書評のページ


渡辺治編『現代日本社会論』(労働旬報社、1996)

 

「市民社会の企業社会化」か、「企業社会から地球市民社会へ」か

 「戦後史から現在を読む30章」「社会科学への招待」と銘打つこの分厚い本は、第泄煤@戦後日本国家の形成と変容、第部 経済成長と大国化、第。部 企業社会日本の形成、第「部 現代企業社会をこえるもの、にそれぞれの論者の領域別の半世紀の本格的分析がならび、全体として学術論文集としても戦後史事典としても読めるようになっている。

 扱われている問題群は、日本国憲法(渡辺治)、日米安全保障条約(浅井基文)、議会制度と選挙制(五十嵐仁)、地方自治と革新自治体(進藤兵)、違憲審査制(山内敏弘)、天皇制(渡辺治)、自衛隊(水島朝穂)、保守政治(五十嵐仁)、外交(浅井基文)、成長経済(伊藤正直)、日本的経営・企業社会(高橋祐吉)、法人資本主義(奥村宏)、金子勝(福祉国家と新保守主義)、多国籍企業(北田芳治)、中小・下請け(永山利和)、非「市民社会」から「日本型大衆社会」へ(後藤道夫)、基本的人権(森英樹)、教育政策・教育問題(乾彰夫)、子ども(中西新太郎)、都市(進藤兵)、農業・農村(大門正克)、マスコミ(新井直之)、公害と環境(岡田章宏)、戦後思想(後藤道夫)、労働組合運動(木下武男)、平和運動と平和意識(和田進)、女性・女性の運動(木下武男)、教育運動(中西新太郎)、生協と消費者運動(二宮厚美)、革新政党(五十嵐仁)、と多岐に渡る。戦後史の大項目事典としても読めるゆえんである。
 ただし本書は、それぞれの論者が自分の専門領域の戦後史を自分の方法で語ったものであるから、理論的に統一されているわけではない。現代日本社会の総体が網羅的・体系的に扱われているわけでもない。中西新太郎「子ども」論文は抜群に面白いが、老人・高齢者問題がないのは片手落ちだろう。金子勝「福祉国家と新保守主義」の本源的生産要素の市場化限界という問題提起は理論的に興味深いが、他の論文とは論理の位相が異なっている。木下武男「女性・女性の運動」は婦人問題・婦人運動でない点に工夫がみられるが、フェミニズムの議論とはすれちがっている。

 だからここで全章にそれぞれコメントしても、あまり意味はない。評者は前著『国民国家のエルゴロジー』(平凡社)で資本主義の多国籍企業段階における「地球市民主義」を提唱し、近著『現代日本のリズムとストレス』(花伝社)ではポスト・マルクス主義とエルゴロジー(働態学)の方法を論じた。この立場からすれば、いわゆる市民運動・新しい社会運動やNGO・NPO活動の位置づけ、より具体的には阪神大震災ボランティアや薬害エイズを厚生省に認めさせた社会運動の評価が気になる。残念ながら執筆時期もあってか、こうした面は主題的にとりあげられていない。二宮氏の生協・消費者運動のみである。
 この関心で強いて本書からひとつの筋道を見いだそうとすると、それぞれ2本の論文を寄稿した編者渡辺氏、後藤道夫氏、進藤兵氏らの分析に共通する、戦後史認識・現状分析のトーンが問題になる。渡辺氏の所説を中心に要約すれば、おおむね以下のようになる。

 戦後の日本は、天皇制国家の帝国主義侵略戦争の敗北から出発した。GHQの戦後改革は、内部の市民国家派と福祉国家派の国家構想の対立のなかから、市民国家派主導の近代国家確立の線が日本国憲法に具現された。象徴天皇制への転換を含むそれは、アメリカの占領政策の転換や日本の保守勢力内部の前近代的復古派の抵抗でただちには定着できなかった。サンフランシスコ講話・日米安保条約締結後の復古主義的改憲・再軍備路線が、平和・民主主義・市民社会化をかかげた戦後民主主義運動の高揚のなかで挫折し、60年安保以後に自民党をも拘束する規範的力をもつようになった。憲法第九条や市民的自由は定着し、戦後民主主義に担われた近代的な市民社会化・大衆社会化は進行したが、同時にそれが日本経済の高度成長に重なり、日本の市民社会化は特殊に競争的な企業社会化という内実を伴った。民主主義は工場の門前で立ちすくみ、公害など新たな人権問題が頻発した。
 80年代以降は、日本の経済大国化、日本企業の多国籍企業化による新帝国主義の衝動が強まる。東欧・ソ連社会主義と共に東西冷戦体制が崩壊すると、かつての天皇元首化・再軍備型の復古主義的ナショナリズムの改憲論とは異なる、国際貢献や国際的責任の名のもとに、自衛隊海外派兵や国連常任理事国入りをめざした小沢一郎風新保守主義・新帝国主義が台頭している。象徴天皇制さえも、昭和天皇の死と冷戦崩壊が重なって、読売新聞改憲試案にみられるように、国民主権に従属する国際貢献的天皇制へと組み替えられてきている。90年代に入って、市民国家的平和憲法と市民社会化を担ってきた戦後民主主義運動は、市民社会の企業社会化、総評・社会党型労働運動の崩壊で最終的に分解した。いまや総評・社会党・共産党・知識人連合による戦後民主主義連合に代わる、反大国主義・反企業社会の新しい戦略が必要である、と。

 渡辺氏は「はしがきにかえて」で、本書を「新しい戦略」構築のための歴史的検討と位置づけている。本書では触れられていないが、総評が解散するにあたって総評センターがバックになり、山口定氏らが共同研究を重ねて1992年に刊行した報告書は、『市民自立の政治戦略――これからの日本をどう考えるか』(朝日新聞社)と題していた。本書の「新しい戦略」と、山口氏らの「政治戦略=新市民宣言」は、「戦後民主主義」の流れを汲むという点では共通するものの、いくつかの重要な対立点がある。「ポスト・マルクス主義」「エコロジーとエルゴロジーを基礎にした地球市民主義」を唱える評者の立場からすると、この点が興味深い。本書は渡辺・後藤氏の主張で一元化できないし、山口定氏らの書物にもさまざまなニュアンスが含まれているが、ここでは敢えてこの論点にしぼりこむ。

 本書で渡辺氏と後藤氏は日高六郎を引きながら、「近代的市民社会」を「下車駅」と考えた丸山真男らの近代主義者・市民派と「通過駅」と考えた社会主義者・マルクス派のある種の合意・一致点が「戦後民主主義」を支えた、と述べている。だがそれは、日本が現代帝国主義の中心部に入ることによって分解した。後藤「戦後思想」は、1960年代以降近代主義者の内部に高度成長推進の「産業化的近代化論者」のほか「『実体としての市民』主義者(松下圭一ら)」「市民的ラディカル(日高六郎・小田実ら)」「規範的市民主義者(丸山真男ら)」の4分岐が現れ、80年代以降は「新保守主義革命」に「実体としての市民」派がとりこまれ反体制的性格を喪失した、としている。もっとも後藤氏は、90年代に入ってのマルクス派の分岐にも目配りし、「実体としての市民」主義に屈服した体制内化が進む一方(後房雄氏らのこと?)、「近代批判的マルクス主義」も形成された(評者も入る?)とも述べている。市民主義もマルクス主義も、再編されつつあるのである。

 本書は山口氏らの「政治戦略」を直接とりあげていないので定かでないが、本書刊行前の雑誌『トポス』誌上での渡辺・後藤氏の主張などをも参照すると、渡辺・後藤氏が「市民自立」では「新帝国主義」「大衆社会の再収縮」に対抗できないと考えている、と判断してまちがいないだろう。「市民派」は企業社会にとりこまれた都市中間層・大企業サラリーマン層で、日本ではそこから排除された層に依拠しての「新福祉国家戦略」が必要だという認識がみられるから。しかしこれは、理論的・政治的に妥当だろうか?
 評者は「戦略」という軍事用語で政治を語るのを好まない。戦略・戦術ではなく「政策」レベルでのヘゲモニーと連合が重要と考えている。その立場からすると、本書の「新しい戦略」と山口氏らの「政治戦略」を見定めたうえで、その「政策」的合意、連合可能性を探求することが、現実政治での新保守への対抗で重要だと考えている。評者なりに山口定「新市民宣言」を読むと、その「市民・市民社会」の概念は、後藤氏のいう丸山真男的規範性を継承し、強調度のちがいはあれ「企業中心社会」の問題性の認識を共有しており、都市中間層に限定された「市民」像を脱皮しようとしている。冷戦崩壊後の世界の「文明史的転換期」把握、「成長第一主義大連合から自立と共生のための大連合へ」「職場の市民運動としての労働運動を」という山口氏の提言には、当然異論はありうるだろうが。
 渡辺氏は、日本における「市民社会の企業社会化」を語り、後藤氏は、西欧では古典的リベラリズムを基礎にした名望家的市民社会から社会民主主義を基礎にした福祉国家型大衆社会への歩みがみられたのに対し、日本では開発独裁的非市民社会から戦後高度成長で企業主義的大衆社会へと転化し、市場至上主義的新保守主義にからめとられ「大衆社会の再収縮」がおこっている、と述べる。

 いうまでもなく「市民社会」は、論争的な概念である。日本ではヘーゲル、マルクスのドイツ的系譜の影響が強く、burgerliche Gesellshaftをマルクス派はブルジョア社会、近代主義派は市民社会と訳してきた。マルクス派はしばしば階級概念を市民概念に対置し、ブルジョア社会と資本制社会を同一視し、丸山真男・大塚久雄らの理念的・規範的市民主義も平田清明『市民社会と社会主義』も「下車駅」までゆかずに「通過駅」で降りる議論とみなしてきた。渡辺氏の「市民社会の企業社会化」や後藤氏の「近代市民社会から現代大衆社会へ」という規定には、こうした「市民社会=ブルジョア社会=資本制社会」把握の痕跡が色濃い。
 評者は、そのように概念化することによって、理論的には「市民社会」概念のもつ方法論上での潜在的可能性をせばめ、実践的には「企業中心社会から市民社会へ」をめざす山口氏らの潮流との連合の可能性を切り捨ててしまうのではないか、と危惧する。
 本書のなかでも、渡辺氏は占領期GHQ内部に市民国家派と福祉国家派の対立を見いだしたが、同様な内容を進藤兵氏は地方自治構想における自由主義派と福祉国家派の対立として語っている。渡辺氏の指摘している内容から見て、評者は進藤氏の特徴づけの方が妥当だと思う。にもかかわらず渡辺氏が自由国家でなく市民国家とよぶのは、戦後民主主義法学内の市民法・社会法の段階区分を念頭におき、近代主義者への対抗が含意されているのだろう。また、一方で近代化=工業化=都市化=民主化=市民化を所与のものとする「実体としての市民」主義者を批判し、他方で戦後日本のすぐれて現代的な特質に注目せず戦前講座派の延長上でアメリカへの従属・軍国主義復活を繰り返し帝国主義復活論をタブー視してきたある種のマルクス主義にも距離をおく、理論的二正面作戦なのだろう。

 しかし、ヘーゲル=マルクス的に「国家と市民社会」と問題設定し「市民社会=ブルジョア社会」と実体的に狭く解すれば戦後「市民社会の企業社会化」を抽出できないわけではないが――評者はこのような意味では、丸山真男に依拠し「私民社会化」とよんできた――、後藤氏が近代主義者の四類型のなかに「市民的ラディカル」「規範的市民主義者」をも含めているように、日本には市民社会がいまだ実現していないとする規範的市民主義者・永続民主主義革命論者がなお一潮流を成しており、彼らに対しては説得力をもたない。
 ポスト・マルクス主義の立場から地球市民主義を唱える評者の視角からすれば、市民を都市中間層に限定するのも、労働者と市民を対置するのも正しくない。山口氏も示唆するように、生産の場の労働者は同時に生活者・消費者であり、家族の一員で地域住民であり、ナショナルにもグローバルにも「市民」でありうる。そのような市民像・市民権概念が必要とされ、ローカル・グローバルに広まっている。市民社会論を市民・市民権概念と共に組み替えることで、企業社会日本においても、いや企業社会であるからこそ、理論的にも実践的にも意味を持ちうると考えている。

 この点で評者は、かつて近代主義者により市民社会の範型と夢想されたほかならぬ西欧での近年の理論動向が、とりわけ89年東欧革命・91年ソ連崩壊を経て市民社会論を再生していることに注目している。代表的にはコーエン=アラート『市民社会と政治理論』(1994年)であるが、東欧革命にあたって市民革命論、市民社会再生論は隆盛をきわめた。「ブルジョア社会か市民社会か」の訳語問題のもとになったドイツでも、ハーバーマスは名著『公共性の構造転換』(初版1962年)を90年に再版するにあたって敢えて「ビュルガーリッヘ」ではない新語「ツィヴィーレ・ゲゼルシャフト」に言及している。
 マルクス主義の世界でも、マルクスの両義的用法からグラムシの「国家=政治社会+市民社会、強制の鎧をつけたヘゲモニー」を経て、いわゆる土台・上部構造論を「経済社会・市民社会・国家(政治社会)」の3層構造に組み替え社会制度・集団・運動レベルに注目する分析視座が開発され、「政治社会の市民社会の自治への再吸収」を唱える規範的把握も生まれている。ロバート・ダールの「企業の市民的統治」などは、かつての社会主義者の「下車駅」に近接する。というよりも、「下車駅」と思われていた景観の内実が厳しく問われ、「通過駅」とされてきた社会の見所、そこへの路線図・時刻表・車両編成・乗客・運転手・乗車コストが問題なのである

 すでに与えられた紙数はつきた。本書全体の分析の基調である「企業社会」批判には共感するが、渡辺氏らの「新帝国主義」についても評者は異なる考えを持っている。しかしそれは別のかたちで論じることにしよう。むしろ、それぞれに分化した「市民派」と「マルクス派」の建設的対話を復活するためにも、本書が多くの市民に読まれることを望む。

(『賃金と社会保障』誌に発表)



図書館に戻る

ホームページに戻る