雑誌『世界』二〇〇〇年三月号に、カリフォルニア大学サンディエゴ校T・フジタニ教授が、興味深い論考を寄せている。「新史料発見 ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」と題して、ハーバード大学で長く日本史を講じ、ケネディ大統領時代から駐日米国大使として「日本の近代化の成功」を説いたエドウィン・O・ライシャワー教授が、真珠湾攻撃一年足らずの一九四二年九月一四日付でメモランダムを作り、日米戦争勝利後の「ヒロヒトを中心とした傀儡政権[puppet regime]」を陸軍省次官らに提言していた、というのである。
それは、戦後米国の代表的「知日派」ライシャワーの、日本や日本文化に対する愛着・尊敬から発したものではなかった。T・フジタニが見出したように「日本の人々を侮蔑しており、また存続させようという天皇そのものについても軽蔑的な態度」が滲み出ていた。また、当時の「親日派」の代表で天皇制存続に大きな役割を果たしたとされる駐日大使ジョセフ・グルーでさえヒロヒト個人を天皇として残すかどうかを考えていなかった時期に、「すでにヒロヒト自身を天皇として留まらせることを発案」したものだった。
フジタニ教授は、この「ライシャワー・メモ」に、戦時米国陸軍省がなぜ日系アメリカ人の志願兵制度を設けたかを探求する過程で遭遇した。「メモ」では、傀儡天皇制と共に、日系アメリカ人部隊を設けて「連合国が人種差別的だと宣伝する日本のプロパガンダに対抗」する戦略が提案されていた。これをフジタニは、「ライシャワーが日系マイノリティに対する人種差別や強制収容といった深刻な現状についての同情や関心などはまったく示さず、あくまで冷やかに、日系人を戦略のための道具として考えていた」と読みとった。 もっともフジタニ教授は触れていないが、ライシャワー自身は、あからさまに「傀儡」とまでいわずとも、開戦当初から天皇制の戦後利用を主張していたこと、日系人部隊創設を提案したことを、隠してはいない。『自伝』に、以下のようにある。
本年夏、私がワシントン郊外の米国国立公文書館で発見した機密公文書「日本プラン」は、ライシャワーの傀儡天皇制論と似ている。というよりも、ライシャワー提言はこれを受けたものと思われる。その史料は、日本でもマイクロフィルムで一部が閲覧可能な米国戦時情報機関OSS(Office of Strategic Services,今日のCIAの前身で、定訳はないが戦略情報局と訳しておく)史資料の山の中にあった。一九四二年六月三日付米国陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課「日本プラン(最終草稿)」である。その象徴天皇制利用構想は、フジタニ教授の発見した「ライシャワー・メモ」より、更に三か月遡る。
パールハーバー半年後のミッドウェイ海戦時に、すでに米国は、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略を、個人的意見・提案ではなく、陸・海軍、国務省、情報調整局COI(Coordinator of Information,OSSの前身で一九四一年七月一一日創設、「日本プラン」直後の四二年六月一三日にOSS戦略情報局とOWI戦時情報局に改組)、それに英国政治戦争本部PWEも加わって検討した公文書中で明言していた。日本国憲法の産みの親マッカーサー(当時米国極東陸軍最高司令官、連合軍南西太平洋方面総司令官)もそれを承知していた。戦後日本の天皇制存続は、開戦直後から米国の基本戦略に含まれていた。以下は、その「日本プラン」と象徴天皇制利用戦略の紹介である。
なお、フジタニ教授と同じく、私も、この文書を求めてワシントンに行ったわけではない。春名幹男『秘密のファイル』(新潮文庫)や山本武利『ブラック・プロパガンダ』(岩波書店)に触発されて、直接には在米日系共産主義者ジョー小出(本名鵜飼宣道)、藤井周而の戦時活動、大きくは九・一一以後の情報戦の米国側ルーツ(戦時OSSから戦後CIAへの転換と今日の「国家情報長官」構想)を調べている内に、遭遇したものである。
それは、日露戦争時からの米国対日軍事戦略としてしられる「オレンジ・プラン」とは直接の関係はない。対中国・アジア心理戦「ドラゴン・プラン」や対朝鮮「オリビア・プラン」と一緒にみつかった。内容的には対中「ドラゴン・プラン」戦略の一環と思われる。
「日本プラン」の公式提案者は、陸軍省心理戦争課長オスカー・N・ソルバート大佐である。しかし天皇制問題はCOI極東課で起案され、そこで重要な役割を果たしたのは日本政治専門家チャールズ・B・ファーズと推定できる。ファーズの師ノースウェスタン大学政治学部長ケネス・W・コールグローブの立憲君主制論、「天皇=象徴」論の起源と思われる新渡戸稲造『日本――その問題と発展の諸局面』(一九三一年、「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である[The Emperor is the representative of the nation and the symbol of its unity]」とある)、いわゆる「ルーズベルト親書」を通じて米国側日本観に影響を与えた歴史学者朝河貫一、国務省極東課の日本担当ヒュー・ボートン、OSS心理作戦計画本部からマッカーサーの軍事秘書となり「昭和天皇独白録」を演出したボナー・フェラーズ、OSS調査分析部(R&A)の重要参考文献で本誌四六年一月創刊号に邦訳されたヒュー・バイアス『敵国日本』(四二年二月)等の役割も重要だが、ここでは省略する。
これらの問題及び「日本プラン」の歴史的・研究史的意義については、今日のイラク戦争・占領、二一世紀情報戦との対比で、現在執筆中の拙著『情報戦と平和憲法』(仮題、平凡社新書)で展開する予定なので、詳しくは近著を参照されたい。
第二次世界大戦、太平洋戦争当時における米国の世界戦略・対日戦略は、戦後の占領改革や日本国憲法制定に、どのような影を落としたのであろうか? その確実な検証の手がかりを、米国での日本研究の旗手T・フジタニ教授は、おそらくそれとは自覚せずに、発見していた。フジタニは、『世界』「傀儡天皇制」論文とは別に、日系人部隊の対日戦争動員、戦争プロパガンダへの利用がどのように行われたかを探求する過程で、米国国立公文書館で「日本プラン」と題する二つの草稿を見出した。陸軍心理戦争課長ソルバート大佐名の一九四二年五月一三日付第一草稿「日本帝国にむけた詳細なプロパガンダ計画のための準備」一八頁と、同五月二三日付「日本プラン」第二草稿三四頁である。
その内容を、フジタニは、日系人兵士徴用の「プロパガンダにおける象徴的利用のための動員」「文化的人種主義」の文脈で紹介し論じたが、そこでの天皇の扱いには触れていない(T・フジタニ「戦下の人種主義――第二次大戦期の『朝鮮出身日本国民』と『日系アメリカ人』」『岩波講座 近代日本の文化史 八 感情・記憶・戦争』岩波書店、二〇〇二年の注一四、二七五頁、二つの草稿は米国公立公文書館RG二〇八、ボックス五にあるという)。しかし、ここで草稿が発見された「日本プラン」こそ、「ライシャワー・メモ」より更に遡って、日米開戦わずか半年後のミッドウェイ海戦段階で早くもレ ムルが敷かれた、米国の戦後「傀儡天皇制」戦略=象徴天皇制利用の見取り図と考えられる。
私は、ここ数年夏休みにワシントン郊外の米国国立公文書館に通い、第二次世界大戦末期に米国戦略情報局OSSのMO(モラール工作部)で対日ブラック・プロパガンダ(諜報宣伝)に携わった在米日本人共産主義者「ジョー小出」の生涯に関する史料を求めてきた。二〇〇一年にようやく機密解除され全面公開された対日戦史資料を含む、膨大なOSS文書を収めたRG二二六の探索である。その中核である「ドノヴァン長官文書」(日本でも一橋大学と早稲田大学がマイクロフィルム全一三六リールを所蔵)のリール六二の中に、一九四二年六月三日付陸軍省軍事情報部心理戦争課「日本プラン(最終草稿)」という、奇妙な文書があった。この時点では、T・フジタニ「戦下の人種主義」論文の存在を知らず、またジョー小出研究には直接関わらない周辺史料として複写した。
本文三二頁に及ぶ「日本プラン」には、三頁のダイジェストが付されていた。その現物は、本稿のために、私の個人ホームページ「ネチズン・カレッジ」中に、三枚のスキャナー画像にして入れてある(http://homepage3.nifty.com/katote/JapanPlan.html)。
陸軍心理戦争課長ソルバート大佐の付した序文には、一九四二年五月一三日付第一草稿と五月二三日付第二草稿(つまりフジタニ教授の発見した二文書)を修正したもので、政府と軍の関係各部署に回覧して最終的に仕上げるためのものだとしている。特に情報調整局COIのウィリアム・J・ドノヴァン長官宛手紙には、四二年五月二日に米国政府・軍関係諸機関の対日心理戦略を調整するための心理戦共同委員会(JPWC)が開かれて準備され、「このプラン作成にあたり、シャーウッド、ヘイデン、レーマー、マクロイ氏ほかあなたのスタッフに資料的に大変助けられた」と謝辞を述べている。
そのダイジェスト版によると、「日本プラン」は、連合軍の軍事戦略を助けるための、帝国日本に対するプロパガンダ戦略であり、四つの政策目標を持つ。
その政策目標達成のために、八つの宣伝目的が設定されたが、それらは、この時点における米国の戦争目的と対日戦略を表すものであった。
こうした一般心理戦略にもとづき、より個別的な一一項目の宣伝目的が設定された。このレベルから、天皇と天皇制の扱いが、具体的に語られる。
その上で、病気、火事、スパイの恐れ、「劣等国」への憤慨、スローガン溺愛という日本人の思考・行動パターンに注目して、具体的なプロパガンダ工作の作戦を類型化する。
ダイジェスト末尾には、「特別の慎重に扱うべき提案」[Special and Cautionary Suggestions]として、次の五点が挙げられた。
以上に概略を見た「日本プラン」ダイジェスト版三頁だけでも、一九四二年六月時点での、米国における対日心理戦略の基本方向がうかがわれる。米国を中心とした連合国の戦争の文明と国際法にのっとった大義を示し、日本の戦争を、文明からの逸脱であり侵略的企図をもつものとしてアジア人に示すこと、戦争に導いた日本の軍部と「天皇・皇室を含む」国民との間にくさびを打ち込み、「軍部独裁打倒」に力を集中することである。
重要なのは、第一に天皇制存続、第二に戦後日本の繁栄=資本主義再建という、GHQの占領で実現する二本柱の方向が、この時点で示唆されている点である。「帝国主義の時代は終わった」「朝鮮にはガンジーがいない」「人種問題」等の含意も興味深いが、ここでは天皇と天皇制の問題に限定して、以下三二頁にのぼる本文における記述も見ておこう。
「日本プラン」本文の全体は、以下の六部から成る。
このうち過半を占める「三 プロパガンダの論題」が、ダイジェスト版で見た米国心理戦略の基調を根拠づける、日本社会と日本人の要約的分析となっている。
では、なぜ天皇は「平和のシンボル」たりうるのか? 宣伝目的の「2 日本と米国の間に戦争行動の文明的基準を保持すること」との関わりで、「中国のプロパガンダはおおむね日本の天皇を傷つけ日本の共和制という危険なテーマに触れるかもしれないが、我々のプロパガンダではできない」と、この問題では、連合国内部でも「西洋人[Westerners]」の「ヨーロッパ文明の基準」と中国側の「感情」的対応が分かれる可能性を認める。
そして、宣伝目的3から「日本の政府と普通の民衆との間に分裂をつくりだす」ために、天皇と軍部を切り離すことを主張する。明治日本のアジア侵略=「拡張主義」を知りながら、それは見逃して、明治天皇のリーダーシップと「立憲主義」を強調せよという。
さらに「現在の天皇の本当の望みを示すこととの関連で、以下のような諸点が利用できる」と、国務省から示唆された歴史的根拠を挙げる。第一に天皇は一九三一年の満州事変に反対だったが排外主義者の暗殺が広がるのを恐れしぶしぶ認めたこと、第二に国際連盟総会に際して天皇は松岡洋右に民主大国と決裂しないよう命じていたにもかかわらず松岡が軍部の意向に従ったこと、第三に天皇は日独伊三国同盟に反対でそれを妨げなかった後も平和を望んでいたことで、これらで天皇を「平和のシンボル」に仕立て上げようとする。
だから、「d 我々の中国人ないし日本人の協力者は、西洋人には受け入れがたい天皇についてのコメントを付すだろう」が採用すべきではない。明治天皇には真に指導力があったが、彼の子の大正天皇は狂人[insane]であり、孫である昭和天皇の統治力は弱い。したがって明治天皇へのアピールは、結果的にレジームへの反対に用いうる、という。
だが、これらは日本や昭和天皇への尊敬で語られているわけではなく、グルーのように天皇周辺の「穏健派」自由主義者に期待してのものでもない。「六 特別の慎重に扱うべき提案」で、再び天皇の象徴性が論じられる。昭和天皇の所業と責任も熟知している。
この米国の心理戦略「日本プラン」に見られる天皇・天皇制観は、後に滞日十年のグルーや国務省の「戦後日本の設計者」ボートン、クエーカー教徒フェラーズらが抱いたとされる、日本へのある種の畏敬と愛着を伴うそれではない。天皇制と天皇個人は明確に分離されて、ヒロヒトを名指せば天皇制の「象徴的側面」が弱まることを十分承知し、警戒している。日本社会や歴史の分析も、このプランの中では大雑把で(OSS調査分析部R&Aは膨大な日本分析資料を残している)、戦略的な「天皇の象徴的側面」の利用価値の強調が際だつ。ライシャワーの「傀儡」ほどには露骨でないが、あくまで米国の「国益」の観点からの、「利用」の視点からの天皇制残存であり、ヒロヒトの能力も熟知している。長く日本と交戦してきた中国人の歴史的・民族的感情さえ無視しようとしている。
「西洋人」とあるのは、この「日本プラン」作成が、もともと一九四一年一二月、つまり真珠湾攻撃直後に英国情報機関PWEとの共同作業の一環として始まったことによる。同じリールには、この「最終草稿」に先立ち、四二年五月に作られた「日本と日本占領地域のための英米共同指針計画[Joint Anglo-American Outline Plan for Japan and Japanese Occupied Territories]」があり、その三頁の梗概中にも、「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」と明記されていた。過去における日英同盟、日米協調の強調も、この戦略の文脈にある。米国にとって「明治は古きよき時代」だったのである。
このような対日戦略は、陸軍省軍事情報部の一将校のアイディアで生まれたものではありえない。「日本プラン」は、「秘密[Secret]」として、半世紀以上も非公開だった機密公文書である。事実ソルバート大佐は、軍及び政府の関係部署の意見を聞いて、三度も草稿を書き直した。そのさい、ドノヴァン機関スタッフの助力を得たと述べている。そして、RG二二六(OSS文書)の中核を成し、この六月三日付「日本プラン」を収録した通称「ドノヴァン長官文書」[Records of the Office of Strategic Services ,Washington Director's Office]中には、「日本プラン」の重要性を裏付ける、多くの関連資料が含まれている。
T・フジタニ教授の見つけた第一・第二草稿が戦時情報局OWI関係のRG二〇八文書中にあり、筆者の見つけた最終草稿がRG二二六の戦略情報局OSSドノヴァン長官文書中にあったのは、今日のCIAの前身である米国初の国家的情報機関の、一九四二年段階での性格を端的に示している。一九四一年七月一一日に発足した情報調整局COIは、四二年六月一三日に戦略情報局OSSに改組するにあたって、その公然宣伝部門(ホワイト・プロパガンダ)を戦時情報局OWIとして切り離し、「頭脳」にあたる海外情報収集分析部門(研究調査部 Research & Analysis=R&A等)、「手足」にあたる特殊工作部門(SO等)、非公然宣伝部門(ブラック・プロパガンダ担当モラール工作部MO等)をOSSに残した。したがって現存するOSSの史資料は、RG二二六だけではなく、国務省・商務省文書や陸・海軍文書、OWI・CIA文書などの中にも散在し、全貌をつかむのは容易ではない。
それでもある程度、流れを追うことは可能である。「日本プラン」のその後を追跡してみよう。一九四二年六月一〇日に、ドノヴァン長官は、心理戦共同委員会(JPWC)ソルバート大佐宛に、「日本プラン」最終草稿についての情報調整局COIとしての意見を寄せ、具体化にあたっての英国との調整の必要、日本国内にプロパガンダを持ち込む手段の弱さを指摘した。ソルバートは、六月二三日付で、新発足したOSS長官ドノヴァンに返答し、この計画が日本にプロパガンダしうる戦況が生まれた場合の「基礎的なプラン」で、未だ具体的作戦計画ではなく、戦略的枠組みを立てたものだという。
一九四二年七月九日の心理戦共同委員会「日本プラン」会議メモに、「ドノヴァン大佐は、日本占領地域における情報源の組織化のために、『ドラゴン・プラン』と題するプロジェクトのコピーを回覧した」とある。どうやら「日本プラン」は、ドノヴァン長官にとっては、「ドラゴン・プラン」という、より広域の中国・アジア戦線工作の一環として位置づけられていたようである。これを受けて、七月一三日の心理戦共同委員会会議メモには、「ドラゴン・プラン」が陸海軍・国務省の承認を得て中国蒋介石政権の連合軍軍事顧問スティルウェル将軍の指揮監督下におかれる見通しと、「日本プラン」を引き続きOSSで検討していく方向が示された。
一九四二年八月五日付で、ダグラス・マッカーサー将軍の意見が寄せられた。戦後日本の占領と日本国憲法制定の主人公となるマッカーサーは、四一年七月二七日に米国極東陸軍最高司令官となり、太平洋戦争開始後、日本軍の侵攻で四二年三月にフィリピンからオーストラリアへの撤退を余儀なくされていたが、四二年四月一九日には、連合軍南西太平洋方面総司令官に就任した。無電で届いたマッカーサーの「日本プラン」へのコメントは、天皇制利用など内容に関わる意見はなく、オーストラリアの地からいかにこのプランを現実のものにするか、英国など他の連合国との調整が必要だという問題提起であった。
逆にいえば、一九四五年八月三〇日に日本に上陸するマッカーサーは、三年前の四二年夏の時点で、ワシントンの軍・政府関係諸機関で調整された、米国の「平和のシンボルとしての天皇の利用」戦略を知り、すでに内容的には了承していた。
ただし、この「日本プラン」は、連合軍の正式の作戦として採択されることはなかった。一九四二年八月一八日に、マッカーサーからの無電コメントを含む各部署からのコメントを得て、戦略情報局OSSのドノヴァン長官を議長に、海軍H・L・グロスコップ、陸軍のC・C・ブレイクニー、OSSのエドモンド・テイラー、英国政治戦争本部PWEのデーヴィッド・ボーズ・リオン、ウォルター・アダムズ、国務省のM・J・マクダーモット、L・E・セイリスバリー、それに陸軍からOWIに移籍したばかりの起草者O・N・ソルバート、同じくOWIのE・A・マウラーの加わった調整会議が開かれた。
そこでは、英国情報部との更なる調整、中国からビルマにいたる他の戦域での作戦との調整の必要が語られ、天皇の存続・利用など内容について討論することなく、凍結された。
にもかかわらず、「日本プラン」の内容は、米国国務省、陸軍・海軍、中国戦線・南方戦線の総司令部で、心理戦担当者の共通の「基礎的な」指針となった。それは、その後の軍・政府機関各部署での具体化にあたって、「天皇の利用」が前提されていることからうかがわれる。ライシャワーの一九四二年九月一四日付傀儡天皇制メモ、四二年末ム四三年の国務省領土小委員会内ボートンらの天皇制の検討も、この「日本プラン」をベースにした可能性が高い。山極晃・中村政則編『資料日本占領1 天皇制』(大月書店、一九九〇年)に収められた四二年一二月九日の戦時情報局OWIエルマー・デイヴィス長官による「天皇は国民から神と見なされていますから、天皇個人に対するいかなる攻撃も、必ずや感情を多分に刺激し、正当なものとは受けとられないでしょう」という記者会見発言、四二年一二月一四日のビショップ国務省極東課員覚書の「天皇は、たとえばヒトラーのような個人的指導者ではなく、事実上、日本の国民統合の象徴である[a symbol of Japanese national unity] 」という位置づけ、同一二月一八日のアチソン極東課員の覚書等には、いずれも「日本プラン」を参照し下敷きにしたと思われる表現が入っている。
「日本プラン」は、その後の戦況、とりわけ中国国共合作の帰趨と国際・国内世論の動向で、具体的レベルでは無視されたり修正されたりする。しかし、米国政府・軍機関のプロパガンダの大枠として機能し、戦後の占領政策まで影響を及ぼしたと考えられる。
山極・中村編『資料日本占領1 天皇制』に、当時の米国アジア政策に大きな影響力を持った太平洋問題調査会(IPR)の評論誌『アメラシア』第六巻九号(一九四二年一〇月二五日)に掲載された、ケネス・W・コールグローブ「日本国天皇をどうするか」が収録されている。コールグローブは、当時ノースウェスタン大学政治学部長で、亡命中の大山郁夫の庇護者として知られ、大山に美濃部達吉『憲法精義』を英訳させていた時期である。コールグルーブは、翌四三年からOSSに加わり、戦後はマッカーサーの政治顧問として来日し日本国憲法制定に関わる。この時点では、彼のもとで日本憲法・日本政治を学び博士号を得た愛弟子チャールズ・B・ファーズがOSSのR&A(調査分析部)極東課日本班長(後に極東課長)をつとめており、「日本プラン」の存在を知りうる立場にあった。
コールグローブは、オーウェン・ラティモアら「中国派」の影響力の強い『アメラシア』誌上で、米国における戦後日本の天皇廃絶論・存続論の双方の主張の論拠を整理する。
天皇制廃止論は、後に中国国民党の代表的見解と見なされたB・A・リュー「ミカドは去るべし」(『現代中国』三巻一二号、一九四三年一一月一日)中に引用・要約された通りに挙げれば、以下を論拠とする。(1)日本では天皇崇拝の影響が増大している、(2)日本軍兵士は、狂信的熱誠のもとに天皇に奉公している、(3)天皇の独特の地位は、その結果として、政治の二重体制を生んでいる、(4)天皇は、国務大臣が接近しにくいところに遠ざけられている、(5)日本の国体は、世界の安全に対する脅威を内在させている、(6)戦争中に、皇居および国に属するいくつかの神社を破壊する必要がある、(7)総力戦においては、イデオロギー面でのきびしい攻撃が重要である、(8)世界平和にとっては、日本の軍部支配の排除がその前提条件である。
しかし、リューも認めたように、コールグローブは、天皇制存続論についても、詳しく紹介していた。(1)天皇崇拝の存在が戦後日本の国家的結束の保障になりうること、(2)天皇崇拝は国家宗教である神道の問題で、その抑圧はルーズベルトの「四つの自由」の一つである「信教の自由」保証の公約に反する、(3)大西洋憲章が述べた「すべての国民がその下に生活する政治形態を選択する権利」からして、戦後の日本国民は天皇制を含む政治体制を選ぶ権利を有する、(4)天皇崇拝の廃止は国家元首への侮辱を意味する、(5)皇居や伊勢神宮への攻撃は、日本国民の志気をかえって高め、米国民間人・捕虜等への報復を招く、(6)皇朝の伝統は、敗戦国日本に秩序を回復する有効な手段となる、日本が暴力革命や外国の干渉もこうむることなく徐々に天皇崇拝から立憲君主制に移行することは連合国にとっても望ましい、を挙げた。
そのうえで、「日本の体制や伝統を廃絶する計画について、われわれが躊躇するのは、現在のところ、建設的なリーダーシップが欠如しているからである」と結論を保留するが、文脈からすれば彼自身は存続説の立場にあり、一緒に掲載されたケイト・L・ミッチェル「日本国天皇の政治的機能」の絶対君主制廃絶論とは鋭く対立する。
そして、この頃始まる国務省や陸軍内での本格的検討は、「日本プラン」を下敷きにしたと思われるコールグローブの整理した存続説の方向で展開され、さらに存続の論拠が強化される。(7)軍国日本をスムーズに武装解除するにも天皇は利用価値があり、二度と軍部独裁にならないようにするためには、軍部と武力を破壊すればよい(後の日本国憲法第九条「戦争放棄・戦力放棄」の方向)、(8)その制度的保証である憲法改正の発議権も、大日本帝国憲法では天皇にあり、対外干渉ではなく日本国民の「自由に政治形態を選択する権利」による憲法制定のかたちをとるためにも、天皇は利用しうる(ヒトラーのドイツとは異なり、日本政府を残した間接占領の方向)、と戦後占領改革の基本的方向が定まっていく。
憲法第九条を含む後の日本国憲法制定の全体的方向は、一九四二年六月「日本プラン」段階では定かでない。しかし、第一条「象徴天皇制」については、すでに米国政府・軍の基本戦略の方向性が定まり、米国及び連合国の対日政策を牽引していくことになる。
そして、原爆開発の「マンハッタン計画」とほぼ同時に立案された「日本プラン」は、OSSの「頭脳」である調査分析部(R&A)に導かれる世界戦略・アジア戦略を基礎にしながらも、「手足」であるMO(モラール工作部)の「ブラック・プロパガンダ」やSO(秘密工作部)では、「天皇死亡デマ作戦」や「原爆を使った人工地震作戦」を立案し、「マイノリティ」とみなされた朝鮮人や沖縄民衆を「スパイ」に仕立てる作戦の基礎にもなった。後者は、今日のイラクのCIAや「アブグレイブの虐待」にまで引き継がれていく(この点は、本誌七月号の拙稿「大義の摩滅した戦争、平和の道徳的攻勢」及び「ネチズン・カレッジ」九月一五日・一〇月一日号掲載のOSS研究案内参照。)。
● 太平洋戦争開戦半年後、ミッドウェー海戦時にマッカーサー将軍も読んだ機密文書で、ちょっと読みにくいですが、2頁目の(d)項に、「日本の天皇を(慎重に、名前を挙げずに)、平和のシンボルとして利用すること[To use the Japanese Emperor (with caution and not by name) as a peace symbol]」とあります。「象徴」という表現よりも、「利用」のニュアンスに注目してください。
● ただし、『東京新聞』等新聞記事には「2001年に解禁されたOSS史料の中から発見」とありますが、正確には「全面解禁」で、当サイト9/15版トップで紹介したように、OSS史料全体は段階的に公開されてきており(ローレンス・マクドナルド「アメリカ国立公文書館のOSS史料ガイド」『インテリジェンス』創刊号、2002)、「日本プラン(最終草稿)」の入っている「ドノヴァン長官文書」自体は1990年に公開され、132リール・175000頁の大部のマイクロフィルムなため、日本の研究者が誰も見ていなかっただけのものです。
● なお、これを解読した『世界』12月号論文134頁で、「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である[The Emperor is the representative of the nation and the symbol of its unity]」と明記した新渡戸稲造の英文著書『日本――その問題と発展の諸局面』の刊行年を「1930年」と書きましたが、原書はInazo NITOBE,JAPAN: Some phases of her Problems and Development, Ernst Benn Limited, London,1931, p.171で、正しくは「1931年」でした。また、一九四二年八月一八日の会議に出席したエドモンド・テイラーを、ジャーナリスト出身なのでOWIと書いてしまいましたが、その後の調査によるとOSS所属でした。以上、雑誌論文を訂正しておきます。
● その後「日本プラン」の第一・第二草稿は、陸軍MIS及び戦時情報局OWIの「ラインバーガー文書」(一橋大学図書館所蔵)中にも入っているのを発見しました。
● この件でのお問い合わせ等は、E-mail: katote@ff.iij4u.or.jp またはcs00231@srv.cc.hit-u.ac.jpへ。