労働旬報社『平和憲法と国際貢献』寄稿(1990年頃?)
彼は、過労死や受験戦争など日本社会の弊害を認める。しかし、多能工化など日本的経営システムの世界化は不可避だ、という。彼が「フジツー主義」とか「ポスト・フォード主義」とよぶように、いまや資本主義は、アメリカの繁栄を支えたファード主義的「大量生産大量消費」を超えた、新しい歴史段階に入った。日本資本主義は、その最先端で「少量多品種生産」を可能とするシステムをつくりあげたのだから、このシステムに反対するのは現代のラッダイトで、時代錯誤である。世界の左翼の任務は、すでに提案・小集団制度で「労働者参加」を部分的にしろ組み込んだ日本的システムを学び、より人間的・労働者的に発展させるところにある、という。私は、日本は市民社会や民主主義をミニマムに抑え発展した「ウルトラ・フォード主義」「煮つめられた資本主義」だ、と反論してきた。
だが、論争は、政治システムにも波及してきた。今回は日本の大国化がトピックだった。日本の政治的・軍事的大国化には、マーティンも反対する。だが、まさにこの「理念なき」経済超大国の出現を、彼はポジティヴに評価する。イギリスもアメリカも、経済的に成功すると「世界の警察官」になった。日本は、経済主義に特化し、湾岸戦争もマネーで解決した「よりましな帝国主義だ」というのだ。そこで私は「それは憲法第9条があるからだ」という。しかし彼は納得しない。日本の軽軍備経済大国化は、平和憲法でも日米安保条約でもなく「日本企業の叡智」の産物だという。民衆に「平和の哲学」などなく、PKOへの自衛隊派遣に世論も労働組合も賛成しているではないか、と痛いところを衝く。
財界が政界に「哲学がない」といい、その財界の「哲学」は、証券スキャンダルで泥まみれだ。「顔のみえない経済大国」で、せめて日本の庶民の「哲学」を示さなければ、世界の人々は、ますます日本資本主義にあこがれ、生産性とマネーにからめとられ、市民社会をむしばまれ、権利をうばわれる。平和憲法を守るには、働きすぎ社会からの脱却が必要だ。かつてマルクスの女婿ラファルグが夢見た「怠ける権利」の行使と成長テンポの鈍化こそ、本当の「国際貢献」かもしれない。