国際交流基金「中央アジア・セミナー」講義(2000年11月)草稿
私の話は、短時間で20世紀後半の日本政治を特徴づけるということですが、最初に、いくつかの大きな問題を設定しておきましょう。日本政治を見る視角というべき問題です。
第一に、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、フランス革命から1914年の第一次世界大戦勃発までの「革命・資本・帝国」で彩られた「長い19世紀」と比較して、1914年から1989年東欧革命・冷戦終焉、91年ソ連崩壊までを「短い20世紀」と述べ、それを「極端の時代」と特徴づけました。それでは日本の20世紀は、1868年の明治維新から一続きの「長い近代化過程」だったのでしょうか、それとも1945年の敗戦と55年頃からの高度経済成長によって特徴づけられる「短く極端な現代化」だったのでしょうか? 20世紀の日本には、西欧でいう前近代・近代・脱近代の諸特徴が重なり合っています。これをどのように分析的に見るかで、政治の理解も変わってきます。
第二に、法的政治的体制で見ると、1945年までは、1889年の大日本帝国憲法で規定された天皇中心の国家主義・帝国主義の時代、1945年以降は、46年日本国憲法を柱にした民主主義・平和主義の時代と分けられますが、それでは日本の社会と政治は、1945年を境に、そんなに大きく変わったのでしょうか? それとも、戦前の封建主義・共同体・滅私奉公などの特徴は戦後に残され、今も影をおとしているのでしょうか? これは、日本の歴史学の書物では、戦前と戦後の断絶説・連続説の対立として語られます。たとえば天皇中心の「神の国」や軍部の力がなくなったという意味で断絶していますが、天皇が国民統合の象徴として残され、政治における官僚制の力が強いという意味では、連続もしています。「1940年体制論」や「総力戦体制論」といって、太平洋戦争準備のための経済統制や国民動員が戦後の経済成長の土台となったという新しい見方も出ていますが、これをどのように考えるかで、現代日本の評価も違ってきます。
第三に、1945年以降をとっても、1955年から1973年第一次石油危機まで、ほぼ年率10%で経済成長を続けた高度成長の時代があります。1991年ソ連崩壊までのロシア語の日本論なら、おそらく日本の政治は、西側の盟主アメリカ帝国主義と結託した日本資本主義が、1946年の民主主義憲法があるにもかかわらず、アメリカ軍占領下で反動化・軍事化に向かい、51年サンフランシスコ講和条約で反社会主義の西側陣営に入り、朝鮮戦争特需で資本主義を再建して労働運動を弾圧し、1956年にはソ連と国交を回復したものの、1960年の新安保条約で日米軍事同盟を極東防衛まで広げてアジア侵略にのりだし、アメリカのベトナム侵略に協力した代償として1972年に沖縄の施政権をアメリカから取り戻しアジア第一の帝国主義になった、などと論じたでしょう。日本の政治でも、1960年安保条約反対運動の頃までは、そうした資本主義と社会主義のイデオロギー的対立を基軸に論じる見方が強かったのですが、60年代以降の政治を見ると、むしろ経済成長の利益配分をめぐる政治が前面に出てきます。「イデオロギー政治」は、70年代以降後景に退き、「豊かな社会」を前提にした「利益政治」が、保守と革新の対立軸になります。たとえば大企業の投資を政府が援助し経済成長を続けるべきか、国民生活の充実と福祉や環境保護に力を注ぐべきかといった論点です。戦後日本を見るさいに、アメリカを盟主とした「西側の一員」「日米安保」を軸にするか、それとも国内的要因に注目して「高度経済成長」を軸にするかで、見方は微妙に違ってきます。
戦後史の時期区分でいえば、私は「占領・安保史観」と呼んでいますが、1970年代まで支配的だったのは、1945年の敗戦、1952年のサンフランシスコ講和条約・旧日米安保条約、1960年の新安保条約、1972年の沖縄返還など「日米関係」を基軸に見る見方でした。しかしこの見方は、高度経済成長による日本社会自体の大きな変化によって、説得力を失っていきます。この時期区分を延長すれば、1978年の日米防衛ガイドライン設定、1989年の冷戦崩壊、1997年の日米新ガイドライン設定などが画期となるでしょうが、このような軍事・安全保障偏重の見方をとる学説は、今ではほとんどありません。むしろ、私は「高度成長史観」と呼んでいますが、1945年の敗戦から出発しながらも、1955年の経済成長の開始、1973年の第一次石油危機による「高度成長」から「安定成長」への軌道修正、1985年のG5プラザ合意による「バブル経済」への突入、そして1991年頃から失速した「失われた十年」といった見方が、強くなってきます。つまり、戦後日本社会を、1955年頃からの経済成長を軸にみる見方で、政治史のうえでは、1955年は、日本社会党結成に対抗した保守政党合同による自由民主党結成と重なりあい、1970年代に「保革伯仲」とよばれる局面はありましたが、「55年体制」とよばれる自民党一党優位の支配が、1993年まで続きます。
第四に、高度経済成長の評価自体が政治的です。端的にいえば「国家の成功か、市場の成功か」となりますが、日本国憲法の平和主義によって非生産的な軍事支出を最小限に抑えたから可能になったという「軽武装平和経済」論もあれば、いや日米安保条約と自衛隊の力で社会主義国を牽制し、朝鮮戦争・ベトナム戦争の特需で成長軌道に乗り、技術革新から輸出市場まで丸ごと西側の盟主アメリカに支えられたと批判する「対米従属」論、あるいはそれを肯定する「安保繁栄」論もあります。「戦後日本の成功」の原動力を、官僚主導の国家主義的経済運営に見る「日本株式会社」論もあれば、民間企業の設備投資・技術革新に着目する「日本的経営」論もあります。
極端な議論では、日本経済の成功をソ連型ではないが「社会主義」の一種とする見方さえあります。日本の経済成長は、ソ連型の計画経済ではありませんでしたが、政府が成長指標を示し、民間企業がそれを達成する経済計画がありました。1960年池田内閣の「所得倍増計画」がよく知られています。その政府は、ソ連型の共産党一党独裁ではありませんでしたが、民主主義のもとでも自民党が長く政権を維持し、長期的視野で経済政策を立案しました。民間企業を国有化したり原材料を国家が直接分配することはありませんでしたが、通産省を中心に産業ごとの産業政策がつくられ、ハードな命令経済ではなく、ソフトな行政指導が生産拡大を可能にしました。おまけに日本の経済成長は、欧米ほどには貧富の差を広げることなく、企業経営者と一般労働者の所得格差も相対的には小さな「平等主義的」なものでした。これを「社会主義」と呼ぶのは無理があるにしても、アメリカ型の自由主義経済に比べれば、政府の介入が大きな役割を果たした経済発展といえるでしょう。日本政治を考える際に、政治と経済のからみあいが重要になるゆえんです。
第五に、日本政治それ自体の変化は、経済成長そのものよりも、経済成長によってひきおこされた巨大な社会変動に関連します。農村から都市への急速な人口移動と東京・大阪・名古屋の3大都市圏への人口集中、村落共同体や家父長制が崩れて核家族化が進み女性が社会進出したこと、高速道路網や新幹線、電話やテレビの普及によって交通・情報網が整備されたこと、「学歴社会」とよばれたほどに高校・大学進学率が高まり、パーソナルコンピューターや携帯電話が当たり前になって、知識水準が高まりマスメディアの役割が増大したこと、栄養状態が改善され医療技術の高度化と福祉政策で高齢社会化が進み、核家族の出生率低下による少子化が深刻になっていること、他方で「経済成長の光」の影では「公害問題」と呼ばれた環境・自然生態系破壊があり、また職業病・薬害から長時間過密労働により「過労死」や「過労自殺」という言葉さえうみだしてきたこと、これらすべてが、戦後日本政治の背景になります。より具体的には、もともと農村を基盤とした保守政党であった自由民主党が、工業化・都市化・情報社会化・少子高齢化のなかで徐々に変貌を遂げてきました。なぜ自民党が1955年から30年近くも政権を維持できたのか、1993年に始まり現在も続く政治改革・政党再編がどのような社会変動に対応したものかが、問題になります。そのさい、自民党が「派閥」という党内党を持ち、選挙で政権が批判を受けても他の派閥に「疑似政権交代」して支持層の不満を吸収し、都市中間層・労働者層にも支持を広げ「国民政党」となった歴史が注目されます。
このような点に留意して、次に戦後世界政治の中での日本の位置・役割をみてみましょう。日本の側からみれば外交や安全保障の問題ですが、第二次世界大戦後の日本政治を大きく規定したのは、以下のような制度化された関係=四重のシステムでした。
第一は、アメリカ合衆国とソ連の軍事的・イデオロギー的対決を基軸とした東西冷戦体制です。それは、米ソがそれぞれに核軍事同盟と経済圏をつくり、「人類の発展・進歩」をイデオロギー的に競いあうシステムでしたが、日本は、アメリカを中心とした西側同盟のアジアにおける中心として、89年冷戦崩壊まで国際社会のなかにありました。
第二は、日本とアメリカ合衆国の国家間関係としての、日米安保体制です。東西冷戦のもとで、敗戦後の日本はアメリカ占領軍から「アジアの反共防波堤」「極東の工場」としての役割をあてがわれ、1951年のサンフランシスコ条約・日米安全保障条約締結により52年4月に独立しました。戦後日本の軍事的・外交的歩みのほとんどは、日米同盟の枠内でのものでした。それは、国際社会のなかでの日本の安全保障の仕組みであるとともに、政治的・経済的同盟でもあり、一種の「運命共同体」でした。同時に同盟の枠内では、アメリカ経済の衰退と日本資本主義の台頭にともなう摩擦と緊張が次第に強まり、東西冷戦崩壊で対ソ反共同盟としての意味も弱まって、その存在意義が問われました。 アジアにおける大国中国やインドの台頭もあり、「日米同盟再定義」が問題になります。
第三は、日本国内での自由民主党一党優位の政治体制、いわゆる「55年体制」です。国内で日米安保体制を担保したのは、1955年の保守合同で生まれた自由民主党であり、財界からの豊富な政治資金と官僚制の政策能力に支えられ、93年まで政治権力を独占しました。それは、成立の事情から「国内冷戦」ともいわれたように、親米反共の自由民主党が一貫して政権を担い、社会主義を掲げる日本社会党・共産党など野党が日本国憲法改正阻止に必要な国会での三分の一以上の議席を保ち抵抗する「1か2分の1政党制」のシステムでした。 当初は冷戦や日米安保・自衛隊が争点でしたが、高度経済成長の過程で、次第に軍事的・イデオロギー的争点は希釈され、自民党と財界・官界の三角同盟を基礎に、経済発展による成長利益を階層的・地域的に再分配・調整する利益政治が台頭しました。その過程で、東西冷戦体制に対応した資本主義対社会主義、保守対革新という構図そのものが崩れ、自民党の財界依存の金権体質・政治腐敗が問題になり、野党は国民生活優先・福祉・環境充実を主張しました。冷戦崩壊後の93年総選挙で、政治改革のあり方をめぐって自民党が分裂し、社会党も大敗して、非自民・非共産8党派が連立して日本新党の細川護煕を首班とする新内閣が成立し「55年体制」が終焉しました。しかしその後は非自民勢力の分裂・統合が相次ぎ、自民党も単独では過半数をとれない連立政権時代に入り、今日まで政界再編の混迷が続いています。私は「日本政治の液状化」とよんでいます。
第四は、経済成長を支えた巨大多国籍企業中心の経済体制、いわゆる「企業社会」「会社主義」です。戦後日本社会は、資本主義再建・高度経済成長の過程で、世界史的にも例をみないドラスティックな変貌を経験しました。戦前の農業社会・共同体は急速な工業化で崩壊し、企業に働く人々を中心にした都市型社会になりました。地域社会も家族関係も学校教育も大きな変化を蒙りましたが、人々の生活と意識を大きく規定したのは、企業=会社という生産の場でした。そこでは「法人資本主義」とよばれる株式相互持合や「系列・下請け」の企業間ネットワークのもとで、経営と労働組合が一体となって効率的生産と企業利益の拡大に専念する「日本的経営」が広がり、日本資本主義の、ひいては世界資本主義の画期的生産力発展の原動力となりました。同時にそれは、地域生活や家族関係が企業社会により浸食され、学歴競争・出世競争、単身赴任から長時間労働・過労死、公害・環境破壊をもうみだす過程でした。自由民主党の長期政権は、こうした会社中心の経済主義的成長を誘導することで維持されましたが、世界の中での日本の役割が大きくなり、1975年から日本も先進国首脳会議(G7サミット)の一員になると、日本経済のあり方をグローバル・スタンダードにあわせることが求められます。一方での福祉・環境の充実、労働時間短縮・労働条件改善と、他方での規制緩和や産業再編・金融再編・外国人労働者受け入れ、それにODAや国連PKOなど国際貢献が、政府の課題となります。
この四重システムは、歴史的には、(1)グローバルな東西冷戦構造、(2)リージョナルな日米安保体制、(3)ナショナルな自民党政権、(4)ソーシャルな企業社会、の順序で確立し、(1)(2)が国際的枠組みを構成して国内にも制度化し、(2)(3)(4)が相互に存立の条件となってきました。(1)の冷戦構造の側からみれば日米安保条約や自民党一党支配は「国内冷戦体制」で、1989年の東欧革命・冷戦崩壊、91年ソ連崩壊は、(2)(3)(4)の存立条件を大きく揺るがすものでした。93年にいたって(3)の「五五年体制」の主役であった自民党単独政権が崩壊し、準主役であった日本社会党も没落して、(2)の日米同盟や(3)の企業社会も変容・リストラクチュアリングが迫られています。 しかし冷戦時代はもっぱらアメリカの影で「顔のみえない経済大国」であったため、また冷戦以後の世界経済・国際関係が不安定なため、未だに21世紀の日本の役割を明確に自己規定することができないでいます。現時点の政府の構想としては、2000年1月に小渕内閣のもとで作られた「21世紀日本の構想懇談会」の提言「日本のフロンティアは日本の中になる──自立と協治で築く新世紀」をインターネットで英語でも読めますから<http://www.kantei.go.jp/jp/21century/report/pdfs/index.html>、ご参照下さい。「グローバル・リテラシイ」として英語とインターネットを挙げています。
国内政治については、ほぼ5期に分けて考えられるでしょう。第1期は、1945年からの「敗戦・占領期」、第2期は、サンフランシスコ条約でようやく独立し経済復興から成長へ入った1950年代「イデオロギー政治」、第3期は60年安保後の経済成長を前提とした「成長利益再分配政治」、第4期は、沖縄返還・石油危機からロッキード事件など一時的な自民党後退を経て70年代末「保守回帰」、80年代「バブル景気」にいたる「55年体制の成熟」、第5期は冷戦が崩壊して「55年体制」そのものがくずれ、かといって新しい構造もできあがっていない「世紀末の混迷」です。それぞれの時期のおおざっぱな特徴をあげれば、以下のようになります。
第1期「敗戦・占領期」(1945-52) アジア太平洋戦争は終わり、天皇制国家は敗北しました。アメリカ中心の連合国軍の支配のもとで、新憲法の制定により国民主権の民主主義国家に再生しました。しかし資本主義アメリカと社会主義ソ連の対決という東西冷戦の影が占領下の日本にはつきまとい、当初の非軍事化・民主化の政策は、反共産主義・資本主義復興の方向に向かいました。国民の生活は苦しく食糧確保が大変で、労働運動が盛んでした。中国革命や朝鮮戦争で激動する東アジアのなかで、日本はサンフランシスコ条約と同時に日米安保条約を結び、西側自由陣営の一員としてようやく独立しました。
第2期「イデオロギー政治」(1953-60) サンフランシスコ講和条約にもとづく独立は、日米安保条約にもとづく米軍基地を残し、沖縄・小笠原は米軍施政権下にありましたが、日本の経済復興・国際社会復帰の条件をつくりました。二度と戦争を繰り返さないという日本国憲法の精神は、学校教育を通じて定着しはじめ、「平和と民主主義」が革新勢力の合言葉となりました。朝鮮特需で復興軌道にのり、50年代後半に急成長する日本経済は、国民の生活向上・消費ブームをよびおこし、家庭電化製品が狭い家に整うようになりました。55年に社会党が再統一し、保守合同で自由民主党が結成されて、「55年体制」とよばれる保守・革新対決の構図が定着しました。自民党は復古的改憲を党綱領に掲げましたが、いわゆる戦後民主主義の力に阻止され、60年安保闘争で対決は頂点を迎えます。
第3期「成長利益再分配政治」(1961-74) 1960年代は、日本史上空前の、世界でもまれな急速な経済成長の時代でした。池田内閣の所得倍増計画のもとで、日本は世界市場に進出し、68年には西側自由世界第2位のGNPをもつにいたります。東京オリンピックや大阪万国博覧会が、高速交通網の整備や科学技術発展のバネになり、国民生活は目に見えて充実し、マイカーをもつ人も珍しくなくなりました。しかし、成長のツケも膨大で、農村から大量の労働力が都市に流れ、農業は衰退の一途をたどりました。工場地帯では公害がひどく、交通事故や職業病も急増しました。高学歴化が進み、受験戦争という言葉も生まれました。会社の経営は合理化され、管理社会の窮屈さに若者たちは反抗して「大学紛争」がおこりました。1973年の石油危機で高度成長は終焉しますが、この時期農村基盤の自民党は支持層を減らし、他方労働組合の春闘賃上げをバックにした社会党も伸びずに野党が多党化し、地方政治レベルでは「革新自治体」とよばれる野党連合が福祉や環境保護を唱えて、都市新住民の支持を得ます。国際的にはベトナム戦争が泥沼化し、アメリカはもはや戦後世界の絶対的君臨者であることをやめました。ドル危機から変動相場制に移行し、ソ連との対抗のために社会主義中国と国交を結んで台湾を切り捨てました。日米経済摩擦も強まり、沖縄返還交渉にも影をおとしました。そして高物価・インフレに油を注いだ田中内閣「日本列島改造」計画のさなかに到来した石油ショックで、日本経済が「油上の楼閣」であったことを思い知らされたのです。この過渡期に政権についた田中角栄は、金脈問題をあばかれ辞任し、ロッキード事件で刑事被告人となりました。
第4期「55年体制の成熟」(1975-92) しかし70年代後半から80年代にかけて、日本経済は「安定成長」への転換を遂げます。欧米資本主義諸国が石油危機から立ち直れない段階で、日本だけはいち早く周辺アジア諸国と共に再び活力を回復しました。その原動力は、国内での徹底した減量経営と海外市場への輸出でした。75年から先進国首脳会議(サミット)が始まりますが、この時期が自民党にとっては農村型政党から都市中間層をも取り込み「国民政党」へ脱皮する時期で、経済が安定してくると「豊かな生活を守りたい」という保守的気分もよみがえり、「革新自治体」も財政危機でゆきづまり、70年代末「保守回帰」といわれました。それまでの官僚主導の「大きな政府」が問題とされ、80年代には「小さな政府」をめざす行財政改革・公務員削減、国鉄・電電公社の民営化が進みます。一人当たり国民所得でもアメリカを追い越し、2世議員・2世社長が目立ってきました。1985年プラザ合意によるドル安・円高は、一時は輸出産業に打撃を与えましたが、やがて土地投機・株式投機の狂乱「バブル経済」をうみだすします。海外旅行ばかりでなく海外でくらす日本人、外国人労働者流入も珍しくなくなりました。この経済大国化・国際化のなかで、会社のなかではなお長時間過密労働が続き、単身赴任による家庭崩壊や過労死が社会問題となり、労働運動は「連合」のもとで右傾化しましたが、「新しい社会運動」とよばれる市民運動や環境運動・女性運動が盛んになりました。
第5期「世紀末の混迷」(1993-) 昭和天皇の死で始まった1989年は、中国北京での天安門事件に続いて、東欧社会主義国が次々に民主化し冷戦が崩壊するドラマの幕開けでした。91年にはソ連も崩壊し、世界史はフランス革命期に匹敵する激動・再編期に突入します。日本にもやや遅れてその波は波及し、自民党が分裂して政権から離れ、いわゆる「55年体制」は93年に崩壊しました。バブル経済も崩壊し、深刻な長期不況が高失業・就職難をうみだし、むしろ「新しい階級・階層社会」「格差拡大」がいわれるようになります。バブル期に大量に流入したアジアや南米からの外国人労働者は日本社会の周辺部に定着します。しかしかつての「欧米へのキャッチアップ」のような経済的目標を失い、「アメリカのジュニア・パートナー」としての国際社会での安住もできなくなり、政治改革・政党再編は混迷し、国家目標を持てずにいます。
こうした戦後政治史の展開を踏まえて、最後に、21世紀の日本政治の動向を占う中心的争点を挙げておきましょう。短期的には、自民党と民主党の対立、公共事業優先の景気回復か財政再建・税制改革か、政治と官僚制の協調か政治による官僚制打破かといった論点がありますが、政党政治の行方は選挙制度の問題もあり、不確定です。ここでは、社会経済的レベルでの「グローバル化」に対する新しいナショナリズムと関連して、1946年以来の日本国憲法が、ここ数年でどのようになるかに、注目しておきましょう。
三つの潮流があります。第一は「護憲派」で、かつて東西冷戦時代には、日本社会党など野党の一枚看板で、自民党政治への歯止めになりました。世論においても多数派でしたが、今は日本共産党や、自民党と連立して勢力を激減した社会党が改称した社会民主党など、少数意見になっています。ただし日本国憲法改正は、国会での3分の2以上の議決と国民投票での過半数を要件としますから、そう簡単には変わりません。第二は「改憲派」で、自衛隊を軍隊と認め憲法第9条改正を主眼にするものですが、かつてはこれは「アメリカの押しつけ憲法ではなく自主憲法を」といって、天皇の元首化や基本的人権制限がセットになっていたのですが、そうした復古主義的改憲派は、少数になりました。最近世論の上で増えているのは、すでに制定後半世紀を経たのだから世界と日本の変化にあわせ、自衛隊の国際貢献や環境権・情報アクセス権など新しい人権をも憲法に明記しようという現実主義的改憲論です。自民党ばかりでなく、自由党や保守党も改憲を唱えています。第三が「論憲」という中間的立場で、自民党のいう改憲は軍事大国化につながると警戒しつつも、これまで憲法論議そのものがタブーになってきたことを反省し、大いに議論しようという、最大野党民主党や、自民党と連立した公明党の立場です。国民の中ではまだ「論憲」さえ成熟していませんが、すでに衆議院・参議院に憲法調査会が作られていますから、21世紀の初頭には、憲法問題は日本政治の最大の争点として浮上してくるでしょう。
そのさい、これらの立場が、21世紀世界の見通しと結びついていることに、注意しましょう。「護憲派」は、社会主義は崩壊したものの、アメリカを中心としたグローバル資本主義・帝国主義が「第3世界」を搾取しており、日本も再度侵略するおそれがあるから日本国憲法の戦力放棄・平和主義の歯止めが必要だ、と主張します。「改憲派」の復古主義グループは、「国民国家」が21世紀もなお重要な役割を果たすので、日本も対米依存でなく「経済大国にふさわしい軍事力」や「自主外交」が必要だとします。しかし現実主義的グループや「論憲派」は、21世紀のグローバル市場と「国民国家のゆらぎ」や、「情報社会化・ボーダーレス化」を前提とし、日本はそのなかで新しい役割や新しい世界平和への貢献を模索すべきだ、と考えます。現実主義的「改憲派」の中には、「民族対立の激化」や「文明の衝突」を想定して、改憲・自衛隊海外派遣を唱える人々も含まれます。
もっとも日本の世論は、朝鮮半島の統一の動きや中国・インドの動向などアジアの動き次第で、大きく変わります。むしろ「論憲」の動きを追いかけることで、今後の日本の行方が、見えてくるでしょう。長くなったので、憲法問題の重要性を述べるに留めておきます。