『経済と社会』第12号「共産党宣言」150周年特集(1998年3月)
最近みつかった故丸山真男の講演記録のなかに、こんな一節がある。
日本で最初の政治結社とされる板垣退助らの愛国公党は1874(明治7)年の創設、パリ・コミューン直後である。当時の日本の政治結社には、立志社・愛国社・国会期成同盟会など「社」や「会」が多い。明治14年の政変後に、自由党・立憲改進党・東洋社会党など「党」が現れる。societyが初めて「社会」と訳されたのは1875年『東京日日新聞』紙上の福地源一郎(桜痴)の論説とされるが、当時は営利経済組織もまた「社」「会」「組」を名乗り、company、firmの「会社」の訳は定着していなかった。「悪党」「徒党」の系譜の「党」にも、無論「良い意味がなかった」。
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの150年前の著作、1848年革命前夜の『共産党宣言』の原題は"Manifest der Kommunistischen Partei"である。1872年のドイツ語版以降は"Das Kommunistische Manifest"とも題され出版された。日本では最初の社会主義政党とされる社会民主党創設(1901年)後、最初の邦訳である堺利彦・幸徳秋水の1904年『平民新聞』版(ただし第3章を除く部分訳)を継承して『共産党宣言』と訳され、60種類もが刊行され読まれてきた。それは、世界史的な「共産党の時代」に照応していた。
しかし20世紀末に、その「共産党の時代」は終焉した。1989年東欧革命、91年ソ連崩壊をうけて、『共産主義者宣言』という訳本や「共産主義派宣言」という訳語も現れたが、いっそのことCommunismにつきまとうソ連やポル・ポトの影をも消して「アソシアシオンを求める人々の共生宣言」とでも訳せば、21世紀に再生できるのであろうか?
もともと『共産党宣言』は、マルクス、エンゲルスが当時所属した共産主義者同盟という「公党」以前の党派の政治的言説であった。それは、本質的に「経済的・社会的状態を政治的用語で告発」し、「理論的には政治を経済的用語に翻訳」したものであった(H・アレント『革命について』中央公論社、1975、p.67)。そのようなものとしての『宣言』を、現代世界と日本の文脈において解読してみよう。
最近『共産党宣言』を、大学での講義に使ってみた。私の担当する「比較政治」という科目で「国民国家と地球市民」を論じるさいにである。ただし講義で使ったのは、「労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級に高めること、民主主義をたたかいとることである」や「万国の労働者、団結せよ!」という政治的文脈ではない。「階級および階級対立をもつ古いブルジョア社会の代わりに、各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件であるアソシアシオンが現れる」という地球市民のネットワーク共同体への文脈でもない。現代資本主義論の創造的理論家で、若くして没したスティーヴン・ハイマーにならって、第1章「ブルジョアとプロレタリア」の「ブルジョアジー」を「多国籍企業」に置き換え、読み換えてみた(S・ハイマー『多国籍企業論』岩波書店、1979年、以下、『共産党宣言』の訳文は、原則として、ドイツ語初版初刷からの服部文男訳、新日本文庫、1989年、を用いる)。
講義の仕方は、こうである。まず、「近代国民国家のゆらぎとたそがれ」の文脈で、以下のように、ハイマー風に『宣言』の「ブルジョアジー」を「多国籍企業」に置き換える。
この朗読をもとに、食卓のエビや日本の猫がたべるペットフードはどこからきたかを語り、インドに最近できたマクドナルド・ハンバーガー・ショップや北朝鮮の経済的困難を説明する。そしてそれをイマニュエル・ウォーラーステインの世界システム論と中心・周辺構造につなぎ、冷戦崩壊後も続く地球的格差構造・南北問題の重要性を説く。ハイマーのグローバル・ヴィレジ論を紹介してNGO・NPOやインターネットの発展を述べ、多国籍企業に対抗するグローカルな地球市民の論理を説く。
そうした説明の後に、実はさっき読み上げた文章は、今は評判の良くないマルクス=エンゲルス『共産党宣言』中の「ブルジョアジー」を「多国籍企業」と読み換えたものだ、とタネ明かしする。多くの学生は、納得したようにうなづく。どうやら『共産党宣言』の資本主義経済発展の解明は、いまだに生命力を保っているようである。
だが、この読み換えは「ブルジョアとプロレタリア」の「ブルジョアジー」のみを「多国籍企業」と置き換えたものだ。「プロレタリアート」の方は、どうなるのか? 「労働者階級」と日本語にしても、「人民」「市民」と脱階級化しても、現代風にはしっくりいかない。『宣言』の政治的メッセージをそのまま伝えても、現代日本の学生たちには時代遅れに聞こえる。それは、なぜであろうか?
日本の労働運動が存在感を失って久しい。「中流意識」や「豊かな社会」も旧聞に属する。バブル崩壊後の国民生活は決して楽ではない。しかしそれは「貧困」とはとらえにくい。学生たちはアジアやアフリカの飢餓を知っている。リストラ・単身赴任・過労死で『宣言』の「自分を切り売りしなければならない労働者」「ブルジョア階級の奴隷」を説明できても、「プロレタリアの階級への、したがってまた政党への組織化」「プロレタリアートの内乱が公然の革命となって爆発し、ブルジョアジーを強力によって転覆する」という<大きな物語>へは媒介しにくい。学生たちの眼に映る「階級闘争」とは、工場内部での資本家と労働者のそれであるよりも、むしろ大企業と中小企業の系列・下請構造であったり、正社員とパート・派遣社員の格差であったりする。「抑圧するものと抑圧されるもの」の関係がアメリカと日本の経済摩擦であったり、「日本人」と外国人労働者や男と女の関係にされたりする。「ブルジョアジー」を「多国籍企業」に置き換えたように、「プロレタリアート」をインドの低カースト農民、ユーゴのレイプされた女性たち、フィリピンのこどもたち、先進国に流入した移民・難民・外国人労働者に置き換えることによって、ようやくある種の具体的イメージを獲得する。
なによりも、現代日本の学生たちは、<大きな物語>のラスト・シーンを見ている。「ベルリンの壁」を倒した東欧市民革命、湾岸戦争での多国籍軍の「きれいな」殺人、ソ連崩壊後のロシアの混迷、ユーゴの民族対立と大量虐殺に「階級闘争」がオーバーラップする。その「悪党」イメージの中心に、「共産主義」と「党」がある。
『共産党宣言』第2章末尾に、「もっとも進んだ国々」で革命が達成されたさいの10の政策がでてくる。曰く、
これらの革命的政策は、
という文脈にでてくる。
「ゲヴァルト(Gewalt)」を「暴力」ではなく「強力」と訳し、服部訳の「連合体」を「アソシアシオン」と今風に置き換えたとしても、ここでの「階級闘争」「革命」「プロレタリア権力」イメージの歴史性は、明瞭である。無論、執筆者マルクス=エンゲルス自身が、1872年ドイツ語版序文で、上述10の革命的政策には「特別の重みはおかれはしない」「今日ならば多くの点でちがって書かれる」と明言しているから、これらの一つ一つがその後どれだけ実現され、どれが実現されなかったかと問うのは、あまり意味がない。
むしろ、同じ序文で「『宣言』のなかで展開された一般的な諸原則は、大体においてこんにちでも完全な正しさをたもっている」と語られている点が、150年後の私たちにとっては重要である。20世紀末の『宣言』の問題とは、この「一般的諸原則」の生命力であり、「政治を経済的用語に翻訳」する、その理論的方法である。
「生産手段の国有化」は「支配階級としてのプロレタリアート=労働者権力」の経済運営の管制高地とされている。新自由主義の市場万能論に洗脳されていなくても、国有化万能論の無力は、学生でも熟知している。その目的は「生産力の急速な増大」とある。20世紀の「開発独裁」を想わせる。エコロジーの視点からは当然異論が出る。たとえマルクス『経哲草稿』や『グルントリッセ』に自然と人間との関係についての異なる洞察を見いだしたにしても、政治綱領としての『共産党宣言』の生産力主義・開発主義は否定できない。エンゲルスは1888年英語版序文で、『宣言』の「核心をなす基本的命題」を「ダーウィンの理論が生物学のためにしたことを、歴史のためにすること」と明言した。したがって学生たちは、労働義務制を自明の前提とする社会主義・共産主義像を問題にし、「教育と生産の結合」を『ワイルド・スワン』とオーバーラップして審問する。ここには、ウイリアム・モリス風ユートピアや「怠ける権利」「学校からの自由」が入る余地がない。かつて「友愛党宣言」を発した中西洋氏のいう、「近代への近代主義的批判=究極の近代主義」である(中西『<自由・平等>と<友愛>』ミネルヴァ書房、1994 )。
『共産党宣言』の全体は、冒頭の「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している」から末尾の「万国のプロレタリア、団結せよ!」にいたる華麗な文体と独特のリズムが、個々の命題にこだわらずとも、「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という基本命題を支える構成になっている。しかし今日問われているのは、その基本命題そのものである。それも実は、『宣言』の歴史的で政治的な性格に由来する。以下では、主に第3・第4章と関わる「党」の問題に焦点を当てて、『宣言』の現代的意味を考えてみよう(なお、以下の歴史的叙述の19世紀の部分は、基本的に加藤『社会主義と組織原理 1』窓社、1989年、に依拠したものであり、近刊『マルクス・カテゴリーエン』青木書店、に筆者が寄稿した「政党」の項目と重なることをお断りしておく)。
『宣言』のいう「共産党」とは、次のようなものである。
アジテーションの利いた『宣言』のこうした言説は、今日でもある種の人々を折伏し、魅きつけている。ラテンアメリカやインドのように「階級」の見えるところでは、なおさらである。だが、これは果たして「前衛党」や「プロレタリア統一戦線」の根拠たりうるものであろうか? なによりも、この綱領を持った政党=共産主義者同盟は、どのような意味で「党」であったのだろうか?
20世紀のマルクス主義にとって、大文字定冠詞付きの「党」という観念は、決定的意味をもった。ソ連・東欧など「現存した社会主義国家」で政権を独占する支配政党が「前衛」を名乗る共産党であったのみならず、マルクス主義の学問的・理論的解釈や学校教育の内容までが「パルタイ=党」とその指導者が決定し、左右するものとなった。政党(party)という、本来社会の一部(part)でありながら社会を代表し権力を獲得しようとする矛盾をはらんだ政治組織が、「労働者階級の前衛」と自己規定し、その指導部が「階級利益」を代行して、権力を独占し社会全体を統制したのである。
『共産党宣言』自体には「プロレタリアートの独裁」は出てこないが、1872年ドイツ語版序文では、「労働者階級は、できあいの国家機構を簡単に手に入れて、これを自分自身の目的のために動かすことはできない」という『フランスにおける内乱』の一節が引かれた。さらにエンゲルスが、マルクス没後にパリ・コミューンを「プロレタリア独裁」と同定し(『フランスにおける内乱』1891年版序文、邦訳全集第21巻p.205)、レーニン『国家と革命』がそれをクローズ・アップし増幅した。レーニン率いるボリシェヴィキ党がロシア革命に勝利することによって、20世紀には「共産党・暴力革命・プロレタリア独裁」が三位一体のイメージに構成された(加藤『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年、参照)。
しかし、政党一般についてのマルクスの言説は、体系的に展開されたわけではない。その理論的含意も、必ずしも明確ではない。フランス3部作をはじめとした政治分析においては、政党を階級闘争のなかで、その階級的利害や社会的基盤から分析したことから、盟友エンゲルスは『フランスにおける階級闘争』1895年版序文で、マルクスの唯物論的方法を「政治的対立を、経済的発展によって与えられた現存する階級や階級分派の利害の闘争に還元すること、そして個々の政党を、これらの階級や階級分派の多かれ少なかれ適切な表現として証明すること」と要約した(全集第7巻p.519)。これが、20世紀のロシア型マルクス・レーニン主義で公認理論とされ、コミンテルン=共産主義インターナショナルを通じて世界へと普及した政治と政党の定義=「政治の経済的用語への翻訳」である。
だが、このエンゲルスの政党規定は、「歴史に照らしてみて、われわれもまた誤っていた」「あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代遅れとなった」という自己批判を伴って、「奇襲の時代、無自覚な大衆の先頭にたった自覚した少数者が遂行した革命の時代は過ぎ去った」「ブルジョアジーと政府は、労働者政党の非合法活動よりも合法活動をはるかにおそれ、反乱の結果よりも選挙の結果をはるかに多くおそれる」とする「多数者革命」説を述べた、かの「エンゲルスの政治的遺言」のなかで述べられたことに、留意する必要がある。
なぜならば、レーニンとロシア革命以降20世紀に支配的になったマルクス・レーニン主義の政党論は、ほかならぬ著者の一人であるエンゲルスが「時代遅れ」という1848年革命時の『共産党宣言』の政治的言説のなかに「大衆の先頭にたった自覚した少数者」としての「労働者階級の前衛党」の歴史的源泉・根拠を見出し、それを1895年のエンゲルスの「政党=階級の適切な表現」規定に接ぎ木して、レーニン的「弁証法」を駆使しながら「大衆的前衛党」や「民主集中制」といったマルクスにはなかった概念を創出し、共産主義政党の一党独裁や自由抑圧を正統化してきたからである。
『宣言』執筆時のマルクス=エンゲルスの政党イメージを探るには、『共産党宣言』のテキストから始めるよりも、晩年のマルクスが「僕はすべて個人崇拝が大嫌いだから、インタナショナルの期間中、方々の国々から差し出されたおびただしい顕彰運動を、ただの一度も宣伝の場に入り込ませたことはなかったし、また、時折りお目玉を頂戴した場合以外は、そのことに反応したこともなかった。エンゲルスと僕とがはじめて共産主義者の秘密結社に加入するようになったのは、ひとえに、権威迷信を助長するようなことはいっさい規約から取り除かれるようにという条件のもとにおいてであった」(「ヴィルヘルム・ブロースへの手紙、1877・11・10、全集第34巻p.248)と述べた事情に遡る必要がある。
マルクスの政党体験は、共産主義者同盟に始まる。その綱領的文書として1848年革命の前夜に執筆されたのが『共産党宣言』であるが、共産主義者同盟とは、いかなる意味でブランキ派四季協会風の「陰謀的秘密結社」であり、どの程度に「近代政党=公党」であったのだろうか? この点は、1989年東欧革命前夜に加藤『社会主義と組織原理 1』(窓社、1989年)で詳述したが、マルクスの加盟した共産主義者同盟そのものは、パリ・ロンドン・ブリュッセル等を拠点とした最高時メンバー約500人の亡命ドイツ人中心の政治組織にすぎず、前身である義人同盟(正義者同盟とも訳される)の陰謀的秘密結社の性格を、色濃く残していた。指導部選挙制・リコール制や「除名」手続きは義人同盟1838年規約に明示されたが、加入したメンバーは「裏切り者は死刑」の極限的献身を要請された。だから、マルクスが「権威迷信を助長するようなことはいっさい規約から取り除く」という条件で共産主義者同盟に加盟したといっても、その組織実態は、20世紀の政党イメージとはおよそかけ離れたものであった。
マルクス=エンゲルス『共産党宣言』の原型が、エンゲルス執筆の『共産主義者の信条表明』『共産主義の原理』であったことは、よく知られている。1847年6月の共産主義者同盟創立大会に提出された草案『信条表明』は、当時の秘密結社の教義問答スタイルをそのまま踏襲していた。創立大会規約草案も同様で、5問5答の入党秘儀を残していた。
規約が採択された同年11月の第2回大会に初めて出席したマルクスの組織改編上での貢献は、20世紀に「民主集中制」の原型と評される「大会」制度の導入や「決定への服従」義務の明確化ではなかった。入党儀式の簡素化、「死刑」を廃止し「除名」のほかに再入党可能な「除籍」制度を設けたこと、組織内財政の使途を明確にしたことなど、陰謀的秘密結社の性格を規約のうえで多少なりとも薄めることであった。
そのうえ3ヵ月後には48年革命が勃発し、F・メーリングの巧みな表現を借りれば、「革命が勃発するとともに、共産主義者同盟は、その存在の目的、それとともにその存在そのものをなくした」。つまり党綱領としての『共産党宣言』も、ようやく「裏切り者は死刑」を廃止した規約も、事実上機能しえなかった。革命渦中では「陰謀熱」が再び昂揚し、1848年規約では組織内「死刑」が復活した。結局1850年に、中央委員会多数派となったマルクス派と地区同盟員レベルで多数を占めるシャッパー派に分裂し、党そのものが解体するのであるが、その間のマルクスの同盟=「党」への関わりは、シャッパー派に負けず劣らず陰謀的であり、セクト的であった(詳しくは加藤『社会主義と組織原理 1』、ちなみに同書では、ロバート・オーウェンのニュー・ハーモニーに代表される「友愛的平等」型、ブランキ派四季協会の「陰謀的集権」型との対比で、マルクス=エンゲルス加盟期の共産主義者同盟を、両者の中間の「集権的平等」型と規定した)。
したがって、『共産党宣言』が資本主義の世界史的展開をいかに簡潔に記した記念碑的スケッチであるにしても、マルクス、エンゲルスによってそこにイメージされている群小社会主義・共産主義セクト(共産主義者同盟もその一つ)の実態を捨象して、そのテキストに「前衛党」や「民主集中制」の起源と正統性を求めるのは、非歴史的である。当時はブルジョア政党も貴族的院内集団であったり、名望家の仲良しクラブであったりで、普通選挙権・議会制民主主義・政党政治そのものが未確立なのである(この点、大薮龍介『マルクス社会主義像の転換』御茶の水書房、1996、参照)。
20世紀の政党政治の原型は、19世紀後半の労働者政党の結成・大衆政党化に影響されたものである。ヨーロッパ政治史のなかでは、議会外党組織や地方支部組織をもつ近代政党=「公党」の起源は、19世紀末から帝国議会で躍進したドイツ社会民主党(SPD)である。普通選挙権拡大で大衆的労働者政党が生まれたことに対する、保守政党やキリスト教政党の組織的対応で、今日的な政党システムが形成されたとされる。
カール・マルクスは、その端境期に、共産主義者同盟のような秘密結社型セクトとは異なるもう一つの政党組織にコミットした。個人及び団体加盟の国際労働者協会、いわゆる第1インターナショナルである。この第1インターのパリ・コミューンをくぐった最後のバクーニン派除名の大会(1872年)では、「有産階級の集合権力にたいするたたかいで、プロレタリアートが階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の政党に対立する別個の政党に自己自身を組織する場合だけである」と決議された(「ハーグで開催された一般大会の規約に関する決議」全集第18巻、p.143)。
ここでの「すべての旧来の政党に対立する別個の政党」とは、『共産党宣言』で陰謀結社から脱皮したばかりの「宣伝協会」(エンゲルス「共産主義者同盟の歴史によせて」全集第21巻p.220)ではない。政治闘争一般を否定するバクーニンらに対抗して、「プロレタリア的性格を保障するために、各支部の少なくとも3分の2は賃金労働者で構成」し「労働者の共同行動を組織する」ような政治組織である(全集第18巻pp.146ー148)。パリ・コミューンに前後するヨーロッパ各国労働者政党の本格的形成=「公党」化に照応する。もっともそれは、第一インターの正式名称がInternational Working Men's Associationであったように、人類の半数を占める女性の社会的解放や政治参加に熱心なものではなかった。
晩年のマルクスが、自ら党組織に所属し活動したわけでもないのに敢えて「わが党」と呼び、1883年の死まで期待をかけたのが、祖国ドイツに生まれたナショナルな労働者政党であった。ビスマルク率いるプロイセン主導のドイツ統一と帝国議会に男子普通選挙権が導入された新たな階級闘争の条件のもとで、ラサール派全ドイツ労働者協会とベーベル、リープクネヒトらのアイゼナハ派社会民主労働党が合同してドイツ社会主義労働者党を結成するさいに(1875年)、マルクスがマルクス派と目されていたアイゼナハ派幹部たちに与えた新綱領についての批判的コメントが、有名な「ドイツ労働者党綱領評注」、いわゆる『ゴータ綱領批判』で、20世紀に社会主義・共産主義論のスタンダートとなる。 そこでマルクスは、「私の信念によればまったく唾棄すべき、党を堕落させる綱領を、たとえ外交的沈黙によってにせよ承認しないことは私の義務です。現実の運動の一歩一歩は、1ダースの綱領よりも重要です」(ヴィルヘルム・ブラッケへの手紙、1875・5・5、全集第19巻p.13)と主張したように、党綱領に「プロレタリア的運動の諸条件、経過および一般的諸結果にたいする見通し」の唯物論的・経済学的基礎づけを要求したが、当時の党幹部たちにより秘匿され、無視された。実際に採択された綱領は、ラサール派との妥協の色濃いものであった。リープクネヒトらは、厳密な理論的綱領によるイデオロギー的統一よりも、ビスマルク政権に対する労働者の共同行動と組織拡大を優先したのである。
そして実践的・政治的な意味では、リープクネヒト、ベーベルらの選択は成功する。ゴータ綱領と一緒に採択された新規約は、綱領とは逆に、アイゼナハ派の主張が大幅に反映されていた。それは、指導者を民主的に選出し統制する「党員主権」の党、「契約的分権」型労働者大衆政党であった。ラサール派の組織が議長独裁・指導部独裁によって特徴づけられていた事情もあり、党員の直接投票や情報公開、集団指導・連帯責任、「執行機関の日常的監督」を担当する統制委員会など、共産主義者同盟のような陰謀的秘密セクトとは比較すべくもない、民主主義的で分権的な大衆的労働者政党をうたっていた。実際には1878年社会主義者鎮圧法施行で全国組織が禁止されたため、規約通りの活動は困難であったとはいえ、かえって地方組織が独自に自発性と創意性を発揮して、帝国議会選挙で着実に前進した。後の「公党」としてのドイツ社会民主党の原型である。
だから、ロンドンのエンゲルスは、1880年のベッカー宛手紙で、「現在では組織がますますルーズになればなるほど、それは実際にはますます強固になっています」「昔の党は、これまでのその組織とともに、最後の時がきています」「古いラサール派の伝統からうけつがれた『厳しい組織』は障害となりました」と、「ドイツのわが友人たち」に書き送った(全集第34巻pp.362ー363)。1890年の合法大衆政党SPD発足にあたっては、「党は大きいのだから党内の絶対的な自由は必要なことだ」「帝国最大の党が存続していくからには、あらゆるニュアンスが全面的に発言されなければならない」と党内「批判の自由」を伴う組織のあり方を提言した(ゾルゲ宛1890・8・9手紙、リープクネヒト宛8・10手紙、全集第37巻pp.382ー386)。ベルンシュタイン、カウツキーの「エルフルト綱領」には批判的コメントを寄せたが、同時に党執行部から独立した機関紙編集の必要を説き、「党の節度を超えない範囲で、綱領と戦術をも自由に批判することができるような新聞」を持つ「ゆとり」のある党を提唱した(ベーベル宛手紙、1892・11・19、全集第38巻452ff.)。1895年のエンゲルスの「政治的遺言」は、この組織的経験にもとづいていた。
こうした陰謀的秘密結社から大衆的労働者政党=「公党」へのあり方が逆転し、「公党」以前である共産主義者同盟段階の「少数精鋭の党」「鉄の規律」「世界観的に統一された共産党」が再び脚光を浴びるのは、20世紀に入ってからのことである。ブランキ的・ナロードニキ的秘密結社の伝統を色濃くひきついだロシアのボリシェヴィキが、1917年武装蜂起による革命に勝利し、「労働者の祖国」ソ連邦を建国してからである。
ロシア革命の世界化をめざしたコミンテルン=第3インターナショナルの創立(1919年)によって、『共産党宣言』の正統的継承を含意する「共産党」という党名が、SPDなど第2インターナショナル=社会民主主義との対抗で義務づけられ、「前衛党」という自己規定や「民主集中制」という組織原理が「共産党」の属性とされた。その「鉄の規律」「一枚岩の党」は、各国支部=各国共産党内にとどまらず、各国共産党間の関係にも適用されて、唯一の政権党であるソ連共産党とその指導者による事実上の支配の根拠となった。無論、そこにはSPDなど第2インター系譜の社会民主主義政党の官僚主義化・議会主義政党化――「契約的分権」型から「官僚的集権」型への転化――、第一次世界大戦勃発時の「愛国主義」=参戦支持という歴史的背景があるのだが、SPD左派から分かれたローザ・ルクセンブルクら初期ドイツ共産党の地域・経営組織の自立性をもとにした「連合的分権」の構想も、レーニン的「新しい型の党」=「軍事的集権」型強制の圧力のもとで、萌芽の内につみとられた。1925年の「コミンテルン模範規約」で、世界の共産党は同型のものとなった(詳しくは、加藤『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、1992年)。
実はマルクス=エンゲルス『共産党宣言』の世界的普及も、ソ連国内でのマルクス・レーニン主義の公認理論=国家宗教=国定教科書化、コミンテルンを通じての各国語への翻訳・普及と大いに関係するのだが、その詳細は省略する。このロシア革命=コミンテルン段階で、エンゲルスが一度過去のものとしたプログラム=政治綱領・政党組織規範としての『宣言』が再び息をふきかえし、「階級闘争」「暴力革命」ばかりでなく「プロレタリア独裁」「前衛党」「民主集中制」「鉄の規律」等と一体化したのである(加藤『コミンテルンの世界像』青木書店、1991、など参照)。
その後の過程がいかなるものであったか、それがなにをもたらし、いかに帰結したか、ソ連型共産主義74年の達成が20世紀社会民主主義の福祉国家的達成との比較でいかなるバランス・シートになるかは、敢えて論じるまでもない。『共産党宣言』にひきつけていえば、1989年東欧革命・91年ソ連崩壊後の世界の「共産党」の惨状が、すべてを物語っている。21世紀に『共産党宣言』の伝統を引き継ぐ政治勢力は、劇的に退潮した。多くのかつての「共産党」が、社会民主主義の流れに合流=回帰し、または環境政党・市民運動に変身した。現在ではヨーロッパやアフリカで、ほとんどの「共産党」が解散・解体した。アジアとキューバに残されたいくつかの政権党も、「社会主義市場経済」という名の外資導入型開発独裁の担い手に変身し、あるいは指導者世襲制の疑似君主制国家と一体化した。(詳しくは、インターネット上でのすぐれた「共産党」情報源である<http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/>参照、なお、私のホームページ<http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml>にも関連情報がある)。
いずれにせよ、世界史的に見れば、政治綱領としての『共産党宣言』の生命力は確実に枯渇し終焉した。別言すれば、20世紀のロシア的・レーニン的バイアスから解放されて、19世紀ヨーロッパ政治思想の「古典」としての安住地をようやく得た。
以上の歴史的展開から浮かび上がるのは、マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』で理念的に提起した「実践的にたえず推進する」組織拡大と「理論的に大衆に先んじる」イデオロギー的純粋性との、両立の困難である。それは、20世紀に入って、労働者政党としての階級的性格を保つことと、「公党」=大衆政党として非労働者層の支持も調達しなければ政権につけないという国民政党的性格との矛盾、議会に進出すればするほど党組織と議員団が乖離するという社会運動的性格と議会政党の矛盾、イデオロギー的統一を優先すると党勢が減退し党勢拡大を優先すると組織統一があやうくなる矛盾などとして現れる。マルクスは、このような意味での20世紀の労働者政党、いや近代政党組織一般の抱える問題を、見ることはできなかった。労働者政党が、階級政党であり、世界観政党であり、国際主義の政党でもあるべきだという理念型を提示したに留まる。
そして、20世紀の男女平等普通選挙権拡大=大衆民主制は、晩年のエンゲルスの夢見た楽観論をも大きく超えて、階級対立ばかりか女性解放・環境問題を含むあらゆる社会問題・矛盾を政党がひきうける政党政治を支配的なものにした。そのシステム自体の制度疲労が露わになっている今日、『共産党宣言』から学びうるものはほとんどない。
イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、かつて『共産党宣言』各国語版の普及を重要な指標として、19世紀末から第1次世界大戦の「世紀の転換期」におけるマルクス主義の影響力の拡大・普及を論じたことがある(「マルクス主義の普及――1890ー1905年」『思想』1975・5)。ホブズボームは、ロシア革命の年に生まれ、イギリス共産党に入党し、イギリス・マルクス主義の良心として長く活動してきた。その長老ホブズボームが、ロシア革命の最終的帰結をまのあたりにし、イギリス共産党の解党=「民主主義的左翼」への変身に立ち会ったうえで、新たな「世紀の転換期」への流れを総括したのが『極端の時代――短い20世紀 1917ー91』である(邦訳『20世紀の歴史』上下、三省堂、1996)。
そのなかで、ホブスボームは、こう告白している。「十月革命から生まれた体制の主要で永続的な衝撃は、後進的な農業諸国を近代化するための強力な加速器であった」「世界革命をめざす運動の力は、共産主義的な組織形態、レーニンのいう『新しい型の党』にあった。それは20世紀の社会工学に生じた恐るべき革新であり、中世のキリスト教修道院やその他の宗教組織の発明にも匹敵するものだった」「短い20世紀は宗教戦争の時代であった。そこでの神になったものは、抽象的理論か、さもなければ崇拝され神格化された政治家であった」。そして、「今日では共産主義の名でおこった現実の革命は、すでに力が尽きている」「もしマルクスが主要な思想家として生き続けるとすれば、1890年代以降に政治行動の理論や社会主義運動の願望として定式化されたかたちでのマルクス主義は、そのオリジナルな形では生き残ることはないであろう。」
ただしホブズボームは、こうつけ加えるのも忘れなかった。「次の千年が迫りつつある時、時代の中心的な課題は、ソヴェト共産主義の屍について満足げに論評することではなく、資本主義の構造的欠陥について再び考えることである」と。
この限りで、19世紀資本主義分析の歴史的古典としての『共産党宣言』は、生き続けるであろう。しかし、故丸山真男が「基底体制還元主義」とよんだ「政治を経済的用語に翻訳する」方法の限界は歴史的に露呈し、その政治綱領・政党組織規範としての活力は枯渇したのである。マルクスが「死刑廃止」でブランキ型陰謀秘密結社を超えようとしたように、「イデオロギー的に統一された労働者階級の前衛党」という大文字定冠詞つきの政党観から脱皮することこそ、言葉の根源的な意味で、マルクス的なのかもしれない。
Der Bund der Kommunisten, Dokumente und Materialien, 3 Bde., Berlin(O), 1970-84.
加藤哲郎『社会主義と組織原理 1』窓社、1989年
同『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年
同『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年
同『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、1992年
同『現代日本のリズムとストレス』花伝社、1996年
良知力『マルクスと批判者群像』平凡社、1971年
F・メーリング『ドイツ社会民主主義史』上下、ミネルヴァ書房、1968年
E・ホブズボーム『20世紀の歴史』上下、三省堂、1996年