書評のページ


栗木安延著『アメリカ自動車産業の労使関係──フォーディズムの歴史的考察』

(社会評論社、1997)                


  マルクスとマルキシズムは異なる。社会主義と社会の概念はいつしかかけ離れて、国家主義に帰結し崩壊した。およそ「イズム」のつく概念は疑ってかかった方がいい。とりわけ「デモクラシー=人民の権力=民主政体」が「民主主義」と訳されたり、全然リベラルでない「自由主義史観」がまかり通っているこの国では。

 「フォード主義」という言葉は、無論アメリカのフォード自動車に発する。だがそれが「イズム」を冠された時には、T型フォード車のベルトコンベアー生産ラインを離れて、家電製品からマクドナルド・ハンバーガーにいたる大量規格品生産・大量大衆消費の国民経済システム全般に拡延した。レギュラシオン理論においては、生産ノルムから消費ノルムにいたる、第二次世界大戦後の社会構造を解くキイワードとなる。だからそれに対置される「アフター・フォーディズム」や「ポスト・フォーディズム」のイメージも、フォードは「アメリカニズム」だったから次は日本の「トヨティズム」だ、いや自動車から情報に基軸産業が移ったから「フジツーイズム」だ、いやフォード主義は「ケインズ主義的福祉国家」の土台だったから次はグローバルな「シュンペーター主義勤勉レジーム」だ、とかまびすしい。もともと「フォーディズム」に込めた論者の含意が違っていたのである。

 マルキシズムや社会主義がイデオロギー的に拡散すると原点回帰が意味を持つ。「マルクスに帰れ」や「日本にはそもそも『社会主義』以前の『社会』すらなかった、いまだに人間関係は濃密な『世間』でおおわれている」という言説が現れる。「フォーディズム」においても同様である。ヘンリー・フォードの原像とフォード自動車の生産ラインに立ち返っての再考こそ「ポスト・フォーディズム」を論じる前提でなければならない。

 本書『アメリカ自動車産業の労使関係』は、そのような意味での貴重な労作である。著者は60年代半ばの日本型フォーディズム台頭期に二千頁に及ぶフォード社正史全3巻を30ドルで入手した。学生と共に15年かけて読み、それからまた15年をかけて上梓したのが本書である。だから流行の「フォーディズムvsポスト・フォーディズム」風の議論とは年期の入り方が違う。グラムシやレギュラシオン理論にも目配りしているが、それに幻惑されない。あくまでフォード自動車の実体に執着して「フォーディズム」を射抜く。

 序章「フォーディズムの社会理論的考察」で「労資関係」一般ではなく特殊「労使関係」レベルの中間理論的考察であると方法的に限定し、「形成過程」にこそ「フォーディズムの本質的特徴が刻印されている」という山田盛太郎風立場でレギュラシオン理論や宇野理論に距離をおく。第一部「ファーディズム初期段階」を「第1章 大量生産方式の確立」「第2章 高賃金と企業内福祉」「第3章 独占資本の形成」、第二部を「フォード・テロ」とし「第1章 企業ファシズム」「第2章 UAW対フォード・テロ」「第3章 フォード社とナチス・ソ連技術援助」「終章 フォーディズム本格段階とその崩壊」と構成する。

 ここからわかるように、ハイランドパークからルージュ工場への生産拠点の移行、1927年のH・ベネットによるフォード社保安部組織を境に「形成期」そのものが質的に区分され、H・フォードの経営理念も「労使関係」も大きく変わった。レギュラシオン理論が注目したのはその初期段階のポジ画であったが、チャップリンが演じた「モダン・タイムズ」のネガがすでに内包されており、ニュー・ディール期「企業ファシズム」に連なった。

 だが本書の真骨頂はその告発ではなく、かの5ドル賃金の内実や黒人・身障者雇用から食事時間15分、飲酒喫煙習慣調査、清掃夫名目の工場内スパイなど、その生産過程のディテールの活写にある。その端々に下積み労働者への共感がにじみでるのは、著者の人徳のなせるわざだろう。労使関係の熟練工による、職人的味わいのある作品である。

 (図書新聞1998年3月7日号に発表)



図書館に戻る

ホームページに戻る