これは、花伝社刊『現代日本のリズムとストレス』の「エピローグ」の草稿である。実際の書物にするさいは、以下で述べた第5・6・7章の論文は、紙数の都合で収録しなかった。「あとがき」でなく「エピローグ」としたのは、前半がエッセイになっているからである。


したたかな「戦後」を撃つ          

 

 本書は、日本の「戦後50年」の年に上梓する、私の論文集である。

 「戦後」という日常的言葉は、私たちの思考の、無意識的枠組みをかたちづくっている。「戦後は終わった」とは、すでに1950年代から幾度も語られてきた。「戦後民主主義の虚妄」も、60年代から聞かされてきた。それがしかし、どっこいしぶとく生きてきた。「戦後○○年」は、8月のメディアの風俗に、定着している。「戦後文学の旗手」大江健三郎がノーベル賞を受賞すると、たちまち「戦後民主主義」がリバイバルする。

 「戦後40年」の1985年頃、歴史学研究会が企画・主催して、1945年以降の日本史についての共同研究が出発した。5年間の研究成果を90年にまとめるにあたって、その表題が問題になった。

 もともとこの企画は、「戦後15年」の1961年に刊行された『講座 戦後日本史』全5巻(青木書店)を、「戦後40年」を迎えた時点で再検討し改訂する主旨だった。高度成長期以降は歴史学では専門家がいないということで、私のような「戦後生まれ」の政治学者も動員され、編集委員の末席に連なった。無論61年講座から、編者も執筆者も、若返っていた。執筆者は「戦後生まれ」が多数派だった。だが、全5巻数十本の論文を総括する共通のタイトルをどのようにするかは、決まっていなかった。

 当初はたぶん、『日本現代史』を暗黙の了解にしていた。『戦後日本史』という61年講座名を継承しないことは、61年講座に加わった編集委員を含めて、了解されていた。けっきょく編集委員会の度重なる討論と、出版社の意向も踏まえ、1990ー91年に刊行された共同研究の成果は、歴史学研究会編『講座 日本同時代史』全5巻(青木書店)となった。その「刊行のことば」には、「『戦後』という形で45年間をくくるには、あまりにもこの間の変化は大きく、時代把握として必ずしも適切ではなくなった。若い世代では『戦後』の対象領域をイメージしにくい者も多い。しかも、今を生きるわれわれにとって、『現在』を透視する歴史が求められている。『戦後史』ではなく『日本 同時代史』と銘打ったのもこうした意図からであった」とある。

 すでに歴史の内実が、1961年段階とはかけ離れていた。執筆者たちの分析視点も大きく変わっていた。61年刊の講座は、60年安保闘争の高揚を受けて、ほとんど全巻がアメリカの占領と日米安保条約をめぐる政治過程の攻防、清水慎三のいう「戦後型贖罪史観」、私のいう「占領・安保史観」で貫かれていた(加藤『ジャパメリカの時代に』花伝社、1988年)。

 しかし、1985年の「戦後40年」の地点では、清水のいう「経済成長史観」、私のいう「高度成長史観」が、無視できなくなっていた。それはとりわけ、時期区分の問題、講座企画でいえば、巻別構成のさいに問題になった。「占領・安保史観」でいけば、45四敗戦、52年サンフランシスコ条約=旧安保条約発効、60年新安保条約反対闘争、の画期は自明だった。だがその後の日本史を、70年安保自動延長、または72年沖縄返還、78年日米防衛ガイドライン、とつないでいくのは、いかにも強引であった。85年頃は、日米貿易摩擦が慢性化し、プラザ合意で円の為替相場が1ドル=240円から120円へと旧上昇する時期であった。一人当りGNPでも、アメリカを追い越そうとしていた。政治的軍事的「対米従属」のみで日本史を語るのは、無理があった。

 「高度成長史観」は、1955年を、経済成長=国民生活再編の胎動と、自民党一党支配=55年体制の始期として出発点においた。次の画期は、第一次オイル・ショックで高度成長の終わる73年末(65年不況に小画期を設ける場合もあった)、そこから公労協スト権スト敗北・減量経営後の経済大国化・政治的保守化につなげ、82年末の中曽根内閣成立=「戦後政治の総決算」、ないし85年のプラザ合意・円高で区分するのが普通であった。歴史学の方法に即していえば、「講座派」的視角の衰退、「社会史」研究の台頭が、「高度成長史観」の説く日本社会の変貌イメージを支えた。 

 しかし、「現代史」の抽象性と「戦後史」「昭和史」につきまとうしがらみを共に排した、「同時代史」という苦肉のネーミングは、ビジネスとしては成功しなかった。

 『講座 日本同時代史』は、全体を貫く視角として、1、国際連帯・世界史的視野、2、民衆の主体的側面、3、戦争と平和の問題、4、経済成長至上主義批判、5、マイノリティ問題の重視、を挙げた。個々の論文は力作が並び、前半は「占領・安保史観」をとりこみ、後半では「高度成長史観」に重点をおいてバランスをとったが、正村公宏『戦後史』上下(筑摩書房)や中村隆英『昭和史』TU(東洋経済新報社)ほどのインパクトはもたなかった。出版ビジネスとしては、明らかに『講座 戦後日本史』と銘打った方がよかったのである。「戦後」はなお、それだけの流通力を保っていた。

 「同時代史」には、いまひとつの意味が込められていた。1989年の「昭和史」の終わり、同じ年の東欧革命と91年ソ連解体は、「戦後」の枠組みそのものをゆるがすものと受けとめられた。いや、執筆者たちは期待した。「現代史」の始点とされたロシア革命の意味が転換し、日本の「戦後」を外から規定した冷戦体制も崩壊した以上、「戦後日本史」そのものが新たに顧みられなければならないことは、自明であった。この歴史の大変動に辛くも執筆が間に合った『講座 日本同時代史』の第五巻巻末論文は、「転換期の世界と日本」と題して、近代世界システムの転換や地球生態系危機、富国貧民の日本における成長神話の崩壊に言及し、「戦後」的歴史像の転換の必要を説いていた。

 しかし、昭和天皇の死も、社会主義の崩壊も、冷戦体制の終焉も、民衆レベルでの「戦後」感覚の崩壊を伴わなかった。「戦後」それ自体は、無限抱擁性を持つヌエ的観念となり、歴史的にもその実質的意味内容を変貌させてきたのだが(拙著『戦後意識の変貌』岩波ブックレット、1989年)、それは、「戦争」しかも「敗戦」という極限状態をくぐった象徴であるがゆえに、次の「戦争」やもうひとつの「敗戦」という国民的同質化ないし国家的崩壊体験を経ないと、なかなか次の段階に進めない。

 この経験にならっていえば、「戦後50年」の自民党一党支配終焉=55年体制崩壊も、村山連立内閣後の政党構造の再編も、おそらく「戦後」の民衆的清算とはならないであろう。私自身は、本書のプロローグや第V章で論じたように、歴史の現在を、20世紀を支配した多層的システムの重層的転換期ととらえるが、その民衆的追認は、おそらく歴史の後知恵としてしかありえないだろう。

 結論を急ごう。「戦後」は、いまや「現代」よりも強固な、日本の支配的な民衆的歴史像・歴史感覚、より正確には、近過去をふりかえり、近未来を予測する判断規準となった。それは、「戦前」の否定形として定着した。そこには「戦前」ではないという感覚、すなわち平和や自由や平等や、民主主義や「豊かさ」や「福祉」さえも包み込んでいる。同時に、アメリカ合衆国との、社会主義・共産主義との、アジアとの関係性をも組み込んでいる。ヒロシマ・ナガサキや焼け跡・闇市を原点にしながら、貧しさからの解放と中流意識、会社中心主義社会と長時間労働・過労死、テレビやマイカーの普及と公害・環境破壊・交通事故、サミットの一員となった経済大国日本と外国人労働者問題、日米安保から構造協議までを、「戦争責任」から「戦後責任」までをも、包摂しうる。

 それゆえに「戦後」は、「もうひとつの日本」を構想する人々にとっても、アンビバレント(両義的)である。1955年に総理府が行った世論調査で、「戦後が好ましい」と答えたのは16パーセント、「戦前が好ましい」という人が45パーセントであった。75年にNHKが行った同じ調査では、「戦後が好ましい」が57パーセント、「戦前が好ましい」17パーセントと逆転していた。おそらく「戦後50年」の95年に同じ調査を実施すれば、「戦前が好ましい」はほとんどいなくなるだろう。なぜなら、比較の基準としての「戦前」そのものが、追体験不能な歴史に埋没しつつあるのだから。ここでは「戦後」は、「好ましいもの」全体を体現する。

 同時に「戦後」は、「戦前」を否定するばかりでなく、あらゆる「好ましくないもの」を大衆的に解読する規準にもなりうる。1990年にNHK放送文化研究所の行った「戦後」イメージ調査では、複数回答ではあるが、1「家庭電気製品がそろい、便利な生活ができるようになった」80・0パーセントが、ダントツのトップであった。以下、2「レジャーや旅行が手軽に楽しめるようになった」57・9パーセント、3「地価が高騰し、国民の生活を圧迫した」51・0パーセント、4「公害や自然破壊が広がり、生活環境が悪くなった」50・5パーセント、5「交通事故や交通の渋滞がひどくなり、生活の安全が脅かされるようになった」49・8パーセント、5「財産のある人とない人の格差が広がった」46・2パーセントと続く。「所得が増え、暮し向きが楽になった」は、36・9パーセントで第8位にすぎない。ここでの「戦後」は、眼前のバブル経済下の地価高騰・資産格差拡大ばかりでなく、公害・交通事故など「高度成長の光と影」の「影」の部分をもしっかり読み取るコードになっている。いいかえれば、「戦争を知らない子供たち」「戦後生まれ」が多数派になった社会で、日々の仕事や溢れる情報からしばし離れ、歴史のスパンをちょっと延ばして過去を振り返る規準として、「戦後」は定着したのである。

 西欧近代の意味や物質的生産力そのものを問う視角からならば、「戦後の終焉」や「戦後民主主義の虚妄」をいいたてることは、それなりの意味がある。私自身、「戦後民主主義」に内在する経済主義・生産力主義、一国主義・加害責任忘失を問題にしてきた(『社会と国家』岩波書店、1992年)。本書では、「エルゴロジー」という視角から、高度経済成長と「豊かさ」の意味を問い直してきた。

 しかし、当面の政局や職場の変革への処方箋として「戦後」を否定することは、「戦前・戦中・戦後」の世代区分が意味を喪失し、新たな21世紀的歴史感覚が民衆的に現れない限り、有効性を持たないだろう。

 「戦後」は、すでに日本社会の現実そのものの歴史的表現となり、「もうひとつの日本」を構想する人びとにも身体化されている。「戦後」イメージの土俵のなかで、その「光」の「ほめ殺し」と、その「影」の風化・空洞化をはからなければならない。

 この意味で、日本における「ポスト戦後」は、近代世界システムをのりこえる作業と同じくらい、理論的にも思想的にも、重い課題である。そして本書は、その課題を敢えて引き受けた、エコロジーとエルゴロジーによる21世紀的「のりこえ」の提言なのである。

 最後に、本書のもととなった各論文の初出を挙げて、それぞれの出版社の関係者の方々に、謝意を表しておきたい。

 「プロローグ」は書き下ろしであるが、中内敏夫ほか『企業社会と偏差値』(藤原書店、1994年)に寄稿した拙稿「過労死と過労児のエルゴロジー」の一部を用いた。本書の内容は、この間、一橋大学社会学部、東京大学文学部、茨城大学人文学部などで講義に用いてきたので、またいくつかの市民講座や講演でも繰り返し述べてきたので、そこでの学生や市民の質問・レポートが、とりわけ教育問題に集中していたことを念頭においた。

 第一部には、私の「戦後日本論」に相当する、現状分析と歴史分析の諸論文を収録した。本書と同じ花伝社刊の私の仕事のなかでは、1988年の『ジャパメリカの時代に――現代日本の社会と国家』の延長上にある。

 第1章は、故平田清明教授らとの共著『現代市民社会と企業国家』(御茶の水書房、1994年)に収録された同題の論文に、その後の第17回世界政治学会(1994年8月、ベルリン)で報告した英文論文「The Political Economy of Japanese KAROSHI (Death from Overwork)」(Hitotsubashi Journal of Social Studies, Vol.26,No.2, December 1994)での論点、94年末の労働省による過労死労災認定基準改訂をふまえて、論文末及び注に、若干の加筆を行った。

 第2章は、第1章を踏まえて『エコノミスト』1994年9月13日号に寄せた短文がもとになっている。この小論は、予想外の反響をよび、経済企画庁の余暇開発担当者やNHK生活部の取材を受けることになった。そして、外務省の関連する英文広報雑誌『ルック・ジャパン』1995年2月号に英訳「Workaholism: It's not in the Blood」を掲載するにあたって、外国人読者用に、過労死やサムライの労働時間等のデータを加えて加筆・修正したものを再び日本語に戻し、『エコノミスト』論文とワープロで合成した。

 第3章のオリジナルな表題は、もともと「戦後の国際的枠組みの形成と崩壊」で、『シリーズ 日本近現代史 第4巻 戦後改革と現代社会の形成』(岩波書店、1994年)の巻末論文であったものである。原文をほとんどそのまま収録した。

 第4章は、先に述べた歴史学研究会編『日本同時代史』第五巻「転換期の世界と日本」(青木書店、1991年)の私の執筆担当分「国民意識の変化と『生活保守主義』」を、表題のみを変更して、そのまま収録した。当時私は「エルゴロジー」という言葉を知らなかったが、今日読み直してみると、結果的にそうした視角が孕まれていたと思われるからである。

 第2部には、花伝社刊の『東欧革命と社会主義』(1990年)及び『ソ連崩壊と社会主義』(1992年)の系列に属する、社会主義論とマルクス主義国家論に関わる諸論文を収めた。ただし、表題を改めたり、大幅に加筆・修正したりしている。

 第5章は、原題は「ソ連邦74年の政治的意味」で、ソビエト研究所の『ソビエト研究』第8号(1992年10月)の特集「ソ連74年の総括のために」への寄稿である。その後私は、思いがけず旧ソ連公文書館の秘密文書を入手し、1930年代にソ連で粛清された日本人の軌跡を追う現代史研究に入った。その研究過程の思考の副産物が、加筆・修正されている。

 私の旧ソ連粛清犠牲者研究は、『モスクワで粛清された日本人――30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー――「共産党宣言」から「民衆の地球宣言」へ』(平凡社、1994年)で中間報告がなされているが、本書と同じ頃に、医師川上武との共著『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)が刊行されるはずである。

 国崎定洞は、東大医学部助教授としてワイマール・ドイツ留学中に革命運動に飛び込み、ナチス台頭期にベルリンでアジア人の反戦・反ファッショ活動を組織した。ヒトラーのベルリンから、スターリンのモスクワに亡命して、1937年8月に「日本のスパイ」として粛清・銃殺された。「日本の社会衛生学の先駆者」「流離の革命家」としての国崎定洞については、『人間 国崎定洞』刊行でひとまず研究が完結するが、私が本書で述べたエルゴロジーは、実は、1920年代に国崎定洞が最先端にあった社会衛生学の延長上にある。国崎は「社会衛生学から革命へ」と進んだが、私は逆に、国崎定洞の悲劇的生涯を他山の石とし、その粛清の教訓を思想的糧として、学生運動からスターリン批判へ、ネオ・マルクス主義からポスト・マルクス主義へと進んでいる。

 第6章は、そうした心境をそのまま述べたエッセイで、もともとは、大薮龍介教授らと共に編集した『社会主義像の展相』(世界書院、1993年)に、同じ表題で寄せたものである。ただしこれは、批判的考察の触媒としてとりあげた内田弘教授との公開討論に発展し、『月刊フォーラム』1993年9月号でも同題で論じたため、その誌上討論にそった加筆が行われている。

 第7章は、「現代レギュラシオンと国家」が原題で、田口富久治教授と私の共編著『講座現代の政治学 1 現代政治学の再構成』への私の寄稿である。その内容の一部は、1994年春にソウルの日韓連帯シンポジウムで報告したさい用いたので、そこでの反響を加えて「日本=ポスト・フォード主義」論争に関わる部分が加筆されている。

 第8章は、もともと日本政治学会1992年度研究大会(沖縄)での共通論題「リベラリズムの現在」についての私の報告「現代マルクス主義とリベラリズム」が原型である。それは同題で、政治学の専門雑誌『レヴァイアサン』第13号(1993年秋)に発表されたが、本書では、『レヴァイアサン』収録時に紙数の都合で削除した部分を復元してある。また、政治学会報告でも雑誌掲載でも反響のあった学生意識調査のデータは、1995年夏に新たな経年データがまとまったので、最新の数字に直してある。逆に「ポスト・マルクス主義」の内容的説明は、第[章での論述と重複するので、本書では大幅にカットし、要約にとどめた。

 この「エピローグ」の前半にも、元原稿がある。『月刊フォーラム』1995年新年号特集「戦後50年・私の視座」に寄稿した「したたかな『戦後』」である。

 私は大学で政治学を講じているにもかかわらず、冷戦と「55年体制」崩壊後の日本政治の液状化、政党再編の状況を、直接論じる気にはなれない。どうしても、「戦後」と20世紀の方に、関心がゆく。本書全体にも、そのトーンが貫かれているだろう。「それは政治学者として怠慢である」という批判には、敢えて反論せずにおこう。

 私の理解する日本の政治学の最良の伝統とは、まさに、永田町や霞が関の政争に距離をおき、政治の根底にあるものを見つめつづけ、歴史をラディカルに問い直す思考の流れである。「エルゴロジーの政治学」が、その伝統にそっているかどうかは、読者に判断していただくしかないのであるが。

 私が折々に書いてきた論文を花伝社からまとめるのは、本書で4冊目になる。花伝社社長平田勝さんの独立10周年の記念になるのか、出版社の財産である刊行図書目録の埋め草になるのか、著者としてやや心もとないが、平田社長の営業的心配を無視して、「エルゴロジー」という未だ市民権のない言葉を、敢えて副題にも入れさせていただいた。

 エルゴロジーの根底にあるのが、時間的ゆとりと寛容の精神だとすれば、平田さんは、私にとってエルゴロジカルな、暖かい存在である。ただし、予定より半年遅れてのフロッピー入稿を、あっという間に本に仕上げたのは、日本的せわしさと見るべきか、ウィリアム・モリス的職人芸というべきか。いずれにせよ、私の謝意と祝辞を記しておく。

1995年夏 国分寺にて        著  者



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