以下に収録するのは、今は亡き公明党の機関誌『公明』1993年11月号に寄稿した、現代資本主義研究入門である。『公明』から執筆を依頼されて初めは躊躇したが、編集部員がなかなか勉強している人で、世界システム論やレギュラシオン理論を軸にしたものでかまわないということで引き受けた。実際「検閲」もなかった。扱った文献は今日ではやや旧く、日本的経営・日本資本主義礼賛論も世界的に峠を越したが、私の基本的視角は変わらず、今日でも意味ある書物が多いので、「書評の倉庫」の巻頭におくため、ここに収録する。
イギリスでベーカリーとは、もともとパンを焼く職人のことだった。それがパンを売る店をも意味するようになるまで、300年かかったという(M・ハリソン『買い物の社会史』法政大学出版局、1990年)。日本では1887(明治20)年、木村屋が菓子パンの製造・販売を始めた(渋沢敬三編『明治文化史・生活編』洋々社、1955年)。急速に普及したのは1950年代で、学校給食と「朝食はパン」のライフスタイルが広まったためである。
日本のパンは初めから商品だった。コメをとれば逆のことがいえる。資本主義市場経済といっても、さまざまである。パンやコメの商品価値は文化や伝統に左右される。川勝平太の「物産複合」観念が、資本主義論にも意味を持つゆえんである(「社会科学の脱領域化」『講座 社会科学の方法@』岩波書店、1992年)。
そもそも「資本主義」という言葉自体、きわめて新しい。アダム・スミスからA・マーシャルにいたる古典派の系譜は、もっぱら自由競争とか私有財産制を論じた。19世紀の社会主義者ルイ・ブランが「資本の排他的占有」を資本主義と呼び(『労働組織』1839年)、明治維新の頃にK・マルクス『資本論』が「資本家的生産様式」のような形容詞形で用いたが、広く一般に用いられるようになったのは、20世紀初頭にW・ゾンバルトが『近代資本主義』を書いて以後のことである(重田澄男『資本主義の発見』御茶の水書房、1983年)。言葉だけをとれば、共産主義や社会主義の方が資本主義より先だった。
資本主義対社会主義という構図は、20世紀特有のイデオロギー的対抗である。だからソ連・東欧社会主義崩壊を資本主義の勝利と短絡できないのは、ガルブレイス他『資本主義は勝利したか?』(JICC、1991年)や伊藤誠『逆流する資本主義』(東洋経済新報社、1990年)のいう通りだ。F・フクヤマ『歴史の終わり』(三笠書房、1992年)の「自由民主主義の勝利」も、ドラッカー『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社、1993年)も、吟味してかからねばならない。ポスト冷戦は限りなく不透明である。
その混沌とした理論状況は、朝日新聞企画調査室『どうみる社会主義のゆくえ』(新興出版社、1992年)や日本経済新聞社編『私の資本主義論』(日本経済新聞社、1993年)で鳥瞰できる。第一線財界人からノーベル経済学賞受賞者まで、「資本主義万歳」という議論はほとんどない。むしろA・コッタのいう『狼狽する資本主義』(法政大学出版局、1993年)や、M・アルベールのいう『資本主義対資本主義』(竹内書店、1992年)、総じて欧米資本主義の構造疲労と経済理論の混迷こそ、問題なのである。
かつて森嶋通夫が『なぜ日本は「成功」したか』(TBSブリタニカ、1984年)で問題にした「儒教資本主義」は、今日でも欧米の資本主義論に繰り返し現れる。バブル崩壊、1ドル=100円でも失業率3パーセント以下という日本経済の不思議が、世界の資本主義研究を混乱させている。
国内で村上泰亮『反古典の政治経済学』(中央公論社、1992年)が広く読まれたのも、既成の理論が説得力を失った同じ文脈においてであろう。P・ロザンヴァロン『ユートピア資本主義』(国文社、1990年)が試みているように、ホッブス、ロックの時代に遡って改めて「市場」の意味を探ることも、十分に意味を持つ。
編集部からの当初の注文は「現代資本主義を読む10冊」であったが、このような時代には、バイブルなどありえない。むしろ手当り次第に世界の知性にチャレンジして、自分の視座を定めるべきである。そこで以下では、混沌としたポスト冷戦の資本主義を理解するための著作をランダムにとりあげることにする。
まずは資本主義の現在を具体的にイメージするために、西川潤『世界経済入門・第2版』(岩波新書、1991年)と坂本正弘・鹿島平和研究所編『図説・20世紀の世界』(日本経済新聞社、1992年)。前者では、1950年から90年のわずか40年間で、世界人口は2倍、生産力は27倍、輸出貿易は47倍になったことを知らされる。後者では、そうしたグローバルな構造が、ビジュアルに描かれている。ボーダーレス化した世界資本主義のなかで、日本は今やアメリカに次ぐ15パーセントの生産力シェアを持つにいたった。一企業の売上高が中小国家のGNPをはるかに超える多国籍企業の経済力、日本を中心としたアジア・太平洋の発展と、それに対抗するヨーロッパのEC、アメリカ・カナダ・メキシコの北米自由貿易圏(NAFTA)結成という地域経済統合の動きも重要だ。
今日の資本主義は、一つの世界秩序である。このことを意識的に追求してきたのが、I・ウォーラーステインの世界システム論である。資本主義世界システムを中心・半周辺・周辺の三層構造でみる彼の理論は、『史的システムとしての資本主義』(岩波現代選書、1985年)がわかりやすい。より具体的に論じた『世界経済の政治学』(同文館、1991年)や『ポスト・アメリカ』(藤原書店、1991年)にも、ぜひチャレンジすべきだ。彼の見解では、今日のソ連解体もアメリカ資本主義の衰退も、1968年世界システム革命の内にはらまれていた。アメリカのヘゲモニー衰退は、資本主義世界システムの長期循環(コンドラチェフ循環)から引き出される。R・ギルピン『世界システムの政治経済学』(東洋経済新報社、1990年)の新重商主義アプローチにも、目配りしたい。
同じく長期循環への着目と、市場経済のもとでの技術革新や企業家精神の強調ゆえに、欧米でも日本でもJ・シュンペーターが復活し、再評価されている。私のイギリスの友人B・ジェソップは、ヨーロッパでは「ケインズ主義的福祉国家」の危機からの脱出口として、「シュンペーター主義的勤労福祉国家」が出現しつつあるという。需要管理・完全雇用のケインズから供給サイドのイノベーションを重視したシュンペーターへというのは、わかりやすい説明だ。伊東光晴・根井雅弘『シュンペーター』(岩波新書、1993年)が財界人からサラリーマン・学生まで広く読まれているのも、そうした文脈からだろう。
だが、地球大への「公正」原理拡大を求めて、むしろ「グローバル・ケインズ主義」を構想する道もある。佐和隆光『これからの経済学』(岩波新書、1991年)、同『尊厳なき大国』(講談社、1992年)や、宮崎義一『変わりゆく世界経済』(有斐閣、1990年)の「トランスナショナル・シビル・ソサイアティ」の提唱は、こうした思考に刺激を与える。田口富久治編『ケインズ主義的福祉国家』(青木書店、1989年)などで改めてヨーロッパ福祉国家の意義を考え、日本の経済成長のあり方をふりかえることが必要だ。
戦後日本の高度経済成長は、今日からみれば、世界史的にユニークな一時代だった。香西泰『高度成長の時代』(日本評論社、1981年)や中村隆英『昭和経済史』(岩波書店、1986年)がスタンダードだが、私はむしろ、渡辺治『「豊かな社会」日本の構造』(労働旬報社、1992年)のようなメリハリある分析を勧めたい。
現代資本主義の世界史的展開に鮮やかなメスを入れて魅力的なのは、フランスに生まれたレギュラシオン理論と、アメリカの社会的蓄積構造(SSA)理論である。
レギュラシオン学派の著作は、ここ数年次々と翻訳されている。全体像を知るには、ボワイエ『レギュラシオン理論』(藤原書店、1989年)や山田鋭夫『レギュラシオン・アプローチ』(藤原書店、1992年)、同『レギュラシオン理論』(講談社現代新書、1993年)が便利である。戦後成長の基礎に、アメリカに発するフォード主義の蓄積体制と調整様式を見いだし、その大量生産・大量消費システムの矛盾の展開を分析している。
アメリカSSA理論は、ボールズ=ゴードン=ワイスコフ『アメリカ衰退の経済学』(東洋経済新報社、1986年)、マーグル=ショア『資本主義の黄金時代』(東洋経済新報社、1993年)などで知りうるが、労働市場や学校教育など社会的・制度的要因を媒介している点が、レギュラシオン理論と共通する。
レギュラシオン理論の中には、フォード主義の危機から脱したポスト・フォード主�`の理念型として、ほかならぬ日本の生産システムに注目するものが多い。先に挙げたジェソップの「ケインズ主義的福祉国家からシュンペーター主義的勤勉国家へ」のテーゼも、実は先進資本主義の「フォード主義からポスト・フォード主義へ」のパラダイム転換を前提し、シュンペーター主義的勤勉国家の典型として、日本や韓国の技術革新や国際競争力強化への国家介入を想定している。
A・グールド『資本主義の福祉システム――日本、イギリス、スウェーデンの比較』(英文、ロンドン、1993年)にいたると、公的福祉をミニマムにして企業や家庭に福祉を委ねた日本型福祉社会を、イギリス・スウェーデン型福祉国家の行きつく先のモデルに仕立てている。日本企業の貿易黒字と欧米への直接投資、日本的経営の流入によるジャパナイゼーションの進行を背景にしているのだが、当の日本で「生産者中心から消費者本位に」「経済大国から生活大国へ」が言われている時に、欧米では逆に、日本の高い生産性と効率、低福祉・長時間労働のもとでも一生懸命働く勤勉の秘密が、改めて注目されている構図だ。
ジェソップやグールドは、国家の経済政策を含めた日本のマクロ・システムの特異性に着目する限りで、C・ジョンソン『通産省と日本の軌跡』(TBSブリタニカ、1982年)やK・ウォルフレン『日本権力構造の謎』(早川書房、1990年)など、いわゆる「日本異質論」の系譜に連なるが、レギュラシオン学派が日本に注目するのは、むしろ、ミクロの労使関係である。資本間競争ではなく賃労働関係から出発する理論枠組みが、日本の特異な賃金決定様式・生産システムへの関心を導いた。
なかでもB・コリア『逆転の思考』(藤原書店、1992年)は、いわゆるトヨタ・システムを「オオノイズム」と命名して、これをEC諸国の学ぶべき普遍的生産システムとした。私(加藤)とロブ・スティーヴンの編集した『国際論争・日本型経営はポスト・フォーディズムか』(窓社、1994年)は、日本資本主義をレギュラシオン理論をも用いてどう分析すべきかをめぐる、世界の研究者の交流・討論の場になっている。
日本的経営システムについては、無論、国内でも多くの議論がある。書店の経営書コーナーのほとんどが、A社の成功やB社の失敗についてのノウハウに関するものである。よりソフィストケイトされた形では、青木昌彦『日本企業の組織と情報』(東洋経済新報社、1989年)、伊丹敬之『人本主義企業』(筑摩書房、1987年)、小池和男『仕事の経済学』(東洋経済新報社、1991年)などが、情報の共有や企業内従業員訓練を軸に、日本的経営を理論的に論じている。
しかし、ここではもっと広く、日本経済と企業の「成功」が、働く者の生活や家庭・地域社会に何をもたらすか、そもそも欧米起源の経済理論で日本資本主義をどこまで説明しうるかという問題を、じっくり考える必要があるだろう。マクロ・レベルでいえば、東京大学社会科学研究所『現代日本社会』全7巻(東京大学出版会、1990-91年)が綿密に分析した「会社主義」「企業社会」が問題の焦点である。その所有構造における株式相互持合、企業集団・系列支配、すなわち「法人資本主義」は、奥村宏『会社本位主義は崩れるか』(岩波新書、1992年)が鋭く述べるように、内外で問い直されている。
より典型的には、過労死さえうみだす日本型長時間労働の問題がある。川人博『過労死社会と日本』(花伝社、1992年)が詳しく述べているように、労働省が昨年2000時間をきって英米なみに近づいたという公式労働時間統計は実態に合わず、働き盛りの第一線サラリーマンでは残業手当が減りサービス残業が増えただけで、年実働3000時間以上の「過労死予備軍」が約1000万人、国民の半数が過労死の不安を感じており、年約1万人が過労死の犠牲になっている。交通事故なみである。大沢真理『企業中心社会を超えて――現代日本をジェンダーで読む』(時事通信社、1993年)を読むと、これは日本企業が男性中心主義で貫かれているからだと思いしらされる。田中祐子『単身赴任の研究』(中央経済社、1991年)や久富善之『競争の教育』(労働旬報社、1993年)からは、それが家庭生活や学校教育にいかに大きなひずみをもたらしているかがわかる。
M・アルベール『資本主義対資本主義』(前掲)や深田祐介=R・ドーア『日本型資本主義なくしてなんの日本か』(光文社、1993年)は、金融・生産システムにおける英米型資本主義と日独型資本主義を対比して面白いが、日本型「企業社会」にまで目を広げると、暉峻淑子『豊かさとは何か』(岩波新書、1989年)や西谷敏『ゆとり社会の条件』(労働旬報社、1992年)の描くドイツは、日本資本主義とはずいぶん異なる。
つまり、現代の資本主義は、今井賢一のいう『資本主義のシステム間競争』(筑摩書房、1992年)の中にある。細川非自民内閣成立と1ドル=100円時代の到来のもとで、日本の経済政策とリストラクチュアリングが世界から注目されるのも、財界内部でさえリストラをどこまで深化するか、政治献金をどうするかで意見が分かれ、日本型資本主義がポスト冷戦から21世紀の世界の行方を考える上での焦点になっているからなのである。
日米関係のレベルでは、D・バースタイン『日米株式会社』(三田出版会、1993年)の主張する「対立の時代から共生の時代へ」が望ましいのであろうが、アメリカ資本主義の危機も深刻である。過労死は日本の専売特許と思っていたら、アメリカでベストセラーになったJ・ショアー『働きすぎのアメリカ人』(窓社、1993年)が日本にも紹介された。アメリカでは、ここ20年間で年労働時間が162時間(1ヵ月分)延びたという。
年1500労働時間をきったゆとりの国ドイツでも、東西統一の経済的コストが大きく、営業・残業時間延長が議論されている。もはや世界で「生活大国」と言えるのは、岡沢憲芙が『スウェーデンの挑戦』(岩波新書、1991年)、同『スウェーデンを検証する』(早稲田大学出版部、1993年)などで精力的に紹介する北欧諸国ぐらいである。
しかしグールドの先の著書によると、スウェーデンでも日本化が進行して、福祉国家が崩れてきている。経済成長率で考えれば、むしろ中国が21世紀初頭には世界一の経済大国になるという『ニューズウィーク』の見通しの方が正しいかもしれない。中国の「改革・開放」「社会主義市場経済」は、実際には世界市場参入・資本主義化であり、世界人口の5分の1を占める中国がGNP世界一になるのは、ある意味では自然なことであるから。
だが、中国11億の人々や、インドの8億の人々が、皆自動車にのりパソコンを操る資本主義を、想像できるだろうか? すぐにつきあたるのは、ローマ・クラブがつとに警告した『成長の限界』(ダイヤモンド社、1972年)、同『第一次地球革命』(朝日新聞社、1992年)も指摘する地球環境・生態系との関わりである。ここでは、新古典派であれ、ケインズ主義であれ、マルクス派であれ、従来の経済学の限界があらわになる。
そこで、従来のエコノミクス(経済学)では「外部」とされてきた問題を扱う理論が必要になる。エコロジー(生態学)である。環境生態系危機の実態については、石弘之『地球環境報告』(岩波書店、1988年)などが書店に溢れ、「持続可能な成長」は、1992年国連地球サミットで180ヵ国政府の合言葉になった。
経済・生産システムとの関係では、例えば宮嶋信夫『大量浪費社会』(技術と人間、1990年)が描くゴミや産業廃棄物の問題。これまでの経済学は、生産ー流通ー消費で完結していたが、消費の先に廃棄と廃棄物処理を加えて、産業循環から生態系循環へと発想をトータルに転換しなければならない。同様に、国民所得に計算されない家事労働を考慮に入れない経済学は、男性中心社会の温存には役立つが、フェミニズムの立場からは告発される。前者についてP・エキンズ編『生命系の経済学』(御茶の水書房、1987年)、宮本憲一『環境経済学』(岩波書店、1989年)、寺西俊一『地球環境問題の政治経済学』(東洋経済新報社、1992年)など、後者については上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店、1990年)、J・スコット『ジェンダーと歴史学』(平凡社、1992年)を挙げておこう。
私は、エコノミクスに対抗し、それをも包摂するエコロジー理論が生まれてきたひそみにならって、生産力増大・労働効率向上に役立つエルゴノミクス(人間工学)とは別に、労働中心のリズムから自由時間・社会的時間を増やし生活リズムを取り戻す、労働・生活環境についてのエルゴロジー(人間働態学)が必要だと思っている。内田弘『自由時間』(有斐閣、1993年)や平井富雄『心の過労死』(現代教養文庫、1992年)から日本的勤勉の熾烈な競争・緊張の意味とそこから生じるストレス・社会問題を抽出し、人権・生存権の立場から扱う学問が、今や求められているのである(加藤「過労死とサービス残業の政治経済学」平田清明他『現代市民社会と企業国家』御茶の水書房、1993年)。
脱出口はどこにあるのか? 鶴見和子・川田伉編『内発的発展論』(東京大学出版会、1989年)や坂本義和・大串和雄編『地球民主主義の条件』(同文館、1991年)、山口定・宝田善・進藤栄一・住澤博紀編『市民自立の政治戦略』(朝日新聞社、1992年)は、これからの資本主義の行方についても、いろいろなヒントを与えてくれる。私自身の構想は、加藤哲郎『社会と国家』(岩波市民大学、1992年)で述べておいた。
そこでも触れたが、冷戦終焉・自民党政権崩壊のなかで問われているのは、景気の行方や資本�蜍`の将来ばかりではない。経済と国家と社会の歴史的関係、西欧に発する社会科学の方法と概念、資本主義を資本主義たらしめた近代工業生産の意味の問い直しをも含んでいる。したがって、現代資本主義論は、より広くは世界史の再検討の一環である。
M・サーリンズ『石器時代の経済学』(法政大学出版局、1984年)、K・ポランニー『人間の経済』(岩波現代選書、1980年)など経済人類学、F・ブローデル『地中海』(藤原書店、1991年ー)、A・コルバン『時間・欲望・恐怖』(藤原書店、1993年)など社会史研究、E・サイード『オリエンタリズム』(平凡社、1986年)、謝世輝『世界史の変革』(吉川弘文館、1988年)のような西欧近代文明そのものの問い直しが、資本主義の将来を考えるうえで、この上なく刺激的である。
そして、網野善彦『日本論の視座』(小学館、1990年)や尾藤正英『江戸時代とは何か』(岩波書店、1992年)のような日本史の根底的見直しが、実は、これからの世界を見通すための、私たちにとっても身近で切実な、格好の知的素材なのである。
(『公明』1993年11月号に発表)