本展示室全体のイントロとして、以下に『思想の科学』1996年3月号に掲載した短いエッセイを収録する。国崎定洞という知識人がどのような生涯をたどったかを、あらかじめ知っていただくためである。なおこれは、アメリカの藤井一行教授HP内の「現代史研究の別荘」にも関連文献とともに収録されている。あわせて参照されたい。


粛清連鎖のなかの国崎定洞

         


   

 国崎定洞といっても、なじみのある読者は少ないであろう。1894年生まれの医学者で、日本の社会衛生学の開拓者である。

 東京帝大医学部助教授として留学中の1928年にドイツ共産党に入党し、日本語部責任者として、千田是也、勝本清一郎、小林陽之助、野村平爾ら在独日本人の反戦反ナチ活動を指導した国際的革命家でもある。ベルリン日本人反帝グループの代表としてアムステルダム国際反戦大会に出席した直後、1932年9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命、1937年8月4日に逮捕され12月10日に銃殺された。ソ連での生活は5年ほど、いわゆるスターリン粛清による日本人犠牲者の一人である。
 
 実はこんな経歴が明らかになったのは、1994年のことである。東大医学部時代については小宮義孝・曾田長宗ら医師・医学者たちの、ベルリン留学時代については有沢広巳・千田是也・鈴木東民・山田勝次郎・平野義太郎・堀江邑一ら共に青春をすごした友人たちの証言・回想である程度は知られていたが、モスクワでの国崎定洞については、謎につつまれタブーにされてきた。1930年代後半にソ連で行方不明になったのだから「偉大な同志スターリン」によって暴かれた「帝国主義の手先・スパイ」であったろうという憶測が戦後の日本共産党周辺でささやかれ、党幹部から公然と語られていた(神山茂夫「武装メーデー事件」『文藝春秋臨時増刊・昭和の35大事件』1955年8月)。
 
 国崎定洞が戦後に再発掘されたのは、医学史家川上武らの『国崎定洞――抵抗の医学者』(勁草書房、1970年)によってである。川上は、日本医学史を資本主義発達史のなかで位置づける作業のなかで、小宮・曾田・有沢・千田らからの綿密な聞き取りによって、社会衛生学の先駆者としての国崎定洞の生涯に光をあて、国崎の名を歴史に蘇生させた。

 国崎定洞のソ連での粛清・客死が明らかになったのは、1974年のことである。ベルリン時代の友人鈴木東民夫妻が、西ベルリンの電話帳を手あたり次第にあたって、フリーダ夫人・遺児タツコの存命を奇跡的に確認した。フリーダ夫人は1960年頃に、ベルリンのソ連大使館から夫国崎定洞のソ連での死亡を口頭で通知されていた。鈴木・千田・有沢・石堂清倫ら友人たちが「国崎定洞をしのぶ会」を開きマスコミもとりあげた。

 それを後追いして、日本共産党もソ連共産党に問いあわせ、国崎定洞の1937年8月4日の逮捕、12月10日「獄死」の命日、1959年法的「名誉回復」の事実が明らかになった。1932年にソ連亡命後の国崎が、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)大学院に学び、外国労働者出版所で働いていたこと、片山潜の死後なぜか国崎は在ソ日本人のなかで孤立したこと、フリーダ夫人は夫の生死も不明のままスターリンのソ連からヒットラーのドイツへと強制送還され娘とともに苦難の生活を強いられたことなどが、フリーダ夫人の証言で判明した。


 しかし、国崎定洞の逮捕・粛清の理由は、依然謎に包まれていた。「しのぶ会」事務局の川上武と私は、国崎の伝記を改訂し遺稿集を編んで、その粛清の理由を、ベルリン時代の国崎がドイツ共産党反対派として後に粛清されたハインツ・ノイマン、ヴィリ・ミュンツェンベルグらと親しかったこと、1936年に国崎がスペイン戦争国際義勇軍に志願しソ連出国を拒否されたのでそれが「トロツキスト」と疑われたのではないか、と推定した(『流離の革命家』1976年、『社会衛生学から革命へ』1977年、共に勁草書房)。
 
 ところが1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連解体は、全く予想外の国崎定洞粛清の真相をもたらした。日本共産党名誉議長野坂参三の失脚・除名を導いた小林峻一・加藤昭『闇の男』(文藝春秋社、1993年)の付録資料のなかに、国崎の名が出てきた。そこには1959年10月のソ連最高裁判所「国崎定洞の名誉回復決定書」も入っていた。私たちはそれらソ連共産党文書館秘密資料「国崎定洞ファイル」を解読して、粛清の真相をつきとめた。国崎の「獄死」は「銃殺」であった。「売った」のは山本懸蔵であった。

 その詳細は、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)、『国民国家のエルゴロジー』(平凡社、1994年)、及び川上・加藤共著の決定版伝記『人間 国崎定洞』(勁草書房、1995年)に記したが、モスクワでの国崎定洞は、党籍はドイツ共産党のままでも多くは日本共産党関係の仕事に従事していた。国崎をモスクワに招いた当時の片山潜は、日本からやってきた指導者山本懸蔵・野坂参三と折り合いが悪かった。特に片山と山本はたがいに「スパイ」と疑いあっており、片山死後の1934年秋から、後見人を失った国崎は、山本の密告によりソ連秘密警察にひそかに監視されていた。

 銃殺時の国崎のスパイ容疑は東大助教授就任前の兵役中に陸軍諜報部とつながったということであったが、「ファイル」を仔細に検討すると、入国時からモスクワ日本共産党指導部内の疑心暗鬼に巻き込まれ、プチブル出身の片山派として山本に逆恨みされ秘密警察に売られていた。

 国崎と同期に粛清された1930年代ソ連在住日本人は、国崎を売った山本懸蔵夫妻や野坂参三夫人龍を含め約40人が確認された。その他40人余が逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放になった可能性が高いが行方不明のままである。そのほとんどは、片山・山本・野坂・国崎の4人の指導者との政治的・人的つながりがそのまま「スパイ団」とされたものであった。在ソ日本人コミュニティは、連鎖的に粛清されて壊滅した。

 その頃ソ連の雑誌では「外国に居住する日本人はみなスパイであり、また外国に居住するドイツ人はみなゲシュタポの手先である」と公言されていた。この時代を自己保身を重ねて無傷で生き残りえたのは野坂参三だけであった。
 
 国崎定洞の場合は、自己の冤罪についての供述記録がクレムリンの秘密資料館に残され、それが瓦解・流出したことで、自己も共有した20世紀のユートピアにはらまれた逆説を論証し、21世紀に人間解放を求める人々に警鐘を鳴らすことができたのである。



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