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平澤是曠『哲学者 菅李治』

(すずさわ書店、1998年)

            

 

 経済学は、自己利益に忠実に行動する合理的個人を想定する。評者が専攻する政治学では、デモクラシーとは主体的に選択し参加する自立的諸個人の集合的意志決定だ、と説く。だが、ある研究会で若い哲学者に突っ込まれたことがある。政治を嫌いな人間にもデモクラシーは参加を強制するのか、と。本書を読んで、そんなことが想い出された。

 本書の主人公菅李治の名を知る人は、そう多くはないだろう。1950年4月、中央線三鷹・吉祥寺間に身を投げて自殺した哲学青年、享年32歳であった。菅はその時、時代の波に翻弄されていた。ソ連抑留中のカラガンダ収容所での通訳の仕事で、いわゆる「徳田要請」をめぐる政争に巻き込まれ、国会に喚問され、GHQの取り調べを受け、ジャーナリズムの好餌となった。問題の「徳田要請」は、具体的根拠があったわけではない。収容所のソ連政治部将校の講話にでてきたもので、それを一部の抑留引揚者たち=「日の丸梯団」が、帰国が遅れたのは日本共産党書記長徳田球一がソ連共産党に「要請」したからだと問題にし、通訳した菅の証言がクローズアップされた。徳田と日本共産党は書簡の存在そのものを否定した。しかしそれは、下山・三鷹・松川事件、中国革命、レッドパージ、朝鮮戦争と連なる初期冷戦の渦中である。日本共産党とソ連との連絡文書など調査不能なため、国会での政争は、菅が「期待」と訳したナデーエツアというロシア語が「要請」の意味ではないかという問題にすりかえられ、ねじ曲げられた。果ては菅自身の思想や人格まで問題にされ、純粋で不器用な哲学青年の内面が土足で踏みにじられ た。

 当時の「徳田要請」問題の歴史的背景を今日更に追求するのなら、アメリカ政府情報公開文書のなかにCIAの影を見いだすことが出来る。たとえば共同通信が昨年夏から長期連載で配信した「秘密のファイル──日米関係の裏面史」によると、GHQ参謀第2部(G2)ウィロビー少将が認めなかったとされてきたCIAの占領下日本での活動は、ポール・ブルームを初代東京支局長として、1947年夏から始まっていた。旧ソ連側の史料も、今では研究者に公開されている。評者も昨年末旧ソ連共産党中央文書館で、戦前日本共産党がコミンテルンに宛てた1931年に活動資金「一か月二千円の補助を要求する」史料をみつけてきた。「徳田書簡」の存在自体を改めて問うことも、不可能ではない。

 逆に政治に翻弄された菅李治の内面に光を当てると、木下順二の戯曲「蛙昇天」や澤地久枝の『私のシベリア物語』になる。本書はこの系譜に属し、菅の中学時代の級友田村重見が丹念に収集した自費出版史料をもとに、淡い恋の軌跡まで発掘して、菅の生き様を再現する。「インテリゲンチャを軽蔑しながら愛していた」菅が、「現実に対してわたしは無力である。しかし現実はわたしをいじめないですまない」と日記に記し、「人類と真理のために生命をささげようとしながら、わたしは、ついに何一つなし得なかった」と遺書に残して自死を選ぶ。「人間ってもっと美しいもんです」という青年のつぶやきは、そのまま「政治ってもっと人間的なものでは」という問いにつながる。残念ながら菅の問いに答えうる政治を、20世紀の人類は見いだし得なかった。だからこそ、死後半世紀近い今日でも、本書のように菅李治の魂を蘇らせる試みが、繰り返し現れるのである。

(『週刊読書人』1998年4月10日号に掲載)



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