『大原社会問題研究所雑誌』1996年10月号所収


 

 

ワイマール末期在独日本人のベルリン社会科学研究会

 

          加藤 哲郎


<目 次>

1 はじめに――高野岩三郎の1927年と有澤広巳・国崎定洞

2 ベルリン社会科学研究会の群像

3 提唱者蝋山政道と国崎定洞の対立

4 有澤広巳はなぜベルリン滞在を延長したか

5 おわりに――読書会から反帝グループへ


  1 はじめに――1927年の高野岩三郎と有澤広巳・国崎定洞

 

 1971年に刊行された『大原社会問題研究所50年史』の1926年

の項は、「高野所長第3回渡欧前後」となっている。大原社研初代所長高

野岩三郎は、この年9月19日にヨーロッパに向けて出発し、翌27年1

1月に帰国する。この旅について、大内兵衛・森戸辰男・久留間鮫造監修

『高野岩三郎伝』(岩波書店、1968年)の大島清作成「年譜」は、

「1927年1月、(ミュンヘン)ウエッブ著『産業民主制論』訳稿の校

閲をつづけ、5月12日完了。2月8日、小作調停委員引きつづき就任を

承諾。3月2ー7日、エッセンにてドイツ共産党大会傍聴。3月20日、

ウィーン旅行。4月16ー18日、ニュルンベルヒにてドイツ社会民主党

所属アカデミカー大会傍聴。5月16日、ミュンヘンよりベルリンに移

る。同月22ー26日、キールに行き、ドイツ社会民主党大会傍聴。7月

1日、ベルリン発(内藤赳夫同伴)、モスクワに向う。同月3日、モスク

ワ着。マルクス・エンゲルス研究所等を見学。同月8日までモスクワに滞

在し、28年ぶりに片山潜と再会する。7月11日、ミュンヘン着、19

ー24日スイス旅行、8月17日ー9月2日、パリおよびロンドン旅行。

ミュンヘン滞在中に『資本論』原典第1・2巻読了。9月26日、ミュン

ヘン発(ハンブルグ、ニューヨーク、サンフランシスコ経由)、11月1

0日(推定)横浜着帰朝。年末、日本労農党の党首または顧問就任を懇請

されたが断る」と記す(460ー461頁)。

 この高野の旅が、幻と消えたいわゆる連盟版マルクス・エンゲルス全集

の刊行計画と関わったことは、よく知られている。この旅で、高野が「私

は16年振りの世界旅行に依って自分のかねて持っていたブルジョア・イ

デオロギーを或る程度まではらひのけることが出来たと考えている。希く

は白髪を染めて一とはたらきしたいと思っている」と述べたのは(高野

「欧露をめぐりて」『労働運動』1929年1月)、ミュンヘンで『資本

論』を再読し、社会主義ソ連を見て片山潜と再会したからばかりではない

だろう。ワイマール共和制下のドイツで、共産党(KPD)と社会民主党

(SPD)の両党大会を実際に傍聴したことが、その後の高野と日本の無

産政党との関係にも影を落としている。『高野岩三郎伝』によると、3月

エッセンのKPD第9回大会時は九州大学教授菊池駒次と労働者のデモに

加わっているが、4月ニュルンベルグのSPDアカデミカー大会、5月キ

ールのSPD党大会に同行したのは、東京大学助教授(当時)の有澤広

巳、国崎定洞、京大助教授山田勝次郎、九州大学の菊池勇夫ら、ベルリン

に留学中の日本人若手学者たちであった。この高野と共にSPD大会を傍

聴した関東大震災後の文部省派遣在外研究員たちが、小論の主題であるベ

ルリン社会科学研究会の中核メンバーである。

 『高野岩三郎伝』には、27年4月のSPDアカデミカー大会で旧知の

レーデラー教授と共に会ったのは有澤広巳、菊池勇夫、国崎定洞、5月の

キール党大会を一緒に傍聴したのは有澤、堀江邑一、山田勝次郎らとある

(261・263頁)。両方に同行したのは有澤広巳のみに見えるが、有

澤自身の回想では、アカデミカー大会には高野とレーデラーから誘われた

ので「二、三の友人をさそって出かけることにした」といい、キール党大

会にはヒルファーディングと高野の誘いで「また数名の友人を語らって」

旅行がてら出かけた、としか述べていない(有澤『学問と思想と人間と』

毎日新聞社、1957年、100・104頁)。

 ここに、一枚の写真がある。SPDキール党大会の折りに、有澤ら日本

人傍聴者一行が「高野先生のお供をしてキール大学を訪問」(有澤)した

さいの記念写真である。そこに写っているのは、おそらく有澤が記してい

るキール大学世界経済研究所のハルムス教授と思われるドイツ人を間には

さんで、6人の日本人である。高野・有澤のほかに、山田勝次郎・国崎定

洞・舟橋諄一・谷口吉彦である。この写真は、医学史家川上武が、当時東

京大学医学部助教授で日本における社会医学の先駆者であった国崎定洞の

生涯を探求する過程で、ベルリン留学時の友人山田勝次郎・とく夫妻から

提供されたものである。川上武・上林茂暢『国崎定洞』(勁草書房、19

70年)の口絵に初出した。国崎定洞は、1928年にドイツ共産党に加

わり日本語部を創設、ナチスの台頭を逃れて32年にモスクワに亡命した

が、37年旧ソ連で粛清された悲劇の革命家であった。高野・有澤・国崎

がならんだキール旅行の写真は、75年に国崎定洞の「名誉回復」が日本

でなされた後に、『国崎定洞』の改訂版である川上武『流離の革命家』

(勁草書房、1976年)に再録された。俳優千田是也の自伝『もうひと

つの新劇史』(筑摩書房、1975年)にも入っているが(148頁)、

ソ連の崩壊でその粛清経過まで解明された国崎定洞評伝の決定版、川上

武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)の口絵に改め

て収録されている。この写真には、堀江邑一は入っていない。だが堀江が

シャッターを押したのかもしれないので、堀江も同行者に加えておこう。

 高野岩三郎の主たる滞在先はミュンヘンであったが、キール旅行直前の

27年5月16日から、7月1日のモスクワ訪問までは、ベルリンに滞在

している。高野が内藤赳夫を伴ったマルクス・エンゲルス研究所訪問、片

山潜との再会の前に、ドイツ・ソ連や日本の情勢についてうちとけて話し

合ったのが、ニュルンベルクで会い、キールに同行した有澤広巳・国崎定

洞らベルリン留学中の日本人若手研究者たちであったろうことは、想像に

難くない。

 ニュルンベルクとキールの双方に同行したのは、有澤広巳と国崎定洞で

ある。高野が有澤にとって「東大での私の恩師であり、先生いらいの統計

学講座を担当することになった」ことは周知のことであるが(有澤「『神

の秩序』の復刻」『朝日新聞』1967年4月11日夕刊)、国崎定洞

は、東大助教授で倉敷労研を見学したことがあったとはいえ、医学者であ

る。おそらく高野は初対面であったろう。私は、この国崎定洞の生涯を長

く探求し、ソ連崩壊でクレムリンの奥から現れた粛清秘密文書「国崎定洞

ファイル」を解読して、この間3冊の書物を上梓してきた(加藤哲郎『モ

スクワで粛清された日本人』青木書店、1994年、加藤『国民国家のエ

ルゴロジー』平凡社、1994年、川上・加藤『人間 国崎定洞』前掲

)。

 私の国崎定洞研究の側からすれば、1927年5ー6月の高野岩三郎の

ベルリン訪問、有澤・国崎らとの交流は、当時の無産政党結成問題と日本

マルクス主義の歴史との関わりで、ある意味を持っていた。日本共産党史

のうえでは、山川イズムと福本イズムの双方を退け大衆的前衛党建設を説

いた「27年テーゼ」がモスクワで作成される直前となるが、大正デモク

ラシーをくぐってワイマール民主主義の国に来たベルリン在住の日本人の

なかでも、普通選挙法と治安維持法の施行による新しい条件のもとで、合

法無産政党結成の問題が議論されていた。26年末に、雑誌『社会思想』

に集うグループをブレーンに中央派の日本労農党(日労党)が結成された

ため、同じ頃山形五色温泉で再建された非合法日本共産党をバックにもつ

左翼労働農民党(労農党)系の『無産者新聞』『マルクス主義』などは、

右派の社会民衆党・日本農民党に対してばかりでなく、中間左翼日労党へ

の批判を強めていた(岡本宏『日本社会主義政党論史序説』法律文化社、

1968年、など参照)。

 当時のベルリンには、日本の左翼新聞・雑誌が入っていた。『改造』な

ど総合雑誌の誌上で日本にヨーロッパ左翼の雰囲気を伝えるのは、留学中

や洋行帰りの学者たちの寄稿であった。当時の左翼を席巻した福本イズム

は、東大新人会や学生連合会の学生たちばかりでなく、若手研究者たちに

も「理論闘争」の雰囲気をつくりだしていた。関東大震災後の文部省派遣

在外研究員は、1925年度161人、26年162人、27年176

人、28年157人とピークの時期であり、27年度末には431人が海

外に在留していた。自然科学系が相対的に多いとはいえ、在留地の8割以

上がヨーロッパであり、その8割がドイツに滞在していた(文部省専門学

務局『文部省在外研究員表』昭和7年3月)。

 マルクス主義研究は、社会科学のためにドイツに留学した多くの日本人

研究者たちの、必須要件の一つであった。京大河上肇門下生はもちろんの

こと、東大新人会出身の蝋山政道も、政治研究会に顔を出したぐらいで直

接社会運動に加わった経験のない有澤や国崎たちも、ベルリンでマルクス

主義の通過儀礼を体験する。

 河上肇・福田徳三らと並ぶ斯界の大御所高野岩三郎は、ベルリン在住の

日本人少壮学者たちが、日本なら伏せ字でしか読めないマルクス主義文献

が安価で簡単に入手でき、世界資本主義の現段階や日本の階級闘争につい

て異国の気楽さで自由奔放に討論しているサークルに、いわば誘い込まれ

たのである。それが、ベルリン社会科学研究会である。

 

  2 ベルリン社会科学研究会の群像

 

 ベルリン社会科学研究会といっても、正式名称ではない。組織規約をも

つ学会でもない。当時のベルリン在住日本人留学生の読書サークル・懇親

会である。創立期のメンバーである国崎定洞は、1926年12月25日

付け小宮義孝宛手紙でただ「読書会」と記し(川上武・加藤哲郎・松井坦

編訳『社会衛生学から革命へ――国崎定洞の手紙と論文』勁草書房、19

77年、42頁)、同じく創立メンバーである有澤広巳は「ベルリンに滞

在している文部省留学生の読書会」と記している(『学問と思想と人間

と』118頁以下)。しかし、創立に加わった堀江邑一は「当時ベルリン

にいた留学生有志の社会科学研究会」と回想し(「国崎定洞の憶い出」

『文化評論』1975年11月)、高野・有澤・国崎らがキールに旅行中

の27年5月25日にモスクワ経由でベルリンに入り、朝日新聞ベルリン

特派員岡上守道(別名黒田礼二)の紹介で会に加わった俳優千田是也が

「ベルリンの日本人社会科学研究会」と述べているので(千田『もうひと

つの新劇史』筑摩書房、1975年、147頁・171頁)、ここではベ

ルリン社会科学研究会とよんでおく。

 会の創立の経緯は、有澤広巳の1957年の回想に詳しい。1926年

11月頃のことである。

 「ぼくがベルリンについた年の秋、蝋山政道夫妻がベルリンに来られて

少しく滞在されたことがあった。そのとき蝋山氏の提唱でベルリンに滞在

している文部省留学生の読書会をひらくことになったのです。専門はそれ

ぞれに異なっていても、ベルリンに留学しているあいだに、なるべく広く

ドイツ書を読み、またドイツの問題を知っておくことが有意義であろうと

いう趣旨だったように記憶します。最初の会合に集まった人々は、京大の

谷口吉彦君、九大の舟橋諄一君、高松高商の堀江邑一君、和歌山高商の山

本勝市君、福島高商の松山[貞夫――引用者注、以下同]君たちで、ほかに

まだ数名いました。

 この読書会はそれからずっと、ぼくが1928年5月ベルリンを立つと

きも、まだつづいていたので、ずいぶんながつづきした会です。毎週一

回、最初のうちはたれかの下宿に集まることにしていたのですが、だんだ

ん出席者が多くなったので、後には小さなレストーラントの1室を借切る

ことにした。ぼくが出席していたあいだだけでも十数冊の本を読んだし、

また報告としてきいた問題も十指を屈することができましょう。

 読んだ本も出席者の希望できめたので、むろんそう専門的なものではな

く、ヴァルガの『世界経済の没落』とか、レーニンの『帝国主義論』と

か、ブハーリンの『転形期の経済学』といった書物が多く、報告もドイツ

の賠償問題とか、合理化問題とか、一般的危機の問題といったテーマが多

かったようにおぼえている。

 ……ぼくたちの読書会について、ぼくが忘れることのできないのは、国

崎定洞君のことです。彼は東大医学部の社会衛生学の助教授として、ぼく

より半年ほどおくれてベルリンに留学してきたのです。読書会のメンバー

として、彼は最もアクチヴで勉強もいちばんよくやった。ぼくはよく彼と

一緒にいろんな会合に出かけていったものです」(前掲『学問と思想と人

間と』118ー121頁)。

 1975年に発見された、1926ー28年当時の国崎定洞の小宮義孝

宛手紙は、日本にいる親友に宛てた私信中での言及だけに、あけすけで臨

場感がある。

 「僕の方では、曾田[長宗]のイトコで、小宮の知り合でその奥さんの美

人なる事を君が大にほめていた蝋山[政道]氏が今伯林に来ているので(勿

論二人で)彼の家で日曜に読書会をやっている。集まるもの、京都の経済

の 谷口吉彦(マルサスを訳した人)、九州民法 舟橋[諄一]、九州労働

法 菊池寿夫[勇夫]、東京 経済 有澤[広巳]、高松商業 堀江[邑一]、

電報通信 鈴木[東民]、と僕だ。スターリンのプロブレーメデスレニニス

ムス[レーニン主義の諸問題]をやってる。とびとびにだ、来年からはブハ

ーリンのトランスフォルマチオン[過渡期経済論]をやる。中々面白い。谷

口氏中々愉快だ。やはり集ると得る事もある。曾田の親類の事を云ふとわ

るいが蝋山氏は年の割にはあまりに老大家然としてるね。勿論わるい意味

でだ。尤も吾々のグループではたしかに一番古いらしいけれど」(前掲

『社会衛生学から革命へ』42ー43頁)。

 もっともここでの国崎の蝋山へのコメントは、年齢については誤ってい

る。蝋山は、有澤の旧制二高以来の友人鈴木東民とともに1895年生ま

れ、1894年生まれの国崎より年下である。京大河上肇門下の谷口は1

891年生まれで、創立時のメンバーで最年長になる。有澤・堀江・山本

は1896年生、菊池は1898年、舟橋1900年生である。福島高商

教授の松山貞夫には不明な点が多いが、1920年東大法学部卒業なの

で、同期の蝋山と同じ30歳代前半であったろう。

 堀江邑一の公式の回想では、「私が国崎定洞と知り合ったのは、192

6年11月頃、当時ベルリンにいた日本人留学生有志でつくっていた社会

科学研究会においてである。この会は、有澤広巳、国崎定洞(以上、東

大)、谷口吉彦(京大)、千田是也(演劇研究)、鈴木東民(電通特派

員)、および私(高松高商)などではじめられ、そのご菊地勇夫[ママ]、

舟橋諄一(以上九大)、山田勝次郎(京大)、与謝野譲(鉄幹氏の甥)な

どが加わり、さらに翌年には土屋喬雄(東大)や蜷川虎三(京大)、平野

義太郎(東大、フランクフルトから)も時折顔をみせるようになり次第に

盛大になったものである。大学の助教授級の新進気鋭の学者が主で、それ

ぞれ専門は違っていても、共通の場としてマルクス・レーニン主義の基本

文献の研究の必要を感じている連中であった」とされている(「国崎定洞

の憶い出」『文化評論』1975年11月、105頁)。

 この堀江の回想に、戦後日本の民主社会主義のブレーンになる蝋山政道

と、堀江と同じ河上肇門下でありながら帰国後河上と決別し文部省国民精

神文化研究所員(経済学担当)として左翼思想取締りにあたる山本勝市

(戦後自民党国会議員)の名が抜けているのは、たんなる記憶違いとは思

われない。日本共産党の文化雑誌上での回想であるから、意識的にはぶい

たのであろう。また、堀江は千田是也を創立メンバーとして挙げている

が、前述のように千田のベルリン入りは1927年5月で、岡上守道の紹

介で会に加わるから、これは誤りである。ただし堀江は、国崎定洞につい

ての川上武による聞き取りのさいに、蝋山の名を挙げて創立の事情を説明

している。こちらの方が、おそらく事実に近いであろう。

 「有澤広巳君、谷口吉彦君、私の3人が、1926年3月、偶々同じ船

で日本を出発したんです。そこへ、蝋山政道さんの細君も乗っていました

よ。有澤君は直接、マルセーユからドイツへ入った。私どもはパリを通っ

て、ロンドンへ行きました。当時、ロンドン大学に蝋山さんがおり、行き

がけに蝋山さんの奥さんと一緒の船だった関係もあって、知り合いになっ

たのですよ。その後、9月になって私がベルリンに移り、10月には谷口

君がやってくるし、蝋山さんもひきつづき参りまして、有澤君と4人が、

ベルリンで落ち合うことになったんです。そこへ、一寸おくれて山田勝次

郎君夫妻もやってきた。その頃、国崎君も――彼は、時期は同じ時分です

が、別のルートで――ベルリンに入っていた。蝋山政道の下宿で集まった

ときに、研究会をやろうという話になりましてね。多分、11月頃あたり

から始まったんじゃないかと思います。会場も、はじめは蝋山政道の下宿

でやった。しかし、蝋山君は、2回くらい研究会に出た程度で先に帰りま

した。その間、2ヵ月くらいのような気がします。国崎君には、蝋山君の

とこで会っております」(川上・加藤『人間 国崎定洞』111ー112

頁)。

 これらから、蝋山・有澤・国崎・谷口・舟橋・堀江・山本勝市・松山貞

夫・菊池勇夫・鈴木東民らが、1926年11月ないし12月に発足した

ベルリン社会科学研究会の創立期メンバーといえるだろう。蝋山・有澤・

国崎は東大新人会出身ないし支援者で学部は違うが同年輩の助教授、谷

口・堀江・山本は京大河上肇の系譜であるが谷口・堀江は有澤と渡航船が

一緒だった仲、松山・菊池・舟橋は東大法学部の蝋山の同輩・後輩、鈴木

東民は有澤の二高同窓で蝋山・菊池・国崎らがしばしば寄稿していた帝大

新聞の元編集部員である。学問的・人的ネットワークでは結びつくが、政

治的つながりはない顔ぶれである。

 そして、1927年5月以降に会に加わる俳優千田是也の証言は、若手

学者たちの世界を外から見ており、貴重である。

 「この会には、東大の有澤広巳、土屋喬雄、山田勝次郎[東大卒だが京

大農学部助教授]、国崎定洞、京大の谷口吉彦、九大の船橋諄一[ママ]、

高松高商の堀江邑一などのえらい学者さんたちが入っておられて、毎週一

回、たしか土曜の午後、フリーデナウのジュードウェストコルゾーの近く

のレストランのフェラインスツィンマー(集会室)に集まって、レーニン

の『帝国主義論』や『国家と革命』やブハーリンの『転形期の経済学』や

『史的唯物論』などをいっしょに読んだり、ドイツのマルクス主義学者を

招んで話をきいたりしていた。私などには程度が高すぎたが、いい機会だ

と思って、翌年の夏ごろ、学者さんたちが留学期間を了えて日本に帰り、

会が自然消滅するまで、なるべく顔を出すようにしていた。無産者たちの

デモも集会もすぐ禁止を食い、本はXXだらけというあの頃の日本からや

って来た若い学者さんたちが、ここではすっかり解放され、威勢よく議論

をしたり、共産党やロートフロントケンパーブンド(赤色戦線戦士同盟)

のデモや集会に<見物>に出かけたり、ときには日本から道具をとりよせ

て野球をしたり、ドイツ人は野球を見たことがないというので、ここの体

育学校に出向いてそのデモンストレーションをやったり、研究会のあとみ

んなでカント街へ中華料理を食べにいったり、そのあげく、夫人同伴でな

い連中は日本人留学生御用のお嬢さん方の屯しておられるカフェー・ヴィ

クトリアなどに押しかけたり――ともかくもたいへん結構な話ではあった

が、みんなアカデミシャンばかりなので、ここの組織と直接の繋りを持っ

ている人はひとりもいないらしかった。後にドイツ共産党に入党し、東大

の医科を首になり、ここの日本人左翼グループの中心人物になった国崎定

洞氏なども、その頃はまだ、やっとここの党員労働者のフリーダ嬢と仲よ

くなり、党への手蔓をたどりはじめたばかりの頃であった」(千田『もう

ひとつの新劇史』147ー148頁)。

 この千田の回想と、先のキール旅行の写真から、会が発足して半年ほど

たった1927年5・6月段階――高野岩三郎のベルリン滞在時――に

は、岡上守道・山田勝次郎・土屋喬雄らが会に加わっていたことがわか

る。

 岡上守道は、年齢的には谷口より上の1990年生まれで吉野作造門

下、東大新人会創立に関わったベルリンの著名人で、蝋山の先輩にあた

る。1920年からベルリンに滞在しており、有澤と親しい帝大新聞出身

の電通特派員鈴木東民とともに、いわばジャーナリスト会員である。

 山田勝次郎・とく夫妻の27年ベルリン到着月日は特定できないが、山

田は会の提唱者蝋山政道の実弟で(従って国崎の医学部の後輩曾田長宗と

も親戚)、ベルリンでは国崎定洞とフリーダ夫人を結びつけた最も親しい

仲間の一人であった。

 土屋喬雄は、27年4月1日に日本を出発してベルリンに向かい、29

年7月まで滞在している(『私の履歴書』第30集、日本経済新聞社、1

967年、274頁)。土屋の回想には会への言及は残されていないが、

戦後すぐの時期に、日本共産党幹部となった教え子伊藤律に対して、ソ連

で行方不明となったベルリン時代の友人国崎定洞はスパイではありえない

と証言したことが、伊藤の没後公表された遺稿に記されている(伊藤律

「三重スパイ 野坂参三」『文藝春秋』1994年1月、325頁)。

 

  3 提唱者蝋山政道と国崎定洞の対立

 

 ベルリン社会科学研究会は、蝋山政道のベルリン滞在(26年10月ー

27年春)を機に、蝋山の提唱で始まった。だが、おそらく蝋山の意図に

は反して、有澤広巳と国崎定洞を中心とした左翼的なものになっていく。

千田是也が到着し、高野岩三郎が訪れた27年5月段階では、蝋山や山本

勝市は、すでにベルリンを去っている。

 蝋山政道は、私の知る限り、この会についての記録を残していない。2

5年1月から27年8月の英米留学時代にドイツに立ち寄ったこと自体

は、「在伯林」と署名された『社会思想』1927年2月号掲載の「独逸

無産政党運動の現状と日本」から確認できるが、どうやらあまりドイツか

らは学ばなかったようである。わずかに没後の追悼集への長尾春雄の寄稿

に、蝋山夫妻が26年にベルリンを訪れた痕跡が見られる(「大正11年

頃の思い出」『追想の蝋山政道』中央公論事業出版、1982年、32

頁、嶋中雄二による聞き取り「回想録――戦前の部」『東京帝大新人会研

究ノート』第10号、1988年、101頁以下をも参照)。

 ただし、26年10月にスイス経由でベルリン入りし、27年8月にフ

ランス・アメリカ経由で日本に帰国した蝋山は、文部省との摩擦で予定よ

り遅れてフランスに着いた東大法学部の同僚平野義太郎に、パリ滞在中の

高崎中学の後輩井上房一郎とフランス共産党員で後の片山潜秘書勝野金政

を紹介している。平野・勝野は、後にベルリンで社会科学研究会のグルー

プと関わる(井上「高崎中学OB新人会」『追想の蝋山政道』4ー5頁、

勝野『凍土地帯』吾妻書房、1977年、29頁)。

 山本勝市は、自民党国会議員となった戦後の回想に、27年春のモスク

ワ訪問後「フランスへの帰りにベルリンに立寄って、日本の教授たちが集

まってマルクス、レニンにう頂天になっているのを見て、歯がゆくて仕方

がなかった」とそっけない記録を残している(『思い出の記(二)』東京

山本会、1963年、28頁)。

 蝋山がベルリンから離れる27年春から、この読書会が徐々にマルクス

主義的になっていくことが、国崎定洞の小宮義孝宛書簡から分かる。発端

は、この期のイギリス労働運動(26年総同盟ゼネスト)の評価をめぐ

る、会の提唱者蝋山政道と、医学者ながら日本ですでにレーニン文献を翻

訳してきた国崎定洞との対立・論争である。またそれは、日本の合法無産

政党問題とも関わっている。

 読書会の発足当初の国崎定洞の蝋山評価は、「英国からの通信について

彼の考をきいてやらうと思ったけれどまだ機会がない。時々腑に落ちぬ事

もある、曾田の話が出て中々勉強してると云ったらあれはもうずっと前か

ら僕らを馬鹿にしてる位息があらいんだと云っていたが曾田だったらあの

老大家然としてる若年学考にはあきたらぬかも知れぬと密かにほほえまれ

たよ」というものだった(第1信、1926年11月25日、『社会衛生

学から革命へ』43頁)。

 ところが翌27年に入ると、国崎の蝋山評価は、次のように手厳しくな

る。『改造』1926年8月・10月、27年1月号に3回連載された、

蝋山のイギリス・ゼネストについての論文「総同盟罷業」を読んでのもの

である。

 「こちらの読書会ではレニンの小児病[『共産主義左翼の小児病』、国

崎定洞は日本時代に和田哲二名で本邦初訳、希望閣、1926年]を大急

ぎでやっている。僕がレフェレントの役目をやって色々ヂスカッスをやる

のだ。ロー山氏は近く巴里に行くらしい。彼の英国のゼネラルストライキ

を見たか。彼の結論は一体何だ。要するに之が国家観に於ける日和見主義

に堕したるものの当然の結果だ。超階級的理論から反動の役割に直接堕落

している。客観性の狭隘なる固執があはれなる主観性に堕する堕落の道は

其所にある。世界を色々に説明する事が主要たる事でなく世界を変革する

事が大切だ。彼にして云はしむるならば、彼はかくしてゼネラールストラ

イキを説明し得たりと考えているだろう、然しこの世界を変革せんとする

立場からでなく単に説明にとどまらんとする彼が説明そのものをもあやま

っている経路を見よ、之があはれなる中正なる態度の落ち行く必然の地獄

なのだ。

 エンゲルスのベルンスタインに宛てた手紙を有澤[広巳]及鈴木[東民]と

共に訳すつもりだ。4月までには完成するつもりだ。中々六ヶしいが素晴

らしいものだ。予備的労作としてコンムニストインテルナチオナーレ[コ

ミンテルン理論機関誌]に紹介された批評を訳して浅野[晃]に送った。マ

ルクス主義[労農党系雑誌]にのるかも知れぬ。ともかくこれを見てエンゲ

ルスと同時にレニンの偉大さを思ふ」(第2信、1927年1月29日、

『社会衛生学から革命へ』48ー49頁)。

 さらに1ヵ月後には、蝋山を「裏切り者」と断ずる。どうやら日曜日蝋

山宅での読書会の席上で、二人の論争になったらしい。国崎定洞の小宮宛

私信での批判は、論争のあり方から大原社会問題研究所の学風にまで及

ぶ。

 「日曜の会合はずっとやっている。やっぱりためになる。レニンの小児

病は僕が一人でレフェレントをやってこの間終った。あまりヂスカッスの

ないのが残念だがやはりここに於ても問題は現実の分析のための具体的現

実の把握の欠如若くは不足が根本原因だ。然し大に勉強になった。僕の訳

はまづい。今度2版でも出る時は大に改めてよくしなくちゃならない。…

…小児病がすんで今度はブハーリンのトランスフォルマチオーン[過渡期

経済論]をやる、日本で熟読の機会がなかったから、こちらでやる。エコ

ノーム[経済学者]がいるから万事いいかも知れぬ。

 君は[雑誌]改造にのった蝋山氏の英国同盟罷業を読んだか。あれは一体

何の事だ。火星の世界ででもいってる寝言なのか。前に改造に出した英国

の進んだ道で出ていた超階級的立場はさらに一歩をすすめている、それは

プチブルの寝言だ――そして今や更にわけの分らぬ右翼裏切者の道徳的な

ロマンチックな讃歌に終ってるぢゃないか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

一掬同情の涙を禁じ得ないなんてこっちこそ一掬同情の涙を禁じ得ない

よ。ソヴィエットユニオンの社会主義建設事業の発展の事実が世界の労働

階級に及ぼす心理的影響の問題について否定的の――いや見解の相違だっ

て議論をにげた彼――態度をとる、それは余りに明らかだ。それはやがて

この心理発生の原因たるソヴィエットユニオン発展の具体的現実――さら

にはソヴィエットユニオンの成立を持ち来らした世界的現象の具体的根拠

の否定にさへ及ぶ――これが具体的現実の重要性をとく彼の内的矛盾だ。

……

 浅野からこの間手紙が来た。行人会[東大新人会大正14年卒業組の同

窓会]の事も聞いた。君のこの間の手紙と相待って多少共日本の事はわか

る。この問題については経済の有澤君と一番語る機会が多い。その後まだ

1月にもならぬから特別なる発展も外部的にはあらはれていまいが内部的

発展と発酵とはより強いものがあるかも知れぬ。誠に最近の運動の発展は

数年来日本の運動内部に密かなる発展をとげつつあった諸傾向に明白なる

表現を与へた。……

 論争のない会合が何に役立つのだ。それは硬化と堕落とより外に行く先

はないのだ。カンプカンプ。この中にこそ進歩はある、大に論争する事

だ。論争の最終的判決は現実の歴史がしてくれる、時々刻々にしてくれる

だろう。論争の回避が一番いけない。自らの自信に忠実であれ、但し現実

の歴史による批判に眼を開いてあれ、自己批判に忠実であれ。

 この間有澤と話したら大原社会問題研究所の連中があの中では絶対に論

争をやらぬとの事だがそれであの研究所の研究所たる所以であの硬化の第

一原因なのだ。論争のない研究所全く聞いた事がない。馬鹿馬鹿しい」

(第3信、1927年2月21日、『社会衛生学から革命へ』54ー59

頁)。

 以後の国崎定洞の小宮義孝宛手紙は、ドイツや日本の政治情勢について

の言及が多く、社会科学研究会への直接の言及は少なくなる。しかし蝋山

批判は続く。今度は日労党系『社会思想』への蝋山の「在伯林」名での寄

稿がベルリンに着いたらしい。蝋山はそこで資本主義の「相対的安定」の

もとでのドイツ共産党の分裂に言及し、「モスコウ離れての共産党なるも

のは、今の処、世界の何処の国にも考えられない。恐らく、日本でも『共

産主義派』なんて『レッテル』をはられている諸団体も、現在の右翼との

抗争より生れた日本性の相対的名称だろう」「『社会思想』の同人諸君の

為すべきことは、[右派労働組合と左翼福本イズムとの]こんな自明な争ひ

の渦中に貴重な時を過すことであってはならない」とメッセージを送って

いた(蝋山「独逸無産政党運動の現状と日本」『社会思想』1927年2

月、31頁)。

 もっとも、この頃日本にイギリスのゼネストなどヨーロッパの労働運動

を紹介したのは、蝋山だけではなかった。読書会の創立メンバーである京

大の谷口吉彦も、『改造』26年12月号に「英国の資本主義と労働運

動」という論文を「在倫敦」として執筆している。つまり、この読書会

は、当時の日本の論壇の一縮図という面をもっていた。これも、国崎の検

討材料になる。国崎は、有澤だけを高く評価する。

 「われわれの日曜会の事はもう知ってるだろう。小児病を急速に終って

今ブハリンをやってる。こちらに来てかなり勉強もし、いろいろ本を読ん

でからこのブハーリンにかかって見るといままでの考をずっと深められ

る、それに日々の事実から証明を与えられて行くので。こちらに来ていい

事はこの日々のプラクシスから教えられる機会の多い事だ。日本にいると

日和見主義もさかえる。こちらでは日和見主義は労働階級の敵たる事はわ

れわれにはかなりはっきり分る。……

 連中の中では俺は経済の有澤を一番いいと考えている。あいつは中々勉

強もするし、くへないづーづーしさ(冷静と云ふてもいい)を持ってる。

そして一番マルクス的だ。外の連中はまだまだだめだと思う。そう云う俺

も勿論まだだめだが。ロー山氏についてはさきにも書いた。どうだ見よ。

ゼネラルストライキで階級の裏切者に道徳的感激の涙を流した奴だ、今や

公然と共産主義を迷妄といってるぢゃないか。(社会思想を見よ)。

 君は今日労に入っているのか。民衆新聞編集部の連中は皆日労党に入っ

たと聞いたがそうか。社会思想は大体日労を支持してるのだろうがロー山

が社会思想の同人だ。然し今まで連中之ほどはっきり物語った奴はない、

共産主義が迷妄だって。然らば何が迷妄でない外の社会科学があるか、聞

き度いものだ。彼の社会思想に出したドイツの労働運動と日本、話を聞い

た時はドイツに来ていくらも立たぬあれ、よくかけたものと驚いたが、そ

して大凡の内容も想像していたが今度あれを読んで一方ならず驚かされ

た、予想以上のものだ。ゴミ箱をひっくりかえして更にかきまはした様な

ものだ。紛々たる似非学者の臭気と、それとあの雑然たるウィルワールを

見よ。かくの如きを陣営内に許す社会思想の現実的表現でもあるのだ。…

 この間吾々の仲間の経済(京都谷口吉彦)の谷口氏の英国の資本主義と

労働運動の批判を俺がやった。この書簡箋に17枚位かいた。(一つの綱

要だが)主として方法論的批判を行った。いま谷口氏が持っていった。今

度の日曜彼がその駁論をやるだろう」(第5信、1927年4月15日、

『社会衛生学から革命へ』83ー85頁)。

 まだ高野岩三郎がベルリン滞在中の1927年6月頃、有澤広巳と国崎

定洞は、二人でロンドンに旅する(有澤広巳の昭和史編纂委員会『歴史の

中に生きる』非売品、1989年、296頁の「略年譜」には千田是也も

同行とあるが、千田の入独時期・回想から二人だけと思われる)。そこ

で、イギリス在住の政治学者茂木惣兵衛に会った模様である。茂木は、ベ

ルリンにおける岡上守道と似た、ロンドン在留日本人知識人コミュニティ

の中心である。国崎は、茂木惣兵衛の話のなかに、蝋山のゼネスト評価の

原型を見いだした(茂木については『茂木惣兵衛遺文集』非売品、193

5年、この編纂委員会代表が蝋山政道である)。

 「英国に渡ってあっちのパンフレット類を集めて来た。中々読む暇がな

い。それから、面白かった事は例の俗学蝋山氏の改造にかいた諸論文の源

泉を見つけだした事だ。あのゼネラルストライキから社会思想に出ていた

通信なんか皆出てくるところはわかる。英国に例の茂木総兵エ氏――生糸

の茂木破産した茂木の主人公だ――がいる。失敗以来ロンドンに来て政治

学を勉強しているんだね。そして、彼はILP[独立労働党]のメンバーな

んだ。ILPなんてものは大体プチブルの政党で独立労働協会(もうある

まいがあれを政党にしたやうなもの)に似たりよったりだ、茂木氏が蝋山

氏の見解の出どころだらうと考る。ゼネラルストライキから今度の労働組

合法なんかについて聞いて見ると、ロー山氏そっくりの事を云ふ。矢張り

総評議会はゼネラルストライキを裏ぎる事によって、英国労働運動を破滅

から救ったと云ふんだ。そしてKPE[イギリス共産党]やNMW[全国少

数派運動]なんて問題にしないんだね。こふ云ふイデオロギーをもってる

党や組合主領をもってる間は英国のブルジョアは太平だろう」(第7信、

1927年7月6日、『社会衛生学から革命へ』113頁)。

 大原社研所長高野岩三郎は、27年7月1日にベルリンを離れ、モスク

ワに向かった。こうしたベルリン社会科学研究会の雰囲気が、11月帰国

後の高野の旅行記(前掲「欧露をめぐりて」)にどのように反映されたか

は確言できないが、同年末の「日本労農党の党首または顧問就任を懇請さ

れたが断る」(前掲「年譜」461頁)という選択の、一つの底流になっ

たとはいえるかもしれない。

 

  4 有澤広巳はなぜベルリン滞在を延長したか

 

 1927年夏に、東大新人会出身で4月に卒業したばかりの与謝野譲

が、ベルリンにやってくる。与謝野寛(鉄幹)の弟修の結婚前の子で、一

時は寛・晶子夫妻の子として入籍されていた。日労党系の彼の来独につい

ては、国崎定洞は警戒している。「与謝野氏この大切な時に何しにこちら

にきたか、なぜ来たか? 知らせてくれ」と小宮義孝に問い合わせた(第

8信、1927年8月24日、『社会衛生学から革命へ』121頁)。小

宮の返事は残されていないが、10月には次のように書いている。これ

は、日労党か労農党かという当時の日本左翼陣営の論争のなかで、国崎定

洞が、明確に労農党の方を選択したことを意味する。

 「与謝野に対する注意有り難う。明確な理論を以ているとは思へない。

然し恐ろしく小才のきく男らしく見える。それだからどちらでも状勢次第

で運動する可能性をもっているやうだ。然し確固性に於ては? 今までの

ところまだよくわからない。勿論ここでは左翼的な事を云ふ。そして鉱山

の左翼化に努力することは云ふ。その限りに於て僕は大に彼を支持して

る。そして一緒に仕事をしてる。然し彼がまた日本に帰って菊川[忠雄]な

んかに反抗してまでその主張を通し得るかは?かもしれぬ。どうも少しり

こうすぎるようだ。

 こちらではわれわれの会も一段階進展した。と云ってまだまだ雑然たる

会合のものだから――それはやむを得ないが――とにかく一つのルーズな

組織として認められ、いろいろ仕事をし得るやうになった。最近リガ(最

近巴里で第二会大会をやる[国際反帝同盟])の仕事をしている。その関係

で支那の国民党のゲノッセ[同志]を通じてドイツのゲノッセともある連絡

が可能となりつつある。最近の会合ではヘルマンヅンカー(Hermann 

Duncker)が来てマルクシズムの特質をしゃべった。いいじいさんで、や

はりなれてるだけに、極めてヨーリョーよくしゃべった。その他のゲノッ

セもいづれ来てくれるだろう。

 最近浅野宛に小生労農党の党員(大学のプロ[フェッサー]はいかんさう

だがそんな事はどうでもいい)になるやうに話した。こちらでは組織体の

一員でないといろいろなものを見る事は困難だ。もっと深く見度いと思ふ

からモチロン、プソイドニーム[偽名]で党員になれるやうにしてくれ。勿

論労農党員としての面目を汚すやうな事はしないから安心していいだら

う。最近ヨサノは支那の国民党の革命記念日に演説した。そして小生がプ

ロテストブリーフを送ってやった。勿論僕は決して演説なんかせんから、

これも安心してくれ。公会の席上に出すのは、ヨサノと労農党員役者千田

是也を出している。インターナショナルの連絡をつける事はいずれにして

も必要と思ふ。近くこちらの学生コムムニストの会合に出るつもりだ。わ

れわれの会も質的には向上を示していると思ふ。……

 日本と各国との連絡が不足だ。片山潜氏のところあたりにも日本から何

らの報道も行かないらしい、新聞雑誌も来ないらしいと云ふ事だ。こちら

から送っている、千田の手を経て、それも極めて不足、出来たら(また金

を送るから)運動の雑誌新聞僕宛に2部づつ送らせてくれ。片山氏勿論老

人であり、役に立つまいがとにかく日本の代表者として認められている。

かれの醜体(もしもあるとすれば)は日本の恥だ。少くとも左翼運動の全

報導[ママ]だけは彼のところにやり度いと思ふ。こちらから送ると安全。

Rote Hilfe[赤色救援会]の手を経て、郵便ではなくやるから心配はない。

よろしく連中に話してくれ、それからインプレコール[コミンテルン機関

紙]あたりにもっと日本の状勢報告出る事が望ましい」(第9信、192

7年10月14日、『社会衛生学から革命へ』125ー127頁)。

 ここで国崎定洞が述べているように、日本人社会科学研究会は、192

7年の秋頃から、ドイツ共産党の理論家で党学校で教えていたヘルマン・

ドウンカーを講師に招く。有澤広巳の回想には、次のように出てくる。

 「この読書会を通じて、ぼくはちょっと珍しい二つの経験をすることが

できたのです。一つは、ヘルマン・ドウンカーと会う機会をもったことで

す。ドウンカーといっても現在ではその名を知っている人はあまりないで

しょうが、この人はたしかベルリン最大の書店プラーガーの古書部の顧問

みたいな仕事をしていた文献通で、1920年代にはマルクスやエンゲル

スの著作を編集し自分の解説を付して、小冊子として刊行していた。そし

てそういう人としてその名が知られていた。そのドウンカーの本に、本文

にも解説にも誤謬があるのを読書会のメンバーのひとりが発見した。その

点を問い合わせる手紙をドウンカーに出したところ、大変感謝されたう

え、ぼくたちの研究会に一度出てみたいという返事であった。それで彼は

2、3回読書会に出てきて、ドイツの社会運動の話をしてくれたのです。

それも文献と関係させて話してくれるので、ぼくにはたいへん有益でし

た。

 たしかドウンカーの紹介ではなかったかと思いますが、その当時、ベル

リン大学の学生団体(Studentenschaft)のリーダーだと称するライスマン

(Reissmann)に会ったことがある。しかもライスマンにつれられて学生

たちの会合に一度出たことがある。あるビヤホールの奥まった室に2、3

0人の学生が集まっていて、ライスマンとぼくとがはいってゆくと、拍手

で迎えてくれた。ぼくは別に用意はなかったが、学生たちの求めに応じ

て、しばらく日本のことについて断片的な話をした。そのときはそれだけ

のことですが、日本に帰ってのち、"Die Internationale"[ドイツ共産党

理論機関誌]誌上にときどきライスマンの論文を見るようになって、はじ

めて彼が左翼の理論家としての若い経済学者であることを知ったのです」

(『学問と思想と人間と』119ー120頁)。

 もともと蝋山政道の提唱から始まったベルリン社会科学研究会は、全体

として国崎定洞や堀江邑一に牽引され、ドイツ及び日本の共産党系に近づ

いていった。とりあげる文献も、マルクス主義のなかでも経済学の現状分

析やソ連の政治指導者の文献に傾いていった。こうした方向は、特に菊

池・舟橋ら蝋山の系列で加わった労働法学者たちには、抵抗のあることだ

ったろう。

 脇村義太郎は、ベルリン留学時代の有澤広巳についての舟橋諄一・横田

喜三郎からの聞き取りにもとづいて、読書会の「法律学者の人びとの中で

は、ケルゼンの研究をやる人とマルクス主義の研究をやろうという人と二

つのグループがあって、結局、二つのグループのあいだの調整がうまくい

かないで、研究会としてはあまり効果を挙げなかったという印象を、私は

舟橋君や横田さんの言葉のはしばしから受けました」と書いている(脇村

「ワイマール共和国ベルリン時代の有澤先生」有澤広巳の昭和史編纂委員

会『回想』非売品、1989年、21頁。

 実は、戦後の最高裁判所長官横田喜三郎も、1927年7月初めから2

8年1月のベルリン滞在中、社会科学研究会に加わっていた。横田は自伝

『私の一生』(東京新聞出版局、1976年)に、26年1月から28年

10月帰国までのフランス、ドイツ、アメリカ留学の模様を、日記にもと

づいてかかなり詳しく記している。フランスへの出発時は、一緒に東大法

学部を卒業し九州大学への就職が決まっていた菊池勇夫と同じ船での渡航

であった。パリでは菊池の旧制一高弁論部以来の親友で私費留学中の農商

務省官吏芹沢光治良が二人を出迎え、菊池と同じ下宿に入った。翌27年

7月ベルリンに移ったさいに出迎えたのは、横田・菊池の後輩で菊池と同

じ九州大学赴任が決まっていた舟橋諄一であった。ドイツでは国際法とケ

ルゼンの純粋法学を研究し、28年1月アメリカに渡ってハーバード・ロ

ースクールに学んだ(同書、88ー93頁)。横田のこの記録と、芹沢の

菊池追悼文から、九大の菊池勇夫夫妻は、横田夫妻がベルリンに滞在する

27年後半の時期にはイギリスに渡ったことがわかる(芹沢光治良『ここ

ろの広場』新潮社、1977年、78頁)。

 ところが横田喜三郎のベルリン時代の詳しい回想には、有澤広巳も国崎

定洞も、社会科学研究会のこともでてこない。わずかに有澤広巳没後の追

悼文に「1927年の秋にベルリンに移った。有澤君は、はじめからベル

リンに留学していた。わたくしがベルリンに移ってから、かれと会い、話

しあうようになった。もっとも、それはときどきのことであり、あまりし

ばしばではなく、とくに親しくなるというほどではなかった」と、微妙な

いいまわしの、距離をおいた書き方をしている(横田「90年苦楽の道」

『学士会会報』第780号初出、有澤広巳の昭和史編纂委員会『回想』6

ー7頁)。脇村義太郎に社会科学研究会への出席の有無を問われ、ようや

く事実を認めたのが、上述の「あまり効果を挙げなかった」という評価で

ある。蝋山政道と同じく、蝋山がいなくなってからベルリン入りした東大

法学部の横田喜三郎も、医学部の国崎定洞というより、経済学部の有澤広

巳のベルリンでのマルクス主義への傾倒を、苦々しく思っていたのであろ

う。

 社会科学研究会の変化は、モスクワ在住の日本労働運動の父、コミンテ

ルン幹部会員片山潜との関係からもわかる。高野岩三郎の7月モスクワ訪

問が橋渡しになったか否かは確言できないが、5月に到着した千田是也の

父伊藤為吉が片山の旧友で千田が片山と会ってきた関係もあり、27年秋

には、このグループとコミンテルン幹部会員片山潜の連絡ルートができて

いた。27年12月初め、ブリュッセルで国際反帝同盟総評議会が開か

れ、日本代表として片山潜のほか、ベルリン在住の千田是也が労農党代表

として、与謝野譲が日労党代表として出席する。反帝集会の模様は千田・

与謝野がそれぞれに書き残しているが、「ブリュッセルの帰りに片山さん

が2、3日ベルリンに滞在されたので、日本人社会科学研究会の連中で、

ニュルンベルグ広場のそばの東洋軒にお招きして、そこの奥まった部屋で

スキ焼きをつつきながら、色々お話をうかがった」(千田『もうひとつの

新劇史』173頁、与謝野「最近欧羅巴に於ける反帝国主義運動の進展」

『改造』1928年3月号、『人間 国崎定洞』189頁の堀江邑一証言

も参照、堀江は別の回想で「東洋軒」ではなく「ときわ屋」だったとす

る、前掲堀江「国崎定洞の憶い出」106頁)。ただし、横田喜三郎が片

山潜と会ったか否かは不詳である。

 この頃には、国崎定洞の小宮義孝宛手紙にあるように、当時の片山潜の

主たる活動領域である国際反帝同盟やモップルに国崎・千田らが加わり、

「労農党員役者」千田是也を窓口に、モスクワに手紙や書物を送ったり、

千田がKPD系集会で挨拶するようになっていた。もともと読書会だった

社会科学研究会のなかに、積極的に実践活動に加わるメンバーが現れ、マ

ルクス主義文献の読書会が実践的性格を帯びてきた。国崎定洞、堀江邑

一、千田是也らは、急速にドイツ共産党に接近する。

 堀江邑一は、この27年冬頃、ドイツ共産党に入党を勧誘され、国崎定

洞と一緒に入党したと述べている(『人間 国崎定洞』138頁の川上武

への証言、前掲「国崎定洞の憶い出」106頁)。しかし国崎定洞は、ソ

連崩壊後の1992年に発掘された旧ソ連共産党文書館秘密文書「国崎定

洞ファイル」に入っていた自筆履歴書(1932年執筆)中で、「192

8年初め、赤色救援会ドイツ支部に入会、次いで1928年7月、ドイツ

共産党に入党す」と明言している(『人間 国崎定洞』232頁)。千田

は、自分のドイツ共産党入党を29年夏としている(『もうひとつの新劇

史』193頁)。堀江の入党も、28年に入ってからであったろう。

 千田是也は、ブリュッセル国際反帝集会で日本の労働農民党代表として

挨拶するにあたって、最も信頼できる友人として国崎定洞、有澤広巳と相

談している(『もうひとつの新劇史』173頁)。有澤広巳は26年3月

に日本を出発したから、28年3月が文部省在外研究員としての帰国時期

にあたっていた。しかし、有澤は私費で延長して5月までベルリンにとど

まり、パリ・アメリカ経由で28年7月に帰国した。この有澤の留学期間

延長は、有澤広巳に近しい人々には謎とされてきた。最も親しい友人の一

人であった脇村義太郎はいう。「先生が留学を私費で6ヵ月延長してまで

ベルリンにとどまられたのは、当時、私と大森義太郎君にとっては謎でし

た」(前掲「ワイマール共和国ベルリン時代の有澤先生」『回想』26

頁)。

 脇村は、「[有澤先生は]ドイツではむしろ共産党の人たちと接触してい

た。平野義太郎君とか、モスクワに行った国崎定洞とか」と示唆するのみ

で明言していないが(脇村『回想90年』岩波書店、1991年、143

頁)、同じく有澤直系の高橋正雄は、この「謎」解きに挑戦している。

 「私なりにこの『謎』を解いてみよう。さきに『労農派』について一言

したが、そのころ進歩的学者のうばい合いが、共産党と労農派の間にあっ

た。その国際版が、ドイツを舞台にして有澤さんを目標として行われた。

そのころ東大医学部から留学していた国崎定洞助教授はドイツ共産党に入

党(後にソヴェトに奔り、スターリンの弾圧下で死亡)している。その国

崎さんと有澤さんは親密な交友関係にあった。ここに謎解きのカギがある

ように私には思われる」(高橋「大学の『うち』と『そと』」『回想』4

2頁)。

 たしかに有澤広巳は、国崎定洞や舟橋諄一、堀江邑一、平野義太郎らと

同様に、ベルリンでロシア語の勉強を始めている(『学問と思想と人間

と』127頁)。高野岩三郎と同様に『資本論』を3巻まで読破し、舟橋

諄一にF・メーリング『カール・マルクス』を勧めたりしている。

 だがむしろ、脇村義太郎が「有澤先生のドイツでのご勉強の中心は、マ

ルクス主義の研究を深められるということでしたが、レーデラー教授がハ

イデルベルグへくるようにといって、せっかく下宿まで用意して待ってい

るという伝言があったようですが、有澤先生はついに行くことをなさらな

かったようです」という問題に関わって(『回想』25頁)、有澤の留学

の目標設定が重要であったように思われる。

 エミール・レーデラーは、マルクスとウィーン学派に詳しいSPD系の

経済学者で、有澤の助手時代に東大経済学部で教鞭をとった。有澤広巳と

大森義太郎を最も有能な日本人の教え子として期待し、25年にドイツに

帰国してハイデルベルグ大学教授に戻っていた。有澤のドイツ留学は、当

然自分のいるハイデルベルグであると思っていた。ハイデルベルグ大学

は、有澤の学部時代のゼミナールの恩師であり高野岩三郎の統計学講座を

継いだ糸井靖之が、大内兵衛と共に留学して24年末に結核で若くして客

死した地でもあった。レーデラーは、27年4月ニュルンベルグのSPD

アカデミカー大会に有澤を誘い、有澤にヒルファーディングを紹介し、ベ

ルリンからハイデルベルグに移るよう誘った。有澤は、その場では「ぼく

は大学での研究よりも、ドイツの政治経済の過程の分析を留学中にやりと

げておきたい、それにはベルリンにいなければならないと考えていたもの

ですから、その旨を申し述べた」(『学問と思想と人間と』102頁)。

さらに数ヵ月後、「ぼくも秋からハイデルに行こうと思ったのでしたが、

その秋、高野先生のすすめで、ワーグマンの[景気]研究所にはいることに

なったので、とうとうふたたびハイデルを訪れることはできませんでした

(同書103ー104頁)。どうやら高野も、有澤の左翼化に一役買っ

た、というよりも、カモフラージュに使われたようである。

 有澤広巳は、ビールもほとんど飲めないので、千田是也の回想する在ベ

ルリン日本人の夜の宴には加わらなかった。国崎定洞のドイツ共産党入党

には女性党員活動家フリーダとの出会いがあり、千田是也や鈴木東民らは

ドイツ人女性と結婚して帰国したが、有澤のベルリンでの青春は、より学

究的であり理論的であった。

 同時に、有澤回想にドイツ共産党イデオローグのドウンカーやライスマ

ンが出てくるように、この時期有澤広巳は、彼の長い生涯のなかで、おそ

らく最もマルクス主義及び共産党に接近していた。日本の労農党、ドイツ

共産党に急速に近づいた国崎定洞をして「一番マルクス的だ」といわしめ

るほどの、勉強ぶりであった。そして、「1928年5月20日のドイツ

の総選挙を見て、まもなくパリにゆき、そこで谷口(吉彦)君と連れ立っ

て、シェルプールからアメリカに渡り、アメリカで40日ぐらいあちこち

を見物して7月半ばに帰国したのでした」(『学問と思想と人間と』12

5頁)。帰国にあたって最後に別れを告げたのは、ハイデルベルグのレー

デラー教授ではなかった。フリーダ夫人と結婚し、約束された東大社会衛

生学講座初代教授のポストを捨てて異国での職業革命家への道を歩み始め

た国崎定洞だった。 有澤広巳の帰国直後の印象記は、SPD・KPD前

進の総選挙結果をふまえて、「左翼優勢の独逸」と題されていた(『帝国

大学新聞』1928年8月6日)。だから、高橋正雄の別の回想による

と、「有澤さんが、ドイツ留学から帰ってきたのですが、当時は、日本の

若い学者や東大が主である新人会のメンバーが、押すな押すなの状態で有

澤さんのところに押しかけて共産党に入党するよう働きかけをしていまし

た」(高橋正雄『二十世紀の群像』第一書林、1989年、37頁)。

 しかし、有澤広巳は、コミンテルン傘下の共産党活動には加わらなかっ

た。3・15共産党検挙で厳しくなった状況を大森義太郎・大内兵衛・矢

内原忠雄らから聞き相談したうえで、「自分は学究として今後大学に留ま

っていく」決意を固めた(脇村前掲論文、『回想』28頁)。ナチスの台

頭とワイマール民主主義の崩壊をペンで批判し追いかけながらも、いわゆ

る労農派に近い存在として理論活動を続け、1938年には教授グループ

事件で検挙され、入獄する。そして戦後東大に戻り、日本の再建期にはな

ばなしく活躍したのち、晩年には再びワイマール共和国はなぜ崩壊したか

の研究に専念した。有澤は、有澤なりに、ワイマール期ベルリンの青春を

謳歌し、晩年までその意味を追求し続けたのである(有澤広巳『ワイマー

ル共和国物語』上下、東京大学出版会、1994年、参照)。

 

  5 おわりに――読書会からベルリン反帝グループへ

 

 1928年に入って、社会科学研究会は転機を迎える。一つは有澤広

巳・国崎定洞・堀江邑一ら創立に加わった文部省派遣在外研究員たちが2

年の国費留学期間の満期を迎えたことであり、いま一つは、日本における

共産主義運動への弾圧、3・15事件である。3・15事件では、国崎定

洞の親友浅野晃らが治安維持法違反で捕まり、有澤広巳の親友大森義太

郎・向坂逸郎らは大学を追われた。

 この頃までにベルリン社会科学研究会に顔を出したメンバーについて

は、これまで言及してきた蝋山・有澤・谷口・堀江・国崎・鈴木・菊池・

舟橋・松山・山本・山田・岡上・土屋・与謝野・横田のほか、先の有澤・

堀江・千田らの回想から、フランクフルトに留学した東大民法助教授平野

義太郎や、東大の統計学助教授有澤の帰国直前にベルリンに到着する京大

統計学助教授蜷川虎三が確認できる。

 平野義太郎の留学は文部省の妨害で遅れていたが、ようやく1927年

3月フランスへと出発、12月にフランクフルト大学社会科学研究所に到

着し、29年11月の帰国まで、ここを拠点にヨーロッパに滞在する。回

想ではベルリンの有澤広巳・土屋喬雄・国崎定洞・蜷川虎三との交友しか

挙げていないが(広田重道編著『平野義太郎評伝・上』非売品、1974

年、64頁以下)、ベルリンの社会科学研究会へのたびたびの出席は、堀

江邑一が記録している(堀江「畏友・平野義太郎氏の思い出」『平野義太

郎・人と学問』大月書店、1981年、42頁以下)。私も晩年の平野か

ら、しばしば聞かされた。

 有澤広巳は、帰国準備期に3・15事件を知ったのは、パリにいると思

っていた旧知の平野が突然ベルリンに現れた時だったと回想している。有

澤が「平野君の紹介状を持ってひとりの若い日本人がぼくをたずねてきた

ことがあった。その日本人は、パリから立ち退きを命じられたので、とも

かくもベルリンにのがれてきた、これからソ連に行くつもりだが旅費がな

いとの話だった。それでなにがしかの旅費をあつめて餞別に送ったことが

あった」と記しているのは(『学問と思想と人間と』126頁)、もとも

と蝋山政道が平野に紹介したパリ大学留学生で、フランス共産党員として

国外追放になった文学青年勝野金政のことである。

 勝野金政は、28年3月、ベルリンで国崎定洞宅に滞在し片山潜宛の紹

介状をもらってモスクワに入り、片山の秘書となる。30年秋に突然ソ連

秘密警察に逮捕されラーゲリ生活を送ったことが、32年にベルリンから

モスクワに亡命した国崎定洞のスターリン粛清の悲劇の発端となる(勝野

『凍土地帯』、加藤『モスクワで粛清された日本人』参照)。なお、勝野

はパリ大学で芹沢光治良と一緒であったが(『凍土地帯』14頁以下)、

前述したように後の大作家芹沢は九大の菊池勇夫と一高弁論部以来の親友

で、ヨーロッパ滞在中もたびたび会っていた(芹沢「長い旅路の伴侶」

『こころの広場』75頁以下、131頁以下のパリ大学の「小柄な哲学

生」が勝野)。この頃の在欧日本人は、ベルリン、パリ、ロンドンを中心

に、血縁・地縁、出身高校・大学を基礎にした、緊密なネットワークを持

っていた。

 戦後の革新京都府知事蜷川虎三が、ベルリンから律子夫人に送った絵葉

書が残されている。28年5月末のもので「近日、東大の有澤君が日本へ

帰るので、送別の意味で雨の中をポツダムのサンスラシイの宮殿のある処

に出かけました。京都の連中は谷口、八木[芳之助]、堀江君、高松の某君

など、東大の平野、有澤、土屋君など、その他合わせて13人、なかには

築地小劇場の若い俳優の人[千田是也]もおり、この写真の階段を登りつめ

たところでフルードリッヒ大王のマネをしたりしました」とある(細野武

男・吉村康『蜷川虎三の生涯』三省堂、1982年、46ー47頁、)。

ただし蜷川の回想録『洛陽に吼ゆ』(朝日新聞社、1979年)には社会

科学研究会への言及はなく、評伝の著者たちは「蜷川は、谷口に誘われて

有澤の送別会に顔を出しただけで、読書会には顔を出さなかったようであ

る」としている(『蜷川虎三の生涯』47頁)。しかし堀江邑一や平野義

太郎の回想にも、後述岡内順三の警察供述にも、蜷川の名は登場してお

り、熱心ではなくても顔をだしていたのだろう。京大農業経済学の八木芳

之助も、読書会メンバーだったと考えられる。有澤広巳の没後に発表され

た脇村義太郎の聞き取り調査では、さらに京大法学部政治学・行政学担当

のケルゼン学者黒田覚も、ベルリン滞在中は研究会メンバーであった(脇

村「ワイマール共和国ベルリン時代の有澤先生」前掲『回想』21頁)。

堀江の回想には「本島君」という名前も出てくるが、私の調査では現在の

ところ不明である(『人間 国崎定洞』154頁)。

 堀江邑一は、「この研究会の幹事役は最初有澤があたり、つぎに国崎、

さらに私へとバトンタッチされたが、私にとっては2年余りの間にマルク

ス・レーニン主義の重要文献に通ずることができ、大変勉強になり、有益

であった」「私たちが帰ったあとは、国崎が中心になって世話する会合に

なった」と回想したが(前掲「国崎定洞の憶い出」105頁、『人間 国

崎定洞』154頁)、幹事については必ずしも特定できない。読書会とし

て読んだ文献は、これまで挙げた各種回想・資料から、マルクス『ブリュ

メール18日』『フランスにおける内乱』、エンゲルス『住宅問題』、レ

ーニン『国家と革命』『帝国主義論』『共産主義内の左翼小児病』、スタ

ーリン『レーニン主義の諸問題』、ブハーリン『過渡期経済論』『史的唯

物論』、ヴァルガ『世界経済の没落』などが確認できる。そのほかに、そ

れぞれの専門分野での報告が行われ、学際的に討論された。ドウンカーら

ドイツ人ゲストが加わることもあり、片山潜を招いての会合もあった。野

球をしたり、ハイキングに行ったり、親しいメンバーで旅に出ることもあ

った。多くのメンバーが若かった。ワイマールドイツは、当時の世界で最

も民主的な憲法を持つ国であり、その首都ベルリンは、世界の学術・文

化・芸術の中心であった。

 これら学者たちのほかに、千田是也の周辺の文化・芸術関係者たちも、

時に顔を出していた。多くの創立期読書会メンバーが帰国した後もドイツ

に残る国崎定洞・鈴木東民・平野義太郎らと、千田ら芸術青年グループ

が、29ー33年に実践活動に入るベルリン反帝グループの中核になる。

千田のもとにやってきた映画監督の衣笠貞之助やプロキノの岡田桑三は、

この端境期の会合に顔を出したと思われる。

 千田是也と同じ頃に、音楽研究のためにベルリンに入った岡内順三(作

家村山知義の義弟)は、姉籌子の夫村山が獄中にいた1932年春の帰国

にあたって、日本で外事警察の取り調べを受け、ベルリン反帝グループに

ついて詳しく供述している。最近復刻されたその警察記録には「在伯林日

本人マルクス主義読者会(自1926至1929)」という名で、これま

で詳述した社会科学研究会のことが記されている(内務省警保局「昭和8

年中に於ける外事警察概要・欧米関係」『特高警察関係資料集成』第17

巻、不二出版、1992年、363頁)。そこに岡内は、28年千田の紹

介で加わり、毎週土曜日午後2ー6時ビアホールに集まり、エンゲルス

『住宅問題』、レーニン『国家と革命』、ブハーリン『史的唯物論』など

を読んだという。岡内のあげる28ー29年期の読書会メンバーは、与謝

野譲・千田是也・有澤広巳・舟橋諄一・土屋喬雄・国崎定洞・岡上守道・

山田勝次郎・鈴木東民・堀江邑一・蜷川虎三(国際法学者蜷川新の名にな

っているが「京大助教授」で年齢・留学時期からも虎三と推定できる)の

ほか、「浦和高校体操教師」とある工藤一三(柔道家)、今日まで私の調

査でも手がかりのない「山田一(帰国後神戸税関勤務)」「山形太助(横

浜出身の画家)」がいる。岡内供述には、「主催は国崎なるも表面に立た

ず、当時東大助教授のため」と注記されている(加藤『国民国家のエルゴ

ロジー』73頁以下、参照)。岡内供述によると、この「在伯林日本人マ

ルクス主義読者会」が、1929年末から「日本人革命的左翼主義者団」

の指導する政治的組織になるという。実践的組織となったベルリン反帝グ

ループのことである。

 しかし、ベルリン社会科学研究会が、いつから「在独日本人左翼グルー

プ」「在独日本人革命家グループ」などともよばれた日本人反帝グループ

に発展的に解消するかは、厳密には特定できない。28年夏の国崎定洞、

続く千田是也のドイツ共産党入党によるKPD日本語部結成がその出発点

であり、29年以後の勝本清一郎・島崎蓊助・藤森成吉らプロレタリア文

化運動関係者の来独、小林陽之助・根本辰ら日本で学生運動を経験した若

い留学生たちの加入が、飛躍点になったのであろう。

 後に三宅鹿之助・服部榮太郎・川村金一郎・山口文象・和井田一雄・喜

多村浩・安達鶴太郎・嬉野満洲雄・八木誠三・小栗喬太郎・岡部福造・井

上角太郎・小林義雄・佐野碩・三枝博音・野村平爾・大野俊一・大岩誠・

千足高保・山西英一・鳥居敏文・竹谷富士雄・土方与志らが関わるベルリ

ン反帝グループ、及び、このグループと大岩・嬉野・野村・和井田・佐

野・大野らがメンバーとして重なり、画家の内田巌・田中忠雄・佐藤敬・

吉井淳二、美術評論の富永惣吉、建築家坂倉準三、化学者平田文雄らが加

わっていたパリの姉妹組織ガスプ(在巴里芸術科学友の会)については、

別稿で改めて検討することにする。さしあたり、加藤哲郎『国民国家のエ

ルゴロジー』、加藤・川上『人間 国崎定洞』の参照を望む。

 また、国崎指導下の反帝グループの活動と同時期に、東大新人会での蝋

山政道の後輩で同じ『社会思想』同人である東北大教授新明正道らが、別

の留学生研究会を組織していた。新明は、国崎グループからは意識的に距

離をおいて、東京商大出身の杉本栄一・小畑茂夫・大熊信行・井上鎧三、

それに同僚服部榮太郎を誘って、30年夏ー秋に、KPDから追放された

カール・コルシュ及びアウグスト・タールハイマーを囲む研究会を開いて

いた(加藤哲郎「ベルリン反帝グループと新明正道日記」『新明社会学研

究』第5号、1995年、参照)。帰国した堀江邑一は、師の河上肇にベ

ルリンの国崎定洞を紹介し、それが河上の教え子岩田義道にまでつながっ

て、後のコミンテルン「32年テーゼ」の伝達ルートとなる(加藤哲郎

「政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合」『情報と社会』創刊号、199

6年、参照)。

 これらをもとに、1926ー28年期のベルリン社会科学研究会のメン

バーを、その後の経歴を含めて整理すると、おおむね別表のようになる。

 それは、東大森戸事件・吉野作造・新人会の流れを汲む若手研究者たち

と、京大河上肇の教えを受けた人々が、ドイツという異国で合体したマル

クス主義文献読書会だった。そこには日本の社会運動・政治思想のさまざ

まな流れが凝縮されており、次第に国崎定洞・堀江邑一ら左翼的メンバー

の影響力が強まった。そこに、千田是也ら文学・芸術青年たちが加わるこ

とによって、実践への関わりが加速された。それは、当時の日本に比すれ

ばはるかに自由で民主主義的な異国の地における知的・人間的共同体であ

り、年齢も比較的若い人々で構成された、濃密なサークル的コミュニティ

であった。

 同時にそれは、いつかは日本に帰国することが定められた人々の絆とい

う、期限付きの青春であり、危うさ、もろさをはらんでいた。東大教授の

ポストを拒否してナチスの台頭するドイツで職業革命家の道を選び、モス

クワに亡命してスターリンに粛清された国崎定洞を除けば、ワイマール共

和国の自由と民主主義にコミットすればするほど、日本での天皇制国家に

不自由に拘束されるという矛盾をはらんでいた。それが、それぞれのメン

バーの、帰国後の軌跡の分岐をも生み出す。

 にもかかわらず、強いてそこに何らかの共通点を見いだすとすれば、そ

れは、ドイツのワイマール民主主義と戦後日本の民主主義を、それぞれの

意味において架橋していることであろう。彼らの体験した異国での青春

は、彼らの回想の多くにあるように、解放感にあふれ自由なものであっ

た。政治的選択はさまざまに分かれたが、彼らが日本で体験した大正デモ

クラシーの雰囲気とは、比べようのないものだった。そのワイマール体制

は、彼らの帰国後数年で瓦解する。しかもそこに生まれたのは、日本の天

皇制よりも徹底したナチスの国家・社会統制であった。メンバーたちの戦

時中の態度が興味深いが、ここでは割愛する。敗戦・占領改革の時期に、

メンバーたちは社会の中堅になっていた。そこで彼らの多くは、あのベル

リンの青春を想い出す。それぞれの想いを込めて新生日本のあり方を設計

し、それぞれに抽き出したワイマールの教訓を、日本の民主主義に生かそ

うとする。それは、時には学問研究の範囲をこえて、今日までつながる政

治・経済・文化のシステムの一部にもなる。高野岩三郎にとってのワイマ

ール・ベルリンはほんの一瞬であったが、有澤広巳や千田是也の戦後にと

っては、決定的であった。たとえ今日から見れば、そこに大きな限界がは

らまれていたにしても。しかしワイマール民主主義から戦後民主主義への

長く波乱に満ちた物語は、すでに大幅に指定枚数をこえた小論では示唆す

るだけに留め、本格的展開は他日を期したい。

 

        (かとう・てつろう、一橋大学社会学部教授・政治学)

 

 <以下は、雑誌掲載時に枚数の都合で削った部分>

 

 河上肇直系で和歌山高商教授であった山本勝市は、ソ連を見て社会主義

に幻滅、師河上肇にそむいて学生運動を弾圧し、国民精神文化研究所員と

なり思想善導を説いた。ソ連型計画経済の不可能を理論的に探求したあげ

く、統制経済にも反対して軍部からにらまれることになった。戦後は自民

党国会議員となる。

 旧制浦和高校体育教師としてベルリン体育大に留学し、土屋喬雄と一緒

に帰国した柔道家工藤一三は、ドイツでのプロレタリア・スポーツ運動の

広がりに衝撃を受け、帰国して講道館の柔道赤化防止運動の先頭に立つ。

戦後は警察学校教授、警視庁指南など、柔道界の重鎮になる。

 東大法学部の蝋山政道や横田喜三郎は、国崎定洞・有澤広巳らに「洗

脳」されなかった。研究会を提唱し出席はしたものの、文部省派遣の東大

法学部助教授としての分を守り、戦時中も戦後も、時の権力につかず離れ

ずの生涯を送った。九大労働法の菊池勇夫、舟橋諄一も、あくまで学問研

究の一ステップとして、マルクス主義を通過した。

 東大系列では、国崎定洞・有澤広巳については、すでに詳しく述べた。

平野義太郎・山田勝次郎は、ベルリンの青春を地肉化して帰国後に大学を

追われ、いわゆる講座派マルクス主義の中心メンバーになる。29年2月

に留学し反帝グループに加わる三宅鹿之助も岩田義道・山田盛太郎と同郷

で親友であったが、経済学部の土屋喬雄は、有澤と共にむしろ労農派の論

客になるから、ベルリン社会科学研究会は、30年代日本資本主義論争の

両派を内包していたことになる。ちなみに野呂榮太郎・山田盛太郎・平野

義太郎らの『日本資本主義発達史講座』と同時期に発表され、『講座』と

相乗して戦前社会科学の到達点とされたコミンテルンの「32年テーゼ」

は、ベルリンの国崎定洞から堀江邑一・平野義太郎ら帰国した社会科学研

究会メンバーを介して日本に伝達され、河上肇・村田陽一により訳された

ものだった(宮川実から河上肇への手交説もあるが、それが疑わしいこと

については、加藤哲郎「政治と情報――旧ソ連秘密文書の場合」『年報 

社会と情報』創刊号、1996年)。

 興味深いのは、平野の戦時中の言説と、創立に加わった福島高商教授松

山貞夫のその後である。平野の理論的振幅についてはよく知られている

が、比較的無名の松山貞夫は、むしろ社会科学研究会の後継組織、ベルリ

ン反帝グループのメンバーの多くが歩んだ軌跡に近い歩みをたどる。33

年福島高商で全協にカンパしたとして教壇を追われ、同級の我妻栄の紹介

と思われるが岩波書店に入り、我妻・横田喜三郎・宮沢俊義編『法律学小

辞典』(1937年)を実質的に編集する。38年満鉄調査部に入り中国

法制慣行調査に従事、戦後は法務省法務図書館館長を勤めた。

 京大の系列では、高松高商の堀江邑一は、帰国後河上肇と国崎定洞を結

びつけ、34年検挙され38年から満鉄調査部、戦後は共産党系の論客、

日ソ友好運動に力を尽くす。国崎定洞の親友と自負した所以であろう。京

大経済学部に残った谷口吉彦・八木芳之助は、1940ー43年に続けて

経済学部長となる。八木は戦時中に亡くなるが、谷口は生き残ったことで

パージに会う。戦後一時期民間に転じ、香川大学学長に復帰してまもなく

亡くなった。蜷川虎三にとってのベルリンの青春の意味は必ずしも定かで

はないが、戦後京大経済学部長を勤めてから、中小企業庁長官・京都府知

事へと転身していく。

 黒田寛は、法学部でむしろケルゼンの系譜だが、反帝グループとパリ・

ガスプにアクティヴに関わった大岩誠とともにもともと政治学の担当で、

33年滝川事件では文部省に抗議し共に辞職し、立命館に移る。だが黒田

はすぐに京大に復帰し法学部の憲法教授となり、戦時中は法学部長をつと

め戦後追放される。

 つまり、ベルリン社会科学研究会のメンバーの帰国後の軌跡は、読書会

の結成時と同じようにばらばらであり、政治的国粋派から共産党左翼ま

で、理論的マルクス・レーニン主義からリベラリズムまでを含む。

 



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