この短文のエッセイは、もともと『エコノミスト』誌1994年9月13日号に日本語で発表されたが、予想外の大きな反響があった。NHK生活部の記者がぜひドラマにしたいといってきたが、それは実現されなかった。経済企画庁に頼まれてレクチャーすることになった。そしてついには外務省の関係する英文雑誌『LOOK JAPAN』1995年2月号に英訳が掲載された。どうやら対外貿易摩擦のapologyに役立つと思われたらしい。事実、インドのデリー大学で講義に使ったら、そうだ私たちインド人でも勤勉になって日本人のような生活ができるようになるんだと自信を持った、と感想をいう学生もいた。「国民性は歴史的に可変である」という命題は受け入れられたんだから、まあいいことにしておきましょう。
過労死(death from overwork)という日本語がある。長時間過密の働きすぎによる突然死のことで、過労死ホットラインで犠牲者遺族の相談にのっている弁護士たちの調べでは、年1万件に達する。日本の交通事故による年間犠牲者の数と、ほぼ同じである。過労死は、会社に長時間拘束された労働者の肉体的・精神的ストレスの産物である。国際労働機構(ILO)は、1993年の公式報告で、初めて過労死をとりあげた。
"The Japanese work longer hours than most other industrial nations: officially 2,044 hours in 1990 (compared with 1,646 in France, for example). In fact the working year is generally much longer because of unpaid 'service overtime'"と、ワーカホーリックな日本人の長時間労働に、警告を発した(ILO, World Labour Report 1993,Geneva 1993, pp.65-67)。
現代日本の労働時間は、欧米諸国に比べて長い。労働省の毎年発表する『労働白書』1994年版によると、1993年の年間総実労働時間は1,920時間、スウェーデン、ドイツ、フランスより年間300時間以上長い。バブル経済の絶頂期は、年間2,100時間を越えて、アメリカより約200時間長かったが、不況による残業時間の減少で、2,000時間を割った。国際比較の統計の上では、アメリカ・イギリス並みになったことになる。
だが、この労働省統計(「毎月勤労統計調査」)は、事態を正確に伝えてはいない。この統計は、従業員5人以上の事業所の平均である。しかし、日本の労働時間は、企業間格差が大きい。大企業では週休2日制が定着しているが、労働者の6割が働く従業員30人以下の小零細企業では、土曜も仕事が当り前である。
この統計は、パート労働の女性労働者も男性正社員も含む平均である。だが、就業人口の40%を占める女性の労働時間は、男性に比して短い。女性が保護されているのではない。低賃金の女性労働が、短期契約のパート労働に大量に用いられている。男性なみに働くエリート女性もいないではないが、多くの女性労働者は、残業のない補助労働に就く。男性なみに働きたくても、既婚女性には家庭での家事・育児がある。炊事・洗濯・掃除・こどもの育児・教育・近所付き合いなど家事労働の大半は、日本では女性の負担になる。したがって日本では、男性と女性とでは、著しい実労働時間の差がある。主婦の場合は、家事・育児労働中心で、男性に経済的に依存する。共働きの既婚女性は、無賃の家事労働を含めると、男性より自由時間が少なくなる。
国際比較のベースとされる労働省統計は、会社側の申告をもとに、賃金を支払った労働時間から逆算した数字である。だが、日本には、不払い労働時間がある。サービス残業とか持ち帰り残業とよばれるもので、銀行などでは、月に数十時間に達する。
同じ政府統計でも、総務庁が労働者世帯から直接聞き取り調査した「労働力調査」では、年実労働時間は、労働省統計より約350時間長くなる。この年350時間が、日本の労働者の平均的サービス残業時間である。そして、労働実態をよりよく反映した総務庁「労働力調査」から計算すると、25歳ー49歳の働き盛りの男性労働者の年実労働時間は、2,600時間以上に達する。ドイツ、フランスの労働者より年に4ヵ月以上長く働いていることになる。この方が、労働者の生活実感に近い。
そのうえ公式統計には、悪名高い満員電車での通勤時間(東京近郊では往復2時間以上)も、仕事の延長で上司や同僚とくりだすカラオケバーの時間も含まれない。東京近郊のサラリーマンのライフスタイルは、しばしば「セブン・イレブン」とよばれる。朝7時に家を出て、夜の11時に帰る。だから子どもと一緒に食事をするのは休日のみ、日曜日は疲れてテレビをみながら昼寝、家族のために働きながら、家族とすごす時間はほとんどない。有給休暇の消化率は、周囲に迷惑がかかる、病気に備えてとっておくという理由で約5割、実際は、有給休暇を全部とる社員は仕事熱心でないと査定されるのを、恐れているのである。
労働時間の長さは、自由時間を圧迫する。だから日本の余暇は貧しい。長期休暇は1週間以下が普通、それも土日込みで、家族が故郷に帰る盆と正月前後に集中、高速道路の渋滞は数十キロになる。円高で年に10人に1人は海外旅行をするようになったが、それも過密スケジュールの駆け足団体旅行が中心である。名所旧跡で記念写真をとり、ブランド店で買物、豪華レストランで食事とパターン化されている。その代わり、物価高の日本を離れ円高が実感できるので買物は豪華になる。ハワイ州の観光統計では、アメリカ人の5倍の金を使う。「勤勉なエコノミック・アニマル」は、日本人のキャッチフレーズであり代名詞になる。
読売新聞の世論調査では、日本国民の半分が、自分ないし自分の家族の「過労死の不安」を感じている。それなのになぜ、会社に命ぜられるまま長時間働くのか? しばしば日本人は仕事好きで勤勉だといわれる。勤勉は「日本人の国民性」と賞賛される。多くの会社員は長い余暇があるとおちつかないと感じる。確かに労働時間統計からは、そう見える。
だが、本当に日本人は、もともと勤勉だったのか? 歴史の資料を調べると、近代化の始まりの時期、日本人は必ずしも勤勉ではなかった。それどころか、どうやら余暇を謳歌していたようだ。
江戸時代の商家や職人は、一般に毎月1・15・28日を休日にすることが多く、このほかに、それぞれの同業者や組合で取り決めた定休日や行事にともなう多数の休日があった。1794年に大阪で出された「町触れ」(地域の公的取り決め)からは、当時の職人の労働リズムがわかる。朝8時に仕事を始め、夕方6時に終わる。午前10時と午後2時に30分の休憩、昼休み1時間、4月8日から8月1日は昼休みが1時間延長され2時間になる。休日は毎月1日・15日、五節句は休み、12月25日から1月9日が正月休み、盆休みは7月11ー20日とある。江戸時代の元禄文化や歌舞伎・浮世絵は、こうした町人の生活リズムの土台の上に生まれた。
明治に入っても、家内工業職人・商人の労働時間は、季節によって多少異なるが、8ー16時の8時間労働が一般的で、10時・12時・15時の小休止があった。明治国家が当初採用した「一六(いちろく)休み」の制度は、こうした町人・職人の伝統を受け継いでいた。
農業や漁業の場合、生産にかかわる信仰との関係で、さまざまな祝祭日・行事があった。そもそも季節や天候で労働日が限られ、雪や雨や嵐の日は仕事ができず、夜は電気もないから、実際の労働時間は、今日の企業戦士たちよりはるかに短い。地域によってそれぞれ「ショウガツ」「カミゴト」「ドンタク(オランダ語の日曜日zontagが語源)」などとよばれる祝祭日=「村の遊び日」があった。
「村の遊び日」は、江戸時代初期の年20ー30日が、後期には60ー80日に増える。農業技術の改良・生産力増大で休日は増加し、かつ、宗教的色彩を薄めて人々の余暇時間になった。ただしそれは、個人の自由時間ではなかった。ムラやイエ単位の休日で、冠婚葬祭やムラの行事への出席は、権利ではなく義務であった。
普通の武士(サムライ)たちの日常生活も、鎖国で外国と遮断され国内でも戦争のなかった江戸後期には、のんびりしたものだった。おおむね主君の城への「三番勤め」、つまり3日に1度の24時間勤務で、あとは学問と武芸の自主的修養・訓練にあてられた。
なかには元禄期(17世紀末ー18世紀初め)に詳細な日記を残した尾張藩(現名古屋)の下級武士朝日文左衛門のように、9日に1度の城内勤務で、あとは自宅研修の名目で遊興にふけるという場合もあった。ただし、参勤交代といって主君である大名は隔年で江戸生活を送るため、それに随行する武士たちの場合は、家族と離れての単身赴任を余儀なくされた。
こうした伝統を受け継いで、1868年、明治維新で生まれた新政府は、毎月1と6のつく日を休日と定めた(一六休み)。このほかに、祝祭日として、天皇家の行事に関わる年10日の休日を設けた(1873・78年)。
「一六休み」は、1876年に諸外国の慣習にあわせるための太陽暦採用で、現在の七曜週休制(日曜休日、土曜半休)に改められた。これが官公庁・学校を中心に次第に定着した。
しかし明治の日本人は、ずいぶん休んでいた。太陽暦採用以前の「一六休み」は、月に6日は確実に休めるから、現代日本の月1度学校週休2日のこどもたちより休みが多かった。太陽暦採用後も、天皇家の国家儀礼の他に、地域や職種による祝祭の習慣が残り、休日数はあまり変わらなかった。
暑い夏には仕事の能率が落ちるので休む習慣も、長く残された。江戸時代のサムライの伝統を受け継いで、明治期の日本の官庁の就業時間は短かった。1892年の記録では、春(4ー6月)が8ー16時、夏(7・8月)は8ー12時と午前のみ、秋冬(9ー3月)は9ー17時、さらに夏には約20日間の夏期休暇があった。もっとも明治新政府が「一六休み」を採用した直接の目的は、それまで地域毎・身分毎にまちまちであった休日を統一するという、国家的要請にもとづいていた。近代化・西欧化の過程で、休日・夏期休暇は減らされ、勤務時間は長くなった。官庁の場合、1922年に夏期休暇制度が廃止され、夏期勤務時間もそれまでの12時が15時までに延長された。1938年には、戦争に備えて、夏期の短時間勤務の制度が廃止された。
日本人の休日・余暇が減ったのは、明治の富国強兵・殖産興業政策で、軍隊的規律と工場労働が広がった結果である。学校教育と「時は金なり」の観念の普及で、近代的時間規律が浸透したのである。昭和時代になると、江戸時代の「サムライの時間」も、自然のリズムに合わせた「農民の時間」も、「一六休み」の伝統をもつ「商人の時間」をも駆逐して、「軍隊と戦争の時間」「工場のリズム」「会社の時間」が庶民の生活を支配するようになった。
こうした歩みは、実は、世界の歴史と軌を一にする。民族学や経済人類学の研究成果によると、旧石器時代の狩猟・採集民は、食物の確保に成人1人1日当り平均3ー4時間労働、年平均1200時間しか必要なかった。新石器時代の労働様式を伝えるニューギニア島民は、畑作中心で一日平均4時間である。古代ギリシャの市民には、エコノミー=経済の観念そのものがなく、生産労働は女性・奴隷の仕事であった。他共同体との戦争に備えて、共同体の政治や神事への参加こそ市民の義務で、アテナイの場合、年50ー60日の休日があった。古代ローマのカレンダーでは、355日中109日が「司法や政務は不法」であった。4世紀の公衆の祝祭日は、175日にもなった。
ヨーロッパ中世の典型的農業労働は、夜明けから夕暮れまで、自然のリズムに合わせたものだった。収穫期であっても、朝食・休憩・昼食・午睡などで中断された。農閑期は、のんびり過ごした。中世イングランドでは、祝祭日と余暇が年の三分の一、アンシャンレジーム期フランスでは、年に52日の日曜日、90日の安息日、38日の祭日があり、年の半分は休んでいた(Juliet B.Shore, The Overworked American, NewYork 1992)。
自然の時間から時計の時間へ、教会の鐘から工場の時計へ、農業のリズムから工業のリズムへという産業革命に典型的な変化が、労働のあり方を激変させた。K・マルクス『資本論』には、1863年6月にロンドンの新聞が報じた女工の「過労死」の記述がある。「時は金なり」が習俗になった。学校教育の普及とあいまって、時間規律が強化された。軍隊と監獄が、起床・就寝から食事時間まで、細かく時間割で秩序だてた。かくして、時間は、流れる(pass)ものから費やす(spend)ものへと変わり、人間は時計に縛られる存在となった。
「働かざる者、食うべからず」は、近代の時間秩序をつくった。しかし近代西欧では、自由や人権の観念と結びついて、時間の個人的所有の観念が、職人組合・工場法から労働組合運動・社会主義思想にいたる、長時間労働への抵抗権、労働時間短縮の原動力となる。
19世紀末に始まるメーデーの合言葉は、8時間労働日の実現だった。1919年創立のILOの最初の仕事は、8時間労働日、週48時間制の世界への普及だった。その延長上で、現代ドイツの金属労働者は、週35時間制を、団体交渉で認めさせた。
日本ではどうか? 先に見た記録の物語るところでは、日本でも前近代の時間は、のんびりしたものだった。ただし、日本では、時間の個人的所有の観念が、発達しなかった。祝祭日・余暇はイエやムラのものであり、その行事に加わらない者は罰せられた。明治期になると、自由や人権の観念は抑圧されたまま、義務教育の学校制度や徴兵制による軍隊生活を通じて、集団的に時間規律が教えこまれた。
労働時間を短縮し、余暇を個人で自由に使うことは、自由や権利として自覚されなかった。「欧米へのキャッチアップ」をナショナル・ゴールとした経済成長の時代には、労働組合の春闘要求においても、賃上げは常に第一に掲げられたが、労働時間短縮は、ほとんど問題にならなかった。今日の大企業においてさえ、残業の上限が職場毎に決められ、小集団単位に分配されてから個々人に支払われるしくみがある。サービス残業や過労死を生み出す日本人の会社への忠誠心とは、個人の自由時間への権利が確立されない、日本的土壌に育てられた。
しかし、近代化の推進力となった工場でも、日本人は当初から「勤勉」だったわけではない。明治期に日本にきた欧米人の記録では、日本の労働者は「勤勉」どころか「怠け者」とされる。オーストリアの日本研究者Sepp Linhart教授は、次のように述べている。
"To Western obeservers of the Meiji period, the Japanese exibited none of today's stereotypical characteristics of a diligent, hard-working people. Karl Scherzer, a member of the first Austro-Hungarian delegation to the Far East, wrote in his diary shortly after the Meiji Restoration that the Japanese seemed much more cheerful, pleasure-seeking, and given to drink and showed more aversion to work than the Chinese he had observed. Similarly, at the turn of the century,a numberof German missionaries and others who had stayed in Japan for several years had little respect for the diligence of the Japanese worker."
リンハルト教授が紹介する当時のドイツ人の観察記録には、次のような叙述もみられる。
"Constant work has hardly been known in Japan." "The Japanese worker is hardly willing to submit himself to the military discipline which according to our standards must rule the modern factory. He takes his holiday whenever he likes, he comes and goes as he pleases, and if he is scolded for such behavior, he leaves the company" (The Journal of Japanese Studies, Vol.14, No.2, 1988, pp.271-272).
こうした「休み好きの日本人」は、日本側の記録からも、裏付けられる。明治政府の農商務省(現在の通産省の前身)の調査報告『職工事情』(1903年)には、20世紀初頭の日本の労働事情が詳細に描かれている。年少の糸繰り女工の1日15ー18時間に及ぶ悲惨な強制労働の報告と共に、「貯蓄心がない」「給料日の翌日に休業する者が多い」「一生の仕事と考えるものが少ない」と、「勤勉」とはほど遠い職工たちの姿が報告されている。
当時の職工の半数以上は勤続3年未満の未熟練者で、年にほぼ半数が退職した。基幹産業である三菱長崎造船所の月当り離職率は6%(1898年)、欠勤率も21%(1908年)に達した。欠勤率は冬の11月ー1月は低いが、暑い7・8月に高まる。月のうちでも、5日は賃金支払日で出勤するが、6ー9日は懐が暖かになったため怠惰になり遊興のため欠勤、9日以後は賃金を殆ど使い果たしたので真面目に働き、20日の賃金計算のための帳締め日には最良という「気まぐれな出勤態度」であった。(NIRA『産業労働における勤勉性の研究』1985年)。
もっともこれは、工業労働者の比率がそもそも低く(1900年に雇用者の15%)、低学歴で、「職工は女こどものやること」という風潮の強かった時代のことである。日清・日露戦争から大正期に入ると、定着率・勤続年数が次第に高まり、欠勤率も低下する。学校教育と徴兵制による軍隊生活で、文字通りの「軍隊的規律」が浸透した結果である。
いずれにせよ「日本人の勤勉性」の歴史的起源は、とても近代以前にまで遡るわけにはいかない。日本最大の官民シンクタンク総合研究開発機構(NIRA)の報告書がいうように、「明治、大正期においては、一部の基幹労働者を除き多くの産業労働者の勤務状況、あるいは働くことに対する意識は極めて低調で‥‥予め決められた労働に対し10ー20%の高い欠勤を示し、勤務状態は不安定」であった。また「自分の勤める会社に対する帰属意識も希薄で高い離職率と低い定着率」を示した。「勤勉性が本格的に形成、発揮されるに至ったのは第2次世界大戦後の1950ー55年以降」である(同前)。
ただし注意すべきは、江戸時代の日本人の余暇の時間は、土着的信仰と結びついたイエ・ムラ単位の集団的祝祭・行事であり、個人の自由時間ではなかったことである。また、明治以降の近代化過程でも、自由や人権として休日・余暇の獲得が自覚されたわけではなく、職工の人格的承認や残業手当の平等な配分が労働者たちの要求であった。
第二次世界大戦後に公認された労働組合運動も、春闘では常に賃金要求が第一であり、労働時間短縮要求はほとんど見られなかった。だから世界的に著名な大企業においてさえ、予算化した残業手当を職場・小集団単位で分配し上限を定めてから個人に支払う慣習が今日でも見られ、サービス残業が横行するのである(cf.Thomas C.Smith,Native Sources of JapaneseIndustrialization 1750-1920, University of California Press,Berkeley 1988,pp.199ff.)。この面からすると、日本人の「勤勉」は、自由と人権の弱さの表現なのである。
「勤勉は日本人の国民性」とは、第二次世界大戦後に作られた神話である。かつて世界一「勤勉」といわれたドイツが、今日では労働時間短縮の先進国で余暇大国であるように、その国の労働のあり方は、歴史的に形成され、自由や人権や福祉のあり方で左右される。
日本の場合、「欧米へのキャッチアップ」のための長時間労働による高度経済成長が、今日の勤勉神話をつくった。バブル経済期には、「24時間闘えますか、世界にはばたく日本のサラリーマン」というスタミナ・ドリンクのコマーシャル・ソングを生むまでになった。このサービス残業を当然とし、過労死さえ生み出す日本型経済成長と日本的経営が、日本の「豊かさ」を生み出すと共に、労働者の心身を酷使しストレスを蓄積してきたのである。
疲れたら休む、疲れがとれたら家族や友人と団らんし、好きなことを楽しむ――これが本来の日本人の生活の知恵であった。バブル経済の崩壊後、1994年に経済企画庁は、初めて「過労死」を正面からとりあげた調査報告「働き過ぎと健康障害」を発表した。それは、サラリーマンに「健康的な価値観」を推奨し、「会社に対する忠誠」から「仕事に対する誠実」への転換を勧めている(『経済分析』第133号)。こうした価値観は、若い世代から徐々に企業内にも浸透してきている。
「エコノミック・アニマル」「勤勉な日本人」の神話が、絶頂期を過ぎた日本経済のかげりとともに崩壊する日も、遠くはないだろう。