これは、平田清明教授追悼文集『学問民主共和国』(非売品)に寄稿した、私の追悼文である。平田さんや廣松渉さんと始めた雑誌『月刊フォーラム』は、近く停刊の予定だという。「フィーラム」の本質からして、自然な流れである。ここでは一つの「時代」ではなく、89年東欧から始まった一つの「季節」が終わることになる。廣松さんへの追悼文は、私の『国民国家のエルゴロジー』(平凡社)「あとがき」に記してある。併せて参照されたい。
なにしろ相手はその道の大家たち、おまけにこちらは、当時ネオ・マルクス主義の旗をかかげた異端とはいえ、正統派マルクス主義の伝統内で育ってきたから、方法論も政治的志向も同じではない。おそるおそるでかけて、渡米前に出した『国家論のルネサンス』(青木書店)で展開したジェソップやオッフェ、アメリカで仕入れてきたばかりのアグリエッタやボールズ、ギンタスをはさみこみながら、主としてウォーラーステインの世界システム論やスコチポルの歴史社会学を使って唯物史観と世界史像の再構成について話した。先輩たちのおはこであるマルクスやアルチュセールや宇野理論に直接たちいるのは、注意深くさけながら。
この目くらまし作戦が効を奏したのか、もともとそんなことは先刻承知であったのか、その出会いは、話がはずんだ。廣松さんが毛唐、毛唐とナショナリスト丸だしで話したり、平田さんが明治維新というより薩摩藩の近代化を素材に大演説をぶったりで、大分毒気を抜かれた。その後はほとんど毎月、このメンバーにゲストを加えて西欧近代を総括する清談会がもたれた。終ると酒場にくりだすこともあって、そんな時の平田さんの薩摩びいきはいっそう高調した。ちょうど私は、創刊まもない『季刊 窓』誌上でアメリカのケニー、フロリダと「日本的経営はポスト・フォーディズムか」をめぐる国際論争を開始したので、平田さん、伊藤さんにも論争に加わっていただいた。レギュラシオンの理論世界とも交わることになり、まだ存命中だった高須賀義博さんの主催する研究会で、平田さんのパリの若い友人であるリピエッツ、ボワイエ、コリアらや、山田鋭夫さんら平田門下のレギュラシオン理論家たちとつきあいができた。政治学・国家論から出発した私は、廣松哲学・宇野理論よりは平田さんの市民社会論の方がとっつきやすく、だんだん「同志」の気分になっていった。
そして、1989年、「ベルリンの壁」の崩壊を迎えた。これもいいださんの作戦だろう、研究会の中で政治的に両極にある私と廣松さんが前面にたたされて、フォーラム90sがつくられた。むろん平田さんも創立期の中心メンバーだった。神奈川の生活クラブ生協の候補者を推して宣伝カーから演説したことを、ちょっとてれくさそうに話してくれた。研究会の方は、西川正雄さん、喜安朗さんら歴史学の大家たちが加わって、平凡社から現在刊行中の『これからの世界史』シリーズ編集・刊行委員会に発展していった。
しかし、その頃から平田さんの健康は、よくなくなってきた。眼を患って本が自由に読めないとこぼしておられた。それでも平田さんは、活発に発言をつづけた。方法的には、私や田口富久治さんが政治学・国家論サイドから紹介してきたボブ・ジェソップに、平田さんは経済学サイドから近づいてきたため、ほとんど話していて違和感のないものになった。山田さんや黒沢惟昭さんも加わって一緒に神奈川大学で市民大学を開き、それが好評で、『経済評論』に特集で掲載したうえ、御茶の水書房から『現代市民社会と企業国家』という本になった。私が過労死研究からエルゴロジー(動態学)に入るきっかけを与えてくれたのも、平田さんだったのかもしれない。晩年の『市民社会とレギュラシオン』(岩波書店)は、私にとって、文字通りの「同志」の遺言になった。
平凡社のシリーズの平田さんの担当分は、斎藤日出治さん、岩永真治さんが受け継いでくれた。私の大学院ゼミには、平田さんの最後のお弟子さんの一人である丹野清人君が学び始めた。丹野君の話では、薩摩鹿児島と東京を往復しながら、最後まで書き留めてきた遺稿もあるという。なんとか形にして残してもらいたいものである。合掌。