時事通信「論壇」1997・9・29配信。理論的にいうと、スターリン主義とレーニン主義の継承・断絶関係がポイントなのですが、難しくなるので省略しました。
宮本顕治日本共産党議長が、9月26日まで開かれた同党第21回大会で退任した。野坂参三氏の失脚・死亡で空席だった名誉議長に就いた。88歳のご本人の健康にとっても、最近の選挙で躍進中の共産党にとっても、喜ばしいことだろう。ひとつの時代の終わりである。
宮本氏は、1992年末に百歳を越えて失脚した野坂氏と共に、戦後日本共産党を代表し象徴してきた。野坂氏が「愛される共産党」の象徴で、その役割は不破委員長・志位書記局長へと受け継がれてきたが、宮本氏は「革命組織の共産党」の象徴で、40年近くも強力な最高指導者であった。戦前のスパイ査問事件被告で獄中12年、文芸評論出身とはいえ文学者や芸術家にも厳しい党規律を強いて中野重治や野間宏を党外に追いやった。一時参議院議員だったが国会ではほとんど活躍の場はなかった。どちらかといえば共産党の「暗い」「冷たい」「硬い」イメージの象徴だった。だから、共産党が本気で政権に近づこうとするなら、宮本氏の退任は、遅すぎたとはいえ時機を得たものであり、障害のひとつが除かれたことを意味する。
だが宮本氏は、日本共産党が共産党であり続けることの象徴でもあった。共産党の名は、レーニンに指導されたロシア革命の勝利、それを世界に広めようとした国際共産党=コミンテルン創立(1919年)に由来する。日本共産党もモスクワからコミンテルン支部として認められ、誕生した。その加入条件が、世界の共産党と共に世界革命の一翼を担うことであり、「プロレタリア独裁」を認め社会民主主義と絶縁することであり、非合法の武装蜂起・暴力革命に適した「民主集中制」という組織原則を持つことだった。「プロレタリア独裁」は「執権」に改訳され「細胞」は「支部」になったが、「前衛」「赤旗」「書記局」など今も日本共産党が保持するシンボルは、「インターナショナル」の歌声と共に、この時代の産物である。
戦前は、ほとんどモスクワの指令下に活動した。戦後も一時期まで、ソ連や中国と一体だった。「一枚岩の鉄の規律」「党のうえに個人をおかず」「上級の決定の下級による無条件実行」などの組織原理は受け継がれ、宮本氏の指導のもとでの党建設の土台となった。
宮本氏は、プロレタリア独裁を「執権」と改め、ソ連や中国の共産党と論争して「自主独立」路線を確立したが、それも国際共産主義運動内部の対等平等という範囲内のもので、ルーマニア共産党とはチャウシェスク独裁崩壊まで「同志的関係」を切れなかった。いわば、家父長的親子関係を兄弟関係に置き換えることはできたが、家族の絆は断ちきれなかった。
その家族=国際共産主義運動が劇的に崩壊して8年近くになる。旧ソ連・東欧はいまだに混乱が続いている。欧米・アフリカ大陸のほとんどの共産党は解散するか社会民主主義に転身した。資本主義圏最大だったイタリアの党は民主集中制を放棄し共産党の名を捨てて政権に入った。アジアでも、中国・ベトナムは市場経済に歩み寄り、北朝鮮では権力世襲が行われようとしている。
宮本氏が懸命に築いてきた共産党間外交は、無意味なものになった。アメリカ帝国主義と闘いつつアメリカ市民とどう結びつくか、共産党のない韓国やアジアの国々とどうつきあうのか――冷戦崩壊後の世界でアジアの経済大国の政権をめざす指導部は、かつての共産党型国際主義から離れざるをえない。しかし宮本氏がトップにいる限り、クリントンやブレアと交渉したり、世界のNGO・NPOと一緒に行動することは、想像することさえ難しかった。
宮本氏の退任で、共産党が新時代に移行する条件はできた。だが民主集中制も党名も手つかずである。宮本退任自体、本人から言い出さなければありえなかった。宮本氏には任期制も定年制もなかった。党大会前全く議論のなかった規約改正までして体裁を整えた。いまや世界の旧共産党で当たり前になった大会での活発な路線論議もなかった。宮本時代と同じである。
日本共産党が、社会党の与党化でころがりこんだチャンスを21世紀の政権党へとつなぐには、あまりにもなおコミンテルンの遺産が色濃く残されている。ひとつの時代は終わったが、新時代の到来は未知数である。ましてや政権与党になるには、まだまだ距離がありそうである。