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大薮龍介著『マルクス社会主義像の転換』(御茶の水書房、1996年)

 

マルクスのスケール・アップか、ヴァージョン・アップか?

   マルクス主義政治学者として長く国家論・社会主義論を探求され、評者にとっては知的刺激の供給者であり良き理論的ライヴァルである大薮龍介氏が、新著『マルクス社会主義像の転換』(御茶ノ水書房)を上梓された。1989年東欧革命・91年ソ連崩壊を経た日本マルクス主義の流れで言えば、中野徹三氏の『社会主義像の転回』(三一書房)と共に、事態を深刻に受けとめた思想的格闘と知的誠実が感じられ、大変興味深く読めた。

 本書のマルクス再読は、魅力的である。エンゲルスやレーニンではなく、マルクス自身に即して、その過渡期社会論を探求している。レーニン、スターリンを介して「解説」されてきたマルクスとは、異なるイメージを提供している。いや、それだけではない。大薮氏はマルクスのテクストとの格闘のなかで、マルクス自身に潜む問題性を見出しその限界をも明示して、氏自身の社会主義像を提示している。

 大薮氏の前著は、『国家と民主主義――ポスト・マルクスの政治理論』(社会評論社、1992年)と題されていた。評者はそれを歓迎しつつ、欧米ポスト・マルクス主義のラクロウ=ムフやF・ブロックらの議論に比して「その『ポスト』の度合いはなお端緒的」と評した。当時の書評では、なお残る「労働者国家」「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」などの概念に、率直に疑問を提起した。4年後の本書は、大薮氏における「ポスト」のあり方を明示するものとなっている。

 全体は、前編「マルクスの過渡期社会像」と、後編「マルクス、エンゲルスの民主主義論」に分かれる。評者の理解では、後編が(前編補論1と共に)前著『国家と民主主義』の反省的継承としての過渡期政治・国家構想であり、前編で、その苦闘――前著「はしがき」で大薮氏は「マルクスによるマルクス主義の形成に匹敵する一連の思想的・理論的創造の苦闘」を自らに課していた――を経たうえで、田畑稔氏らの問題提起を受容し、「アソシアシオン」論を基軸にした過渡期社会・経済構想を構築した、と読める。その過程で避けて通るわけにいかなかったのが、注で処理された廣松渉氏のエンゲルス主導説や平田清明氏の個体的所有再建論ではなく、補論2で主題的に論じられた岩田昌征氏の議論であったのだろう。本書の配列とは異なるが、後編から簡単に内容を紹介しておこう。

 後編「マルクス、エンゲルスの民主主義論」は、「一 革命的変革理念としての民主主義」「二 1848年革命、民主主義の多岐的分化のなかで」「三 自由民主主義の批判的分析」「四 真の民主主義的共和制を求めて」と構成されている。大薮氏は、通例『共産党宣言』と訳されるマルクス、エンゲルスの共著を『共産主義派宣言』と訳し、彼らの「プロレタリアートを支配階級の地位に高めること、民主主義をたたかいとること」という言説は「ブルジョア階級自身が民主主義を取り入れること、自由主義が民主主義化されて自由主義的民主主義へと転じることをまったく考慮していなかった」段階でのもので、1848年革命とその後の歴史に有効でなかったとみなす。
 1860年代の『資本論』執筆過程で、マルクスは男子普通選挙制の採用など「自由主義の自由民主主義段階への移行」に直面し、「自由、平等、所有」に加えて「ベンサム=功利」をも批判する視座を示唆するが、それはパリ・コミューン国家論として本格的に展開される。ただしそれは、拘束的委任の人民派遣制への着目はあるものの、「人民による直接立法というブルジョア民主主義的達成について、そのブルジョア性を退けようとするあまり、その民主主義性の継受に乏しい」もので、過渡期の全体をプロレタリアート独裁と規定することによって「一時性、臨時性という独裁の本義を曖昧化」してしまった。大薮氏は、同時代のカベー、J・S・ミル、バクーニンらと対比しつつ、マルクス、エンゲルスの「民主主義論は一大弱点であった」と認める。エンゲルスがその弱点を拡大し、レーニンに引き継がれて、ジャコバン独裁型国家が過渡期国家論として20世紀に体系化されることになった、と。

 マルクスの政治・国家構想が歴史的に転換し、その後期の達成すら不十分であったとすれば、その社会経済構想も批判的に吟味されねばならない。前編「マルクスの過渡期社会像」の構成は「一 『宣言』段階における国家集権的偏倚」「二 転換過程」「三 協同組合型社会の構想」「四 協同組合型社会への過渡」「五 後期エンゲルス」「六 レーニンへ」「七 過渡期社会の編成をめぐる若干の問題」である。ここに示唆されているように、1848年革命期の「いっさいの生産用具を国家の手に」という国有化論から、第1インターナショルとパリ・コミューンを経てアソシアシオン原理を基礎にした「資本主義的生産様式から協同組合的生産様式へ」という社会像へ転換した、とされる。ところがエンゲルスには「自由な協同労働」の基軸性の認識がなく、所有形態還元主義から過渡期経済論を国有化中心に体系化し、レーニンにおいて、ドイツ国家独占資本主義のネガ・コピーとしての「一社会一工場」構想に凝縮される。しかもその生産手段を所有する国家は、中央集権的な公安委員会型独裁国家であった、と。
 こうした理論的転換の考証を踏まえて、大薮氏は、マルクスの未来社会像を、@賃金奴隷労働の「自由な協同労働」への転換、A協同組合の自主的経営管理と社会的自治、B共同体でも市民社会でもなく、自由な自律的諸個人が能動的に連帯する協同社会、とまとめあげる。過渡期には協同組合企業を基軸としながらも小商品生産が存続し、生産単位間の商品交換・市場経済も不可避となる。この大薮氏自身の構想する混合経済型過渡期社会は、後期資本主義の「市場中核・計画補完型」、ソ連経済の「計画包括・市場抑圧型」と対比して「計画中核・市場補完型」と規定される。その社会主義・共産主義への発展は、確率論的に段階を追う「スケール・アップ」を必要とする、と。これは、岩田昌征氏がユーゴスラヴィア自主管理連合労働の歴史的経験から導出・構想した第3極「協議経済」「社会計画化」と酷似しているが、ソ連と共にユーゴの先駆的社会的実験も挫折・崩壊した事態をふまえ、大薮氏は岩田氏のトリアーデ・モデルを組み替え「協議的計画メカニズム」として継承しようとしている。

 本書「まえがき」で、大薮氏は「マルクス主義の自己革命」を自負し、タイトルである「マルクス社会主義像の転換」の意味を、@マルクスにおける『共産主義派宣言』段階の国家集権的偏倚から『フランスにおける内乱』期の協同組合型社会の未来像へ、A後期エンゲルスにおける過渡期論の国家集権主義的改編からレーニンの増幅へ、Bマルクス未来社会主義像の歴史的相対化、C過渡期を重視した未来社会像の段階的スケールアップ、と要約した。@Aの理論史的整理は、カウツキー、ベルンシュタイン、ヒルファーディングなどをも視野に入れれば本当にその筋だけであったかに疑問が残るが、前著及び本著でほぼ果たされただろう。女性問題や環境問題にも目配りして、その限界をふまえつつなされるマルクスの思想史的転回の記述は、説得的である。評者も試みたことのある『フランスにおける内乱』の解読から、マルクスは「住民投票までは考えを及ぼしていない」「人民主権については論示していない」などという指摘は、啓発された。
 だが、大薮氏自身の構想を提示するBCについては、なお不満が残った。政治・国家構想については、前著への書評でも指摘したが、派遣代表制の位置づけである。「代表制民主主義を直接民主主義によってすっかり代替することは不可能」であることや地域自治体・中間団体の重視に異議はないが、「代表制」議会を拘束委任の「派遣制」評議会におきかえて人民発案・人民投票など「特定問題についての直接民主制を併設」するという大薮氏の構想は、協同組合型「生産者の自治」ネットワークを基礎にするから、地域的・職能的利害調整の困難を伴うだろう。「派遣委員」の選出母体が判然としないが、地域派遣なら地域内・地域間の対立が、職能派遣なら直接的生産・流通過程での利害対立が、委員選出過程にも議会内にも反映するだろう。ソヴェト型評議会のように階級原理をとれば解決する問題でもない。私なら、デモクラシーの規模に応じて「代表制」にもそれなりの位置を与え、情報公開・権力分立やレミス制度・オンブズマン制度のような補完システムを重視する。「反官僚制的公務員制」による官僚の「公僕」化も、20世紀の行政国家化・巨大国家化をくぐった現段階では、完全な選挙制と解任制、労働者なみ賃金というマルクス風原則のみではすまないだろう。社会的サービスの機能に応じた具体化が必要であり、教育公務員と福祉カウンセラー、警察官や裁判官を同一原則で論じうるかという問題は残る。レーニン型「武装したプロレタリアート」に代えて、大薮氏の世界史的「過渡期国家」は非武装なのか地球防衛軍を持つのか、今日の学生ならすぐに質問してくるだろう。

 また、マルクスの政治構想を多面的に相対化しながらも、大薮氏の経済社会構想の方は、「協同組合企業のネットワーク」が、エンゲルス=レーニン型国有化に代わる一元的万能薬になっている印象を受ける。私的セクター、公的セクターの併存は前提されているが、思想としての「アソシアシオン」原理から「計画中核・市場補完」型経済の具体像への間には、幾重もの論理的媒介がありうる。「アソシアシオン」は生産協同組合という形態でしか実現できないのであろうか? 最新の『ニュー・レフト・レビュー』220号でA・ギャンブル=G・ケリーが論じているように、「国有・公有化か株式会社か協同組合か」という19世紀マルクス段階とはちがって、20世紀世界は「所有」概念そのものの使用・経営・占有・所得・担保・資本等への重畳化・分節化を経験しており、「平等主義的市場経済」の制御メカニズムは、多種多様に想定しうる。
 「計画と市場のミックス」というマクロ・レベルでは、多国籍企業・南北問題の存在をふまえ、過渡期の金融・信用システムを考えなければならない。「協同組合企業の自治的経営」のミクロ・レベルでも、もっとマルクスから自由に構想しなければ、到底経済運営は不可能であろう。例えば、現存世界で最も巨大化した日本の生活協同組合運動から店舗統合や大型デパート化の動きが現れているがそれをどう評価するのか、NGOボランティア組織やエコ・バンク型NPOの経済活動をどうするのか、公私ないし協同組合と私企業との第3セクター方式は考えられないか、協同組合労働者の労働組合はどのような役割を果たすのか――本書の課題は理論的レベルに限定されているとはいえ、大薮氏がマルクス社会主義論の「レーニン主義的な、後進国的な再構成から、西欧マルクス主義の流れを汲んだ、先進国的な新構成への転換の追求」(まえがき)を志しているだけに、不満が残った。

 グラムシやプーランザスが全然登場しないのも、主題を限定した大薮氏の理論的禁欲であろうが、19世紀マルクスの理想を21世紀に再生させるためには、なによりも「短い20世紀の総括」が必要だというのが、評者の見解である。一言で言えば、大薮氏のいうマルクス社会主義像の「スケール・アップ=拡張」では、近未来の世界史における「社会主義の再浮上」は困難ではないか? 大薮氏より早くから「ポスト・マルクス主義」を主張してきた評者としては、19世紀マルクスの言説よりも、「長い19世紀」「短い20世紀」(E・ホブズボーム)の歴史的現実の転回を踏まえた、未来社会像の「ヴァージョン・アップ=改版」こそが必要である、と思われた。

    (季報『唯物論研究』に発表)



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