かつて「ある自由主義者への手紙」で、「主義と名のつくものは日本に入って来るととたんにみんな公式に凝化する」と喝破したのは、丸山真男であった。今日の自由主義(リベラリズム)も、この国では、一方ではF・フクヤマ流「歴史の終焉」論に、他方では規制緩和や「保守ーリベラル二大政党制」を待望する政策論へと実体化されがちである。本書は、そうした風潮に対して「そもそもリベラリズムとは何か」と原理的に問いかける、平易だがシャープな切れ味をもつ政治哲学入門である。
著者の立場は、序章・終章に明確である。フクヤマ流の議論に対しては、南北問題や自然環境危機をあげ、「問われているのは『歴史のおわり』であるどころか歴史の根本的な軌道修正であり、むしろ新しい『歴史の始まり』である」「今日人類がかかえるさまざまな問題は、自由主義によって解決されるどころか、むしろ自由主義の所産であるようにさえ思われる」「自由主義そのものが自己修正し、自己克服を遂げていかなければならない」と。
1980年代欧米思想界を揺るがしたリバータリアンとコミュニタリアンの論争については、相互行為や言語コミュニケーションを重視するコミュニタリアニズムにつく、と。
だが「自由主義」は、日本に入る以前から多義的な概念である。スミス風経済的自由主義とロック風政治的自由主義は、必ずしも幸福な結婚を遂げてきたわけではない。著者は、自由主義の経済的側面としての資本主義、その政治的側面としての議会制民主主義の正当化の論理を近代政治思想の成立に遡って吟味し、両者に共通する「各人の利益を唯一の行動原理とする『自然的自由の体系』=功利主義」を自由主義を支える基本的人間観・価値観として析出する。通常語られるホッブズとロックの自然状態の違いよりも、理性や道徳を手段化して「欲求的生を是とする価値のヒエラルヒーの転倒」の共通性を重視する。
ついで「社会主義の挑戦は何であったか」と敢えて問う。自由主義の再検討になぜいまさら社会主義かというありうべき疑問に、著者は、体制としての社会主義の終焉は理念の終焉を意味しない、「自由主義の矛盾とその限界を告発し自覚させるための理念としての社会主義は、永久にその光を失わないかもしれない」と釘をさす。その初期マルクス中心の社会主義思想の解説は凡百の自称マルクス主義者よりはるかに説得的で、二〇世紀社会主義さえある種の「道徳的な力」を持った事実に注意を喚起する。そのうえでマルクス主義に内在する市場と計画、権力悪への無防備、「科学的必然」の独断による逆ユートピア化の問題を指摘し、社会主義を「たんなる忌まわしい過去の遺物」とせず「歴史の誤りは誤りとしつつ、なおも人類の共通の遺産として継承」すべきとする。骨っぽい主張である。
ロールズ、ドゥオーキンら現代自由主義哲学の最先端に対しても、功利主義と同じ個人主義的・利己主義的前提の限界を批判し、「自然の相互依存と共生の体系と調和」しうる「自己解釈的で物語的な人間の能力」から出発するコミュニタリアニズムの優位性を力説する。ただし、ここでのコミュニタリアニズムの説明はやや舌足らずで、予告された別著での展開が期待される。そのさいにはぜひ、人間の本質を「労働」に見いだした近代的人間観総体の問題性をも、著者の説く開かれた環境倫理学の立場から、詳論してもらいたい。
(『エコノミスト』誌に発表)