フォーラム90s『ニューズレター』最終号(1999年3月)


フォーラム型運動の21世紀へ

 

 加藤 哲郎(一橋大学教員)


 21世紀を目前にひかえて、フォーラムは花盛りである。90年代に飛躍的に広がったインターネットの世界ではとりわけ顕著で、例えば定番サーチエンジン「ヤフー」日本版で「フォーラム」とインプットすると、900を越える「フォーラム」サイトが出てくる。このたび幕を閉じようとする「フォーラム90s」と入力しても63のサイトが出てきて、自治体や青年会議所のホームページとともに、私の「加藤哲郎の研究室」や小倉利丸さん、栗原幸夫さんの個人ホームページなどが、たちどころに提示される。

 1990年にフォーラム90sが立ち上がった時は、そうではなかった。財界や市民のフォーラムがいくつかあったが、まだ新鮮な響きを持っていた。私自身は89年東欧革命を「テレビ時代のフォーラム型革命」と命名していたから抵抗はなかったが、私と一緒に創立準備のよびかけ人会議で記念講演した故廣松渉さんや、『クライシス』再刊を期待していた人たちはどうであったか? 残念ながら、もう廣松さんの「総括」は聞けない。

 フォーラム90sは、ホブズボームのいう「短い20世紀」の終焉、現存社会主義の自滅による冷戦崩壊・国際共産主義運動解体・社会主義思想衰退への、日本的応答の一つであった。新旧の別なくゲットー化されつつあった左翼とラディカルズの緊急避難といえなくもない。だがそうした消極的性格づけでは不充分だろう。事実、結成時にはそれなりの熱気があった。それは、後ろ向きの「自己批判」や「総括」によってではなく、21世紀の方へ向かって、エコロジー、ジェンダー、エスニシティなどのイシューも組み込んだ新しい社会運動・思想運動の模索という面を持っていた。だから組織のあり方は、常にフォーラム内での重要な論点だった。時には過去の党派性がぶつかりあうこともあった。女性会員は少なかった。「赤と緑の連合」をよびかけても「緑」に相手にされないこともあった。だがともかく9年間存続した。そして90sが終わり、21世紀に入ろうとしている。

 フォーラムの隆盛は、別に日本だけの現象ではない。 御本家Yahooで、Forumを検索すると、47のカテゴリーにまたがる4643のサイトが表示される。Political Partyだと3カテゴリー1082であるから、「政党」よりもはるかに広く世界中に広がった、ある種の組織であり、運動スタイルであり、公共圏であることがわかる。

 私自身がフォーラム90sに託したのは、いうまでもなく89年東欧革命の主人公となった、民衆の闘争舞台、諸思想潮流の交流・連帯の場としてのフォーラムであった。それは、古代ローマの「公共の広場」という語源に忠実な、インフォーマルな運動と思想の交差する場であり、問題の解決のあり方を探り、交流し、インスピレーションを得る場であった。その御本家東欧のフォーラムは、89年−90年の高揚期の後、いくつかの政党に分化したり、市民運動に変身・埋没したり、いつのまにやら解散したりと、姿がみえなくなった。旧東独では、かつての「ベルリンの壁」近くの一等地の雑居ビルが、"Haus der Demokratie" と称して、10年にわたり、さまざまな市民運動・少数派運動の基地の役割を果たしてきた。しかし首都機能移転の再開発ラッシュのなかで、「社会主義」以前の私的所有権が復活され、明け渡しを迫られている(Berliner Zeitung,4.Nov.1998)。

 だから、日本のフォーラム90sが、ともかくも1990年代を生き抜いたことは、それ自体としておおいに意義があることである。問題は、それが「フォーラム=討論の広場」としての内実をどれだけ獲得し蓄積し得たか、そこから何が生まれ21世紀に受け継がれていくかにある。そのさいフォーラムに集った人々が、ある一つの方向に向かうことは、ありえないし、期待もされない。むしろ無数の新たなフォーラムが生まれ、しかし9年間の絆がネットワークとして保たれる状態が、望ましい姿であろう。事実そうした試みが、さまざまに始まっているようだ。旧東独「民主主義の家」も 、そのような場であった。

 このことは、一つの神話の終焉を意味する。20世紀初頭にロシアで生まれた「全知全能の唯一 前衛党」神話である。それは「戦争と革命の時代」に一世を風靡した。日本でも新旧左翼が「前衛」を競い合った。ほぼ1960年代を境に世界的にも日本でも退潮に向かうが、そこに捧げられた膨大な自己犠牲・献身のヒストリーがあり、それに裏切られ流された多くの血といのちのストーリーがあった。そうした運動の歴史的帰結から生まれたフォーラムが、「唯一」にも「前衛」にも「政党」にも、ある種の拒否反応を示すのは当然であった。フランス共産党は、98年11月に過去のすべての除名・政治的処分を無効とする決定を行い、かつての除名者・離党者に復党をよびかけたが、「フォーラムの10年」をくぐった後では、それで「前衛党」に戻ろうとする人は多くはなかった。

 日本のフォーラム90sは、「前衛」神話が消えても「観客」には甘んじられない諸個人が、その知的道徳的リーダーシップを競い合う舞台となった。ただしそれは、同質的政治を前提する「諸党派の野合」でも「統一戦線」でもなく、組織も個人も、システム変換の構想もシングル・イシューも、地球市民派も土着派も、コミュニターリアンもリバターリアンも含む、重層的競合であった。誰でも学ぶことができ、活用し協力できる、ささやかな公共圏であった。にもかかわらず、ベルリン「民主主義の家」がそうであったように、 舞台の設営とコミュニケーションの結節点には、自己表出・自己実現を「禁欲」し、実務に活動エネルギーの相当部分を割いた事務局の人々がいた。つまり、「前衛」の資質と志向をもちながら敢えて「後衛」の仕事に徹する男女の存在が、フォーラム型運動には不可欠であった。それは、インターネットを舞台にしたバーチャル・フォーラムでも同じであろう。だから私は最後に、そのような人々に心から拍手を送り、御苦労様と言いたい。



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