の写真中に新明正道と一

緒に出て来る「酒井一雄」であろう(鈴木安蔵「学連事件――精神史的回

想2」『現代と思想』第36号、163頁)。新明正道の娘である家永美

夜子氏によると、「酒井一雄」とは実在した新明の友人であった。山本鎭

雄氏によると、1929年4月9日の新明の留学出発にあたって神戸港に

見送りに来た一人に「酒井」の名があるという。

 「新明正道日記」には、後にもう一度、「酒井一雄に似た顔」が出てく

る。1930年9月2日、ヨハン・ゲオルグ・ゼーレンでの左翼文芸家の

KPD選挙演説会である。新明正道は、一緒にコルシュ宅、タールハイマ

ー宅を訪問している杉本栄一・小畑茂夫と共に、演説を聞いた。平野義太

郎がフランクフルト滞在時に師事した東洋学者ヴィットフォーゲルと共

に、応援演説に立った日本人が「酒井一雄めいた顔」の男である。新明正

道は、「どもりどもりいう。演説としてはまずいが愛嬌がある」とシニカ

ルに記す。無論、ドイツ語の演説である。当時のベルリンで、ドイツ人聴

衆を相手にKPDの応援演説する日本人となると、国崎定洞ら反帝グルー

プのメンバー以外にない。

 新明正道が「酒井一雄めいた顔」を見たと証言する29年5月と30年

9月の両時点で、ベルリンに滞在している日本人反帝グループのメンバー

は、表2から国崎定洞、千田是也、三宅鹿之助、岡内順三の4人である。

32年の革命的アジア人協会の頃に中心メンバーとなる小林陽之助や勝本

清一郎・藤森成吉らは、30年9月選挙の時点では到着しているが、29

年5月時点ではまだベルリンにいない。

 与謝野寛の甥譲は滞在しているが、日本国内の日労党系を支持して、国

崎ら共産党系とたもとを分かっている。

 新明正道は、「日記」にあるように、遅くとも30年1月6日には勝本

清一郎の下宿で千田是也と顔をあわせているから、千田を「酒井一雄めい

た顔」と記す必要はない。

 三宅鹿之助は、朝鮮総督府派遣の京城大助教授で、日本の特高警察の目

が秘かに光るKPD集会での演説などできなかっただろう。三宅鹿之助の

検挙は、ドイツ留学からの帰国後34年5月に、ベルリン「革命的アジア

人協会」で知り合った京城大法学部助手李康国らの朝鮮人抗日運動を援助

した理由によるものであった(京城大赤化事件、朝鮮総督府『思想彙報』

第2号、1935年)。

 村山知義の妻村山籌子の実弟である岡内順三は、33年2月の帰国後、

特高外事警察にベルリン反帝グループのことを詳しく供述している。彼

は、義兄村山知義がアナーキズムからマルクス主義に近づいていくのとは

反対に、29ー30年頃にはすでに左翼運動から離れ、島崎蓊助らと遊興

にふけっていたらしい。KPD集会での演説は考えられない(『国民国家

のエルゴロジー』)。

 かくして、この「酒井一雄めいた顔」は、表2のリストからの消去法で

いけば、国崎定洞以外には考えられない。数ヵ月前、30年5月のメーデ

ー集会で、KPD書記長テールマン、『ローテ・ファーネ』主筆ハイン

ツ・ノイマンらと並んで国崎定洞が演説した模様は、「日本人フーラ」の

名前で、勝本清一郎『赤色戦線を行く』(新潮社、1931年)に勇まし

く描かれている。

 山本鎭雄氏は、作家藤森成吉のベルリン反帝グループをモデルにした小

説「転換時代」にも国崎定洞が「以前商科大学教授」の「酒井」の名前で

出てくるので、新明正道が見た「酒井一雄めいた顔」は国崎定洞ではない

かと示唆している。私も上述の理由から、そうであろうと推定する。

 新明正道は、1929年5月18日の「日記」に、「酒井一雄に似た

顔」を、「一度見たことのある男」と述べている。それは、ドイツ到着後

1ヵ月足らずの間であろうか?たぶんそうではないだろう。国崎定洞は、

1919年東大医学部卒で、新人会員ではなかったが新人会の活動を助け

ていた。新明正道は、21年法学部卒で、東大新人会の草分けである。二

人が本郷のどこかで以前に出会っていても不思議はない。

 新人会で新明正道の1年先輩で、雑誌『社会思想』同人でもある蝋山政

道は、ベルリン社会科学研究会の提唱者の一人であっただけではなく、国

崎定洞と親しい山田勝次郎の兄であり、国崎定洞の医学部の後輩曾田長宗

とも姻戚関係にあった。ただし、蝋山と国崎は社会科学研究会でしばしば

政治的・理論的に対立し、国崎定洞の小宮義孝宛手紙では、国崎の蝋山評

価は手厳しい(『社会衛生学から革命へ』)。蝋山政道の方は、晩年にい

たるまで、国崎定洞やベルリン社会科学研究会のことを活字に残さなかっ

た。新明正道が、先輩蝋山政道から聞いて、国崎定洞を否定的意味で知っ

ていた可能性は高い。

 東大当局が国崎定洞の「依願免官」を認めたのは、1929年5月4

日、新明正道のドイツ到着直後である。しかし『帝国大学新聞』5月27

日には、「国崎助教授の後任石原博士に内定」の記事が掲載されている。

『帝国大学新聞』は、鈴木東民が元編集部員でこのころ常時寄稿し、ベル

リンにも届いているから、読んでいたかもしれない。

 いずれにせよ新明正道は、1929年中には、前文部省在外研究員国崎

定洞の存在も、彼の東大免官の政治的事情も知ったであろう。それがな

ぜ、1930年9月の時点でも「酒井一雄めいた顔」なのか? 今度は、

新明正道自身のベルリン生活が問題になる。

 

 期待はずれの黒田礼二との会見と新明正道の「ハイネ的考察者」の視角

 

 1929年5月末に、新明正道が入国直後に親しくしていた大分高商教

授藤野靖が帰国した。新明正道は、隣室に下宿する「関野」とドライブに

行ったり芝居を見たりして、ドイツ生活にとけこんでゆく。「伯林なれ」

(6月29日「日記」)してきた7月12日、ドゥンクマンの『応用社会

学』の「出来の悪さ」に飽いてトロツキー系新聞『フォルクス・ヴィレ』

を読み、KPD周辺の分派闘争を学び、「日記」にメモしている。

 「KPもこういう風に分派を生じてきては、仕様がない。だが、トロツ

キステンなどを党内の分派たらしめておいても、よかり相に思われる。フ

ィッシア、マスロフ等がこの分派に属する。コルシュなどはまた別のリン

ケンを構成するものらしい。

 ブランドラア、タールハイマア―この左派。

 KPD―テールマン、レームケ、メルカア。  

 SPD―ミュラア、ゼヴェリング、ウェルス、キュンストラア、エッチ

ゼンスキィ」

 しかし実は、ベルリンに到着したばかりの新明正道が「きょう大分衝突

があったらしい」と日記に記した29年5月1日のメーデーは、新明が7

月にメモを記したドイツ左翼陣営のなかに大きな亀裂をもたらし、新たな

分派闘争が生じていた。ドイツ社会民主党(SPD)員であるベルリン警

視総監ツェルギーベルがメーデー・デモを禁止し、1万3千人の警官を配

備、それに怒ったKPD系労働者20万人がデモを強行し衝突、数十人の

死者を出した。すでに滞独2年の千田是也は、後にこれを「1923年の

ハンブルク暴動以後はじめての、無産階級とブルジョア国家権力との真正

面からの衝突」と特徴づけた(『もうひとつの新劇史』筑摩書房、197

5年)。いわゆる「血のメーデー事件」である。

 KPDとSPDの関係は、この事件で決定的に悪化した。KPD党内で

も機関紙『ローテ・ファーネ』はSPDを「社会ファシズム」とよび、テ

ールマン、デンゲルらの主流派が「社会ファシズム論」に傾いたため、ツ

ェトキン、ヘルマン・ドゥンカーらが中間派となり、20年代前半にブラ

ンドラー、タールハイマーらの影響下で「統一戦線」を主張した右派は切

り捨てられた。しかもこの時期は、KPDをも一支部とするコミンテルン

(共産主義インターナショナル)内で、その中心であるソ連共産党のブハ

ーリン派が失脚し、スターリン主導の左旋回、スターリン個人崇拝が完成

される時期である。

 コミンテルンが初めて公然と「社会ファシズム論」を宣言したのは、2

9年7月の第10回執行委員会総会であった。タールハイマーらは「右翼

的偏向」としてドイツ共産党を追われ、小さな反対党を結成した(加藤哲

郎『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、参照)。

 新明正道も、こうした事態に興味を持ったようである。メモの2日後の

7月14日、朝日新聞ベルリン特派員黒田礼二こと岡上守道に電話をかけ

たがつながらず、直接出向いてつかまえる。いうまでもなく黒田は、麻生

久、佐野学と共に東大独法三羽烏といわれた秀才で、新人会でも新明正道

の大先輩である。

 しかし、この会見は、新明にとっては期待はずれであった。

 「ジャナリストだから、まとまった研究はしていないようだ。社会運動

について、もっと詳細な事情を知りたいと思ったのだが。僕の方がかえっ

て知っている。」

 実はこの時期、黒田は武林無想庵の妻文子と「不倫」の三角関係にあ

り、無想庵が7月末に日本から戻ってくることが決まって、あわてて文子

とイヴォンヌをパリに帰さねばならなくなった。「社会運動」どころでは

なかったのである。ベルリン反帝グループ関係者の回想・資料によって

も、黒田は当初は有沢・国崎らの社会科学研究会に参加したが、熱心では

なかった。電通特派員として来独し、日本語新聞『ベルリン週報』を出し

ていた鈴木東民ほどには、メンバーとつきあうことがなく、後輩の面倒も

みなかった。

 新明・黒田会見の1ヵ月ほど前の29年5月下旬、モスクワ滞在中の作

家中条(後の宮本)百合子、湯浅芳子が、パリで百合子の家族とおちあう

途中、ベルリンにやってきた。一度モスクワで会った黒田礼二との再会を

楽しみにしていたのだが、新明正道の場合と同じ事情で、ベルリンでは黒

田に会えなかった。

 その代わりに百合子は、同世代の千田是也・衣笠貞之助らの「左翼的歓

迎」の洗礼を受けた。汚い千田の下宿で、百合子は初めてナップ機関誌

『戦旗』を手にし、千田から寄稿を勧められる。このことが、モスクワで

の片山潜との(湯浅に隠した秘密の)会見と共に、百合子が後にプロレタ

リア文学に飛び込む伏線となる(宮本百合子『道標』)。

新明正道は、7月29日にも、27日に来独した松岡[駒吉]と共に、黒田

こと岡上守道を訪ねる。「岡上君の話は面白いが、一寸うますぎた作話も

ある」「[労働]総同盟館へ案内してもらうことにしたが、馬鹿にせわし

相である」「岡上君、鼠のように動いているが、埓が明かぬ。表向きに立

つことはいやなのか――何かの理由があるのかもしれぬが、勿にして、案

内役を辞した。そこで僕があと一寸ひき受け、面会を独人のAEGの委員

に約して帰る」。翌々7月31日に、新明は松岡を連れて、けっきょく黒

田ぬきで、AEG「労働組合館」を見学する。武林無想庵は、8月はじめ

にはベルリンに到着した。

 新明正道が、「内務省から来ている丈の高い人」と会ったのは、松岡駒

吉との労働組合館見学と同じ、29年7月31日のことである。

 「きいてみると、内務官吏。赤化事件によって職を得た人である。……

こんな妙な官吏をつくっている日本は妙である。つくづくと考えさせられ

る。傍観者ということは出来ぬ。彼などは、運動を『スパイ的見地』から

見る。運動を殺してみる。我々はただハイネ的考察者たらんとするのみ。

彼とは立場はちがう。」

 入国して3ヵ月――私は、新明正道の在独生活のスタンスが定まったの

は、この頃であったと思う。特高警察的「スパイ的見地」は、無論論外で

ある。しかし、日本とは異なる強大な合法左翼があるとはいえ、自由な

「ワイマール文化」に浮かれて「主義」や「運動」に直接関わることの恐

ろしさも、ある程度了解できた。

 新明のいう「ハイネ的考察者」に「同伴者」の意味が含まれるか否かは

特定できないが、KPDと国崎定洞ら日本人反帝グループに対しては、意

識的に距離をとる。

 

  千田是也・勝本清一郎との距離と杉本栄一との出会い

 

 翌日、1930年8月1日の「日記」には、KPDの反戦集会を見にい

った感想が記されている。いわゆる「国際反戦デー」である。そこで革命

歌「インターナショナル」の演奏が始まると、参加者が「皆、脱帽した

。」「KPDと脱帽――これも一つの問題である。脱帽主義、下らないで

はないか。少なくとも、傍観者に強制する態度はほめられない。」

 その同じ日、SPDも示威集会をしている。「だが、僕はゆく気を失っ

た。別に大したこともないのである。KPDのそれも月余の宣伝にも拘ら

ず、何人の人を集めているか。僅かに一万人位である。ちっとも組織化し

ていない」――シニカルである。

 この新明正道の感想は、1926ー28年期のベルリン社会科学研究会

のメンバーたちの受けたドイツ社会運動への新鮮な印象とは、ずいぶん異

なる。

 たとえば、国崎定洞の小宮義孝に宛てたドイツの運動の報告(『社会衛

生学から革命へ』)、高野岩三郎と共にキールのSPD大会を傍聴した有

沢広巳の回想(『学問と思想と人間と』毎日新聞社、1957年)と比べ

るとよくわかる。有沢が帰国後初めて『帝大新聞』に寄せた印象記は「左

翼優勢の独逸」であったが、新明正道は、醒めた「ハイネ的考察者」の眼

で「左翼運動」を眺め、『経済往来』に「独逸通信」を送っている。

 すでにドイツも日本も、状況が変わっていた。ドイツでは、ナチスが台

頭しつつあるのに、労働者政党SPDとKPDの亀裂が深まっていた。日

本では、有沢の28年夏帰国前に3・15共産党検挙があり、新明正道の

離日直後に4・16事件が起こっていた。新明正道の絶筆は「ベルリンは

なおワイマール文化の真盛り」であったというが、彼の見た29年の「ワ

イマール文化」には、明らかに暗い陰がつきまといはじめていた。

 新明正道は、おそらく蝋山政道や黒田礼二から、国崎定洞らのベルリン

日本人左翼グループの話を聞いていただろう。そうでなくても、国崎定洞

の帰国拒否・任官拒否問題は、当時の文部省・東大当局やベルリン日本大

使館にとって、初めて経験する頭の痛い問題だった。在外研究員ネットワ

ークの雑談や噂からも、5月に会った「酒井一雄に似た顔」が、東大医学

部教授の職を捨ててKPDに飛び込んだ元文部省派遣在外研究員国崎定洞

であることは、すぐにわかっただろう。国崎らに近づくことは、新明にと

って、自ら設定した留学目的からの逸脱だった。かといって、「スパイ」

まがいのことはできない。かくして、国崎定洞は、「新明正道日記」では

「酒井一雄に似た顔」のままで描かれることになった。

 とはいえ新明正道は、国崎定洞らベルリン反帝グループと、全く没交渉

だったわけではない。1929年10月に、横浜高商教授井上鎧三が隣室

に入り親しくなってから、11月ー12月にはケルン・ボン・キールと旅

行に出かけ、井上の人脈で秋山範二・新庄博らと知合う。翌30年1月6

日に、島崎蓊助と共に来独した文芸評論家勝本清一郎の下宿に寄る。「日

記」の書き方からして旧知のようである。そこに、千田是也も来る。千田

是也は、この頃在独日本人反帝グループの、いわば文化担当である。年長

の衣笠貞之助や年下の島崎蓊助・岡内順三をひきつれて、ベルリンの歓楽

街にも勇ましく出入りしていた。その様子は自伝『もうひとつの新劇史』

に詳しいが、島崎蓊助も「在独日本青年素描」で自虐的に描いている(

『改造』1936年2月)。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)委員長

藤森成吉夫妻がベルリンに到着し、ベルリン日本人反帝グループが、日本

の『戦旗』や『ナップ』誌上ではなばなしい活動に入る直前の頃である。

 同じ頃に、新明正道は、杉本栄一に出会う。「日記」では30年1月8

日から登場する。福田徳三ゼミの英才杉本との学問的対話は、新明にも刺

激になっている様子だ。30年2月から5月末の東南ドイツ・ウィーン旅

行までの「日記」が中断しているため確言できないが、この期に新明正道

は、一方で反帝グループの千田や勝本ともつきあいつつ、杉本栄一・井上

鎧三ら商大グループとのつながりを深めていったようである。高岡高商の

大熊信行は当時ロンドン滞在中で、杉本との初めての出会いで、大熊の住

所を聞いている(1月8日)。30年4月には、新明正道の東北帝大の同

僚服部英太郎が到着する。

 

  宮本百合子と林芙美子のはざまで

 

 1930年6月16日の「日記」に、「平君が夕方やってくる」とあ

る。経済学者杉本栄一・小畑茂夫と一緒に食事しているから、当時パリに

留学中の友人平貞蔵のことであろう。「平君は独逸語を解せず」とある。

 平貞蔵は、1920年東大法学部の卒業で、新人会では蝋山政道と同

期、新明正道の1年先輩である。法政大学教授として、改造社版『経済学

全集』「フランス経済史」を書き上げ渡仏していた。というよりも、29

年6月から11月までパリ・ロンドンに滞在した中条百合子が、パリで

『資本論』の個人教授を受け、日本に妻がありながら愛を告白された相手

として戦後の小説『道標』に描き、後に有名になる。大熊信行も、たまた

まロンドンで再会した百合子に恋愛遊戯の相手とされ、『道標』に描かれ

たことを弁明している(大熊『ある経済学者の死生観』論創社、1993

年)。罪な話であるが、この新進女流作家は、新明の周辺の二人の経済学

者との戯れをステップに、プロレタリア文学に近づく。百合子の当時の

「同伴者」湯浅芳子は、29年8月14日のロンドン・ヴィクトリア駅で

の百合子との別れ――芳子の単独モスクワ帰行――を、後に「運命的な

日」と回想している(沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニヤ』文藝春秋

社、1990年)。大熊の再生産論と平の『資本論』講義は、中条百合子

が宮本百合子に脱皮する肥しにされたのである。

 1931年末に、『放浪記』で流行作家の仲間入りした林芙美子は、シ

ベリア鉄道3等列車の貧乏旅行で、憧れのパリに着いた。場末のホテルに

一人で部屋をとったが、すぐに望郷の念にかられた。中条百合子の29年

欧州旅行がいかに「ブルジョア的」であったかをパリの日本人から聞かさ

れ、「ふふんと冷たく芙美子は笑った」が(和田芳恵『林芙美子 日本文

学アルバム20』筑摩書房、1956年)、パリにもロンドンにも芙美子

が心なずむ世界はなかった。

 その林芙美子が、1932年春に画家の外山五郎と別れた後、パリで恋

した『巴里日記』中の相手「ベルリン大学学生S氏」については、定説が

ない。一時「S氏」に擬された仏文学者渡辺一夫は自ら否定し(「パリの

邂逅」『文藝』1957年3月)、天才的考古学者森本六爾とする説もあ

るが(和田芳恵「林芙美子とその時代」『現代日本文学アルバム第13

巻・林芙美子』学習研究社、1974年)、都市論から解読した海野弘

は、これを建築家坂倉準三と推定している(『モダン都市周遊』中央公論

社、1985年)。

 1937年パリ万博日本館や戦後の新宿西口広場の設計で知られる坂倉

準三は、林芙美子のパリ滞在時コルビュジェに師事し、画家の内田巌や佐

藤敬と共に「ガスプ」の有力メンバーであった。だから最後のベルリン反

帝グループ指導者勝本清一郎の33年秋日本帰国時も、勝本は坂倉準三の

世話になる(勝本清一郎『こころの遠近』朝日新聞社、1965年)。

 林芙美子は、学究的で親切な「S氏」の生き方を尊敬しあこがれたが、

日本に夫手塚緑敏を残してきたこともあり、改造社に旅費を送ってもらっ

て帰国の途に着く。翌33年9月に共産党に資金カンパした疑いで検挙さ

れ、以後は左翼運動ときっぱり縁を切る。ブルジョア出身の宮本百合子

は、ソ連・欧州体験をもとに、進んでプロレタリア文学運動に飛び込んで

いった。プロレタリア出身の林芙美子は、ようやく底辺からはいあがって

「花のパリ」で良家のリベラルな子弟の多い日本人社会にとけこもうとし

たが、とけ込めなかった。パリ・ガスプ・グループに接触するとば口で、

自ら身をひいた。

 こんな話は、平林たい子や中村光夫の得意な領域で、新明正道とは直接

関係はなさそうである。しかし、百合子と芙美子の体験が、当時の日本人

の異郷での「自分さがし」の旅の両極を代表しているとすれば、新明正道

のそれは、どこに位置するのだろうか?

 当時の在欧日本人社会は、広くて狭かった。「広い」というのは、学問

や芸術の狭い職業的つながりをこえてさまざまな領域の専門家と交わるこ

とができ、ベルリン・パリ・ロンドン・ローマと人脈ネットワークで結ば

れていたことである。「狭い」というのは、その人脈ネットワークの出来

方が、日本での旧制高校や出身大学・学会、新人会・ナップなどの活動

歴、上流家庭子弟の門閥・閨閥・社交界の痕跡を色濃く残しており、例え

ば中条百合子の「大名旅行」が何年も語り草になり、武林文子と黒田礼二

のスキャンダルがベルリンからパリへとすぐに伝わり、国崎定洞らの左翼

運動が「ベルリンに危険人物あり」とインフォーマルな社交情報ルートに

乗る、その日本的「しがらみ」の強さと「世間」風なあり方である(阿部

謹也『「世間」とは何か』講談社現代新書、1995年)。

 ベルリン反帝グループやパリのガスプ・グループは、日本の左翼運動ば

かりでなく、モスクワの片山潜・野坂参三や、アメリカの日本人共産主義

グループとも連絡し、独自のネットワークを持っていた。政治的・思想的

には「国際主義」をかかげ、日本的「しがらみ」から脱しようとした。だ

がそれは、当時の左翼政治結社に特有な別のかたちの「しがらみ」にしば

られ、「ワイマール文化」や「花のパリ」の大海に浮かんだ日本人コミュ

ニティの小島のなかの「もう一つの世間」の性格をも色濃く持っていた。

 

 新明正道と服部英太郎の滞独体験のちがい

 

 新明正道は、おそらくそうした日本人ネットワーク網を強く意識して、

つとめて「東北帝大文部省在外研究員」「社会学者」としてたちふるまお

うとした。

 だから、千田是也や勝本清一郎とは個別につきあったが、「酒井一雄に

似た顔」の国崎定洞や、ナップ・ベルリン支部の旗を公然と掲げた藤森成

吉(林芙美子が、32年初めにロンドンで会う『巴里日記』のM氏)と

は、おそらく意識的に接触をさけていた。

 この点は、妻美代を同伴した服部英太郎の滞独とも異なる。服部英太郎

は、新明正道・杉本栄一らのコルシュ及びタールハイマーとの研究会に加

わる一方、おそらく新明正道の帰国後に、国崎定洞らの反帝グループとも

親しくつきあう。川上武『流離の革命家』には、1931年6月14日の

ドイツ共産党フェスティバルで一緒に写した、服部英太郎・美代夫妻と国

崎定洞・フリーダ夫妻のむつまじい写真が収められている。

 野村平爾の証言によると、ちょうど野村がパリからベルリンに入り、服

部が日本に帰国する直前の32年3月頃、服部は、ベルリン反帝グループ

の会合で報告していた。おそらく革命的アジア人協会の例会で、野村によ

ると、「そういう研究会で、よくドイツの問題をとらえて、変化していく

情勢を分析されて報告してくれたのは、服部英太郎さんでした」(『民主

主義法学に生きて』)。明らかに服部英太郎は、服部自身は詳しく書き残

していないにもかかわらず、新明正道のいう「ハイネ的考察者」の枠をこ

え、在欧日本人の反戦・反ナチ運動に入り込み、コミットしていた。

 このベルリン反帝グループへの距離の違いが、終生近しい位置にあった

新明正道と服部英太郎にどのような微妙な関係をつくったかは、ここでは

さしあたりは問題としないが、当然その「ベルリンの青春」の意味は違っ

ていたであろう。

 

 コルシュ及びタールハイマーとの研究会

 

 新明正道が、1930年5月のメーデーをどう過ごしたかは、「日記」

が中断しており定かではない。おそらく国崎定洞・千田是也・勝本清一郎

らの加わったデモンストレーションを尻目に、杉本栄一・井上鎧三らと

「ハイネ的考察者」をきめこんだのだろう。

 30年夏から秋の、コルシュとタールハイマーというKPD主流から

「左右」にはずれた学究的マルキストの訪問・勉強会は、この30年メー

デーの延長上にある。しかも、1930年夏は、9月14日投票のドイツ

国会選挙の選挙運動中である。そこでKPDやSPDの学者に話を聞くこ

とは、自分自身の政治的立場の選択を迫られる場になりかねない。学的好

奇心旺盛な大熊信行のベルリン到着は、新明の考え抜かれた「ハイネ的考

察」プランを実現する好機であった。事実、大熊信行は勉強会に乗り気に

なり、後にコルシュをドイツ語の個人教授にもしたともいう(『ある経済

学者の死生観』年譜)。

 服部英太郎が、後の回想で、コルシュ、タールハイマーとの勉強会を

「私達が勉強するには、党の中心にある学者、例えばヘルマン・ドゥンカ

ー、ヴィットフォーゲルとかそういう人もいましたが、そういう人とは個

人的に接触するわけにいかないんですよ。忙しいですからね。それでどう

しても両端にはみ出したような学者にしか会えなかった」と述べているの

は、半分はその通りで、半分は先輩新明正道の意図を理解したうえでの、

服部英太郎なりの弁明であったろう(「大学生活四十年――服部教授に聞

く」東北大学研究年報『経済学』66・67号、1963年)。おそらく

服部自身は、国崎定洞と親しかったハインツ・ノイマンやヘルマン・ドゥ

ンカーなど、KPD主流のマルクス主義者とも直接交流し学ぶ機会を、3

1ー32年には持てたであろうから。

 「新明正道日記」は9月24日で終わっているが、「日記」の範囲内で

確認できる新明らのコルシュ訪問は、7月16日・25日、8月6日、9

月8日・11日・15日・18日の7回である。ただし新明は、「毎週1

回ずつ前後10回」とも書き残している(『服部英太郎著作集・月報1

』)。タールハイマー夫妻と会うのは、7月18日・26日、8月2日・

8日・9日、9月6日・12日・13日・20日の9回である。

 タールハイマー夫人だけとのノイ・パーベルスベルグ城訪問や、キール

大学に移る杉本栄一の送別会も含まれているが、相当の頻度であり密度で

ある。

 「ワイマール・ドイツの命運」が問われ、ナチスが100議席を超えて

一躍第2党に躍進した9月選挙の模様を、新明正道は、詳しく分析してい

ち早く日本に送ったが、そこにはKPDから除名されたが故に「考察者」

「傍観者」であったコルシュとタールハイマーの意見が大いに役立ったで

あろう。

 しかも、KPDについては「左右」両側からの分析である。新明正道の

「独逸通信」は、「第二の勝利者」「ベルリンにおける最強の政党になっ

た」KPDが、「共産党内部に社会民主主義の排撃を第一の課題とするも

のの存している」にもかかわらず、書記長テールマンが演説中で「強くそ

の政略的誤謬を指示」し、「ファッシズムへの坑戦」「無産階級への統一

戦線」を述べている、というきわどい文脈をも日本に紹介し、生彩を放っ

ている(「独逸政治の現段階」『経済往来』1930年12月)。

 服部美代によれば、10月末に新明・服部・小畑らがコルシュ夫妻を招

待したという(『服部英太郎著作集・月報1』)。服部英太郎の回想「大

学生活四十年」によれば、杉本・新明がベルリンを離れた後も、研究会は

続いたという。

 しかし、「新明正道伯林日記」はここで終わり、30年10ー12月が

欠落している。「ケルン大伽覧の空のもとで」公開時に、新明正道は、

「フランクフルト大学内外」として『ワイマール・ドイツの回想』への収

録を予告していた。残念なことに、ナチ台頭期のフランクフルト学派につ

いての貴重な証言となるであろうこの記録は、現在までのところ見つかっ

ていないという。「日記」は、31年1ー5月の「ヨーロッパを旅して」

「ヨーロッパを去りつつ」に飛ぶ。

 

 内田巌との「宿命的出会い」の意味するもの

 

 1931年2月、帰国途上の新明正道は、「中川君[一男? 東京文理

大・西洋史]」「國村[枝?]氏」「佐野氏」「武藤君」「竹の家氏」

「佐瀬君」「北村君」「松木[本?]君」「金山君」「嘉冶君[隆一?

])」「真木君」らとパリ見物を楽しむ。3月3日、「松本君夫妻」の紹

介で、画家の「内田君」と会う。3月11ー26日の「日記」が空白のた

め確言できないが、その後もひんぱんに「内田君」とつきあったらしい。

3月26日には、「内田君」の部屋で「佐藤君」とも会う。この「松本

君」が誰であるかが、私には解読できない。松本竣介でないことは確かだ

が、美術関係者のようである。ご存じの方の教示を得たい。「佐野氏」も

出て来るが、東大新人会の後輩で、ガスプ=ベルリン反帝グループに加わ

る佐野碩ではありえない。佐野碩のパリ到着は、千田是也の日本帰国と入

れ違いで、1932年1月になってのことである。文部省在外研究員な

ら、神戸商大の佐野一彦(社会学)であろう。

 他の名前も解読は難しいが、私はここでの「内田君」を、画家の内田

巌、「佐藤君」を(「佐野氏」「佐瀬君」と同一人物でないとすれば)、

佐藤敬と推定する。二人とも、翌32年1月のパリ・ガスプ結成メンバー

である。この頃には、坂倉準三・大岩誠・嬉野満州雄らがパリに着いてお

り、パリの日本人左翼は、ナップやプロ科など日本の組織ばかりでなく、

反帝同盟やモップル(国際赤色救援会)、周恩来のつくった在欧中国人共

産主義者ネットワーク(小倉和夫『パリの周恩来』中公叢書、1992

年)を通じても、ベルリンとつながっていた。当然、ベルリン反帝グルー

プとも連絡があっただろう。

 ベルリン反帝グループのメンバーであった小林義雄・竹谷富士雄・鳥居

敏文・小栗喬太郎らのパリへの旅は、いずれもグループ間の連絡で内田

巌・佐藤敬らの出迎えを受けている。ベルリンでグロピウスに学んだ建築

家山口文象は、千田や勝本を介して文学・美術関係のネットワークに入

り、パリではコルビュジェに師事する坂倉準三のもとに赴く。つまり、新

明正道がパリ到着後すぐに内田・佐藤らと会わなかったことは、新明が千

田是也や勝本清一郎から内田巌らへの紹介状を持たなかったことを意味し

ており、新明正道の欧州留学における「ハイネ的考察者」の立場の最終的

貫徹、ベルリン反帝グループとの変わらぬ距離を裏書きしている。

 しかし、新明正道と内田巌は、短期間にうちとけたらしい。31年3月

26日の「日記」には、「内田君との交遊はやや宿命的なエレメントを有

っていたようだ」とまで書いている。山本鎭雄氏のご教示によると、新明

正道がパリで購入した「内田君の絵」は、戦後も新明正道の家に飾ってあ

ったという。それは、内田巌の絵にまちがいないという。

 その「宿命的エレメント」が後にどのように花開いたかは、「新明正道

日記」のみからは、うかがいしれない。しかし、歴史におけるイフが許さ

れるならば、もしも新明正道が、ベルリンからパリではなく、パリからベ

ルリンへと留学先を設定していたならば、あるいは国崎定洞は「酒井一雄

めいた顔」としてではなく、本名か「和田哲二」名(国崎定洞の日本での

レーニン文献の翻訳者名)で「日記」に登場していたかもしれない。新明

正道の場合は、「酒井一雄に似た顔」や黒田礼二との苦い出会いが「ハイ

ネ的考察者」の道に導いたが、ニューヨーク・ロンドン・パリからベルリ

ンに入った野村平爾のような、「アラゴン的実践者」の道もありえたかも

しれない。

 パリから日本に帰国した内田巌と佐藤敬は、1936年7月、帝展への

文部省の介入と洋画界の国家統制に反対し、猪熊弦一郎・小磯良平らと共

に新制作派協会を結成する。「我々は一切の政治的工作を拒否し、純粋芸

術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期す」が規約第1条であった。モ

スクワの野坂参三とも相談し、日本に帰国しての反ファッショ文学運動を

選んだ勝本清一郎は、その前年の1935年11月、島崎藤村を会長にか

つぎあげ、有島生馬・堀口大学・清沢洌・谷川徹三と共に、自ら常務理事

に就任して日本ペンクラブの創設に関わる。日本文学の全体的自立を願

い、すでに「転向」した旧プロレタリア作家たちをも会員に加えた、軍部

ファシストへの抵抗線であった。

 学問の世界の方は、新明正道の帰国直後から、共産党シンパ事件、滝川

事件、美濃部天皇機関説事件、コム・アカデミー事件、矢内原事件、人民

戦線事件、河合栄治郎事件、平賀粛学と、「冬の時代」を迎える。表1・

2・3のベルリン・パリ帰りの多くのメンバーが、これらに巻き込まれ

る。

 そして、この期にも実は、ベルリン社会科学研究会や反帝グループ、パ

リ・ガスプ・グループの人的ネットワークが様々な縦糸・横糸を織り成す

のであるが、それは、「新明正道日記」にしぼった小論の主題を超える。

蝋山政道や大熊信行とのその後のつながりや、鶴見俊輔らの「転向思想史

上の人びと」で簡単に言及された新明の「転向」の問題も(『共同研究・

転向』下、平凡社、1962年)、別稿で扱わざるをえない。

 ただ一つ言えることは、「伯林日記」に見られる新明正道の現実政治へ

の距離のとり方、「ハイネ的考察者」のスタンスが、その後の新明の学問

と人生にも、よかれあしかれ、一つの影を落としているように思われるこ

とである。


<付記> 本稿は、『新明社会学研究』第5号に掲載された論文に、その後の

研究の進展による最小限の加筆修正を行ったものである(筆者連絡先:〒

186 東京都国分寺市戸倉2ー16ー41 TEL0423ー27ー9261 FAX0423ー27ー9262)。



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