平川祐弘・牧野陽子編『講座 小泉八雲 1 ハーンの人と周辺』(新曜社、2009年8月)所収、pp.597-607.


ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ

 

加藤 哲郎(一橋大学、政治学)

 

               


 

 ボナー・フェラーズ(Bonner Fellers, 1896 - 1973)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人で、情報将校である。日本の敗戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)マッカーサー元帥と共に、マッカーサーの副官として来日、天皇制の維持や昭和天皇の戦犯不訴追に重要な役割を果たした。

 フェラーズと小泉八雲とは、生きた時代が異なる。フェラーズは、書物を通してラフカディオ・ハーン=小泉八雲を知った。フェラーズは、アメリカにおける小泉八雲の愛読者であり、「ハーン・マニア」と言われたほどの書物のコレクターであった。

 だが、たんなるハーンのファンである米国人ならば、敢えてここで取り上げる必要もない。フェラーズが、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲を知った偶然と、たんなるファンから訪日して小泉家を訪問する「マニア」となり、そのことが、日本の敗戦後に連合国軍総司令官マッカーサー元帥の副官としてフェラーズが占領改革にたずさわる際に、天皇制についての重要な政治選択をもたらした経緯が、ここでの問題である。

 

 1 フェラーズの青春――小泉八雲との出会い

 

 2006年から、国立国会図書館憲政資料室で、マッカーサー記念館所蔵「ボナ・フェラーズ文書」のマイクロフィルム全5巻が公開されている。そこでは、フェラーズの経歴は、以下のように説明されている。

  Bonner F. Fellers(1896-1973) 1918陸軍士官学校卒、1935司令・参謀学校卒、1936.2フィリピン軍管区司令部附兼フィリピン軍事顧問参謀(マッカーサーとケソンとの間の連絡係)、1938.4陸軍大学、在アフリカ英国軍軍事監視員、1940.10エジプト米陸軍武官、1942.7陸軍省陸軍諜報局、戦略諜報局(OSS)、1943南西太平洋地域総司令部参謀第5部長、1944.11南西太平洋地域司令官(マッカーサー)軍事秘書官、1945.6米太平洋陸軍司令官(マッカーサー)軍事秘書官、1946.1〜8対日理事会事務局長、1946.11退役、1947〜1952共和党全国委員会会長補佐、1959〜1969市民外国支援委員会委員長。

 話は、陸軍士官学校入学前の、フェラーズの学生時代に溯る。

 1896年にイリノイ州の敬虔なクエーカー教徒の農家に生まれたフェラーズは、第一次世界大戦の始まる1914年に、インディアナ州リッチモンドのアーラム大学に入学した。そこで、日本の女子英学塾からの留学生渡辺ゆりと親しくなった。

 渡辺ゆり(後の一色ゆり)がクエーカー教系のアーラム大学に留学したのは、当時津田梅子の創設した女子英学塾の教授で、日本YWCAの創設者の一人、後に東京・世田谷に恵泉女学院を創立する、河合道の尽力によるものだった。渡辺ゆりは、河合道と津田梅子の推薦で、男女共学のアーラム大学への女子英学塾からの派遣第一期生にとして1911年に留学、5年間そこで学んだ。最後の2年間が、フェラーズと重なる。そこでフェラーズは、渡辺ゆりを通して東洋の新興国日本に関心を深めた。

 第一次世界大戦中の1916年に、アーラム大学を中退し陸軍士官学校(ウェストポイント)に進んだフェラーズは、18年に卒業、21年からフィリピン駐留になり、22年に休暇を利用して初来日する。そこで、渡辺ゆりから河合道を紹介され、「戦争を望まないリベラルな日本人リーダー」「世界のすばらしい女性のひとり」と評しうる教育者、河合道と知り合うことになった。

 もうひとつ、渡辺ゆりの紹介で、小泉八雲=ラフカディオ・ハーンの名を知ったのも、この旅の収穫だった。フェラーズ文書中の「Japanese Background」という手記に、この出会いが記してある。

 休暇は終わりに近づいた。私は横浜からマニラ行きの船に乗ることを決めた。ゆりは横浜までついてきてくれた。そのとき、日本を知るにはどうすればいいかと私は尋ねた。いちばんいい資料はラフカディオ・ハーンだと、彼女は答えた。外国人だけど、日本人の内面をよく理解している。文章も美しい。そして日本に西洋を紹介した。でも、と言ってゆりは付け加えた。「彼はクリスチャンじゃないから、私は好きじゃないわ」
 私はハーンの本を2冊抱えて航海に出た。その後、彼のすべての著作を私は集め、読破したと思う(東野真『昭和天皇 二つの「独白録」』NHK出版、1998年、46頁)。
 

 ハーンの『神国日本』をはじめとした書物を読破し、1930年にドロシー夫人を連れて再来日したフェラーズは、東京西大久保の小泉家を訪ね、以後もハーンのご遺族と親交を重ねた。「ハーンは、日本人を理解した、初めての、そして唯一の西洋人であったろう」というのが、「ハーン・マニア」になったフェラーズの感想だった(同前、49頁)。

 

    2  対日心理戦の情報将校フェラーズ

 

 ただしそれは、米国職業軍人としてのフェラーズが、心理戦・情報戦のエキスパートとなっていく過程でもあった。

 1935年に陸軍指揮幕僚大学の卒業論文として書かれた「日本兵の心理(The Psychology of the Japanese Soldier)」は、「日本帝国の運命は、軍の指導者が握っている。彼らは、天皇にのみ責任を負っている。天皇は神聖で不可侵なものとされている。音楽にたとえれば、軍は天皇に次いで日本全体の基調音をなしている」と、「西洋的な戦略を軽視」し「自信過剰で、敵を過小評価する」日本兵の心理を分析する(同前、52−53頁)。

 1937年には、フェラーズはフィリピン軍軍事顧問だったダグラス・マッカーサー(後のGHQ総司令官)及びフィリピン独立準備政府ケソン大統領と共に3度目の来日をし、2・26事件後の軍部台頭、日中戦争へ向かう日本をまのあたるにする。この時マッカーサーもケソンも、フェラーズの「日本兵の心理」を読んだという。当時の駐日米国大使はジョゼフ・グルーで、マッカーサー一行の歓迎レセプションには、結婚して姓の変わった一色ゆり夫妻も出席していた。この年フィリピンから米国に戻り、陸軍大学に入学したフェラーズは、翌38年にも4度目の来日をし、「天皇のために死ぬ覚悟を決めているように見える」出征兵士たちを目撃した。

 こうした経歴から、日米開戦後にフィリピンからオーストラリアのブリスベンまで退却した南西太平洋軍司令官マッカーサーに請われ、フェラーズは、1943年9月にマッカーサー司令部統合計画本部長に就任、マッカーサーの軍事秘書、PWB=心理作戦本部長として活躍する。

 1944年8月29日付対日心理戦指令文書に、フェラーズは、「日本人の心理について書かれた最高の文献は、おそらくラフカディオ・ハーンの著書である」と記した(同前、62頁)。具体的な心理作戦では、天皇の戦争責任と軍部との関係が問題だった。PWG発足時の「日本への回答」(Answer to Japan)では、「天皇として、そして国家元首として、裕仁は戦争責任を免れない。彼は太平洋戦争に加担した人物であり、戦争の扇動者のひとりと考えなければならない。彼が指導者として認めた東条が、政府を完全に掌握したのである。天皇の支持を得たことにより、この狂信的な指導者は、あらゆる狂気じみたことを行うことができたのである」としたうえで、日本敗戦時に「大衆は悪質な軍人たちが聖なる天皇をだましたと悟るだろう」「天皇を退位させたり、絞首刑にしたりすれば、すべての日本人の激しい暴力的反発を招くだろう」、だから「アメリカは後手に回らず、先手を打たなければならない。しかるべき時に、天皇及び国民と、悪質な軍国主義者どもとの間にくさびを打ち込むべきである」とする(同前、67−68頁)。

 つまり、1945年4月に「対日心理作戦のための基本軍事計画」に明記したように、「天皇に関しては、攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目的達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない」というオペレーションになる(同前、67−69頁)。

 

 3 マッカーサーへの進言と昭和天皇『独白録』

 

 1945年8月30日、フェラーズは、戦勝国の総司令官マッカーサーの副官として日本に上陸する。まっさきに始めたのは、人捜しだった。岡本嗣郎『陛下をお救いなさいませ 河井道とボナー・フェラーズ』(ホーム社、2002年)に詳しく描かれたように、一色ゆりと河合道の消息を求め、9月23日には二人をアメリカ大使館敷地内の自宅に招待し、旧交をあたためる。戦災を免れた小泉家にも訪れて、食糧から就職の世話まで、さまざまな援助をした。

 河井道は、戦争中、クリスチャン故に恵泉女学園で天皇の御真影を掲げることを拒否し、軍部からにらまれ、検挙もされていた。フェラーズは、そんな河合に、天皇の処遇の仕方を尋ねた。河合の答えは、天皇の処罰に反対し「もし陛下の身にそういうことが起これば、私がいの一番に死にます」というものだった。それは、天皇を神=ゴッドとして崇拝する故ではなかった。「私たち日本人は神を持っていない」が「陛下は国民に親しまれている」というものだった。

 フェラーズは、そこから「戦争における日本人の残虐性は、精神的なよりどころとなる神が存在する西洋と異なり、そういった神が存在しない日本の宗教に起因するものである」と了解する。その直後の9月27日、マッカーサーと天皇の初めての会見に陪席し、個人としての人間天皇にも親しみをおぼえる。

 それが、1945年10月2日、河井道の助力を得て作られたフェラーズの有名な覚書、マッカーサーの天皇観に決定的影響を与えたと言われる「最高司令官あて覚書」に結実する。日本国憲法に書き込まれた「象徴天皇制」の、一つの有力な起源とされるものである。

 天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教と異なり、日本国民は、魂を通わせる神を持っていない。彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である。天皇は、過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。天皇に対する忠誠は絶対的なものである(東野前掲書、34頁以下)。

 ただし、フェラーズは、国家元首としての天皇が「開戦の詔書」に署名した責任はあるという。問題は、それが「天皇の自発的意思」であったかどうかだった。そのさい、「天皇の措置によって7000万の兵士が武器を放棄」し「何万何十万もの米国人の死傷が避けられ、戦争は予定よりもはるかに早く集結した」終戦への貢献は評価され、「もしも天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないだろう」という。アメリカの長期的な国益からして、「象徴的国家元首」としての天皇の政治的利用価値を見出す。

 そこから、フェラーズのもう一つの工作、日本側で天皇の窓口になった寺崎英成と図って、極東軍事裁判(東京裁判)向け「天皇不訴追」のために天皇自身から聞き取りしたオーラルヒストリー「昭和天皇独白録」が紡ぎ出された。

 「昭和天皇独白録」は、『文藝春秋』1990年12月号に発表され、大きな反響をよんだ。1946年3−4月に昭和天皇の側近5人が天皇自身から戦争との関わりを聞き取りした便箋170枚の記録で、出席していた当時の御用掛寺崎英成のアメリカに住む長女の家で発見された。聞き取りは極東軍事裁判の被告選定の時期で、天皇の戦争責任を回避するための弁明文書ではないかと推論された。

 とすると英語版もあるはずだと探索が始まり、NHK取材班が、別テーマでの特集番組取材の過程で、フェラーズの遺宅に、英文タイプ12枚の「by Hidenari Terasaki」とフェラーズの筆で注記された「独白録」要約版が発見された。その経緯と内容、日英語版の綿密な比較は、前述東野真『昭和天皇 二つの「独白録」』に詳しい。「独白録」作成そのものに、フェラーズが重要な役割を果たし、「天皇の無罪」を立証して「不訴追」を実現する工作を行っていた。

 そこから、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の日本についての著作を原点として、小泉の思想が渡辺(一色)ゆり、河合道を介して米国陸軍きっての日本通フェラーズに伝わり、「ハーン・マニア」のフェラーズが敗戦時にマッカーサーに働きかけて「天皇不訴追」と「象徴天皇制」成立の有力なルートとなったとする研究が現れた。すでに平川祐弘『小泉八雲とカミガミの世界』(文藝春秋、1988年)が先駆的に示唆していたラインであったが、それが日本語・英語の文献資料の裏付けを得て、ピューリツアー賞を受賞したアメリカのジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(原書1999年)やハーバード・ビックス『昭和天皇』(原書2000年)にもとりあげられ、広く認められるようになった。

 日本の宗教と文化を愛し深く理解した小泉八雲の思想が、フェラーズを通じて甦ったかたちである。

 

 4 象徴天皇制の起源と小泉八雲=フェラーズ

 

 以上のストーリーから、20世紀日本のヒストリーの重要な一齣が紡ぎ出された。ただしここから小泉八雲とフェラーズこそ「象徴天皇制誕生の父」であるとする短絡は、学術的には正確ではない。以下にその点を略述しておこう。

 第一に、敗戦後の昭和天皇の処遇をめぐる問題は、フェラーズからマッカーサーのラインにおいてのみ検討されていたわけではない。連合軍を構成する米国、英国、ソ連、中国等の国家的思惑はもとより、ドイツ・ナチズム、イタリア・ファシズムの戦争指導者の責任追及をはじめ、敗戦で「解放」された旧植民地朝鮮・台湾やアジア民衆の意向を含む国際関係の力学の中で決定された。

 第二に、そこでGHQマッカーサー司令部が中心的役割を占めたにしても、米国本国のトルーマン大統領、国務省、国防省、陸海空軍、情報機関等各国家機関の思惑や世論も作用しており、国務省のジョージ・ブレイクスルー、ヒュー・ボートン、ジョゼフ・バランタインらの検討でも、1943年には「天皇の利用」政策が明確になっていた(五百旗頭真『米国の日本占領政策』中央公論社、1985年)。筆者自身の研究では、米国初の本格的情報機関戦略情報局(OSS)を中心とした米国心理戦共同委員会「日本計画」において、すでに開戦半年後の1942年6月には「天皇を平和の象徴として利用する」方策が明確にされ、それは当時オーストラリアのマッカーサーにも伝えられていた(加藤『象徴天皇制の起源』平凡社新書、2005年)。

 第三に、フェラーズの天皇制擁護を、「ハーン・マニア」の線のみから評価するのは正確でない。上述したフェラーズの経歴の空白期、1938年の戦前最後の来日から43年9月のマッカーサー司令部心理作戦部赴任の間の軍歴が重要で、38年4月に在アフリカ英国軍軍事監視員、40年10月にはエジプト米陸軍武官としてアフリカ戦線に従軍、42年7月帰国後43年9月までは、ワシントンで戦略情報局(OSS)ドノヴァン将軍率いる米国心理作戦の中枢、計画本部のナンバー4になっていた。そこでのフェラーズは、対日工作のみならず対独工作を含む世界的規模での心理作戦立案にたずさわっており、その手腕が評価されてマッカーサーに招かれた。つまり、米国の国益に沿ったグローバルな戦後世界の設計こそフェラーズの情報将校としての主任務であり、日本での天皇利用は、1942年6月「日本計画」に沿ったその一環であった。

 第四に、小泉八雲をクエーカー教徒フェラーズに紹介した一色ゆり、フェラーズがマッカーサー宛「覚書」作成で頼った河井道は、必ずしも小泉八雲の崇拝者ではなかった。河井道はもともと新渡戸稲造に学んだ教育者であり、新渡戸の晩年の英語著作『日本 その問題と発展の諸局面』(1931年)には「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である」と、日本国憲法第1条と酷似した表現があった。太平洋戦争開戦時の米国対日作戦従事者は、小泉八雲や新渡戸稲造を含む膨大な英語での日本社会・文化の著作・論文を参照し、「敵国分析」として戦後日本のシミュレーションを体系的に進めており、有名な人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、そうした「敵国研究」の副産物だった。

 したがって、「ハーン・マニア」フェラーズを、たんなる親日家・日本理解者とするのは誤解を生じる。その天皇制保持・不訴追工作も、当時の米国心理作戦の一部と見るべきであり、米国有数の有能な情報戦エキスパートであったフェラーズの全生涯との関連で、歴史的に評価されなければならない。



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