以下に掲げるのは、1991年11月2日に東京で開催された、ローザ・ルクセンブルク東京国際シンポジウムで報告した私のペーパーである。原文はドイツ語で書かれたが、独文の収録はまだ行っていない。日本語では拙著『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)に収録されているが、ここでは、発表時紙数の都合で削除された、レーニン=コミンテルン型前衛党とローザの思想をも一つの源泉とした89年東欧革命の「フォーラム」との対比をも、加えておく。このたび、1998年5月のローザ・ルクセンブルグ・シカゴ国際シンポジウムに出席するにあたり、ちょうど1万ヒット記念でもあり、ここに収録することとした。(1998/4/25)
1989年の東欧革命によって劇的に崩壊したものは、レーニン=コミンテルン型の共産主義前衛党、とりわけ「民主主義的中央集権制」の組織原理である。その「一枚岩主義」は、万人の解放を目的とした運動が、全般的抑圧手段に転化していくさいの、媒介環であった。
レーニン=コミンテルン型共産党の支配が打倒されることによって、早くからレーニンとボリシェヴィキの「超集権主義(Ultrazentralismus)」を批判してきた、ローザ・ルクセンブルクの組織論、「ロシア社会民主党の組織問題」(1904年)や「ロシア革命論」(1918年)におけるレーニン批判が、クローズ・アップされている。
たとえば、旧東独ML研究所(現労働運動史研究所、Institut fur Geschichte der Arbeiterbewegung)のY・スローンが、1920年代ドイツ共産党(KPD)の「ボリシェヴィキ化」は、かつて東独歴史学が「反共主義」とレッテルをはってきたH・ヴェーバーの大著が述べていた通り、やはり「スターリン主義化」ではなかったか、と自己批判的に問う時、ローザのレーニン批判が想起される。スローンは、1925年にKPDが「コミンテルン模範規約」を強制される起点に、レーニンの「コミンテルン加入条件21ヵ条」を見いだし、その組織原理への先駆的批判者として、ローザ・ルクセンブルクに光をあてる。
私は、1989年の東欧革命の直前に日本語で発表した『社会主義と組織原理?』(窓社)という書物において、「民主主義的中央集権制」の歴史的意味を探るために、19世紀前半の生成期にまで遡って、社会主義運動組織の規約や組織規律の変遷を整理してきた。
そこでは、社会主義運動組織に、いつごろなぜ「裏切り者は死刑」の陰謀結社原理が生まれたのか、それがどうして「除名」や「除籍」の制度として定着していったか、「立法機関としての大会」はいつ設けられたか、「離党の自由」はあったか、「自由・平等・友愛」原理はどのように結社内に浸透していったか、「党員主権」「権力分立」「指導者統制」の考えはいかに共産主義者同盟やドイツの労働者政党規約にとりいれられていったか、「財政民主主義」はいかに決められ「情報公開」はどうなっていたか、「党費」はいかに徴収・運用され中央指導部への上納金はどれくらいであったか、機関紙や議員の役割はどのように規定されていたかなどを、「レーニン型の党」成立以前の社会主義運動体の組織規約の変遷のなかにトレースし、その試行錯誤の歩みを検討した。
そこから析出された、19世紀社会主義の組織原理は、以下の4つであった。
(1)「友愛的平等」型 初期社会主義のなかの、R・オーウェンの「ニュー・ハーモニー準備社会規約」(1825年)を典型とする。外部社会に開かれた小共同体組織で、@自由・平等・友愛関係の共同体内での目的意識的創出(目的と手段の一致)、A共同体内メンバーの平等、相互扶助、B共同体運営における構成員主権、全員総会を最高機関とした直接民主主義と選挙制指導部、多数決原理、情報公開、C個人の出資と労働に応じた共同体内分配・消費、D共同体内良心の自由と良心的兵役拒否権、入会の容易さと退会の自由、旅行の自由、子供の教育の自由、Eルール違反の処分は「追放」のみ、を特徴とした。この組織原理は、後のチャーティスト運動や協同組合運動に継承される。
(2)「陰謀的集権」型 初期社会主義のなかで、「友愛的平等」の対極にたつもので、1839年に武装蜂起に失敗したころの、A・ブランキ率いる「四季協会」を典型とする。その不文律の「掟」の特徴は、@自由・平等社会実現のために現存国家の即時の軍事的打倒をめざす秘密結社(目的と手段の鋭い緊張関係)、A死をも恐れぬ体制への憎悪と武装革命遂行の軍事的規律、B家族や友情をも超えた組織への絶対的忠誠・献身と秘密保持義務、C指導者の選抜による任命制、指導者・上級への絶対服従、メンバーの匿名性、水平的交通の排除、D組織決定の絶対的実行、権利なき義務と自己犠牲、E厳格な入会資格要件と秘教的入会儀式、脱会の自由の欠如と「裏切り者は死刑」。共産主義者同盟の前身の追放者同盟規約(1834-35)、義人同盟規約(1838年、1843年)は、基本的にこの型に属する。
(3)「集権的平等」型 マルクス、エンゲルスの加わった共産主義者同盟は、「陰謀的集権」の義人同盟に、平等原理を導入したものである。1847年創立大会草案、同年第2回大会規約、革命さなかの1848年規約、シャッパー派追放後の1850年規約とそれぞれ違いがあるが、@「死刑」廃止と除名・除籍制度、A最高機関としての大会と執行機関としての中央委員会、B同盟財政の公開と使途の特定(ただし50%が中央財政)、C決定服従義務・組織秘密保持、D党内関係の実務化・脱儀礼化などの特徴を持ち、中央集権だが機能的・実務的平等がはかられ、秘密結社ではあったが宣伝組織への方向を持っていた。
(4)「契約的分権」型 ラサール派全ドイツ労働者協会(ADAV)は、1863・1872年規約とも「指導者独裁」の特徴をもつ。アイゼナハ派社会民主労働党(SDAP、1869年綱領)、ゴータ合同党(社会主義労働者党、SAPD、1875年規約)は、結社法・社会主義者鎮圧法のもとでも「指導者独裁」を排除し「党内民主主義」を貫くために、新しい組織原理を創出した。それは、@陰謀的秘密結社でなく合法的大衆的労働者政党をめざし情報公開・機関紙討論を重視、A党大会を最高機関としながら、執行部への集権を防ぐ統制委員会・監査制度、機関紙の独立など「指導者統制」「権力分立」の導入、B大会議事日程事前公表・事後承認、機関紙投稿権など「党員主権・党員参加」の「契約」的制度化、C党費納入義務と厳しい財務・会計監査規定、党役員・機関職員の俸給明示、D綱領・義務違反者の処分における再審・仲裁制度、E結社法にも影響された地方機関紙・政策の独立性、地区独自規約など「地方分権」、の特徴をもつ。これで大衆と結びつき、帝国議会選挙でも前進した。1890年に合法化して大衆政党・議員政党になるドイツ社会民主党(SPD)も、1890年ハレ大会、1900年マインツ大会規約までは、複数指導者制導入や議員権限の強化を伴いつつ、「契約的分権」の基本的特徴を保持していた。
20世紀に入ると、SPDは「契約的分権」から「官僚的集権」型へと転化し、それにロシア・ボリシェヴィキからコミンテルンに継承される「軍事的集権」型が加わる。そのはざまで、ローザ・ルクセンブルクに影響された「連合的分権」型が、一時的に現れる。
(5)「官僚的集権」型 SPDは、1905年のイエナ党大会規約をほぼ境にして、「官僚的集権」型に転成していく。ロシア社会民主労働党のレーニンは、このイエナ大会の規約改正を、SPDの「中央集権化」として歓迎した。逆に、1902年にSPDに入党したR・ミヘルスは、この期の体験から1907年にSPDを離れ、かの「少数支配の鉄則」をひきだす。その規約改正の特徴は、@帝国議会選挙区単位での党組織の垂直的系列化、A地方組織の自主権剥奪、中央金庫への20%上納、B党執行部の選挙候補者調停権、C党員の党組織所属義務化、など。現実には、垂直的にライン化した党組織をエーベルトら専従党官僚が支配し、議員政党化していく。この「官僚的集権」の特徴は、1909年ライプツィヒ大会、1912年ケムニッツ大会改正規約、さらには第一次大戦後の1918年ワイマール、1925年ハイデルブルク大会規約へと継承され、今日のSPD組織の原型となる。ただし、議会選挙を通じて選挙民の監視を受け、権力分立を認め国家官僚制とは必ずしも癒着しない点、イデオロギー的統一よりも日常的利害・政策実現を重視し、理論・世界観上は「多元主義」を認めうる点で、「軍事的集権型=民主主義的中央集権制」と区別される。
(6)「軍事的集権」型 ツァーリ専制下のレーニンのロシア・ボリシェヴィキは、ナロードニキの陰謀秘密結社の伝統とイエナ大会規約の「中央集権化」に学び、ローザ・ルクセンブルクが「超集権主義」と評した独特の宗派的・軍隊的党組織を形成する。「民主主義的中央集権制」は、@厳格な「鉄の軍事的規律」の公然たる主張、A上級の決定の下部の無条件実行、B厳しいイデオロギー的・世界観的統一と異論・離反者の犯罪視、C党員の水平的交通および「分派」禁止、D党財政の中央管理と秘密主義、E党外大衆組織さらには国家組織への党内「伝導ベルト」を通じての指導と支配の確保、などに具体化され、コミンテルン「加入条件21ヵ条」(1920年)や「模範規約」(1925年)で完成する。
(7)「連合的分権」型 では、ローザ・ルクセンブルクの構想した党組織は、これら6つの歴史的型と、いかに関わるものであったのか? 1918年末のKPD創設期にその秘密を探ると、それは、1919年のKPD第2回大会規約に表現されている、と思われる。
第1に、ローザは、「ロシア社会民主党の組織問題」のなかで、ラサール派ADAVの「独裁」「極端な中央集権主義」とアイゼナハ派SDAPの「自治主義」を対比し、SDAPの「自治主義」が「労働者階級の偉大なイニシアティヴの精神を広範な層に浸透させた」ことを評価していた。「分権主義」には反対し、「中央集権主義」一般は否定しなかったが、レーニンの「超集権主義」をラサール派になぞらえて批判した。
第2に、ローザは、独立社会民主党(USPD)内のスパルタクス・ブント活動で「批判と独自活動の完全な自由」を経験し、1918年末のKPD創立にあたっては、「東方の革命家と西ヨーロッパの社会主義者を結ぶ」ため、「共産党」ではなく「社会党」の党名を主張した(3対4で敗北)。新インタナショナル結成にも、慎重な考えをもっていた。
第3に、創立大会で彼女は党綱領を報告し、エーベルラインが組織問題を報告したが、この両者は一対のもので、エーベルライン報告はローザの党組織論を表現していると考えうる。たしかに彼女は、虐殺される直前にも「ドイツは昔から組織の古典的国だ」と「組織フェティシズム」を批判し「行動へ!」を訴えたが(15)、その行動のために必要最小限の「底辺からの」組織のあり方は、エーベルライン報告に示された。それは、@官僚的選挙同盟でなく経営中心の政治的行動組織」、A経営・住区組織の「完全な自立性」、B中央指導部の任務は「精神的政治的指導の総括」に限る、C地方機関紙に中央が規制してはならない、D規約は短文・簡潔で地方組織の最大限の自由を保証する、など「分権」的であり、かつ党自体は自立的経営・住区組織の「連合」として構想するものであった。
第4に、創立大会では規約案文はなく、ローザの悲劇的虐殺の後、1919年春に草案が起草され、6月の第1回全国協議会で討論・採択、10月の第2回大会で承認・発効する。したがって、この1919年KPD規約にローザは直接関わりえなかったが、その内容からして、ローザの党思想を反映したものと考えることができる。その特徴は次の通りである。
@ 前文なしでわずか8ヵ条から成る、極めて短く簡潔な規約である(SDAPと近似)。
A 地方組織は「党の原理と党決議の範囲内で自立的」で「独自規約」制定権をもつ。
B 地方組織は選挙区単位(SPD型)でなく経営中心で下から組織される。
C 党大会は完全比例代表制で、最低年1回開かれる(SPD内での左派の主張の実現)。
D 党大会で選ばれる中央委員会への統制監督機関は特に設けないが選挙・リコール制を徹底し、各中央委員(女性・青年代表含む)は完全に同権で、相互に監視しあう。
E 党費中央納入は10%で、当時のSPD25%、USPD20%より低い(当時KPR10%)。
F 地方機関紙は独立であり、中央委員会は編集権に介入できず反論権のみ。
G 各級有給専従職員(書記・機関紙部・宣伝部・党務部)の規約明示(ドイツ的伝統)。
しかしこの間、1919年3月に、ローザの遺志をついだKPD代表(エーベルライン)の反対(最終的には棄権)にもかかわらず、レーニン、ジノヴィエフらの強引な指導により第3インター=コミンテルンが結成され、KPDはそこにくみこまれた。1920年8月のコミンテルン加入条件「21ヵ条」採択と、12月のUSPDのKPDへの合流により、1920年規約が作成された。そこでは、「決定の実行」を「党員の義務」とし、すべての党新聞の中央による監督、議会フラクションや党費中央上納30%が規定され、中央集権化した。それでもこの規約には、上級の承認による独自規約制定権や、USPDから継承した複数議長制、除名処分者の異議申し立て・仲裁裁判などのドイツ的伝統が残されていた。
翌1921年のKPDイエナ大会規約で、「21ヵ条」で義務とされた「民主主義的中央集権制」(=「最も厳格な中央集権制」「軍事的規律」)が、ドイツ労働運動史上初めて、明記された。複数議長制が廃止されて政治局・組織局が設けられ、新たに「規律」の章が入り、「KPDは中央集権的党組織であり、自己の隊列内では厳格な規律を保たなければならない。組織とその指導部の決定は無条件に実行されなければならない」と規定された。ここに、KPDは、組織原理上は、完全にローザの「連合的分権」から離れる。
さらに、1923年の十月闘争敗北の教訓として、「分派や潮流やグループの存在を許さない中央集権的な党」「単一の魂から鋳られた一枚岩の党」の欠如が指摘された。「ドイツの教訓」に基づき「ルクセンブルク主義」は「トロツキズム」とともに批判され、世界のほとんどの支部=共産党が「コミンテルン模範規約」(1925年)にそった組織を強制される。KPDではそれが、1925年規約となる。ローザの危惧した「早すぎたインターナショナル結成」により、KPDは、こうしてドイツ労働者政党の長い組織的伝統から完全に遊離し、「ボリシェヴィキ化=軍事的集権化」を完成する。
1989年の東欧連鎖革命で、この「軍事的集権」型の党=国家体制を打倒したのは、@不定型な市民的抵抗運動体、Aネットワーク的な討論のアリーナ、B固定的指導部をもたない自由意思的で開放的な臨時闘争指令部、の性格をもつ「フォーラム」型民衆運動であり、その平和的移行を可能にしたのは、「フォーラム」と旧権力の「円卓会議」であった。
「フォーラム」は、その自治・分権と水平的ネットワークでローザ的「連合的分権」と重なる。しかし「階級的」ではなく「市民的」組織であり、「政治行動組織」である前に「討論の広場」で、世界観の違いをこえた「多元主義」を内在していた。旧くはフランス革命の「クラブ」や1871年パリ「コミューン」、今日の「緑の党(Die Grunen)」や「新しい社会運動」とともに、「社会主義」ではなく「民主主義」の新しい組織類型と考えるべきである。ローザも夢みた「社会主義」そのものが問われているのであり、「大衆民主主義」のもとでの今日的民衆的課題は「生活世界からの日常的フォーラム化」にある。
社会主義運動の組織は、国家権力奪取を目的とし、その組織を「前衛」とした国家・社会支配を「未来社会の萌芽」として想定する限りで、それらの組織の「社会主義」像をも反映するものとなる。
1989年に、東欧諸国で共産党独裁を打倒した民衆の運動においては、その政治的変革過程で、旧支配権力=共産主義政党と「フォーラム」との「円卓会議」が重要な意味を持った。1989年後半の東欧の連鎖的民主主義革命は、「フォーラムと円卓会議による平和革命」であった(加藤『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年、参照)。
「フーォラム」は、臨時的でアモルフォスな運動組織であるから、政治革命の後の憲法制定議会、経済社会改革の段階では、いくつかの政治的潮流に分裂し、生活世界へと戻っていった。今日東欧に残る「フォーラム」は、すでに革命時の「フォーラム」ではなく、「フォーラム」を名乗る政党であり、「フォーラム」の「討論のアリーナ」と革命的民主主義は、自由選挙や議会や新憲法のかたちで、制度化されている。しかしそれは、かつての支配政党=レーニン・コミンテルン型共産党と比較すると、その対極にある運動組織であった。
レーニンの起草になるコミンテルン第2回大会(1920年)の「共産主義インターナショナルへの加入条件」は、次のように述べていた。
同じく第2回大会の「プロレタリア革命における共産党の役割についてのテーゼ」は、次のように規定して、共産党の恒久支配を約束した。
これらの思想を集大成したのが、「コミンテルン世界綱領」(1928年)の次の規定である。
コミンテルン自身は、1943年に解散したが、現存した社会主義の共産主義政党はもちろんのこと、それらの国家組織・経済組織・社会組織や、各国共産党間の関係は、基本的に同一の編成原理でくみたてられてきた。「制限主権論」や「一党独裁」「指令型経済」は、その一部にすぎない。党内においても、東ドイツの「書記長独裁」の民衆的腐敗摘発が明らかにしたように、書記局・政治局や中央幹部、総じて「ノーメンクラツーラ」への権限集中と特権化をもたらしたのである。
ここにみられた思想は、一言でいえば、還元主義的「一枚岩主義(モノリシズム、 monolithism)」であり、ペレストロイカ・東欧革命は、こうした「前衛党」理念そのものに、疑問を投げかけた。ポーランド・ハンガリー・東ドイツ・チェコスロヴァキアの民衆は、そのような共産党を「自由選挙」のなかで拒否し、心ある社会主義者は、コミンテルン型共産党を解体し再出発しようとした。
党指導部交代からはじまった「党内革命」も、書記局・政治局の廃止、指導部任期制・定年制、党内「良心の自由」、「分派」とされてきた党内潮流の公認、中央指導部への監督、党内「情報公開」などを次々と導入し、総じて「レーニン型の党=民主主義的中央集権制」を拒否し、「党員主権」を実現した。なによりも、多くのメディアに無数の共産党員たちが登場し、自分の考えを率直に表明したのである。
共産党から社会民主党・社会党などへの党名の変更は、コミンテルンの「加入条件」第17条に照らしていえば、コミンテルン的共産主義からの決別の象徴であった。つまり、東欧民主主義革命のめざしたものは、レーニンやコミンテルンの理念とは対照的な、「多元主義的民主主義」の生活世界・政治システムであった。いわゆる「民主主義的中央集権制」に即していえば、主語の「中央集権制」に従属された枕詞の形容詞ではなく、それ自体が主語であり、主人公であるところの、たんなる「民主主義」であった。事実、新生ハンガリー社会党が組織原理としたものは、形容詞抜きの「民主主義」であった。
この視角からすれば、一九八九年東欧革命は、「民主主義的中央集権制=軍事的集権」型社会主義の、劇的な崩壊である。つまり、現存社会主義は、たんなる「国家主義的社会主義」ではなく、「戦時国家主義的社会主義」であった。極度に民主主義を制限した「軍隊的規律」「鉄の規律」は、共産党=国家官僚制を媒介に「市民社会」と民衆におしつけられ、それを「マルクス・レーニン主義」の国教化と思想教育・秘密警察的統制で凍結してきたがために、正統性を喪失し、自己崩壊をとげたのである。
崩壊したものは、例えば、その組織財政原理である。一般党員の納入する党費=党収入の、中央指導部・地域組織・基礎組織間の配分比率は、社会主義運動組織内でも、歴史的に異なる。
マルクス以前の社会主義運動では、「友愛的平等」型は、それ自体「協同組合」的で、出資と分配は組織内の最重要事項の一つで、当然公開されていた。「陰謀的集権」型でも、ドイツ追放者同盟・義人同盟では、同盟員の寄金は全部基礎組織にプールされた。指導機関は、下部に寄金を提案する権限しかなかった。
マルクス、エンゲルスらの共産主義者同盟=「集権的平等」型では、大会・中央委員会制度を確立するとともに、同盟費の50%を中央委員会に納入することにした。ただし中央委員会会計は、使途が規約で明示的に特定され、同盟員への収支報告義務をもった。
19世紀ドイツの労働者政党は「契約的分権」型であったが、結社法・社会主義者鎮圧法で合法的地区組織をもてなかったため、中央指導部への寄金・機関紙予約購読が、党費とみなされた。ただし基礎組織でも、その活動資金は別途集められた。中央・地方とも厳格な会計報告を義務づけられ、会計担当者は財産証明提出を求められ、指導部から独立した監査・統制制度があった。また、党指導部や議員・専従職員の給与も、いちいち大会で決めていた(加藤『社会主義と組織原理?』参照)。
1917年ロシア革命から18-19年ドイツ革命にいたる時期、ドイツの労働者政党は、右派の社会民主党、中央派の独立社会民主党、左派のドイツ共産党に分裂したが、中央指導部への党費上納率は、「官僚的集権」化した社会民主党が25%、カウツキーらの独立社会民主党が20%、ローザ・ルクセンブルクら「連合的分権」型の創立期ドイツ共産党が10%であった。
ロシアの社会主義運動の系譜では、1905年のロシア社会民主労働党規約が中央金庫への党費上納率を20%と定め、それが1907年改正から革命後の19年規約まで、10%であった。
ところが、第10回党大会「分派の禁止」決議を経た、1922年のロシア共産党第12回党大会規約が、中央委員会に「党の勢力と資金を配分し中央会計を管理する」権限を与えた(第24条)ために、その後の党財政は、「軍事的集権」型にふさわしく、一般党員には秘密で、統制不能なものとなっていった。財政が中央に集中され、地方組織の自律性は、失われていった。
コミンテルンが採用し、各国共産党におしつけた「民主主義的中央集権制=軍事的集権」型の財政原理とは、ロシア革命期ボリシェヴィキ党の10%上納ではなく、このロシア共産党22年規約以降の、中央委員会による独占的党財政配分・管理方式であった。
例えばドイツ共産党でみると、1919年創立時に10%で出発したローザらの「連合的分権」型の中央委員会上納率が、レーニンの「加入条件21ヵ条」で「民主主義的中央集権制」と「鉄の規律」を義務づけられると、一挙に30%になった。
1925年に、コミンテルンが各国共産党組織のひな型としての「模範規約」を作成すると、「模範規約」第47条自体は、「党費の一部は……の会計に、他の一部は……の会計に編入される」と空欄になっていたが、それを受けたドイツ共産党1925年規約は、ソ連共産党にならい、「中央財政と地域財政の間の配分比率は中央委員会が定める」方式を採用した(第47条)。「連合的分権」は、「軍事的集権」に、転化したのである。
以後、世界のコミンテルン支部=各国共産党も、おおむね「中央委員会が党費配分率を決定する」方式を採用した。この党費納入者=一般党員にさえ財政とその使途が公開されず、監査・統制もおざなりなコミンテルンの「軍事的集権」型財政原理は、「民主主義的中央集権制」を採用する共産主義政党の一つの体質となる。民衆と接する基礎組織の自律性が弱められ、ちょうど日本の地方自治体の「3割自治」をいっそう極端に集権化した構造が形成される。
現存社会主義の成立により、「民主主義的中央集権制=軍事的集権型」は、共産党の原理から国家・社会の編成原理へと拡延され、憲法にさえ書き込まれた。「共産党の指導的役割」も、国家的に承認された。
東欧諸国共産党は、上にみた秘密主義的・軍隊的体質を残したまま、政権独占党として国家財政に関与し、集権的計画経済の指導を一手に引き受けた。そこには、党財政にとどまらぬ、膨大なポストと利権の党内配分の問題が生じた。「党の勢力配置」も中央指導部の権限であるから、それが「ノーメンクラツーラ=官職叙任者リスト」として制度化する。「マルクス・レーニン主義党」に入党すること自体が、国家・社会におけるエリートへの独占的コースとなり、「西側」物資へのアクセスや外国旅行のチャンスをうる最短ルートとなった。「権力分立」原理を否定し、「党と国家の癒着」を体質化したまま、こうしたリクルート・システムが共産党内部に骨化するとき、特権に寄生した汚職や腐敗が生まれ、それを民衆が制御できなくなるのは、ある程度は、不可避であった。
東欧革命の過程で、東ドイツやチェコスロヴァキアやルーマニアで、共産党書記長や幹部の民衆からかけはなれた豪華な生活や、党幹部専用秘密施設の存在があばかれ、スイスの銀行への秘密口座開設までが暴露されたのは、「人間の顔をした社会主義」を志すものの肝に銘ずべき、深刻な教訓なのである。
もっとも、レーニンの「加入条件21ヵ条」における「民主主義的中央集権制」義務づけには、「現在のような激しい内乱の時期には」と、歴史的限定が付されていた。そして、盛田常夫が論じているように、「民主主義的中央集権制」には、「戦争の時代、戦後復興の時代」に民衆を動員するうえでの「党の独占的支配を必然化した歴史的理由」がそなわっていた。それが、「同時に党自身を蝕む原因ともなり、党の内部崩壊の条件を形成」したのである(「歴史的過渡期の共産党」『経済評論』1990年1月)。
この面からいえば、「民主主義的中央集権制」の崩壊は、世界史における「市民社会」の発展に、照応したものであった。科学技術発展や情報・サーヴィスの高度化に対応できなくなったシステムの、制度摩耗であった。
私が『国家論のルネサンス』などでかねてから提起していたパリ・コミューン期マルクスの「忘れられた」国家観、「国家そのものに対する革命=国家権力の社会による再吸収」の思想からみれば、東欧革命とは、長く「国家=共産党」により疎外されてきた東欧民衆の、「市民社会」創造の運動であり、「国家」にたいする反乱であった。東欧の内部では、その「市民社会」の形成度に応じて、ハンガリーや東ドイツ・チェコスロヴァキアで平和的形態が可能になり、ルーマニアの「粗野な社会主義」のもとでは、流血の軍事的局面が不可避となった。
同時にそれは、理論的にはマルクスにまでさかのぼりうる「社会主義=生産手段の国有化」のイメージ、レーニン的思考のなかの「社会主義国家=プロレタリアートの独裁=全人民的シンジケート」論、「暴力革命=旧国家権力の粉砕」論、「外部注入型前衛党=全知全能の共産党」などの全面的見直しをも、迫るものであった。
総じて、マルクス主義が、「社会主義」の概念そのものが問われたのが、1989年の「フォーラムによる革命」であった。