これは、東京外語大学留学生センター作成の外国人留学生用教科書『日本の政治』(1992初版)の私の執筆部分である。タイトルは便宜的につけたが、並行して執筆された文部省検定高校教科書『現代社会』(三省堂)では書けなかった問題を、こちらに盛り込んだりした。つまり、文部省非検定入門教科書である。


戦後日本政治と国際化

 


 1 日本人と外国人

 

 いま、日本には、さまざまな国からやってきた人々が住んでおり、くらしている。

 日本人と外国人は、同じ人間なのだが、区別されている。日本人とは、日本国籍をもつ人、外国人とは、日本国籍をもたない人である。日本の国籍は、日本人の親から生まれたこどもか、日本に長く住んで帰化した人にのみ、与えられる。

 日本国籍をもたない人びとは、外国人登録をしなければならない。外国人登録は、その人の居住する市・区役所、町村役場の窓口でおこなわれる。登録すると、外国人登録証明書が交付される。16歳以上の外国人は、外国人登録証明書をいつでも持っていなければならない。1年以上滞在する時には、写真提出と指紋押捺の義務がある。日本人の場合は戸籍と住民票でいいが、外国人登録には職業や勤務先まで登録しなければならない。

 すでに100万人以上の外国人が登録しているが、とくに指紋押捺には、多くの外国人が反発して裁判までおこしてきた。登録外国人の6割を占める在日韓国・朝鮮人の人々の反対運動などで、ようやく指紋押捺は1993年までに廃止されることになった。日本は、血統による国籍を重んじるので、外国人とのあいだの法的区別が厳格な国である。

 日本にいる外国人は、また、出入国管理法によって、在留資格を短期滞在・商用・留学・就学・研修・興業・熟練労働などと細かく分けられている。それによって、日本での就労が制限されている。外国人で仕事についている人は多いが、就労資格なしで働くと不法就労として摘発される。日本人のなかでは、外国人労働者の流入を歓迎すべきか、制限すべきかで議論がある。就労外国人の多くは、「きつい、汚い、危険(3K)」な単純労働者として中小零細企業などに雇用されており、女性の場合は飲食サーヴィス業が多い。外国人労働者は、低い賃金と劣悪な労働条件で、人権が十分保護されていない。

 他方、日本人の方は、どんどん外国にでていく。出国者は年1千万人をこえ、新婚旅行は海外が当り前になった。大企業の海外進出で、長く外国に住む日本人も増えている。若者たちのなかには、海外青年協力隊にボランティアとして加わる人もいる。

 第2次世界大戦後の日本にとって、外国とは、長いことアメリカのことだった。アメリカは、敗戦後の改革を占領下でおこない、冷戦のもとでソ連と対決するため、日本の独立と外交・防衛のあり方を決めてきた。日本政治の争点も、アメリカとの安全保障条約や経済摩擦をめぐって展開した。

 しかし、冷戦の時代は終わった。アジアの人々が次々に日本にやってくる。日本人も海外に出ている。日本人と外国人のあいだの壁はなくなってきた。同じ人間として、地球市民として、世界の問題を一緒に考えなければならない時代に入った。


 2 戦後日本社会の変化

 

 日本の社会は、第2次世界大戦の敗戦と戦後改革、それに1955ー73年の高度経済成長を経ることで、大きく変わってきた。日本の政治も、それにつれて変化している。

 戦前の日本は、天皇主権のもとで、国民の権利が厳しく制限されていた。経済は発展したが、まだ農業中心の社会だった。女性は男性に従属し、家では長男が特別に扱われた。立法権は天皇にあり、議会や内閣も天皇を助けるものであった。政党政治は生まれたが、軍部は天皇直属で軍国主義が台頭し、朝鮮・中国からアジアへと侵略して戦争に突入した。

 1945年の敗戦直後の日本は、アメリカ軍に占領され、貧しかった。当初は非軍事化・民主化がめざされ、婦人解放、労働組合育成、財閥解体、農地改革、天皇の人間宣言、日本国憲法制定などが行われた。アメリカは、米ソ冷戦と中国革命の影響で、日本を「アジアの反共防波堤」「極東の工場」と方向づけ、資本主義復興策がとられた。戦争で日本は廃虚となり、食糧確保さえ大変だった。当初は占領軍をおそれたが、すぐに「陽気でやさしいアメリカ人」に同調し、歓迎するようになった。占領で与えられたものとはいえ、平和で自由な雰囲気が生まれた。男女平等がはじめて認められ、戦後第1回衆議院選挙では、39人の婦人議員が生まれた。労働組合が認められて争議が頻発し、社会党・共産党も合法的活動をはじめた。貧しかったが、活気のある社会であった。

 日本は、1951年のサンフランシスコ条約で独立が認められた。同時に、日本に米軍基地を残し、自衛隊を育成する日米安保条約が結ばれた。朝鮮戦争特需もあり、経済復興は急速に進んだ。国民は、アメリカ風民主主義とともに、アメリカ風の快適なくらしにあこがれた。電気製品が普及し、生活様式が変わってきた。高度成長期には、農村から都市へと大量の人々が移住した。そうしたサラリーマンたちのなかから、団地にすみ、スーパーマーケットで買物し、朝食はパンとコーヒー、椅子にすわりテレビでくつろぎ、ベッドで寝る生活が普及した。平和と民主主義は、学校教育で育てられた。60年には日米安保条約改定反対の反政府運動があり、70年代には社会党・共産党や住民運動の力で、多くの革新自治体が生まれた。しかし、国政では、長期の自民党政権が続いた。

 高度経済成長によって、日本社会は大きく変わった。都市化、家庭電化、新幹線や高速道路とマイカー、高学歴化と核家族化、女性の社会進出などが進んだ。1973年の石油ショックで高度成長が終わった時、労働組合は、失業をおそれて合理化に協力した。都市サラリーマンは、ようやく獲得した「マイホーム」を守るために、やはり自分の会社が大切だと考え、保守化した。労使一体の技術革新や輸出拡大が成功し、気がついてみると、アメリカなみの経済大国になった。80年代の円高で、庶民も海外旅行ができるようになった。しかし、労働時間は欧米よりはるかに長く、単身赴任や過労死、受験戦争や家庭崩壊をうみだす「企業中心社会」になった。


 3 日本国憲法の理念

 

 日本国憲法は、現代日本政治の枠組みである。近代民主主義の理念にそって、基本的人権、国民主権、恒久平和主義をうたっている。これを日本国憲法の3原理という。

 戦前の大日本帝国憲法は、天皇主権で、国民は「臣民」として扱われた。日本は、1945年の敗戦で、連合国のポツダム宣言を受け入れることにより、軍国主義の除去と民主主義の実現、自由と基本的人権の尊重、国民の自由な意思による平和的政府の樹立が可能となった。占領下で日本政府がつくった当初の憲法改正草案は、大日本帝国憲法を部分的に手直しした、不徹底なものだった。連合国軍総指令部は、自ら草案を起草して日本政府に示し、これをもとに日本国憲法がつくられ、1947年5月3日から施行された。

 そこでは天皇は、「国家及び国民の象徴」で国政の権限はもたないとされ、内閣の助言と承認により、国会召集などの国事行為のみを行うものとされた。象徴天皇制という。

 「アメリカによりおしつけられた憲法」という批判もあるが、制定当時の国民は、圧倒的多数が新憲法を歓迎した。その後も、第9条の戦力放棄と自衛隊との関係や、天皇の地位をめぐって、改憲論がときどき現れてくるが、日本国憲法支持の世論は定着している。

 日本国憲法のめざしたものは、前文に明白である。諸外国との平和・友好を重んじ、国民に主権があることを明確にしている。全世界の人々が、平和のうちに生存する権利をもち、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないといっている。日本国憲法は、こうした理念をもとにしているので、平和憲法ともよばれる。

 ただし、外国人との関係では、当初の連合軍の草案に入っていた人権規定が、制定過程での日本政府の抵抗で、弱められた。当初の憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」と明記する独立の条項があった。つまり外国人にも日本国憲法は適用されることが明確だった。

 しかしこれは、占領軍と当時の日本政府の交渉過程で、独立条項としては削除され、「法の下での平等」条項(現行憲法14条)に含まれることになった。その当初の文案は、「すべての自然人は、その日本国民であると否とを問わず、法律の下に平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分もしくは門閥または国籍により、政治上、経済上、または社会上の関係において、差別せらるることなし(差別されない)」となっていた。すなわち、国籍による差別を禁じていた。

 それがやがて、「日本国民であると否とを問わず」が削除され、「国籍」が「門地」に変えられた。最終段階では「すべての自然人」が「すべて国民」と修正されたため、外国人の平等・権利保障の明文規定は、現行憲法から消えてしまった。ここから「国民」とは「日本国籍を持つ人」という解釈が生まれ、外国人の人権も日本人と平等に保護されるべきであるという考えが、憲法からは十分よみとれなくなってしまった。


 4 恒久平和主義

 

 日本国憲法は、恒久平和主義をうたっている。しかし、日米安全保障条約や自衛隊の存在との関係で、しばしばその実効性に疑問がもたれている。アジアの人々は、太平洋戦争についての教科書の記述への文部省による検定を批判し、自衛隊の軍備拡張・海外派兵の動きに日本が再び軍事大国になるのではないかと危惧を表明している。これらは、戦後日本政治のなかでうまれてきた、日本国憲法の理念と現実とのギャップによるものである。

 日本国憲法前文は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という。恒久平和主義の理念である。

 憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」としている。恒久平和の理念にそって、戦争放棄と戦力の不保持を、世界に宣言しているのである。

 戦争放棄の思想は、旧くはフランス革命時の1791年憲法や第1次世界大戦後の不戦条約(1925年)にさかのぼる。第2次世界大戦後のイタリア憲法やドイツ基本法にも、同様の条項がある。日本国憲法の平和憲法としての特質は、これを戦力不保持および交戦権の否認として、具体化していることである。現代世界には、コスタリカや西サモアなど軍隊をもたない国があるが、日本国憲法の戦力不保持条項は、世界に先駆けたものであった。日本政府も、憲法制定当時は、第9条で自衛権をも放棄したものと解釈していた。

 しかし、米ソ冷戦を背景に朝鮮戦争が勃発すると、占領軍は警察予備隊をつくった。これが保安隊になり、1954年には今日の自衛隊となった。日本政府は、自衛力は戦力ではないと解釈し、国を防衛するための必要最小限の装備を憲法は認めていると主張した。野党は反発して、自衛隊は憲法違反であるとした。

 この問題は、1951年に日本が独立するにあたって、サンフランシスコ条約とともに結ばれた日米安全保障条約と、深く結びついている。日米安保条約は、国民の反対運動をおしきって1960年に改定され、ソ連や中国・北朝鮮に対抗して米軍基地を日本においた。「極東の安全」を、日米共同で守ることを定めた。米軍と自衛隊の共同訓練や、防衛費の増額を伴いながら、今日でも存続している。核兵器については「非核3原則」(1967年)で「持たず、つくらず、持ち込ませない」とされている。しかし、米軍の核持込みについての疑念がもたれている。

 米ソの冷戦が終わって、自衛隊拡張や日米安保条約存続の最大の根拠とされてきた「ソ連の脅威」はなくなった。世界と日本の安全保障について、新たな考えが求められている。


 5 日本の外交

 

 戦後日本の外交政策は、もっぱらアメリカ合衆国との同盟関係に求められてきた。戦前の「鬼畜米英」とよんだ対米対決外交から、米軍の占領と米ソ冷戦のもとで、親米反共路線へと転換した。日本国憲法第9条で戦争と戦力を放棄したが、1951年のサンフランシスコ条約と同時に結ばれた日米安保条約で、アメリカに軍事的安全保障を頼り、自衛隊もアメリカの世界核戦略のもとにおかれた。

 日本は、1956年にソ連と国交を回復し、国際連合に加盟したが、独自の外交政策をもつことはできなかった。65年の日韓条約、72年の中国との国交回復も、アメリカのアジア政策に追随したものだった。

 日本の外交が、もっぱらアメリカのアジア政策を補完するものであったことは、アジアの国々と日本との外交関係を、形式的なものにしてきた。戦前の侵略戦争の反省をあいまいにしたままで、アメリカと友好的な国々に、つぎつぎに経済進出を進めたからである。

 戦後の日本外交は、日本経済の高成長を維持するためのものであり、経済主義的外交であった。日本の経済力は、占領から戦後復興の時期は小さく、アメリカの援助を受けて、ようやく資本主義が再建された。

 高度経済成長は、アメリカ主導の国際自由経済の枠組み(IMF=GATT体制)のなかで、国内経済を保護し、輸出を拡大するものだった。最大の貿易相手国はアメリカだった。日本経済の発展は、アメリカ経済の衰退と結びついていた。日本は、アメリカが世界的規模の経済・軍事援助の負担、多国籍企業化による国内産業の空洞化、ベトナム戦争の敗北などで衰退した分をカバーして、世界第2の経済大国となった。

 1973年の石油危機にあたって、日本経済の基盤は、アメリカ市場ばかりではなく、中東地域の石油資源にもあることが痛感された。「アブラ外交」といわれたように、アラブ産油国への接近がはかられた。大企業は、アジア地域から海外に進出し、70年代後半以降は欧米にも直接投資が激増して、多国籍企業化した。アジアでは、NIES(新興工業経済地域)、ASEAN諸国が経済発展を遂げ、日本との関係が緊密化した。

 この占領に発する軍事的・政治的な対米協調外交と、貿易立国に発する経済主義的外交とが、一方での東西冷戦の崩壊と、他方で日米経済摩擦が激化するなかで、さまざまなあつれきをつくりだすにいたった。湾岸戦争では、アメリカ中心の多国籍軍に多額の軍費拠出を強いられ、世界的な自由貿易体制維持のために、コメ市場の開放が求められている。アメリカ国内では対日感情が悪化し、逆に日本国内ではアメリカ追随外交への批判の声が高まり、嫌米世論と経済主義的なナショナリズムが強まっている。

 同じ第2次世界大戦の敗戦国から出発しながらも、ドイツの場合は、ナチスの侵略戦争を謙虚に反省して近隣諸国と積極的につきあい、東西外交など冷戦からデタント(緊張緩和)へと独自の外交を展開し、ECの中心になった。日本は、経済的にはアジアの中心になりながら、戦争責任を未だに問題にされており、自主的外交姿勢を示せずにいる。 


  6 国際化と政治

 

 1980年代以降、とりわけ1985年に世界一の債権国になってから、日本社会の国際化と国際貢献が語られるようになった。

 国際化は、まず、企業からはじまった。1960年代後半からアジアに、70年代後半からはアメリカやヨーロッパにも、日本企業が大量に進出した。貿易ばかりでなく現地生産をも開始することによって、地球社会のなかでの日本の行動が、問われることになった。海外進出した日本企業は、日本的経営とよばれる効率的で労働者の企業への忠誠を強める方式で、時には歓迎され、時には反発を受けた。現地の風俗・習慣にあわせた進出は歓迎されたが、日本人だけでまとまり重要決定を独占する方式は反発された。

 他方で1980年代に、大量の外国人労働者が流入した。当初は「じゃぱゆきさん」とよばれる風俗産業で働くアジア人女性が問題になった。やがて、中小零細製造業や建築現場にも、多くのアジア人男性がみられるようになった。日本の近代化の経験に学ぼうと、留学生・就学生が激増した。

 海外旅行も急増したが、買物ばかりに熱心で現地の人々との交流は少なかった。観光地に落書きしたり売春婦を買ったりする日本人旅行客の行動が、海外で問題にされた。単一民族国家といわれる日本にも、もともとアイヌや琉球の人々がいた。日本からアメリカや南米に移民として渡った人々も多い。国内では部落差別や女性差別を残してきた。戦後は、植民地時代に強制移住させられた人々を含む在日朝鮮・韓国人の人々が、そのまま日本に住みついた。そこに大量のアジアの人々が入ってきた。日本社会のなかで差別をなくし、外国人と共存することが求められている。

 日本は、経済大国になり海外進出しながらも、独自の外交姿勢がみられず、「顔のみえない大国」といわれる。多額のODA(政府開発援助)を拠出しながら、無償援助は少なく、日本企業の利権と結びつき、現地の民生向上にあまり役立っていないともいわれる。

 経済や社会の世界とのつながりは進んだが、政治や外交は、「一国繁栄主義」とよばれる自国中心主義からなかなかぬけだせない。他方で、海外からの圧力には敏感で、アメリカのいうことはよくきく。国内で野党が問題にしても変わらなかった教科書検定の記述が、韓国・中国政府の批判で訂正されたりする。日本政治への「横からの入力」とよばれる。

 冷戦崩壊後の世界で、日本の果たしうる国際的役割は大きい。しかし、対米協調と経済主義に特化し、アメリカ以外の友人をもてないできた日本は、地球社会の一員としての道を見いだせないでいる。何よりも国内政治の改革が必要なのだが、国際化は国内政治の大きな争点になりにくい。

 むしろ、地域自治体や市民運動による草の根の動きのなかに、世界の人々と共存する日本社会の国際化の芽が、現れてきている。自治体ODAやアジアの問題を考える市民たちの運動が広がっている。国際化にどう対処できるかが、21世紀の日本の行方を左右する。日本はいま、大きな曲がり角にさしかかっているのである。



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