このエッセイは、日本科学者会議『日本の科学者』(Vol.20, No.5, May 1985)の特集「学問を進める気概」に掲載された、新入大学院生向けの社会科学入門である。10年以上前のものだが、大学院生ないし大学院志望の学生には意味があると思われるので、ここに再録する(1997/12)。
本特集は、新入大学院生向けとのことである。「職業としての学問」を志して希望に燃えている人たちに、大学院生活を経験したことのない私から、伝えることのできるノウハウはない。ただ、一つの個人的回想と関わって、記しておきたいことはある。それは、私の親しい友であった、ある大学院生のこと、その友の学問への情熱と研究態度のこと、そして、彼の非業の死と残したものについてである。
友の名は、松井坦(まつい・たいら)。1975年東京大学大学院経済学研究科に28歳で入学、専攻はドイツ経済史、経済学研究科院生自治会の副委員長、歴史学研究会委員・編集幹事・総合部会責任者を勤めながら、宇都宮大学非常勤講師となる。1980年11月12日、博士課程修了・研究職就職を目前にして、不慮の交通事故に遭い、意識不明のまま同19日永眠、享年33歳、彼の尊敬していた野呂栄太郎と奇しくも同年であった。
松井君は、私と同じ大学民主化闘争世代に属する。学生時代は、大学新聞作りと自治会活動にあけくれた。だが、勉強しなかったわけではない。人一倍熱心に社会科学を学び、講義のないキャンパスで、自主講座や自主的研究会を組織していた。卒業して私と同じ出版社に勤めたが、学問への情熱断ちがたく、退社してドイツに自費留学、その間、私たちと一緒に論文も書いたし、結婚して子供もできた。大学院入学後は、年老いた御両親と妻子をかかえながらも、研究に、院生運動に、全力を尽くした。彼の影響を受け、彼とともに学びたたかい、今では立派に自立した若い研究者も多い。
その松井君が、1979年の歴史学研究会大会で二つの報告をし、会誌『歴史学研究』に発表している。一つは、専門のドイツ経済史についての重厚な論文(「プロイセン国有鉄道とドイツ帝国主義財政」第468号)、いま一つは、「元号法制化とわれわれの歴史学」と題する臨時大会報告である(第467号)。両者は一見、ずいぶん離れたテーマに見える。だが私は、彼はひとつのことを言いたかったのだと思う。彼には、どうしても解かなければならないひとつの〈問題〉があったのだ、と思う。
もともと彼のドイツ史研究の出発点は、日本資本主義発達史研究だった。彼の学問は、現実から〈問い〉を発見し、古典と歴史の中に解答を求め、かつ再解釈していくものであった。その〈問い〉とは、「元号」論文で述べている、わが国支配層の「戦後民主主義に対する『総反攻』」の歴史的・物質的根拠は何か、ということであったろう。そんな〈学風〉に、皆が魅かれ、共感し、彼の遺志を受け継いでいこうと『松井坦遺稿・追悼集』(非売品)をつくった。
学問に必要なのは、松井君が持ったような意味での、自分にとってどうしても解決せずにはいられない、そんな〈問題〉ではないか、と私は思う。では、〈問題〉はいかにして発見されるのか? それが、私なりに「職業としての学問」を志す若い人たちに、述べたいことである。
ここでは、私自身の専攻領域である国家論を例にとって、〈問題〉の発見について考えてみよう。
いま地球上には、160以上の〈国家〉がある。その相貌はあまりにも多様で、そもそも国家論なる一般化が可能なのかさえ、一つの問題たりうる。帝国主義に線引きされた第三世界の諸国家への関心は、世界市場における中心・周辺構造と国民国家との連関や、民族的・宗教的・風土的社会分割の国家形態に及ぼす影響、といった問題を誘発する。〈自由と民主主義〉を欠如したまま国家権力を強大化する現存社会主義への疑問は、国家の死滅や官僚制の民主的統御が可能なのか、労働者国家でもエリートと大衆との断絶は不可避ではないか、といった問題をよびおこす。
わが国を含む先進資本主義国に目を向けると、国家はリヴァイアサンとして現れる。0ECDの最新統計では、先進諸国の国民総生産に対する公共支出の割合は3〜6割に達し、全就業者人口に占める公共セクターの被雇用者の比重も、2〜4割になっている(日本はいずれも例外的に低い)。
こうした巨大国家が常態となっているもとでは、国家と市民社会の分離という近代政治理論の問題設定自体の妥当性にも、慎重たらざるをえない。日本の最近の政局に注目して、なぜ「国権の最高機関」である国会をさしおいて臨調や臨教審のような第三者機関で重要な国家目標や将来像が事実上決められてしまうのか、などと考えるのも〈問題〉発見の第一歩だ。
しかし、〈問題〉は、直接自分の専攻と関係している必要はない。自分自身のこれまでの生きかた、学生時代に身につけた世界観・人生観の延長上で〈問い〉を設定し、その〈問い〉との格闘の中で、どうしても解かねばならない〈問題〉につきあたり、学問をむしろその手段として自己変革をはかるタイプもありうるだろう。第三世界の飢えた人びとに自分は何ができるか、自分の研究が、核戦争にも平和のためにも役立ちうるのなら、意識的に平和のための研究を追求したい、等々。
こうした〈問題〉から、国家はなぜ必要なのか、それは誰のためのものか、国家と政府は同じなのか、といった〈問い〉に入る道もある。松井坦君の学問は、こうした自分の生きかたに即した〈問題〉設定であり、研究テーマの選択であった。このような現実と自分との緊張感こそ、〈問題〉発見の近道であるだろう。とはいえ〈問題〉自体も研究過程で深化していく。〈問題〉との格闘は、古典や歴史との対話で、新たな〈問い〉をよびおこす。
ここでは、マルクス主義国家論の〈古典〉とされている、レーニン『国家と革命』を例にとって考えてみよう。
レーニン『国家と革命』は、文庫本にして200ぺ一ジ足らず、ひとまず通読して全体の構成と大意をつかみとる。この著作は、マルクス、エンゲルスの抜き書きをもとに組みたてられている。「マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの諸任務」が副題だ。1917年8〜9月の執筆だから、ロシアの二月革命と十月革命との間、「四月テーゼ」の後になる。後半のカウツキー批判を見ても、この著作が、ロシア革命の具体的方途を意識した政治的・実践的著作であることがわかる。
草稿は、1916年末から1917年1月にかけて、スイスのチューリヒで書かれた。『国家論ノート』だ。『ノート』付録のプランをみると、現行6章編成のほかに、書かれざる第7章「1905年と1917年のロシア革命の経験」が予定されていたことがわかる。ロシア革命史やレーニンの伝記を、そばに置いて読んだ方がよさそうだ。
冒頭でレーニンは、「我々の任務は、何よりもまず、マルクスの真の国家学説を現状に復することである」として、「マルクスとエンゲルスの著作から国家について述べた箇所をみな、少なくとも決定的な箇所をみな、できるだけ完全な姿で、ぜひ引用しなければならない」と言う。ひとまずこのことから考えてみよう。レーニンは、本当にマルクス、エンゲルスの全著作を参照したのだろうか?
一読した印象でも、どこかひっかかる。『ノート』でも、学説史的叙述プランは1847年以降の年代誌が挙げられている。「へ一ゲル国法論批判」などの初期マルクスはもとより、『ドイツ・イデオロギー』も入らない。よく「フランス三部作」といわれるが、『ブリュメ一ル18日』と『フランスにおける内乱』はあるが、『フランスにおける階級闘争』が出てこないのは不思議だ。レーニンの強調してやまない〈プロレタリアート独裁〉が初めて用いられるマルクスの著作なのに。
なによりも、『資本論』がでてこない。『資本論』は、国家論では重要ではないのだろうか?〈プラン問題〉の「国家の形態でのブルジョア社会の総括」はもとより、第3巻地代論の「生産条件の所有者の直接生産者に対する直接的関係……、この関係こそは、つねに我々がそのうちに社会的構造全体の、したがってまた主権・従属関係の政治的形態の、要するにそのつどの独自な国家形態の、最奥の秘密、隠れた基礎を見出すところのものである」という有名な命題も出てこない。どうもレーニンは、マルクスよりもエンゲルスにより多く依拠しているみたいだ――こんな〈問い〉を設定できれば、すでに国家論研究の入り口にさしかかったことになる。
もっともこうした〈問い〉のいくつかには、少し調べれば、クイズ的に答えが出る。『国法論批判』『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判要綱』などは、レーニン死後に発表されている、したがってレーニンは参照しようがなかったのだ、と。いずれにしても『国家と革命』の典拠には、偏りがある。これもおそらく、レーニンの実践的問題関心によるのだろう。
では、かれはマルクス、エンゲルスのいかなる言説に注目したのか? 『ノート』冒頭は『共産党宣言』1872年版序文に引かれたマルクス『フランスにおける内乱』の一節、「労働者階級はできあいの国家機構をそのまま掌握し、それを自分の目的のために行使することはできない」であり、「できあいの国家機構を粉砕して新しい国家機構と置きかえなければならない」というテーゼだ。どうやらここに、レーニンの関心があり、主題があったようだ。
そう見込んで、今度は、じっくりノートをとりながら、本文をよむ。国家論上の基本テーゼは、ほとんど第1章「階級社会と国家」で出そろう。いわく「階級対立の非和解性の産物としての国家」「階級支配の機関、一階級が他の階級を抑圧する機関」「常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具」「民主主義もまた国家であり、したがって国家が死滅するときには民主主義もまた死滅する」「プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は暴力革命なしには不可能である」云々。たちまち自分自身のノートができる。
だがこれは、自分で重要だと思ったレーニンからの抜き書きだ。そのレーニンは、エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』を引きつつコメントしている。本当にレーニンは、「決定的な箇所」を残らず正確に引いたのだろうか? マルクスのモットーは、確か「すべては疑いうる」だったはずだ。こんな疑問を持って、エンゲルス『起源』と首引きで両者を引照できるようになれば、すでに学問に一歩踏みこんだことになる。
およそ疑問を持たずには、〈問題〉は発見できない。「普通選挙権はブルジョアジーの支配の道具」という命題に疑問をもって、『起源』の書かれた1884年段階のイギリス、『国家と革命』の1917年段階のロシアの選挙制度・具体的運用を調べ、ついでに世界史的な男女平等普通選挙権実現は第一次大戦後、日本やイタリアは第二次大戦後、アメリカの州レベルの黒人選挙権はベトナム戦争時、スイスの女性参政権もつい最近、などとわかってくると、学問もおもしろくなってくる。
そもそも、エンゲルスの『反デューリング』から『家族、私有財産および国家の起源』には、国家発生論上での転換があると言われる。『起源』の依拠したモルガン説は、今日の人類学ではほとんど使いものにならないともいう。そんなことも頭の片すみにおきながら、レーニンのマルクス解釈をみてみる。レーニンがマルクスの「忘れられた書葉」として〈プロレタリア独裁〉を再興し、〈旧国家機構の粉砕〉にひきつけてパリ・コミューンを論じた第2・3章だ。「階級闘争の承認をプロレタリアートの独裁の承認に拡張する人だけがマルクス主義者である」とある。してみると、イタリアやスペインの共産党はマルクス主義を捨てたということか、などと考えるのも〈問い〉へのきっかけになる。だが、ここではテキスト内在的に迫ってみよう。
『国家と革命』第3章は、マルクス『フランスにおける内乱』に依拠している。『内乱』執筆は1871年5月末、バリ・コミューン崩壌に際しての国際労働者協会の〈よびかけ〉だ。『内乱』には二つの草稿が残されているが、1933年発表だから、レーニンは参照できなかった。先に感じたマルクスとレーニンの異和感は、これをじっくり比較対照することにより解明できるのではないか?
レーニンは、マルクスのテキストを歴史に内在して読め、と言う。コミューンの経験は『宣言』に「本質的修正」をもたらした、と読む。「非常に意味深長なのは、ほかならぬこの本質的な修正が日和見主義者によって歪曲されていて、『共産党宣言』の読者の100人に99人ではないにしても、10人中の9人にはおそらくわかっていない」と自信たっぷりだ。では、レーニン自身は、マルクスに、歴史に、どれだけ忠実だったのか?
レーニンは、「官僚的軍事的国家機構の粉砕」の論証に、全精力をかたむける。常備軍を「武装したプロレタリアート」に、官吏を「労働者なみの賃金」と「武装したプロレタリアートの統制と指導」下におき、「議会制度の廃棄」により「代議機関をおしゃべり小屋から『行動的』団体へ転化すること」を詳細に論じている。すべてマルクスの引用にもとづいており、一見忠実な再現に見える。
そこで、マルクス『内乱』を読んでみる。レーニンが依拠したのは「よびかけ」第3章だ。第一草稿では「コミューンの性格」の項だ。第一草稿ではいきなり「いたるところにゆきわたった複雑な軍事的・官僚的・教権的・司法的諸機関をもつ中央集権的な国家機構は、生きた市民社会にうわばみのように巻きついている」という文学的表現にでくわす。「軍事的・官僚的・教権的・司法的」だ。「議会」はでてこない。その先では「常備軍と、いっさいを指図する官僚と、人を愚昧化する聖職者と、階層制をなす卑屈な裁判官とを擁する政府権力」が、「国家寄生物」とある。立法議会は「社会の自治を装う階級支配の形態」とみているようだ。
「打ち砕かれた」のは、「階級支配の用具である国家──社会の公僕であるかわりに社会の主人の地位を簒奪しようとする中央集権的に組織された政府権力」だ。「軍・官・教・司」の「国家寄生物」と同義だろう。「フランスでは議会制度はすでに終わりをつげていた」ので「労働者革命は確かに議会制度をよみがえらせる役目をもってはいなかった」とある。どうも「政府権力=国家権力」と「議会」の扱いはちがうみたいだ。少なくとも、「議会」は〈粉砕〉の対象ではないらしい。
コミューンの積極的規定はどうか? 「国家そのものに対する、社会のこの超自然的鬼子に対する革命」「人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復したもの」「国家権力の決定的否定」とある。別の箇所では「国家権力が、社会を支配し圧服する力としてではなく、社会自身の力として、社会によって、人民大衆自身によって吸収されたもの」「人民大衆の社会的解放の政治形態」ともいう。〈国家そのものに対する革命〉〈国家の社会への再吸収〉というわけだ。レーニンの「半国家」「武装したプロレタリアートの統制と指導」とは、イメージがずれている。
マルクスの〈粉砕〉の内容は、「常備軍は人民の民兵へ」「国家寄生者の大群は取り除かれ」「聖職者の教階制は学校教師と交替」「国家の裁判官はコミューンの機関へ」だ。そして「国民代表機関への選挙権は組織された諸コミューンの意志の意識的な表現へ」だ。人的構成変化と機能転換、制度的再編成のイメージのようだ。そういえば、レーニンでは「聖職者・裁判官」がでてこなかった。
マルクスは「コミューンは階級闘争が最も合理的な人道的な仕方でそのさまざまな局面を経過できるような合理的環境をつくりだす」ともいう。〈合理的・人道的な階級闘争〉とは何だろう。すぐあとに「それが激烈な反動と、同様に激烈な革命とをよびおこすこともありうる」とあり、こちらの方がレーニンの〈暴力革命〉にぴったりだ。マルクス第一草稿は1871年4月段階だから、まだ平和的前進に期待を寄せていたのだろうか?
そんな関心で、少し回り道をしてコミューン前後のマルクスの言説を調べると、「よびかけ」2ヵ月後の1871年7月の『ザ・ワールド』紙通信員とのインタピューには「イギリスでは自分の政治的な力を発揮する方法は労働者階級に開放されています。平和的な扇動の方が敏速かつ確実に仕事をなしとげうるところでは、蜂起は狂気の沙汰です。フランスでは、多数の弾圧法規と諸階級間の和解しえない敵対とが社会的戦争の暴力的解決を必然化しているように思えます」という言明にであう。これで、少なくとも当時のイギリスについては、マルクスが〈暴力革命不可避〉と考えていなかったことが確認される。
第一草稿から第二草稿に移ると、「プロレタリアートは、支配階級とそのさまざまな相争う諸分派が、彼らの交互の勝利の日にそうしたように、既存の国家組織体をそのまま掌握して、このできあいの道具を自分自身の目的のために行使することはできない」という、「よびかけ」にはいり『宣言』序文を経て、レーニンを感激させた視点にであう。
だが、〈支配階級の相争う諸分派〉とは何だろう? そういえば第一草稿でも〈国家そのものに対する革命〉を「国家権力を支配階級の一つの分派から別の分派の手に移すための革命ではない」と説明していた。『内乱』全体が、そもそも正統王朝派、オルレアン派、ボナパルト派、共和派といった〈階級分派〉に焦点を当てた政治分析として読める。
どうやらレーニンは、「よびかけ」第3章に集中したため、『内乱』全体の諭理を軽視したようだ。国家の本質規定はエンゲルスに依拠して〈階級抑圧の道具〉をア・プリオリに前提しており、どうも『国家と革命』からは〈一枚岩〉の「相争う」ことのない支配階級と国家がイメージされる。だからマルクスの「軍・官・教・司」の複合的国家観に注目せず、議会も同一次元で〈粉砕〉の対象としてしまったのではないか? それに、「武装したプロレタリアート」内部の矛盾や〈党と大衆〉の問題が言及されず、〈粉砕〉後のプロレタリア独裁国家=半国家があまりに楽観的によめるのも気になる。われわれがスターリン支配の経験を知り、〈現存社会主義〉の問題をくぐって読んでいるというにとどまらず、この著作に内在する理諭的弱点によるのではないか?
マルクスの第二草稿では、「議会」と「政府」は明示的に区別されている。ただし「政府=既存の国家組織体=伝来の実務機構」には、第一草稿の「軍・官・教・司」に「警察」が加わる。そして常備軍と政治警察を「物質的な抑圧力」とよび、教会を「精神的な抑圧力」とよび区別する。レーニンの参照した「よびかけ」成文では、常備軍の武装した人民へのおきかえ、警察・官吏のコミューンによる統制と「労働者なみの賃金」化を述べたうえで、「旧来の政府の物質的強力の要素である常備軍と警察をいったん取りのぞいてしまうと、コミューンはすべての教会を国家から分灘し、それが財団である限りで教会から基本財産を没収することによって、精神的な抑圧力すなわち『妨主権力』を打ち砕くことに熱心に努力した」とある。司祭の隠遁所送り、すべての教育施設の無料公開、「学間そのものが階級的偏見と政府強力とによって負わされていた束縛から解放された」こと、司法職員の「にせの独立性」が剥奪され他の公務員なみの選挙・リコール制とならねばならなかったこと、が述べられている。だがレーニンは、マルクスの「精神的抑圧力」に、なぜか注目していない。
どうやら、マルクス『内乱』の国家論では、第一に、中央政府機構と議会(それに地方自治体)が区別され、第二に、政府機構内部も常備軍・官僚制の「物質的抑圧力」と聖職者・裁判官からなる「精神的抑圧力」とに区別され、それらのおのおのを「古い政治権力の純然たる抑圧的な諸機関は切りとられなければならなかったが、他方、正当な諸機能は、社会そのものに優越する地位を纂奪した権力からもぎとって、社会の責任を負う吏員たちに返還されるはずだった」という観点で、くみかえる構想があったようだ。
これは、レーニン『国家と革命』から受ける印象とは、だいぶちがう。レーニンは「支配階級の相争う諸分派」を捨象したのと同様に、「できあいの国家機構」をもっばら「官僚的軍事的機構」として扱い、「精神的抑圧力」である聖職者・裁判官は無視して、「物質的抑圧力」=常備軍・官僚のみのおきかえを論じている。
「議会制度の廃棄」は、レーニンの命名だ。マルクス自身が「議会制度を打ち砕き、それとともに有産階級に対する政府のあからさまな屈従を打ち砕く」と書いたのは、コミューンのことではなく、ルイ・ボナパルトの宣伝スローガンのことだ。マルクスは、確かに「フランスの議会は死んだ」という第一草稿以来の認識から「コミューンは議会風の機関ではなく同時に執行し立法する行動的機関でなければならなかった」と述べたが、これは、時間的にも空間的にも限定された規定で、議会制一般についてのものではない。レーニンも「議会制度からの活路は代議機関と選挙制の廃棄にあるのではない」と認めている。しかしレーニンは、1917年当時のロシアの実践的課題にひきつけて、「議会制度のない民主主義を考えることはできるし、また考えなければならない」と一歩飛躍し、一般化したのではなかったか?
総じてレーニンには、「精神的抑圧力」、今日の国家論用語では〈イデオロギー装置〉や〈正統性〉問題、グラムシのいう〈合意の調達〉や〈ヘゲモニー〉の視点が欠けていたのではないか?――こんな風に考えが進んだら、すでに大きな〈問題〉に直面したと言っていい。ここから、マルクス、レーニンの国家論の全体的再構成に進む道もある。
一度こうした批判的視座を獲得すると、これまで何気なく読みすごしてきたテキストが、ちがった風に読めてくる。レーニンは、マルクスの〈正当な諸機能の返還〉を「官吏の選挙・リコール・輪番制」「監督と簿記」という技術的・道具的合理化と考えたようだが、マルクスの〈社会への再吸収〉とは、もっと人間論的次元を合んだ主体的・自主管理的な〈人道的〉なものではなかったか?
レーニンは民主主義をもっぱら国家形態とし〈資本主義の最良の政治的外被〉と位置づけて国家とともに死滅するというが、男女平等普通選挙権を伴う大衆民主制の本格的展開はロシア革命以降のことであり、〈現存社会主義〉の経験に照らせば、〈自由と民主主義〉の過小評価があったのではないか? 党内民主主義や民主的人格など国家形態に解消されない民主主義の問題が、今日ますます重要になっているのではないか?
レーニンはゴータ綱領時のエンゲルスのベ一ベルあて手紙を引いて、「国家が存在するあいだは自由はない。自由があるときには国家は存在しないだろう」と断言するが、マルクスのゴータ綱領批判評注には「自由とは、国家を社会の上位の機関から社会の完全な下位機関に変えることにある。今日でさえ、いろいろな国家形態がどれだけ自由か不自由かは、その国家形態が『国家の自由』をどれほど制限しているかの程度によるのです」と言っているではないか? この方が〈国家そのものに対する革命〉〈国家の社会への再吸収〉という国家観にふさわしい、等々。
これらの〈問題〉を、各国政治史や労働者運動吏のなかで検討していけば、マルクスやレーニンを離れた無数の問題群が現れてくるであろう。
松井坦君は、レーニンを尊敬していた。その現実変革への情熱を、自らの生活と学問の中に体現していた。だからこそ的確に〈問題〉をつかみ、学会をもリードできたのだと思う。彼と私とは、『国家と革命』の理論的評価はおそらくちがっていた。彼ならきっと、コミューンの本質は「労働の経済的解放をなしとげるためのついに発見された政府形態」だったことにあり、『国家と革命』のポイントは帝国主義段階論抜きにはおさえられない、と批判してくれただろう。
私たちが議論するときには、研究者と労働者、大学院生と教員、経済学専攻と政治学専攻といったちがいは、何の障害にもならなかった。〈問題〉を共有する友を見つけること、深く論争し自分自身と自分の学問をたえず検証することのできる仲間をつくること――このことこそ、個人的回想と『国家と革命』の批判的ノートを通じて、大学院に入った友人たちに伝えたかった、もう一つのことである。(一橘大学・政治学)