本書ができあがったちょうどその日、評者は著者と同席する機会があり、本書を贈呈された。ハーバード大学助教授ジュリエット・ショアー女史が来日中で、邦訳されたばかりのショアー著『働きすぎのアメリカ人』(窓社)をめぐるシンポジウムで一緒だったのだが、著者は本書を「一般向けですから」と謙遜(?)していた。読んでみるとなかなかどうして、内容は重厚で、緻密な論理で貫かれている。ちょうどアメリカでベストセラーになったショアー女史の本のように、広くかつ深く読まれるべき問題提起の書である。
全体は、宮沢内閣の経済計画であった『生活大国5か年計画――地球社会との共存をめざして』を「ジェンダー関係」から批判的に検討するという形をとっている。この「ジェンダー関係」と「家父長制」こそが、日本の企業中心社会の「周辺」ではなく「基軸」にあり、年1800労働時間や年収5倍で住宅獲得というつつましい「生活大国の夢」も、「地球社会との共存」も、職場と家庭、さらには地域や政治における「ジェンダー・ギャップ」に政策的メスを入れなければ到底おぼつかないことを、説得的に論証している。
例えば評者なども、「ポスト・フォーディズム」に擬される日本的経営や、過労死を産む長時間労働を問題にするにあたって、どうしても働き盛りの男性正社員に焦点をあて、ジェンダーの問題は「基軸」を支える「周辺」として扱いがちであった。これに対して著者は、マルクスの「労働力の価値」規定にまで遡り、「『一般』として語られる『性別』抜きの『労働者』は、実は、人間の生活に不断についてまわる家事労働の負担を妻に転嫁した男性世帯主、というきわめて『特殊』な存在にすぎない」と明快に言い切る(75頁)。
つまり、『生活大国5か年計画』に限らず、右であれ左であれ、経済学であれ歴史学であれ、日本を論じる者が暗黙に前提している「日本社会の本来のメンバー」とは、実は「健常な青壮年の日本人男性」であることを喝破している(41頁)。この20年のアメリカにおける労働時間の増大(長期的趨勢の逆転)を、性差と家事労働をビルトインして分析し論証したショアーの視点と相通じる。理論的に刺激的な論点が随所に満ち満ちている。
もっともこうした議論だけなら、理論としての「フェミニズム」に親しんできた本誌の読者は、さほど驚かないであろう。本書の真骨頂は、「問題の核心としてのジェンダー」の視点から、政府の公式統計や通説的社会政策論・労働経済論を批判的に解読し、男性中心の日本社会の日常的な言説とイメージを、具体的構造として暴き出すところにある。
例えば小池和男の「知的熟練」論は「女の賃金が低いのは知的熟練がないからだ」という言説と解読され、小池の「年功賃金」論に「人事査定による労働者間競争を前提とした年齢別生活費保障型賃金カーブ」を対置して批判した野村正實説も、「妻子を養う男の生活費にみあう賃金に女をあずからせるということ自体が論外」と問題にされる(63ー68頁)。
パート労働については、女性の「自由な選択」が業種・職種や年齢の制限で事実上なりたたないことを綿密に分析して、「日本の『パート』は労働時間の短さで定義することはむずかしく、結局、事業所での『取り扱い』、つまりいわば『身分』として把握するほかない」という重要な命題(82頁)をひきだす。
「『家庭』を貨幣タームでの収入と消費水準でとらえるかぎりは、『夫は仕事、妻は家事(と仕事)』の性的役割分担、それにもとづく『会社人間化』こそが、家庭にとって最適の、あるいは最もリスクの少ない『戦略』となる」として、「お父さんを家庭に帰す」式の時短論を批判し、日本の平均的家庭生活に「会社人間と内助の妻の『淋しい』共生」の光景を見いだす(120頁)。
評者が最も感心したのは、第3章「企業中心社会の再編――産業構造の変動とジェンダー関係」での第1次石油危機以降の歴史的分析である。「減量経営」やME化によるこの期の産業構造変化は「サービス化・ソフト化」とされ、また女性のパート労働など職場進出(雇用の女性化)が進んだ時期として知られている。同時進行の二つの事実から、評者も女性のサービス産業参入のイメージを持っていた。
しかし著者は、1973ー75年の石油危機直後、75ー84年の安定成長期、85ー87年の円高不況、87ー89年のバブル経済のそれぞれについて、国勢調査や雇用統計の産業別・業種別・年齢階層別・事業所規模別データを緻密に駆使し、75ー84年期の「女性化」では「中高年女性の製造業雇用拡大」が決定的役割をはたしたこと、円高不況局面での第3次産業での若年女性増大、バブル経済期の小売・飲食、電機、衣服、金融保険、医療などでの中高年女性増加を見いだした。
国際比較をも踏まえると、それは「ブルーカラー職業がリードした女性の職域拡大と職業の女性化」であり「モノ作りブルーカラー職種の底辺を中高年女性が支えた」構造である。ジェンダー関係が「周辺」ではなく「基軸」に定位されるゆえんである。
著者は、ベルリン自由大学での講義として本書を準備した。愛用の包丁は日本から持っていったという。第4章での日本の社会保障制度の「家族だのみ」「大企業本位」「男性本位」性の析出と共に、ゾーリンゲンの国でも通用したその切れ味には、脱帽するほかない。要するに本書は、日本のフェミニズムが社会科学たりうることを、明確に示したのである。
(『情況』1993年10月号に発表)