学生生活と過労死――現代日本のライフサイクルのなかで最も自由時間があるはずの若者たちに、日本的企業社会の全体的せわしさを端的に象徴する過労死という事象を討論させてできあがったのが、本書である。評者自身も、ここ数年比較政治学の講義で同じ問題を学生たちに話してきたが、大学での社会科学入門の教材に格好の書物である。
本書は、1994年11月23日に大阪府立労働センターで開かれた「過労死問題を考える関西学生フォーラム」の記録をもとにしている。それを「第一部 過労死の現場から」として椿本精工葛城工場班長平岡事件、エース証券営業マン亀井事件、藤田記念病院看護婦吉田事件、読売新聞育英奨学生上村事件の各遺族が事例を紹介し、第二部「激論! 企業社会」「第三部 会場からの発言――私もひとこと」で会場に集った学生・市民が討論するかたちで構成されている。臨場感あふれるドキュメントである。
第一部の遺族の話は、それぞれに胸をうつ。1988ー90年というバブル全盛時の話ではあるが、平岡事件犠牲者の24歳の長男、亀井事件で残された若い妻、22歳で死んだ看護婦の父、18歳で倒れた新聞配達青年の妹という顔ぶれの報告で、会場の学生たちにも他人事ではなかったにちがいない。日本型企業社会の問題を学生たちに伝えるさいに重要なことは、日本的経営の搾取のメカニズムや連合型労働運動の限界を説く前に、それが自分たちがまもなく直面する身近な問題であることを感じとってもらうことであるから、このシナリオは成功している。
第二部の冒頭に、日本生産性本部「働くことの意識調査」の質問項目である「デートの約束があったとき、残業を命じられたらあなたはどうしますか」というアンケートの答えにそって、「デート決行派」と「残業やむなし派」の学生たちが討論する模擬ゼミナールを配したのは、論点を深めていく導入として秀逸である。もっともオーム真理教事件発覚の前に行われたとはいえ、多分に「ああいえば上祐」風ディベート方式が採用されており、特に「残業やむなし派」の演技が見え見えなのは残念である。当世学生気質からして、やむをえなかったのであろうが。
「デートの約束があった時、残業を命じられたら、あなたはどうしますか」という質問に対する、立命館大学現代労働法ゼミが94年11月に実施した213名の回答は、裏表紙に載っている。全体では「デート決行派」28・2%、「残業やむなし派」71・7%とある。特に立命館大調査で、男子学生が「デートをやめて仕事」66・1%対「断ってデート」33・8%に対し、デートの相手たるべき女子が「残業やむなし派」86・7%、「デート決行派」13・2%であることには驚いた。サンプル数は少ないが、雇用機会均等法10年の女子学生の就業意欲の現れであろうか、それともバブル崩壊後の氷河期といわれる女子学生の就職戦線・企業社会参入競争への順応であろうか?
実はこのアンケート項目は、私も一橋大学その他で1984年以来実施している学生意識調査で、93・95年の調査項目に採用している。もともと日本生産性本部が新入社員対象の「働くことの意識調査」で1972年以来聞いているもので、72年「残業やむなし派」69%対「デート決行派」30%、75年71%対29%、80年73%対27%、85年77%対23%、90年69%対31%、93年67%対33%と推移してきたものである。
欧米との比較可能なデータがないため評価は難しいが、私はこれを「日本的企業帰属意識・勤労観」を示す、相対的に時系列変化の少ない項目と解釈してきた。つまり生産性本部調査の他の項目、たとえば「日本社会は資本主義社会といわれていますが、あなたはどういう社会を望みますか」においては、「社会主義体制」という回答が70年7%、73年10%から80年4%、85年2%、90年1%と劇的に減少し、逆に「現体制支持」が70年24%、74年17%から80年37%、85年50%、90年42%と倍増していく。これは日本の青年意識の歴史的変化を示す有意の指標と考え拙著『社会主義と組織原理』(窓社)や『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社)などでも紹介してきたが、「残業かデートか」の項目の推移では有意な変化を見出すことができなかった。そこでこの「企業への忠誠・仕事への執着」意識は、戦後経済復興から今日まで続く日本的経済成長主義・生産力主義の関数、逆にいえば人権意識やゆとり意識の逆関数であると解釈した。だからこそ、これに対する批判は日本的近代・欲望自由主義そのものの再検討でなければと考え、『社会と国家』(岩波書店)、『現代市民社会と企業国家』(平田清明らと共著、御茶の水書房)や「日本人の『勤勉神話』ができるまで」(『エコノミスト』1994年9月13日)の執筆にあたっては、江戸時代までさかのぼって企業社会のエトスとは無縁な時代があったことを論じてきた。
評者が93年・95年に行った全国学生意識調査では、むしろ大学別・地域別の回答差があった。つまり93年調査(総サンプル908名)では、一橋大「残業やむなし派」62%対「デート決行派」38%に対し、三重市立短大73%対27%、名古屋市立女子大57%対43%、松阪大学50%対50%となり、95年調査(総サンプル942名)でも、一橋大55%対45%、大阪大54%対46%、埼玉大53%対48%、工学院大55%対45%に対し、久留米大63%対37%、明治大67%対33%、帯広畜産大69%対31%と、生産性本部調査の新社会人平均と現役学生平均との差よりも、大学・学部・学年間に有意の差がみられた(おおざっぱには、理工系ほど、都会ほど、高学年ほど「残業やむなし派」が多くなる)。
ところが本書の立命館大データは、新社会人平均(93年残業派67%)よりも、私が調査したいずれの大学よりも、「残業やむなし派」が高い比率を示している。それもかつては人権教育・平和教育で有名だった立命館において。私たちの調査には男女別集計はないが、女子短大生は相対的に「デート派」が多いとでていたが、立命館大調査では逆に女子学生に「デート派」が13%と極端に少なかった。
そんな関心で、本書第二・三部のディベイトと討論を読むと、「労働組合は必要か、不要か」というもう一つの論点が重なり、「残業やむなし派」が組合不要派、「デート派」が組合必要派の役割でのパーフォーマンスがおこなわれている。論点は明快になるが、これではきれいすぎるというのが、率直な印象である。
私がプロデューサーなら、ここは徹底的に国際比較にもっていって、そもそも所定内労働時間よりも実労働時間が少ない(つまり休暇を権利として全面取得し残業などほとんどない)北欧諸国の事例や、逆に「日本に学べ」で膨大な過労死予備軍を生み出しつつある中国や南アジアに対する「戦後責任」の観点から、「日本的企業社会」の相対化の道筋を考えたところである。
本書の成立事情からして、これ以上の内容的批評は意味がないだろう。だから評者も、さっそく本書を学生教材に使ってみるつもりである。なんといってもレンタルビデオなみに安価で、コミック本より薄くて、いまどきの学生でも必修文献に指定すればなんとか読み通してくれるだろうから。
そして、第一部の遺族の話を、小学校の教室風に音読する実験講義をしてみたい。「いのちの重み」こそが、阪神大震災にもオーム事件にも通じる過労死問題の原点であり、平凡だが了解可能な人権擁護と企業社会批判の原点であるから。
さらにいえば、現代日本が外国語に翻訳不能な「企業社会」や「会社主義」と特徴づけられ、こどものいじめや自殺がいっこうに後を絶たないのも、「平和と民主主義」を掲げた戦後半世紀の全体が、「いのちの重み」や自然生態系・人間働態系の限界を忘れての「あふれるばかりの富」と消費欲求の歯止めなき開発であったためではないかと考えるから。
(『経済科学通信』に発表)