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池上 惇『文化経済学のすすめ』(丸善ライブラリー)

池上惇編『文化経済学の可能性』(芸団協出版部)

 

日本型企業社会にとって「文化」とは ?

 

 この二冊の本は、カバーが面白い。特に『可能性』のそれは夢がある。主題の一つである「生活の芸術化」を、装丁に貫いたのであろうか? 著者のことを、私は少しは知っている。私の本『ジャパメリカの時代に』のなかで「日本における代表的マルクス主義財政学者」と書いたために、『現代と展望』誌上での大薮龍介氏による私の国家論に対する批判のなかでは、「仲間うちでの褒めちぎり」の一例にされている。私自身は「仲間」として扱ったつもりはなかったが。

 この『文化経済学のすすめ』には、マルクスもレーニンもでてこない。無論、「資本主義の全般的危機」や「国家独占資本主義」もない。でてくるのは、ケインズであり、西村伊作であり、とりわけ、J・ラスキンである。ただし、ケインズはイギリス芸術評議会の文化芸術政策の創設者として、西村は「財産家であり『人類の協同生活』を合理的に幸福にするために、山林や土地による100万円相当で『芸術生活、西村研究所』を開き、その研究所の事業の一つとして」與謝野晶子とともに文化学院を創設した日本におけるフィランソロピー(慈善事業)の先駆者」として、したがってJ・ラスキンは、主題である文化経済学の創始者として。『可能性』の方では、ケネス・ボールディングが経済学者であるとともに詩人であると紹介される。

 『すすめ』を読むと、「コーポレイト・アイデンティティは企業をかえる」「情報化社会における芸術文化関連ビジネスの発展」などという見出しがでてきて、「正統派マルクス主義経済学者」池上を期待する向きは、仰天させられる。「多品種少量生産」の時代には「企業には個性が求められる」「効率第一主義では人材も集まらない」と言われて面食らう。私企業がフィランソロピーへの支出を増やせるよう税制を改革すべきだと論じるあたりで、ようやく「革新派財政学者」の顔が現れる。ラスキンに始まる文化経済学とは、「文化の享受能力を育成されつつある消費者の受容と創造能力を育てて、文化的欲求に応えつつある生産者の契約関係」を扱うもので、今日「企業文化や芸術文化関係市場が大規模に発展しつつある状況のもとで、この両者の関係を調整し、支援するのが政府や自治体の文化政策である」から、財政学の応用領域でもあるわけだ。

 しかし、著者の狙いは、評者なりになつかしい言葉で読みかえれば、いわば「使用価値の復権」にある。日本で最初のラスキン受容者が河上肇であったことを紹介しつつ、池上は、ラスキンの「人間の生命力の発揮や進歩に貢献する」という意味での「価値」「固有価値・有効価値」の概念に注目する。池上の年来の主張である「人間発達の経済学」の延長上で、文化経済学に出会い共感したのだろう。それは、「市場=交換価値の廃止」と「価値法則の止揚」にうつつを抜かしてきた現存社会主義における「国家の支配層の独占物となった芸術文化」への著者の幻滅と、パラレルなのだろう。

 私は、著者のこうした「学問的冒険」を、大いに歓迎する。私の職場の「近代経済学」の同僚たちと同じ土俵で、日本の芸術文化市場を豊富なデータで解きあかした『可能性』の分析にも、学ぶものは多い。『すすめ』にでてくる、イギリス芸術評議会の自律的な「アームズ・レングスの原則」と、その運用において「公的援助が評議会を通じて芸術文化を振興する場合でも、特定の有力な団体と政府との緊密な関係が生じて有力者の地位を固定化させやすくなり、斬新な企画や若い芸術家の積極的な試みが評価されにくくなる」「この結果、鑑賞者であり享受者でもある消費者たちは、新しい挑戦者やクリエーターの登場などの成果に触れる機会に恵まれることが困難となり、新しい活力を導入することができなくなる」という関係は『フォーラム90S』誌上での塩川事務局長の問題提起の論点と重なり合う。芸術文化が「生活の芸術化」を要請するナイーブな領域であるからこそ、フォーラム・ネットワーク型組織論の真骨頂が試される領域というべきか? そういえば、東ドイツの新フォーラムでもチェコの市民フォーラムでも、芸術家・文化人が重要な役割を果たしていた。

 また「仲間うちでの褒めちぎり」と誤解されそうだから、異論もはっきり提示しておこう。『すすめ』で池上は、「企業社会における職人気質の役割」を論じ、「1960年代の後半から日本の企業は職場に品質管理のための小サークルを組織し製品を改善するための提案制度や先輩の熟練や知識を学習やコミュニケーションによって伝達するシステムを定着させました。人々は少しでも優れた提案や改善や欠点のなさを競い合い、ひとり一人が職人的な気質を発揮して生産性を向上させました」という。これは「日本的経営」や「ポスト・フォーディズム」と関わるのだが、「日本人の職人気質」の「文化性」と日本型QCサークルのこうした事実評価は、歴史的に正しいのだろうか? 私はこれを「ウルトラ・フォード主義」「煮つめられた資本主義」と理解する(『季刊 窓』誌上の「日本的経営論争」参照)。価値評価としても、今日の日本の「企業文化・企業市民=会社社会」「地球にやさしい(?)フレクシブル企業」がグローバル化・世界化した姿は、池上の見てきたスウェーデンとはずいぶんちがった、おぞましい「文化」であり「社会」ではなかろうかと思う。

 政治学者としての私が、池上にのみならず、今日なお変革的たらんとする経済学者に期待することは、「市場」や「価値」の概念の組替えもさることながら、『資本論』からは直接でてこない「企業」や「経営」の概念を、明確にしてほしいということである。

 

(『月刊フォーラム』に発表)



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