『社会主義理論学会会報』所収

 グラムシ没後60周年記念国際シンポジウム参加記

 

加藤 哲郎

 


 1997年は、アントニオ・グラムシ(1891ー1937)の没後60年であった。117名の呼びかけ人・賛同人によって実行委員会がつくられ、イタリア文化会館と共同で、11月15・16日、東京で国際グラムシ研究シンポジウムを開催した。全国各地から、2日間でのべ350名が出席し、盛況であった。

 このシンポジウムは、1987年の没後50周年シンポジウムから10年を経て開かれたものであるが、その間に、89年東欧革命、91年ソ連崩壊という世界史的転換があった。しかし、マルクス主義や社会主義の威信の全般的失墜のなかでも、国際的には「グラムシ・ブーム」が語られており、日本でも「どっこい、グラムシは生きている」ことを示した。1997年11月の日本で、ロシア革命80周年ではなく、グラムシ没後60周年が盛大に祝われたことに、一つの象徴的意味があるだろう。

 私は、イタリアの専門家でもグラムシ研究者でもないし、10年前の政治的に物議をかもしたという会にもアメリカ滞在中で出席できなかったが、グラムシに知的刺激を受けてきた政治学者の一人として呼びかけ人・実行委員会に加わり、第一日全体集会の司会をつとめた。その立場から、当日の開会挨拶で述べたことに2日間の印象を盛り込み、いくつかの点を述べておきたい。

 このシンポジウムは「国際」と銘打ち、日本語・イタリア語を公式言語として行われたが、それには「オリ−ブの木」で左派連合政権ができたイタリア政治の変容が反映していた。10年前の前回は会場を提供しただけだったイタリア文化会館が共催者として実行委員会に加わり、成功の大きな礎をきずいた。イタリア大使館が後援して、ジョヴァンニ・ドミネド駐日イタリア大使が列席し開会挨拶を行った。その挨拶も、ありきたりの儀礼的なものではなく、グラムシのファシズムとのたたかいや獄中ノートに立ち入った、内容の濃いものだった。

 前回も、中国・韓国・イタリア・西ドイツ・イギリスからの参加者を迎え、国際シンポジウムとなったが、今回も、イタリアからグラムシ研究所長G・ヴァッカ、グラムシ研究家M・ズバラグリ、アメリカから国際グラムシ協会のJ・ブッティジージ・ノートルダム大学教授、韓国から姜玉楚ソウル大学講師、イギリスからB・ジェソップ・ランカスター大学教授らが出席し、ペーパーを提出した(敬称略、以下も同様)。

 第一日目は、特別記念講演として石堂清倫「遠くから遠くへ──ヘゲモニー思想の新しい展開」が行われ、日本のグラムシ研究の草分けで、90歳を越えてなお社会変革の方途を考え続ける氏の姿勢が、参加者に感銘を与えた。

 続いて「グラムシこの十年」の全体会議が行われ、姜玉楚「韓国におけるグラムシ研究の動向と課題」、松田博「グラムシ思想のアクチュアリティ」、片桐薫「日本の左翼文化とグラムシ」、J・ブッティジージ「北アメリカにおけるグラムシ」、G・ヴァッカ「最近10年のイタリアにおけるグラムシ研究」が報告された。これらの内容は、すでに『労働運動研究』誌1997年12月号に紹介されているので省略する。ただしそれは実行委員会の承諾を得た掲載ではなかったため、報告者ほか関係者に迷惑をかけた旨の謝罪が、同誌98年1月号で公式に行われている。

 第二日目は、第一分科会「グラムシとわれわれの時代」、第二分科会「現代イタリアと国際政治」に分かれ、密度の濃い実質的討論が行われた。

 第一分科会は、松田博・黒沢惟昭の司会のもと、田畑稔、鮫島京一、黒沢惟昭、村上信一郎の報告が行われ、水島一憲、川上恵江・小原耕一が討論に加わった。

 第二分科会は、伊藤公雄が司会し、後房雄、丸山茂樹、M・ズバラグリ、B・ジェソップが報告、崎山政毅、いいだももが討論者となった。

 これらの内容は、現在議事録の作成が進められており、10年前のシンポジウムの記録が伊藤成彦・片桐薫・黒沢惟昭・西村暢夫編『グラムシと現代』(御茶の水書房、1988年)として刊行されたように、日本語のほかイタリア語・英語での出版が検討されている。

 国際的な「グラムシ・ブーム」については、インターネット上のグラムシ研究所ホームページ「Internationale Gramscian Society Newsletters」が詳しい。アメリカのJohn Cammet博士の「Resources on Antonio Gramsci」には、1922年から1996年までに刊行された10353点のグラムシ関係文献の言語別・年次別の統計・リストが掲載されている。

 言語別では、イタリア語が6077(58・7%)、英語1206(11・65%)、フランス語506点(4・9%)、スペイン430(4・15%)、ドイツ401(3・9%)、日本398(3・9%)、ロシア284点(2・74%)の順で、33か国でのグラムシ研究が紹介されている(イタリア以外の32か国で41%を占める、グラムシ自身の著作も27か国語での翻訳が記録されている)。興味深いことに、5年毎の年次別でみると、イタリアでは1970年代後半のブームの後、80年代前半に半減したが、85年から再ブームとなり90年以降も衰えていない。英語圏では、75年以降着実に年50ー60点が出ており、ソ連崩壊によって凋落した気配はない。英語・独語では、グラムシ『獄中ノート』校訂版の全訳が刊行中である。

 そうしたなかでの今回の日本のシンポジウムの成功は、アントニオ・グラムシが、20世紀イタリアの国民的思想家であるのみならず、コミンテルンの系譜で生き残った希有な世界的理論家であったことを示したといえよう。グラムシは、いまやアメリカの大学院生の学位論文で最も多く引用される一人であり、英語圏において20世紀に一番引用・参照されたイタリア人は、ムッソリーニでもクローチェでもなくグラムシであったという(エリック・ホブスボーム)。おそらく日本語でも、ベスト・スリーには入るであろう。かつて大月書店版第1巻のみで挫折したままになっている、『獄中ノート』日本語版完訳が待たれるゆえんである。

 そして、グラムシの生命力は、最近の国際政治学や歴史学でのヘゲモニー論や受動的革命論の非マルクス主義者を含めた適用や、カルチュラル・スタディーズの隆盛に見られるように、確実に21世紀へと引き継がれようとしている。

 例えばグラムシは、「知識人」概念を有機的・機能的カテゴリーとして拡延し、「すべての人々は知識人である。だがすべての人々が社会において機能的カテゴリーを果たすわけではない」と述べた。それによって「伝統的大知識人」や「大学アカデミズム」内の限定から「知識人」機能を解放し、ジャーナリズムや大衆文学・民間伝承にも「文化」の担い手を拡大した。これが特に重要なのは、ほかならぬ日本のグラムシ研究の重要な部分が、基調講演を行った石堂清倫、代表委員としてシンポジウムを成功させた片桐薫ら非アカデミズムの「在野知識人」により担われてきたからである。また、このシンポジウムを支えた多くのスタッフが、ボランティアの「市民」であり「有機的知識人」であった。そうしたかたちでの普及が、今後も期待できるのである。

 一緒に出席したイギリスの友人B・ジェソップも述べていたが、「社会主義」の系譜にありながら、このシンポジウムには、若い出席者が多数みられた。昨年出席した社会主義理論学会やフォーラム90sの年次大会がほとんど中年以上の男性で占められていたのとは対照的に、女子学生や若いサラリーマン・スタッフが目立つこのシンポジウムは、私にとっても一つの清涼剤であった(なお、インターネット上の私のホームページにも、私の参加記とグラムシ関連ホームページへのリンクが収録してあるので、参照のこと)。



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