以下に掲載するのは、今日の藤岡信勝ら「自由主義史観研究会」の旗揚げとなった『(社会科教育・通巻412号)近現代史の授業改革 氈@特集 「戦争の授業」のパラダイム転換――「東京裁判史観」を超えて』創刊号(明治図書、1995年9月別冊)の「招待席」に、「歴史と現代 1」として発表されたものである。

 1995年1月、私は民主主義教育研究会という高校教師を主体とした合宿研究会に講師として招かれた。日本型労使関係や過労死の問題を中心に企業社会と学校教育の関係について報告したのだが、その場に熱心にノートをとる同年輩の人がいた。その人が質疑で「加藤先生の話は大変興味深かったのですが、日本社会の暗い面ばかりとりあげるのはいかがなものでしょうか」と述べたのが印象に残った。その夜の懇親会で、今度は「先生はコミンテルンの『32年テーゼ』についてお詳しいそうですが」といって話しかけてきた。名刺に「東京大学教育学部教授 藤岡信勝」とあった。私の同僚に似た名前の教育学者がいるので「兄弟ですか」と尋ねると、「いや違いますが同じ教育科学研究会の会員です」という。それから「日本の朝鮮植民地化には問題があったが、台湾は成功して、いまでも台湾の人は日本に感謝している」などと論争をふっかけてきて、だいぶ遅くまで議論した。それが、後に「従軍慰安婦は売春婦だ」などといいだす、かの藤岡センセイであった。

 まだ正論=サンケイ新聞グループに登用される前で、それなりに「自由主義」のポーズをとっていた段階だったが、直接ご本人から社会科教員向けの新しい教育学の雑誌を創刊するからぜひと頼まれて、「批判を書きますよ」と断ったうえで、以下のエッセイを寄稿した。この雑誌は爆発的に売れたらしい。2号以下はみたことがないので、その後「招待席」がどうなったかは知らないが。この創刊号の「編集後記」には、「加藤哲郎先生には、本誌の問題意識とは違った立場からのご寄稿をいただくことができました。『招待席』は、異質な声を響かせる場、本誌への批判も含め自由にご発言いただくスペースとします。独善的にならず異論に耳を傾けるける姿勢を私たちが失わないために大切な企画であると考えております(藤岡信勝)」と記してある。こんな謙虚な姿勢に戻れるとは思われないところまで、藤岡センセイは行って行ってしまった。


『世間』と『社会』の相克 

 

一橋大学 加藤哲郎

 


はじめに

 

 藤岡信勝教授に頼まれて小論を寄せることにしたが、私は藤岡氏の「史観」に賛同するものではない。私は「平和憲法」を世界史的に高く評価するから、「自国の安全保障」のための「軍事アレルギーの克服」や自衛隊強化・海外派遣には組みしない。「世界史的な激動」には「地球市民」として対処すべきだと考えるから、「日本人の誇り」を出発点にした「戦略的思考」で「日本政治の混迷」が打破されるとは思わない。

 「東京裁判=コミンテルン史観」にも「大東亜戦争肯定史観」にも――それが実在するとすれぱ――反対だが、「自由主義史観」や「司馬史観」にも大きな疑問を持つ。「史観」よりも「歴史=ヒストリー」そのものの発掘が重要だと思う。

 

サイクル史観の陥穽

 

 「自由主義史観」の「導きの系」が「日本近代史の40年サイクル」といわれると、眉に唾をつけたくなる。かつて大平内閣下で首相の私的シンクタンク「文化の時代の経済運営研究グループ」が、「明治維新以降の日本の歴史を見るときに、これをほぼ15年刻みで、紛争・政治・経済・文化それぞれの時代ということもできる」としていたのを想起する。館龍一郎を議長とし、公文俊平・蝋山政道を幹事としたこのグループの「史観」は、こうであった。

 「戦前については、1885年(明治18年)からの15年間は、近代化の枠組みがつくられた『政治の時代』であった。次の1900年(明治33年)からの15年間は、大正文化、大正デモクラシーという文化の爛熟期である『文化の時代』、そして1930年(昭和5年)からの15年間は、不幸な軍事的『紛争の時代』であった。この時代は1945年(昭和20年)に終息する。
 戦後最初の15年間は、戦後の日本の進むべき政治的方向を画した『政治の時代』であった。この時代は、吉田内閣によって代表される。1960年(昭和35年)、池田内閣が所得倍増論を掲げて登場し、高度経済成長の時代が始まる。続く佐藤内閣の時代にかけて、『経済の時代』であった。この結果、日本経済は成熟し、高度産業社会に入り、人々は経済的豊かさの中で、より精神的・文化的な豊かさを求めるようになった。これを『文化の時代』の到来ということができよう」(大平総理の政策研究会報告書F『文化の時代の経済運宮』大蔵省印刷局、1980年)。

 こうした「サイクル論」は、時の首相の演説草稿には便利だろうが、すぐに馬脚を現わす。1975−90年は、どのような意味で「文化の時代」であっただろうか? 1990−2005年は「紛争の時代」なはずだが、それは「55年体制」崩壊・政界再編、バブル経済崩壊・円高複合不況、阪神大震災・サリン事件などを含意するのか? 15年を40年に代えて「成功一失敗一成功」パターンを検出しても、それは「資本主義の全般的危機」にも「ハルマゲドン」にも通じる歴史の解釈手法であり、せいぜい「視角」にすぎない。

 それよりは、無階級社会ー階級社会ー無階級社会の「唯物史観」や、I・ウォーラーステインの百年単位の「ヘゲモニーの循環」論の方が、地球大でのグローバルな構造を問題とし、一人の人間の一生では検証不可能なだけに、まだしも「史観」にふさわしく見える。右のような意味においては、私はあらゆる「史観」に疑問を持つ。

 

岡田嘉子の越境と南京大虐殺

 

 南京大虐殺の「犠牲者数」が問題になっているらしい。教科書記述だからだろうが、私は「問題は『数』の信憑性である」とは思わない。

 「今日、南京事件の存在自体を否定する者はほとんどいない」として学問的論争のある「犠牲者数」を問題にしているが、それは本当に歴史教育の焦点たりうるのか? 大学生が「南京大虐殺」のコトバは知っていても実態をイメージできない現状から考えると、私には、個々の「証言」や「事実」を示すことの方が重要に思える。

 たとえば私なら、『東京日日新聞』1937年12月14日の1枚の写真をとりあげる。「百人斬り "超記録"   向井106=105野田 両小尉さらに延長戦」と題する有名な記事に付されている。その記事を読めば、二人で殺したという211人の中国人の「いのち」がどのように扱われたかは瞭然である。記事を送った「浅海、鈴木両特派員」の「視角」も見えてくる。この写真は「侵華日軍南京大屠殺暴行照片集」(1992年)の1枚にすぎない。より詳しく知りたい学生には、この写真集と当時の日本の新聞の併読を勧める。どういう「視角」で調べ、どういう「史観」を選択するか、ないし創造するかは、彼らにまかせる。

 「近現代史」では、「事実」の収録・確定自体が難しい。南京大虐殺の例なら、私なら岡田嘉子・杉本良吉の樺太越境との同時性に想いをめぐらす。1938年正月の、当時のトップ女優岡田嘉子と日本共産党員で演出家の杉本良吉の旧ソ連への越境は、「恋の逃避行」とも「コミンテルンヘの密使」とも言われた。その「事実」を解釈できる資料は、ここ2−3年でようやく集積されてきた。二人ともソ連越境直後に逮捕され、二度と一緒になることはなかった。「日本のスパイ」として杉本は1939年10月20日に銃殺され、岡田は10年のラーゲリ(強制収容所)生活を強いられた。

 二人が「労働者の天国」ソ連にあこがれたのは事実である。それは幻想だった。二人共配偶者のある身で恋仲になり、今風に言えば不倫を許さない「世間」の現実から逃避した。最近発見された旧ソ連検察局の秘密資料には、二人の越境後の供述が残されている(名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年)。

 それらを解析すると、岡田嘉子は「軍国主義のお先棒をかつがされる芝居に出なければならない」ことがたまらなかった。杉本にソ連越境を持ちかけたのは1937年12月の半ぱ、ちょうど『東京日日新聞』が南京日本軍の「百人斬り競争」を報じた頃である。そこから1937年当時の日本と中国とソ連の歴史に想いをはせる。軍部の横暴と自由の欠如、侵略と戦争、スターリン粛清――いずれの歴史も悲惨である。そこから「コミンテルン史観」や「大東亜戦争肯定史観」を拒否するのは容易である。

 

「世間と社会」という視角

 

 だがむしろ、私には岡田嘉子や杉本良吉が気になる。彼らを幻想のユートピア=ソ連へとかり立てた「世間」の眼差し、その国境越えを促した「社会」観に注目する。

 「史観」が問題にするのは、国家と社会の軌跡、「歴史=大きな物語」である。ザ・ヒストリーは、ハイ・ストーリー=政治支配・経済体制の交替やヒズ・ストーリー=男性指導者たちの歴史として構成される。それは、もともとロー・ストーリーズ=無名の人々の生活やハー・ストーリーズ=女たちの生きた「小さな物語」の集積であるが、ある種の「社会」観によって「大きな物語」へと構成される。

 近現代史においては、その「社会」が資本主義や社会主義という経済体制を軸に、民主主義・権威主義・独裁といった政治制度を軸に、総括され時期区分される。その過程で、「小さな物語」は概念に抽象化し、一人一人の「いのち」は「数」になる。

 しかし、たとえば1937年の日本を、近衛内閣成立や日中戦争・日独伊防共協定のレベルではなく、「国体の本義」や『愛国行進曲』、企画院設置や南京占領・人民戦線事件のレベルにおき、そこに矢内原忠雄の辞職や岡田嘉子・杉本良吉の越境、川端康成『雪国』をも重ねあわせて見るとき、「歴史」は「物語」を再生する。あるいは「いのち」が復活する。そして、そこには実は、西欧化・近代化の過程で輸入された「社会」というよりも、日本に固有な「世間」の濃密な網の目が見えてくる。

 「世間と社会」という問題設定=視角は、西洋史家阿部謹也が近年の著作で繰り返し説いているものである(『西洋中世の愛と人格――「世間」論序説』朝日新聞社、1992年)。私自身は『社会と国家』(岩波書店、1992年)のなかで展開した。

 本誌は『社会科教育』別冊だというが、そもそも「社会」という日本語自体、明治維新後の「文明開化」「欧化」過程でヨーロッパ語の「(シビル)ソサイアティ」を翻訳する苦闘の産物であった。当時の日本には「世間」「仲間」「会」などの語はあったが、「ソサイアティ」に相当する自由な諸個人の対等・平等なつながりはなかった。だから福沢諭吉は『西洋事情』で「ソサイアティ」を「人間交際」と訳したり、『学問のすすめ』で「下等な世間」と「上等な社会」を対置したりしなければならなかった。

 そのうえ「社会」は、1880年代に「ソサイアティ」の訳語として定着しても、「世間」からは冷たく扱われた。今でも新聞の「社会面」に残されているように、「社会」は国家の統制の及ばぬ「その他」の領域であり、政治・経済・文化に分類できない事件や雑事であった。「社会問題」が「社会主義」「社会運動」を生み出すと「社会政策」が必要とされ、内務省「社会局」まで設置されるが、その「社会問題」の根底には、常に日本的「世間」が伏在する。悪徳政治家は、今日でも「社会」には責任を取らず、「世間をさわがせて申し訳ない」と曖昧な問題解決に逃げ込んでいる。

 「社会科学」や「社会科教育」は、近現代の日本が西欧語の「社会=ソサイアティ」になったと前提して理論を組立て、「歴史=大きな物語」を抽出するが、1937年の南京で二人の日本軍兵士が日本刀での「百人斬り」を競いあったり、後に朝鮮人従軍慰安婦を当然のものと受けいれたりしたのは、「社会」ならぬ「世間」の強固な規制抜きには考えられない。囲田嘉子や杉本良吉を日本からソ連越境へと追いやったものは、彼らのユートピア的「社会」観と現実の「世間」とのギャツブではなかったか?

 そして、この「世間」の構造は、阿部謹也の力説するように、「社会」に比べればきわめて排他的・差別的であり、「イエ・ムラ」原理や「タテ社会」「集団主義」「間人主義」でも十分に把捉しきれない、独特なものである。

 無論、こうした視角からすれば、そもそも福沢諭吉の想定した西欧「市民社会」の根底にも、それぞれの地域・エスニシティに応じた独特の「世間的なもの」が伏在していた。それは今日の西欧「社会史」研究が徐々に明らかにしつつある。「文明化=西欧化=近代化=工業化=経済発展=都市化=民主化」の単線図式でおおいかくされてきた「小さな物語」への接近・集約の仕方が、今日の歴史研究・歴史教育に問われているのである。

 

歴史教育の前提を問うこと

 

 だから、私に言わせれば、今日の「日本近現代史の社会科歴史教育」でまず問われるぺきは、「日本]「近代」「社会」「歴史」「教育」のそれぞれの吟味である。

 [日本」はいつから始まるのか、「日本人」という民族=「想像の共同体」はどこからどのようなアイデンティティを持ってきたのか? 

 日本の「近代」は本当に明治維新に始まるのか、藤岡教授に「目からウロコが落ちるような衝撃」を与えた尾藤正英の近著『江戸時代とはなにか』(岩波書店、1992年)のように、日本「近代史」は江戸時代にまで遡るのだろうか?

 「世間」は「社会」のなかにどのようにビルトインされているのか、むしろ「世間」という実体の表層を「社会」という名でとり繕っているだけではないか?

 「社会」の語とほぼ同時に翻訳語として輸入された「会社」が、なぜ「日本社会」ではかくまで大きな規制力を持つのか? その「会社」の内部に立ち入ると、実は「世間」の原理が効率的生産に組み込まれ、長時間労働・過労死に駆り立てているのではないか?

 そもそも「歴史=大きな物語」や「史観」は、「日本社会」という擬制を時々に抽象して系統だてたにすぎないのではないか? 

 「小さな物語」に組み込まれた「世界噺」や「世間の荒波・胸算用」は、「教育」するに値しないものなのか?

 「社会史」の成果に依拠するならば、「こども」や「学校」や「教育」の観念自体が、「西欧近代」という歴史的時代の特定の領域的産物であることを、どのようにナショナルな「歴史教育」や「教科書」で扱ったらよいのか?

 

リベラルとリベラリズム

 

 政治学を専攻する立場からすると、「自由主義=リベラリズム」についても、同様な問いが発せられるべきである。「リベラル」が「自由」に、「イズム」が「主義」に翻訳された瞬間に躍起する緊張関係が、自覚される必要がある。

 リンカーンの「人民の政治」の翻訳を問題にするのならば、「社会科教科書」の科学用語・教育用語の多くが、実は「日本近代」の翻訳語であるか翻訳をくくった転用語であることを、つまり西欧的思想をくぐっていることを、同時に考えるべきである。「戦略」という軍事用語を歴史教育に転用する時、どのようなバイアスがかかるかを吟味すべきだろう。

 「デモクラシー」が「民本主義」と翻訳されて一世を風靡したことの功罪、「クラシー=政体」が「イズム=主義」と同列におかれたことによる「大正デモクラシー」や「戦後民主主義」への作用も問題になる。

 「社会科教育」を問題にするのであれば、「世間」の解明は避けて通れない。「教育」を受ける子どもたちが日々生きているのは、「世間なみ」に育てようという親たちの期待と願望に囲まれた、「世間」性を濃密に帯びた「社会」なのだから。

 しかし、日本の「社会科学」は、「世間」を解剖する理論も方法も持ちえてはいない。さしあたりは西欧の概念や物差しを用いて、しかも「地球社会」とコミュニケーション可能なかたちで、思考し研究し教育するしかない。

 「歴史」を「大きな物語」にまとめあげ、「史観」で解釈・説明することは、「教育」の場では避けられず便利であろうが、無名の人々や女性たちの「小さな物語」を媒介にしなければ、子どもたちの日常的生活世界=「世間」には浸透できないだろう。

 そして、「小さな物語」は、日々に積みあげられ、表舞台から消えていく。にもかかわらず人々は、「自分の歴史」を「自分たちの歴史」と関連づけ意味づけようとする。

 私は近年、学問的意味での「コミンテルン史観」の歴史的生成根拠を探リ、その問題性を指摘してきた(『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年、『コミンテルンの世界像』青木書店、1991年、など)。藤岡教授が小論を依頼してきたのも、おそらくそれが、多少とも「自由主義史観」に役立つと「戦略的」に考えられたからであろう。

 私は「自由主義」の存在根拠を否定しないが、「史観」にすることを拒否する。マルクス主義の遺産も「リベラリズム」と接合しようと試みる(拙稿「現代マルクス主義とリベラリズム」『レヴァイアサン』第22号、1993年秋)。歴史の「小さな物語」に改めて執着し、多国籍企業時代の「ナショナリズム」を超えた「地球市民」への道を構想している(『モスクワで粛清された日本人』青木書店、『国民国家のエルゴロジー』平凡社、共に1994年)。

 「リベラル」が本物であるかどうかは、その思想や「史観」の開放性と寛容性にある、と私は考える。本誌がそのような場になりうるとすれば、それは「世間」になにがしかのインパクトを持ちうるだろう。



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