これは、季刊『窓』誌第19号(窓社、1994年春)に発表した小林峻一・加藤昭『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社、1993年)の書評のかたちでの、私の旧ソ連日本人粛清研究の第1弾である。両著者から「国崎定洞ファイル」を入手したことが、その後の長い謎解きの旅の始まりとなった。この調査を手がかりに、約10倍に膨らませて本格的に論じたのが、同年出版した『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)である。


歴史における善意と粛清

――国崎定洞の非業の死からみた『闇の男――野坂参三の百年』の読み方

 

    加藤 哲郎(一橋大学・政治学)    


ヒズ・ストーリーから人間の劇へ

 K・マルクスの愛した標語「すべてを疑え」の精神で、これまでの文字で書かれた歴史=ヒストリー(history)は男たちの歴史=ヒズ・ストーリー(hisーstory)であった、と喝破したのは、フェミニストの歴史学であった。ヒストリーには男性中心の価値観がインデクスとしてはめ込まれており、それを規準にした現実の暗黙の絶対化がなされている、もっと文書に残らぬ日常世界に目を向けて、諸個人の生きた現実と生活に即した女たちの歴史(herーstory)が書かれなければならない、というのである(J・W・スコット『ジェンダーと歴史学』平凡社、1992年、38頁以下参照)。

 かつて平野謙は、1933年末の日本共産党中央委員宮本顕治・袴田里見らによる大泉謙蔵・小畑達夫に対するいわゆるスパイ査問致死事件をとりあげ、そこでの大泉のハウスキーパー熊沢光子の自殺にスポットを当てることによって、「政治の劇」を「人間の劇」に組み替える視角を提起した(『「リンチ共産党事件」の思い出』三一書房、1976年、95頁)。ここでとりあげる小林峻一・加藤昭著『闇の男――野坂参三の百年』(文藝春秋社刊、1993年)は、戦前・戦後の日本の共産主義運動を象徴した人物である野坂参三の1930年代の活動を、これまでの公式歴史学で扱われてきた姿とは、全く違った形で描きだす。野坂に「売られた」山本懸蔵の妻関マツの不遇な晩年にも、一章がさかれる。「32年テーゼ」や反ファシズム統一戦線はほとんど扱わず、野坂の実際の活動と共産党員としての人間関係に焦点をしぼる。いわばherーstoryの世界に属する「人間の劇」にスポットをあてながら、同時にそれが「政治の劇」に転化していく悲劇をも、モスクワの旧ソ連邦公文書館から発掘した史資料を用いて、意外に淡々と記述している。

 その頂点は、野坂参三が、同じ在モスクワ日本共産党代表として「同志」であり「刎頚の友」であったはずの山本懸蔵を、コミンテルン(共産主義インターナショナル)指導部とソ連秘密警察(NKVD)にスパイ容疑で「密告」した事実の論証である。野坂と山本は、1936年2月に岡野・田中の名で、天皇制ファシズムに反対する統一戦線を論じた『日本の共産主義者への手紙』を連名で出した。それが日本国内では『世界文化』事件や人民戦線事件として権力の弾圧を招くようになった時期に、モスクワでは野坂が山本をスターリン粛清機構にひそかに売り渡し、37年11月2日の山本の逮捕、39年3月10日の銃殺刑に導いた。しかも野坂は、その事実を半世紀以上も隠し続け、ソ連共産党にひそかに連絡して山本の死亡年を偽り、山本の妻関マツの日本帰国を意識的に妨害してまで「愛される共産党」のシンボルとしての自己の地位を守り続けようとした、というのである。

 そこで明らかにされた諸事実は、今日の日本共産党員のみならず、共産主義運動と多少とも関わった経験のある(おそらく百万人以上の)人々に対しても、厳しい自己点検と内省を迫るものであろう。野坂参三は、日本共産党の創立期メンバーとして一世紀を生き続け、1993年11月14日に亡くなった。野坂は、戦前日本共産党=コミンテルン日本支部からモスクワのコミンテルン本部に派遣され、片山潜の没後はコミンテルン幹部会員となった最高指導者であった。戦後の日本共産党指導部の押しもおされぬ代表・最高幹部・国会議員であり、没する1年前まで名誉議長であった。その彼が、「同志を密告」し、死に追いやり、しかも「日本共産党と社会主義のために」沈黙しつづけたという重い現実を、どのように受けとめるべきなのか? 綱領・テーゼの変遷や天皇制権力との闘争というhisーstory(例えば村田陽一編訳『コミンテルンと日本』全3巻、大月書店、1986ー88年)では明らかにできなかったウラの世界が、ソ連崩壊という思わざる歴史の展開で、オモテに現れた。これらはハウスキーパーの問題と共に、もう一度論じられなければならない。男たちの英雄伝説で彩られてきた70年についても、herーstoryが書かれなければならない。それは、かつて丸山真男が提起した「共産党の戦争責任」にも連なる(「戦争責任論の盲点」『戦中と戦後の間』みすず書房、1976年、601頁以下)。

密告者として除名された野坂参三の寂しい死

 本書『闇の男』は、もともと『週刊文春』誌上で1992年9ー11月に連載されたドキュメントをベースにしている。それが92年12月27日の日本共産党による野坂参三除名のきっかけとなったことは、よく知られている。もっとも「野坂問題」については、不破哲三『日本共産党への干渉と内通の記録』上下巻(新日本出版社、1993年)のような日本共産党側の独自の調査による見解も発表されているから、政治的には決着済みであるとして、敢えて読もうとしない本誌の読者もいるかもしれない。しかしそれは、大文字単数形の「ザ・ヒストリー」を未だに信じている宗派のなかでのみ通用する話である。

 実は不破の分析は、もっぱら戦後の日ソ両共産党間の「内通」関係をたどり、問題の起源である戦前の党史には、ほとんどふれていない。もともと戦前の日本共産党はコミンテルン日本支部であり、スターリン粛清は自党の「党内問題」だったはずだが、不破の視角からすると、あたかも戦前もソ連共産党が加害者、日本共産党が被害者に見えてくる。

 また、不破の本は、『闇の男』のように典拠とした資料を全文公開するかたちをとっていない。日本共産党は、旧ソ連公文書館秘密文書について「ソ連側の関係者らは、秘密が明るみに出ないことに安心しきって行動し、あけすけに書いており、その内容は信憑性があります」(1993年8月26日付『赤旗』)とその資料的価値を認めているが、例えば『闇の男』で巻末資料2として全文翻訳されている山本の妻関マツの63年3月21日付けソ連赤十字社での面談記録(222頁以下)は、不破の本では、自分の論旨に都合のいい一部が引用されているだけである(下巻272頁以下)。これに対して、『闇の男』は、『週刊文春』連載時以降の探求の成果も豊富に盛り込み、モスクワの公文書館から半世紀ぶりに世に出た日本人粛清関係基礎資料を全文訳載して研究者にも公開することによって、独自の価値をもつドキュメントになっている。

 本書のハイライトである野坂による山本懸蔵の「密告」については、決定的証拠となった1938年2月19日付けディミトロフ宛手紙(巻末資料1)がそのまま英文から翻訳されており、多言を要しない。著者たちは、野坂が挙げた山本への9つの嫌疑を、野坂の自伝『風雪のあゆみ』全8巻(新日本出版社)などと比較考証し、それぞれの根拠を問い直している。そして、野坂が1931年3月の日本脱出・入ソ時からソ連秘密警察(GPU、34年7月からNKVD)のエージェントではなかったかという疑惑を提起し、立花隆を加えた著者らの座談会では、野坂が日本の特高警察、ソ連の秘密警察(ないし赤軍)、アメリカ占領軍(ないしCIA)などの多重スパイとして活動してきたのではないか、さらにはゾルゲ事件にも関わるのではないかと、それなりの根拠をもって論じている。ここでの野坂は、まさに「汚れた英雄」であり、「闇の男」である。

 研究史上における本書の画期的意義は、スターリン粛清による日本人犠牲者を新たに発掘し、それがこれまで知られていた数倍の規模であることを示し、その経緯の概要を明らかにした点にある。山本懸蔵以外の日本人犠牲者の名は、これまで医師川上武や私が発掘してきた国崎定洞、それに1938年正月に樺太から国境を越えた杉本良吉・岡田嘉子の「恋の越境」のケース以外は、ほとんど知られていなかった。それが、フジテレビによる沖縄出身アメリカ共産党員の行方探求・放映(特に沖縄テレビ製作「粛清された沖縄県人」1993年1月12日)、本書の著者ら文藝春秋取材班による資料発掘によって、一挙に20名以上の粛清犠牲者が明らかになり、岡田のほか永井二一や寺島儀蔵のような生存者の証言も得られるようになった(升本喜年『女優・岡田嘉子』文藝春秋社、1993年、永井証言は『闇の男』第3章、寺島の回想は『長い旅の記録』日本経済新聞社、1993年)。

 1936年2月当時のソ連在住日本人共産主義者は、本書138頁のコミンテルン日本問題委員会報告では、日本共産党員7人、アメリカ共産党員とドイツ共産党員を合わせて13人の計20人、非党員の政治亡命者14人を加えると計34人である。当時の日本側官憲資料では、34年9月段階で38人(「在露邦人共産主義者調」『社会運動の状況 昭和10年・共産主義運動』)、36年12月現在ではミニマム32人(「在露中の日本人共産主義者一覧表」、内務省警保局『極秘外事警察概況』昭和12年)、マクシマム78人(「日本共産党関係入露者調」『思想月報』第33号、昭和12年3月)とされるが、そのほとんどが粛清の犠牲者であろうことが、本書により明らかになった。

 逆にいえば、生き残った野坂参三こそ例外だった。本書によれば、野坂の妻竜も逮捕・拘禁され、野坂自身も確実に粛清対象者に入っていた(但し野坂竜の拘禁は『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、526頁のいう6か月ではなく52日間、本書136・161頁)。生き残る道は、自らがNKVDの手先になることだった。それがコミンテルン日本支部=日本共産党の戦後への細い架け橋だった(いまひとつの架け橋が、国内獄中)。こうして生き残った野坂が、戦後の「愛される共産党」を体現した。そして、天寿を全うする直前にソ連が崩壊し、永遠の薮の中と思われた関係書類がオモテに現れて、どんでん返しの暗転への引金になった。

野坂参三と山本懸蔵の対立の起源としての国崎定洞問題

 山本以下20名以上の粛清犠牲者は、沈黙の闇のなかから名誉だけが回復された。私は、この「粛清」「名誉回復」という共産主義運動のターミノロジーに、深い違和感を持つ。実は、私自身が、本書140頁にも登場する元東京帝国大学医学部助教授でドイツ共産党員であった国崎定洞の生涯と粛清に学生時代から関心を持ち、1972ー73年にドイツで国崎らの組織した在独革命的アジア人協会関係資料を発掘し、日本で75年に名誉回復を確認した運動にたずさわってきた。満州事変勃発後のコミンテルン機関紙『インプレコール』に頻繁に登場する「ヨベ」を国崎と推定して、これをコミンテルン東洋部のマジャールと推定する村田陽一の批判を受けてきた(川上武・加藤哲郎・松井坦編『社会衛生学から革命へ』勁草書房、1977年、195頁以下、村田『コミンテルンと日本』第2巻、506・511頁)。本書『闇の男』の出現によって、「ヨベ」問題は確定できなかったが、国崎定洞の生涯と死についても、これまでとは別の角度から考え直さなければならなくなった。

 『闇の男』の焦点である野坂(岡野)・山本(田中)関係において、野坂は1939年のディミトロフ宛手紙で山本の9つの疑惑をあげ(本書巻末資料1)、山本の妻関マツは、38年11月26日付け国際統制委員会での供述書で、すでに逮捕されたコン(国崎定洞)と野坂夫妻の関係、日本に帰国・転向したカワタ(細木)とのつながり、それに31年病気保釈中の野坂の入ソの疑惑などをあげて、野坂を告発している(資料3)。事実関係の疑惑で、両者の告発の交錯する点は、実はただひとつ、1928年3・15事件での山本の行動のみである。野坂はこれを29年(?)にベルリンから片山潜に届いた「彼に不利な噂」(219頁)から述べ、関マツは2人の対立の発端は28年の山本を「疑わしい人物」とするコン(国崎)の片山宛手紙であったと、それを承知している(228頁)。「関マツの除名決定書」(資料4)を読むと、野坂のあげた9つの疑惑のうち実際に山本の容疑として採用されたものは、やはり3・15事件時の逃亡・入ソの件のみである(234頁)。

 この関係の重要性について、著者たちは、本文では詳しく述べていない。ただし、巻末資料に、1935年2月9日付け国崎定洞に関するコミンテルンからNKVDへの報告書(資料5)と、1959年10月29日付け「国崎定洞の名誉回復決定書」(資料6)を収録することで、読者に問題の所在を暗示している。私の関心は、ここから出発する。

 国崎定洞の足跡を追求してきた私や川上武にとって、実は、この二つの資料は、晴天の霹靂であった。スターリン粛清の日本人犠牲者のなかで、比較的早くからその解明が進んできた国崎定洞研究にとっても、1932年9月ソ連亡命後の国崎については、アレクサンダー・コンというソ連名や、外国語労働者出版所で働いていたこと、スペイン義勇軍に志願したこと、37年8月4日に突然逮捕されたことなど、主として1974年に鈴木東民が西ベルリンで存命中のフリーダ・レートリヒ夫人を奇跡的に探し出し、その証言によって明らかになった断片を除いては、ほとんど闇のままであった(川上武『流離の革命家――国崎定洞の生涯』勁草書房、1976年、前掲『社会衛生学から革命へ』、加藤「国崎定洞論」労働運動史研究会編『日本の統一戦線運動』労働旬報社、1976年)。

 本書にさりげなく収録されている「名誉回復決定書」は、実は、1937年8月4日の逮捕後、国崎定洞の生死もわからぬままナチス・ドイツに強制送還された故フリーダ夫人、遺児タツコが、戦後ベルリンで探し求めてやまなかったものであった。1959年にモスクワで名誉回復されたさいも、なぜかこの決定はフリーダ夫人に知らされず、フリーダ夫人は、当時の在ベルリン・ソ連大使館から国崎定洞が死んだという事実のみを口頭で伝えられた。1975年に、私が事務局を勤めていた国崎定洞をしのぶ会などが日本共産党に働きかけ、日本共産党がソ連共産党に公式に問い合わせて59年10月の名誉回復の事実が確認されたさいにも、新たにわかったのは「1937年12月10日の獄死」の事実であり、その粛清の根拠や名誉回復の経過は闇につつまれたままだった。

 1992年に、ソ連解体を受けて、日本共産党がロシア政府に問い合わせた結果は、山本懸蔵・国崎定洞・杉本良吉の「銃殺」と「名誉回復」の年月日、山本・杉本の埋葬地(国崎は不明)を明らかにしたが、それぞれの粛清の具体的嫌疑・経緯は、不明のままだった(『赤旗』1992年5月19日)。本書の著者たちは、このうち山本の死亡年月日1939年3月10日と、かつて日本共産党が発表し定説となっていた42年4月病死説の矛盾をつき、モスクワの旧ソ連各種公文書館で日本共産党員関係のファイルを探索し、この3人以外の多くの犠牲者名を発掘して、ついに野坂の自筆密告文書と野坂による山本死亡年改ざん工作の証拠にたどりついた。いいかえればモスクワ公文書館史資料は、粛清研究に全く新しい光をあてることになった。この研究史上の功績は、たとえ本書の商業主義的動機や資料公開の不十分性に異論がありうるにしても、どんなに強調しても強調しすぎることはない。

 現に日本共産党も、文春取材班を後追いして調査団を派遣し、いくつかのファイルを新たに見いだして、不破『日本共産党への干渉と内通の記録』に盛りこんだ。だが不破の本では、なぜか戦前の問題は、野坂の山本密告手紙の断罪以上のことは書かれていない。その代わり、一方で久しく予告されていた公式党史『日本共産党の70年』の発表が延期され、他方で「ザ・ヒストリー」がさりげなく修正された。

スパイと内通者のあいだで

 1992年11月に改訂された『戦前日本共産党幹部著作集・山本懸蔵集』(新日本出版社、1992年)では、それまでの野坂による解説文がはずされ、日本共産党常任幹部会委員小林栄3が、「不幸かつ遺憾なことに、……山本懸蔵と一緒に活動した野坂参3が、山本を根拠なく告発する手紙をコミンテルン書記長ディミトロフあてに2度にわたって出していた事実が、1992年8月末あきらかになった。これが同志を裏切る行為であることは明白であり、日本共産党は、同年9月の第7回中央委員会総会(第19回党大会)で、野坂を名誉議長から解任した。山本懸蔵が、日本の支配勢力のスパイでもなく、ソ連にたいする反逆者でもなかったことは、明白である。山本が公判などで自己の無実を主張したにもかかわらず、まったくでたらめの裁判で『有罪』とされ、極刑を宣告され、執行されたことは、ほとんど疑う余地はない」と新たに解説した。

 日本共産党はまた、「手紙」発覚直後の『赤旗』92年9月25日付け小林栄三論文では、立花隆の野坂スパイ説を「妄想」として退けていたが、その後の調査で戦後のソ連共産党の野坂を通じた日本共産党への資金援助問題までが明らかになると、不破の本のように「内通者」という日本語を見つけて、それを用いるようになった。しかし、「スパイ」と「内通者」とは、どうちがうのだろうか? 野坂・山本問題の「事実」は、小林がいうほど「明白」なのだろうか? 山本が「日本の支配勢力のスパイでもなく、ソ連にたいする反逆者でもなかった」ことは、野坂の場合のように「同志の密告者」や「ソ連の内通者」であることと、両立しえないのであろうか?

 私は、自分の専門領域のひとつであるコミンテルン史研究(加藤『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年)の立場からも、個人的にすすめてきた国崎定洞の生涯を探求する立場からも、不破のいう「干渉と内通」の歴史的生成過程に関心をもった。また、国崎定洞に関する貴重な資料が明るみになった以上、それをベルリンで存命中の遺児タツコ・レートリヒさんに届けるのが義務であると感じた。

 そこで『闇の男』の著者たちに、公刊された国崎関係の資料のロシア語原文コピーを見せてほしいと申し出たところ、著者の一人である小林峻一氏から「国崎定洞ファイル」のコピーの提供を受け、「名誉回復決定書」と共に、それをタツコさんに送ることができた。

 以下では、この「国崎ファイル」にそって、私なりに本書の主題である野坂・山本問題に迫り、あわせて「もうひとつの粛清」としての国崎定洞のケースを検証してみたい。

『闇の男』で明らかにされた国崎定洞に関する新事実

 1930年代コミンテルン日本支部=日本共産党のモスクワでの活動については、従来、「1932年テーゼ」などコミンテルン機関紙誌上での日本に関する報道・決議、『国際通信』など主としてアメリカ経由で日本に流入した宣伝文書、幹部会員であった片山潜・野坂参三の回想・評伝、クートベ出身者などソ連からの帰国者の回想、逮捕された帰国共産主義者の供述書(日本側官憲資料)、それに他国のコミンテルン関係者の言及などによる再構成の道しかなかった。本書の刊行によって、ここに新たにコミンテルン本部・東洋部、旧ソ連国家・共産党・赤軍・秘密警察などの30万点以上にのぼる(190頁)といわれる日本関係史資料が加わった。ここで用いる「国崎ファイル」は、本書の著者たちが収集したモスクワ日本関係史資料のほんの一部にすぎないものではあるが、その内容は、これまでの川上武や私の国崎定洞研究にも、重要な新事実を付加するものであった。

 国崎定洞について、本書『闇の男』は、「国崎ファイル」の一部である先述2資料などを公表した。これによって、従来知られていなかった、次の諸点が明らかにされた。

 第1に、なぜか「国崎ファイル」に入っていた資料3の関マツ供述書から、1932年9月にナチの台頭するベルリンからモスクワに亡命してきた国崎定洞をクートベ(東洋勤労者共産主義大学)に入学させるか否かについて、野坂参三と山本懸蔵の間で対立があったことが推定できる(山本は国崎受け入れに反対したが、片山潜と野坂が入学させた)。その背景には、野坂が、28年3・15事件のさいに山本が「奇跡的に」逮捕をまねがれソ連に渡ったことに不信を抱いていたことがあった。しかもその疑いの根拠は「ベルリンの日本人共産主義者グループを経て、1929年? には同志片山のもとに届いた」「彼(山本)に不利なある噂」であった。また山本夫妻の方は、その噂の出所をベルリンの国崎が片山に手紙を書いて伝えたからだと思い込み、逆に国崎を早くから「大物スパイ」と疑っていた。つまり、野坂と山本の不信と対立の遠因に、1928ー29年の国崎定洞及び在独日本人反帝グループと片山潜との交流、国崎のソ連亡命・クートベ入学問題があった。

 第2に、資料5の秘密警察(NKVD)文書から、1932年9月に入ソし、モスクワでクートベに入学し、クートベやナリマノフ東洋学研究所の講師を勤めながら34年7月から外国語労働者出版所日本課長として働いていた国崎は、すでにコミンテルン第7回大会前の35年初め(キーロフ暗殺直後)にはソ連の秘密警察NKVDに疑われて、「日本共産党の活動にとっても危険」な要監視人物となった(235頁以下)。その交友関係がひそかに調査され、特にベルリン時代からつながる小林陽之助、外国語労働者出版所の同僚である野坂夫人竜、伊藤政之助(東洋学研究所での国崎の教え子)らの身辺も疑われ調査された(外国語労働者出版所には、片山潜の娘安子や土方与志夫人梅子も働いていた)。

 第3に、資料6の「名誉回復決定書」によると、国崎がスターリン粛清最盛期の1937年8月4日に逮捕され、12月10日に銃殺刑に処された公式の直接的理由は、なんと1924年(国崎の東京帝大医学部衛生学講座助教授任官時)から日本の陸軍参謀本部諜報部「タケダ」のスパイであったということであり、その証拠とされたのは、タケウチ=伊藤政之助とA・S・ビリッチの別件での自白証言であった。ユク、パク、ニュー、ツォイというアメリカから入ソした、東洋学研究所で国崎の教え子である沖縄出身日本人共産主義者たち(島袋正栄、宮城與三郎、照屋忠盛、又吉淳)は「大物スパイ」国崎一派として翌38年に逮捕され、自白を強要されたうえ処刑された(照屋のみ行方不明、143頁)。そして、1959年7月にようやくKGB犯罪調査局で再調査が開始され、10月29日付けで国崎の無実が公式に認められて、ソ連最高裁判所軍事法廷で名誉回復が決定された。

 山本懸蔵の妻関マツの場合は、1956年の名誉回復に伴い山本の名誉回復書類を受け取ったというが(本書274頁)、かつて国崎定洞夫人故フリーダ・レートリヒさん(1980年病没)は、在ベルリン・ソ連大使館から国崎がすでに死んだことのみを口頭で伝えられた。1975年夏に、37年12月10日の「獄死」――当時は「銃殺」とはされていなかった――と59年の名誉回復の事実がわかったさいも、正規の書類は誰も見たわけではなかった。だから、このドキュメント(本書巻末資料6)は、フリーダ夫人、遺児タツコさんはもとより、戦後も長く国崎定洞のことを考え安否をきずかってきた日本の多くの友人たち――有沢広巳、蝋山政道、土屋喬雄、谷口吉彦、舟橋諄一、山本勝市、堀江邑一、平野義太郎、高野岩三郎、菊地勇夫、蜷川虎三、山田勝次郎、千田是也、勝本清一郎、佐野碩、土方与志、鈴木東民、三枝博音、服部英太郎、三宅鹿之助、藤森成吉、島崎蓊助、山西英一、嬉野満州雄、野村平爾、喜多村浩、小栗喬太郎、八木誠三、小林義雄、安達鶴太郎、小宮義孝、曽田長宗、勝木新次ら――が捜し求めてきた、当の文書そのものなのである。

山本懸蔵のコテリニコフとの会談記録

 「国崎ファイル」は、約20点のロシア語・ドイツ語・日本語資料から成る。そのなかには、裁判記録はなかったものの、『闇の男』に公表された資料3・資料5・資料6のほかに、本書では用いられず、従って未発表のドキュメントが入っている。多くは「極秘」と記されたこれら未発表資料を読むと、さらにいくつかの疑問が涌いてきた。

 私の結論を先取りすると、国崎定洞らベルリン日本人反帝グループの活動全体が、早くから山本懸蔵に「党に反対」「スパイ」と疑われ、それが、片山潜病没・野坂参三訪米後の1934年秋にNKVDに「報告」ないし「密告」され調査されて、野坂と山本の疑心暗鬼と対立、山本・国崎ほか20名以上の在モスクワ日本人粛清(及び佐野碩・土方与志らの国外追放)の背景となったことが、推定できる。

 次の資料(ロシア語からの翻訳は、富山大学藤井一行教授にお願いした)は、1934年9月19日付けのコミンテルン組織部コテリニコフの田中(山本懸蔵)との会談記録である。この記録を作ったコテリニコフは、粛清当時人事部長で「札付きの密告魔」といわれたコミンテルン内NKVD要員である(本書127頁)。なお、「国崎ファイル」のこの9月19日付け記録には、全く同文のロシア語で第1・2・3・9・10項の全5項目のみから成る9月23日付け異文がある。山本の尋問で述べたことが重要と認められコピーが作られたが、なぜか第4ー8項の指導部内対立、片山・野坂・ヴォルクに対する山本の不信に関わる供述が削除されている。

 

 「(以下、タイプ印刷部分の翻訳。欄外に手書きの書き込みいろいろあり。誤記・誤植と判断される語句は、修正して訳出してある。――訳者)     

     <極秘>  同志タナカとの会談の記録

 1934年9月19日の私との面談で、同志タナカは以下のように報告した。

 1 カタヤマの秘書ハヤシ(カツノ・カネマサ)は、同志コンによって推薦された。ほかならぬ彼によって、1930年にソ連に来たある日本人が推薦された。タナカはその人物の姓は覚えておらず、彼が今どこにいるかも知らない。それはヴォルクが知っている可能性がある。

 2 ドイツに、コン、セイダ、ヒザナ、カツェモト、シマザキ、ヨサノというメンバーからなる日本人グループがあった。カタヤマは、このグループと文通していた。現在の彼らの所在は、コンがモスクワ、セイダは日本で非党員の芸術家、ヒザナは日本で反共産党闘争をおこなっており、カツェモトはファシズムにくみし、シマザキは反共産主義者闘争を行っており、ヨサノはドイツでファシストの通信員になっている。

 3 このグループは、反帝国主義同盟とつながりをもっていた。

 4 カタヤマはこのグループと文通していたが、タナカは反対だった。彼らは雑誌『セッキ』を受け取っていた。警察はおそらくこのグループの助けをかりて、日本の一連の共産党員を知っていたことであろう。概してこのグループは、党に反対であった。

 5 このグループはカタヤマに手紙を送っていた。彼の秘書ハヤシはそれらの資料を読んでいたが、それらの資料をタナカには渡さなかった。その手紙をカタヤマは、当時レニングラードにいたオコという日本人に、翻訳してもらうために送っていた。いま彼は存命していない、死亡した。

 6 タナカは、1929ー30年にドイツにいる同志コンにあてて、カタヤマに手紙を出さないようにという手紙を書いた。コンがこの手紙を受け取ったかどうか、そして彼がどうしたか、コンに尋ねる必要がある。

 7 タナカは、コンをクートベに受け入れることに反対であった。しかし、オカノとヴォルクが彼の受け入れに賛成した。

 8 コンの受け入れに対するそのような状況のため、オカノとタナカとのあいだの相互関係は、まったく正常とはいえなくなった。タナカはまた、そのような場合、コミンテルンの指導的幹部たちは、彼タナカではなくオカノを支持する、と言明した。

 9 タナカは、日本と連絡をとったり、身元調べがついておらずコミンテルンから派遣されたのでもない、他国在住者と連絡をとることに、断固として反対である。

 10 1934年の5月か6月に、ある外国人旅行者がドイツからソ連にやってきた。タナカはその姓をしらない。その旅行者はコンとあいたがっていた。しかし彼はコンがどこに住んでいるか知らなかった。彼はモスクワにいる2人の日本人(2人は作家大会に参加していた)に連絡をとった。その作家たちは、ドイツからきた旅行者がコンにあいたがっていると、キム・シャンに電話した。キム・シャンはそのことをコンに伝え、かつ、その旅行者とあう必要はないと彼に言った。それにもかかわらず、コンは彼に連絡をとり、彼と会った。

 1934年9月19日       <サイン>エフ・コテルニコフ」(藤井一行訳)

 

「山懸雲隠れ」の噂と1930年末の片山潜・山本懸蔵・馬島們

 この記録の解読には、いくつかの注釈が必要である。第1に1934年9月というその面談時期、第2に当時のモスクワでの山本懸蔵の立場、第3に日本国内での日本共産党の「スパイ・挑発との闘争」である。この1934年秋とは、日本共産党が前年の佐野学・鍋山貞親らの転向声明から宮本顕治・袴田里見らによるリンチ査問致死事件を経て、「多数派」問題から35年3月の中央委員会壊滅にいたる時期である。リンチ事件に関して「日本共産党は個人的テロルの使用を排撃する」とする岡野(野坂)の論文「党撹乱者を一掃せよ、党分裂者を粉砕せよ」がコミンテルン英文機関誌に発表されたのが34年9月だが、この頃野坂は、既にアメリカに渡っていた。山本懸蔵は、1933年11月の片山潜の死去と34年3月(?)野坂渡米のもとで、この時期は在モスクワ日本共産党代表になっている。

 山本懸蔵は、先述した1928年3・15事件での逃亡時の疑惑の噂(及び後述29年秋の自分が推薦したクートベ学生「ニコライフ」の日本大使館への逃亡事件)によって、29ー31年のある時点で、コミンテルン組織部ないしソ連秘密警察の尋問を受けた可能性がある。野坂のディミトロフ宛手紙の「田中の話によれば、この問題はコミンテルン執行委員会の機関で提起されて解決済み」(219頁)というのは、この意味であろう。

 この点を、1938年の関マツ供述書は、「1928年、コン(国崎)がベルリンから同志片山に手紙を書いて、田中は疑わしい人物だと伝えた。岡野(野坂)はこの手紙のことを1931年(野坂訪ソ時)に知ったのに、なぜ今まで田中(山本)といっしょに働いてきたのでしょう?」(228頁)という。野坂は「この(山本疑惑の)噂は、ベルリンの日本人共産主義者グループを経て、1929年?には、モスクワの同志片山のもとに届きました」と述べている(219頁)。

 多くの関係者が没しているため、事実確認は困難であるが、3・15事件で山本が結核を理由に逮捕を免がれ、4月に警察の包囲網の間隙をぬってソ連に脱出した頃、『無産者新聞』1928年5月15日付けには「われらの山懸雲隠れ」という、カモフラージュのためであろうが、事情を知らない読者には誤解を与えかねない記事が載っている(石堂清俊「無産者新聞時代」『運動史研究・5』31書房、1980年、138頁)。

 もっとも同年夏にはコミンテルン第6回大会が開かれ、山本懸蔵のほか佐野学ら日本共産党代表も出席しているから、山本入ソの事情はモスクワに伝わったはずで、これが「噂」を生むとは思われない。野坂は、1939年手紙で、もともとこの「噂」は日本の労働者のなかから生まれたと述べている(219頁)。

 「噂」が片山潜に実際に届いていたことについては、袴田里見『昨日の同志宮本顕治へ』(新潮社、1978年)での野坂告発(215頁以下)などでしばしば引かれてきたように、馬島們の証言がある。山本・野坂双方の国外脱出に協力したという医師馬島は、遺稿『激動を生きた男』(日本家族計画協会、1971年)142頁以下で、1930年秋のベルリン滞在中に佐々木孝丸経由でモスクワの片山潜の所によばれ、「山本君の日本からの逃げ方がどうもおかしい、彼はスパイではないかという疑いがかかっている」として事情を聞かれた。馬島は「そんなことは絶対にない」と否定したが「このころは野坂君もソ連に来ていたはずである。……片山さんの話からは、野坂君の証言がかえって山本君への疑いを強めているらしい様子さえうかがわれた」と述べている。

 しかし、この馬島証言は、事実関係としては曖昧である。確かに馬島は、1930年夏からベルリンを拠点にヨーロッパに滞在し、9月にスイスでの万国産児制限会議に日本代表として出席、シベリア経由で30年12月25日に帰国しているから(『大阪朝日新聞』12月26日)、モスクワの片山潜のもとに立ち寄り、山本について聞かれたことは、大いにありうる。しかし、野坂の日本脱出・訪ソは風間丈吉日本帰国後の31年3月であるから、野坂はまだモスクワにはいない。「野坂の証言」は、30年2月に保釈になった野坂(ないし日本の党)が、人伝てか手紙で片山に疑惑を伝えない限り、ありえない。

 この点では、野坂の態度も不可解である。野坂の『風雪のあゆみ』第6巻では、1928年の山本脱出の件は馬島『激動を生きた男』にほぼそった叙述をしながら(156頁以下)、馬島が片山に山本疑惑を聞かれた件については、何もふれていない。そして、31年の自分自身の入ソに馬島が関わったことについてのみ、「この記述は全く事実と相違する」と強く否定し「釈明」している(179頁)。しかも『闇の男』によると、野坂はすでに1938年ディミトロフ宛手紙で、山本の「疑惑の噂」が「日本の労働者層」に発して、29年頃にはベルリン・グループから片山に届いたと証言していた。まさに、薮の中である。

 モスクワでの野坂と山本(及び片山潜)との関係が、本書で明るみに出た山本と野坂夫人竜(キム・シャン)の男女関係(38・136頁)を別にしても、政治的に「同志」でありながら不信と対立をはらんだ仲であったことについては、当時の官憲資料(『外事警察概況』昭和12年、121頁)で「山本=性豪慢にして権謀術策を弄する處より日本共産黨員より嫌悪され居れり」「野坂=コミンテルン正式代表なるも山本懸蔵との仲悪く歸国を切望し居る趣あり」と描かれ、クートベ帰りの高谷覚蔵・山本正美らも言及している(高谷『レーニン、スターリン、マレンコフ』磯部書房、1953年、57頁以下、山本『激動の時代に生きて』マルジュ社、1985年、62・98頁)。

 問題は、この「噂」のモスクワへの伝達ルートが、本当に「ベルリンの日本人共産主義者グループ」(野坂)ないし「国崎の片山宛手紙」(関マツ)であったかどうかである。当時国崎と共にドイツ共産党日本語部で活動した千田是也は、私の1993年11月16日のインタヴューにおいて、「そんなことは絶対にありえない」と強調した。

 では、どのように片山潜に伝わり、片山がわざわざ馬島をモスクワによんでまで問いただすような疑惑になったのか? 

 この点ではむしろ、風間丈吉の晩年の回想が注目される。風間によると、「山本懸蔵氏を逃がしたのは警視庁の某幹部だ」と匂わせたのは、「第2次大戦後、間島氏の書いたもの(文藝春秋社発行)」のだという。この「間島」とは、山本の主治医であり逃亡に関与した当時の東京無産者診療所所長馬島們のことである。風間によると、そこで医師馬島は、「1932年かの秋、ドイツにいった時、ドイツにいた東崎氏を通じて片山潜氏に以上のことを書き送ったと書いている」というのである(風間『雑草の如く』経済往来社、1968年、99頁以下)。もっとも風間の回想は、馬島を「間島」、国崎を「東崎」、1930年秋を「32年かの秋」と誤記している。これは、30年に馬島が山本の逃亡について書いた手紙を、ベルリンの国崎を介してモスクワの片山に送ったという意味になる。

 むしろ重要なのは、風間がこの「山懸の国外脱出経緯」を書いている文脈である。風間はこれを、1930年10月に日本へ帰国する直前、山本懸蔵からウラジオで「誰か一人くらいには真相を話しておきたかった」と前置きして山本なりの日本脱出劇を聞き、それと馬島の戦後の回想が矛盾して「山懸氏と間[馬]島氏とのどちらが真実であるかを判定することは私にはできない。双方にそれぞれ複雑な事情があったものと想像する」とするくだりで国崎の名がでてくる。

 晩年の風間がこう回想したのは、理由があるであろう。風間が、記憶に頼って国崎定洞の名をあげた馬島の「文藝春秋社発行」の文章とは、おそらく馬島が1956年2月発行の『特集文藝春秋・三代日本の謎』に寄稿した「山本懸蔵は何処へ行ったか」である。ところがこの文章には、確かに「特高の目を胡魔かす」と題する1節はあるが、素直に読めば「山本懸蔵を逃がしたのは警視庁の某警部だ[風間風に読めば纐纈警部]」とまでは到底読めない。馬島が山本逃亡の可能性を警視庁に知らせたが警察側は油断していた、という程度である。もっと不思議なことには、馬島の文章には、実は国崎定洞の名はでてこない。

 「1930年の秋、私が、ドイツにいた頃、片山潜さんの傳言書を携えて来た人があった。そして私が神戸の或貿易商社の海外派遣員の病気を看護しながらモスコーに着いたのはその年の暮れである。その時、片山さんは病気が重いようであって、傳言で山本懸蔵の始末記を私が書くように要求されたが、山本君がリトアニアで目下養生中だと言うことだけが、傳えられた」(馬島「山本懸蔵は何処へ行ったか」97頁)。

 これは、何を意味するのか? ここでは国崎定洞は多分「片山潜の傳言書」を馬島に届けただけであり、片山は非党員医師の馬島に、山本逃亡顛末の文書を書くよう要請している(実際に書いたかどうかは不明)。もちろんこの時(1930年末)野坂はまだ日本で、1956年の馬島は、野坂には触れていない。

 私は、山本逃亡の件に関する馬島の回想としては、しばしば引用される遺稿『激動を生きた男』よりも、1956年の『特集文藝春秋』の方が、年月も正確であり、信用できると思う。風間が1968年に国崎定洞の名を挿入したのは、多分風間らがこの馬島の短文に注目して追跡調査した結果であり、遺稿で馬島が「野坂の証言」を出したのは、この短文発表後の馬島に、山本逃亡の件で野坂が疑惑を抱いていた情報が届いたからであろう。1928・29年にはどんな役割を果たしたかは不明だが、少なくとも1930年の国崎定洞は、たんなる片山の馬島宛手紙(モスクワへの招請)の伝言者にすぎない。

 大胆に推測すると、1928年3・15事件の「山懸雲隠れ」の事情を怪しむ声は、28・29年に野坂を含む獄中・獄外の共産党員のなかにあった。それが何らかのかたちで、国崎定洞らベルリン・グループを中継点に、片山潜やコミンテルン東洋部に届いた。そのことを山本は、国崎定洞自身の告発と考えた。そして1930年秋の現場証人馬島の在欧を機に、モスクワではその事情が、片山により直接調べられることになったのではないか? 

片山潜秘書勝野金政の1934年夏のソ連脱出事件

 なぜ片山は、1930年末に馬島をモスクワによび、馬島の証言を文書にまでして残そうとしたのか? 私はこれを、30年秋の片山と山本懸蔵の暗闘の産物と考える。私の考えでは、ここでの主たる問題は、「噂」の出所や伝達ルートではない。片山が、馬島に山本についての「噂」の真偽を問いただした1930年秋という時期が問題である。「噂」そのものは、日本国内での28年3・15事件、29年4・16事件で広がる「同志」間の疑心暗鬼に発し、(ベルリン経由で? 「野坂の証言」も?)すでにモスクワに届いていただろう。ここではむしろ、1930年秋の片山潜秘書勝野金政の逮捕事件(ないし後述根本・細木・蔵原の件を含む、一連の日本人査問・追放事件)が重要である。28年3月にベルリンの国崎経由でモスクワに入り、30年には片山潜の私設秘書であったフランス共産党員勝野金政が、30年10月の片山の転地療養中におそらく山本の「密告」で逮捕され強制収容所に送られた事件が、片山の山本への不信を生み、馬島をよんだ背景にあると思われる。

 私が「山本疑惑の噂」問題を勝野金政と結びつけて考える根拠は、国崎が日本の「ヤマケン疑惑」を進んで片山にひそかに伝えるような人物とは思われないことと共に、山本会談記録の第4・第5項目が片山・勝野と国崎らの「文通」にこだわっており、また、戦後に勝野が書いたラーゲリ体験の回想『凍土地帯』(吾妻書房、1977年)が、「密告者」山本懸蔵を告発する書になっているからである(ただし、1930年10月末の自分自身および後述根本辰へのスパイ容疑による逮捕・強制収容所送りについて)。

 では、なぜ勝野金政が問題なのか? この田中会談が1934年9月に行われ、記録第1項が「ハヤシ=勝野」についての話から始まっていることに、注目すべきである。

 勝野金政は、島崎藤村と同郷の文学青年で、フランス共産党で活動して国外追放になり、ドイツを経て(後述コテリニコフの国崎会談では平野義太郎の紹介で国崎宅2泊、勝野自身の回想では国崎宅に3ー4泊して)28年3月に入ソした。モスクワで東方学院(東洋学研究所と同一か?)の日本語教師となり、片山潜の私設秘書を勤め、片山『自伝』完成に協力したことは、従来の研究でも言及されている(岸本英太郎他『片山潜』第2部、未来社、1960年、317頁以下、なお、「ソビエト露国の国内情勢について(勝野金政上申書)」『思想月報』第5号、昭和9年11月、勝野『赤露脱出記』日本評論社、1934年、同『ソヴエトロシア・今日の生活』千倉書房、1935年、同『ソヴェート滞在記』千倉書房、1937年、同『藤村文学・人とその風土』木耳社、1972年、参照)。風間丈吉『「非常時」共産党』(三一書房、1976年)47頁の「林」、有沢広巳『学問と思想と人間と』(毎日新聞社、1957年)126頁の3・15事件の頃「平野君の紹介状をもって」パリからベルリンにきた「若い日本人」も、勝野のことと思われる(風間は『雑草の如く』96頁では「勝野金政氏」と明記している)。

 その片山秘書勝野は、片山がコーカサスで療養中の1930年10月末に、おそらく山本懸蔵の告発で(後述)、GPUにスパイ容疑で逮捕され、強制収容所に送られた。34年5月末に減刑放免されて、6月にモスクワ日本大使館に逃げこみ、日本大使館の保護で7月末ソ連から出国、8月に日本に帰国して「転向して故国へ」「果して秘めるか党再建の指令」と当時の新聞でも大きく報じられた(『東京朝日新聞』昭和9年8月1・12・14日)。

 1934年9月というこの山本・コテリニコフ会談の時期は、ソ連側は勝野再逮捕をねらったが日本大使館が拒否し、ジュネーヴ国際労働会議の帰途の鈴木文治につきそわれて、勝野が「奇跡的に」帰国した直後である。既に1933年秋に片山潜は没し、野坂は――『風雪のあゆみ』第7巻の記述が正しいとすれば――34年3月にアメリカに出発していた。そのもとで、34年夏に、ラーゲリを体験した勝野の日本脱出事件がおこり、野坂に代わって日本共産党の代表になった山本懸蔵は、コテリニコフに事情を調査された。山本はそれを機に、かねてから不信を抱いていた(片山を頼ってベルリンから入ソした知識人)国崎を、勝野事件にからめてソ連側に告発し始めたように思われる。

 したがって、この会談記録は、山本が勝野事件と国崎との関係をソ連側に伝えた「密告」である。山本は、「勝野を片山に推薦したのは国崎定洞である」と、国崎と勝野のつながりを具体的にコテリニコフに伝えている(これが事実かどうかは私の調査では不明)。

勝野事件の背景にある松田・細木・根本事件と山本の政治責任

 また、山本が「名前をおぼえていない」という、国崎に1930年に推薦されて「ソ連に来たある日本人」とは、勝野『凍土地帯』123頁以下、および勝野逮捕直後の30年11月入ソした勝本清一郎の回想『こころの遠近』(朝日新聞社、1965年)198頁以下によれば、根本辰(トキ)という、日本で『無産社新聞』編集に関係し、ベルリンの国崎の紹介状をもって30年秋にモスクワの片山のところにやってきた京大出身の青年のことである。勝野によると、片山と勝野は根本をモスクワで受け入れ、クートベに入学させようとしたが、片山の療養中に、山本の調査で根本は「非党員」と判明し、スパイとみなされて逮捕・国外追放になり、根本を受け入れた勝野自身も、10月末に逮捕されるきっかけになった。

 この根本=勝野事件がおこった1930年10月は、日本では3・15、4・16事件に続く田中清玄・岩尾家定らの「武装共産党」指導部が7・15事件で逮捕され、31年1月の風間丈吉・岩田義道・松村らによる党再建とのはざまである。獄中被告の水野成夫らの「解党派」結成に続く大衆団体「全協」の分裂で、日本の党内では疑心暗鬼が強まっていた。クートベを卒業して5月頃帰国したヒョドロフ=松村が「スパイM」になったのは、7・15事件で逮捕された直後といわれる。モスクワでは、ソ連共産党第16回大会に続き、8月15ー30日にプロフィンテルン第5回大会が開かれ、片山・山本懸蔵の他日本から紺野与次郎らが出席、11月のハリコフ国際革命作家同盟大会には、ソ連滞在中の蔵原惟人はなぜか現れず、ベルリン・グループの勝本清一郎・藤森成吉が代表報告した。

 ここで想起されるのは、クートベ卒業後、プロフィンテルン第5回大会に風間・蔵原とともに通訳として出席し、風間丈吉の帰国後はプロフィンテルン東洋部で山本懸蔵の活動を助けた山本正美が、『闇の男』刊行以前に、山本懸蔵の粛清原因について、興味深い理由を推定していたことである。それは、風間の獄中手記をも参照すると、山本懸蔵が推薦してウラジオから1929年秋にクートベに入学した船員3人のうちの1人「ニコライフ=松田」(風間『「非常時」共産党』41頁)が、「クートベの学業についてゆけず、党生活の規範に耐えられなくなって、当時クートベの寄宿舎近くにあった、日本大使館に駈け込んだ」事件である(山本『激動の時代に生きて』38頁、風間『モスコー共産主義大学の思ひ出』三元社、256頁も参照)。山本正美は、「彼自身がそんなに意識的なスパイとは、今でも思えないのだが、この事件が、当時ウラジオストクにあった太平洋労働組合会議や海員クラブの日本責任者であった山本懸蔵の、その後の運命に影を落とす一因となったようだ」「山懸がウラジオストク滞在中に一方ならぬ面倒をみた海員の間から脱走者、スパイ、裏切り者が出たことが、彼の運命に大きな影響を与えたのではないか」と推定していた(山本『激動の時代に生きて』38・62頁)。風間は「このことに関して、山本正美は山懸に手厳しく非難された」(『モスコー共産主義大学の思ひ出』256頁)としているが、それは山本懸蔵が上級機関から「手厳しく非難された」ことをも意味する。 

 ここで重要なのは、山本懸蔵が、1929年秋に自分の推薦したクートベ学生が「日本大使館に駈け込み」転向した事件を体験しており、山本正美が示唆するように、その件でコミンテルンないしNKVDから指導責任を問われ疑われていたこと(彼自身の3・15事件での「奇跡的」逃亡の件も査問された?)、したがって、翌30年秋のクートベ学生推薦には慎重たらざるをえない事情があったことである。また、誰の告発かは不明だが、細木のスパイ容疑が10月初めで、蔵原もこの頃査問されたとすれば、片山不在のもとでの根本のクートベ入学、それを推薦する勝野の処遇は、山本にとって重要な政治的決断だった。山本は、10月末に根本の入学拒否・国外追放、勝野の容疑告発で答えたと思われる。

 これらの詳細はこれから解明されねばならないが、ここでの問題である国崎定洞の粛清と関わる要点は、山本にとって、勝野も根本もベルリンの国崎経由で片山潜のもとにきた知識人であり、すでに1930年にGPUによりスパイと認定されていたこと、そしてラーゲリに送り厄介払いしたはずの勝野が、1934年夏に「日本大使館に駈け込み」、悪夢が再現したことである。

 勝野の方は、ラーゲリで強制労働に服しながら、「根本をベルリンから片山のところへ送りこんできた国崎定洞はどうなっているだろうか」と案じていた(『凍土地帯』205頁)。1934年秋の山本は、自分でかつて2人の日本人スパイを摘発した30年秋の勝野=根本事件をコテリニコフに伝え、勝野逃亡問題での自己の潔癖を証明しなければならなかった。同時に、今度は国崎定洞の「スパイ勝野」(逮捕された時点では疑わしいが、ラーゲリ脱出後日本大使館に逃げ込むことで、結果的に山本やNKVDにとっては自明となった)とのつながりをソ連側に告発して、指導責任を転嫁しているのである。

山本懸蔵のベルリン・グループへの不信と敵意

 山本懸蔵の国崎への敵意は、前述「噂」の出所としての逆恨みばかりでなく、ベルリン日本人反帝グループ全体への政治的・組織的不信であることが、この記録からわかる。第2ー4項で山本は、ドイツの日本人反帝グループメンバーの名前をあげ、自分はこのグループを「概して党に反対」とみなし、このグループから日本の警察は「一連の共産党員を知った」と考え反対したが片山は文通していた、と前年没した片山潜までを告発している。

 そのメンバーについて、山本は「コン、セイダ、ヒザナ、カツェモト、シマザキ、ヨサノ」の名前をあげている。これは、川上武や私の従来の研究から、コン=国崎、セイダ=千田是也、カツェモト=勝本清一郎、シマザキ=島崎蓊助、ヨサノ=与謝野譲と解読できる。「ヒザナ」だけは明確でないが、もともとベルリンに詳しくない山本が(山本自身の指導責任も問われて?)極秘で話した内容をコテリニコフがタイピストに打たせた記録であるから、必ずしも厳密ではないだろう。他のメンバーのドイツ滞在時期からして、「ヒラノ=平野義太郎」のロシア語表記の誤りと考えられる(『流離の革命家』第10章以下参照)。このころの山本が、『日本資本主義発達史講座』の中心メンバー平野を「日本で反共産党闘争中」とみなし、ハリコフ作家会議日本代表で小林多喜二『1928・3・15』の原稿を命がけで守った勝本を「ファシスト」と評価していたことがわかる。山本は、かつて片山潜の看病のためモスクワに来た娘千代を「党員でない」という理由だけで片山との同居に反対したといわれるが(勝野『凍土地帯』84頁、高谷『コミンテルンは挑戦する』大東出版社、1937年、48頁)、ここに、彼の「党派性」が現れている。

 第5項で山本は、自分の反対にもかかわらず片山と勝野は国崎らベルリン・グループと文通を続け、自分にはそれをみせなかった、とこぼす。レニングラードの「オコ」とは、風間丈吉獄中手記に林=勝野と共にでてくる「丘文夫」であろう(『「非常時」共産党』47頁)。

 第6項では、山本は、1929ー30年にコン=国崎に手紙を書き「片山に手紙を出さないように」命じたとある。戦後書かれた片山潜会見記のなかで、勝本清一郎は、(31年に?)「ソ連邦から」片山との文通をやめるよういわれたと回想しているから、これは事実かもしれない。勝本はそれで文通をやめ、後に野坂参三にその理由を問いただした(『こころの遠近』205頁以下)。勝本の別の回想によると、国崎は、片山のみならず野坂とも重要な文通をしていた(勝本「プロレタリア文学と私」320頁)。千田是也は、実父と片山との長い交友関係もあり、文通するなといわれたことはない、と私に証言しているが、国崎に山本の手紙が届いたかどうか、それにどう対応したかは不明である。

 第7・8項で、山本懸蔵は、国崎のベルリンからモスクワへの受け入れとクートベ入学の件が、野坂と山本の「正常とはいえない相互関係」の始まりであった――1932年時点では山本は反対、片山と野坂は国崎に好意的――と告白している。また、ヤ・ヴォルクらコミンテルン東洋部はいつも野坂の側に立っている、と不満を述べている(山本は日本共産党のコミンテルン=世界共産党代表ではなく大衆団体プロフィンテルン=赤色労働組合インターナショナルへの派遣代表、後にコミンテルン東洋部は、部長ミフ以下ヤ・ヴォルク、サファロフ、マジャールらほぼ全員が粛清された)。山本にとって、誰をクートベに入学させるかは、29年・30年秋の経験からも重要であり、知識人出身者を重用する片山・野坂に不信を抱いたのだろう。

 第9項のように、そもそも山本は、第3国の非党員経由や非公式ルートでの日本との連絡一般に「断固として反対」したようである。そのことと関連して、第10項で山本は、国崎が「1934年5ー6月」にモスクワにきた「ある外国人旅行者」と会ったことを、コテリニコフに思わせぶりに告げている。同時に、2人の会見を仲介した「作家大会に参加した2人=佐野碩と土方与志」および「キム・シャン=野坂竜」にも疑惑を広げ、コテリニコフの注意を促している。これは、次に見る1934年10月10日付け「コテリニコフの国崎定洞及び野坂竜の会談記録」に直接つながる。

コテリニコフによる国崎定洞と野坂竜の会談記録

 1934年夏の勝野金政日本脱出事件をめぐる山本懸蔵による国崎定洞告発で、国崎自身と野坂竜がコミンテルン組織部によばれ、コテリニコフの尋問を受けた資料が、ここで紹介するもうひとつの未公開資料、34年10月10日付け「同志コン(国崎)およびキム・シャン(野坂竜)との同志コテルニコフの会談記録」である。

 

 「<秘密>                     1934年10月10日

     同志コンおよびキム・シャンとの同志コテリニコフの会談

 

 そして、同志コンは、ドイツの日本人サークルの性格付けに関する質問について、このサークルは量的には15名にのぼり、そのなかに3ー5人の共産党員[コムニスト]がいた旨を報告した。党員の人的構成は、ミナミ、コバヤソ、ニシムラ、トジョ、オイワ。現在、トジョウとオイワは日本におり、コミンテルンに対する態度は不明。オイワは1934年の春に、トジョはもっと後で日本に帰った。ドイツにいるニシムラは逮捕され、いまスウェーデンにいるが、コンは、彼がまだ党員のままだと考えている。コバヤシ(リ・コ)はドイツで逮捕されたが、釈放され、1933年にソ連に来た。現在『セクターA』[クートベ日本人部]にいる。ミナミについては、彼がいまどこにいるか承知していないが、彼が党員だと考えている。あとのメンバーはシンパで、現在ではほとんどみな日本にいる。

 ホリエは1933年に逮捕され、ミヤキは1934年に朝鮮で逮捕された。イトは1933年に日本で逮捕された。ヤマドは日本で逮捕されたが釈放された。チラノフも逮捕されたが釈放された。ドイツの日本人サークルにいた残りの旧メンバーの消息はコンには不明だが、彼らは活動しておらず党とのつながりはないと、コンは考えている。

 1934年7月、ツェンゾコがモスクワにきて、1か月いた。彼の入国の目的は、ソ連情勢の視察である。彼は、サノ(第1回作家大会に参加した演劇芸術活動家)のところに滞在していた。コンはツェンゾコと一度、7月29日に会った。彼らは一緒に街を歩きまわった。2人は前にベルリンで知り合っていた。彼はシンパとして日本人のサークルに入っていた。現在彼はベルリンにいて、言葉とマルクス主義を勉強している――そうコンは言明した。コンの言明によれば、彼はドイツ共産党に協力していて、ビラや工場新聞を印刷しており、党の地区委員会とつながりをもっている。前に彼は、1933年に日本からドイツで勉強するためにやってきた。彼の肉親はインテリで、兄弟は商人である。彼は、ドイツに3名からなる日本人グループがあること、彼らがドイツ共産党に協力して、市電労働者向けのビラを印刷していることを、コンに伝えた。この3人組の1人であるアダチは、ドイツで合法的に日本語の新聞を発行している。自由主義的な傾向の発行部数500部の日本語の新聞である。このグループの3人目は、キムという姓の朝鮮人で、勉強している。やはりグループにいて、その一員としてドイツ共産党に協力している。

 ミナミについては、ツェンゾコはコンに、ミナミはパリにいて、やはり同様にドイツ共産党とつながりをもっている、と伝えた。ミナミはオカノとつながりをもっていて、日本から雑誌『セッキ』やその他の資料を入手するのに協力している。いまは連絡が悪いが、その理由はコンには不明である。

 その年の夏、ロンドンからモスクワへ、イノウエという日本人がやってきた。サノは、オカノの妻のキム・シャンに、このイノウエの到来を手紙で伝えた。イノウエは、ミナミとつながりをもっており、ミナミからのオカノ宛の手紙をもってきた。この手紙は、オカノの妻へ渡された。コンは、イノウエとは会わなかったし、話もしなかったし、彼をよくしらないと報告している。ミナミは、ベルリンの新しい住所を伝え、また、自由主義的な新聞で働いて金をかせいでいるので、援助がなくても生きていけると伝えた。さらにコンは、イノウエの妻がモスクワにきたことを伝えた。コンは、彼女をしらないし、彼女がどこに住んでいるかもしらない。このことについては、サノがオカノの妻に伝えた。

 コンは、1928年にベルリンでカツノに会った。カツノは、フランス共産党の党員であった。パリで逮捕された。数日間、そこにいた[投獄された]。ドイツに追放された。ドイツで彼はコンの知合いであるヒラノに連絡をとった。ヒラヌはカツノにコンの住所を教え、カツノはコンのところに2日間いた。カツノは、フランスのモップル[国際赤色救援会]がドイツのモップルへあてた手紙をもっていた。コンは、その手紙をモップルへ渡した。カツノはドイツ・モップルの助力でソ連にきた。コンは、その後はカツノに会っていない。その後のことでは、彼のカタヤマとの文通、カツノが教師をしていることが、コンにわかっている。

 ツェンゾコは、カツノについてコンに、彼がソ連で逮捕されたと語った。白海運河の建設で働いていたが、日本の官吏の要請で釈放された後、彼らの管轄下に移された。コンは、カツノの釈放のことは、やはりツェンゾコから知ったと言明している。

 同志キム・シャンは、セッキ・サノが、ドイツからやってきた日本人からのコン宛の手紙を、リュクス[ホテル=野坂夫妻の住居]にもってきた、と伝えた。コンは、その日本人と会うことの是非について、キム・シャンの意見を求めた。キム・シャンは彼に、妥当とは思わないと答えた。それでも、コンは会った。

 1934年10月10日      (手書きサイン)[エフ・コテリニコフ?]

     この会談記録の一部は処分された

<1936年1月15日印>  (サイン)? (サイン)?」(藤井一行訳)

 

1934年にナチス・ドイツ下で活動するツェンゾコ、アダチとは?

 このコテリニコフの会談記録によると、コン=国崎定洞は、ドイツ共産党日本語部のメンバーとして、ミナミ=和井田一雄、コバヤシ=小林陽之助(ソ連亡命後の名前リコー)、ニシムラ=喜多村浩、トジョ=野村平爾、オイワ=大岩誠の名前をあげた。これは、大岩誠調書(司法省刑事局『思想研究資料』特集第43号、昭和13年7月)や野村平爾の回想(『民主主義法学に生きて』日本評論社、1976年)とも、おおむね一致する。

 その後にある名前は、多分山本が先の告発で千田是也らの名を挙げたので、国崎がコテリニコフに質問され答えたもので、ホリエ=堀江邑一、ミヤキ=三宅鹿之助、イト=千田是也(本名伊藤圀夫)、ヤマド=山田勝次郎、チラノフ=平野義太郎と、1920年代末在独日本人社会科学研究会の学者グループ・メンバーの名前と解読できる。

 問題は、1934年7月にモスクワに1か月滞在したという「ツェンゾコ」である。彼は、佐野碩のもとに滞在し、7月29日に国崎と会い、ナチ政権下で(34年6月のレーム事件後も)活動しているベルリン日本人反帝グループのその後、ミナミ=和井田一雄の近況や勝野金政の逮捕・解放の事情などを、国崎に伝えた(ミナミ=和井田は、33年4月末の小林陽之助のソ連亡命後の在欧日本人共産主義者グループの中心と思われるが、大岩誠調書に「東大出身」とある以外、詳しい経歴等はわからない。小栗『ある自由人の生涯』76頁によると、1938年には日本に帰国し鎌倉で結核療養中で、文芸評論家中村光夫が家に出入りしていたという)。国崎は、多分正直に、その「ツェンゾコ」の話の内容を、コテリニコフに答えている。

 しかし、メモをつくったコテリニコフの方は、NKVDのコミンテルン派遣員である。先の山本の密告があるので、「ツェンゾコ」と勝野の関係をとりわけ重視し、「不審な外国人」と見なしている。

 コテリニコフのキム・シャン=野坂竜への尋問は、簡単である。野坂竜は、佐野の紹介でドイツから来た日本人を国崎に仲介し、国崎に会うべきでないといったにもかかわらず国崎は会った、と逃げ腰で、どうやら事件に巻き込まれたくない様子である。

 この「ツェンゾコ」が誰であるかは、私の現在までの調査では、不明である。この記録には本名(小林陽之助ら)とパーティ・ネーム(野村平爾ら)が混在し、どちらであるかも判然としない。モスクワを訪れた時期について、先の「山本面談記録」中の「ある外国人旅行者」とは若干のズレがあり、勝野の日本脱出(1934年7月31日出国)との関わりで、ソ連側から疑われているようである。

 国崎の話の中で、「ツェンゾコ」は、家族はインテリ、兄弟は商人、1934年夏現在ベルリンで言葉とマルクス主義を学んでいる、日本からドイツへ33年留学、(ナチ支配下で)ドイツ共産党を助けてビラを印刷、3名のグループのひとりはアダチ、もう1人はキムという名の朝鮮人といった手がかりがあるが、私の知る限りの在独日本人グループには該当者はいない。この記録はやや混乱しており、国崎定洞のソ連亡命は32年9月であるから、「まえにベルリンで知合い」ながら「33年日本からドイツに留学」という説明は、短期旅行で一度訪独したという意味でなければ矛盾がある(「ミナミ=和井田」についても、「ツェンゾコ」のいうパリ在住か「イノウエ」のいうベルリン在住か曖昧)。

 強いて推測すれば、「ツェンゾコ」は日本人ではなく、中国人かもしれない。かつて千田是也は、1975年の「国崎定洞をしのぶ会」のさいに、私宛の手紙でベルリン日本人グループと一緒に活動した中国人として、廖承志、王柄南、章文晋とともに「成彷吾」(後の中国人民大学学長)の名を挙げていた(『流離の革命家』171頁、千田是也『もう一つの新劇史』筑摩書房、1975年、219頁)。中国語の「成」はツェンと読め、「成彷吾」を日本人が読むと「ツェンゾコ」と発音しそうである。1979年に中国で刊行された『中国文学家辞典』や81年にイギリスで出された『中華人民共和国人名録』によると、「成彷吾」は「Ch'eng Fang-wu」と発音する。

 千田是也の話では、成彷吾は、日本の(岡山大学?)留学中にプロレタリア文学運動に加わり、ベルリンでは佐野碩・国崎定洞とも知りあっていた。しかし両辞典の彼の経歴では、1931年9月にドイツから中国に帰国し、34ー35年には長征に加わったことになっており、中国で出た自伝にもそうあるという。千田是也は、この成彷吾が34年夏にベルリン経由でモスクワのソ連作家大会に出席した可能性があると私のインタビューに答えたが、34年ソヴェト作家大会への中国からの参加者は1人だけで「蕭三」とされている。成彷吾が「ツェンゾコ」と結びつくかどうかは、現在のところ悲観的である。

 「ツェンゾコ」の訪ソは、野坂・山本・国崎の3者関係悪化(山本は野坂竜をスパイ国崎とつながっていると疑い、野坂夫妻は関わりあいを恐れて国崎から距離をおく)のいまひとつのきっかけとなったようである。

 同じ国崎会談記録のなかの、「ツェンゾコ」と一緒に反ナチ活動をしているという「アダチ」については、小栗喬太郎調書(佐藤明夫編『ある自由人の生涯』非売品、1978年、111頁)に「安達鶴一」、小林陽之助資料(『野坂陰謀を發く』3頁、戦後に警察側から流れた供述書か?)に「安達某」とでてくる。この点は、国崎定洞のソ連亡命後もベルリン反帝グループで活動した小林義雄(経済学者、現在國學院大学教授)からも、1931ー32年当時のベルリン・グループのなかに「安達」という姓の人がいたことを確認できた(川上『流離の革命家』155頁の「安藤鶴一」は小栗調書転記のさいの誤記)。

 これは、日本で3・15事件後の『無産者新聞』編集を手伝っていたという東大新人会出身(昭和6年卒)の「安達鶴太郎」(石堂清俊「無産者新聞時代」『運動史研究・5』三一書房、1980年、138頁、石堂清倫・堅山利忠編『東京帝大新人会の記録』経済往来社、1976年、250・421頁)と同一人物と思われ、安達の名は、最近発表された伊藤律の遺稿に、国崎定洞の「ベルリン時代の友人」である戦後占領期の時事通信社編集局長として登場する。安達は、占領期には野坂とつながりをもち、伊藤律に対しては、土屋喬雄とともに国崎定洞がスパイではありえないことを断言していたという(伊藤「3重スパイ野坂参3」『文藝春秋』94年1月号、317・325頁)。

 安達は、1934年以降もベルリンに滞在し、36年同盟通信に入社しベルリン支局長、敗戦時は海外局情報部長、戦後は後継の時事通信社内信部長・政治部長・編集局長、取締役ロンドン支局長などを歴任して、89年に没している。1946年のベストセラー、野坂の『亡命十六年』、徳田球一・志賀義雄の『獄中十八年』は、共に時事通信社から出ている。

 朝鮮人「キム」については不明であるが、もしも安達がベルリン時代の記録を残していれば、「ツェンゾコ」が誰かもわかるかもしれない。

 もうひとつのヒントは、国崎会談記録で「アダチ=安達鶴太郎」が関係しているという、ベルリンの日本語新聞である。1920年代末の日本電報通信社(今日の電通の前身)ベルリン特派員鈴木東民は、東大新聞OBで東大新人会メンバーと親しく、当時の国崎や千田・勝本と同じくドイツ人女性を夫人に持ち、国崎定洞とも親しかった。戦後読売争議の指導者で釜石市長を長く勤めた鈴木東民こそ、74年に国崎夫人フリーダさんを40年ぶりで探しだし、国崎定洞「名誉回復」のきっかけをつくった人であった(鈴木「スターリンに粛清された東大助教授」『文藝春秋』1975年5月号、鎌田慧『反骨――鈴木東民の生涯』講談社、1989年、91頁以下・383頁以下)。

 その鈴木は、1930年代に、ベルリンに滞在している約500人の日本人(内文部省留学生100人、鎌田『反骨』123頁)を相手に、タブロイド判2頁ガリ版印刷の週刊日本語新聞『ベルリン週報』を発行していた(同125頁以下)。ディミトロフの国会放火裁判などを日本に伝え、ナチスの台頭で1934年3月にゲルトルード夫人と共に日本に帰国するが、そのさい『ベルリン週報』発行権を売って渡航費を捻出した。当時『ベルリン週報』の広告を担当していたのは、ドイツ国内にとどまった国崎グループの与謝野譲であり、この日本語新聞を鈴木から引き受けたのは、「日本の左翼運動が弾圧されたあと、裕福な家の子弟でドイツに逃げてきた学生」たちの一人(氏名不詳)であった(168頁)。

 1934年国崎会見記録にでてくる、アダチ=安達鶴太郎やミナミ=和井田一雄が関係するという「合法的な日本語の新聞」「自由主義的な新聞」とは、この鈴木東民帰国後の『ベルリン週報』ないしその後継紙と思われ、その関係者が今日でも存命すれば、「ツェンゾコ」につながる可能性がある。34年夏にロンドンからモスクワ入りして、ミナミ=和井田の手紙をオカノ=野坂参三あてで持ち込んだ日本人「イノウエ夫妻」も、私の調査では今のところ特定できないが(大岩誠・小栗喬太郎調書等にも該当者はでてこない)、何らかの形でこれに関係していると思われる。国崎定洞は帝大助教授時代に東大新人会に協力し、ベルリン反帝グループには与謝野穣・佐野碩・安達ら新人会OBが含まれ、当時の学生運動に協力した左翼ないしリベラルの大学教授も加わっているが、先述したビカートン=古在由重ルートや、大岩誠調書が示唆するように、日本での弾圧や言論統制を逃れてヨーロッパにやってきた学者や学生運動経験者たちのベルリン・パリ・ロンドンを拠点としたネットワークが、おそらくこれに関係していると思われる。それは、ひょっとすると、尾崎秀実らの「ゾルゲ事件」とも人脈的につながるかもしれない。

 いずれにしろ、1934年夏の時点でなお、国崎の創設した在ベルリン・アジア人反帝グループがこのような活動を続けていたとすれば、それは国崎ら在欧日本人グループの反帝・反ファッショ活動の歴史(加藤「国崎定洞論」)に新たな1頁を書き加えることになる。

 こうしたヨーロッパ経由でモスクワ入りする(ソ連秘密警察や山本にとって)「不審な」日本人・アジア人と国崎とのつながりが、山本懸蔵夫妻から「スパイ活動」と疑われ「密告」されて、1934年末のキーロフ暗殺でスターリン粛清が強まる中で、35年2月には、『闇の男』巻末資料5のようなかたちで、コミンテルン経由の身辺調査が行われ、ひそかにNKVDの監視下におかれた。もっとも国崎は生来楽天家で、山本や野坂のように「同志」を疑うことを知らなかっただろうから、本人がどれだけ自覚していたかは疑わしい。

 すべての日本人をスパイと疑うソ連秘密警察と伊藤政之助問題

 この1934年秋のNKVDによる国崎の身辺調査には、以上の勝野金政出国事件に関連した「国崎ファイル」からはでてこない、もうひとつの伏線がある。それは、共同印刷活版工出身の日本共産党員伊藤政之助(「名誉回復決定書」で最終的に国崎有罪の2人の証言者の1人とされる「タケウチ」)への、やはり山本の告発と思われるスパイ容疑である。

 『闇の男』の著者小林峻一氏らの最近の調査では、伊藤は、岩尾家定・松村(M)などと同期入学のクートベ帰りで、1928年7月に帰国後日本共産党に入党、28年10月に検挙され。29年10月に偽装転向の誓約書を書いて仮釈放、「党の許可」なく30年6月に入ソし、ウラジオで働きはじめた。このウラジオ時代に、当時在ウラジオの日本共産党代表である山本は、党の許可なく入ソしたことを理由に、伊藤を1度譴責処分にする。1933年12月に野坂は日本語印刷所をつくるため元活版工伊藤をモスクワによびよせ、34年6月から外国語労働者出版所に勤務、国崎の同僚で部下かつ東洋学研究所の教え子となる。

 この伊藤政之助の経歴が、1934年3月(野坂出国直後?)にコミンテルン東洋部書記局から人事部に連絡され(外国語労働者出版所就職のための身上調査か?)、山本会談直前の9月10日には、コミンテルン(人事部から?)東洋部に最初の問い合わせがあった。

 そして、どうやら国崎と伊藤のつながりが怪しまれたらしく、コテリニコフによる9月の山本会談と10月の国崎・野坂竜会談のちょうど中間にあたる1934年10月2日に伊藤と国崎の2人の住所が(人事部に?)通知され、12月に「タケウチに関する疑惑」が(人事部に?)連絡された記録が、小林峻一氏らにより発見されている(これら「伊藤政之助ファイル」は小林氏らが発掘・所有し、私は未見)。1935年2月9日のコミンテルンからNKVDへの国崎に関する報告文書中、「タケウチはコンと直接的・恒常的関係をもっている。コンはこのルートでもクートベ『A』セクター[日本部]の人員たちの情報を知ることができる」という1節は(本書236頁)、この文脈のなかにある。

 外国語労働者出版所日本課で国崎の同僚・部下となった伊藤政之助は、翻訳の仕事上での金銭トラブルで、1935年11月に外国語労働者出版所を解雇された。同時に、山本とコミンテルン第7回大会出席のためモスクワに戻っていた野坂に査問され、第2回譴責処分をうける。36年4月に片山の娘(安子?)と結婚し、自分で仕事をみつけて軍事アカデミーの日本語教師になるが、36年5月に野坂が再び渡米すると、山本懸蔵は36年8月4日付けで日本共産党の許可なく入ソした過去を再び蒸し返し、コミンテルン国際統制委員会に伊藤の除名申請の手紙を書いた。伊藤は、36年10月29日付けで国際統制委員会において除名が決定され、36年11月10日にヤ・ヴォルフによる身柄引渡しの報告書がつくられ、37年中(月日不明)に逮捕・銃殺された模様である(山本自筆の伊藤政之助除名申請書を含む「伊藤政之助ファイル」を中心とした以上の伊藤の粛清過程の分析は、1993年10月23日の本書出版記念会の講演で、小林峻一氏により公表された)。

 山本により再度告発され除名された伊藤政之助は、国崎と共に外国語労働者出版所日本課の中心であり、同時に、ナリマノフ東洋学研究所での国崎の教え子であった。このつながりで、国崎定洞はいっそうNKVDに怪しまれ、伊藤は拷問により国崎とのつながりの「自白」を強制され、国崎は、ついに1937年8月4日に「日本帝国主義のスパイ」として逮捕され12月10日に銃殺された、というのが国崎定洞の粛清の真相と思われる。

 また、伊藤政之助問題の処理は、国崎のクートベ入学の件と同様に、山本懸蔵と野坂参三で意見が分かれた模様で、野坂は疑惑発覚後も伊藤の再就職の世話をしているが、山本は、またしても野坂のアメリカ再訪を機に、伊藤の除名を国際統制委員会に申請している。片山潜存命時の片山・野坂対山本というモスクワにおける力関係が、1933年の片山の死、34年からの野坂不在により、山本の優位・主導へと逆転したことを示唆している。当時の関係者の証言や官憲資料が示唆するように、コミンテルン対プロフィンテルン、知識人出身者対労働者出身者、国際派対国内派などという微妙な関係もあるのかもしれない。

 この頃の「粛清」公開裁判では、多くの無実のソ連共産党幹部(例えばブハーリン派のラコフスキーら)が「日本のスパイ」とされて、命を奪われた(外務省調査部『反ソヴェート「右翼=トロツキー派ブロック」の公判記録』昭和13年5月)。当時のモスクワの雑誌では「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ市民もみなゲシュタポの手先であるといってもけっして誇張ではないであろう」と公言されていた(メドヴェーデフ『共産主義とは何か』上、三一書房、1973年、363頁)。それでもなお日本では、例えば作家宮本百合子は、いまや「ソ聯邦は吾々の理想としたソ聯邦ではない」としたアンドレ・ジードの『ソヴェト旅行記』(1937年)に反論して『帝国大学新聞』1937年10月1日付けに「こわれた鏡――ジイドの知性の喜劇」という一文を書き、「歴史の本質」なる虚構に依拠してスターリン体制を擁護するのであった(上島武・中野徹三・藤井一行『トロツキーとゴルバチョフ』窓社、1987年、238頁)。

 「内通者」山本懸蔵の密告による国崎定洞の粛清

 これら旧ソ連公文書館所蔵ファイルの検討から浮かび上がるのは、1936年までは、山本懸蔵こそ積極的に在モスクワ日本人をソ連秘密警察に告発してきた「内通者」であり、野坂参三・竜夫妻は、片山とつながる国崎定洞や伊藤政之助に対して距離を保ちつつも、どちらかといえばなお「同志」として扱っているかにみえる。おそらく、佐野碩・土方与志ら非党員への態度も、同じであったろう。この限りでは、野坂の山本告発は、37年8月の国崎定洞逮捕後に始まり、妻竜の逮捕で決定的になった自己防衛と思われる。

 『闇の男』では野坂と山本の関係に焦点が当てられ、野坂が密告者、山本が犠牲者として現れるが、「国崎ファイル」や「伊藤ファイル」の方からみると、山本が密告・内通者、勝野・根本・伊藤や国崎が犠牲者なのである。

 旧ソ連公文書館の「野坂ファイル」は、野坂が生存中のため公開されなかったというが(200頁)、これから現れてくるであろう。すでにいくつかの日本のマス・メディアが追いかけているというが、そこからどんな「人間の劇」が浮かび上がるかは、今のところ薮の中である。今後他のファイルから、国崎定洞の告発・強制自白による犠牲者がでてくる可能性も、無論、否定できない。本書に用いられた文春調査斑発掘文書のほか、フジテレビ収集の沖縄出身アメリカ共産党員関係文書、日本共産党調査団収集文書を含め、これら旧ソ連日本関係ファイルの国会図書館・法政大学大原社会問題研究所・大学図書館などでの公共的収集・整理・保管と、学術研究者への資料公開が期待されるゆえんである。

 かつて私と川上武は、国崎とKPD反主流派ハインツ・ノイマンやヴィリ・ミュンツェンベルグとのつながりや、スペイン義勇軍志願のような政治的要因を、国崎定洞粛清の原因として推定していた(『流離の革命家』212頁)。それらが間接的に疑惑を強めたにしても、在モスクワ日本人内部の疑心暗鬼の「人間の劇」の方が、国崎粛清の主たる直接的理由だった。国崎の党籍は、1991年夏に私がベルリン旧ML研究所で発掘した1937年8月22日付け在モスクワKPDの除名指令書(加藤『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、1992年、227頁以下)でも最後までドイツ共産党とされているが、モスクワではむしろ日本共産党関係の仕事に主として従事し、その内部葛藤と疑心暗鬼にまきこまれて、逮捕・銃殺されたことになる。

 だが、野坂の山本についてのディミトロフへの「密告」、山本による勝野・根本・伊藤・国崎らについてのコミンテルン指導部やソ連秘密警察への「密告」は、個人的怨恨や悪意によるものだったのだろうか? 私は、そうは思わない。たぶん善意と使命感にあふれた、「日本共産党と社会主義の祖国ソ連邦を守るため」の、党派性の産物だったろう。おそらく野坂や国崎も、善意にあふれ党派性は持っていた。野坂はそれを、自己保身と結びつけた。国崎は、ワイマール共和国末期のドイツ共産党で活動し、労働者政党の分裂に乗じたナチスの勝利をつぶさに見てきたから、非党員であってもただちにスパイとは考えず、その人物をファシストか反ファシストかで判断する度量を持っていただろう。要するに「裏切り者は死刑」の思想の残存・定着程度の問題だったであろう。

 山本懸蔵は、「ソ連にたいする反逆者」であるどころか、日本国内での宮本顕治や袴田里見の場合と同じように、「党のうえに個人をおかず」にソ連社会主義と日本共産党に献身し、「スパイ・挑発との闘争」の先頭にたって「疑わしい同志」を「党員の義務」として忠実に上級機関に報告していたからこそ「密告者」「内通者」でありえた。そしてそれが他の党員たちの生命に関わる脅威であった限りで、「売られ」もしたのである。

伊藤政之助を売っても「噂」を拭えなかった山本懸蔵の悲劇

 非党員芸術家佐野碩・土方与志への国外追放・出国は、国崎逮捕直後の1937年8月12日であった。やがて11月2日に山本が逮捕され、38年に入ると、国崎のクートベ・東洋学研究所の教え子であった日本人(主として沖縄出身のアメリカ共産党員)も次々と逮捕される(この関係のファイルは、フジテレビ取材班が所有しているとのことである、橋本義裕「密告の手紙が暴露されるまで」『労働運動研究』277号、1992年11月)。

 『闇の男』によれば、当時アメリカにいた野坂参三は、国崎逮捕の報を知ってすぐに、自分と野坂竜に嫌疑が及ぶのを恐れ、逆に山本懸蔵夫妻を「売る」初めての電報を打った(62頁)。それでも竜は、山本逮捕の当日に党を除名され、杉本良吉・岡田嘉子が佐野・土方の国外追放も知らずに正月に国境を超えた直後の、1938年2月11日に逮捕される。その竜を釈放(3月31日、本書136頁)させるために、どうやら野坂参三は、けっきょく山本夫妻と国崎を見放し「売る」ことで、自分たち夫婦の生命を守ったようである。

 山本の妻関マツは、逆に野坂夫妻と「大物スパイ」コン=国崎とのつながりを強調することで野坂参三を告発し、獄中の夫を救おうとしたが(資料3)、野坂の「山本は左派だ」の一言で、ディミトロフとソ連秘密警察の「残留謀者」指名争いに敗れた(223頁)。

 野坂参三は、国崎定洞の粛清を早くから知りながら、勝本清一郎が戦後に国崎の消息を聞くと、「ばかにあわてて、それはだいじょうぶです、必ずソ連のどこかに生きていますとしきりに弁解をしていた」(勝本「プロレタリア文学と私」327頁)。数年前に私は、川上武や私の国崎についての調査に何も答えなかった野坂の「歴史における沈黙の責任」に触れ、苦い皮肉をこめて野坂夫妻の「美しい夫婦愛」と書いたが(『コミンテルンの世界像』497頁)、同様の「人間の劇」は、山本夫妻にもみられたようである。

 その山本夫妻に焦点を移して、本書巻末資料4の1938年11月「関マツ除名決定書」を読むと、山本懸蔵逮捕・関マツ除名の直接的容疑は、かの「疑惑の噂」に始まり野坂が告発した28年3・15事件時の疑惑とともに、なんと、党への無断入ソの件で山本自身が除名申請して「売った」はずの「タケウチ(伊藤政之助)をかくまっていたこと」(234頁)であった。伊藤を長く監視し密告・譴責・除名しても、山本の「疑惑の噂」の影は拭えず、助からなかったのである。スターリン粛清期のソ連では、「売った」者がすぐに「売られる」関係が広くみられたことは、よく知られている。そしてそれが、戦後東ドイツの「シュタージ国家」や文革期中国の『ワイルド・スワン』の世界の原型となった(桑原草子『シュタージの犯罪』中央公論社、1993年、ユン・チャン『ワイルド・スワン』上下、講談社、1993年)。

 こと国崎定洞の粛清に関する限り、山本の方が「売った」側で、野坂夫妻の方は受動的にみえる。おそらく1928年3・15事件時の国内日本共産党内での疑心暗鬼から発信された「3・15の時の山本の逃亡が怪しい」という「ベルリン・グループから片山潜に届いた噂」が、どうやら1930年代モスクワ日本人共産主義者世界のドラマの発端であった。

岡田嘉子にとって宮本顕治の「善意」とは何であったか?

 国崎定洞銃殺のさいの、タケウチ=伊藤政之助とともにもう一人の有罪証言者となった「ビリッチ」については、『土方梅子自伝』(早川書房、1976年、238頁以下)から在日ソ連大使館に勤務し日本人妻と結婚して帰国したロシアの下級外交官「ビリチ」と推定できた(内務省警保局『昭和16年中における社会運動の状況』の「土方与志の活動状況」にも「ソビエート大使館商務官下僚ビリーイッチ」とでてくる。『土方與志演劇論集・演出家の道』未来社、1969年、450頁参照)。このビリチは、土方夫妻と交流があり当時ブハーリン派として粛清されたというが、国崎とのつながりは不明である。その日本人妻「陸軍中佐の娘チルコ」も行方不明のままである。そこに出てくる「与志の知人だったレニングラード劇場の舞台監督服部氏」も「スパイの嫌疑で逮捕」されたまま、消息はわからない。日本人粛清犠牲者リストは、まだまだ増えることだろう。

 千田是也は、私のインタビューに答えて、「気の毒なのは、杉本良吉・岡田嘉子の1938年正月のソ連行きだった。自分たち新築地劇団のグループは、土方・佐野が国外追放になったのを、37年9月頃に知っていた。しかし、当時演劇理論のちがいや『アンナ・カレーニナ』の競演など、つまらぬところでわれわれと対立していた新協劇団の杉本は、それを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドのもとで学べるだろうと信じて、ソ連に入ってしまった」と述べている(千田『もうひとつの新劇史』394頁をも参照)。杉本は、1938年1月3日の越境直後に逮捕され、39年10月20日に銃殺された。拷問により、佐野碩・土方与志もスパイだったと「自白」し、それが佐野の演劇の師メイエルホリドの処刑につながったことも今日では知られている(『月刊Asahi』90年4月号)。モスクワの悲劇のクライマックスにおいても、無残な幻想のユートピアが、日本国内には根強く残っていたのである。

 1931年に日本共産党に入党した演出家杉本良吉は、32年9月以前に、中央委員宮本顕治から、詩人今村恒夫とともに入露を指示され、小樽まででかけて試みたがいったん失敗、宮本に「今後、機会があったら計画を実行するように」といわれて、「党の任務」として「コミンテルンに連絡するため」ソ連入国を決行したとされる(升本『女優・岡田嘉子』88頁以下、『赤旗』1972年11月16日、宮本『自主独立への道』1975年、368頁以下、『社会科学総合辞典』333頁)。

 戦後の1954年に、宮本は、蔵原や中野重治・佐多稲子らとの座談会で、「どうせ誰か1人や2人[ソ連に]行ってないと、先が長いから、みんな捕って資本(もとで)がなくなると困るというので、杉本良吉と[今村恒夫をソ連に]2人やることにしたんだ」と語ったという(津田孝「知られざる詩人の像」『文化評論』1973年7月号、125頁、なお、座談会「杉本良吉のこと」同誌75年2月号、菅井幸雄「杉本良吉の演劇的生涯」同誌75年4月号、参照)。

 杉本の「党的任務」を公式に明らかにした1973年の講演で、宮本は、「当時、ソ連は世界の共産主義者のいわば一つのあこがれでした。私どもも、ソ連ときけば身がしまるような、そしてここに新しい社会が生まれているんだ、と言ってみずからを励ましたわけです」「もちろん私どもは[杉本に]1932年ごろソ連に行くような指示を出したことはありましたが、その後どういう方法で行けということまでは(笑い)もちろんいってありません」「当時、杉本もそうでありますが、善意のコミュニストは社会主義の国ソ連に行けば、『牢獄と死』が待ちかまえているとだれも予想しないのが当然であります。スターリンの問題が国際的にも明白になったのは、戦後も大分たってからです」と中野重治らの批判を退け、弁明していた(『自主独立への道』371頁以下)。

 しかしそれで、政治家の結果責任を免れうるのだろうか? 中央委員宮本にとっては杉本は「資本」の一つにすぎないが、「善意のコミュニスト」杉本自身にとっては、崇高な「党の任務」である。5年後の杉本の越境が、本当に共産党員としての使命感に支えられたものだったとすれば、1932年の宮本の指示は「笑い」とばせるものではなく、杉本に地獄への片道切符を渡したものであった。宮本は、当時の自分の獄中生活にダブらせて、小林多喜二・今村恒夫・杉本良吉の使命感や党派性を「不屈の戦士」と讃える文脈で述べているのだが、それは、宮本の好きな「知を力に」どころか、「善意の無知」をバネにした幻想への突撃ではなかったか? それは、ジイドに反論した宮本百合子と同質の、「善意の無知」ないし「信仰告白」ではなかったか?

 今回、国崎定洞の最期を探求して、私は資料を手がかりに、何人かの現存する当時の関係者に会った。印象的だったのは、それぞれの人は自分の関わった活動や事件については詳しいが、その行動や事件の全貌と歴史的文脈を、なかなか理解できずにいることだった。1933年の日本共産党の最高指導者であった山本正美でさえ、中央委員宮本が前年杉本に訪ソの指令を出した試みたことを知らなかった。国崎定洞がもしも日本から発進された山本懸蔵の「疑惑の噂」の伝達者であったとしても、おそらくそれで山本から怪しまれ恨まれているとは、自覚していなかったであろう。それぞれの人々は善意に溢れ、国崎定洞をなつかしんだ。野坂や山本懸蔵のウラの世界での言動には、いまだに信じられずにいる人がほとんどであった。まことに、地獄への道は、無数の善意で敷き詰められていたのである。

 職業政治家の心情倫理と責任倫理の問題を提起したのは、マックス・ウェーバーであった(『職業としての政治』)。日本共産党に「前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任」「結果責任」を問いかけたのは、丸山真男であった(『戦中と戦後の間』601頁)。私が「歴史における沈黙の責任」を追及した野坂参三は、沈黙したまま、「同志を裏切った」責任をとらされ、寂しく世を去った。国崎定洞や伊藤政之助を「売った」山本懸蔵は、野坂に「売られ」自らが粛清されることで、責任をあがなったことになるのだろうか? 杉本良吉にソ連渡航を命じた宮本顕治は、当時は「善意のコミュニストは誰も予想しない」事態であったが故に、免責されるのであろうか?

 いや、ここでも熊沢光子の運命を想起し、her-storyに目配りすべきだろう。国崎の妻フリーダ・レートリヒにとって、夫の生まれた日本および夫を奪った日本人とは、何であったのか? 野坂竜や関マツに、非党員片山安子に、党に献身して家庭を顧みず、同志でありながら互いに密告しあう男たちは、どう映っていたのだろうか? 愛する杉本とともに越境し、あっけなく引き裂かれ、10年の禁固・流刑を体験した岡田嘉子にとって、杉本に渡航を命じた日本共産党とは、杉本をかりたてた「社会主義」とは、いったい何であったのか? 岡田の人生において、宮本顕治の杉本への「任務」の指示は、いかなる意味を持っていたのだろうか? 女たちは、その時代について多くを語らず、自らの文字で記録を残すことなく、沈黙したまま世を去った。

 これらモスクワでの戦前日本共産党指導部の歴史と、リンチ査問致死事件から中央委員会壊滅にいたる国内共産党指導部の歴史は、表裏一体である。その歩みは、いかに天皇制特高警察の弾圧やスターリン体制の残虐性を考慮に入れても、私には「自壊」に見える。

 そこで「資本」として失われた多くの一般党員・非党員の生命の痛みを、今日どのように感じとるべきかが、私が、本書『闇の男』からうけとり、いまなお考えつづけている、重く痛切な問いである。



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