片桐薫・黒沢惟昭編『グラムシと現代世界』(社会評論社、1993年)、所収。


グラムシからポスト・グラムシ主義へ

 

 

 

 1 両大戦問期のマルクス主義

 

 レーニン主義と社会民主主義への分裂

 20世紀は、世界戦争とイデオロギー対抗の時代であった。カール・マルクスらの第1インタショナルから19世紀末の第2ンタナショナルヘと展開してきた社会主義の思想と運動は、1914年の第一次世界大戦と17年のロシア革命以降、それを根拠づける最高の理論とされたマルクス主義理解のレベルでも、大きな分裂を経験した。1914年に、第一次世界大戦が始まるにあたって、第2インターナショナルは、ドイツ社会民主党指導部など主流派がそれまでの大会での反戦決議にも反して自国の戦争を支持し、分解していった。それは、戦後に社会主義労働者インタナショナルとして再建され、ドイツ社会反主党やイギリス労働党は、資本主義下の政権にも参加していく。

 ロシア革命を勝利させたレーニンらロシア・ボリシェヴィキは、第2インタナショナルはすでに崩壊したと宣言して、1919年に共産主義インタナショナル=コミンテルン(第3インタナショナル)を結成し、世界革命をめざした。

 ここに、マルクス主義理論も、レーニン死後にソ連とコミンテルンで定式化される「マルクス・レーニン主義」の流れと、第2インターの伝統を継承したカウツキー、ヒルファーディングらの社会民主主義的マルクス主義とに、大きく分裂する。

 1920年代の多様なマルクス主義

 両者の対立は、「プロレタリア独裁」と「ブルジョア民主主義」の評価、「唯一前衛」としての共産党の役割、「科学」としての「マルクス・レーニン主義」、党組織原理としての「民主主義的中央集権制」の承認など、コミンテルンの側から設定された社会変革構想の相違によって、非和解的なものとされた。

 しかし、1920年代末にスターリンによる支配がソ連共産党とコミンテルン内で確立されるまでは、コミンテルン=第3インターの系譜内にあっても、なおある程度は、多様な理論展開が可能であった。それが、ソ連のトロツキーやブハーリン、ドイツのコルシュやルカーチ、それに、ここでとりあげるイタリアのアントニオ・グラムシらの、非スターリン型マルクス主義であった。

 これらソ連=スターリン型「マルクス・レーニン主義」確立以前の第3インター系マルクス主義は、カウツキー、ヒルファーディングらの社会民主主義、バウアー、レンナーらのオーストロ・マルクス主義などと共に、1989年の東欧革命と91年のソ連解体に伴い、学問世界で復権してきている。

 

 2 アントニオ・グラムシの理論と思想

 

 甦えるグラムシ

 アントニオ・グラムシは、1891年にサルディーニャ島に生まれ、1937年にファシズムの獄中での病により亡くなるまで、必ずしも世界的に知られるマルクス主義者ではなかった。第二次世界大戦後、トリアッティの率いるイタリア共産党が、資本主義圏最大の共産党として脚光を浴びることによって、その理論的基礎をきずいた革命家・理論家として、知られるようになった。

 グラムシは、マルクスの『資本論』や、レーニンの『帝国主義論』『国家と革命』のような、まとまった著作を残したわけではない。1914年から26年の逮捕までに発表された新聞や雑誌への寄稿、それに、獄中で書かれた32冊のノート(『獄中ノート』)や手紙が、グラムシの思想のすべてであり、遺産である。それが、非マルクス主義経済学者ズラッファの献身的協力によって戦後へと守られ保存されたことは、よく知られている。

 その「実践の哲学」は、マルクス、エンゲルス、レーニンの流れをひくとともに、当代イタリアのラブリオーラやクローチェの思想とも、交錯するものであった。

 その最大の特質は、イタリア・ファシズムとの直接の対決のなかから、ソ連で国家公認哲学とされ、コミンテルンを通じて正統的マルクス解釈=「絶対的真理」とされたスターリン型「マルクス・レーニン主義」とは異なる、一連の創造的な政治哲学を、『獄中ノート』で展開したことであった。

 陣地戦論とヘゲモニー

 グラムシは、ロシア革命の勃発にあたって「『資本論』に反する革命」とよんだ。生産力の成熟が資本主義的生産関係と矛盾をきたして起こった革命ではなく、後進国ロシアの農民的土壌のうえに、集団的意志の力で、いわば人為的に構築された社会主義であったからである。

 彼は、『獄中ノート』の中で、レーニンから「機動戦と陣地戦」のテーゼをひきだした。

 「イリイッチ(レーニン)は、1917年に東方で成功裡に適用された機動戦から、西方で唯一可能であった陣地戦への転換が必要だったことを理解していたように思われる。……東方では国家がすべてであり、市民社会は原初的でゼラチン状であった。西方では国家と市民社会のあいに適正な関係があって、国家の動揺にさいしては、たちまち強固な市民社会が姿を現した。」

 イタリア・ファシズムも、ムッソリーニの「ローマ進軍」による軍事的制覇とのみ、みなさるべきではない。物理的強制(支配)とともに、教会や学校など市民社会の諸装置をも用いて中間層の同意を調達(=指導)することによって、権力についたのであった。

 これが、グラムシにおいては、「国家=政治社会プラス市民社会、すなわち、強制の鎧をつけたヘゲモニー」の観念に連なる。

 ここでの「市民社会」とは、教会や学校やメディアや組合などを含むものであり、「ヘゲモニー」の概念は、知的・道徳的・倫理的指導=同意の獲得を意味する。そして、いわゆる「国家の死滅」は、グラムシにおいては、パリ・コミューン期マルクスの「国家の社会による再吸収」と相通じる、「政治社会の市民社会への吸収」というテーゼとなる。

 再審されるグラムシ

 グラムシは、トロツキー、ブハーリン、ローザ・ルクセンブルク、ルカーチ、コルシュらとならぷスターリン主義とは異なるマルクス主義理論家、イタリアの歴史と文化に根ざしたマルクス主義の開拓者、ソ連型社会主義に距離をおいたイタリア共産党の創設者の一人として、扱われてきた。

 しかし、グラムシ生誕百年の1991年が、1917年のロシア革命に始まる伝統の終焉だった。グラムシが妻子を残したソ連邦は、15の共和国へと解体した。グラムシの創設したイタリア共産党は、左翼民主党へと転身した。

 レーニンとロシア革命の意味はもちろんのこと、マルクス主義と社会主義運動の総体が問われている。グラムシにおいては、何が死に絶えつつあり、何が生き残るのか? こうした間いが、浮かんでこざるをえない。

 こうした問題を考えるには、グラムシをも聖化することなく、歴史のなかにおいて見る必要がある。1991年末に刊行された日本人によるグラムシの伝記、片桐薫『グラムシ』(リブロポート、1991年)は、グラムシを再考する格好の素材である。

 グラムシの評伝としては、フィオーリ『グラムシの生涯』(平凡社、1972年)が世界的にスタンダードになっているが、私は、片桐『グラムシ』を、ほぼ同時期に出版された桜井哲夫『メシアニズムの終焉――社会主義とは何であったのか』(筑摩書房)、後房雄『大転換――イタリア共産党から左翼民主党へ』(窓社)と一緒に、読んでみた。

 イタリア共産党の転換におけるグラムシの不在

 後房雄『大転換』を読んでも、イタリア共産党の左翼民主党への脱皮過程で、グラムシが争点になった形跡はない。ジョヴァンニの「むかし、むかし、トリアッティがいて、現実の共産主義があった」という論文が示唆するように、グラムシは、過去の人とされている。

 オケットの政策転換・党名変更方針に対し、グラムシ研究所の内部は、所長ヴァッカ、副所長マンチーナらは賛成、会長バダロー二や『獄中ノート』校訂版編集責任者ジェルラターナらが反対、と分岐したそうだ。

 桜井哲夫『メシアニズムの終焉』は、刺激的な知識人論である。サン・シモン主義にはらまれていた「知の位階制」の問題が、ロシア・インテリゲンツィアのジャコバン主義とカウツキーを経由して、レーニンのメシアニズム的前衛党論に結晶し、ルカーチやサルトルにまで及んだ。グラムシは「伝統的知識人」とともに「有機的知識人」の概念を提起し、ベルンシュタインやソレル、ウェーバーとともに、20世紀的な「専門家による合理的世界設計」の問題に気づいていた。その証拠に『獄中ノート』ではアメリカニズムとサン・シモン主義の接点が言及されている、しかしそれは示唆にとどまるものだった、と説得的に論じている。

 世界史の転換のなかで、グラムシ自身の「知識人」としてのあり方が、問われている。つまり、レーニン主義の系譜で「現代の君主=共産党」に最後までメシアニズム的希望を託したグラムシと、「アメリカニズムとフォード主義」的分析・発想でオケット的転換への必要性を示唆しえたかもしれぬグラムシとの、二重性において。

 人間グラムシの苦悩と葛藤

 片桐薫『グラムシ』は、グラムシに内在するこの矛盾を、ある程度は析出している。

 グラムシ礼賛の書ではない。膨大な手紙やフィオーリ以後に収集された近親者・友人たちの回想を効果的に用いながら、ソ連共産党党内論争への態度や、妻ジュリアとの離婚まで決意した葛藤や、獄中での不安定な精神状態の描写のなかに、「人間グラムシ」の苦悩を浮き彫りにしている。

 それは、偶像化されたグラムシを壊すものではあるが、逆にある種の救いを与える。家政婦に私生児を生ませたマルクスのエピソードが、『人間マルクス』としてレーニン主義的「完璧主義」(ハベル)崩壊のなかでの清涼剤になるように。

 リヨン党大会で7時間にわたってグラムシを批判した論敵ボルディーガとの流刑地での友情、獄中のグラムシヘのジュリアの姉タティアーナの恋愛めいた献身、「同志トリアッティ」も及ばぬ経済学者ズラッファによる協力などの叙述は、感動的である。

 だが、私が興味深かったのは、1924年10月、アヴァンティーノ・グルーブの一員としてファシズムとたたかう共産党下院議員グラムシが、久しぶりで故郷サルデーニャに帰った時の、次のエピソードである。

 グラムシの幼時に、村の登記所長であった父は、公金横領の罪で刑務所に入っていた。ところが、グラムシの帰郷に、「土地のおえら方」がぞろぞろ挨拶にやってきた。「連中はファシスト党員であったが、たいそう尊大な態度で会いにきて、共産党とはいえ、ともかく代議士になったことはめでたい、と祝ってくれた」とグラムシは語ったという。

 著者片桐氏は、フィオーリも紹介したこのエピソードを再現するのみで、この時のグラムシの心理を分析してはいない。しかし私には、これがグラムシの有機的知識人論や国家論・ヘゲモニー論とどのようにつながるのだろうかと、なぜか気にかかった。

 それは、「現代の君主」に未来を託したグラムシと、アメリカニズムの到来を予見したグラムシ、あるいは、後房雄氏が「統治能力や政権獲得を重視する勢力」と「社会的対抗勢力の強化を重視する勢力」と類型化したイタリア共産党=左翼民主党内の矛盾の、グラムシ自身の内部での葛藤を、端的に象徴するものであると思われた。

 グラムシの「実践の哲学」が唯物論か観念論かなどという不毛な論争さえ行われてきた日本の知的風土のもとでは、「等身大のグラムシ」像を示す片桐氏の研究の存在意義は大きい。わが国のグラムシ研究も、これからは、政治主義的評価の土俵から離れていくにちがいない。

 

 3 ネオ・グラムシ主義からポスト・マルクス主義へ

 

 グラムシを継承したネオ・マルクス主義

 グラムシ的思考を、現代に再生させたのが、1960年代末以降、ニコス・プーランザスやボブ・ジェソップらにより展開されてきた、「ネオ・マルクス主義」である。

 それは、マルクス主義国家論の領域において、レーニンらの主張した「国家は階級支配の道具である」とする伝統的理解(国家=道具説)に対し、「国家とは、階級的力闘係の物質的凝集である」とする国家=関係説を唱えることにより、西欧社会における現実の政治支配や政治過程の分析を、より広い視野から進めることに道を開いた。そのさい、グラムシの国家論やヘゲモニー論が大きな媒介的役割を果たし、ネオ・マルクス主義は、ネオ・グラムシ主義ともよばれた(加藤『国家論のルネサンス』青木書店、1986年、参照)。

 ネオ・マルクス主義の系譜は、また、グラムシの「陣地戦」論、「反・受動的革命」論の延長上で、国家権力を奪取するための暴力革命の路線ではなく、市民社会内での知的・道徳的ヘゲモニーを基礎に、議会を含む国家諸装置内部での政治的力関係を変革していく、ユーロ・コミュニズムの平和革命の路線に連なった。

 さらに、国家=道具説が、軍隊・警察など国家の「抑圧装置」に関心を集中させがちなのに対して、国家=関係説は、教会や学校やマス・メディアや労働組合などを「イデオロギー装置」として、国家の市民社会に対する支配の一環に位置づけた。

 ネオ・マルキストたちは、しかし、グラムシの枠内にはとどまらなかった。「力関係」の諸水準に、階級関係のみならず、階級内部の階層的関係や、人種・民族的関係や、男性の女性への抑圧や、人間の自然に対するエコロジー的関係をも含むものとして理論化し、従来の社会主義政党運動や労働組合運動のみならず、「緑の党」や民族解放運動、フェミニズムやエコロジーや反核市民運動、都市社会運動などをも、社会変革の原動力として位置づけるようになった。

 グラムシから発した「市民社会」や「ヘゲモニー」の概念は、ネオ・マルクス主義のみならず、現代政治学や社会学の理論にも、広くとりいれられていった。例えば、国際政治学の理論世界で覇権国家の興亡を探る、ウォーラーステインやコヘインらの「ヘゲモニーの循環」論にも、影響を与えた。また、フランスに発し欧米・日本へと広がった、アグリエッタ、ボワイエ、リピエッツらの「レギュラシオン理論」は、グラムシの「フオード主義」という概念をキー・コンセプトにして、マルクス主義経済学の刷新をはかっている。

 ポスト・マルクス主義の時代へ?

 こうしたグラムシ的、ネオ・マルクス主義的理論が、1970年代以降の欧米社会科学のなかで一大潮流をなすにいたったことが、ソ連のペレストロイカ・グラースノスチと東欧革命・ソ連解体という世界史的転換、「マルクス・レーニン主義」理論の実践的崩壊のもとでも、マルクス的思考を現代の批判的思潮の一つとして残し、可能なら再生させるための条件となった。

 ネオ・マルクス主義の立場からすれば、「プロレタリア独裁」や「階級支配の道具としての国家」を唱えてきた現存した「国家主義的社会主義」は、マルクスの「国家の社会による再吸収」やグラムシの「政治社会の市民社会への吸収」の理念から、大きくかけはなれたものであった。「民主主義的社会主義」「人間の顔をした社会主義」の根拠づけこそ、もともと彼らのめざしてきたものであったからである。

 もっとも、自由と民主主義を求めた市民の運動による「ベルリンの壁」崩壊・チャウシェスク独裁打倒をはじめとした東欧諸国の「フォーラム」型連鎖革命、東ドイツの西ドイツヘの吸収合併、さらにはロシア革命に発するソ連邦国家の解体への急展開は、ネオ・マルクス主義者たちの予想をも、はるかに超える事態であった。

 共産党を「現代の君主」と位置づけたグラムシの理論をも相対化して、「マルクスがヘーゲルを超えたように、マルクスをのり超える」という「ポスト・マルクス主義」も現れてきた。 

 そこでは、マルクス=グラムシ的「国家の死滅=政治社会の市民社会への再吸収」がユートピアであるとされ、むしろ「国家と市民社会の厳格な分離と民主的規制」が強調される。グラムシ的「ヘゲモニー」論に残る経済主義的根拠づけが批判され、言説理論や接合理論によるマルクス主義の脱構築がはかられる(加藤『東欧革命と社会主義』第4章、花伝社、1990年、ラクラウ=ムフ『ポスト・マルクス主義と政治』大村書店、1992年、参照)。

 社会民主主義のなかからも、ドイツ社会民主党の1989年ベルリン綱領や、スウェーデン社会民主党1990年新綱領のように、エコロジーやフェミニズムの観点をとりいれ、新しい分権的かつグローバルな社会像を模索する潮流が現れ、第2インター系列の今日的国際組織である社会主義インタナショナルのストックホルム宣言(1989年)にも反映されていった。グラムシの創設したイタリア共産党は、左翼民主党として、それに合流していった(加藤『ソ連崩壊と社会主義』花伝社、1992年、参照)。

 同時に、ドイツ社会民主党のバード・ゴーデスベルグ綱領(1959年)からベルリン網領への発展は、マルクス主義の歴史観・世界観を、キリスト教、ヒューマニズム、啓蒙思想、労働運動などとならぶ、唯一ではないが一つの重要な源泉として、再定礎するものであった。レーニン=コミンテルン型共産主義の中核であったソ連共産党の解散とあいまって、80年に及ぶ共産主義と社会民主主義の歴史的分裂の終焉、マルクス的社会主義と市民社会的民主主義の思想・運動の現代的再結合の条件をも、構成するものであった。

  グラムシを継承してグラムシを超える道

 ファシズムとスターリニズムの双方への対抗から生まれ、資本主義国家の批判と社会主義の民主主義的再生を探求してきたネオ・マルクス主義は、改めて「社会主義」理念そのものと「マルクス主義」であることの意味を問い直され、「ポスト・マルクス主義」の方向へと傾斜している。社会民主主義の系譜からも、マルクス=グラムシ的発想にも示唆されたフェミニズム理論や「新しい社会運動」の根拠づけが現れてきている。

 ここに、「フォード主義からアフター・フォーディズムへ」を探求するレギュラシオン派の現代資本主義分析の流れが加わるならば、それは、マルクスの思想を継承した「ポスト・マルクス主義」、グラムシの精神を受け継いだ「ポスト・グラムシ主義」として、ポスト共産主義時代の一つの批判思想・社会理論となりうる。マルクスやグラムシの文献解釈や権威主義的引用・政治主義的利用を離れて、21世紀へと生き残ることができるのである、


 (付記) 本書には、もともと1992年2月17日の「グラムシを語る会」でなされた私の講演「ポスト冷戦の世界とグラムシの生命力」を原稿にして収録すべきところであるが、講演から執筆締切まで時間的余裕がなく、しかも別著『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年5月)執筆ならびに公務多忙の時期に重なったため、新たな原稿を起こすことはできなかった。

 しかし、他の講師との関係で寄稿しないわけにはいかないので、この期に私が執筆した二つのグラムシ関係のエッセイ――週刊朝日百科『世界の歴史』122号(朝日新聞社、1991年)に寄稿した「グラムシからポスト・マルクス主義へ」、および,季刊『窓』11号(1992年3月)に書いた片桐薫『グラムシ』(リブロポート、1991年)の書評――をフロッピーから呼び出し、本書のためにドッキングさせ、全面的にアレンジして一本の論文にし、責めを果たすことにした。講義当日の参加者並びに読者の皆さんのお許しをえたい。



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